60年安保闘争の真実 あの闘争は何だったのか保阪正康

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この60年安保闘争というのは、1951年(昭和26年)に結ばれたサンフランシスコ
講和条約
と同時日米間で結ばれた、日米安保条約の改定をめぐって繰り広げられた前例の
ない規模の大闘争であったようだ。
最初に吉田茂首相が結んだ日米安保条約は、対等な条約と言えるものではなかった。しか
し、吉田首相は、日本の現実の国力を踏まえて、敢えてこの条約を結んだようだ。まずは
経済的発展に注力し、日本が経済力をつけた時点で段階的に改定していけばよいと考えた
ようだ。
それから6年後の1957年(昭和32年)に岸信介内閣が誕生した。岸信介は、太平洋
戦争開戦時の東條内閣の閣僚の一人であった。そのため、戦後の東京裁判ではA級戦犯
疑者として巣鴨プリズンに3年半拘留されたが、不起訴のまま釈放されたという経歴を持
つ人物であった。そのためか岸首相は、その政治体質が戦前の天皇制国家の官僚としての
体質が強かったと言われ、人気はいっこうに盛り上がらなかったようだ。
岸首相は、最初に結ばれた日米安保条約はアメリカの圧力によってつくられ、対等でない
ことに我慢ならなかったようだ。岸首相は、国内においては、防衛力強化を訴え、アメリ
カに対しては、執拗に安保条約の改定を訴えた。そしてこれに対して、国民の間では、不
平等条約が平等条約に改定されることは、いいことではないかと受け止められていた。
しかし、改定交渉のくわしい内容が公表されないという岸内閣の秘密主義の体質や、日本
を軍事大国に目論む岸首相の考えがあきらかになるにつれて、岸首相に対してしだいに厳
しい目が向けられるようになっていったようだ。
岸首相の政治家としての体質が、きわめて権力主義的で、その根本には民主主義に対する
嫌悪があったと言われている。共産主義への異常なまでの反感を持ち、個人より公共を優
先し、野党を無視した議会政策を露骨に行なったようだ。
もっとも、現在の政治を見ても、つい数年前までこれと似たようなやり方をしていた首相
がいたように私には思えるのだが、どうだろうか。
さらに、岸首相の「在日米軍への攻撃は日本への侵略とみなす」との国会での発言によっ
て、安保協約の改定に対する反対運動が盛り上がって行ったようだ。それは、新安保条約
の内容がどうのこうのというよりも、岸首相自身への反感となって、当時の日本は異常な
ほどの興奮に包まれていったという。
国会への反対デモには、野党議員をはじめ、学生団体、労働組合団体、市民団体、文化人
団体、婦人団体、学術団体、商店街までもが加わっていったという。そしてそれは、新安
保条約に対する反対というより、「岸信介」というA級戦犯容疑者へ向けられていたもの
だったという。
そして、「全学連」という学生グループが次第に過激行動をとるようになり、国会前で警
察機動隊と激しく激突を繰り返し、その中で東大女子学生の樺美智子さんが死亡するとい
う事件も発生した。
結局、新安保条約は、衆議院では強行採決によって可決されたが、参議院では議決がない
まま、自然成立という形となった。また、この新安保条約の批准にあわせて予定されてい
アイゼンハワー米大統領の来日は、日本国内の混乱を理由に実質上中止となった。岸首
相は、この混乱の収拾のため、責任をとる形で辞任した。この岸首相の辞任によって、反
対運動も急激に冷めていったようだ。
いずれにしても、この60年安保闘争は、日本における空前絶後の大規模デモ運動であっ
たようだ。そしてそれは、安保条約反対というよりも、元A級戦犯容疑者「岸信介」の戦
前の政治体質に対する反感からだったようだ。
それにしても、この大規模デモに対して、岸首相が自衛隊の出動を要請していたという話
には正直驚いた。下手をすれば、日本でも中国の天安門事件のようなことになりかねなか
ったのだ。もし、自衛隊が国民に銃を向けていたら、どんなことになっていただろうか。
想像しただけで恐ろしくなる。
昭和から平成へ、そして令和へと時代は移り、この60年安保闘争を実際に体験した人は、
次第に減りつつあり、かつて日本にこのような大規模デモ運動があったことを知らない人
も多くなった。
それと同時に、現代の我々国民は、情けないほど非常におとなしくなってしまった。時の
政権が、どんなに好き勝手なことをやっても、無関心で従順でいるだけだ。これは、政治
に対してもう何も期待しないという、完全な諦めからきているかもしれない。しかし、せ
めて国政選挙にだけでも行って、自分の意思を示したほうがいいのではと思うのだがどう
だろうか。いまの日本は投票率が低すぎる。

過去に読んだ本で「岸信介」についての記述があるもの:
亡国の安保政策 
日本は戦争をするのか
集団的自衛権と安全保障 
安倍「壊憲」を撃つ
新・戦争論 
安倍政権への遺言 
「憲法改正」の真実
上野千鶴子の改憲論
集団的自衛権とは何か
私物化される国家
50年前の憲法大論争
東條英機 「独裁者」を演じた男
歴史からの発想 


プロローグ
・1960年の上半期は、新安保条約の批准とそれに抗する闘争が、日本の最大の政治テ
 ーマであった。
・衆議院安保特別委員会での自民党による強行採決、それに続いての本会議でいっさいの
 討論を省いての新安保条約の承認という政治的事件のあと、議会内外は騒然たる状態に
 なった。この日以後、連日のように国会はデモ隊によって包囲された。
・社会党、総評などが中心となって組織した「安保改定阻止国民会議」は、最大規模の抗
 議ストや集会への大量動員をはかり、戦後日本の左翼活動期の底力を見せたといっても
 よかった。国民会議傘下の労働組合員や学生ばかりでなく、一般市民や中小企業経営者、
 農民、商店主、家庭の主婦、老人、高校生までも、国会へのデモに駆けつけたほどだっ
 た。
・安保改定阻止そのものよりも、「岸内閣退陣」「国会解散」を要求するスローガンが、
 これほど広範囲の人びとを魅きつけたのである。
・全学連主流派は、きわめて突出的な行動をとり、なんどか国会構内への突入を試み、構
 内での集会を開くことにも成功したが、女子学生の死という代償も払わなければならな
 かった。
・全学連主流派は、この闘争をとおして”革命的状況”を待望していた。単に新安保条約
 への抗議だけでなく、既成左翼の体質や理念をのりこえての政治的変革を求めていた。
・あのときの安保闘争とは、岸首相への嫌悪感に代表される太平洋戦争への心理的な決算
 と、敗戦から十五年を経ての戦後民主主義そのものの確認の儀式、といった趣があった
 ように思う。

発端
・日米安保条約が結ばれたのは昭和二十六年九月八日のことである。アメリカ側は、国務
 長官顧問ジョン・フォスター・ダレスほか四人が署名し、日本側からは内閣総理大臣の
 吉田茂だけが署名するという異例なものであった。
・署名が吉田ひとりであったのは、政府を代表するという意味もむろんあったが、吉田が
 池田勇人星島二郎ら全権団の中にいる若手政治家に、この条約の責務を負わせなかっ
 たためとも推測されている。吉田はそれほど気負って、この条約への責任を自分だけで
 背負うつもりでいた。
・この日米安保条約は、日本への武力行使を阻止する手段として、日本とその周辺に米軍
 が駐留することを謳っている。条約の期限については、特別な期限は明記されていなか
 ったが、国際連合などによって集団安全措置がとられたと両国政府が判断したときに効
 力を失うとなっていた。
・講和条約によって日本は独立を獲得したが、軍事的には丸裸なので、米軍がその代役を
 つよめようというのが、日米安保条約の骨子であった。つまり、講和条約と安保条約は
 セットになっていた。
・吉田は日本が防衛力をもつことをこの段階では望んでいなかった。吉田は、「アメリカ
 に日本の防衛を任せ、経済・文化面の復興を早急にはかったほうが得策である」と考え
 ていた。
・むろんアメリカはそうは望んでいなかった。確かに占領前期には、日本の非武装化を進
 める政策を押しつけたが、冷戦構造ができあがっていくと、日本にも再軍備の要求をつ
 きつけるようになった。 
・日本側の本心は、日本の安全保障は国際連合に依存し、アメリカがそれを代行するとい
 う建て前を貫きたかったのだが、アメリカはそれに難色を示し、防衛の主体はアメリカ
 側にあるということで押し切った。日米関係は対等というより、従属という色彩のほう
 が強いかたちでまとまったのである。
・吉田によって、アメリカとのこのような”従属”という関係は必ずしも好ましいものでは
 なかったが、しかし、当面の選択肢としてはこれが望ましい道であろうと考えていた。
・吉田にとって、もっとも不快だったのは、”全面講和論”であった。日本国内では、社
 会党や一部のジャーナリズム、それに学者、文化人の間で、自由主義陣営だけでなく、
 共産主義陣営とも講和条約を結ぶべきだという論が起こった。”永世中立”という考え
 を土台にしている論だった。
・吉田は、この論が、現実を知らぬ者の空論だといい、これを主張していた南原繁東大総
 長を”曲学阿世の徒”と決めつけて物議をかもしたこともあった。
・民主党の三木武夫は、「いま日本が一方の陣営に加わることが、アジアに再び戦火を巻
 き起こすことにはならないという理由を述べよ」とたずねた。そして、安保条約の具体
 的な内容を示す行政協定をいっさい明らかにせず、一方的に国会で数で押し切るのであ
 れば、断固闘うと、吉田に詰め寄った。
・民主党の芦田均は、外交官出身らしくかなり細部を詰めて質問していった。芦田は、の
 ちの安保改定で問題となる部分を、すでにこの段階でもいくつか指摘していた。
 ・安全保障条約は日本の防衛に関することであるが、同時にアメリカ自身の防衛にも関
  係する。しかるにこの条約は、ひたすら日本の懇請に基づくものであることのみが強
  くいわれている。
 ・安全保障条約のうち国民がもっとも関心をもっているのは、米国が日本国内の内乱を
  鎮圧するために行動する点である。外国に国内治安の維持を頼むことは世界に例がな
  いことである。これは吉田首相のいう民族の自負心と矛盾しないか。
 ・安保条約には他国に対抗する自衛力をアメリカに負担してもらうことを規定している。
  だからといって日本が独自の軍事力をもたないというのは当たらない。アメリカに対
  して経済援助の戸口をたたくいままでの態度をやめて、軍事援助の戸口をたたく努力
  をし、負担を軽くして再軍備すべきである。
・昭和二十六年十月二十六日、衆議院で講和条約、安保条約とも圧倒的多数で批准された。
 安保条約は投票総数360票のうち賛成289、反対71であった。
・昭和三十年八月、鳩山内閣の重光葵外相は、アメリカへの親善訪問で、国務長官ダレス
 に、安保条約を対等の立場に改定したいと申し出た。するとダレスは、日本にはまだそ
 のような力は備わっていないと、簡単にはねつけた。ダレスにとっては、講和条約の発
 効から三年しか経っていないうえに、鳩山内閣が日ソ交渉を政策の柱としていることに
 も不信をもち、当面は安保条約を現行のままにしておくほうが得策だとの判断があった
 のだ。
・昭和三十二年二月、岸信介内閣が誕生した。岸内閣はもっとも右派的色彩の濃い部分を
 代表する内閣といわれた。首相になってまもなく、岸は「現行憲法といえども自衛のた
 めに核兵器保有を禁ずるものではない」と答弁し、社会党の反発にあってさっそく内閣
 不信任案が上程されるほどであった。
・岸は、自主憲法の制定、自主外交の展開を政策の柱にし、日本がアメリカと対等に交渉
 すべきとの考えを強くうちだした。
・太平洋戦争を指導した東條内閣のもとで、岸は、閣僚をつとめた経験もあるうえ、戦犯
 として巣鴨プリズンに服役したこともあり、その政治体質は天皇制国家の官僚としての
 体質が強かった。
・岸内閣の人気はいっこうに盛り上がらず、国民の多くは岸に戦前の暗いイメージをかぶ
 せていた。しかも岸は、防衛力の強化を訴え、防衛力強化計画をうちだした。
・岸はアメリカを訪問し、アイゼンハワー大統領と会見した。アイゼンハワーとの会見に
 そなえて防衛力強化計画を発表していたのである。
・岸は、アイゼンハワーやダレス、それにアメリカ議会に、執拗に安保条約の改定を訴え
 た。岸は、この条約を対等にもっていき、”反共の砦”としての立場を固めるという強い
 政治信念を見せつけた。
・安保条約の改定に岸は異常なまでに熱心だった。岸は、この条約の条文がアメリカの圧
 力によってつくられたことにがまんがならなかったらしく、とにかく対等の立場にもっ
 ていきたいとの念願を抱いていた。岸の政治姿勢の中には、安保条約の内容がどのよう
 なものであるにせよ、対等であることだけを重要視していた節がある。
・岸はアジアに反共軍事国家をつくり、そのうえでアメリカと対等に対ソ、対中国への強
 い外交姿勢を貫こうとしたのである。
・社会党議員と岸との質疑応答には、いくつもの自家撞着がある。たとえば、社会党議員
 が安保条約の危険性を次のように質している。
 「アメリは日本を守るためにという名のもとに自由に軍を動かせるというような、非常
 にでたらめな条約は私は許されないと思う」
 こうした質問に、岸は、だから改定しなければならないと答えた。
・皮肉なことに、社会党が安保条約の危険性を叫べば叫ぶほど、岸の論理は補完されてい
 く。批判そのものが逆手にとられ、政府の補完役をつとめるというパラドックスまで生
 む。こんな状態が、岸内閣が安保改定に手をつけてからもしばらくつづいていった。だ
 から世論は少しも盛り上がらなかった。
・何事にせよ、不平等条約が平等条約にかわることはいいことではないか、という国民の
 素朴な思いに、社会党の論理はお手上げの状態だった。
藤山外相マッカーサー駐日大使との間で、改定交渉は二十二回にわたってつづいた。 
 この間、改定交渉のくわしい内容が公表されないことに、自民党内にも不満の声があが
 ったが、そういう秘密主義が岸の体質と重ねあわさって、不興を買うことにもなった。
・政界引退後に藤山の語っているところでは、岸があまりにも強硬な改定案を考えている
 ことに驚いたと告白している。日本を軍事大国にと目論むような岸の考えを知って、藤
 山は政治のもつ駆け引きに本心では驚きをもっていたのである。
・岸の独断で進んでいた改定交渉は、やっととまった。自民党内の三木武夫、松村謙三、
 それに池田勇人らの反主流派は、安保改定交渉はそんなに急ぐべきではないとの立場を
 とり、岸の動きに厳しい目をむけるようになったのである。

対決
・岸内閣は、突然、警察官職務執行法改正案を衆議院に提出した。急遽、閣議で決めての
 提出で、岸は施政方針演説でもこの法案の改正にはそこしもふれていなかった。社会党
 はこれに真っ向から胃を唱えた。この法案は、警官の権限が大幅に認められるという少
 々乱暴な内容をもっていた。
・岸は、この法律が戦後間もない昭和二十三年に制定されたもので、個人の権益の保護だ
 けが極端に主張された時代の産物とみていた。ここにも岸の戦前回帰の姿勢が色濃く現
 われていたといえる。
・しかも、安保条約改定交渉と同時に提案されたところに、安保改定阻止運動を力ずくで
 押さえようとの意図をもっているとも指摘された。
・基本的人権の破壊や個人への官憲の干渉が著しく進むという見方から、社会全体が騒然
 となった。戦後民主主義そのものの解体という恐怖感が、国民の間にも広まった。
 ”戦前の国家が再現される”というアピールは、国民をもっとも納得させるものであっ
 た。 
・岸内閣は、このような動きにもかかわらず、法案の可決をはかった。会期切れが近くな
 ると、議長職権で本会議を開かせ、社会党議員が入場しないうちに、副議長が三十日間
 の会期延長を決めるという荒業を行なった。
・自民党内の反主流派も、岸内閣に冷たい目をむけるようになり、事態収拾の声があがっ
 た。 
・岸の政治家としての体質が、きわめて権力主義的で、その根本に民主主義に対する嫌悪
 感をもっていたことがわかる。国際共産主義への異常なまでの反感、個人より公共の優
 先、野党無視の議会対策。そういう露骨さが、国民の間に”信用ならない指導者”のイ
 メージとなって定着した。
・改定反対運動の理由は、安保条約はアメリカ軍の軍事基地を一方的に容認しているし、
 今後、極東でアメリカ軍が紛争を起こした場合、日本は好むと好まざるとにかかわらず
 戦争に巻き込まれてしまう、しかも条約そのものがソ連や中国を敵視するものであり、
 世界平和そのものを根本からくずすことになりかねないという点にあった。安保の破棄
 を求め、中立主義を貫くのが日本の最良の政策であるというのが、社会党を中心とする
 革新勢力の主張であった。
・社会党の浅沼書記長は、社会党訪中使節団の団長として、北京で激越な演説を行なった。
 「アメリカ帝国主義は日中人民の共同の敵」と断定したのである。浅沼発言は、当時、
 心情において親米的であった国民を驚かすものであり、逆に保守勢力には恰好の攻撃材
 料であった。
・国民会議の基調は、”政治的中立政策”にあり、軍事ブロックからの離脱を訴えていた。
 といっても、安保改定阻止の運動が国民的基盤を持つとはとうてい考えていなかった。
 初めから広範な国民を巻き込む方針はもっていなかった。
・国民会議は、日本の左翼総体を結集した組織だったが、その内部では政党や各団体の路
 線や思惑の違いがあり、”同床異夢”という状態であった。
・参院選挙で自民党はこれまでの議席と合わせて絶対多数を占めた。岸首相は安保条約の
 改定を含めて自らの政策が信任されたといって、内閣改造を行ない、強力にその政策を
 進めることにした。
・安保改定は、”政争の具”にいっそう変質していくことになった。それもやはり岸首相の
 無定見さにあり、藤山外相は内心ではすこしずつ不満を募らせていった。藤山は、内閣
 改造後も早期調印の立場をくずさず、改定交渉を急いでいることを露骨に示した。藤山
 は、岸にていよく利用されているのではないかと疑いつつあったのだ。
・国民会議の統一行動が盛り上がったのは、総評が合理化と首切り問題を安保改定に巧み
 に結びつけたためだった。岸内閣のエネルギー政策への批判を強め、それが折から始ま
 りつつあった三池炭鉱の首切り反対闘争とからみ、その闘争に安保改定反対というスロ
 ーガンがのっかることになったのだ。
・内閣改造後の衆議院予算委員会で、岸は、「在日米軍への攻撃は日本への侵略とみなす」
 と答弁した。国民の間には、それでは日本の基地から出撃した米軍機を叩くための攻撃
 があったら、そのまま日本は戦争に巻き込まれるのではないか、という不安が起こった。
 そういう岸の好戦的とも思える発言は、反対運動を刺激した。
・政府原案は、一部マスコミに報じられたが、概して厳しく批判された。日本は基地提供
 の義務を負っているのに、在日米軍の日本防衛義務は規定されていないという”片務性
 ”を利用して、「新条約全体の形式に”相互防衛条約的”な性格を与えようとしているこ
 とは、国民をあざむこうとしたかの感さえないではない」と激しく糺弾する論調もあっ
 た。
・自民党は、この政府原案を機に、新安保条約の宣伝活動にのりだした。宣伝活動さえつ
 づければ、国民を納得させることができるという判断があった。

暴走
・昭和三十四年十一月、東京では、国会に向けて安保改定反対。交渉即時打ち切りの集団
 請願デモが行なわれることになった。午後二時すぎから、国会周辺にはデモ隊がつめか
 けていた。
・デモ隊は国会周辺の三カ所に集まってきた。チャペルセンター前、首相官邸周辺、それ
 に特許庁前などに、それぞれ二万人近くの労働組合員、学生、市民が集まった。
・社会党書記長の浅沼は、激しい口調で、「戦犯岸は、安保改定によってわれわれ日本人
 の血をアメリカに売ろうとしている」とアジった。
・デモがくり返され、警察隊のバリケードは簡単にくずされて、国会は六万人近くのデモ
 隊によって包囲されてしまった。五千人の警官隊は、国会に近づくデモ隊に圧倒されて
 すぐに統制を失ってしまった。
・浅沼を代表とする社会党の陳情代表団が衆議院議長に陳情文をわたすために、国会正門
 の門をあけさせ、国会内にはいった。このとき、全学連の三百人近くの学生が、構内に
 はいった。学生たちは正門の通用門を内側から開けようとし、外側からもデモ隊が鉄柵
 をゆすった。そのうち柵が折れ、通用門が開いてしまった。この正門から、学生につづ
 いて二万人のデモ隊が構内にはいった。天皇や外国の元首しか通れないという正面入口
 までデモ隊はかけあがり、ジグザグデモがなんどかくり返されていった。
・全学連主流派を中心とするデモ隊の国会乱入に驚いたのは、国民会議の指導者たちであ
 る。社会党や共産党の議員も、顔色をかえておろおろするだけで、「早く退去しなさい」
 と叫ぶだけであった。 
・浅沼らは「あとはわれわれに任せてください。万歳を三唱して構内を出てください」と
 デモ隊を説得した。それに応じて、労働組合員らは構内を出ていったが、全学連主流派
 の学生たちは動かなかった。
・午後六時近くになって、二千人近い学生たちは、防衛庁にデモをかけることにして、構
 内から出て行った。 
・この国会乱入事件は、学生の間にも衝撃を与えた。国民会議の決まりきったワク内での
 デモで、はたして安保改定が阻止できるのだろうかという疑問は、学生のなかに多かっ
 た。その疑問をあっさりと突き破ってみせたのである。
・国民会議は、国会乱入事件にあわせて、すぐに全学連に自己批判を要求した。社会党や
 共産党は、全学連の除名を主張したが、他の幹事団体のとりなしもあって、とにかくそ
 の統制に服するようにという条件つきで国民会議の傘下におくことを決定した。
・こうした社会党や共産党の態度は、既成左翼が本質的には体制内の改良主義者にすぎ
 ないという不満を与えた。
・自民党の議員は、国会乱入に怒り、「革命前夜ではないか」「非常事態宣言をだせ」と
 叫んだ。 
・社会党の本心は、全学連主流派のこの突出した行動をコントロールする自信がなく、加
 えて自民党からの”神聖な国会を汚した”という批判がなによりも恐ろしかったのであ
 る。
・全学連主流派の国会乱入は、一般の関心を呼び起こし、そのエネルギーに火をつける役
 割をはたしたにしても、乱入事件直後は、むしろ政治的にはマイナスの要素のほうが多
 かった。
・岸は、安保改定をスタートにして、さらに政権を維持していきたいと考えていたが、派
 閥の領袖たちはそうは見ていなかった。
・岸首相を首席とする全権団の訪米プログラムは、なかなか発表されなかった。一月十六
 日に出発するというだけで、アメリカでの調印時間や日本に帰ってくる際の日程は発表
 されいるのに、出発時間は明らかにされない。むろん全学連の羽田への大量動員をはぐ
 らかすためだった。
・一月十五日になって、十六日の午前八時出発というプログラムが発表された。全学連主
 流派は、十五日の午後六時ごろに空港ロビーに集まり、国際線ロビーに座り込み始めた。
・千人ほどの学生がロビーで集会を開いたあと、空港内のレストランに椅子やテーブルで
 バリケードをつくり、とじこもってしまった。
・十六日の羽田闘争を報じる新聞は、全学連の動きに厳しい目を向けていた。すべての新
 聞は、”はねあがり分子”として冷たい筆調であった。
・しかし、新聞論調は、新安保条約そのものについても厳しい目を向けていた。
 昭和三十四年には東西間の交流が著しく進み、”雪どけ”なっているという認識が、日本
 政府には欠けていると指摘していた。アメリカはすでに”雪どけ”の政策を打ち出してい
 るにもかかわらず、岸首相は、世界新時代よりも日米新時代というワクでしか国際情勢
 を見ていないと批判した。
・昭和三十五年一月十九日、ホワイトハウスで、新安保条約の調印式が行なわれた。
・この新安保条約は、条約期限は十年となっていた。正式に発表された条文は、アメリカ
 の日本防衛に関する義務を明確にし、日本も憲法の範囲内で在日米軍に対する攻撃に対
 して軍事行動をとることが約束されていた。
・皮肉なことに、吉田が考えていたとおり、日本は軍事費をそれほど歳出せずに経済力の
 立て直しに成功していた。岸首相の狙っていた”日米新時代”という表現は、岸の思惑が
 どうであれ民族的自立心を表面的に満たすものであったが、条約の内容は必ずしもその
 ような方向に進んでいなかった。事前協議にみられるように、アメリカの善意に期待す
 る面が多すぎた。アメリカの善意とは、つまりアメリカの戦略ということだった。その
 戦略にいやがおうでも組み込まれるということでもあったのだ。

論戦
・外務省の長老たちは、新安保条約に賛成で固まっているわけではなく、たとえば東條内
 閣での東郷茂徳外相のもとで外務次官をつとめた西春彦は、この条約が軍事的色彩が強
 すぎると、誌上で反論を加えていた。
・社会党の森島守人は、政府のこの法案提出の方法には、憲法や国会法からみて重大な疑
 義があると指摘した。その意味するところは、憲法や国会法からみて、国会には条約の
 承認、不承認の意思表示だけしかできないのか、それとも条約の修正を行なう権限があ
 るのか、ということだった。
・むろん政府側は、国会には修正権はないという立場に立った。ところが、これは学界で
 も意見の分かれるところだった。 
・次に問題になったのは、「極東の範囲」であった。この点について、日米両国の間では
 まったく合意ができていないおとも明らかになってしまうのだ。
・安保特別委員会の質疑応答は、そのつど新聞でも報じられ、社会党の鋭い質問に必死に
 逃げる政府答弁というイメージができた。それだけこの条約には不透明な部分があるの
 だと、国民は理解するようになった。
・アメリカの上院では、三月十一日に審議を始めている。たぶん七月四日の会期の終わり
 ころに批准されるだろう。が、そのとき日本が六月二十日の会期切れまでに法案を可決
 していなかったらどうだろうか。まさに岸首相は政治生命をかけていた。
・安保特別委員会は、終始社会党のペースで進められ、新聞だけでなく、総合雑誌や普及
 しはじめたばかりのテレビでも、社会党の質問の内容は詳しく報じられるようになった。
 それが「60年安保闘争」の火を広げる役割を果たした。
・もうこの段階になると、今度の新安保条約は、「自民党の新安保」というより、「岸の
 新安保」といってよかった
・どの労働組合内部でも、安保への関心が深まり、単に安保批准阻止というスローガンで
 はなく安保条約そのものに反対し、日本の外交政策を”非武装中立”路線にという意識に
 かわっていた。 
・全学連主流派は、国民会議とはまったく別の行動をとることを決めていた。国民会議の
 批判など、最初から問題にしていなかった。国民会議の抗議デモが、決められたコース
 をシュプレヒコールをあげながら歩いていき、そして解散地点でおとなしく散っていく
 のを「お焼香デモ」と軽蔑さえしていた。
・韓国では十二年間つづいている独裁政権・李承晩政府に対して、高校生がデモをくり広
 げたが、それがきっかけとなって反政府デモが全国に波及していく。戒厳令下にもかか
 わらず、デモは暴動となり、ソウルで五十万人のデモがあった。李大統領の辞任を求め
 る動きが強くなると、韓国政府は、すぐに李大統領即時辞任を決めた。その結果、李大
 統領は辞任し、アメリカに亡命した。

強行
・安保特別委員会で、社会党の飛鳥田一雄が、厚木にあるU2型機は民間機ではない、ス
 パイ機ではないかと詰め寄ったのに、政府は、アメリカの説明ではそうではない、と答
 えるだけだった。関連する質問に立った岡田春夫にも、外務省や防衛庁、運輸省の幹部
 が、責任逃れの答弁をする有様であった。
・発端はまったく意外なときに始まった。ソ連のフルシチョフ首相が、クレムリンで開か
 れたソ連最高会議で演説したが、その演説の中に次のような一節があった。
 「最近、われわれは直接の挑発に出会った。米国の飛行機がわが国の国境を越えてソ連
 に侵入した。米国の軍閥はまた侵略行為をくり返そうとしたが、ソ連の領空に侵入した
 米機は撃墜された」
 この段階では、その具体的な内容はわからなかった。
・ところが、ソ連の幹部が、撃墜事件の内容を明らかにしていくと、これは相当根の深い
 事件であることがわかった。撃墜されたのはアメリカのU2型機であり、それがスパイ
 機であり、パイロットが生存していることも発表されたのである。
・このU2型機は、厚木飛行場に三機存在していることを社会党は知っていた。社会党は、
 岸首相がしばしばくり返してきた「アメリカの誠意を信頼する」という言葉が、根底か
 らくずれる見て、すぐに安保特別委員会に持ちだしたのだ。
・フルシチョフはソ連領空の侵入にために基地を使用させている西側諸国に、「もしソ連
 に対する空からの挑発が続くなら、ソ連はその飛行機を撃墜し、さらにその基地にロケ
 ットのホコ先を向けるだだろう」と警告を与えた。
・こんどのスパイ機撃墜は、単なる脅しではないだけに、日本にとっては不気味であった。
・民社党の大貫大八は、「U2型機の領空侵犯に対抗して、ソ連が日本にある基地を攻撃
 してきたら、新条約の5条は発動されるのか」と質した。
・藤山外相の答弁は、「そのような攻撃自体違法だが、もし武力攻撃があれば第五条を発
 動することになる」というものだった。ここまで断言してしまうことは、社会党に格好
 の攻撃材料を与えることになった。
・岸内閣はとにかく弱みをみせまいとして、高飛車にでていることがあきらかになっただ
 けだった。じわじわと新安保条約の反対運動が、政府にも衝撃を与えてきているといっ
 てよかった。
・外務省はアイゼンハワー米大統領が六月十九日から五日間、日本を訪問することになっ
 たと発表した。ひたすらアメリカ政府の思惑だけを考えている岸は、この六月十九日と
 いうアイク訪日に合わせて、新安保条約の批准を終えておかなければならないと考えて
 いた。
・新安保条約批准という政治的事実が、戦後民主主義の定着の度合いを試す壮大な実験に
 なった日だった。新安保条約は岸首相の熱意とその政治的計算から出発して生まれたも
 のだが、この日はその岸首相の政治的体質に弾劾をくだす記念日ともなったのである。
・委員長が開会を宣言する。次いで椎熊三郎が質疑打ち切りの動議を読み上げる。まずこ
 れを多数で可決した。そのあと椎熊がいっさいの討論を省略して日米新安保条約、新行
 政協定、それに関連法案の三案の採決を行なう動議をだした。それを賛成多数で可決し
 た。
・この模様はテレビでも放映されたが、誰に目にも茶番劇にしか映らなかった。自民党は
 わずかの時間に、質疑打ち切りだけでなく、新安保条約も可決させてしまったのである。
 まさに策略の勝利であった。
・岸は、のちに著した「岸信介回顧録」で、「あのとき会期延長も採決もしなかったなら
 ば、安保改定は廃案になったであろう。その結果は単に岸内閣の進退にとどまらず、日
 米関係に重大な亀裂を生じ、わが国の国際的な立場は著しく低下したであろう」と書い
 ているが、実際にはそうなったであろうか。
・むしろ国民的コンセンサスが得られなかったゆえに、無用に反米感情が生まれたといえ
 るのではなかったか。 
・新安保条約は岸の功名心から生まれ、それに自民党自体も振り回されたのではなかった
 か。 

決起
・五月二十日以後の日本は、異様なほどの興奮に包まれることになった。新安保条約に賛
 成とか反対というだけではなく、岸首相に代表される議会政治をないがしろにする者と
 彼らを擁護する者とが、国民の反感の対象になったのだ。極端にいえば、自民党の支持
 者であっても、街頭デモに参画し、「岸を倒せ」と叫ぶほどであった。
・岸首相は、戦後十五年間、日本人が忘れていた恨みや怨念の対象となって、国民のまえ
 に肥大していったのである。 
・これまで新安保条約に傍観を決め込んでいた市民団体や文化人の横断的な組織、それに
 婦人団体、学術団体も、次つぎに声明を発表していった。声明を出すだけでなく、抗議
 のために閉店ストを打つ商店街まであらわれたほどだった。
・大学教授や文化人の間で、これまでには考えられない抵抗の形態が生まれてきた。きっ
 かけは東京都立大学人文学部教授・竹内好の行動であった。竹内は、岸政府と自民党の
 暴挙に抗議の意思をあらわすために、公務員としての自分の職務をはなれる決意を固め、
 学長に辞表を提出してしまった。
・「いま屈したら日本は非常な危機におちいる。認識の違いかもしれぬが、私は”声なき
 声”にも耳を傾けなければならぬと思う。いまのは”声ある声”だけだ」(岸首相)
・この”声なき声”といういい方は、岸の考えを露骨にあらわしたものだった。本来なら
 圧制に苦しんでいる国民が、弾圧に脅えて口をふさいでいるときに、”声なき声”を感
 得すべきであった。
・戦時下の東條内閣のもとで戦争にあえいでいる国民の声を拾いあげ、閣僚として、戦争
 終結の方向にもっていくのであれば、”声なき声”に耳を傾けたといえる。しかし、岸に
 はそういう経歴はなかった。たしかに、東條内閣の倒閣のときに、岸は辞表提出という
 行動にでてきるが、それは”声なき声”に耳を傾けたのではなく、自らの利害得失を考え
 ての巧妙な作戦にすぎなかった。
大江健三郎は、「民主主義というのは、岸首相にとっても、社会党の人々にとっても理
 解できず、無意味なことかもしれないが、われわれにとっては骨肉である」と発言した。
石原慎太郎も、「私は集会とかデモに背をむける人間だが、こんどばかりは越えさせら
 れぬぎりぎりの一線を感じて立ち上がった」といった。
・激しい学生の抗議デモにも、街の人びとは不快な表情を示さなかった。拍手で学生を賛
 え、ビルの窓からは紙吹雪が舞うこともあった。学生たちの突出した行動にさえ、国民
 は共鳴を示し始めたのである。
・新聞社の世論調査では、岸内閣は続いた方がよいか、変わった方がいいかという問いに、
 「変わった方がいい」が58%を占め、「続いた方がいい」はわずかに12%であった。
 戦後の内閣では最低の支持率であった。

激突
・反安保デモの主役になっている全学連は「ゼンガクレン」として、世界のニュースの代
 名詞となった感がある。革命を志向する、急進的で、向こう見ずで、権力にぶつかって
 いく集団。アメリカでは”極左集団”のレッテルを貼られ、ソ連や中国ではときに反米闘
 争の英雄のような存在としてこの語は使われていた。
・安保反対闘争は、本質的には反岸闘争であった。反岸闘争は議会政治擁護の闘いといっ
 てもよかった。岸という戦前の官僚タイプの首相がもっているすべての体質や思考、肌
 合いに対する嫌悪感を根底に据えていた。岸首相という人物を「太平洋戦争の責任者」
 と見立てての”人民裁判”であり、十五年遅れでやってきた国民の”戦争裁判”ということ
 ができた。
・その岸が、かつての閣僚のひとりとして宣戦布告した国にへつらい、その威を借りよう
 としていることの不潔さに、国民は焦立っていた。もし岸ではなく、吉田茂や池田勇人
 が新安保条約の責任者であったなら、あのようなエネルギーの爆発はなかったかもしれ
 ない。岸は本能的に自ら置かれているこのような歴史的立場を理解していたにちがいな
 い。
・怒りのすべての声は「岸信介」というA級戦犯の容疑者に向けられていた。国民のエネ
 ルギーは、民族自決という素朴な原点に立脚していた。
・岸首相は常に”隠れ蓑”を用意する政治家であった。岸のもっとも輝ける経歴というのは、
 昭和十九年七月の東條内閣打倒の引き金になった閣僚辞任であった。権勢を誇った東條
 に抗したというのは、一見すると立派に聞えるが、その経過をつぶさに検証してみると、
 重臣の木戸幸一が”隠れ蓑”として利用されていた。
・そして、こんどは藤山を利用したあとで、さらにアイゼンハワー米大統領を利用しよう
 としていた。いや新安保条約の調印にアメリカにでかけたときに、皇太子殿下夫婦の訪
 米を打診してきたのも、政治的に利用しようとする魂胆があったようにさえ見受けられ
 る。
・柏村警察庁長官がアメリカ大使館をたずね、マッカーサー大使に、アイク訪日の際の警
 備には自信がもてない、と正直に伝えていた。しかし、政府首脳は依然として強気の姿
 勢を崩さなかった。岸は、治安上の問題で訪日を取り消すべきではない、との考えを示
 していた。
・岸首相は、所信表明で、「安保新条約に対する反対論者は日米間の離間をねらっている
 のだ。それには共産主義に立つもののほか、中立主義の名のもとに共産主義へ一歩近づ
 こうとする考えがある」といい、安保に賛成するか反対するかは、自由主義者と共産主
 義者の分かれ道だといった。
ハガチー米大統領新聞係秘書が羽田に着いたのは、六月十日だった。ハガチーの表向き
 の訪日理由は、アイクの滞在日程の打ち合わせとなっていたが、本心は日本の国内情勢
 の視察といわれていた。そのことをアメリカ側は日本にくわしくは知らせていなかった。
・大使館専用車と海兵隊のヘリコプターが待ち受けていた。マッカーサー大使は、このヘ
 リコプターに乗って羽田にやってきた。そのマッカーサーが、ハガチーに、「デモ隊が
 いて面倒なことが起こるかもしれません。ヘリコプターにしましょう」と申し出た。し
 かし、ハガチーは、「いや、自動車で行こう」と答えた。
・警護の警官隊はあわてた。自動車の通る道にはデモ隊がいる。このデモ隊を整理して通
 過を容易にする手筈を整えなければならなかった。
・弁天橋の手前で、ハガチーの乗ったキャデラックは、デモ隊と接触することになった。
 たちまちハガチーのキャデラックは、デモ隊にとり囲まれた。稲荷橋からもデモ隊が駆
 けつけてきて、キャデラックは幾重にも囲まれてしまった。
・車内には、マッカーサーとハガチー、それにハガチーの秘書が乗っていた。結局、機動
 隊が駆けつけてデモ隊を整理するまでに一時間ほどの時間を要するのだが、その間、ハ
 ガチーは複雑な表情であった。
・アメリカ軍のヘリコプターが飛んできたが、デモ隊が多く、なかなか着陸できない。デ
 モ隊からは石やプラカードが投げられる。その石がキャデラックの窓ガラスにあたって
 ひびがはいった。警官隊は、そういうデモ隊を次つぎにキャデラックから押し戻してい
 った。
・警官隊が輪を広げていき、ヘリコプターの着地地点を確保した。そこに着陸すると、ハ
 ガチーは、十数人の警官隊に囲まれて乗り込んだ。マッカーサーがそれにつづいた。ヘ
 リコプターは砂ぼこりをあげて舞い上がり、そして都心に飛び去った。
・このデモ隊の行為は、国際常識に欠けるものだった。アメリカの新聞は、こぞって東京
 発のニュースを大きく載せたが、紙面はいずれもその非礼さに怒りを示すものであった。
・昭和三十五年六月十五日。国民会議の国会請願デモは、都労連が日比谷公園に集まって
 デモにはいったのを皮切りに、地方団体、婦人団体、文化団体、労組員、学生ら、十万
 人が午後から夕方にかけて国会、首相官邸、アメリカ大使館に向けてデモ行進を行ない、
 新橋付近で解散することになっていた。
・夕方から夜にかけて万余の学生がデモを行ない、警官隊と衝突して東大女子学生・樺美
 智子
が死亡するなど、とうてい予想されなかった。
・この日、全学連主流派の執行部は、国会に突入する計画をたてていた。 
・右翼の維新行動隊がトラックと宣伝カーに乗り合わせてやってきて、カシの棒をもって
 このデモ隊に殴りかかった。彼らはとくに新劇人のデモ隊を狙い撃ちした。
 そのあと全学連反主流派の学生にも殴りかかった。この襲撃で新劇人や一般市民百人近
 くが軽傷を負った。新劇人グループの一人は右目を失明してしまった。
・逃げ回るだけのデモ隊への右翼の暴力に対して、警官隊の警備が遅れたのも事実で、そ
 れは警察側が右翼の暴力を容認しているように見えた。そのことがデモ隊をいたずらに
 刺激することになった。
・学生たちの間に、「女子学生が死んだ」という噂が流れていった。警官に殺された、警
 官が扼殺した、ひとりではなく、数人が死んでいる、という噂が入り乱れた。学生たち
 の興奮はさらに激しくなった。
・負傷して学生たちは、病院に運ばれていったが、なかには通りがかりの自動車が血だら
 けの学生を幾人も病院に運んだ。議員面会所付近には、地面にうつぶせになってあえで
 いる学生も多かった。
・警察側は学生たちに解散させるためにガス弾を打ち込んだ。学生たちは逃げるだけだっ
 た。防毒面をかぶった警官たちが前面に出て、学生たちを蹴散らした。悲鳴とクシャミ
 をしながら逃げる学生たちに、警棒がなんどもうちおろされた。
・地下鉄の入口付近には、教え子の身を案じた教官や大学職員の一団がいたが、そこにも
 警官隊は殴りかかった。老いた教授たちのなかには、血だらけになって殴られている者
 もあった。 
・この国会乱入事件では、第一審判決で公務執行妨害を認めなかった。「警察官らの暴力
 は正当防衛、緊急避難のいずれの場合にも該当しないことが明らかであるから、これら
 の警察官の行為に対して、仮に抵抗、反撃等の行為がなされたとしても、公務執行妨害
 が成立しない」と判決文で述べていた。

終焉
・日本国内では、アイク訪日延期が、あらゆる方面で歓迎された。
・六月十八日、日比谷公園で全学連主催による「学生ぎゃく殺抗議、全学連総決起大会」
 が開かれた。この大会で樺美智子の父は、「警察の発表では圧死ということになってい
 るが、立ち会った私に知人の専門医の話では、娘は警官にまず頭を殴られ、手でこれを
 防いだときにめちゃくちゃに警棒で手を砕かれ、さらに首を腕でしめつけられた窒息の
 状態で倒れるところをひざで蹴り上げられたと判断される」と話した。
・警察側は、圧死によると発表しているが、彼女の死因については現代に至るも明確な結
 論はでていない。 
・学生たちはこの夜だけは官邸に岸をかん詰めにする意欲を示した。そのために座りこみ
 を続けた。いつまでも学生たちは黙りこくったままであった。
・午前四時ごろからデモが始まった。それはデモというより行進であった。国会正面前の
 樺美智子の遺影の前で一分間の黙祷をささげ、そして「同志は倒れぬ」を唱う一団が一
 時間近くも続いていた。われわれは決してこの条約を認めないと確認したうえで解散と
 なった。
・午前六時がすぎると、国会周辺に学生の姿は見えなくなった。
・午前六時過ぎ、官邸から一台の自動車が出ていった。岸が乗っていた。一晩、官邸に閉
 じ込められたままだった。赤く充血した目、疲れ切った表情、不機嫌さをむきだしにし
 たままだった。
・岸首相のもとに批准書が届いたのは、十八日の夕方だった。自然成立するとあれば欠か
 せない手続きだった。岸首相は官邸内でそれに署名して、午前零時を待っていた。官邸
 には、岸の側近が集まっていた。
・十メートルもはなれた道路では、学生デモがつづき、「岸やめろ」「岸を倒せ」という
 シュプレヒコールがつづく。午後九時には、全学連が官邸に突入するという情報がはい
 った。しかし、その時間には何事もなかった。
・次に、午前零時に官邸突入という情報がもたらされた。学生たちが火炎ビンをもってき
 ているとも伝えられた。いずれもデマだった。
・午前零時が近づくと、岸は蒼白になってふるえだした。不安になったのか、しきりに自
 衛隊を出動させろと迫った。防衛長官の赤城宗徳が強硬に反対し、自衛隊出動は見送ら
 れた。
・岸は、この日の朝、実弟の佐藤と会って、事態を収拾するためには、治安強化以外にな
 いと決めていた。ひとりの人間になったとき、この首相はおどろくほど臆病だった。
・吉田茂が、昭和二十六年九月八日に、ひとりで調印した安保条約は、ほぼ十年という期
 間を経て新しくかわった。岸首相個人にとっては、細田の政治的功績といえるだろうが、
 条約の意味するものよりも、この条約の手続きをめぐってふきだした国民の反発は、結
 果的に戦後民主主義の内容そのものを改めて問うかたちとなった。
・藤山とマッカーサーが批准書の交換を行なっているころ、岸は臨時閣議で、所信表明を
 行なっていた。そして、新安保条約の発効を機に、人心一新、政局転換のために「総理
 大臣を辞する決心をいたしました」と辞意を告げていた。
・岸が退陣を表明してから三週間後の七月十四日、自民党は党大会を開いて新総裁に池田
 勇人を選出した。 
・池田は「寛容と忍耐」を政治スローガンにし、そして経済政策に力点を置くことを明ら
 かにした。
・池田のもとで高度経済成長政策が始まった。「より豊かに、より豊かに」。岸を退陣に
 追いこんだ国民のエネルギーは、こんどは富を求めてつき進むことになった。全学連主
 流派の学生たちは、学窓を出てから、企業社会の末端の兵士として働くことになった。
 そのエネルギーはやがて、日本を欧米先進国に匹敵するほどの経済大国に盛りたてたの
 であった。
・「60年安保闘争」に真剣に取り組んだ学生、市民、労働者は、戦後の民主主義政治の
 擬制に気づき、政治よりも経済のもつ素朴な原理に魅かれていったのだ。

エピローグ
・講和条約とセットになるかたちで結ばれた日米安保条約は、軍事的にアメリカの従属下
 に置かれることを意味していて、独立国としての立場からみれば屈辱的でさえあった。
 吉田茂首相は、むろんそのことを充分理解していた。吉田首相にとっては、経済的・軍
 事的自立を究極の目標に据え、まず独立すること、次に経済的に自立すること、そして
 最後に軍事的に自立することを長期的展望として考えていた。
・日米安保条約のもつ片務性は、日本の経済力の充実につれて、保守陣営の一部の人たち
 にはとうてい容認できなくなってきた。岸首相が双務性をもった条約にかえ、アメリカ
 と対等の立場で明確に自由主義陣営の一角に位置して、共産主義と対峙すべきだと考え
 たことは決して不自然ではなかった。
・昭和三十年代の初期、世界観の異なる法案や条約の改定は、だいたいが国会内での乱闘
 や牛歩戦術、それに駆け引きによって決着がつくという構図になっていた。ところが、
 新安保条約だけはまったく異なった展開を見せた。
・なぜあのように盛りあがったかといえば、結局は岸首相の体質や肌合いに対する国民の
 怒りからであった。岸内閣は議会政治を根本から破壊する暴力的手段で新安保条約案を
 可決した。その前後の岸首相の政治的発言は、まるで天皇制国家の官僚そのものであっ
 たし、その体質が占領後期のGHQの政策と重ね合わさり、占領前期を全否定するかの
 ように映った。