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安倍政権は、国民の声に耳を傾けるなどということなどまったく考えになく、集団的自衛
権行使を可能にする安保法案成立に向けて猛進を続けている。
しかし、ひとたび集団的自衛権を可能にすれば、米国から戦争への加担を要請された場合
に断れなくなる。なぜなら、米国からの戦争加担への要請を断れば、その瞬間に日米軍事
同盟は崩壊することになるからである。
そして、米国の戦争に加担して、集団的自衛権を行使すれば、その瞬間から日本はその相
手国にとって「敵国」となる。
米国社会は「銃社会」であり、正当防衛や正義のためならば、相手を撃ち殺しても構わな
いという社会だが、日本はそうではない。日本の社会は、理由はどうあれ相手を殺すこと
は「人殺しの犯罪」だ。たとえ、正義のためとか、戦争だからとかと言っても、日本の自
衛隊が他国の人々を殺す行為に、自衛官自身はもとより、多くの日本人は耐えられないで
あろう。
安倍首相の描く理想的な国家とは、国を愛し国を誇りに思い、大義のために「血を流す」
ことができる、覚悟をもった若者と国民によって支えられた国家のようだ。そしてそのよ
うな日本を守るためには、「血の同盟国」である米国のために、日本の若者が「血」を流
さなければならない。米国のために日本の若者が「血を流す」ことによってはじめて、日
本は米国との「血の同盟」を維持できる、というのが安倍首相の主張のようだ。

はしがき
・安倍首相は、集団的自衛権行使についての国民に向けての記者会見で、事実上の朝鮮半
 島有事を想定しつつ、非難する邦人を救助、輸送する米艦船が攻撃を受けた場合を具体
 例として上げ、「このような場合でも日本自身が攻撃を受けていなければ、日本人が乗
 った米国の船を日本の自衛隊は守ることができない、これが憲法の現在の解釈です」と
 述べ、集団的自衛権を行使できない現状では日本国民を守ることができないと、声高に
 訴えた。しかし、実はこうした事例は、現実には全く起こりえない。なぜなら、在韓米
 軍が毎年訓練を行っている「非戦闘員非難救出作戦」で避難させるべき対象となってい
 るのは、在韓米軍市民14万人、「友好国」の市民8万人の計22万人であり、この
 「友好国」とは英国、カナダ、オーストラリアニュージーランドというアングロ・サク
 ソン系諸国なのである。さらに非難作戦は具体的には、航空機によって実施される。
 つまり、朝鮮半島有事において米軍が邦人を救出することも、ましてや艦船で非難させ
 ることも、絶対にあり得ないシナリオなのである。 
・問題は、過去半世紀以上にわたり歴代自民党政権によっても憲法違反とされてきた集団
 的自衛権の行使を、解釈変更によって可能であると国民に広く訴える歴史的な記者会見
 において、安倍首相がまったくの「架空のシナリオ」を持ち出し、しかも、「お父さん
 やお母さんや、おじいさんやおばあさん、子供たちかもしれない。彼らが乗っている米
 国の船を今、私たちは守ることができない」と述べて、まさに「情感」に訴える手法を
 とったことである。これは、「国民に分かりやすく」するためのレトリックどころか、
 人を欺くトリックそのものであり、これに政界、メディア、世論が翻弄されているなら
 ば、安倍首相の罪は限りなく重い。
・安倍首相は同じ記者会見で、北朝鮮のミサイルの脅威も強調した。現実に「日本の大部
 分」が射程に入っているというのであれば、言うまでもなく、50基近い原子力発電所
 も、北朝鮮のミサイルのターゲットになっているはずである。それでは、なぜ安倍首相
 は原発の「再稼働」を急ぐのであろうか。そもそも日本の原発それ自体はミサイル攻撃
 にはまったく無防備で、しかも稼働中であれば未曾有の被害を招くであろうことは、火
 を見るより明らかである。にもかかわらず再稼働に突き進むということは、そもそも北
 朝鮮のミサイルの脅威を喧伝するのは国民の不安を煽りたてるためであり、安倍首相は
 本音のところでは、北朝鮮はミサイル攻撃をしてくるような、「理性を欠いた国ではな
 い」と考えているからであろうか。
・なぜ北朝鮮がハワイやグアムなど米国にミサイル攻撃を行った場合に、それを日本が迎
 撃するためには集団的自衛権の行使が必要であるといったシナリオを、安倍首相は重要
 事例として持ち出すのであろうか。言うまでもなく、そもそも北朝鮮が米国を攻撃する
 ということは、それを奇貨とした米国の総反撃によって体制が崩壊することを覚悟した
 「理性を欠いた自殺行為」に他ならないのである。どこから考えても、安倍首相の言動
 は支離滅裂と言う以外にない。
・ホルムズ海峡にイランが機雷を敷設した場合に、海上自衛隊が掃海艦を派遣してそれを
 除去するという課題であるが、この機雷掃海と集団的自衛権の行使とは、いかなる関係
 があるのであろうか。政府・自民党は、機雷掃海は地上戦のような戦闘行為ではないか
 ら、「限定的かつ受動的な武力行使」であると説明する。しかし、そもそも米国とイラ
 ンが戦争をしているただ中で、イランが敷設した機雷の除去にあたることが、なぜ「限
 定的かつ受動的」なレベルに止まる、などと主張することができるのであろうか。日本
 による機雷掃海を敵対的な「武力行使」と判断したイランが、掃海艦の護衛艦に攻撃を
 加えてきた場合、あるいは近くにいる米艦船を攻撃した場合、自衛隊は「我々の任務は
 限定的かつ受動的なものであります」と言明して、一切の応戦をせず掃海活動を中止し
 て撤退するのであろうか。言うまでもなく、こういう状況で撤退するのであれば、わざ
 わざ集団的自衛権を行使した「甲斐がない」のであって、当然自らの護衛艦や米艦船を
 守るために、海上自衛隊はイランに反撃しなければならないはずである。
・安倍首相は再三にわたり、集団的自衛権を行使するにしても、「海外派兵はいたしませ
 ん」と明言してきた。つまり自衛隊は、領土や領海など他国の領域には入らない、と公
 約してきたのである。ところが、実はホルムズ海峡は、オマーンあるいはイランの領海
 によって占められ公海は存在しないのである。とすれば、安倍首相の公約に従えば、海
 上自衛隊の掃海艦はホルムズ海峡の手前で引き返してこなければならず、そもそも掃海
 活動など行えないのである。当事国の同意や要請があれば、自衛隊は他国の領域内に入
 ることができることになるが、「海外派兵はいたしません」などという公約は、たちま
 ち反故にされてしまう。 
・集団的自衛権に関する1972年の政府見解は、安保法制懇の「報告書」でさえ、集団
 的自衛権の行使は違憲であるとの「見解を示した」ものと断じているにもかかわらず、
 政府・自民党はこの見解を「切り貼り」し、まったく逆に、集団的自衛権の行使を容認
 したものと看做し強引に自らの議論の正当化をはかろうとしてきたのである。
・海外派兵に関する公約の破棄や、この1972年政府見解の「アクロバット的解釈」を
 見れば、安倍政権や外務省が、憲法や法律や公約などに関し、いかに安易に恣意的解釈
 を行い、いかに軽々しくそれらを反故にするか、もはや他言を要しないであろう。
・集団的自衛権の行使は違憲であるという大前提がひとたび突破されてしまうと、まさに
 「蟻の一穴」ではないが、事態は無限的に広がっていくのである。
・安倍首相や安保法制懇、あるいは自民党であれ外務省であれ、集団的自衛権をめぐる議
 論における深刻な問題性は、具体的な情勢分析が完全に欠落している、ということなで
 ある。   
・「戦時の機雷掃海」というシナリオの設定自体が、1991年の湾岸戦争をめぐるトラ
 ウマの産物にほかならない。125億ドルもの巨額を拠出し、戦争の終了後には海上自
 衛隊がペルシャ湾での機雷掃海作業に従事したにもかかわらず、結局のところ「カネだ
 け出して汗も血も流さない」との批判を受けたことが、政府・外務省のなかに深刻なト
 ラウマとして残ってきたのである。
・米艦船による法人救出という「架空のシナリオ」、北朝鮮によるミサイルの脅威の喧伝
 と原発「再稼働」という根本的な矛盾、あるいはホルムズ海峡での機雷掃海という「幻
 のシナリオ」など、なぜ集団的自衛権をめぐる議論は、これほどにリアリティを欠いて
 いるのであろうか。それは、本来であれば何らかの具体的な問題を解決するための手段
 であるはずの集団的自衛権が、自己目的となってしまっているからである。なぜ自己目
 的と化してしまうのであろうか。それはつまるところ、集団的自衛権の問題が、安倍首
 相の信念、あるいは情念から発しているからである。
・そもそも何が安倍首相を集団的自衛権に駆り立てるのであろうか。それは言うまでもな
 く、「戦後レジームからの脱却」という宿願を果たしていく上で、不可欠の課題である
 からにほかならない。安倍首相にとって集団的自衛権の問題は、「東京裁判史観」によ
 ってマインドコントロールされてきた戦後日本の国家のあり方を根本的に改造せねばな
 らない、という課題意識のなかに位置づけられているのである。
・最大の眼目は、青年が誇りを持って「血を流す」ことができるような国家体制を作り上
 げていくところにある。だからこそ、集団的自衛権と憲法改正の問題は、まさに国家の
 あり方と日本の進路の根幹にかかわる問題なのである。

なぜいま「集団的自衛権」なのか
・南シナ海の島嶼の領有権をめぐって争いが続いてきたベトナム、あるいはフィリピンに
 中国が侵攻するケースで、日本政府が集団的自衛権を行使できることを宣言したことを
 受けて、ベトナム(フィリピン)が日本に軍事支援を正式に要請してきた場合、日本は
 いかに対応することになるのであろうか。まず、要件に必ずしも直結しないという点を
 重視して、要請を拒否することが考えられる。しかし、いかなる理由を付けようが、こ
 の日本の判断は結果として、ベトナム(フィリピン)の「敵国」である中国を喜ばせ、
 日本の「弱腰」ぶりが際立つことになるだろう。そもそも、権利として「集団的自衛権
 を行使できる」と日本政府が立場を鮮明にさせることは、中国への抑止力を高めること
 に最大の狙いがある。ところが、「中国の脅威」に直面するベトナム(フィリピン)を
 助けないならば、いわば振り上げた拳を下ろさないことになり、要請を拒否した瞬間に
 抑止力は失われることになろう。
・これとはまったく逆に、中国による「力を背景とした一方的な行為」が「国際秩序その
 もの」を大きく揺るがせ、日本に「深刻な影響」が及ぶであろうと判断して、ベトナム
 (フィリピン)の要請を受け入れて集団的自衛権を行使に踏み切ったとして、具体的に
 いかなる事態が生じるであろうか。言うまでもなく、日本がベトナム(フィリピン)に
 向かう艦船を阻止しる行動をとる場合はもちろん、ベトナム(フィリピン)に軍事物資
 を送る行為に出ただけでも、中国からすれば日本は「敵国」となり、日本と中国は戦争
 状態に入るだろう。もちろん、ここで仮に日本が途中で撤退するようなことがあれば、
 それはベトナム(フィリピン)からすれば、「裏切り行為」にほかならない。
集団的自衛権を行使するということは、自衛隊であっても、国際法上は軍隊として戦争
 することを意味する。だからこそ安倍政権の関係者も、「日本が集団的自衛権を行使す
 ることは、敵国に対して宣戦布告をすることと同じだ。入り口の大きさにかかわらず、
 向こう側には戦争の世界しかないと言い切っているのである。
・ところが「戦争」となった場合、直ちに法的に深刻な問題が生じる。なぜなら、日本に
 は憲法はもちろん、いかなる法令においても、それこそ「宣戦布告」を行う開戦規定も
 交戦規定も欠落しているからである。さらに重要な問題は、日本では軍法会議が存在し
 ないことである。  
・軍隊として本格的に「海外」で戦争をする場合、軍の規律を維持するため、どこの国で
 も軍法会議が設置されている。しかし日本の場合は憲法76条で「特別裁判所」の設置
 が禁じられている。なぜなら、9条で交戦権が否認されている以上、不要だからである。
・集団的自衛権を行使するということは、軍隊として戦争をすることにほかならない。そ
 のためには、本来なら、憲法を改正して自衛隊を正式の軍隊として組織し、開戦規定や
 交戦規定を整え、軍法会議を設置しなければならないのである。
・安倍政権でキャッチコピーのように使われてきたのが、「日本をとりまく安全保障環境
 の激変」とか安全保障環境の悪化」という言葉であり、それを理由に集団的自衛権の行
 使の緊要性が主張される。「悪化」の内容として北朝鮮のミサイルの脅威と中国の急速
 な軍備拡張があげられているだけで、東アジアの具体的な情勢分析は何もなされていな
 いのである。  
・米国のオバマ大統領は日米会談で、安倍首相が進める集団的自衛権行使への取り組みを
 「歓迎し支持する」との立場を表明したが、厳密な二条件課した。第一に「日米同盟の
 枠内」であること、第二に「近隣諸国との対話」である。要するに、集団的自衛権の行
 使は米軍の指揮下で行わればならないこと、しかしその前提として、中国や韓国との
 「対話」が不可欠の条件であるということであって、日本の集団的自衛権の行使に事実
 上のタガをはめてしまっているのである。
ヒラリー・クリントン前国務長官も、日本の集団的自衛権行使への動きについて、「米
 国務省、国防総省、ホワイトハウスと緊密な連携を保つことが重要だ」と指摘し、さら
 に安倍首相の靖国参拝を念頭に、「他国から不要な反応を起こさずに国を正しい道に進
 ませるための戦略を持つことが、日本の国益にかなう」と強調している。
・日本にとって唯一無二の同盟国たる米国と、密接な提携関係を構築すべき韓国が、共に
 中国を単純に「敵」と看做してない、ということなのである。そこにはまた、グローバ
 リゼーションを背景とした中国と米国、韓国との密接な経済関係の存在があり、言うま
 でもなく、米国冷戦時代とは全く様相をことにしているのである。ところが、安倍首相
 や「報告書」が繰り返す「安全保障環境の悪化」という決まり文句は、あたかも中国を
 日米韓の「共通敵」に設定するかの如くであるが、こうした旧態依然たる構図はすでに
 崩れ去っているのである。
・民主党であれ共和党であれ米国の政権は、中国や北朝鮮の脅威を煽りたて日本の米国の
 軍事的指揮下に、「動員」しながら、現実には、日米同盟の枠を越えたレベルから自ら
 の国益に沿って行動しているのである。こうした構図は、今日のオバマ政権において、
 より顕著である。
・安倍首相は、2013年8月、「シリア情勢の悪化の責任はアサド政権にある。アサド
 政権は道をゆずるべきだ」と述べて、明確にアサド大統領の退陣を主張した。しかし、
 当時のシリアへの軍事作戦を準備していた米国でさえ、「明確にしておきたいことは、
 我々が検討している選択しは政権交代ではない」と、アサド退陣に極めて慎重であった。
・軍事的にアサド政権を打倒しても、その後の「受け皿」が明確ではなく、かえって泥沼
 の内戦に陥り、そこにアルカイダなどのテロリスト勢力が介入してくるであろうと判断
 されていたからである。ところが安倍首相に認識は、要するに「独裁者さえ倒せば何と
 かなる」という単純なものであって、ここにはアフガニスタンイラク戦争がもたらし
 た「深刻きわまりない教訓」から何一つ学んでいない政治家の姿が浮き彫りとなってく
 るのである。国際政治のこうした複雑な動向を読み取れない安倍政権に、集団的自衛権
 の行使にあたって、「総合的判断」を求めることは、「無いものねだり」と言う以外に
 ないであろう。  
・イラク戦争は、国家権力による情報操作という問題性を鮮明に浮かび上がらせた。諜報
 機関から権力によって都合の良い情報のみを挙げさせ、「大量破壊兵器は存在する」と
 の「怪しげな情報」からもたらされた「情報」を大々的に喧伝して内外世論を動員し、
 戦争に突入していったのである。安倍政権が成立させた特定秘密保護法がかかえる問題
 を検討する際にも、イラク戦争の総括は不可欠なのである。
ブッシュ政権は国連憲章51条に基づいて、個別的自衛権の発動としてイラク戦争に踏
 み切ったのであろうか。答えは完全に否である。なぜなら、国連憲章51条は自衛権の
 発動の要件として「武力攻撃の発生」を上げているのであるが、当時イラクのフセイン
 が米国に「武力攻撃」をかけていないことは自明であった。
・ブッシュは「我々は行動を起こす。行動を起こさないリスクの方が極めて大きいからだ」
 とし指摘した。このブッシュの論理は明らかに「予防戦争」のそれであり、米国のイラ
 ク侵攻は国連憲章51条に反した戦争であった、と言う以外にない。さらに、進行の最
 大の口実とされた大量破壊兵器も結局のところは確認されず、当初は熱狂した米国世論
 も急速に冷め、イラク戦争はまさに「不正義で失敗した戦争」と化したのである。
・かくして、「テロとの戦い」で国際社会における求心力を高めてきた米国の威信は決定
 的に傷つき、これが戦争がもたらした物理的な「負債」と相まって、米国の「相対的衰
 退」をもたらすことになったのである。さらに、国連憲章51条に反したイラク戦争は、
 集団的自衛権の問題を考える際にも重大な意味を持っている。なぜなら、日本が米国と
 の関係において集団的自衛権を行使することは、米国が「武力攻撃」を受けて個別的自
 衛権を発動することが前提となっているからであり、「武力攻撃」が発生するはるか以
 前に「予防戦争」に打って出る米国を支援することは、これまた国連憲章違反行為に加
 担することになるのである。
・イラク戦争が米国が主導した不正義の戦争であれば、事実上米軍の活動の一翼を担うと
 いうことは、いわゆるテロリストばかりではなく、イラク現地の人々からすれば、自衛
 隊が米国と「一体」と看做されることになるのである。イラク戦争を総括したオランダ
 はこの戦争を「国際法違反」と断定したが、これを踏まえるならば議論の立て方は全く
 異なってくるのである。  
・今日の集団的自衛権をめぐる議論を展開する大前提として、イラク戦争の総括が不可欠
 であることは明らかであろう。ところが、「報告書」は、この確信の問題に一切触れよ
 うとしていないのである。それはなぜであろうか。考えられるのは、実は安保法制懇の
 有識者の大半が、当時イラク戦争を支持したのである。
・安保法制懇の「報告書」は、「我が国が輸入する原油の大部分が通過する重要な海峡等
 で武力攻撃が発生し、攻撃国が敷設した機雷で海上交通が封鎖されれば、我が国への原
 油供給の大部分が止まる」という場合を挙げ、事実上、ホルムズ海峡にいける機雷封鎖
 への対応の重要性を指摘している。しかしこれも、問題の背景を問わない「軍事オタク」
 が提起する事例の一つの典型であろう。そもそも今日のイランの指導部は、いかなる理
 由で何を目的にホルムズ海峡の機雷封鎖に踏み切るのであろうか。欧米諸国との「対話」
 の方向に舵を切った以来の政権の外交姿勢をめぐる具体的な分析は皆無である。
・安倍首相が目指す戦闘中の機雷除去は、そもそも機雷の敷設や除去自体が「武力行使と
 解される」ため、間違いなく戦争を意味するのである。
・1960年に岸信介首相は「自国と密接な関係のある他の国が侵略された場合に、これ
 を自国が攻撃されたと同じような立場から、その侵略されておる他国まで出かけて行っ
 てこれを防衛するということが、集団的自衛権の中心的な問題になると思います。そう
 いうものは、日本国憲法においてそういうことができないことは、これは当然」と国会
 で明確に答弁しているのである。とすれば、仮に最高裁の砂川判決が自衛権のなかに集
 団的自衛権をも含ませていたのであれば、その直後に岸政権は司法の判断に反する認識
 を打ち出した、ということになる。 
・日本の場合、憲法9条を前提に自衛隊が保持しうる装備は「自衛のための必要最最小限
 の実力」に限られ、大陸間弾道弾や長距離戦略爆撃機などの攻撃型兵器については、
 「いかなる場合においてもそれの保有は許されない」との立場を歴代政権は堅持してき
 たのである。さらに、そもそもこの「攻撃的兵器不保持」の原則は、集団的自衛権を行
 使しないという原則表裏一体の関係にあるのである。
・ところが、自国防衛だけであれば攻撃的兵器が不要としても、集団的自衛権不行使の原
 則が崩れると、それは「遠方の同盟国」や集団的自衛権の「要請国」の期待に応えるた
 めには攻撃的兵器が必要となる。つまり、集団的自衛権の行使に踏み切ることは、憲法
 9条を前提として築かれてきた諸原則との抵触を一挙に生み出すことになるのである。
・国家の安全が真に脅かされている場合、なぜ集団的自衛権の行使は「必要最小限度」に
 限定されねばならないのであろうか。「必要最小限度」こだわることは、それこそ将来
 の憲法解釈に縛られているのではなかろうか。「国家存亡」の危機にあれば、「必要最
 大限度」まで行使が求められるのは必然ではないのか。こうした自己矛盾に陥るのは、
 憲法原則を離れてひとたび「国家の安全」や「安全保障環境の変化」などといったロジ
 ックを駆使することになれば、その論理は際限なく広がざるを得ないのである。
・2003年にイラク戦争が開始された当時、小泉首相は、「北朝鮮の攻撃から日本を守
 ってくれるのは米国しかいない、だから米国を支持する」という論理でイラク戦争を支
 持し、自衛隊をイラクに派遣することになったのである。とすれば、今後米国が同様の
 戦争に踏み出し、日本が集団的自衛権の行使を憲法上も可能とした場合に、「日米同盟
 の信頼」という大前提からして、それを行使しないという選択肢はあり得ない、という
 ことになるのである。
・1972年10月に出された当時の田中内閣の政府見解では、憲法の下で武力行使が許
 されるのは「我が国への急迫、不正の侵害の場合」に限られるのであって、「したがっ
 て、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権
 の行使は、憲法上許されない」と明確な倫理が展開された。
・1981年、鈴木内閣においては、「憲法9上の下において許容される自衛権の行使は、
 我が国を防衛するための必要最小限度にとどまるべきものと解しており、集団的自衛権
 を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されない」との見解を示
 した。 
・つまり、「必要最小限度」とはあくまで個別的自衛権にかかわる概念であり、「集団的
 自衛権の行使はまったくできない」というのが政府解釈の根幹なのである。
・安倍首相も、イラク戦争や湾岸戦争の総括を真摯に行い、「安全保障環境の悪化」とは
 何かを明らかにするために内外情勢を正面から具体的かつリアルに分析し、さらには、
 歴史認識問題や北朝鮮のミサイル問題、あるいは尖閣問題などを改めて掘り下げ分析し、
 いわば「出直し」を行って、その上で集団的自衛権の行使と憲法改正の緊要性を訴える
 ならば、間違いなく世論の支持を得ることができるだろう。
・1955年8月に訪米してダレス国務長官と会談した重光外相は、当時米国の支配下に
 あった沖縄・小笠原、あるいはグアムが攻撃を受けた場合に日本が米国を支援するため
 に集団的自衛権を行使する用意がある、との提案を行った。重光外相の提案の背景には、
 日本が集団的自衛権を行使することの代わりに「米軍撤退」を求める、という狙いがあ
 った。しかしダレス国務長官は、現憲法下で日本が集団的自衛権を行使することは不可
 能であろうと、重光外相の提案を一蹴したのである。つまりダレス国務長官は、安全条
 約の改定に応じる大前提は、日本が憲法を改正をして集団的自衛権を行使することがで
 きるようになることであると、釘を刺したのである。 
マッカーサー司令官はダレス国務長官に対し、米国にとって日本の「真の価値」は米軍
 による全土基地化・自由使用にある」のであって、このまま「片務条約」を続けていく
 ならば日本は「中立主義や非同盟主義」に向かっていくであろうと警告したのである。
 マッカーサー司令官は、ダレスが求める憲法改正と集団的自衛権の行使という前提条件
 を「宿題」として「棚上げ」することを主張し、1960年の安保改定はほぼ、このマ
 ッカーサー提案に沿って進められることになったのである。つまり、この限りにおいて、
 旧安保条約の「片務性」は是正されたのである。
・マッカーサー司令官が集団的自衛権という課題の「棚上げ」を主張した決定的な理由は、
 米軍による「一方的行動」を可能にする全土基地化と自由使用を保障した、旧安保条約
 以来の「極東条項」を死守することにあった。 
・60年安保国会では、「極東条項」によって日本が米国の戦争に巻き込まれるのではな
 いかという問題が議論の焦点となり、そこから米軍の行動を日本が一定程度チェックで
 きる制度的枠組みとして「事前協議制」が設けられることになった。しかし、今日に至
 るまで一度たりとも「事前協議制」が発動されたことがないということは、安倍首相が
 強調する日本の「自主性」というものが、いかに根拠を欠いたものであるかを明瞭に示
 している。
・60年安保国会で議論された「巻き込まれ」論は、その後の東アジアの情勢展開によっ
 て、杞憂でないことが明らかとなった。なぜなら、1965年から本格的に開始された
 ベトナム戦争において、沖縄や本土の米軍基地は最前線基地と化したが、韓国は集団的
 自衛権の行使を迫られ、一時は5万人にも達する韓国軍がベトナムに送り込まれたので
 ある。仮に日本が、この段階で集団的自衛権の行使に踏み込んでいたならば、韓国と同
 様に「ベトナム派兵」が行われたであろう。
・仮に今後、日本が集団的自衛権の行使に踏み出すのであれば、当然のことながら、「極
 東条項」を規定した安保条約第6条の改定や撤廃が提起されなければならない。なかで
 も焦点は、全土基地化・自由使用という「占領条項」を具現化した日米地位協定にある。
 そうでなければ、日本は集団的自衛権を行使するが「占領条項」はそのまま堅持される
 という、新たな「片務性」が生み出されることになるのである。
・「占領条項」を象徴するのが、「横田空域」の存在である。一都市八県におよぶ首都圏
 の広大な空域が今なお米軍横田基地の管制下にあり、ANAやJALといった日本の飛
 行機が自由に飛ぶことができないのである。およそ世界の独立主権国家のなかで、首都
 圏の空を自国の飛行機が自由に飛べない国など、どこにあるのであろうか。
・安倍首相が集団的自衛権の行使に踏み切って米国との「対等」を目指し、日本国家と日
 本人としての「誇り」を取り戻したいと言うのであれば、「占領条項」の撤廃は必須の
 課題であろう。 

「歴史問題」と集団的自衛権
・「李ライン」は、1946年にマッカーサー司令官によって設置され、竹島周辺への日
 本漁船の立ち入りを禁止した、いわゆるマッカーサー・ラインにほぼ沿ったものであっ
 た。マッカーサー司令官が竹島を「日本の範囲から除かれる地域」に指定した背景には、
 同島をめぐる複雑な歴史的経緯がある。なぜなら、1905年1月に日本が閣議決定で
 竹島領有を決定したのであったが、そのわずか5ヵ月前の1904年8月の第一次日韓
 協約によって韓国は外交権の制約を課され、保護国化への第一歩が踏み出されていたか
 らである。「竹島問題」は、韓国では「植民地問題」として認識され、韓国民にとって
 竹島は「民族の象徴」であり、従って韓国の政権にとっては、内部矛盾を外にそらす格
 好の対象であるとともに、一つ誤れば政権の死命を制しかねない重要問題なのである。
・竹島問題について、「島そのものにさほどの価値はない」のであり、日韓両国にとって
 は漁場の確保こそが問題である以上、この「漁業紛争という原点に戻れば歩み寄れるは
 ずだ」。ところが、安倍政権の竹島問題や歴史問題での「強腰路線」を受けて、韓国は
 韓米同盟を堅持しつつも中国に接近し、かつてない「中韓蜜月」が生み出されているの
 である。
・国家が対外的な危機に対処するにあたり、「最大限味方を多くし最小限敵を少なくする」
 ことは戦略論のイロハである。それでは、中国という「強大な敵」に立ち向かおうとす
 る時に、なぜ敢えて韓国を中国に「追いやる」ような路線を推し進めるのであろうか。
 なぜ、国際政治のイロハが理解されないのであろうか。
・「戦後レジームからの脱却」を掲げた安倍政権、このスローガンには、実は二つの含意
 がある。第一に、「押し付け憲法」からの脱却であり、第二に「東京裁判史観」からの
 脱却である。「東京裁判史観」とは自虐史観とも称され、要するに東京裁判で示された、
 日本の戦争をすべて「悪」として否定する歴史観であり、安倍首相はこの史観によって
 戦後の日本が支配されマインドコントロールされてきたと厳しく批判する。  
・「ネットウヨ」を突き動かす歴史認識と「論理」は、典型的には日本の侵略をめぐり、
 欧米諸国も侵略し植民地支配を行ったではないか、なぜ日本だけが非難されなければな
 らないのか、日本の名誉が不当に損なわれている、という主張に明確に示されている。
・安倍首相は2004年の著作で、「軍事同盟というのは、”血の同盟”です。日本がもし
 外敵から攻撃を受ければ、アメリカの若者が血を流します。しかし今の憲法解釈のもと
 では、日本の自衛隊は、少なくともアメリカが攻撃されたときに血を流すことはないわ
 けです。これで”完全なイコールパートナーと言えるでしょうか」と強調した。在日米軍
 で日本防衛の任務についている部隊は一つもないという現実は別として、この安倍首相
 の主張は典型的な日本の「安保タダ乗り」論に立つものである。こうした「タダ乗り」
 論は、安保体制が「沖縄タダ乗り」によって支えられてきたという歴史的経緯を完全に
 無視した誤った議論であるが、いずれにせよ、そもそも日本が集団的自衛権を行使して
 米国と対等になれるのであろうか。こうした認識はまったく幻想にすぎない。
・安倍首相の論理で最も重要な問題は、日本の青年も「血を流すべき」である、という主
 張である。要するに、国を愛し国を誇りに思い大義のために「血を流す」ことができる、
 そういう覚悟をもった青年と国民によって支えられた国家こそが、安倍首相にとって理
 想の国家なのである。 
・安倍首相の言葉に従うなら、教育とは国家のために「血を流す」ことができる青年を育
 てることが目的であり、それを国民が支える体制をつくるためには、愛国心の発揚、日
 の丸・君が代の徹底、教科書はもちろんのことNHKをはじめとするメディアからの自
 虐史観の排除、などが重要課題となる。
・安倍首相をはじめ「盟友たち」が何よりもこだわる靖国参拝は、問題のありかを象徴し
 ている。1978年、靖国神社の宮司であった松平永芳(元軍人)は、「国際法的に認
 められない東京裁判を否定しなければ日本の精神復興はできない」という信念に基づい
 て、A級戦犯の合祀に踏み切った。つまり合祀問題の本質は、東京裁判の否定にあるの
 である。    
・日本はサンフランシスコ講和条約で東京裁判を受け入れ国際社会に復帰したのである。
 従って、A級戦犯の合祀が「東京裁判の否定」を前提としている以上、靖国に参拝する
 政治指導者たちがどのような理由づけを行おうが、国際問題化せざるを得ないのである。
 その際、問題は中国や韓国からの批判に止まらない。なぜなら事は、サンフランシスコ
 講和条約を基礎として米国がつくり上げてきた戦後秩序そのものへの挑戦を意味するか
 らである。
・米国主導の戦後秩序を否定する信条と論理を孕み、それに共鳴する広範な支持基盤を有
 した政権が初めて登場し、今や日本を担っているのである。これこそ、日本の孤立化が
 危惧されるゆえんであり、日本をめぐる安全保障の悪化をもたらしているのである。
・日本はなぜ無謀な戦争に突入し、国内外に多大な犠牲を生んだのか。戦後60年余りに
 わたり、日本政府および日本国民の名において、東京裁判の内容と、そこで裁かれた、
 いわゆる「戦争犯罪」の検証を今日までしてこなかった。周辺諸国の批判への対応に終
 始して、実に戦後60年以上にわたり、日本人自身が戦争と「戦争責任者」を自ら裁く
 ことを怠ってきたところにこそ最大の問題がある。 
・人間が犬馬以下に扱われた社会が軍隊だった。これが、各戦地で兵士を大量に無駄死に
 させる人命軽視の基本的観念でもあった。自らの兵隊さえ「犬馬以下」に扱う日本の軍
 隊が、植民地や侵攻地域で現地の住民をどのように扱ったか、容易に想像がつくという
 ものである。
・野蛮性、非人間性は、特に陸人にあってはかなり普遍的であって、そのような精神的土
 壌から無謀な作戦が生まれた。この「無謀な作戦」を象徴するのが特攻作戦であり玉砕
 作戦であった。特攻隊の編成は、形式的には志願で始まったが、間接的強制、そして実
 質的な命令に進んだ。特攻はあの戦争の美談ではなく、残虐な自爆強制の記録である。
 人間を物体としての兵器と化した軍部当事者の非人間性は、日本軍の名誉ではなく、汚
 辱だと思わざるを得ない。
・「生きて虜囚の辱しめを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」という「戦陣訓
 の思想から生まれた玉砕作戦も、あまりにも非人間的かつ非科学的であった。当時、政
 府もマスコミも「鬼畜米英」と言っていたが、玉砕、特攻こそ陸海軍最高首脳と幕僚た
 ちの、前線の将兵に対する鬼畜の行為であった。若い将校たちは「被害者」であって、
 彼らを死地に追いやる作戦を立案し、実行した軍首脳と幕僚たちは、「加害者」である。
 その差は峻別しなければならない。加害者と被害者を同じ場所で祀って、同様に追悼、
 顕彰することは不条理ではないか。
・朝鮮半島や台湾を植民地とし満洲を植民地化したことからして、満州事変から日米戦争
 に至る昭和戦争について、植民地解放を大義とした戦争と言うことはできない。
・安倍政権の行動が、「日本が軍国主義に向かうのではないかという不安」を中国や韓国
 に与えるばかりでなく、米国でも「日本で強いナショナリズムが台頭しているのではな
 いかという懸念」が出ている。集団的自衛権が「ナショナリズムのパッケージ包装」さ
 れる。つまりは、「良い政策が悪い包装」で包まれるならば近隣諸国との関係を不安
 定にさせる。  
・日本が集団的自衛権を解釈変更し海外での武力行使を踏み出すことを強く主張する政治
 勢力が、実は「東京裁判史観」からの脱却というイデオロギーによって色濃く染められ
 ている。このイデオロギーは、米国が築き上げてきた、サンフランシスコ講和条約によ
 って基礎づけられた戦後秩序への挑戦を意味している。
・仮に米軍が日本から撤退すれば、日本は急速に軍事力を強化するであろうとの予想のう
 えで、「誰も日本の再軍備を望んでいない。だから我々は、ビンの蓋なのだ」と、在日
 米軍は日本の軍国主義をビンのなかに閉じ込めておき、それが復活してくるのを防ぐ
 「ビンの蓋」としての役割を担っている、と在日米軍海兵隊司令官は述べている。

「ミサイル攻撃」論の虚実
・安倍首相は、「米国に向かうかもしれない弾道ミサイルを我が国が打ち落とす能力を有
 するにもかかわらず撃ち落とさないという選択肢はあり得ない」と主張したが、こうし
 た問題の設定の「非現実性」は、「撃ち落とす能力を有するにもかかわらず」という一
 節にある。具体的には、イージス艦搭載の迎撃ミサイルの迎撃可能高度は「100〜
 160キロ程度であり、確かに過去に迎撃に成功した発射実験での明示高度は137キ
 ロ」である。他方、北朝鮮のノドン・ミサイルの高度は「最高高度で300キロぐらい
 に達する」とのことなのである。つまり、そもそも迎撃不可能なのである。
・問題の核心は、ミサイルの迎撃能力の有無にあるのではない。根本的な問題は、こうし
 たケースの設定のあり方それ自体にある。それは、いわゆる「軍事オタク」の論理の典
 型例が示されている、ということなのである。「軍事オタク」は、問題の政治的・外交
 的背景を捨象し、あたかもゲーム・センターで戦争ゲームをやっているかの如き論理を
 展開するという特徴を持っている。
・北朝鮮により米国へのミサイル攻撃というシナリオがいきなり設定されるのであるが、
 なぜ、何を目的に北朝鮮は米国を攻撃するのかという動機の問題は、完全に捨象されて
 いるのである。言うまでもなく、仮に北朝鮮が米国にミサイル攻撃をかけるならば、米
 国はそれを奇貨として間髪を入れず、ピョンヤンを破滅させる軍事作戦を全面展開する
 であろう。ピョンヤンの体制崩壊をも覚悟して米国を攻撃するなどということは、まさ
 しく「自殺行為」なのである。 
・そもそも、北朝鮮が米国にミサイル攻撃をかけるという想定は、北朝鮮が完全に理性を
 欠いた国であることを前提にしている。理性を欠いた北朝鮮であるならば、相当の確率
 で、米国を攻撃する前に日本をターゲットに置くことであろう。「狂気」を孕んだ北朝
 鮮の指導者が日本を狙うとすれば、格好の目標は日本海側の原発と考えて間違いない。
 約50基ある日本の原発の6割が日本海側にあるということは、軍事戦略的にみて致命
 的な脆弱性を抱え込んでいる。
・言うまでもなく、ミサイル攻撃を前提とするなら、原発は停止状態より稼働中の方が、
 比較にならないくらいに「破壊力」は大きい。しかもこの場合、北朝鮮は核弾頭搭載の
 ミサイルを開発する必要はないのであって、通常のミサイルで攻撃を加えるだけで、核
 ミサイル攻撃に匹敵する甚大な被害を日本に及ぼすことができるのである。
・そもそも喧伝される北朝鮮のミサイルの脅威とは、一体何なのであろうか。結局のとこ
 ろそれは、国民の不安感を煽りたてるための単なるレトリックに過ぎない、と言わざる
 を得ない。北朝鮮が米国にミサイル攻撃をかける場合に、それを日本が集団的自衛権を
 行使して迎撃せねばならないといった「事例」それ自体、およそ検討に値しないことは
 明らかであろう。なぜなら、この「事例」が想定するほどに北朝鮮が理性を欠落させて
 いるならば、およそ原発の再稼働といった選択肢は、あり得ないからである。

中国の脅威と「尖閣問題」
尖閣諸島の国有化こそが、日中関係を劇的に悪化させる決定的な分岐点となった。すべ
 てをぶち壊したのが、当時の石原慎太郎・東京都知事が行った尖閣諸島にかかわる「爆
 弾発言」であった。石原は2012年4月、ワシントンでの講演で「東京都はあの尖閣
 諸島を買います」と、東京都として尖閣諸島を購入する方針を打ち上げたのであった。
 こうした石原特有のパフォーマンスは大きな反響を呼び起こし、東京都が設けた口座に
 は、わずか1ヵ月で10億円(最終的には15億円)を越える寄付金が集まった。
・そもそも、尖閣諸島と直接関係のない一地方自治体が、日本と中国という国家間の最大
 の懸案となっている問題に「介入」して同諸島の購入に乗り出すということ自体が、鋭
 く問い糺されるべきであった。
・石原の狙いはきわめて鮮明であったと言える。いみじくも彼は講演のなかで、「国が買
 い上げると支那が怒る」と述べたが、米国の対中強硬派の勢力を背後に置きつつ、まさ
 に「支那が怒る」ような事態を生み出す「仕掛け」に打って出たのである。すでに石原
 は2010年9月の中国漁船衝突事件の際に、海上保安庁ではなく「あれは軍隊(海上
 自衛隊)が出て行って追っ払ったらいい。それでそれが軍事紛争になるなら、アメリカ
 が、もっとそれを拡大したら踏み込んでこざる得なくなる」と述べて、「本当の軍事紛
 争」を引き起こし、そこに米国を「巻き込む」という構図を描いていたのである。
・石原の言動は、さらにエスカレートしていった。「尖閣諸島に自衛隊を常駐させるべき」
 「首相が自分で行ったらいいよ。尖閣諸島に」「尖閣諸島に船溜まりなどを作ることで、
 中国と戦争になっても構わない」と述べた。
野田首相は、APECの場で胡錦涛主席が「国有化反対」を強く主張したにもかかわら
 ず、わずかに二日後に閣議決定でもって尖閣諸島の国有化に踏み切ったのである。胡錦
 涛主席からすれば、問題は「自分のメンツをつぶされた」というレベルに止まらず、こ
 とは中国の体面そのものにかかわる事態となった。野田首相や長島補佐官たちの救いが
 たい歴史認識の欠如が、最悪の形で露呈されたと言えるだろう。
・尖閣諸島を契機とした今回の問題の核心は、米国の保守系紙が、「今日の日中両国の対
 峙状況は、日本の指導的ナショナリストである石原東京都知事によってもたらされた」   
 「彼は尖閣の購入が北京に対する挑発となることを知っていた」と鋭く指摘したところ
 にある。
・不測の事態さえ予測されるような今日の緊迫した日中関係をもたらした直接的な契機が、
 日本の側から「引き金を引いた」ことにあると米国は看做しており、だからこそオバマ
 大統領は安倍首相に対し、「挑発的行動をとるな」と厳重な警告を発したのである。
・石原都知事が煽り立てた「領土ナショナリズム」に対し、政界やメディアが冷静で批判
 的な対応をとっていれば、尖閣問題をめぐる事態の展開は変わっていたであろう。

憲法改正案の系譜
・「平和国家」と言いつつ、ここ十数年「平和ボケ」「一国平和主義」と言われて、「平
 和」は非難の対象になってきた。「戦後」と「平和」、この二つの言葉の共通項から
 「日本国憲法」が浮かび上がってくることは、誰しも否定できないであろう。 
・世界を見渡すとき「戦争」そのものは、いまだ、なくなっていない。「戦後」どころで
 はない、「戦中」の国がたくさんある。ところが、他国の平和に協力する義務があるこ
 とは多くの人々が認めるとしても、いかなる手段で平和を生み出すのか、その解答は日
 本だけでなく、多くの国々の課題となっている。 
・「憲法は米国がつくった」とか、「押しつけられた」との言説が後を絶たない。しかし、
 米本国政府が、あるいは国務省が憲法改正案の原案にかかわっていたという事実は、ど
 こをどう探しても出てこない。国務長官が、原案はGHQがつくったことを記者会見で
 知らされて驚いたという事実がすべてを物語っている。米国がつくったと言いつつ、そ
 れに対してなんの証明もできず、自己のイデオロギーに見合った結論だけを力まかせに
 拡散させている不道徳な言辞はそろそろやめるべきではないか。
・憲法改正案の原案は、米国ではなくGHQの手によるものであり、GHQの独断によっ
 て急遽、作成されたのである。しかしそれは天皇制を象徴として残し、そのために戦争
 を放棄する条項を加えて初めて成立した。
・日本政府がGHQの憲法改正案を参考にして草案の概要を発表した際に、二大保守政党
 の自由、進歩両党は、政府の草案要綱に「原則的賛成」を表明し、なかでも自由党は
 「これはわが自由党が発表した憲法改正案の原則とまったく一致する」と述べていた。
 その後、帝国議会では共産党を除き全員一致して憲法改正案に賛成票を投じているので
 ある。こうした事実を前にどうして単純に「押しつけられた」と言えるのであろうか。
・第二次世界大戦で日本と戦った連合国の多くの国々は、東京裁判で天皇が起訴されるべ
 きだと考えていた。しかし、マカーサーは、天皇制を残す憲法をつくることを望んでい
 た。ただし、天皇制をそのまま残すことには連合国の賛同を得られないと考え、政治権
 力を持たない「象徴」としての地位と引き換えに、軍事戦略として日本が二度と戦争を
 しない保障として「戦争の放棄」を憲法で定めることを考えたのである。 
・マッカーサーがGHQの部下に示した憲法草案のために三原則は、@天皇は最高位にあ
 ること、A戦争は放棄すること、B封建的な制度を廃止すること、であった。それに対
 し、私たちはあらゆるところで、日本国憲法の三原則は、@国民が主権者であること、
 A人権の尊重、B戦争の放棄であると教えられてきた。この落差を考える必要がある。
・平和憲法を単に「誇り」としてのみ認識するのではなく、その陰で忍従を強いられてい
 る沖縄を意識に取り組み、かつ憲法9条を「世界に類例のない徹底的な平和主義の憲法」
 と絶賛するのみではなく、「徹底した平和主義を掲げてきたことによって天皇の地位が
 守られ、沖縄の基地があった」と認識すべきではないだろうか。 
・自民党の改正草案は「美しい国土と自然環境を守」るとしている。そのこと自体なんら
 問題でないように感ずる人も多かろう。しかし、考えてみていただきたい。この世界に
 は、私たちの価値観から考えると、「美しい」とは言えない自然環境の下で必死に生き
 ている人々が無数にいるのである。しかもその人々は、自分の国は美しいと思い、誇り
 を持って生きている。日本語でも「住めば都」という言葉がある。それを自民党の憲
 法改正草案が日本国憲法から削り取った「自国のことのみに専念して」いることへの無
 自覚な貧しさ以外の何物でもないだろう。

「国防軍」の行方
・自民党の憲法改正草案の内容で、多くの国民の目をひいたのは、「国防軍」であろう。
 国を挙げての戦争、つまり総力戦、これからそんな戦争はまずない。これからは、戦争
 があったとしても「限定された戦争」であり、「低度の戦争である。米国が中心でない
 戦争、あるいは加わらない戦争もまずないであろう。国家と国家、なかでも先進国同士
 の戦争もまずないであろう。そんな準備、つまり仮想敵を先進国に求めての準備は、日
 本を含めてどこの先進国もしていない。
・それでは国防軍とは、何をするのであろうか。自民党の改正草案には国防軍は「国民と
 協力する」とある。「国民と協力する戦争」などあり得ない。戦争は軍隊がやるもので
 あり、国民が戦争に行けば国際法違反になる。
・戦争は政府が宣戦を相手国に宣言し、事前に通告しなければならず、しかも「陸戦の訓
 令を陸軍軍隊」のみに発しており、戦闘は一般国民は含まず、戦闘員のみに限ったこと
 になる。しかもそれ以外の者が戦闘に加わる場合は「戦争」でない、それ以外の「紛争」
 となる。従って、非戦闘員(民間人)が爆撃等にあった場合、「国際法違反」と言われ
 るのはそのためである。
・冷戦後も「戦争」は絶えないと言われるが、そのほとんどが国際法上の「戦争」ではな
 く、国際法上の手続きをとらないで戦闘行為(武力行使)を行った場合か、国家と集団、
 あるいは国内集団同士が行った紛争の場合である。

「国家安全保障」が意味するもの
・合衆国憲法は、連邦議会に「戦争を宣言する」権利を与えている一方、大統領には「陸
 海軍の最高司令官」、つまり戦争を指揮する権限を与えている。開戦宣言と戦争指揮権
 を別々にしているのは、議会と行政府の権力の分立を確保するためにほかならない。し
 かし、現実には議会が開戦宣言をし、大統領が軍隊を出動して戦争を行ったことは、憲
 法制定以来5回しかなく、それ以外の200回以上にわたる米国による「戦争」は、す
 べて大統領の判断で「戦争」をしてきた。もちろん、ベトナム戦争も議会の承認なしに
 行われている。
・トップダウン・集権政治の小泉純一郎首相は、イラク戦争の際に、いち早く米国の武力
 行使に「支持」を表明した。その後、この戦争を行ったブッシュ大統領に正当性がなか
 ったことが判明し、「支持」を表明した英国のブレア首相のイギリス議会ばかりでなく、 
 オランダ議会なども長時間かけて検証を行った。トップダウンの時代は終わったのであ
 る。それに引き替え日本はどうであろうか。小泉首相は自らの発言に対してなんの反省
 も示さず、国会もなんらの検証も行わなかった。これぞ「一人の最高指導者の下での統
 合」の象徴だ。
・「積極的」平和主義とは、平和主義とどう異なるのか、何が「平和主義」なのかという
 疑問が生まれてくるのであるが、そのものズバリの定義は残念ながら見当たらない。
・安倍首相の言う「積極的平和主義」は、実は国民受けしやすい具体的事例を羅列するだ
 けで、戦略的理念も、戦後史のどこを変えるのかといった歴史的視座がない。
・「国家安全保障戦略」は、「平和」否、「積極的平和主義」とまで、しまも永田町でし
 か通用しない概念を乱発し、メディアまで乗せて、事も無げに「最終的には、防衛力だ」
 と言い張る。言葉の軽さで政治は変えられる、否、すでに変えてきたという「自信」の
 なせる業なのか。
・われわれは、政府から「武力攻撃」があると煽られると、武力攻撃を受けることは、相
 手国に武力攻撃をかけることに繋がると解して、これに至らないうちに、いかなる「平
 和攻勢」をかけるかという日本国憲法の平和戦略をすっかり置き忘れてしまったのでは
 ないのか。
・憲法のみならず、安全条約もどちらも条文そのものはまったく変えずに、憲法9条も、
 安保の共同防衛を定める5条も、在日米軍基地を定める6条も、どちらも政府の「解釈」
 で完全に変わってしまったのである。政府あるいは有識者は、どこに統治あるいは被統
 治の整合性・正統性を求めることができるのであろうか。
・憲法と安保。いずれもこの国の基本法が、あって無きがごとくになっているとき、残る
 ものはなんであろうか。

「積極的軍事主義」の行方
・集団的自衛権の行使は海外における「戦争」を意味するのであり、「積極的平和主義」
 とは現実には「積極的軍事主義」をめざすものと言うべきであり、それを象徴的に示す
 のが、武器輸出三原則の撤廃にほかならない。安倍内閣は過去半世紀近く維持されてき
 たこの三原則そのものを撤廃し、代わって、「防衛装備移転三原則」なるものを策定し
 たのである。
・「防衛装備移転」と表現されているが、これは「武器輸出」を言い換えたものにすぎず、
 要するに「武器を輸出して平和を維持しよう」ということなのである。これほど、「平
 和」という言葉の欺瞞性が現れている例はないであろう。 
・なぜ安倍政権は、武器三原則を国是として掲げてきた日本を、かくも誤った道に導こう
 とするのであろうか。それは、イラク戦争の「起源」である湾岸戦争の本質を総括し切
 れていないからである。1990年8月のイラクによるクウェート侵攻による発生した
 湾岸戦争時に、日本は90億ドル(最終的には135億ドル)もの巨額を拠出しながら、
 当のクウェートからは、いかなる「感謝「」も受けられなかった。だが現実には、クウ
 ェートが日本を無視したのは当然のことであって、日本の支援額1兆1700億円のう
 ち同国に渡ったのは6億2600万円にすぎず、9割以上は米国に流れたからなのであ
 る。「カネだけ出して汗も血も流さない」とのトラウマを日本は抱え込み、その後の
 「国際貢献」論に拍車がかかることになった。   
湾岸戦争とは、イランに侵攻した侵略者であり、米国務省でさえ、「世界における最も
 野蛮で抑圧的な体制」と看做していた独裁者フセインが率いるイラクに対し、「兵器輸
 出諸大国」が膨大な可燃物質を売りさばき、その結果モンスター化したフセインが大火
 事(クウェート侵攻)を引き起こすと、モンスターを育てた自らの責任は棚上げにして、
 「共同で消火に努めるのは国際社会の責務だ」と、恥ずかしげもなく言い募った戦争に
 ほかならないのである。  
・すでに戦争から20数年が経過し、新たな外交資料や研究書が出ているにもかかわらず、
 日本政界やメディア、さらには「有識者」においてさえも、あいも変わらず「カネだけ
 出して汗も血も流さなかった」という低俗で情緒的なトラウマにとらわれ続けているこ
 とは、知的怠慢であり知的劣化と言う以外にない。
・日本はトラウマどころかまったく逆に、フセインに対して一切の兵器を供与しなかった
 ことに「誇り」を持つべきなのである。ところが、湾岸戦争の本質が、諸大国のなりふ
 り構わぬ兵器輸出にあったという厳然たる事実があるにもかかわらず、それを無視し、
 その愚を繰り返そうとするのが、安倍政権が踏み切った武器三原則の撤廃にほかならな
 いのである。   

「国際社会のルール化」とは何か
・米国は超大国として、「国際紛争を武力で解決する」ことを原則に戦後世界を秩序づけ
 てきた。従って、米国自身はもちろん国際社会も、米国が国際法に縛られず単独行動を
 とることを、事実上「例外」として許容してきた。ところが、今や中国が新たな超大国
 をめざして猛烈な勢いで台頭してきた。しかもこの中国は、あまりに急速に大国に成り
 上がった結果、国際社会での振る舞い方についていまだ「学習過程」にあり、既存秩序
 への挑戦と勢力の拡張に余念がない。
・国際社会は、この中国を普遍的なルールの枠内に組み込んでいかねばならないし、米国
 もそれを要請している。しかし問題は、その米国が、今なお「例外」の地位に固執して
 いるため説得力を欠いている。
・米国が享受してきた「例外」の立場に固執し続けるならば、それは結果的に中国の「拡
 張主義」を助長する結果を招くということなのである。つまり、中国を国際社会に組み
 込むためには、米国も「例外主義」を放棄して普遍的なルールの下に入り、それをもっ
 て中国に迫るやり方を取らねばならない。そして、米国と中国という超大国に挟まれた
 日本は、こうした方向においてこそ、その役割を果たすべきなのである。
・日本とフランスは首脳会議を経て、「警戒監視に使う無人潜水機」の共同開発で合意を
 見た。かつて無人飛行機も当初は偵察用であったものが、やがて無人攻撃機に展開した
 ように、無人潜水機が攻撃型の無人潜水艦に成長することは必至である。まさに日本は、
 無人機競争のただ中に入ろうとしているのである。ところがフランスは、中国と密接な
 関係を維持して兵器の売り込みに躍起である。日本が「防衛装備」で軍事協力を深める
 フランスとイスラエルが、兵器輸出によって中国の「軍事大国化」に手を貸し、その脅
 威を増大させているのである。これほど馬鹿げた構図があるだろうか。つまり、日本が
 本格的に参入しようとする兵器市場は、決して国際社会の平和に貢献するどころか、ま
 ったく逆に緊張と不安定さを増大させるのである。日本がなすべきは、改めて武器輸出
 三原則に立ち戻り、紛争を惹起する兵器輸出を規制し、紛争が起こった場合には責任を
 問うことができるような、「兵器輸出責任原則」の確立こそ努めるべきである。
・今日のように「安全保障環境が悪化」すればするほど、憲法9条に基づいた武器輸出三
 原則、宇宙の平和利用原則、原子力の平和利用原則、非核三原則、そして集団的自衛権
 は違憲であるとする「専守防衛」原則などの平和諸原則こそ、「国際公共財」として日
 本が世界にアピールするべきなのである。 
・憲法9条をもつ本土への復帰にもかかわらず、沖縄の「基地の島」としての実態は、米
 軍支配下のそれと大きく変わるものではなかった。なぜなら、復帰時に日米両政府間で
 交わされた在沖米軍基地の使用条件に関する「5.15メモ」によって、米軍には実質
 的に、復帰前と同じ沖縄の基地の自由使用の権限が与えられたからである。
・沖縄に過大の犠牲を押し付ける「沖縄タダ乗り」としての安保体制の構造が改善される
 どころか、さらに強化されようとしている。言うまでもなく、辺野古に予定されている
 新基地は、単なる普天間基地の「移設」ではなく、新たな恒久基地の建設を意味してい
 る。
・恒久基地の新たな建設は、今世紀に渡って沖縄が「基地の島」として固定化されること
 を意味している。安倍首相が「日米対等」をめざして集団的自衛権に踏み込むというの
 であれば、本来ならば、「沖縄タダ乗り」に依存する安保体制のあり方の、抜本的は変
 更が提起されなければならない。

いま、憲法を改正する意味
・私たちは、明治憲法の下で国を開いたが、結局は「富国強兵」国家になった。日本憲法
 下でも結局は、「富国強兵」国家になっている。
・私たちは無意識に「国際化」とは、国を開いて外に出てゆき、日本のために貢献し、帰
 国とともに国を閉じる、そういう国柄になってしまった。日本のために世界で活躍する
 ことが国際化と理解すると、外国人が日本に来ると日本に貢献することが当然と考える。
・「中国の脅威」は、中国から見れば「富国強兵」の先輩の日本に脅威を感じているので
 はないのか。良きにつけ悪しきにつけ、日本と中国はあまりにも価値観が似過ぎてしま
 ったのだ。お互いに「自国のことのみに専念して他国を無視」してきてはいないのか。
 
「安全保障」認識の転換を
・武力攻撃事態法を読む限り、日本が武力攻撃を受けることが前提になっているが、日本
 はそもそも80年前に外国を侵略した経験はあるが、外国から日本を侵略してきたこと
 は、13世紀にモンゴル帝国の「元寇」が侵略してきた以降、その後7百数年間は侵略
 を受けていない。
・いまの日本の首相が「積極的平和主義」を叫びつつ、集団的自衛権や憲法改正を志向し
 ており、昨今の中国・韓国との関係から、国民が日本が「戦争国家」に向かっていると
 危惧し始めているようだ。しかし、こんな時代にあって現実を直視しつつ、大きな歴史
 の流れのなかで、何が問われているかも見過ごしてはならないだろう。
・戦争や軍事力ばかり強調している権力者は、実は心ひそかに戦争を望んでいる野蛮人だ
 と見られる時代だ。もはや、「英雄」などではない。制度の軍事化を進め、あるいは軍
 備を強化する一方で、「平和国家」を標榜する指導者は、文明化されていない、野蛮な
 指導者だと見られて当然だ。

あとがき
・今回の集団的自衛権の議論では、なにかと武力攻撃を受けた場合ばかりが強調され、攻
 撃を受ければ、われわれも武力攻撃する事態となることは議論にもならなかった。しか
 し、われわれが侵略を受けた経験は「元寇の襲来」の13世紀以来700年、一度もな
 いのである。しかも、われわれの議論している安全保障は、「国家安全保障」という軍
 事力による安全保障であり、70年前に米国が導入した政策にすぎない。しかも米国を
 中心とした軍事力による安全保障が意味を持たなくなりはじめたことは、昨今のアフガ
 ニスタンやイラクの事態を見れば明白である。
・そればかりでなく、いまや旧い政治家や戦争屋が想像していなかった脅威や危険が、全
 世界を覆いはじめている。じわりじわりと地球環境が悪化し、日本でもいよいよ四季が
 なくなり「二季」になりだしたことを誰しもが感じていることだろう。これは一時的現
 象ではなく、しかも、この事態の改善に向けて政策を実行しても、状況を改善させるに
 は長い時間が必要としよう。つまり、これこそがいまや人類最大の「脅威」であり、喫
 緊の解決が求められている課題なのである。
・安倍政権は軍事的安全保障に専念し、政府もスマディアも安全保障と言えば軍事力によ
 る国家安全保障を安全保障のすべてだと見まがい、はやくも亜熱帯と化したかのような
 梅雨時に、こぞってクールビズを、しかも経済効果が上がったとまで称賛し、宣伝につ
 とめる現実感覚である。
・日本の現今の政治の現実が世界のすべてではないこと、しかも国家単位では解決できな
 い時代に入ったことを多くの人々が自覚しはじめている。世界を知り、歴史を学んでき
 た人々は、集団的自衛権を法認しようとすることが、憲法に違反し、司法審査に堪え得
 ず、その結果が法的不安定につながることを十分に知っている。政権を握る権力者にと
 って法を変えることは容易であっても、その強権を維持することは不可能に近い。剣に
 よってたつ者は、剣によって滅ぶと言われるが、これぞ自明の真理であろう。