歴史からの発想  :堺屋太一

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この本は、いまから38年年前の1983年に出版されたものである。
歴史的に見れば、過去の歴史においても、いく度か長期にわたって社会が停滞した時代が
あったという。そのときの歴史上の出来事や、登場人物の処し方などを見れば、現在の停
滞する社会の突破口のヒントになるだろうというのが本書の内容になっている。
ただ、「歴史は繰り返す」とよく言われるが、著者は、歴史は不可逆的であり、同じ情況
が繰り返されることはないとしている。しかし、それでもなお、歴史には類似の事件が起
るから、現在の政治や経営の参考になることが多いのだという。ただ、歴史は、短縮され
単純化されているので、史上の人物の立場をひどく安易に思いがちになるので、より一層
注意深く読む必要があるとしている。

私がこの本のなかで、面白いと思ったのは、「作物人間」と「雑草人間」の例えだ。
作物人間は、育ちやすいように用意された環境に種蒔かれ、耕作者の庇護のもとで大切に
育てられた人間のことである。そして、人々に期待通りに秀才になって、自らを育てた現
体制のために役に立つようになる。
一方、雑草人間は、人工的に種蒔かれることなく、自ら芽生え、自ら育つ人間のことだ。
そして、雑草人間のほとんどは、生涯、他に人間から関心や注目を集めることもなく死ん
でいくことが多い。しかし、ごくまれに、自然に生え育った雑草であるが故に、人工的な
育成以上に珍重がられる者もある。
このように見ると、作物人間のほうが、圧倒的に有利であることは間違いないだろう。し
かし、作物人間は、耕作者の手入れがよく行き届いている耕作地内で育っている間はそう
であるが、耕作者の手入れが行き届かなくなり、ひとたび耕作地に雑草人間が忍び込むと、
作物人間はひ弱なため、たちまち雑草人間に占領されてしまうというのである。
このことを現代の社会に当てはめると、なかなか面白いことが考えられるのではないかと
思えた。

もう一つこの本の中で興味深かったのは、「女房役」についてである。著者は、歴史上、
一番すばらしい女房役は、豊臣秀吉の実弟であった豊臣秀長であったと、秀長への評価が
とても高い。その高い評価の一番の理由は、秀長は決して自ら次期トップになろうなどと
はせず、女房役に徹した点だという。
私はこれを読んで、どういうわけか菅前首相のことが、頭をよぎった。菅前首相は、安倍
政権の官房長官のときは安倍首相の「女房役」としてとても評価が高かった。そのまま
「女房役」のままで終われば、豊臣秀長のように歴史に名を残すような「名女房役」だっ
たと言われたかもしれない。しかし、女房役に徹し切れなかった。まわりの声に踊らされ
て、今度は自分が首相になった。その結果、無念の退陣劇となってしまった。
石原都知事時代の猪瀬副知事についても同様なことが言えるのではなかろうか。猪瀬さん
も「女房役」のままで終わっていれば、「名女房役」だったと評価が高いままだっただろ
うが、周囲の声に踊らされて今度は自分が都知事になってしまった。これまた、みっとも
ない退陣劇となってしまった。
こういう例を見ると、確かに豊臣秀長ほどの「名女房役」というのは、なかなか見当たら
いというのも納得できた。


はじめに
・人類の技術は常に変化する。人口も資源の情況も自然の環境も年々歳々変動する。しか
 もその変化はすべて不可逆的でさえある。一つの技術が進歩し普及すれば、あとである
 時それが衰え忘れられたとしても、技術進歩の以前に戻るものではない。一つの技術の
 進歩はそれ以前の同目的技術を失わしているからである。
・現代の人間には古代の道具だけで巨石を積み、四千年間不等沈下を起こさないピラミッ
 ドを造る方法が分からない。算用数字を使わずにソフィア寺院の構造計算することも、
 鉄の道具なしにインカの石積みを築くこともできない。一切の動力を用いず一年以内に
 大阪城の天守閣を完成させることすらできなくなっているのだ。
・同じことは人口や資源についてもいえる。一旦増加した人口が急減すると元の社会に戻
 るわけではないし、普及した資源が枯渇すればそれ以前とはまったく違った惨めさが出
 現する。
・要するに、技術や人口、資源に関する変化は常にあり、かつ不可逆的なのだ。従って、
 歴史の上で同じ情況が繰り返されることは絶対にあり得ない。その限りにおいては、歴
 史は段階的に発展するのであって、繰り返すものではない、というのは完全に正しい。
・「歴史は繰り返す」というのは、異なる情況の中でも相似た事件が起る、ということで
 あり、その類似性の範囲内で歴史が現在の政治や経営の参考になる、という意味である。
 そしてその限りにおいては、これまた正しいといえる。
・何故なら、技術や人口や資源の情況は変化しても、もう一つの歴史の要素である人間の
 本性はそれほど急激に変わることがないからである。人間は二本足で歩き、食事と睡眠
 を長く欠くことができない動物である。強欲なくせに怠惰であり、恐怖に弱いくせに無
 鉄砲である。自らの利益を正義と信じ易く、他人の評判を気にする半面、嫉妬深い。い
 つも有利な方に加わりたいと考えているにも拘わらず、大義名分に従って行動する者は
 多いはずだと信じる浪漫を持つ。性欲旺盛なのは禁欲ぶりたがるし、名誉を望みながら
 つつましやかに振る舞おうと試みる。一人になれば弱いが衆を頼めば大胆だ。
・18世紀末にはじまった産業革命以来、人類は資源エネルギーの開発とその加工におけ
 る生産性を急速に拡大し、より多くの資源エネルギーを使い易い製品の形で人類に提供
 して来た。長い間、人類は前の世代よりもより多くの資源エネルギーに恵まれてきた。
 このため、産業革命以後の工業社会では、資源エネルギーを多消費することが恰好よい
 と考えられた。
・ところが、1970年代の二回の石油危機によって、人々は石油をはじめとする資源エ
 ネルギーの豊富さに疑問を持ちはじめた。資源エネルギーの豊富さに疑いを持つと、
 「豊富なものを沢山使うことは恰好のいいことだ」と考える人間性からして、「資源エ
 ネルギーを沢山使うことは本当に格好いいことなのだろうか」という疑問が生まれて来
 るのもまた当然である。
・今、別の新しい文化が生まれようとしている。それは、これから豊富になるもの、つま
 り「知恵」を多消費することを格好よいとする「知恵の文化」である。「知恵」は、教
 育や情報機関の普及ばかりではく、コンピュータのような「知恵」を蓄積し、加工し、
 流通させる機器の進歩と普及によっても、急速に増加しているからだ。
・歴史を読む者は、何年にもわたって醸成され決行された事件の顛末を数分、数十分の間
 に見ることができる。何十年にわたる偉人の業績を一日のうちに読むことも容易だ。そ
 こには、この世をまぎらわす身辺些事を除外除去した時代の本流がズバリと描かれてい
 る。このお陰で、事象や人物を短時間で理解でき史上の多くの事例を知ることもできる。
・こうした歴史の「短縮」と「単純化」は、単に能率を高めるばかりでなく、世の大きな
 流れを巨視的に見ることがいかに重要かを教えてくれるに違いない。
・しかし、巨大な歴史の目から見れば、やはり誤報は誤報であり、嘘は嘘だ。ここで重要
 なのは、偽りによって起った人々の行動と社会の動向という「真実」だけである。歴史
 は、誤報や嘘も世の中を動かし得る事実を否定しないが、それをも呑み込んで進んで行
 く世の本流だけが、真に重要なものとして描き出している。歴史を注意深く読む人々は、
 世の本流を捜し当てる巨視的な目が、何ものよりも貴重であることを感じるはずだ。
・歴史の読者は、その結果を知る故に、最後の勝者をはじめから美化し、最終的な成功例
 を当然そうなることのように考える。そこには、身辺些事に悩まされつつ分からぬ結果
 に怯え続けた「歴史に生きた人間の苦悩は伝わって来ないのだ。
・現実に生きる人間が悩む苦しむ問題のほとんどは、答えのないことだ。人生とは常に完
 全な正解のない問題を相手に「よりよい方」を模索しなければならない旅である。だが、
 歴史にはあまりにも明確な正解が知れ渡っている。それ故、歴史の読者は、自らの置か
 れている現実に比べて、史上の人物の立場はひどく安易に思いがちである。
・歴史のなかで繰り返された人間性を知るためには、歴史に生きた人々と同じ立場に立っ
 て注意深く読むことが大事だ。歴史は短縮され単純化されているだけに、より一層注意
 深く読みたい。

知の宝庫「戦国」を読む
・15世紀の後半、日本史は奇妙な戦乱を記憶している。1467年から77年にかけて
 戦われた「応仁の乱」である。二本の歴史のなかで、応仁の乱ほどわかり難い事件はな
 い。原因も各地の戦闘経緯もよく呑み込めないし、決着も不明確だ。しかも、記録はす
 べて文学的粉飾と中世的誇張に満ちている。一般には、この乱は、当時の中央政権であ
 った足利幕府の将軍位継承争いに政権内部の有力者たちの権力闘争が絡んで大戦争に発
 展したもの、とされている。
・だが、重要なのは、この大乱の結果、足利幕府の統治が実質的に終焉したという事実で
 ある。それは、単に時の政権が倒れたというのではなく、中世的統治機構そのものの崩
 壊であった。その意味で、「応仁の乱」は、徳川幕府体制を消滅させた幕末維新の動乱
 と類似した歴史的意義を持っている、ともいえるだろう。逆にいえば、足利幕府内部の
 権力闘争が、統治機構全体を倒壊させるほどに、体制自体が老朽化していたわけだ。
・乱世においては「下剋上」は必然的方向なのだ。そして一旦それが起ると、伝統や家格
 の値打ちは急速に失われ、ますます下剋上が起こりやすくなる。人間が、自ら持てる実
 力を最大限に発揮しようと考える自由競争社会が出現するわけだ。「戦国時代」とは、
 まさにこの自由競争社会が出現した時代である。
・戦国時代の「国盗り」たちの処世と才能には、財閥解体や創業者の追放中に社長となり、
 いつの間にか人脈を固めてオーナー然と居座った企業エリート出の戦後社長の面影があ
 る。しかし、この種の国盗りで「戦国時代」のあとまで家の続いた者は意外と少ない。
・15世紀前半までの日本は、平安・鎌倉の昔とさして変わらぬ貧困と停滞のなかに沈潜
 していた。国土の開発は限られた範囲でしか進行しておらず、畿内でさえも雑木林と湿
 地が広がっていた。土地生産性は著しく低く、農作物の種類もすこぶる少なかった。
・もちろん、科学技術は全く原始的だった。工業技術は幼稚で医学知識は皆無に等しい。
 金属製品は武具か祭器の類に限られ、医薬はほとんどなかった。土木技術も未開で、治
 水や灌漑の事業もほとんど行われていなかった。これらの点では、大仏を建立し巨大な
 寺院を建設した天平時代よりもむしろ退歩していたかのようでさえある。
・治安は著しく悪く、天災の被害は大きかった。しばしば襲ってきた飢饉によって、京の
 都でさえも多数の餓死者が出ることも珍しくなかったが、それを救済する政策はほとん
 ど採られることはなかった。足利幕府の高官たちがなし得たことといえば、ひたすら仏
 の加護を祈る程度である。
・要するに、15世紀中頃までの日本は、典型的な中世的貧困と因習的無知のなかにとど
 まっていたのである。16世紀の戦国時代を考える場合、何よりもまず、それに先立っ
 た時代がこんな惨めで不安な世の中であったことを想起する必要がある。16世紀にお
 ける戦乱による損失も、一世紀前の貧困と治安の悪さがもたらした被害に比べると、は
 るかに小さなものだったのだ。
・ところが、15世紀中頃から、日本の技術は進歩し、経済が成長し出す。遣明船や倭寇
 が持ち帰った明、高麗の新技術がようやく日本人に消化さえ出したためである。
・15世紀後半から16世紀初期にかけて、こうした新技術の採用と開発事業に取りくん
 だのは、主に各地の豪族層であった。そこに、彼らが富を蓄え勢力を伸ばす経済的基盤
 があったのである。
・15世紀末から16世紀初めにかけての鉄製品の普及は急速で、わずか数十年の間に、
 ごく限られた階級だけの所有物であった鉄鋼の刀槍があらゆる農民の手に行き渡る。こ
 れがのちに一向一揆の武力となるのだが、同時に農業生産を飛躍させた。鉄製農具の使
 用で、山地や堅い地質の土地が開墾されたし、深耕による収穫の向上も図られたのだ。
・「応仁の乱」前後から16世紀の10年代の至る「戦国時代」初期、中国や朝鮮からの
 新技術得て進められた産業経済の発展は、明治から大正初めに欧米の新知識によって促
 されたそれに似ている。
・16世紀初頭から太閤検地の行われた16世紀末までの間に、日本の農業生産力は二倍
 ないし二倍半にも増加したのである。一世紀足らずの間に、農業生産がこれほど伸びた
 例は、産業革命以前には世界に珍しい。
・しかし、16世紀の前半から中頃にかけて最大の成長を遂げたのは工業であったろう。
 陶磁器、繊維、薬品、醸造、木工などの技術と生産高は大いに伸びた。なかでも著しい
 のは前時代から引き続いて高成長した金属工業で、ポルトガル人によって伝えられた
 鉄砲をまたたく間に全国に大量普及させたほどの鉄生産の基礎が準備されていたのだ。
・16世紀末の日本は、疑いもなく世界最大の鉄砲生産国であった。関ケ原の合戦には、
 東西両軍併せて5万挺の鉄砲が装備されていたというが、これほどの数の鉄砲が一戦場
 に結集されたことは、ナポレオン戦争以前には世界になかったとされている。
・15世紀末までの日本は、厳密な意味での村落自給体制にあった。ごく少量の高級品を
 除けば、塩や一部の薬品以外に長距離交易されるものはまったくなかった。通貨は、中
 国製の宗銭、明銭が主で、流通量はきわめて少なかった。
・しかし、16世紀の30年代からは、余剰農産物と工業製品の急増で、流通市場に出さ
 れる物品の種類と量とが飛躍的に増大し、古い「座」の商人の取り扱い能力をはるかに
 上回るようになった。
・大阪城を見たポルトガルの宣教師たちは、これを「コンスタンティノープル以東におけ
 る最大最強の城郭」と評している。この城が彼らの目にも信じ難い規模と機能を有して
 いたことを示している。当時の日本は、建設技術の上でも西欧に優るものを持っていた
 わけである。
・16世紀後半、境や博多などの商人は、中国、高麗、琉球はもとより、多くルソン、シ
 ャム、マラッカ、バタビィアへも進出していた。16世紀末には、これらの地域に相当
 な数の日本人居住者がおり、時には一つの政治軍事勢力ともなった。
・日本商人の用いた船舶は、ヨーロッパのそれほどに大きくはなかったが、機動性と集団
 行動に優れ、鉄砲と刀槍を持つ浪人と水夫で武装されていた。16世紀後半の日本人は、
 大航海時代のヨーロッパに劣らぬ武力と活力と冒険心の持ち主だったのである。
・16世紀の後半に日本が示した技術、経済、文化の各面にわたる大成長は、目を見張る
 ほどのものがある。これによってもたらされた利益と幸せを考えれば、戦乱による被害
 も取るに足りなかったかもしれない。
・戦後の日本人は、戦争を恐怖するあまり、戦争があれば庶民は不幸になると決めてかか
 る傾向があるが、今日の感覚で16世紀の人々の戦争観を考えるのは正しくない。
・貧困と無知と不衛生と治安の悪さによって、人命がいとも簡単に失われた時代の記憶が
 生々しい「戦国時代」の人は、現代人とはよほど違った死生観を持っていた。その上、
 日本の戦争は、武士同士の争いであり、農民町人を巻き込むことも少なかった。もちろ
 ん、戦場になった所では田畑が荒らされたり家屋が焼かれたりもした。だが、当時の朱
 明の住居はきわめて粗末で、焼かれたとてさほどの損失ではなかったのだ。
・「戦国時代」の人々は、戦場に向かう軍列を、デモ行進を見るほどの気楽さで見送った。
 ときには、悦び勇んでそれに加わる農村の青少年もいた。戦場で一働きして足軽にでも
 取りたてられれば、うまい就職をしたことになったのである。いや、それどころか、合
 戦そのものが庶民の楽しい見せ物でさえあった。
・合戦のあとはまた、庶民の貴重な稼ぎ場となった。死傷者や敗者の武具・着衣を奪うこ
 とができたからだ。逃げ遅れた敗将を捕えたり殺したりすれば、多額の賞金が得られる
 という幸運もあった。このため、合戦のあとには必ず、農民の落人狩りが行われた。
・「戦国時代」の庶民は、今日の人々が考えるような一方的犠牲者でもなければ、しおら
 しい被支配階層でもなかった。彼らもまた、一朝事あればとねらう活力ある冒険者だっ
 たのである。武士と百姓、大名と兵の区別がなく、水飲百姓の子が太閤になれた時代な
 のである。
・おそらく、この時代の若者たちはみな、近隣の村落から出て一城の主や豪商となった人
 物の名を、一つや二つは聞いていたに違いない。そしてそれに倣おうと野心を燃やす者
 も大勢いたはずでる。
・こうした人々が、何物にも囚われずに競い合ったことが、すばらしい進歩と成長を生ん
 だのである。自由競争こそが、進歩と発展には不可欠な要素なのだ。
・これほどに成長した日本が、真の近代化を果たし得ず、再び停滞と拘束の封建時代に逆
 戻りしたのはなぜか。あの愚かしい朝鮮への侵略戦争によって、民族的活力と国富を消
 耗したことである。なぜあの愚行が行われたのか。
・今日までの歴史家の多くは、朝鮮出兵を豊臣秀吉の個人的野心と無知による誇大妄想の
 せいに帰している。だが、いつの場合も失敗した事業にはただ一人の責任者しか出ない
 ものだ。いかに秀吉が独裁者であり、カリスマ的権威を持っていたとしても、前後五年
 にわたり二十万近い大軍を送る大事業がただ一人の力で実行できたはずがない。そこに
 は、強力な推進力と避け難い事情が存在したはずである。
・おそらくそれは、急成長を遂げてきた日本社会と豊臣政権の成長機構そのものであった
 ろう。豊臣政権には、急速な成長を続けるための機構ができあがり、成長体質があふれ
 ていた。それが、全国統一の結果、働き場所を失ったため、組織的な不満が充満するに
 至ったのだ。豊臣秀吉は、自己の政権を築き上げるのに大功のあった成長機構、軍事征
 服機構を弾圧することができず、次の働き場所を朝鮮侵略に求めたのであろう。
・16世紀末において、世界一流の水準の技術と経済力を持っていた日本の政権が、軍事
 的拡大という従来のパターンの続行以外に成長継続の方法を思いつかなかったことはま
 ことに悲劇的である。だが、そのあとを継いだ徳川幕府が、成長要素の大幅な粛清によ
 る停滞社会への回帰へ走り込んだこともまた不幸であった。戦国末期の日本人は、全く
 新しい成長の方向を遂に見出し得なかったのである。
・この世の人間にも、社会体制との関わりにおいて、二分類できる。いわば体制の作物的
 人間と雑草的人間である。作物的人間は、有力な親や先輩によって育ちやすく耕された
 環境に植え付けられ、その庇護のもとに苦労なく優れた教育を受け、親譲りの資産や地
 位を肥料として既成の体制のなかにでぬくぬくと伸び、やがて人々の期待通りの秀才と
 なって機能を発揮し、自ら育成した耕作者、つまり現体制のために役に立つ。幼年期か
 ら未来が約束されている良家の子女や有力者の子弟、またはその養子や女婿など「プリ
 ンス」といわれる者がそれである。欧米の言葉でいうエスタブリシュド(確立された階
 級)がそれに当たるだろう。
・今日の日本には、この種の人間はごく少ない。政財界の名門といわれる人々でも、二〜
 三代も前に遡ればただの雑草というのがほとんどである。
・イギリスの名門は八割までが18世紀以前からの上流階級だといわれているし、フラン
 スでも今の最有力家族二百のうち百六十余家はナポレオン一世当時の最有力家族の血を
 継いでいるという。
・新興の自由主義国アメリカでもこの点はさほど変わらない。どんなに金持ちになっても
 三代を経なければ本当の上流社会には入れない。
・雑草の子弟が大企業の社長になったくらいでは、改良品種の仲間になど絶対に入れるも
 のではない。 
・こうした改良品種の純粋作物のほかにも作物人間はいる。まだ一人前に育たぬ前に実り
 よい将来を見越して選別され、保護育成の対象に加えられた人々だ。欧米人はこれを、
 多少の皮肉と軽蔑の意味をこめて「選ばれた人」つまりエリートと呼ぶ。本格的なエス
 タブリシュドのいない日本では、このエリートが作物人間の主流をなしている。累代の
 育成で品種改良を経ていないエリートは、いわば促成作物だ。
・こうして選び抜かれ、作物の地位を得たエリートの世界にも競争はある。耕作者は豊か
 な実りの期待できない作物、予定外の方向に伸びて群れの秩序を乱す草木を情け容赦な
 く引き抜き、間引いていく。いつの世にもエリート脱落者は出るのである。
・しかし、耕され肥料を置かれた豊かな土地での競争はあくまでも作物同士の争いである。
 耕作者が勤勉有能である限り、彼らは雑草の侵略からは守られている。
・耕作者、体制の求めるのは全体としての収穫の増加であり、耕作の手間の軽減だ。一本
 だけが巨大になるのは全体の収穫を減らす恐れがあるばかりでなく、手入れもしにくく
 なる。それでも、特別に巨大化したもの、特殊な個性を持つものは、さらに進んだ品種
 として次期の種子取り用に残される可能性もないわけではない。だが、さして差のない
 品種のなかから短期間のテストだけで選ばれたエリートに、そんな期待を持つ耕作者は
 いない。当然、伸び過ぎるエリート、個性的なエリートは間引き捨てられる運命にある。
 作物の田畑で生き残り実をつけるエリートは、平均的な優良性と秩序に対する従順さを
 持っていなければならないのである。
・16世紀の戦国時代、華やかな戦国絵巻に飾られたこの時代ほど、雑草人間が育つのに
 適した時代は日本史上ほかにない。応仁の乱以来、室町幕府の権威と実力は消滅し、世
 の体制は崩壊した。つまり、日本社会の作物を守り育てる耕作者が不在になってしまっ
 たのだ。
・16世紀の戦国時代は、室町幕府の守護地頭体制が崩壊したという意味ばかりでなく、
 経済成長によって新しい産業分野が大きく開かれたという意味でも、雑草的人間の?栄
 する基礎条件を備えていたのである。
・事実、15世紀頃から全国各地に雑草型人間が大量に発生する。当初彼らは型通りに畔
 に生えた。体制の手の及ばぬ倭寇や高野聖の行商人である。さらに新しい産業・商品が
 生まれるに従って新分野にも繁茂した。
・一旦、体制の耕地内に雑草が生え始めると、ひ弱な作物は対抗できない。守護大名の家
 中でも社寺の組織でも、徐々に雑草的実力派が重きをなした。これが応仁の乱以降の体
 制の力の弱まりによって一挙に顕在化する。
・領地経営の実権は領主から家老に、家老からそのまた家臣へと移っていく。そして、実
 力実権を得た家臣たちが主家を乗っ取って自ら大名となっていった。体制派の耕地が雑
 草どもに占領されたわけである。
・雑草的人間の魅力、それは織田信長に典型的に見られる自由な発想、大胆な決断、そし
 て猛烈な実行であろう。そこには、耕作者、つまり体制の管理と干渉を激しく拒む自立
 性がある。それ故、すべてに体制派と衝突しやすいが、半面、旧弊にとらわれず新しい
 ものを結集する力を持つ。
・だがしかし、いずれの場合にも、雑草はまず、雑草同士の争いに勝ち抜かねばならない。
 そして、それに成功する確率は、人間の手で育てられる作物よりははるかに低い。その
 代わり雑草は、限りなく伸び育つこともできるのである。
・この1980年代には、雑草的人間が大いに成功する可能性はあるだろうか。もちろん
 ある。 それも、60年代、70年代よりはるかに高い、と私は思う。
・でも、80年代に雑草が最も伸びるのはどの分野だろうか。おそらく原野、つまり体制
 の未整備な新分野であろう。それは、大きな「無形価値」を生む所であるに違いない。
・豊富低廉な資源エネルギーの大量使用によって高度成長を続けてきた日本経済は、著し
 く資源エネルギー多消費型になっている。産業ばかりか生活もそうだ。だが、昨今の石
 油不足エネルギー高価格化は、この形態の経済成長を許さなくなっている。今後の日本
 経済の発展は、資源エネルギーの使用量を増やさず価値を高める無形価値の創出によっ
 てこそ行われるであろう。つまり、無形価値を創る半産半文の文化産業が大きく伸びて
 いくに違いない。
・日本の歴史をつぶさに調べれば、この国の人々の体験からほとんど欠落しているものが
 三つあることに気付く。それは、本格的な籠城戦、計画的な皆殺し、そして人民の武装
 抵抗、つまりゲリラ戦である。世界史的常識の尺度で見た場合、この三つは日本史のな
 かにほとんどない。
・外国では、数カ月程度のものは「籠城」とはいわないのが普通である。「本格的な籠城
 戦」というのは少なくとも一年、一般には収穫期を二度以上過ごしたものをいう。
・計画的に組織された皆殺しも日本史にはほとんどない。日本では、戦いに敗れ、亡国落
 城の悲運に見舞われても、生命を失うのは殿様とその一族の少数の重臣たちだけで、
 不運な戦死者を別にすれば、中堅以下の武士はたいてい助命され逃亡する。ときには、
 城主・大名でさえ生命ばかりは許されて入道して余命を全うすることができることもあ
 った。
・このことは現代に至るまで日本人の戦争観を支配している。太平洋戦争中に、日本軍は
 かなり大量の現地民を殺害したが、そのほとんどは将兵の逆上が不本意な手違いによる
 もので、計画的組織的なものではない。
・ところが、ヨーロッパや中東や中国では、計画的に組織化された皆殺しが、何百回とな
 く繰り返されている。敗軍の将兵はもちろん、非戦闘員たる農民・市民・女・子供に至
 るまでを殺し尽くした例がいくらもある。
・日本と諸外国とのこうした違いは、おそらく日本の特殊な自然環境と社会条件から生ま
 れたものであろう。四面広い海で囲まれたこの島国は、古来、本格的な異民族の侵攻を
 受けたことがない。有史以来、日本が受けた異民族の組織的軍事侵略の唯一の例は、
 「元寇」であろう。
・したがって、日本人が経験した戦争は、ほとんどすべて国内戦争であり、同一の民族の
 なかで共通の倫理観を持つ者同士が争うものであった。
・異なる民族、異質の倫理観(そのなかには宗教、思想、生活慣習等の一切が含まれる)
 の間の戦いと、共通の倫理観を持つ均質的民族同士の争いとは、全く違う。前者は革命 
 戦争とすれば、後者は党内の派閥争い程度しかない。
織田信長という人物の言動と業績を見ると、この男が本当に日本人であったのかどうか、
 疑いたくなってくる。彼の評価と判断と行動は、ことごとく日本人の心情的伝統と常識
 とを裏切っているのである。
・ここでいいたいのは均質的な日本民族のなかにも、こうした非日本的な人物が出て来な
 かったということだ。そしてその人物が、一時期、日本全国の半ば以上を征服すること
 に成功したのである。それはやはり、この男の生きた時代、16世紀後半の戦国時代が
 多分非日本的な時代であったからであろう。
・信長は、あらゆる常識を疑い、すべての通説を認めなかったものである。伝統、慣習、
 制度や体制、常識や通説、これらの既成概念から自由であるためには、それに捉われず
 に自ら考える頭脳が要る。その点、織田信長はすばらしく柔軟で、すばらしく聡明な頭
 脳を持っていたに違いない。
・しかし、ものの見方や考え方において、既成の価値から自由であり得ても、行動におい
 てそれを実行することは難しい。世の慣習や常識に反して行動すれば、当然周囲の者か
 ら奇異に目で見られる。批判、悪評、嘲笑を受ける。
・慣習を無視した服装や言動を、もり役の平手政秀は腹を切って諫めたほどである。家臣
 たちの悪評も著しく、一時は信長を廃して弟を立てようとする勢力が有力になった。信
 長は謀略を用いてその弟とこれに与した重臣たちを殺した。世間の嘲笑も受けた。領主
 に地位を継いでから数年間、信長は「尾張のうつけ殿」といわれた。
・織田信長の「立派」なところは、こうした批判、悪評、嘲笑に一向に動じなかったこと
 である。一介のサラリーマンでも周囲の批判風評に超然としていることは並大抵ではな
 い。まして、信長のように若くして家督を継いだ大名にはでき難いことだ。今のサラリ
 ーマンなら少々悪評を得ても、左遷されるか、せいぜいクビになる程度で済むが、大名
 の場合は生命が危なくなる。大変な勇気のいる日常だったに違いない。
・織田信長の人生で、さらに驚くべき点は、こうした既成概念から解き放たれた考え方と
 行動を、織田家の全組織を挙げて政治的軍事的に実施していったことである。自分一人
 の言動ならば、地位と生命を捨てる覚悟さえあればどんなことでもできる。だがこれを
 軍事行動や政治行動として実施するとなれば、何百人、何千人の人々にも行動させねば
 ならない。
・既成の概念に捉われない「価値からの自由」。それを徹底した織田信長が、奇妙な自己
 流の考え方を実行し、多数の部下を納得せしえたのはなぜか。それはおそらく、既成概
 念に替わる明確な尺度を示し得たことであろう。つまり、信長の言動は、一見、非常に
 奇怪に見えても、決して気まぐれではないことが、家督を継いでから数年間に、多くの
 人々に理解され納得されたのである。
・信長が明智光秀を評価したのは、その軍事的才能と行政手腕、それに勤勉さであり、光
 秀の持つ教養などはさして問題にしなかった。その意味で、明智光秀も、柴田秀吉や滝
 川一益のような無教養人と選ぶところがなかった。それが光秀には大いに不満だった。
 教養人でもあり常識人でもあった明智光秀は、人間を道具として見る信長の非常識な評
 価基準に耐えられなかったのであろう。
・織田信長は、確かに偉大な人物であった。もしこの男が、あと十年生き長らえたならば、
 おそらく全日本を征服していたであろうし、日本の歴史は大いに変わっていたであろう。
 だが、事実はそうはならなかった。信長は明智光秀の起こした一種のテロルによって殺
 されてしまう。明智光秀の反乱はあまりにも有名だ。光秀が信長を殺すことに成功した
 からである。だが、信長に対して反乱したのは、光秀だけではない。
・信長は、自己の基準の適用実施には慎重だったが、他人の倫理観や評価基準には無頓着
 であり過ぎたのだ。 
・織田信長は、組織を機能的に組み改める。当然そこでは従来の経験、能力が十分に生か
 せない者が出る。かつて、若かりし日には、「勝てそうもない強敵」今川義元を相手に
 しても、一人の裏切り者も通報者も出さなかった織田家のなかに不平者がたまっていく。
 信長の目的と評価基準を信頼した者も、それが実行されたときの不利益を知って愕然と
 し、不満に身悶え始める。彼らは、機能的に改編された織田政権のなかですでに力がな
 い。信長から見れば、無力なゴミに思える。だが、そう思わない者もいる。この充満し
 た不満を利用すれば反乱は成功しそうだと考える者も出て来るのである。
・織田信長のやり方では、古きものと新しいものとの対立が生じる。しかも悪いことに、
 時とともに古きものに加えられる部分が増えていく。廃棄物が充満するのである。信長
 の晩年においては、こうした廃棄物が全組織内に沈殿し、組織全体が崩壊の危機にあっ
 たといってよい。もし子の危機を乗り切る方法があったとすれば、さらに強力な成長発
 展によって、より多くの利益を組織に注入することであったろう。
・織田信長は、偉大な生産者、新製品の提供者ではあったが、廃棄物処理の面での賢明さ
 を欠いていたといわざるを得ない。それ故に、彼の死後、織田家の権力は一朝にして霧
 散してしまったのである。

日本史に学ぶ「組織」と「人間学」
・周知のように秀吉は九歳でいったん寺に入るが、ヤンチャが過ぎて返され、十五歳頃に
 家出同然に尾張中村を出奔、以後、多少いかがわしい職業を転々とした末に足軽として
 織田家に仕え、機転が利くというのでだんだん取り立てられるわけだが、その間、小一
 郎、後の秀長は尾張中村でずっと百姓をしていた。それをある日、ようやく馬に乗れる
 身分になった秀吉が、共も連れずに故郷に帰ってきて連れて行った、というふうに伝え
 られている。恐らく足軽組頭ぐらいの頃だろうから、秀長は秀吉自前の家来第一号だっ
 たかもしれない。
・若年の頃の小一郎(秀長)はきわめて率直な人物であったようである。秀吉のいうこと
 をきわめて率直に、またきわめて確実に実行したといわれている。いわれたとおり率直
 に、また確実に実行できるというのが、小一郎(秀長)の若年の頃からの才能であり性
 格であった。そして、秀長は秀吉の主力部隊を指揮することになる。
・当時の軍隊は大将がいて、その下に大隊長クラスがいる、そして部下は大隊長にくっつ
 いていて、大将が直接に部隊編成をするわけではなく、ピラミッド型の編成になってい
 る。大将自信が持っているのは旗本といって、これは人数はそう多くない。大体全軍の
 二割ぐらいで、あとは全部大隊長クラスに割り振ってある。
・豊臣軍の場合、この大隊長に率いられた部隊を総合指揮するのはもっぱら秀長であった。
 だが、補佐役秀長が最も多く勤めた役割は留守居役である、そしてそれが、この人の最
 も得意とするところでもあった。
・戦国時代の前線司令官の留守居役は、きわめて困難な仕事だ。前線は主人なしの手薄、
 兵数も乏しければ、兵糧にも事欠く格好になる。それを維持し、敵の攻撃を防ぎ、部下
 の不満を抑えるのは大変な仕事だ。それでいて、結果としては何の戦功もないように見
 られる。留守居役はただジッとしていただけ、巧くいっても当たり前、万に一にも失敗
 すれば切腹ものだ。秀長は、こんな損な役廻りを二十年間も確実にやってのけ、ただ一
 度も失敗しなかった。敵がどんなに誘って来ても絶対にそれに乗らなかったからだ。
・もし、この男に、自ら次期トップになろうとか、兄から独立した大名をねらおうとかい
 う気が少しでもあれば、こんな役廻りには不満をいっただろうし、時には兄の留守に大
 手柄を立てようとして危ない場面もあっただろう。だが、秀長は、一切それをしなかっ
 たのである。補佐役、女房役に徹していたからだ。
・秀長が死んだあと、豊臣政権の行政は、前田玄以、浅野長政、石田三成、増田長盛、長
 束正家という五奉行の手に委ねられる。そうすると、たちまちこの五奉行に対する反対
 派ができる。加藤清正とか福島正則とかいうような典型的な野戦攻城の武将たちは、五
 奉行に対して非常な反感を持つ。そして豊臣政権は内部分裂を始める。秀長の存命中は
 そのバランスが秀長のところでとられていた。
・同時に秀吉自身が朝鮮戦争という、実にバカげたことをやりだす。朝鮮戦争は、それ自
 体あまり意味のあることとは思えないし、秀吉の情報不足というのは大変なものだった。
 秀吉は朝鮮の軍事力、政治、人心について情報を全く持っていなかったのだ。
加藤清正小西行長が先鋒隊長として行き、最初の六カ月が実にうまくいき、京城、平
 壌を取り、さらに二王子を虜にすると、秀吉はこの調子でずっといけると思う。しかし、
 この六カ月の日本軍の勝利は、属国に鉄砲を持たせないという、明国の政策によって、
 朝鮮軍が鉄砲を持っていなかったからにすぎない。
・したがって、李如松という明の将軍が大軍を率いて鴨緑江を渡ってくると、明軍は鉄砲
 どころか大砲まで装備しているから、たちまち負けてしまう。つまり秀吉は、朝鮮軍の
 実情も日本勝利の原因も明軍の実力も、全く知らなかったのである。
・のみならず秀吉は、朝鮮を日本の属国にして明へ侵攻する通路にしたいと考えていた。
 ということは、明と朝鮮との宗主関係についても無知だったのだ。つまり、朝鮮という
 国の国際政治的位置づけの根本を知らなかったわけである。小西行長や宗義智はそれを
 少し知っていたから、朝鮮と戦争をすればたいへんなことになると思い、必死に止めよ
 うとしたのである。
・朝鮮戦争は日本国内の戦争と違って、異民族領で闘わなければならないから、傀儡政権
 をつくって内部分裂を起させるというのが常道である。しかし、この手を秀吉は全然使
 っていない。二王子を捕虜にした時点で、直ちにそれを王位に就けて傀儡政権をつくる
 べきなのだが、そういう東洋的政治をやっていない。
・そもそも日本には、傀儡政権の思想があまりない。戦国時代でも、例えば毛利一族の一
 人を主君にして現政権に対抗させるといった手法はとられていない。したがって、秀吉
 はこういう東洋的、大陸政治的手法についてまったく無知だったのである。しかも日本
 軍の内部には、小西行長と加藤清正の激しい対立があった。
・女房役の条件の第一は、客観的にも主観的にもナンバー1の可能性を持っていないナン
 バー2であることである。第二には、自分の名でものごとをしないということである。
 第三に、ある段階まで事を進めたら、最後のツメはナンバー1に譲るということである。
 第四に、みんなが手柄を立てたがる陰に回れるということである。
・また女房役というのは、いわゆる参謀とも異なったタイプの人間である。とかく日本に
 は、歴史中に隠れた参謀を創造する風潮がある。典型的なのは武田信玄の策士であった
 といわれている山本勘助だ。これは日本人の英雄視に一つの原因がある。日本人は世俗
 的に最後まで成功した人を英雄とみない場合が多い。日本の歴史のなかでやたら評判が
 いいのは、日本武尊から始まり、菅原道真、源義経、加藤清正、そして西郷隆盛である。
 いずれもそんなに偉いことをやったわけではない。
・一方、本当の巨人、頼朝や家康や大久保利通があまり評判がよくない。このように日本
 人は、世俗的に成功した人ではなく、世俗的にどこか不運な影を持つ人を英雄視する。
・女房役とは一言でいえば、”ホワット”ではなく、”ハウ・ツー”人間だといえるであろう。
 たとえば、トップが戦争をすると決断すれば、女房役はいかにして勝つかだけを考え、
 実行すればいい。女房役は、決して”ホワット”を口にしてはいけない。たとえ何か自分
 で思いついても、それはトップにいわせるか、下のものにいわせるべきである。
 しかし、これは言うに易く行うは難い。また特に日本には、そういう人材が少ない。豊
 臣秀長は、その数少ない人材の、きわめてすぐれた一人であった。
・現代的な組織の基本形ができるまでに、組織史には三つの大革命があった。まず第一の
 革命を達成したのは秦の始皇帝である。彼が始めた郡県制という国家統治制度は、組織
 史上に最初の画期的飛躍をもたらした。恐らくその先駆敵前例としてアケメネス朝ペル
 シャをおいても、さして間違ってはいないだろうが、完成度において秦に遠く及ばない。
・それまでの世界中の国家は、だいたい各地域ごとに世襲の領主が支配することによって
 統治されていた。中国でいえば王とか侯とか伯とかいうのがそれであり、その領主が死
 ねば、彼の血族や彼の決定した人物が、後を継いだ。しかし、始皇帝はそれを中央から
 派遣する知事や司令官によって統治させるようにしたのである。
・それまでは地域ごとの世襲制であったものを、中央からの任命制にし、任期が過ぎれば、
 その人の意思には関わりなく移動させる。これによっていわばポストは個人から明確に
 分離され、組織の概念が明確になった。組織という自立した抽象概念が初めて生まれた
 といってもいいだろう。
・世界の組織史上の第二の革命は10世紀頃、アラブのイスラム騎士団によるものである。
 このイスラム騎士団がやったのは、事務長と技師長の分離ということである。これは所
 掌分担ではなく機能分業だ。それまでの組織はトップの下に十人の直属の部下がいても、
 その十人の間には明確で意識的な機能分業はなく、とかく十人が協力して技術もやれば、
 事務もやるというふうだった。
・第三の組織革命は、プロイセンで成立した参謀本部である。
・スタッフ(参謀)の仕事は、何をするか(what)ではなくあくまでいかにやるか(how to)
 を決めることだ。スタッフ(参謀)にとってWhatは常にトップから与えられるものであ
 り、したがってスタッフ(参謀)にはそれに耐え、それをよしとするだけの忠誠心がなけ
 ればならないということである。
・スタッフ(参謀)の仕事は、whatの決定ではなくhow toの決定にあるという言葉のもう
 一つに意味は、スタッフ(参謀)はhow toについてなら、つまり与えられた条件の下で
 なら、冷徹に最良の結論を出しさえすればいいということである。そしてスタッフ(参
 謀)とライン(司令官)の最大の違いはここにある。
・司令官(ライン)が、将棋指しが将棋を指すような冷徹な作戦をそのまま実行すれば、
 それに従う者はいわば、”捨て駒”にされる可能性に経威さらされているのだから、たま
 ったものではない。それ故に最終的にはいい結果を生まない。したがって司令官(ライ
 ン)には、義理人情、政治的配慮、そしてなによりも人格信頼が不可欠である。
・参謀(スタッフ)には、少なくとも将棋指しが将棋を指すように、最良の結果を追求す
 る頭脳集団ともいうべき冷徹さをどこかに持っていなければならない。
・そういう意味では、かつての帝国陸軍の参謀本部はずいぶん余計なことをいったもので
 ある。たとえば、そういう作戦をやったのでは軍の統帥が保てないというようなことを
 よくいった。しかし、これは少なくとも参謀本部の考えるべきことではない。陸軍省
 (軍政部)の考えるべきことである。
・したがって、スタッフ(参謀)はあまり評判の良くないのが普通で、日本では特にそう
 である。したがって、トップは常にスタッフ(参謀)をかばってやる必要がある。それ
 がなければ、スタッフ(参謀)は逃げ腰になってその役割である冷徹な思考をしなくな
 ってしまう。スタッフ(参謀)を比較的うまく使ったトップは強力な権力を持ったワン
 マンである場合が多いのも、スタッフ(参謀)が身の処し方を問われるのはトップが代
 わったときだといわれるのも、理由はそのあたりにあるといえよう。
・スタッフ(参謀)を育てることはどこの国でも難しい。ドイツ参謀本部の人材登用の基
 準は実に参考になる。人間の基準を能力と意欲に分け、まず第一に登用するのは「能力
 があった意欲のない者」、第二が「能力も意欲もない者」、第三が「能力、意欲共にあ
 る者」、そして第四の絶対に出世させてはならないのは「意欲があって能力のない者」
 だ、という。
・どこの国でもスタッフ(参謀)の養成は難しいとはいうものの、日本の場合には特にそ
 れがはなはだしい。日本には根強いゼネラリスト志向がある。帝国陸軍では連隊長を経
 験しなければ出世できなくなっていた。また陸軍大臣、次官はむろんのこと、参謀総長
 あ次長になるにも師団長の経験は不可欠だったといっていい。
・この結果、ゼネラリストにふさわしい人格を持つことが、上に立つものの第一要件とい
 われる。このことは、人間を機能で見ることの否定につながる。たとえ殺人犯であって
 も、その人が非常に優れた技術能力を何か持てば、それを”機能”として集約してそれ
 を評価するというような思想はない。したがって、ある人間を一つの機能に集約してそ
 れを評価するという組織もなかなか生まれない。結局いろいろなところを回して、ある
 ところで決定的な失敗をすれば落第、というようなゼネラリスト志向の組織になりやす
 いのである。
・そうなったのは、日本の組織には切羽詰まった意識的改革が少ないということの結果で
 ある。一般的に組織改革というものは、どうしても内部の抵抗が非常に強いものだから、
 切羽詰まった危機に迫られて、きわめて意識的に、反対を押し切ってやらなければ、な
 かなかできるものではない。しかし、日本の組織改革はそういうものではなかったから、
 本質的には非常に不徹底で曖昧なものを終わってしまったという面がある。
・「辣腕家」とは、ある意味で優れたリーダーであることは疑いない。しかし、優れたリ
 ーダーのすべてが辣腕家というわけでもない。辣腕家の条件は、優れたリーダーである
 とともに、どこか”ある種のマイナス”イメージがあることも否定できないのだ。
・辣腕家というに値する人物といえば、その典型は岸信介ではないかと思う。当時、岸は
 いわゆる革新官僚の代表的人物だが、彼らの目的を大別すれば二つあった。一つは満州
 国の建国に象徴されるアジアへの進出であり、もう一つは産業経済の統制を中心とした
 統制国家体制の確立であった。そして彼らは、一方ではいわゆる近代的自由主義者を排
 除し、他方では、いわゆる家父長的全体主義者の皇道派、それと結びついた右翼を排除
 した。いわば近代的全体主義者であったということができよう。岸はその代表的人物の
 一人だったわけである。
・ところが、岸は戦後、巣鴨から出てくると、たちまちにして戦後自由主義日本の総理大
 臣にまでなってしまう。
・私は辣腕家にとって最も重要な能力は「同党異伐」の才ではないかと思う。つまり、徒
 党を組み、異なる敵を征伐するという能力である。たとえば岸が東条英機に代表される
 軍統制派と徒党を組み、近代的自由主義者、家父長的全体主義者の双方を切ったなどと
 いうのは、その典型であろう。
・しかし、岸は最後には東条にやられてしまう。つまり軍需大臣から軍需次官に格下げに
 なる。そして東条が軍需大臣をも兼任するのである。
・統制の根拠は最終的には暴力、武力でしかない。だから、いかに辣腕家でも武力を持っ
 ていない岸は、東条に敗れざるを得ない。つまり、最終的には「絶対的な力」に敗れる
 というのは辣腕家の宿命である。いい換えれば辣腕家は、この絶対的な力を欠いた時代
 に複雑な人間関係と力のバランスの中でこそ最も華々しい活躍をするということができ
 るわけだ。その意味でも、「辣腕家」と見られる人物は、真の偉人・大物ではない。

中国史 万古不変の知恵
・「勝てる組織」の要件を考えると「明確な目的を持ち、構成員がそれをゆるぎなく信じ
 ている組織」だということになるだろう。
・ある組織が明確な単一の目的をゆるぎなく信じるためには、まずその組織のトップリー
 ダーが、その目的を心底から誇りを持って信じていなければならないということだ。
・明確な単一の目的を、誇りを持って信じ「勝てる組織」をつくり上げた日本史上の典型
 的な例の一つは織田信長であろう。織田信長の場合、その明確な単一の目的とは言うま
 でもなく「天下布武」、つまり、織田家の天下を創り、武士の一元的支配を完成するこ
 とだ。
・信長は、当時の日本にあった足利将軍家を頂点とする伝統ある支配者階級をまったく無
 視し、「将軍が日本一偉い」などという常識をせせら笑っていた。しかし、足利義昭が
 転がり込んでくると、義昭を擁して上洛するなど、これを大いに利用した。
・しかし、将軍になった義昭が喜んで「あなたは私の恩人、いや父親というべきだ」と言
 い、副将軍や管領の地位を与えようとするとそれを蹴り、代わりに草津・大津・堺の徴
 税権を要求した。これなどは、将軍への権威への痛烈な皮肉と言うべきであろう。
・さらに信長は宗教的権威もまったく無視した。石山本願寺と真正面から対決し、一切お
 妥協を排して五年間の包囲攻城戦を敢行、完全な勝利を得るまで戦った。伊勢長島の一
 向宗徒や比叡山延暦寺の僧俗男女を皆殺しにしたという日本史に類例のない事件は、信
 長がいかに当時の宗教的権威を問題にしていなかったかを象徴している。
・「天下布武」を達成するのに最も大事なのは、言うまでもなく戦争に強いことだ。信長
 軍団は連戦連勝だったわけではないが、結局は最大の領土を得た。しかし、兵が強かっ
 たわけでも、信長が戦闘指揮官として勇猛だったわけでもない。信長の戦いぶりは、最
 初の桶狭間を唯一の例外として、数を頼んで押しかけるばかりで、特に奇略縦横の鬼才
 振りは見られない。戦術家として見ると信長はむしろ凡将である。
・それではなぜ弱兵、凡将の信長軍団が戦国時代に最大の成功を収めたのかというと、そ
 の第一は資金があったことだ。そして、その資金を豊富にしたのは信長が既成の権威に
 とらわれなかったことである。
・その組織の構成員が、明確な単一の目的をゆるぎなく信じるために最大の障害になるの
 は、既成の権威であり、常識的な概念である。したがって、「勝てる組織」をつくるに
 は、その妨害となる既成の権威と常識的概念を構成員からいかにして取り除くかが重要
 な課題になる。換言すれば、組織の構成員に明確な単一の目的をゆるぎなく信じさせる
 ということは、その明確で単一の目的以外の既成概念を取り除いてやることと表裏一体
 だということである。
・「勝てる組織」をつくるためには、ときには危険を十分に承知のうえで新しい提案を採
 用してみせることもしなければならない。たとえ失敗しても、それが既成概念=既成の
 権威を崩し、明確な単一の目的を浸透させる突破口になる場合も多いからである。
・「勝てる組織」であるためには、明確な目的を持ち、その構成員が心底それを信じるこ
 とが必要である。そのためには、既成の権威=既成概念にとらわれず、合目的な尺度で
 すべてを律することが大切だ。そして、それを実現するためには、その組織の持つ唯一
 の目的に権威を加えることも不可欠だ。多くの場合、これこそトップリーダーの役目と
 なる。したがって、トップリーダー自信がゆるぎない権威を持つことが早道であろう。
・もっとも、典型的な「勝てる組織」が、それに属する人々に幸福をもたらすかどうかは
 わからない。きわめて明確な単一の目的を持ち、既成概念にとらわれない組織ほど厳し
 いものはないからだ。構成員は世間から白眼視される。それぞれの役割に徹することも
 辛いし、いつ何時クビになるかもわからぬ危険もあるのだ。