東條英機 「独裁者」を演じた男 :一ノ瀬俊也

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この本は東條英機の人生をたどりながら、東條英機とは実際にはどんな人物であったか、
その実像を探ったものである。
東條英機というと、A級戦犯の筆頭であり、日本をあの太平洋戦争に引きずり込んだ独裁
者で悪い奴というイメージがとても強いのだが、実際に東條は本当に極悪人だったのだろ
うか。私は以前から、東條英機という人物について、とても興味をもっていたので、この
本のタイトルに惹かれて読んでみた。
この本を読むと、当時の日本陸軍がなぜ中国進出に熱心であったのかが、なんとなく分か
った気がする。軍人や軍隊は戦争することが仕事である。戦争のない時代は、その存在意
義が薄れ、民衆からは白眼視される。軍人の給料も据え置かれたままで上がらない。そこ
で、中国へ進出することにより、武力衝突での戦果を挙げ、軍隊組織の地位向上および軍
人個人としては自分の地位向上を図ろうとしたのだろう。当時の陸軍の軍人たちは、中国
は簡単に制圧できると考えていたようである。しかし、いざ戦争を始めてみると、中国の
抵抗は想像以上に手強かった。しかし、陸軍としての面子もあり、もはや後戻りはできな
かったようだ。
東條英機は独裁者だったかというと、この本を読むかぎりでは、決して独裁者ではなかっ
たと言えるのでないだろうか。太平洋戦争の開戦決定も、公式の御前会議で全会一致で決
定している。つまり、心の内はどうであったのかは知らないが、表向き反対した者は誰一
人いなかったのである。そこにはおそらく、反対することによって生じる、いろいろな面
子や責任逃れがあったのではなかろうか。誰か一人でも”反対”を主張すれば、おそらく開
戦することはなかったのにである。天皇も明確には反対とは言わなかったようだ。それな
のに、東條英機一人が独裁的に開戦に突き進んだというようなイメージが強いのはぜだろ
うか。
東條英機は、とても実直で努力家であったようだが、それがゆえに、一旦こうだと思った
ら、ひたすら突猪突猛進し、絶対に自分の考えを曲げないという頑固さもあったようだ。
それが独裁者のように見えたのかもしれない。また、職業軍人あがりの東條は、知識人と
は反りが合わなかったようだ。それも無理のないことで、東條英機は、陸軍地方幼年学校、
陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校、そして陸軍大学校と、職業軍人一筋に育った人物であ
る。戦争をすることを仕事とする職業軍人としての知識以外には疎かったのだろう。普通
の教育を受け育った政治家や官僚たちとは、考えがまるで違っていたのではないかと思わ
れる。そう考えると、そういう戦争をすることを仕事とする職業軍人を国の運命を左右す
る首相に据えたこと自体がそもそも間違いだったのではないかと思える。東條英機を首相
に据えたのは、首相に相応しい人物が見当たらなかったことと、東條英機に暴走気味の陸
軍を何とかまとめさせ、開戦回避に向わせようとの苦肉の策からだったと言われているよ
うだが、これはあまりに危険な賭けだったのではなかろうか。結局、事態は思惑とはまっ
たく逆の方向に動いてしまったからだ。
この本を読んでいたら、太平洋戦争開戦に向かう当時の状況と、新型コロナ禍中に東京オ
リンピック開催に向かう現代の日本の状況が、なんだか共通点が多いと感じた。どちらの
首相も、決まったことをブルトーザーの如く推し進める事務処理能力は高いが、そこには
これといった独自の思想はない。知識人が嫌いで「平民派」と言われるところも共通して
いる。とにかく、決まった目的に向って猪突猛進。一方は太平洋戦争開戦を果たし、もう
一方は東京オリンピック開催を果たす。両人にとっては、決められたことを果たしたまで
だ、ということなのかもしれないが、これは国民の命を引き換えにした大きな賭けだと言
えるだろう。はたしてその賭けによってもたらされる結果は、めでたしめでたしと喜べる
結果となるのか。東條英機の賭けとは違い、支持率回復を狙って賭けに出た今回の東京オ
リンピックは、めでたしめでたしという結果で終わってほしいと願うばかりだが、しかし、
自分たちの命を賭けられた一般国民のどれだけの人が、すばらしい東京オリンピックだっ
たと思えるのだろうか。


はじめに
・東条英機は太平洋戦争時の首相・陸相であり、後に参謀総長まで兼任するなど、昭和日
 本における代表的な戦争指導者である。A級戦犯として処刑された人物であり、今日で
 も厳しい批判の対象とされている。その際、ギミ箱視察が人気取りの証拠として槍玉に
 挙がることが多い。
・東條がなぜそんなことをしたのか。それは東條なりの”政治”であり、”戦争指導”だった。
・東條は1944年5月、航空士官学校を視察した際、学生に向かって「敵機は精神で墜
 とすのである。したがって機関砲でも堕ちない場合は、体当たり攻撃を敢行してでも撃
 墜するのである」と訓示した。
・だが、東條はいやしくも戦争のプロ、高級軍人でありながら、本当に飛行機よりも精神
 力を重視するような非合理的な精神主義のみで、総力戦たる対米戦争を指導していたの
 だろうか。抜き打ち視察は単なる人気取りに過ぎず、物的戦力は軽視されていたのだろ
 うか。
・東條は軍人、戦争指導者として1930年代以降、航空戦と総力戦を相当に重視し、そ
 れを国民に語りかけてもいた。東條の行動の背後には、彼なりの戦争指導者としての自
 己意識や使命感があったのである。

陸軍士官になる
・東條は1884(明治17)年7月、東京に生まれた。
・東條の祖父・英俊は盛岡藩士だった。その祖は江戸から招かれた能楽師だった。
・1855(安政2)年11月、東條英機の父・英教が誕生した。だが幕末維新の激動で
 盛岡藩は没落してしまう。英教は上京し、陸軍教導団(下士官の養成機関)に合格する。
 士官となった英教は、西南戦争に少尉試補として従軍した。
・英教と同じころ盛岡から上京したのが、のちに首相となる「原敬」である。
・英機が生まれたとき、英教は陸軍大学校の一期生として学んでいた。首席で卒業した英
 教は独国へ留学した。帰国後、参謀本部に配属され、薩摩出身の参謀次長・「川上操六
 のもとで日清戦争の作戦を立案する。ところが、1899年5月に後ろ盾の川上が死去
 すると、英教は冷遇されるようになる。
・英機は1892(明治25)年9月に学習院初等科3年に編入するが、4年進級後に中
 退している。中退した理由は定かではないが、「身分」の壁があったのではないかと推
 測されている。 
・英機は1897(明治30)年4月に城北中学に入学、99年9月に東京陸軍地方幼年
 学校に転じている。幼年学校では喧嘩は強かったが、成績はよくなかった。
・英機は1902年9月、陸軍中央幼年学校へ入学、04年5月に卒業。同年6月に陸軍
 士官学校に入学、翌05年3月に卒業した。 
・幼年学校時代の東條を1年後輩として間近でみていたのが、のちの冒険小説家として有
 名になる「山中峯太郎」である。山中のみた東條は「グシャ」であったという。「愚者」
 ではなく、頭の中がグシャグシャしている秀才、という意味である。
・注目すべきは、山中たちが教育を通じて天皇を絶対的な存在として教え込まれたことで
 ある。山中たちは「にわかに何か重いものを、頭の上から圧つけられた気がして、息が
 つまり足が両方とも固く突っ立った」と感じた。
・またある時は、明治天皇の乗った汽車を奉迎して、ある同期生の「ああ、今のお方が、
 おれたちの命をささげるお方なんだなあ」と感きわまって言う、ひとりごとの声を聞き
 「そうだ、そのとおりだ」と、感激せずにはいられなかった。
・このような教育をへて生徒たちは「天皇陛下に命をささげる」という規範をいつのまに
 か、そのように信じ込み、何の疑いもなく、それが自分の生まれてきた運命のように、
 腹の底から思っていたのである。
・日本陸軍はもともと火力主義であった。だが日露戦争の際、遮蔽陣地にこもった露軍の
 歩兵を砲撃で撃破できず、歩兵の白兵突撃でこれを排除するしかなかった。日本陸軍は
 この”教訓”をはるか後年の太平洋戦争まで引き継ぐことになる。
・ところで英機の父・英教は 、かつての主家との繋がりも保ち続けた。日露戦争で旧藩
 主家の「南部利祥」中尉が戦死すると、南部家の教育係をしていた英教にある相談をも
 ちかけた。すでに衆議院議員となっていた原敬に、南部家の家政の顧問になってくれと
 いうのである。原は英教の依頼を受け入れた。その後英教は南部利祥の銅像建設委員長
 にもなった。銅像は1908(明治41)年9月、盛岡城跡に建立されたが、太平洋戦
 争中の金属回収により現在は台座しか残っていない。
・英機は1909(明治42)年4月、福岡県出身の「伊藤勝子」と結婚した。勝子は当
 時東京女子大学の学生で、大久保の婚家に同居し、結婚後も学業を続ける約束だった。
 だが、義母ちとせが女性の学問を嫌ったため、結婚後二カ月で中退せざるを得なくなっ
 た。ちとせと勝子の折り合いはその後も悪く、勝子は離縁も覚悟するほどであった。
・1910年、東條英機は初めて挑戦した陸大入試は不合格であった。そのため勉強に専
 念すべく、家を借りて英教夫婦と別居した。
・東條夫妻はささやかな節約生活を営んでいたが、陸軍将校に対する国家の待遇は悪くな
 かった。陸軍将校の俸給は少尉で年額480円、これは帝大卒業生の初任給と比べて優
 るとも劣らないもので、将校は20歳そこそこで奏任官の列に加わり、しかも体大卒に
 ひけをとらない高給を受け取ることができたのだった。一家は、日露戦後から大正期に
 かけての日本に出現した、新中間層と呼ばれる人々の群れのなかにいた。彼らは、決し
 て上流ではないが、高い教育を受けたことにより、それなりの暮らしを国家や会社によ
 って保障された人々である。
・1911(明治44)年、東條英機は陸大受験に再挑戦したが、結果は不合格だった。
・陸大の入試は、たとえ元帥の子息であっても、筆記で点が捕れなければ不合格であった。 
 明治陸軍の採用した完全な能力主義、つまり努力すれば報われるという考え方が受験勉
 強に対する東條のモチベーションとなり、やがて努力への信仰にまで発展したのである。
 本人は「努力即権威」という座右の銘を発明し、よく口にしていた。
・1910年11月に陸大を卒業していた先輩の小畑敏四郎永田鉄山は、落胆した東條
 をみかね、小畑の家の二階で勉強会を開いてやった。
・1912(大正元)年、東條は陸軍大学校試験に合格しに入学した。
・「大正政変」は、陸軍にとって政治的大敗北であった。陸海軍は軍部大臣現役武官制の
 廃止を追い込まれた。大正政変は、世論の高まりが内閣を倒した最初の事例といわれる。
 政変は、「戦後デモクラシー」の帰結といえる。
・重要なのは、東條英機が軍人としての歩みをはじめたのが、民衆の力や動向を無視した
 政治が困難となっていた時期に当たることである。陸軍(海軍もだが)が、軍備を維持
 するためには、自らの存在意義を社会に向けて訴えていくことが必要となった時代であ
 る。 
・この時期の陸軍にとって、新聞の世論誘導力は無視できないものになっていた。「国防
 の本義」すなわち軍の存在意義は、軍みずから「人民」に向かって積極的に訴えねばな
 らないというのである。東條英機はこのような社会状況のもとで、軍人として歩みはじ
 めたのである。
・東條は1915(大正4)年12月に陸大を56名中11番の成績で卒業した。
・日本陸軍は巨大な総力戦と化した第一次大戦から学ぶべく、1914〜24年にかけて
 多数の視察者を欧州へ派遣した。その数306名にのぼった。東條は独国への派遣であ
 る。独国へは歩兵科、仏国へは砲兵科の将校が多く派遣された。全体的にみると、日本
 は独国から戦術、編制、教育などもっとも多くのものを学んだといわれる。
・明治、大正と続いた陸軍の長州閥支配も、親分格の山県有朋の死去や、その後継者であ
 る田中儀一の 政党政治家への転身などによって衰えをみせていった。そうした中で、
 永田や東條たち陸軍の中堅将校が長州閥打倒と陸軍の改革をめざし、団結を強めていっ
 た。この集まりがのちの昭和陸軍を大きく揺るがす派閥抗争の発端となる。
・欧州から帰国した東條は1922(大正11)年11月、陸軍大学校の兵学教官に就任
 した。 
・東條の教官振りは「ぎこちなく、およそ学問的とは言えなかった。戦史の教育なら語学
 の能力上両軍に平等にとはいかないまでも、少なくとも相手の立場にもっと関心をもち、
 参考資料を捜すべきで、種本一点張りでは真相は解らないことになるだろう」と、必ず
 しも高く評価されていない。
・「梅津美治郎」も東條と同じころ、陸大の兵学教官をしていた。教育者としては、広い
 視野から物事を考えさせる梅津のほうが明らかに有能である。しかし陸軍の利益をがむ
 しゃらに押し通すべき政治官僚としては、余計なことなど考えもしない東條のほうが適
 任だったろう。
・東條には部下に調べさせることで育てようという発想はなく、何でも自分でやったほう
 が早いと思っていたようだ。東條の思考法はつねに直線的であり、ゆえに教育者向きで
 はない。
・しかし、梅津にも短所があり、事務能力は高いが慎重屋だったので、記者との会見を極
 端にいやがったという。なんでもでしゃばるのが大嫌いで、陰性なところがあった。要
 するに大衆性がなかった。一方、東條は梅津にはおよそない「大衆性」があった。
・1926(大正15)年、教官の東條は陸軍大学校で軍制学の講義で、戦争指導は統帥
 権の独立を前提としつつも、国力や政治との調和のうえで行われるべきだ、との考えを
 示した。これはのちに国務と統帥の調和とか、政戦両略の一致と呼ばれる考え方である。
・軍の作戦に対する政治の介入は峻拒するが、作戦と政治の調和は必要という考え方は、
 東條をはじめ第一次大戦後の陸軍における共通理解だったとみてよい。
・東條は、陸軍が第一次大戦の教訓を踏まえて編纂した「戦闘綱要」の起案にも従事した。
 戦闘綱要草案の編纂作業の中心となったのが、この時境域総監部にいた永田鉄山である。
・戦闘綱要草案に盛り込まれたのは、包囲殲滅、つまり敵の大軍を包囲して一気に撃滅す
 るという戦い方であった。第一次大戦の西部戦線で繰り広げられたのは陣地戦での長期
 消耗戦であったが、国力に劣る日本陸軍にはそうした戦い方はとてもできないし、また
 その可能性もないと考えたのである。日本が極東の大陸で相手にするのは、素質劣等な
 露軍と中国軍と想定された。東條も陸大でこの包囲殲滅戦法を機嫌よく講じていた。
・この「包囲殲滅」主義は1938(昭和13)年の「作戦要務令」にも継承され、太平
 洋戦争敗戦まで日本軍の用兵思想の根幹となった。
・戦闘綱要編纂を通じて軍の深刻な問題となったのが、戦争における物質力と精神力との
 関係である。 
・1928(昭和3)年の「共通綱領」には有名な「必勝の信念」という一文も登場した。
 なぜ共通綱領は「必勝の自信」をより強い調子の「必勝の信念」に改めたのだろうか。
 第一次大戦で急速に進化した火力や機械化装備の工業力や技術の遅れた日本は追随でき
 ず、それをことさらに批判して部下兵卒の信念を動揺させる将校がいたため、その口を
 封じようとしたのである。つまり、「必勝の信念」は東條を含むエリート軍人たちが欧
 米の軍隊に対する物量や装備の遅れを痛感し、それをなんとか兵卒の眼から糊塗するた
 めに唱えられた価値観であった。しかしそれはあくまで当座の方便である。
・東條は1928(昭和3)年3月、陸軍省整備局動員課長に就任した。初代の動員課長
 は永田鉄山だった。東條はその後任として業務に取り組んだ。昭和初年の日本陸軍の課
 題は、工業生産力や技術力に劣る日本が、欧米の総力戦体制にどう追いついていくかに
 あった。
・1920年代の軍は装備の近代化を進めるなかで、その中心となった飛行機と自動車の
 製造を技術導入も含めて民間に委ねていった。もっとも、国産自動車は品質の優れた米
 国フォード、GM製の輸入自動車の前に劣勢を強いられていた。
・東條の行った国家総動員といえば、我々はどうしても第二次大戦の軍の強圧的な統制を
 思い出す。しかし実際は、この時期の陸軍と政府には人も金も足りず、民間をがんじが
 らめに監視、統制するだけの力はなかった。
・東條は1928(昭和3)年、歩兵大佐に昇進、翌29年に東京の歩兵第一連隊長とな
 った。名門第一連隊長への就任は、エリートコースに乗ったことを意味する。東條は部
 下をよくいたわった名連隊長で、「人情連隊長」とあだ名さえたといわれている。しか
 し東條連隊長のよくいえば厳格、悪くいえば空回りしがちなやり方についていけない将
 校も多かったようだ。
・東條は性格傲岸といわれるが、必要な時、特に力弱く同情すべき立派な人に対しては、
 目のふれるところ誰彼かまわず物心両面共最大の援助をすることを惜しまなかった反面、
 偉そうな顔をしている者に対しては実に峻厳であったという。本人は弱者の味方、「平
 民派」自任していたのである。
・東條連隊長が兵卒たちを愛護した背景には、当時の陸軍が置かれていた時代の変化があ
 った。一つは共産党など社会主義勢力による反軍運動の高まりである。兵士たちを苛酷
 に扱えば、その恨みは左翼に利用されてしまうと考えたのだ。もう一つはデモクラシー
 思想の普及である。権利義務の観念が発達した者も少なくない現状に鑑み、第一次大戦
 後の後期の陸軍では「兵卒には自覚的な理解ある服従」が求められると同時に、将校に
 対しても、兵卒の人格の尊重や常識の涵養が求められていた。
・「人情連隊長」としての東條の事績の一つに、徴兵された兵が除隊して社会復帰する際
 の再就職の面倒をみたことが挙げられている。これは単なる「人情」の発露ではない。
 徴兵された兵の再就職問題は、この時期の陸軍が解決すべき政治課題の一つだったから
 である。 
・当時、20歳で陸軍に徴兵された成年男子は入営にあたり、それまでの勤め先を解雇さ
 れることが多かった。服役中の2年間は収入を断たれてしまううえ、折からの不況下、
 除隊後の再就職も困難だった。
・当時、兵役に就く若者が就職に際し不利な扱いを受けたり、除隊後の復職を拒否される
 などの問題が多発していた。陸軍はこれが国民の恨みや反感を招き、左翼勢力の行う反
 軍運動の宣伝材料となることを恐れた。左翼が軍をのっとれば、ロシア革命のような事
 態が日本でも起こりかねない。
・1931年4月、陸軍の肝いりで制定された入営者職業保障法が公布され、徴兵兵士に
 対する不利な取り扱いは禁止された。
・第一次大戦後の陸軍は国民感情の悪化にきわめて敏感で、兵卒教育の改良や就職支援と
 いった諸政策講じていた。東條は中央の意図をよく理解し、実行した官僚であった。
・東條が軍人として歩みはじめたのは、日露戦後の大衆社会化の進行とともに、陸軍の存
 在意義が問われはじめていたときだった。努力して軍のエリートコースに乗り、欧州へ
 留学して総力戦思想に接した。国民を味方につけて外地で資源を獲得し、陸軍という
 ”お家”の権威と存在意義を高めることが、東條生涯の目標となっていく。

満州事変と派閥抗争
・永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次そして東條たちは、1927(昭和2)年ごろ「二葉
 会」と称する中堅将校団体を結成した。同じく1927年、二葉会とは別に鈴木貞一
 中心とする「木曜会」と称する団体を作った。「どうも日本の軍の装備というものが非
 常に悪い。そこで、これを第一次欧州戦争後の列国の装備に合うようにしなければいか
 ない。それにはより関係の人たちが寄って研究しようではないか」と作った研究会であ
 る。木曜会には東條も出席していた。
・二葉会は、はじめは放談の会であったが、しだいに国家改造も議題とするようになった。
 ここで焦点となったのが満州問題、すなわち日露戦争で日本が得た満州利権の返還要求
 を中国が強めるなかで、これをどうはねのけ、権益を確保するかという問題である。
 その座長格が河本大作だった。河本は1928年6月、奉天近郊で満州軍閥の領袖「
 作霖の爆殺事件
」を引き起こした。二葉会は爆殺事件後の同年11月に会合を開き、
 永田、小畑、岡村、東條たちが集まった。彼らは事件の真相は軍の威信に関わるので絶
 対に公表してはならぬと、中堅幕僚の意見具申として申し合わせた。
・将校たちが満州をめぐって強硬論を打ち立てた背景には、当時彼らが置かれた経済的苦
 境があった。日露戦後、体大卒に比べてひけをとらなかった彼らの待遇は、その後増額
 が据え置かれたことと、物価の上昇によって、他の職種より相対的に見劣りするものに
 なっていた。多くの将校は教育で天皇との距離の近さをたたき込まれプライドは高いの
 に、早く昇進しないと貯蓄もろくにできないまま、大尉や少佐で現役を退かねばならな
 い制度的構造になっていた。
・将校たちは現役を退けば恩給が与えられるが、それだけでは生活できず、民間に再就職
 の口を探さねばならなかった。だが高齢で軍隊以外の職務経験もない彼らにとって、そ
 れは実に厳しいものだった。 
・このような苦境のなかで、軍人たちは陸軍予算の拡大要求とともに、出世のための「功
 名争い」をはじめた。功名とは戦で手柄を立てることである。需要なのは、将校たちが
 出世の欲望と天皇への至誠、国への献身を重ねる合わせることで「国のため」と正当化
 できたことである。誰もまだ、1945年の惨憺たる敗戦の状況を思い描いてはいなか
 ったのであり、中国への武力進出によって、欲望充足の大いなる可能性と献身の機会が
 一致する状況が生まれた。
・二葉会と木曜会は、張作霖爆殺事件を契機として、陸軍上層部を突き上げる強い団体へ
 と変化していく。東條を含む幕僚たちは、田中義一首相がそれまでの自身の対満州政策
 を棚に上げ、事が起こると責任を陸軍に転嫁し、陸軍上層部は関東軍のみに責任を押し
 付けようとしたことに憤激し、結束を強めたのである。
・1929年5月、二葉会と木曜会が合流、「一夕会」を名乗った。彼らが「正義の士」
 を名乗ったのは、政党内閣の腐敗を正して満州問題の解決をはかることを正義そのもの
 と考えていたからである。
・1931(昭和6)年9月、関東軍の板垣征四郎石原莞爾は中国側による鉄道爆破を
 口実に兵力を動かし、満州の武力制圧をめざして軍事行動を始めた。「満州事変」であ
 る。
・東條たち5人の中央幕僚が、板垣・石原率いる関東軍の行動を支援する方向で動いてい
 た。
・東條はこのとき、かねての強気な言動からみて、独立政権論を主張したと考えられる。
 しかし関東軍は独立政権案を取らず、一気に「満州国」という新国家を成立させた。
・関東軍も参謀本部も、満州事変が「九カ国条約」違反であることを十分認識し、それを
 糊塗する方向で検討を重ねていたのだった。関東軍も参謀本部も条約違反との批判を受
 けることを避けたのは、「民族自決」が第一次大戦後のもはや避けることのできない行
 動原則として定着していたからであった。
・もっとも東條の兄貴分の永田鉄山は関東軍の独走的行動を抑制し、漸進的に進めさせよ
 うとした。
・1932年1月、天皇は関東軍に「朕深くその忠烈を嘉す」との勅語を下したが、これ
 は関東軍の行動を是認するというより、その作戦行動にピリオドを打たせようとした永
 田の発案であった。
・参謀本部課長の東條は関東軍司令部を訪れて石原莞爾らと協議した。東條は早期撤兵を
 求めた。1月下旬からの撤兵を求めた東條に、関東軍は2月下旬まで在満させることで
 妥協した。この間、永田は新国家の建設を阻止し、せいぜい独立政権の樹立に止めよう
 とする方向で部内調整に奔走していた。
・1931(昭和6)年、満州事変勃発をはさんだ3月と10月に「橋本欣五郎」率いる
 中堅将校グループ「桜会」がクーデター計画を立て、いずれも未然に阻止された。それ
 ぞれ三月事件十月事件と呼ぶ。十月事件時、決起情報を入手した今村均作戦課長はま
 ず永田と東條に相談、事を荒立てないよう橋本たちを憲兵に拘束させる方針を立てた。
・永田や東條はクーデターという手段はとらず、合法的な改革を目指していた。もっとも
 永田は三月事件の際、小磯国昭軍務長の求めに応じてしぶしぶ計画書を執筆していた。
 これがのちに皇道派の手に入り、永田殺害の遠因になる。
・永田と小畑はこの時期同じ参謀本部にいて、ソ連が所有していた北満鉄道(東清鉄道)
 の買収問題をめぐって決定的に対立した。対ソ戦重視の小畑が対ソ戦を行えばわが手に
 入るから買収の必要なしと主張したのに対し、対ソ戦よりも満州国の育成を重視する永
 田はソ連が売るというなら買った方がよい、と述べたのである。
・林ー永田ー東條のラインと、荒木、真崎、小畑らの対立が浮き彫りとなった。この対立
 はいわゆる「統制派」と「皇道派」の対立と呼ばれる。両派の違いは、精神主義的で対
 ソ戦志向の皇道派と、内部の統制を重視して対ソ戦より総力戦体制整備を進めようとす
 る統制派、というように説明される。
・1935(昭和10)年7月、真崎は彼を嫌うようになっていた林陸相間院宮参謀総
 長によって、教育総監の座を追われる。真崎の更迭に皇道派側は激怒し、永田をその黒
 幕と見なした。かくして永田は同年8月、皇道派の「相沢三郎」中佐により白昼の陸軍
 省軍務局長室で斬殺
される。東條は永田の遺した血染めの軍服をもらいに九州から私服
 で上京した。
・1936(昭和11)年2月、陸軍の一部青年将校が皇道派内閣の樹立を目指すクーデ
 ターを企て、岡田啓介首相邸などを襲撃した(2.26事件)。将校たちは天皇の命令
 で反乱軍として鎮圧され、真崎や荒木らは粛軍人事でいっせいに予備役入りとなった。
 ここの皇道派は壊滅した。
・東條は1936年4月、関東憲兵隊司令部の下に対共専門特務組織である警務統制委員
 会を設置し、満州国内の共産勢力の討伐を熱心に行った。東條は関東軍の満州支配の確
 立に、思想弾圧という形で辣腕を発揮したのである。
・東條は兄事する永田鉄山と結び、軍の実験確保を目指した。その手法は合法的なもので
 あった。東條は秩序の信奉者で、破壊者ではなかった。その過程で小畑敏四郎や真崎甚
 三郎と 路線対立し、激しい人事抗争を繰り広げた。東條の政治手法は、対立するはず
 の真崎に永田登用を自分で要求しに行くなど単純、直線的だった。よくいえば「正直」
 なのである。

日中戦争と航空戦
・1937(昭和12)年、東條は関東軍参謀長に転じた。植田謙吉・関東軍司令官の女
 房役であり、事実上関東軍を動かす重要ポストである。
・1937年7月、北京郊外で日本の支那駐屯軍と国民党軍の間に小規模な衝突が起こっ
 た。この戦火は中国各地に急拡大し、日中は全面戦争状態に突入していく。
・8月、関東軍は中央に「北支」に地方政権を樹立して、対ソ作戦準備と日満支等の経済
 ブロックの基礎を確立させ、少なくとも察哈爾、河北、山東各省の地域を粛正自立させ
 たいと主張した。中央はこれに反対したが、関東軍は察南・普北・蒙古の三蒙疆自治政
 府を樹立し、自己の勢力拡大を既成事実化していった。
・関東軍は異常な熱意でこの作戦に臨んだ。察哈爾派遣兵団司令部が編成され、その長は
 関東軍参謀長の東條で、関東軍司令官の定めた作戦計画により、司令官の名をもって指
 揮に任じたが、兵団は「東條兵団」と呼ばれた。兵団は大同を占領した。大同占領後、
 関東軍は中央に内蒙の徹底的攻略と北部山西省への進入作戦を具申、兵力増強を求めた
 が、参謀本部は不拡大方針を堅持してこれを認めず、大同付近要地の占領と作戦地域内
 察哈爾省の安定確保を命じた。作戦は一段落とされ、東條は軍命令で新京へ帰還した。
・東條の行動は、ほんらい部隊の指揮権を持たない参謀が部隊を指揮するという、異例の
 ものだった。日中戦争のどさくさに紛れて関東軍の縄張りを広げたいという野心から出
 た逸脱行為ともいえるが、本人は戦術家としての腕を実証したかったとみられる。
・1937(昭和12)年12月、南京が陥落した。北支那方面軍は北平に「王克敏」を
 首班とする中華民国臨時政府を樹立させた。蒋介石政権にかわる中国の中央政府を樹立
 し、後ろで操るための謀略工作である。
・この動きに対し、東條は関東軍参謀長として北支那方面軍に電報を打って牽制した。華
 北は関東軍の縄張りであるからよけいな手出しをするな、という圧力である。
・関東軍には、あくまで蒋介石政権を撲滅し、分治主義により各地方政権を緩く連繋する、
 中央政権を排した自治体を中国に樹立しようとする考えがあったからという。中国に中
 央政権を作ってしまうと、それが日本の言うことを聞かなくなった場合に厄介なので、
 あくまでも分割して統治しようという発想である。
・1937年9月、「石原莞爾」は関東軍参謀副長に任命され東條の部下となるが、満州
 国の自立をはかる石原とそれを認めない東條の間で確執が始まり、不仲は決定的なもの
 になっていった。東條と石原の意見がいちばん相違したのは、満州国唯一の政治団体で
 ある「満州国協和会」の運営方針であった。協和会の官僚化を批判する石原に、東條は
 従来の方針を変えようとしなかった。
・1938年1月、近衛文麿首相は声明を出し、関東軍の分割支配論とは異なり、中国に
 親日の新中央政権を樹立して事後の対中政策を有利に運ぼうとした。この声明により、
 蒋介石率いる国民政府との交渉による和平の機会は失われた。蒋介石は奥地の重慶まで
 下がって徹底抗戦の構えをとった。
・この間、陸軍では早期和平派の参謀本部と、強硬派の陸軍省が激しく対立した。
・1938年5月、東條は、第一次近衛内閣の陸相となった板垣征四郎の補佐役として、
 陸軍次官に就任した。東條を選んだのは、その事務能力を高く評価した近衛である。
・東條はここでも対中強硬論を主張した。東條は、蒋介石政権相手の和平交渉など行わず、
 従来の関東軍の手法通り、現地に傀儡政権をつくって日本軍がコントロールできるよう
 にすべきだ、と主張したのである。東條は満州事変時の慎重な態度から一転、一気に対
 外強硬姿勢に転じたようである。永田鉄山という重しが外れたためか。
・1938年11月上旬、参謀本部と陸軍省は一週間にわたる激論のすえ、国民政府を相
 手とすること および蒋介石を停戦の相手とすることで合意にこぎ着けた。参謀本部側
 で実務を担ったのが不拡大派の「堀場一雄」少佐であった。堀場は石原莞爾の「秘蔵弟
 子」といわれる。
・1938年12月、東條は航空総監に転出させられる。東條が次官の座を追われたのは、
 軍の管理する事業主懇談会での講演で「中ソ二正面作戦の必要性」を主張したからであ
 った。なぜ東條の中ソ二正面作戦は次官解任の理由となったのか。それは本人の意図を
 越えてさまざまな方面を刺激してしまう、政治的に不適切な発言だったからである。 
 第一に石原など陸軍内の事変不拡大派を刺激した。第二は予算を陸軍と取り合ってきた
 海軍にとって、東條の発言は陸軍の予算分捕り宣言に聞こえた。第三は日本の拡大戦略
 を警戒する諸外国である。
・これは、東條の不手際、政治センスの欠如といわれても仕方なかったろう。当時の東條
 は 「大いに勉強もしたが、何だか、最も優秀な大尉参謀」という感じがしていたとい
 う。軍人としての実務は優秀だが、外部との政治には向いていなかったのである。
・東條は天皇の命令と聞くや何のてらいもなしにすぐ従ったという。天皇陛下に関しては、
 東條は小学生のように忠臣であったという。東條は、下僚たちからよくいえば、正直者、
 悪くいえば御しやすいと思われていた。東條のことをだれかが「電気仕掛けみたいな人
 物」といったという。
・陸軍で航空に先見性を持っていた人物といえば、石原莞爾とその著作「世界最終戦論」
 ばかりが取り上げられる。だが、地上を這って戦をしてきた陸軍にとって、航空戦備の
 絶対性、将来性は石原莞爾のみならず誰の目にも明らかだった。
・1940(昭和15)年春、ヒトラーの独軍は周辺諸国に攻勢を開始し、仏、蘭などを
 相次いで占領した。残る英国へも連日空襲を行い、勝利は目前であるかのようにみえた。
・この動きを目の当たりにした日本陸軍では、独伊と軍事同盟を結んで仏蘭英の植民地で
 ある盗難アジア地域に進出し、石油などの資源を確保して日中戦争の早期解決をはかろ
 うという気運が高まった。ぐずぐずしていると南方地域にまで独勢力が進出してくるの
 で、先手を打とうという腹づもりもあった。
・陸軍が日中戦争解決を急いだ背景には、国内からの不満や批判の高まりがあった。
・1940年2月、衆議院で「斎藤隆夫」議員が有名な「反軍演説」を行い、陸軍を真正
 面から批判した。一般的に斎藤の演説は、「反軍」が強調されている。しかし、陸軍が
 この戦争で掲げた「東洋永遠の平和」や「東亜新秩序」確立のための「聖戦」という大
 義名分を真っ向から否定し、弱肉強食、優勝劣敗、適者生存を肯定する旧態依然たる戦
 争観に立つもので、近衛声明の無賠償及び領土非併合主義に反対する代物であった。
 つまり斎藤は、戦争に勝っているのだから軍は中国からきちんと賠償や領土などを取れ、
 そうでないと戦争で身内の戦死傷や重税、生活難などの犠牲を払ってきた国民はとうて
 い納得できないと主張したのである。
・1940年3月、陸軍は中国に傀儡の「汪兆銘」政権を樹立させ、日華基本条約を結ん
 で日本の軍隊を駐屯させると約束させた。同年11月、枢密院委員会で審議された際、
 「小幡酉吉」顧問官は中国側の抗日意識はなお盛んである、こんな条約を結んでも大正
 時代の「対華21カ条要求」と同じく、無効におわるだけだと政府を批判した。
・これに対して陸相になっていた東條は激昂した。東條が怒ったのは、小幡が斎藤と同様、
 なぜ勝っているはずの日本が中国から賠償金も領土も取れないのか、と痛いところを突
 いたからである。こうなると、陸軍としても賠償金・領土はともかく、何らかの利権
 (この場合は駐兵権)を中国から取ることのないまま戦争を終結させることは、自国民
 の手前、不可能になる。この国民感情と駐兵権が、やがて東條を大いに苦しめことにな
 る。
・当時の「米内光政」(海軍大将)内閣は、いくら日中戦争解決のためとはいえ、英米と
 の関係を決定的に悪化させかねない独伊との同盟締結に消極的だった。そこで陸軍は、
 「畑俊六」陸相を単独辞任させ、後任の推薦を拒否するという手段で米内内閣を倒し、
 後継の首相に反米英の革新派とみられていた近衛文麿を擁立した。
・近衛は米英に対して強硬姿勢で臨んだ。そして同じく強硬派にして事務能力の高い東條
 を陸軍大臣に選び、1940(昭和15)年7月に内閣が発足した。近衛首相自身は小
 畑や真崎たち皇道派軍人との関係が深く、したがって東條との関係は微妙であった。近
 衛内閣のもとで、1940年9月に「日独伊三国同盟」が締結される。
・もっとも、東條自身は陸相就任に必ずしも積極的ではなかったようだ。育ちが、そうな
 のだ。政治や外交や経済の方面には、とうてい、向きようがない。航空総監こそ最も適
 任でありピッタリしているのが、東條の素質なのだと言われていた。
・しかし、東條は、いったん陸相になると、のちに首相、参謀総長まで兼任して、戦争に
 突き進むことになる。軍人たちが幼年学校からたたき込まれた「おれがやって、やれな
 いことがあるか」という強烈な自負心は根が純真であるだけに、なおさら、この性癖は
 烈しく発動して、はばかることを知らない。ただ一本気に突進する。勇ましく尖鋭な実
 行力が、障害する対象を打ち倒し、まっしぐらに、どこまでも走らずにはいかない。
・陸軍が南方進出論を唱えたのは英米可分、つまり戦争の相手を英一国に限定できると考
 えていたからだが、海軍は英米不可分、つまり英国との戦争は必然的に米国との戦争に
 もつながると考えていた。 
・海軍の弱みは、対面上、米国に勝てないなどとは口が裂けても言えない点にあった。も
 し対米戦に所詮自身がないとか、対米戦の決意は到底できないとかいえば、陸軍はそれ
 なら物をよこせ、予算を減らせというに決まっているからであった。
・東條の仕事ぶりは、たしかにカミソリ大臣、電撃陸相と呼ばれるに値するものだった。
 東條は業務の細かいところまで目を配り、不手際があれば叱責している。東條には人情
 に気を配る面もあった。
・東條の”悪名”をなした理由の一つに、1941(昭和16)年1月、陸相として出し
 た訓令「戦陣訓」がある。「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すこと
 勿れ」という一節が降伏・投降を厳禁したものとされ、前線の将兵を絶望的な死に追い
 やったというのである。
・戦陣訓は当時の軍事課長・「岩畔豪雄」が提案して1939年に作成がはじめられた。
 時の陸相は板垣征四郎だった。しかし1年半かかり、完成した時には東條が陸相だった。
 東條はただ乗っかっただけなのに、悪者にされたと同情された。
・とはいえ、日本軍における捕虜否定の観念がどのようにしてできたかは重大な問題であ
 る。日露戦争で日本軍が露軍捕虜を厚遇したことは有名だが、他方で露軍の捕虜となっ
 た日本軍将兵を国民が白眼視する姿勢が一部で生じていた。
・日露戦争後の1907(明治40)年、日本は捕虜虐待を禁じたハーグ陸戦条約に署名、
 1911年に批准している。
・第一次世界大戦で日本は独軍の捕虜を厚遇したとされるが、一部収容所では捕虜を殴打
 するなどの事件が起こっている。ちなみに殴打して国際問題となったのは当時久留米収
 容所長だった真崎甚三郎である。
・その後、上海事変で中国軍の捕虜となった「空閑昇」陸軍少佐の自決事件、ノモンハン
 事件
で捕虜となった将校への自決強要などを経て、捕虜否定の観念がしだいに日本軍内
 に浸透していく。
・陸軍が戦陣訓を制定した第一の目的は、中国戦線で著しく乱れていた軍紀の引き締めに
 あった。諸悪の根源は飲酒とみていた。
・陸相の東條は、女性に対してもあるべき総力戦像を力説していた。「近代戦は軍事行動
 だけのものではありません。経済戦が伴い、思想戦が伴います。ほんとうの国民の総力
 戦によってのみ目的は貫かられるのであります」と訴えている。
・陸軍が民間の国防婦人会に協力したのは、第一次大戦下独国の食糧不足が「もう戦争は
 やめて貰いたい」と婦人の精神を立ちどころに挫かせて内部崩壊と敗戦をもたらしたと
 いう認識にもとづき、「日本では台所から悲鳴の挙がらないようにせねばなりませぬ、
 それが戦争と同時におこります経済戦や思想戦に勝つ基となる」と考えていたからであ
 った。
・このように、東條の「思想戦」や「経済戦」として「国民の給養」に気を遣う態度は、
 彼の個人的なものというよりは、第一次世界体制後の陸軍が組織として主に敗戦国の独
 国より得た”教訓”に根ざしていたものとみた方がよい。
・第一次大戦で連合軍に海上封鎖された独国では、深刻な食糧不足が発生し、女生と子ど
 もを中心に76万人もの餓死者を生んだことがある。この飢饉は「カブラの冬」と呼ば
 れている。
・東條とて、自分の言動がインテリ層に受けないことぐらいわかっていただろう。東條は
 インテリを切り捨て、ヒトラーとはまた別の、「大衆層」に受ける「総帥」像作りに邁
 進していたのだ。各所への電撃訪問、庶民のゴミ箱視察も、少なくとも本人にとっては
 「総帥」としての戦争指導の一環であった。
・東條や平沼は、米国のハル国務長官ルーズベルト大統領ではなく、米国民に日本の立
 場を訴えることで、その政府の強硬姿勢を引っ込めさせ、日独伊側に有利な情勢を作れ
 ないか、と言っているように思える。彼らは内心では対米戦争に乗り気ではなかったの
 である。しかしがなら「大東亜共栄圏」の建設や、日本が何らかの利権を中国から得た
 上での日中戦争解決については、およそ譲る気はなかったのであった。
・1941(昭和16)年7月、関東軍は独ソ戦に呼応して、関東軍特殊演習と称し、対
 ソ戦の準備を始めた。東條は陸相として、参謀本部の要求通り85万人もの兵力動員に
 同意した。注目すべきは、当時の陸軍が倒し宣戦布告は米国の中立発動、石油の全面禁
 輸を招くと認識していたことである。なぜそんな危険な賭けに東條があっさり同意した
 のか、率直に言って理解しかねる。
・結局、極東ソ連軍の兵力が思ったほど欧州戦線に移動しなかったなどの理由で対ソ武力
 発動は見送られた。 
・陸軍はもう一つ重大な行動を起こしていた。南部仏印への進駐である。進駐時代は平和
 裏に行われたが、これを日本側の重大な挑発行為とみた米国は、在米日本資産凍結、対
 日石油全面禁輸でこれに応じた。陸海軍とも、これだけの強い反発を招くとは予想して
 いなかった。彼らは交渉による禁輸の解除か、南方武力行使による南方油田地帯の占領
 かの二者択一を強いられた。
・近衛首相は、東條陸相と及川古志郎海相に日米巨頭会談を行いたいと告げた。及川はそ
 の日のうちに賛成したのに対し東條は翌日になっていちおうの賛意を示した。
・東條は政治家を端から信用せず、一度決めたことはそれが日米開戦であれ何であれ、必
 ず実行すべきだという信念を持っていた。貴族や官僚と軍人とでは肌が合わないのであ
 る。とはいえ、陸軍がその後を引き受けて対米戦争という国家の大事を担おうなどとは
 考えておらず、あくまで近衛に全責任を負わせるつもりであった。
・結果からいえば日米会談は実現せず、したがって対米妥協もなかった。
・この時点の彼らは、米国との戦争は「百年」たっても続き、勝ち目はないと考えていた。
 東條も心中深くでは、日中戦争を始めたのが間違いだったと後悔していたかもしれない。
 しかし今さら後戻りはできなかった。
・1940(昭和15)年10月、内閣に総力戦研究所が設けられた。これにゴーサイン
 を出した一人は陸相の東條である。研究所は多くの若手官僚や陸海軍人を集め、国家総
 力戦に関する教育研究を行った。
・1941年夏、研究所は第一期研究生の机上演習を行った。「南方に油をとりに行った
 らどうなるか」という発想のもと、思考訓練したものである。最後の講評で「南方作戦
 の推移は長期戦必至となり、あわせて北方問題の危険性を説き、結局日本の国力はその
 負担にたえられず、したがって敗北すると想定し、日本の国力充実を未だしとして、戦
 争不可能なることを結論した」
・最も熱心に傍聴していた東條陸相は、最後に「これはあきまで演習と研究であって、実
 際の作戦とは全く異なることを銘記しておいてもらいたい」と述べた。演習と実戦はあ
 くまで別物というのだ。 
・9月、近衛首相と杉山参謀総長永野修身軍令部総長は並んで天皇に「帝国国策遂行要
 領」を内奏した。天皇は杉山に「絶対に勝てるのか」と大声で詰問し、「外交と戦争準
 備は並行せしめず外交を先行せしめよ」と釘を刺したうえでようやく承認した。天皇は
 翌日の御前会議で、異例なことにみずから明治天皇の和歌を詠んだ。これは天皇による
 避戦の意志表示である。
武藤章軍務局長や東條陸相にとって、米国の要求する中国撤兵を呑むことは、実質的に
 は重慶への屈服であり、侮日の風潮が支那を支配することは火を見るよりも明らかであ
 って、到底忍び得るところではいとの見方は、変わらなかった。
・陸軍省育ちの東條の頭には、常に金のことがあった。陸軍が対中戦争に投じた巨額の予
 算は国の将来に対する投資である。国民にもそう説明し納得させねばならないというの
 である。しかし中国から撤兵すれば投資はすべて無駄金と化し、陸軍に対する国民に支
 持は完全に失われるだろう。それだけはできないと考えていたのである。
・東條と杉山は、海軍が自分の面子や利益ばかり考えて、対米戦はできないから反対とは
 っきり言わないのは「無責任」だと批判している。つまり海軍にそう言ってほしいので
 ある。
・東條は内閣総辞職による事態打開を考えていく。当然東條も陸相を辞職し、誰か別の人
 間が対米開戦と屈服のいずれかを選ぶ責任を負うことになる。これは東條にとって、主
 観的には9月6日の御前会議の決定が軽率だったことの引責辞任かもしれないが、客観
 的には対米屈服の責任を海軍に全部押し付けたうえでの退却である。

東條内閣と太平洋戦争
木戸幸一内大臣は、東條を首相に推し、東條自身の手で時局を収拾させるという奇策を
 考え出した。強硬派の東條に対英米戦争の決定を再検討するよう命じれば、陸軍内部を
 抑えて実行するだろう、という読みであった。宮中に参内した東條は天皇により組閣を
 命じられた。その後、東條と及川に木戸は、先の御前会議決定を白紙に戻して再検討せ
 よという天皇の指示を伝えた。
・東條は組閣の大命どころか近衛内閣倒壊の件を叱責されると思って参内したため、突然
 のことに茫然となったという。東條が茫然としたのは、組閣は陸軍自らが政治の全責任
 を引き受けたことを意味するが、それは、対米英戦争画不可避となり抜き差しならぬ状
 況に追いつめられていた陸軍が、元老・重臣勢力に政権を半ば押し付けられたものとい
 えたからである。かつての陸軍は自らは責任を取ることなく、内閣で自分の利益のみを
 主張していればよかったが、現役の陸軍将官たる東條の首相就任は、そうした無責任な
 態度を許さなくなったのだ。
・東條は「正直」にも大命を拝辞せず、組閣に取り組んだ。その心中は感激と厳粛の意気、
 さらになお、おれの辞書には不可能の字はない、攻撃精神と必勝の信念と自負の一念が
 あっただろう。武藤章や佐藤賢了の作った陸軍の組閣名簿を見ようとしなかったのは、
 日米交渉を衆議を尽くしてまとめる、そのためには陸軍の個別利害に固執してはならぬ
 という考え方によっただろう。
・東條は特例で大将に昇任し、自ら陸軍大臣と内務大臣を兼任した。陸軍大臣を兼任した
 のは日米交渉にあたり陸軍内を統制するため、より大局的に言えば国務(政治)と統帥
 (作戦)の一致をはかるためである。内相まで兼任したのは、このまま戦争をせず米国
 の申出に屈した場合には、2.26事件以上の暴動も起こるやも知れず、その際には断
 乎これを弾圧する必要があり、これがためには、陸相と警察権を有する内相とを兼任す
 る必要があったからだという。
・東條は常に強気で、対米戦争に負けるなどとは思っていなかったといわれる。しかし本
 心では中国撤兵と日米戦争を秤にかけて煩悶していたのである。そもそも東條や武藤の
 ようによく勉強する人が、米国に負ける、あるいは日中戦争と同じく泥沼化する可能性
 を全然感じていなかったとは思えないのだ。本心では海軍に対米戦争はできない、とい
 ってほしかったのではなかろうか。
・ところが、海軍大臣を拝命した「嶋田繁太郎」は、前任と違い、対米英戦争もやむなし
 と明言したのだ。海軍は海軍で対米屈服の全責任を押し付けられるのを拒絶したのであ
 った。
・連絡会議は「帝国国策遂行要領」を採択し、対米英戦争準備と外交の並行を決定した。
 武力発動の時機を12月初頭と定めて陸海軍は作戦準備を完整するが、対米交渉が12
 月1日午前零時までに成功すれば武力発動を中止する、というものである。
・「原嘉道」枢密院議長は、御前会議のあと、東條に対し、戦争の大義名分について、こ
 の戦争が「人種戦」にならないようにと指摘した。日本が戦争の図式を「黄色人種対白
 色人種」と設定してしまうと、同盟国である独伊が米英の側に回って日本は孤立し、名
 実ともにふくろだたきとなる可能性が出てくるからである。枢密院議長の質問・発言は
 天皇の意を受けてなされるので、これは天皇の意向である。
・のちに出された開戦の詔書における開戦目的は「自存自衛」の一本に絞られ、白人支配
 からの黄色人種解放の色合いを含む大東亜共栄圏建設は入らなかった。これには御前会
 議における議論の影響があるとみられる。対米英戦争は、勝算はおろか、その大義名分
 の決定すら、きわめて困難なものだった。
・東條は「米国は元来日本は経済的降伏すると思っているのであろうが、日本が決意した
 と認めれば、その時機こそ外交的の手段を打つべき時だと思う。私はこの方法だけが残
 っていると思う」と、日本が強い決意を示せば撤兵(駐兵)問題で米側が折れるはずと、
 11月5日段階では、なお外交交渉に一縷の望みを託していたのであった。
・常に強気な指導者ぶりを示していた東條にもおびえていたものがあった。東條がおびえ
 たいたのは主に皇道派と右翼およびそのテロ、そして首相退任後もなお隠然たる存在感
 を持つ近衛だったようにみえる。しかし実際には、東條のおびえの対象は右翼や近衛だ
 けではなかった。平和主義者などへの警戒を示していたからである。東條の中では、国
 家の維持存立には陸海軍の一致が必要だが、それを壊そうと平和主義者、自由主義者、
 共産主義者が狙っており、その勢力は閣僚にまで及んでいたというのである。東條はど
 こかで企てられているかもしれない策謀の影におびえていた。このおびえが戦時下での
 政府批判弾圧を厳しいものにしていく。
・12月1日午後、御前会議が開かれ対米英蘭開戦が最終決定された。冒頭、東條は首相
 として、もし米国の要求に屈すれば、帝国の権威を失墜し支那事変の完遂を期すことが
 できなくなるうえ、ついには帝国の存立も危殆に陥らしめる結果になる。よって開戦は
 止むなしと述べて審議を求めた。
・12月2日、開戦日は12月8日と確定され、進攻作戦開始が発令された。
・開戦過程における首相東條の基本的な態度は、少なくとも主観的には公式の会議を重ん
 じることだった。国家の大事を会議で衆議を尽くして決めることは、明治以来、大日本
 帝国のあるべき国家意志の決定方法であった。東條は天皇の忠実な軍事官僚として、天
 皇の前で全会一致の手続きを重んじたのである。
・東條は、その会議で華北駐兵という”お家”の利益は強硬に主張したが、それを主君や他
 の”家”に説得はしても、力で押し付けるようなことまではしなかった。天皇が会議で対
 米英戦は白紙に戻せといえば戻したし、仮に海軍が戦争はできないと明言すれば、話は
 それまでで戦争はなかったろう。会議で合意がとれないからである。もっとも、天皇は
 対米英戦絶対不可とまでは発言しなかったし、海軍はある段階から戦争はできると言い
 出した。
・当時、企画院総裁だった「鈴木貞一」は、敗戦後、「開戦は国内政治だった」と述べた。
 まず陸軍の日中戦争早期終結という政治事情があった。陸軍の強硬姿勢が主として国民
 の不満の爆発を警戒してのものだったことを思えば、それは国内政治の問題である。
・この問題はやがて、対米戦備を口実に予算や物資を獲得してきた海軍の利害や面子、つ
 まり政治問題を浮き上がらせた。対米開戦は、短期的には両者の抱える問題をもっとも
 すみやかに解決しうる手段だった。
・東條は、日米交渉のあいだ、すさまじい緊張にさらされていたのだろう。悲愴な顔をし
 ていた東條は、一度、戦線布告してしまったら、ずっと柔和な顔になったという。開戦
 か臥薪嘗胆かを決める責任を負わされた東條にとって、一番苦痛だったのは、”決めら
 れない”ことだった。どちらでもいいから早く決めてしまって楽になりたいという思い
 が、開戦という最終的な選択に影響していたかもしれない。この気持ちは東條一人のも
 のではなく、天皇や他の指導者、そして国民も同じだったろう。
・1941(昭和16)年12月8日、海軍の真珠湾攻撃、陸軍のマレー半島上陸によっ
 て対米英戦争の火ぶたが切られた。この戦争には名称をめぐる陸海軍間の食い違いがあ
 った。
・陸軍は「大東亜戦争」と称し、強い正面である太平洋方面は持久戦を、薄弱な正面で屈
 敵の見込みのある重慶・インド洋方面では日独伊連繋による「決戦的方策を講ずる」と
 した。いっぽう海軍側は「太平洋戦争」「対米英戦争」を提案し、太平洋正面で「決定
 的に戦う」、つまり短期決戦をめざす、という「戦争指導の根本観念上の相剋が潜在」
 していた。そしてその相剋は解消されないまま戦争に突入していったのである。
・東條個人は「大東亜共栄圏建設が基本」と考えていたようである。すなわち東南アジア
 における日本の政治的・経済的勢力圏の建設を戦争目的としていた。 
・そもそも対米英蘭戦争は、民族解放や植民地支配の是非を争点に戦争に突入したのでは
 なかったが、国防資源の獲得や経済的「搾取」という実質的な目的をカムフラージュす
 る必要性、さらに戦争終結の直接的な契機が対英戦争に求められたことによって、マレ
 ー半島からビルマ、さらにインドをうかがう軍事攻勢の大義名分を求めるとすれば、そ
 れは「自存自衛」の枠組には収まらず、英帝国下に呻吟する民族の「解放」のほかに
 はなかったとされる。
・1942(昭和17)年7月、シンガポール占領の戦功を挙げた「山下奉文」中将が凱
 旋して天皇に拝謁することなく、直接南方から満州へ第一方面軍司令官として赴任する
 ことになった。陸相として人事権を握る東條が山下を遠ざけようとしたとして噂された。
 山下は皇道派で、東條とは対立関係にあった。
・第二次大戦中、日本軍の非人道的行為として糺弾されたのが、捕虜虐待である。米国の
 民間抑留者が行った調査では、日本軍の捕虜となった米国人3万3千587人のうち、
 1万2千526人が拘留期間中に死亡した。37.3パーセントの死亡率は、ドイツ軍
 の捕虜となった米国人の死亡率1.1パーセントと比べるとはるかに高い。この悲惨な
 数字の背景には、日本側の自軍に対する捕虜禁止の姿勢があった。それは戦陣訓でにわ
 かに周知徹底されたものではない。それは単に軍の伝統だからというだけでなく、降伏
 を認めれば舞台や兵士がろくに戦わず降伏するのではないかという不信感が根底にあっ
 た。
・対米英戦争開始後の42年、南方各地で大量の米英蘭濠将兵が日本軍の捕虜となった。
 その数は南方作戦が一段落した時点で25万人にものぼった
・陸軍は外地・本国各地に俘虜収容所を作るとともに、陸軍庄内に捕虜について調査し、
 結果を本国へ通報する俘虜情報局、捕虜を管理する俘虜管理部を置いた。いずれも監督
 責任は陸相たる東條にあった。しかし、収容所へ入るまでの捕虜監督権は参謀総長の管
 轄下にある各部隊にあったため、陸軍省はその状況を十分把握できなかった。
・東條は捕虜労働について「我国現下の情勢は一人として無為徒食するものあるを許さな
 いのであるから、俘虜もまたこの趣旨に鑑み、大いにこれを活用せられるるように注意
 を望みます」「人道に反せざる限り厳重にこれを取締りかつ一日といえども無為徒食せ
 しむることなくその労力、特技を我が生産拡充に活用する等総力を挙げて大東亜戦争遂
 行に資しせんことを努むべし」と、厳しき臨む姿勢をみせていた。総力遂行のため捕虜
 を「無為徒食」させまいとする東條の態度が、部下や出先に強調されて受け止められ、
 結果として虐待につながったのは否定できない。この問題に関する連合国からのたび
 重なる抗議は軽視、ないしは無視された。
・1942(昭和17)年春、日本近海に忍び寄った米軍航空母艦から発信したB−25
 爆撃機16機が日本本土各地を爆撃した。そのうち1機がウラジオストクに向かい不時
 着、残りは中国大陸に離脱して空中脱出などを行ったが、乗員8名が日本軍に捕獲され
 た。彼らを捕虜として待遇するか、戦争犯罪人として厳罰に処するかが問題となった。
 参謀本部はただちに処刑せよと主張したが、東條は参謀本部と協議して、処罰のための
 規則を作ることにした。「捕虜は丁寧に取扱いせよ」という天皇の意向に沿ったとみら
 れる。
・法令では事後法となり処罰できないので、各軍に「軍律」を制定させて遡及適用させ、
 無差別爆撃を行ったと認定した者を国際法違反の戦争犯罪人として処罰、そうでない者
 を捕虜とすることにした。支那派遣軍の軍律会議は8人全員を死刑としたが、東條は
 「天皇のお心持ち」を考えて小学生を機銃掃射した3人を死刑とした。
・1942年7月から43年10月にかけて、もっとも悲惨な捕虜の強制労働が行われた。
 タイとビルマを結ぶ「泰緬鉄道」の建設工事である。この工事のように多く捕虜を使用
 する重要な決定は、杉山元の参謀本部と東條の陸軍省が協議してなされた。
・高温多湿かつ不衛生な環境のもとで大量のアジア人労働者、白人捕虜が突貫工事に動員
 され、苛酷な労働を強いられた。東條は俘虜管理部長と医官を現地に派遣し、虐待を行
 った鉄道中隊長を軍法会議にかけたが、それ以上の手は打たなかった。
・泰緬鉄道の死者は、捕虜1万1千234人〜1万6千人、日本軍約1千人、アジア労働
 者約3万人から6万人と言われている。
・日本側が戦後に設置した俘虜関係調査中央委員会は、鉄道建設で多数の死者を出した責
 任は、建設を命じた参謀総長杉山元、捕虜の使用を許可した陸軍大臣東條英機、建設の
 責に任じた南方軍総司令官寺内寿一が負うべきであるとしている。連合国側は彼らの責
 任を追及するとともに、捕虜収容所や鉄道隊の関係者を捕虜虐待の罪で裁判にかけ、処
 罰した。しかし、実際に計画を立案指導した南方軍幕僚たちの責任が問われることはな
 かった。
・陸軍省兵務課の山本中佐が「全国民は銃剣術等の武術をラジオ体操の如く普及し敵の落
 下傘兵ぐらいは 竹槍で突き伏せる覚悟が必要だ」と力説した。敗戦後、竹槍は無謀無
 能な指導者としての東條の代名詞となるが、少なくともその始まりは、本土上空に進入
 した飛行機から降下した米軍パラシュート部隊ならば女性といえども彼らを地上で待ち
 かまえ、突き伏せるくらいのことはできるだろう、という程度の発想によるものだった。
・東條は選挙で選ばれた指導者ではないが、軍が排撃した政党指導者にならい、民意を基
 盤とした政治をしようとしていたのは間違いない。逆に言えば、東條にとっても民意を
 無視した政治は不可能になっていた。
・東條が「電撃」的かつ重点的に慰問・視察したのは、転廃業者や戦死者遺族など、戦争
 で人生を狂わされた人々とその関係者であった。1942(昭和17)年6月、東條は
 国民勤労訓練所を背広姿で視察している。同訓練所は戦争で転廃業を強いられた人々の
 職業訓練施設である。
・たしかに東條の「人情家」的振る舞いは、本人の「庶民派」的気質に由来する念もあっ
 たのだろう。だが、東條の視察・慰藉が配給所や戦死者遺族に集中していたのは、それ
 が総力戦体制に対する国民大衆の不満抑制、すなわち政治のための”演技”であったこと
 を示す。
・石原莞爾はよく東條のライバル視される。石原が一国の指導者として起っていれば戦争
 は別の結果を迎えたのでは、と考える人もあろう。しかし、日本の総力戦指導者は東條
 以外にあり得なかったことが、わかるはずだ。傲岸不遜な石原にゴミ箱のぞきの演技は
 無理だからだ。もし永田鉄山が生きていれば、案外器用にこなしたかもしれない。
・東條が「上奏癖」といわれるほどに天皇への報告を怠らなかったことにより、その信任
 をかちえたことは有名である。東條がゴミ箱視察の結果をわざわざ報告したのはなぜだ
 ろうか。それは、天皇が国民の生活困窮を治安維持にかかわる重大問題とみなしていた
 からである。
・天皇が皇太子となった翌年の1917年にロシア革命が起こり、1923(大正12)
 年には無政府主義者による皇太子暗殺未遂事件(虎ノ門事件)が起こっている。時の政
 府は治安維持法を制定して彼らを厳しく弾圧した。そのような時代に即位した天皇は治
 安問題に強い関心を持ち、内務大臣などにしばしば状況を報告させていた。
・東條自身も、第一次大戦時の独国民の飢えが敗戦につながったことを重要視していた。
 そんな二人にとって、民が飢えているかどうかは重大問題であった。東條はその視察を
 部下に任せず、自分でやっていた。天皇にはそんな東條が好ましく見えたのだろう。
・軍人東條にとって優先すべきは戦争に勝つことであり、国民生活の維持は二の次であっ
 た。東條は日独の国民生活を比較している。ヒトラーが第一次大戦の苦い経験に懲りて、
 自国民への食糧供給を占領地から収奪により戦争末期まで維持したのは有名である。し
 かし島国で乏しい船舶を軍の作戦と鉱物資源の輸送にあてねばならない日本では、独国
 のような手段は難しかった。そこで東條みずから「人情宰相」を演じ、人々の不満を吸
 収するしかなかったのだ。
・1942(昭和17)年6月、日本海軍はミッドウェー海戦で空母4隻を失うという大
 敗を喫し、ここの海軍の抱いていた短期決戦の夢は破れた。その報を聞いた東條は執務
 室で「海軍がなくなってはもうお仕舞だよ」と目に一杯の涙で言ったという。
ガダルカナルの戦いに直面した陸軍は「随所随所に敵の戦力を撃滅すれば、我は戦争の
 目的を達成することができよう」と考えた。つまり、ガダルカナル奪回は現に進展しつ
 つある南太平洋正面における対米決戦を断乎戦い抜くことを意味していた。
・東條は10月下旬の攻勢失敗後もガ島奪回の姿勢を崩さず、作戦に失敗には極度の不満
 を表明した。
・12月、大本営と政府は、今後「御前における大本営政府連絡会議」をしばしば開催す
 ることを了解した。これまで、いわゆる御前会議と呼ばれていたものは、1937(昭
 和12)11月に閣議決定された「大本営政府との連繋に関する件」に基づく「御前に
 おける大本営政府連絡会議」であった。しかし東條は、より軽易に開ける「御前におけ
 る大本営政府連絡会議」を設置した。従来の「御前会議」との違いは枢密院議長が参列
 しないことである。よくいえば首相として天皇の権威を背景に戦争指導上の意思決定の
 迅速化をはかったといえるが、悪くいえばあれこれと質問してくる枢密院議長を外した
 ともいえる。
・東條は陸軍大臣でありながら、その職権を行使して統帥部の作戦に介入していた。部隊
 や物資を運ぶ船舶の量を決定する権限は東條にあったからである。ガダルカナル島への
 増援を行う船舶の量をめぐって東條と参謀本部は対立した。参謀本部がガダルカナルか
 らの撤退を頑として受け入れなかったのは、強気な東條に対する意地の張り合い、面子
 があったと見ている。
・東條は、ガダルカナル戦でもうひとつの「卓見」を示していた。同方面の制空権確保の
 重要性である。「辻政信」参謀がガダルカナルの現地へ飛び、強引な作戦指導を行った
 のはよく知られているが、そのきっかけとなったのは、東條が「この方面(東南太平洋)
 の作戦は楽観できないような気がするよ。心配でならぬ。君は総長に申し上げて、なる
 べく早く、この方面の現地の作戦指導をやってくれんかなあ。ラバウルから南にも西に
 も島が続いているのに、どうしたことか飛行場が続いていない。これでは制空権も制海
 権も失うようになりそうじゃ」と言ったことにあるという。東條は、ガ島作戦における
 制空権確保の重要性を、控え目ながらも陸軍部内でいち早く指摘していたのである。
・しかし東條は必ずしも投入に積極的な態度をみせなかった。軍令の立場からは早期投入
 が望ましいが、軍政の立場からは戦力を浪費したくないし、部内からの反対論も強い。
 こうした葛藤が東條にはあったのではないか。結局、ソロモン・ニューギニア方面への
 陸軍航空隊投入は、「陸軍航空を出せないのか」という天皇の三度にわたる指示により
 実現した。 
・東條は開戦から約1年のあいだに「武藤章」と「田中新一」という二人の実力者を南方
 へ左遷した。東條は自己の後継者を相次いで追放したともいえる。この行動は巨大組織
 のトップとしてふさわしいとはいえないが、本人は気にしていなかった。なぜなら自分
 でやった方が仕事は早く進むと考えていたからだ。
・ガダルカナル戦以降、首相兼陸相の東條は、国務と統帥の一致に悩むことになった。そ
 んな1943(昭和18)年9月、第17師団のラバウル派遣問題が生じた。海軍は南
 太平洋航空決戦の拠点たるラバウルの防御を固めるべく、参謀本部に第17師団の派遣
 を要請した。杉山の参謀本部はこれに応じ、東條に同意を求めた。東條は派遣に反対で
 あった。すでにソロモン・ニューギニアへ数個師団をつぎこんだのに、敵の上陸地点を
 一つも奪回できていない。補給が続かず、兵を飢餓と弾薬の欠乏に陥れている。これは
 陸軍の士気、統帥部に対する国民の信頼にかかわる。17師団をラバウルへ出しても同
 じ轍を踏むだけだと思ったからである。しかし作戦を統括する杉山がどうしてもという
 ならそれ以上は反対できず、仕方なく同意した。
・東條に言わせれば、そもそも海軍の懇請に幻惑されて陸軍の空陸戦力をソロモンまで出
 したのが間違いであった。ミッドウェー敗戦の時点で「戦略守勢態勢に転移すべき」で
 あった。 
・1943(昭和18)年11月、大東亜会議が開催されたが、タイのピブン首相は健康
 上の理由を挙げて参加しなかった。戦前からの独立国だったタイは他の国と一緒に扱わ
 れるのを避けたい、米英と日本の間で可能な限り中立を保ちたい、という方針があった
 という。怒った東條は「タイに2,3師団増派し得ざるや」と参謀総長に提案している。
 東條が「大東亜」の指導者との関係に言及するときしばしば「抱き込む」という言葉を
 用いたが、ここにも相互信頼とは本質的に異質な原則によって東南アジアの諸民族に対
 処しようとした戦時期日本の本質が示されている。
・大東亜会議後、日本の戦争目的は混迷を深めていく。もともと戦争目的を「自存自衛」
 の一本に絞っていた海軍は、大東亜共同宣言や「民族解放」に批判的であった。それら
 は「国防資源の急速戦力化」の妨げとなり、戦争を「人種戦」に追いやってしまいかね
 ないからである。
・結局、東條にとっての大東亜共栄圏はあくまでも日本を「盟主」とする排他的な経済圏
 にとどまり、普遍的な自由や平等を旨とするものではなかった。
・東條内閣は国内に独裁体制を敷いたというイメージが一般的だが、議会対策についてみ
 ると必ずしもそうとはいえない。議会は国家総動員法などの制定により無力化したとい
 われるが、憲法で天皇の立法大権を協賛すると定められた存在であり、その議員は普通
 選挙で選ばれていた。国民を陸軍の支持基盤とみなす東條は議会の動向を無視できなか
 ったが、彼を含む陸軍は政治には素人であり、議会対策のノウハウを持たなかった。い
 きおい、旧政党勢力との連携を目指さざるを得なくなってくる。
・その議会は日中戦争を「聖戦」として肯定し、戦時体制の形成、強化を容認した。その
 ため議会が政策に関与する度合いは激減し、法案のほとんどは政府提案となり、さらに
 その大部分が原案のまま可決された。しかし、政府の方針が戦時体制強化を越えた体制
 「革新」をもたらす可能性が高い、あるいは官僚統制の行き過ぎと認識されると、議
 会は紛糾することになる。
・東條らは戦後の豊かな未来を国民に語ったり、約束することはなかった。それは必然的
 に外国からの資源の収奪、すなわち侵略戦争とのイメージを国内外に呼び起こしてしま
 うからである。ただ、東條が「戦後経営の夢」を何も語らなかったかというと、そうで
 もないように思う。
・1942年、東條が総裁を務める「大政翼賛会」は、新聞社と共同で戦意高揚のため
 「国民決意の標語」を募集し、国民学校5年生の少女の(実際は父親が作った)「欲し
 がりません勝つまでは
」が選ばれた。これについて、「国民は勝って何かを手に入れる
 という下心をもって戦争をしていたそんなことだから負けたのだ、という批判する者も
 あった。
・この批判は非常に興味深い。東條と日本国民は、この戦争に勝てば何かが手に入り、豊
 かになれるという暗黙の了解のもとに戦争をしていたかもしれないのだ。

敗勢と航空戦への注力
・ガダルカナルの敗戦により、「統帥」東條の権威は衰えていく。東條に対する最初の批
 判の矢は意外にも、戦時中形骸化していたとされる議会から発せられた。
・衆議院議員・「中野正剛」は1943年1月の朝日新聞に掲載された「戦時宰相論」で、
 東條の戦争指導に対して批判した。東條はこれに激怒し、中野は自決に追い込まれた。
・東條が中野を自決させるに至ったのは、中野の反東條運動が国内の結束を乱し、敗戦を
 もたらしかねないと考えたからである。  
・中野正剛以外にも、戦時中に東條への批判を公然と繰り広げた者はいた。その一人が、
 戦時中一貫して反東條の論陣を張ったジャーナリスト・「野依秀市」である。野衣の東
 條批判は興味深いことに、多くの場合、飛行機の増産要求とセットになっていた。東條
 とその批判者野衣は、奇しくも航空重点主義の一点では意見が一致していたのである。
 戦時中における東條とその戦争指導への批判は、単なる”独裁”批判というよりは、総
 力戦・航空指導者としての適格性をめぐって展開されたものといえる。
・1943(昭和18)年9月、連絡会議は「世界情勢判断」「今後採るべき戦争指導の
 大綱」を決定した。この戦争指導の大綱において、太平洋及び印度洋方面において絶対
 確保すべき要域、いわゆる「絶対国防圏」を定めた。
・東條は、軍需省の次官に岸信介を据え、あわせて無任所の国務大臣とした。多忙な自分
 に代わる実質上の大臣格とするためである。ところが東條はその後、岸次官のほかに鉄
 管理の大臣をつくるといって、実業家の藤原銀次郎を国務大臣に任命した。この人事に
 岸は反発して「一つの役所に大臣の資格を持った者が二人も三人もいるということでは、
 とてもやっていけない。私は辞めさせていただきます」と言い出し、東條と対立するに
 至った。この対立が東條内閣倒壊の遠因となる。
・1944(昭和19)年に入ると、米軍の攻勢は一気に加速した。2月、米軍の空母機
 動部隊が絶対国防圏の一角であるトラックを猛空襲し、トラックは艦隊の基地機能を失
 った。トラックを来るべき対米艦隊決戦の拠点と位置付けていた海軍にとって衝撃的な
 事態であった。
・東條はトラック壊滅の報を聞いて、みずから参謀総長を兼任する決意を固めた。東條の
 何でも自分でやらねば気のすまない性格が、行きつくところまで行ったともいえる。
・戦局が悪化してくると、東條の表情も戦争の始まる前の期待感もある緊張じゃなくて、
 もうどうにもならない落胆しきったような感じだったという。首相官邸に来る参謀本部
 のお偉方も、帰っていくときは、本当に機嫌の悪そうな顔をしていたという。
・5月、インパール作戦の視察に行った秦彦三郎参謀次長の報告会が参謀本部作戦室で行
 われた。「インパール作戦の前途は極めて困難である」と述べた秦を、東條は「戦は最
 後までやってみなければわからぬ。そんな弱気でどうするか」といわんばかりの強い発
 言で叱責した。その結果、作戦は補給の途絶と雨季の到来にもかかわらず、なお続けら
 れることになった。最終的に東條が作戦中止を上奏、裁可を受けたのは、7月1日のこ
 とだった。
・東條は敵の次なる目標予測などについては頭の鋭さを発揮してみせたが、では具体的に
 どのように対抗するかについては何も示さなかったのではないだろうか。東條の統帥に
 は、前線からも批判が出た。堀場一雄は四角要塞の一角を占めるヘルヴィング湾への大
 小部隊の配備について大本営から実情に即さない有害無益な統帥干渉があり、一同はこ
 れを東條連隊長と称したと回想している。
・1944(昭和19)年3月、東條は少年飛行兵に向かって「敵機は精神で墜とすので
 ある」と訓示した。これは、重要な意味合いを持っていた。それは、東條の「日本の長
 所は皆が生命がけであり死ぬことを何とも思わぬことである。敵が空母一艦を造れば我
 もまた一艦を、敵が戦艦を一隻を造れば我もまた一艦というような物量だけで対抗する
 だけでは負けである」という発言が如実に示すように、東條が「生命がけ」の精神力を、
 空母や戦艦、飛行機などの物的戦力の欠くべからざる補完物とみなしはじめていたこと
 を表すからである。
・つまり東條は、「日本の物質力+精神力」で米国の物質力を克服し勝つという発想に傾
 きつつあった。このような直線的ともいえる認識を持つ参謀総長のもとで、参謀本部は
 1944年3月、航空機による体当たり攻撃、「特攻」の実施を決定する。「鈴木貞一
 のアイディアが採用されたのである。この決定ならびに関連する人事異動を行ったのは、
 参謀総長を兼任した東條である。したがって陸軍における航空特攻作戦導入の主たる責
 任は東條にある。
・東條たちの率いた日本陸海軍の異様さは、飛行機というモノの「数量」不足に由来する
 対米戦争の劣勢を、特攻というヒトの精神力・生命で補おうという、悪い意味で合理的
 な発想をごく自然に形成し、躊躇なく実行したことである。
・1944(昭和19)年6月、日本軍は米軍の侵攻先をパラオと予測していたが、米軍
 はそれを裏切り、サイパン島に大挙上陸した。日米の空母部隊は同海域の制空権をかけ
 た一大航空戦を繰り広げたが、日本軍の航空隊は米軍の戦闘機と対空砲火の前に壊滅し、
 逆に空母3隻を失って敗退した(マリアナ沖海戦)。サイパンの日本軍守備隊は陣地の
 構築が進んでいなかったうえ、水際での防衛方針をとっていたため早期に壊滅した。
・東條と嶋田はサイパン奪回の断念を上奏したが、天皇は納得せず、自ら元帥会議を開催
 し、同島奪回の可否を再検討させた。しかし結果は再び否であった。
・サイパン島の軍事的重要性は「サイパンをとられることは小笠原を奪られることであり、
 小笠原を奪られることは、本土に上陸されることだ。
・サイパン陥落に際して一つの問題が生じた。2万人にのぼる在留邦人の扱いである。 
 連絡会議において、「政府特に命令において死ねというのは如何なものか」「非戦闘員
 が自害してくれればよいが、やむを得ず敵手に落ちることもあるも、やむを得ないでは
 ないか」との考えで、その趣旨で決定されたという。つまり、民間人は自決が望ましい
 が、死ねともいえないので、止むを得ず米軍への投降を認める、というのであった。
・しかし、佐藤賢了軍務局長や東條は、この件が将来離島はむろん、戦禍が本土に及ぶ際
 の前例になると認識していたにもかかわらず、正式な命令や指示の形で各部隊に伝えな
 かった。このことが後の沖縄戦で多数の住民が「集団自決」したり、戦闘に巻き込まれ
 て命を落としたりする背景となった。
・戦局の悪化で、東條への批判が高まってきた。東條内閣を倒して事態の転換をはかる動
 きは、議会のみならず重臣たちの間からも起こってきた。その担い手の人となったのが
 重臣・近衛文麿である。
・近衛は「細川護貞」に、昭和天皇の弟宮にして海軍大臣の高松宮に戦局の真相を伝える
 係を命じた。事態を動かし和平につなげるには天皇の意志が決定的に重要となるが、天
 皇は直宮(弟宮)の言うことしか聞こうといない。したがってまずは高松宮に真実を伝
 えることが必要だというのであった。
・細川は高松宮と同じ海軍の「高木惣吉」少将らと連絡をとりながら反東條運動を進めて
 いく。それは口で言うほど簡単な仕事ではなかった。憲兵が和平派の言動を監視してい
 て、尻尾を出せば拘束される可能性があったからである。ほかにも、反東條運動には幾
 多の困難が立ちはだかっていた。戦時下における内閣の交替は敵に弱みをみせることに
 なり、よろしくないという考え方が一般的だったからである。
・サイパン陥落後、まず嶋田繁太郎海軍大臣・軍令部総長の辞任を求める運動がはじまっ
 た。6月、嶋田は海軍の長老・伏見宮(博恭王)から海相辞任を勧告されたが、「もし
 私が辞めますことになれば東條も辞めることになりまして内閣の更迭ということになり
 ますから、仰せに従うことはできかねます」といって拒否した。東條も嶋田も内心はと
 もかく、表向きはなお強気の姿勢を崩さなかった。
・しかしサイパンの敗北は日本の政界を震撼させ、反東條の動きがにわかに活発化した。
・東久邇宮は近衛に、「内閣が替わると敗戦責任が不明瞭になり、皇室に塁が及ぶ可能性
 があるので、悪くなったら皆東條が悪いのだ。すべての責任を東條にしょっかぶせるが
 よいと思うのだ」と語ったという。
・近衛は、東條内閣の退陣にあたっては東條への責任追及を行い、そのためには天皇が陸
 海軍統帥首脳に敗戦の事実を確認させることが必要と考えていた。東條があとで言い逃
 れができないよう、証拠を残せというのである。心底から東條を憎んでいたとみえる。
・近衛が考えていたシナリオは、東條退陣後は皇族(高松宮が最適任)に組閣させ、時を
 移さず停戦の詔勅を下す、停戦は速やかに行う必要があるというものだった。「停戦即
 無条件降伏」と覚悟せねばならない。まだ余力があるからといって条件の緩和は期待で
 きない。英米の意図は、日独の戦争力を余すところなく破壊して、第一次大戦の轍を踏
 まないという点にあるからである。
・近衛や木戸は、ただちに降伏は国民が納得しないので、もう一度艦隊決戦をやって勝て
 ばそれでよし、負けても国民の「諦め」が得られて和平に持ち込めるからよし、と考え
 た。興味深いことに、彼らは敵米英よりもむしろ自国民のほうを恐れていた。
・東久邇宮は7月、近衛と会談し、陸海軍に戦争継続の意志があれば今すぐの講和はでき
 ない、東條内閣を徐々に総辞職の方向へ向わせ、そのあとに「短命の内閣」を作る、そ
 の首班には寺内寿一元帥が適任であると述べた。そして、寺内の後に東久邇宮が講和問
 題を担う、講和は英国に申し込み、その際に天皇は退位して皇太子に天皇の位を譲り、
 高松宮が摂政になるのがよいとした。
・翼政会総務会長の前田米蔵氏を取り巻く一部から和平促進のため重臣と結んで倒閣を目
 指す動きが出ていた。民意を背負った彼らを憲兵で弾圧するのは不可能に近い。なによ
 りも戦争に勝てていない東條に、これらの流れを止める力はなかった。
・また翼政会反主流派である岸信介代議士のグループも倒閣運動を進めていた。ただし、
 彼らの目的は別の内閣による徹底抗戦であり、同じ倒閣運動でも翼政会主流のそれとは
 最終的な目的が正反対であった。 
・7月、万策尽きた東條は内閣総辞職を決断し、ここに2年9カ月にわたる東條内閣は崩
 壊した。東條は、重臣の支持という「世論」形成に失敗した以上、天皇の信任を維持す
 ることはできないと見切りをつけたのである。
・参謀総長を退任した東條は後任に「梅津美治郎」を推し、陸相の方は続投を希望した。
 好意的にみれば、最後まで戦争指導をやり通したいという”闘志”のあらわれである。
 東條留任が決まりかけたところで、組閣の大命が小磯と米内光政に下ったとの報が入っ
 た。すると東條は「米内大将が総理か副総理なら、私は陸軍大臣を断ります」と言い出
 して後任に杉山を推し、結局承諾させてしまった。
・陸相続投を逃した東條は、予備役編入を願い出て認められた。予備役入りの正式な理由
 は、東條は首相になった時点で本来なら予備役入りすべきところ、陸相の資格で特旨に
 より現役に残った。首相・陸相を辞任した今、現役に残る理由はなくなったというもの
 だった。
・問題は、杉山陸相と梅津参謀総長が、東條のやり方に同調したことだ。彼らは、重臣た
 ちが自分たちに敗戦責任を全部押し付けようとしていることを看破した。そこで彼らは、
 陸軍という”お家”へ籠城ともいうべき挙に出て、再び陸軍の利益のみを主張しようとし
 た。別の言い方をすれば、敗戦まであと1年を残したこの時点で、彼らはすでに戦争を
 投げ出していたのである。
・天皇には東條内閣更迭の積極的な意志はなかった。戦後になって天皇は、東條内閣がか
 く評判が悪くなったにもかかわらず、進んで内閣を更迭しなかった理由として
 ・田中内閣更迭を命じて軍の反発を招いた苦い経験
 ・東條に代わる力量のある者がなかったこと
 ・従来大東亜の各地の人々と接触してきた東條を更迭すれば大東亜の人心収拾ができな
  くなると考えたこと
 の三つを挙げている。
・天皇から見ると、東條はこれ以上首相の地位に固執して「世論」の反感が天皇に向って
 しまうのを避けるため、辞表を出したことになっている。つまりは自分をかばうために
 一身を犠牲にした忠臣である。
・昭和天皇は東條について「東條は一生懸命仕事をやるし、平素言っていることも思慮周
 密で中々良いところがあった」「彼は万事、事務的には良いが、民意を知り、特にイン
 テリの意向を察する事ができなかった」とも述べている。
・東條が枢密院、天皇の面前でしばしば逆上していた。想像をたくましくすれば、枢密院
 が元外交官などインテリの牙城だったことが、東條の敵意に火をつけたのかもしれない。
 「平民派」東條には帝大卒外交官や政治家のような高い教養があるわけではなく、非イ
 ンテリの大衆にしか支持基盤を求められなかった。
・東條は政権末期まで、国民大衆に対し、「水戸黄門」的自己演出を続けていた。しかし
 食糧を運ぶ船舶の量にも、国内自活にも限りがあった。よって閣僚 たちが大衆の好む
 水戸黄門のように振る舞って国民の不満をそらし、「団結」を維持するしかなかったの
 である。
・確かに内閣総辞職した東條には批判が殺到した。しかし、東條退陣には別の見方もあっ
 た。警察などに東條を批判する投書が増えていった。しかしその一方で同時期に警察が
 全国各地で摘発した国民の言動には「天皇陛下と東條さんとが病気したら皆平癒祈願を
 するだろうが、恐らく東條さんの方が多いだろう」と、天皇よりも東條を尊敬する発言
 すらみられた。
・東條は、首相退任後は、首相経験者として重臣の地位を与えられた。しかし指導者層か
 ら総スカンを食らって辞めただけに、表舞台に断つことはなかった。
・1945年2月、東條に、ひさしぶりに天皇の面前で戦争指導について語る機会が巡っ
 てきた。昭和天皇は7人の重臣たちに今後の戦争指導に関する意向を聴取した。近衛文
 麿が「近衛上奏文」を作成し、共産革命防止のため即時和平を主張したのはこの時であ
 る。
・このときすでにフィリピンの戦いは陸海軍特攻機の相次ぐ出撃にもかかわらず、事実上、
 日本側の敗北に終わっていた。米軍は小笠原諸島の硫黄島に上陸、日本軍守備隊との間
 に激戦が繰り広げられていた。
・東條は「敵が戦艦一隻を、また空母一隻を増したりと知りて、我またこれに倣わんとす
 るも及ばず。我は特攻隊によれば一、二機の飛行機と爆弾または快速艇をもってこれに
 対抗するの策を講ずるべし」「かく考え来れば我国は作戦的にも余裕あることを知るべ
 し」と特攻継続の強硬論を述べていた。さらに和平工作について「敗戦思想」と批判、
 「我本土空襲も、近代戦の観点よりすれば序の口」と強気の意見を展開した。
・これを聞いた天皇御の御表情にも、ありありと御不満の模様がみられたという。しかし
 天皇は近衛の主張する即時講和を「もう一度、戦果をあげてからでないとなかなか話は
 難しいと思う」と述べて、なお決戦による一撃講和に望みをつないだ。
・その最後の機会が沖縄で、沖縄戦では陸海軍とも大量の特攻機を南九州、台湾から出撃
 させた。 
・東條も「自分も爆弾を懐いて飛び込む時が切れば・・・これが日本の強みである。これ
 を生かして勝ち抜かねばならない」とは言っていた。しかし、みずから特攻作戦の先頭
 に立つことはなかった。 
・東條の行った航空特攻作戦について、作家・「坂口安吾」は戦後のエッセイ「特攻隊に
 捧ぐ」のなかで、「戦法としても、日本としては上乗のものだった。戦争の始めから航
 空工業を特攻専門にきりかえ、重爆などは作らぬやり方で片道飛行機専門に組織を立て
 て立案すれば、工業力の劣勢を相当おぎなうことができたと思う」と述べている。これ
 は東條と同様に戦争は「工業力」で決まる、その「劣勢」を補うためには精神力を発揮
 しての体当たりしかなかった、という認識である。こうした、今日の視点からは冷酷と
 もみえる認識は、東條や陸海軍だけのものではなく、同時代国民の少なくとも一部には
 共有されていたのではなかったか。

敗戦から東京裁判へ
・1945(昭和20)年4月、戦争指導に行き詰った小磯首相が辞表を提出した。宮中
 で後継首相を選ぶ重臣会議が開かれた。出席した東條は、国内には最後まで戦い抜いて
 国の将来を開くべしとする説と無条件降伏をも甘受して早急に和平を作り出すべしとの
 論があるが、まずどちらにするか決める必要があると述べた。東條はもちろん徹底抗戦
 論で、まず徹底抗戦と決めてから、それにふさわしい首相を選ぼうではないかという提
 案である。
・会議では「鈴木貫太郎」枢密院議長を推す声が「平沼騏一郎」からあがった。近衛文麿
 や若槻礼治郎が同意したが、東條は、国内防衛が重点となるため、首相は国務と統帥の
 一体となった姿でなくてはならない、これは陸軍を主体として考えねばならない、その
 意味でできれば現役者でなくてはならないと主張し、「畑俊六」元帥を推した。
・東條の意見に木戸が反論、木戸が鈴木を推すことで、後継首相に鈴木が選ばれた。
・東條は本土決戦に賛成しないなら陸軍は協力しないと述べたが、陸軍は鈴木内閣への陸
 相推薦を拒否することなく、「阿南惟幾」大将を入閣させた。鈴木が戦争完遂という陸
 軍の要求をあっさり呑んだからである。
・ひとまず陸軍を抱き込んだ形で鈴木首相は、最高戦争指導の場から東條の排除をはかっ
 た。
・東條の強気一辺倒の決戦論は、出身母体の陸軍内ですら、必ずしも歓迎されなくなりつ
 つあった。
・政府と軍は6月の御前会議で本土決戦方針を決定した。天皇は続く御前会議でソ連を仲
 介とした和平交渉の開始を命じた。
・鈴木首相に若槻礼次郎が「国内の現状とあくまで戦うという結論は結びつかぬ」と質問
 すると、鈴木は答えられずに「死力を尽くしてやるまでであって、いかなかったら死ぬ
 までだ」と言い一同は二の句が継げず黙っていた。つまり鈴木は会議で徹底抗戦論を唱
 えていたのである。鈴木の強硬論が、確固たる和平への決意にもとづき、東條と陸軍抗
 戦派を抑えるための「芝居」であったかは微妙である。
・結局、降伏は紆余曲折を経て、広島と長崎への原爆投下、ソ連参戦という未曾有の事態
 を迎え、天皇の「聖断」という形で決定される。
・8月10日、東條は総理官邸で開かれた重臣懇談会に小磯国昭とともに出席した。東郷
 茂徳外相は彼らに「国体の維持を条件として敵側の条件を応諾するの方針」を決定、天
 皇の裁可を経て連合国側に通知したことを説明した。ついで東條ら重臣一同は宮中へ参
 内、天皇より政府の方針についての意見を求められた。
・東條は「ご裁断」経て外交上の手続きをとった以上、自分も「所見」はあるが、今それ
 を申し上げて聖明を乱すのは畏れ多い限りであるから差し控えたいと述べた。しかし、
 東條メモにはその「所見」が書き連ねてある。
 「手足をまずもぎしかも命を敵側の料理に委する結果になり、国体護持と称しても空名
 に過ぎなくなる可能性がある。これを保障する具体的な条件が必要だ。皇位確保、国体
 護持は当然であり、敵が否定する態度に出るなら一億一人となっても敢然戦うのが当然
 だ、総帥大権を含む統治大権はいささかも敵に渡してはならない。第一線の将兵は戦勝
 を信じて死につつある。多くの犠牲者は喜んで大義に殉じつつある。内地の戦災犠牲者
 もみな国家発展の礎石として苦労を忍んでいる。これらの犠牲を犬死に終わらせないよ
 う切望する、東亜の安定を確保し世界平和に寄与することは自存自衛の確保とともにこ
 の戦争の目的であると開戦の詔勅に明示されたところで、大東亜宣言の主旨もこれに発
 する」
・東條が意見を控えるといいながらも、実際には武装解除反対論を天皇に主張したらしい。
 天皇がどう答えたのかは定かでない。
・そして東條は、国民への恨み節を述べはじめる。自分は国家に対する国民の忠誠心に期
 待して戦争を始めたのだが、こんなにも指導者と国民が無気力だとは思わなかった、そ
 れを読み切れなかった自分が愚かであった、というのだ。東條はこの一点に限り、指導
 者としての責任を認め、「申訳なき限り」と天皇と国民に謝罪している。
・開き直り、国民への敗戦責任転嫁といえばそれまでである。ただ、東條は第一次大戦後
 ずっと、国民を総力戦遂行の同志とみてきたところがあったと思う。ゴミ箱視察も主観
 的には国民のためを思っての行為だった。東條は敗戦を国民による掌返し、裏切りと感
 じたのではなかろうか。東條の国民観は愛憎半ばしていた。
・東條は、自分がポツダム宣言の条文通り戦犯として逮捕され、裁判にかけられることを
 予見し、その際は「日本的な方法」、すなわち自決で応じるとの決意を示していた。な
 ぜ自決が降伏と同時でないのかはわかりづらいが、東條としては逮捕と同時に自決する
 ことで、自分が天皇の身代わりであると連合国側により強く印象づけたいと考えたかも
 しれない。
・8月14日深夜から15日にかけて、陸軍省と近衛第一師団の将校らが降伏に反対して
 クーデター
を起こした。その中に東條の次女・満喜枝の夫である「古賀秀正」少佐がい
 た。古賀は15日、決起の失敗とともに拳銃で自殺する。阿南惟幾陸相も正午の玉音放
 送を待つことなく割腹自殺を遂げた。
・東條は、天皇の身代わりとして日本の立場を連合国に堂々と主張するつもりはあるが、
 犯罪者として逮捕される=捕虜となるなら戦陣訓にしたがって自決する、と考えていた
 かもしれない。 
・最後の陸相・「下村定」が東條を招いて皇統護持と日本の名誉のために戦争裁判に臨ん
 でほしいと説得したが、自決の決意は固かったという。東條には一貫した方針はなく、
 自決するか法廷闘争に臨むかをめぐって懊悩していたのではないか。
・1945(昭和20)年8月30日、マッカーサーは東條の逮捕とA旧戦犯容疑者リス
 トの作成を命じた。
・9月11日、日本政府への連絡なしに東條の逮捕が行われ、他の戦犯の第一次逮捕令が
 発せられた。もっともマッカーサーは、時間のかかる国際裁判に批判的だった。米国単
 独で「東條を殺人罪として取扱い」、迅速に裁くよう本国に要請したが、認められなか
 った。
・9月11日、米軍のMP(憲兵)が東條逮捕のために用賀の家を訪れた。東條は敗戦時
 のクーデターに参加、失敗して自決した女婿・古賀秀正少佐の遺品の拳銃で旨を撃ち自
 殺を図ったが、弾丸がわずかに心臓をそれて失敗した。
・東條内閣の閣僚からは、小泉親彦元厚生大臣、橋田邦彦元文部大臣の二人が逮捕を拒否
 して自殺している。
自殺に失敗した東條に国民からの批判が集中した。東條への批判は激しかった。
・東條逮捕の報を聞いた旧指導者たちの自決があいついだ。9月12日に杉山元が、12
 月16日に近衛文麿がそれぞれ命を絶った。
・法廷での東條の態度はおだやかであった。
・1947(昭和22)年12月、いよいよ裁判は東條部門に入った。東條の口述書の要
 点は以下の七つに要約できる。
 一、日本は予め米英蘭に対する戦争を計画し準備したものではない。
 二、対米英蘭戦争はこれ等の国々の挑発に原因し、わが国としては自存自衛のために止
   むを得ず開始せられた。
 三、日本政府は合法的に開戦通告を攻撃開始前に米国に交付するため、周到なる手順を
   整えた。
 四、大東亜政策の真意は第一に東亜の解放であり、次に東亜の建設に協力することであ
   った。
 五、日本の対内対外政策は犯罪的「軍閥」に支配された起訴状にあるが、「軍閥」なる
   ものは存在しない。
 六、統帥権の独立と連絡会議及び御前会議の運用
 七、東條の行った軍政の特徴は統制と規律にあり、非人道的行為を命令、許容、黙認し
   たことはない。
キーナンが「その戦争を行わなければならない。行えというのは裕仁天皇の意思であっ
 たか」と問い、東條が「意思に反したかもしれませんが、とにかく私の進言、統帥部そ
 の他責任者の進言によってしぶしぶ御同意になったのが事実です。しかして平和御愛好
 の御精神は最後の一瞬にいたるまで陛下は御希望を持っておられました」と答えた。こ
 こに東京裁判における天皇の戦争責任問題は解決をみた。
・翌日、裁判長は突如、だれが天皇に対して開戦に関する最後の進言をなしたかの問題の
 質問を移し、証人以外の何人が天皇に対し米英と宣戦するようにということを進言した
 かと聞いた。
・東條は首をかしげながら、「複雑な問題を含んでいるがお答えしましょう。日本が開戦
 に決定したのは、連絡会議、御前会議ならびに重臣会議、軍事参議官会議で慎重審議し
 た結果、戦争をしなければならん、という結論に達したのである。そこで最後の決定に
 ついて、陛下にお目にかかって申し上げたのは私と両総長(杉山参謀総長と永野軍令部
 総長)であった」と答えた。杉山はすでに自殺し、永野は裁判中に病気で死去していた。
・ウェップがなぜこのようなことを突然質問したかはわからないが、結果的には東條が故
 人となった杉山と永野にかわり、開戦の全責任を一人で背負った形となった。
・死刑は捕虜虐待などの惨虐行為で有罪とされた者に限られた。海軍の嶋田や岡敬純が終
 身禁固となる死刑を免れたのは、残虐行為の証拠不十分、そして捕虜処遇の管轄権が陸
 軍にあったことが大きかった。逆に文官の広田弘毅の死刑は、近衛内閣外相時の南京事
 件
への不作為の責任が問われたとみられる。
・東條は「戦争法規遵守の義務の無視」では無罪だったが、「戦争法規違反の命令・授権・
 許可」で有罪となった。捕虜処遇の最高責任者である陸軍大臣として、どのみち死刑は
 免れなかったろう。
・東條は獄中で仏教に帰依していった。
・東條は教誨師の「花山信勝」に遺書代わりのメモを読み上げた。
 「陛下に、裁判を通じては塁を及ぼさなかったのはせめてものこと」
 「戦禍を受けた同胞のことを思う時、私の死刑によっても責任は果たされない」
 「俘虜虐待等の人道問題は、何とも医官至極である」
 「戦死、戦病死者、戦災者、及びそれらの遺家族については、政府はもちろん、連合国
  側においても、更に同情を願う。これらの人々は、赤誠国に殉じ、国に尽くしたもの
  であって、戦争に対して罪ありというならば、われら指導者の罪である。私の処断に
  よって罪は決しておる」
・12月23日御前零時1分、東條、土肥原、松井、武藤の死刑が執行された。続いて零
 時20分、板垣、広田、木村の刑が執行された。
 
おわりに
・東条英機はその人生を通じて何がしたかったのだろう。その目標は陸軍という”お家”を
 献身的に支え、偉大たらしめんという一点にあったようにみえる。
・組織人としての東條のやり方は常に直線的で、人事をめぐって周囲としばしば対立した。
 もともとの暮らしは「平民派」で、地位もなかった。その東條が陸軍内で威信を増し、
 最後に総理大臣にまでなったのは、陸軍の利益を強引につらぬく姿勢を崩さなかったか
 らである。 
・東條は陸軍省の課長時代から国民の意向を注視し、人々を説得する姿勢を身につけてい
 た。より正確にいえば、東條は常に国民を恐れていた。
・東條が陸相・参謀総長として推進した航空特攻は、飛行機の両の不足を精神力で補うた
 めの作戦であり、その意味では逆説的に量が重視されていたといえる。
・「統帥」東條の生き方、考え方は、日露戦後から1930年代にかけてのデモクラシー
 思想や、第一次大戦時の総力戦思想の影響を色濃く受けていた。