上野千鶴子の改憲論  :上野千鶴子

戦争と性暴力の比較史へ向けて [ 上野千鶴子(社会学) ]
価格:3132円(税込、送料無料) (2019/7/2時点)

上野千鶴子の選憲論 (集英社新書) [ 上野千鶴子(社会学) ]
価格:799円(税込、送料無料) (2019/7/2時点)

女たちのサバイバル作戦 (文春新書) [ 上野 千鶴子 ]
価格:864円(税込、送料無料) (2019/7/2時点)

上野千鶴子のサバイバル語録 (文春文庫) [ 上野 千鶴子 ]
価格:604円(税込、送料無料) (2019/7/2時点)

おひとりさまの老後 [ 上野千鶴子(社会学) ]
価格:1512円(税込、送料無料) (2019/7/2時点)

毒婦たち 東電OLと木嶋佳苗のあいだ [ 上野千鶴子(社会学) ]
価格:1512円(税込、送料無料) (2019/7/2時点)

女ぎらい ニッポンのミソジニー (文庫) [ 上野千鶴子 ]
価格:993円(税込、送料無料) (2019/7/2時点)

おひとりさまの老後 (文春文庫) [ 上野 千鶴子 ]
価格:712円(税込、送料無料) (2019/7/2時点)

男おひとりさま道 (文春文庫) [ 上野 千鶴子 ]
価格:606円(税込、送料無料) (2019/7/2時点)

女という快楽新装版 [ 上野千鶴子(社会学) ]
価格:2592円(税込、送料無料) (2019/7/2時点)

結婚帝国 (河出文庫) [ 上野千鶴子(社会学) ]
価格:885円(税込、送料無料) (2019/7/2時点)

発情装置新版 (岩波現代文庫) [ 上野千鶴子(社会学) ]
価格:1468円(税込、送料無料) (2019/7/2時点)

おひとりさまの最期 [ 上野千鶴子(社会学) ]
価格:1512円(税込、送料無料) (2019/7/2時点)

老い方上手 [ 上野千鶴子(社会学) ]
価格:1512円(税込、送料無料) (2019/7/2時点)

不惑のフェミニズム (岩波現代文庫) [ 上野千鶴子(社会学) ]
価格:1274円(税込、送料無料) (2019/7/2時点)

みんな「おひとりさま」 [ 上野千鶴子(社会学) ]
価格:1512円(税込、送料無料) (2019/7/2時点)

ひとりの午後に (文春文庫) [ 上野 千鶴子 ]
価格:712円(税込、送料無料) (2019/7/2時点)

情報生産者になる (ちくま新書) [ 上野 千鶴子 ]
価格:993円(税込、送料無料) (2019/7/2時点)

世代間連帯 (岩波新書) [ 上野千鶴子(社会学) ]
価格:864円(税込、送料無料) (2019/7/2時点)

女は後半からがおもしろい (集英社文庫) [ 坂東眞理子 ]
価格:518円(税込、送料無料) (2019/7/2時点)

当事者主権 (岩波新書) [ 中西正司 ]
価格:799円(税込、送料無料) (2019/7/2時点)

何を怖れる フェミニズムを生きた女たち [ 松井久子 ]
価格:1512円(税込、送料無料) (2019/7/2時点)

女は後半からがおもしろい [ 坂東眞理子 ]
価格:1188円(税込、送料無料) (2019/7/2時点)

「反知性主義」に陥らないための必読書70冊 [ 文藝春秋 ]
価格:1512円(税込、送料無料) (2019/7/2時点)

「改憲」の論点 (集英社新書) [ 木村 草太 ]
価格:950円(税込、送料無料) (2019/7/2時点)

改憲的護憲論 (集英社新書) [ 松竹 伸幸 ]
価格:799円(税込、送料無料) (2019/7/2時点)

だから、改憲するべきである [ 岩田温 ]
価格:1080円(税込、送料無料) (2019/7/2時点)

安倍「4項目」改憲の建前と本音 [ 上脇博之 ]
価格:1512円(税込、送料無料) (2019/7/2時点)

自民党改憲で生活はこう変わる 草案が目指す国家像 [ 飯室勝彦 ]
価格:1404円(税込、送料無料) (2019/7/2時点)

安倍流改憲にNOを! [ 樋口陽一 ]
価格:1836円(税込、送料無料) (2019/7/2時点)

自民党の憲法改正草案の大きな問題は、憲法第九条の改正もさることながら、「緊急事態
条項」の新設ではなかろうか。「緊急事態」の中には、他国からの武力攻撃とか大規模自
然災害のほかに、内乱も含まれる。つまり、大規模なデモ等が起きた場合でも「緊急事態」
が宣言される可能性がある。そしてその時、自衛隊が動員される可能性大きい。そしてそ
れは、自衛隊が国民に銃を向けることを意味する。この日本に、そんなことが起こるはず
がないと思うのは、認識不足だ。かつて、大規模な安保闘争が起きたときに、今の安倍晋
首相の祖父である元岸信介首相が、自衛隊に出動要請をしたという驚愕の事実があった
のだ。この時には、当時の防衛庁長官が勇敢にもその要請を拒否して事なきを得た。もし、
憲法改正で、「緊急事態条項」が追加されることになれば、もはやこのような「拒否」は
不可能になるだろう。そうなれば、自衛隊が国民を守るのではなく、時の「政府」を守る
ことになる。憲法改正を考える上で、このことをしっかり認識しておかなければならない。
そして、政治は政治家にまかせておけばいいのだという「おまかせ民主主義」は、とても
危険だということを、肝に銘じておかなければならない。

はじめに
・専門家ではありませんが、私も主権者のひとりですから、憲法は私の運命に深くかかわ
 っています。主権者であれば、誰でも憲法について何かを言う資格があると思います。
 なぜなら憲法とは主権者が合意してつくりあげた最高位の法、法のなかの法だからです。

憲法の精神
・憲法はもともと、国民が国家と約束して、国家権力を縛るものです。したがって国家元
 首にあたる者がその地位につくときに必ず宣誓をすることになっています。アメリカ大
 統領は就任式に聖書に手を置いて宣誓します。日本の首相の就任式にはそういう手続き
 はありませんが、日本でも同じような宣誓をしてもらいたいものです。
・現天皇は、ことあるごとに「憲法を遵守します」と口に出して言っておられます。なぜ
 なら、憲法とは、権力を縛る最高法規だからです。首相に権力を与えるのも、天皇の地
 位を守るのも憲法の枠の中のことです。主権者が権力者に権力を与えたわけですから、
 主権者が権力を縛るものが憲法である。まちがっても権力が国民を縛るものではありま
 せん。
・憲法には文字にならない、憲法の精神というものがあります。日本国憲法には「平和主
 義・国民主権・基本的人権」の三原則といわれる精神があります。その精神を体現した
 ものが合計103条の条文なのです。日本国憲法は、よくも悪くも敗戦がもたらしたも
 のです。平和主義も国民主権も基本的人権も、戦前の憲法にはありませんでした。
・沖縄が返還される際に米軍の沖縄の軍事利用を固定化し、あまつさえ援助するという
 「密約」が交わされたのですが、それが暴かれた後も、政府は一貫してこの「密約」の
 存在を否定してきました。アメリカ政府の公文書館には、原則として30年経てば機密
 を解除してすべての公文書を公開するという原則があります。アメリカ側でこの「密約」
 文書が公開された後も、日本政府は日本側での文書の存在を否定し続けました。
・2009年、日本で自民党から民主党への政権交代が起きてはじめて、当時の外務大臣
 が「密約」文書の存在を公式に認めました。政権交代が起きてから民主党お統治能力に
 疑問をもつ人たちが多かったようですが、政権交代の最大の成果のひとつと言っていい
 のが、この「密約」の暴露です。自民党政権が続いていたら、決して表面に出なかった
 ことでしょう。   
・2013年末に国民の猛反対を押し切って成立した特定秘密保護法は、特定の公文書を
 秘密指定するばかりか、一定期間を置いた後、行政府の裁量権で破棄することを認めて
 います。権力にとって「不都合な真実」は永久に闇に葬られる。恐ろしいことだと思い
 ます。 
・沖縄の「返還」当時、それをすっぱぬいたのが毎日新聞政治部記者だった西山太吉さん
 でした。外務省職員だった女性と「情を通じ」機密漏洩したとして、西山さんは逮捕さ
 れ、起訴されました。西山さんは新聞社を退社、その後苦難の人生を歩まれました。
 「密約」問題があきらかになったときに、西山元記者の名誉回復も同時に行われるべき
 だったと思います。あの「密約」のせいで、今日に至るまで沖縄は、憲法九条が及ばな
 い地域であるという状態が継続しています。
・九死に一生を得て廃墟に立ったとき、われわれは戦争が国内の民を殺戮するカラクリで
 あることを知らされた。だが、米軍はその廃墟にまたしても巨大な軍事基地をつくった。
 われわれは非武装の抵抗を続け、そして、ひとしく国民的反省に立って「戦争放棄」
 「非戦、非軍備」を冒頭に掲げた「日本国憲法」と、それを遵守する国民に連帯を求め、
 最後の期待をかけた。結果は無残な裏切りとなって返ってきた。日本国民の反省はあま
 りにも底浅く、淡雪となって消えた。われわれはもうホトホトに愛想がつきた。好戦国
 日本よ、好戦的日本国民と権力者共よ、好むところの道を行くが良い。もはやわれわれ
 は人類廃滅への無理心中の道行きをこれ以上共にはできない。
・日本国憲法を「改正」しようとする政権が誕生しました。焦点は九条改憲にありますが、
 その改憲のためのハードルを下げようと、憲法改正手続きを簡略化するために、まず
 九六条改正を先行するという奇策を思いつきました。試合中にゲームのルールを変更す
 るような汚い手口です。憲法改正の発議要件を、現行規定の両議院国会議員の三分の二
 から過半数へと緩和するという提案です。
・国会議員の除名や、衆議院で参議院の議決を覆すときには、「出席議員の三分の二以上」
 という規定があります。すでに多くの法学者が指摘していますが、国家の最高法規であ
 る憲法の改正発議要件がそれよりハードルが低く設定されるのは、まったく論理的でも
 合理的でもありません。これを「裏口入学」と批判する人もいます。
・憲法「改正」は、自民党の結党以来の目標のひとつでした。占領国によって押し付けら
 れた憲法を、自分たちの手でつくりなおしたい、それも占領軍の策謀によって日本を丸
 腰にした憲法九条を「改正」して、自分の国の軍隊を持って自分の国を守る「普通の国」
 になりたい、というのが保守系政治家の悲願でした。
・非武装から武装できる国へ。そのなかには、核武装の可能性も含まれていると、私は怪
 しんでいます。   
・国連負担金の学がアメリカに次いで世界第二位でありながら、国連安全保障理事国にも
 入れない、経済大国にしてみじめな外交小国ニッポン。安全保障理事国の共通点は、核
 兵器保有国であることです。核不拡散条約というものが、世界の非核化をめざしている
 ように見えながら、その実、すでに核兵器を保有している国々の既得権を防衛し、他の
 国家の参入を許さないという排他的な「金持ち同盟」であることを考えると、核兵器保
 有の潜在能力を持つことは、それだけでも外交カードになると日本の政治家が思うのも
 無理はありません。ましてや「ならずもの国家」北朝鮮が、わずか一発や二発の核実験
 で超大国アメリカを右往左往させていることを見れば、核の威力は強大です。日本も
 軍事的なプレゼンスを高めて、アメリカと真に対等に同盟国として集団的自衛権を行使
 する。それが占領から独立を回復した際に、日米安全保障条約という不平等条約を結ば
 されたと感じる保守政治家の悲願、なのでしょう。そう考えれば、現政権の首相、安倍
 晋三が祖父の岸信介を尊敬する理由もわかります。60年安保改定を断行し「売国奴」
 と呼ばれた岸首相は、条約改定の内容を見れば、不平等条約を一歩平等へと近づけた貢
 献者とも言えるからです。
・気がつけば日本はアジア地域では、中国に次いで第二位の軍事大国となっていました。
 九条という歯止めがあってもこれができたのですから、九条を改正すれば、軍備の拡張
 は止めどなく進むでしょう。

自民党の憲法草案を検討する
・冒頭部分の主語が、日本国憲法では「日本国民」となっているのに、自民党草案では
 「日本国」」「我が国」とあるのも気になります。「国民主権」とは、国家に先だって
 国民が存在するという考えです。日本国憲法は一貫して「日本国民」という主語を採用
 することで、憲法が国民の意思の表現であること(これこそ「国民主権」を体現したも
 のです)を示していますが、自民党草案では「日本国」が「日本国民」に先だって存在
 しているかのようです。
・最後の一文、「日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここ
 に、この憲法を制定する」に至っては、まるで国民が国家の存続に奉仕するために存在
 するかのようです。逆でしょう。何やら「国体護持」が金科玉条だった、戦前を思い出
 させます。
・この前文を読んだだけで、自民党草案がいったい何を守りたいと思っているのか、「憲
 法の精神」が透けて見えます。伝統と文化に恵まれた美しい国・日本において、国家と
 家族の価値を守りたいという、懐メロです。 
・自民党草案第一条は、ほぼ現行の条文を踏襲していますが、それにびっくり仰天、「天
 皇は、日本国の元首であり」という文言が付け加わりました。明治憲法では天皇が国家
 元首でした。そういう政治体制を立憲君主制というのですが、立憲君主制では君主も憲
 法に従わなければなりません。
・自民党草案ではふたたび王政復古で大日本帝国に戻ったかと驚くほどです。君主には強
 大な権限のある君主と、実験のない君主があります。日本の象徴天皇制は名目的な君主
 制です。それでも君主制にはちがいありませんから、日本は共和制国家ではありません。
・その天皇が、日本では内閣首班を任命します。アメリカでは大統領、日本では総理大臣
 が当時権力のトップに立ちます。大統領に任命するのはアメリカ国民、総理大臣の任命
 者は天皇、つまり天皇のほうが総理大臣よりエライ、ことになります。 
・「象徴」ってよくわからない言葉です。アメリカ合唱国憲法のように大統領を元首とす
 るでもなく、だからといって内閣総理大臣が元首だというわけでもなく、なにしろ総理
 大臣といえど天皇の「大臣」ですからね。「元首」という用語を巧妙に避けながら、名
 目的な立憲君主制を維持する。占領軍憲法草案にあったsymbolという言葉を直訳
 したと伝えられる「象徴天皇制」は、実は占領軍の創作でした。非常によくできた創作
 物です。
・日本の自衛隊は、国民軍としての正当性を持たない軍事組織として、ながらく肩身の狭
 い思いをしてきました。そのため、自衛官の子どもたちが学校で父親の職業を胸を張っ
 て言えないのがかわいそうだとか、同情を呼んだりもしました。自衛隊の社会的認知を
 高めようとする努力も行われてきました。災害のたびに自衛隊が出動することで、自衛
 隊に対する国民の評価も上がってきました。実際には、国際法のもとで、自衛隊は日本
 の国民軍としての待遇を得ています。そのことは国連平和維持活動への自衛隊の貢献に
 よって立証されています。国民軍の兵士であるとは、国際法が認める戦闘行為のもとで
 武器の使用によって他人を殺傷しても、犯罪に問われない、という免責特権を有するこ
 とです。国内的には自衛隊、国外向けには国民軍、このふたつの顔を使い分けてきたの
 が、日本の自衛隊でした。
・自民党草案の九条二項には、「前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない」と、
 すでに既成事実となった解釈に、根拠を与える条文が記載されています。さらに驚くべ
 きことに、九条の二に「国防軍」という言葉が初めて登場しました。
・戦争の多くが「自衛」や「国防」の名のもとに行われたことを、思い出してください。
 ナチの支配下では、ドイツ国防軍が、ソ連邦の領土やアフリカ戦線にまで出兵しました。
 日本でもインドネシアを含む南方戦線への出兵は、石油供給という日本の生命線を守る
 ための闘いだと言われました。 
・自民党草案は、正統性のなかった自衛隊を、憲法上で正式に認めよう、というものでし
 ょう。この改正を認めたら、苦し紛れの解釈改憲をしなくても、さらなる軍事行動の展
 開が堂々と可能になります。集団的自衛権もOK、在外邦人救出活動もOKとなるでし
 ょう。今の憲法さえ、歯止めになっているかどうか疑わしいのに、その歯止めすら失っ
 て、政権が暴走するのを食い止めることはできなくなるでしょう。
・自民党草案の九条の二、第二項以降には、解釈次第でどうにでもなりそうな、気になる
 文言が並んでいます。「公の秩序を維持し」とあるのが、不穏です。治安維持のためな
 ら、軍隊が自国民に銃を向けてもよい、ということのようです。 
・同じ項にはつづけて「国民の生命若しくは自由を守るための活動を行う」とあります。
 問題なのは、この「国民」の居場所を特定していないことです。いまやグローバリゼー
 ションの時代、日本国民は世界各地で活動しています。在外日本国民の「生命」が危険
 にさらされたり、日本国民が海外で行っている「企業活動の自由」が侵されたりしたら、
 軍隊を派遣してもよい、とこの条文は言っていることになります。
・国防軍はいったい何を守るのか?国民を守るとは書いてありません。「領土・領海・領
 空を守る」ために、国民は「協力」の義務があるようです。これでは国民を犠牲にして
 も、「国家主権」と「領土・領海・領空」を守ると読めてしまいます。「国破れて山河
 あり」どころか、「国民死して国家あり」、みたいです。
・敗戦のときに、多くの日本国民はそれを実感したはずでした。なぜなら日本軍は国民を
 少しも守ってくれなかったからです。しかも国家は国民の犠牲が増えることもいとわず、
 「国体の護持」を至上命令にしました。「そうか、やっぱり」感で、くらくらしてくる
 ほどです。
・第一三条「人としての尊重」で、「個人として尊重される」が「人として尊重される」
 に変わっていることもなんだかヘン。「個人」は「人」とはニュアンスが違います。個
 人ははっきりした権利の主体ですが、「人」って何でしょうか。「個人」の反対語は
 「集団」や「社会」です。「個人」という用語を採用するのは、「集団」や「社会」よ
 り個人の権利が優先されなければならない、という趣旨からですが、どうやら保守系の
 政治家たちは、よほど個人主義がおキライのようです。   
・もうひとつ気になることがあります。現行憲法では一二条も一三条でも「「公共の福祉」
 とあるところが、自民党草案ではこれ以降すべて「公益及び公の秩序」という文言に置
 きかわっています。自民党草案にいう「公益」とは「国益」に、「公の秩序」とは「国
 家秩序」に対応するように読めます。にしかも現行憲法にある「福祉」が、草案では
 「秩序」に置きかえられています。「福祉」とは「善」に属し、「秩序」は「統制」に
 属します。「公共の福祉」とは人々にとって望ましい状態を指すのに対し、「公の秩序」
 とは「国家統制」を意味すると解釈できます。
・第一九条「思想及び良心の自由」は、日本国憲法の「これを侵してはならない」が、自
 民党草案では「保障する」に変わっています。いったい誰が「保障する」のでしょうか。
 「思想及び良心の自由」は「基本的人権」の一部です。国家によって与えられるもので
 はありません。「侵してはならない」のはあたりまえ。この「思想及び良心の自由」は、
 それを表現する「表現の自由」と結びついていることは、言うまでもありません。「内
 面の自由」なら、憲法に守られなくても、誰もが持っているからです。囚われ人も身動
 きできない寝たきり病人も、誰にも妨げられない想像力や内面の自由を持っています。
 ですがそれを表現しない限り、自由は自由になりません。したがって、「思想及び良心
 の自由」と、「表現の自由」とは、セットで守られなければなりません。
・この一九条に、自民党草案では不思議な項が付け加わっています。「個人情報の不当取
 得の禁止」です。う〜む、どうとでも使えるあやしい条文です。同じ法律が政治家に適
 用されたらどうでしょうか?よその国に秘密の口座を持っていることや、セクハラなど
 のスキャンダルも「個人情報」として保護されるのでしょうか?それどころか「特定秘
 密」に指定されるかもしれません。  
・第二○条「信教の自由にも、自民党草案では、不思議な文言が付け加わりました。自民
 党草案には「特定の宗教のための教育そのたの宗教的活動をしてはならない」という文
 章に次のような但し書きが付いています。「ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲
 を超えないものについては、この限りでない」と。これをどう解釈したらよいでしょう
 か?「儀礼」とか「習俗」とは、どこまでを指すのでしょう。この程度は、まあいいだ
 ろうと思ってはいけません。それなら、戦没者を祭った靖国神社に公金を支出するのも
 OKという解釈が引き出されるような含みを持たせてあります。最高裁は1997年に
 靖国神社への玉串料の支出は、「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲」に当たらず、違憲
 という判決を下しましたが、これも裁判に訴える人があっての判決でした。 
・保守系の(男性)政治家は、家族が大好きで、夫婦が協力し合うことを重視しますが、
 夫婦の平等はキライです。この人たちにとって夫婦の協力とは、夫唱婦随のことを言う
 ようです。家庭円満の秘訣とは、妻が夫に従って波風を立てないことを意味するようで
 す。そんな古くさいことを、と思う向きもあるでしょうが、現実には、若いカップルに
 も、夫が不機嫌になるのを見るのがイヤだから言いたいことも呑み込んで何でも自分で
 さっさとやってしまう、という妻たちがいます。
・自民党草案では、婚姻と夫婦についてはほとんど変更を加えていませんが、二四条の最
 初に、「家族は」という妙な一項が付け加わっています。「家族は、社会の自然かつ基
 礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなくてはならない」こんなこ
 とを、憲法に支持されなければならないのでしょうか。個人は自分の意志で、家族をつ
 くったり、つくらなかったりします。それを「家族は社会の自然かつ基礎的な単位」と
 いうと、家族をつくらなかったり、家族を解散したり、家族からはみだしたりした人た
 ちは「不自然」だということになりませんか。
・家族をつくらない人たちがこれだけ増えると、家族を「本能」でつくるわけではないこ
 とがわかりますから、それが「自然」とは到底言えません。これまでだって、すべての
 人が家族をつくってきたわけではありませんし、日本人の累積婚姻率が100パーセン
 ト近くになった「全員結婚社会」が成立したのは、六○年代半ばのこと。婚姻率はそれ
 を最後に低下に転じています。生涯非婚率も男女とも増加しています。もはや誰もが結
 婚し、家族をつくる時代は終わりました。
・家族を「社会の基礎単位」にしたのは、国民国家でした。もっとはっきり言えば、国家
 は家族を人為的に「統治の基礎単位」にしたのです。その時、国家が基礎単位にした
 「家族」とは、夫婦がいて未成年の子供がいてといういわゆる「標準世帯」でした。
 日本の現在の社会政策は、ほとんどこの「標準世帯」を基礎単位にして設計された「世
 帯単位制」の精度となっています。1960年代には、世帯構成の半数以上を占めたこ
 の「標準世帯」は、その後急速に減少して、3割台に低下しています。代わって増えた
 のが夫婦のみの世帯と単身世帯。このふたつを合計すると半数を超します。ひとり親世
 帯も増えましたし、高齢者の同居世帯といっても、同居しているのは老いた親ともう若
 くない子どもの組み合わせです。 
・家族はあきらかに多様化したのに、半世紀まえの「標準世帯」を制度や政策の「基礎単
 位」にし続けていることのひずみは、至るところに現れています。結婚も一生ものでは
 なくなり、結婚、離婚、再婚を繰り返す男女が増えて「世帯単位制」の制度設計が間尺
 に合わなくなっていることも、つとに指摘されています。
・そんなご時世に、自民党草案の二四条は何をいっていることになるのでしょうか。
 「家族は尊重される」というなら、家族をつくった人たちは保護され、家族をつくらな
 い、つくれない人たちは保護に値しない、とでもいうようです。それだけでなく、「家
 族は助け合わなくてはならない」とあります。人は自由意志で、愛し合って助け合うた
 めに、家族をつくります。何も憲法に指示されたからではありません。よけいなお世話
 だ、と言っておけばすみそうなものですが、そうもいきません。というのは、助け合い
 たくても助け合えない、助け合う能力があっても助け合わない、家族が現にいるからで
 す。そんな家族に対して、国家は「憲法違反!」というのでしょうか。社会保障の専門
 家たちは、自民党草案のこの条文を見て、危機感を覚えています。というのは、この条
 文は福祉の社会依存を強め、社会保障を後退させる効果があるからです。
・第六六条「内閣の構成」では、日本国憲法にある「内閣総理大臣その他の国務大臣は、
 文民でなければならない」とあるのを、自民党草案では「内閣総理大臣及び全ての国務
 大臣は、現役の軍人であってはならない」となっています。「現役」でなければ「退役
 軍人」ならよいのでしょうか。それなら現役の軍人を指名しても、就任までに職を辞し
 ていれば「元軍人」となります。また将来にわたって軍務を、否定していません。
 2001年に、元自衛官の中谷元が防衛庁長官に就任した例を見ると、現在でも「元自
 衛官」でも「現役」でさえなければよいようですが、それをさらに追認するものでしょ
 う。 
・軍隊というのは、いつでも政権転覆のクーデタを可能にする潜在力を持った武装集団で
 す。この武装集団を養いながら、どの政権もその暴走を抑えるのに手を焼いてきました。
 独立を果たした多くのアジアやアフリカの国家が、民主制にならずに軍事独裁政治にま
 きこまれていく過程を、私たちは見てきました。日本国憲法にある国務大臣の「文民規
 定」は、戦前を教訓とした警戒心から着ていることを忘れてはなりません。
・自民党草案第七二条三項には「総理大臣の職務」に、第九条の国防軍の創設にともなっ
 て、「国防軍の最高指揮官」という役割が付け加わっています。軍隊とは、その職務の
 遂行に、自身の死や殺人行為が伴うもの。そうか、内閣総理大臣とは、「死ね」「殺せ」
 と命令する権力を持つ権力者なのですね。
・福島第一原発事故の処理にあたって、死を覚悟しなければならない職務に公務員を就か
 せる命令権を誰が持つか、という議論がありました。現行の法律では、そのような危険
 な職務命令に従わなかったからという理由で、誰かを処罰することはできません。です
 が、軍隊の指揮命令権を持てば、この問題は解決されます。自民党草案では軍事法廷の
 設置も認めているのですから、軍事命令に違反した兵士を、厳罰に処すことも可能です。
 自衛隊員なら、イヤなら辞めればいいだけ。けれど国防軍になれば、兵士は逃げれば訴
 追されます。  
・これまでの、そしていまの総理大臣が「死ね」「殺せ」と命じて、それに応える気持ち
 のある国民はどれほどいるでしょうか。五年ごとに実施される世界価値観調査では、
 2005年に18歳以上の国民を対象にした調査のうち、「もし戦争が起こったら国の
 ために戦うか」という問いに対してイエスと応える日本人が15.1パーセントと、主
 要24ヶ国中最低であることが報じられている。日本国民は、死にたくないし、殺した
 くもない。平和な国民であることを信じたいです。
・それにしてもいらただしいのは、現行憲法にある第七九条、最高裁判所の裁判官の任命
 方式です。最高裁の裁判官の任命権は内閣が持っています。三権分立といいながら、行
 政権力がすべての上に立つという、哲学者、國分功一郎さんが「来るべき民主主義」の
 なかで指摘した民主主義批判は当たっています。司法権の独立は、その任命の時点です
 でに侵されているのです。これだから、司法府の違憲判決に立法府が従わないもの当然
 ですし、「一票の格差」の違憲判決に、代議士が司法の「越権行為」といわんばかりの
 居丈高な態度をとる理由もわかります。意に従わない裁判官なら任命しなければよい、
 と考えているからでしょう。国民にあるのは、任命後初めて行われる衆院選およびその
 後10年ごとに一度の国民審査だけ。国政選挙の際に投票用紙と共にわたされる最高裁
 判官の信任投票用紙に、誰がどんな判決を出したかもよく知らないまま×をつけるだけ
 の投票では、それが機能していないことは周知のとおりでしょう。
・平成の大合併は、地方自治体の行政を「住民に身近」なものから、遠くに離してしまい
 ました。あの大合併のブームに乗せられて、合併特例債に釣られて、うかうかと合併し
 てしまったけど・・と、いまごろほぞを噛む思いの地方自治体も多いことでしょう。
 行政改革を掲げた自治体行政コストのスリムダウンは、確実に行政サービスの低下を招
 きました。あの政策は失政だった、と思います。
・地方自治体の行政は、「自主的」でも「自立的」でもないうえに、中央省庁の縦割り行
 政に阻まれて「総合的」でもなかったのです。自治体を地方交付税に依存させ、その使
 途を中央省庁がことこまかに指示するという、手を縛られた状態でした。
・時は地方分権・地方主権ブーム。それだって元はといえば、国の責任を地方に移譲した
 いという「不純な動機」から来ているのですが、もし本当に地方自治体に「自主性・自
 立性」を持て、というなら、住民税や消費税を含めて自主財源をよこせ、中央官庁の統
 制をはずせ、と心ある自治体首長が言うのも無理はありません。  
・自民党改憲草案の真骨頂、「緊急事態」にくらべれば、九条の変更など、現状追認に過
 ぎない、と言ってよいくらいです。いくら国防軍をつくっても、使えない軍隊は軍隊で
 はありません。ではどんなときに軍隊は動員されるのでしょう。もちろん非常時です。
 この非常事態宣言を、自民党草案では「緊急事態の宣言」と呼んでいます。「緊急事態」
 とは、どういう事態でしょうか?自民党草案第九八条によれば、大きく分けで、@武力
 行使、A内乱、B自然災害が並列されていますが、@の「外部からの武力攻撃」とあっ
 て、「他国からの軍事侵略」と書いていないことに注意してください。いまどきの戦闘
 は、主権国家同士の争いではなくなりました。民間の軍事組織による武力攻撃、たとえ
 ば9.11のテロもまた、このなかに含まれる可能性を示しています。「わが国に対す
 る外部からの武力攻撃」の範囲は、もし集団的自衛権行使が可能になれば、同盟国への
 武力攻撃も「我が国への武力攻撃」と見なされて、含まれるようになります。したがっ
 てアメリカの「テロとの戦い」に日本も参戦すべし、となります。Aの内乱。やっぱり
 出てきましたね。国民軍が自国の国民に銃を向けてもよい、ということです。国民軍は
 国民を守るのが政府を守るのか。この項は「政府を守る」と宣したに等しい効果を持っ
 ています。そうなれば、国民軍は政府の「用心棒」や「傭兵」になってしまうことでし
 ょう。Bの自然災害への軍隊の出動は、これこそほんものの「軍隊の平和利用」です。
 東日本大震災のときの自衛隊の活動で、自衛隊は国民のあいだで評価を高めました。
・何が「緊急事態」かを判断するのは内閣です。内閣総理大臣が「緊急事態の宣言」を発
 することができます。まるで戦前の「戒厳令」発令のようです。この「宣言」と同時に、
 内閣が、法律と同じ効力を持つ「政令」を出すことができるようになるのです。通常で
 あれば法律は政令の上位にありますから、法律に反する政令を発することはできません。
 ですが「緊急事態」には、既存の法律に反する政令を制定することができるようですか
 ら、この三項の規定はあやしいものです。「国民の生命・身体及び財産を守るため」と
 いうのは、その国民の「生命、身体、財産」がどこにあるかを指定していませんから、
 「在外邦人保護」や「在外権益保護」の名目で、国境の外へも軍隊を派遣できる、とい
 うことになります。また、三項は「この場合においても、基本的人権に関する規定は、
 最大限に尊重されなければならない」と付記してありますが、この「最大限に」ってい
 う表現、なんだか不気味ですねえ。
・「基本的人権」とは、国家が与えたり奪ったりするものではなく、人間に生まれながら
 にそなわっているものだ、というのが近代的国民国家の前提です。それを国が「最大限
 に」尊重する、というのは、場合によっては侵してもよい、ということでしょうか。だ
 って非常時なんだもん・・・という、この草案をつくった人の言い分が聞こえてきそう
 です。  
・戦後史の中で、自衛隊が国民を制圧するかもしれない機会があったことをご存知でしょ
 うか。1960年6月、安保闘争の盛り上がりがピークに達したころ、時の岸信介首相
 が自衛隊の出動を要請し、それを防衛長官だった赤城宗徳が拒否した、という逸話が伝
 わっています。現場の抵抗でことなきを得ましたが、戦後日本の宰相が一度は国民に銃
 を向けるように自衛隊に要請した事実のあることは、記憶しておいたほうがよいでしょ
 う。もしほんとうに出動していれば、国会を取り囲んだすべての国民を敵に回すことで、
 その後の自衛隊の正統性の調達は大きく揺らいだことでしょう。災害出動に特化して、
 「平和な軍隊」の評価を確立したからこそ、今日の自衛隊への社会的認知が成り立って
 います。自衛隊は戦後70年のあいだ、ひとりも殺さず殺されずに来た、世界でも稀有
 な軍隊なのです。ですがこのバランスは、いつ崩れるかわからない危ういものであるこ
 とも、知っておかなければなりません。
・憲法は、もともと国民がつくったものですから、国民が変えることができます。ですが
 国の最高法規である憲法は、他の法律よりも改正のハードルを高くしてあります。自民
 党草案10章では「両議院のそれぞれ総議員の過半数」に、承認のための国民投票の条
 件を、日本国憲法では「その過半数の賛成」とあるのを、自民党草案では「有効投票の
 過半数」に、それぞれハードルを低くする方向へ変更しようとしています。改正要件を
 このように緩和すると、一般の法律の改正ルールや、一部の住民投票の成立要件よりも、
 憲法改正の手続きのほうがゆるやかになり、最高法規としての論理的な序列がゆらぐこ
 とは、すでに多くの法学者が指摘しています。  
・憲法を変えたくてしかたがない安倍首相は、「国会議員のたった三分の一の反対で、憲
 法を変えることができなくなるのか」と言いましたが、裏返しに言えば、「国会議員の
 三分の一も反対しているのに、憲法を変えてよいのか」ということになります。また国
 民投票の「その過半数」にも、有権者数の過半数、投票数の過半数、有効投票の過半数
 と諸説がありますが、このなかでもっともハードルが低い「有効投票数の過半数」が自
 民党草案では採用されています。ちなみに国民投票も一般の選挙も、成立の要件に投票
 率をあげていません。  
・日本国憲法の精神ともいうべき第九七条「基本的人権」が、自民党草案ではすっぽり抜
 け落ちています。まさか、うっかり忘れたわけでもありますまい。どうやら自民党草案
 では天賦人権説を否定して、人権は憲法によって保障されたり、場合によっては制約さ
 れることもある、と言いたいようです。その人権が制約される場合が「緊急事態」なの
 でしょう。ここでは「人権」観の非常に重大な変更が行われると思えます。
・第九九条の「憲法尊重義務」では、現行憲法の「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、
 裁判官その他公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」が、自民党草案では
 「全ての国民は、この憲法を尊重しなければならない」となっている。自民党草案では、
 日本国憲法にある「天皇又は摂政」が落ちて、代わりに「国民が入りました。正体見た
 り!ですね。 
・憲法とは、誰が誰に発するものでしょうか?「国民の総意」のもとづいて、最高法規で
 あるこの憲法を遵守せよ、と立法、司法、行政の三権に向けて発するものです。自民党
 草案で「天皇」が脱落したのはどうしてでしょうか?これだと天皇は超法規的存在、憲
 法の上位に立つ、憲法を遵守しなくてもよい存在なのかと思われてしまいます。つまり
 憲法とは最高権力者が国民に従わせるものだ、ということになります。これはこれまで
 の憲法理解とは180度どんでん返しではないでしょうか。まったくオドロキです。
 
護憲・改憲・選憲
吉田首相は戦後保守政治家の鑑として、ほめたたえられてきました。東西冷戦下でア
 メリカが日本を極東戦略の一画に位置づけようと再軍備を要請したとき、吉田は憲法九
 条を盾にしてアメリカに抵抗しました。もともと日本の「非武装平和主義」とは、別の
 言葉で言うと、米軍による日本の武装解除のことにほかなりませんでした。いったん日
 本の軍国主義を丸腰にしたあと、冷戦下でもう一度「反共の砦」として日本を再武装さ
 せたいというのがアメリカの意向でした。吉田首相は、非武装は「あんたたちが押し付
 けたものだろう」と、アメリカの再軍備妖精に抵抗しました。申し訳のように警察予備
 隊という名前の、よくわからない武装集団を発足させ、これが自衛隊の前進になりまし
 た。ですが、自衛隊は自衛隊。あくまで自国防衛のためだから、という理由で、国境か
 ら外へ出さなかったのです。その結果、1945年の敗戦から今日に至るまでおよそ
 70年近くのあいだ、日本は戦死者をひとりも出さないという「平和国家」となりまし
 た。アメリカがその間、朝鮮戦争からベトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタン・イラ
 ク戦争と戦時下にあり続けてきたことを考えれば、「奇跡」のようです。
・一度も他国と戦火を交えなかったにもかかわらず、日本の軍事予算は着々と増え、いま
 ではアジアで、自衛隊は中国軍に次いで第二位の軍事力を持っています。国境から外へ
 出さないと言っていたはずなのに、もうすでに何度も海外派兵を実施していま。軍事行
 動ではなく、国連平和維持活動の一環だ、武装していくのは自衛のためだ、武力紛争地
 域ではなく安全だとわかった地域にしか送らない、安全かどうかは「そこが自衛隊のい
 る場所だから」安全だ・・・と、ありとあらゆる詭弁を弄しながら、既成事実を積み重
 ねてきました。  
・日本はすでに、事実上軍隊があるのだから、それを国防軍と呼ぼうではありませんか。
 その人たちに本来の役割を果たしてもらおうではありませんか。そのうえで大震災の活
 躍で自衛隊の評価が上がりましたから、いつまでも自衛隊を日陰者扱いにしないでちゃ
 んと認めてあげましょうよ、と言われたら、これに対抗しにくいでしょう。 
・現状を変えないまま、「しょうがないよね、自衛隊、もうこれだけおおきくなってしま
 ったし、いまさらやめろとは言えないし、それからああいう自然災害があると自衛官は
 大活躍 してくれるし、もしかしたら原発の事故現場に「突入!」という死を賭した命
 令に応じてくれるのは、ふつうの公務員には無理でも自衛官にはやってもらえるかもし
 れないし、自衛隊、あっていいよね」というふうに、いまや護憲派ですら思っているか
 もしれません。
・第三の選択肢が選憲です。選憲とは、現在ある憲法をもう一度選び直しましょうという
 提案です。わたしは選憲派です。同じ憲法を、もう一度、選び直したらいいではありま
 せんか。だって、もう70年近くも経つのだから。できてからおよそ70年、手付かず
 のままの憲法は諸外国にもめったにありません。アメリカ合衆国憲法も、ドイツ連邦共
 和国基本法も、なんども手直しされています。憲法は変えてはならないものではありま
 せん。    
・超高齢社会では、金婚式を迎える夫婦も増えました。結婚したときには、まさか半世紀
 以上も一緒に夫婦をやっているとは思わなかったかもしれません。金婚式を迎える夫婦
 だって、解散の危機を乗り越えながら、陰性の節目節目にお互いの顔を見合わせて、
 「しようがないよね、これから後もこの人とやっていこうか」と何度か選び直しをして
 きたあげくに、半世紀の記念日を迎える人たちではないでしょうか。憲法だって同じで
 す。節目で何度も、もう一度選び直したらいいではないか。戦後生まれの私たちの世代
 にしてみれば、生まれる前にできた憲法は、自分で選んだわけではありません。戦後生
 まれが人口の四分の三以上を占めた今日は、憲法をもう一度選び直すという選択肢を、
 その憲法ができたときに生まれていなかった人たちに、与えてもいいのではないかと思
 います。  
・改憲論者の主張には、戦後憲法が占領軍による「押しつけ憲法」であって、自分たちが
 選んだものではない、という主張があります。勝者による武装解除を「恒久平和主義」
 といいくるめ「国体護持」の悲願を「象徴天皇制」でごまかした押しつけ憲法こそが、
 日本の戦後のスタート時の汚点であり、その後ひさしく戦後政治のねじれと頽廃のもと
 になった、という出張です。このようなウソで固めたごまかしを根っこに持つ国民が、
 自分たちの国家に誇りをモテないのは当然、という考えです。
・この憲法ができたときに、多くの国民が戦争に負けた贈り物だと考えて、この憲法の三
 原則を大歓迎したという証言はあまたあります。最近も天皇が80歳を迎えた誕生日の
 会見で「戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切な
 ものとして」日本国憲法をつくったと発言し、機会があるごとに、「憲法を遵守します」
 と繰り返すのは示唆的です。
・民主主義の国家のことを共和制国家といいます。日本は共和制ではありません。立憲君
 主制の一種といってよいのですが、自民党憲法草案は天皇を元首にかえて、君主国家に
 しようとしています。たとえ立憲君主制でも君主制は君主制。日本はヤマト王朝をいた
 だくヤマト王国ということになります。王権というのは世襲ですから、世襲というのは
 「法の下の平等」をうたう民主主義に完全に反します。天皇が好きな人は、民主主義の
 キライな人です。人の上に人を置くのですから。権威の好きな人といってもいいでしょ
 う。
・象徴天皇に権力はありませんが、権威はあります。 そして権威にとっては、その起源
 を人々が忘れているか、あるいはその起源を神話化して問を封印するほうが好都合です。
 いまの天皇は自分の権威をよく自覚して、それを上手に使っているように思えます。大
 震災の被災地を訪ねて避難所のお年寄りの手をとったりすれば、ただのボランティアが
 同じことをするより、「もんたいない」「かたじけない」と感謝されます。
・いまの天皇は、その権威にふさわしいお人柄だと称賛されることもあります。が、天皇
 の身分や権威は、その人柄のよしあしにかかわりません。その身分が世襲から来ている
 のですから、やはり民主主義とは相容れないと、なんどでもいう必要があるでしょう。
 それに人の一生を「籠の鳥」にするような、人権を無視した非人間的な制度の犠牲には、
 誰にもなってもらいたくないものです。
・ただし、天皇という権威の重しをとったら日本はどうなるか?「国民学校」の世代は、
 昭和天皇に対して非常に深い、愛憎入り混じった感情を持っています。負け戦に追い込
 まれておいたわしいという同情と、自分たちを死地に送るはずだった憎んでも憎みきれ
 ない仇という反発と、その両方のアンビバレントな気持ちです。占領軍が天皇制を巧妙
 に占領統治に利用しましたが、それと同時に天皇への不満や憎悪も強く、敗戦後、体感
 でいえば、国民の三人にひとりが天皇制廃止論者だったという、同時代を生きた人の証
 言を聞いたことがあります。この人数は日本の民主化が進むにつれて多数派になるだろ
 うとも予想されていましたが、そうはなりませんでした。
・天皇制の廃止が、一般国民の表現の自由を高めると夢想するのは現時点では誤りがあ
 る。新憲法によって強大な権力を持つ首相のほうがはるかに危険である。危険な首相の
 登場確率は危険な天皇の誕生確率の千倍、この危険を無力化する可能性は十万対一であ
 ろう。皇室が政府に対して牽制、抑圧、補完機能を果たし、存在そのものが国家の安定
 要因となりそのもとで健全な意見表明の自由によって、日本国が諸国と共存し共栄する
 ことを願う。 
・天皇の威を借りて、敗戦直後の混乱のなかにある日本国民を統治しようとした占領軍の
 創作物、象徴天皇制というものが総括戦略としてはウルトラC級の見事な作品だった。
 もし保守派が、日本国憲法がアメリカの押しつけ憲法だというなら、この「象徴天皇制」
 という占領軍の創作物こそ、まさに廃止しなければならないはずです。その行き着く先
 が王政復古、君主制だというのは願い下げですが。
・占領軍の憲法草案の英語版にpeopleと書かれていた用語を、日本の憲法草案作成者が誤
 訳して「国民」と訳したことはご存じのとおりです。peopleを直訳すれば「人々」とか
 「人民」となります。まちがっても「国民(nation)」とはなりません。ですから誤訳
 にはちがいないのですが、これは意図的な誤訳でした。なぜかというと、憲法から日本
 国籍を持たない人たちを排除するためです。もっとはっきり言うと、それまで強制的に
 「日本人」に編入してきた植民地出身者から日本国籍を剥奪して「外国人」にするため
 でした。
・日本と同じように植民地を持っていた欧米の多くの宗主国は、植民地解放のあと、旧植
 民地に二重国籍を与えるなどの配慮をしています。国政を資源の一種と考えれば、かつ
 て迷惑をかけた国の人々に、宗主国と本国両方の国籍を維持してもよいという一種の
 「償い」をしてきたのですが、日本はそれとは逆に、「償い」どころか蹴落とすような
 ことをしてきました。強制的に日本に連れてきながら、戦争が終わったら「帰れ」とい
 うのは、ご都合主義以外の何ものでもありません。
・私の選憲のもうひとつの提案は、日本国憲法の「国民」を、もとにもどしてすべて「日
 本の人々」「日本に住む人々」に変えることです。地方自治体のサービスを受ける権利
 を持ち、その負担を分担する義務を負う人が「住民」なら、日本に住所地を持ち、そこ
 に住民登録したすべての人が、国籍にかかわりなく「日本国」を担う人々としてその権
 利と義務を負う、でよいではありませんか。
・国籍というのは、たったひとつの国への帰属しか認めない、とても排他的で不自由なも
 のです。日本の国籍法には「国籍離脱」についての条項がありますが、それは他の国籍
 を取得したときのみ。どこにも属さないことは認められませんし、どこかひとつの国籍
 に所属しなければなりません。日本政府は二重国籍を認めていませんが、世界には二重
 国籍を認めている国がいくともあります。二重国籍を持っている人に対して、「あたな
 はどちらなの?」と聞くのは無意味です。答えはたったひとつ、「両方」しかありませ
 ん。この問が踏み絵の役割を果たすのは、戦争のときです。「どちらつかず」の人は、
 その忠誠が疑わしいぬえ的な存在、場合によってスパイとさえ疑われます。もし二重国
 籍の人のふたつの祖国が戦争になったら?半身がもう半身を殺すことなんて、できるで
 しょうか? 
・もともと日本列島に住む人々は、混血種だといわれています。アイヌや熊襲のような先
 住民がいたともいわれますし、縄文民族と弥生民族とは出自も文化もちがう、という指
 摘もあります。北のほうに住む人々は大陸系の北方民族に近い容貌をしていますし、南
 のほうの人たちは東南アジアからオセアニア圏と共通の風習を持っています。日本列島
 を取り囲む四辺の海は、列島を他から隔てるどころか、ありとあらゆる世界へとつなぐ
 「海上の道」だったのです。「純粋な日本人」なんて、いったいどこを探せば見つかる
 のでしょう。  
・国民投票は、直接民主主義の一種だといわれています。その直接民主主義に対するもの
 が、間接民主主義、代表制民主主義とか代議制民主主義といわれているものです。国会
 は、代議士を選挙で選ぶ代議制民主主義によっています。代議制民主主義というのは、
 いくつもある民主主義のなかでも問題の多い民主主義の一つだと言われています。代議
 制民主主義とは、投票によって意思決定権を代表に託すことで選良政治の一種であり、
 エリート政治であることで背後には衆愚への警戒心があり、政治参加を四年に一回の投
 票に限定することで、市民の政治参加を促進するよりはむしろ抑制する意思決定システ
 ムである。ずばり一言で言うと、代議制民主主義とは、民衆とは愚かであるという愚民
 説に立つエリート政治なのです。
・一般には議員は住民投票がキライです。なぜかというと、自分たちの権力を足元から掘
 り崩すからです。自分たちを選び権力を与えた有権者が、自分たりで直接ものごとを決
 めてしまえば、議員は必要なくなります。ですから、議会は住民投票請求を否決したり、
 住民投票のハードルをわざわざ高くしたりして、妨害する側にまわります。
・現在の政治制度のもとで、直接民主制に一番近い市民の政治参加の仕組みは、議員選挙
 ではなくて首長選挙です。首長選挙だと風が吹きます。これまで地方政界に足場を持た
 なかったダークホースが、風向き次第で当選したりします。
・麻生副総理は、改憲派はできるだけ騒がず、「憲法はある日気づいたらワイマール憲法
 に変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。誰も気づかないで変わった。あの手
 口を学んだらどうかね」と発言したことで、問題になりました。というのは、ナチの独
 裁権力は、ワイマール憲法という当時世界で最も民主的だと思われていた憲法下で、完
 全に民主的な手続きによって成立したものだと言われているわけです。ドイツの民衆は
 自分たちの意思決定権を放棄し独裁者に委ねるという決定を、民主的に行いました。で
 すから、日本のファシズムとドイツのナチズムとは成り立ちが違う。ドイツは「下から
 の」、日本は「上からの」のファシズムだと言われる根拠になっています。
・全体主義の起源は大衆民主主義そのものです。民主主義は大衆民主主義との間に歯止め
 がきかず、大衆民主主義は全体主義への歯止めがききません。ファシズムとは、権力の
 強制によらなくても、民衆の間に強い同調圧力が働くシステムですから、民主主義と全
 体主義とは親和性が高いのです。
・まったくもってたいしたことのない、世界的にみてソコソコの国がいい。立派な国にし
 ていこう!とか言うけど、立派だからいいなんて、いったい誰が決めたんだか。ソコソ
 コあれば十分。たいしたことない平凡な国がいい。穏やかに過ぎる時に、心で幸せを感
 じられるから。
・これが日本の21世紀です。決して「世界で一番」を望んでいない。決して好景気や株
 価、ましてや原発再稼働など望んでいない。
・21世紀は成熟社会と呼ばれていますが、これは衰退社会の婉曲語法です。日本ははっ
 きり人口減少社会に入りました。子どもが増える徴候はまったくありません。明治から
 一世紀以上、日本は成長と発展をめざしてきましたが、それは人口の増加とそれに伴う
 経済成長に支えられてきました。ですが、その時代は終わりました。これまで通用して
 きた社会のシステムやルールがもう通用しない、未体験ゾーンに入ったと思わないわけ
 にはいきません。社会のギアをここで入れかえることが必要です。
・日本は超高齢社会に突入しています。高齢期とは明日のないこと、明日は今日よりも老
 いて心身が衰える時期のことですから、「いま」が一番よい社会のことです。そういう
 時代には、「いま」を大切にすることこそが求められます。
・高齢者とは、「いま」この時の、一瞬一瞬を大切に生きている人たちのことです。こう
 いう時間のなかでは、「いま」は「将来」の手段にはなりません。思えば、の本の10
 代の若者たちは、これまでどれほど「いま」を「将来」の手段として犠牲にすることで、
 充実した「いま」を奪われてきたのでしょうか。
・21世紀の日本とは、「いま」が、もはやあてにならない「将来」の手段になることを
 やめた社会だとしたら、高齢者も、若者も、子どもも、よほど生きやすくなることでし
 ょう。そういうときに、成長と経済発展のシンボルであった原発が、あれだけ大きな事
 故を起こしました。本当に高い高い代償を私たちは払いました。それをもう一度もとの
 戻そう。あの成長の夢をいま一度と、アベノミクスに浮かれた人たちが幸せそうな顔を
 しています。こうやって浮かれているうちにますます借金をつくって、日本政府は次世
 代にツケをまわそうとしています。私たちにとって本当に大事なのは、「世界で一番豊
 かな国」になることではなく、「世界で一番幸せな国になること」ではないでしょうか。
・「人間の安全保障」という概念は、「国家の安全保障」という概念と区別するために生
 まれました。「人間の安全保障」とは、人がひとりひとり幸せに生きること、国家の安
 全より個人の安全が保障されることが一番大事だ、そのための「安全保障」だという意
 味の概念です。
・自民党の憲法草案で守られているのは国家の安全保障だということがはっきりわかりま
 す。国家の安全保障のためなら個人が犠牲になってもかまわない、国家の安全保障のた
 めに人間の安全保障を犠牲にしてよいという考えです。これまでの歴史が教えるとおり、
 国家は国民を犠牲にしてきました。軍隊は国民を見捨てて国家を守ってきました。軍隊
 は敵だけでなく、自国の国民にも銃を向けてきました。それどころか、軍隊とは国家を
 守るために国民に死ねという、究極の「人権侵害」の機関です。だから国民はそれに対
 して「ノー」と言ってようのです。
・人間の安全保障のためには、「不戦」と「非核」が基本だと思います。「不戦」と「非
 核」は男女平等の前提条件、これがなければ、安心して子どもを産んだり育てたりして
 いられないことを、ヒロシマとフクシマは、私たちに教えたはずです。

おわりに
・国際政治のリアリズムがこれを要請していると思う向きもありましょうが、日本国憲法
 の平和主義の理想を、投げ捨てないようにしましょう。日本国憲法の精神、「国民主義、
 平和主義、基本的人権」のうち、国民主権も基本的人権も、平和がなければ吹っ飛ぶか
 らです。そして軍隊を持ちたいと思うもの、軍隊で闘うのも、圧倒的に男です。男は暴
 力が好きなのでしょうか?子どもの虐待も、高齢者の虐待も、加害者は女より男が圧倒
 的に多い。
・男らしさのなかには、非力さへの憎しみがある、と私はにらんでいます。自分が非力で
 あることを許せないばかりか、非力な存在に対する嫌悪があるために、無抵抗な他者を
 どこまでも痛めつけることを止められないのでしょう。
・超高齢社会とは誰もがいつかは弱者になっていく社会。強者になろうとがんばるよりも、
 弱者になっても安心して生きられる社会、そのためにこそ、人間の安全保障はあります。
・原発事故で、私たちは「おまかせ民主主義」に深い深い反省をしたはずでした。憲法に
 ついては、「おまかせ民主主義」の危険はもっと大きいでしょう。何より、私たちは主
 権者なのですから。