私物化される国家  :中野晃一

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「私物化される国家」、この言葉はまさに今の日本にピッタリの言葉ではないだろうか。
今の日本は、まさに安倍政権によって私物化されていると言っていいのではないかと思う。
復古主義、国家主義、歴史修正主義、新自由主義、保守反動政治と、今の安倍政権を批判
する言葉は数多くあるが、「国家の私物化」という言葉が、今の安倍政権には一番ピッタ
リするように思う。
この本は、そんな安倍政権のこれまでの「やりたい放題の政治」のありさまを総括批判し
ている本である。この本を読むと、そういえばそんなこともあった、あんなこともあっと
と、安倍政権の憲法や国民意向を無視した強権政治が、次々と思い出さされる。
そしてまた、それに加えて今度は、カジノ法案と参議院6議席増法案が加わった。世論調
査では、このカジノ法案については76%が「必要ない」と回答しており、参議院6議席
増については56%が「反対」と回答している。それなのに、また安倍政権は強引なやり
方で国会を通過させ成立させた。
いったい誰のための政治なのか、何のための政治なのか。無性に腹の立つことばかりであ
る。それなのに、今年9月に行われる自民党総裁選では、安倍首相がまた立候補し総裁に
選ばれる公算が高いようだ。まだこの安倍政治が続くのかと思うと、やり切れない思いに
駆られてしまう。日本はまさに、安倍独裁国家に成り下がってしまっている。日本も北朝
鮮や中国と同じ独裁国家なのだ。

まえがき
・国民国家が空洞化し富や権力の集中が進み、寡頭支配(少数派支配)が世界的に拡散す
 るようになってしまっている。この現象をより平易に言い換えれば、一部の特権的な統
 治エリートによる「国家の私物化」が横行するようになったといえるだろう。立憲主義
 を基礎とした法の支配の原則や民主主義をないがしろにし、本来は主権者であるはずの
 市民を服従させることをもって政治を考えるような支配者がさまざまな国で誕生し、グ
 ローバル社会の中でも主導権を持つようになっているのである。
・日本においても2012年に政権復帰した安倍晋三の下、森友加計学園疑惑や昭恵夫
 人による著しい公私混同はもちろんのこと、ジャーナリスト伊藤詩織さんの訴える準強
 姦容疑において、首相に近い山口敬之元TBS記者に逮捕状が出ていたにもかかわらず
 直前に逮捕取りやめになった事件などが明らかになり、安倍とその取り巻きによって
 「私物化される国家」の姿が浮かび上がってきた。

安倍政権の復古性と現代性
岸信介が学生時代に国家社会主義の影響を受け、戦前、商工省の革新官僚として統制経
 済を指揮し、満州国経営にあたったことはよく知られている。
・「わが党は、公共の福祉を規範とし、個人の創意と企業の自由を基底とする経済の総合
 計画を策定実施し、民生の安定と福祉国家の完成を期する」。この一文が、ある政党の
 綱領にあたると言ったとき、いったいどこの政党のものかと思われるだろうか。今日の
 政党政治の感覚からすると、自由党、民進党系あるいは社民党あたりという感じだろう
 か。実はこれは1955年の自民党結党事の「綱領」である。こうした(国家)社会主
 義的傾向は、初代幹事長に収まっていた岸信介の影響にほかならない。
・もはや特権的な世襲議員の党と化した安倍・自民党は、国民統合の実質を担保するため
 の社会経済政策は放棄して、代わりに復古的なナショナリズムを煽ってごまかそうと開
 き直っているのではないか。 
・岸信介や青嵐会がこだわったのが、あくまでも「自主防衛」すなわち「国防」であった
 のに対して、安倍が「積極的平和主義」を掲げている。また安倍が強行した集団的自衛
 権の解釈改憲による行使容認にしても、岸は憲法上、集団的自衛権が認められていない
 ことを明確に国会答弁していたことが指摘されている。
・積極的平和主義という言葉が、政策関係者たちによって初めて口にされるようになった
 のは、まさに冷戦の終わりが始まった湾岸危機・戦争が契機であった。当時、新自由主
 義改革の旗手であった小沢一郎を会長に自民党内に「国際社会における日本の役割に関
 する特別調査会」が設けられ、日本の安全保障を導くべき新たな理念として「積極的・
 能動的平和主義」が唱えられたのだった。戦後日本の専守防衛の原則を「一国平和主義」
 ないし「消極的平和主義」と批判し、湾岸戦争のような状況での自衛隊の海外派兵を
 「国際協力」や「国際貢献」の名の下に可能としようとするものであった。
・安倍の安全保障政策が、岸信介よりもかつての小沢に依拠しているのは安倍にとっても
 小沢にとっても皮肉なことだが、そもそも内閣法制局が構築してきた憲法解釈のくびき
 から政府を放とうとしてきたのも小沢であり、民主党政権であった。
・市場の支配する企業経営気分で、選挙に勝てば何の制約も受けずに政権与党とりわけ首
 相の独裁でいいという新自由主義的な政治観は、憲法解釈の「最高の責任者は私」と発
 言した安倍に限ったものではなく、小泉にも、橋本徹にも、そして小沢や民主党の多く
 にも共有されていたものなのである。
・国家を成す制度や慣行の権威について無頓着で、選挙さえ勝てば時の政府が何をしても
 いいという考え方は、保守思想ともナショナリズムともかけ離れた新自由主義的なグロ
 ーバル化時代の産物というほかないだろう。
・安倍たちの歴史問題をめぐる主張にとりたてて目新しいものはないが、戦争体験から遠
 ざかるに連れて歴史修正主義の妄想力に歯止めがなくなっていることと、河野談話、村
 山談話、歴史教科書、領土問題棚上げ、靖国参拝取り止めなどを許し難い裏切りとして
 目の敵にし、ぶれない「真正保守」を自任し政治家としてのキャリアを築いたという経
 緯が注目に値するだろう。       
・情熱、責任感、判断力のうち、歴史修正主義に対する情熱のみで暴走してしまうのが安
 倍らポスト冷戦世代の特徴なのである。
・岸や中曽根であれば、国内外の厳しいチェックを受け、持論はともかくも事の軽重を判
 断し、結果責任を負わざるを得なかったものが、現在の安倍政権は国内ではやりたい放
 題、国際的には裸の王様となってしまっている。
   
支配と服従の連鎖としての保守反動政治
・今日の安倍ら保守反動勢力が「取り戻す」ことに執念を燃やす「日本らしい日本」が、
 平安時代や江戸時代の伝統や文化ではなく、「教育勅語」にしても靖国神社にしても、
 幕末明治以降の近代化の過程で創作されたものである。
・明治維新以降、戦前戦中戦後を通して絶え間なく保守支配が続いてきた日本では、今日
 に至るまで被害者意識のナショナリズムを煽るのが、逆に統治エリートの方であるだけ
 でなく、その統治エリートまでもが被害者ヅラをしているのだ。被害者意識ナショナリ
 ズムの歴史が長く、このためその浸透度も高い日本では、天皇から一介の国民まで日本
 は丸ごと被害者であるという国民神話が受容されやすいかもしれない。
・「やむを得ず」近代化を被って、西洋列強の真似をしただけなんだ、ということで統治
 エリートが責任回避できるようになり、さらにはなし崩し的な変節や開き直りまで「仕
 方ない」ものとして許されるようになるわけだから、保守反動の統治エリートにとって
 被害者意識ナショナリズムは実の好都合と言える。この構図は、現在の安倍政権で言え
 ば、集団的自衛権の行使容認やTPPなどでも再生産されたものである。まずはアメリ
 カから求められたこれらの「グローバルな変化」への対応を日本の存続のためには「や
 むを得ない」「避けられない」ものであるというプロタガンダを展開することが、安倍
 政権による政策推進を容易にするだけでなく、結果のいかんにかかわらず、責任を回避
 できるものにするのである。
・保守反動勢力の「無責任」ぶりについては、天皇の生前退位問題においても、森友学園
 事件との絡みにおいても明らかだった。建前では皇室の尊重を掲げている保守反動勢力
 が、いかに実際の天皇個人の意向には興味がなく、天皇の利用価値しか考えていないか
 ということが生前退位問題への対応で見えたわけだ。
・「教育勅語」で指し示されている世界観そして道徳観というのは、まさに天皇が徳の源
 泉である自らの祖先にまつろい、臣民をまつろわす、ことから成っている。ちなみにこ
 の場合の「まつろわす」というのは、臣民たちが自ら進んで徳を積み、身を修めること
 を知るようになる、言い換えれば、自発的に分をわきまえ、服従するようになるよう教
 化することを意味する。
・靖国史観に則して考えると、まつろわない連中がいたときに、まつろわせに行ったとい
 うのが平和を愛する皇国日本がやむを得ずに戦った自存自衛の戦争ということになる。
 国家平定をする。盾突いた連中を治めに行く、まつろわせに行く。それが政治でもあり、
 また自存自衛のための戦争だったというような発想になっているわけだ。こういった発
 想は、おそらく安倍にかなり顕著で、口を尖らせ「日教組」とヤジを飛ばしたり、批判
 的な有権者を「こんな人たち」と指さしたり、というようなところがあるわけだが、あ
 のへんの意味のわからない攻撃性というのは、おそらくそういう発想から来ていて、自
 分たちに盾突く連中は平定すべき対象というふうに考えている、それをもって政治だと
 考えているところがあるように見える。
・要は、盾突く連中は、騙してでも力ずくででも服従させる。最終的には、自発的に服従
 する状態になるのが最も望ましいのであり、いざとなったら国に命を捧げなさい、とい
 う「教育勅語」の世界観をまさに体現しているとも言える。
森友学園疑惑で垣間見られるように甚だしい公私混同、政官業の癒着、虚偽答弁の連発、
 組織ぐるみの隠蔽、威圧に恫喝、説明責任の放棄というように、安倍総理夫妻を筆頭に
 政権の中枢そのものが「不道徳」のオンパレードであるにもかかわらず、恥ずかしげも
 なく「道徳国家」だのと言ってのけることができるのは、徳の源泉と位置づけられた天
 皇とその祖先の名の下に権威と権力をほしいままにする保守反動の統治者ならではと言
 えるだろう。
         
新自由主義的改革がもたらした国家の私物化
・小選挙区制による政党政治や民主主義の「市場化」は、こうして有権者に政治選択の幻
 想を与えつつ、本来は民主主義の主体である有権者を寡占政党あるいは独占政権が支配
 する客体に変えてしまう作用を持った。しかし小選挙区制の問題はこれには限らない。
 小選挙区制に基づく「多数決型」民主主義は、本当は「少数決」であって、およそ民主
 主義と呼べる実質を持ち合わせていないのである。
・小選挙区制論者がモデルにしたイギリスの場合、戦後を通じて今日に至るまで20回総
 選挙があったなかで、第一党が過半数の議席を獲得できなかったことは3回だけで残り
 17回は過半数の議席を制しているが、実際には第一党が有効投票の過半数を得票した
 ことはただに一度もない。要は常に得票数で少数派の政党が議席数では多数派にすり替
 えられ、それをもって「多数決型」と呼んでいるにすぎないのである。
・イギリスを代表例とする「多数決型」民主主義の実態は、「過半数決」となることはほ
 ぼ皆無で、「相対多数決」とならないことさえ2回あったという「少数決」なのである。
 これはもはや民主主義とは呼べない何か別のものと言わざるを得ない。
・かつての癒着や腐敗は、おうおうにして「族議員政治」という言葉とともに語られたこ
 とから明らかなように、親分・子分関係に基づいた利益誘導、言い換えれば、バラマキ
 の形を取っていた。そこには腐敗の構造があり、恩顧主義の関係は広範かつ分散的であ
 った。ところが、現在の安倍政権で問題になっている癒着は、バラマキではなく「ピン
 ポイント」で、しかも子分や「弱者」に対してではなく、安倍首相夫婦の「お友だち」
 という特権的な地位にあるごく一部の業界関係者に対して、行政を捻じ曲げて便宜を図
 る、という形態になっているのである。官僚サイドでこの癒着に関与する者も、組織的
 に甘い汁を吸うというよりは、財務省理財局長として虚偽答弁をくり返し、安倍を守り
 抜いた佐川宣寿が国税庁長官に栄転させてもらったように、私的に利益を得ているので
 ある。官邸への権力の一極集中を反映して、癒着の形態も私物化しているわけだ。
・省庁全体がというよりは、官邸に食い込んだり権勢を誇ったりしている特定の官僚が暗
 躍しているということで、彼らからすると、安倍に媚びへつらい、あるいは手柄をたて
 させ花を持たせ、可能なかぎり政権を長期化させることが自身の権益を増大させること
 に直結するわけである。二度と野党による政権交代など起きないよう、安倍自民党に忠
 義のかぎりを尽し、野党をはぐらかし、バカにするような官僚が重用されていく。

国益を損ないつづけるエア・ナショナリズム
・慰安婦問題や靖国問題、あるいは歴史教科書問題など、戦前・戦中の歴史認識にかかわ
 る日本国内や近隣諸国との間での論争は一般的に「歴史問題」と呼ばれるが、歴史問題
 が70年以上の長きにわたってずっと未解決の外交問題として存在してきたかというと、
 実はそうではない。あえて思い切った言い方をすると、歴史問題が外交問題化したのは
 1980年代に入ってからであり、先鋭化していったのは1990年代の中頃からであ
 る。 
・ともすると忘れがちだが、世界的に見ても奇異な特殊事情として、戦前から今に続く保
 守統治エリートの連続性が背景としてあることは疑いをいれない。安倍晋三が、満州国
 総務庁次長や東条英機内閣の商工大臣を務めた岸信介の孫であることはよく知られてい
 るが、そもそも岸にしても安倍にしても山口県出身すなわち長州藩士・佐藤家の家系で
 ある。極端な言い方をあえてするならば、日本は未だに長州出身の首相に統治されてい
 るというわけだ。
・ちなみに山口県選出の国会議員は衆議院が小選挙区4選挙区と参議院が選挙区2議員だ
 が、安倍を含めて6名全員が自民党、そのなかにはほかに安倍の実弟で岸家の養子とな
 った岸信夫や自民党副総裁の高村正彦の長男正大、安倍内閣で農水大臣や文科大臣を務
 める林芳正らが含まれる。
・長州藩出身の商工官僚であった岸信介が軍部の台頭と歩調を合わせて権力の高みに到達
 し、アメリカによる占領統治期にA級戦犯容疑で巣鴨プリズンに長期勾留されたものの、  
 冷戦の文脈の中でその強い反共思想と統治経験を踏まえて、アメリカにいわば赦される
 かたちで訴追を免れ公職復帰を遂げ、1957年には早くも総理の座にまで登りつめた
 わけである。これは岸に限らず、明治維新以来の近代日本の保守統治エリートが、その
 ままファッショ化し、軍国主義に与していったということを示している。
・伝統的保守エリートがそのままファッショ化した日本では、仮に彼らのパージと訴追を
 徹底的に追及し続けたとすると、戦争協力の過去を持たない統治経験のあるエリートが
 いなくなる、という問題があったのである。民主体制への移行を図る際に、一方では旧
 体制の下での人権抑圧などの責任を負う為政者を徹底的に訴追したほうが新体制の正統
 性が高まると言えるものの、他方、旧体制下で政治経験のある者をことごとく訴追して
 しまうと社会にさらなる分断をもたらし、また統治経験のないものばかりで新体制をス
 タートすることになると政情不安を招き、結果として民主制への意向が失敗しかねない
 というジレンマがある。ナチスが伝統的保守エリートの外からファッショ化を行ったド
 イツに比べて、伝統的な保守エリートがそのままにいわば「上から」ファッショ化した
 日本のジレンマは、民主化を図る際により切迫しており、事実として、戦争責任の追及
 が中途半端なまま岸信介らの復権を許してしまったわけである。
・戦後の平和と豊かさのなか、革新勢力が都市圏を中心に力をつけ、地方政治レベルでは
 次々と革新首長が誕生したが、国政での政権交代には至らず、岸信介の弟で安倍晋三の
 大叔父に当たる佐藤栄作の長期政権が続いてしまったのだった。
・1965年に日韓基本条約が締結された時、韓国はクーデターで政権を掌握した朴正煕
 による軍事特栽体制で、朴はそもそも日本支配下の朝鮮半島に生まれ、日本陸軍士官学
 校への留学経験さえある満州国軍人としてキャリアを積んだ人物だった。植民地支配や
 戦争責任に追及は曖昧に終わり、慰安婦問題については俎上にのぼることもなく、被害
 者が顧みられることはなかった。それどころか声を上げることさえままならなかったと
 言える。       
・1972年に実現した日中国交回復もまた同じように、抗日戦争を戦い抜いた世代の英
 雄である毛沢東と周恩来が直接、田中角栄や大平正芳と話し合い決めたことに、おおぴ
 らに異議申し立てをできるような政治環境は当時の中国にはなかったのである。
・教科書問題と同様に靖国問題はまずは国内の論争として始まり、靖国の場合、それは国
 教分離(いわゆる政教分離)の問題としてであった。戦前回帰を図る保守反動勢力がこ
 うした文脈のなかでまず目指したのは、靖国神社をふたたび単なる宗教法人から国家管
 理に戻そうということであった。自民党は1969年から1973年の間、5回にもわ
 たって靖国神社法案を国会に提出したが、いずれも廃案となった。
・靖国神社の国家管理がうまくいかないなか、次いで保守反動勢力が目指したのは、総理
 大臣が(とりわけ終戦記念日に)公式参拝できるようにする、ということだった。しか
 しこれも、今日に至るまで首相の公式参拝どころか参拝そのものを違憲とする司法判断
 はあっても合憲としたものはひとつもなく、宗教性を薄めるために参拝の形式を変えで
 (つまり神道の参拝作法を無視して)、「私人」「首相個人」として参拝したことにす
 るなど、ありとあらゆる詭弁を駆使して、ともかく参拝することができないかを模索す
 るところまで後退を余儀なくされているのである。
・保守反動勢力が靖国神社の宮司に据えた松平永芳が1978年に、1966年以降保留
 されていたA級戦犯14名の祭神名票の合祀を決行し、1979年にそのことが公にさ
 れた。こうしたなか、タカ派で復古的な思想の持ち主として知られていた中曽根康弘
 相が1985年8月15日に公式参拝を行い、一気に中国や韓国から批判を呼び起こし、
 靖国問題は外交問題となった。
・A級戦犯の合祀以降、天皇は靖国神社を参拝しなくなったのである。無残なことに、戦
 前への回帰を図ってきた保守反動勢力は、靖国神社の国家管理に失敗し、首相の終戦記
 念日の公式参拝はおろかいつどんな形でも参拝が極めて困難な状況に陥り、また本来は
 天皇の名の下に死んでいった「英霊」のはずが、天皇が親拝を拒絶する自体にまで自ら
 を追い込み、それをすべて中国や韓国のせいと被害者意識を募らせるという有様になっ
 ているのである。  
・2001年の自民党総裁選返り咲きを狙った当の橋本と争った小泉が、橋本の「弱腰」
 をあげつらい、同じく総裁選に出馬した亀井静香との選挙協力を狙って、総理となった
 ら毎年8月15日に参拝することを「公約」したことを発端に、外交問題としていっそ
 うこじれたのであった。   
・靖国参拝について「心の問題」とうそぶいた小泉であったが、小泉自身は当初、事の重
 大性を十分に理解していなかったと思われるほど、軽はずみにこの「公約」をした可能
 性が高い。小泉は首相になる前に熱心に靖国に参拝していた経歴はなく、退任後も参拝
 をしている気配はない。そういう意味で、むしろ明らかに心の問題ではなく政治的な動
 機から首相在任期間中にだけ毎年参拝していたものと考えられる。
・のちの政権復帰を果たした安倍は、首相に返り咲いた一周年記念を祝う自らへの「ご褒
 美」のように2013年12月に靖国参拝を強行した。安倍の歴史修正主義を警戒して
 いたオバマ政権は、再三の「注意」シグナルを無視して靖国参拝を行った安倍に対して、
 異例の「失望」の意の表明をケネディー駐日大使の名義で即座に行ったのであった。以
 降、それまでいわば「目をつぶって黙っていてくれた」アメリカ政府にさえ公然と叱責
 されてしまったから、という実に無様な理由で安倍は靖国参拝をすることができない状
 態となっている。それは安倍に後に続くいかなる総理をも縛ることになるだろう。
・歴史修正主義がまったく何の合理性も持たないことにつくづくあきれざるを得ない。歴
 史認識のゆがみはもちろんのこと、そのことを仮に脇に置いておいても、戦争責任を曖
 昧にし、戦前の日本の植民地支配や侵略の事実を美化しようとすることによって、現代
 の日本の「国益」を明らかに損ねているのである。さらには、歴史問題を外交問題化し
 て国益を損ねているだけでなく、歴史修正主義者の自らの主張も後退を続け、何も実を
 あげることができずにいるのである。
・1993年の河野談話、1995年の村山談話を経て、アジア女性基金と、国際協調主
 義の限界のなかにしても比較的穏健な統治エリートが取り組んできた和解の試みの信頼
 性を大きく損ねてきたのは、まさにまだ若手だった安倍、中川昭一平沼赳夫衛藤晟
 一
ら新しい保守反動勢力の1990年代後半からの巻き返しであった。
・NHKや朝日新聞への攻撃も含めて猛烈な反撃に出た彼らは、小泉に重要閣僚ポストに
 取り立てられ、第一次安倍政権を実現し、ついに10年かけて2007年からの教科書
 では全社の教科書から慰安婦への直接の記述を消し去ることに成功したのであった。
 第二次安倍政権においてもさらに慰安婦問題に関して歴史の書き換えを図り、攻勢に出
 たが、オバマ政権の不信感を深める結果を自ら招いた。
・外交問題化した歴史問題への国際協調主義的な取り組みに安倍たち歴史修正主義者らが
 とどめを刺して20年ほどになるが、日中、日韓の関係は悪化したまま、アメリカにも
 叱責されたり、警戒されたりしつつ、足元を見られるように安保や経済での従属強化を
 迫られて今日に至る。そして国内的には「日本会議」が我が世の春を迎える事態となっ
 ても、国際的には歴史教科書、靖国参拝、慰安婦問題のいずれにしても歴史修正主義の
 「言い分」はまったく前進していないのである。そうして歴史修正主義たちはさらに被
 害者意識を強め、国際規範からの逸脱を悪化させていく。それは日本の国益をいっそう
 損ねていく。
・ここまで非合理的な保守反動の政治運動は、いったいどのように理解されうるべきもの
 なのか。ひとつには、歴史修正主義が論理や合理性にいっさい基盤を持たない、情念の
 産物であるということがあろう。要は自らや国のためには有害であっても、そのことを
 冷静に判断する能力はなく、ただ気が済むようにしたいだけ、ということである。
・日本国民の被害者意識を煽り、中国や韓国などを「外敵」として認識させることによっ
 て、安倍の祖父・岸を含む戦前の統治エリートが実際にはアジア諸国の人びとだけでな
 く、日本国民をも騙し欺き、勝ち目のない戦争へ動員していったことを覆い隠し、さら
 には今日のグローバル資本主義の下、外国だけでなく日本においても強化されてきた保
 守反動勢力による寡頭支配(少数派支配)、つまり「私物化される国家」の実態を隠蔽
 することを可能にする。     
・支配層の戦争責任や、今日の国益そして国民益をないがしろにした外交安保、経済政策
 を推し進める世襲政治家たちの失政の責任の追及からめをそらさせ、「けしからん、中
 国」「生意気な韓国」から「日本を取り戻せ」というのである。
   
メディア統制と「ポスト真実」の政治
・2013年7月に参議院選挙で自公連立与党が勝利すると、安倍政権は内閣法制局長官
 の首をすげ替えてまで、集団的自衛権行使容認へと進んでいった。政党システムの中で
 ライバル野党が取るに足りないというような状況ができてしまうと、ついに、中立的あ
 るいは政党システムの外にあるような制度にまで手を出してくるようになってしまった
 のだ。内閣法制局は従来、官僚制の自立性が高く、行政府の中にありながらも一定の独
 立性を持って、憲法の行政府における番人ということで機能していたのだが、戦後初め
 て、政治任用というような形で強権を使って長官を押し込んでしまった。
・日本銀行の総裁でも同様なことが行われた。黒田東彦は公約を出してキャンペーンをし
 て総裁の座を射止めた。これは政治任用そのものだった。内閣法制局、日本銀行をコン
 トロールした次は、NHKに触手を伸ばし、その経営委員会に長谷川三千子百田尚樹
 を押し込み、ついには2014年には籾井勝人を会長に就任させたのであった。籾井は
 3年もの任期をまっとうし、NHKの報道は政府の強い支配下におかれるところとなっ
 た。
・安倍は、かつて首相だった時に靖国に参拝できなかったこと、また河野談話や村山談話
 を見直すことができなかったことを非常に後悔していた。ところが、オバマ政権もそれ
 を察知しており、安倍が首相に再度就任するや否や、村山談話と河野談話を書き換える
 ようなことは絶対してはいけないと懇々と説いたほどであった。それぐらいオバマ政権
 は安倍の歴史修正主義的傾向を恐れていたのであった。
     
国民を従えてアメリカに従うための安保法制
・国家権力にタガをはめる仕組みをきちんと作るには、三権分立のようなチェック・アン
 ド・バランスの制度規定とともに、どんな国家権力であれ決して侵すことができない基
 本的人権が不可欠である。それこそが立憲主義であり、それを文言に定めるのが憲法で
 ある以上、「押しつけ」憲法で当たり前なのだ。仮に民主的なプロセスで選ばれたとし
 ても、国家権力は無制限に行使されるべきではなく、むしろ個人の権利や尊厳を護るた
 めに一定の制約を受けなくてはならない、というのが立憲主義である。憲法によってタ
 ガをはめるということ、これを正しく理解していれば、憲法は元来、国家権力に対する
 「押しつけ」であって、人類が国家権力を押しつけているものが憲法であることは自明
 と言えるだろう。
・国家権力の側が「押しつけられた」と感じないようであれば、それはおよそ憲法とは呼
 べない。今日の自民党がこれを理解していないことは、自民党の改憲草案を見れば明ら
 かである。国民に対して義務を課すことが主要な論点になっているようなものは、憲法
 の名に値しない。   
・自衛隊を合憲だという従来の政府見解に立ったとしても、それは個別的自衛権に限定し
 た話であり、その限りでは憲法のタガはまだかろうじてはまっており、憲法9条はギリ
 ギリのところまでまだ意味を持っていた。日本は専守防衛しかできず、防衛的な装備し
 かできず、あるいは武器の輸出についても厳しい制限があり、憲法9条はボロボロにな
 り、傷だらけになっていても、その理念に共鳴する人びととの思いに支えられ、曲がり
 なりにもその役割をはたしてきた。
・個別的自衛権とは異なり、集団的自衛権の行使を容認してしまえば、9条は何も意味を
 持たなくなり、日本は一気にいわゆる「普通の国」となる。「普通の国」と平和憲法が
 両立するはずがない。いくら「積極的平和主義」などと平和主義の新形態のふりをして
 もごまかし以外の何ものでもない。憲法9条が世界的に見ても先駆的な条項である以上、
 それが「普通」であるはずはないからである。
・憲法9条は、日本の戦争体験そして侵略の事実を踏まえた上での戦後日本の誓いである。
 これをないがしろにし、完全に空洞化してしまえば、それは憲法そのものを根幹から揺
 るがすことになる。9条があるために日本国憲法には戦争という事態に対しての備えが
 ない。要は、国のどこの機関が開戦を決めるのか、終戦や停戦を決めるのかなどについ
 ての規定がない。また、兵隊がいて合法的に人殺しができるのが戦争で、兵隊はそのよ
 うな特別な存在であるから普通の刑事法で裁くわけにはいかないという問題が生じる。
 このため戦争をする国は「軍法会議」という特別な裁判所があるわけだが、日本国憲法
 には76条2項に「特別裁判所は、これを設置することができない」と、戦前のように
 軍法会議を置くことができないことが明記されている。
・日本はアメリカと同様、最高裁判所があるが憲法裁判所はない。ヨーロッパには、法律
 の合憲性・違憲性そのものについて判断する憲法裁判所を持つ国が多々あるが、日本の
 場合は、たとえ砂川判決のような具体的な事例があった場合に、その事例に即してのみ、
 法律などの合憲性・違憲性について判断を示すことになっている。ただしこうした制度
 があると、事前に一定のチェックがなければ、違憲の疑いが強い法律が無責任に作られ、
 あとは裁判で争え、などということになりかねない。それでは法の安定性が確保できな
 いので、内閣法制局が事前に合憲性・違憲性を一定程度チェックする役割を果たしてき
 たのである。安倍政権は、内閣法制局長官に前後初めて外務官僚を政治任用の形で押し
 込み、この仕組みを壊してしまった。さらに2014年7月の閣議決定によって解釈改
 憲を強行した。しかし「限定的な集団的自衛権の行使は認められる」という新解釈に基
 づき、安保法制が国会で審議されているさなかの2015年6月、衆議院で開かれてい
 た憲法審議会に与党参考人として呼ばれていた長谷部泰男氏が安保法制は違憲であると
 明言し、同様の改憲派として知られる小林節氏、そして維新の推薦を受けた笹田栄司
 も含めて、国会に呼ばれた権威ある憲法学者が3名とも揃って安保法制が違憲であるこ
 とを指摘するという、前代未聞の事態が起き、国会前の抗議運動はふくれあがり、憲法
 学者の90パーセント以上が違憲と指摘する調査結果なども明らかにされた。
・安保法制成立までの過程では、地方公聴会を経なければならないはずであるにもかかわ
 らず、その報告を受けていないのに強行採決(いわゆるかまくら採決)をしてしまい、
 後になって議事録を改ざんした。日本学術会議前会長である法学者、広渡清吾氏が「法
 学者として、これはもう捏造としか言えない」と指摘されたほどである。議事録になか
 った事実を、都合が悪いからと後になって勝手に書き加える。そういうことをして強行
 採決を行い、いつの間にか成立したことにしてしまった。さらにこの安保法制は、その
 前にできた国家安全保障会議特定秘密保護法といったものとセットで使われる。さら
 には共謀罪が追加された。これが集団的自衛権と混ざると、「混ぜるな危険」と言われ
 るほど、とてつもなく危険である。
・ここまでやるかというようなそのやり口、あるいは憲法違反がどんどん日常化していく
 なかで、2016年秋にも議員らの要請があったにもかかわらず憲法の規定をやぶって
 臨時国会を開かないというようなことを平然とやってのけた。2017年にも野党側の
 憲法規定に則った国会開会要請を無視し続けたあげく、3カ月あまり経ってようやく開
 いたと思ったら、いっさいの議論のないままの冒頭解散のためであった。政治の中身が
 ひどいだけではなく、手法もまたことさらに強権的なのだ。
・自称・愛国者の安倍首相の当選後のトランプへの媚びへつらい方は世界的な注目を集め
 たほど露骨なものだった。ある意味、トランプと自分の共鳴する点を即座に見破ったと
 いうことだったのかもしれない。自分が媚びへつらわれると嬉しいのと同じように、自
 らトランプに全力で取り入ったようにも見えた。
・安倍政権が、いったい何のために集団的自衛権の行使容認し、何をしたいのかというと、
 実はあまり考えがない。例えば、安倍が軍国主義を復活させようとしているとか、中国
 を侵略しようとしているとか、そこまで考えているかというと、おそらく考えていない。
 ある意味、もっと悲しいことだが、あまり何をしたいのか正直よくわかっていないと思
 われる。  
・安倍はかつて憲法9条で戦争放棄と戦力不保持を掲げていることをもって、日本が「禁
 治産者」にされていると喩えて行ったが、集団的自衛権の行使を憲法によって禁じられ
 ている、という状態が、とうもなにか、欲しいおもちゃが手に入らない子どものように
 悔しく、屈辱的だと思っているらしい。しかし、それを手に入れて何をしたいのかとい
 うと、正直そこまではよくわかっていない。
・連邦議会や国会の答弁などでも、いきなり集団的自衛権の行使容認をして「国際協調主
 義」に基づく「積極的平和主義」で・・・と安倍本人もよく訳がわかっていないことを
 言い出して、それで何をするかといったら、南シナ海などで自由と民主主義と人権の価
 値を護らせていくと言う。自分がアメリカに服従しているように、刃向う者を同じよう
 に「服従させたい」というところにポイントがあって、その力を手にしたいのだけれど
 も、結局、なぜ誰を何に服従させたいのかというと、よくわからないことになっている。
・復古的な国家主義者として、先の大戦を自存自衛のため、あるいはアジアの人民を西洋
 帝国主義から解放させるための戦争だったと美化したかったのに、現代においては、ア
 メリカの戦争はすべて自由と民主主義を護るための戦争で、日本はそのお先棒を担がな
 くてはいけないと、そもそも自由や民主主義なんてちっとも信じていないのに、いきな
 りアメリカに同化していってしまう意味不明さがそこにある。
・非立憲的な集団的自衛権の行使容認を強行してきた前提が、「正義の味方」アメリカに
 従うため、だったわけだが、トランプの就任でそんな建前が完全に吹き飛んでしまうと
 いう、大義名分も何もない哀れで極めて危険な状況に今、日本はある。ある意味、最悪
 のタイミングで日本は集団的自衛権の行使容認を強行してしまったとも言える。
     
アンチ・リベラリズムの時代に
・安倍政権に対する支持率は、実は女性のほうが目に見えて低い。女性のほうが敏感に察
 知する「嫌な感じ」が、政権の体質の問題としてあるからであろう。このため、口先だ
 けで女性活躍などと言ってもボロが出てしまい、それは自民党の憲法改正草案を見ても、
 復古的な家族観のなかで女性の役割を固定したい意図が隠しきれない。
・安保法制などに対する抵抗運動にしても、あえて言ってみれば「女・子ども」つまり若
 者や女性が中心的な役割を担ってきたことは、日本の戦後の市民運動史を刻む重要な展
 開である。やはり個人の尊厳を踏みにじる最たるものが戦争であり、そういう国をつく
 ろうとする過程で、個を踏みにじって家族を第一、国家を第一に考えろと言うようない
 ろいろな圧力が加わっていくということに対して、真っ先にそれを強いられる「女・子
 ども」が強く反応している、強く嫌悪感を示しているのはゆえあってのことであるに違
 いない。    
・少なくとも安倍政権にだけは改憲させてはいけない。というのは、明文改憲を発議する
 過程における権力関係があまりにもバランスを失っていて、そのような状況で漢方をい
 じることは、すでに権力をほしいままにする人たちに資すること以外になりようがない。
 だから建設的に歯止めを設けられるなどと期待するのは無理と言わざるを得ない。
       
リベラリズムは息を吹き返すか
・トランプ来日時の安倍個人の追従ぶりにも目を覆うものがあったが、それだけでなく
 「ゴルフ外交」とやらのさなかにバンカーに置き去りにされた安倍が、トランプに追い
 つこうと焦ってひっくり返り頭から転倒する無様な映像がとらえられたにもかかわらず、
 結果的には国内メディアからはあっという間に姿を消し、かえって海外メディアによっ
 て世界的に拡散されたという珍妙な出来事もあった。アメリカで国家権力を私物化する
 トランプのひとつの象徴とも言える娘イヴァンカについての日本メディアの無批判で狂
 騒的な報道ぶりと合わせて、単に珍妙というのを超えて対米追従メンタリティーが政府
 だけでなくメディアにも深く浸透している実態を改めて感じさせるものであった。