昭和恐慌と経済政策 :中村隆英

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この本は、今から27年前の1995年に刊行されたものだ。
私は先般、「男子の本懐」(城山三郎著)という本を読んだ時、世界恐慌の最中において、
どうして金解禁・緊縮政策が強行されたのか不思議に思い、もう少し詳しく知りたいと探
していてこの本に出会った。
この本を読んでわかったことは、次の3点であった。
 ・当時はまだ、起こっている恐慌が、そんなに深刻な恐慌だという認識がされていなか
 った。
 ・当時はまだ、恐慌が起った時の財政政策は、古典的な経済理論に則った、合理化・効
  率化・緊縮政策による体力強化が基本だった。現在のような金融緩和策はまだ一般的
  ではなかった。
 ・金解禁は、浜口政権の看板政策の一つであり、その政策を変更することは、政権の死
  を意味しており、経済問題というより政治問題化しており、途中で政策を変更するこ
  とはできなかった。

金本位制度の中心であったイギリスが、再度金本位を棄て去った時点において、日本も金
本位制を再度やめるべきであった。それが経済的な面で見て最善の策であった。しかし、
井上蔵相はそれをしなかった。
浜口首相井上蔵相のコンビで行なわれた金解禁は、純粋な経済上から考えての政策とい
うよりも、政治的な政策としての性質が強かったのだ。そして、政府の主要な政策として
行なわれた政策は、途中で変更するのは難しい。
なぜなら、その政策を転換することは、政治家としての自殺を意味する場合が多いからだ。
このため、もはや不合理とわかっても、無理にでもその政策が貫かれる場合が多いのだと
いう。
このようなことはなにもこの昭和の時代にかぎったことではない。その後も幾度となく同
じようなことが繰り返されてきた。近年で言うならば、安倍元首相黒田日銀総裁のコン
ビで行なわれたアベノミクスに伴う異次元の量的金融緩和がそうだろう。最初は一時的と
思って始められたこの異次元緩和も、最初は経済的な政策であったものが、だんだん政治
的な政策へと変質していき、もはや不合理とわかっても、途中でやめるにやめられないも
のとなってしまった。それをやめれば、「アベノミクスの失敗」という烙印を捺すことに
なるからだ。異次元の量的規制緩和はこうして、政治的な理由によりもう9年以上も続け
られている。
安倍元首相が銃弾に倒れ、憲政史上最長の政権だったと「国葬」と祀り上げたとき、もは
やそれを「失敗だった」と批判するのは、なかなか難しいのだろう。いったい誰がこの異
次元の量的規制緩和をやめさせるのだろうか。
しかし、こうした不合理とわかっていても無理に続けられるこうした政策の犠牲になるの
は、昔も今もわれわれ一般庶民であるのは変わらない。日本の政治は、昔も今も、政治家
による政治家のための政治で、一般庶民のための政治ではないというのが実態なのだ。

過去に読んだ昭和恐慌に関する記述のあった本:
男子の本懐
世界同時不況
成長なき時代のナショナリズム
昭和史の逆説
歴史と戦争
原節子の真実
永田鉄山 昭和陸軍「運命の男」
五・一五事件
昭和16年夏の敗戦
日本は戦争に連れてゆかれる


プロローグ
・政策の決定は、政治的圧力やイデオロギーの支配を受けやすい。
・政治的に決定された政策が経済の論理に逆らっている場合にはやがて失敗し、ついには
 放棄されるであろうが、政策は短期的には経済の論理を無視して決定され、実行されう
 るのである。それが失敗すれば新しい政策が再び政治的な手続きをへて出現する。
・政治的な過程のなかで経済問題が最大の争点になったのは、日本の場合、昭和初年の時
 期が最初であった。明治十五〜十七年の「松方デフレ」は、深刻な打撃を農村に与えた
 し、第一次大戦後の大正九年の恐慌(戦後恐慌)は、諸物価の崩落と企業の倒産をもた
 らしたが、それが政治的争点として表面化することはなかったのである。
井上準之助は、昭和四年(1929)夏、民主党に入党する直前まで、金解禁は「肺病
 患者にマラソン競争をさせるようなものだ」といっていたが、入閣するや一転して即行
 論に豹変したと批判された。
・日銀総裁時代の井上はむしろ政友会に近く、「不良企業の救済」に力を注ぎ、また野に
 あっても「財界世話業」といわれるほど危険な企業の金融や立て直しに尽力した。その
 井上が一転して財界シゴキ論者になり、轟々たる非難のうちに引締め政策を実行し、金
 本位制度を維持しようとしたのである。
・この時の井上の態度は、さまざまな権力意志の権化とも、また論理や利害を超越した意
 地の張り通した姿とも。
・四たび蔵相となった高橋是清は、金輸出再禁止に踏み切り、財政の膨張を敢行して経済
 の危機に対処しようとしたのである。高橋はいったんそれに成功した。高橋は井上のよ
 うな信念や意地を表に出さなかったかわりに、長い経験と判断力でことを処理していっ
 た。しかし、高橋もついに「二・二六事件」でまた井上のあとを追うのである。
・一般的な問題についてまとめて私見を述べておく
 第一、経済政策の目標を決めるのは政治家の仕事であって、経済学者の仕事ではない。
    多くの政策は直接の降下だけをねらって立案されることが多いが、とかくその副
    作用は軽視されがちである。経済学の経済政策における役割はまさにこの政策の
    作用・副作用の分析にある。
 第二、経済政策がもたらす効果は、何でも理論的に明らかにできるとは限らない。政策
    の効果は理論的に考えただけでは予測できない場合もある。
 第三、短期的な環境の変化だけでなく、長期にわたって、あるいは歴史的に状況の変化
    が起こることがある。この場合には従来の理論や経験はほとんど役に立たない。
 第四、経済政策を設定するものは政策担当者の個性であるとみるべきふしが多い。
 第五、覆水は盆に返らないように、一度行なった政策は必ずそれだけの爪痕を残すもの
    である。
・経済政策は当然のことながら政治から切り離されたものではない。一つ一つの政策が経
 済の情勢に応じ、理論的に決定されうると考えるのは間違いであって、そこには政治過
 程全体に対する考慮が働かないわけにはいかない。一度決定された政策が変更されるこ
 とは、政治家にとっては自殺を意味することがある。
・比較的強い反対党を持つ場合、どの政権も一度決めた政策をくつがえすことはほとんど
 不可能である。 
・政治的な要求と経済的な合理性は、とかく両立しえない。そこに経済的にさまざまの無
 理が強行されることになる。
・明治十四年に始まった松方正義のデフレーション政策では、松方はこれによって貨幣を
 整理し、通貨の価値の安定と統一をはかろうとした。この時、物価は下落し、農民の所
 得は急減してその苦しみは著しく、農民の暴動がくり返し発生した。しかしこの時には
 明治政府は激化する農民と自由党左派を鎮圧し、政治的な勝利をおさめた。反政府運動
 の鎮圧とともに通貨制度の確立も行なわれたのである。

金解禁まで
・1929年(昭和四)7月、民政党の浜口雄幸内閣が成立したとき、大蔵大臣に井上準
 之助が就任したのは予想外の人事であった。
・金融界出身の井上を蔵相に迎えたのは、浜口首相が新内閣の基本政策として金輸出禁止
 の解除(金解禁)、金本位制の復活を意図したからである。
・国際金本位制度がもっていた機能は、国内の物価を国際物価にしわ寄せする機構だった
 ということができるであろう。国際収支の赤字はとかく金の流出と価格の低落を生み出
 すし、黒字は金の流入と国内物価の上昇をもたらす。
・国際金本位制が強力に維持されたのは、その現実の機能以上に自動調整作用への信仰の
 ためであったといってよいであろう。実際にはイギリスの経済力によってはじめて機能
 しえた国際金本位制が、理想的な制度であると錯覚されたところに、第一次大戦後の悲
 劇の理由があったのである。
日清戦争に勝った時、日本は約三億六千万円の賠償金を清国から受け取った。
・その後、日露戦争の際には、戦費だけで約九億円の外債を発行した。そのため日本の国
 際収支は外債の元利払いだけでもたいへんな負担になり、わが国は、慢性の国際収支赤
 字に悩まされ、さらにその赤字を外債で埋めるという苦境に立たされていたのである。
・ところが第一次世界大戦では状況が一変した。ヨーロッパ諸国は戦争に手一杯で輸出余
 力は全くなくなり、日本とアメリカだけがアジア・アフリカの巨大な市場を独占して、
 膨大な輸出超過になった。日本の雑貨や繊維製品が作りさえすれば売れるようになった。
・大戦中の輸出超過は約二十八億円、金の受け取り分は約二十億円といわれる。
・わが国はこの時債務国から再建国に一挙に転換した。ところがその輸出超過の最中の大
 正六年(1917)、わが国は金輸出を禁止し金輸出禁止を離れたのである。
・この時、金輸出を禁止した理由は、各国が戦時下において金輸出を禁止したために、上
 海や香港あたりの投機者が日本から金を持ち出すことを恐れたためや、為替相場が異常
 に騰貴したことや、輸出超過でありながら金が流出するという変態的な状況が生じたこ
 となどからだといわれている。
・しかしもう一つ、もっと政治的軍事的な理由もあげられている。世界大戦のもとで、わ
 が国にもいつどんな事件が起こるかもしれない。その時、外国においてある正貨などは
 当てにならない。「今後金を出さずにいよいよ蓄積するに限る」というのである。
・だからわが国が大戦中に金輸出を禁止し、また戦後解禁に踏み切らなかったのは、主と
 して政治的軍事的理由によるものである。 
・その後になると、こんどは経済的な理由から金解禁ができなくなった。それは、わが国
 の経済界が大正九年(1920)に大恐慌にみまわれ、しかも大正十二年(1923)
 の関東大震災以後入超はさらに増加してわが国は再び外債を発行しなくてはならなくな
 った。

・大正十一〜十二年の加藤友三郎内閣の市来蔵相は解禁準備に着手し、通貨の増発を抑制
 し、為替相場の回復をまって、金解禁を行なおうとした。しかし当時政友会総裁であっ
 た高橋是清から異議が出たり、貿易が輸出超過になったりするのを待ったりしているう
 ちに、内閣は倒れ、関東大震災が起ってその機会は去ったのである。
・大正十五年には、若槻内閣の片岡直温蔵相は、為替相場が回復したのをみて、金解禁の
 方針を定め、そのために国内の金融機関の整理を行なおうとしたが、金融恐慌(昭和二
 年)を引き起こした退陣した。
・昭和二年三月、片岡蔵相が野党議員の質問に答えて、諸君があまり騒ぐから金融界が不
 安になり渡辺銀行が休業のやむなきにいたったと答弁した。ところが、渡辺銀行は、一
 度休業を申し出たあと、金ができて交換じりを決済したが、大蔵大臣にあのようにいわ
 れてはもはや営業はできないといって翌日から休業してしまった。片岡蔵相の失言とい
 われるのはこのことをさしている。
・若槻内閣はついに総辞職することにいたった。日本の政治史の上で、経済問題につまず
 いて総辞職に追い込まれた内閣はこれが最初といっていいだろう。
・組閣の大命は、政友会の田中義一総裁に下った。田中はこの危機に対処するために、元
 首相高橋是清を大蔵大臣に据え、危機の乗り切りをはかった。高橋はまず緊急勅令をも
 って、三週間のモラトリアムを実施した。枢密院もこんどは緊急と認めて文句をつける
 ことはしなかった。
・政府はこの間に臨時議会を召集し、日本銀行に対しては、金融危機を乗り切るために五
 億円以内の損失保証を約束して、金融機関救済のための大幅な貸し出しをさせることに
 し、合計七億円の損失保証を行なうという思い切った案を通過させた。モラトリアム実
 施後三週間目には、各銀行は窓口に山のように日銀から借りた紙幣を積み上げて開業し
 たが、もはや預金の引き出しはなく、これでようやく金融恐慌の始末がついたのである。
・昭和三年十月東西両組合銀行は「政府は即時、金輸出禁止を解除せられるべし」という
 決議を行なった。その理由は、ほぼ次のごとくである。
 第一、金の輸出を禁止しているために、為替相場の変動がはなはだしく、関係業者は一
    定の計画を立てることができずに困っている。
 第二、世界列強がみな金解禁を実行しているのにわが国がひとり変態を持続することは
    できない。
 第三、低下している為替相場が回復するのを待つわけにはいかないから遅くとも翌年の
    輸出入転換期までには、断行の時期を公示すべきである。
 第四、解禁断行に当たっては、財政を引き締め、公債発行を抑えるのは当然として、
    「商工業者、金融業者お呼び一般国民はこぞって勤倹節約の趣意」に立ち、通過
    膨張の恐れがないようにしなければならない。
・田中内閣の崩壊は、張作霖爆殺事件の責任者を刑事処分に付する旨を一度天皇に奏上し
 た首相が、おひざ元の政友会と陸軍の圧力に負けて行政処分で片づけようとし、天皇の
 信任を失ったためである。臭いものにふたをしてすまそうとする政策が、天皇や元老の
 西園寺公望の怒りを招き、田中は信任を失ったのである。だから政変は突如として起こ
 り、反対党の民政党が組閣するにいたった。
 
金解禁の実施
・井上準之助は金融マンとして、まれにみる出世コースを歩んだ人であった。大分県の片
 田舎に生まれ、二高を経て東京帝大法学部に進み、卒業して日本銀行に入行した。二高
 時代は高山樗牛と首席を争ったといわれる。
・横浜正金銀行の副頭取、ついで頭取をつとめ、日銀総裁、山本内閣の大蔵大臣、その後、
 一時浪人したが、昭和二年から三年にかけて、金融恐慌の跡始末のために再び日銀総裁
 をつとめている。 
・井上は私生活は清潔であったし、若いころから勉強家で、晩年にいたるまで英書を手放
 すことがなかった。
・井上は入閣するとともに、民政党に入党し、政治家としての旗幟を鮮明にしたのである。
 当時の井上は、金解禁はいつかはなされなければならぬが、現代の政治家のうちその力
 を持つのは自分ばかりであるという強い自意識に支えられていたと思われる。彼はむし
 ろ進んで蔵相になったのではなかろうか。
・けれども井上は、それまで金解禁即行論を主張したことはなかった。金解禁は必要だが、
 それまでには総統の準備が必要であるというのである。
・浜口内閣は「十大政綱」を発表した。その中には、金解禁も含まれていた。金解禁の実
 施はここに確定したので井上はただちにその準備に着手した。
・第一に、昭和四年度予算はすでに実施されつつあったが、その削減がただちに行なわれ
 た。 
・けれども、金解禁のいま一つの準備は、企業と国民に金解禁の意識を徹底させ、政府の
 施策につい理解を求めさせることであった。
・経済問題が内閣の最高の政策になったのは、明治以来初めてのできごとであり、はるか
 後の池田内閣の所得倍増計画キャンペーンに匹敵するPRが展開されたのである。
・これにならぶ主要な政策はロンドンにおける海軍軍縮会議を成功させることであった。
 とにかく浜口内閣は、金解禁と軍縮という二つの政策を柱に、政策を推進しはじめたの
 である。
・金解禁がもたらすはずの不況についての予想は持っていただろう。しかし、不況下に不
 安定な企業が倒産すれば、大財閥の独占的地位は強化され、場合によってこれを併呑す
 ることも可能である。あるいは、金解禁によって為替相場が安定すれば、国際的な資本
 移動に参加して、投資機会を発見することも容易になるだろう。こうした考慮が金解禁
 を主張する際に、大銀行指導者の脳裡をかすめなかったとは思われない。少なくとも大
 銀行は金解禁によって大きなマイナスを生じないことを見通し、金解禁に賛成したので
 ある。
・金解禁賛成論は、むろんこれだけではない。学界のほとんどは正統派理論の立場からこ
 れに賛成した。ジャーナリズムもまた同じであった。
・ただしこれらの賛成論の特徴はいずれも古典的な金本位制の論理に依存して、理念的な
 主張に終っていたことは注目されねばなるまい。かくあるべきだという主張はあっても、
 その実現に伴う困難や産業に対する諸影響は、ほとんど分析されていなかったのである。
武藤山治は、「国内産業や物価金利の状況が改善されて、国際収支の均衡がもたらされ
 ない限り、解禁後、金は流出して、ますます消費節約政策と通貨の収縮や金利の引き上
 げの必要を生ずることになるだろう。私の観るところでは、かくのごとき政府の金解禁
 は、いわゆる政治家のビジネスであってナショナルビジネスではない」と金解禁に反対
 した。
各務謙吉は、「金解禁の弁」を書いて金解禁の結果何が起こるかを判断しようとした。
 「解禁すれば輸入が増え輸出は減るだろう。禁止時代の条件ででき上っていた経済界は
 整理調整されるだろう。これまでに起った整理は低い為替相場を前提とした整理だから、
 解禁後の相場でさらに整理されることになるだろう。賃金や家賃は当然低下するはずだ。
 企業や財政も収縮せざるを得ないだろう。こうして不景気は継続されるだろう。金の流
 出は免れることはできないであろう」
・金解禁は外科手術に等しく、それによる犠牲を払う覚悟をしなければならない。
・深井英五も、金解禁は容易ならぬ影響を経済界に与えることを予想していた。
・井上にとっては、必ずしも解禁によるショックが小さいことが望ましいのではなく、む
 しろそれによって財界が再編成され、「合理化」されることが望ましいと考え、これが
 金融界の見解と一致していたのではないだろうか。不況を通じて不健全な経営や立ち遅
 れた企業を整理してしまおうとする財界シゴキ論が井上の念頭にあったとみても不思議
 ではない。
・党議として金解禁を決定していた民政党や、野党としてこれに反対した政友会や、その
 事情を熟知して民政党に入党した井上の場合には、先に立つものは政党の立場であって、
 純経済的な考慮は背後に追いやられていた。少なくとも考慮すべき多くの問題のなかの
 一つにすぎなかったとみることもできるであろう。
・経済政策の「政策」である以上、政治の一コマなのであって、経済分析的な配慮だけで
 は片づかない。むしろ、無理押しにでも自己の主張を貫くことによって、政治的な勝利
 は勝ち取られうる。無理でも不合理でも、その政策が貫かれることが政治家の生命であ
 って、中途で政策を転換することは政治家としての自殺を意味する場合が多い。冷静な
 分析よりも、強烈な信念のほうが、大向こうの喝采を博しやすいし、大政治家のポーズ
 としてはふさわしい。
・昭和五年一月、政府は声明の通り金解禁を行なった。すでに前年の秋十月、ニューヨー
 クの株式市場は大暴落を演じた。しかし何人もこの暴落が以後数年にわたる世界恐慌の
 きっかけであると気づくものはいなかった。当時政府はニューヨークの金利が株式の暴
 落によって低下したことによって、世界的な金利の低下が起こると考え、解禁を行なっ
 てもわが国の資金が金利差のために外国に流出するおそれが少なくなったと喜んだほど
 である。だからアメリカの不況も政策を変更する理由にはまったくならなかった。
・ところが、解禁を行なうとすぐさま、金の流出が始まった。
・金解禁前、為替相場の低かった時点でドルを売っておき、解禁後の高い相場でドルに戻
 せばそれだけで利益が出る。金解禁の伴うボロもうけであったに違いない。口では解禁
 政策を道義的に支持するといいながら、ただちにこういう事件が起こるのは、政策の実
 施のむずかしさを暗示するものであった。
・当時政府は、その状況を秘していた。金解禁の影響にふれることはもちろん禁物であっ
 たし、解禁によって景気が好転するような演説もしばしばなされていたのである。
・1929年(昭和四)秋にアメリカで起った恐慌は、急激に全世界に拡大した。しかも、
 この恐慌は従来の例とは違って景気下落の期間がきわめて長く、アメリカで不況が底を
 ついたのは 1933ー34年のことであった。
・「永遠の繁栄」に酔いしれていたアメリカ経済は底知れぬ不況の底に突き落とされたの
 である。恐慌が起った時はだれしもありがちのリセッションだから心配には及ばないと
 考えていた。
・不況の深刻化にもかかわらず、共和党のフーバー政府は、ほとんどみるべき対策を持た
 なかった。財政支出は、不況下においてもほとんど増加することがなかった。恐慌が進
 むうちに、企業の投資は急減し、失業者も増えていく。しかしながらフーバー政権は、
 増税や政府の実業界への干渉をきらう共和党の伝統的政策のために、新しい政策を打ち
 出すことができなかった。民主党のローズベルトが政権を握り、初めてニューディール
 政策
に踏み切るのである。
・恐慌の対策として選ばれたのは、各国とも財政の緊縮、生産の合理化による輸出の拡大
 であった。襲ってくる不況の中で、海外からの投資が引き上げられていくとすれば、こ
 れに対する道は自力更生以外にはないというのである。しかしながら、すでに生産が縮
 小し失業者が増加している中で、政府と国民がいっそうの節約をし、人員の整理を行な
 うならば、社会の需要はますます縮小して短期的に不況は深刻化せざるを得ないであろ
 う。これは当時の各国が等しく悩みとして矛盾であった。早くから財政支出を拡大して
 恐慌の深刻化を防止したのは、ただスウェーデンの社会民主党政権のみであった。

恐慌下の日本
・昭和五年一月、金輸出の解禁されるのと時を同じくして政府は産業の合理化を進めよう
 と企てた。
・各企業もそれぞれに合理化の努力を進めた。コストの切り下げをはかるため、最初にと
 られた措置は人員の整理、賃金の切り下げであった。特に労働者の移動の激しい炭鉱や
 繊維産業ではその傾向が顕著であった。
・技術的合理化だけではとうてい不況には対処しきれなかった。退職者のあとの補充をい
 っさい行なわないとか、新採用者の賃金を大きく切り下げるとかいう方法で、コストの
 低下に努めたのである。
・わが国の合理化運動は、人員整理の代名詞であるかのような観を呈したのである。
・世界恐慌によって最も悲惨な状況に陥ったのは農村であった。第一次大戦以後農産物価
 格は長期にわたって低落を続けてきたが、農家はそのために生ずる所得の減少を避ける
 ためにかえって増産を続け、その結果ますます値下がりが激しくなるという悪循環が続
 いていた。
・農業の条件は悪化しつつあったが、政府はこれに対して、直接、保護政策をとろうとは
 しなかった。もちろん生糸の値下がりによって生糸商が破産しそうになれば買い上げ機
 関を作ってこれを保護するというような動きはみられたが、農家の窮乏を直接救おうと
 する政策は採られなかったのである。
・ところが世界恐慌は農業に対して最も早く影響したといっていい。生糸の最大の輸出先
 であるアメリカが大恐慌に巻き込まれたために生糸の輸出は激減し、価格は暴落した。
 農家はそのためにたたきつけられたのである。
・農家の収入源は、土木事業や、日雇いなど副業収入が減少した。紡績や製糸の不況のた
 めに、娘の工場への出稼ぎもできなくなった。そのために農家は赤字になるものが多く、
 負債も激増していったのである。
・借金に苦しみぬいた農家は娘を遊里に身売り、数百円の前借金で年季奉公させるほどの
 苦境に追い込まれるものが多かった。 
・それとともに弁当を持たない学童や、長期欠席の児童など、農村の窮乏はまことに激し
 かった。
・娘の身売りに代表されるような農村の窮乏は当然全社会的な反響を呼び起こした。昭和
 六年の三月事件に始まる青年将校のクーデター参加も、農村出身の新兵を教育するうち
 に、その出身家庭の窮乏を聞いてこれに同情し、またこのままでは後顧の憂いが大きす
 ぎて強い軍隊はできぬという素朴な正義感に発するものが多かった。
 
・第一次大戦後は中小企業の増加が目立った時期である。これらの中小企業にとって切実
 なのは製品の販路とともに金融の問題である。
・増加した中小企業は、一応は膨張した国内消費や輸出を当てにして成立し、金融的には
 地方の小銀行や、問屋金融などにたよっていたのであるが、この時期に激しい苦境に追
 い込まれた。金融恐慌以後、地方銀行の小銀行や、問屋金融などにたよっていたのであ
 ったが、この時期に激しい苦境に追い込まれたのである。金融恐慌以後、地方銀行の資
 金が大銀行に流れ、じゅうぶんな金融が受けにくくなったのはその一つの理由である。
・不況に耐えかねた中小企業主の中には、なんでもいいから現状の打破と、新しい政治的
 状況を望むものも多くなった。日本の場合も軍部の満州侵略や、対中国強硬論に拍手す
 る声がこの層から出たこともあらそわれない。不況はこうして社会的な爆弾を内部で生
 産してゆくことになったのである。
 
・不況のもとで失業者が増加するのは当然である。昭和四年から七年までに、失業者は約
 20万人増加し、失業率も4.3%から6.9%まではね上がった。
・当時の失業問題で最も特徴的だったのは、いわゆる「知識階級」の失業問題である。
 中学、専門学校、大学などを卒業しても就職口はなかなか得られなかった。「大学は出
 たけれど」という流行歌ができ、大学や専門学校の入学志願者数がこのころ年々減少し
 ていった。

・昭和五年二月にはすでにロンドン軍縮会議が開かれていた。民政党政府は金解禁ととも
 に、軍縮の達成も政府の最大の政綱としていたためもあって、その成立に全力を注いで
 いた。
・一度は海軍も納得して回訓の運びとなったものの、その後、軍令部側は回訓に同意した
 おぼえはないと言い出し、問題は政治的に拡大した。
・問題の焦点は、この決定をめぐってはたして統帥権干犯があったか、どうかということ
 であった。
・軍令部側の言い分では兵力量の決定については政府におもな責任があるとはいえ、統帥
 部もこれに関与するものだから、その同意なしに条約に調印したのは統帥権を犯すもの
 だというのである。
・これに対し政府側の見解は、兵力量の決定は統帥部の意見を聞いたうえで政府が決定す
 るのであるから、なんら手続き上の問題はないというのであった。
・本来問題は起こらないはずのことだったが、これを政争に持ち込んで内閣を倒そうとす
 る動きが政友会から出たために、事は複雑にならざるを得なかったのである。
・軍縮条約が成立したことは浜口内閣の勝利ではあったが、統帥権干犯の宣伝は、国内の
 青年将校、右翼団体などを激発させる結果になった。
・そのような状況のもとで、浜口首相は、東京駅で右翼の一青年に狙撃されて重傷を負い、
 幣原外相が臨時首相代理に任命されることとなった。
・このような状況において陸軍省と参謀本部の要職にあった者たちが、大川周明を中心と
 する右翼と提携し、陸軍大臣宇垣一成をかついてクーデターを起こそうとしたという
 「三月事件」が起った。
・一方、関東軍では、板垣征四郎、石原莞爾参謀を中心に謀略で事件を起こし、満州にお
 ける中国側の実力者、張学良を追い払って、一挙に満州を領土化しようとする計画が着
 々進められていた。
・国内の不況と、軍部のあわただしい動きの中で、金解禁政策が続行されていた。経済政
 策である金解禁問題は、政治の問題として、処理されざるを得ないことになっていった
 のである。

危機の切迫
・政友会の前蔵相・三土忠造は、政府は次の四つの誤りをおかした、内閣の財政政策は根
 本的に間違っていると追求した。
 ・金解禁が無理無準備であったこと。
 ・緊縮節約の宣伝を行なったこと。
 ・世界的不況の見通しを誤ったこと。
 ・銀相場の見通しを誤ったこと。
・これに対して井上準之助は、不況が国際的に深刻化しているにせよ、それは無限に続く
 ものではないとして 、金解禁政策を堅持して行った。
・昭和五年初頭には何人もこれほどの恐慌を予測できなかったのも事実であって、三土の
 主張を井上が認めることができなかったのも当然であった。
・どんな産業でも、不景気になった時には、コストを切り下げ、生産を調整する以外に妙
 案があるはずがない。将来について考えるならば、なおコストの切り下げが十分でない
 産業が残っている。それを十分に整理しないうちは国際競争に耐えうるはずがない。そ
 う井上は主張したのである。
 「今日は整理をすべき時代で物を片づけていく時である。そうしておいて、生産費を下
 げ、無駄をはぶいて、自己の仕事が自立するようにちゃんと押さえていけば、時勢が転
 換してくれば、非常に従来より利益率が増えます」
・昭和七年度の予算の編成に当たっても、井上は強硬な態度をとった。井上は増税や公債
 発行を避けた均衡予算を作成しようとしたのである。その結果、政府の歳出はあらゆる
 面で大きな節約が強いられるはずであった。
・井上は、強気に自己の政策を推し進めていくうちに、いつか情勢が大きく転換して、景
 気が回復し、自己の政策がむくいられると歯をくいしばっていたのである。しかも野党
 や一部のエコノミストの反対はあっても、金融界も学界も一致した支持が井上に与えら
 れていたのだから、その地位と自信は揺るぎようがなかったのである。それを支えるひ
 とつの柱は、財界の中枢をなす大財閥の支持であった。
・財閥は一面では、古典的な資本主義の論理を振りかざして、自己の行動を正当化し、同
 じ論理によって井上の解禁政策を援助した。
・一方、世界恐慌は井上の見通しよりはるかに深刻な方向に進んでいた。
・イギリスは金本位の祖国であり、保護者であった。イギリスの海外投資は世界諸国の金
 本位制を支えるように運営されていた。第一次大戦後その実力は低下したとはいえ、な
 おロンドンは世界金融の中心地であった。そのイギリスが急激な資金流出に耐えること
 ができず、金本位を離脱したことは、世界各国における金本位制の終焉を意味していた
 といえよう。しかしながら、イギリスの金本位停止の日に、その長期的傾向を読み取り
 得たものは少なかった。

金輸出再禁止
・もともとわが国が金本位制度に復帰したのは世界的な金本位再建の傾向を確信したから
 であるが、その中心であるイギリスが金本位を棄て去ったというのであれば、何のため
 に過去一年余も苦しい思いをしてきたのかわからぬということになる。
・イギリスの金本位離脱に伴って、わが国で一度にドルへの需要が殺到したのは、実際に
 必要があってなされたものだけではなく、早晩わが国も金本位を離脱することを予想し、
 そうなれば対ドルレートは下落するだろうから、そこで円を買い戻せば、ただちに利益
 を収めることができるという思惑によるものが多かった。
・そのころ、朝日新聞は特に三井財閥の名をあげて、財閥がドルを買い、再禁止後に買い
 戻して巨利を博そうとしていると激しい攻撃を行なった。ここにいたって経済問題であ
 ったドル問題は、一転して政治的、道徳的な問題となった。国家の危機をよそにみて、
 ドル買いの思惑をやり、財政・金融の状態を危険におとし入れるとは何事だ、国賊三井
 財閥を葬れというのである。
・ここにも、政治の論理と経済の論理の矛盾がある。経済の論理だけからいけば、イギリ
 スの金本位離脱が、ドル買いの思惑を生ずることはある程度当然であった。それを未然
 に防ごうとすれば、とるべき手段はただひとつ、わが国もイギリスを倣って金輸出禁止
 を行なうほかはない。もし、再禁止をしない限り、ドル買いの思惑が生じるのは当然で
 あって、なお金本位を維持するならば、ドルを売っておく一方、それによって国内の金
 融が引き締まり、利子率が高騰し、国内の不況が深刻化するのを覚悟しなければならな
 い。悪化を続けている不況の中でもっと金融を引き締めれば、多くの産業を奈落に突き
 落とすことになる。それを避けるためには、金本位の祖国であるイギリスが再禁止した
 その時に、わが国も再禁止するほかはないはずである。
・しかし政治的にみれば、金輸出の再禁止を行なうことは、民主党政権の一枚看板をおろ
 すことを意味し、井上にとっては、政治的な自殺に等しい結果を産むであろう。
・経済的に最善と思われる政策が政治的理由から採用されないことはしばしばあって、望
 ましくない結果を生むことは、この時に始まったことではないが、事態の深刻さはおそ
 らく空前といってもよかったであろう。
・井上蔵相は、この危局に当たって強気一点張りで応戦した。急に公定歩合を引き上げた
 結果、金融は引き締まり、市中の金利は騰貴し、有価証券市場は暴落するなど大きな影
 響を及ぼした。井上もこの時期における公定歩合の引き上げが不況をさらに深刻化させ
 ることを知らぬはずはないが、ドル買い筋に対抗するためには、これ以外の手段は残さ
 れていなかったのである。
 
・政友会の犬養毅に組閣の大命が下りた。犬養は大蔵大臣として声望の高い元総裁、元首
 相の高橋是清を選定した。犬養内閣成立とともに、即日金輸出の再禁止が行なわれた。
・井上準之助はこの変化が進むのを黙ってみているほかはなかった。 
・井上は、「自分たちのやったことがよかったか悪かったか、あるいは政友会の行き方が
 正しいのか、自分は疑わしくなって来た」と反省の言葉を述べた。
・昭和七年二月、井上は民政党から立候補した駒井重次の演説会に応援に行き、自動車を
 降りた時、群衆の中から一人の男が飛び出し、井上を目がけて、拳銃を三発、続けざま
 に発射した。井上を暗殺したものは、小沼正という二十二歳の青年だった。小沼は、日
 蓮の行者「井上日召」の門下生であり、血盟団の一員であった。
 
・一方、金再禁止以後の対米為替は底なしの低落を続けていき、昭和七年末には100円
 当たり20ドルを切りそうになった。高橋蔵相はそれまでなんら為替対策をとらなかっ
 たが、資本の外国への流出を防ぐためにはじめて外国為替の管理に手をつけ、資本逃避
 防止法を制定してこれを規制した。昭和八年には外国為替管理法を制定して為替レート
 の安定をはかることになった。約一年の間に為替レートは100円当たり約50ドルか
 ら約20ドルへ六割低下したのち、やがて30ドル弱で安定したのである。これによっ
 てわが国の輸出は急に増加した。

エピローグ
・井上の悲劇は、経済の面に局限して考えると、古典的な経済理論が現実から乖離しよう
 としているにもかかわらず、教科書通りの経済政策を強行しようとした点にあった。そ
 れは井上の最も親しい金融界、特に大銀行の一致して要望するところであり、それによ
 って経済界を苦しめ抜くことによって、合理化が推進されるという古典的な信念に基づ
 くものであった。
・しかし井上の政策が破綻したなによりの原因は、全世界的な金本位制度が行き詰まりに
 直面している事実を正しく認識していなかったことである。
・井上の財政政策は古典派経済学の模範答案のようなものであった。むろん現実には救済
 資金を放出したり、財政の赤字を補うために公債を発行したりはしたけれども、基本的
 にみて、ノートをよく整理してあるが、自己の意見はほとんど付け加えられていない模
 範答案のような政策を井上は実施したのである。
・もっとも井上は、単に経済理論に導かれて財政金融政策を実施したのではない。井上ら
 指導的な財界人の心の底には国際金本位制に基礎をおくイギリス及びアメリカの資本主
 義体制への信頼が根強く存在していたのである。それだけに予想しえなかった金本位性
 の崩壊は、誤算を生む原因となったのである。
・これに対して高橋是清は、金本位制の意味をそれほど重くみていなかった。むしろ高橋
 にとっては産業の発展の重要性あるいは国民の所得水準の維持、向上という目標が強く
 意識され、金融や財政はそのために協力すべきものであるという考え方を強く持ってい
 たようである。
・高橋是清の財政政策はそれまでも、あるいはその死後も、放漫財政、インフレ財政と批
 判されてきた。
・ケインズが、大量の失業者をかかえた経済において、積極的に財政支出を拡張しその救
 済努力を行なうべきであり、むしろ国際均衡を犠牲にしても、国内の均衡を優先すべき
 だと主張したのは、高橋の死の年、昭和十一年(1936)であった。
・高橋是清が、その思想の一部を先取りしたにしても、それは一時の便法としてであって、
 長期にあたってそれを経済政策の基礎とすべきだという確信はもちろん持っていなかっ
 たのである。井上にそれを求めるのももとより無理な話であった。
 
・浜口内閣が成立した時、民政党内閣は必ず金解禁を実施しなければならないという公約
 を背負っていた。同時に外交的には国際連盟を中心とする協調政策がその基調であり、
 軍縮条約を必ず成立させねばならぬ立場に立たされていた。民政党内閣の政策決定は、
 そのような条件のもとでしか進められなかったのである。
・この内閣の背後には、元老西園寺や宮中の指示1があったのは事実であるが、それにし
 ても強引な政治であったといわねばならない。
・しかしその強い政治的態度は浜口内閣に多くの敵を作るにいたった。
・政友会は、時には統帥権問題を叫んで軍部と結び、あるいは枢密院と結んで激しい倒閣
 運動を展開した。政友会はかつての藩閥や軍閥への反感を忘れて、それと提携して、反
 対党を倒そうとはかって、政党政治の墓穴を掘ったのである。
・陸軍や海軍の内部にもしだいに直接行動の機運が起こり、それが三月事件、満州事変、
 十月事件、血盟団事件、五・一五事件と相次ぐ政治的テロの計画になって現われて来、
 ついに政治の安定自体が崩壊するのである。 
・不況による農村や中小企業の疲弊、労働階級の失業者はそれを母胎にする労働運動の激
 化と無産政党の進出をもたらしたが、その半面に右翼を進出させる温床にもなった。
・井上の政策は不況を激化させ、その故に政治的な反対勢力はますます強くなった。その
 ような状況においては経済政策は単なる経済政策以上に、内閣や政党の運命をかける争
 点に転化していく。経済理論的に考える限り、経済政策は外側の条件が変わればそれに
 応じて変化すべきものであり、政策の基本を変えないにしてもその強さを加減したるす
 るべきはずのものである。ところが政治的なイッシューに転化してしまった経済政策は
 もやはそれなりに硬直したものになってしまい、臨機応変の政策をとることが理論的に
 は望ましいにしても、政治的には敗北を意味するという矛盾におちいってしまうのであ
 る。
・井上が立たされたのもまさにそのような環境であった。反対が強ければ強いほど、その
 政策に固執しなければならないというのが政治のロジックであり、井上は政策的引くに
 引けない立場に立たされてしまっていた。
・井上は、この時に金再禁止政策をとることは政党の敗北であり、内閣の破滅をもたらす
 と判断したに違いない。金解禁政策は最後の瞬間まで政治的に維持されねばならなかっ
 たのである。
・井上は自信の強い人であったといわれる。時としては傲岸不遜といわれるほど人に頭を
 下げない人であったし、大蔵省の事務をみる場合でも、担当課長を呼びつけて自ら裁断
 し、次官、局長を抜きにするというような独断の一面を持つ人であった。
・井上の金解禁政策は基本的には失敗であったが、その失敗は実にたくさんの要因の複合
 によってもたらされた失敗であった。経済政策が実行された時、それが当初においては
 予期されなかった波紋を生み、それを実施した当事者を越えて独自の歩みを続けて行く
 場合がある。井上準之助の金解禁政策はまさにそのようなものであった。
 
歴史のなかでみた平成不況
・平成不況の出口はまだ見えない。当初はそれほどの不況とは思われなかったが、たびた
 びの緊急対策も功を奏さなかったのには、それだけの理由があると思われる。
・平成不況には二つの特色がある。一つはいわゆるバブルの後遺症、いま一つは主導産業
 の停滞である。
・1918年、第一次世界大戦の休戦とともに大戦ブームは一挙に反落した。ところが、
 翌年春になると、欧州の復興によって輸出が伸び、景気の先行が明るくなり、ついに熱
 狂的なブームになった。  
・そのブームが崩壊したのは、株式の払い込みや投機のための資金需要が増加して、金融
 が異常に逼迫したからである。株式市場に投げ物が出て暴落したのをきっかけに、諸商
 品の相場も一斉に急落し、恐慌が急に本格化したのは1920年3月である。
・それから約半年の間に、諸相場はピーク時の半分前後に落ち込み、1919年春の鎮静
 期に比べても三割前後の下落となった。大戦ブームは完全に去った。
・この時の恐慌は急速に進行し、一般商品価格も激しい落ち込みを示した点で、今回の不
 況とは異なっているが、大きなバブルを生み出したところは共通であった。個人も企業
 も、所有資産、有価証券、不動産等の値下がり損を抱え、焦げ付き債権の処理に困って
 しまった。
・1980年代後半のブームの特色は、何よりも急激な円高の結果、石油をはじめとする
 輸入原材料の値下がりによって企業は十分な利潤を収めながら、物価はいくらか下がり
 気味だったことである。円高対策としての金融緩和が長く続いたけれども、輸入品価格
 の低落のために物価は落ち着いていた。
・その例外が株価と不動産価格だった。この特殊な資産インフレのもとで、投機も株と土
 地に集中して進められたが、一般物価を重視する金融当局が引き締めに踏み切るタイミ
 ングは遅くなったのである。
昭和恐慌の谷底は昭和6ー7年(1931−1932)であったが、それは世界恐慌の
 前半期と重なっている。 
・日本の1920年代も、世界の潮流の例外ではなかった。物価、とくに農産物物価の低
 落、度重なる金融不安、そして打ち続く銀行の破綻などが、この時期を支配していたの
 である。
・日本が、立ち遅れていた金本位復帰(金輸出解禁)を決意したのは、昭和4(1929)
 年、浜口内閣が成立し、井上準之助が蔵相に迎えられたときからである。井上蔵相は、
 旧平価による金解禁後の国際競争の激化に備えて、財政支出を削減し、金利を引き上げ、
 国民に消費節約を訴えるなど、強烈な引き締め政策を実行した。このため、日本経済は
 1929年秋から急激な景気後退に見舞われた。米国にはじまる不況の波及はその直後
 のことである。昭和恐慌は、金本位復帰のための引き締め政策と、海外の恐慌という二
 重の原因によってもたらされたのであった。この恐慌の特色を一言でまとめれば、平成
 不況とはまったくちがった価格恐慌だったということができよう。

・平成不況はよく「バブル不況」とか「ストック不況」といわれる。その遠因は昭和61
 ー62(1986ー1987)年の円高不況対策にあった。金融緩和が進められて公定
 歩合が史上最低の2.5%に引き下げられたあと、景気は回復し設備投資ブームが燃え
 上がった。しかし、1987年9月の世界的な株式暴落への配慮もあって、金融緩和は
 持続された。国内卸売物価も下がり気味、消費者物価は横ばいだったために、日本銀行
 も警戒をゆるめていたからである。1987年9月の世界的な株価暴落などへの配慮は
 あったにせよ、金融の緩和状況が長く続けられたことは、株式と不動産物価の異常な騰
 貴を生み出した。いわゆる「バブル」の発生である。
・その背景にはマネー・サプライの行き過ぎた膨張が存在した。
・輸入物価は円高の結果低落し、それとともに輸出物価も国内向け物価も弱みという傾向
 のなかで、投機的に動きうるものは、株価と不動産価格だったのは、考えてみれば当然
 の帰結であった。問題は金融当局がその事実をそれほど重大視しなかったところにある。
 物価の安定というとき、どうしても物とサービスの価格が意識され、株価や不動産価格
 が軽視される。
・金融の引き締めが開始されたのは平成元(1989)年からであって、タイミングの遅
 れは否みがたいところであった。 
・今次の不況は、資産インフレの結果生じたところにその特色が見られ、それゆえに引き
 締めの発動も遅れ、当初はそれほど深刻とも思われなかったのが、回復がはかばかしく
 なく、次第に重大性が意識されるようになった点に特色がある。
・私は今次の不況の特色として、バブルの後遺症の存在とともに、自動車産業や電子産業
 の伸びが緩やかになってきたことに注目したい。自動車産業は二年越しの減産を経験し
 ているし、電子機器も減産に向かい、かつてのような勢いを失いつつある。
・90年代の成長を占うには、当然、新たな主導産業の出現の可能性を考えなければなら
 ないであろう。残念ながら、自動車や電子産業に直ちにとって替わるだけの大型新規産
 業は目下のところ見当たらない。