昭和史の逆説  :井上寿一

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昭和初期の日本の歴史の中で、重ね重ね残念でならないのは、満州事変後の日本の外交の
失敗である。日本政府内でも軍部内でも現地のジュネーブにおいても、国際連盟の脱退は
回避したいと思っていたのに、結果的にあのような形で日本は脱退してしまった。これは、
日本国内での状況判断と現地のジュネーブでの状況判断との間の微妙な違いが原因してい
たようであるが、これが後々まで大きな禍根を残すこととなってしまった。もし、この国
際連盟の脱退が回避されていれば、日本の歴史も少し違ったものになっていたかもしれな
い。

近衛文麿は、天皇家の直系の当たる血筋を持った人物である。首相としては抜群の毛並よ
良さだったのだろう。しかし、その抜群の毛並の良さが、禍したとしか思えない。要する
にお坊ちゃま過ぎたのだ。平和な時代においては、それでも務まったかもしれない。しか
し、日中戦争中という動乱期においては、あまりにもその考えが楽観的過ぎたようだ。あ
まい考えから出た近衛の決定は、一貫性に欠け、事態を悪い方へ悪い方へと向かわせてい
ってしまった。日米開戦を直接導いたのは東條英機かもしれないが、そこへ至るまでに事
態を悪化させたのは、近衛の失政が大きな原因だったことは否定できない事実だろう。近
衛は、当時、国民には人気があったと言われているが、戦時中に首相してはならなかった
人だったのだ。

それにしても、よくわからないのは日米開戦決定までの東條英機の動きだ。開戦の目的が
はっきりしていないのである。あえて開戦の目的を言うならば、沈滞している現状打破の
ための開戦だ。いつまでも続く、まとまらない議論に終止符を打つため、挙国一致のため
の開戦だ。
東條英機は、一国の首相でありながら、その思考は軍人の枠内から抜け出せないままであ
る。しかもその軍人の思考も、陸軍の軍人としての思考でしかない。
これは、石原莞爾が痛烈に指摘しているように、そもそも東條英機は首相の器ではなかっ
たのだ。これは、そんな東條英機を首相に指名した天皇とその側近にも大いに責任があっ
たと、言わなければならないだろう。天皇が東條英機を首相に指名したのは、暴走する陸
軍を抑えさせるためだったようだが、東條英機には、その陸軍さえも抑える力がなかった
とも言える。日米開戦をすれば、まとまらない国論も、まとまざるを得ないだろうとのこ
とから開戦したようにしか思えない。東條英機は、ヒトラーのような独裁者ではなかった。
しかし、国の指導者としての器ではなかったために、苦し紛れの亡国の論理に突き進んで
しまったとも言えるだろう。こう考えると、東條英機にだけに責任を押し付けることはで
きないような気がする。

日米開戦は避けられない戦争ではなかった。日本軍が中国から撤退さえすればよかったの
だ。なぜそれができなかったのか。おそらくそこには、撤退は負けを意味し、軍人として
のメンツが立たないという意識が、非常に強かったのだと思う。このような心理は、昔か
ら日本人の根底に流れていたと思う。武士としてのメンツ、軍人としてのメンツ。日本人
には、合理的な考えから撤退するというような精神は、培われてこなかった。バックギア
のない車と同じである。前に進むことしか能がない。これは、当時の軍隊組織だけの話で
はない。今の政治組織、官僚組織、会社組織にも広く残り続けている。合理的精神よりも、
感情的なメンツが優先されるのが日本社会なのだ。
このことを考えると、あの戦争は、そんな日本にとっては、成るべくして成った戦争とも
言えるのかもしれない。よく「今の日本は、憲法でのしばりを無くしても、もう二度と戦
争に走ることはないだろう」と言われるが、このような日本人気質が残っている限り、ま
た同じ過ちを繰り返す危険性はある、と言えるのではないだろうか。今の政権を見ている
と、そんな思いにさせられることが、時々顔を出す。とてもこわいと思うのは、私だけだ
ろうか。


山東出兵は国際協調が目的だった
・昭和史は山東出兵から始まる。居留民保護を口実として中国に派兵した田中義一(首相
 兼外相)の外交は、その後の対外侵略のさきがけをなす「武断外交」として悪名が高い。
 ところが実際は、田中は出兵の目的を達成すると、陸軍の不満を抑えながら、すぐに撤
 兵を実行している。米英も日本の意図を理解して出兵を容認している。山東出兵によっ
 て対欧米関係が悪化することはなかった。
・首相の田中義一は、昭和2(1927)年4月の組閣後すぐに決断を迫られた。中国情
 勢が一刻の猶予も許さなかったからである。このまま放っておけば、取り返しのつかな
 いことになる。それは誰の目にも明らかだった。
・いくつかの武装集団の一つが中国を北上していた。広東を出発し、北京をめざしたその
 武装集団は、「国民党軍」を名乗った。国民党軍は、北上の途上、各地で地方軍閥と軍
 事衝突を引き起こす。 
・清朝崩壊後の中国は混乱状態に陥り、軍閥割拠の時代が長く続いていた。軍閥割拠の中
 から抜け出したのが蒋介石である。蒋介石は、軍事力を背景に、「反軍閥・反帝国主義」
 をを掲げ、労働者や農民を組織して、国民革命を起こし、中国の統一をめざした。
・南京で事件が起きる。国民党軍が外国領事館を襲った、掠奪や暴行、放火などの蛮行を
 はたらき、外国人の数名が犠牲となった。 
・国民党軍は自国内で軍事行動をとっている。他国がとやかく言える立場にはない。それ
 はわかっている。しかし、犠牲者こそ出なかったものの、すでに日本人居留民は被害を
 蒙っていた。在留邦人約2万人。首相である田中には、彼らの生命・財産を守る責任が
 あった。
・守るべきは、居留民の生命・財産だけではない。満蒙には日本の権益がある。遼東半島
 の先端のわずかな土地、旅順・大連の租借地と南満州鉄道およびこの鉄道の付属地。日
 露戦争の結果、ようやく手に入れたものである。条約が認めている。もとは中国やロシ
 アのものだったからといって、放棄する理由はない。守ることに疑問の余地はなかった。
・田中は、陸軍軍人出身の首相であるにもかかわらず、単独出兵はもとより、イギリスか
 らの共同出兵の提議も否定した。田中は、軍事力の行使にきわめて抑制的で、慎重な姿
 勢をとり続けた。 
・なぜ田中は、中国に対する内政干渉に反対する立場から出兵に消極的な決定を下したの
 か。以下の三つの理由を考慮したからである。
 第一 田中は欧米協調を重視していた。中国大陸ですでに獲得した、あるいは拡大しつ
    つある日本の権益は、欧米列国に認めてもらわなくては確保できない。田中はこ
    のように考えて、欧米協調を重視した。田中は、第一次世界大戦をきっかけとす
    る、国際政治におけるアメリカの台頭を予測している。大陸の権益は欧米、とく
    にアメリカの許容範囲内でしか守ことができない。田中の国際情勢認識はきわけ
    て現実的だった。
 第二 田中は欧米協調を重視する立場から、対中国「内政不干渉」主義を導き出してい
    た。田中は軍閥割拠の中国の国内情勢を操作することに慎重だった。内政干渉が
    対欧米関係に及ぼすリスクを計算してのことである。アメリカが容認しそうもな
    いと判断すれば、田中は山東権益の還付も辞さなかった。アメリカが主導する第
    一次世界大戦後の国際政治に適応するために、田中は対中国「内政不干渉」主義
    の立場をとった。   
 第三 田中にはシベリア出兵の記憶があった。ロシア革命の直後、日本は他の列国と強
    調して、居留民保護を名目に、革命に対する武力干渉をおこなった。当時、参謀
    次長の田中は、陸軍内でもっとも積極的な出兵論者だった。日本は列国と共同で
    出兵する。ところがその後の日本陸軍の行動が共同出兵お枠を超えて、アメリカ
    の抗議を受けるまでになった。田中は減兵を決定する。しかし、撤兵を決断する
    には至らなかった。列国はつぎつぎと撤兵する。日本は最後まで単独で駐兵する
    ことになった。しかも武力干渉にもかかわらず、ロシア革命は成功した。シベリ
    ア出兵は、目的を果たすことができなかっただけでなく、対外関係を悪化させる
    結果に終わる。シベリア出兵の轍を踏んではならなかった。
南京事件の日(1927年3月)現地の日本領事館に約百名の法人が避難していた。領
 事と避難民は、武力行使が不測の事態を招くのではないかと恐れ、無抵抗に終始した。
 日本側はすでにイギリスからの共同出兵を断り、英米の艦砲砲撃にも加わらなかった。
 ところが国民党軍の兵士は、日本領事館内に踏み込み、発砲、略奪を続けた。中国側を
 刺激しないように、警備隊の武装を解除したことが仇となった。
・しかし幣原は胸を張って、事実において英米人中には数名の死傷者を出したけれども、
 日本居留民中には幸いに1名の死傷者もなく、支那軍隊の指揮官が、暴行を陳謝」した
 と無抵抗主義を正当化している。これは本当だった。 
・幣原の対応は、中国側から感謝されるような、被害を最小限に抑えるための現実的なも
 のだった。田中もそれは認めざるを得なかった。田中は、幣原が列国との共同軍事行動
 を拒絶し、無抵抗主義を貫いた理由を知っていた。だからこそ、幣原外交を踏襲するか
 にみえる外交方針を議会で明らかにした。
・田中内閣は5月に山東出兵を正式に表明する。田中にとって山東出兵は、三つの意図が
 あった。
 第一 山東出兵は目的限定的にであること。田中は居留民保護のためのやむを得ない
    「緊急措置」であることを強調している。
 第二 北伐に伴う中国国内の軍事対立に対して、不干渉の立場をとること。目的はあく
    までも居留民保護であり、中国国内の情勢に関与することを自制している。
 第三 目的達成後は短期間で速やかに完全撤退すること。
・以上のように田中は、山東出兵の目的も期間も限定した。出兵をきっかとして、中国で
 軍事的に拡大する可能性を、あらかじめ自ら封じ込める決定だった。
・それにもかかわらず、声明後、中国側は山東出兵を非難した。確かに中国側の抗議文が
 言うように、山東出兵を国際法上、正当化するのは無理がある。しかし、これに反駁し
 た日本政府の回答にも一理あった。外国人の生命財産その他に関する権利を侵害され、
 条約上及び国際法上当然享受し得るべき必要の保護をも充分期待し得ざるは実に遺憾な
 り」。中国側の主張が一方的に正しいわけではなかった。日本の行動にも国際法によっ
 て正当化できる部分があったからである。
・すでにイギリスは上海に駐兵していた。アメリカもほどなくして華北に兵を送っている。
 英米の対応と合わせて考えれば、日本の山東出兵は、いわば欧米列国との協調出兵だっ
 た。
・田中は、国際的には協調出兵として、また国内的には軍部を抑えながら、山東出兵に踏
 み切る決断を下した。
・田中は、派遣軍の移動を認めなかっただけではない。6月中旬には撤兵の準備にとりか
 かっている。しかし、撤兵は時期尚早だった。7月初旬、蒋介石軍と北方の軍閥軍との
 軍事衝突によって、戦火が山東地方全域に及んだからである。
・田中は、やむを得ず、7月7日、済南進出を決定する。日本軍の済南進出は、日本側の
 意図としては居留民保護に目的を限定していたものの、客観的には中国の戦況に影響を
 及ぼすことになった。北方の軍閥軍が勢いを得て、息を吹き返したからである。蒋介石
 は北伐の中心に追い込まれた。中国国内に軍事的な均衡状態が訪れる。山東の危機は鎮
 静に向かった。田中は8月30日に撤兵を宣言する。出兵から撤兵まで約3か月の出来
 事だった。
・山東出兵は、イギリス政府の歓迎するところとなった。他方でアメリカ側も山東出兵を
 歓迎した。とくにマクマリー中国駐在公使は、山東出兵によって公使館撤退の必要がな
 くなった、と肯定的に評価している。
・山東出兵を成功に導いたのも束の間、翌年、田中は再び危機に直面する。蒋介石に北伐
 再開に伴なって、一年前と同じ事態が生じたからである。田中は前回に確立した標準作
 業手続きに基づいて、昭和3(1928)年4月、再出兵しを決定した。ところが前年
 と同じようにはいかなかった。 
・今度の日本軍の行動は、田中のコントロールを超えたものだった。数日間の戦火で数千
 人の死傷者が出た。その大半が中国の一般市民だったことは、日本軍医逸脱があったこ
 とを示している。第一次山東出兵の場合とは異なって、国内世論は日本軍の行動を批判
 した。
・田中は陸軍に対して譲歩しなかった。白川陸相が「満蒙問題」の解決のために、兵力の
 増派が必要であると主張した。田中はこの要求を退けた。他の閣僚も田中に同意してい
 る。さらに田中は、現地軍が求めてきた関東軍の「新任務」も認めなかった。関東軍は、
 条約で駐留を認められた満鉄付属地の外の錦州へ進出することをねらっていた。田中が
 認めなかったのは、この「新任務」だった。
・田中外交は陸軍によって「越し抜け外交」となった。それでも田中の考えは変わらない。
 田中は陸軍の不満を抑えながら、この年末には派兵軍の削減を指示する。撤兵が完了す
 るのは、翌年のことだった。

軍の暴走は協調外交と政党政治が抑えていた
・銃剣を帯びた軍が統帥権を振りかざせば、外交官も政党政治家もひとたまりもなかった
 はずである。たしかにその後の昭和史は、軍の暴走の歴史のようにみえる。しかし、
 1930年のロンドン海軍軍縮条約は、軍の「統帥権干犯」との非難を押し切って、政
 党内閣が批准を獲得したものである。
満州事変(1931年)の直接のきっかけとなった柳条湖事件が起こる。事件を引き起
 こした現地軍(関東軍)は、南満州鉄道とその付属地を守るわずか1万規模の兵力であ
 る。対するこの地域の中国軍は約20万だった。 
・ロンドン海軍軍縮会議首席全権の若槻礼次郎は、疲労の色が濃かった。会議の前途を悲
 観した若槻は、絶望的な気持ちに沈んでいた。公式・非公式さまざまなレベルでの二国
 間交渉にもかかわらず、いつまでたっても会議は合意を形成できそうもなかった。
・後悔の念が若槻の脳裏をよぎった。引き受けなければよかった・・・。3年前、若槻は
 首相の座を追われた。金融恐慌に対応するため、緊急勅令を発したものの、枢密院から
 拒否され、退陣を余儀なくされたからである。天皇の最高諮問機関として重要国務を審
 議する枢密院の存在感は、圧倒的だった。
・今度も同じことになりかねなかった。それで不承不承ながら全権を引き受けたのは、同
 じ民政党の浜口雄幸首相に懇請されたからである。
・若槻は、補助艦の保有比率対米7割を主張した。対米7割ならば、攻めていくことはで
 きないものの、守ることならできる。アメリカなどが主張する6割では守ることができ
 ない。海軍の主張は強硬だった。これに対してアメリカ側は、6割を譲らない。
・浜口の民政党内閣は、緊縮財政によって、昭和恐慌からの脱却を図っていた。国民生活
 に犠牲を強いる緊縮財政をおこなう以上、財政削減に聖域はない。軍部も軍縮によって
 政府と痛みを分け合う必要があった。国民が歯を食いしばって緊縮財政に耐えているの
 に、海軍の軍事費の増加を許してはならなかった。 
・野党の政友会は、党総裁の犬養毅を筆頭に、つぎつぎと議員が質問に立った。軍令部の
 反対を押し切って、ロンドン海軍軍縮条約に調印したことは、「統帥権上重大な問題で
 あり、憲法上の疑義に免れない」というのが彼らの質問の要点だった。 
・政友会は答弁に応じない浜口の態度を「非立憲極まる態度」と非難した。政友会は、議
 会政治を否定する「専制的政治家」浜口との対抗姿勢を強めた。 
・「海軍統帥権問題について不答弁主義と嘲笑されたが、統帥権問題のごとき微妙なる問
 題は、議会のような公開の席上において、軽々しき言明できるものではない」浜口がこ
 のように言い切ることができたのは、衆議院で絶対多数を制しているからだった。
・ところが浜口の強い態度は、思いがけず波紋を広げていく。軍部はもちろんのこと、貴
 族院や枢密院に対しても反響を呼んだ。世論も変化をみせ始める。右翼勢力の台頭も招
 いた。事態は浜口の手に余るものとなっていく。  
・衆議院だけなら、数の力で押し切ることができた。しかし、貴族院を説得するにはどう
 すればよいのか。貴族院の議員は、選挙で選ばれたわけでもないのに、衆議院の議員と
 ほぼ同等の権限を持ち、政党勢力に対抗していた。しかも味方だったはずの国民世論か
 ら反対が出始めた。
・浜口は海軍内の意見が対立していることに目をつけた・軍令部は強硬だった。しかし、
 海軍省はそれほどでもなかった。海軍大将と連携し、海相財部彪を説き伏せた。追い詰
 められた軍令部は、捨て身の行動に出る。上奏である。浜口は、軍令部長が直接、天皇
 に意思を伝えたこの上奏を「手続違法」と批判した。「手続」だけでなく、実質的にも
 上奏は無効となった。天皇が軍令部長の上奏書を差し戻す一方で、軍令部長の辞職を裁
 可したからである。こうして浜口は海軍を抑えることに成功する。
・枢密院は最難関だった。浜口にとって、もっとも手ごわい相手である。最難関に挑む浜
 口は、自身に満ちていた。浜口の自信には裏付けがあった。天皇から「世界の平和のた
 めの早く纏めるよう努力せよ」と激励されたからである。 
・枢密院審査委員会では、枢密院側から統帥権問題で政府を追及する発言があいついだ。
 浜口も負けてはいなかった。「大権はことごとく天皇に統一せらる。しかるにひとつの
 大権が他の大権をいかにして侵犯することを得べきや」天皇の意思を条約批准にあるこ
 とを確信する浜口は、怯むことなく主張した。
・枢密院側と渡り合う浜口には勝算があった。枢密院が反対しても、最後には直裁を仰げ
 ばよい。浜口がここまで決意を固めたことで、状況は有利に傾いていく。枢密院の委員
 会が否決してもよい。反対上奏するまでのことである。天皇の意思の赴くところ、枢密
 院本会議で可決されるにちがいない。そうなれば委員は全員辞任である。
・11月14日の午前9時前、浜口は東京駅第4ホームで特急「燕」に乗車しようとして
 いた。そのとき暴漢が浜口をピストルで狙撃した。モーゼル式拳銃の弾丸が浜口の腹部
 を射た。浜口は一命を取り止めたものの、瀕死の重傷を負う。
・この事件をきっかけとして、テロが頻発する。クーデタの風評が広がる。政党政治の厚
 い壁が立ちはだかっていた。合法的な手段をもってしては自己の政治目標は実現できな
 い。追い詰められた政治勢力は、直接行動に訴えるようになった。  
・浜口はこのような不測の事態に備えるべきだった、と批判するのは無理がある。しかし、
 権謀術数をめぐらし、天皇の権威まで政治的に利用しながら、軍令部や枢密院と渡り合
 っている間に、国民をないがしろにしていた感は拭えない。国民生活は、浜口内閣の下
 でも昭和恐慌に沈んだままだった。浜口を襲ったテロは、民心が離反するなかで起きた。
・浜口の遭難は、政党政治の危機の予兆だった。ところが野党の政友会は、倒閣運動の好
 期到来とみて、勢いづいた。 
・政友会はこのような民政党の議会運営を「非立憲的政治」と非難した。さらに傷の癒え
 ない浜口を議会に引きずり出した。議会の廊下では、両党の院外団が国会議員を交えて
 流血の乱闘を引き起こし、負傷者が出る始末だった。
・ここにおいてようやく浜口は悟った。国民が「呆れる程度を超えて議会政治に冷淡」に
 なっていることを。ロンドン海軍軍縮条約の政治的代償は、あまりにも大きかった。
・浜口内閣は、昭和史における政党政治の頂点に立っただけでなく、没落のきっかけを作
 ることになった。 
・昭和6(1931)年9月、浜口の後を継いだ若槻礼次郎首相は、臨時閣議を召集した。
 同日の新聞各紙は、トップニュースで「支那軍満鉄線を突破」「日支両軍衝突」と報じ
 ていた。
・新聞報道とは異なって、若槻は「日本軍の陰謀的行為」であることが直感でわかった。
 すでに現地では風評が広がっていた。関東軍が何かを計画している。軍需物資をかき集
 めている。不穏な動きは、若槻の耳にも届いていた。
・朝鮮軍が独断で越境し、戦闘行動に加わった。閣議は紛糾した。閣僚は皆、陸相を取り
 囲んで難詰した。「御裁可なしに軍隊を動かしたりするのは一種のクーデタ」である。
 若槻の言う通り、満州の新事態はそとからのクーデタだった。
・朝鮮軍の独断越境は統帥大権を侵すことになる。事の重大さは陸軍にも伝わった。若槻
 は天皇の意思がどこにあるかわかっていた。天皇は、参謀総長が求める朝鮮軍の越境の
 事後承認を留保した。若槻は天皇の意思が不拡大にあることを確信した。個人的な判断
 だとしても、若槻は不拡大を言明しないではいられなかった。 
・新たな危機が若槻を襲う。未遂におわったクーデタ計画の摘発だった。首相の暗殺を含
 み計画である。若槻は自分の命は惜しくはなかった。事態が深刻だったのは、クーデタ
 計画に首相暗殺が含まれていたことよりも、どちらの計画にも軍部が関与していたこと
 である。若槻は、陸軍が首謀者たちに爆弾を手渡したと耳にした。これらの計画は、実
 現可能性のある本格的なものだった。
・もう一つ、若槻が心配したのは、国民世論の動向である。新聞の論調が急速に転換して
 いた。ついこの間までロンドン海軍軍縮条約を言祝いでいた新聞各紙は、今では戦争熱
 を煽っている。
・若槻にとって満州の新事態は、民政党内閣だけでなく、政党政治全体に対する軍部から
 の挑戦だった。民政党、政友会の区別はない。二代政党制の枠組みにこだわっていると
 きではなかった。若槻は、個別の利害関係を超えて、満州事変の不拡大のために、政友
 会と協力する決意を固める。
・事態は一刻の猶予も若槻に与えていなかった。未遂に終わったとはいえ、クーデタ計画
 は本国政府に深刻な影響を及ぼした。

松岡洋右は国際連盟脱退に反対していた
・国際連盟を脱退して立役者として国民的英雄となった松岡は、その帰国後、熱狂的に出
 迎えた国民を前に、ラジオをとおして、脱退回避に失敗したことを「私の不徳、まこと
 に国民諸君には申訳ない」と謝罪していることは、あまり知られていない。国際連盟脱
 退は、対外危機の鎮静化と国際協調が目的だった。
・軍部さえも脱退は回避するつもりだった。満州国の国際的正当性を主張するためには、
 連盟内に留まる必要があった。脱退してしまえば、満州事変に対する日本の侵略責任を
 認めることになる。軍部にも脱退を回避したい理由があった。 
・国内では主な政治勢力がほぼすべて脱退回避の意図を持っていた。内田外相を中心とす
 る外務省も同じである。 
・満州問題をめぐって、国際連盟側は日本と妥協的な解決をめざしていた。国際連盟の意
 思決定は、総会でも理事会でも一国一票の全会一致を原則としている。日本は国際連盟
 の原加盟国であり、常任理事国である。日本が反対するような収拾案ではまとまらない。
 日本が受け入れることのできる解決策でなくてはならなかった。
・この目的のために国際連盟は、イギリスのリットン卿を団長とする調査団を派遣した。
 リットン調査団は、10月に報告をおこなう予定になっていた。そのことを知りながら、
 リットン調査団の報告の直前に、あえて日本が単独で満州国を承認したのは、挑発以外
 の何ものでもなかった。怒ったのはイギリスである。 
・国際連盟における多数派は、第一次世界大戦後に生まれた新興の諸「小国」である。こ
 れらの国々の理解がなくては国際連盟における日本の立場は危うい。
・ヨーロッパ在勤の国際協調派の外交官二人は、欧州情勢に通じていたゆえに、最悪の場
 合には日本が率先して脱退することの重要性を指摘した。日本が自主的に脱退すれば、
 連盟との正面衝突は回避できる。満州問題は連盟の審議の対象外となり、「小国」の
 「面子」を立てながら、連盟の枠外で「大国」と協調関係を維持すればよいからである。
・要するに、国際協調のためならば、日本は率先して国際連盟から脱退すべきである。脱
 退すれば、満州事変以来の対外危機も鎮静化できる。彼らはいわば協調のために脱退を
 東京の政府に進言していた。
・松岡がジュネーブで大立ち回りを演じたといっても、それは本国政府の指示に基づくも
 のだった。対日非難勧告が出たあと、脱退の意思表示をしなくては経済制裁を受けるお
 それがあったからである。単純に退席するだけではだめだった。松岡の大立ち回りはパ
 フォーマンスだった。ところが新聞や国民は、松岡を国際連盟脱退の立役者として喝采
 を送った。松岡は思いがけず国民的英雄となった。
・松岡は、国民的英雄として迎えた世論に迎合することなく、脱退回避に失敗した責任を
 認めた。まちがったのは本国政府だけではなかった。松岡は全権の責任を果たせなかっ
 たことを悔いた。

国民は「昭和デモクラシー」の発展に賭けた
・国民は、政党内閣崩壊後、1920年代のような二代政党制への復帰を望んでいなかっ
 た。民政党と社会大衆党とが中心となって社会民主主義的な改革を進め、大連立の可能
 性に賭けた。
・「皇道派」は、反ソ反共の精神主義的なイデオロギーの立場から、対ソ連早期開戦=予
 防戦争論を唱えていた。しかし、このグループは、強硬一辺倒ではなかった。対ソ戦優
 先の軍事戦略から、ソ連以外の国とは、アメリカとであれ中国とであれ、外交関係の悪
 化を避けようとしていたからである。
・「皇道派と対立していたのが「統制派」である。「統制派」は対ソ戦早期開戦論の「皇
 道派」を「統制」しようとしていた。ソ連との戦争に備えるためには、早期に開戦する
 のではなく、国内の総動員体制の確立を先にすべきだとの立場からだった。
・他方でこのグループは、対ソ戦のための戦略的拠点・軍事物資供給地としての満州国を
 確保するためならば、対外関係の悪化も厭わなかった。
・「皇道派」であれ「統制派」であれ、陸軍中央の立場からは、満州事変の不拡大を支持
 していた。満州事変が拡大し、熱河作戦に及ぶと、派閥の違いを超えて万里の長城以南
 への拡大の抑制に努めている。
・陸軍内の対立は、合理的な政策対立よりも非合理的な派閥対立のようにみえた。相手を
 誹謗中傷する人格攻撃に容赦はなかった。人事抗争が激化していく。
・広田弘毅外相が選択したのは「統制派」だった。ソ連との戦争を急ぐ「皇道派」と手を
 組むわけにはいかなかったからである。  
・広田に手を差し伸べる人物がいた。蔵相の高橋是清である。高橋は金本位制からの離脱
 によって円安を誘導し、輸出の拡大に努めていた。他方で赤字公債の発行をためらわず、
 これをもとに政府主導いよる有効需要の創出政策を展開する。高橋財政の成功のために
 は対外関係の安定が欠かせなかった。
・政友会は、対外危機の鎮静化にもかかわらず、危機を誇張する軍部を批判してやまなか
 った。軍部批判にかけては民政党も負けてはいない。民政党は、若槻総裁自らが軍部批
 判の先頭に立っていた。若槻は東京で「骸骨が大砲を牽くようになれば、軍備は充実す
 るどころか、かえって弱体化する」と演説している。別の日には仙台での講演で「元来
 今日は、日本より進んで戦争をしかけなければ、いずれの国からも、日本は攻撃される
 ことはないのである」と言い切っている。
・政党の軍部批判を背景に、荒木陸相は斎藤内閣のなかで孤立を深めていく。荒木の主張
 は閣議で通らなくなった。予算の一部を海軍に譲ったことも、陸軍内での荒木の立場を
 損なった。陸軍派閥対立は、「皇道派」から「統制派」優位へと傾いていく。荒木は昭
 和9年1月に陸相を辞任する。
・国家の統治権は法人である国家にあり、天皇は国家の最高機関である。岡田首相はこの
 天皇機関説に問題があるとは思えなかった。岡田は天皇から直接「機関説でいいではな
 いか」と聞いたからである。
・政友会はこの論争の政治的な利用を目論んだ。ロンドン海軍軍縮条約問題のときと同様
 である。天皇制のダブーにふれる問題ならば、攻撃に立つことができる。
・岡田内閣の統治能力が低下するなかで、8月12日、テロが起きる。「皇道派」の相沢
 三郎中佐
永田軍務局長を惨殺した事件である。
・それでも岡田は政権を投げ出すことなく、踏みとどまった。踏みとどまっただけではな
 い。弱体化した政権基盤を補強するために、無産政党への接近を試みた。
・機関説問題をもってしても辞任しない岡田内閣に対して、政友会は不信任案をぶっつけ
 た。岡田内閣は衆議院を解散し、総選挙に臨む。総選挙の結果は、民政党78名増、政
 友会71名減となった。昭和10年の政治に対する国民の判断は、岡田の期待どおりだ
 った。
・国民は新しい政治の枠組みを求めていた。党利党略によって政党政治を救いがたいもの
 にする従来の二大政党制に用はない。国民が求めていたのは、民政党と社会大衆党とが
 提携して、社会民主主義的な改革を進める政党政治の枠組みである。国民は「昭和デモ
 クラシー」の発展に賭けていた。
・その直後、事態は暗転する。二・二六事件の勃発である。「皇道派」の青年将校が反乱
 を起こした。かれらの狙いは正確だった。まず首相の岡田。岡田は難を逃れたものの、
 高橋是清は拳銃と軍刀の犠牲になった。反乱軍の約30名のグループは、斎藤実内大臣
 を襲撃後、真崎の後任の渡辺錠太郎教育総監を殺害する。反乱軍は「昭和テモクラシー」
 の側の政府要人を確実に排除していく。その先に「皇道派」トップを首班とする内閣の
 実現を予定していた。これは本格的なクーデタ計画だった。
・ところが彼らにとって予想外のことが起きた。「至尊絶対」の存在である天皇が立ち上
 がった。信頼する重臣を失った天皇の怒りは、反乱軍の鎮圧に乗り出す決意をもたらし
 た。 
・二・二六事件を鎮圧したのは、直接的には天皇の意思であり、また間接的には国民の意
 思である。国民は反乱軍に冷淡だった。反乱軍は国民が守ろうとしていた「昭和デモク
 ラシー」を破壊しようとしたからである。反乱軍は、対外危機の鎮静化を導き、高橋財
 政によって昭和恐慌からの脱却に成功した斎藤と高橋を襲い、社会民主主義的な改革を
 めざす岡田内閣をクーデタで倒そうとした。このような反乱軍に国民の同情の余地はな
 い。

戦争を支持したのは労働者、農民、女性だった
・誰が日中戦争を拡大したのか。それは軍部である、と普通は考えられている。しかし、
 本当だろうか。
・陸軍参謀本部は戦争拡大に反対だった。仮想敵国であるソ連との戦争準備に余念がない
 陸軍にとって、中国との戦争は避けるべきだった。陸軍内の拡大派といえども、中国本
 土・被害者であるはずの労働者や農民、女性こそがもっとも強く戦争を支持していたの
 だ。
・日中戦争は、誰かが明確な意図に基づいて拡大をはかったものではない。日中戦争の拡
 大は、さまざまな要因の積み重ねの結果だった。
近衛文麿は、楽観していたことを後悔した。意図とは異なる結果の連続が事態の悪化を
 招いていた。近衛の打つ手は、後手へ後手へとまわるようだった。
・タイミングが悪かったとはいえる。1937年の7月7日、北京郊外の盧溝橋で、日中
 両軍の軍事衝突事件が勃発した。両軍は、この偶発的な軍事衝突の収拾を急いだ。
・ところがこの日、首相の近衛は、「不拡大・現地解決」の基本方針を閣議決定しておき
 ながら、同時に内地からの動員派兵を承認している。タイミングが悪かっただけではな
 い。近衛は事態を楽観しすぎていた。増派によって軍事的に制圧すれば、中国側は譲歩
 してくるにちがいない。強い態度に出たほうがよい。中国に対してだけはない。国内に
 対してもアピールできる。軍部の先手を打ち、国内をまとめる効果がある。近衛は軽い
 気持ちで派兵を承認した。  
・近衛の楽観的な考え方は、事態を悪化させた。現地での停戦気運にもかかわらず、陸軍
 内の強硬論を勢いづかせたからである。先手を打つどころか、後手にまわる結果となっ
 た。 
・それだけではない。驚いたのは中国側である。日本側は停戦協定を守る意思がない。侵
 略の拡大を意図している。もはや譲歩の余地はない。蒋介石の中国政府は、徹底抗戦の
 決意を固めた。
・近衛は、不拡大方針が崩壊した責任をとるために、内閣総辞職の覚悟を決めた。しかし
 近衛は、辞めたくても辞めるおとができなかった。11月、日本軍は杭州湾への奇襲上
 陸作戦に成功する。中国軍は総崩れとなった。戦況は日本側の圧倒的な有利のうちに展
 開する。戦争に勝っている国の首相が辞める。そんなことができるはずはない。近衛は、
 自分の出処進退すら自分で決めることができなかった。
・どうすれば軍部を制御できるか。この難問に対する近衛の答は、大本営の設置だった。
 近衛は、大本営の設置によって、戦争の主導権を軍部から奪い返そうと試みる。
・敵国の首都南京の陥落に、日本国内は沸き返っていた。慶賀ムード一色だった。東京市
 内は、提灯行列、旗行列が埋め尽くす。戦争に勝った。戦争は終わった。これが国民の
 実感だった。 
・戦争景気への期待は、財界のトップが公言している。「北支事変」は、国内の景気を刺
 激する「天佑」だった。「天佑」は、軍需産業の生産ラインをフル稼働させる。労働力
 が不足する。労働者の賃金が上昇する。労働者の「完全雇用」が達成される。デパート
 の歳末商戦の盛況を支えていたのは、豊かになった労働者だった。
・戦争景気も、戦争が長引けば、ハイパー・インフレを引き起こす。幸いなことに南京が
 陥落した以上、そんなおとも起こるまい。国民は、この戦争を絶好の景気刺激策として
 歓迎した。
・国民が戦争を支持したのは、戦争景気の期待に止まらなかった。政府はこの年の国会に、
 二つの重要法案を提出している。電力国家管理法案と国家総動員法案である。これらの
 二つの法案の主な推進勢力が軍部だったことは、いうまでもない。日中戦争の拡大は、
 国内の総力戦体制化を要求した。これに応えるのが電力国家管理法案と国家総動員法案
 だった。
・政府をもっとも強く支持したのは社会大衆党である。社会大衆党は、国民の意思がどこ
 にあるのか、確信があった。国民は社会民主主義を求めている。社会大衆党にとって、
 これらの二法案は「社会主義の模型」だった。電力を支配できればすべての産業、資本
 を支配できる。レーニンもそう言っている。総動員体制が確立すれば、国家が富の再配
 分をおこなうことができる。そうなれば社会の平準化=「社会主義」が実現する。
・ところが南京陥落前後から日本政府内の空気が一変する。敵国の首都を陥落させたのだ
 から和平交渉は無用である。あるいは和平条件を加重する。そのような強硬論が強くな
 った。先勝気分に沸く国内は、勝ったのだから「頂戴するのは当たり前」というムード
 だった。戦勝気分に沸く国内は、勝ったのだから「頂戴するのは当たり前」というムー
 ドだった。  
・参謀本部の交渉継続論への反発は強かった。なぜ勝者の日本から進んで講和を求めなく
 てはならないのか。閣僚がだれ一人として賛成しなかった。
・日中戦争の収拾のためには、陸軍を制御しなくてはならない。陸軍の制御が可能になる
 ためには、「国民の基盤の上に立ったところの国民的な世論を背景にした圧倒的な政治
 勢力」が必要である。このように考える近衛は、新党運動の展開によって、陸軍を制御
 できる強力な新体制を築く決意を固めた。
・「新体制」の確立をとおして「資本主義の改革」をめざす社会大衆党は、近衛の期待に
 応えて解党する。近衛の「新体制」は、社会大衆党にとって、日本の「社会主義化のこ
 とだった。政友会や民政党は、「新体制」からはじき出されることを恐れた。浮き足立
 った既成政党は、社会大衆党の解党後、政友会の各派閥がつぎつぎと解党を宣言してい
 く。政党は、解党する以外に新しい国内外の「新体制」のなかで生き残る余地がなくか
 った。こうなると最後まで残っていた民政党も、解党する決断をするほかなかった。
・近衛の「新体制」に期待したのは、政党だけではなかった。主な労働組合は「ほとんど
 全部が自発的に解散」している。「新労働体制確立」に対応するためだった。農民運動
 の団体も同様に、解散があいついだ。
・同じ頃、「婦人団体」でも「新体制」の論議が活発になっていた。三つの「婦人団体」
 が「新体制」の下での統合を申し合わせた。
・このように政党だけでなく、労働者や農民、女性も、近衛の「新体制」を支持した。近
 衛の「新体制」の確立をとおして、労働者や農民、女性は、資本家や地主、男性に対す
 る自らの社会的地位の向上を期待したからだった。
・松岡の主導の下で、日本は日独伊三国同盟を締結する。欧州情勢におけるドイツ・イタ
 リアの勢いを前提として、三国同盟によって日本の外交ポジションの向上を図り、日中
 戦争の収拾をめざす。
・主要な政治勢力はすべて近衛を支持した。第二次近衛内閣が成立する。近衛は当惑した。
 気がつけば首相の座に就いていたものの、準備不足は否めなかった。国内新体制の議論
 が不十分だった。近衛は重大な問題に直面してしまう。強力な新党の下にすべての政党
 を再編すると、一国一党制になる。一国一党制は憲法違反の疑いが強い。一国一党制で
 は新党が天皇に上位に位置することになりかねない。新党を組織するということは、そ
 の先に憲法の改正を見通しておく必要がある。近衛は憲法改正には踏み切れなかった。
・近衛は新党構想と一国一党制とを同時に否定した。近衛からすれば、やむを得ない判断
 だった。新党や一国一党制を期待していた参加者は落胆した。疑問と非難が噴出する。
・問題はこれだけではなかった。「三国同盟の予想外れ」である。三国同盟は、日本の外
 交ポジションを強化したはずである。ところが実際には、三国同盟の外交圧力によって
 も、中国が屈服する気配はなかった。それだけではない。対米関係も悪化した。アメリ
 カは中国への経済支援に乗り出す。  
・これではドイツとイタリアの思惑どおり、対英さらには対米軍事同盟としての三国同盟
 になりかねない。そうなれば独伊の英米との戦争に巻き込まれてしまう。
・近衛から離れていったのは、議会政治家だけでなかった。離反者は、閣内からもあった。
 松岡外相である。求心力の低下した近衛に代わった、いずれ自分が首相にと野心を抱く
 ようになった。  
・松岡は日ソ不可侵条約を構想する。三国同盟と日ソ不可侵条約によって四国協商を作り、
 日独伊ソで世界の半分を収める。それを外交圧力として、アメリカ側と差しで話し合う。
 そうなれば日米戦争を回避し、日中戦争を収拾できる。
・しかしソ連のスターリンは、松岡よりも役者が上だった。不可侵条約は無理でもこの年、
 中立条約を結び、日本の目を南に向けさせた。松岡は、スターリンの思惑どおり動いた。
 日ソ関係の緊張は緩和した。他方で松岡は、6月の南部仏印進駐を支持する。東南アジ
 アの資源を確保しながら、日中戦争の軍事的な解決をめざすために必要だったからであ
 る。  
・ところが南部仏印進駐は、アメリカの態度を悪化させた。決定的ともいえた。日中戦争
 解決の目途も立たない。無理に無理を重ねた結果だった。元を正せば、三国同盟でしく
 じった。松岡はのちに三国同盟を「一生の不覚だった」と後悔することになる。
・それでも国民は、近衛を支持し続ける。戦争が国内社会の変容をもたらしていた。社会
 の平準化が進んでいた。軍需生産の拡大が労働者の高賃金と完全雇用を実現させた。資
 本家に対する労働者の地位は、相対的に向上する。小作料の減免によって農民の労働意
 欲を刺激し、戦争に伴う食糧の増産が必要だったからである。女性の地位も向上する。
 出征による男性の労働力不足を補うことで、女性の社会的進出が可能になった。
   
アメリカとの戦争は避けることができた
・日米戦争はなぜ起きたのか。「ABCD(英米中蘭)包囲陣」の圧迫を受けていた日本
 は、やむなく戦争に訴えたとの見方がある。しかし軽々に信じるわけにはいかない。
 「ABCD包囲陣」とは、当時の日本の戦争指導者たちが、開戦後あとから付けた説明
 にすぎないからである。 
・日米の間には、戦争によってでなければ解決できない問題などなかった。開戦の回避は
 可能だった。それにもかかわらず、なぜ日本はアメリカとの戦争を決意したのか。
・近衛は日米交渉の妥結を急いでいた。近衛はよくわかっていた。天皇が外交交渉による
 解決を望んでいたことを。  
・日米交渉を妥結に導くためには、譲歩が必要だった。アメリカ側は中国大陸からの日本
 軍の撤兵を求めていた。近衛はこの条件を飲む覚悟だった。ところが東條が一歩も譲ら
 ず、反対し続けた。撤廃問題で陸軍の主張を曲げるつもりがなかったからである。東條
 の反対は、閣内不一致を招いた。近衛内閣は総辞職する。
・東條の大命拝受は驚きだった。なにしろ東條は、近衛の後継に皇族内閣を推していた。
 近衛でさえ行き詰ったのだから、あとは皇族内閣以外にない。まさか自分が首相になる
 とは思いもよらないことだった。  
・陸軍軍務局長の武藤章が組閣名簿を持ってきた。東條は突っぱねた。「本日よりは陸軍
 だけの代表者にあらざるを以って、公正妥当な人選をしなければならぬ」。「皇族内閣
 でなくては収まらない」と昨日まで主張していた東條である。陸軍内閣では重い責任を
 果たすことができない。 
・もっとも慎重に人選をしたのが、外相と蔵相のポストである。東條は陸海軍の言いなり
 にはならない候補者を選んだ。外相には外務省の生え抜きの東郷茂徳を抜擢した。 
・陸相は東條が兼任した。陸軍を抑えるためには、これが手っ取り早かった。兼任したの
 は陸相だけではない。東條は内相も兼任した。内相兼任の理由を秘書官にこう語ってい
 る。「お上より日米交渉を白紙にもどしてやり直すこと、成るべく戦争にならぬように
 考慮すること等、仰せ出され、必謹之が実行に当たりこのまま戦争をせず米国の申し出
 に屈した場合には、二・二六事件以上の暴動も起こるやも知れず、その際には断乎涙を
 ふるってこれを弾圧する必要があり」。
・要するに東條内閣の布陣は、天皇の意思を実行することが目的だった。東條は従来の決
 定を白紙に戻す。軍部を抑制しながら、日米交渉の継続によって戦争を回避しなくては
 ならなかったからである。
グルー駐日大使は、10年近くに及ぶこの極東の小さな島国での暮らしを、孤独のうち
 に過ごしていた。グルーは日本語を解さなかった。耳も遠かった。ハーバード大学を卒
 業したエリート階級出身の職業外交官にとって、日本は魅力に乏しかった。グルーは、
 もともと日本にはこれといった関心を持つことがなかった。
・しかし極東国際政治の危機が、グルーに不遇をかこつ余裕を与えなかった。日米関係が
 危機的な状況に陥っていた。この10年近くの間、何もしなかったわけではない。グレ
 ーは、日本のエリート階級とは通じ合うところがあった。英語の堪能で欧米のマナーを
 わきまえた日本人と親しく交わった。グルーがアメリカ大使館の晩餐会に招いたのは、
 牧野伸顕、近衛文麿、幣原喜重郎や広田弘毅、重光葵、吉田茂といった外交官だった。 
 グルーがもっとも信頼したのは、樺山愛輔だった。
・主に樺山から、ときに吉田や重光から得た情報によって、日本の状況を分析するグルー
 は、近衛内閣が日米交渉によって危機を回避することに大きな期待を抱いていた。とこ
 ろがその近衛内閣が総辞職する。グルーの落胆は、はなはだしかった。
・グルーは、近衛内閣の総辞職に落胆した。しかし、東條内閣の成立には落胆しなかった。
 グルーにとって東條内閣は、前内閣の基本路線を踏襲する内閣だったからである。首相
 が自ら軍部を抑制し、欧米協調派の外交官出身の外相の下で三国同盟路線からの転換を
 図り、日米交渉を再軌道に乗せる。グルーにとって東條内閣は悪くはなかった。
・東條には気がかりなことがあった。海軍の動向である。日米戦争を回避するとは、直接
 には海軍のアメリカとの戦争を回避することだった。東條が海相も兼任すれば、「外交
 成功せば戦争発起を中止す」を守ることができたかもしれない。  
・しかし東條は、そのような「独裁」体制を選ばなかった。東條が作りたかったのは、
 「独裁」内閣ではなく、「挙国一致」内閣だったからである。
・海軍に限らず陸軍も含めて、軍部を制御するうえで、東條の政治指導は大きな限界があ
 った。東條内閣は近衛内閣の継続である。東條は、それまでの決定を「白紙還元」し、
 近衛が試みたように、日米交渉を進め、開戦回避の可能性を求めた。そのためには、軍
 部の制御を可能にする政治体制の確立が必要だった。
・しかし、東條に残されたのは大政翼賛会という政治的な残骸だけである。国民の圧倒的
 な支持を背景に、強力な国内体制の確立を試みながらも、近衛は挫折した。東條は陸軍
 にしか支持基盤を持っていない。近衛にできなかったことが東條にできるというのか。
 大政翼賛会は当てにはならなかった。
・東條は同じ陸軍の杉山元参謀総長すら説得できないでいた。
・陸軍以外に権力の基盤を持たない東條は、国内の動向を気にしていた。
・何のために中国と戦っているのかがわからないままに、四年が経過していた。いつ終わ
 るとも知れない日中戦争を続けていくのは困難だった。 
・それよりも開戦を決意したほうがよい。そうすれば「非常時局に当面して日本国民の真
 面目を発揮し過去四年の西支事変に対するがごときことなく真に挙国一致の体容を示す
 べし」。東條は、「臥薪嘗胆」よりも挙国一致体制確立のための対米開戦論に傾き始め
 る。
・作りたくても作れなかった挙国一致体制は、開戦決意を国民に示すことで作ることがで
 きるかもしれない。開戦の誘惑が東條をとらえた。
・開戦の誘惑に駆られながらも、東條は思い止まった。東條には決断できない理由があっ
 た。東條が不安を抱いたのは、開戦後の戦局の見通しである。海軍軍令総長の永野は、
 日米戦争が短期戦であれば、「勝算我にありと確信す」と断言した。しかし「戦争は十
 中八、九は長期戦となる」という。長期戦の見通しは「予断を許さず」。永野はそれ以
 上の説明はできなかった。
・東郷外相は、国際情勢から開戦を避けるべきだと主張した。「独逸本土屈服は目下見通
 し難し」「独伊の我が南方作戦に対する協力は地理的及海軍力にみて大なる期待を懸く
 るを得ず」。東郷は、三国同盟への期待を戒めた。
・蔵相の賀屋も長期戦になれば日本が負けることを示唆した。 
・これでは開戦の決意を固めることができるはずはない。東條は、「三年以後の状況にお
 いては不安定要素錯綜しあるを以て確定的決定に至らず」と判断した。この日の東條が
 下した結論は、「三年以降は不明なり」だった。
・日米戦争は、日本がワシントンやニューヨークを空襲するのではない。アメリカが東京
 や横浜を空襲する。東條の軍事リアリズムからすれば、これは当然のイメージだった。
・東條の開戦決意を鈍らせたのは、これだけではない。対米開戦に伴うソ連参戦のおそれ
 があった。東條はその可能性を認めている。欧州で英ソが独伊と戦っている。日米戦争
 をとおしてアメリカが参戦すれば、米英ソの同盟関係が成立する。これに対して三国同
 盟が当てにならないことは、東條のよく自覚するところだった。  
・東條にとってやっかいな問題がもう一つあった。対米戦争の目的をどうするかである。
・東條は、戦争目的を明らかにしたかった。たとえば「大東亜新秩序の建設」でもよかっ
 たはずである。ところが東條は、三国同盟に依存せずに対米戦争を戦うと言明した。
 「大東亜新秩序」は、独伊の枢軸国を中心とする欧州新秩序に連動していた。欧州情勢
 が不確かななかで、「大東亜新秩序」を打ち出すことには無理があった。
・開戦と避戦との間で揺れ動いた東條が戻ってきたところは、11月の大本営政府連絡会
 議の決定だった。戦争準備を進めながら、外交交渉を継続する。東條はこの決定を忠実
 に守ることを決めた。この決定は、開戦か避戦かの二者択一から脱却するもっとも現実
 的な選択だった。 
・東條は東郷に加勢して、外交交渉のデッドラインを11月13日から11月末までと延
 長することに成功する。あとは東郷に委ねた。外交交渉が失敗に終われば、責任は東郷
 が負わなくてはならなくなる。そうなれば開戦である。開戦といっても、主に戦うのは
 海軍だった。東條は、開戦の責任を海軍に帰すことができた。海軍は戦えないとはいえ
 ない。 
・東條が外相や海相に開戦責任を押し付けることができたのは、帝国憲法の下での権力分
 立制のなせるわざだった。 
・東郷は、アメリカ側の煮え切らない態度と残されたわずかな外交交渉のデッドラインと
 の間で板挟みになった。この窮地から脱出するために、東郷は最後の外交カードを切る。
 南部仏印からの撤兵とアメリカの対日石油供給とを交換条件として、数か月間ではあっ
 ても、戦争の危機を回避する。東郷はこの暫定協定案にすべてを賭けた。
・この案で数か月間でも開戦を先に延ばすことができれば、その時あらためて開戦を決意
 するのは困難になる。東郷はそう読んだ。欧州情勢への期待が開戦論を支えている。そ
 の欧州情勢が枢軸国に不利に傾くのは、あと少しの時間があればよい。さらに数か月も
 すれば、東南アジアが雨季に入る。積極的な作戦行動がとりにくくなるにちがいない。
・他方で海軍は、日米交渉が決裂し戦争不可避となるのは11月25日以後と想定し、作
 戦準備を進めていた。この想定に合わせて、11月26日の早朝、海軍の機動部隊が真
 珠湾をめざして出撃する。日米交渉が妥結すれば、機動部隊は引き返す。機動部隊の司
 令官はそのような命令を受けていた。そうでなければ、12月初めにこの機動部隊が真
 珠湾を攻撃することになる。  
・東郷は、日米の二国間交渉によって、暫定協定案の妥結を図るつもりでいた。ところが
 アメリカ側は、この案に対する意向をイギリスやオランダ、中国にまで確認するという。
 中国が賛成するはずはない。暫定協定案は、中国の犠牲の上に成り立つ日米の妥協なの
 だから。「大体の見当」はすでについていた。暫定協定案が成立する「見込み」はなく
 なった。 
・東條は、このような状況を意に介さなかった。外交交渉がうまくいかなければ、それは
 外相の責任である。あとは開戦すればよい。このまま進めばおそらく開戦だろう。それ
 はそれでかまわない。東條に迷いはなかった。
・ところが思わぬ方向から横槍が入った。天皇からである。天皇は、東條に重臣を御前会
 議に出席させてはどうか、と下問した。忠誠を誓った天皇の発言であっても、東條は受
 け入れるわけにはいかなかった。東條は重臣を警戒していた。陸軍出身の首相経験者は
 ともかく、若槻や岡田が何を言い出すかわからなかった。東條は、自分が作った意思決
 定の枠組みを重臣から守ろうとする。重臣だけではない。東條は天皇からも、それまで
 に突き上げてきた決定を覆されたくなかった。東條は、軍事官僚出身にふさわしい手続
 き形式論で天皇に抵抗した。  
・11月26日に出撃した機動部隊は、途中で引き返し命令を受けることなく、予定どお
 り、12月8日未明、真珠湾を攻撃する。第一報に接した東條は、「よかったな」と一
 言、側近に語った。 
・緒戦の勝利の一方で、いくつかの不安が東條をよぎった。短期戦ならば勝てると海軍が
 言明したのだから、緒戦の勝利は当たり前だった。問題は長期戦になった場合である。
 長期戦への覚悟を国民に求めることができるような、戦争の「大義名分」は何か。東條
 は開戦までに答えを出すことができなかった。 
・戦争目的に「アジアの解放」を掲げれば、この戦争は人種戦争になってしまう。だから
 といって、枢軸路線の強化による「新秩序の建設」を唱えると、対ソ関係が危うくなる。
 12月8日の開戦の詔書が掲げた戦争目的は、「自存自衛」というわかりにくいものだ
 った。 
・東條にとって幸いだったのは、開戦によって初めて、東條は真の挙国一致体制を手に入
 れた。国民は真珠湾攻撃に興奮を抑えることができなかった。国内は戦争がもたらす緊
 張感と解放感に満ちていた。いつ終わるのかわからない日中戦争にけりをつけ、総ての
 問題を解決するのが米英との戦争だった。 
・戦争に対する国民の支持は、東條に対する国民の支持となっていく。開戦前は、東條の
 もとに「何をぐずぐずしているのか」との投書が多く寄せられていた。ところが開戦後、
 首相官邸の電話は鳴り止まず、激励の電報が殺到した。「よくやった」「胸がスッとし
 た」「東條首相こそ英雄だ」。東條は「大衆は自分の味方なり」と胸を張った。戦争が
 続く限り、東條は自信を持ち続けることができた。東條は、国民との一体感に支えなが
 ら、終わりの見えない戦争を継続していく。 

降伏は原爆投下やソ連参戦の前に決まっていた
・日本の降伏をもたらしたものは原爆投下だったのか。それともソ連参戦だったのか。な
 ぜ一日も早く降伏しなかったのか。
・日本の降伏は天皇の聖断によって決定した。なぜもっと早く聖断が下されなかったのか。
・重臣たちが動き始めた。彼らは挫折者の集団である。一度は首相の座に就きながら、誰
 もが皆、目的を達することなく挫折している。対米開戦の際もそうだった。彼らの開戦
 反対論は、東條の巧みな官僚的手法によって阻止され、不発に終わった。今度こそ成功
 させなければならない。 
・先頭に立ったのは岡田啓介である。岡田は東條内閣打倒に目標を定める。手段はあった。
 岡田は東條内閣の嶋田海相の辞任を求める。戦時体制といえども、一皮向けば帝国憲法
 体制である。この権力分立体制の下では、閣内不一致が命取りになる。事実、東條内閣
 は昭和19(1944)年7月、あっけなく崩壊する。嶋田辞任要求を受け入れたにも
 かかわらず、後任の海相候補者の入閣を海軍が拒否したからである。岡田を中心とする
 海軍の関係者が示し合わせた結果だった。
・東條内閣を大臣に追い込むことには成功した。しかし戦時体制の歯車は止まらなかった。
 米内光政海相が副首相として連立を組む形で成立した小磯国昭内閣は、陸軍と重臣層と
 の妥協の産物だった。
・重臣たちは鈴木内閣お成立をめざすようになる。二・二六事件で退陣を余儀なくされた
 岡田は、この事件で重傷を負った鈴木に国家の命運を賭けた。満州事変によって挫折し
 た若槻も鈴木を支持する。日中戦争の不拡大に失敗した広田も同様である。かつて挫折
 した重臣たちの期待が鈴木に集まった。
・チャンスはほどなく訪れた。戦況の急速な悪化になすすべを失った小磯内閣が行き詰る。
 中国との和平の可能性が最終的に断たれたことを直接のきっかけとして、昭和20年4
 月、小磯内閣は総辞職する。
・この内閣の目的が戦争の終結にあることは、鈴木にとって疑問の余地はなかった。ただ
 し、座して帝国の死を待つつもりはなかった。鈴木は帝国海軍の軍人である。天皇の意
 思もまたそうであると鈴木は確信していた。敵に軍事的な打撃を与えて戦果をあげたの
 ちに、戦争の終結を図る。これが鈴木の基本路線となった。
・やっかいなことに、外に対しては戦争終結のシグナルを送りながら、内に対しては戦争
 継続の意思を示さなくてはならなかった。和平条件に付いて、鈴木は多くを望まなかっ
 た。あるいは望めるような状況ではなかったというべきかもしれない。いずれにせよ鈴
 木は、「国体護持」と関連するいくつかの条件でよしとする考えだった。「満州は朝鮮
 をハキ出して日本本土に閉じ込められ、不幸にして農業国になり下っても、それは忍ば
 ねばならぬ」と覚悟を決めた。
・条件はそうだとしても、測りかねたのが和平のタイミングである。沖縄戦は廃頽が続い
 ていた。米軍の九州上陸作戦も時間の問題である。しかし戦意は高揚しない。いったい、
 いつどこで決戦を挑み、一矢を報いて和平に持ち込めばよいというのか。 
・鈴木はわずかな望みをソ連に託す。和平仲介国は、双方い影響力のある国でなくてはな
 らない。ソ連は欧州戦線における連合国の一つである。アジア太平洋戦線においては、
 日本と中立関係を維持していた。何らかの条件付きで降伏するのであれば、ソ連のほか
 に仲介国はない。すでにソ連が中立条約の不延長を通告している以上、鈴木はわずかな
 可能性にすがりついているにすぎなかった。
・米国のトルーマン大統領は日本に無条件降伏を勧告した。無条件降伏であれば、直接、
 米英に和平を求めればよいと鈴木は承知していた。無条件降伏を受け入れるとどうなる
 か。これも鈴木にはよくわかっていた。最前のドイツと同じ末路をたどるだけである。
 ヒトラーは自殺し、ベルリンは陥落した。米英との直接和平は、鈴木の選ぶところでは
 なかった。
・ソ連を介して有条件降伏をめざすことは決まった。残された問題はタイミングである。
 鈴木は、少しでも有利な条件で降伏するためには、何らかの戦果をあげなくてはならな
 いと考えた。それにしてもいったいどのタイミングで一矢を報いて、和平に持ち込める
 というのか。この問題は首相の権限の及ばないところだった。
・小さなアクシデントが生じる。そのときは気づかなかった鈴木も、のちに後悔すること
 になる。28日、一部の新聞が政府はポツダム宣言を「黙殺」と報じた。同日午後、鈴
 木は記者団の質問に答えて、「ただ黙殺するのみである」と繰り返した。ポツダム宣言
 の即時受諾はあり得ない。しかし拒否するわけでもない。その微妙なニュアンスを「黙
 殺」という表現に込めたつもりだった。
・驚いたのは東郷である。「黙殺」では拒絶と受け取られる恐れがある。これでは27日
 の正式決定に反することになる。東郷は抗議した。
・和平仲介の特使派遣案へのソ連側の回答は、待てど暮らせど届かなかった。代わりに鈴
 木が8月6日に接したのは、広島に「新型爆弾」投下の凶報だった。翌日の短波放送が
 報じるトルーマン大統領の声明の内容から、鈴木は「新型爆弾」が原子爆弾だったこと
 を知る。翌8日夜、鈴木は指示する。「広島に落とされたものが原爆であることがわか
 った以上、私は明日の閣議で、自分から終戦についての意見を述べたいと思うので、そ
 の準備をしてくれないか」
・原爆投下の前から、すでに鈴木は降伏の決意を固めていた。原爆投下の衝撃によっては
 じめて降伏を決意したのではない。その意味で原爆投下の影響は限定的だった。トルー
 マンは声明の中で、原爆投下の理由として日本のポツダム宣言拒否を挙げている。鈴木
 は「黙殺」発言を後悔した。もっとも原爆投下があろうがなかろうが、鈴木は降伏を決
 定したにちがいない。 
・9日の閣議に先立つ最高戦争指導会議の結果は、あらかじま鈴木や東郷の予想するとこ
 ろだった。誰もが降伏を覚悟した。誰もが無条件降伏を拒否した。争点はどの程度の有
 条件降伏とするかだった。意見が割れることはわかっていた。事実、そうなった。東郷
 を中心とする一条件(「国体護持」)派と阿南を中心とする四条件(「国体護持」、自
 主的武装解除、本土進駐の回避、日本により戦犯処罰)派の対立である。
・鈴木も東郷も考えは一つだった。動かなくなった権力分立制を動かすことができるのは、
 今や天皇だけだった。しかし、天皇の直接的な意思決定が国家意思の決定となれば、そ
 れは「天皇親政」である。これでは天皇に意思決定の責任を負わせないことで「国体」
 を「護持」する帝国憲法体制を破壊することになる。 
・鈴木も東郷も天皇の意思と政府の意思とが限りなく接近するように、既成事実を積み上
 げた。多数派の意見と天皇の意思とが一致すれば、帝国憲法体制下での意思決定をかろ
 うじておこなうことができる。