五・一五事件 :小山俊樹 

評伝森恪 [ 小山俊樹 ]
価格:2970円(税込、送料無料) (2022/4/30時点)

日本精神研究 [ 大川周明 ]
価格:1210円(税込、送料無料) (2022/4/30時点)

日本二千六百年史増補版 [ 大川周明 ]
価格:1430円(税込、送料無料) (2022/4/30時点)

戦はごめんだ [ 吉村久夫 ]
価格:770円(税込、送料無料) (2022/4/30時点)

昭和天皇 「理性の君主」の孤独 (中公新書) [ 古川隆久 ]
価格:1100円(税込、送料無料) (2022/4/30時点)

名将 山本五十六の絶望 [ 鈴木荘一 ]
価格:990円(税込、送料無料) (2022/4/30時点)

太平洋戦争への道 1931-1941 (NHK出版新書 659 659) [ 半...
価格:968円(税込、送料無料) (2022/4/30時点)

昭和陸軍 七つの転換点 (祥伝社新書) [ 川田 稔 ]
価格:990円(税込、送料無料) (2022/4/30時点)

昭和恐慌と経済政策 (講談社学術文庫) [ 中村 隆英 ]
価格:924円(税込、送料無料) (2022/4/30時点)

激動昭和と浜口雄幸 (歴史文化ライブラリー) [ 川田稔 ]
価格:1870円(税込、送料無料) (2022/4/30時点)

国家社会主義とは何か 「街頭新聞」の思想を読む [ 杉本 延博 ]
価格:1760円(税込、送料無料) (2022/4/30時点)

日本改造法案大綱 (中公文庫) [ 北一輝 ]
価格:990円(税込、送料無料) (2022/4/30時点)

北一輝 (ちくま学芸文庫) [ 渡辺京二 ]
価格:1430円(税込、送料無料) (2022/4/30時点)

明治デモクラシー (岩波新書) [ 坂野潤治 ]
価格:858円(税込、送料無料) (2022/4/30時点)

近衛文麿 (人物叢書 新装版) [ 古川隆久 ]
価格:2420円(税込、送料無料) (2022/4/30時点)

尾崎秀実とゾルゲ事件 近衛文麿の影で暗躍した男 [ 太田尚樹 ]
価格:2640円(税込、送料無料) (2022/4/30時点)

近衛文麿野望と挫折 [ 林千勝 ]
価格:2530円(税込、送料無料) (2022/4/30時点)

文庫 近衛文麿「黙」して死す (草思社文庫) [ 鳥居 民 ]
価格:880円(税込、送料無料) (2022/4/30時点)

日米開戦の謎 (草思社文庫) [ 鳥居民 ]
価格:990円(税込、送料無料) (2022/4/30時点)

無念なり 近衛文麿の闘い [ 大野芳 ]
価格:2090円(税込、送料無料) (2022/4/30時点)

この「五・一五事件」は、三上卓海軍中尉を中心とする海軍青年将校たちが首相官邸を襲
撃し、犬養毅首相を殺害した事件である。その時の犬養首相が青年将校たちに語りかけた
という「話せばわかる」という言葉は有名だ。
彼らがこのクーデターを起こした背景には、当時の激しい格差社会や農民や労働者を困窮
させた昭和恐慌などがあったと言われているようだ。
そこには、当時の二大政党の激しい対立による党利党略のみに走り、民衆を顧みない政治
家たちや、昭和恐慌に対して何も手を打たないどころか金解禁や緊縮政策を断行した浜口
内閣
など、当時の日本の政治的な腐敗や失敗も大きかったのではないかというような気が
した。
現代の経済政策では、昭和恐慌のような大不況時には財政出動による対策が一般的だと思
うのだが、その真逆の緊縮政策を浜口内閣が取ってしまったのは、一体なぜなのだろうか
と不思議にさえ思えた。
それにしても、この五・一五事件というのは複雑怪奇だ。現役軍人をはじめ在郷軍人、
政治家や思想家、はたまた右翼団体や農民団体などが入り乱れて登場し、さらには首相を
殺害した青年将校たちの減刑を嘆願に大衆が熱狂するという摩訶不思議が現象まで起きて
いる。
この本を読んでも、頭の中を整理して全体を理解するのはなかなか難しく、読み終えるの
にずいぶんと時間を要した。そしていまだに頭のなかを整理することができないでいる。


まえがき
・1932年(昭和7)5月15日、首相官邸で海軍青年将校の放った銃弾が、犬養毅首
 相の命を奪った。いわゆる五・一五事件である。
・銃を向けた侵入者に「話せばわかる」と語りかけた犬養首相の言葉は、いかにも「憲政
 の神様」と謳われた演説を武器とする議会政治家らしい。
・犬養の死後、台頭する軍部に圧せられた政党は二度と政権の中枢を担うことなく、敗戦
 後まで勢力を回復できなかった。
・時代の主役が政党から軍部へ、言論から武力へ移り変わる様子を、これほど対照的にと
 らえた言葉はないだろう。 
・事件の発生によって、戦前の政党政治は終わり、軍部が台頭した。事実の経過はそうだ
 としても、「なぜ」そうなったのか。そもそも海軍青年将校たちは、どうして事件を起
 こしたのか。事件後も政党政治を続けることは、何ゆえできなかったのか。
・そして国民の多くがなぜ青年将校たちに同情し、減刑を嘆願したのか。
・犬養首相を銃撃した三上卓海軍中尉は、事件後の公判で「首相個人に対する怨みは毛頭
 ない」と述べた。ならば、なぜ首相を殺さねばならなかったのか。
・青年将校たちが事件の際、市中に撒いた「檄文」と題するビラの一節には、「国民の敵
 たる既成政党と財閥を殺せ!「奸賊、特権階級を抹殺せよ!」などと書かれている。
・政党財閥などの「特権階級」への激しい憤り、農民や労働者を困窮させる昭和恐慌の深
 刻な影響・・・。 
・これらの行動には、海軍青年将校のほか、陸軍の士官候補生が加わり、茨木の農村青年
 らも各地の変電所を襲った。首相の襲撃は、あくまで事件の一側面にすぎない。
・事件の背景には、日本国家の改造をめざし、明治維新をやり直す意味での第二の維新、
 すなわち「昭和維新」を断行するとの思想があった。そこには北一輝大川周明らの革
 新思想、権藤成卿橘孝三郎らの農本思想、井上日召らの直接行動論などが影響してい
 た。
・また海軍青年将校らは、1930年(昭和5)のロンドン海軍軍縮条約調印を大きな動
 機として挙げた。政党内閣による軍縮条約の締結を、彼らは政党による軍への圧迫とと
 らえた。
・ところが海軍と同様、陸軍も政党による軍縮圧力を受けていた。昭和初期は軍人の肩身
 が狭い時代である。しかし海軍将校らと思想的に近かった陸軍青年将校は事件の計画に
 乗らず、むしろ距離を取る姿勢さえ見せた。
・大恐慌に沈む暗い世相のなかで高まる、政党・財閥などの「特権階級」に対する不満や
 反発。軍の若きエリートたちが感じた世の中の理不尽さ。それを醸成した「昭和」の日
 本。さまざまな要因が重なって、事件は起きた。
・なぜ政党政治は終わったのか。死去した犬養首相は、立憲政友会の党首・総裁であった。
 当時の政友会は、衆議院の圧倒的多数を占める巨大政党で、有権者の信を得た、国民の
 代表である。党首が亡くなっても、政友会が信任を得ている事実に変わりはない。
・犬養と同じ政友会の総裁であった原敬首相は、1921年(大正10)に東京駅で刺殺
 された。 
・次の首相は、原を継いで政友会総裁となった高橋是清だった。
・1930年(昭和5)に東京駅で狙撃され、重傷を負った浜口雄幸首相は、傷が癒えず
 半年後に辞職した。そこで浜口から立憲民政党の総裁を受け継いだ元首相・若槻礼次郎
 が、次期首相となった。
・政治的なテロリズムが首相を襲ったといって、そのたびに政権与党を動かせば、政権を
 替えるための暗殺が横行する。これを防止するために、襲撃された首相と同じ政党の後
 継党首が、首相を継ぐ。当時の「憲政の常道」といわれた政権運用の重要なポイントで
 ある。
・ところが犬養の死のみが例外となった。なぜこのときだけ、政権が引き継がれなかった
 のか。 
・犬養死後の政変ほど「深刻にして複雑」なものは、かつてなかった。そして政党政治が
 中断した「最大の原因」は「軍部」の意志にあった。
・軍はなぜ、どのように政界に働きかけたのか。政党や政界の中枢は、それに屈したのだ
 ろうか。
・なぜ国民の多くが青年将校たちに同情し、減刑を嘆願したのか。
・事件を裁く法廷の場に立った青年将校たちに対して、多くの国民が助命を嘆願したこと
 は知られている。そして五・一五事件で、死刑に処せられた者は出なかった。求刑され
 た最高刑は、海軍将校三名への死刑であった。ところが判決では、これが禁固15年以
 下に減刑されている。実際に判決で最も重かったのは、愛郷塾長・橘孝三郎への無期刑
 であった。橘は事件の当日、満州に逃れて東京にいなかったにもかかわらずである。
・それだけでなく、民間人と軍人の間には不均衡なまでの量刑差が出て、民間人が一様に
 重く罰せられた。事件の裁判は、海軍・陸軍・民間人がそれぞれ別の法廷で裁かれ、軍
 法会議では陸海軍の意向が強く働いたのである。
・国民の減刑嘆願運動についても、不思議な点がある。裁判が始まる前、実は運動は盛り
 上がりを欠いていた。それがなぜか、軍法会議の内容が連日報道されると運動はにわか
 に盛り上がり、世論は沸騰していく。
・なぜ国民は青年将校たちを支持したのか。それは、人々が青年将校のどこに共感し、ど
 のように指示が広がったのか。
・五・一五事件は複雑な構造を持ち、いくつもの謎が残されている。
  
日曜日の襲撃(1932年5月の同時多発テロ)
三上卓(海軍中尉)と黒岩勇(海軍予備役少尉)が、靖国神社に着いた。陸軍士官候補
 生たちはすでに境内に待っていた。一団は九段下でタクシーを二台拾い、首相官邸に行
 くよう指示し分乗した。拳銃・手榴弾などの分配は車中で行なわれた。
・「この野郎!スピードを出さんか!」三上が運転手の肩を、拳銃で殴りつける。とたん
 に車は猛スピードを出して、首相官邸の表門に立つ守衛二人の間を通り抜けた。
・玄関の入り口に、二名の守衛が官邸内を覗き込むように入ってきた。そのとき、後藤映
 範の拳銃が火を噴いた。弾はそれで玄関の庇に当たった。
・日本間にある応接用の洋間に入った。そこには、田中五郎巡査がいた。三上は田中に銃
 をつきつけた。「首相の居場所をいえ」「首相のいるところなんか、知るもんか」
・三上はすぐさま銃の引き金を引いた。銃弾は脇腹を貫き、撃たれた田中はその場にうず
 くまった。  
・官邸に侵入した篠原を除く八人は、官邸日本間の内部を探し回った。だが犬養首相は見
 当たらない。「逃がしたか・・・」と残念がる声が漏れる。
・皆が焦りを覚え始めていた。そのとき。「いたぞいたぞ!」三上の声がした。粗末な食
 堂のテーブルの奥に、犬養はいた。
・犬養を見つけた三上は、銃口を向け、ためらいなく引き金をひいた。カチッと音がした
 が、弾は出なかった。すでに田中巡査を撃ったこと、そして弾が一発ずつしか出ない銃
 を自分が持っていたことを、失念していたのである。
・三上は狙いを犬養に向けたまま、左に銃を持ちかえた。短刀でやるか、それとも、やは
 り銃のほう苦しみも少なくてよいか。頭のなかで考えをめぐらせ、三上は銃口を向けた
 ままの銃に、弾を静かに装填した。
・「そう騒がんでも、静かに話せば解るじゃないか」
・これまで無言でいた犬養首相が、両手を前に出し、声を出しながら三上に歩み寄った。
・「騒がんで観念せにゃならんのは、お前の方じゃないか」三上は言い返し、「しかし今
 になって文句があれば聞いてやろう」と応じると、犬養は「あちらへ行こう」と食堂を
 出ようとして、「話せばわかる。はなせばわかる・・・」と繰り返す。
・この様子を見た黒岩勇も、犬養の左後ろに付いて客間に向かった。すると、後ろから幼
 い子どもを抱いた女が付いてきた。犬養首相と食事をとるたけに官邸に来ていた、犬養
 仲子(犬養健の妻)と四歳の康彦(犬養毅の孫)であった。
・黒岩は殺害の様子を見せたくないと思い、側の女中に「君たちには別に危害を加えない
 から、あちらに行っていてもらいたいと告げた。
・「この場に及んで、犬養首相として何か言い残すことはあるか」三上は犬養に向けてい
 た銃口を下げた。犬養はうなずきながら、やや少し身体を前に乗り出して、何ごとかを
 話そうとした。
・そのとき、山岸宏が叫んだ。「問答無益、撃て!」
・首相の前方に入ってきた黒岩が、銃弾を発射した。
・山岸の発声に「よし」と応えた三上も、黒岩とほぼ同時に、首相の頭を狙って銃弾を撃
 ち込んだ。 
・右こめかみから血が流れ、犬養は座卓に打ち伏せた。
・「引きあげろ」山岸の号令以下、一団はただちに現場から立ち去った。
・ところが、犬養はまだ息があった。一団が立ち去ると、山本照が駆け寄って「旦那様!」
 と連呼し、「傷は浅いからしっかりあそばせ」と、後ろから犬養を抱きかかえた。
・犬養は「うん」と力強く返事をして、左目だけを開け、右手を伸ばし、「あの若者を呼
 んでこい、話せばわかる」と、三たび繰り返した。そして卓上の巻煙草をとって、火を
 つけてくれと頼んだ。照は煙草を犬養の指にはさんで火をつけたが、犬養は煙草を口に
 近づけられず、手からポトリと取り落とした。
・犬養首相を襲った一団は、裏門へ向かって逃走しようとした。そこに、木刀を振りかざ
 した平山八十松(巡査)が、日本間玄関に飛び込んできた。黒岩勇と村山格之が一弾ず
 つ銃撃し、平山は負傷して倒れた。
・一団は、タクシーを拾い、山岸が「警視庁の前を通って、憲兵隊本部へ行け」と命じた。
 一団は警視庁の前で、他の同志たちとともに、政党・財閥ら支配階級の手先となった警
 官たちと存分に斬り合い、討ち死にしようと覚悟した。
・桜田門の警視庁では、玄関前の巡査が、のんびりと空を見上げていた。あまりにのどか
 な光景で、斬り合いなどできる状況ではない。仕方なく、三上らは麹町の憲兵隊本部へ
 車を走らせた。
・憲兵隊本部へ自首しようとした。ところが着いてみると憲兵隊は静かで、他の同志が到
 着した養子もない。そこで黒岩が「日本銀行へ行って手榴弾を投げて来よう」と提案し、
 一同は賛成した。
・日本橋の日本銀行正門前で車を降り、野村三郎が前庭から手榴弾を玄関口に投げ込んだ。
 手榴弾は轟音を発して爆発し、玄関付近を破壊した。
古賀清志(海軍中尉)は西川武敏(士官候補生)・菅勤(士官候補生)と、高輪泉岳寺
 で赤穂浪士の墓参りを済ませた。
・一団は三田の内大臣邸前にタクシーで着いた。古賀は正門の屋根越しに手榴弾を邸内に
 投げ込んだ。轟音とともに、正門から官邸に通じる小路の上で爆発が起こった。
・驚いた橋井巡査が走ってくると、古賀は拳銃を向けた。あわてて背中を見せる橋井巡査
 の肩口に、古賀の放った銃弾が命中した。
・その間、池松も手榴弾を投げ込んだ。だが、こちらは不発であった。
・襲撃に使われた手榴弾は、上海陸戦隊から三上卓中尉が持出したものであったが、扱い
 が非常に難しかった。
・玄関口での騒ぎの間、牧野内大臣は邸内の奥座敷で碁をうっていた。だが、自身が襲撃
 されたとの認識はなかったようである。異変を聞いた木戸幸一(内大臣秘書官長)が駆
 けつけると、玄関口には池松の投げた不発弾が、まだそのまま転がっていた。
・古賀ら第二組は、内大臣官邸からタクシーで移動。警視庁に到着した。ただちに坂元・
 菅の両士官候補生が、車を降りて手榴弾を投げたが、二個とも不発だった。
・制服巡査が車に近づいて「どうしたんですか」と声をかけてきた。そこで古賀は巡査に
 拳銃を向けて一発を撃った。「アッ」と巡査は声をあげると、背を向けて逃げ出した。
・車から降りた西川と池松が、警視庁玄関に出てきた背広姿の群衆に向かって銃弾を浴び
 せた。群衆は驚いて庁内に逃げ込んだ。
・戦闘が始まりながらも、巡査たちが非常呼集で集まってくる様子はなかった。予期した
 「決戦」は、拍子抜けであった。
・さらに襲撃側は警視庁前での集合時刻も事前に決めておらず、他の組の様子さえわから
 ない。古賀は、自らが苦心した計画の重大な欠陥を思い知らされた。
・古賀らが憲兵隊本部に着くと、前後して第一組の三上らが到着した。三上は「犬養をや
 った。牧野はどうした」と聞き返した。「牧野はやらなかった。手榴弾を投げ込んだ」
 と古賀がいうと、三上は残念そうな顔をした。
・古賀がもっとも苦心したのは、海軍・陸軍・民間が合力した「決起」にすることであっ
 た。そうして初めて、恐慌に苦しむ農民と、軍縮に憤る軍人とが一致して、腐敗した政
 党・財閥ら上流階級に異議を唱える「大義名分」が生まれる。海軍・陸軍、そして民衆
 の三者が国家のために起つという、古賀の計画の核心部分を考えたとき、牧野の殺害計
 画は否定されないまでも、そこからやや外れる優先度の低い標的だった。
・したがって事件計画者である古賀の構想は、犬養殺害に執念を燃やした三上卓らとも、
 のちに陸軍の兵力のみで決起した二・二六事件の陸軍青年将校とも、重要な点で異なっ
 ていた。 
・そして、愛郷塾生ら民間人が関わっていたことは、恐慌に憤る当時の民衆が抱えた憤懣
 の一部を引き入れて、事件の被告に対する「同情」や「支持」へとつながったと言える。
・五・一五事件の計画者は、君側の奸を討ち果たすという「実」を捨てて、決起の「名」
 を採った。
・新橋駅の二等待合室に、中村義雄(海軍中尉)が現われた。しばらくして、中嶋忠秋・
 吉原正巳・金清豊の士官候補生三名が集まった。
・中村は計画を説明した。まず政友会本部を襲撃するが、これは牽制のためである。手榴
 弾一個を投げる程度にして、速やかに警視庁に行き、そこでの「決戦」に全力を注ぐ。
 機を見て憲兵隊に自首する。ビラは走行中の車内から撒布すると。
・日曜日でもあり、政友会本部には人影がほとんど見えない。中村が車から降り、本部の
 門からなかへ数歩入ったところから、玄関に向かって手榴弾を投擲した。だが砂利に落
 ちた手榴弾は不発。中村はすぐにこれを拾い、再び元の位置に戻って投げ直したが、や
 はり不発であった。
・中島が手榴弾を携えて近寄った。中島は中村と同じ位置から投擲し、玄関露台の砂利の
 上で爆発させた。第三組はすぐに車に乗り、現場を立ち去った。 
・警視庁前に到着した第三組は、投擲によい場所を探して歩きまわる。金清が庁舎二階の
 窓ガラスめがけて、手榴弾を投げたが、爆発しないままに街路樹の近くへ落下した。こ
 れを拾った金清は、再び元の位置から投擲し、建物前の電柱上部に命中、爆発させた。
・憲兵隊本部に向かう途中で、第三組はビラを撒布した。予期された警視庁との「決戦」
 もなく、政友会本部の襲撃も牽制であったことから、中村に率いられた第三組は、特筆
 すべき行動はほとんどない。
・海軍将校に陸軍士官候補生を交えた18名は、前後して憲兵隊本部へ自首した。
・休日の午後、のどかな雰囲気に包まれていた本部は、にわかに騒がしくなった。
・「なんだこいつら、よりによってわざわざ日曜日にやりやがって・・・」と文句を言う
 憲兵もいた。 
・ただ、一同は憲兵隊本部に入った後も、武装を解いてはいなかった。
・愛郷塾生の別部隊「農民決死隊」が変電所を一斉に襲い、「帝都暗黒化」を実行する。
 そうなれば戒厳令発動を見極め、憲兵隊の野郎どもも動員して、死に場所を求めて全力
 で戦おう。さあ来い、と三上らは機をうかがっていた。
・しかし、七時過ぎても電灯は消えない。別動隊は失敗したのか。ついに一同は武装を解
 き、憲兵隊に差し出した。
・秦信次憲兵司令官(陸軍中将)は「きみたちはどうして上層部へ連絡しておかんのだ」
 と言った。 
・秦司令官は、渋谷分隊の憲兵隊長に「この連中は国士待遇にするんだ」と命じた。古賀
 らはウイスキーなどがふるまわれ、その晩はたいへんなぎちそうになったという。
・第四組は奥田秀夫(明治大学学生)ただ一人が属していた。明治大学の学生服を着た奥
 田は、手榴弾二個を風呂敷に携え、三菱銀行に向かった。三菱本店にはまだ人がいた。
 ところが三菱銀行には誰もいない。奥田は自分の役割について、「帝都の混乱」を引き
 起こし、戒厳令につなげればよいので、爆弾を投げれば十分だと考えていた。そこで人
 を殺傷しなくて済む銀行に標的を定めた。三菱銀行の前の歩道に手榴弾を一個取り出し、
 安全弁を外して銀行の裏庭に投擲した。ところが樹木にあたって弾は庭に届かず、三菱
 銀行の手前の道路に落ちて爆発した。
・午後五時半頃から、ラジオは「首相官邸襲撃」の臨時ニュースを繰り返していた。高ま
 る緊張のなかで、愛郷塾の塾生たちは自分たちに課せられた役割を果たすことを決意し
 た。
・彼らは六カ所の変電所を襲い、「帝都暗黒化」の計画を担っていた。東京変電所(尾久)
 では、大貫明幹が配電盤の電源を切り、金槌でスイッチを叩き壊すと、同伴した有人に
 手榴弾を投げさせた。だが弾は不発に終わった。
・鳩ケ谷変電所では、横須賀喜久雄が手斧で配電盤を壊し、手榴弾を投げて炸裂させた。
・淀橋変電所では、温水秀則が配線一本を切断、手榴弾を投げて板囲の一部を破損させた。
・亀戸変電所では、矢吹正吾がポンプを止め、手榴弾を投げたが不発だった。
・目白変電所に向かった小室力也は、現場まで行くも恐怖心で襲撃することなく逃走した。
・田端変電所では、塙五百枝がポンプを止め、金槌で配電盤の電圧計四個を破壊した。変
 電所員が気づいたため、塙は手榴弾を投げずに逃走した。
・「農民決死隊」は、こうして東京各地の変電所を襲撃したものの、送電機能にほとんど
 ダメージを与えられなかった。都会の人びとが日頃当たり前に享受している「文明」の
 利器=電気を止めることで、農村の窮状をわからせようとした彼らの計画は、あっさり
 と失敗した。
・襲撃後も綿密な計画があったわけではなく、ただ漠然と満州に行くとの青写真があるの
 みであった。 
・その日(5月15日)、代々木にある西田税の自宅に、朝から陸軍青年将校が詰めかけ
 ていた。菅波三郎(陸軍中尉)・村中孝次(陸軍中尉)・栗原安秀(陸軍中尉)らであ
 る。そこに大蔵栄一(陸軍中尉)と朝山小二郎(陸軍中尉)が加わった。
・大蔵と朝山が立ち去って間もなく、西田税の家に来客があった。西田も顔を知る茨城の
 青年、川崎長光(血盟団残党)である。久しぶりに会った川崎を、西田は機嫌よく二階
 の書斎に上げた。
・川崎は、うつむき加減に西田の話を聞いていた。だが、様子が変である。刹那、川崎は
 隠していた拳銃を構えた。西田は一喝して川崎に飛びかかる。そのとき、銃弾が西田の
 胸部を撃ち抜いた。
・だが、西田は怯まない。両手でテーブルを押し倒し、それをのり越えて川崎ににじり寄
 った。川崎は後退しながら第二弾を撃つ。腹部に銃撃を受けた西田は、なおも川崎に迫
 る。次々と銃弾を喰らいながら、西田は、弾を数えた。ついに川崎が撃ち尽くしたとき、
 西田は猛然と川崎につかみかかった。
・西田をふりほどいた川崎が玄関に飛び出すと、夫人が顔を出した。「早くつかまえろ!」
 と西田が叫び、夫人はとっさに川崎の腰をつかんだが、その手を振り払って川崎は逃げ
 た。
・西田は壁にもたれて女中のもつコップの水を飲もうとした。「大けがに水はいけません」
 夫人はコップを奪い取った。
・しばらくして、襲撃を知った北一輝や、陸軍青年将校らが駆けつけ、西田は順天堂大
 学へ搬送された。
・ただちに手術が行なわれ、西田は奇跡的に生命をとりとめた。 
・北は、病院に別室に陸軍将校らを集め、今後について相談した。将校のうち、安藤中尉
 はこのとき初めて北と面識を持った。
・相談の結果、菅波・村中・朝山・栗原・大蔵の五人が、荒木貞夫陸相に直接、要望する
 ことに決めた。 
・五人の青年将校は陸相官邸に着いたが、荒木陸相は首相官邸に赴いて留守であった。か
 わりに真崎甚三郎参謀次長が将校たちに対応した。
・菅波らは、事件で弱腰になるかもしれない海軍の尻を叩いても、この際、一気に革新に
 向かうべきであると、懸命に説いた。 
・真崎は、できるかぎり善処する、荒木陸相にも伝えると答え、青年将校たちに「十分自
 重せよ」と要望した。
・さらに青年将校らは、陸相官邸の奥の部屋に通された。そこには、小畑敏四郎少将と黒
 木親義元少佐がいた。
・小畑少将は、残念そうな口調でこう言った。「今夜の事件は残念至極だ。もっといい方
 法で、革新の実を挙げるよう、政友会の森恪らとともに着々準備を進めていたんだ。す
 べては水疱に帰した・・・」
・自重は停滞である、ここで軍が退けば、満ソ国境はたちまち危うくなる。海軍によって
 投げられた一石の戦果を拡大すべきだ、と菅波らは繰り返し説いた。
・陸相官邸には、永田鉄山少将も現われた。永田は、青年将校に向かって「士官候補生を
 使嗾してやらしたのはお前達だろう。なぜお前達も一緒にやらぬか。お前達は卑怯だ」
 と言い放った。陸軍青年将校は、永田の言に憤激した。
・永田は三月事件の黒幕でありながら、自己欺瞞の塊ではないか。冷酷な表情、誠意なき
 叱責、とても耐えられるものではない。一度は期待を寄せた永田に対して、青年将校ら
 は深く怒り、失望した。
・五・一五事件、六名の海軍青年将校たちが中心となって起こした。陸軍士官学校に在学
 中の士官候補生ら十二名が、海軍将校たちに同行した。
・同じ日、陸軍青年将校たちのリーダー格、西田税が銃撃された。これも事件を指揮した
 海軍将校の命令によるものだった。 
・海軍将校らの目的は、犬養首相の襲撃だけではなかった。政党・財閥などの支配階級へ
 の威嚇と、国家改造の断行であった。
・首相殺害の事実をもって法廷で裁かれた将校たちは、一人も死刑にならなかった。そし
 て急進的な国家改造運動に対する国民の共感が強まり、国民的減刑運動が起こる。
 
海軍将校たちの昭和維新(国家改造と軍縮条約)
・昭和初期に起きた青年将校の国家革新をめざす運動は、「国家改造運動」とも「昭和維
 新運動」とも呼ばれる。藤井斉は海軍に身を置く青年将校として、これらの運動と最も
 早く、そして深く関わっていた。
・藤井は五・一五事件の鍵を握る人物であり、昭和維新運動に関わる海軍青年将校たちの、
 自他ともに認めるリーダーであった。
・それにもかかわらず、今日その名を知る者は少ない。首相官邸襲撃の約三カ月前、藤井
 は上海で戦死した。そのため実際に事件の指揮を執らなかったからである。
藤井斉は、海軍兵学校時に、学年代表として鈴木貫太郎軍令部長の前で演説を行なった。
 藤井はワシントン海軍軍縮条約の非を訴え、白人が支配する世界の不合理を糾弾し、将
 来は日本が盟主としてアジアの諸民族を束ね、白人優位の秩序を打破すべきだと熱弁を
 ふるった。藤井の気宇壮大な語り口、鋭い着眼、論理の確かさに、消沈していた兵学校
 の学生はもとより、教職員もが一様に感銘を受けたという。同年四月に兵学校へ入学し
 たばかりの古賀清志も、藤井の演説に感じ入った一人であった。
・1925年7月、兵学校を卒業した藤井は、士官候補生として訓練艦隊に乗り込み、遠
 洋航海へ出た。航海の途中で、藤井は古賀に長い手紙を出した。そこには海軍を辞めて、
 北海道に渡って牧場を経営したい、と書かれていた。
・郷里の山口半六も、シドニー付近を航海していた藤井からの手紙を受け取った。これま
 で我慢を重ねてきたが、し切れなくなった。海軍を辞める。牧場経営の資金として五万
 円を用意してほしいと。あまりの唐突な大金の無心に、半六も十年待ってほしいと返信
 して、藤井の心情を宥めた。
・国外では、ロシア革命の勃発(1917年)を端緒とする共産主義国家ソ連の成立があ
 り、また大戦後の世界情勢に影響を与えたウィルソン主義の提唱があった。
・さらに国内では、革命干渉のためのシベリア出兵をきっかけとした米騒動の発生があり、
 軍隊までが動員された。
・大戦期日本の好景気は、一部の富裕層を生んだが、一般の庶民は物価の高騰に喘ぎ、貧
 富の格差は拡大する一方であった。  
・国内外の大変動は、明治国家の成立以来続いてきた、天皇を戴く日本の政治体制の矛盾
 やゆがみを強く印象付けた。
・こうしたなかで国家改造運動は、天皇を戴く伝統的な体制を維持しながら、日本の革新
 をめざすひとつの潮流として生まれた。
・国家改造運動の中心は、大川周明北一輝らであった。
・大川・北を中心とする猶存社は、「大綱」を革命のバイブルとして、国家改造をめざす
 実践団体となった。
・「大綱」は改造の具体的方法として、軍隊によるクーデターを提示した。天皇の大権を
 発動して憲法と議会を停止し、全国的に戒厳令を布く。そのうえで特権階級の政治機構
 (貴族院、枢密院、華族階級など)を廃止し、普通選挙を実施して、私有財産を制限す
 る。過酷な労働を規制し、福祉や教育を充実させ、弱者の人権を重視する。
・その方向性は「平等」にあった。国内では貧富の差を縮め、さらに国外では、英米列強
 の軍事・経済・思想的な挑戦に対抗して、列強の支配を甘んじるアジアの植民地を解放
 する。国際社会と国内社会の双方を革新し、国内外ともに平等な世界をめざす。
・1921年に最初の「行動者」を生んだ。安田財閥の長、安田善次郎を刺殺して自害し
 た朝日平吾は、北一輝の「大綱」に強く感銘を受けていた。
・だが猶存社は、北と大川周明の確執が生じたことで解散(1923年)した。  
・大川は、北との関係を危ぶんでいた陸軍や宮中からの警戒を解かれ、陸軍内で佐官級・
 将官級の幕僚将校との接触を強めていく。 
・他方で西田は、1927年7月に「天剣党」を設立し、陸軍内の尉官級を中心とした少
 壮・青年将校らを組織化しようと試みた。 
・この頃、西田税と交流を深めていた藤井斉も、アジアの盟主としてふさわいし国家に日
 本を改造するとの理念を、強く受け止めていた。藤井は天剣党への加盟を約した唯一の
 海軍軍人となった。
・革命家としての藤井の本領は1929年11月、霞ヶ浦海軍航空隊に転属となって発揮
 されることになる。霞ヶ浦には藤井に理解のある上官が多かった。小林省三郎少将を筆
 頭に、山口三郎中佐や、小園安名大尉らが、教官として在籍していた。
・国家の腐敗と堕落を憂慮し、官僚的権力機構を独占する支配階層を心底から憎んでいた
 藤井は、権藤成卿の国家をも超える「社稷」の観念と、無政府主義的な革命理論に深く
 共感した。
・霞ヶ浦の地を拠点とした藤井斉は、志をともにできると見た人物に積極的に近づき、同
 志の糾合に努めた。そのなかでも重要であったのは、大洗護国堂の井上日召と門下の青
 年たちとの出会いであった。
・運動家のなかにも、自己の立場に固守して他との連帯を拒む者、功名心や派閥を重視す
 る者、人を利用して自分の地位を高めようとする者がある。たとえ革命が成功しても、
 こういった「悲しむべき人性」のために、「新日本の崩壊」が始まるかもしれない。そ
 うならないためには、真の革命家を養って、団結を強め、有為の人材を続出させる必要
 があると、藤井は言う。
・ロンドン海軍軍縮会議における政府と軍令部の対立は、新聞紙上で盛んに取り上げられ、
 すでに政治問題化しつつあった。
・政友会幹事長の森恪は、浜口内閣が「軍令部の意向を事実上まったく無視」したと公言
 した。森の言動は、軍令部からの情報提供に基づいており、政府が軍令部の権限を犯し
 たと主張することで、倒閣と政権交代が見込めると踏んだのである。
・軍や森恪に近い大阪毎日新聞が早くも「統帥権干犯」の語を取り上げた。 
・「統帥権干犯」の語を発案したのは北一輝と言われている。真偽は定かではないが、北
 とその周辺の陣営が、「統帥権干犯」のの名分で軍縮条約を政治問題化し、野党のメデ
 ィア、右翼団体などと連繋して倒閣に動いたことは疑いない。
・藤井は海軍軍縮を、浜口雄幸首相を中心とする政党の軍部圧迫ととらえ、「軍縮問題は
 天の下せる運命であった」と憤る。藤井は、ロンドン海軍軍縮条約問題を「天皇を中心
 とする軍隊」に対する政党の挑戦と理解した。
・条約問題は、大きな波紋を呼んだ。ロンドンで軍縮条約が調印された直後に召集された
 特別議会で、野党の政友会は、犬養毅総裁・鳩山一郎ら党幹部が、与党政府の「統帥権
 干犯」を強硬に批難した。
・政界を引退していた犬養毅を党総裁に据えたのは森恪であり、政友会は森の方針に従っ
 て、党を挙げて軍縮問題での倒閣を狙ったのである。
・海軍軍令部参謀の草刈英治少佐が、東京行き寝台列車のなかで割腹自決した。自決の原
 因は条約調印への責任を感じたためとも、財部彪全権を暗殺しようとして果たせなかっ
 たからとも噂された。海軍部内の空気は張り詰めたものとなった。
加藤寛治軍令部長、それに東郷平八郎伏見宮博恭王らは、財部海相に対して強硬な非
 難を浴びせた。帰国した財部海相に、加藤軍令部長は早速「統帥権干犯」をぶつけて激
 論をかわした。加藤は辞表を上奏し更迭された。東邦らはますます硬化し、財部海相に
 即時辞任を要求した。
・財部海相は政府および天皇に助力を求めようとするが、浜口首相は軍部内のこととして
 取り合わず、天皇側近である牧野伸顕内大臣も同意しなかった。東郷らの説得は絶望的、
 と話す財部海相に、浜口首相は「玉砕すとも男子の本懐」ではないかと述べた。
・財部海相の声望は地に落ち、条約批准の翌日に財部は海相を辞任した。軍縮条約をめぐ
 って、海軍内部に大きな亀裂が生じたことは明らかであった。
・条約の批准には、「憲法の番人」とされる枢密院での可決が必要であった。倉富勇三郎
(枢密院議長)・平沼騏一郎(同副議長)、および伊藤巳代治(枢密顧問官)らは、与党
 民政党の前身である憲政会との遺恨があった。
・海軍の奉答文を見せてほしい、と依頼した倉富枢密院議長に対し、浜口首相は手元にな
 いと拒否し、また海相への依頼も拒絶した。
・枢密院改革を望む元老西園寺公望や、条約の批准を願う天皇の存在を背景として、浜口
 首相はことさら強い態度に出た。
・倉富は愕然とした。浜口内閣の挑発的態度は、当然ながら枢密院を憤慨させ、硬化させ
 た。 
・政府と枢密院の全面衝突を喜んだのは野党である。政友会幹事長森恪は倒閣が間近と読
 んで、犬養毅総裁に臨時党大会で「統帥権干犯」の失策を訴えさせた。
・浜口首相の「剛直」な政治スタイルは、際立っていた。自己の信念のもとに政策を推進
 する姿勢は、政治家としては望ましい要素のひとつであろう。ただ他方で妥協を許さず、
 異論を排除し、対立者を力で圧伏する為政者によって、不利益を被る側はどうであろう
 か。
・折しもこの頃、浜口雄幸内閣のもうひとつの看板政策、井上準之助蔵相による金解禁
 緊縮政策が、日本に未曾有の大不況をもたらしつつあった。
・金解禁は為替レートを安定化させ、輸出増進・景気回復の効果があるとされていた。と
 ころがすでに1929年10月、ウォール街の株価暴落、いわゆる世界大恐慌によって、
 輸出先であるアメリカ経済の混乱が始まっていた。
・だが浜口内閣は、金解禁の実施を翌1930年1月と予告し、しかも為替レートが高く
 なる旧平価で断行した。前者は年明けに想定される解散総選挙を前に政策実行力を見せ
 つけ、有利に選挙を戦うためであり、後者は現状に近い新平価のレートには法改正が必
 要という、議会対策上の理由が主であった。そのために金解禁のショックは、「大暴風
 に向かって雨戸を開け放った」とたとえられるほど激甚なものとなった。
・金解禁にともない、莫大な金が国外へ流出した。1930年からの2年間で、約13億
 6千万円あった正貨(金)は、わずか約4億円を残すまでに消失した。
・さらに極端な財政支出の抑制により、強烈なデフレが発生し、物価と株価が暴落した。
 1930年から2年間で、卸売り・小売り物価指数が約30%も低下した。
・農村産出の生糸は、最大で約55%下落し、綿糸は約52%、米の約50%の値下がり
 を記録した。平均株価下落率は50%を超えた。
・こうして日本の輸出総額は、1929年から31年にかけて約43%減少し、巨額の赤
 字を記録した。日本史上最大の不況、昭和恐慌が到来したのである。
・折悪しく、1929年は大凶作、30年は大豊作となり、31年は再び大凶作となった。
 豊作でも凶作でも、米価は暴落し、地主は小作料に相当する分の米納を要求した。農民
 は小作料を米で納めたうえで、値段の安い米を泣く泣く叩き売った。
・東北地方の農村は窮乏に瀕した。岩手県のある村では、雪が降るなかで子どもがシャツ
 も着ていない。ナラの実をふかし、わらびの根を食うのみである。
・子どもは飢え、娘は売られてゆく。それでも「娘を持っているものは娘を売ることがで
 きる」が、自分には息子しかいないと、酔いながら語る老人がいた。
・欠食児童や娘の身売りにとどまらず、夜逃げ、盗み、心中など、悲惨な状況が至るとこ
 ろで発生した。 
・農村の青年は、すなわち帝国陸軍の兵士でもある。のちに満州事変の勃発によって、中
 国東北部に出征した兵士には青森出身の者が多くいた。農村の窮状は、陸軍の兵士にと
 っては郷里の崩壊そのものだった。
・かくして都市部では、中小企業を中心に休業、倒産、失業が激増した。農村を中心とす
 る地方社会も、崩壊寸前に陥った。だが浜口雄幸内閣は強硬であった。井上準之助蔵相
 は議会の場で、失業者への救済を「断じてしない覚悟」と言い切った。
・1930年(昭和5)11月14日、朝の東京駅。神戸行特急「燕」の最後尾に、浜口
 雄幸首相が乗り込もうとしていた。
・パシッ、と何かが破裂するような、乾いた音がした。浜口首相は前かがみに、うずくま
 るように倒れた。 
・同じホームに、ソ連への赴任する広田弘毅大使を見送りにきていた幣原喜重郎外相は、
 撃たれた浜口首相のもとへ駆け寄った。このとき浜口は幣原に「男子の本懐だ」と言っ
 たといい、幣原も浜口も後にそのように回顧している。
・銃弾を首相に浴びせたのは、国家主義団体である愛国社の佐郷屋留雄。まだ23歳の青
 年であった。ピストルは愛国社の松木良勝から渡されたものであった。
・浜口首相狙撃事件を機に、特高警察は右派団体に対する警戒を強めた。すでに危険視さ
 れていた藤井斉(海軍中尉)も、事件の翌12月に、九州長崎県大蔵航空隊教官として
 異動が命じられている。
・九州に地で、藤井は陸軍の菅波三郎中尉と出会った。菅波は士官学校在学中に西田税と
 知り合い、北の「日本改造法案大綱」を読んで、国家改造運動を志した陸軍青年将校の
 リーダー格である。藤井と菅波は、同志として強い結束を誓い合った。
・また藤井は、この地で三上卓(海軍少尉)との関係を深めた。寡黙で芸術家肌の三上は、
 藤井と同じく軍縮問題を憂いて、ひとりで財部海相・若槻礼次郎元首相ら会議全権を暗
 殺しようと計画を練っていた。
・橘孝三郎は昭和恐慌による農村の疲弊を強く訴えた。集まっていた海軍将校たちも、農
 村の窮状を真剣に聞き取り、初めて農村問題を具体的に認識した。そして農村救済のた
 めに、資本主義を打倒しなければならないとする、権藤成卿の思想を実地に理解した。
・1931年9月、南満州鉄道の線路が何者かの手によって爆破され、現地の関東軍が出
 動した。満鉄爆破は、石原莞爾板垣征四郎らの自作自演の謀略であった。柳条湖事件
 いわゆる満州事変の勃発である。 
十月事件のクーデター未遂に恐慌をきたした与党民政党と野党政友会の一部が、連立内
 閣を構想して緊縮財政・協調外交の転換を図ろうとした。だが民政党内で、連立を希望
 した安達謙蔵内相と連立に反対する若槻礼次郎首相が対立、若槻内閣は閣内不一致で総
 辞職した。
・後継首相には、元老西園寺公望の推挙で、犬養毅政友会総裁が就任した。
・二月に入り、藤井の所属する空母「加賀」が大陸へ出征する。第一次上海事変である。
 上海の日本人僧侶が中国人に襲われ、それをきっかけに日中間の軍事衝突に発展した。
・藤井は上海郊外の敵陣偵察に出撃して、高度300メートルの低空を飛んだ。そして敵
 陣から放たれた対空砲の弾が操縦席を貫き、藤井は戦死した。享年29。藤井斉は、日
 本海軍の航空戦における最初の戦死者であった。
・井上準之助の暗殺指令を受けた小沼正は、周囲に悟られぬように身辺整理を行なった。
 小沼の懐には、藤井が大陸で入手したピストルがあった。小沼は選挙演説会場に向かい、
 南無妙法蓮華経を唱えて、井上準之助の背後からピストルを三発、続けざまに撃った。
 井上前蔵相はただちに病院に運ばれたが、まもなく絶命した。
・選挙は、「景気か不景気か」のスローガンを掲げた与党政友会が圧勝を遂げ、民政党は
 惨敗に終わった。 
・続いて、日本橋三井本館前で菱沼五郎団琢磨を射殺した。
・犬養毅内閣の成立によって、陸軍青年将校らの期待を集める荒木貞夫が陸相に就任した。
 荒木を通じて青年将校の要望が政府に届く可能性が強まり、それが非合法決起への消極
 的態度を生んでいた。
古賀清志は中村義雄とともに、初めて襲撃の計画(第一次案)を作った。その後計画は、
 最終となる第五次案まで幾度も変転する。
・海軍青年将校らは、なぜ犬養首相を暗殺したのか。古賀清志中尉をはじめとする将校の
 動機は、犬養首相個人への怨恨ではなく「国家の改造」にあった。犬養首相は、あくま
 で権力の象徴として倒された。それは事件の構想が犬養首相就任の以前から脈々と続き、
 牧野内大臣・警視庁など国家の枢要が襲撃されたことなどから明らかである  
・海軍青年将校は、軍に圧迫を加える政党政治と、それを支える顕官・財閥など「特権階
 級」のクーデターによる打倒をめざした。だが、十月事件の失敗、犬養内閣の成立(荒
 木陸相の就任)、上海事変の勃発とリーダー藤井斉の戦死などで、古賀は陸軍将校らと
 訣別し、血盟団と同調して、当初の構想を縮小させた集団テロに転じた。
・陸軍士官候補生と愛郷塾が、古賀の決起に応じた背景には、昭和恐慌と農村の惨状など
 があった。 
・クーデターから捨て石へ。しかし、海軍青年将校らはただの捨て石とはならなかった。
 彼らの投げ込んだ昭和維新の一石は、大きな波紋を呼ぶ。政界・財界・陸海軍を揺るが
 して、政党政治を破壊し、世間の強い共感を呼び覚ますのである。

議会勢力の落日(何が政党政治を亡ぼしたか)
・5月15日、日曜日の午後。外務大臣官舎のテニスコートで従弟たちと遊んでいた犬養
 道子
(犬養毅の孫)は、「大変です!大変です!総理が・・・」との事務官の声で、公
 用車で急ぎ首相官邸へ向かった。
・犬養首相は、応急手当の包帯を頭から首にかけ、縁側近くに横たわっていた。道子の母・
 仲子は「大丈夫です」と言い、道子は声をあげて泣いた。
・容態が急変したのは、午後9時過ぎである。苦しげに深呼吸し、意識が朦朧となり、痙
 攣が生じ、凝血を吐いた。事態は、まったく絶望であった。
・かくて「憲政の神様」と言われた、犬養毅首相は死んだ。現役首相が落命したことで、
 内閣も総辞職と決まった。犬養内閣は、戦前の政党内閣としては最後の政権となった。
・政党政治崩壊のキーマンとして、三人の人物に注目したい。
・ひとりは、最後の元老・西園寺公望である。この頃、西園寺は首相を天皇に奏薦する役
 割を担う、唯一の存在であった。最後の政党内閣である犬養毅内閣も、その後継となる
 最初の「挙国一致内閣」である斎藤実内閣も、推挙したのは西園寺である。首相を事実
 上選定できる「元老」として、最後に生き残った西園寺は、なぜこのとき政党政治の中
 断を決意したのか。
・もうひとりは、内大臣秘書官長・木戸幸一である。木戸は五・一五事件後にも政治的な
 役割を果たしている。海軍重鎮の斎藤実を首相に擁立するアイディアは、木戸が温めて
 いたものであった。
・最後の人物は、犬養内閣書記官長・森恪である。内閣書記官長は現在の官房長官にあた
 る。森書記官長は犬養内閣の一員であり、かつ現役の政党政治家でありながら「親軍派」
 と目されており、首相暗殺への関与を疑われさえした。いまでも森を犬養襲撃の黒幕と
 する指摘は、枚挙に暇がない。
・内閣の中枢である書記官長職でありながら、森は、犬養首相の死を喜んでいた。少なく
 とも、そのように受け取られる態度であった。事件当夜、森は芳沢謙吉外相に「総理も
 間違っているよ」と語り、犬養が青年将校を大量免官しようとしていたことを、暗殺の
 理由として挙げたという。つまり自業自得、と言わんばかりであったのだろう。
・芳沢は、このとき森の言葉を聞いて、森が陸軍と通じて情報を漏らし、犬養を死に追い
 やったと確信したのである。 
・森恪と犬養毅首相の関係悪化は、事件前からすでに知れ渡っていた。原因はさまざまで
 あるが、満州をめぐる外交方針や党内人事などをめぐり、二人は意見対立を繰り返した。
・森と犬養は、孫文ら中国革命派との関係を持つ大陸関係者で、見知った間柄であった。
 犬養内閣の成立まで、犬養は森の筋書きに従ってロンドン海軍軍縮条約を批難するなど、
 両者の関係は少なくとも表面上は良好であった。
・ところが内閣組織の直後から、森と犬養は対立を深めていく。満州事変の処理にあたっ
 て、両者の基本的な方針が異なっていたことが大きな要因であった。森は外交政策、特
 に満州事変後の対中国政策に強い関心を持ち、陸軍と提携した国策を確立しようと考え
 た。他方で、犬養首相は中国通としての持論から、陸軍の主張のように満州を中国本土
 と切り離しては、中国の理解は得られないと考えた。
・森は閣議に、独立国家としての満州国を承認する前提で、各種政策案を提出した。この
 案は、陸軍・海軍・外務省が協議して「独立国家」案で妥結した、各省中堅官僚たちの
 総意であった。
・だが犬養首相は、満蒙の独立国家承認を認めず、閣議案を拒否した。高橋是清蔵相・芳
 沢謙吉外相も首相に同調した。
・天皇が元老に後継内閣の「希望」を述べる、しかも元老が想定した「憲政の常道」によ
 る政権交代を中断させるほど、強い影響力を振るうのは異例の事態である。だが天皇に
 とって、軍部の暴走への危機感と、政党政治への不信感は、それだけ強かったのだろう。
 他方で、西園寺は政党政治の定着を願っていたが、天皇の意思を重んじる必要もあった。
 少なくとも「国際平和」については、西園寺と天皇は同意見であった。
・天皇の切迫した危機感に直接触れたことで、最終的に西園寺は政党政治の中断に同意し、
 牧野伸顕ら宮中側近の「挙国一致内閣」案を受け入れる。そして牧野の助言に従い、政
 界の諸勢力から意見を聴き取ったうえで、政党に関係を持たない斎藤実を首相に奏薦す
 る。首相の奏薦を独占してきた西園寺が、諸勢力の意見を聞くことも異例であった。
・ロンドン海軍軍縮条約から、次第に現われ始めた対立軸。軍縮か軍拡か。協調外交か積
 極外交か。欧米提携がアジア主義か。そして、政官財エリート支配の継続か、大衆を基
 盤とする確信政治か。現状維持か、それとも昭和維新か。
・海相には条約派の岡田啓介が就き、斎藤実自身も条約賛成である。政党政治はたしかに
 後退したとはいえ、成立したのはロンドン海軍軍縮条約を推進した海軍軍人を中核とす
 る内閣であり、明らかに現状維持派の政権であった。海軍内部で「昭和維新」を唱えた
 青年将校らに同情的な人々にとっては、きわめて不本意な結果である。
・つまり斎藤内閣は非政党内閣であっても、現状維持を使命とする意味で、昭和維新運動
 と対峙する厚い壁であった。陸海軍は、ともに不満であった。くすぶる不満は、さまざ
 まな形で野火となって現われ、やがて大火へと燃え上がりかねない。
 
法廷闘争(なぜ被告は減刑されたか)
・犬養道子は「花々と星々と」「ある歴史の娘」の二編の自伝的作品を著した。戦前期の
 激動のなかを生きた、ひとりの少女の「魂の記録」である。
・「話せばわかる」という犬養首相の有名にすぎる最期の言葉も、道子は強いこだわりを
 持っている。彼女の主張は、そういった最期の言葉は「語られなかった」と、著書のな
 かで、はっきりと記されている。
・なぜ被告たちは、「英雄」となったのか。なぜ彼らへの判決は軽かったのか。そして法
 廷を通じて、日本の国民は何を見て、何を感じたのか。
・陸海軍人の関係者はすべて憲兵隊に自首した。公判までに現役軍人は休職処分となり、
 士官候補生は退校となった。直接事件に参加しなかった海軍将校たちもそれぞれの部隊
 で保護検束され、待命となった。
・民間側では、橘孝三郎をのぞく犯人の全員が自首または逮捕され、満州に逃れた橘もハ
 ルビン憲兵隊に自首した。 
・在郷軍人を中心とする政治団体は、1933年に多数成立している。明倫会、皇道会な
 どせある。これらの軍人系の運動団体は、五・一五事件の被告減刑嘆願にも深く関係し、
 「陸軍パンフレット」問題の擁護や、天皇機関説の排撃運動などでも宣伝活動を担った。 
・1933年7月、驚くべき計画が発覚した。世にいう「神兵隊事件」である。神兵隊事
 件は、人的つながりとしても、決起の趣意からしても、第二の「五・一五事件」であっ
 た。
・神兵隊事件は、かろうじて未然に防がれたとはいえ、五・一五事件の続発があると知っ
 た政・財界の要人に多大な衝撃を与えた。
・なおこれほどの大規模な騒乱計画にもかかわらず、神兵隊事件で最終的に刑を受けた者
 はいない。 
・ただし神兵隊事件を含む「昭和維新運動」の趣旨が、当局者によってまったく許容・容
 認されたわけではない。民間における急進派右翼運動それ自体は、事件をきっかけに主
 導者を失い、当局の取締り厳格化などを受けて沈滞化していく。
・以上のことは、国家主義運動の主導権が、革命を志向する民間右翼から、政治権力の掌
 握をめざす軍部に移行していくことを物語る。
・公判では、元士官候補生の被告らは口を揃えて、政党・財界の横暴、統帥権干犯、牧野
 伸顕内大臣の上奏阻止などについて、公判の場で一斉に批判した。そして犬養首相個人
 にはまったく恨みがなく、あくまで「支配階級」の象徴として斃したと強調したのであ
 る。
・さらに吉原政巳(元士官候補生)は、「名も金も名誉もいらぬ人間ほど始末に困るもの
 はない」との南洲(西郷隆盛)遺訓を挙げ、非常時日本に必要なのはこうした人物だ
 と述懐した。そして郷里福島の農村の困窮を涙ながらに語ったとき、傍聴席もまた嗚咽
 に包まれていた。 
・殺害された犬養首相に対する人々の同情心は、自らのエリートとしての名誉も生命さえ
 も捨てて、農村の貧困と政財界の腐敗を打破しようとした青年たちへの、驚嘆と礼賛の
 心情に移り替わって行った。
・初日の公判ののち、西村琢磨判士長は、青年たちの供述に感激し、控室に戻るなり巨体
 を震わせて泣いたという。弁護人も、新聞記者も同様の心情にとらわれ、被告たちの供
 述に感激した。
・「私心なき青年の純真」という被告イメージが形成され、その主張である「政党による
 軍部の圧迫」「政党・財閥ら支配層の腐敗」「農民の窮乏」といったトピックが、裁判
 報道の名目で大量にメディアから流れ始めた。これはつまり、陸軍側のメディア・キャ
 ンペーンである。
・被告を裁くための軍法会議の場は、かえって軍を圧迫する腐敗した支配層、政党・財閥
 などの既得権益層に向けた「欠席裁判」として機能した。
勾坂検察官は、被告らの性質や素行には一点の非の打ちどころもなく、また一点の死屍
 も認められないと褒め称えた。
・勾坂の個人的資質はともかくも、軍法会議が軍の組織であり、法務官も組織の一員であ
 る以上、軍当局とまったく独立した見解を打ち出すことは難しかった。
・犬養首相に個人的な怨みはない。ただ現下の「邪悪」な政治に異を唱え、首相の死を
 「昭和維新」に生かさねばならないとの三上らの主張が、どこまで理解を得たのかわか
 らない。だが、被告らの主張に同意し、強い感慨を受けた傍聴人や記者らはたしかにあ
 り、それは新聞報道に影響した。老首相を惨殺した悪人という被告への印象は、公判が
 進むなかで大きく様変わりしてのである。
・公判で三上卓らがめざした「真意」の訴えは、大きな反響を呼んだ。被告らに同情し、
 減刑運動の広がりを伝える内容が、各紙によってしばしば報道された。病気の家族にも
 内密で決起に加わった、遺書をしたためて覚悟を決めたなどの被告らの行動は、主君の
 敵討ちに向かう「赤穂義士」になぞらえられ、まるで浪花節の主人公であるかのような
 戯曲や「昭和維新行進曲」と題するレコードまでがつくられた。
・世論の盛り上がりの背景には、公判報道の盛り上がりから、支持者の獲得をめざす右派
 諸団体の活動が活性化したことが挙げられる。多数の団体が嘆願署名の運動に従事し、
 「減刑嘆願民衆大会」などと題する演説会も開催された。
・しかも運動は右派諸団体の枠組みにとどまらなかった。新聞報道を受けて「純真なる意
 味の自発的嘆願運動」が続発し、まったく単独で嘆願書を輸送するものが増えてきた。
 そこには「市町村長、在郷軍人分会長、青年団長等の主唱」する者や、宗教団体の参入
 など、右派団体の運動とは別途の動きも強まった。
・三上卓が作詞した「青年日本の歌(昭和維新の歌)」も、公判報道を機会に広く知られ
 るようになった。 
・古賀清志・三上卓・黒岩勇の三被告に死刑が求刑されたことは、一般国民の世論に大き
 な衝撃をもたらした。 
・「至純」の精神を持ちながら、命を奪われることになった若きエリートへの同情論が沸
 騰する。傍聴席に赴いて、被告らに温情ある判決をと涙ながらに願う老婆。「論告に従
 えば、小学校に忠君愛国を何と教えるか」と憤る教員。「五・一五の方々を死なせたく
 ない」と遺書を遺して電車に飛び込み自殺した19歳の少女。日本国中が論告求刑に激
 しく反応し、公判の事実関係に添えられた報道が、世論の熱をさらに高めていく。
・山本孝治検察官のもとに、論告に対する全国からの賛否の書状が届けられた。その数は
 残るものだけで384通。山本は自身の手で、これを論告賛成(181通)、論告反対
 (129)、減刑嘆願(38通)と分類している。
・そのなかには著名な人物からのものもあった。笹川良一の手紙は、四万の嘆願書を集め
 たことを訴え、政党政治家や財閥への認識、および被告への情状酌量が論告にないこと
 を強く難じた。
・大衆文学作家の中里介山は、大角岑生海相に宛てた手紙のなかで、「彼等五一五の行動
 は赤穂義士より藤原鎌足に比すべきもの」として、仇討ちではなく「一代の危急を救は
 んとする正大なる報国精神」に出たものだと、被告を擁護している。
・三上らへの死刑求刑が国論を二分したとの観測は、誤りないものであろう。それほどま
 でに事件の公判は日本国民の耳目をさらい、大きなセンセーションを巻き起こした。
・横須賀の海軍クラス会の代表が、加藤寛治大将への陳情に訪れた。海軍の青年将校たち
 は、同クラスの被告たちを熱心に支援した。
・横須賀鎮守府で注目の海軍側判決が下された。高須四郎判士長が言い渡した量刑は、古
 賀清志・三上卓に禁固15年。黒岩勇に禁固13年など軽いものであった。
・判決は被告の犯行を「罪責まことに重大」としながらも、「憂国の至情」を諒とすべき
 ものとして、被告の態度を褒め称えた。さらに判決は、山本論告の重要部分である事件
 背景を無視し、軍人の政治関与などの核心にまったく言及しなかった。
・被告側は即日上告権を放棄、検察も上告を断念して刑は確定した。
・海軍側の判決は三上ら被告の命を救った。それは、海軍内部でロンドン海軍軍縮条約の
 意義が否定に等しい扱いをされたことでもあり、条約賛成派の粛清が進行することをも
 意味していた。
・同年、ロンドン海軍軍縮条約の予備会議を脱退した海軍は、主力艦の対英米六割比率が
 規定されたワシントン海軍軍縮条約の破棄も通告し、対英米協調路線との訣別、「無条
 約時代」への道を走るのである。
・民間人への判決はおしなべて重かった。特に事件当日に満州にいた橘への無期求刑は、
 関連する事件判決のなかで最も重く、首相を射殺した三上卓らが懲役15年という軍側
 の判決にくらべ、きわめて不均衡に感じる。
・橘ほか愛郷塾関係者は一審の刑に服することに決め、刑務所へ収容された。実は紀元節
 を機に、皇太子誕生にともなう大規模な恩赦が予定されており、量刑や判決のタイミン
 グもこれを意識したものであった。陸海軍の被告や、死刑判決を受けた佐郷屋留雄も減
 刑の恩典に与った。
血盟団事件にも判決が下り、死刑を求刑された井上日召小沼正菱沼五郎は無期、無
 期求刑の四元義隆も懲役15年などと一様に量刑が減ぜられた。
・藤井五一郎裁判長は維新運動に理解を持つとされ、後年「判決では恩赦があったことも
 酌んで」死刑を出さなかったと振り返っている。
・同一事件として比較した場合に、軍側と民間側の量刑格差は際立つ。さらに世論にも、
 判決自体に対する反発や動揺は見られなかった。
・一時期あれだけ沸騰した国民世論は、民間側の裁判に対する盛り上がりを欠いていたの
 である。皇太子誕生の祝賀ムードのなか、死刑判決が出なかったことや、在郷軍人系統
 の諸団体が活動を控えたこともあるだろう。だが、それにしても不可思議である。
・現在でも世論が何かのきっかけで沸騰するとき、その渦中にある人物へのイメージが、
 結論にさえ少なからず影響することがある。あるいはこの現象は、時代を超えて「大衆
 社会」に共通するものかもしれない。
 
さらに闘う者たち(元受刑者たちの戦争と戦後)
・五・一五事件から六年後、三上卓・古賀不二・黒岩勇の三人が、小菅刑務所から仮釈放
 された。38年の憲法発布50年恩赦によって、三上らの刑期は大幅に短縮された。
・霞ヶ関の海軍省を訪れた三上ら一行は、そこで山本五十六海軍次官に出所の挨拶をした。
 「長い間、御苦労であった。落ち着いたら、海外にでも行って活躍されんことを望む」
 と山本次官は三人を労い、「当面の小遣いだ」といって一人あたり千円(現在の約二百
 万〜三百万円程度)の金を渡した。
・古賀が母の実家のある小倉に到着すると、駅頭には親戚・知人のほかに、特高警察や報
 道関係を含む群衆がひしめき合っていた。「五・一五事件の古賀元中尉」は郷里の人々
 の記憶に刻まれていた。
・しばらくして佐賀に移った古賀は、獄中で婚約した女性に会うために、秋田へいき、さ
 らに東京へ立ち寄って、海軍省で就職の相談をした。
・五・一五事件などの関係者が大陸に多く集まったのは、偶然ではないだろう。陸海軍当
 局は事件によって起きた自体を最大限に利用しつつも、事件の「元受刑者」たちは内地
 から離し、海外で活動させるとの暗黙の了解があったようである。
・三上は出所後の1939年に、宇都宮三千雄の三女わかと結婚した。当時としては珍し
 い恋愛結婚で、義父となる三千雄は「苦労するなら」と二人の結婚にやや消極的であっ
 た。
・三上は、東亜経済調査局の附属研究所に関わっている。1938年に創設された附属研
 究所は瑞光寮、別名大川塾とも呼ばれた。三上は同僚で青年教育を実践するかたわらで、
 この頃に国民的人気を持つ政治家・「近衛文麿」との接触を繰り返している。
・1938年に入ると、近衛文麿を中心とする新党構想を求める運動が浮上する。それは
 戦争の解決に、強力な政治力と国民組織化が必要とされたためである。近衛新党運動は、
 近衛の変心と第一次内閣の投げ出しにより頓挫した。
・だが第二次世界大戦勃発後にドイツが欧州大陸を制圧したことを契機として、1940
 年に運動は再燃し、陸軍は挙国的政党の結成、および総動員体制下の国民組織化を求め
 て活発な政治的主張を行なった。
・近衛が枢密院議長を辞職すると、新体制運動は本格化した。雪崩をうって解党。日独同
 盟の締結をめざす陸軍は新体制の指導性を期待し、米内光政内閣の倒閣に踏み切った。
・第二次近衛文麿内閣が7月22日に成立する。ところが7月初旬から、近衛の態度は急
 変する。 
・近衛の意見は、首相の座についてから新体制運動を推進すれば、「官製」の政治体制に
 なるから駄目だというものだった。近衛の変心の理由は謎とされたが、一部の人は、近
 衛が三上卓ら維新勢力に脅されたのではないか、と推測した。
・新体制では強固な政治力を発揮するため、立法・行政を統合する独裁的な「党」の創設
 が求められた。ところが三上らにとって、現職の首相が率いる独裁的な「党」の創設は、
 まさに天皇に代わる権力を手中とする「幕府の樹立」であった。倒幕と王政復古によっ
 て成立した近代日本で、再び「幕府」を作るとすれば、それは第二の維新(昭和維新)
 を志す三上ら維新勢力にとって、著しい精神の後退であり、決して許せるものではなか
 った。
・1941年3月頃、近衛文麿首相は井上日召を呼んだ。荻窪の近衛邸(荻外荘)で会食
 した日召と近衛は、意気投合する。日召が近衛に「貴方は二重人格者ですね」と言うと、
 近衛は「実はそうなんです、それで困っているんです」と答えたという。「何という正
 直な人だろう!」と日召は驚き、近衛の態度に敬服した。
・日召は、荻外荘に住むことになった。二階の一室に居る「稀代のテロリスト」の存在に、
 近衛の家族や同居者は戸惑い、側近や宮中・軍部も訝しく感じた。だが近衛は日召に心
 事を許し、日召も近衛を励ました。
東条英機内閣は「国政を変乱」する目的の刑法犯や、治安・秩序を乱す宣伝活動なども
 処罰の対象とする戦時刑事特別法のる改正案を提出した。戦時下で規制が教科されてき
 た言論活動の一層の抑圧が目的であった。東条内閣は強行採決で改正案を成立させ、反
 対者への弾圧を強化した。
・東条政権の高まる威圧を前に、三上ら維新勢力は軍部との対立を深める。
・このとき政権批判の急先鋒は、東条内閣をこきおろす「戦時宰相論」を朝日新聞に寄稿
 した中野正剛であった。中野は秘かに、天野辰夫と組んで宇垣一成擁立工作を進めてい
 た。東条に予備役へ編入された石原莞爾とも秘かに連絡した。
・1943年10月の全国一斉検挙は、反東条の動向を圧殺しようとするものであった。
 東条の狙いは、中野正剛であった。現役議員である中野を議会中に拘留したことには批
 判が強かったが、中野は警視庁から憲兵隊に身柄を移され、徹底して取調べを受けた。
・中野の釈放が決まったが、中野は自宅で割腹自殺する。
・1944年(昭和19)に入って戦局がいよいよ悪化するなか、海軍内部で東条政権打
 倒の工作が秘かに進行していた。海軍の重鎮三名が密会する。岡田啓介米内光政
 次信正
である。海軍重鎮の密会を差配したのは、高木惣吉海軍少将である。
・意外な動きが起こった。高木の部下であった神重徳大佐が、ある人物と密会した。三上
 卓である。神の三上への依頼は、東条首相の暗殺であると推定された。このような計画
 の実現は、いまの三上の力では至難だ。
・高木は彼らと会うなかで、三上らにカネほしさの右翼ではない、無私の境地にある国士
 の一面を感じ取ったとのであろう。計画は具体化していく。実行方法は、海軍省交差点
 でのオープンカー襲撃。七人が三台の車に分乗し、前方と両脇から挟み撃ちにして衝突
 し、銃撃で射殺。
・高木の計画は近衛文麿にも届いており、近衛は友人の作家山本有三を呼び出して、暗殺
 後の声明文を依頼した。
・また海軍大佐の高松宮宜仁親王にも計画が伝わっていたという。
・ところが、計画の中心にあった神大佐に、連合艦隊司令部参謀への転出内示が出される。
 そのため計画の実行は一週間延期された。そしてその間に、サイパン失陥の責任をとる
 形で、東条内閣は総辞職する。
・三上は、戦争終結をめざす指導者のなかで鈴木貫太郎には一目置いていた。東条政権下、
 三上は四元義隆とともに重臣を歴訪し、東条打倒を訴えて回った。他の重臣が尻込みす
 るなか、三上らの説に力強く同意したのが、鈴木であった。
・隣の部屋で聞き耳を立てている憲兵を後目に、耳の遠い鈴木は大声で東条批判をまくし
 たてる。むしろ三上や四元が「注意されたほうがいいですよ」と言うと、鈴木は「本当
 のことだ。広がって結構じゃないか」と返す。鈴木の邸宅を後にした三上と四元は、
 「この人は本物だ。国ためになる立派な重臣だ」と結論した。
・勇気を持ち、私心がなく、実を棄てる覚悟のある指導者を二人は求めていた。鈴木はま
 さにそうした人物であった。 
小磯国昭内閣の総辞職を受けて鈴木貫太郎内閣が成立する。組閣の過程で、三上と四元
 は組閣本部へ乗り込んだ。このとき二人は鈴木に向かって「拝辞」を迫ろうとしたが、
 逆に鈴木に「よろしく頼むと先手を打たれた」とされる。近衛の出馬を待望する二人に
 とって、当初鈴木に想定していた役割は首相ではなかった。ただ結果をみれば、四元は
 内閣顧問となり、同じ鹿児島出身で内閣書記官長となった迫水久常と協力を密にした。
・8月、ソ連の満州侵攻と原爆投下を受けて、鈴木首相は最高戦争指導会議でポツダム宣
 言受諾の聖断を仰ぎ、終戦の聖断は下った。
・迫水書記官長は四元に相談して、鈴木首相の警護を依頼した。四元は後輩の北原勝雄に、
 四人の学生を率いて警備にあたらせた。五人は盃をかわし、生命を捨てることを誓って、
 首相官邸での寝泊りを始めた。
・五人の出番は、すぐにやってきた。8月15日未明、近衛師団の一部が森赳師団長を殺
 害し、終戦の詔書を吹き込んだ玉音盤を奪おうとした。一部隊が首相官邸を襲撃に来た。
 ただ首相が不在とわかると、小石川にある鈴木の私邸に目標を変えた。
・官邸にいた北原は車で一団を追い越し、四人の学生とともに鈴木首相を私邸から車に乗
 せ、間一髪で脱出させた。襲撃した一隊はあまりに簡素な鈴木の邸宅を通り過ぎ、近く
 の豪邸をそれと勘違いしたのである。
・玉音放送が流れた敗戦の日の夜、四元は小畑敏四郎邸に泊った。そのとき小畑は四元に
 「この人たちに逢っておけ」と、古島一雄鳩山一郎吉田茂の名を挙げた。
・吉田に会った四元は「腹の大きい立派な人だ」と感じた。四元は敗戦後に外相・首相と
 なる吉田を支えた。鳩山一郎には、ついに会わなかった。それが縁で、後には池田勇人
 中曽根康弘細川護熙など、戦後首相の相談役を務める。
・敗戦は、本土決戦を覚悟していた人々を動揺させた。安堵し、放心した人もいれば、決
 戦の機会を失って悲憤する者もいた。 
・8月15日、尊攘同志会を名乗る12人が芝の愛宕山に武装してたてこもった。木戸幸
 一内大臣らの襲撃に失敗した彼らは、警官隊の呼びかけにも応じず、警官隊の突入とと
 もに手榴弾で自爆、10名が死亡した(愛宕山事件
・終戦時の混乱のなかで、もっとも危険性の高かったのは厚木海軍航空隊事件であった。
 8月20日を過ぎても、海軍機は終戦反対のブラを撒布していた。厚木海軍航空隊は、
 なかでも強硬に徹底抗戦を主張し、愛宕山の尊攘同志会と連携をとって抵抗を続けた。
 反乱の中心人物は、厚木海軍航空隊司令の小園安名大佐で、古賀ら青年将校の厚い信頼
 を得た人物であった。
・ポツダム宣言受諾後、鈴木貫太郎内閣は総辞職し、東久邇宮稔彦内閣が成立した。史上
 初の皇族内閣の中心は、国務大臣として入閣した近衛文麿と、内閣書記官長の緒方竹虎
 であった。
・実は三上には、宮内大臣にしたいとの声があった。鶴岡にいる石原莞爾が推挙したのだ。
 石原は東久邇宮首相の信頼を得ている。だが、東久邇宮内閣が総辞職し、三上らが政権
 に関わる手立ては失われた。
幣原喜重郎が首相となり、GHQは戦犯容疑で、憲法改正に着手していた近衛文麿をは
 じめ、木戸幸一・緒方竹虎ら九名の逮捕を指令。近衛は荻外荘で服毒自殺を遂げる。
・1949年8月、香港から到来した中国招商局船「海烈号」が、川崎の日本鋼管大島工
 場の埠頭に着いた。船には米国製のペニシリンなど、多数の薬剤が積まれていた。密輸
 の発覚で中国人八名と日本人六名が検挙され、三上のその中にいた。(海烈号事件
・米軍による軍事裁判で判決が下り、三上は横浜刑務所で二度目の獄につながれた。
・海烈号事件で逮捕されて以来、三上は資金を稼ぐことに関心を失った。三上と橘孝三郎
 には「金を欲しがらない右翼」だとの評も立った。ただ三上のそれは裕福という意味で
 はなく、むしろ生活資金も十分でないことさえあった。
 妻わかは陸上自衛隊内売店(PX)で雑貨を売って働き、表に出にくい三上はルノーの
 中古車を運転して、妻の送迎をした。ところが、その妻の売店の売上げも、あるときを
 境に激減した。三無事件で、三上が三度目の逮捕をされたのである。
・無税・無失業・無戦争を唱えた「戦後初のクーデター未遂」とも言われる三無事件は、
 のちの三島由紀夫事件にも影響したとされる。
  
あとがき
・厖大な二・二六事件の研究史に比べ、五・一五事件は研究が乏しい。
・保阪正康「五・一五事件」は、事件に加わった愛郷塾と橘孝三郎を中心に、昭和恐慌で
 荒廃する農村を背景とした国家改造主義に着目した画期的な著作である。
・だがそれ以前も以後も、事件自体の研究は活発でない。中心的計画を立てた海軍将校た
 ちについては、まともに扱った研究すらほぼない。加えて事件の経緯は複雑怪奇。関係
 人物は受刑者だけでも41名にのぼり、文献は相互に矛盾して、史料は整合しない。
・現代よりも激しい格差社会のなか、決してわかり合うことのない、支配階層と一般大衆
 のあいだの強い不信感。五・一五事件の決起は、庶民を顧みない政治への不信と、眼前
 の惨状に憤る青年の焦燥を背景として、支配する者とされる者、そして権力を振るう政
 党と反発する軍部との間隙に、銃弾で楔を打ち込んだ。だが銃口の先には倒れた人があ
 り、その家族もいる。撃ち込まれた銃弾も、湖面に投げた石のように波紋を広げながら、
 やがてはそれぞれの組織や階層の論理に回収されていく。そんなやりきれなさを、書き
 ながら幾度も覚えた。
・事件の発生は、大正期以来続く国家改造運動の延長線上にある。巷間で事件の原因と言
 われている、犬養首相個人の言動は直接の要因ではない。
・政党政治の中断には、元老西園寺に影響力を行使した昭和天皇の意向が大きい。従来謎
 とされた西園寺の「変心」は、天皇の存在を抜きにしては考えられない。
・減刑嘆願運動の高揚には、政治介入を強める陸軍の思惑や、格差に憤る国民の反「特権
 階級」感情があった。その一方で海軍将校の減刑には、海軍部内の権力関係が強く影響
 していた。