成長なき時代のナショナリズム :萱野稔人 |
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いまの社会は、資本主義が成熟した社会だと言われる。それはもはやこれ以上経済が成長 しない社会だ。戦後から今までは時々不況と言われた時期もあったが、大雑把にみれば、 ずっと成長が続いてきた社会だった。今日よりは明日のほうが豊かになれるという希望が 持てる社会であった。しかしそんな社会も資本主義の成熟と共に終わりを迎えつつある。 いままではいろいろ問題が生じても経済が成長すれば、それによって得られる富をそこに 分配することによってなんとか解決できると期待できた時代であったが、もはやそんな期 待は持てない時代となってきた。 もはやパイは減ることがはあっても増えることはない。その限られた国のパイをよそ者に 奪われたくない。自分たちの分だけでも足りないのだ。現代のナショナリズムの根底には そんな危機感があるという。 現役世代の人口が増え続けるような人口構成ならば、医療や年金などの社会保障を維持し ながらその内容も拡充することもできるだろう。経済規模が拡大し続ける右肩上りの時代 ならば、景気回復のために財政出動や減税をして一時的に財政赤字が増えたとしても、そ れは税収増によって埋め合わせることもできただろう。しかし私たちはそうした拡大社会 の前提がもやは崩れてしまった時代にいるのだ。 それなのに、今の安倍政権を見ても、バカの一つ覚えみたいに拡大社会を前提として政策 を取り続けている。それはまるで自分の政権のときだけなんとかもてばよい。あとはどう なろうと知ったこっちゃない、というようにしか見えない。そのツケが今の若者世代に回 されるだ。それの危機感を今の若者たちは敏感に感じ取っている。いまの拡大社会を前提 とした政策を変えていかない限り、若者たちのナショナリズムの言動はいっそう過激にな っていくだろう。そしてその先にあるものは・・・・。今の政治家たちの責任は重い。 |
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ナショナリズムの新局面 ・いまのナショナリズムの高揚の背景にあるのは、単純な外国人嫌いや排外意識ではない。 日本社会における「パイの縮小」に対する危機感である。 ・ネットウヨクなど、インターネット上での韓国や中国に対するバッシングの盛り上がり は近年指摘されてきたが、在日韓国人の生活保護費不正受給報道への反応からうかがえ るのは、「われわれ日本人の財産や、本来われわれ日本人が受け取るべき貴重な社会的 ・経済的リソースを外国人が不当に奪っているのではないか」という感覚である。さらに、 この裏には「いまや日本人ですら生活保護費を受給できないほど社会的パイは枯渇して いて希少なのに・・・」という認識がある。日本人が納税して支えている財政は、日本 における貴重なリソースであり、私たちの生活を成り立たせているパイである。しかし そのパイは本当に困っている日本人でさえ分配にあずかれないほど枯渇しているのでは ないか。事実、近年の財政難、社会保障負担の増大に対して、たとえば自治体がその支 給にあたり水際作戦を講じているように。 その危機感こそが排外主義を加速させてい るのだ。枯渇しつつある私たちの貴重なパイを外国人たちの横取りから防衛しなくては ならない、という意識である。 ・いまの排外主義的なナショナリズムの盛り上がりに対して、進歩的知識人は眉をひそめ、 道徳的な観点から「他者への寛容が失われた」と批判する。しかし、進歩的知識人は彼 らの危機感をまったく理解していない。問題はそうして道徳的な他者への寛容性といっ たレベルにあるのではない。もっと実際的なレベルにある。 ・客観的な状況でいっても、日本の財政は国債の発行によって財源を捻出しており、毎年 巨額の財政赤字を積み増しながらやりくりしている。現実の問題として、日本における 社会的パイは縮小しているのだ。それをできるだけ防衛し、私たち自身のために活用で きるようにしなくてはならない、という強い問題意識がナショナリズムの高揚をもたら しているのである。 ・日本におけるこうしたナショナリズムの高揚は、2000年代前半にヨーロッパ諸国で 生じた「極右の台頭」と非常に似た構造を持っている。 ・フランスでは、移民への福祉の分配は日本の想像をこえるほど手厚い。こうした状況に 対して、雇用や社会保障など、じぶんたちのパイを防衛すべきだという意識を強くした 人びとが、反移民・反EUを訴えるル・ペンを支持したのである。 ・もともとオランダ社会は移民に対して寛容であり、当時すでに全人口の2割が移民だっ た。移民たちはEU加盟国のどこかに不法入国し、EU域内の国境検問を禁止するシェ ンゲン協定を利用して、福祉の手厚いオランダに移り住むことが多かったのである。そ うした状況に対してフォルトゥイン党は、シェンゲン協定の破棄、国境検問の復活を訴 えた。そこで発せられた「オランダは満員」というスローガンは、まさに「私たちのパ イを守れ」という意識をあらわしている。 ・ほかの欧州諸国でも、この時期に極右が台頭したところは、どこも同じような意識を背 景としていた。累積する政府債務、EUの財政協定のもとで減らされる福祉予算、不況 による雇用不安と賃金低下、高い失業率などが、自分たちの社会的・経済的パイを防衛 すべき、という意識を強化した。要するに、「借金で首が回らず、ひもじい生活をして いるのに、なぜ居候を養わなくてはならないのか」という問題意識がナショナリズムを 高揚させたのである。 ・社会的に排除されたり、自己実現の場をなかなか社会のなかにもてない人たちにとって、 「国民である」という属性は「国民である以上、私は社会の正当なメンバーであり、社 会のなかで正当に扱われる権利を持っている」というかたちで、社会的な承認を得るた めの大きな拠りどころになる。1990年代後半以降、長期的な不況によって経済的・ 社会的に「生きづらい人」たちが増加したときに、それと並行してナショナリズムが高 揚し始めたのは、そうした「国民である」という属性を通じた社会的承認の獲得があっ た。しかし、いまのナショナリズムの高揚はそうした社会的承認の獲得といった次元を 超えている。 ・現在のナショナリズムの高揚において前面にあるのは、「日本人に対してすら満足な分 配ができないほど社会的・経済的なパイが縮小している」という意識である。 ・非正規労働者、失業者、貧困層といった属性によって排外主義的ナショナリズムの担い 手を特徴づけることはできないのだ。そうではなく、私たちの社会的パイが縮小し、枯 渇しているという問題に敏感な人が右傾化していると考えなくてはならない。 ・こうした「リソースの枯渇」「パイの縮小」に対する危機感が欠落している人がいまの 排外主義を批判しても、まったくその批判は届かない。実際、そういう人にかぎって 「差別はいけない」とか「他者に寛容ではくてはならない」といった道徳的な批判しか しない。なぜいま多くの人が排外主義的なナショナリズムに傾くのかを理解できていな いからだ。 ・だいたい、排外主義を道徳的にしか批判しない人にかぎって、のんきに、つまりどこか らその財源をもってくるのかということを明示せずに、社会保障の拡充などを主張する。 それだけ財源的なパイが縮小しているということに無頓着なのだろう。 ・排外主義的なナショナリズムに傾いている人たちが「パイの縮小」に敏感だからといっ て、彼らは必ずしも「パイの分配」を求めているわけではない。あくまでも「縮小する パイをなんとか防衛しなくてはならない」というのが彼らの問題意識である。それは 「より多くのパイを私たちに分配しろ」という要求とは似て非なるものだ。 ・いま右傾化している人びとが要求しているのは「私たち自身の社会的リソース、パイを 防衛しろ」ということだ。そのパイの典型は日本政府の財源である。それを外国人に不 当にもっていかれないようにしよう、と彼らは主張しているわけだ。言い換えるなら、 日本という国は日本国民のものであり、外国人のためではなく日本人のために存在して いる、という主張がそこにはあるのである。この主張そのものは、「国民主権」のテー ゼとまったく同じものである。 ・ナショナリズムという言葉には過激な印象が伴う一方で、国民主権という言葉のほうは ごく自然に、むしろ肯定的に受け入れられている。しかしだからといって、両者を別の 者だと考えてはならない。国民こそ国家の主役であると主張する国民主権の考えも、ナ ショナリズムの一つにほかならない。 ・「特定秘密の保護に関する法律(特定秘密保護法)」の制定が大きな論争になったとき、 反対派の論者たちは「政府の情報は国民のものであり、政府は国民のためにその情報を 開示すべき」と主張した。その主張と、「日本という国は日本国民のものだ」という右 翼の主張はまったく同じ構造に立っている。しかし、特定秘密保護法案に反対するリベ ラルな知識人たちはそのことに気づかず、ナショナリズムに対してだけ「よくないもの」 だと断罪する。完全な無知がそこにある。 ・ナショナリズムとは、第一義的には、政治的な単位と民族的な単位とが一致しなければ ならないと主張する一つの政治的原理である。日本についていえば、日本国民の単位と、 日本という国家の単位が一致しなければならない、という主張がナショナリズムだとい うことである。 ・日本という国家は日本人のものであり、日本人のために存在するべきだと考える右派の 主張も、国民主権を要求するリベラル派の主張も、ともにナショナリズムだということ になる。右傾化した人びとの主張だけがナショナリズムではない。 ・もちろん、誰が国民になりうるか、という点では両者のあいだで大きな違いが生まれる だろう。日本人の親から生まれて、日本の文化や精神といったものを内面化した人間で ないと日本国民として認めないのか、あるいは日本という政治共同体のメンバーとなる 意志があり、その法体系を尊重する意志のあるものならどんな血筋をもった者であれ日 本国民となれるとオープンに考えるか。この点は、ナショナリズムの性質を大きく変え る。 ・国家は国民のものであり、国民のために存在しているというナショナリズムの定義から は、ただちに「では、国民とは誰のことか」という問いが生じる。とりわけ、現在のよ うに国民のパイが枯渇した状態では、そのリソースを受けとる資格をもつ国民とは誰の ことかということが鋭く問われるようになり、その国民に該当しない人間への批判が激 化するのである。 ・高揚するナショナリズムの背景にある社会意識そのものは決して不当なものではない、 ということだ。パイの縮小に対する危機意識は、低成長と人口減少、そして高齢化によ って実際に社会が縮小していることを正確に反映している。むしろ、ナショナリズムを 批判するリベラルな知識人のほうがこの現実から目をそらし、いつまでも能天気な世界 観にすがっているというべきだ。 ・ナショナリズム高揚の底にある問題を共有しないナショナリズム批判は、それがどんな に「立派な」ものであれ、そのナショナリズムの担い手には届かない。そうした批判は たんに「きれいごと」として映るだけである。ナショナリズムの高まりに対する批判を 有効なものにするためには、まずはその背景にある問題意識を里買うすることから始め なくてはならない。 ・そもそも「よそ者」に対する敵意や不信感はどの時代のどの社会にもあったものだ。む しろ人間は本来的に排外的な動物といってもいい。少なくとも、他者に開かれていくよ うな傾向と同程度には他者に敵意を向けたり排外したりする傾向を人間は備えている。 ・他者に対する寛容を説くような道徳的なナショナリズム批判はまったく的を外している。 進歩的もしくはリベラルな知識人によるナショナリズム批判がたんに的を外していると いうだけならまだいいかもしれない。しかし実際には、そうした批判こそがナショナリ ズムをより激化させている。いまの激化したナショナリズムの担い手たちが主張する問 題意識が理解されず、一方的に批判されるだけでは、ナショナリズムの運動はより反発 を強め、過激化していくしかない。 ・ナショナリズムを道徳的に非難するだけの進歩的知識人やマスコミにかぎって、「福祉 を充実させるべき」というような、「パイの縮小」をまったく無視した発言をする。こ れは彼らの問題意識に真っ向から対する社会意識だ。そうした「のんきな」社会意識を 前に、「パイの縮小」をめぐる危機意識はより強化され、結果としてナショナリズムも より激化するのだ。 ・もう一つ、ナショナリズムを批判する際に認識すべきことがある。それは、現在高揚し ている排外主義的なナショナリズムも、戦後リベラルの拠りどころとなってきた国民主 権も、ナショナリズムという点では同じということだ。リベラル派が依拠する国民主権 はナショナリズムではないという考え方は、単なる驕りと無知のあらわれでしかない。 自分たちもナショナリズムと無縁ではないという自覚があってはじめて、ナショナリズ ムとまともに対峙できるのである。 ・ナショナリズムを暴走させないようにしたければ、まずはそこにある問題意識を共有し、 自分たちも同じナショナリズムというステージに立っていることを自覚することが必要 なのである。そしてそのうえで、パイの縮小をどう防ぐべきか、国民の利益をどう守っ ていくべきかを別の仕方で提示すべきなのである。 ・ナショナリズムの問題は、それが激化してしまうと国益そのものも裏切ってしまいかね ないという点にある。ナショナリズムの思想や行動は「国民のため、国のため」という 意識から生まれるが、それが激化してしまうと「国民のため、国のため」にならないこ とを引き起こしてしまうことがあるのだ。「国のため」だと思ってやったことが「国の ため」になっていないという逆説である。 ・2013年末になされた安倍首相の靖国参拝は、中国や韓国からだけでなくアメリカや ロシア、EUからも批判を浴びた。日本は右傾化していて危険だという中国や韓国の主 張に格好の口実を与えてしまったわけだが、それでもなお内政干渉をはねのけて靖国参 拝をしたことを評価する声が国内では広がった。国益よりもみずからの心情を優先させ てしまうようになるこうした傾向こそ、ナショナリズムのもっとも危ない点であり、そ の傾向をどうやって国益を例背に見極められる合理性に引き戻すのかを考えなくてはな らないのである。 ・橋下市長は2013年、記者団に「銃弾が雨嵐のごよく飛び交うなかで命をかけて走っ ていくときに、どこかで休息をさせてあげようと思ったら、慰安婦制度は必要なのは誰 だってわかる」と発言した。また、沖縄で米軍の司令官と面会したときに「もっと風俗 業を活用してほしい」と語ったことも明らかにした。この発言は後に舌禍となって橋本 市長にふりかかった。米国務省の報道官が記者会見で橋下市長の発言を「言語道断で侮 辱的」と強い調子で非難した。ここまで強く米政府が日本の政治家の発言を非難するの は異例だろう。総論的にいえば、これら一連の橋下市長の発言は日本の国益を大きく損 ねた。それは日本に対する国際的な信用を低下させ、さらにこれまで慰安婦問題に対し て積み上げてきた日本国民および政府の努力を台無しにさえしたからだ。 ・橋下市長の一連の発言のもとにあるものとは何か。それは「日本だけが非難され続ける のはおかしい」という意識だ。なぜ日本の慰安婦問題だけが世界的にとりあげられるの か、それは日本が国をあげて強制的に慰安婦を拉致し、職業に就かせたと、事実と反す るかたちで思われているからだ。 ・米国をはじめ国外からさんざん批判されたことも影響しているかもしれないが、世論調 査では橋本市長の発言に対しては批判的な声が強い。しかしその一方で、他の国だって 同じようなことをしていたのになぜ日本だけが非難されるのか、という不満も根強く存 在する。その不満が橋本市長という特異な政治家の口を通じて炸裂したのだ。 ・「国家のよる組織的な強制連行はなかったのだから日本だけが非難されるのはおかしい」 と主張することそのものが、日本は言い逃れをしているととられ、そのことでさらに日 本だけが非難される状況をまねいてしまっているのである。たしかに、日本は敗戦国だ あら戦時中の行為を戦勝国よりも非難されやすい。また、韓国や中国よる日本批判の発 言やロビイングが、日本ばかりが非難される国際的な状況をつくりだしているという側 面もあるかもしれない。しかし、日本ばかりが非難される状況の半分は「日本だけが非 難されるのはおかしい」と主張する日本自身がつくりだしてしまっているのだ。 ・問題はしたがって、「なぜ日本だけが非難され続けなくてはならないのか」という気持 ちそのものにあるのではない。そうではなく、その気持ちを国外でも通用するような普 遍的な言葉で表現し、これまで日本が慰安婦問題をめぐって積み重ねてきた努力と立場 を理解してもらえるような外交的な手腕を私たちがもっていない、ということにある。 そもそもこれまで私たちは、そうした努力すらしてこかかったと言ったほうがいいかも しれない。 ・逆に、その気持ちは「他の国だってやっていた」「軍による強制連行はなかった」とい う主張を通じて表明されることで、かえって日本が積み上げてきた努力を台無しにする 方向に作用してきた。その方向を転換することこそ、日本がこの問題で少しでも前進す るための外交的・思想的課題にほかならない。 ・政治家が歴史問題において日本を免罪すると受け取られるような言動、もしくは日本の 事例を相対化すると受け取られるような言動は一切しないようにすること。これは最低 限守られるべき方針だ。 パイが拡大しない社会という現実 ・バブルは実体経済の実力をはるかにこえて資金が市場に流入することで生じる。実体経 済では達成できない成長を金融経済が支えるということであり、その状況が維持されな くなったときに生じるのがバブル崩壊だ。バブル崩壊はかならず崩壊する。ということ は、実体経済の成長が止まれば、いくら金融経済によって資本主義をけん引しようとし てもそこには限界があるということだ。実体経済の成長が止まるということは、成長の 源である需要の伸びが止まっているということである。 ・日本では、1970年代に人口の都市化が完了し世帯数の増加が頭打ちになった。これ は言い換えるなら、住宅市場の規模がなかなか拡大しなくなるということだ。そうした 状況のもとで住宅に対する需要を増やそうとするなら、一世帯あたりの購入頻度を高め るしかない。そうして政府も民間の金融機関も企業も、こぞって不動産への投資頻度を 高めようとした。莫大な資金が住宅市場に流れ込み、土地神話のもと実需と関係のない 投機も盛んにおこなわれた。その結果、バブルが生じた。 ・加えて日本には、バブルを生じさせるための資金の蓄えがあった。国民の高い貯蓄率が それだ。そのため、欧米各国に先駆けてバブル経済に陥ったのである。 ・バブル崩壊後、とくに日本は、急速に進んだ少子高齢化によって社会保障コストが膨ら んだ分、より経済の低迷に苦しめられることになった。これからは、中国などの新興大 国でバブル経済の発生と崩壊がつぎつぎと起こり、大変なことになるだろう。日本をみ てもわかるように、後進国ほど成長期からバブルが膨張するまでのスピードは速くなる。 つまりバブルが崩壊し、長期停滞状況に陥るスピードも速いということだ。 ・足りない需要を増やすためには、@消費を刺激する、A設備投資を増やす、B財政出動 する、という三つの方法しかない。このうち、もっとも簡単なのが財政出動だ。アベノ ミクスでも財政出動を積極的におこなってきた。日銀による異次元の金融緩和は、構造 的にみるとその積極的な財政政策を国債の大量購入によって支えるという役割をもって いる。しかしその結果、政府債務も膨れ上がった。ここまま放っておけば、日本の財政 は国際的な信用を落としてしまう。ここまで日銀が金融緩和によって国債を大量に購入 するようになると、日銀が金融緩和をやめようとしても、日銀以外に誰も国債を買って くれなくなるかもしれない。 ・金融緩和の「出口」、つまり物価上昇の目標が達成されたときにどうするかも難しい問 題だ。日銀が金融緩和をやめたあとに誰に国債を買ってもらうかという問題もあるし、 金利の上昇によって政府債務の利払いの負担も急激に増すからだ。異次元緩和によって 支えられた財政出動をおこない、供給過剰を吸収しているいまの状況は、昭和恐慌後の 「高橋財政」に似ている。当時の高橋是清蔵相は、強烈なデフレ状態に陥った日本経済 に対し、日銀の国債引き受けによって大量の資金を調達、大規模な経済政策を実施する ことで日本経済を救った。しかし、デフレ脱却後に緊縮財政に舵を切ったとき、軍事費 を減らされた軍部を中心に国民の不満が高まり、高橋是清は「二・二六事件」によって 暗殺されてしまう。金融緩和の出口にはそれぐらいの衝撃が生じる可能性がある。いっ たん緩和した金融や財政を引き締めるのは容易ではない。 ・経済成長がなかなか達成されなくなってしまった資本主義は将来的にその役割を終えて しまうのだろうか。この問いに対してはしかし、「経済成長がなくなれば資本主義は終 わる」と短絡的に考えることはできない。というのも、「成長を前提としない資本主義」 というものがありうるからだ。 ・もともと資本主義が始まったのは15〜16世紀である。しかし、最近の研究では、実 際に経済成長が始まるのはその200〜300年後の19世紀以降のことだということ がわかっている。この間、成長しない資本主義の時代が長く続いた。われわれは経済成 長を当たり前だと思い、いままでの資本主義経済はずっと成長を続けてきたかのように 感じているが、それは違う。資本主義の時代になってから、成長している時期のほうが むしろ短いのだ。 ・過去の成長しなかった資本主義の時代でも高い収益を得る人たちはいた。それは土地な どの資産を持った人たちで、彼らは収益性の高いものに投資することができた。もしく は成長率以上の地代や金利をとることができた。もちろん、そこで高い収益を得ること ができたのは、投資できるほどの富を持つ一部の人たちだけだ。経済全体のパイは拡大 しないで、そこでは富はもともと富を持つ人たちに集中することになる。つまり、もつ 者ともたざる者の格差がどんどん広がっていったのだ。 ・成長しない資本主義は格差が拡がるばかりで、いまよりももっと悲惨なのだ。資本主義 の歴において、高度成長できた第二次世界大戦後の期間は、中間層が形成されえた奇跡 的な時代であった。その幸せな時代を前提として設計された制度によっていまの社会は 動いている。しかし今後、成長が期待できないとすれば、こうした制度も立ちゆかなく なる。 ・経済成長は目指すべきである。しかし、社会保障や財政などは成長を前提としないもの につくり直すべきだ。そして、格差の固定化を防ぐための租税制度や人的資本への投資 を積極的に考えるべきだろう。限られたパイを分配する政治の役割も、より鋭く問われ るようになる。 ・構造改革や規制緩和をすすめるということは、要するに企業の生産活動の効率性を高め てもっと生産力を高めるということだが、いま問題なのは生産力を上げても需要の受け 皿がないということだ。サプライサイドの効率化をあげようとする政策は、逆に事態を 深刻化させる恐れがある。 ・市中にお金を流せばみんなが設備投資をして、生産力があがり、労働者の賃金もあがり、 景気が上向くというのがその狙いである。しかし、モノが売れない現状では企業も設備 投資に踏み切れない。だから、そのお金は実物経済にはなかなかいかず、金融市場で国 債や株券の売買ばかりに流れてしまうのだ。 ・私たちは、人口が減少していく時代にどうしたら豊かさを維持できるのか、社会の仕組 みを持続できるのかを考えていかなくてはならない。その典型が年金だ。現役世代の人 口増加とインフレを前提として設計された現在の年金制度は、このままだと赤字ばかり が膨らんでいつか破綻するだろう。どこかで制度を組み替えないことには維持できない のは明らかだ。 ・拡大社会の文明に19世紀後半になってから欧米諸国に遅れて参入した日本は、逆にそ のことによって現在は縮小社会のフロントランナーとなっているのだ。日本は他のどの 先進国よりも縮小社会の問題に深刻に直面しているのである。日本は縮小社会のフロン トランナーだから、その解決のお手本はどこにもない。かつてのように欧米諸国のあと を追っていけばいいというわけにはいかないのだ。 ・現在、私たちが直面している縮小社会とは人類史上、誰も経験したことのないものであ る。これまでも大災害や疫病で一部の地域の人口が激減するということはあったが、社 会が構造的に縮小していくということはなかった。私たちは縮小社会の現実時即した対 応策を考えなくてはならない。 ・おそらく、こうすれば一気に問題が解決するというような方法はないだろう。むしろ、 縮小社会の問題に対処していくためには、魔法の解決法はないとあきらめることから始 めるべきだ。 ・これからの私たちに求められているかんばり方とは「かんばれば将来の悲惨さが減る」 というようなかんばりだ。拡大社会では「がんばれば将来は豊かになれる」という希望 が持てた。しかし縮小社会にはそうした希望はない。放っておけば年金が一気に破綻す るとか、財政が破綻するとか、出生率がさらに減少するとかいう事態を、いまがんばる ことで軟着陸させられるかもしれない・・・。そういう意味でのかんばりなのである。 ・もともと国民年金は共済年金や厚生年金から漏れた自営業者や農家を救済し、国民皆年 金を実現するために1960年に導入された。しかし、70年代後半からその財政源が 悪化したので、85年に基礎年金を導入して厚生年金や共済年金から集めたお金を国民 年金の財源として使えるような年金改革がおこなわれた。とはいえ、一度上げてしまっ た年金給付額を下げることはできない。それは政治的にも非常に難しい。そして、バブ ル経済がはじけて90年代に本格的に低成長時代に入り、少子高齢化が進行すると、年 金財政は悪化の一途をたどり、完全に行き詰ってしまったのである。 ・財務省によれば、国債などの国の借金は2015年3月末の時点で約1053兆円と過 去最高額を更新している。国民一人あたりにして約830万円の借金を抱えていること になる。約200兆円の地方自治体の負債を入れれば、この金額はさらに大きなものに なる。こうした莫大な政府債務の存在は、財政出動による公共投資が高い経済成長をも たらし難くなってしまったことを示している。 ・社会保障費による財政赤字の拡大も、公共事業による財政赤字の拡大もともに、経済成 長を前提とした政策モデルが機能しなくなったからこそ生じている問題だ、ということ だ。経済成長を前提にした政策のツケが莫大な政府債務として具体化しているのである。 おそらく近代資本主義社会において高度経済成長は一度しか起こりえないものなのだろ う。 ・経済が成熟し、少子高齢化によって人口が減少していく時代において、低成長社会への 移行というのは私たちにちって不可避的な現実である。私たちは今後、経済成長によっ て拡大することのないパイをどうやって社会の中で再配分するのか(あるいは奪い合う のか)、といった問題にますます向き合わなくてはならなくなる。成長がすべてを解決 してくれる時代をもう期待することはできないのだ。 変容する世界のパワーバランスのなかの日本 ・2020年代のどこかで中国のGDP(国内総生産)はアメリカを抜き、中国が世界第 一位の経済大国に躍り出るという。この予想は、ほぼ確実に当たるだろう。2030年 までにすべての指標についてアメリカを凌駕することはほぼ間違いないといわれている。 第二次世界大戦後の国際社会では、アメリカが唯一の超大国として世界の安全保障体制 や経済政策を主導してきた。ソ連の崩壊以降、その傾向はさらに強まった。そこでは、 日本もアメリカの方針を受けて自国の外交政策、経済政策を決めてきたわけだ。この構 造が中国の台頭によって大きく崩れつつあるのである。 ・中国に抜かれて世界第三位となった日本経済は今後さらに縮小が続き、防衛力を大きく 強化する余力はない。また、日中関係が改善されないまま、日本が米軍の力を補強する 方向へとさらに進めば、中国にはあからさまな挑発と受けとられかねない。そうなると、 北東アジアにさらなる軍拡競争をもたらしてしまう、という可能性もある。 ・「あらゆる軍事力に反対する」という徹底的な「絶対平和主義」は美しいかもしれない が、「力の論理」をまったくかえりみない平和主義では外交の土俵に立つことすらでき ない。 ・現在、アメリカの人口は3億人強、中国の人口は13.5億人と4倍以上の開きがある。 いったん中国のGDPがアメリカを上回れば、アメリカが中国のGDPを再び抜くこと は考えにくい。 ・アメリカがGDP世界第一位になってから世界の覇権を握るまで、じつに50年もかか った。この覇権の交代期に日本は判断を大きく見誤った。二つの世界大戦は、弱体化す るイギリスの覇権に新興国であるドイツが挑戦したことで起こった。日本は第一次世界 大戦ではイギリス側について戦勝国の一員となったが、第二次世界大戦ではドイツにつ いた。「イギリスの時代が終わったあと、新しい世界はドイツと日本が担うのだ」と。 ・2050年までには中国のGDPが今度はインドに抜かれるという予測もある。中国の 労働人口は現在がピークである一方で、インドの労働人口は2050年まで増えるとい われている。つまり、中国が世界一の経済大国でいられる期間は2030年あたりから 10〜20年しかない。このような国際社会のダイナミックな地殻変動が、2030年 ごろから2050年ごろにかけて展開していくのだ。 ・「テロとの戦い」を大きく掲げたのは米国のブッシュ政権である。「テロとの戦い」は 戦争のあり方を大きく変えた。戦争が警察行為にぐっと近づいたからだ。「ならず者国 家」を武力制裁するためであれ、テロリストを壊滅させるためであれ、あるいは人道的 介入をするためであれ、現代の軍事力の行使はますます世界的な治安管理の方向に進ん でいる。日本にとって問題なのは、こうした変化によって自衛隊の海外派遣を拒む理由 がしだいに希薄になっているということだ。テロ行為を取り締まるため、あるいは人道 的介入のために、なぜ自衛隊に協力させないのか。国家同士の正面衝突という従来の戦 争観にもとづく反戦思想ではこうした問いに答えることは難しい。 ・さらに言うなら、戦争が警察行為に近づいているということは、武力行使だけが状況を 打開する方法ではなくなっているということである。国内の場合を考えても、治安の向 上には教育や福祉などの社会政策が不可欠だ。難しいのは、テロの背景は貧困や腐敗な どの特定の要因を取り締まれば解消されるほど単純ではない、ということだ。 ・戦争がますます警察行為に近づきつつある現在、軍事力の行使に頼るだけでは状況を改 善することは難しい。しかしその一方で、非軍事力的な国際協力だけでテロを根絶でき ると考えることは、状況を楽観視し、単純化し、暴力の問題を過小に見積もることにし かならない。一挙に問題を解決できるような魔法の方程式などどこにもない。 ・1965年、日韓基本条約によって日本と韓国は国交を正常化した。両国は同時に日韓 請求権協定を結び、政府間及び国民間の戦時賠償請求問題が「完全かつ最終的に解決」 したと合意した。その代わりに、日本は韓国に5億ドルの経済支援をおこなった。韓国 の国家予算は当時3.5億ドル規模だったので、日本は国家予算を大きく上回る支援を したわけだ。この日韓請求権協定があるため、日本は国際法上の法的一貫性を壊すこと なしに元慰安婦の人たちに賠償金を支払うことはできない。 ・日本はなぜ過去の戦争について謝罪していないと誤解されてしまうのだろうか。それは、 日本の政治家が失言をくり返し、A級戦犯が合祀されている靖国神社に参拝するからで ある。歴史問題で日本が他国に批難される隙を与えないためには、日本の政治家は、 @失言しない A靖国神社には参拝しない という二点を守らなければならない。この二つを守らないから、日本はいつまでも「謝 罪していない」と批難されてしまうのだ。 ・歴史問題で日本が批判されることに反発して、戦前の日本のおこないを正当化しようと することは逆効果なだけである。戦後の賠償問題に関しても「日本は悪くなかった」と 主張するのではなく、日韓請求協定や日中共同声明で日本は賠償問題を最終的に解決し、 多大な経済援助を両国におこなってきたことを堂々と主張し続ければよい。 ・2013年末の安倍晋三総理による靖国神社参拝はとても残念な出来事だった。理由は 主に三つある。 @中国や韓国の対日強硬外交に格好の口実を与えてしまったこと A米国との関係を悪化させてしまったこと BEUやロシアからも懸念が表明され、国際社会における日本の孤立を招いてしまった こと ・米国にとって靖国神社は当時から、日本の戦争行為を正当化し、サンフランシスコ講和 条約以降の戦後国際秩序を否定する象徴的存在なのである。けっして米国は、中国や韓 国のプロパガンダによって靖国神社拒否しているのでもなければ、日本が戦死者を追悼 することそのものを否定しているのでもないのだ。さらに靖国神社への首相の参拝が中 国を刺激し、東アジア情勢を不安定化させ、日韓関係の改善を阻害するものである以上、 米国がそれを批判するのはわかりきったことである。それをもし予想できなかったとし たら、それは安倍首相の認識の甘さであり、外交的失策だといわれてもしかたがない。 ・靖国神社への首相の参拝は国際的にはどうしても「戦後秩序の否定」として受け取られ てしまうのだ。その点で、首相の靖国参拝に対する各国からの批判を「内政干渉だ」と 反論することは妥当ではない。靖国問題は純粋な国内問題ではないのである。1978 年にA級戦犯が合祀されて以降、天皇陛下は靖国神社を参拝されていない。 ・首相の靖国参拝はけっして国民の総意ではなく、安倍首相の個人的な信条と言わざるを 得ない。この参拝によって安倍首相はその個人的な信条を国益よりも優先させてしまっ た。その代償はけっして小さくないだろう。 ・1972年、日本は中国と国交を正常化した。このとき中国の周恩来首相が先の戦争に ついて語った有名な言葉がある。「中国人民は、毛沢東主席の教えてにしたがって、ご く少数の軍国主義分子と広範な日本人民とを厳格に区別してきました」というものだ。 ・靖国参拝が戦後世界における日本の正当性を傷つけることはあっても、日本の国際的地 位を高めることは決してない。中国が靖国参拝を批判するのも、それが日中関係の土台、 軍国主義と現在の日本を区別することで日本との関係が成り立っているという土台、を 壊してしまうからである。 ・サンフランシスコ講和条約によって東京裁判の結果を受け入れて戦後の国際社会に主権 国家として復帰した日本にとって、A級戦犯が合祀されている靖国神社に総理や閣僚が 参拝することは、どう転んでも国内問題にはありえない。 ・2007年に第一次安倍政権のもとで国民投票法が成立した。この国民投票法には、最 低限必要な投票率についての規定がない。つまり、たとえ投票率が10%でも、投票総 数の過半数が賛成なら改憲が成立するということだ。これでは国民の総意によって憲法 が改正されたというにはほど遠い。そもそもなぜ改憲に国民投票が必要なのかといえば、 それは国民自身が憲法を支持しているという正統性の証しが必要だからだ。 ・韓国では50%以上という最低投票率を設定しているし、デンマークでは有権者総数 (投票総数ではない)の4割が賛成しなければ改憲は成立しないと定められている。 ・国民の総意が改憲に反映されるよう、国民投票の成立要件をもっと厳格にすべきだ。 ・権力にとって秘密とは何だろうか。権力のあるところには秘密がある。なぜか。それは 権力が「決定する」ということと切り離せないからである。何かを決定し、その決定に 人びとを従わせることが権力の営みである。 ・権力が決定と不可分だとしても、何かを決定するためにはその判断材料となる情報が欠 かせない。決定するために必要な情報をたくさんもっていればいるほど、その人はそれ だけ大きな「決定する力」を持つことになる。だから、権力を独占しようとする人間は 情報をできるだけ独占しようとする。ほかに誰も判断材料をもっていなければ、自分だ けで決定できるからだ。 ・2014年に集団的自衛権の行使容認が閣議決定されたとき、私たちは推進派と反対派 に分かれて大騒ぎした。しかし、自衛隊が日々どのような事態や問題に直面しているか を理解したうえで集団的自衛権の問題を考えようとした人は、いったいどれほどいただ ろうか。 ・「治安出動」という自衛隊の任務がある。警察力では対処できない暴動などが起こった ときに公共の秩序を維持するために自衛隊に課せられた任務だ。「治安出動」は自衛隊 法にはっきりと規定されている任務であるにもかかわらず、実際には一度も発令された ことがない。それどころか、ある時期以降は訓練することさえ放棄されてしまった。 ・1995年に地下鉄サリン事件が起きたとき、捜査の対象となった教団が保有する大型 ヘリを使ってサリンを上空から散布するという最悪の事態が想定された。しかし、設立 以来「憲法違反ではないのか」という批判にさらされてきた自衛隊が治安出動すれば 「国民に銃を向けるのか」という非難を浴びせられかねない。 ・平和主義に対峙してきた三つの非平和主義の主張をぶつけながら平和主義の可能性を探 っている。その三つの非は平和主義とは、「戦争には不正な戦争もあれば正しい戦争も ある」と考える正戦論、「戦争の正・不正を議論すること自体意味がない」と考える現 実主義、そして「著しい人権侵害を阻止するたえには武力行使も必要だ」と考える人道 介入主義である。 これまでの常識からどう脱却するか ・日本社会は、これから現役世代の人口が減っていくなかで増え続ける高齢者の福祉を支 えていかなくてはならない。もし経済成長がなければ、高齢者の福祉を支えるための現 役世代の負担は増す一方なので、現役世代はどんどん貧窮化していくことになるだろう。 たとえ足りない財源を政府が借金して補ったとしても、その赤字分は将来の現役世代が 返済しなくてはならないわけだから、現役世代が貧窮化していく点は変わらない。つま り「経済成長はもう必要ない」という意見は、誰かを貧窮化するという犠牲のうえでの み成り立つ意見なのである。 ・ただその一方で、経済成長することを当然の前提にして政府予算を決めたり、社会保障 を設計したりすることは慎まなくてはならない。経済成長は目指すべきだが、それを当 てにして政府予算や社会保障を増額してしまうと、経済成長しなかったときに政府の債 務が一気に膨らんでしまうからだ。その政府債務は将来の現役世代が返さなくてはなら ないから、この場も将来世代を貧窮化させてしまう。経済成長が当たり前のものではな くなった現在では、集めたお金を分配する財政や社会保障もそれに見合ったかたちに変 えられなくてはならないのだ。 ・経済成長をするために政府債務を増やしてでも財政出動をしなくてはならないという意 見もあるが、これは難しい。この場合、財政出動をしたおかげで実際に経済成長が達成 されるなら問題ない。GDPの成長にともなって増えた税収で政府債務を返済すればい いからだ。問題は、思うように成長できなかったときである。政府債務だけが増えてし まう。たしかにそのときでも、何もしないよりはましだったかもしれない。しかし、将 来世代にツケを回すことになる。バブル経済の崩壊後、日本はこれを20年間続けてき た。その結果、財政の持続可能性そのものが疑問視されるまでに政府債務が膨らんでし まった。 ・高度経済成長期は資本主義の歴史のなかでも資本の集中がすすまず、経済的な格差も縮 まった例外的な時代であった。逆に、経済が成長しないときにこそ経済的不平等が拡が る。なぜ経済成長しないときにこそ経済的不平等が拡大するのだろうか。それは、たと え経済そのものが成長しなくても、大きな資産を持っている人は高い収益が見込める投 資をおこなうことができるからである。 ・18世紀のヨーロッパはまたまだ定常的な社会で経済はほとんど成長していなかったが、 それでも地主は5%ほどの地代を得ていた。資産を投資することで得られる収益は、必 ずしも経済成長率と一致するわけではないし、それどころか経済成長率をつねに上回る 傾向があるのである。その差が格差拡大の要因となる。だから経済が低迷し、成長率が 低くなればなるほど格差は拡大しやすくなるのである。反対に、経済成長が実現されて 勤労者の給料が上がるほど経済格差は縮小しやすい。20世紀の高度成長期というのは、 高い成長率が達成されることで資本収益率に賃金の上昇が追いついた、きわめてまれな 時代だったのである。 ・格差の拡大を前にして経済成長を「金儲け主義」として批判することは、道徳的には気 持ちのいいことかもしれない。しかしそれでは、何も問題を解決できないどころか事態 を悪化させてしまう。道徳的な自己満足をもたらすだけで事態を悪化させてしまう、そ うした道徳主義はそろそろ終わりにしなくてはならない。 ・高齢者の割合がますます高くなる日本社会では、高齢者福祉を支えるためにも経済成長 はなくてはならないものだ。もし経済成長のないまま高齢化がすすめば、現役世代の負 担はどんどん重なり、結果的に現役世代の困窮化を招くことになる。 ・社会保障における世代間格差の問題についても同じことがいえる。より大きな負担を強 いられている若い世代のほうが圧倒的にこの問題は敏感だ。逆に、この格差のもとで有 利な立場にある高齢者たちはあまり問題に関心がない。年金についても、「自分たちの 払ったものを受けとって何が悪い」という高齢者からの反発はいまだに多い。実際には、 現役世代が支払っている年金保険料によって高齢者は自分が払った以上の年金を受け取 っているのだが、その認識さえ薄いのである。 ・社会保障における世代間格差がなぜ問題なのかといえば、制度の持続可能性をそれが危 うくしてしまうからだ。いまや多くの若者が「年金なんて払っても戻ってこない」と考 えている。世代間格差を放置すれば、このように社会保障制度そのものへの信頼を崩壊 させかねない。制度への信頼がなくなれば、誰も負担をしようとは思わなくなるだろう。 そうなれば制度自体が崩壊する。 ・若者と政治のすれ違いは何に起因しているのか。それは、分配すべきパイ(財源)は拡 大していくものなのか、限りのあるものなのかという前提意識の差である。年長者はパ イが拡大することを前提にしているからこそ、高齢者福祉の拡大などを政治に要求でき る。これに対して、パイはもう拡大せず、その限りあるパイすら高齢者にばかり分配さ れて、自分たちはなけなしの取り分をなんとか維持するしかない。これが若者の出発点 だ。だからこそ、限りあるパイを死守するために、矛先は外国人や生活保護の不正受給 者へと向かいのである。なけなしのパイすら奪われているという意識が、排外主義を生 みやすくしている。 ・ところが、年長世代や政治は彼らのロジックを理解できない。努力すれば今日よりは明 日、親よりはこの世代が発展するというのが、これまでのライフスタイルの基本的な価 値観だったからだ。いまの20代にこの価値観は通用しない。経済成長もないし、人口 税収も増えない。年金財源も限りがある。頑張れば親よりもいい暮らしができるなどと いうのは幻想でしかない。 ・現行の社会保障制度はパイの拡大を前提に設計されており、パイが拡大しなかったとき にその負担を将来世代に押しつける形で維持されている。第二次安倍政権がすすめる公 共事業の拡大も、一見現役世代の雇用を生み出すように見えるが、将来世代にとっては 需要が先食いされ、借金が残る「二重苦」となる。 ・高齢者の貧困や家族を抱えてリストラされる50代の苦しさと比べ、親という資源があ ると思われている若者の悲惨さは見えにくい。だが見えないツケが積もった若者は数十 年後は、いまの高齢者よりずっと悲惨だろう。 ・財政赤字が膨らむ最大の理由は社会保障関係費の増加だが、現在の社会保障システムは 人口構成がいまよりもずっと若く、経済成長を見込める時代につくられた。低成長・高 齢化の時代に入ってもそれを修正できていないので、支出がどんどん膨らんでしまう。 それを解決できないまま「財政が厳しいから増税しましょう」ということでは、重い負 担を強いられる若い世代から正当性に疑問が投げかけられるのは当然だ。国民年金の未 納率の上昇がそれを示している。 ・いまの税制も、税収の自然増が見込める高度成長時代に原型がつくられ、所得控除や特 別措置だらけのいびつな構造だ。税制と社会保障の両方について高度成長時のあり方を 根本的に変えないと、今後は税の正当性を維持できないだろう。 ・たしかに、金融緩和によって日銀が市場で国債を大量に買い支えてくれれば、政府は低 金利で国債を発行することができ、増税をすることなく公共事業の財源をまかなうこと ができる。増税は国民の消費活動を停滞させるから、景気浮揚のためには増税は避けた い、という発想もわからないではない。しかし、たとえ金融緩和を通じて国債が買い支 えられたとしても、国債の発行が政府の借金になることは変わりがない。将来のどこか でそれは返済されなくてはならないのだ。将来世代はそのとき、莫大な政府債務と、公 共事業の大盤振る舞いによって先食いされた需要の先細りによって、いま以上に苦しむ ことになるだろう。財政が破綻するようなことになれば、景気対策どころではない。将 来世代を巻き込んですべての国民が苦しむことになる。財政状況の悪化を受けて、円や 国債の価値が暴落することだってあり得ないことではない。 ・少子高齢化と人口減少は日本の近代化以降、初めての減少である。それだけ現在は時代 の転換期にあるということだ。その転換期において、私たちは少子高齢化や人口減少に 適合した財政や経済のあり方を、それこそ長期的な視点で模索していかなくてはならな い。 ・日本の公的債務がGDP比で2倍(約1000兆円)にまで膨らんでも国債の金利が低 いままでいられるのは、消費税率の低い日本にはまだまだ増税の余地があると考えられ ているからだ。しかし、その増税を政府が行えないとみなされれば、国債への信用は低 下し、長期金利が急上昇することだってありうるかもしれない。そうなれば日本経済全 体が深刻なダメージを受けることになる。 ・現役世代の人口が増え続けるような人口構成なら、社会保障の持続可能性を維持しなが らその内容を拡充することもできるだろう。経済規模が拡大する右肩上がりの時代なら ば、景気回復のために財政出動や減税をして一時的に財政赤字が増えたとしても、それ は将来の税収増によって埋め合わせることもできただろう。私たちはそうした拡大社会 の前提がもはや崩れてしまった時代にいる。 ・私たちはともすれば短絡的な課題や利害に目を奪われがちだ。しかし、短期的な利益を 追及していけば長期的にもうまくいくという幸福な時代はもはや終わった。 ・東日本大震災が被災地につきつけた問題を、日本全体が取り組むべき課題として普遍化 していく作業がどうしても必要である。被災地が抱えている問題は、決して被災地だけ の問題ではなく、日本社会のどこにいても直面する問題だということをどこまで認識し、 共有できるか。それが記憶の風化にあらがうことを可能にする。 ・被災地で復興住宅の建設がすすまないのは、もちろん用地がなかなか確保できないから だが、さらに深刻な問題として、たとえ十分な復興住宅を建設したとしても、高齢化が 急速にすすむ被災地では、はたして今後どこまでそれを維持できるか、という問題があ る。入居者の高齢化が進んでいけば、やがて復興住宅内の過疎化も進行し、住民のあい だのコミュニティを維持することも困難になっていくだろう。 ・少子化と人口流出によって自治体の税収が落ち込めば、復興住宅の存在そのものが自治 体の財政に重くのしかかってきかねない。 ・人口も増加し、経済も右肩上がりの拡大社会では、短期的な利益の追及は長期的な利益 と一致しやすい。多少無理して現在の利益を確保しても、将来さらにパイが拡大するの であれば、それが未来のツケになる余地は小さいからだ。しかし縮小社会では、現在の 利益の確保は、将来に負担を先送りすることや、将来の利益を先食いすることになりや すい。私たちは短期的に利益と長期的利益がそのままでは一致しなくなった時代にすで に生きている。 ・少子化がすすむ現代では、政党による財源獲得競争は厳しいものにならざるを得ない。 というのも、少子高齢化においては働いて税を負担する現役世代の人数が減るとともに、 年金や医療費など、財政支出によって支えなくてはならない高齢世代の人数が増えるか らである。つまりそこでは、税収は減り歳出は増える圧力がかかるのである。財政は硬 直せざるを得ない。 ・そこで出されるのが、財源を捻出するための「奇策」である。民主党が2009年の政 権交代のときに「埋蔵金」があると主張したのはその典型だ。「ムダ遣い」をしている と官僚をバッシングする手法もその一つだろう。第二次安倍政権がとった大胆な金融緩 和策も例外ではない。 ・いまや、停滞する経済状況と少子高齢化の進展によって、分配するパイが拡大する見通 しはまったく立たなくなってしまった。それどころか、少子高齢化は税や社会保険料を 負担する現役世代の人口比が小さくなるということだから、むしろ給付削減や負担増と いった不利益をどう分かち合うかが問題となってくる。利益の分配から不利益の分配へ と政治の文法が変わりつつある。 ・中央から地方へと利益の分配ができなくなりつつあるとしても、中央がより不利益を負 担することで地方を優遇することまでやめなくてはいけないわけではない。国土整備や 食料の供給、そして人口る流入による人材の供給など、中央は地方に多くを負っている からだ。もし不利益の分配を中央と地方で平等にしようということになったら、ただで さえ疲弊している地方はより疲弊し、自然災害の多発や食料救急の不安定化、人口減な どのよって、結果的には中央の活力すら奪われかねない。地方における出生率の低下は、 そのまま少子高齢化に拍車をかけ、いまの不利益分配の必要性をより増大させるだろう。 それは日本社会全体にとって自滅行為だ。 ・どうやって少子化を食い止めるかという方法については、なかなか確たる答えがないの も事実である。子育て支援のさらなる拡充はもちろん必要だろう。ここまで少子化が進 んでしまった以上、未来の日本社会の担い手を産み、育てる人たちをサポートすること は社会全体の義務である。一人もしくは二人の子どもをもつ夫婦が多い現状では、第三 子からの出産や保育への給付をより手厚くすることも考えられていい。さらに、子育て と仕事を両立できるような働き方を社会の中で確立していくことも必要だ。もし女性が 出産と育児のためにキャリアの追求を諦めざるを得ない状況が続くようなら、出生率は 決して回復しないだろう。 ・ただしこれは女性だけの働き方の問題ではない。妻に育児と家事をすべて任せなければ ならないほど長時間働かなくてはならない男性の働き方を変えないかぎり、女性は出産・ 育児かキャリアの追求かを選択せざるを得ない状況に置かれ続けるからである。 ・私も政府が人口目標を掲げて少子化対策に取り組むことを強く支持する。ただ、その一 方で、これで本当に十分なのかという疑問も抱く。というのも、既婚女性の出生率は、 実はそれほど低下していないからだ。むしろ既婚女性だけをみれば出生率は逆に上昇し ているという分析さえある。つまり日本の少子化は、既婚カップルが子どもを産まなく なったから生じているのではないのである。 ・何が少子化をもたらしているのだろうか。それは未婚率そのものの上昇である。日本で は婚外子の比率は全体の2%ほどしかない。つまりほとんどの子どもは既婚カップルの もとで産まれるのだが、その既婚カップルの数が減っているのである。そうである以上、 子育て支援や仕事との両立といった方法さけでは少子化対策としては不十分である。さ らに、婚姻率をあげるか、あるいは婚外子を増やすかしなくてはならないのである。 ・日本では報告されているだけで毎年約20万件の中絶がなされている。報告されていな いものを含めると、さらにその件数は膨れあがるといわれている。日本の出生数は現在、 毎年100万人ほどであることを考えるなら、欧米諸国のように婚外子でも産み、育て やすい社会環境をつくることは出生率の回復に必ず寄与するだろう。 ・このままいくと2040年には女性の生涯未婚率が30%近くまで上昇すると予想されるな か、婚姻率をあげることは日本社会における喫緊の課題である。 ・フランスでは現在、スウェーデンやデンマークといった北欧諸国と同じように出生数に 対する婚外子の割合は2人に1人になっている。アメリカでは5人に2人、ドイツでも 3人に1人の割合だ。 ・現在の低成長社会では経済も成熟しており、お金で買えるようなものの多くはすでに人 びとの手にわたっているので、みずからの欲求を満たすために必死になってお金を稼ぐ 必要もそれほどない。むしろそこではお金では買えないようなもの(たとえば人間関係 や余暇、自然、ボランティア活動など)にこそ人びとの欲求や価値は向かうのであり、 そうしたものへと人びとが時間や労力を割けるようにすべきだろう。 ・お金をもっと稼ぎたい人、仕事で成功したい人はどんどん仕事に邁進すればいいだろう。 しかし世の中はそんな人ばかりではない。仕事よりも家庭や地域の人間関係を充実させ たい人、趣味に没頭したい人、自然のなかでのんびり暮らしたい人、仕事が苦痛でたま らない人、そういった人もたくさんいる。 ・ベーシック・インカムとは、政府が人びととの雇用や社会参加に対する責任を放棄し、 「お金をあげているのだから、人びとが社会生活から脱落したり排除されたりしても、 それは個人の自己責任ですよ」ということを政府自身が認めるようにしようという政策 なのである。ベーシック・インカムは人びとを労働から解放しようとする。が、同時に 政府をも労働政策の責任から解放するのである。 ・そもそも生産過剰の社会では、政府が雇用対策をおこなわなければ、必然的に働きたく ても働けないという人が相当数生み出される。だが、ベーシック・インカムの構想はそ うした政府による雇用政策をすべて現金の支給に置き換えようとする。確かに、それに よって人びとは仕事がなくても最低限の生活は保障されるようになるかもしれない。と はいえ、それによっては低成長社会において働きたくても働けない人が相当数生み出さ れ続けるという事態は変わらないのだ。 ・低成長社会のもとで人びとの雇用環境が厳しくなり、また労働市場における競争も激し くなる中で「働きたくても働けない」人の問題をそれはまったく解決することができな いからだ。働きたい人はいつでも働けるという状態が確立することで、はじめて働くか 働かないかは個人の自由に委ねられるということができる。 ・結局、低成長社会において「必要のない労働力」にさせられてしまった人たちは、ベー シック・インカムが導入されても労働市場からは排除され、「働くことへの自由」から 排除され続けるのである。 ・「仕事を通じた社会参加」を別のものにそのまま置き換えることは不可能だ。仕事には、 たんにお金を稼ぐという側面だけでなく、それを通じて自尊心や自立心を満たしたり、 みずからの社会的役割あ存在意義を確認したりするという重要な側面がある。同じ社会 参加でも、まさにお金を稼ぐということのよってもたらされるアイデンティティの効果 の点で、仕事には特別の意味があるからだ。 ・ベーシック・インカムのアイデアは、別の仕方での社会参加が可能であれば仕事なんて なくてもいいという想定の上に成り立っている。つまり、たとえ他の方法で社会参加す ることができたとしても、仕事がないという状態が人びとにとってどれほど耐え難いこ となのかということを、ベーシック・インカムの推進者たちはまったく理解していない。 これはベーシック・インカムの決定的な欠点だろう。 ・ベーシック・インカムは、働きたくても働けない「余分な労働者」たちの問題を、お金 を与えることで解決しようとする。そして、仕事がないということから生じる新たな社 会的排除に対して政府がなにもしなくていいことの口実を与える。 ・財の再配分をするなら、それを通じて何らかの仕事の機会をつくり出すべきである。貧 困問題に対処するにしても、それは国民全員に一律に現金を直接給付することによって なされるべきではなく、現金を給付すべきところに給付し、それ以外のところは人びと の能力を向上させたり、雇用機会を増やしたりすることによってなされなくてはならな い。 ・現金支給というのは、貧困に陥っている人に対する救済手段として非常にわかりやすい 政策だが、しかしお金が移動するという以上の効果をなにももたらさないのである。 ナショナリズムを否定するのではなく、つくりかえること ・もっともよくないのは、ナショナリズムを頭から否定することだ。それは何も問題を解 決できないだけでなく、ナショナリズムに対する大きな無理解に基づいている。 ・集団的自衛権の行使を容認する安保法制が憲法違反になるのではないかと国会で議論さ れていたとき、反対派からはしきりと「憲法とは国民が政府を縛るものだ」という主張 がなされた。特定秘密保護法案が国会で審議されていたときも、反対派からは「政府の 情報は本来国民のものであり、政府がそれを国民から隠し続けることは許されない」と いう主張がなされた。こうした「国家は国民のものである(もしくは国家は国民のため のものである)」という考えはナショナリズムの発想そのものだ。集団的自衛権の行使 容認に賛成する右派の立場だけがナショナリズムなのではない。それに反対する側にも ナショナリズムは胎動しているのである。 ・ナショナリズムだからという理由で集団的自衛権の行使容認を批判することはできない のだ。集団的自衛権の行使容認を批判したいなら、ナショナリズムの問題とは関係なく、 それとして批判しなくてはならない。 ・「国民主義」とでもいうべき立場がナショナリズムである。そこで含意されているのは 「国民こそが政治の主体である」という主張である。リベラル派が好きな国民主権の原 理はそれを具体化したものにほかならない。国民主権とはまさに「国民こそが国家の主 体である」ということを主張する政治的原理であるからだ。国民主権の原理とはナショ ナリズムの原理そのものなのである。 ・日本では、ナショナリズムというと過激な民族主義や排外主義ばかりがイメージされる。 日本ではナショナリズムという言葉はネガティブな意味のみを背負わされているのであ る。 ・ナショナリズムはそれぞれのネーションが政治的な自己決定権をもつべきだと主張する。 国民主権や民族自決の原理はここから生まれてくるのだが、同時にそこからは「ネーシ ョンとは誰のことか(誰がネーションに含まれるのか)」という問いも必然的に生まれ てきてしまう。 ・日本は国民の規定の中心に血統主義を置いているので、基本的には「日本人から生まれ た者が日本国民である」ということになっている。しかしその「日本人」も法的には日 本国民の規定によって「日本人」となっているだけなので、そこで実際にいわれている のは「日本国民とは日本国民から生まれた者である」という同語反復にすぎない。 ・事態が深刻になるのはその先である。誰が日本国民であるかが規定されれば、日本列島 に住む日本国民でない者は、日本という国家の主役ではない者として社会の周辺に追い やられることになるからだ。それが激化すると外国人排除の命法になる。 ・さらにそこには日本国民でも排除の対象になることがある。というのも、「誰が日本国 民なのか」という問いは「誰が日本国民にふさわしいのか」という問いを導きがちであ るからだ。ナショナリズムはその「国民にふさわしくない国民」を排除する命法として も機能する。ナショナリズムが「国民道徳」や「民族の精神」を打ち出して、人びとに それを尊重させようとするのは、その裏返しである。 ・戦前・戦中の「非国民」という言葉はその典型例にほかならない。「非国民」という言 葉が指し示していたのは「日本国民であっても、日本国民にはふさわしくない者たち」 だ。多くの場合、戦争遂行に批判的であったり非協力的であったりした者がそう呼ばれ た。そこにあるのは、国民としてふさわしくない者が国民の中で居座っていると国家そ のものが弱体化しかねなお、だから弾圧なり排除なりすべきだ、という論理である。こ の排除の命法は、あげくの果ては自分の意見とは違うというだけで相手を「非国民」呼 ばわりし、批難するというところまでエスカレートした。現在では「在日」という言葉 がそれと同じような機能を担っている。 ・人びとは国民主権の原理などを通じて(たとえ無自覚にせよ)ナショナリズムに依拠し ている。このことは、本人の意識の上ではナショナリズムに批判的なリベラル派でも変 わらない。ナショナリズムに依拠しながらナショナリズムを否定することは、矛盾なし にはできないことだ。 ・国民国家の枠組みが現存し続ければ、「国民こそ国家の主役である」というナショナリ ズムの原理も存在し続ける。極右政党の勢力拡大や排外主義の広がりはそのもとで生じ ているわけだから、ナショナリズムの全面否定は実際のところ「国民国家の枠組みがな くなれば、ナショナリズムがもたらす排外主義などの問題もなくなる」といっているに すぎないことになる。 ・国民国家の枠組みを否定することは理論的にはけっこう難しい。というのも、国民国家 の枠組みを否定するには、いかなるメンバーシップも求めないような(つまり誰がその メンバーであり、誰がその政治的自己決定にかかわれるのかを問わなくてすむような) 政治共同体を想定しなくてはならないからである。そうした政治共同体は理論的には世 界国家しかあり得ない。ただしこの場合も、世界国家が望ましいものであるとは決して いえない。というのも、世界国家が存続するためには、そこから独立しようとする人た ちを常に世界政府が弾圧し、独立を阻止し続けなくてはならないからである。世界国家 から独立しようとする人は世界のどこかで絶えず生まれ続けるだろうから、世界政府に よる独立運動への弾圧の活動は休みなく続くだろう。また、世界国家においては、たと え世界政府によって耐え難い圧政や独裁が敷かれても、その外部にはいかなる政治共同 体もないので、亡命という選択肢をとることもできない。 ・ナショナリズムに実際には依拠しながらナショナリズムを否定することはできないし、 また、ナショナリズムの全面否定は何も問題を解決できない。そうである以上、私たち はナショナリズムに留まりながら、ナショナリズムが排外的にならないようにするしか ない。 ・激化する排外主義の言動に対しては、これまで「差別はよくない」「他者に寛容になる べきだ」といった道徳的な批判ばかりが繰り返されてきた。なぜ人びとが排外主義に向 かっているのかという理由についても、「低所得でコミュニケーション能力が低く、社 会に対して自己疎外感をもっているため」「自己不全感の反動」「グローバル化する社 会の動きから取り残された人たちのルサンチマン」といった、本人の至らなさに原因を 求める分析ばかりがなされてきた。しかし、その排外主義の背景にある「パイの縮小に 対する危機感」そのものは決しておかしなものではない。それどころか、毎年財政赤字 をだして政府債務を膨らませなければ基本的に政策すら遂行できない日本やヨーロッパ 諸国の状況を考えながら、その危機感は正当なものである。にもかかわらず、排外主義 を批判する側はそうした問題意識をまったく認識しようとはしない。はじめから相手を 道徳的に劣ったものと見なしているため、訊く耳を持たないのだ。 ・批判する側は「底辺の人間が排外主義に向かっている」「自己疎外感や自己不全感を持 つ人たちが他者への不寛容を拡大させている」といった根拠のない思い込みに基づいて、 福祉を手厚くすれば排外主義は収まると考えてしまう。その発想が実際には「パイの縮 小に対する危機感」と対立し、排外主義の担い手をよりいらだたせてしまうことに気づ かずに。 ・財源の裏付けもなく「社会保障をさらに手厚くすべきだ」と主張するリベラル派の政治 家や論客こそ、「パイの縮小に対する危機感」を煽っていることにそろそろ気づくべき だ。 ・排外主義的なナショナリズムがいかに不合理に見えたとしても、その背景にある問題意 識が不合理とは限らない。もしナショナリズムが排外主義へと向かうことを押しとどめ たいなら、その排外主義が示す解決よりも説得的な解決を示さなくてはならない。 |