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昭和十年八月に、当時の陸軍省軍務局長だった永田鉄山が、陸軍中佐の相沢三郎によって
斬殺されるという事件が起きた。いわゆる「相沢事件」である。いまから86年前の話だ。
当時の陸軍内では、統制派皇道派という二つの派が、お互いの主張の違いから激しい派
閥争いを繰り広げていたという。永田鉄山は統制派の中心的存在であったといわれおり、
相沢三郎は皇道派の思想に染まっていたようだ。当初は皇道派のほうが優勢だったようだ
が、次第に統制派の方が勢力を増していったようだ。そういう状況の中において起きたの
が、この相沢事件であったという。
事件を起こした相沢三郎という人物は、決して性悪な人物ではなく、逆に正義感あふれる
人物だったようだ。しかし、その強すぎる正義感が仇となったようだ。対抗派の中心人物
を貶めようと流布した「怪文書」の内容をそのまま信じ込んでしまい、正義感から犯行に
およんだようだ。
このように、デマやフェイクニュースに踊らされて、法を無視した行為に走るという行為
は、現代社会でも散見されることだ。実際に行動を起こした人物がもちろん悪いのだが、
デマやフェイクニュースで煽動した人物も同じように悪いと思うのだが、煽動した人物は、
罪を逃れるケースが多いのも、残念ながら事実のようだ。
大きな組織においては、どうしてもこのような派閥というものが生まれ、派閥間での争い
が起きがちであるというのは、残念ながら昔も今も変わらないようだ。そして、このよう
な派閥争いは、往々にしてお互いに「正義は我が方にある」と思っているからたちが悪い。
私は、この統制派と皇道派の争いが、現代のアメリカの民主党(バイデン)と共和党(ト
ランプ)の争いに似ていると思った。「民主党=統制派」で「共和党=皇道派」だ。そし
て「米議事堂襲撃」が「相沢事件」に相当するだろう。前回の大統領選では民主党が辛う
じて勝利したが、共和党のトランプ勢力は、未だに民主党の勝利を認めていないようだ。
なんとも見苦しい対立なのだが、このまま対立が激化してさらに深刻な事態を引き起こさ
なければいいがと、私は密かに心配している。
ところで、この相沢三郎は、生まれたのは福島県白河市だったようだが、もともとは仙台
藩士の家系で、本籍は仙台市だったようだ。この本によると、相沢三郎は同じ仙台陸軍地
方幼年学校の一年先輩だった石原莞爾と顔見知りだったという。以前読んだ「石原莞爾 
マッサーサーが一番恐れた日本人
」(早瀬利之著)に相沢三郎について何か書かれている
のかと調べてみたが、残念ながらこの本には相沢三郎については何も書かれていなかった。
だが、「昭和の怪物 七つの謎」(保阪正康著)のおいては、相沢三郎と石原莞爾が知り
合いだったことが触れられていたので確かなのであろう。
なお、相沢三郎の墓は、仙台市内にある充国寺にあるようだ。また、怪文書を流し相沢事
件のきっかけを作り、また後に二・二六事件の首謀者の一人となった村中孝次の墓がこれ
また仙台市内にある松源寺にある説と松音寺にある説のふたつがあるようだ。村中孝次は
北海道旭川市の出身のようだが、どうして仙台市内に墓があるのか、不思議が気がした。


はじめに
・昭和十年(1935年)8月12日、9時40分頃、陸軍省軍務局長・永田鉄山は、陸
 軍中佐・相沢三郎に軍務局長室にて斬殺された。陸軍中枢部である陸軍省において、軍
 幹部が現役将校に暗殺されるという事態は、近代日本の陸軍史の中でも他に類例のない
 大事件であった。
・確かに、永田の急逝は、昭和史における分水嶺となった。日本の敗戦の要因を逆算して
 いくと、永田暗殺事件に辿り着くという観点は、充分に検討に値する。
 
諏訪時代
・諏訪湖の東岸に位置する長野県諏訪市が、永田鉄山の故郷である。現在、高島公園の一
 角に、永田の遺徳を偲ぶ胸像が建立されている。高島公園は、少年時代の永田が実際に
 友人たちと駆け回って遊んでいた場所でもあるが、この敷地内に経つ諏訪護国神社の目
 の前に、その像は設けられている。
・永田家は江戸時代から続く藩医の家系である。鉄山は「院長の令息」として、大切に育
 てられた。
・明治三十一年(1898)九月、鉄山は東京陸軍地方幼年学校に合格。陸軍地方幼年学
 校は、陸軍の「幹部候補生」を養成する機関であり、東京の他、仙台や名古屋、大阪な
 ど全六校が設立されていたが、それぞれの地域の秀才が集まる狭き門であった。
 
陸軍軍人への道
・東京陸軍地方幼年学校の同期生には、生涯の僚友となる岡村寧次がいた。後に永田、
 畑敏四郎
と共に「陸軍三羽烏」と呼ばれることになる一人である。翌年の第三期生には、
 東條英機の姿があった。
・東京陸軍地方幼年学校の卒業生は、市谷の同じ敷地内に建つ陸軍中央幼年学校にそのま
 ま進むことになる。同校への永田の入学は、明治三十四年九月である。
・陸軍中央幼年学校の卒業生は、下士官としての隊附勤務を経た後に、陸軍士官学校(陸
 士)へと進むことになる。
・陸軍中央幼年学校を卒業した永田は、明治三十六年六月、士官候補生として麻布の歩兵
 第三連隊に入隊した。六カ月に及ぶ隊附勤務を支障なく終えた永田は、同年十二月に念
 願の陸軍士官学校に入校。永田は同校の第十六期生であった。同期生には岡村寧次や小
 畑敏四郎の他、板垣征四郎土肥原賢二といった面々がいた。
・岩手県岩手郡出身の板垣は、盛岡中学校、仙台陸軍地方幼年学校の卒業。累代、盛岡藩
 士の家系である。 
・土肥原は岡山県岡山市の出身。板垣と同じ仙台陸軍地方幼年学校を卒業した後、陸軍中
 央幼年学校を経て陸軍士官学校に入学した。
・板垣と土肥原の両名は、終戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)で所謂「A級戦犯」と
 して極刑を宣告され、共に刑場の露と消えたことでも日本近代史に名を刻む。
・明治三十七年十月、永田は陸軍士官学校を卒業。全国から俊才が集う同校を、永田は首
 席で卒業した。 
・歩兵第三連隊補充大隊の第一中隊に配属された永田は、日露戦争下における補充兵や志
 願兵への教育を担当する任務に就いた。
・明治三十八年(1905年)になると、日露戦争の前線に派遣される将兵が増えたが、
 永田にはその機会は訪れなかった。永田はその生涯において、実際の戦場に出た経験は
 ない。
・明治三十九年(1906年)一月、永田は歩兵第五十八連隊附を拝命。派遣先は、一向
 に情勢の安定しない朝鮮半島であった。当時の韓国は、日本の事実上の保護国となった
 ばかりである。韓国統監府が設置され、初代統監の重職を拝命したのが伊藤博文である。
・歴史の妙味に思えるのは、ちょうどまさにこの時期、後に伊藤博文を暗殺することにな
 るテロリスト・安重根が、永田の駐在地のすぐ近隣の鎮南浦で暮らしていたことである。
 彼は日を追うごとに抗日への意識を高めていた。やがて安重根は、抗日武装ゲリラへの
 参加を決意する。
・陸軍としては、朝鮮半島に相応の兵力を配置することでロシアの南下に備えていた訳だ
 が、そんな在韓日本軍を最も悩ましたのが韓国人の過激な抗日武装ゲリラであった。
・明治四十一年(1908年)十二月、永田は陸軍大学校(陸大)に入校。同時生には、
 陸軍士官学校時代と同じく小畑敏四郎がいた。その他、敗戦後の東京裁判で終身刑の判
 決を受け、服役中に獄中死した梅津美治郎も同期である。 
・陸軍大学校在学中の明治四十二年(1909年)十二月、二十五歳の永田は、五つ年下
 の轟文子という名の女性と結婚。文子は、永田の母方の従妹に当たる家柄であった。
・明治四十四年(1911年)十一月、永田は陸軍大学校を卒業。永田は二番目の順位で
 恩賜の軍刀を授与された。首席は梅津美治郎である。小畑は六位であった。
 
国防への意識
・大正二年八月、永田は陸軍大尉に昇進。十一月、永田は軍事研究員という立場で、ドイ
 ツに向けて出発した。このドイツ駐在が、彼にとって初めての渡欧である。
・第一次世界大戦の勃発により、赴任先のドイツから心ならずも帰国した永田であったが、
 彼はその後の大正四年(1915年)三月、陸軍省俘虜情報局に転属となった。
・大正四年六月、永田はデンマーク駐在を拝命。ところが、あくまでも中立を維持したい
 デンマーク側が、ドイツと敵対関係にある日本の武官の受け入れに難色を示すようにな
 った。そこで永田は、十一月にやむなくスウェーデンに移動。結局、同国の首都・スト
 ックホルムに駐留することになった。
・スウェーデンでの滞在中、永田が傾注して研究した一つの事案がある。それは、この未
 曾有の規模にまで拡大した大戦を通じて、欧州各国が国内で確立しつつある「総動員体
 制」についてであった。それまでは、日本を含め「戦争は軍隊がやるもの」でしかなか
 った。しかし、欧州ではこの大戦を機に「戦争は国家全体でやる」という新たな価値観
 が根付き、それが早くも実践に移されていた。そのことを知悉した永田は、祖国の将来
 に深甚なる危惧を抱いたのである。
・この大戦では、戦車や航空機といった多くの新兵器が次々と投入されていた。これらの
 兵器の多寡が戦場の勝敗を大きく分けており、こうした面を考慮すると、工業生産分野
 の充実が国家の命運を決定的に左右することは、容易に想像がついた。然して、工業生
 産を担うのは、軍人ではなく一般の庶民なのである。
・つまり、戦争の雌雄を決する要因として、「庶民を如何に効率よく動員するか」という
 課題の解決が今後は最も重要になってくるはずであり、「いくら軍人だけを教育しても、
 これからの戦争には対処できない」と永田は強く認識したのであった。
・世界中を揺るがした第一次世界大戦が終結したのは、大正七年十一月のことであった。
 日本は戦勝国となったが、永田は危機感を以ってこの大戦の結果を分析した。世間には
 「この経験を得た国際社会に、二度と大きな戦争は起こらない」とする楽観論も広がっ
 ていた。しかし、永田はこの終戦を「一時的な停戦」と認識。国際情勢の輪郭を冷静に
 俯瞰すれば、近い将来、再び大きな戦争が起こる蓋然性は極めて高いと永田は判じたの
 である。そして、その来るべき戦争の形態は、必ず総動員体制を基礎とした「総力戦」
 になるであろうと予測。
・第一次世界大戦後、国際連盟が発足。国際社会が結束して平和を模索するという新たな
 体制の構築が謳われた。だが、永田はこうした動向に懐疑的であった。いくら美辞麗句
 を並べても、国際連盟の実態は「欧米にとって都合の良い組織」でしかあり得ず、そう
 した矛盾はいつか必ず噴出するであろうと永田は見据えていた。
・現代においても同様であるが、如何なる国家であっても自国の国益を優先するのは必定
 であり、国際社会を理解する際に「性善説」など障壁にしかならない。
・大正九年(1920年)九月、永田は三度目となる渡欧を命ぜられた。オーストリアの
 首都・ウィーンに駐在する予定である。大戦終結以降の欧州における地殻変動を分析す
 るという重要な役目が、永田に課せられたのであった。
・大正十年(1921年)十月、永田と小畑敏四郎、岡村寧次という陸軍士官学校第十六
 期の三人の同期生たちが、ドイツ南部の温泉保養地「バーデン=バーデン」の地に集ま
 った。当時、小畑はロシア駐在武官、岡村は欧州出張中の身であった。実は、この三人
 は以前から「陸軍立て直し」に向けて、小畑の自宅などで勉強会を開いていた。
・陸軍には「藩閥」の構造が根強く残っており、中でも「長州閥」は厳然たる力を有して
 いた。そんな長州閥の絶対的な優位性は、大正期に入ってから徐々に衰えつつあったも
 のの、未だ残存していたのである。そのような前時代的な寡頭制に永田らは危惧を抱き、
 出身地域による派閥解消への方針を確認し合ったのであった。
・永田は長野県生まれ、小畑は高知県、岡村と東條は東京府の出身である。
・東條は長州閥に対して強い怨恨を有していた。永田自身は、長州閥への私怨などはなか
 った。永田が憂慮していたのは、派閥が組織にもたらす弊害という一点に尽きる。
・大正十二年(1923年)四月、スイスで軍務を終えた永田は、アメリカ経由で帰朝。
 経由地のアメリカでは、その強大な国力に驚嘆を禁じ得なかったという。
・永田は教育総監部に復帰。養育総監部本部長は、宇垣一成であった。
・時代は「大正デモクラシー」の最中である。軍にとっては強い「逆風」と言えた。政党
 も報道機関も、とりわけ陸軍に対しては一貫して厳しい目を向けていた。国際的な潮流
 にもなっていた「軍縮」への動きは、日本国内でも同様であった。軍に対する民衆の視
 線は、総じて辛辣であった。「軍人蔑視」の世相である。
・しかし、日本を取り巻く周囲の情勢に目を配れば、安全保障上の不安定要素は取り除か
 れるどころか、日に日に増しているような状況であった。ことに、革命を経てロシアか
 ら変遷したソビエト社会主義共和国連邦の脅威は、看過できない局面にあった。にもか
 かわらず、大規模な軍縮へと舵を切る日本の潮流に、永田は深い憂慮を覚えていた。即
 ち、永田が主唱していた「総動員体制の確立」「国民と共にある陸軍」「軍民一致」と
 いった信条の数々は、いずれも世論の逆を行くものだったのである。
・しかし、これこそが「軍部独裁」ではなく「デモクラシー時代の軍隊のあるべき姿」で
 あると永田は定義していた。むしろ、「国防を一部の軍人だけが担う」という体制こそ、
 軍事力が暴走する危険性を内包するのであり、「国防は国民全体で行う」という国家の
 形が実は最も「民主的」なのだと永田は説くのである。
・戦後の日本社会において、安易な「平和主義」を鼓吹する層の中には、永世中立国であ
 るスイスの例を持ち出して国防を語る者が少なからずいる。しかし、実際のスイスは
 「非武装中立」ではない。
・現今のスイスは「有事の際には、焦土作戦も辞さない」という国家意志を明確に表明し
 ている。国民皆兵が国是であり、徴兵制度が採用されている。男性の大半が予備役軍人
 であるため、多くの家庭で自動小銃が管理されている。狭い国土の各所には、岩山をく
 りぬいて建設された軍事基地が張り巡らされ、国境地帯の橋やトンネルには、有事の際
 に国境を封鎖する目的から、解体処分用の爆薬を差し込む設備が整えられている。
・スイスは戦前から「非武装中立」ではなく、「武装中立」であったが、この国に駐在し
 た経験を持つ永田が、こうした姿に自らの理想を重ね合わせたとしても何ら不思議では
 ない。
・大正十二年九月一日、日本は未曾有の天災に見舞われた。関東大震災の発生である。災
 害救助のために急遽、陸軍の複数の部隊が被災地へと入ることになった。永田の派遣先
 は、神奈川県の横浜市だった。この震災の震源に近かった横浜市は甚大な被害を蒙って
 いた。石造や煉瓦造りの洋館が多かったこともあり、建物の崩壊によって多くの市民が
 圧死。
・大正十二年十月からは、永田は陸軍大学校の兵学教官も任された。永田はこの兵学教官
 時代、同校の改革に率先して取り組んだ。その改革とは、派閥の実質的な解消という点
 に尽きる。即ち、この後、旧長州藩である山口県出身の陸大への合格者が、激減してい
 くのである。「バーデン=バーデンの密約」以来、長州閥にある種の制限を加えること
 によって陸軍の派閥抗争を抑制しようという永田の意向は、こうして現実化したのであ
 った。この頃「バーデン=バーデンの密約」の仲間である小畑敏四郎や東條英機も同じく
 陸大の教官を務めており、彼らが互いに強力しながら実行した結果であったことは間違
 いないであろう。無論、こうした対応に「逆差別」の一面があったことも否定できない。
・大正十三年十二月には、永田は陸軍省軍務局軍事科高級課員に転補された。永田が配属
 された当時の軍務局長は、畑英太郎である。また、永田の直接の上司となる軍事課の課
 長には、杉山元がいた。
・大正十四年(1925年)五月には、その前年から陸軍大臣となっていた宇垣一成の主
 導の下、改めて大規模な軍縮が断行された。実に約三万四千人もの将兵が軍縮を離れた。
 但し、宇垣は単なる兵力の縮小を企図していた訳ではなく、人員を整理することによっ
 て生じた余剰の予算を利用し、軍の近代化を図ろうと考えていた。しかし、かような軍
 縮は、陸軍内に多くの不満と摩擦を生んだ。
 
総動員体制の構築を目指して
・「国家総動員体制」を整備するための一環として、永田が直接的に手掛けた仕事の一つ
 に「学校配属将校制度」がある。第一次世界大戦後、学校における教練の実施は、世界
 各国で積極的に導入が検討さえていた。軍から派遣された現役将校(配属将校)の指導
 のもと、学校でも軍事教練が行われることになった。
・このような光景は、現在では戦前日本の「軍国主義」を端的に象徴する一場面として語
 られることが多い。しかし、そのような見方は一面的でしかないと言える。欧米の帝国
 主義がアジアを蹂躙する時代背景の中で、高度な国防のために何が必要かであるかを真
 摯に考えた末の結果であるという側面を冷静に捉えなければ、歴史から学べる要点は大
 きく減じてしまう。
・大正十五年(1926年)七月には、宇垣陸相が新たに「整備局」を陸軍省内に設置す
 ることを閣議に請議。九月、同案は正式に正定された。永田は、この整備局の初代動員
 課長に座に就いた。
・永田は国内の自動車業界の発展を目的として、国産自動車の増産を積極的に促す体制を
 整えた。軍用トラックなどの国産化の推進を図ったのであった。 
・日本の自動車産業は、その揺籃期においてかかる軍部の指導があって発展を遂げた。こ
 れは、永田の大きな功績に一つと言えるであろう。現在に至る日本の自動車業界の世界
 的な隆盛の陰には、永田の存在があったのである。
・昭和二年(1927年)三月、永田は陸軍大佐に昇進。この前後の時期に陸軍内で存在
 感を示すようになったのが「二葉会」である。永田はその中心的な存在であった。永田
 の他にも、岡村寧次や小畑敏四郎、板垣征四郎、土肥原賢二といった陸士時代の同期生
 たちが、こぞって組織の中核を担っていた。会員数は総勢二十名ほどであった。
・また、昭和二年十一月頃には、鈴木貞一らによって「木曜会」という組織も発足。こち
 らは、二葉会の面々よりも、少し若い世代の幕僚たちの集団ということになる。もちら
 も会員数は二十名前後だった。著名なところでは、石原莞爾や村上啓作、根本博などが
 その成員である。
・二葉会と木曜会は敵対していた訳ではなく、むしろ協力関係にあった。永田や東條は木
 曜会にも入会し、幾度か会合に顔を出している。だが、それは同時に、昭和陸軍の新た
 な派閥形成の母体にもなった。
・昭和三年(1928年)一月には、石原が「我が国防方針」と題した報告を行った。石
 原は「日米が両横綱となり、世界最後の戦争となる」「この世界最終戦争に日本が勝つ
 ためには、全支那を利用しなければならない」といった構想を語った。
・そんな石原が語る「我が国防方針」の観念的な内容に、永田は呆れ気味だったという。
 過激な主張を高唱する石原の態度は、永田の目には違和感を以って映った。二人の間に
 は、微妙な温度差があったのである。
・昭和三年(1928年)五月、中国大陸において、済南事件が勃発。北伐中の蒋介石
 いる国民改革軍が、済南の地で日本人居留民を襲撃した。結局、十二名もの日本人居留
 民が虐殺された。
・この事態を受け、日本軍は国民革命軍への攻撃を開始。日本軍は済南の地を占領した。
 この事件によって、日中両国間の国民感情は極度に悪化した。
・続いて昭和三年六月には、張作霖爆殺事件が勃発。奉天郊外で、軍閥の指導者である張
 作霖の乗った列車が、何者かによって爆破されたのである。日本の関東軍は元々、張作
 霖を支援していた。しかし、関東軍と張作霖との間には次第に意見の齟齬が生じるよう
 になり、やがて両者の溝は決定的に深いものとなった。結句、張作霖を排除するため、
 関東軍内部の強硬派が仕掛けた謀略が、この爆殺事件の内実だったとされている。この
 事件の首謀者とされた河本大作が、二葉会の会員であった。
・その後、河本は関東軍の参謀となった。爆殺事件後、河本は軍法会議にかけられること
 なく、予備役に編入されただけで、厳しい追及は行われなかった。このことが、陸軍内
 の悪しき前例となったことは否定しようがない。
・昭和四年(1929年)五月、二葉会と木曜会が合併となり、新たに「一夕会」が発足。
 永田もこの会の主要メンバーとして名を連ねた。会員の数は、四十名ほどである。
・そして、日本は「昭和恐慌」を迎える。
・永田が配属された歩兵第三連隊の上級機関は第一師団であるが、昭和四年七月の人事異
 動により、真崎甚三郎が師団長として赴任してきた。
・昭和五年(1930年)四月、私生活の面において、痛恨の極みと言える悲劇が起きた。
 妻・文子を病で失ったのである。この時、長男・鉄城は十九歳、長女・松子は十七歳で
 ある。 
・昭和五年十一月、永田は朝鮮半島と満州、北支那といった地域を巡察。この視察旅行を
 通じ、永田は中国における反日・排日運動の激化を目の当たりにした。このような抗日
 運動によって在留邦人が危険に晒されるような事態はもちろんのこと、過激な排外主義
 が満州まで及ぶ可能性について、永田は強い懸念を示した。また、永田は関東軍の兵力
 が不十分であることを痛感。関東軍が日本の権益を守備するための重要な兵力であるに
 も拘わらず、その大事な部隊の戦力が慢性的に不足していることに永田は驚いたのであ
 る。奉天付近において、支那軍は関東軍の十倍以上もの兵力を有していた。
・だが、この視察旅行中に行われた関東軍幹部たちとの会談の席では、関東軍上層部と永
 田との間に、大きな意見の隔たりがあることも明白となった。板垣征四郎や石原莞爾ら
 は、「満蒙問題」の解決のためには、中国への武力行使もやむなし」という意見を繰り
 返したが、永田はこれに反対した。
・永田ももちろん、もし中国軍から攻撃があった場合、毅然と応戦すべき旨も認めている。
 しかし、それでも「こちらから安易に手を出すような武力衝突」を引き起こすことは、
 「日本に何の利益ももたらさない」というのが永田の見解であった。そんな永田を関東
 軍幹部は、「軟弱者」と揶揄したという。
・永田は、蒋介石が率いる中国国民党の動向に一定の期待を寄せていた。国民党と協力し
 ながら満蒙問題に対処し、日中関係を漸進的に改善していく道を思案していたのである。
・日本側が抱く「中国大陸での最悪のシナリオ」は、何と言っても「共産化」である。そ
 ういった意味でも、永田は中国国民党とは「防共」という点において提携する必要性が
 あると考えていたのである。
・昭和六年(1931年)三月、日本陸軍に激震が走った。陸軍大臣の宇垣一成を首相に
 担ぐことを目的とした軍事クーデターの計画が発覚したのである。この「三月事件」を
 首謀したのは、陸軍内で「桜会」を組織していた橋本欣五郎や、右翼の大物である大川
 周明
といった人物だった。
・しかし、この画策は、陸軍省の上層部の耳に事前に漏れた。橋本と大川は、陸軍省軍務
 局長の小磯国昭にも内密に話を持ちかけ、軍隊側の強力を求めていた。小磯は困惑した。
 そして、小磯は直属の部下である軍事課長の永田に、それとなく意見を求めることにし
 たのである。この時の二人のやりとりが、永田の生涯を決定付ける大きな要因の一つと
 なる。
・結局、「三月事件」は、クーデター計画に当初は賛意をしめしていた宇垣自身が、途中
 で翻意して拒絶の態度を明らかにしたことによって未遂に終わった。
・前年に妻を亡くして以来、永田の元には各方面から縁談が絶えなかった。気鋭の中堅幕
 僚として名を馳せていた永田は、昼夜を問わず多忙を極める毎日を送っていた。そうい
 った意味においても、生活を支えてくれる女性が必要だった。昭和六年六月、永田は再
 婚した。お相手は、宮内省大膳職である有川作次郎の娘・重子である。永田はこの時、
 四十七歳、重子は二十九歳であった。
・石原らが間のなく引き起こす「満州事変」について、永田がその計画を事前に把握して
 いたのか否かについては議論がある。だが、永田が関東軍に自重を促し、安直な武力の
 行使に慎重であったことは明らかである。永田と石原は同じ一夕会系幕僚であったが、
 満蒙問題に関する態度には相違があった。二人は共に、日本という国家が欧米列強に比
 して、「持たざる国」であることを深く憂慮していた。軍事力はもちろん、経済力や資
 源力に関しても、その差は歴然であるという危機感は、両者に共通する意識があった。
 石原は日本を「持たざる国」から脱却させるため、満州の権益の確保を重視したのが、
 この点では永田も同じであった。
・だが、目的を達するために用いようとした手段には、大きな違いがあった。石原は「武
 力行使」に訴えても、日本を「持てる国」にしようとした。そうしなければ、日本は滅
 びてしまうという、天才ならではの一種の達観である。一方の永田は、あくまでも「総
 動員体制の構築」によって、日本を「持てる国」へと漸進的に近付けようと考えていた。
・そんな永田であるが、彼のような意見は、陸軍省において少数派だった訳ではない。む
 しろ、当時の陸軍省内では「慎重派」が多勢を占めていた。
・しかし、当の関東軍の視点からすると、「東京の連中は現場を分かっていない」「机上
 の空論をいつまでも続けている」ということになる。
・確かに、中国の排日運動には全く歯止めがかからず、在留邦人が殺害される事件も頻繁
 に起きていた。六月下旬には、中村震太郎大尉が満州北部での兵要地調査の最中に、中
 国軍によって射殺されるという事件が発生。いわゆる「中村大尉事件」である。
・昭和六年八月、山脇正隆が五課長会から去り、新たに東條英機、が入会。さらに、今村
 均
磯谷廉介の二人が新に加わり、こうして五課長会は「七課長会議」へと発展した。
・今村は、宮城県仙台市の出身。年齢は永田の二つ下である。陸大は首席で卒業している。
 今村は後の大東亜戦争の際に、第十六軍司令官として「蘭印作戦」を指揮したことで知
 られる。オランダ領東インドの攻略に成功し、緩やかな軍政を敷いたことは、現地の人
 々から高く支持された。
・実は、今村の能力を誰よりも買っていたのが永田だった。そもそも、今村を参謀本部作
 戦課長の重職に推したのも、永田であったとされる。
・一方、関東軍の石原や板垣らは、満州での独自の軍事行動の準備を秘密裏に進めていた。
 だが、石原らが不穏な計画を有しているという情報の断片を、政府は掴んでいた。外相
 の幣原喜重郎は、陸相の南次郎にこの点について閣議で問い質した。これを受けて、南
 陸相は「止め役」として、参謀本部から建川美次を満州に派遣することを指示した。
・昭和天皇も、関東軍の動向に深い憂慮を示した。だが、政府の方針を知った「桜会」の
 橋本欣五郎は、関東軍に密電を送り、「計画の発覚」と「建川の渡満」を伝えた。橋本
 は石原らと内通していたのである。橋本からの打電を受け取った石原たちは、「計画の
 前倒し」を決意。
 
満州事変への対処
・昭和六年(1931年)九月、柳条湖附近の満鉄の線路が爆破された。石原らグループ
 が、遂に計画を実行に移した瞬間である。石原らはこの爆破事件を自作自演した上で、
 これを「中国側の犯行」と主張した。「満州事変」の始まりである。
・東京の陸軍中央は、この事変の勃発が関東軍の自作に端を発したものであることを、未
 だ正確に把握できていなかった。よって「関東軍への兵力増派」を閣議に提議すること
 などが定められた。
・朝鮮軍が独断で関東軍の増援に向かっているとの報告が入り、陸軍中央は慌ててこれを
 制止。海外派兵の決定に必要が内閣の承認などの手続きが、全く無視されていたためで
 ある。
・「事件が関東軍によって引き起こされた」という可能性を示唆する奉天総領事からの電
 文が、幣原外相より提示された。その結果、増派は見送られ、代わりに「不拡大方針」
 が取り決められた。
・永田が課長を務める軍務局軍事課は「時局対策」を策定。その内容は、「不拡大方針自
 体には反対しない」が、かと言って「(既に展開している)軍を元の状態に戻すことは
 不可」として、「満蒙問題の根本的禍根を除去することが重要」「満蒙問題の解決を最
 後の決意をもって内閣に迫るべき」と主張するものであった。
・永田は、関東軍の動きに一定の制限を加える必要を認めながらも、事変が起きてしまっ
 た以上、現実の軍の動向を冷静に踏まえつつ、向後の展開を丁寧に検討していくしかな
 いという判断を下したのである。ここで言う「一定の制限」というのは、例えば「満州
 以外には絶対に兵を使わない」といった内容を意味していた。
・だが、陸軍中央では様々な意見が対立し、明確な指針を敏速に打ち出すことは難しかっ
 た。その間にも、関東軍は更なる進軍を続け、吉林省に侵攻。これに応じ、朝鮮軍が独
 断で国境を越えて、満州へと進軍した。朝鮮軍の司令官は、林銑十郎である。
・永田を含む七課長会議が、「時局対策案」を起草。「満州事変解決に関する方針」とし
 て発表。その概要は「満蒙に独立政権を設定する」ことによる事態の収拾を主張するも
 のであった。ここで言う「独立政権の設定」とは、あくまでも「地方政権の樹立」のこ
 とであって、「独立国の建国」を意味するものではない。
・しかし、関東軍は、秘密裏に「満蒙問題解決案」を作成。「満蒙を独立国として我が保
 護の下に置き、在満蒙各民族の平等なる発展を期す」という内容であった。
・昭和六年十月、橋本欣五郎を中心とする勢力によるクーデター計画が、再び発覚した。
 彼らは、内閣が満州事変の不拡大方針を定めたことに強く反撥し、クーデターの実行を
 決断。結局、クーデターは今度も未遂に終わったが、その計画の規模は「三月事件」と
 比べるべくもないほど大規模なものであった。これが後に言う「十月事件」である。日
 本陸軍史上、最大級のクーデター計画であった。
・この十月事件を知った永田は、首謀者たちの行動を強く批判。永田はクーデターという
 非合法の手段を断じて認めなかった。 
・永田は、首謀者たちへの「極刑」を主張した。しかし、橋本と懇意であった石原は、厳
 罰に反対。結局、橋本は「重謹慎二十日」という軽い処分で済まされることになった。
 陸軍の倫理性と遵法精神は、こうして次第に瓦解していくことになる。
・昭和六年十二月、閣内不一致を理由に若槻内閣は総辞職。犬養毅内閣が新たに発足した。
 政権与党も民政党から政友会へと移行。つまり、政権交代である。犬養内閣の陸軍大臣
 には、荒木貞夫が任じられた。
・昭和七年(1932年)一月、関東軍は錦州を占領。
・永田はこの錦州占領をいよいよ限界として、関東軍のこれ以上の進軍を断固として制止
 しようとした。結果、参謀本部に働きかけ、天皇からの勅語を仰ぐ形でこの進軍を止め
 させた。
・だが、上海事変(第一次)が勃発。日中両軍が、共同租界の周辺地域で武力衝突した。
 事変が上海に飛び火したのである。
・昭和七年三月、満州国が建国される。即ち、関東軍の主導によって、満州の地は中華民
 国からの独立を宣言したのであった。つまり、満州を巡る趨勢は、石原や板垣を枢要と
 する関東軍が思い描いた通りの展開となったのである。
・昭和七年四月、永田は陸軍少将に昇進。参謀本部第二部長に栄転となった。
・参謀本部内で「作戦」「兵站」「動員」などを担当するのが第一部であり、永田が配属
 された第二部は「情報」「宣伝」「謀略」を専門に扱う部署である。
・昭和七年四月二十九の天長節には、尹奉吉という名の朝鮮人が、記念式典の式台に向か
 って爆弾を投げつけるというテロ事件が勃発した。これにより、植田謙吉重光葵
 村吉三郎
といった多くの日本側要人が負傷。
・このテロの実行犯である尹奉吉は現在、韓国では「義士」「民族の英雄」として、尊崇
 の対象となっている。
・昭和七年五月には、日本の近代史に名を残す一大事件が起きた。「五・一五事件」の勃
 発である。武装した海軍の青年将校らが、首相官邸を襲撃。時の犬養首相が、青年将校
 らの手によって暗殺された。この反乱事件において、陸軍側の関与者はなかった。 
・暗殺された犬養に変わって首相に就いたのは、海軍大将で後備役だった斎藤実である。
 陸相は荒木が留任した。
・五・一五事件の容疑者たちは軍法会議にかけられたが、全国的な助命嘆願運動が発生。
 のみならず、荒木陸相も容疑者たちに同情的な態度を示したため、将校たちへの判決は
 総じて軽いものとなった。 
・満州国建国後、国際連盟は直ちに「リットン調査団」を派遣し、現地調査を進めていた。
・永田個人としては、国際連盟という組織を必ずしも評価していない。国際連盟とは欧米
 の先進国に都合の良い組織でしかないと永田は看破している。しかし、だからと言って
 現実問題としてこの組織を軽視すべきでないことも、永田は充分に認識していた。
・そんな永田が、本来は満州国の建国に否定的だった。彼の理想は「地方政権の樹立」で
 あった。しかし、現実に建国が宣言されてしまった以上、この新国家を適切に育成して
 いくことが何よりも肝要だと永田は判断した。
・リットン調査団が、報告書を通達したのは昭和七年十月のことである。その内容の要点
 としては、「日本の満州における特殊権益は認める」としたものの、「満州事変は正当
 防衛には当たらない」として、「満州を中国に返した上で、日本を含めた外国人顧問の
 指導下で、自治政府を樹立すべき」という論旨であった。このような内容は、永田がか
 ねてより主張していた「独立国家の建国ではなく、地方政権の樹立」という立場と、ほ
 ぼ一致する。永田としては、国際連盟と「折り合い」を付けることは、充分に可能だと
 判じたに違いない。
・関東軍はなおも独自に、熱河省への作戦計画を進めていた。熱河省とは、満州と中国本
 土との間に位置する地域で、日本にとっては戦略上の要衝とも言うべき一帯であった。
 しかし、これ以上の進軍は、日本にとって致命的な信頼の失墜を招くことに繋がる。永
 田は関東軍に対し、陸軍中央の総意として「自制」を説いた。だが、関東軍は既に「熱
 河経略平定案」なる計画を、密かに取りまとめていたのである。
 
派閥抗争
・昭和七年の後半くらいから、陸軍内において「統制派」と「皇道派」の対立が顕在化し
 てくる。
・統制派は「陸軍主流派」と言い換えても良いが、その中心にいたのが永田である。統制
 派という名前の由来は、「軍内の統制・規律の尊重」という彼等の主張に起因する・
・一方の皇道派をまとめていたのは荒木貞夫、真崎甚三郎、小畑敏四郎といった面々であ
 る。皇道派という名前は、荒木が日本軍を「皇軍」と呼んだことに由来する。彼らは、
 天皇新政による抜本的な国家改造(昭和維新)を主張した。
・このような両派の齟齬を生んだ具体的な要因の一つが、対ソ戦に関しての観点の相違で
 ある。皇道派はソ連を強く警戒した。何故なら、共産主義勢力が「天皇制打倒」を掲げ
 ていたためである。そして、「ソ連は必ず日本に戦争を仕掛けてくる」として、「ソ連
 の兵力が整う前に、速戦即決による限定的な短期戦によって一撃を加えるべき」と主張
 した。
・一方の永田は「ソ連の国状を冷静に分析すれば、戦争の準備が整うのはまだ先」と解し
 ていた。永田はその上で、日本陸軍が優先すべきは「ソ連との一戦」ではなく、「軍と
 しての自らの体制を整えること」と確言したのである。永田は、もし対ソ連戦となった
 場合、その衝突は局地戦では済まず、必ず「総力戦」になると見据えていた。併せて、
 対外的にはソ連よりも中国との問題の解消を優先すべきことを永田は強調。満州国を巡
 る中国との軋轢の解消なくして、対ソ戦などもってのほかというのが彼の持論であった。
・両派の対立が深まる中、時の陸軍大臣である荒木は、「対ソ強硬路線」を信条とし、小
 畑たちに近い態度を示した。 
・組織論として、とある集団に一定の色分けが生じるのは必然である。上官となった者が、
 自分と思想的に近い人物を部下として脇に置くことは、仕事の効率化を図る上でも当然
 の帰趨と言える。そして、この色分けがあまりに過剰な形で尖鋭化してしまったところ
 に、昭和陸軍の悲劇性がある。
・昭和八年(1933年)二月、満州国は熱河省への討伐戦を決定。関東軍は日満共同防
 衛の立場から、この戦闘に参加する声明を発表した。かくして「熱河作戦」の火蓋が切
 られたのである。
・日満連合軍は熱河省へと進軍。承徳を占領し、万里の長城まで達した。その後、中国側
 の激しい抵抗に対処するため、日本軍は第六師団や第八師団の主力を派兵した。こうし
 て、熱河省での戦闘は、泥沼化の様相を呈していく。
・昭和八年三月に日本は国際連盟を正式に脱退。リットン調査団の報告が賛成多数で可決
 されたことがその要因であった。
・国際連盟の提唱国であるアメリカは結局、発足時から不参加。ロシア革命後のソ連も当
 時は参加していなかった。ブラジルは日本の七年も前に早くも脱退。日本の脱退後はす
 ぐにドイツが続き、その四年後にはイタリアも同様の道を辿ることになる。
・陸相の荒木は、皇道派の理論的な指導者となっていた。小畑は、そんな荒木の「私設参
 謀長」と揶揄されるほどで、二人の間の信頼関係には、揺るぎのないものがあった。
・他方、外相の広田毅や、蔵相の高橋是清といった者たちは、永田の見解に近かった。
・永田の信念は固い。皇道派の言動を永田は事あるごとに批判し、過激な国家革新運動と、
 ソ連に対する「安易な開戦」を強く戒めた。
・永田は「将来の戦争は世界戦争になりやすい」「その惨禍は想像にあまりある」「勝利
 者の利益は、払った犠牲に及ぶべくもない」と今後の戦争の形を予測。「国民は戦争に
 よる利益を求めてはならない」「最後まで外交工作によって極力、戦争を避けなければ
 ならない」と持論を披瀝した。しかし、そんな永田のもとには、皇道派からの誹謗中傷
 の声が集中するようになった。
・昭和八年八月、永田は参謀本部第二部長から歩兵第一旅団長に転補。「陸軍中央の頭脳」
 から離れることを意味するこの人事は、永田にとっては歯痒さの残るものであった。こ
 の転属は、派閥抗争の激化を回避しようという上層部の意図による決定であったと言わ
 れている。
・だが、それは小畑も同じであった。小畑も参謀本部第三部長から近衛歩兵第一旅団長に
 転出となったのである。 
・昭和九年(1934年)一月、荒木貞夫が肺炎による体調の悪化を理由に、陸相を辞任。
 しかし、実際には予算に関する自らの主張が充分に反映されなかったことが、辞職要因
 であった。陸相の後任には、林銑十郎が選ばれた。
・林は、皇道派に一定の理解を示した時期もあったが、その後は統制派との距離を縮めた。 
・皇道派の枢要であった荒木が陸相の座を去り、その後任に統制派に近い林が就いたこと
 によって、陸軍内部の力学はまた新たな段階を迎えることになった。即ち、皇道派の失
 速と、統制派の盛り返しである。
・永田は昭和九年三月に陸軍省軍務局長に新補。
・だが、その一方で、教育総監の職には真崎甚三郎が就いていた。当時の真崎は、皇道派
 の青年将校たちから多くの指示を集める存在であった。
・昭和九年十月、「国防の本義と其強化の提唱」と題された一冊のパンフレットが国内に
 広く配布された。通称「陸パン」と呼ばれたこの冊子は、「国防国家建設の必要性」
 「将来の戦争のどのように備えるか」といった論点を、分かりやすい形で国民に訴え掛
 ける内容であった。このパンフレットの発案者が、誰あろう永田である。
・しかし、政界や各種メディアからは、強い反対の声が寄せられた。新聞各紙は「陸軍の
 政治関与」といった見出しの紙面を相次いで掲載。陸軍を鋭く非難した。世論も陸軍に
 対して冷たかった。
・このような「国防アレルギー」は、戦後日本の一面にも通底する部分がある。「国防」
 を遠ざければ「平和」が実現すると安易に考える層というのは、いつの世にも存在する。
・このパンフレットには、国防政策の一つとして「満州国の強化育成」という内容も明記
 されていたが、この部分に皇道派は反駁した。皇道派の主張は「満州国の強化育成」よ
 りも「対ソ戦」の優先である。
・昭和九年十一月には「陸軍士官学校事件」が勃発。「皇道派の青年将校たちが、陸軍士
 官学校の生徒たちを煽動して、クーデターの計画を画策した」という事件である。皇道
 派の磯部浅一村中孝次らが、事件の容疑者として逮捕された。
・同事件の真相には諸説あるが、実は皇道派を排除するための陰謀であったという説が根
 強い。事件をでっちあげたのは、統制派の辻政信であったと言われている。
・陸軍士官学校事件の後、「事件を捏造した辻の背後には、永田がいる」という言説が、
 皇道派の青年将校たちの間に広間まった。実際には、永田が同事件に関わったことを実
 証するに足る一次史料など、現在に至るまで一片も発見されていない。だが、この風説
 により、多くの青年将校たちが永田に深い怨恨を抱くようになった。
・永田が局長を務める軍務局は、軍の予算編成について最も重要な役割を担う部局である。
 永田は大蔵省との折衝は勿論、他の関係省庁とも緊密に連絡を取り合い、豊富な人脈を
 活かしながら、周囲が驚くほどスムーズに交渉を進めていった。
・永田は「兵器の近代化」という懸案と相まって、最新の科学にも大変な興味を示した。
 永田は幼馴染みである岩波茂雄を仲介者として、物理学者の寺田寅彦とも親しく接した。
・昭和十年二月、貴族院の本会議の席で、菊池武夫ら複数の議員が、「天皇機関説」を反
 逆思想であるとして糾弾する事態が発生した。天皇機関説とは、東京帝国大学名誉教授
 の美濃部達吉らが唱えていた一つの憲法学説である。その概論は、「統治権の主体は法
 人たる国家にある」とするもので、天皇はその「最高機関」であるという理論である。
・これに対し、「統治権の主体は天皇である」とするのが「天皇主権説」であり、この立
 場においては、「天皇大権の神権的絶対性」が重ねて強調される。
・昭和十年三月、衆議院は天皇機関説を否定する「国体明徴決議」を満場一致で可決。
・皇道派の枢要でもあった真崎甚三郎は、「天皇機関説は国体に反する」という立場を表
 明。 
・一方の永田は、天皇機関説に関して、「反逆思想とまでは言えない」という意見だった。
・昭和十年五月、永田は陸軍大臣の林銑十郎らと共に、満州へ旅行に発った。この視察旅
 行中のある夜、関東軍の幹部たちとの宴席が催された。この時、永田と関東軍幹部との
 間で激しい口論が繰り広げられた。永田との激論になった相手というのは、「陸軍きっ
 ての支那通」と称された佐々木到一であった。「あわや殴り合い」になったという。
・満州国を巡る問題は以降、永田の思うようには進展しなかった。それどころか、事もあ
 ろうに永田のこの視旅行中に、関東軍が新たな軍事作戦へと踏み切ったのである。華北
 地方では反日的な武装勢力の手による凶悪なテロ事件が相次いでいたが、これに対して
 関東軍が大規模な討伐戦を開始。
・関東軍は陸軍中央の許可を仰ぐことなく進軍した。陸軍中央を無視した関東軍の独走は、
 陸軍大臣と軍務局長の渡満中でさえも抑えることができなかったのである。
 
揺れる陸軍
・昭和十年七月、陸軍大臣の林銑十郎は、教育総監の真崎甚三郎に辞職を迫った。その主
 な理由としては、「真崎が党閥の首脳である」という点が挙げられた。要するに、皇道
 派の中心人物である真崎を、軍の中枢から退けようとしたのである。皇道派が掲げる過
 激な革新運動は、陸軍中央として看過できない状況にあった。
・昭和十年七月に、陸軍の三長官による会議が行われた。三長官とは、林銑十郎(陸軍大
 臣)、閉院宮載仁新王(参謀総長)、真崎甚三郎(教育総監)の三名である。真崎は、
 「永田メモ」の存在を暴露し、「永田は三月事件に関与していた」と断言した。
・だが、この真崎の発言を参謀総長の閉院宮が制した。実は、閉院宮は以前から真崎の存
 在を快く思っていなかった。思わぬ叱責に驚嘆した真崎は慌てて弁明したが、閉院宮は、
 更に続けた。「真崎、今や軍の総意は貴職の辞任を強く望んでおる」
 こうして、この席において真崎の更迭が決定したのである。教育総監の後任には、渡辺
 錠太郎
の名前が挙がった。
・この更迭の更迭人事を知った皇道派の青年将校たちは、怒りに身を震わせた。そして、
 「この更迭人事を操作したのは永田である」と一方的に決めつけたのである。
・だが、実相は大きく異なっていた。真崎に強く辞職を迫ったのは、陸軍大臣の林と、参
 謀総長の閉院宮であった。 
・真崎の更迭人事は、新聞なのでも大きく報じられた。そのような紙面は、真崎を信奉す
 る皇道派将校たちの不満を増幅させた。その中の一人に、相沢三郎の姿があった。
・相沢は、明治二十二年(1889年)福島県白河町(現・白河市)にて生を享けた。相
 沢家は元々、仙台藩士の家系で、相沢は仙台陸軍地方幼年学校に進んだが、同校の一年
 先輩に石原莞爾がいた。相沢は当時から、石原に畏敬の念を抱いていたという。相沢は
 陸軍士官学校では永田の六期後輩に当たる。同期生には、後の企画院総裁である鈴木貞
 一
がいた。
・どこか古武士然とした相沢に胸中にはったのは、「国家改造」への熱き理想だった。農
 村の窮乏などに心を痛めていた相沢は、昭和維新の断行こそが日本を救う唯一の道だと
 信じていた。彼の思想の根底には「尊王絶対主義」がある。絶対的存在である天皇陛下
 の意志を、周囲の側近たちが正確に国民に伝えていないことが、現状の日本が抱える諸
 悪の根源であると彼は判じていた。
・相沢は昭和八年八月から、広島県福山市に駐留する歩兵第四十一連隊に赴任していた。
 この時の連隊長が、樋口季一郎である。樋口は後に、ナチスの迫害から満州まで逃げ延
 びてきたユダヤ人難民たちに独断でビザを発行。多数の罪なきユダヤ人の命を救った
 (オトポール事件)。日本人によるユダヤ人救出劇と言えば、外交官だった杉原千畝
 有名だが、陸軍にも同様の話譚が存在したのである。樋口はその後、アッツ島のキスカ
 島の戦闘
を指揮。終戦後にソ連軍が侵略してきた折には、占守島の戦いによって敵軍の
 更なる南下を食い止めた。もし、この奮戦がなければ、北海道がソ連軍に占領されてい
 た蓋然性が高い。
・相沢が敬慕の情を寄せた相手の一人に北一輝がいる。相沢は、北の「日本改造法案大綱」
 に心酔し切っていた。同著は「国家改造」に関する論文であるが、具体的には「華族制
 の廃止」「農地改革」「普通選挙」などの断行によって、日本を根本から改めるという
 内容であった。北の理念の土壌には国家社会主義がある。彼の著作は皇道派の青年将校
 たちの理論的な支柱となった。
・当時、陸軍内でたびたび話題になったのが「怪文書」の存在である。これら怪文書は、
 「昭和維新」を標榜する青年将校たちの「宣伝戦」によるものであった。彼らは自分た
 ちの主張を並べた文書を次々と作成し、各所に配布したのである。そのような怪文書の
 中には、永田を「逆賊」として断罪するものが少なくなかった。
・昭和十年七月、相沢はこの日の夕刊の記事によって、真崎が教育総監の職を更迭された
 ことを知った。相沢はこれまでに何度か真崎と面会したことがあり、彼の信条にすっか
 り傾倒していた。
・翌日、相沢は東京を目指した。相沢は永田に対して辞職、あるいは自決を促すつもりで
 あり、これらの要求が聞き入れられない場合には「太刀を浴びせる」ことも考えていた。
・相沢はまず、大臣秘書官である有末精三の元を訪れた。二人は仙台陸軍地方幼年学校時
 代からの友人で、青森歩兵第五連隊では共に大隊長を務めた間柄であった。
・その夜、相沢は同志である西田税の自宅を訪問した。西田は後に「二・二六事件」の首
 謀者として北と共に逮捕され、刑死するという人生を辿ることになる。
・昭和十年七月、「粛軍に関する意見書」と題された怪文書が、大量に出回った。この意
 見書を作成したのは、磯部浅一と村中孝次である。磯部と村中と言えば、かつて「陸軍
 士官学校事件」に関与したとして、一方的に逮捕された皇道派将校である。二人は逮捕
 後、陸軍衛戍刑務所に勾留されていた。その後、二人は釈放されて不起訴となったもの
 の、結局、六カ月の停職処分を受けていた。その意見書の中身は、急進的な国家の革新
 を訴える概要と共に、現況の軍上層部を激しく批判する過激な骨子となっていた。
・続けざまに「軍閥重臣閥の大逆不逞」と題された怪文書が配布された。同文書には、
 「永田は皇軍を私兵化している」「三月事件、十月事件、五・一五事件は、全て永田の
 陰謀」 といった主張が記されていた。のみならず、そこには「永田は財閥から資金を
 受けて、豪奢な生活をしている」といった内容まで列記さえていたのである。陸軍内に
 おいて、永田の虚像が一人歩きしていた。
・一般論として、権力を有すれば有するほど、組織内外における敵対者は必然的に多くな
 る。それは、その人物が辣腕であればなおさらという面もあろう、永田の場合も、その
 例に漏れない。
・皇道派の青年将校たちの眼からすると、永田は「腐敗した軍中央の象徴」のように映っ
 た。永田を排斥しなければ「昭和維新」は成功しない。永田という存在は、国家の革新
 に熱中する青年将校たちが抱く増悪の焦点となっていた。
・昭和十年八月、相沢の住む福山の官舎を一人の友人が訪れた。第十二連隊の小川三郎で
 ある。それは、磯部と村中が作成した「粛軍に関する意見書」であった。こうしてこの
 怪文書は、遂に相沢の目に触れることとなったのである。そして、小川は、「磯部と村
 中は、この意見書を配布した後、免官の処分を受けた」という事実を合わせて伝えた。
・この話を聞いた相沢は、憤怒に震えた。相沢はこの前後、他にも幾つかの「怪文書」に
 目を通していたという。そんな相沢は、胸中で一つの重大なる結論を導き出した。即ち、
 「永田暗殺」への決断である。
 
暗殺
・昭和十年(1935年)八月、この時、永田は五十一歳、一方の相沢は四十五歳であっ
 た。
・軍務局長用の自らの椅子に腰かけた永田は、新見憲兵大佐との協議を続けていた。やが
 て、同席していた兵務課長の山田長三郎が、軍事課長の橋本群を呼ぶために部屋から出
 て行った。そこに案内もなく、忽然と入室してきた一人の男がいた。相沢三郎である。
・部屋の入口にあった衝立の背後から姿を現した相沢は、無言のまま刀を鞘から抜いた。
 その日本刀は江戸寛文年間の仙台において名高い刀匠として称揚された河内守藤原国次
 の作によるもので、相沢家に伝わる名刀であった。
・相沢の様子に気付いた永田は、瞬時に回転椅子から立ち上がり、二、三歩下がって自身
 の右方へと体を逃がそうとしたが、相手の相沢は剣道の達人である。相沢の刀は永田の
 動きを的確に追跡。そして、黙したまま背部より斬りかかる形となった。
・永田の背中を刃が掠めた。背の低い新見は、長身の相沢の身体に咄嗟に組み付き、羽交
 い締めにして 何とかそれ以上の行動を制止しようと試みた。しかし、新見の身体は敢
 え無く振り払われ、そのまま左腕を斬りつけられた。
・永田は尚も懸命に机を迂回して逃げようとしたが、相沢はこれを許さない。それでも永
 田は、隣室の軍事課長室に繋がる扉付近まで移動。永田なノブを握ってこれを廻そうと
 したが、鍵が掛かっていたか、扉はどうしても開かなかった。そんな永田に、相沢の刀
 が無情にも追い付く。鋭利な刃が、永田の左背部を強く突いた。鋒は永田の肉体を貫き、
 そのまま扉に突き刺さった。相沢が永田の身体から刀を引き抜くと、大量の血液が周囲
 に吹き出した。
・深い傷を負った永田であったが、彼はそれでも部屋の出入口に向かって、歩を進めよう
 とした。相沢はその姿を、下段の構えで暫く見据えていた。永田は数歩ばかり歩いたと
 ころで、頭部から床に倒れ込んだ。応接用の丸机の脇の辺りである。倒れ込んだ拍子に、
 椅子が大きく飛んだ。
・相沢は永田の身体を蹴飛ばして仰向きに反転させた後、左こめかみと右頸部の辺りに連
 続してとどめの太刀を浴びせた。相沢は、そのまま現場を去った。
・左腕に重症を負った憲兵大佐の新見だが、彼は傷付いた身体で軍事課の課員室へと急い
 だ。新見は洗い息のあま、「軍務局長が大事だ」と懸命に叫んだ。
・軍事課高級課員であった武藤彰を先頭にして、課員たちは軍務局長室の中へとなだれ込
 んだ。そこには、思いもよらぬ光景が広がっていた。
・押っ取り刀で現場に駆け付けた者たちの中には、有末清三の姿もあった。有末と言えば、
 前月に上京してきた相沢を、永田に仲介して引き合わせた人物である。有末は、現場に
 一つの軍帽が落ちていることに気が付いた。不審に思った有末がその軍帽を手に取って
 確認すると、そこに「相沢」という文字の縫い取りを発見することができた。
・実はこの事件の直前、永田のもとには一つの吉報が届いていた。長女である松子の婚約
 である。亡き前妻との間の愛娘の嫁入りを、永田は手放しで喜んでいた。
・暗殺現場となった軍務局長室を出た相沢は、刀を鞘に納めながら廊下を歩き、山岡のい
 る警備局長室へと戻った。そして、相沢は肩で息をしながら、「逆賊永田に天誅を加え
 てきた」と発したという。
・相沢は二人の憲兵に両脇を固められ、待機している憲兵隊の車へと向かうことになった。
 その途中、階段を降りている際に、「「落ち着け、落ち着け!静かにせにゃいかんぞ」
 と叫ぶ声が聞えた。声の主は、山下奉文だった。当時は陸軍少将で、軍事調査部長の任
 にあった山下だが、彼は皇道派であった。後の大東亜戦争の際には「マレーの虎」と呼
 ばれることになる山下も、この現場に居合わせていたのである。
・永田の幼馴染みである気象学者の藤原咲平は、事件の発生を知って渋谷の永田の自宅に
 駆け付けた。
・久里浜に悲報がもたらされたのは、永田の妻・重子が三人の子どもを連れて海岸を散歩
 している最中であった。
・福山にいた相沢の妻・よね子が事件の発生を知ったのは、新聞の号外によってであった。
 記事を一読して驚愕したよね子は、連隊長である樋口季一郎の家に駆け込んだ。樋口は
 既に新たな赴任先である満州に向かって出立していたため、留守宅にいた家族が対応し
 た。よね子は樋口家の玄関にへなへなになって駆けこんで「永田軍務局長を刺したのは、
 家の主人に違いありませんわ。奥様どうしましょう!」と言って泣き崩れたという。
・陸軍の中枢部で白昼に起きたこの暗殺事件は、日本国民の心にも深刻な暗い影を落とし
 た「国民に信頼される陸軍」「国民と共にある陸軍」を目指した永田であったが、皮肉
 にも彼の死が、国民の陸軍への信頼を大きく失墜させる結果を招いてしまったことにな
 る。
・永田の遺骨は青山霊園立山墓地に埋葬された。その一部は、故郷である諏訪の地蔵寺に
 も分骨されている。

エピローグ
・生前の永田を重用した林銑十郎は、暗殺事件の責任をとって辞職した。後任となった川
 島義之は、統制派にも皇道派にも属さない「中間派」であった。
・「怪文書」を作成した磯部浅一と村中孝次は、結果として相沢事件を引き起こす契機を
 招いたことになる。そんな二人だが、彼らは相沢事件の後、ますます過激な強硬論へと
 傾斜した。
・相沢事件のすぐ後に「二・二六事件」が起きたのである。皇道派の青年将校たちによる
 クーデター未遂事件である。永田の排除に成功した皇道派が、一挙に実力行使へと踏み
 切ったのであった。
・事件後、多くの将校たちが叛乱罪で逮捕されたが、その中には磯部や村中の他、北一輝
 や西田税など、相沢と関係の深かった者たちの姿も多くあった。
・また、小畑敏四郎は、部下の満井佐吉が二・二六事件に関与したことから、その監督責
 任を問われることになった。皇道派の中枢にあった小畑は、こうして陸軍内での権勢を
 徐々に失い、後の粛軍人事によって予備役に編入されることになる。
・この二・二六事件を契機として皇道派は大きく凋落し、統制派が陸軍の実権を握ること
 が明確となった。
・陸軍刑法の条項により、死刑の方法は銃殺刑と定められている。刑が執行される場所は、
 陸軍衛戍刑務所の敷地内である。
・刑執行の前日には、石原莞爾が相沢への面会に訪れている。実は、石原はこれまでの
 公判中にも、幾度か相沢のもとを訪ねていた。二人は仙台陸軍地方幼年学校時代から
 の古い仲である。
・昭和十二年(1937年)七月、日本は「盧溝橋事件」から雪崩を打つようにして日中
 戦争へと突入した。
・永田を失った統制派において、にわかに頭角を現したのが東條英機であった。東條は生
 前の永田に心酔し切っていた。
・永田が相沢の凶刃に斃れることがなかったとすれば、彼はほどなくして陸軍大臣になっ
 ていた蓋然性が高い。しからば、その後の陸軍は、また別様の表情を見せたことだろう。