昭和16年夏の敗戦 :猪瀬直樹

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この本は、今から36年前の1986年に出版されたものだ。作者は元東京都知事という
ことで興味を持ち読んでみた。
内容は、昭和15年に近衛内閣のもとで開設された総力戦研究所を題材にして、日本が太
平洋戦争の開戦を決断する経過をわかりやすく解説したものとなっている。
この総力戦研究所は、国家総力戦に関する基本的な調査研究と、総力戦体制に向けた教育
と訓練を目的としていたという。
この総力戦研究所では、日米戦争を想定した総力戦机上演習が行なわれて、机上演習の結
果では、日本の敗北は避けられない「日本必敗」という結論が出ていたようだ。このこと
が、この本のタイトル「昭和16年夏の敗戦」につながっている。
その当時、陸軍大臣だった東條英機は、その総力線研究所の机上演習に関心を持ち、とき
どき顔を出していたようだ。そして、机上演習での「日本必敗」という結論も知っていた
ようである。
しかし、この総力戦研究所の机上演習で出た「日本必敗」という結論は、実際の開戦への
ブレーキとはならなかったようだ。でも、それは当然なのだろうと私には思える。その机
上演習というものが、どの程度現実味を帯びているのか、誰にわからないわけであるから、
机上演習で「日本必敗」という結果が出たら戦争は止めましょうと言っても、軍部が納得
するはずがない。
そういうことを考えると、この総力戦研究所を開設することによって、時の政府はいった
い何をしたかったのか、その本当の目的がよくわからなくなる。実際、この総力戦研究所
は、途中でその存在意義を失い、昭和18年には開店休業状態になったようだ。
この本を読んで興味深いのは、日米開戦の決断に至るまでにおける東條英機の果たした役
割である。
当時、日米開戦を回避するには、アメリカから突きつけられた条件である中国からの撤退
が必須条件だったようだ。東條英機は、自分が陸軍大臣だったときは、中国からの撤退は、
それまでの日中戦で失われた将兵の命を無駄死にすることになると、絶対反対を唱えた。
陸軍を代表する陸軍大臣の立場からすれば、当然の話のような気がする。
そこで木戸内務大臣が奇策を天皇に提案した。東條英機を内閣総理大臣にして、東條英機
に天皇の日米開戦反対の意思を示すことで、東條に日米開戦を回避させようとしたのだ。
しかし、そううまくはいかなかった。そこには、統帥権が政府から完全に独立していて政
府が関与できないという明治憲法の欠陥があったからだ。東條英機首相も、その欠陥は乗
り越えられなかったのだ。結局、東條英機首相は、天皇の意に反した形で日米開戦を決定
することになる。もっとも、この決定も、東條首相が、首相の権力で決断したわけではな
く、大本営・政府連絡会議という国家の決定機関で、その結論しか出せなかったというこ
となのだ。
そういうことを考えると、東條英機という人物は、ヒトラーのような独裁者とは、まった
く異っていたということが言えそうだ。あえて言うならば、東條英機という人物は、そう
いう貧乏くじを引き受けさせられた人物だったと言えるかもしれない。
そういう東條英機にも、日米開戦を回避できたチャンスは一度あったのではと思えること
がある。それは、ドイツが突然、独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻した時だ。この時、
「話が違う」と言って、日独伊三国同盟を破棄していれば、また異なった展開となり、日
米開戦という状況までアメリカから日本が追いこまれなかったかもしれない。しかし、東
條首相は「そんな仁義に反することが、できると思うのかッ」と、その提案を即座に切り
捨ててしまった。
軍事同盟というのは、戦争抑止という面では、有効は手段だろうと思うが、どこと軍事同
盟を結ぶかで、その後の国の運命が大きく左右される。そのときは、軍事大国と軍事同盟
を結んで安心だと思っても、その後の思わぬ展開で、その軍事同盟によって戦争に巻き込
まれていくこともある。そう考えると、アメリカの軍事力に依存し過ぎ、さらにはアメリ
カの「太鼓持ちを演じる」だけの今の日本は、ほんとうに安心・安全なのかと思ってしま
う。

今までの読んだ関連本:
日本人はなぜ戦争へと向かったのか
それでも日本人は「戦争」を選んだ
東條英機 「独裁者」を演じた男


プロローグ
・昭和16年12月8日の開戦よりわずか四カ月前の8月16日、平均三十三歳の内閣総
 力戦研究所研究生で組織された模擬内閣は、日米戦争日本必敗の結論に至り、総辞職を
 目前にしていた。
・ある秘められた国家目的のため全国各地から、「最良にして最も聡明な逸材」が、緊急
 に召集されていた。日米開戦へと潮鳴りのように響きを立てていた時代。いかにもいか
 めしい総力戦研究所という名の機関は、何だったのか。

三月の旅
・総力戦研究所が三十六人の研究生をかかえてスタートしたのは三カ月前の4月1日であ
 る。優秀な研究生を集めて開所にこぎつけたのはいいのだが、なにをどう展開していい
 のかわからず、飯村穣所長(陸軍中将)をはじめ所員も試行錯誤を繰り返していた。彼
 らはいずれも所属する機関の突然の命令で総力戦研究所に出向してきていた。
・研究生は官民各層から有為なる青年を抜擢したもので、向こう一年間同研究所で武力戦、
 思想戦、経済戦、国内政策、対外政略などの国家総力戦実行上の必要なる事項について
 の訓練を受ける。
・入所式は、首相官邸大広間で行われた。首相は近衛文麿
・研究生は一名以外、全員東大出身であり、軍人は陸大、海大出のエリートである。
松岡外相が独伊訪問の旅に出発したのは三月十二日、日米交渉が始まる矢先であった。
 松岡はベルリンで歓呼の出迎えを受ける。ベルリン駅の構内および駅頭のあらゆるとこ
 ろに日の丸と旭日旗が、ナチスの鉤十字旗と並んで掲げられていた。
・駅前広場に整列した兵士を閲兵した後、沿道の三十万人の熱狂的な歓呼のなかを日独両
 外相を乗せたオープンカーがゆったり進んでいった。
ヒットラーは松岡にこう豪語した。
 「もしも、日本がアメリカと戦端を開く場合には、ドイツは直ちに必要な措置をとるで
 あろう」 
・松岡はヒットラーをたたえて「十年に一度現われる」型の指導者であるといった。
・帰途四月六日、松岡はモスクワでスターリンに会い期限五カ年の日ソ中立条約を結んだ。
・クレムリン宮殿での調印式の後の晩餐の時、松岡は、ウオッカの勢いも手伝ってスター
 リンに次のように語りかけた。
 「私は、私の言葉に忠実である。もし、私があんたに嘘をついたら、私はあなたに私の
  首を進上する。その代わり、もしも、あなたが私に嘘をついたら、あなたの首をもら
  いますぞ」
・スターリンは笑顔で首をたたきながら返した。
 「私の首はソ連民族に大切なものです。あなたの首も日本民族にとって大切です。だか
 らお互いに首を賭けるわけにはいきませんな」
・ヒットラーは松岡と「もしも日本がアメリカと戦端をひらくことになれば・・・」とい
 う会話を交わしたが、日本の対英米戦争があたかも既定のスケジュールのうえにあるか
 のようなやりとりであった。
・日ソ中立条約締結の半年余り前の昭和十五年九月、すでに日独伊三国同盟が締結されて
 いたから、アメリカは仮想敵国にちがいないのである。
・三国同盟が締結された昭和十五年は、世界史上の大きな曲がり角であった。この年、ド
 イツ軍は五月末に三十万のイギリス軍を英仏海峡に追いつめた。「ダンケルク悲劇」と
 して知られている。武器も持たずにみすぼらしい兵服を着た敗残兵の姿がロンドンの街
 角のあちこちで見られた。
・六月十四日にはパリが占領され、ついでロンドン空襲が始まった。ドイツ軍は破竹の進
 撃である。日独伊三国同盟は、こうした状況下の九月二十七に締結されたのである。
・内地での戦闘はなかったとはいえ、中国大陸での戦線は拡大の一途で泥沼化の様相を呈
 していた。 
・「民草」は「総力戦」に巻き込まれつつあった。しかし、「総力戦とは何か」というこ
 とに自覚的であったわけではない。「銃後」といういい方に象徴的に示されるように、
 戦争が単に軍人だけの専業ではなくなり始めていたことをただぼんやりと悟りつつあっ
 たのである。
・日清、日露両戦争は軍事力と作戦が帰趨を制したが、新しい戦争は違っていた。戦争の
 質、性格に格段の差が生じていた。
・「国家の総力を挙げる」ことが期待されているのだ。戦争の概念が違うのである。「総
 力戦研究所」は、過去の戦争と新しい戦争の差を自覚的に考え研究するために発足しな
 ければならない。そういう宿命を負わされているはずであった。
・あわただしい国際情勢のなかで、総力戦研究所は急ごしらえでつくられていくのである
 が、総力戦研究所の前史は、実は昭和五年一月、一人の青年将校がロンドンに渡るとこ
 ろから始まっていた。その青年将校とは辰巳栄一である。
・辰巳はのち陸軍中将で終戦を迎え、戦後、吉田内閣の非公式軍事顧問として活躍。警察
 予備隊(自衛隊)創設に決定的役割を演じた男としてのほうが、今日では有名である。
・駐在武官補佐官としてロンドンで仕事をしていた辰巳は、PRDC(国防大学)の存在
 を知り、調査した。
・辰巳は昭和八年一月関東軍参謀になりイギリスを去った。駐在武官(中佐)に昇進して
 再びロンドンに戻るのは昭和十一年八月のことになる。この時、駐英大使は吉田茂。辰
 巳と吉田との交流はこのときに始まった。それはともかく、引き続き辰巳は国防大学に
 ついての調査を重ねた。
・昭和十二年五月、イギリス国王ジョージ六世の戴冠式があった。日本から秩父宮が天皇
 の代わりに出席するために船旅でロンドンに到着していた。
・戴冠式が終わると秩父宮はイギリスの軍事施設を数カ所見学して回った。辰巳武官は説
 明役として同行した。その際、秩父宮にこう報告するのを忘れなかった。
 「日本としては英国陸軍に学ぶものは格別ありません。しかし、国防大学というものが
 ありこれは大いに参考になります」
・秩父宮は辰巳武官の提案に強い関心を示したが、イギリス当局は「たとえ皇族でも見学
 は遠慮してほしい」の一点張りだった。
・昭和十三年八月、辰巳は帰国して参謀本部欧米課長に就いたが、翌十四年三たびロンド
 ンに赴任した。ドイツがフランスに侵攻しイギリスにも宣戦布告、ベテラン武官に出番
 が要請されたのだ。
・辰巳の構想を引き継いだのはフランス駐在武官の経験のある西浦進中佐だった。西浦が
 パリにいた頃にフランスでも国防大学設置構想が浮上していたのを知っていたからであ
 る。
・西浦のフランス駐在当時、フランスをはじめ欧州列強の政治、軍事界の一つの問題は、
 三軍統一問題であった。三軍、それに文官を加え国防大学設立の気運が欧州各国の一つ
 の風潮になっていたのである。 
・総力戦研究所が、具体的に内閣の中に設置される方向に煮つまったのは、昭和十五年八
 月の閣議決定によってであった。
・十月一日に開所されたといっても、当初は七名の所員が週三回ほど会合を開いていたに
 すぎない。研究所でなにを、どう研究するのか、手探りの話し合いが続けられた。
・関東軍参謀長飯村穣中将が総力戦研究所長に決まるのは昭和十六年一月である。飯村は
 石原莞爾と同期の陸士二十一期生だが、のち東京外国語大に員外学生として在籍し卒業
 した経歴があり、語学に堪能でとくにロシア語とフランス語が得意だった。陸大教官時
 代、外国の戦術書を数多く翻訳したところから、戦術の専門家という定評があった。
・陸軍には、所長人事を確保したので、事足れりという考え方があったのではないだろう
 か。陸軍人事局が総力戦研究所を軽視していたことは、開所四カ月目に明らかになる。
・総力戦研究所入所式が行われた翌週の月曜日から通常スタイルの研究生活が始められる
 ことになるのだが、この日、新規に閑院宮春仁が加わった。総力戦研究所に一種の格式
 が導入され、研究生にも緊張感がいっそう増したのである。
・四月中に、研究生は各地に視察見学に出かけている。横須賀では、海軍砲術学校、水雷
 学校などの視察や、駆逐艦「神風」の魚雷発射訓練、潜水艦の見学もした。戸山ケ原の
 陸軍科学研究所にも行った。
・外部から招いた講師陣が多彩な広がりをみせていく。戦後ラオスの森林に消えてしまう
 辻政信ゾルゲ事件で処罰されることになる近衛ブレーンの尾崎秀美、そして”ちょっ
 とキザなニュースキャスター”の父君、磯村竹虎陸軍大佐の中東報告などを、いまでも
 覚えている研究生もいる。
・六月二十日、研究生活前半最大の視察旅行に出発する。伊勢神宮に参拝ののち伊勢湾に
 停泊中の艦隊旗艦「長門」に乗船、連合艦隊司令長官山本五十六大将に挨拶した。
・その後、一行は二班に分かれて一班は「長門」、二班は「日向」に分乗した。軍艦は、
 いまや科学の粋で成り立っているようであった。研究生はハードウェアの発達に目を見
 張る。圧巻は、野戦模擬演習の魚雷攻撃であった。魚雷の先端にランプがついていて、
 暗黒の海中をグングン近づく。大戦艦はジグザグに進むが、ランプが艦艇を通過する。
 魚雷命中である。
・演習のあと艦上で山本長官は研究生に感想を求めた。
 「潜水艦対策や砲撃戦は見事でしたが、航空機に対する備えが弱いような気がしたので
 すが・・・」 
 海軍の弱点を見事についていた。山本長官は唸った。
 
イカロスたちの夏
・二つの内閣が対峙した。いっぽうは第三次近衛内閣。もうひとつは総力戦研究所研究生
 で組織する「窪田角一内閣」である。
・視察旅行より帰って以来二カ月間、総力戦研究所研究生らで組織された模擬内閣は、対
 米英戦について閣議を続けていた。この日その結論に至る経過報告を第三次近衛内閣の
 閣僚たちに研究発表という形で明らかにしなければならない。
・昭和十六年夏、彼らが到達した彼らの内閣の結論は次のようなものだった
 十二月中旬、奇襲作戦を敢行し、成功しても緒戦の勝利は見込まれるが、しかし、物量
 において劣勢な日本の勝機はない。戦争は長期戦になり、結局ソ連参戦を迎え、日本は
 敗れる。だから日米海戦はなんとしても避けなければならない。
・東條陸相は真剣な面持ちで始めから終わりまでメモを取る手を休めなかった。
・東條英機が総理大臣に就任してから、開戦まで二カ月に満たない。開戦を決めた十二月
 一日の御前会議までは組閣からわずか四十四日であった。
・昭和六年の満州事変以来、中国大陸侵略の主役は陸軍であった。アメリカは蒋介石政権
 をバックアップする立場から、日本に「支那撤兵」を要求していた。陸相である東條と
 しては、十年間の”輝かしい戦果”を清算するなど、とても考えられないことだった。
・東條が近衛内閣を総辞職させたのは、九月六日の御前会議の責任をとるためであった。
 だから、その責任は東條も分担しなければならず、しかも、倒閣の直接の責任者なのだ
 から、東條に大命が下るはずがないと思った。実際、当時、東條に首相の資格があると
 考えている者はいなかった。東條自身もそんなことを考えたことはなかったであろう。
・天皇の言葉は東條にとって青天の霹靂だった。東條にとってはまったく予想しなかった
 ことだから茫然自失、ふつうならば「暫時ご猶予をいただきます」というのに何もいえ
 ない。かわりに天皇がいった。
 「暫時猶予を与える。海軍大臣を呼んで協力するようにいっておく。木戸と三人で相談
 せよ」
・日米交渉は昭和十六年四月に始まっているが、当時の日米諒解案に盛られた対中国政策
 は日本側に有利なものだった。日本軍の中国撤退が前提だったが、「満州国」に限って
 はアメリカ側が目をつぶる可能性もある。また「蒋・汪両権の合流」も反共の線で可能
 性もある。汪兆銘政権を支持していた日本には好都合だった。
・しかし、第二次近衛内閣の外相松岡洋右はヒットラー、ムッソリーニと世界分割につい
 て語り合い、意気揚々と帰国する。松岡が日米諒解案を無視する態度に出たのでアメリ
 カ側は硬化し「満州国承認」も「日中防共共同防衛」も提案からはずしてしまった。
・近衛は、日米交渉打ち切りを主張する松岡外相をきるために軍部の同意を得て七月十六
 日に総辞職。和平派の豊田貞次郎海軍大将を外相に、第三次近衛内閣を組織した。
・近衛内閣が総辞職に追いこまれたのは九月六日の御前会議決定の遵守を東條が迫ったか
 らだった。 
御前会議では天皇は発言しないことになっていた。”君臨すれども統治せず”なのだ。
 が、あえて発言した。御前会議はセレモニーである。九月三日の大本営・政府連絡会議
 で実質上決まっていたものを御前会議で形式的に承認するのだ。天皇の発言はハプニン
 グにすぎず、そのハプニングがあっても決定は決定であり、変えることはできない。
・結局、二つの矛盾する方向が顕在化した。「開戦」とその決定に「異を唱える天皇」と
 いうことだ。 
・十月十二日、荻外荘で近衛首相東條陸相及川海相豊田外相鈴木企画院総裁
 相会議
が開かれた。 
・「陸軍が支那撤兵を考えてくれないと・・・」と豊田外相がいうと、東條はつっぱねた。
 「それは譲れない。九月六日の御前会議のときにいわないで、なぜいまいうのだ」
・豊田は、うっかり口をすべらせた。「いや、あれは軽率だった。そのまえの連絡会議の
 三時間ばかり前に要領を受け取ったばかりでよく検討する暇がなかった」
・東條は激怒した。御前会議で決めた国策をいまになって軽率だったとは、どういうこと
 か。天皇に失礼ではないか。
・近衛はさじを投げていた。「戦争には自信がない。自信がある人でおやりなさい」
・だったら、東條のいうように九月六日に「決定」などしなければよかったではないか。
 もっとも、そういわれても陸軍省と統帥部の強硬路線に近衛らが口をはさむ余地はない
 雰囲気だったのも事実である。
・東條は陸相に任命されて以来、勅命を大いに尊重した。天皇の命令を遵守するのは軍人
 のつねだが、東條の場合融通がきかないほど厳格だった。この”忠臣”にとって天皇は
 絶対だった。木戸はそのことをよく知っていた。主戦論の陸軍を代表する東條に、「九
 月六日決定の白紙還元」を命ずるのは、なるほどひとつのアイデアなのである。
・難局を乗りきる切り札が近衛であり、その近衛が内閣を投げ出したとなれば、いったい
 誰があとを継げるのか。東條は火中の栗を拾うことになる。
・陸相と内相は東條首相の兼任となったが、前例のない権力集中にはちがいなかった。の
 ちの歴史教科書では、この権力集中を指して、”東條独裁”と表現するが、少なくとも
 開戦まで五十余日間の東條は独裁者とはいい難い。内務大臣を兼任した理由は、「和平」
 に傾斜したときの治安問題に対する備えであった。
・「統帥部」とはいわゆる「大本営」と理解していい、大本営陸軍部は参謀本部、海軍部
 は軍令部と称し、それぞれ参謀総長、軍令総長をトップにもつ、俗にいう「軍部」とは、
 この統帥部と政府側の陸・海軍省をあわせたものを指す。戦後の教科書ではこの点の説
 明が少ないので混乱している者が意外と多い。
・「大日本帝国憲法」では統帥権は天皇の大権に属する。”神聖にして侵すべからず”だ
 から政府は関与できない。しかし事実上のその大権を行使したのは天皇自身ではなく統
 帥部であった。統帥部は政府とは別個に(勝手といってもよい)作戦を発動できた。い
 わゆる軍部の独走とは旧憲法の”欠陥”により生じたものだ。
・命じ藩閥政権時代はこの”欠陥”が露呈しなかった。山県有朋に代表される元勲らの権
 威が、制度的欠陥を人為的にカバーしていたからである。
・しかし、東條はただの官僚にすぎず、元勲山県有朋ではなかった。時代がちがうのであ
 る。連絡会議で政府側(陸相、海相も政府側ということになる)は統帥権側に全力で抵
 抗したが制度のカベは超えられなかった。
・海軍を代表する水野修身軍令総長は「事は急を要するのです。結論を急がねば・・・」
 と、始めから強い調子である。陸軍側の杉山元参謀総長も「十月中旬にやるかやらんか
 結論が出ていることになっていたんだ。いまごろ、四日も五日もかけて話し合う余裕は
 ない」
・東條は統帥部の主張に対して「急ぐべきことについての力説は承知しているが、海軍も
 大蔵も外務もみな新大臣なので充分検討していくつもりだ」と答えた。
・東郷外相も賀屋蔵相も日米交渉妥結の方向に会議を進めようとしていた。
・東條は「支那で犠牲になった英霊に申し訳ないが、だからといって日米戦争になればも
 っと多くの将兵が犠牲になる。だからそれでもできないよ」と苦境を漏らしていた。
・東條は、とにかく「白紙還元」の線でどう会議を前進させるかということに腐心するし
 かなかった。 
・議題は日米交渉ははたして妥結できる見通しがあるのかないのか、ということが焦点に
 なっていた。つまり、日本側がどのくらい譲歩できるのかということである。
・「日独伊三国同盟」は変更できない。となれば「支那撤兵」しかない。ところが、陸軍
 側の杉山参謀総長と塚田参謀次長が、「絶対に同意できない」と強硬に主張したので、
 決まらない。
・東條は、この時、かつて自分が追いつめた近衛の立場にいた。しかし、律儀な”忠臣”
 である軍人宰相は、近衛のように内閣を投げ出して総辞職するわけにはいかなかった。
・十一月二日、東條は杉山参謀総長、永野軍令総長と三人で連絡会議の内容を天皇に報告
 した。連絡会議の報告をしながら、東條は泣きだした。天皇の「白紙還元」の意向にそ
 えなかったからである。杉山も永野も天皇との間にある空気の密度に驚いた。
・十一月十五日、東郷外相が頼りにしていた外交官、米国人を妻に持つ来栖三郎が特派大
 使としてワシントンに到着した。吉村吉三郎大使と両輪で外交交渉に臨むためである。
 しかし、アメリカのハル国務長官は冷淡だった。
・ヒットラーが突如、独ソ不可侵条約を破りソ連に侵攻したのは六月二十二日であった。
 「六週間でソ連を撃滅する」と豪語したにもかかわらず、戦線は長期戦の様相を呈して
 いた。その間にイギリスも立ち直りの気配をみせ、アメリカも戦争準備を整えつつあっ
 た。ルーズベルト大統領もハル国務長官も、もはや時間稼ぎのために日本政府を相手に
 する気はなかったのである。日本の極秘電文すべて解読していたアメリカ政府は、日本
 の参戦を予期していた。
・ルーズベルトはハルにいった。
 「日本やあやす時期は終わった。問題はわれわれがあまり大きな危険にさらされずに、
 しかも日本が先に攻撃を仕掛けてくるようにさせるにはどうしたらいいかということだ」
・議会の動きも開戦に向けて急だった。十一月十八日、衆議院では「国策完遂決議」が可
 決された。 
・近衛内閣時代の東條は陸軍大臣として主戦論をぶっていた。その東條が総理大臣に指名
 されたので開戦阿必至、とみる国民も多かった。また、アメリカもそうみていた。天皇
 と東條の密室の”契約”を知る者は奥の院の一握りの人間たちにすぎない。世の中全体
 が開戦のうねりのなかにあった。そのうねりをつくった責任者の一人がかつての東條だ
 った。皮肉なことに東條はいま自らつくった激流のなかでそれにはかない抵抗を試みる
 一本の杭でしかなかった。
・十一月二十六日、ハル国務長官は有名な「ハル・ノート」を野村、来栖に手渡した。
 「ハル・ノート」の要旨は次の四点である。
  ・満州を含む中国・仏印から日本軍及び警察の全面撤退
  ・日中特殊緊密関係の放棄
  ・日独伊三国同盟の死文化
  ・中国における重慶政権以外の一切の政権の否認
・外交交渉というのは相互の歩み寄りによって何らかの妥協点を見出すものだが、「ハル
 ・ノート」は違っていた。東條は進退きわまった。
・二十八日の閣議で東郷外相から「ハル・ノート」の全容が報告された。閣僚は全員「開
 戦やむなし」だった。 
・天皇は日米開戦を避けたがっていた。皇太子時代の英国留学で「初めて自由を知った」
 天皇が以来すっかり欧米びいきになっていたことはよく知られている。
・だからといって天皇が平和主義者だったということにはならない。中国侵略については
 比較的寛容だったし、日米開戦についても、終戦の「御聖断」を下すことができたくら
 いなら、もう少し積極的や役割を果たしえたのではないか、後日、議論が分かれたとこ
 ろである。
・当時、御前会議に臨席する天皇が、”決定”に積極的に参加して反対意見をいうことはあ
 りえない、というのが制度上の常識だった。御前会議は、天皇が臨席して決める、とい
 うタテマエのためにあり天皇が意見を述べる場所ではなかった。
・開戦に消極的な天皇は、第三次近衛内閣陸相東條英機を総理大臣に任命することで、意
 思を実現しようとした。しかし、その意思とは別の方向に事態が進展していた。
・十二月一日の御前会議は予定どおり日米開戦を決める。その日の夜更け、東條の妻カツ
 は隣室から漏れてくる低い唸り声で目が醒めた。そっと襖に近づいた。唸り声ではなか
 った。東條は布団に正座し、号泣していたのだ。”独裁者”の慟哭を知る者は、家族を
 除いてほかに誰もいなかった。
・東條は日米開戦を阻止できなかった。天皇への忠誠心と思うにまかせない現実の狭間
 での葛藤から解放された瞬間、彼は自分の心を制御する術を失っていた。
・東條にとって天皇への忠誠がすべてであった。天皇が「組閣せよ」といわなければ、彼
 は陸相を辞めて用賀の自宅に引きこもるはずだった。
・天皇が自分を頼りにしている、ということは東條により無上の至福であり重荷でもあっ
 た。ところが、天皇の意に反して、”日米開戦”を決定せざるを得なくなったのである。
・東條は私的居間も家族も陸相官邸からようやく総理官邸に移った。緒戦勝利の美酒に酔
 いしれながら、”神国日本”は東條を先頭に挙国一致で破滅に向かって邁進し始めたの
 である。だが、この戦争に「日本必敗」の結論が出ていたことを、この時東條は思い出
 しておくべきだったろう。
・松岡外相が独伊訪問の旅に出発したのは昭和十六年三月十二日、日米交渉が始まる矢先
 である。松岡はヒットラー、ムッソリーニと世界分割について語り合い帰途、モスクワ
 では日ソ中立条約を締結した。
・昭和十四年ノモンハン事件で手痛い打撃を受けた日本にとってこの条約は、北の戸締り
 が安全になったという判断をもたらした。武力南進が可能、ということになる。日米交
 渉では、武力南進を行わない、という項目があったが、もはや削除してもいい、という
 松岡などの強硬派の意見が支配的となった。アメリカは日本側が一転して交渉途中から
 強気に出てきたので態度を硬化させた。三国同盟締結で米国は対日通称条約破棄を通告
 していたが、さらにこれで戦略物資並びに航空機用ガソリンの輸出禁止、在米の日本資
 産の凍結へと発展していった。ここで松岡は思わぬ誤算をしていたことに気づくが遅か
 った。
・六月二十二日、ドイツ軍は独ソ不可侵条約を破ってソ連領内に侵入、ヒットラーは六週
 間でソ連を撃滅すると豪語し、早くも七月十八日レニングラードに突入する。
・独ソ不可侵条約が締結されたのは昭和十四年八月、すでに二年近い歳月がたっていた。
 松岡は三国同盟締結当時の情勢判断を持ち続けていたため、独ソ関係悪化の兆しを読み
 取れなかった。当時独ソ国境には双方の軍隊が終結しつつあり、一触即発の状態にあっ
 たことを知れないで、日ソ中立条約を結んだ。スターリンにとっては東西から挟み撃ち
 にされる心配がなくなるので、”渡りに船”である。そのことを松岡は見抜けなかった。
・独ソ不可侵条約締結の際、「欧州の天地は複雑怪奇」といって当時の平沼騏一郎内閣は
 総辞職したが、独ソ戦の開始も不意打ちに等しいもので、日本は再びヒットラーに振り
 回された。 
・第二次近衛内閣は昭和十五年七月に組閣され、約一年後の十六年七月で命運が尽きる。
 三国軍事同盟締結に中心的役割を担い、日米交渉に否定的な松岡洋右外相の独断専行に
 危機感を深めた近衛が、松岡を切るために総辞職という手段に打って出たのである。
・七月二十八日、ついに陸軍は南部仏印(ベトナム)に進駐した。アメリカは日本政府電
 報を傍受して七月二日の「国策要綱」の要点を知っていたので、南部仏印進駐を、対英
 米戦準備と理解した。八月一日、石油をはじめいっさいの対日輸出を禁止したのはその
 ためである。
・七月二日の御前会議の決定、「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」というタイトルは象徴
 的だった。思いもかけずに、情勢はより困難な方向に推移してしまった。
・海軍では長期戦になった場合の研究はしていたが、「総力戦」の研究はしていなかった。
 海軍もいまだ総力戦という概念を理解していない。
・海軍の図上演習は軍事が中心だが、総力戦研究所でのちに実施された机上演習は武力だ
 けでなく国力全体の動員が算定されるべきものとされた。たとえば鉄でも石油でも、戦
 争用に費やされれば、民間工場使用分が減り工業生産力が低下する。そうなると一時的
 に武力が増強されたとしても長期的な国力は疲弊する。軍艦や航空機の数およびその用
 兵法だけでは不充分なんだ。
・当時のわが国の国家意思は「統帥(大本営)」と「国務(政府)」の双方の会議により
 発動された。旧憲法では統帥権は、”神聖にして侵すべからず”で政府は関与できない。
 統帥部(大本営)は政府と別個に作戦を発動できたのである。軍部独走の素地はここに
 あるのだが、旧憲法の制度上の欠陥を補うために、統帥部と政府の双方の会議は、「大
 本営、政府連絡会議」でなされた。
・第三次近衛内閣は七月十八日に組閣を終えたが、総力戦研究所は、そのわずか六日前
 の七月十二日にスタートした。
・昭和十六年といえば、カネがあってもモノが買えない状態、つまり統制経済の時代に入
 りつつあった。社会主義経済の変形である。人間の消費を抑制するのは価格ではなく配
 給というコントロールであった。そのためには日常生活物資をきちんと確保して供給し
 なければならない。
・総力戦研究所研究生が模擬内閣を組織し、日米戦日本必敗の結論に辿り着いたのは昭和
 十六年八月のことであった。 
・総力戦研究所の模擬内閣が今日評価されるとしたら、彼らが事態を曇りない目で見抜き
 予測した点にある。その予測を可能のしたのはタテ割り行政の閉鎖性を取り払って集め
 られた各種データであり彼らの真摯な討議であった。
・しかし、彼らのシミュレーションの間中、ひとつだけ最後までわからないことがあった。
 それは当時のわが国の石油備蓄量である。民需用の備蓄はつかめるが軍需用については
 陸海軍ともその数字を秘匿していて、機密事項として大蔵省や企画院にも教えなかった。
 そればかりか、互いに腹の探り合い、というありさまなのである。海軍にとっては籍地
 備蓄が艦隊の作戦に決定的な影響をもつものだった。陸軍の最大の関心は主に航空機用
 揮発油にあった。が、陸海軍とも互いに”棲み分け”を行おうとはせず石油配分について
 合理的な話し合いをするムードはなかった。
・第二次世界大戦は資源戦争だったといってよい。なかでも石油は最も重要は戦略物資で
 あった。 
・ドイツが突如、独ソ不可侵条約を破ってソ連領土に進撃したその目的は石油であった。
・ドイツも国内産石油は微々たるもので、持たざる国だった。が、持ち前の化学工業力で
 人造石油生産の実績は当時世界一だった。しかし、それだけでは当然足りないので独ソ
 不可侵条約を締結する。そして、ルーマニアを電撃戦で占領し、ルーマニア油田を確保
 した。しかし、中東を狙った独伊軍は北アフリカで敗れ、頼みのソ連石油は、六万トン
 しか送ってこない。これに不満を抱いたヒットラーは、不可侵条約を破ってソ連に侵攻
 する。ヒットラーは極めて明確な戦争の論理で動いていたのである。独軍は一路バクー
 を目指したが、スターリングラードの戦いで致命的な敗北を喫してしまった。この時、
 戦いの帰趨は決まる。連合軍は、石油の波に乗って勝利をかざることができたのである。
 この大戦における軍需輸送物資の四十パーセントは石油であったとさえいわれている。
・日米開戦が間近に迫った昭和十六年十一月、ルーズベルトは「日本をあやす時間は終わ
 った」と述べたが、この演説からもアメリカの姿勢が明瞭に読み取れる。石油を禁輸す
 れば、日本は南方に進出せざるをえない。そのことを充分に計算し尽くしたうえで、対
 日石油政策が講じられていたのである。日本が南方に進出すべきか否かは、日本の選択
 でなければならない。しかし、アメリカはその選択を背後で決めさせる力をもっていた。
 この大統領演説は実質的な宣戦布告なのである。
・持たざる国日本と、持てる国アメリカとの石油政策は対照的であった。アメリカの対日
 輸出政策は、完全に日本の窮地を知り尽くしたうえで計画的に実施されていた。これに
 対し、日本の輸入政策は、その日暮らしの場当たり的なものでしかなかった。そして、
 南方進出・蘭印占領(インドネシアに石油を獲りにいくこと)も、結果的にはその場当
 たり的な選択の延長線上にあった。
・ハワイ・マレー奇襲で始まった戦争は当初ははなばなしい戦果に彩られた。昭和十七年
 二月にバレンバン油田(インドネシアのスマトラ島)を急襲した落下傘部隊は、「空の
 神兵」と大々的に報じられた。
・落下傘部隊の急襲により、油田は無傷で手に入った。敵は逃げるのが精いっぱいで破壊
 する暇もなかったのである。 
・昭和十七年から十八年にかけてパレンバンの産油量は年産五百万トンにも達した。しか
 し、その石油を運ぶタンカーは、やがて次々とアメリカ潜水艦のエジキとなる。
・南方からの還送油が期待できなくなると、上層部から「人造油はどうなっている」とい
 う催促が幾度も燃料課にくるようになった。戦争末期には「二百の松根は一機を一時間
 飛ばすことができる」のスローガンのもとに、全国民は松の根っ子掘りに駆り出された。
・昭和十六年六月二十二日、ドイツ軍が突如ソ連領に侵入したとき、日ソ中立条約を締結
 昭和十六年四月十二日)したばかりのわが国の政治指導者らは、いちように衝撃を受け
 た。日独伊三国同盟にソ連を加えることによって、連合国に対抗しうる、という松岡外
 相の構想はこれで破綻したからである。
・その日、東條は陸相官邸執務室で独ソ戦の報を耳にした。企画院総裁鈴木貞一が東條の
 もとを訪れたのは、その直後であった。鈴木は近衛首相の伝言を携えていた。
 「ドイツが同盟国のわが国を無視してソ連と戦争を始めたのだから、三国同盟を破棄す
 る好機だと思う。これからは中立政策をとろう、と近衛公はおっしゃるのですが・・・」
・東條も事態にどう対処していいかわからず混乱していた。しかしこの提案に対して不機
 嫌きわまりないといった表情で鈴木をにらみつけた。
 「そんな仁義に反することが、できると思うのかッ」
 とりつく島もなく、鈴木は引きあげた。これが運命の岐路である。
・近衛の片腕を自任していた鈴木は、東條内閣で東郷外相や賀屋蔵相とともに、和平派に
 与し、主戦論を抑える抑止力になるはずだった。しかし、鈴木が実際に果たした役割は
 別にあった。彼は開戦決定のご託宣を伝える巫女となるのである。神の声を媒介するの
 が巫女の役割だが、では神の声は、どこから発せられたか。
・開戦派と和平派がそれぞれの主張を何度も繰り返し、もはやこれ以上論議を続けても平
 行線でその距離がいっこうに縮まらない、というとき取り沙汰されたのが数字なのであ
 る。主観的な争いに対し、客観的な数字は最後の調停者として立ち現れてくる。数字の
 管理責任者である鈴木企画院総裁はここで突然クローズアップされ舞台の主役に押し出
 されてしまう。
・十一月五日の御前会議で、鈴木総裁は「対米英蘭戦争に進みました場合」の展望を数字
 をあげて説明した。「南方作戦実施の場合」石油は辛うじて自給体制を保持シエルもの
 と存じます」と報告した。インドネシアから石油を分捕ってくれば、つじつまがあいま
 す、というのである。
・では「もし戦争を避けまして現在の対内外体制を持続し臥薪嘗胆を致しますときの重要
 物資ならびに内外情勢の見通し」については、「国内ストック特に液体燃料に重大なる
 欠陥を生じ一方国防安全感を確保する必要なる液体燃料の品種及び数量は人造石油工業
 のみによりましたは、これが生産殆んど不可能と存ずるのであります」
・数字というものは冷酷だと、しばしばいわれる。数字は客観的なものの象徴であり、願
 望などいっさいの主観的要求を排除した厳然たる事実の究極の姿だと信じられているか
 らである。数字がすべてを物語る、という場合、それはもはや人知を超えた真理として
 立ち現われている。数字は神の声となった。
・しかし、コンピュータがいかに精巧につくられていても、データをインプットするのは
 人間である、という警句と同じで、数字の客観性というものも、結局は人間の主観から
 生じたものなのであった。
・「やる」という勢いが先行していたとしても、「やれる」という見通しがあったわけで
 はなかった。そこで、みな数字にすがったが、その数字は、つじつま合わせの数字だっ
 た。
・いわば全員一致という儀式をとり行うにあたり、その道具が求められていたにすぎない。
 決断の内容より”全員一致”のほうが大切だったとみるほかなく、これがいま欧米で注目
 されている日本的意思決定システムの内実であることを忘れてはならない。
・首相官邸大広間で総力戦研究所の机上演習の経過について粛々と続く報告の、ほんの少
 しの切れ目を見計らって、突然、向こう側で一人のイガグリ頭のいかつい軍人が立ち上
 がった。大本営本部の辻政信大佐である。辻は、まったく「閣議報告」と脈絡なくいき
 なり近衛首相を指して、雷のように激しい口調で喰ってかかった。
 「畏れ多くも昨年九月四日に蒙疆(モンゴル)で薨去せられたる北白川宮永久王殿下
 御霊柩が立川飛行場にご到着なされたときに、どうして、あんたはお迎えに行かなかっ
 たのかッ」
・飯村所長の講評が終わると、二日間にわたり克明にメモを取っていた東條陸相が立ち上
 がった。 
 「諸君の研究の労を多とするが、これはあくまでも机上の演習でありまして、実際の戦
 争というものは、君たちの考えているようなものではないのであります。戦というもの
 は、計画通りにいかない。以外裡なことが勝利につながっていく。君たちの考えている
 ことは、机上の空論とはいわないとしても、あくまでも、その意外裡というものをば考
 慮したものではないのであります。なお、この机上演習の経過を、諸君は軽はずみに口
 外してはならぬということでありますッ」
・研究生たちには思いあたることがあった。演習の間、しばしば、東條陸相は、総力戦研
 究所の講堂の隅に陣取り閣議を傍聴していた。そういうことが一再ならずあった。東條
 は総力戦研究所の本来担うべき役割について、深い関心を寄せていた数少ない首脳の一
 人だったからである。
・総力戦研究所創立に奔走した西浦が研究所の意義を東條に説いたであろうことは想像に
 難くない。そのため東條は総力戦研究所の机上の行方が気にかかっていたのだろう。そ
 うであってみれば、机上演習を「机上の空論」と断定してみたものの、その結論はその
 後の、東條の脳裏に暗い雲のように重くのしかかっていたはずである。
・十月十七日の思わぬ大命降下。開戦を急ぐ統帥部。そして暗礁に乗り上げた日米交渉。
 十二月八日の開戦と緒戦の勝利は、蟻地獄でもがいていた東條をいっきに楽園へ誘って
 いく。 
・しかし、東條が楽園を見たのは、ほんの一刻のことであった。模擬内閣の閣議報告は現
 実の政策の選択肢に肉薄していた。いや超えていた、といってもいい。真珠湾攻撃と原
 爆投下を除いては、その後起こる現実の戦況と酷似していたからである。

暮色の空
・熱海市伊豆山に興亜観音像が建立されたのは、昭和十五年二月のことで、日中戦争の犠
 牲者を弔うため、当時の中支那方面軍司令官松井石根大将が寄進した。のちに、松井大
 将は極東軍事裁判で絞首刑をいい渡されるが、訴因は「南京攻撃に依る中華民国の一般
 人及び非武装軍隊の殺害」だった。松井大将の南京入城は、陥落後であり彼自身は結核
 の病状が悪化して後方で指導をとっていた。事件を知るのは入城後である。したがって
 司令官自身は「虐殺」に加わっていない。後の祭り、だった。興亜観音の建立は、彼の
 贖罪意識の顕れである。しかし、戦争目的の喪失がどういう事態をもたらすか、という
 ことについての反省こそ必要であったのだ。いずれにしろ南京攻略を参謀本部に進言し
 たのは松井司令官であるという事実は、歴史から消えるわけではない。
・この興亜観音像のすぐ横に高さ一メートルほどの石碑がある。「七士之碑」の文字が刻
 まれ、一段低く小さな文字で「吉田茂書」と書き添えてある。裏面をのぞくと、そこに
 は広田弘毅を筆頭に、板垣征四郎東條英機松井石根土肥原賢二木村兵太郎
 藤章
ら七名の名が刻まれている。いずれも極東軍事裁判で絞首刑を宣告されたA級戦犯
 である。
・A級戦犯七名の処刑後の火葬は横浜市西区の久保山火葬場で行われた。
・米軍がもっとも恐れていたのは、七人が殉教者になることだった。遺灰は飛行機で空か
 ら撒くことになっていた。米軍が持ち去る前、遺灰はいったん行路病者などの遺骨を入
 れる無縁の骨捨て場に置かれていた。深夜、飛田場長と市川住職は、ハダシでそこに近
 づく。御影石のフタをとって穴をのぞくと、七人分の真新しい遺灰がひと山にまとめら
 れ青白く光って浮んで見えた。火かき棒であわてて、一部を収納した。
・ほとぼりのさめるのを待ち、翌昭和二十四年五月、熱海の松井邸に向かった。松井邸に
 は松井夫人のほか、東條夫人、板垣夫人、木村夫人、それに広田弘毅の長男が示し合わ
 せて待っていた。こうして、七人の遺灰は興亜観音に秘匿された。
・吉田元総理が出席して「七士之碑」除幕式が公然と行われたのは、絞首刑から約十年後
 の昭和三十四年四月である。しかし、占領軍の危惧に反して、東條らを殉教者としてあ
 がめる風潮は生まれなかった。
・むしろ、逆であった。あの戦争は「軍部の独走」として片づけられ、国民はすべて被害
 者であった。悪いのは一握りの軍国主義者、という図式ができあがったのである。戦後
 の右翼の間でさえ、東條は人気がなかった。
・その図式が一般化してしまうと、興亜観音と「七士之碑」の所在などすっかり忘れられ
 てしまうのである。皮肉にも「七士之碑」の所在を新しく知らせたのは、連続企業爆破
 事件の「東アジア反日武装戦線」の”狼”たちであった。
・昭和四十六年十二月、興亜観音住職夫婦は「まるで飛行機が墜落したかと思った」ほど
 の衝撃音で腰を抜かさんばかりに驚く。「七士之碑」は粉々に散った
・粉々になった七士之碑」は、ドイツ製の接着剤によって一見して傷跡がわからないほど
 巧みに復元された。 
・日米開戦の原因を、「東條」という一人の悪玉に帰するのは、あまりに単純すぎる話で
 ある。しかし勧善懲悪の図式は、いまだひとつの常識である。
・軍国主義が一転して民主主義に衣がえしたとき、その転換の生贄が必要だった。その象
 徴に東條があてがわれた。  
・昭和二十年九月十一日、東條は拳銃自殺を図った。弾丸はわずかに心臓をそれた。近衛
 元総理や阿南陸相らトップリーダーの自決者が相次いだが、なぜ東條だけは敗戦ととも
 に潔く割腹自殺を遂げなかったのか、という避難があるところに、拳銃自殺未遂が起き
 たから、これは嘲笑の的になった。
・九月十日に下村定陸相が東條を呼び、こう説得した。
 「戦争責任の追求が始まった場合、あなたがいなければ、天皇に累が及ぶ」
・東條は「戦陣訓」の「生きて虜囚の辱めを受けず・・・」をひき、「自分がそういって
 きた手前、当然、その言葉に拘束されなければならない」と主張した。東條は天皇への
 忠誠と「戦陣訓」の狭間で揺れていた。
・九月十一日昼過ぎ、ジープがつぎつぎと横づけされた。銃を肩にしたMPが三十人あま
 り、新聞記者も押しかけた。
・午後四時半近くになった。二台の高級将校用ジープが玄関に横づけされた。MP体長が
 玄関をノックした。同時に米兵らはいっせいに銃をかまえた。
・東條は応接間のソファに座り胸のマル印の箇所を確認してから左手に拳銃を握り発射さ
 せた。銃声を聞いてMPが応接間に駆け込んだ。彼は左利きだったため、発射の瞬間の
 反動でわずかに弾丸が心臓をそれた。横浜・本牧にある米軍病院に急送された東條は、
 一命をとりとめる。GHQにとっても極東軍事裁判では東條という主役がどうしても必
 要だった。米軍人の血が輸血され、治療は周到を極めた。
・極東軍事裁判は昭和二十一年五月に始まった。米国人であるキーナン検事は、マッカー
 サー長官の意を汲ん法廷に立っていた。裁判長は豪州の最高裁判事ウェッブである。ウ
 ェッブはヒロヒトを戦犯とすべきだという考えの持ち主だった。キーナン検事はウェッ
 ブ判事を牽制し、天皇を免訴にすべく画策するのである。
・日本の占領統治は、天皇を利用することなしには不可能であるというのがマッカーサー
 の考えであり、キーナン検事はその思惑を審理の展開のなかで実現しなければならなか
 った。天皇の温存は、また東條の切望していたものだから、両者の利害はここに一致を
 みる。
・八月十五日の敗戦の日、次女の夫古賀秀正少佐は割腹自殺した。天皇の「玉音放送」を
 阻止すべく決起したが失敗したためである。次女は古賀姓であったが、三女と四女は、
 カツ夫人の弟の養女として入籍をすませ、東條姓を消した。陸軍士官学校から帰った三
 男は、独身の長女の養子として別戸籍にした。こういう周到な手配をしたうえで、東條
 は胸にマル印をつけて敵の対応を見ながら、自殺か、生き残って忠臣としての任務を全
 うするか、という選択肢だけを残した。片付けるものは片付けて、選択肢を減らしなが
 ら、ひとつの結論に近づけていく、という方法が官僚としての彼流のやり方であった。
・「東條なら陸軍を抑えられる」という木戸内大臣の窮余の策が東條総理大臣誕生につな
 がった。が、結局その作戦は水疱に帰した。東條の力でも開戦への趨勢をとめえなかっ
 た。国務と統帥に二分化されたわが国の特殊な政治機構は、個人の力では克服できない
 仕組みになっていたのである。
・軍閥の長がイコール長州閥の山県有朋であった時代、国務と統帥は人為的にカバーされ
 巧みにコントロールされたから、二元化しなかった。制度的欠陥は人事によって隠され
 ていて顕在化しなかった。
・山県有朋が死ぬ一年前の大正十年南ドイツのバーデンバーデンに欧州駐在の三人の青年
 将校が集まった。永田鉄山少佐、小畑敏四郎少佐、岡村寧次少佐である。翌日、ドイツ
 駐在の東條少佐も加わった。世にいう「バーデンバーデンの密約」が成立する。彼らは
 長州閥の打倒を誓い合った。長州閥がある限り、彼らの出世は臨めなかったのである。
・東條の父親の東條英教中将は、陸大第一期主席卒業の秀才で戦術の名手と定評があった
 が、岩手県南部藩出身で長州閥ではなかったために、不遇のうちに中将で予備役となっ
 た。東條が”軍閥は親の仇”と憎んだのは当然である。
・山県の死後、彼らの野心は比較的スムーズに実現し、昭和に入ると長州閥は消えた。逆
 に長州出身者軍人のエリートコースである陸大から徹底的に排除された。軍は藩閥とい
 う旧弊を除去したが、同時に明治の精神も消え、出世を競うだけの官僚機構に変じた。
・こののち、陸軍には皇道派と統制派が生まれる。東條は兄事していた永田鉄山に従い統
 制派に属し順調に出世街道を歩むが、思わぬ事件が起きた。昭和十年八月の「永田鉄山
 軍務局長斬殺事件
」である。 
・後ろ盾を失った東條は関東軍憲兵司令官として中央から遠ざけられた。しかし、翌十一
 年の二・二六事件は東條の人生を大きく変える。この事件は一将校で終えるはずの彼の
 経歴を書きかえた。真崎甚三郎をはじめとする皇道派の大物が事件後の粛軍人事で消え、
 満州にいたおかげで無傷の東條が浮上するのである。
・第一次近衛内閣の陸相杉山元と次官梅津美治郎のコンビは昭和十三年五月の徐州占領を
 はじめ中国奥地に戦線を拡大した。近衛は陸軍のゴリ押しに歯止めをかけるため陸相更
 迭を策し天皇に上奏した。陸相候補に板垣征四郎があがった。天皇と近衛の意思を知っ
 た杉山と梅津は、板垣の目付役として東條を次官にくっつけることにした。近衛は「東
 條というのは、どういう軍人か」と側近に訊くが「真面目で実直な男」という答えで納
 得する。中央では無名の東條が派閥争いの間隙をぬいつつ、前面に押し出されていくの
 である。彼が総理大臣になるなど、当時は誰も予想していなかった。
・そういう男が頂点に昇りつめたわけだが、彼は自分が頂点にいるとは思わない。天皇が
 いた。彼はその忠実な臣下であった。彼は軍人としてのファンクション(職分)のなか
 で生きてきた。理念や理想があれば彼に制度の壁を破ることを期待するのは可能だが、
 それを望むべくもなかった。彼自身に官僚的統括以外のものを求めるのは無理ともいえ
 た。
・戦争の最高責任者として、東條の言い分に、多少の「理論」みたいなものがあるのは怪
 しむに足らぬ。しかもこの「理論」をせんじつめれば、日本を今日あらしめたものは誰
 の責任でもない。軍人でもなければ政治家でもないことになる。東條は、真珠湾攻撃の
 ことをきかれて、ハッキリとしたことは知らないが陸相の資格で、計画を参謀総長から
 聞いたといい、これを天皇に伝えるのは参謀総長が軍令部長の責任だという。つまり東
 條は、明治憲法を条文通りに答えたに過ぎない。戦争ということをバラバラにして、こ
 こまでは外交、ここからは統帥、これは文官、あれは軍部の責任といったことを事実に
 ついて説明したまでだ。これでは戦争は、最高の「政治」ではなく、官吏の「事務」と
 なる。全く満州事変以来の戦争はそれ以外のものではなく、一人の政治家もいなかった
 のだ。
・東條の論理は、つきつめていけば、内では国務と統帥の二元化という制度の壁が日米開
 戦を阻止できなかった主要な因子であり、外では日本に対する英米蘭の挑発が開戦を惹
 起したということになる。
・東條は自衛戦争を主張したが「ニューヨーク・タイムズ」はこれを、”強盗の論理”だと
 激しく非難した。しかし白人帝国主義国家の植民地主義のやり方を、遅れて登場した有
 色人種の日本帝国主義がそのまま真似しただけで、強盗と強盗がケンカしたとしても、
 どちらが悪いとは言い切れない。”オレも悪いがおまえも同罪じゃないか”という居直り
 が法廷での東條陳述の迫力となっていた。
・日本は、南方石油をあてにして日米開戦に踏み切ったが、帝国主義の論理からそれは当
 然で、オランダ帝国主義がインドネシアの石油埋蔵地帯に勝手に旗を立てていたのを、
 どけといったにすぎない。
・日本帝国主義には、白人支配から有色人種を解放するアジア解放の思想があった。もっ
 とも、このアジア解放思想がかなり勝手なシロモノで中国人、朝鮮人を平気で虐殺する
 ような欠陥思想であったから、この点での弁解は許されないだろう。しかも、最先端で
 虐殺に従事した一人一人の日本人は加害者であるにもかかわらず東條だけを悪者に仕立
 てあげ、自らは被害者意識の盾の後ろに隠れてしまっていた。
・東條が法廷で陳述した”制度の限界”は、自らのリーダーシップを否定することにつなが
 っている。そこが、法廷での天皇免責問題をきわどいものにしていた。国務と統帥のう
 ち、国務は総理大臣の権限だが、統帥権は天皇大権に属する。すると制度上とはいえ統
 帥の責任者天皇にホコ先が向く。当然である。
・木戸幸一元内大臣の弁護人ローガンは、訊問で東條にこう質問した。
 「天皇の平和希望に対して木戸侯が何か行動をとったか。あるいは何か進言したという
 事例が一つでも覚えておられますか」
 ローガンは木戸を弁護する答弁を東條から引き出すつもりであった。
・しかし東條は、「天皇」という言葉に緊張し、自分の信念を披瀝した。
 「そういう事例はない。日本国の臣民が陛下の御意思に反して、あれこれすることはあ
 り得ぬことです。いわんや、日本の高官においてをや」
・法廷はざわついた。キーナン検事は、まずい、という表情で東條をにらみつけた。ウェ
 ッブ裁判長が見逃すはずがない。
 「ただいまの回答がどのようなことを示唆しているか、よく理解できるのであります」
・天皇免責派のキーナン検事にとって、明らかに東條のホンネは失言であった。戦争も、
 そのなかの残虐行為もすべて天皇の意思ということになる。
・キーナン検事は東條に根回しのための使者を送り画策する。
 「日本臣民なる者は何人たるも天皇の命令に従わないことは考えられないといいました。
 それは正しいか」(キーナン検事)
・「それは私の国民感情を申し上げていた。天皇の責任とは別の問題です」(東條)
・「しかし、あなたは実際に米英蘭に対して戦争をしたのではないか」(キーナン検事)
・「私の内閣において戦争を決意しました」(東條)
・「その戦争を行わなければならない、行なえ、というのはヒロヒト天皇の意思であった
 か」(キーナン検事)
・「意思に反したかもしれませんが、とにかく私の進言、統帥部その他責任者の進言によ
 ってシブシブ同意になったのが事実です。そして平和愛好の御精神で最後の一瞬にいた
 るまで陛下は御希望をもっておられました。そのことは開戦の御詔勅のなかにある”朕
 の意思にあらず”という意味の御言葉にあらわれています」(東條)
 天皇免責には充分な答弁で、キーナン検事は満足し、さりげなく訊問を別の問題に移し
 た。
・マッカーサー元帥は、ウェッブ裁判長、キーナン検事をGHQ本部に招き、東條証言の
 経過を確認したうえで天皇不起訴を決めた。ウェッブ裁判長は不服そうだったが、元帥
 が「よろしいな」と念を押すとしぶしぶうなずいた。
・東條は「私の内閣において戦争を決意した」と証言したが、欧米流の理解では最高権力
 者は総理大臣だと受けとれる。しかし、統帥と国務の双方がテーブルについた大本営・
 政府連絡会議で結論を煮詰め、天皇臨席の御前会議が最終決定の場となるのは、旧憲法
 下の常識であった。


日米開戦に見る日本人の「決める力」
(作者と勝間和代の特別対談)
・「無謀な戦争」と言いましたが、戦争に負けたからそう思うのです。だが戦前の日本人
 は勝てるかもしれない、と思っていたのです。
・左翼の論者は「侵略戦争だ」と批判し、右翼は「自衛のために仕方なかったんだ」と言
 い返している。不毛な水掛け論ですね。
・問題は、模擬内閣の出した結論が、当時の近衛文麿内閣に報告されていたにもかかわら
 ず、実際の政策決定に影響を及ぼさなかったことですね。近衛内閣の陸軍大臣だった東
 條英機は、模擬内閣の「閣議」にたびたび顔を出していますから、関心は寄せていたは
 ずです。ただ、その報告をもとに誰が意思決定を下すか、なんですね。
・当時の最高意思決定機関は、天皇の御前に政府と軍部の代表を集めて開かれる大本営・
 政府連絡会議です。ただ、どうも議論が同じところをグルグル回っているだけで・・・。
・決断力がない、といえばそれまでですが、誰も責任を取ると言わないからです。会議の
 主人公はみな五十代、六十代で、組織の代弁者ですからしがらみもあって、ほんとうの
 ことがわかっていても向き合わない。もうひとつは、不良債権を認めない。経営の責任
 が問われるからです。
・昭和六年に満州事変がありました。そのあとが問題なのです。関東軍が勝手に満州から
 はみ出していく。別に中国が満州の独立を認めたわけではありませんが、そこまでなら、
 部分的な争いと思われていた。しかし、満州から北京や上海に日本軍が侵攻するとなる
 と、中国人の民族意識が高揚する。昭和十二年、ついに日中全面戦争に突入してしまう。
・中央のコントロールがきかないまま、出先機関が暴走したわけです。行政にも制御でき
 ない執行機関ができてしまうのは、現代日本にも通じる病理のように思えます。
・満州だけなら資源も豊富ですし、言葉は悪いけど投資したぶんが回収できる可能性があ
 った。ところが昭和十二年に始まった日中戦争は、満州とは違い、回収見込みのない不
 良債権があちこちにできるような状況になった。そういうとき、企業だと撤退するかど
 うかという話になるけど、当時の日本はずるずると戦争をつづけた。
・アメリカの要求どおり、中国から撤退することによって、日中戦争で生まれたさまざま
 な不良債権を処理できるメリットはあったでしょう。ただ、そう言うと「日中開戦以来
 の十万の英霊に申し訳が立つか」と反論が返ってくるわけですよ。後世から見れば、太
 平洋戦争で三百万人の犠牲が出ていますから、やらなかったほうがよかったのは火を見
 るよりも明らかなんですが、ただ、「十万の英霊」は、お金と違って回収のしようがな
 い。
・ひとつには「五・一五事件」や「二・二六事件」のようなテロが怖かったんです。当時
 は今以上に格差問題が深刻で、富める財閥や、財閥と縁の深い重臣は怨嗟の的でした。
 五・一五事件で犬養毅首相を暗殺した青年将校は、国民から助命嘆願の声があがったた
 め、死刑になっていません。そんな世論の中で、軍部の意向に逆らってまで、損得勘定
 で戦争を語れる空気ではなかった。
・日本は対米開戦にあたって、どうやって始めるかは決定していたけれど、どう終わらせ
 るかは曖昧だったから、気持ちが楽だったと思います。一方アメリカの場合、日本と戦
 争を始めた時点で、日本占領についての計画もスタートさせている。軍人に日本語を習
 わせたり、日本に詳しい研究者を雇ったり。
・日本のリーダーは自分たちの精神力だけ過大評価し、相手の精神力を計算に入れようと
 しなかった。奇襲攻撃に成功すれば、当面はインドネシアからの石油でなんとかなるし、
 「アメリカは世論の国だから、厭戦気分が広がり、講和に持ち込めるだろう」と都合の
 良い解釈をしていた。ところが逆に、奇襲でアメリカ国民は「戦うべし」と一丸になっ
 てしまう。世論がひとつにまとまった時のパワーを計算していなかったんですね。
・ヨーロッパも中国も韓国も歴史へのこだわりが強いでしょう。比較すると、どうも日本
 人は歴史そのものへの意識が薄いのです。
・本当に必要なのは、現実的な政策を打ち出すための歴史意識ではありませんか。たとえ
 ば、戦前の昭和恐慌に当時の政府がどう対応したか。最初、浜口内閣は金解禁という手
 段で解決しようとしますが失敗に終わりました。つづいて、犬養内閣の高橋是清蔵相が、
 それまでの経済政策を転換し、ある程度回復することに成功しました。こうした歴史か
 ら学ぶことは多いはずです。
・「悪いのはお前だ!」と特定の組織や人をやり玉にあげて攻撃しても、彼らが言うこと
 をきくはずがない。「ここは具体的にこうおかしい」と限定された個々の事例を掲示し、
 具体的なデータをもとにシミュレーションを行なった上で、「どうですか?」と突きつ
 けていかなと、改革は進みません。
・日本の意思決定に欠けているのは、今も昔も、そういうディテールを積み重ね。ディテ
 ールこそ、神は宿る。