歴史と戦争 :半藤一利

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この本は2018年に出版されたものである。それまでの著者の本をすべて読み直して一
冊の本をつくるという出版社の企画からできたものらしい。内容は、幕末から明治維新、
そして大正・昭和から敗戦までについての日本の歩みを、著者の著書の内容をつなぎ合わ
せながらわかりやすく解説している。
この本を読んで私の頭に浮かんだのが、この日本のあゆみは、最近の事例で例えるならば、
安倍政権で見られたような、自分たちの都合のいいように事実の隠蔽・改竄をくり返し、
トランプ大統領にみられたように、フェイクニュースの連発で真実とウソとの見分けがつ
かなくなり、国民もまたウソを真実と信じるようになり、そして北朝鮮のようないびつな
軍国主義国家となってしまい、最後は、”この道しかない”とばかりに自滅の道を突き進
んでいったのだ、というようなことだった。
著者が本書の”あとがき”に書いているように、幕末以来の日本は、だれもが一生をフィク
ションの中で生きてきたのだろう。そしてこのゆるぎのないフィクションの上に、さらに
いくつもの小さなフィクションを積み重ね、それを虚構とは考えないまま生きてきたのだ。
それが敗戦によって、一度は現実の世界に目覚めさせられたのだが、やがてまた同じよう
にフィクションを積み重ねるようになっているのだ。われわれ日本人はフィクションの中
でしか生きられない”民”なのかもしれない。
2021年1月12日、この本を読んでいる最中に著者の訃報を目にした。昭和史の研究
家として、この人の右に出る人はもう出ないのではないか。日本にとっても、大きな喪失
なのだと思う。でも、たくさんの著書を残してもらった。これからも著者の本を読みつな
いで、昭和の歴史からいろいろなことを学んでいきたい。


幕末・維新・明治をながめて
・日本には江戸時代まで、島国に生きる知恵がありました。いうなれば圧搾空気のような
 ものがあって、その上に国家が乗っかっていたのです。それはつまり、礼儀作法とか、
 自然を大事にするとか、足るを知る気持ちとか、そういう文化伝統の上に日本人が全部
 一緒に乗って生きていた。ところが明治になって近代国家をつくろうとした時、あろう
 ことか神国意識を圧搾空気にしてしまったんです。
・天皇陛下という存在については、現代に生きる私たちが考えるような、あるいは戦前の
 日本人が考えていたような意識は、幕末の日本人にはなかったんです。
・コチコチの愛国者ほど国を害する者、ダメにする者はいない。幕末に、徳川を守ること
 に固執した「井伊直弼」なども、それがために「阿部正弘」が敷いた幕末日本の進むべ
 き道をねじ曲げただけでなく、将来の逸材である「橋本佐内」や「吉田松陰」を殺して
 しまった。
・もし「勝海舟」がいなかったら近代日本はおかしくなっていたでしょう。英仏という列
 強の代理戦争ともいうべき内戦が長引いて、分列国家になった可能性がある。外国の支
 配を受けることになったかもしれず、明治維新などと言っていられなかったかもしれな
 い。
・勝海舟が身をもって実行したことは、幕府とか諸藩という強大な壁をのぞき、日本の全
 力を 結集してネーションとしての海軍をつくりあげることであった。幕府や藩中心の
 考え方を乗り越え、「世界のなかの日本」という世界観を基底においた。
・「人はよく方針というが、方針を定めてどうするのだ。およそ天下のことは、あらかじ
 め測り知ることができないものだ。網を張って鳥を待っていても、鳥がその上を飛んだ
 うとしても、天下には丸いものもあり、三角のものもある。丸いものや、三角のものを
 捕らえて、四角な箱に入れようというのは、さてさてご苦労千万なことだ」(勝海舟)
・「鴨の足は短く、鶴のすねは長いけれども、皆それぞれ用があるのだ。反対者には、ど
 しどし反対させて置くがよい。 わが行うところは是であるから、彼らはいつか悟ると
 きがあるだろう。窮屈逼塞は、天地の常道ではないよ」(勝海舟)
・「西郷隆盛」のことを理解するには、彼を毛沢東だと思えばいい。金も要らない、地位
 もいらない、名誉も要らない、 こういう人間が一番おっかない。二人とも農本主義者
 である。さらに、永久革命家である。革命が一つ終わればそれでお終いというのではな
 く、さらなる大改革をなさなきゃならん、という永久革命家なんです。
・長州や薩摩の田舎者が維新の権官となり、東京の女を妾にしていい気になっているのと
 見て苦々しく思ってたんでしょうね。そんな連中を叩き潰すためにも再び革命を起こそ
 うと。
・日本人がみんなして知恵を絞って考えるべきときにその大事なときに、薩摩がそんなこ
 とおかまいなしで倒幕運動に血道をあげていた。結局、権力を握りたいだけでした。明
 治維新などとかっこいい名前をあとからつけたけれど、あれはやっぱり暴力革命でしか
 ありません。あの大動乱の時代に誰が一番ひどい目にあったかといえば、われら民草な
 んですよ。慶応元年(1865年)から慶応三年ぐらいまでの間に、どのぐらいの飢饉
 が起きて、どのぐらい一揆が起きているか、もう驚くほどです。
・明治維新の直後のころは陸海軍ではなく海陸軍と海を先に、陸をあとにつけて呼んだん
 ですよ。つまり四面海なる帝国ですから、海軍が大事だということだったようです。と
 ころが、明治政府ができたあとも「神風連の乱」(明治五年)とは「秋月の乱」(明治
 九年)とか、そういう国内の反乱が起きて、最後は「西南戦争」(明治十年)という大
 反乱が起こる。そういう事情を早くくみとって、国内向けには陸軍が大事だと、陸海軍
 にたちまち逆転してしまうんです。
日清戦争に猛反対を続けていたのが勝海舟です。勝海舟は日清戦争について、「日本の
 大間違いの戦いである。こういう余計な戦争をして突っ込んでいくと、かえって朝鮮半
 島が他の国の餌食になる。むしろ清国とは日本の貿易のために、商業なり工業なり鉄道
 なりすべてにおいて、支那五億の民衆は日本にとって最大のお客さんである」と言った。
日露戦争時には、捕虜の汚名はなかった。そのことを思うと、太平洋戦争下においてし
 きりに唱えられた 「戦陣訓」の生きて虜囚の辱めをうけず」がもたらしたものが、な
 んと非情であったことか痛感させられる。言葉というもの、それも口当たりのいい美文
 名文の恐ろしさをしみじみと思い知る。
・「ポーツマス条約」調印に反対した「日比谷焼き打ち事件」にしても、一種の情報不足
 からです。日露戦争がどれほどきわどい勝ちであったかは国民には伝えられず、ただ
 「勝った、勝った」と書くものだから、賠償金も領土も得られないとわかって暴動にな
 ってしまったんですね。
・ジャーナリズムが煽ることで確かに世論が形成される。その世論が想定外といえるほど
 大きな勢いをもってくると、今度はジャーナリズムそのものが世論によって引き回され
 るようになる。煽られた世論の熱狂の前には、疑義を唱えて孤立する言論機関は、あれ
 よあれよという間に読者を失っていく。しかも恐ろしいことは「国民の声」であるから
 ということで、ジャーナリズムのみならず、政治・軍事の指導者の判断がそれに影響さ
 れていく。これは下からの声であるからという理由をもって、そこが断崖絶壁の危地で
 あることを承知で、何千何万の民草に”突進”を命ずることができるようになる。
・日露戦後、参謀本部で戦史が編纂されることになったとき、高級指揮官の少なからぬも
 のがあるまじき指摘をしたという。
 「日本兵は戦争において実はあまり精神力が強くない特性を持っている。しかし、この
 ことを戦史に残すことは弊害がある。ゆえに戦史はきれい事のみをしるし、精神力の強
 かった面を強調し、その事を将来軍隊教育にあって強く要求することが肝要である」
 なんということか。日露戦争史には、こうして真実は記載されなかった。つまり戦争を
 なんとか勝利で終えたとき、日本人は不思議なくらいリアリズムを失ってしまったので
 ある。
・日本帝国の創作者は「伊藤博文」と「山県有朋」であった。大正から昭和へ、伊藤の指
 導を受けた人びとは凋落して見る影もなく、その影響下にあった政党はただの形骸化し
 て去っていった。反して、山県のつくったものは永く存在し、国家を動かし猛威をふる
 った。民・軍にわたる官僚制度であり、統帥権の独立であり、帷幄上奏権であり、治安
 維持法である。なかんずく「現人神思想」である。昭和の日本で敗戦に導いた指導者の
 多くは、山県の衣鉢をついだものたちであった。その意味で、「大日本帝国は山県が滅
 ぼした」といっても、かならずしも過言ではない。

大正・昭和前期を見つめて
・「石橋湛山」の論理基準はまことに明瞭。みずから考え出した論理を押しつめて、たど
 りついた結論が「小日本主義」いいかえれば、当時の日本人の多くが抱いている「大日
 本主義」をあっさり棄てよという、棄てたところで、日本になんら不利をもたらさな
 い。かえって大きな国家的利益となる、ということであった。
・朝鮮・台湾・樺太・満州というごとき、わずかばかりの土地を棄つるにより広大なる支
 那の全土を我が友とし、進んで東洋の全体、否、世界の弱小国全体を我が道徳的支持者
 とすることは、いかばかりの利益であるか計り知れない。
・日本人は天災に見舞われると大騒ぎをして、これをくり返してはならないと固く誓う。
 しかし、 すぐに忘れる。過去の教訓を軽視し、知識や技術に甘えて、自然の偉大さを
 無視する。
・「二十億の国費、十万の同胞の血をあがなってロシアを駆逐した満州は、日本の生命線
 以外のなにものでもない」
 この数字は日露戦争で使った軍費、そして尊い犠牲者である。そうまでしてやっと手に
 入れた満州の権益は、まさしく昭和日本が守り抜くべき生命線ではないか。
 こうして「生命線」「二十億の国費」「十万の同胞の血」が国民感情を一致させるスロ
 ーガンとなってしまった。
・企業の倒産、操業短縮が相次ぎ、「昭和恐慌」は農村の疲弊を加えて、年をおうごとに
 苦難さを増すばかりとなった。この大量失業者の出現が社会不安を高め、政治不信とな
 り、国家の前途憂慮をうみ、多くのテロ事件、やがて満州事変を引き起こす因となった。
・軍人は政治に関与すべからず、という絶対原則が軍みずからの手によって無惨にも破ら
 れた時、日本は亡国の戦争に突入していった。
零式戦闘機はご存じのように、乗員席の後ろに防御版を置かなかった。攻撃の運動性能
 をあげるために機体を軽くすることを、搭乗員の命を守ることより優先させた。
 「戦艦大和」は当時の世界一の戦艦で、大きさと攻撃力は世界一でしたが、対空防御に
 ついてはほとんど想定していません。
・「攻撃は最大の防御なり」とは帝国陸海軍ともに信奉する考え方でした。満州事変から
 太平洋戦争にいたる 政戦略の外へ外へのエスカレーションは、まさにこの攻勢防御思
 想によるものでした。
・昭和十二年の年頭の新聞に作家の「野上弥生子」が心からの願いを寄せている。
 「・・・たったひとつお願いごとをしたい。・・・洪水があっても、大地震があっても、
 暴風雨があっても、・・・コレラとペストがいっしょにはやっても、よろしゅうござい
 ます。どうか戦争だけはございませんように・・・」
・「林銑十郎」内閣はとんでもないものを残していった。文部省思想局編で発行されたパ
 ンフレット「国体の本義」である。これが全国の学校・教化団体にくまなく配布される。
 内容はひと言でいえば、「万世一系の天皇を中心とする一大家族国家」が日本の国体で
 ある、という考え方を中心におき、それ以外のいっさいの思想を排除し、「君臣一体」
 を強調する教育統制強化を意図するものである。
・昭和十二年七月、日中戦争ぼっ発、陸軍が豪語する「中国一撃論」は完全に読み違って
 いた。 和平工作はうまく進まず、戦場は広大な中国大陸の奥へ奥へと広がっていった。
・大本営とは何ぞや。要は、戦時下の陸海軍の統一した統帥補佐機関、というわけ。日中
 戦争に対処するために設けられたもので太平洋戦争中にあった「大本営発表」が思い出
 されてくる、初期のころには、軍艦マーチと一緒に、ラジオから流れてきた”勝った、
 勝った”の「大本営発表」とともに国民は熱狂した。おしまいのころには海行かばの曲
 と一緒であった。撃滅したはずの敵が本土空襲を始めるのであるから、国民は「大本営
 発表」を信じなくなった。つまり「大本営発表」はウソの代名詞となる。
・昭和十四年九月にソ連との停戦協定が結ばれた後にできた「ノモンハン事件研究委員会」
 の結論はこうです。
 「火力価値の認識いまだ十分ならざるに起因して、わが火力の準備を怠り、国民性の性
  急なるとあいまち、 誤りたる訓練により遮二無二の突進になれ、ために組織ある火
  網により甚大な損害を招くに至るべきは深憂に堪えざるところなり」
 「優勢なる赤軍の火力に対し、勝ちを占める要諦は、一に急襲戦法にあり」
 つまり、火力に対しこれからますます精神力を強くすることを要す、というのです。敵
 の圧倒的な火力に対して 精神力をもって白兵突撃をやって、見事に互角に戦った、と
 いうのが結論なんです。
・参謀にはお咎めなし、というのは陸軍の伝統なんですね。連隊長はほとんど戦死が自決。
 事件後、軍司令官や師団長は軍を去りますが、参謀たちは少しのあいだ左遷されただけ
 で罪は問われませんでした。「服部征四郎」は、昭和十四年の停戦協定からわずか一年
 後の昭和十五年十月には参謀本部に戻ってくる。しかも作戦班長としてですよ。翌昭和
 十六年には作戦課長に昇進して八月には大佐に昇進。
・ノモンハン事件から何を学べるかと聞かれたら、私は5つあると答えています。
 @当時の陸軍のエリートたちが根拠なき自己過信を持っていた。
 A驕慢なる無知であった。
 Bエリート意識と出世欲が横溢していた。
 C偏差値優等生の困った小さな集団が天下を取っていた。
 D底知れず無責任であった。
 これは今でも続いている。
・要するに日本は中国と何のために戦争をしているのか分からなくなったんです。我々国
 民も「何のためにやっているんだ」という気分がかなり出てきた。そこで、昭和十五年
 一月、「阿部信行」内閣のとき、日本の戦争目的を政府発表したんです。
 「日中戦争の理想は我国肇国の精神たる八紘一宇の皇道を四海に宣布する一過程として、
 まず東亜に日・満・支を一体とする一大王道楽土を建設せんとするにあり」
 「その究極において世界人類の幸福を目的とし、当面において東洋平和の恒久的確立を
 目標としていることは、けだし自明のことである」
・フランスの社会心理学者「ル・ボン」は彼の著書「群集心理」において、次のように書
 いている。 
 「群衆の最も大きな特色は、その個人個人が集まって群集になったというだけで集団心
 理を持つようになり、そのおかげで、個人でいるのとはまったく別の感じ方や考え方や
 行動をする」
 そして群衆の特色を彼は鋭く定義している。
 「衝動的で、動揺しやすく、昂奮しやすく、暗示を受けやすく、物事を軽々しく信じる」
・昭和十五年から開戦への道程における日本人の、新しい戦争に期待する国民感情の流れ
 とはル・ボンのいうそのままといっていいような気がする。それもそのときの政府や軍
 部が冷静な計算で操作していったというようなものではない。日本にはヒトラーのよう
 な独裁者もいなかったし、強力で狡猾なファシストもいなかった。
・四年半に及ぶ泥沼の日中戦争は、昭和十六年十二月八日の真珠湾攻撃の日までに、実に
 百億円 (現在価値にして約二〇兆円)四五万五千七百人もの日本兵が戦死することに
 なるのです。
・戦場へのぞむ兵士の心得が、まことに名文で書かれている。校閲を「島崎藤村に依頼し、
 さらに「志賀直哉」、「和辻哲郎」にも目をとおしてもらったという。それが名文であ
 ればあるほど、この文書がその後の太平洋戦争に与えた影響は筆舌に尽くしがたいほど
 大きかった。
 「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」
 これである。そのために死ななくてもいいのに、無残な死を死んだ兵士がどれほどいた
 ことか。
・昭和十六年十月には「青壮年国民登録」が実施されている。男子は一六歳以上四〇歳未
 満、女子は一六歳以上二五歳未満で、配偶者のないものをすべて登録させた。国民の
 ”根こそぎ動員”の準備は着々と整っていたのである。
 かくて敗戦までに徴用されたもの一六〇万人、学徒動員三〇〇万人、女子挺身隊四七万
 人に及んだ。「自発性の強制」は国家によって見事に実施されたのである。
・昭和十六年十一月、太平洋戦争開戦一カ月前に大本営が考えた戦争の見通しは
 @初期作戦が成功し自給の途を確保し、長期戦に耐えることができたとき。
 A敏速積極的な行動で重慶の蒋介石が屈服したとき。
 B独ソ戦がドイツの勝利で終わったとき。
 Cドイツのイギリス上陸が成功し、イギリスが和を請うたとき。
 そのときには、アメリカは繊維を失うであろう。栄光ある講和にもちこむ機会がある、
 というのがその骨子である。特に、このBとCは必ず到来するものと信じ、だから勝算
 ありと見積もった。しかし、初期先戦不成功の場合、ドイツが崩壊した場合など、日本
 に不利になったときについてはまったく考えられていなかった。
・太平洋戦争における連行艦隊山本五十六大将の真珠湾攻撃作戦は「先制と集中」による
 攻撃主義という海軍兵術思想を見事に活かしたものである。と同時に、陸軍が説く「奇
 襲を全面的に採り入れた作戦計画でもあった。  

戦争の時代を生きて
・アジアの盟主たらんとする日本が、昭和十七年(一九四二年)春、緒戦の連勝連勝の勢
 いのまま、フィリピンのレイテ島を占領した。統治すること一年有余で、日本軍が成し
 遂げたもの。
 1)数本の田舎道を完成させた。
 2)井戸を五つ掘った。
 3)現地人用に水運びのための天秤棒を多量に作った。
 4)照明用にロウソクを大量にこしらえた。
 キミ、笑い給うことなかれ。これが六十年前の日本の実力のほどであった。
・このレイテ島を昭和十九年十月にアメリカ軍が奪還して、それからわずか十日間で成し
 遂げたもの。
 1)数本のアスファルト道路を造った。
 2)小規模な飛行場を完成させた。
 3)水道設備をくまなく完整させた。
 4)自家発電機を作った。
 いやはやである。日米間には天地雲泥の差があったことがわかる。
・ガダルカナル島で得た教訓を、天皇は東久邇宮にこんなふうにいったという。
 「ノモンハンの戦争の場合と同じように、わが陸海軍はあまりにも米軍を軽んじたため、
  ソロモン諸島では戦況不利となり、尊い犠牲を多く出したことは気の毒の限りである。
  しかし、わが軍にとってはよい教訓となったと思う」
 いや、日本の軍部はこの惨たる敗戦から何も学ばなかったのである。
・われら国民の願いとは無関係に、当時のリーダーたちがとんでもないことを意図してい
 た事実があることも指摘しておきたい。昭和十八年五月の御前会議で決定された「大東
 亜政略指導大綱」の第六項である。
 「マレー・スマトラ。ジャワ・ホルネオ・セレベス(ニューギニア)は、大日本帝国の
  領土とし、需要資源の供給源として、その開発と民心の把握につとめる。・・・これ
  らの地域を帝国領土とする方針は、当分、公表しない」
 アジア解放の大理想の裏側で、公表できないような、夜郎自大な、手前勝手な、これら
 の国々の植民地化を考えていた。 
・昭和十九年三月にインパール作戦が決行された。常識を超えたところで軍の力学が働き
 はじめ、不可能なことを可能であるかのように錯覚するのである。この戦いの悲劇性は、
 今度の戦争のなかでも、その極限の例を示すが、それは上層部を形成した将軍たちの功
 名心と保身と政治的必要に根拠をおいていたのである。統帥の錯誤と怠慢と夢想とを、
 第一線の将兵は義務以上の勇気と奮戦によってあがなわねばならなかった。
・昭和十九年十月、神風特別攻撃隊による最初の体当たり攻撃が行われた。軍令部総長よ
 りこの奏上を受け、天皇はいった。
 「そのようにまでせねばならなかったか。しかし、よくやった」
 「そのようにまでせねばならなかったか」のうちには、仁慈に満ちた天皇の姿がある。
 そして同じ人が、大元帥として「しかし、よくやった」と賞詞を述べるのである。一人
 の人間のなかに、政治的人格として二人の人間が共生しているかのような感じにとらわ
 れざるをえない。
・昭和十九年に最初の特攻の指揮をとった関大尉が、出発前に言ったといいます。
 「日本もおしまいだよ。俺のような優秀なパイロットを殺すなんて・・・しかし、命令
 とあれば、やむを得ない。日本が負けたらKA(家内)がアメ公に何をされるかわから
 ん。僕は彼女を守るために死ぬ」
 こうして基地と飛び立ち、再び帰りませんでした。
・昭和二十年はまさに「特攻の秋」である。戦場も銃後もなく一億総特攻である。祖国の
 明日のためには、これ以外に道はないと、決然と死地に赴いた若き特攻隊員が美しく、
 哀れであればあるほど、それを唯一の戦法と採用した軍の思想は永久に許すことができ
 ない。神風特攻も回天特攻も志願によった、とされている。志願せざるを得ない状況に
 しておいて志願させるのでは、形式にすぎないのである。そこには指導者の責任の自覚
 もモラルのかけらもない。おのれの無能と狼狽と不安とを誤魔化すための、大いなる堕
 落があるだけである。
・戦争の見通しについて、和平派にも主戦派にも大きな懸隔がなくなったときでありなが
 ら、なおかつ戦争を終結にもっていく具体的な政策は発見されなかった。国家的熱狂が
 それを許さなかったと結論してしまえば、まことに簡明であろう。たしかに戦争は一つ
 の狂気の時代であった。日本国民はかならずしも盲目でなかった。大本営発表から戦場
 の真相をさぐりあてる眼力をもっていた。しかし、それでいて、あらんかぎりのちから
 をつくして戦い、自分の家族の生命を守ろうとしたのである。かりに反戦思想をもった
 ひとがいたとしても、無残に死んでいく仲間に対して、特攻隊の若者に対して、なんら
 かの負い目を持たずにはいられなかった。共通の危難を背負った国家という共同体があ
 るとき、共同体と個人のどちらに真実があるのか、それを簡単に言い切ることは当時の
 日本人にはできないことであった。
東京大空襲の夜の東京の上空は晴れ、十〜二十メートルの北風が紙屑を飛ばして吹き荒
 れていました。東京防衛の第十飛行団はうかつにもこの夜にかぎって、B29の大編隊
 の接近をしらなかったようでした。それで空襲警報がずいぶん遅れました。
・焼け跡で、俺はこれからは「絶対」という言葉を使うまい、とただひとつのことを思っ
 た。絶対に正義は勝つ。絶対に日本は正しい。絶対に日本は負けない。絶対にわが家は
 焼けない。絶対に焼夷弾は消せる。絶対に俺は人を殺さない。絶対に・・・と、どのく
 らいまわりに絶対があり、その絶対を信じていたことか。それが虚しい、自分勝手な信
 念であることかを、このあっけらかんとした焼け跡が思い知らさせてくれた。
・この無差別爆撃の惨状について、戦後の昭和二十一年春にかかれた坂口安吾の「白痴」
 という小説にわたしにウムと唸らせられた描写がある。
 「人間が焼鳥と同じようにあっちこっちに死んでいる。ひとかたまりに死んでいる。ま
  ったく焼鳥と同じことだ。怖くもなければ、汚くもない。犬と並んで同じように焼け
  れてる死体もあるが、それはまったく犬死で、しかしそこにはその犬死の悲痛さも感
  慨すらもありはしない。人間が犬の如くに死んでいるのではなく、犬と、そして、そ
  れと同じような何物かがちょうど一皿の焼鳥のように盛られ並べられているだけだっ
  た。犬でもなく、もとより人間ですらもない」
・いま思うと、  わたくしはそれまでにもあまりにも多くの爆弾で吹きちぎられた死体
 の断片を見てきていたために、感覚がすっかり鈍磨しきっていて、転がっている人間の
 形をしたそれらがもう気にもならなかったのである。戦争というものの恐ろしさの本質
 はそこにある。非人間的になっていることにぜんぜん気付かない。当然のことをいうが、
 戦争とは人が無全に虐殺されることである。
・臥薪嘗胆は明治の合言葉であるが、大正・昭和も然りで、食うものも食わずに働きずく
 めに働いて、大艦隊をつくりあげ、すべて水底に送り込んだ近代日本の得体の知れぬ国
 家意思というものには、改めて仰天せざるをえないでいる。戦艦大和・武蔵は、いまで
 も零式戦闘機とならんで、戦記や戦史の人気役者であるが、あらゆる障害を無視しきっ
 て戦争へ突き進んだ「昭和」という時代の、そしてまた日本人にとっての太平洋戦争の、
 それらは象徴的存在でもあった。貧しい日本人は全精魂を傾けて、このほとんど役立た
 なかった戦艦をつくり、失い、空しき栄光のみを遺産として将来に伝えることとなった。
・昭和二十年六月六日付けの沖縄方面海軍特別根拠地司令官の「太田実」少将が発した海
 軍次官あての長文の電文を読むたびに粛然たる思いにかられる。これほど尊くも悲しい
 報告はないと思われるからである。沖縄県民が総力をあげて軍に協力し、敵上陸いらい
 戦い抜いている事実を、詳しく記して、最後のこう結んだ。
 「沖縄県民斯ク戦ヘリ。県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」
 軍は沖縄防衛線において、共に戦い共に死なん、と呼号して、非情にも県民を戦火の中
 にまきこんで戦った。そのときに非戦闘員に対するかくも美しい心遣いを示した軍人の
 いたことを誇っていい。
 そしていま、はたしてわれわれは沖縄の人々に「特別の高配」をしているのであろうか。
・アメリカの政府や統帥部が、日本軍部が日本国民の尻を叩くように呼称する「最後の一
 兵まで」の空しい豪語を、本気にそうするものと信じていたことは、必ずしも誤断とは
 いえなかったのである。日本大本営の当初の本土決戦計画は(ソ連参戦が決定的になる
 まで)、戦場の足手まといとなる老幼病弱者を犠牲にしてでも、日本本土を焦土にして
 でも、本土で死にもの狂いで戦い、最終的に天皇を満州の安全な陣地に移し、ソ連とな
 んとか手を結び、その支援のもとに、必勝の信念をもって米英に対しては徹底抗戦しよ
 う、というものであったからである。
・爆弾は敵に対し使用するためにつくる。威力や大小を問わない。敵を殲滅するために使
 う、それ以外のどんな意味があるというのか。確かに巨大な工場の建設のために十二万
 五千人の労働者が必要であった。この工場を稼働させるためにはさらに六万五千人。あ
 るだけの頭脳と技術と汗とを投入した。こうして、二十億ドル以上の巨費を食った「怪
 物」がいまできようとしている。ヒューマニズムとかモラルとか、ましてや人の情とか
 がそこに入り込む余地はない。人類はじまって以来、およそ戦争というものはそういう
 凶暴なもの非情なものであると、だれもがそう思うことで軍人たちは自分の心を納得さ
 せていたのである。日本人はそれを、まったく、知らないでいた。
・戦争という”熱狂”は、人間をやみくもに残念、愚劣にして無責任へとかりたてるもの
 なのであろうか。いや、途轍もなく強力な新兵器を、膨大な資金と莫大な労力をかけて
 造りあげたとき、それを使わないほうがおかしい、と、そう考えるのが人間というもの
 なのか。
・なぜソ連が対日参戦に踏み切ったか。
 1)将来の日本の侵略に備えた安全保障
 2)西側同盟諸国に対するソ連の神聖なる義務
 3)中国、朝鮮ならびに他のアジア人民の日本帝国主義者に対する闘争を援助するとい
   う道徳的義務
 以上、三つの高潔な動機に帰している。理由はどうにでもつけられる。「正義の戦争」
 があるはずはないのである。
・人は完全な無力と無策状態に追い込まれると、自分を軽蔑しはじめる。役立たず、無能、
 お前は何もできないのか。しかし、いつまでもこの状況にはいられなくなる。逃れるた
 めに、いや現実は逃れることなどできないゆえに、自己欺瞞にしがみつく。ソ連軍は出
 てこないという思い込みである。来るはずはないという確信である。
・あの悲惨な戦争を、なぜ、もっと早く止めることができなかったか?後世から見れば何
 と愚かなことを、という酷評を甘受するほかはないであろうが、大日本帝国はそんなに
 簡単に白旗を揚げるわけにはいかなかったのである。なぜなら、雨メリカが頑強に「無
 条件降伏」政策を突きつけていたからである。戦争に勝利のないことが明らかになって
 も、少しでも有利な条件で講和に持ち込みたい、政府も軍部も悲壮なまでにそう祈願し、
 あるはずのない必勝の作戦を模索し戦い続けていたのである。
・参謀本部首脳や阿南陸相が考えていたのは、十月に予想された九州上陸作戦で一撃を与
 え、 終戦に持ち込むということで、関東地方上陸のときは勝算はなくゲリラ戦以外に
 ないとしていた。
・「竹下中佐」、「井田中佐」、「畑中少佐」の三人は、東大教授平泉澄博士直門として
 昭和十年ごろよりずっと兄弟子弟の関係にあった。彼らは平泉博士より、自然発生的な
 実在としての国体観を学んでいた。天皇を現人神とし一君万民の結合をとげる。これが
 日本の国体の精華であると、彼らは確信しているのである。
 彼らの考えるところでは、戦争はひとり軍人だけがするのではなく、君臣一如、全国民
 にて最後のひとりになるまで、遂行せねばならないはずのものであった。国民の生命を
 助けるなどという理由で無条件降伏するということは、かえって国体を破壊することで
 あり、すなわち革命的行為となると結論し、これを阻止することこそ、国体にもっとも
 忠なのである、と信じた。
阿南陸相自刃、森師団長殉職により、全陸軍は喪に服したように、徹底抗戦の夢をすて
 た。将兵の心の内に残っていた諦めきれないなにものかが断ちきられた。陸相の感じた
 「大罪」は、全陸軍のものであった。そして、椎崎、畑中、古賀ら青年将校の死が、一
 時の狷介な精神から発した暴挙、あるいは行動を反省する機会を、多くの将兵にあたえ
 た。
・国が敗れたからには、やがてアメリカ軍やソ連軍がやってきて、女たちは凌辱され、男
 たちは皆奴隷となる。  お前たちは南の島かシベリアかカリフォルニアへ連れていか
 れ重労働させられる、と前々から大人たちに教えられていました。
・昭和二十年八月 十六日にトルーマンに宛ててスターリンが手紙を出しています。その
 手紙が何かというと、北海道を半分くれという手紙でした。「・・・北海道島の北半と
 南半との境界線は、島の東岸にある釧路市から島の西岸にある留萌市にいたる線を通る
 ものとし、両市は島の北半に含めること」と。トルーマンは「とんでもない。断固とし
 てノーだ」と、これを蹴った。それでスターリンが何を考えたかというと、シベリア抑
 留なんですよ。
・有史以来はじめての亡国に際し、軍部だけを責めるのは大局を誤ることになる。このと
 き、日本の政治家や外交官もそれ以上に責められなければならない大きな過ちを犯して
 いる。彼らもまた、降伏に際して国際法的に厳密に、かつ緊急につきとめなければなら
 ないことについて、素通りというより無知と錯覚で見過ごす、という許されざることを
 やっている。それが満州にある日本人すべてに何をもたらすか、後にあまりにも明らか
 になる。
・疲れ果て追い詰められ絶望的になった開拓団の集団自決が、八月二十日を過ぎたころよ
 りいたるところではじまった。生命を守ってくれる軍隊に逃げられ、包囲されて脱出の
 望みを絶たれた人びとによって、最後に残された自由は死だけであった。
・満州に渡った民間の日本人は約百六十万人、そのうち開拓団は二十七万人でした。そし
 て十七万人以上の人が日本へ帰って来ませんでした。八月十五日以降、国家はこの人た
 ちを何の保護もせずにほっぽり出した。まさに棄民なんですよね。今日の日本のスター
 トには、日本人が加害者でありながら被害者になった、被害者でありながら加害者であ
 ったという妙な時代があったわけです。
・満州国という巨大な”領土”を持ったがために、分不相応な巨大な軍隊を編成せねばなら
 ず、それを無理に保持したがゆえに狼的な軍事国家として、政治まで変質した。それが
 近代日本の悲劇的な歴史というものである。
・昭和二十年八月二十八日、東久邇宮首相が記者会見でとつとつとして太平洋戦争の敗因
 について語った。 
 「ことここに至ったのはもちろん、政府の政策のよくなかったからでもあったが、また
  国民の道義のすたれたのも、この原因の一つである。この際私は軍官民、国民全体が
  徹底的に反省懺悔しなければならぬと思う。一億総懺悔することが、わが国再建の第
  一歩であり、わが国内団結の第一歩と信ずる」
 ところが、なぜ、超大国を敵としての戦争に敗けたことをわれわれが反省し懺悔しなけ
 ればならないのか、 懺悔と詫びねばならぬのは政府・軍部たち指導者ではないか、と
 きびしく考えた人はあまりいなかったようなのである。戦争指導者の責任は、国民全体
 の責任へと拡散されて転嫁され、国民一人ひとりの責任は全体へともやもやと紛れ込ん
 で、結局は雲散霧消した。
クラウゼヴィッツの「戦争は別の手段をもってする政治の継続にすぎない」という大原
 則が、なぜか第二次世界大戦においては忘れられていた。これこそが戦争を考えるとき
 のいちばんの真理であると思っている。クラウゼヴィッツは戦争は政治の道具だといっ
 ているのである。戦争という暴力行為は政治目的お表出であって、その代償行為ではな
 い、と説いているのである。それを戦前の日本人は見事に誤読ないし誤解していた。
 第一の誤読が、政治と戦争との関係が可逆的であるとする見方である。早く言ってしま
 えば、軍事こそが政治を有効なものにするという改竄である。さらには政治を単に外交
 へと切り縮めてしまうことである。外交の手段としての戦争と、戦争の手段としての外
 交という 互換を勝手にしてしまったのである。
 第二の誤読は、いったん戦争が始まってしまったら、政治は作戦に干渉すべきではない、
 という純軍事論である。かつての日本帝国の”統帥権の独立”はまさにそれであった。
 最高統帥に完全な自由が与えられないと、戦争は勝利に結びつかないと信じ込んでいた。
・軍事に強圧的にひきずられた日本帝国の政治に、政治的大戦略はありうべくもなかった。
 ドイツの勝利を唯一の頼みの綱として、戦勝後のドイツの世界戦略のアジアにおけるお
 こぼれをあずかる。それを大戦略と錯覚していた昭和の軍人や政治家が、クラウゼヴィ
 ッツを読みこなしていたとは思えない。
・昭和二十年八月二十八日の新聞に、元陸軍中将「石原莞爾」のインタビュー記事が掲載
 された。 
 「戦に敗けた以上はキッパリと潔く軍をして有終の美をなさしめて、軍備を撤廃した上、
  今度は世界の輿論に、吾こそ平和の先進国である位の誇りを以って対したい。将来、
  国軍に向けた熱意に劣らぬものを、科学、分化、産業の向上に傾けて、祖国の再建に
  勇往邁進したならば、必ずや十年を出でずしてこの狭い国土に、この厖大な人口を抱
  きながら、世界の最優秀国に伍して絶対に劣らぬ文明国になりうると確信する。世界
  はこの猫額大の島国が剛健優雅な民族精神を以て、世界の平和と進運に寄与すること
  になったら、どんなにか驚くであろう。こんな美しい偉大な仕事はあるまい」
 石原は軍備放棄を提唱しているではないか。これには驚いた。いまにして思うと、これ
 こそが敗戦という 厳しい現実にまともに向き合った人の発言といえるのではあるまい
 か。
・戦争に敗北することによって、日本人の無知、卑劣、無責任、狡猾、醜悪、抜け目なさ、
 愚劣という悪徳がつぎつぎにぶちまけられる。だれもが自分以外のだれかを罵倒しつづ
 けた。
・そして人間不信、日本人であることの屈辱、嫌悪、情けなさ、それを決定づけたのは、
 元首相「東条英機」大将の自決未遂ではなかったか。敗戦以来失望することのみが多か
 ったが、翌日の新聞で、ピストル自殺に失敗、の報道を読んだときほど、心底からがっ
 かりしたことはない。
・「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対す
  る全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の決裁にゆだねるためおた
  ずねした」
 昭和20年9月、連合軍総司令官「マッカーサー」元帥と初めて対面したときの、昭和
 天皇の言葉である。この言葉にマッカーサーはただもう感激し、天皇を一途に尊敬した
 という。
・昭和20年9月に昭和天皇がマッカーサー元帥をアメリカ大使館に訪ねたその朝のこと。
 早朝から秘密裡の準備のために慌ただしく、理髪師を呼んでいないことが直前になって
 わかった。狼狽する侍従や女官たちを落ち着かせるように、皇后がいった。「それなら
 ば、私がやりますから大丈夫」と。いまも写真に残るあの歴史的会見の天皇の髪型は、
 皇后お手ずからのものであった。
・昭和20年8月15日現在、海軍の艦艇はほとんどなかったが、陸軍は日本本土に57
 個師団 約257万名余の兵力を有し、陸海合わせて約1万6千機の航空機が残ってい
 た。これらがおとなしく武器をすて、武装解除が完了したのは10月15日。一発の発
 砲もなく、ただ一人の死傷者もなくこれが完了したというのは、世界中のだれの眼にも
 奇跡としか映らなかった。
・戦争を知らない世代の成長とともに、過去は過去として葬らしめよ、という声も聞くよ
 うになりました。核兵器に対する考え方も日本人の心のうちで、位置を変えつつあるよ
 うです。戦争の傷が癒えるとともに、いつか私たちの心の中に、人間そのものから考え
 ずに、機械や組織や権力や制度や数字といった人間とは別のものから考える傾向が生ま
 れてきたためではないでしょうか。
「・非人間的」、そのことこそがすなわち「戦争」なのであります。いつ死んでも仕方が
 ない死ぬのがむしろ自然という状態は、生きていないことと同じことで、今度の戦争は
 死の体験を与えてくれましたが、同時に私たちはどのくらい非人間的になれるかという
 ことも教えてくれたはずでした。
・大本営の学校秀才的参謀どもの机上で立てた作戦計画のために、太平洋戦争において陸
 海軍将兵は(軍属を含む)240万人が戦死した。このうち、広義の飢餓による死者は
 70パーセントに及ぶものであった。あまりに手を広げすぎたために食糧薬品弾丸など
 補給したくても、とてもかなわぬお粗末さ。わが忠勇無双の兵隊さんは、ガリガリの骨
 と皮になって無念の死を死ななければならなかった。

戦後を歩んで
・それまで燈火管制で電燈や窓に黒い幕をつけていたのを、戦争が終わっても率先して取
 り去る人がなぜかなくて、暗かったんです。そうするうちに指令がきました。鈴木貫太
 郎
内閣が総辞職した後を受けた東久邇宮稔彦内閣に、昭和天皇が「国民生活を明るくす
 るためにもういいかげん遮蔽幕を取れ」と命じたようです。
・満州・朝鮮に約100万人、中国に約110万人、南方諸地域に約160万人の合計約
 370万人もの陸海軍将兵や軍属は、粛々と日本国土に還ってきた。これを「復員」と
 いった。 
・さらに、中国や満州その他の外地には多くの居留民がいた。その数約300万人。これ
 ら多数の老若男女が、「引き揚げ」の名のもとに、まったく保護なしに母国へ帰ってき
 た。国家に見捨てられた引揚者の、帰国するまでの労苦は筆舌尽くし難く、世界史上に
 もこれほどに苦難の祖国帰還の例はない。
・昭和二十一年、背広の天皇の東北巡行のとき、徒歩で沿道の人たちの歓迎を受けている
 天皇の前に、 一人の若い娘が進み出た。真っ白な布に包んだ白木の箱を胸に抱き、写
 真まで添えられてあった。娘は天皇に向けて遺骨を差し上げた。この白い包みと直面し
 た天皇は立ち止まった。そして天皇は・・・。いや、何も言わなかった。天皇は娘と遺
 骨に眼を注いだまま、しばし動かなかった。その頬は少し痙攣しているように見えた。
 天皇の習慣を知っていたお付きのものや新聞記者は、そのとき、天皇が泣いていること
 に気がついたのである。小さく痙攣する頬を見ながら、彼らは胸を衝かれた。われわれ
 は涙で泣くが、天皇は、頬がやや痙攣するだけなのである。
・ノーベル文学賞を受賞したパール・バック「大地」の中の忘れられない言葉がある。
 「罪は貧に始まり、貧は食の足らざるより起こる。食の足らざるは、土を耕すことを忘
  ればなり。 土を耕すことなければ、人は大地と結ばるることなし」
 土を耕すことを忘れつつある資源なき農耕国家の日本。はたしてこの国の明日は大丈夫
 なのかいな、と 思うときがしばしばである。
・アメリカの航空宇宙博物館に飾っていた一枚の賞状が思い出されてくる。昭和三十九年
 に、米国空軍大将「カーチス・イー・ルメイ」(東京大空襲を指揮した男)に対する勲
 一等を授与したときの賞状である。ちなみに、総理大臣は佐藤栄作となっているが、実
 はルメイ大将に賞を授けることを決定したのは、佐藤の前の池田勇内閣のときであった。
 そして、叙勲に最大尽力したのが、そのときの防衛庁長官の小泉純也小泉純一郎の親
 父どのである。
靖国神社では、昭和五十三年にA級戦犯の14名を「昭和殉難者」として合祀しました。
 日本国民に対してとてつもない戦争責任を負っている彼らが、なんと「殉難者」だとい
 うのです。確かに彼らは戦犯(犯罪者)ではなくなったが、戦争を起こし遂行した責任
 者です。はたして、その戦争責任者の中に非業の死を遂げた「殉難者」と呼べる人がい
 るのでしょうか。
・二十一世紀になったらいっさい贅沢と縁を切り、余計なことはやめる。自然をこれ以上
 壊さない。現状で止めることです。これでおしまいにしとかんと、この国はまた滅びま
 すね。

じっさい見たこと、聞いたこと
・「高木惣吉」元少将に、東条暗殺計画のことを尋ねたことがある。「当時は本気でやる
 つもりでした。七月二十日と決めた。後で知って驚きましたね。ヒトラー暗殺未遂事件
 も同じ日だったんです」高木元少将は、戦争末期には米内光政海相を援け、終戦工作に
 身を挺して働いた良識派である。
・元内大臣「木戸幸一」に生前二回だけ面談したことがある。昭和天皇に対する批評もき
 ちんと言った近衛文麿、東条英機への悪口も堂々とぶった。しかし、自己反省の言はつ
 いに出なかった。
・「辻政信」参謀には、戦後も昭和二十九年の暮れに議員会館の一室で会ったことがある。
 元陸軍大佐・陸軍作戦参謀のエースどのは、代議士先生になっていた。源平時代の比叡
 山の荒法師を思わせる相貌、炯々たる光を放つ三角眼で、先生は得意の日本防衛論をま
 くしたてた。
 「まずは自体隊のいまのような傭兵的性格を是正し、日本的自衛軍をつくり、編制、装
  備、訓練に根本的改正を加えねばならぬ。そのためには憲法を改めて祖国の防衛は、
 国民の崇高な義務であることを明らかにし、自衛隊員の精神的基礎を確立せねばならな
 い。そのことを抜かしてなんの国防が成るというのか」
・最後の連合艦隊司令長官だった「小沢治三郎」を訪ねたことがある。東京世田谷の閑静
 な住宅街に、ひっそりと世をはばかったように暮らす老夫婦である。ほとんど出歩くこ
 ともなく、訪う人とてそう滅多にない。名将・小沢治三郎の毎日は、小さな家でテレビ
 を見、ラジオを聴き、そして本を読むことでついやされている。昔から言葉数少ない人
 であった。そして今は、より語らざる老人なのである。「このままそっと消えてゆきた
 い気持ちだよ。本当に数多くの優秀な人を死なせてしまった。申し訳ないと思っている。
 それを思うと、周囲の情勢がガラリと変わったからといって、自己の主義主張を変えて
 平気な連中の多いことを、わしは心から残念に思うのだが・・・」死んだ人は何も語ら
 ない。そしてまた死に遅れた人も何も語らない。
・インパール作戦の猛将・「宮崎繁三郎」を訪ねた。昭和二十三年夏、小田急線下北沢駅
 前 のマーケットに「岐阜屋」という岐阜県の特産品をならべた小さな店が開かれた。
 取材のため私を迎えた元将軍はつねに微笑を絶やさなかった。その小柄な、好々爺とし
 た人が、第五四師団長として、ビルマの土地で悲痛な防禦線を戦って終戦を迎えた闘将、
 宮崎繁三郎中将のイメージとは、どうしてもダブらなかった。ついにその人の口からイ
 ンパール作戦のことはただ一言もでなかった。
・世界的に有名な軍事評論家ハンソン・ボードウィンが、戦後になって、その著書のなか
 で、「太平洋の戦争をとおして日本に二人の名将がいる。陸の牛島、海の田中」と激賞
 した。 牛島とは沖縄第三二軍司令官・「牛島満」中将であり、海の名将とは第二水雷
 戦隊司令官・「田中頼三」少将のことであった。かつての名将・田中頼三氏の閑居する
 山口市朝日は、むしろ大歳村と言った方が土地の人にはわかりいい。代々庄屋をやって
 いたという住居はかなり宏壮である。だが、戦後の氏の困窮を物語るように、どれもが
 傷んで、あまり修復がゆきとどいていない。「そうですな。晴耕雨読。実にいい言葉で
 すなあ。ルンガ夜戦以来、僕には、することがなくなったと行ってもいいのだがね」さ
 びしそうな口調であった。

あとがき
・わたくしを含めて戦時下に生を受けた日本人は、だれもが一生をフィクションのなかで
 生きてきたといえるのではなかろうか。万世一系の天皇は神である、日本民族は世界一
 優秀であり、この国の使命は世界史を新しく書きかえることにあった。日本軍は無敵で
 あり、点にまします神はかならず大日本帝国を救い給うのである。
・このゆるぎないフィクションの上に、いくつもの小さなフィクションを重ねてみたとこ
 ろで、それを虚構とは考えられないのではなかったか。