原節子の真実 :石井妙子

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この本は、「原節子」という映画女優の生涯を綴ったノンフィクションである。
原節子といっても、今の時代では、もう知らない人の方が多いのかもしれない。そういう
私自身も、この本を読むまでは、「昔の美人で名の売れた映画女優」程度の知識しか持ち
合わせていなかった。
しかし、この本を読んでみて、戦前・戦中・戦後の激動の時代を、信念を持って精一杯生
き抜いた、原節子というひとりの映画女優の生き様を知り、深く感動し、そして最後には
涙した。彼女は、単なる「美しい映画女優」だけではなかった。自分の意志とは無関係に、
その時々の時代そのものを背負わされた女性でもあったと言えるだろう。見た目の華やか
さとは違い、彼女の実生活は、実に質素で堅実であり、家族のために懸命に働いた人生だ
ったようだ。そのような彼女の真実を知って、心底、感動し、敬服した。
またこの本は、単なるひとりの映画女優の生涯を綴ったものではなく、戦前・戦中・戦後
という昭和の激動の時代が、どんな時代であったのかを、ひとりの女性の人生を通じて書
き綴ってものでもある。原節子は、そんな時代のなかにおいて、政治的に利用されたり、
戦争映画のなかで女優という役割を通じて、間接的にではあるが、戦争に加担させられた
りもしたようだ。これは、戦争の時代に生きた人にとっては、否応もなく、避けることの
できないことであったのだろう。
それにしても、原節子が、日独防共協定締結に関係していたとは驚いた。今までに読んだ
半藤一利」の著書や「保阪正康」の著書などでは、日独防共協定関係で原節子の話が出
てきたという記憶はまったくない。
原節子は、映画女優を引退後は、自宅に引き籠り、いっさい映画界や世間との関係を断ち
切った。原節子は14歳で映画女優になったようだが、当時、原節子は映画界への憧れな
どはまったくなかったようだ。映画女優になった理由は、家庭の経済事情にあったようだ。
苦しい家計を助けて親孝行をしたいという切なる思いから映画女優になったのが実情だっ
たようだ。
生来、内気で恥ずかしがり屋な性格だったという原節子にとって、自分の姿を人前に晒す
映画女優という仕事は、ほんとうは辛い耐えられない職業だったのかもしれない。そう考
えると、映画女優を引退したことは、原節子にとっては、本当にホッとしたことに違いな
い。
私は、「孤独」には「望まない孤独」と「望んだ孤独」があると思う。自分から望んだわ
けではないのに孤独なのはほんとうの孤独だと思うが、自らが望んで孤独でいる人も少な
からずいると思う。孤独になってはじめて、静かに自分らしい生き方ができていると、ホ
ッとしている人たちも少なからずいるのだ。おそらく、原節子は、そういう種類の人だっ
たのだろうと思うのだ。そういうことを考えると、原節子の晩年は、しあわせな晩年だっ
たと言えるのではなかろうか。
それにしてもこの本は、ほんとうによく調べて書かれている。著者の原節子に対する深い
思い入れと情熱を強く感じた。
ところで、この本を読んでいる最中に、偶然、YouTubeに”著者が語る「原節子の真実」
というのがあるのを発見した。こちらでは懐かしい原節子の動画を見ることができる。

まえがき
・彼女の本名は会田昌江である。親族の献身に支えられて、彼女はすでに半世紀以上もこ
 の生垣の奥深くに身を隠し、世間を遮断して隠棲し続けている。今日はその彼女の95
 回目の誕生日にあたった。
・昭和の大女優といわれた彼女は、ふたつの意味で世間から未だ忘れ去られずにいる。ひ
 とつには彼女があまりにも気品に溢れて美しく、作品を通じて観る人を今も魅了し続け
 ているからである。ふたつには、そんな彼女がある日突然、理由も告げずに銀幕を去り、
 以来、姿を隠し沈黙を守り続けているからだった。
・頑なに自分を語ることを拒否した著名人でも、老境に至り、あるいは死を間近に感じて、
 心境が変わる人もなくなない。しかし、彼女に限っては、この先どんなに年を重ねよう
 とそのようなことは ないはずだと、3年、彼女を追い求めてきた私自身が誰よりも理
 解していた。
・彼女は自分を語ることを欲せず、語り継がれることも望んではいない。その姿勢はこの
 先も変わりはしないだろう。できれば、もう忘れてほしい、そっとしてほしいと願って
 いるに違いない。
・原節子は特別の女優である。彼女は昭和10年(1935年)、わずか14歳で女優に
 なった。そして昭和37年(1962年)、42歳でしずかに銀幕を去っていった。
 28年間の女優人生で、出演作は112本。決して多くはない。
・外国人の血が混じっていると噂された彫の深い顔立ちで、抜きん出た美しさと気品を持
 ち、人の心に訴える陰影のある演技をし、戦前から戦後まで日本映画界の黄金期に華と
 して君臨した。
・一方、日本では、長く「永遠の処女」のキャッチフレーズで彼女は知られる。お下げ髪
 の女学生役でデビューし、一貫して清純無垢な役柄を演じることが多かった。当時の女
 優としては大変めずらしいことに、一度も芸者や遊女を演じていない。女学生や令嬢、
 もしくは教師か女医がはまり役とされた。加えて私生活においても、独身を貫き、ゴシ
 ップもなく、崇拝の対象とされたのである。
・彼女は初めからずっと映画界の中で陽のあたる道だけを歩み続けた人のように、思われ
 るかもしれない。 だが、彼女が最も美しかった頃、日本は戦争に明け暮れていた。映
 画女優としても、ひとりの女性としても、彼女には戦争の犠牲者という側面がある。
・原節子が本当に女優として認められたのは戦後のことだ。敗戦を25歳で迎えた彼女は
 打ちひしがれる日本人を、慰撫し、鼓舞した。清く、正しく、美しく、日本を導く役割
 をになった女優、それが原節子だったのだ。
・会田昌江として大正9年(1920年)に生まれた彼女は、「原節子」となり時代を背
 負って駆け抜け、昭和37年の映画出演を最後に忽然と姿を消した。それから半世紀も
 の時が流れている。
 
寡黙な少女
・年老いて得た子どもは可愛いという。その例にもれず、昌江は年かさの両親のもと、4
 人の姉、2人の兄に囲まれて、愛情を一身に浴びて育っていた。両親と6人の兄姉とい
 う存在が、昌江の生涯を決定づけたとも言える。
・一番上の姉は喜久といった。昌江とは19も歳が離れていた。病弱でずっと臥せってい
 たという。この長姉は結婚せぬまま昭和19年(1944年)に42歳で亡くなってい
 る。
・二番目の姉は光代、昌江よりも14歳年長だった。昌江の人生にもっとも強い影響を与
 えた姉だ。光代がいなければ、「原節子」は生まれ得なかった。昌江は生涯、この姉の
 傍から離れることなく、彼女の死後も、その次男である甥の久昭夫婦に守られて暮らす
 ことになる。
・三番目の姉は11歳年長で喜代子といった。光代と同じくフェリス和英女学校に学んで
 いる。協会で知り合った青山学院の学生木下順と聖書の中にラブレターを挟んで交換す
 るような大恋愛を経て結婚。木下は三井銀行に勤め、神戸支社、大連支社に勤務する。
 一家は満州で良い生活を送っていたが、後、敗戦によりすべてを失い、引き揚げてくる
 ことになる。戦後、長男が東宝に入社、映画監督になる木下亮である。
・4番目の姉は律子という。昌江より4歳年長で、小さな頃はどこへ行っても一緒だった。
 姉たちの中で、最も美しかったといわれる。横浜高等女学校卒。一時、節子の身の回り
 の世話をしていたが、「原節子よりも美しい姉」と映画界でも評判が立ち、映画監督の
 番匠義彰に見初められて結婚。その後、離婚している。
・長兄は武雄といい、16歳違い。東京外国語学校(現・東京外国語大学)でフランス語
 を勉強し、その後、弁護士となり満州に渡った。
・次兄の吉男とは6歳違いである。明治大学で法律を勉強し、長兄と同じく弁護士を目指
 していたが、中退。昌江とともに映画界入りすることになり、映画キャメラマンになっ
 た。
・3歳になってほどなく、昌江は人生で最初の災禍を経験する。大正12年(1923年)
 9月1日、正午前のことだ。突然、大地が引き裂かれるように激しく揺れ、地響きとと
 もに会田家は大きく音を立てて崩れ落ちた。「関東大震災」である。地震地は相模湾沖
 で、横浜の受けた被害は甚大だった。
・この時、昌江の母のナミは台所で煮炊きをしていて頭から熱湯をかぶって大やけどを負
 い、その結果、心身を病むことになってしまったという。
・保土ヶ谷の家は借家だったが倒壊した家屋を建て直して、一家は暮らし続けた。そして、
 震災から3年賀経った大正15年(1926年)12月、大正天皇が崩御して元号は昭
 和となる。 
・小学校時代の同級生たちが記憶する彼女は、寡黙で人と群れず、いつも教室の片隅で本
 を広げて孤独な空気を漂わせていたという。
・実はこの頃、彼女の家庭は経済的に問題を抱えていた。昭和4年(1929年)10月
 末、アメリカのニューヨーク・ウォール街に端を発した株価の暴落が、海を渡って少女
 の家庭をも直撃していたのである。輸出品の生糸が売れなくなり、父の店も大きな打撃
 を受けていた。「かわいそうに昌江ちゃんは、いつも着た切り雀でした」
・悲劇はそれに留まらなかった。母ナミが心身を病んでしまっていたという。母が病にお
 かされ、時おり母でなくなってしまう。それは、父の仕事が傾き経済的に苦しむ、とい
 う問題とは、まったく別次元の哀しみを少女に与えたに違いない。昌江は終生、自分を
 語ることを好まなかった。
・少女が本を手放さず、常に読書に没頭していたのも、厳しい現実から離れて空想の世界
 に身を置きたかったからなのか。
・当時の昌江はなんといっても、色が黒くて痩せていた。眼があまりにも大きくてギョロ
 ギョロしているので男子生徒からは眼の大きさが5センチはあるとからかわれ、”5セ
 ンチ眼”とあだ名をつけられていたという、身なりが貧しかったこともあり、容貌はで
 特に目立つことはなかったようだ。ひとつには土地柄もあったろう。比較的裕福な横浜
 商人の子弟が多かった保土ヶ谷尋常小学校には、他にも整った顔立ちの子どもがおり、
 また、西洋人を見る機会も多い。横浜では昌江の容貌がそれほどには目立たなかったか
 もしれない。加えて、昌江のすぐ上の姉である律子の存在も大きかった。昌江の同級生
 も皆、律子の美貌を記憶している。昌江は美貌の姉の陰に隠れて、少なくとも幼少期は
 特に目立つ存在ではなかったようだ。だからだろう。彼女には、女優になってからも、
 自分が美貌に恵まれているという自覚は希薄だった。
・「原節子は混血だ」という噂が半ば事実のように語られているが、私が調べたかぎり、
 会田家の祖先に外国人がいたという事実はない。西洋風の顔立ちは日本橋に生まれ育っ
 た父から受け継いだものだが、会田家の先祖に外国人がいたという記録も証言も見られ
 ない。
・子ども時代の昌江は容姿とは別のことで注目を集めていた。とにかく成績が良かったの
 だと多くの同級生が証言している。5年生の時、一度だけ東京からの転校生に負けて昌
 江は一番を取れなかった。担任の教師は成績表を配り終えると昌江ひとりを教室に残し、
 こう注意した。「転校生に負けては駄目ですね。この次はしっかりと頑張りなさい」
 昌江は期待に応えて、すぐに一番に返り咲く。
・やせっぽっちで眼ばかり大きい、着た切り雀。本を読み耽る寡黙な少女。努力家で運動
 も得意な優等生。それが同級生たちに記憶される”昌江ちゃん”だ。
・横浜生まれの少女が本とともに愛したものがある。海だ。時間があれば昌江は海に行き、
 泳げる季節から泳ぎ、冬は遠くから青い水面を見つめて過ごした。そして次第に、ふた
 つの夢を少女は抱くようになる。ひとつは堅実な夢だった。「学校の先生になりたい」。
 夢というよりも、それは成績の良い少女にとって現実的な目標だった。もうひとつは、
 文字通りの夢で、「外国へ行ってみたい」と憧れた。小さな頃から海に浮かぶ外国船や
 船員たちを間近に見て、遠い異国に思いを馳せてきた。
・外国への憧れは、横浜のモダンな空気を吸って育った会田家の、他の兄姉とも共有して
 いた。とりわけ長兄の武雄は、東京外語でフランス語を学んだほど、フランスに恋焦が
 れていた。その兄にしても外国行きは、見果てぬ夢だった。よほどの資産家、成功者で
 なければ叶えられない。ましてや、会田家は没落し、生活に追われる日常では、外国な
 ど空想の世界でしかなかった。
・少女は、県立横浜第一高等女学校を受験することにした。どの小学校からも優秀な生徒
 が受験して、各校一人か二人しか合格できない県下一の難関校である。だが、マンモス
 校な上に優秀な生徒も多い保土ヶ谷尋常小学校は、毎年、5、6人の合格者を出してい
 た。学年一位の昌江なら絶対に受かるはず、誰もがそう思って疑わなかった。ところが、
 思いもよらぬことが起こってしまう。肝心の受験当日昌江は風邪をこじらせ、高熱を出
 してしまったのだ。試験は受けたものの、結果は不合格。この出来事は少女を打ちのめ
 した。
・家は困窮していた。県立以外では、親に学費の負担が重くのしかかる。親思いの少女は、
 受験に失敗した自分自身を強く責めたに違いない。昌江はすぐに上の姉、律子も通った
 私立の横浜高等女学校に入学する。地元ではそれなりに名が通った女学校だった。とは
 いえ、第一高女への憧れが強かった昌江にとっては、どこまでも不本意な結果だったの
 だろう。昌江より成績の悪かった同級生が、第一高女の征服を着て通学する姿と毎朝す
 れ違う。そのたびに、昌江は視線を伏せた。
・世間では、「昭和恐慌」に東北地方の冷害が重なり、自殺や少女の身売りが相次いでい
 た。こうした世相を受けて、昭和6年(1931年)には、中国大陸で関東軍により
 「満州事変」が引き起こされる。翌年、国際的な非難を浴びるなかで、日本は強引に中
 国東北部に「満州国」を建国し、疲弊した日本の農村から農民たちを次々と開拓民とし
 て移住させた。
・昭和8年になると、欧洲ではドイツにヒトラー率いるナチス政権が誕生し、満州国建国
 を非難された日本とナチスドイツは、それぞれ「国際連盟」を脱退。孤立したこの同士、
 急速に接近していく。

義兄・熊谷久虎
・昭和9年(1934年)3月下旬、それまで京都で暮らしていた姉の光代一家が、夫の
 転勤に伴い、この春から東京で暮らすことになった。義兄の名は「熊谷久虎」、映画会
 社「日活」に所属する映画監督で、日活が東京に現代劇専門の撮影所を開所するにあた
 り、京都から赴任してきたのだった。
・光代の経歴は、これまで判然としなかった。「大部屋女優だった」という噂がかねてか
 ら映画界にはあり、しばしば活字にもなっているが、芸名もわからず噂止まりだった。
 このたび調べてみて、ふたつの事実に行きついた。光代は、たしかに女優をしていたの
 だ。しかも、大部屋女優などではなく、主演作もあった。芸名は、「相田澄子」である。
 また「相田澄子」の名で脚本も書いていた。光代はフェリス女学校を卒業後、日活に入
 社して女優となり、その後、脚本家に転身したようである。
・それにしても、フェリス出身の子女が映画女優になるとは、当時としては、かなり奇異
 な選択ではなかったか。なぜなら初期の映画女優は、花柳界の出身者などで占められ、
 一般家庭の女性が就く職業とは見なされていなかったからだ。会田家が没落したため、
 いたしかたなく女優になったのかと想像したが、光代が日活に入社した大正末年、まだ
 家運は傾いていない。光代は明治39年(1906年)生まれ。大正デモクラシーと言
 われた自由な時代の空気を吸って青春を謳歌した世代である。時代の先端を行く典型的
 なモダンガールだったのではないだろうか。
・とはいえ、女性が人前に顔を晒すことが恥とされた時代である。そのうえ映画人は「活
 動屋」といわれて、「河原乞食」と蔑まれた演劇人よりも、さらに一段低く見られてい
 た。映画女優のなり手はおらず、芸者やダンサーといった玄人女性に声をかけて即席の
 映画女優にするか、もしくは、舞台に立つ新劇女優を金で口説き落として勧誘するかし
 かない。そんな時代であった。
・この時期、一世を風靡したのは新劇から日活入りした、あでやかな「岡田嘉子」だった。 
・光代は「溝口健二」監督のもとで「筆耕」をしていた。そのまま進めば女性脚本家とし
 て道が開けたかもしれない。だが、光代はその道を進まなかった。溝口監督の下で助監
 督をしていた熊谷久虎と結婚し、長男の陽を出産した。光代は以後、家庭の人となる。
・光代の後任に溝口監督は新しい筆耕を雇った。それが京都府立第一高等女学校を卒業し
 た才媛、「坂根田鶴子」である。坂根は後に日本初の女性映画監督となり映画史に名を
 残している。
・義兄の熊谷久虎が、昌江の人格形成に、あるいは原節子という女優の在り方に、光代以
 上に大きな影響を与えた人間であると断言して差支えないだろう。
・熊谷久虎が生まれたのは大分県中津市。とはいえ、熊谷家のルーツは南の山間部に分け
 入った耶馬渓と呼ばれる秘境である。土地の旧家であったが、父の久九郎の代で中津の
 中心部に出てきたという。熊谷の語るところによれば久九郎は「松下村塾」や「適塾
 と並ぶ幕末の三大私塾のひとつ、耶馬渓からも近い日田の「咸宜園」に学んだ秀才だっ
 た。
・熊谷は若い頃から思想哲学に興味を持ち、将来は帝国大学に進んで、それを修めたいと
 考えていたという。ところが、中津中学に進む頃に父が炭鉱事業に手を出して失敗した
 ため、やむなく大分高等商業学校(現・大分大学経済学部)に入学。だが、高商の教育
 にはまったく興味を持てず、授業をさぼって読書ばかりしていたと語っている。
・熊谷は留年をきっかけに思い切って高商を中退。父親の従兄弟である「池永浩久」を京
 都に訪ね就職を頼んだという。池永は当時、映画会社日活の大将軍撮影所の所長をして
 いた。池永の肝いりで、熊谷は将来を最も嘱望されていた溝口健二監督のもとに送られ、
 助監督になった。しかし、九州男児で愛想がないうえに映画界を低く見る気持ちが自然
 と滲み出るからか、撮影所内では仲間もできなかった。次第に熊谷は読書に逃避してい
 った。思想書や哲学書のほか、プロレタリア文学に熱中し、京都帝大にもぐり込んでマ
 ルキストの経済学者として知られた「河上肇」の講義を聴講することもあった。監督に
 昇格できない悔しさもあってか、熊谷は次第に会社首脳部に労働環境の改善を求めるな
 どして、楯突くようになっていくそんな熊谷でも恋愛をした。その相手が、日活の同僚
 で、女優から脚本家に転じようとしていた相田澄子、こと会田光代だったのである。
・熊谷の経歴を振り返ってみると、会田昌江(原節子)との共通点が多いことに気付かさ
 れる。家の没落、志望校ではない学校へ進学、読書への逃避、親に学費を負担させるこ
 とへの気兼ね、映画界への嫌悪・・・。 
・熊谷が光代と結婚し監督になった翌年の昭和6年には中国大陸で「満州事変」が起こり、
 さらに翌7年には「満州国」が建国される。同時期、日活は経営に行き詰まり、社員の
 大量馘首を断行した。日活は社運をかけてさらなる賭けに出た。東京に現代劇を専門に
 撮る撮影所を設けようと考えたのだ。また、音のないサイレント映画から音入りのトー
 キーへの切り替えも同時に進めようとした。こうして昭和9年(1934年)に熊谷は、
 現代劇の担当の監督として京都から東京に赴任することになったのだ。
・この撮影所が成功するかどうかは、ひとえに女優にかかっていた。洋装の似合う、現代
 劇専門の女優を急いでかき集めなければならなかった。こうした状況のなかで、京都を
 発つ時から計画はすでに、夫婦の中で練られていたであろう。熊谷と光代は、成長した
 末妹の昌江に再会して、自分たちの見立てに間違いはなかったと満足したに違いない。
・4月、新学期が始まると昌江は退学の意向を女学校に伝えた。校長は、少女を必死にな
 って説得しようとした。とびきり成績優秀な生徒だった。それなのに、家庭の事情で学
 校をやめて、よりによって映画女優になるという。校長は不憫でならず、言葉を変えて
 翻意を促した。けれど、少女は校長の恩情に感謝を示しながらも、学校を去っていった。
・もともと志望校ではない女学校だった。だが、何といっても少女を決断させたのは、家
 庭の経済状況だった。親孝行をしたいという切なる思いがあった。映画界への憧れなど
 一切なかった。会田家の急場をしのぐための選択。だから女優を長くやる気持ちなどな
 く、職業にするという自覚も、もちろん少女にはない。
・熊谷はこの時、昌江だけでなく、昌江の二番目の兄である吉男も映画キャメラマンにな
 るよう強引に説得して日活に入社させている。熊谷からすれば人員の乏しい東京の日活
 撮影所に、身内からキャメラマンと女優を供給することができ、会社に恩を売れたので
 はないか。
・14歳の昌江は子役には大きすぎ、娘役には子どもすぎ、また、あまりにも痩せていた
 ため、デビューは当面、見送られた。その間、義兄の家で昌江は「女中さんのようにし
 て」過ごしたと後年、語っている。
・昭和10年(1935年)4月、昌江は正式に日活の専属女優となった。デビュー作は、
 トーキーではなくサイレント映画にところどころ音楽の入った「サウント版」と言われ
 るもので「田口哲」監督の「ためらふ勿れ若人よ」に決まった。原作は劇作家、「高田
 保
」の小説。中学生と美少女の淡い交際を描いており、昌江が演じた役の名は「お節ち
 ゃん」だった。撮影所長の「根岸寛一」は、ここから昌江の芸名を「原節子」に決めた
 と語っている。「原節子」とはずいぶんと平凡な名前である。この芸名からもわかるよ
 うに「原節子」は、大きく期待されてデビューしたわけではなかった。
・初めての撮影は撮影所ではなく、よりによって地方でのロケから始まった。家を出る時、
 姉の光代から細紐を一本、手渡された。「寝る時には、これで膝頭を縛って寝なさい」
 幼い節子は姉が何を言おうとしているのか、わからなかった。ただ、行儀よく寝ろとい
 う意味だと解して、細紐を鞄に詰めた。
・節子が乗ったロケバスに見知った顔はひとつもなかった。しかも、全員が男性だった。
 バスに揺られながら、怖くて顔を上げることさえできなかった。おまけにバスは遅れて
 その日にうちに現地に着けず、途中で一泊することになってしまった。宿屋に入ってご
 飯を出されても、まったく喉を通らない。とはいえ、ただただ大人しく、ことの成り行
 きに身を任せるだけの少女でもなかった。夕飯をそこそこに済ませると、彼女は思い切
 った行動に出る。女中部屋に飛び込み、ひとり手に取ると、握りしめて必死にこう頼み
 込んだ。「お願いです。あなたのお代は私が払いますから、お客様になって、私と一緒
 に私の部屋に泊って下さい」女中は笑いながら、節子の言うことを聞いてくれた。女中
 の隣で床につく前、節子は姉の言いつけに従い、細紐を取り出すと自らの膝頭をきつく
 縛った。傍にいた女中は、そんな様子を見て声を立てて笑った。
・翌日、ようやくロケ地に着き、監督や他の女優たちと合流した。ところが、節子は相変
 わらずで、何を聞いても蚊の鳴くような返事しか返さなかった。純真無垢な役柄にぴっ
 たりの女優が得られたと、それまでは喜んでいた田口監督も、さすがに不安を覚え始め
 た。こんな状況に、この少女は耐えられないのではないか。酷なことだと思った。だが、
 そうは言っても慣れさせるしかない。節子を促し、とりあえず田口はキャメラを回した。
 その瞬間のことだった。突然、目の前の少女が豹変したのである。
・それは天性の才か、あるいは覚悟を決めた少女の強さだったのか。節子自身は後年、
 「女優になって、はじめのうちは黒山の人だかりを見ても、あまりに緊張しているので、
  それが人の顔には見えなかった」と語っている。
・当時の女優、それも映画女優がどう見られていたか。節子よりも11歳年長の「田中絹
 代
」は幼くして父を亡くし、琵琶に合わせて踊る琵琶少女歌劇団に入って舞台に立ち、
 日銭を稼いで家族を支えていた。だが、そんな境遇にあった彼女でも「映画女優になり
 たい」と母に告白すると、「お前はそんな賤しいものになりたいのか」と激怒され、家
 の外に放り出されたという。節子より3歳年長の「山田五十鈴」は、は、やはり家庭が
 困窮し、元芸者の母に勧められて芸者になろうとしていた。そこへ、日活から女優にな
 らないかと誘いを受け映画界入りするのだが、やはり、母は、「映画女優になぞなった
 ら嫁に行けなくなる」と言って激しく反対したという。
・当時の雑誌を読んでも、いかに映画女優が見下されていたかが、よくわかる。映画界は
 堕落しきった社会として描かれている。特に女優は会社幹部、監督、男優と関係しない
 ものはなく、性病にかかったり望まぬ妊娠をしたりする。そんな記事ばかりが眼につく。
・節子はデビューした年の四作目「緑の地平線」で初めてトーキーを経験する。主演は4
 歳年上のスター女優、「水久保澄子」で節子は脇役のひとり。監督は「阿部豊」だった。
 ところが撮影が始まって間もなく、主演の水久保が自殺未遂騒ぎを起こし降板するとい
 う問題が起った。その理由は、映画界の女優に対する差別的な扱いに耐えきれなかった
 と、後に明かしている。
・これより、さかのぼること8年、昭和2年(1927年)にも日活では制作中の大作
 「椿姫」の撮影現場から主演女優の「岡田嘉子」が相手役と姿を消す、という騒動があ
 った。岡田が相手役の俳優を誘って駆落ちした格好だった。やはり彼女も、「日活への、
 映画界への、監督への反発だった」と後年に述懐している。
・水久保の降板劇があった年には、新興キネマを代表する人気女優の「志賀暁子」が、堕
 胎罪で逮捕されるという大事件もあった。志賀は、子どもの父親は阿部豊監督であり、
 監督の立場を利用した誘惑に抗えず、結婚もしてくれなかったため堕胎に踏み切るしか
 なかったのだと公判で告白している。
・水久保澄子も岡田嘉子も志賀暁子も比較的裕福な一般家庭の出身で、女学校にも通った
 女性たちである。花柳界出身の女優と違って、こうした女優たちの方が映画界の悪弊に
 染まり切れず心身を壊されていってしまう。世間は女優を、不真面目でふしだらな存在
 だと色眼鏡で見ており、また、そう見られても仕方のない現実があることも確かだった。
 節子は幼いながら、冷静に、こうした映画界を一歩引いて見つけていた。
・節子は休み時間になると、いつもひとりになれる場所を探した。空き時間があれば、少
 しでも本を読んだ。無口で周囲になじもうとしない少女を、「可愛げがない」と批判す
 る声もなくはなかった。
・撮影所の中で居場所を求めて不安気にさ迷う少女の姿が浮かび上げってくる。そんな節
 子にとって最大の幸運は、生涯の友をこの大人ばかりの撮影所で見つけられたことだろ
 う。相手は髪結いの少女で、名をさかゑ(結婚後、中尾さかゑ)といった。節子より1
 年年長で、日活の東京撮影所の開所とともに入社し結髪部屋で働いていた。同世代のふ
 たりは、大人ばかり、男ばかりという社会の中で肩を寄せ合って過ごした。節子は撮影
 所では常にさかゑの姿を探し彼女のいる結髪部屋で過ごした。
・節子が黎明期の映画界で身をもち崩さずにすんだのは、彼女自身が聡明であったこと、
 義兄で監督の立場にあった熊谷が後ろ盾としてひかえ目を光らせていたことに加えて、
 この、さかゑの存在が大きかったと考えられる。大人社会のなかにあって櫛ひとつで身
 を立てる少女は、節子にとって友であると同時に同志であり戦友でもあった。さかゑは、
 その後、結髪師として映画界に名を残すことになる。
・さらに、もうひとり、節子にとって心の支えとなった人物がいた。女優の「入江たか子
 である。女優になって2年目、昭和11年(1936年)公開の「白衣の佳人」で初め
 て入江と共演した節子は、彼女の美しさと内面から滲み出る気品に撮影現場で圧倒され
 た。映画界で初めて、憧れの対象を持つことができた。
・銀幕のなかの姿と実際とお落差に驚かされる先輩女優も少なくはない。考えられぬよう
 な意地悪をされることもあった。だが、入江はまったく違っていた。本物の品位があっ
 た。入江は監督をはじめスタッフと決して馴れ合わなかった。かといって尊大に振る舞
 うわけでもなく、周囲から自然と敬意をもって接せられていた。映画女優のなかでは別
 格の出自で、正真正銘の子爵令嬢だった。映画女優の社会的な地位を上げ、イメージを
 変えるという意味で、節子より9歳年長の入江が果たした役割は大きかった。その後、
 日活をやめて独立し、「入江ぷろだくしょん」を設立したが、自分のプロダクションを
 持ち一国一城の主となった女優もまた、当時は入江だけだった。女性の身で自立を目指
 したその姿勢も、節子は密かに敬意を抱いていたようである。
・入江に夢中になった節子は、ある日、並んで写真を撮ってもらって大喜びで家に持ち帰
 り、 得意になって義兄に見せた。ところが、熊谷は意外なことを口にした。
 「お前の方がきれいなかんじだ」
 節子は入江と並んだ写真を改めて見つめ、自分ひとりで考えてみた。そのうち、あるこ
 とに気づく。自分はただ無心でそこに映っている。映されることを少しも意識していな
 い。一方、女優としてのキャリアが長い入江は、自然と美しく撮られるように表情を作
 っているように見えた。美は美を意識した瞬間に失われる。節子はこの時、そう悟った
 のだろう。だからだろうか。彼女は驚くほど自分の美を無造作に扱った。美容に神経を
 使ったり、化粧や衣裳に凝ったりすることを嫌った。
・撮影所からは、まっすぐ帰宅するようにと節子に厳命し、家事をやらせ続けたのも熊谷
 だった。映画人とはあまり付き合わないように、とも言われた。すれた人間にならない
 ように、映画界に染まらぬように、そのためには普通の女性がそうであるように、家事
 をきちんとやりなさい、と教育されたのだった。だから節子は、ご飯も炊けば、雑巾掛
 けもし、針仕事も覚えた。人間としての美徳を失っては、本当の美は出てこないと熊谷
 は考えていたようである。
・節子が女優になって1年が過ぎた。まだ、スターの卵の卵である状態は変わらず、脇役
 を演じることが多かった。けれど、ほかの女優にはない初々しさと独特の雰囲気が少し
 ずつ注目されるようになった。

運命との出会い
・昭和11年(1936年)、15歳の冬、節子は京都にいた。この出演依頼の話が来た
 時、節子はろくに考えもせず断ろうとしたものだった。同じ日活でも東京の多摩川撮影
 所ではなく京都で制作する時代劇だ。慣れない土地の慣れない撮影所に行くと思うだけ
 で気が進まなかったからだ。だいたい、時代劇は一度も出たことがない。現代劇は東京
 で撮り、時代劇は京都で撮るということになっていて、監督も俳優もスタッフも、明確
 に所属が分かれていた。けれど周囲は、「あの山中貞雄監督が、わざわざ指名してくれ
 るなんて」と、少女の背中を強く押した。京都の映画界に明るい姉の光代が付き添うこ
 とになり、ようやく少女は出演を決めた。
・作品名は「河内山宗俊」。節子は貧しい甘酒売りの娘を演じた。ぐれて不良の仲間入り
 をした弟を心配する、心優しい清純な姉の役だ。撮影現場で山中は長い顎を右手でさす
 りながら節子を見て、「やっぱりええ、ええ子や。今にあの子は日本でも指折りのスタ
 ーになりよる」と、ひとりごちた。
・「河内山宗俊」の現場で練達の俳優たちは、少女を可愛がった。何くれとなく聞かれれ
 ば教えてやった。彼らは、少女をひと目見るなり素のままで十分だ、と監督が起用した
 意図を汲んでいた。自分たちが脇を固めて、この少女の無垢な資質が生かされるように
 すればよいのだ、と。
・「河内山宗俊」は節子が主演した映画で、全編が現存する最古のフィルムである。山中
 によって 女優「原節子」が発掘されたのだった。そして、「河内山宗俊」の撮影中、
 さらに節子はある人物に発見される。
・まだ「河内山宗俊」を撮影中に、「スタジオ見学に外国の偉い人が来たから、一緒に記
 念撮影をしてくれまへんか」節子は躊躇した。最後には節子が根負けした。仕方なくス
 タジオに戻ると西洋人の一行がいた。最初に紹介されたのは、精悍な中年の紳士で、彼
 こそは、「アーノルド・ファンク」博士。山岳映画の巨匠として知られる著名な監督だ
 った。
・ドイツの巨匠ファンクがドイツ人スタッフを率いて来日し、日本人俳優を用いて、日本
 を題材にした映画を日本で撮る。 映画史上初の「日独合作映画」を巨費と投じて作り、
 世界に向けて公開する予定だという。このニュースは日本人にとっては誇らしいことで
 あり、大きな話題になっていた。
・それにしても、なぜ、そうした映画が作られることになったのか。表向きは外国映画の
 輸入配給会社「東和商事」の社長、川喜多長政が企画し、出資したことになっていた。
 しかし、それは事実ではなく、真の発案者を公にしないための偽装だった。実際の出資
 者はナチスであり、発案者はドイツ人で日本事情にも明るい、武器商人の「フリードリ
 ヒ・ハック
」、だったのである。ファンク監督とこのハックは、ドイツの地方都市フラ
 イブルクで育った幼馴染であり、同じ高等学校の同窓生でもあった。
・ハックは大学で経済学を学んで満州に渡り、一時は南満州鉄道に勤務した。その後、日
 本語もできたハックは、商社を興し、日本軍部にドイツの武器を盛んに売った。その結
 果、単なる武器商人の域を超え、日本軍とナチスをつなぐフィクサーとなるのだった。
・日本もドイツも昭和8年(1933年)、国際連盟を脱退していた。そのドイツと日本
 が同盟関係を結べば、国際的孤立を防ぎ、また、台頭するソ連を東西から抑えこめる。
 そのように考えた日本軍部はハックを通じてドイツに働きかけ、日独間の関係強化を図
 る協定の締結が水面下で進められていた。そこには克服しなければならない問題があっ
 た。まず、日本という国に対する認知度が低い。そして、何よりも黄色人種への差別感
 情が根強かった。日独で協定を締結するなら、その前に日本に対するイメージを好転さ
 せる必要がある。そこからプロパガンダ映画の製作を思いつくのだった。
・ハックは、ヒトラーの右腕といわれた宣伝相「ゲッベルス」のもとを訪れ相談した。ゲ
 ッベルスはすぐに同意し、映画製作の資金を出すと約束した。さらにハックの考えを聞
 いた駐独日本大使館付陸軍武官の「大島浩」(のちお駐独大使)もまた、熱心にこれを
 後押しした。
・映画は十九世紀末に生まれ二十世紀に育った、二十世紀の申し子である。二十世紀は戦
 争の世紀であり、映画は常に戦争を養分に成長してきた。戦争が起これば戦場を記録し
 たニュース映画が人気を博し、戦意高揚の戦争映画が作られ、映画界を潤す。国家もま
 た、これを最大限に利用してきた。
・ドイツも、ベルリンから30キロほど南西にあるポツダムに巨大な映画製作会社「ウー
 ファ」を設立し、ハリウッドと張り合う欧洲映画の一大拠点となっていく。日本に無条
 件降伏を求める「ポツダム宣言」で知られることになるポツダムであるが、元はハリウ
 ッドと並ぶ映画産業の街でもあったのだ。ハリウッドとポツダムの映画産業は、それぞ
 れ独自に発展していったが、そこにはある共通項もあった。どちらも働き手の大半が、
 ユダヤ系で占められていたのである。
・ユダヤ系の人々はその昔から、新興産業にいち早く参入し、第一線で活躍してきた。映
 画産業も、 そのひとつに含まれたのだ。ところが、ナチスが政権を取ると、すぐさま
 ドイツの映画界あらユダヤ人が追放されていった。
・逆にナチスのお抱えとなって眼を見張るような活躍をした監督もあった。女性映画監督
 の「レニ・リーフェンシュタール」は、その筆頭であろう。1934年のナチス党大会
 を撮った記録映画「意志の勝利」、1936年のベルリン・オリンピックを映した「
 リンピア
」は、ナチス賛美のプロパガンダ映画として批判されるが、芸術性の高い記録
 映画の傑作でもある。世界の映画監督に与えた影響ははかり知れず、リーフェンシュタ
 ールの作品を初めて観た「黒澤明」は、椅子から立ち上げれぬほどの衝撃を受けたとい
 う。このリーフェンシュタールとファンク監督は一時、恋人関係にあった。
・このリーフェンシュタールの活躍とは対照的に、師匠のファンクは落ちぶれていた。ゲ
 ッベルスに好かれなかった上に、 ハリウッドで仕事をしようにも彼の地ではドイツ人
 監督が作品を撮ることが、ナチス政権以降、難しくなっていたからだ。生活は困窮した。
 その上二度目の結婚をしていた彼の、若く、美しい妻は身ごもっていた。そうしたなか
 で旧知のハックが仕事を紹介してくれたのである。
・ファンクは、ハックと新妻エリザベートと生まれたばかりの息子ハンス、それにドイツ
 人女優の「ルート・エヴェラー」ほか3,4人の製作スタッフとともに1936年1月、
 マルセイユから日本行きの船に乗った。
・表向きはこの映画のプロデューサーとして来日したフィクサーのハックは、ヒトラーや
 大島陸軍武官の 密使として暗躍していた。日本の政府高官のもとを訪れては、ベルリ
 ンで進められている日独軍事協定の構想を説明して回り、ナチスドイツへの理解を求め
 た。ハックにとって、映画製作はフィクサーとして活躍するための隠れ蓑だったのだ。
・偶然ではあるが、ファンク一行は東京の平河町にある万平ホテルに落ち着いて間もなく、
 「二・二六事件」に巻き込まれている。深夜、叛乱軍が踏み込んできて、ホテルは数日
 間占領され、妻のエリザベートは「生きた心地がしなかった」と回想している。
・ファンクはひたすら映画づくりに没頭した。共同監督は伊丹万作、主演俳優は小杉勇
 決まった。だが、肝心の主演女優が、なかなか決まらなかった。日本側関係者はファン
 クに対して、ベテラン女優の田中絹代を強力に推した。だが、ファンクはどうしても納
 得できなかった。ファンクが求めていたのは、あくまでもドイツ人の眼に美しく見える
 女優だった。たくさんの女優に会った。だが、売り込まれる女優に会えば会うほど、彼
 は失望し、同時にある女優の顔をしきりに思い出すようになるのだった。あの雪の降り
 積もる京都のスタジオで見かけた、少女のようにあどけない女優のことを。それを日本
 人スタッフに懸命に伝えたが、彼らは一笑に付して取り合おうとしなかった。まったく
 無名の新人で話しにならないというのだ。彼女の名前を知らないという映画人もいた。
 ファンクは自分を言いくるめようとする日本人に怒り、思わず声を荒げた。
 「とにかく自分自身を納得させるためにも、私はもう一度、あの女優に会わなくてはな
 らないのです。彼女にここに来るように伝えてくれ」
・この話を伝え聞いて誰よりも驚いたのは、当の節子であった。彼女はいつものように尻
 込みをして面会そのものを断ろうとした。それを日活の宣伝部員が「とにかく会うだけ
 でも」と懸命に説得し、万平ホテルまで彼女を引っ張って行った。再会した時、節子は
 部屋の中で、ただただ恥ずかしそうにうつむいていたとファンクは回想している。ファ
 ンクは改めて節子に接し、こんな内気な女優がいるのかと不思議に思った、という。そ
 れでも、厳しい目で少女を観察しながら台本を手渡すと、通訳を介してこう頼んだ。
 「少し演じてみてくれ」
 台本を受取った節子は、さらに身をよじるようにして、はにかむようにうつむいた。と
 ころが台本をめくって指示を受けた次の瞬間のことだ。その変貌ぶりをファンクはこう
 記している。<彼女は、いままでとはうってかわって無心な演技を披露してくれた。私
 はそれを見て大きな才能を持つ女優が、今、目の前にいるのだとはっきりわかった>
・無名の新人女優がヒロインの座を射止めたというニュースは、新聞に報じられ、瞬く間
 に日本中を駆け巡った。 
・脚本の完成前から、ドイツ人キャメラマンを中心にした撮影隊は日本全国のロケに出て
 いた。北は宮城の松島から南は九州の阿蘇山まで「美しい日本の風景をひたすら撮って
 回り、その3分の2の行程に節子も同行したという。
・初夏、よくやくファンクは脚本を完成させ、本格的な撮影に入った。映画のタイトルは
 「新しき土」(外国では「侍の娘」)に決まった。節子の演じるのは武士の血を引く、
 侍の娘「大和和子」。
・筋を読むだけでは、この映画がナチスの意向を受けた国策映画であることは、わかりに
 くいかもしれない。しかしながら、実際に鑑賞すれば、ファンクが当時の外交を踏まえ
 て、いかの細心の注意を払ったかを感じ取ることができる。節子が演じる光子は、誇り
 高い女性として描かれている。名門生まれで日本的な教育を受け長刀や茶道や琴を嗜む
 一方、ドイツ語を習い、ドイツ式の近代泳法まで身につけている、進歩的で西洋的な教
 育も受けた女性である。対する輝雄は、ドイツで教育を受けたドイツ語を自在に操る、
 ドイツに心酔したドイツかぶれの日本人として登場する。富士山や桜や安芸の宮島とい
 った風景が、これでもかと映し出されるが、それだけではなく、銀座のきらめくネオン
 や近代化された紡績工場の内部も登場する。
・他にも「地震などの災害を通じて、日本人には高い精神性が育まれた」「日本人の最上
 位に在るのが天皇家で、日本人は天皇家のために生まれて死ぬ」と、ナレーションで日
 本や日本人が紹介されていく。そうしたなかで、とりわけ目をひくのが満州国の描かれ
 方である。「日本は人口が多く土地が少ない」「日本はどこも耕された、古い土だ。新
 しい土が必要だ」と畳み掛け、日本が満州の地を手にするのは必然であると訴えかけて
 いる。そもそも、「新しき土」とは満州の暗喩なのだった。
・節子が演じた光子は、つまりは日本そのものである。そして輝雄は、ドイツの暗喩だ。
 輝雄は、光子の美点になかなか気づけない。遅れていると見る。しかし、次第にその美
 しさ、素晴らしさを理解する。光子は、輝雄のためなら自分の命も投げ出す侍の娘なの
 だ。輝雄と光子が結婚し、満州に赴いて幸せになるという結末は、ドイツと日本が軍事
 同盟を結べば輝かしい未来がある、というメッセージにほかならない。光子は日本であ
 り、日本はドイツに尽くすのである。しかし、そんなファンクのメッセージに撮影中も
 公開後も、気づく日本人はほとんどいなかった。
・撮影の合間を縫って、密命を帯びていたハックは、日本とベルリンの間を忙しく往復し
 ていた。日本側の意向をベルリンに伝え、ベルリン側の意向を日本に伝えるために。そ
 して、ついにその日を迎える。昭和11年(1936年)11月、ベルリンで「日独防
 共協定
」が締結された。「武者小路公共」駐独大使がサインする様子を、傍らで誰より
 も満足気に見入っていたのは陸軍武官の大島浩と、日本撮影隊から離れて急遽帰国した
 ハックだった。
・当初は、ソ連を仮想敵国として結ばれた、漠とした軍事協定だった。ところが、翌年に
 はイタリアが加盟して日独伊防共協定となり、さらに発展して昭和15年(1940年)
 には三国同盟の締結へと至る。日本の運命を決することになった軍事同盟、その陰に存
 在した一本に日独合作映画、そこで日本を体現する役割を担わされた原節子は、このと
 き、まだ16歳だった。
・「新しき土」は昭和12年(1937年)の2月にまず日本で、続いて4月にドイツで
 日独防共協定締結を記念する合作映画として、公開されることが決まった。公開前日の
 特別試写会には一流劇場である帝国劇場が選ばれ、宮家のほか政府高官、外交官夫婦ら
 が煌びやかに着飾り集まった。低俗、下劣、「丁稚小僧と子守女中が見るもの」と蔑ま
 れてきた日本映画界にとって、それは考えられぬことであり、新聞は「映画界初の快挙、
 八宮家ご光臨、感涙」と伝えている。
・軍事協定を結んだ友邦ドイツの資金で作る国策映画であれば、日本も当然、国家として
 それなりの敬意を示さなくてはならない。そこで八宮家までが臨席したのであろう。ま
 た、会場には密かにベルリンから日本に帰国した大島浩の姿もあった。当日、帝国劇場
 の舞台には、巨大な日の丸とドイツの国旗となったナチスの鉤十字の旗が掲げられた。
 ファンク監督と原節子が万雷の拍手で迎えられて舞台に立つと挨拶をした。節子が映画
 の舞台挨拶に立ったのは、後にも先にも、この「新しき土」の時だけだ。翌日から映画
 館の前には長蛇の列ができた。「新しき土」は映画の域を超えた社会現象となっていた。
 日本映画など観ることもない高位高官、インテリ学生が足を運ぶ一方、普段はこうした
 映画などに見向きもしない庶民層も映画館に押しかけた。
・ファンクが去っても、熱狂は続いた。とりわけ人々を興奮させたのは、ベルリンで行わ
 れるナチス高官を招いての公開前日の特別試写会に、節子も招待されたことだった。
・いったい、どこまで幸運な女優なのか。映画人のみならず、誰もが節子を羨んだ。節子
 の名はさらに、日本全国に知れ渡り、洋行のニュースは何度となく新聞紙上で大きく取
 り上げられた。「外国へ行く」ことが夢のまた夢だった時代である。それを、この16
 歳の少女は易々と手に入れてしまったのだ。
・「新しき土」の公開から1ヶ月後の昭和12年(1937年)3月、節子は東京駅に向
 かった。夜の9時過ぎだというのに、駅には「開闢以来」といわれる2千人を超える人
 々が押しかけ、凄まじい混乱と狂騒を呈していた。節子は義兄夫婦、それに東和商事の
 川喜多長政、かしこ夫婦とともに5人で汽車に乗り込んだが、今にも窓ガラスをたたき
 割り、人がなだれ込んできそうな様子に恐怖を覚えた。
 「節チャンを出せ!」「日本の恋人」「違う、世界の恋人だっ」
 時おり大きな歓声が起こる。人気女優を見たいというだけの理由ではない。「西洋で認
 められてきてくれ」という明治の開国以来の、この国の人々の悲壮な思いと祈りが、そ
 こにはあり、すべてが少女に託されていたのである。
・神戸でいったん下車し、銀行員の木下順に嫁いだ三姉の喜代子のもとを訪問し、再び汽
 車に揺られて12日の朝、下関に到着。門司港から船で大連へ。そこから先は再び汽車
 で、満州、ロシアを経由してベルリンを目指す予定だった。
・門司港から大連行きの大型船ウスリー丸の中で節子はある人物に出会っている。元憲兵
 大尉の「甘粕正彦」と、清朝王族の地を引き川島芳子の姪に当たる、愛新覚羅錬呂のふ
 たり連れである。そんな人物と同じ船に乗り合わせたのは偶然なのか。川喜多は船中で
 甘粕と親しくつき合った。この2年後に甘粕が映画会社の理事長になることを考えると
 興味深い。
・3月14日、船は満州の玄関口である関東州の大連港に入った。ここでも節子は熱烈に
 歓迎される。船から降りた川喜多夫妻と熊谷、節子の4人は車で大連から旅順まで足を
 延ばして、一日観光を楽しんだ。「日露戦争」の激戦地「二〇三高地」に立った時には、
 赤土の広がるばかりの荒涼とした風景、そこに建つ巨大な忠霊塔を見て、胸にこみ上げ
 てくるものがあった。ここで多くの日本兵の血が流されたのだ。
・旅順観光を終えると、四人は大連から満鉄の「あじあ号」に乗った。ハルビンに出て、
 さらに北西の満州里へと向かうのだ。途上、ハルビンの手前、奉天駅で一行は下車した。
 この駅で節子は、長兄の武雄と再会を果たす。武雄は日本での生活に見切りをつけ、満
 州に渡り弁護士をしていたのだ。妹思いの、やさしい兄だった。その兄は奉天でも生活
 に追われているように見えた。節子は、急に自分ひとりが夢を叶えて西洋に行くことが
 申し訳なく思えてきた。これが長兄との永久の別れになるとは、この時、知る由もなか
 った。
・国境の街、満州里に到着すると、この最果ての地でも「新しき土」は公開されており、
 節子は驚く。一行は満州里でシベリア鉄道に乗り換えた。ここから先はソ連領である。
・汽車はついにベルリン動物園駅に滑り込んだ。東京を出てから実に16日目で、早朝に
 もかかわらず駅でファンク監督が出迎えてくれた。日本の大使館員やドイツの映画関係
 者の姿もあった。
・現地に着いてみると、映画は、すでに封切られていた。ナチスの高官が休暇に入る前に、
 ということで公開予定が前倒しになったのだという。特別試写会には、ゲッベルス宣伝
 相、「ブロンベルク国防相」、ダレ農相、ルスト文化相、「ヒムラー警察長官」らが出
 席し、日本側も武者小路大使らが出席し盛大だった。だが、節子の舞台挨拶は予定どお
 り映画上映の合間に行い、ゲッベルス宣伝相が改めて臨席すると聞かされた。
・節子は大使館に向かう車中からベルリンの街を目にし、崇高な美しさに感激していた。
 これが西洋の一等国の首都なのだ。日本で最も西洋的な街といわれた横浜に育った節子
 が、本物の西洋とはこんなに違うのだと感じ入った。美しさと品格、それは人ばかりで
 はく街にもあるのだと節子は、この時、初めて知った。
・ファンク監督と出演女優のルート・エヴァラーに促されて、振袖に身を包んだ節子は舞
 台の中央まで進んでいった。薄暗いなか客席の金髪が光って、まるで波のようである。
 大きな拍手と歓声を受けた節子は、いかにも恥ずかしげに身をかがめて一礼するとマイ
 クに向かった。長旅の途中に必死で覚えたドイツ語を、か細い声を張り上げ披露した。
 「私はベルリンの街に来ることができて嬉しい。私がこの街を好きなように、皆さんが
 私を好きになってくれたら嬉しい・・・」可憐な少女の、おぼつかないドイツ語は、会
 場から沸き起こった割れんばかりの拍手と「ヤーッ」という絶叫に取ってかわられた。
 節子は何回となくカーテンコールに応じて、お辞儀を繰り返した。
・ドイツの新聞各紙も、映画を絶賛する評が溢れかえっていた。「不思議な魅力をもつ少
 女」「気品にあふれている」「ヨーロッパ人をうっとりさせる」「演技表現が繊細」な
 ど、目立つのは節子への賛辞である。
・4月15日には日本大使館主催の晩餐会が開かれた。その場で節子はゲッベルス宣伝相
 を紹介され、通訳を交えて談笑した。ナチス高官の中でも怜悧な切れ者として恐れられ、
 ヒトラーの側近中の側近と言われたゲッベルスも、節子には相好を崩したようだ。
・節子は連日、ドイツ各地で舞台挨拶をし続けていた。地方からベルリンに戻ってくれば
 ナチス高官との会食や視察が入る。地方回りには川喜多夫妻は同行せず、熊谷とドイツ
 の映画関係者と通訳が付き添った。あまりに過密な日程に節子と熊谷は疲弊し、不満を
 募らせ、次第に川喜多夫妻との間も気まずくなっていったようである。川喜多夫妻に正
 面から苦情を切り出したのは、熊谷ではなく16歳の節子自身だったようだ。意志をは
 っきりと伝える彼女の気性が、ここにもうかがえる。
・節子の気迫に押されたのか、川喜多夫妻は言われたとおりにドイツでの活動を5月上旬
 で打ち切った。それまで節子はミュンヘン、ハンブルク、ドレスデンといった主要8都
 市のほか30数カ所に橋を運んで舞台挨拶をしており、ほとほと疲れ切っていたようで
 ある。
・一行はドイツ滞在を切り上げ、次の目的地であるパリに向かうことになった。その前に
 ドイツ南西の温泉保養地バーデン・バーデンに1週間ほど投宿し、旅の疲れを癒してい
 る。 
・ベルリンの緊張感とはまったく違う、パリの解放された空気に節子と熊谷は癒される。
 当時のパリにはロシア貴族やユダヤ人など居場所を失った亡命者たちがヨーロッパ中か
 ら集まっており、街には独特の活気が漂っていた。ドイツと異なり街並みは整然として
 おらず、それがかえって味わい深い。ドイツではナチスに歓待され、ベルリンを代表す
 る高級ホテルに泊っていたが、パリでは一転、安宿となった。けれど苦痛だった舞台挨
 拶もなくなり、節子の心はむしろ浮き立っていた。
・一行は次の目的地であるアメリカに向かうべく、約1ヶ月でパリ滞在を切り上げる。
 港町ジェルブールからイギリスの豪華客船、クイーン・メリー号に乗船し、ニューヨー
 クへと向かった。出航翌日の6月17日、節子は17回目の誕生日を船上で迎える。
・だが、一行が、楽しく私語してほっとしたのも束の間、またしても問題が起こった。横
 断歩道を渡ろうとした時、 すれ違いざまに白人女性と熊谷の肩が触れ合った。すると、
 女性が激怒し、熊谷に「ヘイ、ジャップ!」と怒鳴って、唾を吐きかけたのである。熊
 谷は怒り狂った。なぜ、自分たちはこんなにも見下され、蔑視されなければならないの
 か。白人社会に対する彼のコンプレックスは、この瞬間から、はっきり憎悪と敵愾心に
 変化して、彼の後半生を変えることになる。
・ニューヨークでも試写会を開いたが、「新しき土」はやはり不評で買い手がつかなかっ
 た。
・16、17歳の多感な時期に、世界中の映画人と出会った経験は大きかった。もともと
 好きで女優になったわけではない。しかし、この旅に出て、彼女は女優という職業に対
 する考えを改めるようになっていた。欧米では芸術家として遇されるに相応しい知性と
 教養、品格が、いずれの映画人からも感じられた。
・もっとも、それは映画界に限らない。社会全体が違うのだ。熊谷は西洋人の人種差別に
 憤っていたが、節子は、どこの街でも女性が男性に対等に扱われ、大事にされている様
 子を目の当たりにして感銘を受けていた。
・7月12日、一行四人はサンフランシスコから竜田丸に乗船し、一路日本を目指した。
 船に乗る間際のことだった。さかのぼること5日、7月7日に北京郊外の盧溝橋で日本
 軍と中国軍が衝突
し、戦闘状態に入ったことを一行は初めて知った。

生意気な大根女優
・昭和12年(1937年)7月28日、節子は横浜港に降り立った。何か違っている。
 街に漂う空気そのものが大きく変わっているのだ。たった4ヵ月あまりの不在。その間
 に、中国大陸で戦いの火の手が上がり、日本はすっかり戦時下となっていたのである。
 道行く出征兵士、街角で千人針を乞う女たち。すべて出発前には見たらなかった光景だ。
・「西洋で何に一番感心したか」との問いに節子は、「欧米の旅の後に得た私の感想の結
 論としては、今後私も人格的に生きて行きたいということです。日本人でも映画人をも
 っと真面目な目で見て頂きたい。それには俳優ももっと真面目に人格的にならなければ
 ならない、そういうことをしみじみと感じて来ました」
・彼女のこうした真摯な発言は、思いもかけない波紋を呼んだ。「西洋かぶれ」「生意気」
 洋行気取り」・・・。日本人の男性が抱える屈折した根強い西洋コンプレックスと年少
 の女性に対する蔑視の深さを、節子は十分に理解しきれていなかった。よほどの高位高
 官でもない限り果せぬ世界一周の旅から帰ってきた少女が、自分が眼にしてきた西洋と
 比して日本を批判する。日本の男たちは、自分が少女に見下されたように感じたのだろ
 う。報復は卑怯なことに彼女の演技力をこき下ろすという形で、この後、執拗に続くこ
 とになる。
・「国際派女優といってもこんなものか」「ただの大根役者じゃないか」原節子に「大根
 女優」というレッテルが貼られるのは、この時からである。節子は「これから私も女優
 として頑張ろう、高みを目指そう」と浮き立つ心で帰国したところだっただけに、事の
 成り行きに戸惑った。この後は何をやっても「大根」と叩かれ続け、精神的に追い詰め
 られていく。
・洋行前に熊谷が決めたとおり節子は古巣の日活には戻らず、帰国後、新会社の東宝に移
 籍した。多くの監督や俳優が、この新会社に魅力を感じて移籍を望み、日活や松竹をは
 じめとする他社は徒党を組んでこれに対抗した。東宝に移籍したスターの醜聞を雑誌に
 書かせ、さらには「長谷川一夫」のように顔を切りつけられるといった傷害事件まで起
 こっている。
・できたばかりの東宝は監督もスターもスタッフも寄せ集めの状態で、映画づくりの環境
 が十分には整っていなかった。加えて前身であるPCLからの社員や俳優、監督たちが
 中心にいて、日活から移籍した節子は、いわば外様だった。PLC出身の女優たちとの
 間には溝があり、スタッフには見知った顔もなく、節子は孤立していた。そのうえ、帰
 国以来のバッシングが続く。女優をやめたいと思っても義兄の手前もあり、また、移籍
 金も前借りしていた一部は渡航費用に使っていた。何より節子には、養うべき両親と病
 身の長姉がいた。
・戦争も節子には禍した。次々と赤紙が男たちのもとへ届けられる。映画界も例外ではな
 く、ちょうど節子の帰国と入れ替わるように山中貞雄監督が出征していった。山中もや
 はり日活から東宝へ移籍してきたのだが、節子を起用できないまま戦地へ赴いたのであ
 る。
・昭和13年(1938年)正月早々の3日、新聞を賑わす事件が起こった。日活の元女
 優、岡田嘉子がソ連に亡命したのである。岡田は北海道から樺太にわたり、恋人の「
 本良吉
」とともに国境を越えてソ連領へ走り去った。杉本は左翼系の演劇人で官憲から
 監視を強められるなかでの逃避行だった。
・岡田は映画女優として人気を博したが、この世界のあまりのモラルの低さに閉口する。
 女優を芸者のように扱い、監督は横暴きわまりない。こうした映画界に反発して、岡田
 は撮影現場から共演者と駆落ちする騒ぎを起こし、日活を解雇される。その後、映画界
 と決別して新劇界に戻ったものの、世間からは理解されず好奇の眼で見られて苦しんだ。
 ソ連への亡命の根底には、日本の男性社会に対する岡田の深い絶望があったのだろう。
・節子は相変わらず何に出演しても「大根」と酷評されていたが、さらに別の問題でマス
 コミから容赦なく叩かれることになる。毎年、夏になると、若い女優たちは映画雑誌に
 掲載する水着写真を撮らされるのだが、それを節子が拒否し、思わぬ波紋を呼んだので
 ある。
・節子はまだ18歳になったばかりの少女である。相手はおそらく大学出の、それなりの
 年齢の男性記者であろう。水着にこだわる記者に、節子は「映画女優に必要なのは演技
 だ」と言い返している。記事からは一歩も引かずにやり合う、迫力が感じられる。「大
 根」と叩かれるなかでの発言であることを考えると、余計に彼女の覚悟と憤りが伝わっ
 てくる。
・この時代、一般には日本において女性が水着姿を人目に晒すことは、ふしだらなことと
 されていた。それなのになぜ、女優だと逆に「水着にならない」と糺弾されるのか。節
 子は納得がいかなかった。女優は演技者だ。色を売るものではない。それをわかってほ
 しいという思いが、そこにはあった。
・このほかにも彼女が拒んだことがある。舞台挨拶だ。節子は「新しき土」以前から、ど
 んなに頼まれても舞台挨拶はしなかった。恥ずかしがり屋で、人前に出ることを嫌った
 という理由もあるが、それ以上に映画は映画の中で完結しているという思いがあったか
 らだ。
・さらに、節子は主題歌を歌うことも拒んでいる。主演女優に主題歌を歌わせてレコード
 にし、宣伝を兼ねて売り出すのが当時の常で、「高峰三枝子」や「高峰秀子」は、これ
 に応じた。節子は「音痴だから」という理由で断っているが、これもやはり映画女優の
 本分から外れていると判断してのことだろう。だが、こうした発言や振る舞いは理解さ
 れず、彼女をいっそう孤立させていった。
・節子は世知に長けてはいなかった。言いたいことを言いたいように言った。もちろん、
 記者によってゆがめられた面もあるだろうが、若い頃の彼女は時として、驚くほど率直
 に自分の考えを述べている。ここまではっきりと物を言う女優はめずらしい。いくら
 「生意気」だと叩かれても、彼女はこの自分の姿勢を決して崩さなかった。
・この年、爆発的にヒットした作品は田中絹代が看護婦を演じた松竹の「愛染かつら」で
 1千万人が観たといわれる。他にも松竹所属の「高杉早苗」、高峰三枝子、「桑野通子
 の三人が人気を集めていた。彼女たちは節子と、ほぼ同世代だった。
・昭和13年9月、節子を「河内山宗俊」で抜擢した、あの山中貞雄監督が、中国の野戦
 病院で戦病死した。まだ、28歳でしかなかった。
・中国との戦争は泥沼化し一向に終わる気配はなく、映画界は相変わらず戦争特需に沸い
 ていた。数字上、日本は世界一の映画大国になっていた。この人気を国家が看過するは
 ずはなく、昭和14年、ついにナチスの映画政策を参考にした「映画法」が施行される。
 ここから娯楽性を極力排除し、国策にそった映画を作るようにという締めつけが始まっ
 た。この法律を歓迎し擁護する映画人もあった。節子の義兄、熊谷久虎は、そのひとり
 だった。
・映画法が施行された昭和14年、それまで美しく善良な娘ばかりを演じてきた節子が、
 今までにない役柄に挑んで周囲を驚かせる。「上海陸戦隊」でのことだ。節子は初めて
 義兄の作品に出演したのである。節子が演じたのは、日中両軍の戦いに巻き込まれた中
 国人の難民少女。汚い中国服を身にまとい、顔は泥にまみれ、顔を歪めて憎々しげに中
 国語で日本人を罵り倒すという役柄だった。これまで築いてきた彼女のイメージが崩れ
 る恐れもあったこの役を、よく東宝が許したものである。
・「上海陸戦隊」に筋らしい筋はなく、最大の見せ場は戦闘シーンにあった。撮影は上海
 で行われ、海軍の全面的な協力を得て実際に飛行機や戦車を借り受け、大砲には実弾を
 使って戦いを再現したというだけあって、さすがに迫力がある。
・撮影時は節子も現地ロケに赴いた。反日感情は強く、乗っていたタクシーに石が投げつ
 けられたこともあり、恐ろしかったと語っている。歴史ある上海の街並みはところどこ
 ろ破壊され、日中両軍による戦争の爪痕は生々しく、はじめて上海で戦争を実感した、
 とも。上海への旅が確実に彼女を変えたのだろう。この時から彼女は、軍国の優等生と
 なっていく。
・映画は公開されると大ヒットし、東宝の首脳陣を喜ばせた。これがひとつの転機となっ
 たのだろう。この頃から少しずつ、節子は周囲になじんでいった。そこへ、さらに幸運
 が重なる。「丹羽文雄」が節子を念頭に小説「東京の女性」を書き下ろしてくれ、伏水
 修監督によって映画化され主演。好評を博したのだ。
・昭和14年秋、さらに大きな出会いがあった。女性映画の大家といわれ、女優を育てる
 ことにかけては当代一と言われていた「島津保次郎」監督が、松竹から東宝へと移籍し
 てきたのだ。島津の東宝移籍第一作は大作「光と影」に決まり節子はヒロインに指名さ
 れた。節子は19歳。女優を見なれた島津の眼にも、まばゆく輝くばかりに映った。松
 竹の日本的で、庶民的な愛くるしい女優たちとは違う。整いすぎた美貌、知的で高貴な
 雰囲気が節子にはあった。それなのに当の本人はすっかり自信を失いきっている。
・折しも欧洲では、ナチスドイツが隣国ポーランドに侵攻。それをきっかけに第二次世界
 大戦の火ぶたが切られようとしていた。 

秘められた恋
・助監督を怒鳴るのは当たり前、時には平気で殴りかかり女優にも現場で罵声を浴びせる。
 ところが、そんな島津が節子にだけは嘘のように優しかった。まるで親鳥が羽根を広げ
 て雛を庇うように守り育てた。島津は42歳、節子は19歳だった。節子と間近に接し、
 生意気でも高慢でもない、ただ性格が地味で内向的なだけだと島津は感じた。
・節子は監督にもスタッフにも媚びなかった。無駄口を叩かず、人と飲食をともにせず、
 まっすぐ家に帰るので遊び好きな映画人からは「愛想がない」と言われていたのだった。
 その上、彼女は「付け届け」をしなかった。当時の映画界には、見返りを期待して役者
 が金品をスタッフらに送る習慣が横行していた。
・節子をヒロインに迎え島津は、夢中になって映画を撮った。ところが不幸なことに、そ
 れは日中戦争が泥沼化し、映画法ができて映画界全体が国家から統制されていく時期と
 重なっていた。検閲を受けるため思うような映画が撮れなかった。
・節子は付き人ひとりつけず、いつもひとりで佇む。身の回りのことはすべて自分で行い、
 人の手をわずらわすことがなかった。運転手つきの自動車ではなくバスや電車で通勤し、
 歩いて撮影所の門をくぐる。地味な服装で鞄を抱えて、泥道をひとりで通うスター女優
 は彼女ぐらいのものだった。人と群れることを避け、出番待ちの間も共演者やスタッフ
 とのおしゃべりに興じることなく、離れたところでひたすら文庫本を開いて読み耽る。
・その頃、欧洲ではドイツが周辺諸国に次々と攻め入り、戦果が拡大していた。デンマー
 クとノルウェーを占領し、さらにオランダ、ベルギー、ルクセンブルク、ついにはフラ
 ンスまでが、ドイツ軍の手に落ちた。残るはイギリスだけだが、それも時間の問題であ
 るように見えた。同盟国ドイツの圧倒的な強さは、日本の指導者と国民を幻惑するに十
 分だった。特に東南アジアに植民地を持つオランダ、フランスの敗北は、日本軍部の
 「南進論」を勢いづかせた。
・昭和15年(1940年)9月、日本、ドイツ、イタリアは三国同盟を締結する。「新
 しい土」の制作された昭和11年に結ばれた日独防共協定は翌年、日独伊防共協定とな
 り、ついにこの三国同盟へと至ったのである。
・節子はもともと好きで女優になったわけではなく、いつかは結婚してやめたいと思って
 いたとも後年、繰り返し語っている。では、十代後半からの適齢期のなかで、彼女に恋
 する機会はなかったのか。かつて洋行の直前にベルリン・オリンピックの陸上選手、
 「矢沢正雄」と初恋の噂を雑誌にゴシップとして書かれた際には、強く抗議した節子で
 ある。ところが平成5年(1993年)、雑誌の取材に答えた矢沢によれば、ふたりは
 節子の洋行後も、銀座などで落ち合い、お茶を飲む交際を続けていたという。矢沢は専
 修大学卒業後、東京の愛宕山にある日本放送協会に就職するが、節子はひと目をしのん
 で愛宕山にある社屋にも、よく遊びにきていたと矢沢は語っている。
・確かに彼女は恋をしていた。相手は、この矢沢ではない。そして、それは淡い恋などで
 はなかった。彼女にとっては一生に一度の熱烈な恋だったと映画関係者の間では、密か
 に語り継がれてきたものである。昭和15、6年ごろのこと、節子は二十歳前後。彼女
 には結婚を強く望んだ男性がいた。相手は東宝の同僚で、脚本を書きながら助監督をし
 ていた青年だった。名は清島長利。戦後は椎名利夫のペンネームを用いて著名な脚本家
 となるが、当時はまったく無名で、地位もなく目立たぬ存在であった。映画界にはめず
 らしく東大で美学を学んだという経歴の持ち主であり、地味で誠実な人柄に節子が惹か
 れ、やがて相思相愛になったといわれる姉夫婦と暮らす清島の下宿先で、ひと目をしの
 び逢瀬を重ねた。清島の姉はふたりが真剣に思い合っていることを知り、密かに応援し
 ていた。
・ところが、やはり噂は広まり、会社や熊谷の知るところとなった。熊谷は、節子に近づ
 こうとする若い男たちを徹底的に排除していた。そうしたなかで発覚した恋愛事件。そ
 して、それは若い節子が想像もしなかった結末を迎えることになる。清島が東宝から追
 放されてしまったのである。身のほどもわきまえずスタート付き合ったことにたいする
 懲罰だった。
・清島は松竹から出向して情報局に籍を置いていた昭和18年、思いを断ち切ろうとする
 かのように、周囲に勧められるまま、同郷の長崎出身の女性と結婚し、翌年には子ども
 も得た。だが、夫人は長く原節子の影に苦しめられ続けたという。夫のかつての想い人
 が、日本で最も美しい女優であったと知るだけでも、心はかき乱される。夫婦仲は次第
 に冷えていった。戦後、清島は離婚し間もなく再婚する。若い後添いは浅草の老舗旅館
 の娘で、兄とふたりで国際劇場の道をへだてた角に「星空」というなの喫茶店を出して
 レジを担当していた女性だった。
・清島との別離を節子は深く嘆き、「こんなに苦しいなら、もう二度と恋はしない」と周
 囲に語ったといわれる。自分が愛したばかりに、男は会社を追われることになった。そ
 の責任を強く受け止めてもいたのだろう。
・節子は映画界のなかで少女から女性へと変貌を遂げていた。だが、彼女に恋は許されず
 男性たちから遠ざけられた。そんな成熟する節子の傍らで影響力を増したのは、義兄の
 熊谷だった。節子に近づこうとする男を熊谷は許さなかった。熊谷によって節子の恋愛
 の機会は、ことごとく摘み取られていった。そして、こうした熊谷の過保護で専横な振
 る舞いは、やがて、ひとつの疑惑を生んだ。
・だが、それでも節子は、義兄夫婦のもとから離れようとはしなかった。それほど絆が強
 かったのであろう。駆落ちをするような無責任さを節子は持ち合わせていなかった。両
 親や長姉といった養うべき家族もいた。
・昭和16年には、日本の南部仏印進駐が批判を招き、アメリカ、イギリスにオランダが
 加わって、さらに経済封鎖が強化された。その結果、アメリカからフィルムを買えなく
 なり日本映画の制作本数は、またたく間に前年の半数程度にまで落ち込んでしまう。
・この年の節子の出演作は4本ある。「兄の花嫁」「大いなる感情」「結婚の生態」。
 これらは多少、ドラマの中に出征兵士や満州行きといった要素が取り入れられてはいた
 ものの、いずれも恋愛をテーマにしたホームドラマだった。ところが続いて出演した
 「指導物語」は、いささか趣を異にする。農村出身の一兵士を老機関士が短期間のうち
 に立派な機関士に育て上げ前線に送る、という内容で、節子は亡母に代わって老機関士
 の父を支える、心優しい長女を演じている。
・「指導物語」が公開された約2ヵ月後のこと、早朝からけたたましく臨時ニュースが繰
 り返しラジオから流れた。「帝国陸海軍は今8日未明、西太平洋において、アメリカ、
 イギリス軍と戦闘状態に入れり・・・
」昭和16年12月8日の朝であった。節子はこ
 の時、21歳だった。 

空白の一年
・日中戦争が始まった際には、戦争の時代を生きる若い女性の戸惑いを素直に日記に綴っ
 た。その2年後、上海に行き廃墟となった街を見た際には、「戦争には、どんなことを
 しても勝たなければいけない」と記した。そして太平洋戦争開戦の翌年には、彼女は初
 冬の朝に富士を仰ぎ見て日本の隆盛を思い、胸を熱くしているのである。
・開戦から半年間の、連勝につぐ連勝は節子だけでなく国民を熱狂させた。映画館の前に
 は、 ニュース映画を見ようという人々の長い列ができ、館内では日本軍が爆撃するシ
 ーンごとに歓声が上がった。日本軍は無敵で連戦連勝であると、人々は酔いしれたのだ。
・アメリカとの戦争が始まってから世の中の空気は一変し、映画界にも変化があった。
 昭和17年4月には、島津保次郎と節子がコンビを組んだ「緑の大地」が公開される。
 節子は入江たか子とともに、隙のない洋装姿を披露している。節子は作中で夫の過去の
 想い人である美しい女性教師(入江たか子)に嫉妬する新妻の役を演じた。最後には誤
 解がとけて夫が中国大陸で進める運河建設に皆で協力していくというストーリーである。
 しかし、映画そのものの評判は芳しくなかった。島津は引き続き「母の地図」の撮影に
 入った。やはり、節子が主演した。
・前年にはフィルムが割当制となり、映画各社は少しでも多く配給されるようにと軍部の
 機嫌を取り結ぶことに必死だった。とりわけ東宝は映画づくりの歴史が浅かったことも
 あり、積極的に軍部に接近していった。その結果、軍の教育訓練用映画などは、東宝が
 一手に請け負うようになる。戦意高揚映画を積極的に作ったのも、東宝だった。
・しかし、ホームドラマの名匠に戦意高揚映画は作れない。島津は次第に居場所を失って
 いた。島津が「母の地図」を撮っていた頃、東宝は戦意高揚映画「ハワイ・マレー沖海
 戦
」の制作に沸き立ち、撮影所中その話でもちきりになった。しかも、節子もこの大作
 に出演すると決った。世の中が大きく変わり、映画界も変わってしまった。評判になら
 なかった「母の地図」とは対照的に、「ハワイ・マレー沖海戦」は空前の大ヒットとな
 った。外地でも上映されて1億人が観たといわれている。内容は航空兵に志願した青年
 たちが厳しい訓練を経て立派な航空隊員となり、「真珠湾攻撃」や「マレー沖海戦」に
 出撃し、大戦果を上げるといったもの。節子は航空兵となる弟を精神的に支え続ける姉
 を演じている。脇役ではあるが、飛行機や軍隊生活ばかりが映し出されるなかで一瞬、
 画面を潤す節子の姿は、かえって大きな印象を残す。
・同世代で東宝の女優だった山田五十鈴は戦争が始まると仕事が減ったという。苦界に生
 きる女性などを得意とした妖艶な山田には、兵士の母や妻、姉といった銃後の護りを果
 たす軍国の女神の役どころは回ってこなかったのだ。かわりに、「戦意高揚映画にふさ
 わしい」と見られたのが、清く、正しく、美しい日本女性を体現し続けた節子だったの
 である。
・「ハワイ・マレー沖海戦」は、映画館に長蛇の列を作らせただけでなく、全国の学校や
 軍需工場で巡回上映された。映画を観た子どもたちの多くが航空兵に憧れ、直後から
 「予科練」の志願者が急増したといわれている。
・昭和18年(1943年)になると、節子の出演作は、そのタイトルからして一挙に殺
 伐としたものが目立つようになる。「阿片戦争」「望楼の決死隊」「若き日の歓び」
 「決戦の大空へ」「熱風」。「若き日の歓び」を除けば濃淡はあるが、すべて戦意高揚
 映画である。 
・この中で「決戦の大空へ」は、とりわけ人気が高かった。挿入歌「若鷲の歌」(作詞・
 西條八十、作曲・古関裕而)は、子どもたちまでが口ずさんだ。作品は、霞ヶ浦の予科
 練生が凛々しく成長し、立派な航空兵となる過程を描いている。節子はここでも弟を叱
 咤激励し、予科練に入隊するように促す姉を演じている。自分もお国のために働かなく
 てはと予科練生たちの面倒を見る、非のうちどころのない軍国の乙女である。
・続いて出演した「熱風」は、いわゆる増産映画と言われるものだ。国民は一丸となって
 増産に励むようにという軍部の主張が込められた映画で「、東宝は鉄、松竹は造船、大
 映は飛行機」と軍部から割り当てがあったという。製鉄所でいかに生産量を増やしてい
 くか、という課題に取り組む男たちの奮闘を描いた本作で、節子は女性事務員として製
 鉄所で勝気な女性を明るく演じた。
・この時代に日本で作られた戦争映画には、中国人やアメリカ人、イギリス人を侮蔑的に
 扱うもの、極悪人として描くものもあり、中には女優が敵国人を差別的に罵るような作
 品もあった。その点、節子はたくさんの戦争映画に出てはいるが、そういった役は一度
 も与えられていない。常に美しく、品位を落とすことがない女性、それが節子に与えら
 れたイメージであり、戦争映画であっても、その”不文律”守られていたことがわかる。
 節子はただ微笑んで兵士を送り出す。兵士たちを安らかな気持ちで戦地へと赴かせる。
 聖なる国母の役割を果しているのである。
・昭和19年(1944年)に入ると、戦況はさらに厳しくなり、さすがの節子も出演作
 は1作のみとなる。軍艦建造の権威で、「軍艦の父」と言われた「平賀譲」海軍中将を
 描いた「怒りの海」だけだ。
・節子は昭和19年5月に公開された「怒りの海」から1年以上、映画に出ていない。で
 は彼女はどこで何をしていたのか。本人が言うように自宅で本を読んで暮らしていただ
 けなのか。映画界には、奇妙な噂が残っている。「原節子は一時期、行方不明になって
 いた」どうも九州の耶馬渓に疎開していたようだ」
・中津市街および耶馬渓の周辺で今回、調査したところ、確かに熊谷家の祖父の地、耶馬
 渓で節子は一時、熊谷の妻であり次姉の光代らとわずかな期間だが暮らしていたようだ
 とわかった。昭和19年の終わりから20年の初めのことと思われる。昭和19年8月
 までは、それまでと変わりなく東京の幡ヶ谷の家で節子は義兄一家と暮らしていたよう
 である。ところが9月になって、この家が取り壊されることが決まった。建物疎開の対
 象となったからだ。建物疎開とは空襲の類焼に備えて建物をあらかじめ取り壊し、空き
 地をつくることをいった。
・次に節子の消息がわかるのは昭和20年5月頃のことで、節子の姿は映画撮影の現場に
 あった。「北の三人」で「高峰秀子」、「山根寿子」らと共演。戦地で任務に励む女性
 通信士三人を描いた戦意高揚映画で、敗戦間際に公開された。
・この間、熊谷と節子のふたりは、新たに東京の初台に家を借りて暮らしていたと思われ
 る。光代と次男の久昭は安全な耶馬渓に疎開させておき、ふたりだけで東京で生活して
 いたようだ。
・昭和20年5月25日、ふたりは初台で最後の東京大空襲に遭遇する。
 5百機近いB29の大編隊が雨のように焼夷弾を落とすなかを節子は義兄とふたり、死
 を覚悟しながら逃げ回った。節子は逃げる途中で池に飛び込み、焼夷弾が襲ってくるた
 びに頭まで潜った。直撃されれば意味がないと後から気づいたものの、その時は夢中だ
 った。火の手が激しくなり熱風に直撃されて、もう駄目だと何度も思ったと戦後に語っ
 ている。
・度重なる空襲で、東京も横浜も焼野原となっていた。5月8日にはドイツが無条件降伏
 するが、ヒトラーは前月の末、すでに自殺していた。かつて節子をベルリンで歓待した
 ゲッベルス宣伝相も、妻と六人の子どもを道づれに命を絶った。
・日本では3月に硫黄島、6月には沖縄が占領される。いよいよ本土決戦になると参謀本
 部は判断し、ついに町田大佐にかねてから準備を進めさせてきた宣伝工作を、実施する
 ようにとの命が下った。町田は熊谷と相談のうえ、選定した文化人たちを急遽召集し、
 福岡に終結させた。福岡に集められた文化人はおよそ百人。九州在住者と東京から呼ば
 れた者とで、半々だった。九州組には、小説「麦と兵隊」の作者、火野葦平らがいた。
 約百人の文化人たちは町田大佐のもと、まず全員で取り組んだのが、8月1日の元寇祭
 に合わせて放送するラジオドラマ「敵国降伏」の制作だった。米軍の大艦隊に、ラジオ
 ドラマで立ち向かおうとしたのである。これも戦争の狂気といえようか。火野葦平は、
 戦後にこの時の経験を小説「革命前後」として書き残した。
・その最中に彼らはある噂を聞き驚愕する。6日、広島に新型爆弾が落とされた。しかも、
 それはたった一発で広島の街を壊滅させたというのだ。この噂に彼らは激しく動揺した。

屈辱
・敗戦を迎えた時、節子はすでに25歳になっていた。米軍は海から東京を目指しており、
 最初の上陸地は横浜だと噂された。男という男は殺され、女は強姦される。子どもは軍
 用犬の餌になるという噂に人々は怯えていた。横浜では山に逃げるようにと生徒に避難
 を呼びかける女学校もあったという。
・かと思うと、厚木基地から飛び立った海軍の航空機が「ともに戦え!という檄文を空か
 ら落とす。日本はどうなるのか。皆目、見当がつかなかった。
・敗戦の日から一週間、日本全国の映画館は、ひとまず閉鎖された。が、世情が落ち着い
 ているのを見て、米軍を刺激しない旧作の娯楽映画を選んで興行にかけたところ、驚く
 ほど人々が殺到した。食べるものもなく、明日がどうなるかもわからないというのに、
 人々は現実を忘れる一瞬を求めて映画館に押し寄せたのだ。戦争中の金属供出で椅子も
 なく空腹を抱えながら、人々は立ったままスクリーンを食い入るように見つけた。館内
 は笑いと涙で満たされた。
・映画は戦争に加担し、ファシズムに利用された。そして、戦争がおわり、ファシズムは
 倒され、映画だけが残ったのだった。
・8月28日、日本中が固唾を呑んで見守るなか、占領軍がついに日本に上陸する。8月
 30日には、連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサー元帥厚木飛行場に降り立
 つ。そして9月2日には、東京湾に停泊する米戦艦ミズーリ号の艦上で降伏文書が調印
 された。
・この間、日本の各映画会社の庭では、煙が立ちのぼり続けていた。戦中に制作した戦意
 高揚映画のフィルムや脚本を焼く煙だった。映画人は戦争協力者として裁かれるのか。
 怯える会社幹部や監督も少なくなかった。
・ところが、マッカーサーが率いる占領軍は、まったく日本側の予想にないプランを用意
 していた。 軍国主義を排除し平和主義を教え込み、日本を早急に民主化しなければな
 らない。それには映画の力を利用しようと考えていたのだ。日本には映画文化が根づい
 ており、制作本数はアメリカをも凌いでいたということを、彼らはすでに把握していた
 のである。映画界の戦争責任を追及するよりも、日本の映画人を利用して日本人の感性
 に合う啓蒙映画を作らせる。それがGHQの打ち出した方針であり、CIE(民間情報教
 育局)課長のデビット・コンデがその責任者に選ばれた。
・戦争が終わった途端に、ころりと態度を変えてしまえる器用な映画人たちを節子は冷や
 やかに見つけていた。 
・それにしても気になるのは戦地に送られた監督と、送られなかった監督がいることだ。
 戦争が長引き男たちのもとへは次々と赤紙が届けられた。しかしその一方で、特に身体
 に問題があるわけでもなく、徴兵年齢に達していながら召集されない映画人もいた。日
 中戦争が始まると同時に召集令状を受け取ったのは山中貞雄であり、小津安次郎だった。
 ふたりはともに一兵士として中国大陸で激戦地に送られ、過酷な体験をしている。その
 一方で、山中と生まれが4ヵ月しか違わぬ黒澤明は、剣道で鍛えた偉丈夫だったにもか
 かわらず一度も召集されていない。また、小津と同世代である熊谷久虎、「山本嘉次郎
 も、一度も兵士として戦場には行っていない。
・戦前戦中に節子の主演映画を最も多く撮ったのは「山本薩夫」監督だった。なぜ多かっ
 たのかといえば、彼は身体が弱く、徴兵検査で丙種とされ、長く赤紙が来なかったから
 である。そんな彼のもとにも戦況が悪化すると、召集令状が届く。
・見るからに弱々しい山本薩夫までが戦場に送られるなか、なぜ黒澤や山本嘉次郎には赤
 紙が来なかったのか。黒澤は自伝の中で、徴兵検査の担当官が偶然にも父親の教え子だ
 ったせいであろうと書いている。その担当官は黒澤が画家志望であると知って、徴兵検
 査の際、兵役につかないですむような記載をしてくれたようだった、と。
 一方、その才能を惜しんだ東宝が軍部とかけ合い、兵役を免除させたのだろうとの推察
 もある。東宝は戦意高揚映画だけでなく、軍の教育訓練用映画の制作を一手に引く受け
 ていたため、軍部との関係が良好だった。故に、東宝にとって大事な人材を確保するた
 め軍部とかけ合い、兵役を免除させることが可能だった、というのだ。
・CIE課長のコンデは、監督や脚本家に直接会って、CIEが期待する内容や意図を具
 体的に語り始めた。天皇制を批判するもの、革命的人物の生涯を追ったもの、資産家や
 残閥の罪を告発するもの、あるいはヒロインにしたもの。具体的な人名まで挙げたとい
 う。
今井正監督は、こうして「民衆の敵」という作品を撮ることになる。作品は民主主義啓
 蒙映画の第一号として昭和21年(1946年)4月に公開されている。5月には東宝
 が、原節子を主演に据え、炭鉱王の夫を捨てて、労働運動に身を投じる貧しい青年との
 恋を成就させた歌人、柳原白蓮をモデルにした映画「麗人」を発表する。作中には柳原
 白蓮
を演じる原節子が諄々と身分制度を批判し、女性の権利を述べるといったシーンが
 盛り込まれている。
・敗戦を境に、こうした価値観の大転換が始まっていた。とはいえ、多くの国民にとって
 最大の関心事は食糧をどう確保していくかに尽きた。家は焼かれ、食べ物はなく、売る
 物もない。配給だけではとても足りなかった。というよりも、配給されるもの自体が絶
 対的に不足していたのである。皆が闇物資を求めてさ迷った。農村まで足を延ばし、頭
 を下げてイモや米を手に入れるしかなかった。
・この買い出しの苦労を、節子も経験している。自らリュックを背負い、無蓋車に揺られ
 て農村に出向いたという。誰もが生きることに必死で、節子もまた例外ではなかったの
 だ。それでも、名のある女優でここまでした人は稀だったようである。時には、遠く福
 島まで出向きこともあった。わざと髪を乱して、やつして行ったところ、女優の原節子
 だと気づかれてしまった。次に、普段通り身ぎれいにして行ったら、かえって誰にも気
 づかれなかった。
・誰もが食べる物を求めて必死に生きた時代だった。だが、節子クラスの女優ならば、も
 う少し楽な方法で食糧を手に入れることもできなくはなかった。最も手っ取り早い方法
 は、占領軍と接点を持つことだった。戦時中は日本軍の慰問に行けば、眼を見張るよう
 なご馳走にありつけた。それと同じように、占領軍相手に歌や踊りを披露すれば、ある
 いは宴席に行くだけでも食料品や日常の生活物資、もしくは金銭が手に入った。
・有楽町に東宝が所有していた東京宝塚劇場は、GHQに接収されて占領軍専用の劇場とな
 っていたが、そこでは慰問公演が行われ、連日、日本の歌手や女優も依頼されて舞台に
 立っていた。高峰秀子は、その常連だった。アメリカの流行歌を歌って米兵たちから拍
 手喝采された高峰は、山ほどの食糧や服地を手にし、GHQの車で自宅まで送り届けら
 れていたと当時を回想している。
・街には浮浪児が溢れ、パンパンと呼ばれる娼婦が立ち、皆がすきっ腹を抱えていた時代
 の話である。高峰のような女優は他にもいたが、こうした道を選ばなかった節子は街に
 溢れる孤児と同様、飢えて栄養失調になりながら、それでも頑なに占領軍を寄せつけな
 かったという。
・女優の中には唄や踊りを披露して食糧や金を得るだけでなく、米兵と親密な関係になる
 者もあった。たとえば、「杉村春子」も占領期には米兵と交際している。
・「敗戦後から数年が、金銭的にも、精神的にも、肉体的にも最も苦しかった」と、節子
 は繰り返し語っている。栄養失調でふらつきながらも、家族を支えるため買い出しに向
 かい、映画に出続ける日々。無理を重ねるなかで彼女がこの時期、覚えたことが二つあ
 る。酒と煙草だ。短い時間に熟睡できるようにと安酒をあおり、また電力事情があまり
 に悪く始終、撮影が中断されるので、時間潰しのために煙草を憶えたと語っている。
・占領軍から施しは受けまいとした節子であるが、困窮のあまり、彼らの残飯を買って食
 べることは、たびたびあった。GHQの宿舎から出る残飯を集めて売る商売があり、そ
 れを買って食べたという。食べ物の原形が残っているものを「A残飯」、おじやのよう
 にごった煮になっているものを「B残飯」と呼んだらしい。さすがに「B残飯」は食べ
 る気になれなかったそうだが、「A残飯」はやむなく口にした。あの時、残飯の中から
 パンの耳が出てきて、節子は思わず泣いた。日本人はこんなにも飢えているのに米兵は
 パンの耳を捨てるのか、そう思うと悔しさと悲しみが込み上げてきたという。彼女はこ
 の屈辱を生涯忘れなかった。飢えのみじめさ、金がないことのみじめさを。
・節子は割り振られる民主主義映画に次々と出演した。戦意高揚映画では女性は主役にな
 ることはほとんどなかった。だが、状況が一変したのだ。民主主義を説く役割は、日本
 を戦争へと導いた男性ではなく女性にこそふさわしい。加えて日本の封建的な社会体制
 を打破するには、女性の地位を早急に引き上げる必要があるともGHQは判断していた。
・節子の戦後第一作は昭和21年(1946年)2月公開の「緑の故郷」である。この作
 品は、捕虜問題をテーマにしている。兵士に向けた「生きて虜囚の辱めを受けず」との
 「戦陣訓」の教えは、当時、一般の国民にまで浸透していた。それを知るGHQは捕虜
 を帰還させる前に、こうした考えを改めさせなければならないと考えたのだった。捕虜
 になった元兵士が、故郷に戻って差別されることがないようにとの配慮から作られた映
 画、それが、この「緑の故郷」だったのである。映画の中で節子は、「栗山マキ」とい
 う元女性教師を演じている。戦後になっても村の男たちの意識は変らず、マキの一家を
 迫害する。そんななかでマキは立ちあがり、滔々と反論の演説をぶち、民主主義の価値
 観を村民たちに教え論するのである。
・続く二作目が「麗人」だった。GHQは日本の家制度が封建制、ひいては軍国主義を助
 長してきたと考えていた。そして日本が二度とそうした道をたどらないようにするには
 家制度を解体し、その象徴である見合い結婚を否定する必要があると分析したのだった。
 この映画でもヒロインを演じた節子が、「自由」の意義を作中で力強く訴えている。
・彼女は戦前も、「清く、正しく、美しい」女性を演じる女優だった。戦前と戦後の正し
 さは大きく異なるが、彼女は常にその時代の正しさを演じる使命を背負わされた、女優
 だったのだ。
・彼女は占領軍に迎合する世の中や人々を批判的に見ていた。だが、同時に占領軍がもた
 らした、女性に対する進歩的な政策には共感し、目の前が拓けていくような希望を感じ
 てもいた。
天皇が人間宣言をした昭和21年1月、突如、占領軍が戦前の軍国主義者を公職から追
 放する、と発表した。これを受けて映画人の間には、戦争協力者として追放されるので
 はないか、という動揺が改めて広がった。すると、東宝の労働組合は、GHQから指名
 される前に、自分たちで自主的に該当者をGHQに申告しようという動きが生まれたの
 である。話し合いを重ねて3月、全映はGHQに自ら”粛清候補者リスト”を提出した。
 A級、B級、C級に分けられ、それぞれに該当する者の名が記されてあった。A級は、
 各社の重役や映画行政に関わった内務省や情報局の役人の名が挙げられていた。B級は、
 各社の撮影所長の名が並べられた。ところがそこに、監督としてただひとり「熊谷久虎」
 の名が入っていた。
・これと同じようなことが画壇や文壇でも起きている。画壇で熊谷のように仲間から売ら
 れて戦争協力者に仕立て上げられたのは、「藤田嗣治」だった。多くの画家が戦争画を
 描いた。だが、藤田ひとりに責めを負わせようとしたのだった。人づきあいが苦手で、
 フランスに長くいたこともあり、日本の画壇で藤田は浮いていた。藤田は従容として受
 け入れ、日本を去った。そして、二度と祖国の土を踏まなかった。
・結局のところ映画界や画壇からの自己申告を受けて、GHQが藤田や熊谷を戦争協力者
 として認定し、公職追放することはなかった。だが、だからこそ余計に、仲間への不信
 感と怒りは強く残った。そのうえ熊谷の場合は実質的に労働組合に支配された東宝から、
 締め出された。にわかに民主主義、ないしは共産主義に染まった仲間たちから粛清され、
 追放されたも同然の身となったのである。
・義兄に仕事がなくなり、生計はそれまで以上に節子の双肩にかかった。それだけではな
 く、敗戦により満州から弁護士をしていた長兄の武雄の一家と、銀行員の木下順と結婚
 して大連で暮らしていた三姉、喜代子の一家が、女こどもだけで引き揚げてきて、保土
 ヶ谷の家でともに暮らすことになった。長兄の武雄も義兄の木下順も戦地に送られ、生
 死すらわからなかった。つまり、節子は働き手を失った三家族を養わなくてはならなく
 なったのだ。さらに南方からキャメラマンの次兄・会田吉男が復員し、やはり保土ヶ谷
 の家に同居した。実父もいる。他の親戚も身を寄せ、20名以上の人達がいた。節子が
 倒れれば皆が食べていけなくなる。生活は苦しかった。しかし、その苦しみが彼女に力
 を授けもした。
・昭和21年、黒澤明監督が満を持して節子を主演に迎えると大作に挑んだ。それが「
 が青春に悔いなし
」である。揺るがぬ反骨精神を持って雄々しく運命に立ち向かうヒロ
 イン。それが、黒澤が節子に用意した役柄だった。節子はこの作品によって、より鮮明
 に戦後の民主主義を体現する象徴的存在と見なされるようになる。
・時は占領下にあり、アメリカの文化や価値観が一斉に流れ込んできた時代である。戦時
 中は上映が禁止されていたハリウッド映画に人々は群がり圧倒された。「イングリッド・
 バーグマン
」をはじめ、西洋人女優の美しさに皆、息を呑んだ。大きな眼、高く通っ
 た鼻筋、彫の深い立体的な顔立ち、洋装の似合う背丈、すらりと伸びた手足、あるいは
 知性と教養と自我を感じさせる強い眼の輝きに。
・それと同質のものを持つ女優は、日本では節子ただひとりだった。人種的な劣等感にさ
 いなまれていた日本人にとって、節子の存在は”民族の誇り”といっても大げさではな
 いものだった。敗戦で傷ついた人々は節子の美しさに励まされ、癒され、勇気づけられ
 たのである。
・ところが、東宝では労働争議がいっそう深刻化していた。東宝の砧撮影所ではストライ
 キが起こり、映画製作そのものができなくなった。賃上げや労働条件の改善だけなら、
 まだましだった。組合の要求はエスカレートし、企画会議や入社試験にも組合員を参加
 させるように要求した。東宝はいったい、どうなってしまうのか。先がまったく見えな
 くなった。
・危機感は、とりわけ東宝のスターたちの間で強まった。どんなスター俳優でも映画に出
 なくては収入が一切ないからだ。ついに東宝を代表する大スター、「大河内伝次郎」が
 「政治思想によるストには反対だ」と組合のストライキに反対する声明を発表した。こ
 の大河内伝次郎の訴えに、ほかのスターたちも同調する。彼らは「十人の旗の会」を名
 乗り、ついに組合からの脱退を表明。また、この十人は同時期に脱退した多数の東宝社
 員とともに、第二撮影所を拠点に映画制作をはじめ、それが翌22年の「新東宝」の創
 業につながるのである。
・「わが青春に悔いなし」が公開されてから、何も仕事がなく無収入の状態で10ヵ月を
 過ごした節子は、ようやく新東宝で「かけ出し時代」という作品に出演し、久しぶりに
 出演料を手にして安堵する。
・組合からは「スターは皆、ブルジョワだ!」と批判されていた。自分がなぜ「ブルジョ
 ワ」と指弾されるのか、節子は納得がいかなかった。むしろ、労働争議に明け暮れてい
 られる組合員のほうが、よほど恵まれているのではないかと思うことさえあった。仕事
 が終わって撮影所の門を出ると、たいていは夜の10時を回っている。節子は近くの農
 家で家族のために大根やキャベツを買い、鞄につめて電車に揺られながら帰宅した。女
 優だからといって、こんな自分の一体どこが「ブルジョワ」なのだろう。
・新東宝を経て節子がフリーになる道を選んだのも、すべては経済上の理由からだった。
 争議で落ち着かない東宝に未練はなく、かといって船出したばかりの新東宝では心もと
 ない。とにかく映画に出て、家族を養わなくてはならなかった。フリーになれば仕事が
 できる。もちろん、どの会社からも声がかからなければ、それまでのことではあるが。
 生来、堅実な生き方を好む節子は、追い詰められなければ、こうした選択をすることは
 なかったであろう。節子は会社から離れてフリーとなった。

孤独なライオン
・昭和22年、節子は松竹の大船撮影所に初めて足を踏みいれた。可憐な美人女優を見な
 れた松竹の監督やスタッフたちも、はじめて目にする「原節子」には、たじろいだ。圧
 倒的な美しさ、というだけではない。内面から滲み出る知性、人を寄せつけない風格と
 威厳。松竹の第一線にいた田中絹代、水戸光子、高峰美枝子らとは、まったく異なる空
 気を節子はまとっていた。
・節子がフリーになって最初に挑んだ作品が、松竹に所属する「吉村公三郎」監督の「安
 城家の舞踏会」だった。
・戦前までの節子は、どこか少女のようなはなやかさや弱々しさを引きずっていた。しか
 し、一家の生活を背負いフリーになった頃から、その顔つきまで変っていた。
・戦後まもなく、「秋山庄太郎」は銀座の街を悄然と歩いていた。銀座に写真スタジオを
 開いたものの、世の中は食べていくのが精いっぱいで写真を撮りに来る人などいない。
 写真の道は諦めて、就職しようかと悩んでいた。すると道の向こうから光り輝くような
 女性がやってきた。女優の原節子だと気づいた。秋山は、その姿に胸を打たれた。写真
 をやっていれば、いつか彼女を撮ることができるかもしれないのだ。やはり写真を続け
 よう、そう決意したという。チャンスは思いのほか早くにやってきた。映画雑誌社で仕
 事をしていたところ、原節子の撮影現場に送られたのだ。帰り路で電車に乗ると、思い
 がけず文庫本を手にする原節子の姿があった。挨拶すると、唐突に節子にこう聞かれた。
 「あなたは映画界、お好き?」「嫌いですね。なんだか作為的で」節子はそれを聞いて
 満足げに答えた。「私たち気が合いそうね」秋山は節子の自宅での撮影を許され、長く
 交友を続けることになる。
・戦後の混乱と東宝争議の影響から、この時期、多くのスターがフリーになっているが、
 それに呼応して芸能マネージメントに乗り出し、評判を取った男がいる。名は「星野和
 平」フリーになったスターの多くが、この星野にマネージメントを依頼した。映画会社
 に所属し会社の言い値で仕事をしてきたスターたちは、星野を通じて1本ごとに出演料
 の交渉をするようになる。星野は少しでも条件がよくなるよう、各社とわたり合い仲介
 料を取った。その結果、スターの出演料は高騰した。
・節子は休む間もなく、また松竹に呼ばれた。再び吉村公三郎監督と組んで、「誘惑」を
 撮ることになったのだ。これは大学教授の令嬢が亡父の教え子である妻帯者の中年男性
 に惹かれていく、という内容の作品だった。ところが、この撮影は、すんなりとは進ま
 なかった。相手役から「いくつだったかな」と尋ねられ、「十九です」と応えるシーン
 があった。だが、節子は当時二十七歳。気恥ずかしくて「十九」とは言えないと主張し、
 「二十一です」に脚本は書き換えられた。さらには、入浴シーンが問題になる。節子は
 拒絶した。「別人に演じてもらうから」という提案さえも許さなかった。入浴シーンは
 脚本から削除された。この話が映画界に広がりマスコミに報じられると、「大人げない」
 「プロ意識が足りない」と節子は一斉に叩かれた。
・映画会社は明らかに節子の入浴シーンを利用して、集客に結びつけようとしていた。節
 子はこうした映画づくりの姿勢に嫌悪し、そこに自分が利用されることを拒んだのだっ
 た。これは女優という職業を尊重しての行動でもあった。だが映画界の男たちは迎合せ
 ず肉体を晒さない節子を責めるのである。
・「誘惑」は昭和23年(1948年)2月に公開されたが、あまり評判にはならなかっ
 た。
・さらに節子は、大映で吉村廉監督による「時の貞操」に出演する。この時、話題を集め
 たのは節子の出演料だった。タイトルのまた、刺激的である。映画の舞台は戦前の製糸
 工場で、節子は工場長らに貞操を蹂躙される哀れな女工を演じている。”永遠の処女”
 といわれる聖性を帯びた女優を作中で汚そうとする、そういう傾向が見られるように思
 う。次いで、この年に出演した三本目の作品はギャングの情婦役である。生活のための
 出演料の高い作品を選んだ結果なのか、あるいは、これまでの清純の優等生的な役柄か
 らの脱皮を試みてのことなのか、よくわからない。この頃の節子からは、いくぶん荒ん
 だ印象を受ける。
・がむしゃらに働いた代償として、彼女は昭和22年秋に東京郊外の狛江に家を得ている。
 フリーになり出演料も順調に増えた節子はまず家を買ったのだった。広い庭のある中古
 の平屋だったという。保土ヶ谷の借家を引き払い、実父、熊谷一家、四姉の律子ととも
 に移り住み6人で暮らしたようである。狛江では広い庭に菜園を作り、自ら耕した。
 なお、”原節子より美しい原節子の姉”といわれた律子は、間もなく松竹の番匠義彰監督
 と結婚し、狛江の家を出ている。
・この自宅を得てから節子はますます出不精になった。取材も多くはこの自宅で受けた。
 家で本を読み、家事をし、畑仕事をして、家族と一緒にいられれば、それでよかった。
・この頃、同時に節子は悲しい知らせも受け取っている。長兄の武雄が敗戦後の昭和20
 年10月、抑留されたシベリアで病死していたのだ。また、三姉・喜代子の夫で銀行員
 だった木下順も南方に出征したまま戻らず、昭和23年頃、戦死と認定された。残され
 た喜代子は節子の援助を受けながら食堂を経営し、自活を果していく。
・フリーとなって生活が上向き自宅も得た節子は、余裕ができるにつれて出演作を吟味す
 るようになっていった。この頃、重鎮の溝口健二から「美貌と白痴」への出演を依頼さ
 れるが、「堕落の果てに真実があるという考えには共感できない」と断っている。溝口
 の女性観に違和感があったようだ。
・この年、節子は次々と評判を取ることになる。その皮切りとなった作品が松竹の「お嬢
 さん乾杯!
」だった。監督は島津保次郎の弟子にあたる新進気鋭の「木下恵介」。木下
 はセットで原節子を目の当たりにして、その日本人離れした容貌と存在感に目を見張っ
 た。撮影が始まってからは朗らかな笑顔とは対照的な、いくぶん神経質とも取れる生真
 面目さにも驚かされる。節子は圧倒的な存在感を示して作品は興行的にもヒットする。
・節子の快進撃が始まった。次に出演したのが、「青い山脈」である。監督は今井正だが、
 実際は東宝のプロヂューサー「藤本真澄」が執念で制作した作品だった。「青い山脈」
 は空前の大ヒット作となる。節子の演じたのは、聡明な英語教師「島崎雪子」。髪型と
 いい、立ち居振る舞いといい、まるでハリウッド女優のような堂々とした貫禄で、これ
 までの日本映画にはない女性像を溌剌と演じた。「青い山脈」によって、原節子は戦後、
 再び国民的女優となったのだった。
・節子は、もはや押しも押されもせぬ大女優だった。人気投票でも1位になった。それで
 も、彼女は相変わらず宝石も毛皮も身に着けることなく、質素な格好で鞄を提げて撮影
 所に通った。付き人もおらず、電車やバスを使い、徒歩で撮影所の門をくぐる。
・昭和24年、節子は休む間もなく松竹の大船撮影所に赴き、小津安二郎監督の「晩春
 に出演する。今日、「小津安二郎」の名は世界的に知られ、特別な地位を得ているが、
 「晩春」当時の小津は、まだ今ほど名声は確立していない。
・小津は、映画人の中でも最も過酷な戦争体験をした、ひとりである。中国大陸の奥地を
 転戦するなかで、小津のいた部隊は国際条約で禁じられた毒ガスさえ使用している。元
 兵士の証言では、中国人の集落に毒ガス弾を撃ち込み、住民がもだえ苦しむ様子を風上
 から観察し、ガスにしびれて逃げ遅れた住民を刺して歩いたという。小津自身も手帳に、
 娘が日本兵に強姦されたと訴えに来た中国人の老婆を上官が後ろから袈裟懸けに切り殺
 した話や、あるいは前線まで送られてきた朝鮮人慰安婦の姿を細かく書き綴っている。
 「小津は古い」「終わった」と言われるなかで、あえて広津和郎の小説「父と娘」を原
 作に選び、娘の結婚をめぐる父娘の心の動きという古風なテーマに再起をかけて挑んだ、
 それが「晩春」である。節子はこの時、二十九歳だった。「晩春」が公開されると、批
 評家から絶賛される。現在へと続く小津の名声は、この作品から始まっている。
・日本社会全体を見渡せば、昭和23年(1948年)からGHQの対日占領政策が明ら
 かに変化していた。昭和24年の夏には下山三鷹松川事件が相次いで起こり、日本
 共産党や労働組合に対する締めつけがいっそう強まっていった。
・そんな不穏な年にスクリーンのなかで、節子はまばゆい輝きを放ったのである。だが、
 この頃すでに彼女の健康は蝕まれていた。 
 
求めるもの、求められるもの
・身体に異変が生じた。「晩春」公開の前から体調不良に悩まされていたことが記録から
 わかる。身体がだるい、気持ちが沈む、口臭がするように思える・・・。節子は元来、
 胃腸が弱かった。原因は腸の病であったようであるが、一時は「ノイローゼ」との噂も
 立った。「晩春」出演後、節子は長期の休養を取った。
・昭和25年(1950年)に節子が出演した作品は、「白雪先生と子供たち」「女医の
 診察室」「アルプス物語 野生」「七色の花」の四作である。「七色の花」を除く三作
 は節子が出演を望んだ作品だった。「女医の診察室」は、原作を読んで感動した節子が
 映画化を希望して自ら企画に動いたという。仕事に殉じた女医がヒロインで、かつて心
 を寄せた男性医師と再会する。しかし、彼にはすでに妻子があり、想いを封じて女医は
 研究と臨床に没頭するが、持病で儚く命を終える。これが彼女演じたいと切望した役で
 あった。節子がどのような女性像に共鳴していたかを知るうえで興味深い。
・ところが、節子が三十歳になった昭和25年は、一転して後世に残るような作品には出
 ていない。節子自身が企画を望み、義兄や実兄、または懇意する人々と組んで挑んだ作
 品は、すべて失敗に終わっている。
・昭和26年、節子はまた巨匠たちからのオファーを次々と受け入れた。体調も全快した
 のだろうか。幕開けは、黒澤明が松竹で撮る「白痴」だった。黒澤明は「羅生門」で組
 めなかった節子を得て、意気込んで制作に挑んだ。その結果、作品は4時間半という大
 長編となる。すると松竹は、前後編で公開するという約束を反故にしてフィルムを短く
 するよう、黒澤に迫った。黒澤は激怒したものの、結局、作品はほぼ半分の長さにまで
 編集されてしまった。公開されると案の定、「意味がわからない」と批評家から酷評さ
 れ、大衆からはそっぽをむかれて興行的には惨敗する。
・「白痴」の後、節子は小津の「麦秋」に続けて出演した。婚期を逸した娘紀子が嫁いで
 いくまでの物語だった。「麦秋」は批評家から高く評価された。
・節子は休む間もなくさらに東宝で成瀬己喜男監督の「めし」に主演する。制作は「青い
 山脈」を手がけた藤本真澄プロヂューサーである。藤本は、黒澤とも小津とも違う役柄
 を節子に振り当てた。それは、「生活にやつれ、くたびれきった主婦」というものだっ
 た。公開前から「ミスキャスト」の声があがっていたが、藤本は意に介さなかった。節
 子の新境地を開いてあててみせる自信があったのだ。そして、藤本のこの読みは正しか
 った。節子は、音を立ててお茶漬けを啜る色気のない人妻を見事に演じた。美しい原節
 子を期待する熱烈なファンからは苦情も出たものの、かえって節子の演技力は高く評価
 され、興行的にも成功を収めた。

「もっといやな運命よ、きなさい」
・昭和26年(1951年)節子は4年ぶりに古巣の東宝と専属契約を結んだ。フリーに
 なって人気は絶頂、各社の監督が彼女を使いたがっていた。それなのになぜ、フリーの
 立場を捨てたのか。この東宝入りには、いくつかの事情があったと考えられる。ひとつ
 には義兄の熊谷が社長をし、実兄の会田吉男キャメラマンも社員だった「芸研プロ」の
 経営が振るわず、思うような作品づくりも出来なかったおとである。そのため節子は東
 宝に義兄、実兄も合わせて、つまり三人一緒に雇い入れてくれるなら、という条件をつ
 けて契約したようである。
・昭和27年の節子は、東宝で「風ふたたび」「東京の恋人」を撮ったあと、「旅愁」の
 企画が流れたこともあり体調不良を理由に1年近く映画に出演せず、自宅で静養してい
 る。長年、徹夜の多い不規則な映画界で働いてきた。その上、戦中戦後の食糧難を経験
 し、栄養失調になった時期もある。一家を養うために無理も重ねた。節子はこの時期、
 腸を切除する手術を受け療養していたようである。活躍した年の翌年は体調不良で休養
 を取る。それがこの後も、ひとつのパターンとなっていく。
・昭和27年4月、サンフランシスコ講和条約が発効し、ついに占領は終了する。映画界
 は検閲から解放され、これまで触れることをGHQに禁じられてきた、沖縄戦や原爆も
 描けるようになった。
・昭和28年、節子も1年ぶりに映画に出ることになった。復帰作は「白魚」と決まった。
 しかも、監督は義兄の熊谷久虎。実に12年ぶりの監督復帰作であった。撮影は節子の
 実兄である会田吉男キャメラマン。原節子ファミリーが結集して臨む格好だった。
・撮影が始まると、現場のスタッフは、奇才といわれた熊谷の個性に戸惑うことになる。
 意味のわからない注文やこだわりが、あまりに多かったからだ。 
・撮影も半ばを過ぎた7月10日の出来事だった。夜7時過ぎ、静岡県の御殿場駅で撮影
 が行われた。煙を吐きながら駅に滑り込んでくる列車から、主演の上殻兼とともに節子
 が降り立つというシーンだった。この時、熊谷は、汽車がホームに入ってくるカットを、
 線路のまん中にキャメラを据えて正面から撮ると言い出した。しかも、撮影のために組
 まれたものではなく通常運行の汽車を捉えるため、テストはなしだという。だが、現場
 では監督は絶対的な存在だ。誰も反対意見を言えなかった。熊谷の指示どおり線路の真
 ん中にキャメラが据えられた。汽車はあらかじめ決めておいた停止線で止まる、だから
 臆せず正面から撮れという義兄の言葉に会田キャメラマンは従った。
・やがて、汽車が汽笛を鳴らし、ホームに入ってきた。会田はそれを正面から捉えた。だ
 が、誤算が生じた。撮影用のライトがあまりにも強烈だったのだ。機関士は眼が眩み、
 止まるべき停止線を見失い、線路の中央にキャメラを構えて撮影していた会田と助手を
 弾き飛ばして停車した。現場は悲鳴に包まれた。節子は汽車から飛び降りると騒ぎのす
 る方に駆け寄ろうとした。それを周囲が必死に止めた。会田と助手は轢死こそ免れたも
 のの、瀕死の状態で車両の下から救い出され、スタッフの手で近くの病院へ運ばれた。
・病院に医者はひとり、けが人はふたり。しかも、ともに重症だった。医者はどちらを先
 に手術すべきか迷った。その時、節子が叫ぶように言った。「兄は後でかまいません。
 助手さんを先に」皆、何も言えず、俯いた。医者は節子の指示に従った。節子はその後
 も、実兄ではなく撮影助手の青年に付き添い続けた。
・病院に会田の妻が駆けつけた。結婚したばかりで、子どももまだ小さかった。節子にと
 っては幼い頃ともに遊んだ年の近い兄である。手当ても虚しく節子の二番目の実兄、会
 田キャメラマンは夜明けとともに静かに逝った。節子は病室で悄然とする熊谷をいたわ
 り、夫人を慰め、必死に涙をこらえていた。
・撮影はその後も続けられた。節子の意志であったという。節子は義兄を責めず、実兄の
 死を乗り越えて職業人としての義務を全うしようとしたのだろう。ところが、その結果、
 「実兄よりも義兄のほうが大事なのか」「やっぱり義兄と怪しいんじゃないか」といっ
 た心ない陰口を叩かれることになった。
・「白魚」は、事故からひと月後に公開された。だがラストが唐突すぎるせいか、作品と
 してはこれだけの犠牲を払いながら不出来とされ話題にもされなかった。あまりにも悲
 惨な結末であった。
・「白魚」の撮影が終わると、節子は10日後には次の作品のロケに入った。それが「東
 京物語」である。小津安二郎の代表作として現在、世界的に高く評価されている作品だ。
 節子は三十三歳になっていた。
・「東京物語」に続き、節子は「山の音」に主演する。これも良作として評価された。
・「白魚」で惨敗した熊谷だったが、すぐに節子を主演に次作に着手した。作品は彼の故
 郷、中津の英雄である福沢諭吉の伝記映画で節子も撮影の準備に入った。ところがここ
 で、異変が起こる。節子の左眼の視力が急に衰え、ものが見えなくなったのだ。「山の
 音」が封切られた直後の昭和29年1月のことだった。
・白内障である。節子はまだ三十三歳。本来なら白内障を患うような年齢ではなかった。
 節子は、このまま放置すれば失明すると医者に言われた。最大の魅力といわれた大きな
 眼に、メスを入れるのだ。節子の頭にこの時、引退の文字がよぎったという。狛江の自
 宅から鎌倉の熊谷宅に身を移し、義兄夫婦のもとで身体を休めながら医者に通った。
・結局、節子は様子を見続けて11月に手術を受けた。手術は無事成功した。まばたきを
 一度でもすれば失敗してしまうという危険な大手術だったのだと節子は術後、周囲に語
 っている。
・退院後もしばらく、節子は鎌倉の熊谷宅で療養をしたが、容体が安定すると狛江の自宅
 に戻った。月に二度、東宝の森岩制作本部長の訪問を受ける以外、人との接触を避け、
 周に一度は病院に通った。節子は病院に通うために、はじめて自家用車を購入する。

生きた証を
・白内障の手術から4ヵ月後の昭和30年3月、ようやく節子の復帰第一作が正式に発表
 された。児童文学者の石井桃子作品を映画化した「ノンちゃん雲に乗る」だった。制作
 は「芸研プロ」である。熊谷は、一時期解散していた芸研プロを前年に再興して、この
 制作にあたったのだった。監督は熊谷と極めて親しく、節子とも気心の知れた芸研プロ
 所属の「倉田文人」だった。主役の「ノンちゃん」はバイオリンの天才少女として知ら
 れた「鰐淵晴子」で、節子は彼女の母親役だった。節子は、この作品ではじめて、小学
 生の子どもを持つ母親役を演じた。節子にとっては大きな決断だった。通常、会社側は
 人気女優、美人女優には母親役をやらせたがらぬのである。また、女優自身も母親役を
 敬遠する。人気が落ちてしまうからだ。
・これまで会社は、あるいは世の中が、節子の母親役など望まなかった。しかし病を得て
 一年余も映画界から離れていたことを機に、節子はあえて自分から踏み切ることにした
 のだった。「永遠の処女」として映画に登場し続けることに、節子自身限界を感じ、役
 柄を広げて ”居場所”を求めようとしていたのだろう。
・次作は「美しき母」に決まった。監督は熊谷だった。原作者の「林房雄」は熊谷と同郷
 で思想的にも共鳴し合い、戦後も親しくしていた。熊谷宅とは自宅が近く節子とも親し
 かった。「白魚」に続きファミリーの力を結集して臨んだ作品であり、昭和30年に公
 開されたが、「白魚」と動揺、評価は低かった。
・昭和31年、映画界の隆盛は数のうえでは、まだ続いていた。3年前にテレビ放送も始
 まっていたが、普及率は低く、映画をおびやかす存在では、まだなかった。節子は「驟
 雨」という作品に出演したが、成瀬の丁寧な仕事ぶりが光る佳品ではあるものの、小品
 の感は否めなかった。続いて出演したのは、「愛情の決算」。これも評価を得るには至
 らなかった。次の出演作「婚約三羽烏」は、まったくの端役だった。主演は「司葉子」
 である。節子にとっては初のカラー作品となる。時代はカラーへと移りつつあった。
・この頃から節子の出演作には、明かな変化が現われる。二十代の女優とのダブルヒロイ
 ン、あるいは共演となるのだ。美しく、品のいい、”ポスト原節子”が育っていた。香
 川京子、司葉子、久我美子らが、若さを画面の中で横溢させている。
・「永遠の処女」の称号を冠された節子が三十代も半ばを過ぎた時、日本の映画界も観客
 も彼女の期待には応えられなかった。節子は自分の目標を、日本映画の中には求めず、
 「イングリッド・バーグマンやデボラ・カーの役どころをやりたい」と何度も繰り返し
 ている。大人の恋愛劇を演じたかったのだろう。しかし現実には、良妻賢母の枠の中に
 押し込められていた。
・この年の3月、同居してきた父親が亡くなった。84歳の大往生とはいえ親思いの節子
 は深く悲しんだ。両親のもと7きょうだいの末っ子として生まれた節子だが、すでに母、
 一番上の姉、長兄、二番目の兄はなく、そして父も亡くなった。残されたのは3人の姉
 とその家族とともに節子は、この後を生きていくことになる。
・昭和32年、6本の映画に節子は出演した。まず「大番」。大地主のお嬢様を節子は演
 じた。この映画は大当たりし、続編が立て続けに3本も撮られることになる。
 次は「東京暮色」である。「東京物語」以来、およそ3年半ぶりの小津作品で脇役だっ
 た。節子に代わって娘役を演じたのは二十代の「有馬稲子」で、節子はその姉として登
 場する。
・節子は、「東京暮色」の途中から、次作品の撮影も始まり二つの撮影現場を行き来した。
 そして彼女自身の気持ちは、この次作品に大きく傾いた。それが、熊谷の「智恵子抄
 である。次第に正気を失っていく「智恵子」を節子は渾身の力で演じた。作品な同年6
 月に公開された。比較的評価はされたものの、やはりそれほど話題にはならなかった。
 節子の落胆は大きかった。この頃から彼女は再度、引退を強く意識したのかもしれない。
・女の老いに日本社会は残酷な仕打ちをする。田中絹代は、戦後、40歳の年に日米親善
 使節として渡米したが、帰国後の、若々しい服装、振る舞いをすさまじく批判された。
 「老醜」とののしられ、一時は自殺を考えるまでに追い詰められた。
・最も節子に生い立ちや気質、イメージが近かったのは、気品と美貌で知られた入江たか
 子である。だが、その入江の中年となってから後の人生は無残なものだった。3人の兄
 の相次ぐ死、結婚生活の破綻、自分の病気もあって経済的に行き詰まり、入江は苦渋の
 末、低俗な「化け猫映画」に化け猫役で出演した。かつての美貌は見る影もなく、気味
 の悪い化け猫役を演じる入江を見て、世間は嗤った。美貌を謳われた女優ほど、手ひど
 いしっぺ返しを食う。誇り高い節子は幼い日に憧れた先輩女優のそんな姿を見て、「原
 節子」にこうした最後を与えるようなことは決してするまいと思ったのではないだろう
 か。老いて居場所を失う前に去りたい、おいて嘲笑される前に消えたい、虚栄心から贅
 沢をして経済的に行き詰まり老いてから足元を見られなくない、と。
・もはや戦後ではない、とは昭和31年(1956年)の経済白書に記された言葉である。
 娯楽の需要は増し、映画界はますます巨大産業となっていた。戦前はあれほど蔑視され
 ていたのに今では誰もが憧れる業界となった。大学卒が監督を志望し、貧困家庭に育っ
 たわけではない女性たちが、自分の意志で女優になりたいと願って入ってくる。
・この頃から、日活を中心に石原裕次郎らを主役にした「青春もの」と言われる若者向け
 映画が大量に作られるようになり、それに合わせて映画スターの条件も代わっていった。
 もはや戦後ではないといわれるなか、変質する映画界で節子は次第に居場所を失いつつ
 あった。 

それぞれの終焉
・節子は時代の移ろいのなかにいた。復興を果たし、貧しさから脱却した日本は、高度経
 済成長の波を迎えようとしていた。雑誌のロケ撮影で若い女優たちと一緒になると三十
 代も後半になった節子は、自分に与えられた広い部屋を後輩たちに譲った。ロケ先での
 節子は、ひとりで過ごすことが多かったが、誘われれば麻雀やトランプに興じるように
 なった。男たちが品のない話を披露しても、「いやあね」と苦笑しながら受け流した。
・”ポスト原節子”として注目を集めたのが、香川京子久我美子司葉子岸恵子たち
 だった。皆、品がよく、近代的な知性を感じさせた。節子は機会があれば彼女たちに極
 めて優しく姉のように接した。戦前は先輩女優が新人をいびり、嫉妬していじめ抜くこ
 とが、なかば撮影所の習わしとなっていた。それを節子は決して繰り返さなかった。若
 い彼女たちに対抗しようなどという考えは、節子にはなかった。自分の行く末をすでに
 見定めていたのだろう。だからこそ、多くの後輩女優が節子を尊敬し慕った。 
・昭和33年(1958年)「女であること」に節子は出演した。川端康成の原作で、久
 我美子、香川京子との共演だった。この年、主演作と言えるのは本作のみである。ここ
 でも節子の役は、結婚生活十年ともにした夫の浮気を疑い、些細なことで同居する若い
 女性に嫉妬する人妻、というものだった。
・この年11月、日本中を沸かせたのは、皇太子婚約のニュースだった。多くの人がテレ
 ビに映し出された未来の皇太子妃の姿を見て、その美しさと気品、聡明さに心を打たれ
 た。時は、映画からテレビの時代へと移り変わろうとしていた。
・昭和34年(1959年)、「女ごころ」が公開される。三十八歳の節子が演じたのは、
 夫の 浮気に悩んで家を出て行ったものの、気を取り直して夫婦生活をやり直す妻とい
 う役だった。夫の浮気相手を二十三歳の「団令子」が演じ、溌剌とした色気を振りまい
 ている。
・節子は、この頃から会社への不満をマスコミに向けて口にするようになっていく。節子
 は半年以上、銀幕から遠ざかる。次に出演したのは、「日本誕生」で同年10月に公開
 された。東宝制作一千本記念として作られた大作で、所属する俳優たちは、ほぼ全員が
 出演している。
・安保改定問題で幕を開けた昭和35年(1960年)、節子は四十歳になった。若い頃
 は、「どうして結婚しないんだ」と責めるように問われることが多く、気持ちが不安定
 になりがちで、早く四十歳になりたいと思っていた。四十にもなれば、そういうことも
 聞かれなくなり、また、人間もできて心穏やかになるのではないか、と期待したという。
 だが、実際に、その年齢になったとき、多くの人が彼女に興味を失ったことを知った。
 若ささえ失えば別の美質に目を向けてもらえるのではないかという期待は空しく外れた
 のである。
・引退を意識したからだろう。前年から一転、4本の映画に出演し、最後の多作の年とな
 った。まず「路傍の石」に出演する。節子の起用は原作者・「山本有三」の強い希望だ
 った。貧しさのなか、少年を献身的に育てる母親役だ。だが、世評は高くなかった。
 続く「娘・妻・母」は、山の手の中流家庭を舞台に、家族の変容を描いており、節子は
 夫に急死された出戻り娘を演じている。映画はそれなりにヒットした。
・世間では新安保法案の強行採決に反対する学生たちが国会議事堂を取り囲み、連日、デ
 モが繰り広げられていた。そのなかで、東大生の「樺美智子」が死亡するという事件が
 起こった頃のことである。
・節子は休む間もなく、続いて「ふんどし医者」の撮影に入った。貧しい人に尽くす、幕
 末期の医者の夫婦を描いた作品で、妻は夫を支える貞女だが、大のばくち好き。ばくち
 に夢中になると夫の着物まで質に入れてしまう、というストーリーで取り立てて節子が
 演じるまでもない役柄だった。
・そして、この年の最後の締めくくる作品が「秋日和」だった。ひとり娘を嫁がせる未亡
 人の母という役どころであった。これかで節子は、母親といってもせいぜい小学生ぐら
 いの子どもがいる役しか演じてこなかった。それが、突然、成人した娘を持つ役を小津
 から振られたのである。節子の娘を演じたのは、司葉子だった。節子の心境はどのよう
 なものだったのか。
細川ガラシャを演じる希望はいちまでも叶えられず、イングリッド・バーグマンのよう
 な役どころも与えられず、家庭劇の中で男性に期待された理想像を演じ続け、盛りの時
 を過ぎてしまった。その上、義兄も監督として十分な再起は果たせず、東宝のなかに居
 場所は得られなかった。納得できる代表作を残して映画界を去るという理想は、もはや
 叶えられない。節子は人知れず引退に向けた準備を進めていった。
・白内障をわずらった頃から節子は蓄えができると、土地や株を購入した。熊谷の妻で次
 姉の光代が経済観念のしっかりした人物で、株の銘柄などは彼女が決めていたという説
 もある。もともと節子は質素な暮らしを好んで送ってきた。女優には付き人を何人も身
 の回りに置いて、あれこれと用事を言いつけることで自分の権勢を誇示する人も多かっ
 たが、節子はそういった感性を持ち合わせていなかった。たまに実姉に付き添ってもら
 うことがあったが、大抵はひとりで身の回りのことをなした。眼を悪くするかでは他の
 女優のように運転手付の自動車で乗りつけるようなことはせず、電車に乗り続けた。ぜ
 いたくな着物や宝石類はまったく興味がなく、高価な調度品も嫌った。外食はほとんど
 せず、食べ物に凝ることもなかった。
・贅沢を慎んで手にした金で昭和33年には狛江の自宅周辺の土地を買い増ししている。
 そのほか東京都内、あるいは神奈川県下にも少しずつ土地を購入していた。節子の時代
 は、戦後の凄まじいインフレを経験している。敗戦時から4年で物価が70倍になった
 ほどだ。投資が目的だったわけではなく、ただ現金を確かな形に変えておきたかったの
 だろう。
・節子には映画界への依存心はなかった。引退した以上は、経済に行き詰まっても舞い戻
 るようなことだけはするまいと、それだけははっきりと意識していたようである。
・昭和36年(1961年)、この年は2本の映画に出演するが、これまで同様、どちら
 も未亡人役だった。「慕情の人」では二十四歳の「白川由美」と並んで義理の姉妹を演
 じている。ライトを強くあてることで老いの兆しや肌の衰えを飛ばそうとしたのだろう。
 それが思いがけぬ事態を招いた。強烈なライトを至近距離から当てられて、節子が再び
 眼を傷めてしまったのだ。左眼はすでに失ったに等しかったが、この撮影で右眼まで傷
 めてしまい、節子は病院で治療を受けた。撮影終了後は休養を取り、ひたすら眼を労わ
 った。
・そして、最後の力をふりしぼるように半年以上空けて、「小早川家の秋」に臨んだ。
 節子はここでも一家の長男の未亡人役だった。昭和36年10月に公開されて評判を取
 った。そして、これが小津と節子による最後の作品となった。
・昭和36年8月には、新東宝が倒産した。粗製濫造に走った映画界の衰退は信じられぬ
 ほどの勢いで進んでいった。代りに台頭したのがテレビである。昭和37年になると、
  テレビの受信契約数がついに1千万台を超え、それに比して映画の観客数は4年前の
  ピーク時の半数近くにまで落ち込んだ。
・節子が昭和37年に出演した映画作品は、2本のみ。「娘と私」では、子どもを欲する
 が叶わず、その分、前妻の残した娘に愛情を注いでいくという後妻を演じた。これが節
 子にとって最後の主演映画となるが不評であり、また不入りだった。そしてついに、終
 わりの時が訪れる。
・毎年作製される東宝のカレンダーは、この年まで11年連続で節子が「1月」を飾って
 きた。だが、翌年のカレンダーに節子の姿はなかった。つまり、節子はもう37年のう
 ちに密かに引退を決意し、以降の撮影に応じなかったということになる。38年、カレ
 ンダーの「1月」を飾ったのは司葉子と藤山陽子だった。
・原節子は戦後の日本人を、その美しさで照らし、慰め、励まし、導いてきた。人々は原
 節子が演じるヒロインのなかに社会が求める価値観を見出し、進むべき方向を知り、戦
 後を生きた。そして、戦後が終わったとき、原節子の時代も終わった。人々は節子への
 関心を失った。

つくられる神話
・昭和39年(1964年)3月、節子は東京の狛江の自宅から荷物をすべて運び出すと、
 鎌倉の義兄夫婦の家に完全に居を移した。狛江の家は、この数年後に家屋だけ取り壊し、
 そのまま更地として持ち続けた。
・狛江の家は敷地が8百坪あったが、義兄の家は鎌倉郊外の古刹の一角にある借家だった。
 3百坪ほどの敷地内に母屋があり、義兄夫婦と息子の久昭が暮らしていた。節子の部屋
 は、もともと物置小屋だったところを改装した庭先の小さな離れだった。鎌倉の家では
 眼を休み、義兄一家に守られて気儘に暮らした。マスコミの取材は一切応じず、東宝の
 関係者はもとより、どんな映画人の訪問を受けても直接会うことはせず、義兄夫婦に対
 応させた。翌年には、自分の暮らす離れを改築した。延べ床面積49平方メートルのこ
 ぢんまりした家で、ここを終の住処とする覚悟を、このとき決めたのだろう。
・世間が節子の事実上の引退に気づき、騒ぎ始めた。だが、いくらマスコミ関係者や映画
 人が訪ねてきても、 本陣が表に出てくることはなかった。電話さえも義兄夫婦が受け
 、節子が望んだものだけが取り次がれた。
・外出する時はマスクをすることが多かった。近所に煙草を買いに行き、鎌倉駅のそばま
 で化粧品を買いに行く。時には銀座まで出掛け、海にも行った。残念ながら鎌倉の家か
 ら海は見えなかったが、足を運んで材木海岸までひとりで泳ぎに行くこともあった。
 車を自分で運転して、少し離れたところで買い物をし、海沿いを走って帰ってくる。そ
 んな日常を楽しんでいた。
・とはいえ、大半の時間は家のなかで過ごした。読書をし、時おりレコードを聴く。庭の
 草木を手入れし、家事をする。同じ敷地内は、姉と義兄、甥がいて少しも寂しくはない。
・生活費は女優時代の蓄えでまかなった。節子は現役時代から土地や株を買っていたが、
 日本は昭和40年代に入り高度経済成長を遂げて、土地の値段がひたすら上げり続けて
 いた。そんななかで引退後も節子は土地を購入し続けている。箱根の仙石原辺りには別
 荘を持っていた。
・節子が消えた後、日本映画界は音を立てて崩れていった。昭和46年(1971年)に
 は大映が倒産。東宝はヤクザ映画で、日活はポルノ映画でなんとか生き抜こうとしてい
 た。
・映画界とも世間とも交わることなく、節子は鎌倉の自宅でひたすら籠り続けた。
・昭和61年(1986年)5月には、節子に最も大きな影響を与えてきた、義兄の熊谷
 久虎が鎌倉の地で世を去った。82年の生涯だった。明くる年の6月、夫の後を追うよ
 うに妻の光代が80歳で逝った。
・節子が引退し、会田昌江に戻ってからも、光代は夫とともに防波堤となってマスコミや
 映画人から節子を守り続けた。節子の隠遁生活は夫婦の犠牲と献身によって、はじめて
 成り立ったといってもよい。熊谷夫婦の死後、その役回りは夫婦の次男である久昭とそ
 の妻によって引き継がれる。彼らが鎌倉の家で同居を続け、「原節子」と会田昌江を盾
 となって守り続けたのだ。
・時代は平成となる。平成6年(1994年)思いがけぬ形で、「原節子」の名が取り上
 げられ話題となった。この年の高額納税者番付、いわゆる長者番付に「会田昌江」の名
 が載ったからだ。全国で75位。納税額は3億7千8百万円で、所得総額は13億円以
 上と推測された。これは、かつて節子が女優時代に暮らした東京都内狛江の約8百坪の
 土地を売却したためであった。
・昭和22年(1947年)購入した当時は、麦畑が広がり人家もまばらで寂しいくらい
 だった。しかし、半世紀近い時を経て、あたりは住宅地と化し地価は高騰していた。鎌
 倉に移り住んでからも、節子はこの土地を人に貸すこともせず、手放しもせず放置して
 いた。バブルの絶頂期にはかなりの高値がつけられたが、節子はそうした設け話には乗
 らなかった。だが、義兄夫婦を見送って数年が経ち、心境に変化があったのだろう。売
 却した時、節子は72歳だった。
・他にも節子が購入した土地は、長年の保有によって軒並み大きく値を上げていた。一部
 は親族に贈与している。土地の売却に伴い、かなりの所得があったはずだが、彼女の生
 活は少しも変わらなかった。自身が暮らす鎌倉の家は、たいして広くもなく、しかも借
 地である。着る物にも食べる物にもこだわらず、旅行もせず外食もしなかった。タバコ
 と缶ビール、それに本と新聞があれば良かった。ひたすら家に籠り、本を読み、自炊し
 て質素な生活を送り続けた。
・ただし、世間への関心を失っていたわけではない。平成7年(1995年)に阪神・淡
 路大震災
が起こった際には、朝一番で自ら郵便局に飛び込み相当な額の義捐金を送った
 という。
・平成9年(1997年)には、無二の親友であった結髪師の中尾さかゑが亡くなってし
 まう。引退後も互いに家を行き来して唯一の友である。入院中のさかゑを節子は幾度も
 見舞っている。大人ばかりの撮影所でふたりの少女は肩を寄せ合って生きた。日活から
 東宝へと共に移籍し、映画の時代を生き抜いた同志だった。残された悲しみは深かった
 ことだろう。
・写真週刊誌が何度か、老いた彼女の姿を望遠レンズで盗み撮りした。彼女は散歩を控え
 垣根を深く高くし、家の奥深くに隠れるよりほかなかった。そして、年々、友人とも親
 族とも、ほとんど数人としか直接には会わなくなっていった。
・平成27年(2015年)6月、節子は95歳の誕生日を迎えた。彼女は、いたって元
 気だった、という。足腰が弱って家から出ることはめっきり少なくなったが、ひたすら
 本を読み、時には庭の草木の手入れを楽しんだ。外出はせず人にも会わなかったが新聞
 は二紙を隅々まで読み、社会や政治、経済に関心を持ち続けていた。新聞の書評や広告
 を見て、「この本を買って来て」と久昭夫婦に頼んだ。
・小さい頃、海の向こうの国々に行きたいと強く願った。それなのに引退後、彼女は一度
 も海外旅行にはいかなかった。時間も金銭的な余裕も十分すぎるほどあったであろうに。
 買い物は久昭夫婦が請け負い、食事は母屋から届けたが、サラダなど簡単なものは自分
 で作った。贅沢をせず質素で極めて禁欲的な生活を、彼女は50年以上も続けたのだっ
 た。限られた空間のなかで、彼女は自分で自分を幽閉したのである。それは完全な、徹
 底して隠棲だった。決して姿を見られないとした。「原節子」を守るために。「原節子」
 を嗤わせぬために。それが会田昌江の後半生であった。
・この年は、戦後70年の節目の年でもあった。そして、原節子がデビューしてから80
 年目の年にもあたった。8月に終戦記念日の前後、急に節子は体調を崩した。夏風邪を
 引いたようだった。病院に行くとマスコミに騒がれるからと、いつも頑に医者にかかろ
 うとしない。甥が説得して連れていった時には、すでに肺炎を起こしてしまっていた。
 それでも最後まで意識はしっかりしていた。酸素マスクを付けていたので筆談で遺志を
 伝えた。
・平成27年(2015年)9月5日、原節子という伝説を生き切った会田昌江は、95
 歳でその生涯に幕を下ろした。 

あとがき
・彼女は最後まで世間に騒がれることを望まなかった。だから自分の死を可能な限り伏せ
 るようにと言い残し、この世を去った。訃報は11月25日の夜、ニュース速報でまず
 流され、翌朝の新聞は大手紙からスポーツ紙に至るまで、一面で彼女の死を報じた。一
 女優の死が、これほど大きく取り上げられた例は過去にないだろう。しかも彼女は50
 年以上も前にスクリーンからも、世間からも、姿を消しているというのに、
・彼女は勁い女優であり、勁い女性だった。完全な男社会だった日本で、流されるのでは
 なく抗い続けた。引退や隠棲、独身を貫き通したことも、やはり彼女の「抗い」だった
 と私には思えてならない。
・多くの巨匠たちに愛され、数々の名作に出演し、幸福な女優だと語る人がいるが、はた
 してどうであろうか。彼女は最後まで代表作を求め続けた。しかし、その夢は果たされ
 なかった。女優人生のなかで恋を犠牲にし、実兄を失い、自身の健康を損ない、得られ
 たことはどれほどのものだったろう。
・原節子はまた、自分の意志とは無関係に時代を背負わされた存在でもある。これほど激
 動の歴史と重なる 生涯を送った人はいない。関東大震災、昭和恐慌、満州事変、日中
 戦争、三国同盟、太平洋戦争、廃墟からの復興・・・。その一幕一幕で、彼女は精一杯
 に自分の役割を果たした。