男子の本懐 :城山三郎

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「男子の本懐」という言葉は、浜口雄幸首相が東京駅のホームで、凶弾に倒れたときに口
にした言葉だとされている。
浜口首相は、弱くて不安定な日本経済の行きづまりを根本的に打開するには、緊縮政策と
金解禁しかないと考え、その信念のもとに井上準之助蔵相とともに、緊縮政策および金解
禁を行ない金本位制への移行を強行した。
それは、やりたくても今までのどの政権にもできなかった政策だったわけだが、道半ばに
して米国発の世界恐慌という不測の事態にみまわれたため、結果として、大不況で苦しむ
庶民をますます苦しめることとなってしまった。
どうして浜口首相は、それほどまでに金解禁にこだわったのか。この本を読むと、次の三
つ理由があったようだ。
 理由1:金本位制という安定装置を持たない日本経済は、「通貨不安定」にゆさぶられ
     て、経済が低迷を続けるばかりであり、大戦景気にならされて膨張したままの
     企業や家計の体質を改善し、国際競争力をつける必要であった。
 理由2:日露戦争の戦費として英国から借りた英貨公債の償還期限が迫っており、償還
     能力のない日本としては、借り替えをたのむ以外にないが、「通貨不安定国」
     の日本は、それも交渉できない心配があった。
 理由3:金解禁によって、資金面から自動的にブレーキがかかるようにし、軍部の膨張
     を抑制したい。
これ以外にも、世界経済において、すでにほとんどの国が金本位制に復帰しており、日本
もはやく、その仲間入りしたいとの思いがあったようだ。
また雌伏時代が長かった浜口首相は、「思いきった仕事をしたいものだ」というのが口ぐ
せになっていたという。その「思いきった仕事」というのが、浜口にとっては「金解禁」
ということになったわけだ。しかし、それは、金解禁にこだわり過ぎた一因にもなったよ
うな気がした。
浜口首相・井上蔵相のコンビは、金解禁とそれに伴う緊縮財政によって、国の財政の健全
化を目指したわけだが、それが世界大恐慌の嵐の真っ只中で行なわれたため、軍部をはじ
め、一般庶民からも、はげしい反発が起ったようだ。それでも、ひとたび強い決心のもと
で始めた政策は、途中で変更するという気持ちにはなれなかったようだ。
浜口・井上は、このままもう少し頑張れば、財政基盤が強化され、国の財政は健全なもの
となり、しだいに景気も持ち直していくのだと固く信じていたようだが、軍部や庶民は、
大不況のなかでの緊縮政策には耐えられなかった。結局、浜口首相も井上蔵相も凶弾に倒
れることになった。

この成行きを見ると、なんだか現代の経済状況とそれに対する経済政策に、どこか似かよ
っているところがあるような気がした。ただ違うのは、当時はひたすら緊縮政策に走った
が、現代はひたすら異次元の量的金融緩和に走っているところがちがうところだ。
もう少し頑張れば、必ず経済はよくなるといいながらも、異次元の量的金融緩和をはじめ
てからから、もう9年間が過ぎたが、いまだに経済回復は見通せず、国の借金だけが増え
続け、天文学的な数字となっている。
米国が経済が回復し、金融緩和政策から金融引締政策へ転換したことにより、急激に円安
が進んでいるが、日本はもはやこれに対処する手段を持たない。庶民がいくら円安による
物価高に苦しんでも、なすがままの放置状態である。
そんな状況にありながら、政府や与党議員から聞えて来るのは、中国や北朝鮮の脅威を煽
り、”防衛費倍増”などという声ばかりだ。これも金解禁当時とよく似ている。
当時は、これが昭和恐慌につながり、満州事変五・一五事件二・二六事件、そして
中戦争
太平洋戦争へとつながり、日本はもはや後戻りできない状況になっていき、最後
には広島・長崎に原子爆弾を落とされ、敗戦を迎えることとなった。
現代の異次元の量的金融緩和の結末は、どんな形で訪れるのか。この国にどんな未来が待
っているのか。それはもはや誰にもわからない。
この本を読んでいる最中に、安倍晋三元首相が参議院選挙応援演説中に突然、凶弾に倒れ
るという事件が起きた。メディアなどは、これを「五・一五事件」のようなテロだと述べ
るところがあったが、私は「五・一五事件」よりも、むしろ浜口首相や井上蔵相への銃撃
事件のほうが近いように思えた。ただ、安倍晋三元首相が最期に「男子の本懐」と思った
かどうかはさだかではない。

ところで、浜口首相とコンビで金解禁に取り組んだ井上準之助蔵相は、旧制二高の出身で、
その学生の時に仙台に5年間住んでいたようだ。そのときの親友に、明治の文豪高山樗牛
がいたという。高山樗牛といえば、旧制二高時代にかなわぬ恋を嘆き、台原の老松の下で
瞑想に耽ったといわれている「瞑想の松」という場所がある。
井上準之助も高山樗牛と一緒に、あの「瞑想の松」のところで真昼の夢を見たのだろうか。

いままでに読んだ関連した本:
五・一五事件
昭和16年夏の敗戦
ノモンハンの夏
危機を活かす


序章
・内閣が倒れた。内閣総辞職の直接の原因となったのは、一軍人の謀略であった。
・当時、満州一円を支配していた張作霖が、しだいに日本側に背を向け始めたのに対し、
 業を煮やした関東軍に一大佐が、ひそかに工兵隊を指揮し、北京から戻る張作霖の専用
 列車を爆破して、張作霖を抹殺した。
・真相の発表はいち早くおさえられ、事件そのものも、「満州事件」「満州某重大事件」
 などとぼかした呼称で呼ばれたが、外国の報道機関は、日本軍部の犯行である旨、流し
 ていた。 
・首相は、軍部などの圧力が強まるにつれ、頬かむりで通した方が国家の体面と軍の士気
 を守ることになるという主張におされ、中途から調査をうやむやにし、中国人による犯
 行説を匂わせた。そして、当の大佐に対しては、事件発生を予防し得なかった警備上の
 手落ちを問う軽微な行政処分でかたづけた。
・この処理報告を聞かれた天皇は、「最初に申したこととちがうではないか」と激怒して
 席を立たれ、「総理の言うことは、二度と聞きたくない」と侍従長にいわれた。
・天皇の信任を失っては、もはや内閣は成り立たない。首相は恐懼して、内閣の辞表をと
 りまとめた。 
・長州閥の後継者田中義一陸軍大将を首班とする政友会内閣は、こうして倒れた。
・後継首班奏請の任にあたる元老西園寺公望は、あわただしく動きや、さまざまに飛び交
 う思惑には目もくれず、民主党総裁浜口雄幸を次期総理に推すことにした。
・浜口にとって、総理としてはじまる人生は、華やかでも光栄でもなくて、大きな行路難
 を抱え込むことでしかないような気がする。行く手に大きな問題が立ちはだかっている
 からである。
・これから率いる内閣は、経常の問題に加え、軍縮があり、さらに金解禁に進んで取り組
 むつもりである。
・金本位制への復帰、それは、十二年間、八代の内閣が手をつけようとしてつけかねた大
 事業である。経済の行きづまりを根本的に打開するには、この方策しかなく、このため
 国の内外から望まれてはいるものの、本質的には、極端な不況政策である。
・昭和四年七月、浜口は参内して、天皇より組閣の大命を拝した。
・組閣において、いま一人が大問題であった。その男は、まず民政党員ではない。それに、
 官僚同然の出身である。さらに、貴族院議員でもあった。二重三重に党内の要望にそむ
 くわけである。しかも与えるのが蔵相というようなポストだけに、激しい反対が予
 想された。
・だが、浜口は断乎として、この男を蔵相に据える肚である。どんな反対があろうと、こ
 の男は譲らぬ。この男なくしては、金解禁を実行し得ないと信ずるからでる。
・仕事を進めるために、この男が必要であった。国家権力の頂点で、仕事のために男と男
 が結ばれる。浜口は、そのロマンに賭けて、強行突破をはかった。
・その男とは、井上準之助であった。
・井上準之助は、貴族院の勅撰議員であり、日銀出身者である。民政党員でないばかりで
 なく、高橋是清などと親しかったことからして、むしろ反対党である政友会系とも見ら
 れていた。さらに、金解禁について、井上は消極的な立場にある、と見る人も多かった。
・井上自身は、もともと解禁論者である。ただ、実際家らしく、手放しの解禁論ではなく、
 十分な準備と条件整備を行なってから解禁をという考え方であり、不用意で抜き打ちの
 即時解禁をやられては困る、という考え方であった。
・黒か白かで争う政争の時代に、どういう条件のときにどうあるべきかといった専門家的、
 技術官僚敵発想は、理解されにくかった。井上を単純に金解禁反対論者の仲間と見て、
 解禁を公約する内閣への入閣を君子豹変ととり、大臣病のせいと非難する向きもあった。
・だが、いまさら大臣の椅子に目のくらむ井上ではなかった。そでに蔵相の経験があり、
 田中内閣のときには外相に招かれたが、断っている。
・井上には、もちろん、金解禁を自分なら他の男以上にやってのけるという自信があり、
 やってみたい気持ちもあった。ただし、自分から売り込むことはなかった。井上が最後
 に入閣を決めたのは、浜口に会い、その覚悟に打たれたためであった。
・暴れ気味の軍部と、軍縮の問題。経済の行きづまりと金解禁。天皇は、「時局はまさに
 重大」といわれたが、そのとおりであった。
・浜口の家族は静かな家族である。妻の夏子は、女学校教師のようにかたい感じの女だっ
 たし、特にはしゃいだり大声を出す子供もいない。
 「自分は大命を受けた以上、決死の覚悟で事に当たるつもりである。思う存分にやりぬ
 いて、総理としての責任を果たす覚悟だ」
 「すでに決死だから、途中、何事が怒って中道で斃れるようなことがあっても、もとよ
 り男子として本懐である」
 夏子、そして、雄彦、磐根、孝子、悌子、静子、富士子と、年長順に子供たちに目をや
 った。
・新任式から戻った井上は、妻の千代子に簡単にいった。
 「今夜は、家の財産について、全部おまえに話し、書類も渡しておく。家のことは、こ
 れから先、すべておまえに任せた。おまえの思うようにやってくれ」
 それだけいったあと、土地・家屋・預金など財産目録を書き出しながら、関係書類を次
 々と千代子に手渡して行った。
・次女の孝子が病弱なため、浜口はかねて鎌倉に別荘を借り、妻の夏子などもよく利用し
 ていたが、浜口自身はあまり出かけなかった。
・組閣直後から、新内閣に閣僚で最も精力的に活動しているのが、井上であった。井上は
 日銀の土方総裁邸をひそかに訪ね、深井副総裁も呼んで、金解禁断行の方針を伝え、そ
 のための準備についての話し合いをはじめた。
・井上は、「これからでも緊縮できるもの、あるいは繰り延べできるものについては、大
 幅に節減を行ない、実行予算として編成替えをしたい」と、閣議で提案した。早々にそ
 こまでやるのかと、井上の顔を見直す閣僚もあれば、首をかしげる大臣もあった。
小泉又次郎大臣は、「予算は国会の議決を経て成立したものであり、十分に尊重される
 べきものである。内閣が勝手にそれを変更するのは、憲法違反にならないのか」と疑問
 を提示した。
・これに対して井上は、「予算は、最高使用限度額を決めたものであり、その範囲内でど
 れだけ実施するかは、政府の裁量に任される。従って、憲法違反とはならない」と反論
 した。
・すかさず浜口が口を開き、井上と同趣旨のことを繰り返し、「政府は、こうした形でで
 も、一日も早く緊縮の実を示したい」と、強い口調でいった。
・閣議では、内閣の施政方針をまとめ、発表した。
 ・軍縮促進
 ・財政の整理緊縮
 ・非募債と減債 
 ・金解禁断行
・「金輸出の解禁は、国家財政および民間経済の建直しをなす上において、絶対必要なる
 基本的要件たり。しかもこれが実現は甚だしく遅延を容さず。財政経済に関する諸事項
 は、ただに財政経済を矯救する上において、昼用なるのみならず金解禁を断行する上に
 おいて、必要欠くべからざる要件たり。政府はかくの如く諸般の準備を整へ、近き将来
 において、金解禁を断行せむことを期す」
・金解禁は、すでにほとんどが金本位制に復帰している世界経済に、わが国も仲間入りす
 ることであり、経済面での国際協調の実現になる。
・なぜ、それほどに金解禁にこだわるのか。
・金解禁とは、金の輸出禁止措置を解除し、金の国外流出を許す、ということである。 
・もともと世界各国とも、金本位制をとり、金の自由な動きを認めていたが、第一次大戦
 の勃発により、経済がかつてない混乱に陥った際、先行きの不安に備え、各国はとりあ
 えず金を自国内に温存しようとして、輸出禁止を行なった。
・日本も1917年(大正6年)、寺内内閣のとき、大蔵省令によって、金輸出を禁止し
 た。非常事態に際しての非常手段であった。
・各国が金本位制度をとれば、各国経済が世界経済と有機的に結ばれ、国内物価と国愛物
 価が連動して、自動的に国際経済のバランスもとれる。
・非常事態が去れば、非常手段をやめるのが当然である。
パリ講和会議のはじまった1919年、アメリカは早々にこの非常手段を廃止し、金本
 位制に戻った。翌年には、スウェーデン、イギリス、オランダと、金解禁する国が続い
 た。
・1922年(大正11年)の国際会議では、各国とも解禁を急ぎ、金本位に復帰するよ
 う決議が出された。 
・1928年(昭和3年)のフランスの解禁によって、めぼしい国はほとんど金本位制へ
 と戻った。残っているのは、日本とスペインだけという始末。
・1929年(昭和4年)に、新たな国債金融機構を設立するプランが論議されたが、日
 本は「通過不安定国」として、このプランへの参加を拒まれそうになった。
・事実、金本位制という安定装置を持たぬ日本経済は、「通貨不安定」にゆさぶられてい
 た。為替相場は、国内外の思惑などによって、乱高下を続ける。このため、為替差益を
 狙う投機筋が暗躍。その一方で、地道に生産や貿易に従事する者は痛手を受け、あるい
 は先行き不安で立ち往生といった状態。為替差損のため倒産するところもあれば、差損
 をおそれて活動を縮小する企業もある。経済は低迷を続けるばかりであった。
日露戦争の戦費などとして借りた二億三千万円の英貨公債が、昭和5年いっぱいで起源
 がくる。償還能力のない日本としては、借り替えをたのむ他ないが、「通貨不安定国」
 は、それも交渉できない心配があった。
・さらに、金解禁には、いまひとつ、秘めた狙いがあった。軍部の膨張を抑制することで
 ある。軍部がおどり出し、軍事費を増大させようとしても、金本位制である限りは、通
 貨をむやみ勝手に増発することはできない。資金の面から、自動的にブレーキがかかっ
 てしまう。
・歴代内閣は、なぜ金解禁に取り組まなかったか。ひとつは準備の問題である。為替相場
 が低落したままの状態で解禁すれば、法定相場との間に大きな差が出るため、たとえば、
 手持ちのある輸入業者は大打撃を受けるし、輸出業者は外貨建ての値の急騰で輸出がで
 きなくなる。一方、為替差益を狙っての投機も横行する。このため、解禁に先立って、
 為替相場をできるだけ、回復させ、法定レートに使づけておかねばならず、財政を中心
 に強力な緊縮政策を行なって、国内物価を引き下げておく必要ようがある。また、一時
 的に金の流出が予想されるので、金準備をふやし、外国からの信用供与もとりつけてお
 かねばならない。これらの諸条件の整備と、解禁のタイミング決定は、尋常一様な財政
 家の手に負える仕事ではなかった。
・次に首尾よく金解禁が実現されたとしても、入超続きの日本では、金の流出が続き、通
 貨は収縮せざるを得ない。当然のことだが、不景気がさらに進行することになる。大戦
 景気にならされ、膨張したままの企業や家計が耐乏生活を強いられるわけで、水ぶくれ
 した体質が改善され、国際競争力がつくまでは、ある程度の時間がかかる。
・すでに長い経済の低迷があり、金解禁を望む多くのひとびとは、即効薬を期待している。
 だが、金解禁は即効薬ではなく、苦しみながら、にがい薬をのみ続けることである。
・政治家の売り物となるのは、常に好景気である。あと先を考えず、景気だけをばらまく
 のがいい。民衆の多くは、国を憂えるよりも、目先の不景気をもたらしたひとを憎む。
 古来、「デフレ政策を行なって、命を全うした政治家はいない」といわれるほどである。
 容易ならぬ覚悟が必要であった。
・緊縮財政では、まず焦点となるのが、陸海軍費の節約である。すでに陸軍においては師
 団の削減が行なわれており、かなりの不満が出ている。海軍についても、先のワシント
 ン会議
での主力艦の削減に続いて、今回はロンドン会議で、補助艦艇の削減をとりきめ
 る。こうした世界的な軍縮の流れは、英米優位の支配体制を許すものだとして、一部に
 は強い反対がある。だが軍縮は推進しなければならない。それは、金解禁への重要な前
 提である。そして、金本位制への復帰によって軍部の膨張を許さぬ構造をつくり上げよ
 う。浜口たちのそうした構想を、軍や右翼関係者が見逃すとは思えない。彼らが単独で、
 あるいは、不景気をうらむ民衆にまぎれて襲いかかってくることも、当然、予想されな
 ければならなかった。
・閣議で、手近な経費節約についての申し合わせが行なわれた。まず、料亭政治の廃止。
 待合や料亭での会合をとりやめ、洋食洋風ですます。これは、経費だけでなく、時間の
 節約にもなる。 
・節約額は知れている。ただの人気よりに見られるのではないか、との声もあったが、役
 人が節約の見本を示すのはいいことであり、官吏のゆるんだ気分をひきしめることにも
 なる。それに、節約は素人わかりのするところからはじめるのがいいということで、各
 大臣も乗り気で、直ちに実行に移された。
・金解禁を不安視する証券界に、即時断行ではなく、節約を重ねて為替相場を上昇させた
 上で解禁すれば、打撃が分散される、金解禁だけがその先、自らの手で好景気をつくり
 出すきっかけになる、と強調した。
・税収の落ち込みから歳入減が予想されるが、それでいて、「非募債」を打ち出し、一般
 会計の公債は一切発行せず、特別会計の公債も半減する。
・当然、歳出も大幅に圧縮。各種補助金は打ち切り。鉄道建設計画は縮小。道路河川港湾
 の改修修築計画も、ほとんど中止または繰り延べ・・・。
・東京では猛暑が続いていた。井戸が涸れ、氷と水瓜がとぶように売れ、一方、疫痢と脳
 炎のため、幼児の死亡が増えた。深川や洲崎などでは、厚さに耐えかね、夜は道路や橋
 の上に寝る労務者の数が多くなった。
・当時、失業統計は完備されておらず、職業紹介所の窓口で見る限り、休職者数に対する
 求人数、つまり、就職率は二割七分という低さ。この年の大学専門学校生就職率もまた、
 法経文系では前年の46.3パーセントから38.1パーセントへ落ち込み、失業者
 は増えるばかりであった。
・もちろん、政府は失業問題に目をつむっていたわけではない。次年度予算に予算化こそ
 していないが、事業いかんにいっては、失業対策のため責任支出の形で支弁できるよう、
 財源を留保してあることを、井上蔵相は強調し、一方、安達内相の下では、失業対策事
 業化などの 立法かを進めるとともに、職業紹介所の機能強化などの応急対策にとり組
 んでいた。
・前途に待ち伏せているのは、未曾有の不況だけではない。軍縮に反発する陸海軍。憲政
 会内閣以来、仇敵の間柄にある枢密院。衆議院では圧倒的多数を擁する野党政友会。そ
 の政友会系の色濃い貴族院・・・。

第一章
・浜口は幼いときから孤独のことが多かった。山間の一軒家で、浜口雄幸は幼いながらに、
 ひとりぼっちで日々を過ごし、やがて字が読めるようになってからは、本の虫となって
 しまった。浜口少年は、小学校から家へ戻ってからも、ほとんど、あそびには出ないで、
 本ばかり読んでいた。
・当然、成績はよかったし、大人びた子供になった。そして、気が小さく、ひどく臆病な
 子でもあった。 
・体つきが頑丈なため、相撲も好きになり、子供仲間では、一方の横綱となった。がっぷ
 り組んだ四つ相撲が得意である。
・悪戯したり、女の子をいじめたりすることは、なかった。争いもほとんどしなかった。
・浜口雄幸は幼いときから真面目一方で学問一途の男であった。無口で無頓着でどんなに
 頭髪が伸びようが、どんな着物を着ようが、そんなことは一向平気であった。趣味とい
 っては何一つなく極めて平凡な子で、それがこんなに出世をしようとは思わなかった。
・まじめに黙々と勉強するだけの男に、人気は湧かない。優等生ではあっても、学校では
 目立たぬ存在であった。 
・中学五年、水口姓だった浜口に、ふいに養子縁組の話が持ち込まれた。相手の浜口家は、
 郷士で素封家。家には夏子という娘ひとりだけ。きびしく育て上げ、女子としては最高
 の教育を身につけさせるため、女子師範に行かせてあった。
・卒業式がすむと、十九歳の雄幸は、仲人に伴われて、浜口家に入った。十六歳の夏子と
 は、それが初対面であった。
・家に入って来る魁偉な男を見た夏子は、「まあ、あのひとかよ!」と、思わず声をあげ
 た。だが、もちろん、もう取り消すことができなかった。四十四年にわたる二人の生活
 は、こうしてはじまった。
・夏子もまだ在学中のため、養子縁組の盃を交わしただけで、雄幸は大阪へ渡り、第三高
 等学校へ入学した。三高の移転に伴って京都へ移ったが、浜口の暮らしぶりは、高知時
 代とほとんど変わらなかった。
・夏や冬の休暇に、数日、浜口家に帰ったとしても、黙って本を読んだり、ひとりで川辺
 や海岸を散歩したりして、だれとも口をきかない。夏子や養家の人々は、最初はとまど
 った。養子縁組が気に入らず、ふてくされているのかと思うほどであったが、事前の調
 べで浜口のひととなりを聞いていたので、そっと見守ることにした。
・三高では、法科に籍を置き、幣原喜重郎と首席を争い合った。そして、二人とも、東京
 帝国大学法科へと進んだ。 
・明治二十八年、浜口は東大を卒業した。卒業成績は、小野塚平次に次いで二位。
・政治家になるためには、まず官界へと、高等文官試験を受ける。その試験の最中に、不
 幸が浜口を襲った。二歳になった長女の和子を、その夏、郷里の人々に見せるため、土
 佐へ連れ帰ったが、和子は日射病にかかり、帰京後も、高熱と下痢のため衰弱し、高文
 試験最終日の前に、危篤状態に陥った。浜口は、夜も寝ないで、つきっきりで看護し、
 試験をすてるつもりであったが、夏子が強く反対した。
・幸い、高文試験に合格。大蔵省へ入った。まずは順調なスタートのはずであったが、浜
 口の顔はいかめしく暗かった。浜口は、娘の死に加えて、高文試験直前に養父も亡くし
 ていた。
 
第二章
井上準之助は機敏で、よく動く子であった。七歳のとき、年長の従兄に当たる井上家に
 養子に出された。
・小学校のときには、級長になったが、同時に餓鬼大将にもなった。勉強は要領よくすま
 せ、よく遊んだ。はしゃぎすぎて、池に落ちたり、友人にけがさせたり、負けん気で、
 屈託がなかった。
・養子、養父の死、家督相続、養母の家出、発病、中学中退、転地、出戻り・・・と、波
 乱続きというか、波乱万丈の少年期であった。その上、東京への出奔。ゆさぶられ続け
 たついでに、飛び出してしまえ、という感じであった。
・東京に着いた井上は、まず日本橋小網町の問屋街を訪ねた。丁稚から番頭へ、そして店
 を持とうと夢見たのだが、これという就職口がなかった。
・次に、横浜へ行き、外国商館を回ったが、ここにも、口はなかった。それに、これから
 は、商人になるにも学問が要る、ということがわかった。
・正修校などで勉強して一高の入学試験を受けてみたが、不合格であった。
・次に、二高の補欠募集を受けた。合格して、仙台での生活がはじまった。
・井上の後輩の結城豊太郎は、「仙台二高時代という在仙五年間が井上さんをああいう風
 に造り上げたのではないかと思われてならぬ。井上さんはあそこを第二の故郷以上に憧
 れ、常々同級生ことに高山樗牛を懐かしんでいた・・・」と語っていた。
・当時、大分の山奥と仙台とでは、外国に離れ住むほどの遠さがあり、新鮮さがあった。
 予科本科合わせて五年。ひとつの町に落ち着いて五年も過ごすというのも、井上には、
 はじめての経験であった。
・市街地とそれを取り巻く山野を見渡す青葉山。井上は、毎日のように、深呼吸を繰り返
 しながら、その眺めを満喫した。市街のほどほどのにぎわいと、静かなたたずまい。そ
 して、市の中心部にあるとは思えぬような広瀬川の清流と深い渓谷。
・東二番丁の下宿屋から、学生たちがみたこともないゲートルばきで登校していた。片平
 丁に寄宿舎ができると、井上はしばらく寮生活も経験。そのあと、北六番丁の素人下宿
 にも住んだ。 
・二高では、友人に恵まれ、深いつき合いができたが、井上がとくに親しくなったのは、
 高山樗牛である。井上準之助と高山樗牛は、首席を争い合ったし、寮では同じ部屋で寝
 起きした。 
・浜口より一年おくれて、井上は東大法科に入学した。
・弁護士志望の気持ちが、かたまった。他人に使わらず、好きなように仕事ができる。
 自分にいちばんふさわしい職業だと思った。
・世話になった兄の役に立ちたいという気もあり、商法とくにイギリスの海商法を中心に、  
 判例研究などをふくめ、かなり突っ込んだ勉強をした。そのおかげで、卒業成績は二位
 におさまった。
・恩師や旧友には、官吏になるようすすめられたが、井上は、いまさらその気になれなか
 った。二つも三つも年少の同級生たちといっしょに、目を輝かせて役所の門をくぐる気
 にならない。それに、役所はどこも七面倒で窮屈な職場のように思える。
・兄のすすめで、井上は、半ば自分を投げるような形で、日本銀行へ就職した。
・銀行業務研究のため、イギリスとベルギーへの二年間にわたる出張を命じられた。
・井上は本店詰めだったせいもあって、技術的なことよりも、銀行の仕組みや運営に興味
 を持った。どんな人間が、どういう風に銀行を動かしているか。行員を働かせているも
 のは、何なのか。
・暇なときには、本屋へ行き、金融関係だけでなく、経済・政治・歴史・文学など、さま
 ざまな本を買いこんだ。 
・帰国した年に、毛利千代子と結婚式を挙げた。千代子は、家族である毛利家の娘で、虎
 ノ門女学館出身、二十歳。 

第三章
・浜口は、新人のくせに、一人、気むつかしい禅僧が座っている感じである。上役が使い
 にくいのか、入省一年目に高等官になると同時に、山形県収税長に出された。そして、
 半年後、今度は東京を素通りして、はりか西の松江へ。
・浜口は、山形と松江で一年二カ月を過ごしたあと、本省会計課へ転勤となった。だが、
 せっかく東京へ戻ったというのに、浜口は上司と衝突する。官僚組織の中での上司は、
 浜口を許さなかった。たちまち、名古屋へとばされた。長いドサ回りのはじまりであっ
 た。
・一年足らずで、今度は収税官として四国の松山へ。黙々と役所に精勤し、夜は二時すぎ
 まで読書する。相変わらず、孤独な生活であった。
・松山に一年置かれたあと、さらに遠い熊本へ。全無監督局なるものが、全国各地に設置
 され、一応は、その局長という肩書である。
・役所がいちばん煙たがるのは、会計検査だが、会計検査院から担当官たちがはるばる来
 局するときも、浜口は慣例になっていた出迎えや見送りは、一切しない。先方から局長
 室にやってきて挨拶があるまで、決して自分から頭を下げなかった。
・経済学と中心に、勉強だけは続けた。たとえ草深い日本の田舎にいても、その草に埋も
 れることなく、目を高く上げ、国際的視野を失わないようにしよう、というのである。
・それにしても、熊本には三年半。長すぎる歳月であった。
・東京にいた友人たちまでやきもきして運動し、浜口はようやく東京に戻れることになっ
 た。仕事は、熊本と同じ税務監督局長である。
・だが、この職にいるのも、一年半にすぎなかった。浜口は外局である専売局へ出された。
 九年間に上る専売局勤務のはじまりである。
・浜口は耐えた。宗教家になりたいと、ふっと思うこともある浜口にとって、自分との戦
 いは、むしろ性に合った。自分に愛想づかしをしないためにも、耐えねばならない。
・職が変わり、家が移っても、浜口は勉強だけは続けた。
・一年して、専売局長官に。長官となった浜口の前に、今度も厄介な仕事が持ち込まれた。
 塩の製造を、コストの安い大規模な塩田に集中し、零細な塩田は廃止してしまおう、と
 いう計画である。零細業者からの反対は激しかった。国会でも、つるし上げられた。そ
 の度に、浜口は堂々と答えた。
・「まるで塩のために生まれてきたみたいだ。おれの人生は塩で終わっちゃうのかなあ」
 疲れのたまった日には、つい弱音も出る。
日露戦争が勃発、日銀は国債の消化に当たることになったが、井上は精力的に売りにま
 わり、成績を上げた。また、高橋是清副総裁が外債募集に当たるのを、さまざまな形で
 積極的に応援した。
・井上は、営業局の部下にいう。「仕事はぐずぐずやるな。機敏にかたづけろ。かたづけ
 たら、遠慮なく帰れ」井上なりの西欧的合理主義の実践である。
・早く帰って遊べ、というのではない。日常業務から解放されて、個人の時間を持ち、大
 所高所に立つ勉強もせよ。そうして一人一人の質を高めることが、銀行のため、ひいて
 は国のためになる、という考え方である。
 
第四章
・白湯的人生を理想にする松尾総裁にとって、井上の言動は、やはり、にがにがしかった。
 営業局長に据え、二年間は辛抱してみたものの、それが、もはや限界であった。
・どう考えてみても、井上は、「角立ち」「華々しき行動」をする好ましくない男である。  
 大蔵省との協調という面から考えても、そうした男を、いつまでも日銀の中枢に置いて
 おくわけには行かない。白湯は沸騰点に達し、総裁松尾は人事権を行使する。局長をや
 め、ニューヨークへ赴任するように、と。肩書は、「海外代理店監督役」。実質的にこ
 れといった仕事はなく、部下はわずかに二人。
・井上は、よほど日銀をやめようかと思った。「やめよ」といわんばかりの仕打ちではな
 いか。 
・それは、井上がはじめて味わう挫折であり、屈辱であった。まるで、さらしものにされ
 るような降格人事である。注目を浴び続けてきただけに、衝撃も大きかった。井上は、
 腹を立て、悩み、そして、迷った。
・その秋、井上の妻千代子が病み、井上も看病して、ようやく床離れしたところであった。
 井上は見かけに似合わず、妻思いである。ここで退職すれば、一時的にせよ、物心両面
 で妻に負担を強いることになる。屈辱には、井上ひとりが耐えればすむ。幸か不幸か、
 左遷先は、はるかな外地である。それだけに、むしろ雑音が少なく、気分を転換するこ
 とができるかもしれない。
・すでに、松尾総裁は就任以来五年になる。海外で一辛抱しているうちに、総裁の交代が
 あるのではないか。どんな総裁が来るかは知らぬが、井上にとって、少なくとも松尾ほ
 ど相性が悪くはないはずである。
・世間では、井上は辞表をたたきつけると見ていたが、最後に井上は左遷命令に従った。
 意地と体面にとらわれず、実際的な判断で道を選んだ。
・海外に出れば、世間から離れて、気分転換になると思っていたのに、「世間」はそこま
 で出張し、待ち構えていた。さまざまな顔が集まり、井上をのぞきこむ。日銀の大物に
 一応の敬意を示そうとする気持ちと、左遷された男を観察しようとする興味と。
・ニューヨークの井上に、最初に日本から来た報せは、生母の死であった。母を偲び、部
 屋にとじこもってひとり物思いに沈みたいところだが、事務引継ぎを兼ねて、人と会う
 約束が重なっていた。
・アメリカ人たちは、日本での井上の盛名を知らない。とりあえずは、ただ肩書どおりの
 人間として扱う。アメリカ人たちの間で、井上は自分が等身大よりもさらに小さく見ら
 れているのを感じた。
・いくらやきもちしたところで、組織の一員が、自由に動けるものではない。焦りは、か
 えって自らを苦しめるばかりである。
・さすがの井上も、神経衰弱寸前であった。その井上をわずかに救ったのは、その夏はじ
 めたスポーツである。井上は久しぶりにテニス・コートに下り、さらに誘われてゴルフ
 をはじめた。
・折から、渋沢栄一を団長とする大型使節団が渡米してきた。井上たちは、その接待や案
 内に追われる。渋沢の演説も聞いたが、井上の心にはほとんど残るものがなかった。
・権限もなく、仕事もなく、松尾流白湯をなお飲み続ける他はない。出征街道を走り続け
 てきた井上にとって、白湯にはそれなりの薬効もあるはずであったが。
・アメリカを明日にでも去るようなことをいいながらも、井上は依然として、朝は英語の
 個人教授を受け続ける。そして、銀行に通い、読書のみを楽しみとする生活。あとは、
 妻宛の長文の手紙を書き続ける。
・とにかく健康を保って帰国すること。井上の念頭にあるのは、それだけである。
・日銀理事の一人が海外視察を兼ねて、ニューヨークを訪れ、井上に正金銀行役員へ転出
 するよう、総裁の内意を伝える。
・もはや日銀に未練はなく、また一日も早くニューヨークを去りたい思いの井上としては
 異論はないが、同行の役員たちとうまくやって行けるかどうか、また存分に腕をふるえ
 るかどうか、気がかりである。これに対し、日銀側は、総裁以下全般的に支援すること、
 それに、最初から副頭取に就任させることを約束し、井上はその話を承諾した。
 
第五章
・明治44年、井上は、正金銀行服頭取に就任。一方、日銀でも、松尾総裁が老齢を理由
 に退任。副総裁の高橋是清が総裁に進んだ。
・井上は、ほとんど毎日のように地銀に立ち寄り、政策を打ち合わせた。高橋総裁下の日
 銀は、井上には古巣であるばかりでなく、兄弟会社も同然であった。追い出されたとい
 うより、むしろ水を得た感じで動いた。
・正金銀行の三島弥太郎頭取は、多少財政経済の勉強はしてきたものの、頭取の実務には、
 不安がある。補佐役が必要ということで、長年空席であった副頭取に井上を配した形で
 あった。銀行の実務は、ほとんど井上に任された。正金銀行支店に同居したニューヨー
 クでの生活が、いまとなっては、井上の大きなプラスとなった。
・国際経済・国際金融に明るくなり、さらに、英語から外国為替に至るまで、ひたすら充
 電してきたのが、すべて活いきてきた。
・活動的な生活の中で井上は大磯に別荘を建てた。井上の家族は、この年から夏冬の休み
 は、ほとんど大磯の別荘で過ごすことになった。
・日銀総裁高橋是清が蔵相となり、三島がその高橋のあとを埋めて、日銀総裁となった。
 井上は、正金銀行の頭取に昇格した。
・浜口は専売局で黙々と働き続けていた。「塩のために生まれてきたみたいだ」と、ぼや
 きながらも、塩田整理という厄介な仕事に、ひたむきに、そして腰をすえて取り組む。
・こうした浜口の姿にまず惚れこんだのが、初代満鉄総裁となった後藤新平である。満鉄
 の理事にほしいと浜口を口説いた。だが、浜口は辞退した。
 「手がけている塩田整理を、投げ出して行くわけにはいきません」
 という理由からである。
・後藤新平が逓信大臣になると、後藤は逓信次官の椅子を用意して、また浜口を迎えにき
 た。だが、浜口は、この話も辞退した。
・この浜口の熱意に負けて、さすがの反対運動もおさまり、塩田整理は明治44年になっ
 て、全国にわたってすべて完了した。
・天皇は、この浜口の苦労をねぎらわれ、金盃を下賜された。
・桂が国民党などの一部と官僚出身者を集めて、新党(立憲同志会)をつくることになり、
 後藤も若槻も参加した。浜口も入党を進められ承諾した。だが、結党直後、人事問題や
 政治資金の調達問題をめぐる対立から、後藤が脱党してしまう。
・私情としては後藤に従うべきだが、政党人としては、結党したばかりの党を見捨てるわ
 けには行かない。結局、浜口は党にとどまった。浜口は、ほとんど毎日のように党本部
 へ出かけ、事務でも雑用でも、自分でできることを手伝った。
・大正3年、大隈内閣の誕生で、若槻礼次郎が大蔵大臣になると、若槻は早速、浜口を次
 官に起用した。
・だが、次官の椅子に座って、ほっとしている間もなかった。第一次世界大戦が勃発し、
 経済界が大混乱に陥ったからである。
・大蔵次官としての浜口と、正金銀行頭取の井上は、このとき顔を合わせ、しばしば打ち
 合わせを交わす仲となった。 
・大蔵次官となって一年経たぬのに、浜口の身に変化が起った。高知県の立憲同志会が、
 浜口を代議士選に担ぎ出しに来たからである。
・財政経済に明るい政治家として立つということは、もともと浜口の初志でもあった。そ
 のためには、政党の一兵卒として、代議士一年生からはじめるべきである。浜口は、選
 挙に打って出ることにした。
・浜口は、政談演説は苦手であった。どうしても好きなれぬが、だからといって、演説な
 しではすまされない。このため、浜口は演説の名手といわれる人たちの演説会を聞きに
 行って、勉強した。
・聴衆の質問にはていねいに答弁し、一人の老人の質問に40分もかけて答えたりして、
 まわりをやきもちさせた。演説は下手でも、浜口はこうしたことから、少しずつ支持者
 を増やして行った。総選挙の結果、浜口は当選した。
・大正4年、浜口は大蔵省参政官となったが、このころ、大浦兼武内相の野党議員買収工
 作や選挙干渉が政治問題化した。このため、加藤、若槻らは閣外に去り、浜口も進退を
 共にした。
・大隈首相からは、とくに浜口に対して蔵相に就任するよう働きかけがあったが、浜口は
 受けず、一代議士の身となった。そして、このあと、「苦節十年」と他人からいわれる
 雌伏生活が、またはじまった。
・次の選挙では、政友会系の激しい干渉を受けて、落選、代議士でさえもなくなってしま
 った。だが浜口は平静な顔つきのまま、毎日のように党へ詰めた。 
・大正5年、三党が合併して憲政会となった際、浜口は同志会を代表する合同委員として
 結党に努力。加藤高明総裁の下で総務となった。しかも、まるで一事務員のようにまめ
 まめしく党務に従事した。 
・二年間の空白後、補欠選挙に勝って代議士に戻ったが、在野生活はなお延々と続く。
・大隈改造内閣で、若槻に変わって蔵相となった武富時敏は、折からの大戦による国際経
 済の動揺に備えるために、金の輸出禁止を法令によって行なおうとした。このとき、猛
 然と反対したのが、正金銀行頭取の井上であった。
・井上は、銀行家としての筋を通していい、同時に実際家らしく、解決策を出した。
 「金の流出を抑えるためには、金の輸送費用を極端に高額なものとし、事実上、金の持
 ち出しができないようにすればよい」
・武富蔵相は、井上の意見に従い、金輸出禁止を見合わせ、当面、この便法によることに
 した。 
寺内内閣は、中国に対し、積極的というか、侵略的な外交政策をとり、私設公使とまで
 いわれた寺内の腹心西原亀三を窓口として、一億四千五百万円にも上る資金を、北京の
 軍閥政府に貸し付けることにした。勝田蔵相は、その金額を正金銀行にも割り当ててき
 た。だが、井上は、この話に応じなかった。
・井上は正金入行以来、すでに二度にわたって中国各地を精力的に視察し、ある程度の現
 地の事情に通じており、一地方政権でしかない軍閥政府に肩入れすることの無謀さがわ
 かっていた。
・書物の有り難さを実感した井上は、「東洋文庫」の開設にも奔走した。
・井上は早くから日銀のホープであったが、いまは、金融界のホープでもあった。井上は、
 その勢いにのった。井上の自信家としての勢いが、時代の波にのせた、ともいえた。と
 きの首相は原敬、蔵相は高橋是清。高橋はかねてから井上の力量を買っていた。その意
 味では、井上総裁はなるべくしてなった形であった。
・当時、経済界は戦後景気に酔っており、いぜんとして、株式などへの投機がさかんであ
 った。投機熱を冷やすためにも、金解禁が考えられた。すでに、この年の六月、アメリ
 カが金解禁を行なっていた。
・輸入超過がはじまっている日本だが、正貨準備四億六千万円も加えて、在外正貨が十三
 億円もある。金輸出禁止を解き、金本位に復帰する絶好のチャンス、と井上は考えたが、
 当事者である高橋蔵相は、この考えをとらなかった。
・高橋は積極財政論者というだけでなく、中国の動乱に備え、いつでも中国へ投資できる
 よう相当量の正貨を抱えておくべきだ、という考え方をとっていたからである。
・やむなく日銀では、投機ブーム抑制のため、二度にわたって、金利引き上げをおこなっ
 た。 
・井上は、好況と見られるものが「惰力」でしかないと説き、景気を左右するアメリカ経
 済が、外見上は、物価賃銀の騰貴や投機熱によって好景気のようではあるが、その実、
 産業界全体は縮小の動きを示しており、日本経済もまたその影響を受けて、反動不況に
 陥る。しかも、それはかなり長期に及ぶであろうと警告し、注目された。
・井上の警告どおり、三月、反動が来た。株式市場は暴落して、立ち会い停止に追いこま
 れる。機業地を中心に、不況は全国にひろがり、倒産する企業が増え、それに関連して、
 銀行の取り付けさわぎも起った。
・日銀としては、救済に乗り出さざるを得ない。民間からも政府からも要請された。井上
 自身も、「整理すべきものは整理しなくてはならないが、工業立国しようとする日本に
 おいて、優良な企業まで巻き添えにすることがあってはならない」という考え方であっ
 た。井上は、周囲の目を気にせず、救済に動いた。 
・銀行も企業も、救済を受けようとして、日銀の鼻息をうかがう。皮肉な成り行きであっ
 た。恐慌の到来によって、日銀の比重が高まり、日銀総裁の権威が増す。もともと自信
 の強かった井上が、このため世間には、いよいよ颯爽とし昂然たる男に見えてきた。
・三河台にある井上の家は、薩摩島津家の下屋敷だっただけに、長屋門もある大きな屋敷
 であった。ただし、大きいだけで、古くてひどい家であった。壁のひびは、紙を貼って
 ごまかし、大きな裂け目には、軸をぶら下げておく、といった有り様。下屋敷時代その
 ままで、手を加えたようなところは、ほとんどない。浴槽は五右衛門風呂、洗い場は叩
 土の上にすのこを敷いただけ。娘たちには、つらい入浴であった。
・大磯の別荘は、快適であった。夏冬の休み、井上はきまって家族を大磯に滞在させた。
・大正11年来、貿易は出超を示し、金解禁の好機に見えた。井上総裁は、しきりに市来
 蔵相を促し、ためらう市来に批判を浴びせてきた。
・市来が決断しなかったのは、与党ともいえる政友会総裁の高橋是清が、解禁反対を強硬
 に申し入れたためといわれる。このことから、井上と高橋は、政策的に反対の路線に立
 っていた。
・思わぬ大災害(関東大震災)によって、復興まで、しばらく金解禁は見送ることになる
 であろうが、混乱と廃墟の中から経済を立て直すことが、これまた手腕を要する課題で
 ある。
・日銀出身の蔵相というので、大蔵官僚としては、あまり愉快ではない。冷やかな顔、憮
 然とした顔をそろえていたが、一分と経たぬうちに、彼らはわれとわが耳を疑った。挨
 拶もそこそこに、新蔵相の井上が切り出したからである。
 「直ちにモラトリアムを実施することにした。諸官は早急にその準備をされたい」
 儀礼的な挨拶どころか、いきなり新政策の発表、それも思いもかけぬ大胆な政策である。
・戦争や恐慌の際、債権者がいっせいに貸金や手形の取り立てを急ぐのに対し、債務者は
 応じきれず、破産が続出する。預金者もまた、一度に預金引き出しに走るため、銀行が
 払いれず、取引停止に追いこまれる。これでは、経済はますます、混乱し、立ち直れな
 くなるため、一定期間、すべての債務の支払いをくり延べさせ、預金引き出しについて
 も大幅に制限する、というのが、モラトリアム(支払い猶予令)である。
・大戦中、ヨーロッパでは前例があったが、日本でははじめて。しかも、天災にまで適用
 できるかどうか問題があったが、井上は決断した。
・続いて、罹災者に対し、租税を免除・軽減・徴収猶予する法令、および生活必需品など
 の輸入税を免除・提言する法令を、緊急勅令として公布施行する。
・政府では、帝都復興院を設け、後藤新平内相が総裁を兼ねたが、復興予算をどれだけ、
 どこから調達するかが、大問題であった。政友会筋などでは、震災地は日本の一部にす
 ぎず、自らの負担で再建すべきであって、日本全国民がその復興費を負担する必要はな
 い、と反対している。
・これに対して井上は言い返した。
 「人間でいえば、東京横浜も身体の一部である。しかも帝都は首から上の部分である。
 それが身体の全部ではいからという議論には賛成できない。帝都および横浜の復興は全
 国民の負担においてなすべきである」
・ただし、井上は摩擦を少なくするため、財源は増税によらず、公債によってまかなうこ
 とにした。それも、公債の利子支払い分が、年々の予算の剰余で賄える範囲内にとどめ
 るべきだとした。捻出できる限度を計算し、その枠の中で復興予算を組むべきだ、とい
 うことで、財政家としては、正論である。
・これに対し後藤新平は、帝都の在るべき姿について、「大風呂敷」といわれるほど壮大
 な青写真をひき、必要な経費を合算して、復興予算とした。
・金額的にも大差があるし、考え方も、「入るを量って出ずるを制す」の井上に対し、
 「出ずるを量って、入るは何とかかしろ」といわんばかりの後藤である。はげしい対立
 となった。
・後藤新平が、最後に折れた。震災復興予算は、井上の原案どおり、閣議決定した。
・だが、このあと、「大胆者」のクビがとぶ事件が起った。摂政宮を狙撃した「虎ノ門事
 件」である。内閣は総辞職。わずか四カ月の大臣ぐらしであった。
・浜口は、夜は部屋にひきこもって、午後二時ごろまで勉強した。そのときどきの問題に
 ついて、できる限り多くの資料を集め、さまざまな角度から勉強して、大判のノートに
 とる。そのノートが、一年間に十冊を越すこともあった。努力はしながらも、「待ち」
 ばかりが続く歳月であった。
・浜口は焦らない。「人生は込み合う窓口の列」と心得、あちこちの窓口をあたふたする
 ことなく、じっと、ひとつの窓口に前で行列し続けた。
・浜口が生気を帯びるのは、やはり、国会の会期中である。浜口も、しばしば質問に立っ
 た。原敬首相に対しては、選挙権拡充問題で迫ったが、多くは財政経済問題が中心。と
 くに、高橋是清蔵相に対しては、その「放漫財政」を攻撃した。
・大正13年の総選挙で、憲政会・政友会・革新倶楽部の護憲三派が政府与党をおさえて
 圧勝。憲政会総裁加藤高明を首班とする内閣が成立。浜口は大蔵大臣に迎えられた。
・浜口は、単に剛毅でもなければ、功を焦って強行突破をはかるというタイプでもなかっ
 た。むしろ、気持ちとしては、無理を避けて、事を進めたい。ときには、時機の来るの
 を待つなどして、自然に事を運ぶのが最善、と考えていた。
・「思いきった仕事をしたいものだ」と、浜口は家でよくつぶやいた。雌伏時代が長かっ
 ただけに、それは、浜口の口ぐせのようにもなっていた。「思いきった仕事」は、むや
 みにころがっているわけではない。計画は丹念に練り上げ、十分に状況を見た上で、と
 りかかるべきであって、性急かつ無理な決断をすべきではない。
・浜口は、「無量の蛮性を蔵する」と自覚するだけに、いざとなると、慎重になった。
 金解禁に対する態度が、それであった。金解禁は、憲政会のかねての公約でもあった。
 党としても、浜口個人としても、断行したところだが、このときは経済環境が熟さぬと
 見て、慎重論となった。
・当時は、対米為替相場が48ドルで、ほとんど平価に近く、このため、金解禁を行なっ
 ても、「経済界に不測の悪影響を与うる心配の割合は少ない」という判断であった。だ
 が、いまは状況がちがう。国際収支が悪化し、為替相場は41ドルにまで落ち込んでい
 る。ここで、金解禁を行なえば、輸入品在庫を持つ者、輸入品材料による製品を持つ者
 が、大打撃を受けるだけでなく、為替への投機が行なわれ、また輸入は激増、輸出は激
 減して、経済界は大混乱に陥る。
・「私は今日の状況においては、断じて金の解禁は即行する考えを持っていないのであり
 ます」と浜口は言明した。浜口は続けていう。
 「ただし金の輸出を禁止するということは、これは金貨制度の国における所の常道では
 ありませぬ、明らかに横道であります」
・中国の動乱による対中貿易の激減もあって、その後も貿易の逆調は続き、対米為替はつ
 いには、38ドルにまで落ちてしまった。常道はますます遠のく感じだが、ふくれあが
 る為替決済を避けるため、浜口は外債の元利払いなどに当てるのに、正貨の現送を行な
 った。
・少しでも「常道」に近い支払い方をしようとしたのだが、もともと解禁論者の浜口が正
 貨現送を認めたというので、世間は解禁近しと見てとり、為替への投機をはじめた。
 このため、為替相場は騰勢に転じ、ついには45ドルにまで上がってしまった。為替相
 場は、見かけの上では平価に接近したわけであるが、それこそ横道による相場の回復で
 あって、実体は少しも改まっていない。浜口としては、心外であった。直ちに正貨現送
 をとりやめさせ、投機熱を冷やした。
 
第六章
・大正15年、新たに憲政会総裁となった若槻礼次郎に組閣の大命が下った。浜口は内務
 大臣に就任。
・一年三カ月後、若槻内閣は、台湾銀行救済に枢密院の反対を受けたことから、総辞職。
 このあと、野党となった憲政会は、政友本党と合体。立憲民政党として再出発するにあ
 たり、浜口が党首に推された。
・浜口が蔵相・内相をつとめていた三年近い期間、井上は浪人ぐらしを続けていた。もっ
 とも、それは、颯爽として快適な高等老人生活である。世間は、さまざまな形で井上を
 引き出しに来るが、きまったポストにつく気はない。
・浪人井上は、また読書三昧にふけった。大正の末には、蔵書のほとんどを大磯に移して
 いた。洋書だけでも千五百冊余りあり、さらにその洋書がさらに年間百冊から二百冊ふ
 え続けた。経済はもとより、政治、外交、それに歴史や伝記類も多い。また興味のある
 問題については、関連の書物を買い集める。
・井上はいった。
 「常識を養うに読書は必要はないかもしれぬ。そしてまた日常の事務を処理して行くの
 にも読書の必要はない。しかし、人をリードして行くには、どうしても読書しなければ
 ならぬ」
 「書物を読んでは、全国を旅行して歩く。おれはそういう晩年を過ごしたい」
・井上は一年がかりで土地をさがし、御殿場に山荘をつくった。小さな丘の上に、古い農
 家を移築した。柱の太い、がらんとした家が、性に合う。
・井上が本気で建てようと思っているのは、ささやかな仏堂である。それも新築ではなく、
 ひなびた古い仏堂がほしい。読書と講演の晩年もいいが、山里に仏堂に閉じこもり、人
 知れず出家同然の隠棲生活を送りたい、と思っている。
・「まさか」ということが、起った。外務大臣のポストを辞退して、ほっとしていた井上
 に、新内閣の高橋蔵相から「再度、日銀総裁になってほしい」という要請がきたのであ
 る。役不足である。蔵相までつとめた身が、いまさら日銀総裁に、という思いがしたが、
 断り切れなかった。
・当時、経済界は、鈴木商店の倒産からはじまる金融大恐慌にゆさぶられていた。各地の
 銀行は取り付けに見舞われ、収拾のつかぬ混乱ぶりである。このため、すでに二度も蔵
 相経験のある高橋が、七十すぎの身で蔵相になり、井上にも応援を求めてきたのである。
・日銀総裁室に、ふたたび井上準之助の姿が見られるようになった。背広のチョッキのポ
 ケットに両手を突っ込み、背を反らせた独特のポーズ。その井上の姿を、鼻もちならぬ
 ほど誇り高い、と見る向きもあった。
・他でもない。このときの井上の仕事が、特別融資による休業銀行の救済にあり、陳情に
 来る人々には、救世主的存在に思えたからである。
・単独で再建させるか、合併させた上で救済するか、それとも、そのまま整理するか。各
 銀行にとっては、まさに死活問題である。陳情哀願するだけでなく、政治家などを使い、
 さかんに井上に働きかけた。
・もし救済が得られなければ、銀行も政治家も、井上をうらむ。救済されるにしても、条
 件がきびしすぎると、これまた日銀をうらむ。感謝もされるが、それ以上にうらまれる
 ことの多い難しい立場であった。
・高橋蔵相は四十日あまりで閣外に去った。このため、井上ひとりが、まともに毀誉褒貶
 を浴びる形となった。
・井上は、つとめて日銀の自主性を貫こうとしたため、政界との摩擦も多くなり、「総裁
 更迭を」という声が出るようになった。それでも、一通りの救済と整理をおえたところ
 で、総裁をやめた。
・やめた井上に、毀誉褒貶が集中した。「なぜ、もっと貸さなかったのか」と、うらむ声
 もあれば、逆に、「大盤振る舞いしすぎた」との非難も強かった。貸しても叩かれ、貸
 さなくても叩かれる。
・さらに、「特融資金が法定目的以外に流用されている」との批判も出た。政治家が介入
 したため、政治的に貸し出され、一部は政治資金などにも利用されたのではないか、と
 いうのである。
・最後に、井上がやめたこと自体が、非難された。「目先がきくから、さっさと引っこん
 だ」とか、「回収の責任を放棄し、跡始末をしないで逃げ出した」などと。
 
第七章
・昭和4年秋、浜口と井上は、ひそかに協議を重ね、その結果、井上は各閣僚を歴訪し根
 回しし、閣議でも反対論を押さえ込んで、ひとつの重大決定を行なった。
・衝撃的な政府発表が行なわれる。
 「政府は官吏俸給および在勤俸の削減を決定した」
・経済上の難局に直面し、財政緊縮・消費節約が必要であり、官吏の減俸もやむを得ない。
 もともと官吏の俸給は、大戦勃発以来の物価騰貴に伴って度々引き上げられたが、大正
 9年からは逆に物価が下落を続けているにもかかわらず、高く据え置かれたままである。
 少なくとも高給者については、手直すべきである、との首相声明が出された。
・このとき井上はいわでもながの発言をした。  
 「願わくは民間の銀行会社でも政府の例にならい、比較的高給者の減俸を行なうよう官
 民協力してもらいたいものである」と。
・一言多かった。減俸にはそういう「遠図」もあったとしても、いまの場合、問題は官吏
 に限るべきであった。戦略的にも、政治的にも、目標をしぼっておくべきだったのに、
 率直すぎた。蔵相自らそこまで刺戟的な発言をする必要はなかった。
・マスコミは、減俸問題を国民全体への挑戦と受け取り、大々的な反対キャンペーンをは
 った。 
・党としては、もともと井上の蔵相就任に反対であったが、浜口に免じて目をつむった。
 ところが、井上のこの独断専行である。都市政党色の濃い民政党としては、総選挙も近
 いというのに、最悪の悲観材料を抱え込むことになる。しかも井上は平然として、「総
 選挙にとらわれる暇がない」などと放言している。あの男はいったい何者なのだと、井
 上不信の空気が強まった。
・永田町の蔵相官邸では、井上蔵相主催の送別宴が開かれた。送られるのは、財務官の津
 島寿一。英米への金融事情調査に旅立つわけだが、それは表向きの任務であって、実は
 津島は重大な密命を帯びていた。金解禁断行の準備として、英米の金融機関から総額一
 億円のクレジットを得ておこうというのである。これも、金解禁への重要なプログラム
 のひとつであった。
・減俸に加えて、この使者の旅たち。まぎれもなく金解禁への歯車が、大きく動き出した。
 心にはりが満ちる夜といってもいいのに、宴の空気は冷えていた。
・井上としては、考えつくしてやったことである。撤回はおろか、修整に応ずる気もなか
 った。減俸適用者は、軍人の階級でいうと、大尉以上である。軍人社会で大尉は「下級
 官吏」なのであろうか。それに、そのクラスから6パーセント減額することが「大減俸
 」なのであろうか。どう考えても、井上は自分の考えがまちがっていると思えない。
・問題は、浜口である。収拾できるのは、浜口しかいない。それには、浜口ひとりがじっ
 くり考えてくれればいい。 
・とくに浜口が深刻に受け止めたのは、元老西園寺公望からの言伝てであった。
 「内閣は金解禁という大事を控えている。面目にとらわれ、小事に足をすくわれること
 のないよう念じている」
・金解禁のため減俸が必要なはずであったのに、いまは逆に、減俸撤回こそ金解禁に必要
 な形勢である。
・浜口がいちばん遺憾なのは、官吏の大多数が反対に出た、ということである。浜口は、
 自分の延長上に官吏というものを考えていた。清貧に甘んじ、国のためには身を殺して、
 黙々と率先垂範する、というような・・・。
・官吏もまた人間であった。経済情勢がきびしくなっているせいもあろうし、また一度ふ
 くれ上がった生活を縮めることは、人間には難しいのであろう。その辺のところまで見
 抜けなかったのは、自分の不明である。いまは官吏を責めるのではなく、自分の不明を
 責める他ない。 
・解禁に先立つ減俸は逆効果というので、とりやめたものの、減俸は金解禁という大きな
 構図の中で、いぜんとして有効かつ必要な布石である。金解禁を十分みごとに仕上げる
 ためには、減俸という補助手段は欠かせない。そのときこそ、今度はたとえ千波万波に
 襲われようと、やり抜くつもりである。
 
第八章
・井上は、大蔵省を指揮し、昭和5年度の予算編成に取り組む。金解禁に備え、徹底的に
 緊縮を貫く方針である。一般会計における公債は、一切発行しない。これは、明治40
 年度以来はじめてのことであった。井上は各省に節約を求め、歳出の規模は、前年度予
 算にくらべれば、約一割の縮小であった。
・予算編成の度に、大幅削減を強いられるのは。陸海軍省予算である。その上、浜口内閣
 は、若槻全権以下の代表団をロンドン軍縮会議へ送り出したところである。そこでも、
 国際平和の推進のためというだけでなく、各国民の負担軽減という見地から、補助艦艇
 削減問題が協議されようとしている。
・「軍部予算は、まるで削られるためにあるみたいではないか。国防はどうなってもいい、
  というのか」
  こうした憤懣を、軍部が持つのも、自然の勢いであった。浜口・井上を待ち伏せる勢
  力が、しだいに育って行く。
・10月24日木曜日、ウォール街で株式が暴落した。後に「暗黒の木曜日」といわれる
 大恐慌のはじまりを告げる出来事で、せっかくの金解禁も、やがてこの嵐にのみこまれ
 てしまうことになるのだが、もちろん、このとき、そこまでは予見しなかった。
・当時、日本で金解禁反対を唱えていたのは、高橋亀吉らごく少数であった。 
・当初の混乱が一段落し、株価が小康状態に入ったところで、クレジット交渉が進められ
 た。  
・フランスなどいくつかの国は、為替相場の落ち着いたところで、それを新平価にして解
 禁しており、無理のない移行だとして、アメリカ側も、日本での新平価解禁を予想し、
 期待していた。
・だが、浜口・井上が決めたのは、旧平価での解禁であった。理由は、フランスなどでは、
 旧平価との間に三割とか五割とかの開きがあったのに対し、日本での開きは、一割前後
 である。緊縮によって、その程度の物価引き下げ(安の価値の引き上げ)は可能と見た。
・新平価解禁では、半病人のまま退院するようなものである。それより、荒療治してでも
 健康体になって復帰しよう、というのが、旧平価解禁への大きな理由であったが、それ
 とともに、もっと実際的で痛切な理由もあった。
・旧平価による解禁の場合は、大蔵省令によって実施できるが、新平価の場合は、貨幣法
 の改正を必要とする。議会では、金解禁反対を唱える野党の政友会が絶対多数を占めて
 おり、法案改正には時間がかかるだけでなく、その見通しも、不確かであった。やはり、
 旧平価で行く他はない。
・また、「暗黒の木曜日」以来、米英の金利が下がったことも、借入を得やすくしていた。
 このため、当時、この暴落を「天佑」と叫ぶ声も出たほどである。
・金解禁反対論者の一人、高橋亀吉は、金解禁は、外国の物価昂騰つまり金利高のとき行
 なうべきであり、金利低下のときに行なえば、同時に物価下落の影響を受け、産業界に
 打撃を与えることになると警告した。
・不況は、深刻化していた。求人数は激減し、翌年の大学卒業予定者には、暗く長い冬と
 なった。見込まれる就職率は、東京商大の約八割は例外として、東京帝大で六割から七
 割。他の大学では三割から五割見当といわれ、学生たちは伝手をたよって、就職活動に
 かけ回っていた。すでに彼等の先輩である知識階級の失業者が、ふえ続けていた。
・その一方では、金解禁をめぐって、さまざまな思惑が行なわれた。解禁近しと見た財界
 の一部では、差益を得ようと、しきりにドルを売って円に代えた。決済資金のやりくり
 もあったが、投機的な動きも多かった。
・このため、為替相場があまりにも急騰し、経済活動に支障が出そうなので、井上は日銀
 と正金に命じてドルに買い向かわせ、上昇のテンポをゆるめるようにした。ところが、
 そのあと、49ドル台まで達してしまうと、待ちきれず円売りドル買いがはじまり、為
 替相場は逆転しそうなので、今度はまたドルに売り向かわせた。
・こうした操作で、政府と日銀が損をした分だけ、財界にも利益を上げる者があったわけ
 である。国をあげての経済立て直しのはずなのに、抜け目なく、それを悪用して私欲を
 肥やす。それが経済の論理だとは知りながらも、井上には心外であった。
・解禁関係以外でも、気になる事件がいくつか起った。首相官邸前で、短刀を持た男が、
 浜口首相の車とまちがえて、他の車にとびのり、客を襲った。精神障害者による犯行と
 いうことで処理されたが、不気味な動きではあった。
・疑獄事件の進展から、小橋文相が勇退することになった。そして、小橋の辞表提出の日、
 帰朝中だった佐分利貞男駐支公使が、箱根のホテルでピストルによる死を遂げた。事件
 は自殺として処理されたが、不審な点が残った。
・佐分利は、幣原の片腕として平和外交を推進し、中国側からも信望の厚かった有能な外
 交官であり、このため、幣原外交反対派による暗殺という受けとり方をする向きもあっ
 た。
・昭和5年1月、予告通り金輸出解禁が実施された。
・金解禁実施は、「船はまだ港を出たばかり」に過ぎず、今後とも国民の自覚、そして官
 民一致の緊張の持続をと、浜口も井上もそろって訴えたが、国民の多くは、ともかく、
 峠を越したという受けとり方をした。
・これまでは、解禁準備のための緊縮と、声を大にして訴え続けてきた。このため、「解
 禁になってしまえば、不況もゆるむ」という期待が湧くのは、人情の自然であった。だ
 が、緊縮政策は、これからも「堅忍不抜」で推進し、国民もまた「堅忍不抜」でこれに
 耐えてくれなくてはならない。景気の回復は、そうしてかなりの時間と労力をかけ、体
 質を改善したあとのことなのだ。
・金解禁の四十日後に行なわれた総選挙では、民政党は政友会に大勝した。犬養毅を倒し
 たのであった。 
・もちろん、この大勝には、金解禁断行時の「ぼくの苦労も今日で解禁」といった気分が、
 普通選挙によって増大した有権者に色濃く作用していたことは否めない。
・だが、「苦労も解禁」的な政策は、まだまだ打ち出せる時期ではなかった。むしろ逆に、
 浜口・井上は、さらに財政の緊縮にのり出した。
・早々に昭和5年度予算の手直しに入った。物件費について、物価下落に比例した分だけ
 節約させることにし、各省に内示する。相変わらず、陸海軍経費の削減が大きかった。
 陸海軍省は猛烈に抵抗したが、井上も譲らず、一カ月以上もかかって、ようやく妥協案
 に達するという始末であった。
・海軍とのさらに大きな衝突が、ロンドン軍縮会議をめぐって進行していた。日本側の主
 張は、最小限対米七割の確保にあった。これは、前内閣以来の方針であり、海軍をあげ
 ての強い要求であった。ところが、これに対し、アメリカが出してきたのは、対米六割
 という縮小案である。
・軍縮は金解禁と並ぶ内閣の重大使命であった。それは、国民負担の軽減・国際協調とい
 うことで、金本位制復帰と有機的に結びついている。この内閣の求めるのは、東洋の強
 大な君主国というよりも、民主的な平和愛好国として国際社会に共存する姿であった。
・浜口内閣には、理想があり、「遠図」があった。浜口としては、そうした構図を自らの
 手でこわすわけには行かなかった。それに外債の借替交渉が目前に迫っているなど、妥
 結を必要とする実際的な理由もいくつかあった。
・浜口は最後に受諾を決め、閣議にかけて決定した。兵力量の決定は政府の所管事項、と
 いう判断からであった。 
・問題は、さらに大きな火を噴いた。この浜口の決定は、陸海軍を統率する天皇の大権を
 犯した、統帥権干犯だ、というのである。
・特別臨時議会で、政友会の犬養毅総裁がこの統帥権干犯をとり上げ、国防の問題で政府
 に迫り、浜口首相もまた真向から受けて、やり返した。
・ついで、前蔵相三土忠造が、不況の深刻化は政府の不用意な金解禁と緊縮節約によるも
 のだとして、財政政策の転換を迫った。
・軍令部との抗争は、一応のかたがついたが、ツケは残った。
・浜口・井上とも、ほっとしている間はなかった。次年度予算の編成にかからねばならぬ
 のだが、不況の浸透によって、税収はかなり落ち込みが予想されていた。一方、新規事
 業は認めぬ方針ながら、失業対策だけはなんとかしなくてはならぬし、軍縮による国民
 負担の軽減という線から、減税も行ないたいと、やりくりの目途さえつかぬ状態であっ
 た。
・浜口の前には、さらに枢密院が立ちはだかっている。枢密院は、「少しでも宸襟を悩ま
 すことのないように」という伊藤博文の発想で明治21年につくられた天皇輔弼機関で
 ある。メンバーは、ほとんど薩・長・土・肥四藩の出身者。一部を除けば、前近代的意
 識の持主が多い上、政治好きもいて、このころでは、輔弼の域を越えて、政党政治に介
 入したり、ブレーキをかけるなどということが、目立った。当然のことながら、保守的
 体質を持つ政友会とはよく、民政党に対しては冷たかった。
・昭和2年、震災手形処理法案などを拒んで若槻内閣を倒したのも、その流れである。
 この枢密院介入のため、内閣も倒れたが、同時に金融恐慌が起り、二億円の政府補償で
 避けられるはずの危機収拾のために、次の田中内閣の高橋蔵相が五億もの金を出すこと
 になった。憤慨した民政党では、このあと、枢密院弾劾案を議会に出したほどであった。
・民政党側には、枢密院がおよそ近代的な政治体制とは相容れない存在であり、縮小また
 は廃止の方向へ進むべきだという認識がある。これに対して枢密院は、西園寺などの元
 老が首相推薦権を持つのを改め、元老もまた顧問官として枢密院の中に組み込むか、枢
 密院が元老に代って推薦権を持つべきだという枢密院強化論が強くなっていた。
・世間では、息をつめて対決を見守った。ふいに、枢密院側が折れた。委員長は突然、そ
 れまでの経緯をすてて、「無条件で御批准然るべし」との結論を出し、委員会をまとめ
 た。内閣をつぶしてきた巨大な権威が、このときはじめて浜口に屈した。
 
第九章
・当時、世間の政治家への評価は、決して高くはなかった。浜口の娘が友人の家に遊びに
 行ったところ、友人の母親が出てきて、「政治家の子供などと遊んではいけません」と
 追い返されたことがあったほどである。政治のレベルを高めたいというのが、浜口の強
 い念願であった。政治家は国民の平均的標準ではなく、国民の理想であるべきである。 
・緊縮続きで、不景気は深刻になっていた。多くの企業が規模を縮小し、従業員の一時帰
 休や整理を行なうところも少なくない。一両年ほど前までは、どこも満室で、入居する
 のにプレミアムまでついた丸ノ内かいわいのビル街でも、平均して二、三割は空室。こ
 の春完成した海上ビル新館は、半分もふさがらない。八割近く空室のままというビルも
 あった。当時、最も恵まれていたはずの三井系の大企業でも、給与の二割カット、退職
 金半減などの措置をとるところも出てきた。
・国勢調査の際、東京市内で確認された浮浪者数は、一千七百人、大正14年の浮浪者調
 査にくらべ、五倍にふくらんでいた。
・都会で職にあぶれた人々は、やむなく郷里へ帰ろうとする。だが、汽車に乗る金さえな
 く、東海道などの主要街道は、妻子を連れて歩いて帰る姿が目立った。見かねて街道筋
 で粥の接待をする村もある。
・生糸の暴落などもあって、農村も不況に苦しんでいた。そこへ都会から帰郷者を抱えこ
 まねばならない。やむを得ず生活費まで借金するようになり全国農家の借金総額は五十
 億円に上ると推計された。
・どこへ行っても、失業と生活苦と借金の話。これでは民政党の人気が失われる。「何の
 ための緊縮か」「緊縮万能を改めよ」と、党内からも反発が出た。
 
第十章
・浜口は、久しぶりに肩の荷が下りる思いがした。金解禁・軍縮という大事業、四度にわ
 たる予算編成。経済の立て直しなど長期的な課題こそあるものの、さし当たっての懸案
 から組閣以来はじめて解放された形であった。
・折から岡山で、天皇総監の下で、陸軍大演習が行なわれており、首相としてその陪観に
 出かけねばならない。
・夫人の夏子は、この旅行に、いつもになく不安を感じた。いや、不穏な動きを伝えるう
 わさがあり、事実、短刀を持った男が官邸に忍び込もうとしたところを捕らえられた。
・東京駅に着き、駅長室で一服してから、地下道を通ってホームに出た。ホームには、人
 が溢れていた。同じ列車で、新任の駐ソ大使広田弘毅が出発しようとしており、幣原外
 相らが見送りに来ていた。
・原敬の東京駅頭での遭難があってから、首相が乗降するときには、ホームには一般客を
 入れないようにしていたのだが、浜口になってから、とりやめさせた。それが仇となっ
 た。
・浜口の歩いて行く前方の人垣の中から、ピストルで狙い撃ちされた。わずか三メートル
 ほどの距離であった。秘書官や護衛官らが、急いで浜口を抱え上げ、駅長室に運び、ソ
 ファに寝かした。 
・近くの鉄道病院から、医師がかけつけた。その医師が思わず「総理、たいへんなことに」
 とつぶやくと、浜口はうす目を開けて言った。「男子の本懐です」
・浜口は、ホームからかけつけてきた幣原にも、「男子の本懐だ」と漏らした。
・政友会筋を中心に、金輸出再禁止論が出はじめていた。金本位制度をやめ、金保有量に
 関係なく通貨を増発させることで、インフレ的な刺戟を与えよう、というのである。
・この内閣は、民政党内閣というより、何より浜口内閣であった。浜口の謹直な人柄、そ
 してその統率の下で大きな懸案を次々に解決してきた内閣である。浜口内閣だから世間
 はついてきているのであって、民政党の誰かが首相の代わりをつとめればすむ、という
 ものではなかった。やはり、浜口は総理の座を離れてはならない。
・浜口の身に万一のことがあったり、病に耐えられず引退でもすれば、元老の意向にもよ
 るが、政権が政友会に移る公算が大きい。
・金解禁の総仕上げを行ない、緊縮を徹底させて、国際競争力のついた体質になるまで、
 やはり、浜口内閣として、頑張り抜きたかった。
・衆議院本会議で、政友会きっての財政通である三土忠造前蔵相が論戦を挑んだ。主な論
 争点は、景気動向をどう見るか、不景気の原因をどう考えるか、というところにあった。
・井上の見方を要約すると、次のようになる。
 「不景気は、金解禁の結果というより、世界恐慌によるものであり、その恐慌はだれに
 も予測できなかった。世界の物価が低落する中で、もし日本が金解禁と緊縮により物価
 を引き下げていなかったら、国際収支は破滅的な赤字になっていたであろう。不景気の
 中で合理化に努力した企業は、生産費の切り下げのおかげで、すでに安定した立ち直り
 を見せている。中小企業の救済や整理促進のため特別な措置をとる他は、従来の政策路
 線を堅持して、何の支障もない」
・これに対し三土は、
 「不景気は、政府が金解禁の時期と方法を誤ったために起きたものであり、経済は一向
 に立ち直りを見せず、むしろ悪化する一方である」
 
第十一章
・多くの閣僚が留任する形で、第二次若槻内閣が発足した。首相声明で、若槻は、
 「政治は活物であります。・・・情勢に順応して適切に施設して行かなければならぬと
 考えています」
 と述べた。すでに世間には、新内閣によって景気振興的な方向への経済政策の転換が行
 なわれるとの観測が流れていた。
・井上としては、その職責からも、またその気性からも、黙ってはおれない。
 「この世界的不景気に対して日本だけが人為策を施してみたところで、決して予期した
 効果が得られないばかりでなく、むしろ将来に悪結果を残すこととなる。日本おおよび
 海外の財界の現状は、この際、つけ景気などをすべき説きでは絶対にないと思う。とに
 かく日本の経済界としては、順調な推移を続けているのであるから、海外の事情さえ好
 転すれば、それに適応するだけの準備は我国においてだいだいできていると思う」
・井上にしてみれば、「考えられるすべての問題を考えた末に決意した」金解禁であり、
 緊縮である。いまや、浜口と同様、いや浜口の分も含めて、「断乎として」やり抜
 くつもりであり、「毛頭」譲る気はなかった。
・井上は、甘い新政策を期待している世間に向かって、新内閣発足早々、経済政策の第一
 弾として、在来の緊縮路線をさらに徹底させる方策を、あえてぶつけることにした。
・世間は驚愕した。官吏一割減俸案を実施する、というのである。新政策どころか、官吏
 たちには、すでに雲散霧消したと思っていた悪夢の再来であった。
・三河台の井上の私邸で、大音響とともに爆発が起り、冠木門脇の物置きが爆破された。
 これとは別に、抜き身の短刀が、井上の邸に送られてきた。
・爆破事件の犯人は、半月後、逮捕された。さらに、この犯人と共謀の嫌疑で、一人の陸
 軍中尉が浮び上がり、取調べを受けた。だが、この中尉は、取調べ後、割腹自殺を遂げ
 てしまい、背後関係もつかめぬままに、不気味な幕切れとなった。
・減俸を決行した井上は、今度は、省の統廃合を中心とする行政整理に取り組んだ。これ
 も、政府が率先垂範して効率化をはかり、緊縮の総仕上げをしようとするものだが、一
 方では、井上には、西洋的な自由経済社会へ少しでも日本を近づけよう、というかねて
 の思いも働いていた。民主的な社会では、安上りの政府が理想である。
・予想どおり、はげしい反対が起った。
・当時、ヨーロッパでは、ドイツからはじまった経済恐慌がひろがり、金融の中心ロンド
 ンでは大量の金貨が引き揚げられたため、イギリスの金本位制度の存続が危ぶまれてい
 た。折からそのイギリスで政変があり、新内閣の構成いかんでは、イギリスが金解禁を
 とりやめるかも知れぬと観測され、浜口は死の床でも、そのことを案じていた。
・「みんなの顔がまだ見えるぞ」というのが、浜口の最後の言葉であった。
 
第十二章
・金本位維持のために、井上が国内でけんめいに緊縮路線を仕上げにかかっていたのに、
 その体制をはげしく突き崩す事件が、立て続けに海外で起った。
・まず満州事変が勃発。これは成行きしだいでは、軍事支出の増大、財政膨張という形で、
 これまでの緊縮の苦労を一挙に空しくしかねない。
・金本位制度により通貨増発に歯止めをかけることで、せめて財政的に軍の動きを封じこ
 めようとしてきたが、非常事態とあっては、いよいよ軍部の反発、抵抗が増すばかりで
 あろう。
・さらに満州事変勃発から三日後、今度は、イギリスが金流出防止を理由に、金輸出再禁
 止にふみきり、金本位制から離脱した。スウェーデン、デンマーク、ノルウェー、カナ
 ダなどが、次々にこれに続く。
・このため、日本の経済界も先行き不安から大混乱に陥り、各株式市場は立会停止に追い
 こまれた。 
・だが、井上は、金本位制度堅持の主張を変えない。 
 「イギリスは財政経済の運営を誤り、対外信用を失墜、このため、一挙に多額の正貨の
 引き出しに見舞われた。これに対し、日本の財政経済は基礎が健全であり、前途に不安
 もなく、再禁止を期待するのは見当ちがいである」
・井上が、浜口以来の緊縮・金解禁路線をわき目もふらずに走り続けようとしているのに、
 内閣そのものがゆるぎ出した。
・井上は、金本位制を宗教家のように不動のものと崇めているのでもなければ、頑固一徹
 に不変の政策をしようとしているのでもない。現段階の日本にとって最善のものという
 財政家としての判断からである。  
・世間は政変必至と見、投機筋は息をつめて、荒稼ぎの成る日を待ち受けている。内閣が
 倒れて思惑筋がもうけるか、それとも、その前に思惑筋が追い詰められるか。秒読みと
 いってよい切迫した戦いとなった。
・ついに閣内不統一から、内閣は総辞職に追いこまれた。
・西園寺は、井上らを買っていたが、最後には、後継内閣首班に政友会の犬養毅を選んだ。
・満州事変で沸き立つ空気の中では、幣原外交は弱腰と叩かれ、井上財政は農村不況の元
 凶扱いで、人心は倦み疲れている。ひとまず人心の転換をという配慮も、西園寺にはあ
 った。
 
第十三章
・新内閣は、発足と同時に、金輸出再禁止を行なった。浜口と井上の二年半にわたる苦労
 は、こうして水の泡になり、一方、ドル買いたちは狂気した。
・金解禁になると、東京のある二軒のデパートは店員に徹夜さして、正札を値上さした。
 機敏に物価は上がる。月給や賃金は刻々として上がらない。生活苦は加わる。そして皆
 んなが苦しむのなら我慢できるが、一方には財閥は少なくとも六千万円はもうける。国
 の犠牲において、民衆の犠牲においてである。
・犬養毅内閣が、金輸出禁止をしたため、世間はインフレ時代到来と受け取った。円相場
 は二割あまり暴落。輸入品の値段は、いっせいに高騰しはじめた。
・そして、これ以降の日本経済は、まさに井上の予言どおり、果てしないインフレへとこ
 ろげこんでいった。 
・二年半にわたる締めつけで、産業界はすっかり井上に背を向けていた。古巣といってよ
 い金融界も、財閥系銀行のほとんどがドル買いに走って、井上を裏切った。
・その日の夜は、浜口と円のある立候補者のために応援演説に出かけることになっていた。
 おくれて来た車を急がせ、井上は海上である本郷駒本小学校へ着いた。そして、車か下
 りて、数歩歩いたとき、一人の男が群衆の中からとび出し、拳銃を三発撃ちこんだ。
 即死同然であった。
・青山墓地東三条。木立の中に、死後も呼び合うように、盟友二人の墓は、仲良く並んで
 立っている。位階勲等などを麗々しく記した周辺の墓碑たちとちがい、二人の墓碑には、
 「浜口雄幸之墓」「井上準之助之墓」と、ただ俗名だけが書かれている。