世界同時不況   :岩田規久男

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現在、日本の長期デフレからの脱出策として行われている日銀・黒田総裁による「異次元
の金融緩和策」は、1929年に起こった世界恐慌昭和恐慌の際に採られた「リフレ政
」が手本になっているようだ。この時の経験から、デフレからの脱出には、思い切った
金融緩和策が一番有効であるという、一つの経済理論になっているらしい。アベノミクス
も、この理論に基づいての政策と思われる。
1929年に起こった世界大恐慌直前のアメリカのダウ平均株価の上昇率は、40%だっ
たという。これと比べても、2012年から2013年にかけてのアベノミクスによる日
本の日経平均株価の上昇率70%以上というのは、まさに異常だといえる。1929年に
アメリカで起こった大恐慌は、この株価の異常な上昇に対して行われた金融引締政策の失
敗が、引き金となった。アベノミクス政策を受けて日銀は、「異次元の金融緩和」と称し
て、マネーをジャブジャブ市場にながし続けているが、ひとたびインフレが止まらなくな
り、金融の引締しめが必要となったときに、果たしてうまく、引き締めを行うことができ
るのだろうか。リフレ政策によって、昭和恐慌からの脱出に成功した高橋是清も、インフ
レ回避のために採った金融引締め政策へ転換した時に、反対分子によって暗殺された。そ
して日本は、狂気の沙汰とも思えるあの太平洋戦争へと、突入していった。


はじめに
・20世紀に起きた金融危機発の三つの大不況、すなわち、1930年代のアメリカを中
 心とする世界大恐慌と、日本の昭和恐慌、および、1990年代の日本の「失われた10」
 年と呼ばれる平静長期経済停滞である。これらの三つの不況と現在(2009年)進行
 中の今回の世界同時不況は、どれも資産価格の暴落を原因として起きた点で共通してい
 る。その意味で、今回の世界同時不況から早期に脱出するための対策を考える上で、こ
 れらの三つの不況からいかに脱出したか、あるいは、なぜ脱出に長い時間がかかったの
 か、などを学ぶことの意義は大きい。しかし、今回の世界金融危機発の世界同時不況は、
 金融危機の不況とは異なっている。
 
世界金融危機はなぜ起きたのか
・2008年9月に世界金融危機が起きた究極の原因は、アメリカのサブプライムローン
 問題だ。サブプライムローンとは、信用度の低い人に貸し出さる住宅ローンのことであ
 る。 
・サブプライムローンは当初2、3年の金利を低く設定し、その期間が過ぎると変動金利
 になるという、調整型変動金利が一般的である。
・住宅価格は2006年半ば頃までは、2年間で50%近くも上昇してから、2004年
 頃までに借りた人たちは、2、3年後に有利な条件で借り換えることが可能だった。し
 かし、住宅価格上昇率は、2006年の半ば以降、対前年同月比で一桁台に低下し、
 2007年に入ると、住宅価格は対前年同月比で低下に転じ、さらに、2008年にな
 ると、対前年同月比で10%台の下落が続くようになった。
・サブプライムローンの借り手はほとんどが低所得者だから、当初の2、3年の低金利期
 間が過ぎたときに、住宅価格が下落したために、有利な条件で借り換えができなくなれ
 ば、元金利を滞納せざるを得なくなる。
・2006年に、サブプライムローン担保証券の価格指標がいくつか開発されたが、それ
 らは、サブプライムローンの滞納率が上昇したため、2007年までの1年間に50%
 から80%も低下した。この価格指標の暴落により、サブプライムローン担保証券に投
 資していたヘッジファンド、証券会社、銀行などはパニックに陥り、その投売りがさら
 にその証券価格を下落させるという悪循環の罠にはまってしまい、これらの金融旗艦の
 損失は雪だるま式に増大した。 
・第一の問題は、サブプライムローン担保証券の仕組みがあまりにも複雑すぎて、サブプ
 ライムローンの滞納率が上昇したときに、投資家には自分が保有しているサブプライム
 ローン関連証券の妥当な価格はいくらなのかが、まったくわからなくなったことである。
・それでは、投資家たちは何を基準にしてこれらの証券に投資していたのか。それはもっ
 ぱら格付けだった。投資家たちはこうした格付けにもっぱら頼って、自分の好みに合っ
 た証券に投資してきた。ところが、サブプライムローンの滞納率が急上昇するとともに、
 サブプライムローン担保証券の価格指標が急落すると、2007年頃から、大手格付会
 社が次々に格付けを大幅に引き下げ始めたのである。
・こうした大手格付会社の格付けの引き下げラッシュにショックを受けた投資家たちは、
 一斉に、サブプライムローン関連証券を売って、換金に走ったのである。このように、
 サブプライムローン関連証券の構造が複雑すぎて、適正な価格がわからないために、投
 資家たちがそうしたわけのわからなくなった証券を持ち続けることの恐怖心から、投売
 りに走ったことが、サブプライムローン問題が世界金融危機に発展した要因の一つであ
 る。
・サブプライムローン問題が世界金融危機に発展した第二の要因は、金融機関のあまりに
 も高すぎるレバレッジ比率であった。レバレッジのもともとの意味は「てこ」である。
 「借金をてこ」にすると、「てこ」の原理に従って、純投資利益率を何倍にも引き上げ
 ることができる。しかし、この「てこ」の話は、「総投資収益率が金利よりも高い」と
 いう条件がつく。サブプライムローン担保証券の総投資収益率が金利よりも低くなった
 ら、そううまくはいかない。
・2006年頃には、世界的なヘッジファンドの平均的レバレッジ比率は70倍近くにも
 達した。2008年9月に破綻した大手投資銀行リーマン・ブラザーズの2007年の
 レバレッジ比率は31倍だった。
・2007年8月以降、サブプライムローン担保証券の総投資収益率が金利よりも低下し
 たために、ヘッジファンドや投資銀行などがサブプライムローン担保証券を投売りして、
 金利返済に追いまくられることになった理由が理解できる。
・サブプライムローン問題が世界金融危機に発展した要因として、@サブプライムローン
 は住宅価格の上昇を前提とする特殊な住宅ローンであること、Aサブプライムローン関
 連証券は複雑すぎて、それらの投資家にはその構造を理解できなかったこと、および、
 Bサブプライムローン関連証券に投資した金融機関のレバレッジ比率が高すぎたことの
 三つである。しかし、厳密に言えば、これらはサブプライムローン問題が金融危機を引
 き起こした要因だが、その金融危機が世界を巻き込む世界金融危機を引き起こした要因
 とは言えない。それは、世界中の投資家がサブプライムローン関連証券を大量に購入し
 ていたからだ。大量に購入したのは、金融緩和が続いて金利が低かったことと、サブプ
 ライムローン関連証券の収益率が高いうえに、格付機関がこれらの証券に高い格付けを
 与えたからである。
・これまでに起きたどの金融危機でも、金融危機は最初に流動性危機として現れる。流動
 性危機とは支払い手段が不足するために起きる危機だ。支払い手段とは、モノやサービ
 スや資産などを購入するときに、それらの購入代金を支払うための手段である。支払い
 手段には、現金と預金がある。支払い手段である貨幣が支払いのために必要な金額より
 も足りなくなることを、流動性不足という。この流動性不足を解消できなかったり、解
 消するために多額の費用を負担しなければならなくなったりすると、単なる流動性不足
 を超えて、流動性危機になる。
・借り手が借金以外の手段で、借金の返済金を調達する第一の手段は、借り手が現金や預
 金を持っていれば、それで借金を返すことだ。流動性不足に陥った借り手が、借金の返
 済資金を作るもう一つの手段は、サブプライムローン関連証券などの保有資産を売るこ
 とである。すなわち、資産の換金売りだ。多くの借り手が多額の流動性不足に陥って、
 いっせいに保有資産を売ろうとすれば、資産価格は大きく下落する。借り手の保有資産
 の価格がさらに下がったため、貸し手は一層借り手お返済能力を疑うようになり、どん
 なに高い金利を払うと言っても、借り換えに応じようとしなくなった。そうなると、投
 資銀行やヘッジファンドなどの借り手は、ひたすら借金の返済のために、サブプライム
 ローン関連証券をはじめとする保有債券や株式を売らなければならなかった。こうした
 売りはさらに債券や株式の価格下落を招いた。
・企業の中でも、銀行が債務超過に陥ることは、経済全体にきわめて大きな悪影響を及ぼ
 す。それは、銀行は預金という支払い手段(すなわち、貨幣)を提供している金融機関
 だからだ。銀行が債務超過に陥ることは、預金者に元本割れの負担を求めなければなら
 ないリスクが増大することを意味する。銀行がそのような事態に陥れば、預金の引き出
 し、すなわち、銀行取付が激しくなるが、銀行はそのような預金の一斉引き出しに応ず
 るだけの現金を持ってない。そのために、銀行は取り付けに合うと、預金の引き出しに
 応ずることができずに破綻してしまう。
・銀行取付は他の銀行にも伝染する。というのは、ある銀行が破綻した、あるいは、破綻
 しかかっているというニュースが伝わると、その銀行の預金者も預金の元本割れを心配
 するようになり、我先にと自分の銀行に取り付けに走るからだ。
 
1930年代の世界大恐慌はなぜ起きたのか
・1920年代のアメリア経済の景気を牽引したのは、自動車や家電製品などの耐久消費
 財生産の技術革新とそれらの財に対する旺盛の需要であった。この時代の耐久消費財の
 花形は自動車だった。そしてもう一つの花形耐久消費財はラジオだった。1920年の
 秋までには、大衆のためのラジオ放送はなかったが、1922年の春には、ラジオは熱
 狂的流行になった。
・アメリカの1920年代の繁栄は不動産ブームを誘発した。自動車の普及は暖かい太陽
 を求めて、自動車キャンプを利用した南下を可能にしたのである。人々はマイアミが豪
 華なベニス風の都市に変貌するという宣伝に乗って、土地を買った。地価が高騰するに
 つれて、転売目的での購入が増大した。
・ところが、土地ブームは1926年春頃から崩壊し始めた。崩壊を決定付たのは、19
 26年9月の二つの台風だった。死者は400人、ふぃ照射は6300人、家を失った
 人は5万人に達した。
・フロリダ以外でも、1920年代には、すべての都市の郊外で土地ブームが起きた。農
 業のうち、トウモロオシ、小麦、綿などの主要作物は外国市場との競争が激化したため
 に、価格が下落を続け、クーリッジ景気に乗れなかった。そのため、4百万人にも上る
 農民が農村を離れ、都市に殺到した。こうした人々を受け入れるために、都市は拡大し、
 年の中心部では、高層建築が盛んになった。
・しかし、高層建築と自動車交通の発達は住民から太陽と新鮮な空気を奪った。そのため、
 光と新鮮な空気を求めて、郊外に引っ越す者が殖えた。自動車の普及がこの郊外への移
 住を可能にしたのである。
・フロリダの土地ブームが終わっても、大衆は、次なる投機の対象を株式に求めた。株価
 は1924年の後半から上昇率が大きくなり、1927年に入って高騰し始めた。ダウ
 平均株価上昇率は1927年は28%に達したが、1928年にはさらに高く、40%
 にも達した。
・1929年も8月までは株価は上昇基調を示していたが、9月に入ると、株式市場は悪
 化し始めた。それでも、人々は1928年6月と10月および1929年3月と5月の
 教訓を生かして、株を買い続けた。というのは、これらの月の大幅な下落後に、株価は
 大きく反転したからである。人々は値崩れの時期こそ買い時であることを学んだのであ
 る。
・しかし、10月に入ると、株価の下落傾向ははっきりしてきた。そして、1929年
 10月24日、ついに、後世に残る暗黒の木曜日が訪れた。最初の1時間に起きた暴落
 は、弱気売りではなく、証拠金(借金して株式に投資するために、担保として提供する
 現金)をつめなくなった投資家による何十万株もの売りの殺到が原因だった。つまり、
 レバレッジ比率を維持できなくなった投資家の売りが殺到したのである。この日、株価
 は一時、10%を超えて下落した。しかし、午後に、モルガン商会をはじめとする銀行
 の株価安定対策が発表されると、株価は落ち着きを取り戻し、終値は持ち直して、2%
 の下落で落ち着いた。しかし、翌週の28日と29日は立て続けに12%から13%も
 下落し、29日には悲劇の火曜日と呼ばれるようになった。
・株式はその後も下落を続け、50の主要株の平均価格は、9月の高値311.9ドルか
 ら11月13日の安値164.4ドルへと2ヵ月半の間に半分になってしまった。
・1930年のアメリカの実質国民総生産は前年より9.8%も減少した。その後も、実
 質国民総生産の減少は止まらず、1931年と32年はそれぞれ7.9%と16.2%
 の減少を記録した。その結果、32年の実質国民総生産は29年よりも30%も低い水
 準に沈んだのである。
・国民総生産の激減のために、雇用も激減し、失業者は急増した。1929年5月には
 0.04%まで低下した失業率は1930年代半ばには10%台に上昇し、以後も上昇
 を続けて、1932年半ばから33年3月にかけては25%に達した。
・1927年に入って、FRBは金流出に悩むイギリスの要請を受け入れて、貨幣供給量
 をやや増加気味に、銀行間の取引金利であるコールレートを低下気味に金融政策を運営
 した。ところがこの金融緩和政策により、株価上昇に弾みがつき、特に金利低下の大き
 かった1927年7月から9月にかけては月間4%から6%に上昇した。1927年9
 月には、株価は前年9月よりも20%も高くなった。 
・FRBはこうした株価高騰を心配し、株式投機を抑制しようとして、1927年後半に
 は、金融引き締め政策に転じ、貨幣供給量の増加を抑制し、金利を引き上げた。株価は
 1929年9月にわずかに上昇した後、10月から11月にかけて大暴落したのは、こ
 うした金融引き締め政策の効果が出てきたためである。
・1929年秋の株価暴落以降、景気が急速に悪化した原因については、@消費や投資な
 どが急減したからであるという総需要減少説と、AFRBが金融引き締め政策によって、
 貨幣供給量を急激に減少させたからであるという貨幣供給量減少説がある。この原因を
 めぐる論争は、1980年代以降、1930年代の世界恐慌の国際比較研究が進むにつ
 れて、経済学会では、Aの貨幣供給量減少説が妥当であるという見解が支配的になった。
・FRBの金不胎化政策によって貨幣供給量が大きく減少すれば、民間は支払い手段であ
 る貨幣が不足するため、借金をしたり、証券を売って換金したりして、貨幣を手に入れ
 ようとする。貨幣供給量が減っている状況で、投資家が借金して株式に投資しようとす
 れば、投資家に貸し付けられるときの金利(株式の信用取引の際の金利)は上昇する。
 この貸付金利は株価が大暴落した1929年10月には、1年前より2.9ポイント%
 も上昇した。株式投資家に貸し付けられる金利がこれだけ上がると、借金をして株式に
 投資していた投資家は、金利負担に耐えられなくなって、株式を売ろうとする。これに、
 貨幣不足による株式の換金売りが重なれば、株価は大きく下落する。1929年当初は
 株価が高騰していただけに、それがいったん下落し始めると、投資家たちは株価高騰も
 限界に来たと考え、さらに下がるのではないかと心配になり、一層、株式を売ろうとす
 る。1929年秋は、投資家の予想が株価上昇から、一転して、株価下落に変わって、
 株式の一斉売りが始まった年である。
・金利が景気にどうような影響を及ぼすかを理解するためには、名目金利と実質金利とを
 区別しておく必要がある。名目金利とは、銀行の店頭に展示された預金の金利や砂金の
 契約で示された金利である。 
・投資家が株式に投資するかどうかを決めるときの基準になる金利は、名目金利である。
 投資家が株式に投資するときに、投資家に貸し付けられる名目金利は、1927年11
 月は4.2%であったが、株価が大暴落した1年後の1929年10月には7.1%へ
 と、2.9ポイントも上昇した。こうした名目金利の急上昇が1929年秋の株価大暴
 落の原因である。
・実質金利とは物価の変化を考慮した金利で、モノを購入するかどうかを決めるときに考
 慮される金利である。実質金利とは、名目金利から住宅価格などの変化率を差し引いた
 金利である。住宅価格などの変化率がプラス(住宅価格などは上昇)であれば、実質金
 利は名目金利より低くなる。逆に、住宅価格などの変化率がマイナス(住宅価格などは
 下落)であれば、実質金利は名目金利よりも高くなる。
・住宅を買うかどうかを決めるときと同じように、家計がモノの消費額を決めたり、企業
 が投資額(機械などの投資額)を決めたりするときには、購入対象であるモノの価格が
 今後どのように変化するかが考慮されるであろう。したがって、一般的に、消費と投資
 などモノ(サービスを含む)に対する需要に影響するのは、名目金利ではなく、実質金
 利である。ただし、消費の中でも、食料品のように、ほとんど購入時期を選択できない
 ものは、名目金利の影響も実質金利の影響もほとんど受けないであろう。また、モノの
 価格がほとんど変化しないときには、名目金利と実質金利はほとんど変わらない。
・消費者物価の下落率をデフレ率と呼ぶことにする。デフレ率は1931年から33年の
 はじめにかけて急上昇した。そのため、銀行貸出の名目金利は下がっているのにもかか
 わらず、実質金利は驚異的な率で上昇した。
・デフレで実質金利が上昇することは、借金の実質的負担が重くなったことを意味する。
 例えば、デフレで企業の生産したモノの価格が下がれば、同じ量を売っても売上高は減
 少する。売上高が減少すれば、借金の返済は困難になる。そこで、企業はより多くのモ
 ノを売って、売上高を増やして、借金を返さなければならなくなる。つまり、デフレに
 なると、デフレでないときよりも、より多くのモノを売らなければ、借金を返せなくな
 る。 
・デフレになると、家計の名目所得も減少するか、伸び悩む。家計の名目所得が減少して
 も、消費者物価の低下ほど減少しなければ、モノが安くなっているので、それほど生活
 に困らない。しかし、過去に住宅ローンを契約した家計は、デフレになっても、住宅ロ
 ーンの名目金利は変わらないが、名目所得が減少するため、住宅ローンの実質的な返済
 負担は重くなる。
・借金の実質的負担が重くなれば、家計や企業は消費や投資を抑制して、できるだけ早く
 借金を返済して借金の負担から逃れようとする。その結果、消費も投資も減少し、それ
 に応じて生産と雇用も減少し、景気は悪化する。
・消費と投資というモノに対する需要が減少すれば、さまざまなモノの平均的価格である
 消費者物価は下落し、デフレ率は上昇する。デフレ率が上昇すると、実質金利はいっそ
 う上昇する。そのため、消費と投資はさらに減少し、それがまたデフレ率を引き上げる。
 かくて、デフレ率の上昇→実質金利の上昇→消費と投資の減少→景気の悪化→デフレ率
 の上昇という循環が繰り返され、景気はどんどん悪くなる。
・デフレ不況下で、借金を返済できなくなる家計や企業が次第に増える。これは銀行から
 見れば、回収できない不良債権の増大である。不良債権の増大によって、銀行の純資産
 価格は減少する。1930年代初めには、まだ、預金保険制度はなかった。そのため、
 銀行の純資産価値の現象が知れわたると、銀行は取り付けにあって、たちまち、倒産し
 てしまった。
・銀行が倒産すれば、預金者は預金を失う。銀行から借りていた家計や企業は取引銀行が
 倒産すれば、他の銀行に対しては信用を確立していないため、どこの銀行からも借りら
 れなくなってしまう。そのため、借入先を失った家計や企業の中から破綻するものが続
 出する。
・資産価格の継続的低下(資産デフレ)と物価の継続的低下(デフレ)は、家計や農家や
 企業が大きな債務を負っていると、そのマイナスの効果が増幅される。資産デフレとデ
 フレによって、家計や農家や企業の純資産価値やそれらが持っている資産の担保価値が
 減少すると、借金は困難になる。貸し手は借り換えに応じなくなるため、借金のある家
 計・農家・企業は借金を返済するために、住宅や株式などの資産を売らなければならな
 くなる。こうした資産の換金売りが増えれば、資産価格は下落する。資産価格が低下す
 れば、純資産価格も減少するから、貸し手は借金の回収ができなくなるのを恐れて、さ
 らに返済を催促するようになる。借り手も返済が遅くなればなるほど、資産価格の下落
 より、借金の実質的負担が上昇するので、できるだけ早く資産を売って借金を返そうと
 する。そのため、資産価格は一層下落し、資産デフレは一層激しくなる。
・デフレと資産は借金の実質的負担を増大させ合いながら、デフレが資産デフレを激化さ
 せ、その激化した資産デフレがデフレを激化させる、というようにお互いに増幅効果を
 発揮し合う。そのため、経済はデフレと資産デフレの罠にハマってしまい、自力では抜
 け出せなくなってしまうのである。 
ルーズベルト大統領は大不況対策といえば、テネシー川流域開発公社の公共事業に代表
 される「ニューディール政策」が有名である。それは、こうした財政支出拡大政策は大
 不況対策としてどの程度の効果があっただろうか。確かに、ルーズベルト大統領の時代、
 財政支出は急増した。とくに、1934年は対前年比で49%も増大し、財政赤字も対
 前年比で倍増した。1938年まで、財政支出は1929年の2.5倍程度を維持した。
 こうした財政支出の拡大は景気を下支えする効果があったと考えられる。しかし、米国
 がデフレからの脱出に成功した後に、大不況を終焉させたのは、戦時の財政支出の増加
 ではなく、欧州からの金の流入の結果生じたノーマルな時期を大幅に上回る貨幣供給量
 の急速な増加であった。
・アメリカ経済は1938年に入って、インフレ率が鈍化し始め、同年半ば以降1939
 年11月まで、ふたたびデフレに陥ってしまい、実質金利が上昇した。こうした経済状
 況に陥ったのは、FRBが金融は十分すぎるほど緩和したと見て、1936年から37
 年にかけて貨幣供給量を減少させ、金利を上げて、金融引き締め政策に転じたからであ
 る。FRBは1938年に景気が悪化したため、この政策の誤りに気づいて、38年3
 月頃から、ふたたび金融緩和政策に転じ、その後、アメリカ経済はふたたび回復軌道に
 乗ったのである。
・1930年代の世界大恐慌では、金融を緩和すべき米国とフランスはともに、逆の金融
 引き締め政策を採った。米国のFRBは銀行破綻のリスクを回避するために、豊富な流
 動性を供給すべきであったが、それをせず、多数の銀行破綻とそれによるきわめて大き
 な信用収縮を招いた。
・それに対して、2007年から08年にかけての金融危機の際には、世界の中央銀行は
 大量の流動性対策と金融緩和政策を採用した。

昭和恐慌と高橋財政
・日本経済も1930年代の世界恐慌に巻き込まれ、30年と31年は大不況に陥った。
 この大不況は後に昭和恐慌と呼ばれる。しかし、日本は32年にはいち早く回復に向か
 った。この昭和恐慌の原因も金本位制であり、32年に不況から脱出した理由も金本位
 制の中止であった。この点で、昭和恐慌も30年代の他の国が経験した大不況と共通し
 ている。
井上蔵相は旧平価での金本位制復帰と同時に、国際収支の悪化を止めようとして、31
 年には、財政支出を大幅に削減するという超緊縮財政政策を強行した。井上蔵相は、貨
 幣供給量と超緊縮財政による総需要の大幅減少の結果、不況になれば輸入が減るから、
 国際収支の悪化を止めることができると考えたのである。総需要の急減によって、消費
 者物価の下落は30年と31年にはそれぞれ10%と11.5%に達した。実質経済成
 長率も30年には1%に、31年には0.4%と落ち込んでしまい、日本経済は、後に、
 昭和恐慌と呼ばれる急激なデフレ不況に見舞われた。
・デフレによる悲惨な影響を最も受けたのは農村であった。借金の返済のために娘を身売
 りさせなければならないという苦境に追い込まれた者も少なくなかった。
・このような農村の窮乏を、青年将校たちは農村出身の新兵を教育するうちにしることに
 なる。31年の3月事件にはじまる青年将校のクーデター参加、その後の一連の政治家
 暗殺事件の発生は、こうした青年将校たちの農村・農民への同情と正義感に基づくもの
 が多かったのである。財政を引き締めることによって不況をいっそう激化させた井上蔵
 相も、1932年2月に暗殺された。 
高橋是清は、金本位制の中止、すなわち金輸出再禁止と、緊縮財政の放棄、さらに赤字
 国債の日本銀行引き受けを実行し、後に「高橋財政」と呼ばれる新たな経済政策を実施
 した。
・高橋の金融緩和政策により、株価や地価が上昇したため、家計や農家や企業の純資産価
 値や土地担保価値が増大した。純資産価値と土地担保価値が増大したため、消費と投資
 が増加し、これらの需要の増加に応じて生産も急速に拡大した。金利の低下により、円
 安・外貨高になるため、輸出も増大した。
・高橋財政は高橋が暗殺されるまでに、昭和恐慌期の2年間で、27%も下落した物価水
 準をほほ昭和恐慌が始まる時点の水準まで戻すというリフレ政策に成功したのである。
・1935年7月に、高橋は「公債政策に関する声明」は発表して、このままに国債発行
 を続ければ、取り返しのつかないインフレになるとして、国債発行と歳出の削減方針を
 宣言した。高橋蔵相が2.26事件で暗殺されたのは、この宣言どおりになると、軍事
 予算が大幅に削減されると考えた一部将校の軍国主義のためである。高橋蔵相が暗殺さ
 れた後に蔵相に就任した馬場も、当初は高橋の意志を継ぐものであったが、税負担を嫌
 う財界の反対にあって、膨張し続ける軍事予算をまかなうために、日銀引き受けの国債
 発行を続ける方針に転換したのである。
・馬場財政になってからも、国債の日銀引き受けは続けられたから、国債発行の急増を受
 けて、貨幣供給量は大きく増大した。これに伴って、37年から40年にかけて物価上
 昇率は8%から20%台まで上昇した。しかし、インフレ率がこの程度ですんだのは、
 価格統制令によって、さまざまなモノの価格が人為的に抑制されたからである。戦後に
 なって、この価格統制令の効き目がなくなると、1947年にはインフレ率は125%
 にも達した。

日本の金融危機と「失われた10年」
・1992年から日本経済が不況に陥ったのは、1980年代半ば以降に発生したバブル
 が、1990年代に入って崩壊し、日本経済が激しい資産デフレに巻き込まれ、その後、
 デフレに陥ったからである。それでは1980年代半ば以降のバブルはどれほどの大き
 さだっただろうか。1980年1月の日経平均株価は約6700円だった。しかし、そ
 の後、株価は順調に上昇し、1986年に入ると、揚げ足を早め、1989年12月に
 は、なんと約3万8000円まで駆け上がった。1980年からの10年間で、5.7
 倍にもなったのである。これは年率19%の上昇に相当する。
・バブルは基礎的な経済的条件を欠いているにもかかわらず起きる現象であるから、いつ
 かは崩壊する。しかし、なぜ、1990年に入ってすぐ崩壊したのであろうか。それは、
 1989年5月以降、日本銀行が金融引締め政策に転じ、急速に、金利を引き上げたか
 らである。
・1989年5月以降、日銀が金融引締め政策に転換した公式の理由はインフレの防止で
 あった。その当時のインフレ率は1%以下で安定していた。インフレの気配がほとんど
 ないにもかかわらず、日銀はなぜ金融引締め政策に転換したのか。
・金融引締めの政策によって、バブルは崩壊した。しかし、バブル崩壊の景気に及ぼす影
 響を、当初、日銀も政府も甘く見ていた。日銀と政府がバブル崩壊の影響を見誤ったの
 は、バブル崩壊によって、日銀の目的通り、資産価値は下がるが、借金の負担は貸し手
 が借金を棒引きにしてくれない限り残り、貸し手が棒引きにすれば、今度は貸し手が巨
 額の損失を被ることを見逃したからである。すなわち、日銀はデット・デフレの怖さや
 資産デフレがデフレをもたらすというメカニズムを理解していなかったのである。
・バブル期に、企業、特に非製造業は借金をして、設備に盛んに投資した。さらに、それ
 にとどまらず、借金をして株式や土地を大量に買い込む企業が少なくなかった。株式や
 土地を大量に買ったのは、株価や地価がどんどん上がると信じきっていたからである。
・もう一つには、節税しようとしたからである。借金の利子は法人税課税上、法人所得か
 ら差し引くことができるから、借金の多い企業ほど法人税を納めずにすむ。企業は所得
 を増やして税金で取られるよりも、借金をして株式や土地を買って、納税額を減らしな
 がら、株式や土地の値上がり益の獲得を目指すほうが有利だと考えたのである。
・日本経済は、1991年からデフレ状態にあったが、1998年の大きなマイナス成長
(マイナス1・5%)で、すべての需要項目が総崩れしたため、消費者物価で見ても、デ
 フレになった。一般に、デフレが何をもたらすのかの理解が足りず、マスメディアでも、
 「デフレで物価が下がるのはなぜ悪い」という声が強かった。1980年代には、内外
 価格差が声高に指摘され、日本は諸外国に比べて物価が高いとしきりに批判されたから、
 デフレで物価が下がることを歓迎する人が多かったのである。
・デフレが望ましいのは、物価が下落するだけで、他の事情が変化しない限りにおいてで
 ある。ところが、この前提は成り立たず、デフレになれば、他の事情も変化する。デフ
 レではほとんどすべてのモノとサービスの価格が下がると、企業が同じモノやサービス
 を売っても、その売上高は減少する。しかし、借金の残高と利払いはデフレでも変わら
 ない。そのため、企業の利益は減少する。企業利益が減少すれば、企業にとって人件費
 が大きな負担になる。 
・企業はデフレで利益が減り、将来の利益も見込めなくなる一方で、借金の実質的負担が
 大きくなる(実質金利の上昇)ため、投資、とくに設備投資を控えるようになる。デフ
 レで物価が下がって喜んでいた人々も、まさか潰れるとは思っても見なかったような大
 きな企業が潰れ、その従業員が職を失うのを見て、雇用不安に陥る。実際に、1997
 年までは3%以下だった失業率はデフレになった1998年には4%台に上昇し、その
 後も上昇し続けて、2002年には5.4%に達するのである。
・雇用不安に陥れば、人々は消費を抑制して、まさかのときの蓄えを増やそうとする。投
 資と消費が減れば、モノに対する需要不足から、物価はいっそう下がり、デフレの効果
 が繰り返される。
・デフレになれば、借金の返済のための株式と土地の売却がそれらの価格下落に圧力を加
 える。それだけでなく、企業収益の減少を反映して株価が下がり、家賃の低下を反映し
 て地価も下がる。こうして、デフレはすでに起きている資産デフレに拍車をかけ、その
 ように拍車がかけられた資産デフレがさらに需要を冷え込ませて、物価の下落、すなわ
 ち、デフレを促進する。
・景気対策として、国債を発行して、財政支出を拡大したり、減税をしたりする場合には、
 同時に金融緩和政策を採用することが、その景気対策効果を高めるための不可欠の条件
 であることがわかる。1930年代のアメリカの大不況の際のルーズベルト大統領と昭
 和恐慌の際の高橋蔵相が採用した財政支出拡大政策は、ともに、同時に金融緩和政策を
 採用しており、一定の効果があったと考えられる。
・日銀は2001年3月になって、量的緩和政策を採用した。しかし、この量的緩和政策
 はデフレ予想を払拭し、インフレ予想を形成することはできなかった。それは、量的緩
 和策といいながら、貨幣供給量の基礎となるマネタリーベースの増加率が、量的緩和政
 策の5年間、年率12%でしか増えなかったからである。その結果、貨幣供給量は量的
 緩和期間中、わずか11%しか増えなかった。それに対して、アメリカが金本位制を中
 止した1933年3月から4年間と同じく高橋財政の4年間では、貨幣供給量の増加率
 はそれぞれ49%と34%に達したのである。
・デフレ不況から脱出するためには、日本銀行当座預金などの変数の絶対量も重要である
 が、その増加する勢いがいっそう重要である。日銀がデフレからの脱却に失敗したもう
 一つの要因は、日本経済が世界経済の好調に助けられて、ようやくデフレを脱却しかか
 った矢先に、量的緩和政策を解除してしまったことである。
・日銀がデフレからの脱却がはっきりしないうちに量的緩和を解除したのは、日銀には量
 的緩和政策やゼロ金利政策は異常の政策で、一日も早くやめたいという願望があるから
 である。いわば、この願望は日銀のDNAのようなもので、日銀は常に、利上げに前の
 めりになる傾向がある。 
・日銀が量的緩和政策を採っていた当時、FRBは日本の実質金利よりも低いマイナスの
 実質金利を採用していたのである。このFRBの政策のように、デフレに陥ったり、デ
 フレのリスクがある場合には、実質金利をマイナスにするのが正統的な金融政策である。
 1930年代の大恐慌からアメリカと日本が回復したのも、実質金利を大幅なマイナス
 にする金融緩和政策によるものだった。
・日銀が量的緩和やゼロ金利の解除に前のめりになりがちなもうひとつの理由は、市場に
 いつまでも低金利が続くと期待を抱かせると、バブルが起こるということである。
 日銀は2006年3月に量的緩和を解除するが、東京都心三区の商業地や高級住宅地で
 は、2005年の地価上昇率は20%から30%台に達した。そのため、当時、新聞や
 経済雑誌なども「ミニバブルではないか」と量的緩和を続けることに疑問を発し始めて
 いた。しかし、東京都区部で見れば、商業地3%、住宅地2.3%の緩やかな上昇に過
 ぎなかった。
・一方、株価は2005年の年初から年末にかけて40%と急騰した。しかし、それでも、
 株価水準自体は株価の長期下落から始まった2000年半ばの水準までやっと戻した程
 度であった。
・1930年代のアメリカや日本の大恐慌からの復活を見ればわかるように、経済がデフ
 レ不況にあえいでいるときには、この程度の株価の急騰があってはじめて、人々の間に
 デフレ収束とインフレ予想が芽生えるのである。デフレ期のこの程度の株価急騰をバブ
 ルだとして、金利を引き上げ始めれば、デフレ脱却の芽は潰されてしまう。

世界同時不況からどう脱出するか
・2008年秋からの世界同時不況の主たる要因は、アメリカの世界余剰生産物を飲み込
 む力が急減したことである。日本の成長は輸出を含めた海外売上高に大きく依存してい
 る。したがって、先進国と新興国・発展途上国が不況になれば、海外売上高も大きく減
 少し、日本も不況に陥ってしまう。
・昭和恐慌を含めて、1930年代の大不況からの脱出の経験が物語っているように、金
 融の超緩和が大不況から脱出するための不可欠の条件である。昭和恐慌期の高橋財政も
 1933年3月以降の米国のFRBも、国債を大量に購入して、貨幣を大幅に供給した。
 貨幣供給量は高橋財政期の4年間で34%増加した。1933年3月に金本位制を中止
 したアメリカでは、その後の4年間で貨幣供給量は49%増加した。それに対して、最
 後まで、デフレから脱却できなかった日本の「失われた10年」においては、ゼロ金利
 政策開始(1999年2月)からの4年間をとっても、「量的緩和政策」の5年間をと
 っても、そのあいだの貨幣供給量の増加はわずか11%に止まった。  
・戦後の日本では、財政法によって、日銀は国債引き受けを禁じられている。しかし、い
 ったん市場に向けて発行された国債であれば、日銀が購入することに制限はない。今回
 の世界同時不況から日本が一日も早く脱出するためには、日銀は2001年のように、
 国債の新規発行額の70%からそれ以上、場合によっては100%以上に相当する国債
 を市場から購入すべきであろう。短期国債の金利がほぼゼロ%になったときには、大量
 の長期国債買いオペによって、貨幣供給量を増やすことが不可欠である。
・日本では、日銀はもちろん、政治家やエコノミストの中にも、日銀による大量の国債買
 いオペに反対する人が少なくない。第一の反対論は、国債の日銀引き受けと実質同じよ
 うなことをすれば、財政支出拡大に歯止めが利かなくなるというものである。第二の反
 対論は、ハイパーインフレになるというものである。第三の反対論は、日銀が大量に国
 債を保有すると、国債価格が暴落したときの損失が膨大になるため、そのことを市場が
 予想して、日銀券(紙幣)の信用が低下する。というものである。仮に、日銀券の信用
 が低下すれば、人々は日銀券を持ったそばからモノに変えようとするであろうから、猛
 烈なインフレが起きるであろう。しかし、デフレがいっそう進行すると懸念され、2%
 から3%程度のインフレにするのに苦労している状況で、日銀券の信用低下を心配して、
 ひと月当たり50%以上といったハイパーインフレや円の外為替相場の暴落を心配する
 のは、まさに、点が落ちてくるのではないかと心配するようなものである。第四の反対
 論は、量的緩和やゼロ金利は短期金融市場の機能を低下させるというものである。第五
 の反対論は、ゼロ金利や量的緩和には効果がないというものである。
・1990年代のデフレ不況下にあって、日銀はゼロ金利政策や量的緩和政策を非伝統的
 金融政策として、一日も早く、それらの政策をやめたいという姿勢をとっていた。これ
 は自らが採った政策を自ら効果がないと、宣伝して回っているようなものであり、日銀
 とはおかしな組織である。
・大不況やデフレ不況は異常事態である。異常事態にあるのに、伝統的金融政策にこだわ
 るようでは、異常事態から脱出することはできない。異常事態には異例の、非伝統的金
 融政策が正常な金融政策になるのだ。
・金融政策の透明性と効果を高めるには、多くの国が採用して、高い実績を上げているイ
 ンフレ目標政策を採用することが強く望まれる。日銀はこれまでインフレ目標政策の採
 用をかたくなに拒否してきた。そのため、2006年3月に、日銀は人々のデフレ予想
 を覆して、穏やかな(2%〜3%)インフレ予想を形成することができないまま、量的
 緩和を解除してしまった。
・本来、金融政策の目標は政府が決定し、日銀にその目標を達成させるようにすべきであ
 る。その目標は、これまでの各国の金融政策の成果から判断して、1%〜3%程度のイ
 ンフレを中期的に維持するというインフレ目標が適切である。
・日銀には政府が設定したインフレ目標を達成する手段を選ぶ自由はあるが、達成する義
 務もある。中央銀行の独立性とは、本来、目標達成のための手段の選択に関する独立性
 であって、目標設定の独立性ではない。日本はこの点を取り違えて、日銀に金融手段の
 選択の独立性だけでなく、目標設定の独立性も与えてしまった。この点にそもそもの間
 違いがある。今からでも遅くはない。政府は日銀法を改正して、インフレ目標を設定す
 べきである。
・公共投資も何でも効果がないというわけではなく、東京圏の渋滞解消などの道路建設や
 羽田空港の機能強化のための投資などは、不況対策としてだけでなく、日本経済の生産
 性を高めるためにも有益であろう。
・世界同時不況の長さと深さは、アメリカ経済と中国経済の回復速度に大きく依存すると
 考える。アメリカ経済の世界経済における位置はきわめて大きい。そのアメリカ経済の
 収縮が大きいほど、世界経済が被る痛みも大きくなる。
・一方、中国経済をはじめとする新興国・発展途上国の成長は始まったばかりであり、そ
 の潜在成長力はきわめて大きい。潜在成長力が高く、金融危機の損失も比較的小さいア
 ジアを中心とする新興国が、今後しばらくは世界経済を支えることになりそうである。
・バブルであるかどうかを中央銀行が判断するのは難しい。そもそも、バブルは経済の基
 礎的条件からは説明できない現象である。それに対して、金融政策は経済の基礎的条件
 を決定するものである。したがって、経済の基礎的条件を決定すべき金融政策を、経済
 の基礎的条件からかけ離れて起きるバブルに合わせて変化させることは、本末転倒して
 いる。
・世界各国が採用しているインフレ目標政策では、バブルの疑いがあっても、資産価格の
 上昇が原因でインフレ率が中期的に目標上限を超えてしまうリスクが小さいとみられる
 限り、資産価格を引き下げるための金融引締め政策は採用されない。それは、将来のイ
 ンフレ率が1〜3%程度にとどまると予想される状況で、資産価格が高騰したからとい
 って、バブル予防またはバブル退治を目的に、金融を引き締めれば、かえって、資産価
 格の暴落による金融危機と厳しい景気後退を招く可能性が小さくないからである。
 1980年代の終わりから1990年代の初めにかけての日本経済の金融政策は、その
 ことを示す典型的な事例である。