東條英機の親友 駐独大使 大島浩   :中川雅普
         (闇に葬られた外交情報戦のエキスパート)

この本は、いまから10年前の2014年に刊行されたものだ。
昭和の歴史において、日本の大きな分岐点となったには「日独伊三国軍事同盟の締結」で
あったとよく言われる。
この軍事同盟締結によって、日本はもはや後戻りできない状況に陥ってしまった。
日本は、破滅への道を選択したと言えるだろう。
そして、この「日独伊三国軍事同盟締結」をリードしたのが駐独全権大使の「大島浩」だ
った。
私は以前から大島浩に興味を持っており、大島浩を取り上げた本を探していたら、この本
が見つかったので読んでみた。
大島浩の歴史的な評価としては、「親独派・親ナチス的な外交官」と批判的なものが多い。
しかし、この本では、別の側面から大島浩の再評価が試みられている。
ただ、あまりに偏向した見方をしていて、「はぁ?」と思える部分もかなりあったのは否
定できない。
これほどまでに大島浩に肩入れするこの本の著者は、大島浩とはどのような関係なのだろ
うかと訝しく感じた。

過去に読んだ関連する本:
パール判事の日本無罪論
再考「世紀の遺書」と東京裁判
独ソ戦 絶滅戦争の惨禍
ノモンハンの夏
石原莞爾 マッサーサーが一番恐れた日本人
永田鉄山 昭和陸軍「運命の男」
東條英機 「独裁者」を演じた男
ヒトラー最後の日


はじめに
・「駐独大使大島浩」といえば、「ヒトラーナチスの追従者」「暗号を解読され、連合軍
 に有利な情報を与え続けた人物」で片付けられがちなのは否定できない。
・では、大島が通説通りであれば、なぜ、最後まで「特命全権」として、日独政府に新任
 されていたのか。なぜ、外交・情報戦に通じた人物が「ドイツ軍有利」の電報を打ち続
 けたのか。疑問が尽きない。
・そこで、大島浩の通説を再検証していくと、「鈴木健二」、「ピーター・パレット」ら
 の主張は、いずれも「陸軍悪玉説、戦勝国史観」で、大島ドイツ一辺倒を前提に、
 「つじつま合わせ」に終始していることに気づかされる。
・まず、日本が地政学的に、米ソの圧力から脱するためには、ソ連を牽制しながら、アメ
 リカ参戦を阻止する必要があり、その絶対条件として、日独連携による「ソ連封じ込め」
 があった。  
 そのため新独政策は、大島、陸軍首脳はいうまでもなく、当時、マスコミから情報を得
 ていた日本国民の共通認識であったことを申し上げたい。
・そして、大島の尽力で三国同盟が無図バレ、はたして、彼の読み通り、ソ連は、日独に
 よる包囲を恐れ、日ソ中立条約に応じ、対日参戦を遅らせ、日本は、北方領土を失った
 ものの、「米ソによる日本分割」という最悪の事態が回避できたのは、疑うべくもない。
・さらに、大島・関東軍が主張した「北進論」で、日独連携によりソ連を短期打倒してお
 けば、アメリカは、対日暗線を少なくとも延期するか、勢力均衡による共存路線を選択
 したに違いない。  
・また、大島は、武官時代、ドイツ要人の親日化工作や各国のスパイが暗躍するウィーン
 での情報活動で、頭角を現した「外交・情報のエキスパート」であったことも見逃せな
 い。
 ミッドウェー敗戦後、大島ら情報関係者の間では、軍事電報が解読され始めたのではと、
 疑問に思う者が増え始めた。
・それで、大島は、終戦に近づいても、北欧と南欧のドイツ軍健在の事実を踏まえ、あえ
 て「ドイツ軍有利の電報」打ち続けた。
 その目的は、「対独線に連合軍の主力をはりつけ、日本の防衛を固めるとともに、一触
 即発にある米英主力とソ連の衝突誘発のため」であったのだ。
・日本政府、陸軍中央は、特命全権大使大島の判断を信頼し、外務省の電報は握りつぶし
 た。 
 はたして大島の予想通り、連合軍は、「大島電報」に振り回され対独戦の兵力は動かせ
 ず、5月8日ドイツ降伏後、ソ連が対日参戦する8月9日まで、3カ月間、陸軍は対ソ
 防衛を固めることができたのである。
・一方、山本五十六ら海軍首脳は、「三国同盟は日米開戦につながる」という短絡的とも
 いえる思考にとらわれ、「日独連携で、ソ連を短期的打倒すれば、対米参戦を回避でき
 る」という大局が理解できず、結果的には、日本を、そしてドイツを対米開戦に引き込
 み、日本に二重の足かせを強いたのである。
 つまり、国軍を賭けた「パールハーバー」、「ミッドウェー」両作戦においても、南雲
 忠一
中将は、状況判断を誤り、山本五十六大将も現場に口出ししない「海軍伝統の官僚
 主義」に流され、日本敗北の主因をつくっている。
・大島は、これまで日本が招いた独ソ不可侵条約、パールハーバーによるドイツの対米参
 戦などっで、日独間の外交摩擦が起こるたび、大局で国益を考え、ドイツをつなぎとめ
 るべく奔走していたのである。
 日本陸軍に、優れた戦略家・人望家はあまたいるが、類まれな外交能力を駆使し、世界
 的戦略で米ソによる日本分割を阻止した人物は、大島浩以外存在しないのではないだろ
 うか。 

駐独武官への道
・1940年9月、事実上、米ソ権牽制を目的とする「日独伊三国軍事同盟」が、ついに
 締結された。
 そして・・・ある一人の外交官の働きで、世界が大きく変わろうとしていた。
 この三国軍事同盟の立役者こそ、大島浩であった。
 大島は同盟締結の功績を買われ、再び、「特命全権駐独大使」に返り咲いた。
 実は、大島のドイツ大使再任には、ヒトラー個人の強い要望があった。
・大島は、1886年4月、陸軍軍人「大島健一」(後の陸軍中将で、陸軍大臣)の長男
 として誕生した。
・大島浩を語るうえで、どうしても見落とせないのは、父・大島健一の存在である。
 健一は、第一次世界大戦後、「ドイツは終わった」という風潮の中、ただ一人、ドイツ
 の再生を信じ、日独連携強化による国家存続の重要性を洞察していた。
 「ドイツは不死鳥なり」
 ヒトラー・ナチスによる国家再建、そして半世紀後の三国軍事同盟による「米ソによる
 日本分割阻止」を考えると、驚くべき卓見であった。
 彼は、浩に徹底した「ドイツ主義」を学ばせるが、さすがに三国同盟の立役者が自分の
 長男になるとは、予想だにしなかったであろう。
・大島浩は、将来の道に選択の余地はなかった。エリート軍人である。
 常にドイツ語を学ばされ、休日はドイツ人家庭に預けられた。
 いつの間には、ドイツ人と一緒にいるときが多くなった。
・大島は、1899年9月、最年少の13歳で、東京市ヶ谷の「東京陸軍地方幼年学校」
 へ進んだ。
 実は、同期に東條英機がいたのだ。二人は妙に気が合った。
 偶然だが、彼の父、東條英教も陸軍中将になり、「反長州閥」という共通点があった。
 1913年1月、ともに「陸軍大学校」に合格した。
 ちなみに、大島が陸士恩賜組卒業で陸大にストレート合格に対し、東條は陸幼ビリ尻、
 陸士上位卒、陸大は3度目の挑戦だった。
 その後、彼らは、ドイツ赴任、参謀本部勤務と常に一緒になり、友好を深めていく。
 彼らの共通点は、発想の原点が従来の慣習・常識にとらわれないことだった。
・日本は1914年、第一次世界大戦が勃発すると、千歳一遇のチャンスとばかり、本来、
 ロシアの備えた「日英同盟」を大義名分として、イギリスの敵対国ドイツに宣戦布告し
 た。 
 大島は、重砲連隊の小隊長として出兵を命じられた。初陣であった。
 大島は、ドイツの戦いに戸惑いを感じたが、3カ月間、奮戦し、勲六等単光旭日章を授
 けられた。
・この戦いは、大島の人生に大きな影響を与えた。
 これまでは、「桂太郎」によるドイツ主義の陸軍の中にあって、大島は、ドイツを親近
 感・利害関係でしか見てこなかったが、この戦いでは、「敬意と同時に深い感傷」を禁
 じ得なかった。
・ドイツは、全世界を敵に回しながらも、連合軍と最後まで互角に渡り合い、孤軍奮闘し
 たが敗れ去ったからだ。
 なお、戦後、ドイツ軍捕虜たちは、最大の礼儀を尽くして扱われ、その行為は「東洋の
 騎士道精神」として、ドイツはいうまでもなく、欧米から高い賛辞を得ている。
・後日、固定化していく大島のドイツ崇拝は、ドイツ主義の陸軍で、彼がドイツ語・ドイ
 ツ研究にずば抜けていたため、周囲から妬みと親しみで「ドイツかぶれ」と言われてい
 たからにすぎない。 
・この青島攻略戦には、「フィリードリッヒ・ハック」博士がいた。
 彼は、満鉄総裁・「後藤新平」のもとで、南満州鉄道顧問をしていたが、第一次世界大
 戦が始まると、愛国心でドイツ義勇軍に志願、敗れて捕虜になっていた。
 ところが、ハックは仲間の捕虜逃亡を手助けし、銃殺刑となるはずが、突然釈放された。
 彼を助けたのが、大島の父・当時「陸軍大臣・大島健一」であった。
 そして、このハックこそ、後に駐独武官大島を「ヒトラーのある側近」に引き合わせる
 ことになるのである。
・大島は、エリート軍人としてはなぜか31歳まで独身だった。
 ところが、1917年、ついに結婚相手に巡り合った。
 相手は、元子爵で東京市長「田尻稲次郎」の末の愛娘、当時17歳の「豊子」であった。
 一回り以上も若い、美貌で、控えめだが、明るく芯が強い女性であった。
 豊子は、大島の人柄に強く魅かれた。
 しかし、結婚後、大島夫婦は子供に恵まれなかった。
 この時代、子供ができない場合、離縁も普通に認められていた。
 だが、大島は、逆にそのぶん、いっそう豊子がいとおしく、彼女一人を終生愛し、「お
 しどり夫婦」として評判になる。
 子ができない私をこんなに愛してくれる。
 20歳にも満たない豊子は、けなげにも、この人と生死を共にすると秘かに決心した。
・ウィーンからの時刻前、1923年2月、大島はある新聞記事に釘付けになった。
 新聞には、ヒトラーの「ミュンヘン裁判」特集が組んであった。
 ヒトラーは、1923年のフランスによるルール占領に抗議できない政府に対し、クー
 デターを起こし、裁判にかけられた。
 「ルーデンドルフ」以下、首謀者が皆無罪を主張するなか、ヒトラーただ一人、罪を認
 め、言い放った。
 「自分は有罪である。ドイツ人として、ヴェルサイユ体制からドイツを救うために、無
 力だからだ!」 
・感激した裁判長は、ヒトラーに思う存分発言する機会を与えた。
 ヒトラーは、ジャスチャーを交え、力強く、理路整然と、ヴェルサイユ体制の不当性と
 それに対する政府の弱腰を糾弾していった。
 そして、演説が終わった瞬間、感動の嵐が、裁判官を含め、満場の傍聴人の間に吹き荒
 れた。 
 その場にいた人びとの「ブラーヴォ!」の声援が鳴りやまない。
 連日、どの新聞も、ヒトラーの愛国心とその「弁才」を称賛していた。
 以後、彼は、クーデターではなく、合法的選挙によって政権奪取に方向転換する。
 大島は、この記事に激しく心を揺さぶられた。
 なぜか興奮が収まらない。
 もしかすると、ヒトラーこそ新しいドイツのリーダーになるかもしれない。
 ヒトラーのことが脳裏から離れないまま、アメリカ経由でなつかしい日本に帰って来た。
・大島は、帰国後、すぐ、大衆の支持を拡大しつつあったヒトラー率いるナチスの動向の
 研究を始めた。 
 この時期、日本は大正デモクラシー、ワシントン会議・ロンドン軍縮会議で平和ムード
 であった。
 ところが、次第に不況が深刻化し、1923年の関東大震災、そして政界腐敗に、政治
 家たちは無為無策で、国民は次第に陸軍を支持するようになっていった。
・1929年10月、ニューヨークの証券取引所で株価が大暴落した。
 世界の債券国発アメリカの恐慌は、全世界に吹き荒れ、「世界大恐慌」を引き起こした。
 恐慌は、情け容赦なくドイツを襲い、アメリカ資本の引き揚げとともに、破滅の淵へと
 追い込んだのだ。 
 銀行や有力企業はつぎつぎと倒産し、経済は破綻した。
 ドイツ中、いたるところ、職と食料を求める人々であふれかえった。
 仁幸6900万人のうち、失業者は600万に達した。
・小雪が舞う中で、一人の青年が、右手をふりかざし、熱弁をふるっていた。
 何か、人を魅了する不思議なオーラを放っていた。
 「今日のドイツの貧困の原因は、一体どこにあるのか!ヴェルサイユ体制を受け入れて
 いる軟弱政府にあるのだ。目覚めよドイツ!我が愛するドイツ!」
 人びとは、寒さの中、彼の一語一句、うなずきながら熱心に聞いていた。
 人びとは、演説の間、苦しみから解き放たれ、夢と希望に包まれた。差幣や貧困を忘れ
 ることができた。
 彼らは、かつて、「ミュンヘン裁判」で熱弁をふるったその青年に、理想のリーダーと
 しての姿を見出していた。 

・当時、陸軍は、空前の世界恐慌を前に、政界腐敗に暮れる政治家に代わって、国民の代
 弁者として、次第に政治に干渉し始める。
 陸軍内も派閥闘争が激化し、皇道派と統制派が衝突していた。
 こうしたなかで、政治に関心を持ち、処世術に長けた東條英機は、出世と左遷を重ねな
 がら、着実に地盤を固めていった。
・なお、東條の国家大改造の密談は、1921年10月、南ドイツでの「バーデン・バー
 デン会談
」があげられる。 
 メンバーは「岡村寧次」、スイス公使付武官「永山鉄山」、ロシア大使館付武官「小畑
 俊四郎
」であった。
・さて、このころ、陸軍は、慢性的な経済不況、政界腐敗の国内矛盾を解決すべく、中国
 侵略を本格化させていった。
 だが、中国に足場を築くには、対ソ防衛ラインとして、どうしても満州が必要であった。
 一方、国民の間でも、次第に「反ソ・反米感情」が広がり始めた。
・9月、ついに関東軍が動いた。「満州事変」が勃発し、関東軍は、独断専行・政府追認
 で約半年で、中国全土の6分の1を占める満州占領を果たした。

・ついに、1933年1月、ヒトラー・ナチスが政権入りを果たした。
・当時、参謀本部の関心は、極東ソ連軍の拡大にあり、本格的に「対ソ戦」の検討に入っ
 た。 
 同時に地政学上、ソ連挟み撃ちの同盟国の可能性として、新興ナチス・ドイツへの関心
 が高まっていた。
・参謀本部のだれもが、「対ソ牽制のため、ドイツへの接近、できれば同盟国関係樹立」
 を模索し始めていた。
 では、一体、誰をドイツに派遣するか。
 ドイツ中枢に人脈を築き、新日化工作を進めることができる「国家の存亡にかかわる大
 任」を任せる人物である。
・「あの男がいるではないか。あの男が」と誰かが言うと、皆がすぐ賛同した。
 当の大島浩は、外交経験不足を理由に固辞した。
 東條が言った。
 「まあまあ、他に任せられる人材がいないのだ。考えてくれないか」
・早速、外務省の元駐独大使「小幡酉吉」が、千変万化する報酬情勢を理由に、意義を唱
 えてきた。
 だが、陸軍は折れず、参謀総長「載仁親王」の要請により、父・健一が、大島の説得に
 あたり、ようやく承諾させた。
・実は、大島派遣の背景には、外交の最重要ポストをめぐる「陸軍と外務省の主導権争い」
 が絡んでいたのだ。

外交戦 その1
・だが、大島は、自分の想像とはかけ離れた「ナチスドイツの実状」に直面することにな
 る。
 ナチスドイツは外見とは違い、周辺諸国からの外圧以外に、「深刻な国内問題」を抱え
 ていた。
・大島が後に親交を深める「ヒトラーの実情」とは一体、どんなものだったのだろうか。
 「ヒトラーは、何か不思議なオーラに包まれていた。
 彼の心中には、失敗と挫折に終始した青少年時代の鬱屈した不満がみなぎっていた。
 ヒトラーは孤独で潔癖症であった。
 しかも、禁酒、禁煙、菜食主義であり、何より華美をきらった。
 そして、思索・思弁を好み、自分の空間に人が立ち入るのを嫌った。
 これらは彼の信念と禁欲的生活習慣によるものであるが、後に不幸な結果を招くように
 なる。
 彼には一人の友人もいない。
 古くからの党の同志も、単なる追随者であって友人ではなかった。
 彼は唯一の愛人といわれるエヴァ・ブラウンにも深い愛情を抱けなかった。
 彼と真の友好関係を結んだ者はいないし、逆に心を託し得た者もいなかったのである。
 彼には子どもがいない。
 およそ人間的な生活に不可欠な紳士的友情、夫人に対する純愛、わが子に対する愛情と
 いったものは、彼にとっては無縁の存在であった。
 ヒトラーはたったひとりで、どいつ千年帝国安泰の土台づくりという、途方もない計画
 に没頭していたのである」
・なお、ヒトラーの政策研究は、『我が闘争』に求められがちだが、彼の考え、行動は、
 「変幻自在」で全く予測不可能であった。
 『我が闘争』は、あくまでも1920年代のヴェルサイユ圧政下のヒトラーの見識を述
 べたもので、その総合的な政策分析には適さない。
 また、「ヒトラーユダヤ人説」、「ゲリ・ラウバル愛人説」は、1930年代ナチスが
 急躍進した際、政敵が流したうわさに起因している。
・当時、人々は、庶民的でリーダーシップを発揮するヒトラーには親近感を抱いたが、
 現代のわれわれ同様、体制については、時には同調し、時には批判をしていた。
 体制側も、合法的選挙で成立した体制を維持するため、イデオロギーを伴う組織的抵抗
 には徹底的な弾圧を加えたが、一般大衆に対しては、「確実で詳しい世論調査を各方面
 にわたって絶えず繰り返し行い、政策の調整に努めようとしていた」
 つまり、ナチス体制は、一般大衆とは、なれ合い所帯だったのである。
・また、現在の国民の生活水準を維持するためには、東欧に広大な領土を確保し、ドイツ
 民族を植民し、自給自足を確立する「生活圏」が不可欠であった。
 ヒトラーの野望は、ただ一つ、ヨーロッパの穀倉地帯「ウクライナ」の奪取であった。
 ウクライナこそ、将来のドイツの生命線であった。
 ウクライナは18世紀末、ドイツ貴族の娘エカテリーナがロシア皇帝ピョートル3世に
 嫁いだ際、ドイツ人を入植させ開拓した地域であり、すでに各地にドイツ人のテリトリ
 ーができ上っていた。
 ヒトラーは、民族自決主義を拡大解釈して、ウクライナをドイツに編入させ、ドイツの
 侵略を正当化しようとする魂胆があった。 
・当時のドイツは、民衆のヒトラーへの支持と、全土に張りめぐらされた警察・治安網で
 存続していたにすぎず、常に「外圧」とユンカーの伝統が残る陸軍将官団とヒトラーの
 「協調、対立関係」で、不安定な状況にあったのである。
・ヒトラーは、国家の存亡にかかわる「軍備平等権」がジュネーブ軍縮会議でみとめられ
 ないため、国際連盟を脱退する。
 1933年、ドイツは、正面のフランスの約35マン人と周辺諸国の兵力に対し、ヴェ
 ルサイユ条約で、陸軍10万人、海軍1万5000人に制限され、戦車、航空機、潜水
 艦の保有は禁止されていた。
・文献は、ヒトラーは、権謀術数で、大島を利用したかのように、叙述される傾向がある
 が、これは、「ナチス体制の限界」の認識不足といわざるを得ない。
 当時のヒトラーは、英仏の外圧に加え、国内では、プロセイン貴族将官団と協調・対立
 関係にあり、まだ、政権転覆の可能性があった。
 このような状況のヒトラーと対ソ牽制の日独同盟工作を担っている大島は、相互の生
 存のため、「協調関係強化を絶対条件」であった。
・ヒトラーが大島を信頼したのは、日独生存のためには「参戦条項付の日独軍事同盟が絶
 対条件で、そのためにはいかなる反対者排除もやむなし」との信念が、微動だにしない
 ことを見抜いていたからである。
・1934年6月、政権樹立1年目にして、「ユルウス・ユング・フォン・パーペン」と
 陸軍首脳の「ヒトラー排除計画」が発覚した。
 国内の福祉・雇用問題を解決し、失地回復に全力を挙げていたヒトラーにとっては、
 まさに寝耳に水であった。
 しかし、陸軍少将で国防軍軍務局長の「ヴァルター・フォン・ライヒェナウ」が、
 「ヒムラ―」、「ハイドリヒ」に通報し、ヒトラーを救った。
・やがて、大島のうわさを聞きつけ、日本陸海軍向けブローカーをしていた「ブリードリ
 ッヒ・ハック
」と名乗る者が現れた。
 ハックは興奮を隠しきれず、まるで兄弟であるかのように大島を見て、手を差し出した。
 「実は、あなたの父上に命を救われているのです!」
 ハックからそのいきさつを聞くと、大島は驚いた。
 なんと不思議な運命のめぐり合わせが。
 この不思議な縁はこれだけではすまない。
・大島健一に救われたハックは、第一次世界大戦後、ドイツに帰り、クルップ社に入った。 
 その後、クルップ社の同僚のシンチンガーと共同で「シンチンガー・ハック社を立ち上
 げた。」
 その一方で、1934年、日本海軍のドイツ友好親善訪問、日独協会や日独芸術研究機
 関を設立し、日独親善に尽力していた。
・実は、このシンチンガーも父・大島健一のドイツ留学時代、同じ部隊で勤務し、親友同
 士であったのだ。 
 そして、シンチンガーは日本の女優と結婚し、少佐で退役、クルップに入社、同社東京
 支社長として来日、大島家とは家族ぐるみの付き合いをしていた。
・このシンチンガーの家庭こそ、大島浩が少年時代の預けられたドイツ人家庭だったので
 ある。 
・その後、1935年初頭、ハックは、大島をヒトラー側近の対外政策顧問の「リッペン
 トロップ
」に引き合わせるのである。
・駐在武官・大島が、最初に目をつけたのが、「ハインツ・グデーリアン」である。
 大島が、彼に接近し始めたのは、リッペントロップとほぼ同時期と考えられる。
・グデーリアンこそ、その後、緒戦でドイツを勝利に導き、現代戦術にも引き継がれる
 「電撃戦」の立案者である。
 当初、グデーリアンは、あまりに先進的戦術思想を持っていたため、陸大同期のマンシ
 ュタインが参謀本部を歩んだのに対し、地方の師団で通信科にかろうじて甘んじていた。
 その後、クンマードルフで、初めてヒトラーに才能を見出され、軍の近代化に当たって
 いたのだ。
・当時の駐独大使は「武者小路公共」であるが、1935年7月に一時帰国し、「井上庚
 二郎
」参事官が代理大使を務めていた。
 だが、大島は、彼を無視、突然の「若松只一」中佐のベルリン訪問の「目的」さえ伝え
 なかった。
 1936年1月、井上代理大使が、ドイツの新聞記者からこの件を聞き、大島に問いた
 だすと、まず統帥権を楯に突っぱねた。
 その後、大島は、後戻りできない頃を見計らい、「対ソ同盟」を示唆する文書を井上に
 提出した。
 当惑した井上は直ちに暗号で、外務省に打電した。
・欧亜局第2課長の山路章からこのことの次第を聞いた同局長「東郷茂徳」は激怒し、
 「川島義之」陸相に抗議した。
・川島は若松を東郷へ釈明に行かせたが、それに満足せず、大島に近い書記官「内田藤雄
 に大島の行動を問いただしたが、あいまいな返事しか返ってこなかった。
 その後、ソ連から大島とリッペントロップの秘密交渉を聞くと、ついに怒りが頂点に達
 した。
・ところが、事態が急変していたのだ。
 新外相「有田八郎」は、大島の日独連携案に賛成にまわったのである。
 その背景には、ソ連が、1936年4月、外蒙古と相互援助条約を発表し、「ソ蒙一心
 同体」宣言を発したことがあった。
 ついに、4月、大島は、有田から直接、「日独連携は、武者小路大使と寺内陸相の了解
 あり」との手紙を受け取り、リッペントロップ同様、障害がなくなった。
・1936年8月、「広田弘毅」内閣は、「帝国外交方針」を決定した。  
 その目的は、外務省、陸海軍協調による「外交一元化」であった。
 結果的には、軍部の外交権への干渉を認めることになる。
・1936年11月、日独防共協定の調印式が行われた。
 案の定、ソ連の反発は大きく、日ソ漁業協定・北樺太の石油石炭採掘権承認の破棄、日
 本領事館閉鎖に加え、極東ソ連軍は増強され、国境紛争が激化していった。
・当初、防共協定締結の目的は、ドイツは中央の失地回復のための対英牽制にあり、日本
 は中国を助け、播州国への脅威、ソ連の圧力排除にあった。  
 だが、地政学的に日独生存を図るには、両国の間に横たわる米ソ牽制が不可欠で、防共
 協定が将来の日独軍事同盟への布石であることは、明々白々であった。
・大島はさらに、「スターリン暗殺計画」という大胆不敵なプランを抱いていたようだ。
 彼は参謀本部から「諜報専門武官」の「馬奈木敬信」大佐と白井茂樹中佐を呼び寄せた。
 馬奈木をその計画の責任者、山本中佐、樋口少佐を補佐、トルコ語に堪能な日本人とド
 イツ人と白系ロシア人女性をスタッフとして構成され、その存在は大使館館員さえ知ら
 されなかった。 
・ところが、この計画は当初からソ連当局に漏れていた。
 まず数人が国境の検問に引っかかり、射殺された。
 また一人の日本人工作員は、新独的なアフガニスタンで活動していたが、国家転覆の容
 疑で国外追放された。 
 結局、スターリン暗殺計画は、二重スパイであったスタッフのロシア女性により頓挫し
 た。
・大島は、早急に証拠隠滅を図った。
 ウィーンでの峻烈なスパイ戦を経験した大島は、情が命取りになることを熟知していた。
 彼女は尋問後射殺された。
 驚くことに、馬奈木の愛人だったようだ。
 大島は激怒し、馬奈木に自決を迫ろうとしたが、今回は見逃すことにした。
・1936年6月、対英親善のため、「吉田茂」が駐英大使として就任した。
 だが、ひとり頑なに日独協定に反対する吉田に、業を煮やした陸軍参謀本郡は、知英派
 の「辰巳栄一」中佐は派遣し、吉田の説得にあたらせたが、弁舌に長けた吉田の相手で
 はなかった。
 辰巳から事情を聞いた大島は、早速、テングロブナーの大使公邸で、会談することにな
 った。
 まず、大島が話を切り出した。
 「ソ連のコミンテルンが世界革命を目的と死、各国の政府・社会組織の破壊を企ててい
 る。それが世界平和を脅かしていることは、スペイン内乱が証明している通りある。
 コミンテルンに対抗するには、国際的協力の防共協定が必要である。この協定は、政治
 協定ではなく、イデオロギー協定である以上、イギリスも参加可能だ」
 大島は、静から動にジャスチャーを交えながら熱弁をふるった。
 吉田には、まるでヒトラーの演説を聞いているように見えた。
 しかし、吉田も、負けじとばかり、ブルドッグのように食い下がった。
 「防共協定はイデオロギー協定というが、国際条約には政治的・軍事的側面を持つもの
 だ。この協定を締結すれば、日本は必ず、欧州の大戦に巻き込まれる危険がある」
 と譲らず、激論は3時間に及んだ。
・皮肉なことに、吉田の主張とは逆に、日本の対米参戦で、戦火拡大に巻き込まれたのは、
 日本ではなく、ドイツになる。
・1937年、「盧溝橋事件」が勃発し、日中全面戦争に拡大すると、国際連盟は日本を
 非難した。  
 一方、日本陸軍は、泥沼化していく日中戦争で、中国を助け満州の脅威であるソ連はな
 んとしても排除されなければならず、日々増強されるソ連軍は、日本を脅かすまでにな
 っていた。
・1937年8月、大島は英仏の脅威を示唆しながらリッペントロップに半ば強引に迫っ
 た。
 「防共協定を機に、日独共同で中国市場をかいはつしてはいかがかな。それと、例の対
 中援助を中止しなければ、日本が防共協定脱退となる事態を招くかもしれないが」
 さすがにリッペントロップは、譲歩し、対中援助打ち切りを約束した。
 すると今度は、リッペントロップが日独防協定は「第三国の勧誘」を要件としていたこ
 とを口実に、大島に日伊協定を日独伊三国協定に発展させようと切り返してきた。
 大島は、一息ついて、ゆっくりとうなずいた。
・すると、1937年10月、リッペントロップはすぐさまローマに出向き、ムッソリー
 ニ、「堀田正昭」駐伊大使を説得し、日本政府追認で、11月、「日独伊防共協定」が
 成立した。まさに電光石火であった。
 防共協定でイギリスを刺激させたくない「日本外務省方針」は骨抜きになり、代わって
 大島が陸軍中央の後押しで、対ソ牽制の軍事同盟を推進していくことになる。

外交戦 その2
・この頃には、リッペントロップ外相と大島は、お互いに本音で語り合い、感情をストレ
 ートにぶつけ合うほどの親友になっていた。
 に日独交渉は、東郷大使を無視して、遠慮なく二人で進められた、
・リッペントロップ、個人的な意見だがと前置きして、ポケットから1枚のメモを取り出
 した。
 これこそまさに、大島、いや日本陸軍が日露戦争から抱いていた同盟案であったのだ。
 さて、この最高機密の本国照会の死者だが。大島が目をつけたのは、ソ連通で、対ソ謀
 略の経験を持つ「笠原幸雄」陸軍少将だった。
 彼は、結局、内定していた駐独武官にならず「日独の連絡員」として活躍することにな
 る。
・8月、東京に着いた笠原幸雄は、陸軍参謀次長「多田駿」、陸相「板垣征四郎」、陸軍
 次官「東條英機」、軍務局長「町尻量基」に、「密書」の内容を報告した。
 皆が、固唾を飲んで密書を回し読みした。
 打診を予想していた東條は、ひとり満悦であった。
 陸軍次官に就任して以来、次第に発言権を強め始めた東條は、皆を見回して言った。
 「今般、千変万化の世界情勢を鑑みるに、三国軍事同盟は、必ず国家の根幹をなすもの
 となろう。我らは万難を排し、全力で大島支持に当たるべくものと考える」
 一同が賛同の気勢をあげた。
・2日後、笠原は、ことの重大さに、嫁兄である「宇垣一成」外務大臣に内容を伝え、
 堅く口封じをした。宇垣の顔色がさっと変わった。
・確かに、外務省・海軍は日独軍事同盟には、断固反対の姿勢であったが、若手実力者た
 ちは、むしろ上層部を無視して、陸軍に賛同し、日独軍事同盟に急傾斜していった。
・外務省では、後のイタリア全権大使になる「白鳥敏夫」ら急進派は「対英米追従「外交
 断固反対、自主外交確立」と公言してはばからなかった。
 「牛馬信彦」ら8人は、宇垣一成外相私邸におしかけ、「人事一新、白鳥を外務次官に
 すべし」と詰め寄った。
 海軍内でも、青年士官は血気にはやり、口々に日独軍事同盟推進を叫んでいた。
・陸軍と外務省の解釈のズレは、大島独走の傾向を招くことになる。
・大島は、参謀本部との意思疎通を確認するため、笠原をベルリンに派遣してもらい、
 再度、陸軍と意向の調整を図った。
 もはや、大島には東郷大使は眼中になかった。
 ドイツ外務省へ直接出かけ、リッペントロップに、陸軍の要望を「日本政府の要望」と
 して伝えた。
・いっぽう、外務省は、駐在武官にすぎない大島が、東郷茂徳大使を無視して、国運に影
 響する同盟交渉を進めていることへの危機感を強めていた。
 外務省東亜第2課長「山田芳太郎」は、部下の「与謝野秀」から「大島・リッペントロ
 ップ交渉」の件を聞いて驚いた。
 軍務局長影佐禎信から約束を反故にして、この件を外務次官「堀内謙介」に報告。
 堀内が、極秘に統合に確認を取ったが、その気配なしとの返電を受けた。
 だが、一等書記官谷忠宣は、「大島の連絡員」笠原の行動を知らせてきた。
 ついに、8月中旬、東郷は、大島・リッペントロップ交渉を知ることになった。
 激怒した東郷は、三国同盟による欧洲大戦に日本が巻き込まれる危険性を指摘し、外務
 大臣「宇垣一成」に抗議してきた。
・ところが、すでに事態は急展開していたのだ。
 宇垣外相は掌を返したように、従来の態度を一変させ、「防共協定強化問題は、大島に
 一任する」と言い放った。そして、東郷の抗議を突っぱねた。
 なおも東郷が「陸軍武官が外務に携わるのは不当だ」と食い下がると、数日後、有無を
 言わさず、モスクワ大使へ左遷した。
・ついに、1938年10月、陸軍中将大島浩は、東條、日独政府の後押しで、異例の
 「特命全権駐独大使」に抜擢された。
 ちなみに、特命全権大使は、大使の上位に位置する。
 大使が判断を常に本国政府に仰ぐのに対し、全権大使は、自己分析を加えて伝え、内閣
 の訓令伝達時期も自己裁量が認められていた。
・大島が大使就任する前、外務省内で日独同盟急進派として知られた「白鳥敏夫」も特命
 全権のイタリア大使に任命されている。
 同時に、防共協定反対派の筆頭だった駐英大使「吉田茂」は解任されていた。
 首相「近衛文麿」は、白鳥がイタリアに赴く際、
 「大島と協力して、ベルリンから日本の空気をぐいぐい引っ張ってほしい」
 と激励している。
・また、大島昇格には、リッペントロップによる大島主導の日独外交一元化工作があった。
 さらには、海軍でも駐独大使付武官「小島秀雄」による、海軍司令部第3課への「東郷
 大使不適任報告」の動きがあったのである。
・大島は、日本国民の支持を背景に、時には特命全権として、独断専行も意に介さず、
 日独伊三国軍事同盟締結を加速させていく。
 だが、大島の大使就任にあくまで抵抗する勢力があった。
 元外相「佐藤尚武」は、外相・宇垣に抗議した。
 「貴官は、陸軍大将。文相・荒木貞夫も陸軍大将。内相末次信正も海軍大将。これに現
 職の陸軍武官・大島が、ドイツ大使に就任すれば、列強の警戒を招く」
 しかし、肝心のヒトラー、リッペントロップが、東郷茂徳にソッポを向いていたのだ。
・さて、東京では、連日、若手に突き上げられた板垣の独断専行で、五相会議は混乱し、
 近衛文麿内閣は、内閣府一致で1939年1月、ついに崩壊した。
・大島は、独伊間で難航している三国同盟推進を、リッペントロップに相談され、直接、
 ムッソリーニ説得に乗り出した。
 当時、駐伊大使「堀田正昭」が左遷され、新大使・大鳥敏夫が到着する前だが、代理大
 使がいたことを考えると、越権行為であった。
・東京では、1939年1月、「防共協定強化は、ソ連に限り、英仏にあらず」の方針を
 掲げる「平沼騏一郎」な医学が成立した。
 ところが、閣僚は相変わらず、外相・有田八郎、陸相・板垣征四郎、海相・米内光政、
 国務大臣兼枢密院議長は近衛文麿であった。
・東京では、窮地に追い込まれた有田外相は、陸軍の強硬派の軍務課長影佐禎昭、同軍事
 高級課員岩畔豪雄と協議、ようやく板垣の承認を得た。
 そして、「対象に英仏を加えるはやむなし、武力援助は棚上げ」で決定した。
 五相会議を経て、この有田案は、政府の「基本方針」として決定した。
 有田は、「平沼訓令」を外務省伊藤述史を長とする「伊藤使節団」をベルリンに派遣し
 た。
・1939年1月、伊藤使節団はベルリンに到着した。
 彼らは、大島、大鳥らと会談に及んだ。
 案の定、大島、大鳥は、「国際常識に欠け、自分の利益だけを主張した案に、いったい
 どこのだれが相手にするのか。子どもの使いではないぞ!」と激怒した。
 3月、大島は大鳥と連名で、日本外交の恥さらしだ、と激烈な抗議文を送った。
・結局、元来、神経痛の持病のある伊藤述史を長とする一団は、大島から散々説教をくら
 い、怒鳴りつけられ、雲散霧消して解散してしまった。
・大島が政府特使の「伊藤使節団」を門前払いにしたことは、閣僚間で問題になった。
 まず、内大臣「湯浅倉平」は、
 「大島の行動は、陛下の外交体験の侵犯だ」と怒りを露わにした。
 海相「米内光政」は、五相会議で「大島罷免」を主張した。
・すると、陸相・板垣と首相・平沼は、声高に、大島を擁護した。
 「目を覚めせ、現実がわからないのか!」
・ようやく、大島の指示通りの妥協案が成立した。
 その後、有田は、まず、伊藤案で折衝し、うまくいかなければ、「妥協案」を示すよう
 に指示した。 
 ところが、大島は、「これ以上、子供の遊びに付き合いきれない」と、特命全権を盾に、
 有田訓令を無視、妥協案だけをドイツ側に伝えた。
 さらに大島は、交渉を有利に導くべく「参戦条項」の付加を決断していた。
・当時国内でも、「反英米、親独」の風潮があり、海軍次官・「山本五十六」は憲兵隊の
 護衛がついた。
 また、外務省でも、三国同盟反対の急先鋒であったはずの某一課長は、有田邸に押しか
 け、「陸軍に同調すれば、総理に押すが、反対すれば、命の保証はない」とすごんでい
 る。 
・ちなみに、日独交渉を巡るすったもんだで、繰り返された「五相会議」は、これまでで、
 実に70数回に及ぶ。
 その下準備の実務者協議は、まさに想像を絶する数になるだろう。
 これが、当時の日本の政治中枢の姿だったのである。
・1939年5月、一触即発にあった日本とソ連が、ついに「ノモンハン」で、武力衝突
 を引き起こした。 
 ノモンハン事件当時、「服部卓四郎」らと関東軍作戦かを仕切っていた作戦参謀に、
 豪放磊落、傍若無人で知られる「辻政信」陸軍少佐がいた。
・辻たちは、この機に乗じ、タムスク飛行場先制攻撃を画策した。
 だが、陸軍中央から制止電報が入った。皆に緊張が走った。
 すると、辻政信が、じろりと若手を見まわして叫んだ。
 「目下、国家存亡の時である。独断専行やむなし。独断専行発令だ!」
 一同も唱和し、不動の姿勢をとって踵を鳴らした。
 そして辻は独断で、決裁書の参謀長、軍司令官の欄に「辻の代理印」を次々と押し、戦
 闘継続と返電、戦線拡大を命じた。
・だが、戦況が膠着し始めると、辻は、前線の上級者で、年長の連隊長たちに死守命令を
 下し、現地で責任をたらせていく。
・1939年4月、「天津事件」が発生した。
 天津のイギリス租界で、親日派の中国人税関長が暗殺され、犯人引き渡しを求める日本
 とそれを拒否するイギリス当局が対立した。  
 日本軍は対抗措置として、イギリス租界を完全封鎖すると、欧洲情勢が緊迫していたイ
 ギリスが譲歩し、中国において敵対行動をしない取り決めを承認した。
 天津事件をきっかけにアメリカは、日米通商条約破棄を日本に通告してきた。
 国民は、反英米で徐々にまとまり、ドイツに傾きはじめた。
・日本国内では、反米英感情に一気に火がついた。
 すかさず、陸軍は外務省を糾弾して沈黙させ、板垣陸相、閑院宮参謀総長、「西尾寿造
 教育総監は、「三長官会議」で、大島の「交渉全権委任」が承認された。
 さらに、板垣は最後の手段に出た。
 ドイツ、イタリア大使の力を借りて、三合同盟締結という強硬手段に出たのだ。
・1939年8月、ヒトラーは、誰もが予想できなかった「独ソ不可侵条約」を締結し、
 世界中をあっといわせた。
 「英仏の対独宥和政策は、ドイツの矛先をソ連に向けさせるもの」だとスターリンを誤
 判断に導いたのである
・ヒトラーにとっては、まさに神経をすり減らし、国運を賭けた「瀬戸際外交」であった
 のだ。
 実際、ドイツは東西両面作戦の危機にあり、ソ連はノモンハンで日本に苦戦していたの
 である。
 だが、この条約は、独ソ両国にとって、直前の危機回避の方便であるとともに、将来の
 独ソ開戦までの時間稼ぎであることは誰の目にも明らかだった。
 
第二次世界大戦
・陸軍参謀本部は、当時、ノモンハンで日本軍が不利だと誤判断、日ソ調整を大島に要請
 してきた。
 ソ連も背後の極東の安全を図る必要上、1939年9月、モトロフと東郷の間で「停戦
 協定」が成立した。
・辻政信参謀は、停戦前後から、軍紀粛正に乗り出した。
 陸軍病院に押しかけ、負傷した井置栄一中佐、「酒井美喜雄」大佐に前線離脱の責任を
 追及した。
 「部下たちを見捨てて、戦前離脱とは、それでも帝国陸軍軍人か!」
 と一喝、自決を強要した。
 ついで、捕虜交換で帰還した将校も自決させ、一件落着を図っている。
 一見無謀と思える辻の処断は、危急の際の軍事粛正の鉄則であった。
 その一方で、次々と敵戦車と自爆していく兵士たちを前に、口実をつくり、戦線離脱し
 た責任者たちを人道上、許せなかったのである。
・従来、ノモンハン事件は、辻の功名心、傍若無人の性格から拡大されたと語られてきた。
 しかし、関東軍首席参謀・辻政信は、「ドイツと共同でソ連に打撃を与えれば、国際情
 勢上、アメリカはタイに参戦を先送りするだろう。ソ連を叩けるだけ叩き、後方の安全
 を図るには、今しかない」と大局で判断したのである。
・1939年10月、大島は、帰国を命じられ、抗議の意思表示で辞表を叩きつけた。
 大島は、「世界の趨勢から、早晩、参戦条項付の三国軍事同盟は成立するが、その前に、
 2,3の内閣の失策が必要となろう」と、外務省、海軍上層部の目が覚めるのを待つこ
 とにした。

・その後、ドイツ軍は快進撃を続け、6月、ついにパリを陥落させた。
 第一次世界大戦で4年かけて落とせなかったフランスが、わずか1カ月で屈服したのだ。
・ドイツ軍の電撃戦による対フランス戦勝利で、陸軍は言うまでもなく、日本国中が湧き
 かえった。 
 再び、国内の枢軸派が巻き返しに出た。
 そして、仏印、蘭印など、ドイツに倒されたフランス、オランダの極東植民地の資源が
 注目された。
 国内に響き渡る「バスに乗り遅れるな」の声は、外務省の政策をも180度転換させた。
・そして、「ドイツがイギリスを含め、前ヨーロッパを征服する前に、東南アジアを勢力
 圏を築く」方針を打ち出した。 
 陸軍は、陸相「畑俊六」を辞任させ、後任を拒否することで、米内内閣を崩壊させた。
 ついに、大島の読み通り、枢軸推進積極派の「第二次近衛文麿内閣」が国民の相違を得
 て誕生した。
・外相に就任した「松岡洋右」は、「独伊との結束強化」を打ち出し、独伊に接近し始め
 た。
・一方、海軍は、自動的参戦の危険性を追求したが、松岡は、「参戦決定は、日本の自主
 的決定事項である!」と突っぱねた。
・陸軍は「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」を提出、近衛も承認、海軍大臣「及川古志郎
 も、現状を重視し、賛成に回った。
 閣議では、参戦条項棚上げで、「日独伊三国軍事同盟締結」が決定した。
・同盟締結の奏上を受けた昭和天皇は、独ソ問題を見極めてはどうかと慎重であった。
 近衛文麿は「ドイツを信頼してしかるべし。万一敗北に至れば、単身戦場に赴いて討ち
 死にする覚悟であります!」と涙ながら訴え、ようやく昭和天皇の承認を得た。
・1940年9月、事実上、米ソ牽制を目的とする「日独伊三国軍事同盟」が、ついに締
 結された。 
・ラジオや大島邸の前では、どこも熱狂した国民が群がり万歳三唱を叫んでいた。
 当時、日本国民は、日中戦争の長期化とアメリカの対日経済制裁に喘いでいたのだ。
 この風潮を危惧する同盟反対派の声はかき消されていた。
 彼らは、テロの危険さえ意識しなければならなかった。
・松岡洋右外相は、さらに、日独伊ソの「四国協商」を結んで、米英を牽制し、東南アジ
 アの資源確保のため、日本の「南進」を推進させる魂胆であった。
 さっそく、松岡は、独断専行で、外務省人事の刷新を図った。
 まず、三合同盟の立役者、大島浩を「特命全権の駐独大使」に再任し、同盟反対派のソ
 連大使の東郷茂徳を解任、「建川美次」陸軍中将とすげ替えた。
 さらに、反対派の「野村吉三郎」海軍中将をアメリカ公使に左遷した。
・大島浩は、晴れて駐独全権に返り咲きを果たした。
 背景には、陸相東條の後押しやヒトラー故人の強い要望があった。
 1941年1月、日比谷公会堂で、「大島浩大使壮行会」が、世相を反映し盛大に行わ
 れた。
 陸軍の要人は言うまでもなく、右翼からも「中野正剛」、「頭山満」など、そうそうた
 るメンバーが顔を揃えた。
・松岡があいさつに立った。
 「大島閣下のドイツ研究の造詣の深さは申すまでもなく、ドイツ政府の首脳とは膝を交
 えて話すことができる絶大ななる個人的信頼を築いておられる」
 そして、陸軍次官「阿南惟幾」の締めくくるで、「大島大使万歳!」の三唱が会場に鳴
 り響いた。 
・さて、近衛文麿内閣の「帝国外交方針」は、松岡主唱の日独伊ソ四国協商であり、大島
 は日ソ関係改善にドイツを引きずり出すことであった。
・大島は、ドイツ赴任直前、親友の東條と最終内談を持った。
 取り決め内容は、北進を前提とするものの、激変する国内外情勢によっては、「南進」
 をとりえること。
 欧州での外交情報工作は、大島の指示に従うこと。
 同盟反対派は、いかなる手段を用いても排除すること。
 東條は強く念を押し、大島はうなずいた。
・ヒトラーの再赴任後大島への信頼は揺るぎないものとなっていた。
 世界の外交史上稀だが、大島は外国人として、ヒトラー、リッペントロップとの「三者
 密談」、ドイツの「最高政策決定機関」のメンバーの一人となっていたのである。
・なお、興味深いのは、ドイツ側に、ライバルとしての大島排除の動きがなかったことで
 ある。 
 おそらく、分裂国家と東西からの包囲網に翻弄されてきた歴史を持つドイツ国民が、
 信頼できる外部の同盟者の必要性を、熟知していたからに違いない。
 同時に、大島が「ドイツ人以上にドイツ人」として振る舞えたからであろう。

独ソ戦と太平洋戦争
・元来、大島は、その温和な表情とは裏腹に、私情を任務から切り離し、冷徹に、能率性
 のみを追求する能力、必要とあれば、手段を選ばない神経を持ち合わせていた。
・大島は、ハナから外務省、海軍を信用しておらず、逆に利用法を模索していた。
 大島は、真珠湾後、ドイツ側から外務省暗号(新B型)解読を知らされた後、これを隠
 匿、従来通り、外務省、海軍には好きなように動かせ、連合軍情報部に「疑念」を抱か
 さないように努めた。 
・松岡洋右外相は、ドイツ側が日中和平に協力して以来、ドイツに傾倒していたが、訪独
 前、陸軍軍務局「武藤章」から、三国同盟に反対すれば、内閣を潰すと迫られ、白鳥敏
 夫外務省顧問(元駐伊大使)からも、辞任すると念を押されていた。
 また、彼は、三国同盟支持派の暴漢にも遭っていた。
・外務省の情報能力欠如を示すが、三国同盟表敬訪問の途中、独ソ間の関係悪化を知らな
 い松岡は、モスクワに立ち寄り、モトロフ・スターリン会談を行い、「四国協商」の地
 ならしをした。というより、したつもりだった。
・「送り狼たち」に送り出された松岡は、うって変わってドイツでは異例の大歓迎を受け
 た。  
 ヒトラーの首相就任パレードやムソリーニ歓迎式典を上回る規模であった。
 このようなドイツの歓迎ぶりは、裏を返すと、次第にイタリアがドイツの足かせとなる
 とき、多正面戦争の危機に、日本との同盟によって、活路を見出だそうとするヒトラー
 やドイツ国民の窮状が見てとれる。
・ヒトラーは、礼儀を尽くして応対し、最後に独ソ戦の可能性を示唆すると、松岡は、
 「最終的な局面では、日本政府の対応は予測不可能ですが、私個人としては、独ソ開戦
 の場合、躊躇せず、対ソ参戦に踏み切らせる覚悟であります」と答えた。
 だが、松岡がリッペントロップに、持論の「四国協商案」を提案すると、「現状ではま
 ず不可能である」と穏便に却下された。
・妙な予感がした大島は、モスクワへ立つ松岡を見送りに行ったが、日ソ中立条約締結に、
 再三、再四、釘をさしておいた。
 ところが、案の定、政府を主導していた松岡は、ドイツへの不安を抱えるスターリンか
 ら、四国協商推進と引き換えにまるけこまれ、クレムリンで「日ソ中立条約」に調印し
 てしまった。 
・ヒトラーは驚愕し、苦虫をつぶした表情の大島に言った。
 「日独連携によるソ連牽制が、両国の存続にかかわるというのに、日ソ中立とは、その
 うちツケが我らに跳ね返ってくるというのがわからないのか」
・1941年4月、大島は、独ソ戦の情報収集のため、リッペントロップ外相に面会を求
 めた。  
 そして、彼から「ドイツ単独でのソ連短期打倒」を示唆された。
 大島は、外電ではなく、「陸電」を用い、直接、陸軍参謀本部へ以下の打電をした。
 「ドイツは、対ソ戦に十分な自信を持っており、日本との共同作戦を期待していない。
 日本は、大東亜共栄圏を阻害する米英の拠点、シンガポールを攻略するのが得策と思わ
 れる」
・6月、駐独日本大使大島浩は、突如、ヒトラーのプライベート山荘「ベルヒデスガーデ
 ン」に、呼び出しを受けた。
 「とうとう来たか」大島は顔色が変わった。
 大島は、ヒトラーの隣の席を勧められた。
 距離をおいて、リッペントロップ外相は無表情で立っている。
 ヒトラーのいつもの青い目が、この日ばかりは、灰色に見えた。
 ヒトラーは、ソ連がクーデターでドイツの同盟国ユーゴスロバキアを脱落させ、もはや
 独ソ両国の衝突が避けられなくなったいきさつを説明し、最後に、
 「いざとなれば、自分は先に刀を抜くつもりである」
 と、独ソ戦の決意を語った。
・リッペントロップは、「もし日本が準備の関係上、南方進出が困難であれば、独ソ戦に
 ご協力願いたい」と付け加えた。
・大島は胸の高鳴りを抑えて言った。
 「独ソ戦は、日独の脅威を除くまさに絶好の機会であります。大島全権、身命を賭して
 本国の対ソ参戦説得にあたります!」
・ヒトラーをよく知る大島は、焦る気持ちを抑え、慎重を期し、事実を散りばめ、開戦必
 至の項目は高レベルで、参謀本部に「陸電」を打った。
 「ヒトラーが、独ソ開戦を述べたから、開戦必至である。開戦の時期は、ヒトラーの速
 戦即決のやり方から短期日と判断される」
・ところが、この電報に、独自の情報網を持つ外務省は、否定的な態度をとり、「避戦6
 分、開戦4分」と内閣に言上している。
 結局、大島の国運を左右する電報は、陸軍参謀本部、外務省で曲解されてしまい、日本
 は、ソ連短期打倒のチャンスを逃すだけではなく、アメリカの対日参戦というツケを払
 わされることになる。 
・1941年6月、人類史上最大規模の「バルバロッサ作戦」の幕が切って落とされた。
 松岡は、独ソ開戦を伝える大島電報に、仰天して、信じようとしなかった。
 まもなく、実務官僚としての冷静さを取り戻し、対ソ参戦へと、外交方針の大転換を決
 心した。
 ただちに、昭和天皇に上奏手続きをとった。
 「独ソ開戦した以上は、日本も呼応し、即、対ソ参戦すべきであります!」
 と言上すると、昭和天皇は戸惑った。
・6月30日ついに、ドイツ側から「対ソ参戦要請」が来た。
 松岡は、閣議で、「南進を放棄して、断固対ソ参戦すべし」と強硬に主張した。
 近衛首相も賛同、「ただちに、関東軍に大動員を発令せよ!」と命じた。
・関東軍司令部では、まさに、蜂の巣を突いた状況であった。
 連日作戦会議では、参謀たちが、「沈黙の将軍」梅津美治郎大将に、「独断専行発令」
 を便の限りを尽くして突き上げていた。
 「梅津閣下!今を逃しては、ソ連打倒は望めません。ご決断を!」
 発言は日々、過激化していき、「もはや、全将兵の暴走抑えがたし」と脅迫まがいまで
 飛び出した。 
 辻政信が、電話を入れ若手に怒鳴った。
 「なぜ、参謀本部が沈黙男を司令官に据えたかわからんのか。これぞ、独断専行、参謀
 本部、暗黙の了解なり、必要とあらば、梅津を斬れ!」
・当時、国民の代弁者を自認する陸軍では、「2.26事件」「永田鉄山惨殺事件」など
 下剋上の風潮があった。  
 梅津は、「大本営の作戦命令下達間近」となだめる「吉本貞一」参謀長ら側近と、独断
 専行を突き上げる若手の間で、軍刀を両手に載せ、あだ名通り、瞑想し黙想して過ごす
 しかなかった。
 参謀たちは、皆いらだちの頂点にあった。
・実は、当時日本では、「対ソ参戦」を主張する近衛文麿首相と消極的な大本営が激論を
 戦わせていたのである。 
 大本営、他の閣僚は、アメリカの経済封鎖による石油備蓄を理由に、「南進」を唱えて
 いたのである。
 結局、日本は、ドイツがモスクワを陥落させたのを機に、「対ソ参戦」に踏み切ること
 になった。
 これは、事実上、「北進論と南進論の妥協の産物」で、ドイツの苦戦を招き、それが後
 日、日本へ跳ね返ってくるのである。
 
・独ソ戦開始以来、ドイツ軍が、怒涛の進撃を続けていた頃、大島は、突如リッペントロ
 ップに呼び出された。
 そして、「ドイツ帝国における日本人スパイに関して」の報告書を見せられた。
 容疑者の筆頭に、ケーニヒスベルク領事館勤務の「杉原千畝」の名前があった。
 杉原千畝といえば、現在、カナウスの日本領事館で、日独政府に抗し、6千人のユダヤ
 難民に「命のビザ」を発行した人道主義者として知られるが、大島が驚愕したのは「彼
 の別の顔」であった。スパイ容疑である。
 杉原が、交遊のあった亡命ポーランド軍将校とソ連情報と交換に、松岡外交方針に反し、
 欧州の各日本大使公使館を経由して、情報をロンドンの亡命ポーランド政府に届けてい
 たのだ。
・杉原は、現在、語られる人物像とはあまりにもかけ離れている気がする。
 まず、彼は普通の外交官ではなく、陸軍予備役少尉の肩書を持つ「情報担当官」である。
 杉原は、1920年代、ハルビンでの「シモン・カスパ事件」などユダヤ人、中国人の
 拉致・殺害事件に間接的な関与の疑惑があるなど、元来国益を優先し、「私情」に流さ
 れる人物ではない。
・つまり、杉原は当時、三国軍事同盟前の対ソ謀略で連日連夜多忙を極めていた頃、条件
 不備のユダヤ難民が押し寄せ困惑した。
 外務省に問い合わせるも「本省は、多忙で発狂条件に従え」との人任せの返電に反発し
 たが、本来の任務を優先すべく、機転で、ビザを発給して処理していったというのが真
 相ではないだろうか。
・日独政府を揺るがす大事件が起きた。
 ソ連のスパイであった「リヒャルト・ゾルゲ」が、「尾崎秀実」から得た「日本の対ソ
 戦見込みなし」の情報をモスクワに打電し、警視庁特高警察に逮捕されたのだ。
 尾崎秀実が、近衛首相のブレーンであったため、その波紋は大きく、彼が逮捕されると、
 翌日、近衛は、対米交渉継続不可を「口実」に退陣した。
 後継内閣を巡り大混乱となった。
・なお、「オイゲン・オットー」駐独大使は、辞職を願い出た後、自決の機会を探り始め
 た。 
 一方、盟友の大島は、逆に対米戦に備え、対ソ牽制のため、ますます重用されていく。
 その後、オットーが昭和天皇に退任のあいさつに行くと、なぜか、引き止められ、食事
 に誘われた後、自決を思いとどまっている。
・内大臣「木戸幸一」は、対米戦を回避するため、対米強硬派の陸軍と熱狂的な国民を抑
 えるためには、陸相「東條英機」以外にいないと判断した。
 木戸は独断で、昭和天皇に、東條を後継首相に推挙、承認を得た。
・東條はリーダーとしての才能を発揮した。
 「挙国一致体制」のため、前例を破り現職のまま、首相に就任、さらに「内務大臣」を
 兼任して、警察権力を陸軍憲兵隊の下に組み込み、「軍・警察に一元化」を図った。
 さらに、大島に事実上、全欧州の特命全権として、外相級の権限を与える一方で、名目
 上の外相に、あえて親米派の東郷茂徳を任命し「外務省、海軍との協力体制」を強化し
 た。  
・東條は、日米交渉では、当初、アメリカに「中国全面撤退・三国軍事同盟脱退」を突き
 つけられたが、中国は長期的段階的撤退で応じ、三国軍事同盟は棚上げで乗り切った。
 だが、さらにアメリカが「ハルノート」で、中国即時撤退に加え、満州国未承認の追加
 制裁ともとれる要求に、ついに、東條は対米戦を決意した。
・1941年12月8日、ドイツのモスクワ攻略中止の3日後、日本は「真珠湾」を奇襲
 攻撃し、外務省の手違いで1時間後に米英に宣戦布告、太平洋戦争が勃発した。
 だが、アメリカ陸軍省暗号部はすでに、外務省の「新B型暗号機」を1940年代秋頃、
 解読していた。
 さらに、アメリカ陸海軍情報部は、真珠湾攻撃直前まで、日本の外交通信が、民間用の
 無線通信ラインを使用していたため、対米開戦の全容をほぼつかんでいた。
・アメリカは事前に、空母を真珠湾から直前に撤退させ、旧式軍艦のみ待機させていたの
 だ。  
 つまり、アメリカの極東戦略として、日本に無理難題を突きつけ、日本の手出しを口実
 に、参戦ムードを煽って参戦しようとする思惑が見え隠れする。
・「南雲忠一」海軍中将は、アリゾナ以下戦艦5隻沈没、航空機撃破約3百機など、一定
 の戦果をあげた。
 すると、連合艦隊温存を優先し、空母撃滅の大参事攻撃隊出撃をとりやめ、帰還を命じ
 たのだ。 
 参謀たちは、一斉に「空母撃滅せずして、帰還とは何をお考えか!」と食い下がった。
 空母撃滅の待機搭乗員も不満の声をあげた。
 さらに、国内で総指揮に当たっていた山本五十六大将も、参謀たちの必死の請願より、
 「現場の声」に従った。
・後日、これがあだとなり、日本は太平洋で、圧倒的物量を誇るアメリカとの泥沼戦に引
 きずり込まれていく。 
 結局、陸軍は海軍に振り回され、関東軍は、満州から太平洋へ徐々に軍を引き抜かれ、
 「対ソ挟撃の機会は失われ、最後にはドイツ降伏後、ソ連の対日参戦を招くのである。
・日本の真珠湾奇襲の一報が、ヒトラーにもたらされた。
 このとき、彼は驚き、悲鳴をあげたという。
 だが、ヒトラーはすぐ平静を装いながら、対米参戦の利害を冷静にカウントしていた。
・「日独伊三国軍事同盟」は、あくまでも相互防御同盟であり、ドイツは対米参戦の義務
 はない。
 だが、アメリカが1941年「武器貸与法」で、弘禅とドイツの敵対国に武器援助をし
 ていることを考えれば、ドイツはアメリカを叩かないかぎり、アメリカとの消耗戦で疲
 弊してしまう。  
 逆に、対米参戦すると、作戦路湯息を拡大し、日独両国でアメリカを挟撃できる、とい
 うメリットがあった。
 いずれにせよ、アメリカとの衝突は避けられない。
 ヒトラーの反応に緊張を隠しきれない大島浩大使がすぐさま出頭してきた。
 日本は、軍事同盟国ドイツに無断で、対米参戦をし、ドイツの戦略全体の変更を強いる
 ことになるからである。
 「まさにドイツの足かせ、イタリアの二の舞ではないか」
・ところが、大島の懸念をよそに、ヒトラーはいつもの笑顔で出迎え、さらに、日独連携
 強化を要請してきた。 
 大島は、溜飲が下がる思いがした。
 同時に大島は、ヒトラーが、大局で利害を見通して下す判断・決断力の速さに感嘆した。
 
戦局の転換
・ヒトラーは、総統官邸に、大島浩大使と三国軍事同盟委員の「野村直邦」海軍中将を招
 いた。そして、Uボート2隻の提供を申し出て提案した。
 提供される2隻のUボートは、大型艦に属するU511とU1224であった。
 前者は日本人クルーが、後者はドイツ人クルーが回航することになった。
 U511は地中、イギリス船2隻を撃沈、ペナンに到着した。
 そして同艦は「呂500」と改名された。
・だが、同艦の船体は、日本艦の2倍の強度を持つ爆雷攻撃に耐えるものであり、硬度が
 高い鉄鋼の溶接技術でのマスプロ化は、日本雄技術では困難であった。
 さらに、すでに日本独自のマスプロ方式が確立していたため、結局、呂500は、練習
 艦、水中標的艦として用いられ、戦後1946年4月、米軍により日本海若狭湾で爆破
 処分されている。 
・ドイツ潜水艦U180がインドよう南西のアフリカ東岸マダカスカル島南西で日本の潜
 水艦「胃9」と合流するのに成功した。
 う180はソナーとレーダー撹乱用の発泡剤、薬品、インド独立運動の指導者「チャン
 ドラ・ボース
」を引き渡し、伊29は黄金、キニーネを提供した。
 その後、U180はフランスのボルドーへ無事帰還したが、伊29はマレー半島ペナン
 へ帰還するも、バシー島でアメリカ海軍の潜水艦に撃沈された。
 しかし、シンガポールで、伊29から零式戦闘機に乗り換えた巖谷中佐が、アメリカの
 B29爆撃機撃墜用に、ドイツが科学の粋を結集したジェット戦闘機メッサーシュミッ
 トMe163(日本名:秋水)Me262(橘花)の「設計図」を日本へ持ち帰ること
 に成功した。
・1944年2月、ついに、太平洋の海軍最大の基地「トラック島」が無力化された。
 東條は、さらに前例を破り、自ら陸軍参謀総長を兼任した。
 首相、陸相、参謀総長の「三職兼任」は天皇の大権に抵触し、陸海軍、皇族、右翼から
 も批判が出て、暗殺計画まで企てられた。
・東條は、「石原莞爾」の助言を請うため呼び出したとき、
 「あんたは真面目過ぎる。国民はついてこないよ」
 と言われていた。東條は、天皇に続投を直訴した。
 だが、聞き入れられず、ついに辞職した。
・当日、東條は、後顧の憂いをなくすため、反対勢力の逓信省工務局長・「松前重義」以
 下、関係者たち数百名を突如臨時招集して南方戦線へ送った。
・東條はすでに自分の暗殺を覚悟していた。
 「自分さえ悪役になればよい」と本土決戦のため、「挙国一致体制の維持」を図ったの
 である。
・ドイツでもノルマンディー上陸、東部戦線の中央軍集団の壊滅に接し、「黒いオーケス
 トラ」グループが動き出した。
 ヒトラーを暗殺して、英軍との単独講和を模索し始めた。
・ついに、7月20日、シュタウフェンベルグは、東風呂緯線の前線司令部「狼の巣」
 ヴォルフス・シャンツェで、2個のプラスチック爆弾によるヒトラー暗殺を実行した。
 時限爆弾が辺りをつんざくように大爆発を起こした。
 一瞬、誰も何が起こったかわからない。
 ところが、ヒトラーは、突然、夏場の暑さで、作戦会議を木造バラックに変更していた。
 そして、彼の近くに置かれた爆弾入り鞄がブラント大佐によってどけられた結果、衣服
 はズタズタになったものの、鼓膜爆損で九死に一生を得たのだ。
 出席者24名のうち、4名が即死または重傷を負って死亡した。
・暗殺実行後、シュタウフェンベルグ一派は、ベルリンで蜂起したが、間一髪、エルンス
 ト・レーマー陸軍大佐に阻止された。
 彼は国民の支持はもとより、加担者たちの足並みもそろっておらず、「見切り発車」の
 感が否めない。
 クーデターが未遂に終わると、加担疑惑の追及を恐れたフロム多少によって、シュタウ
 フェンベルグはただちに銃殺された。  
・ヒトラーは、まず自分の巻き添えになった犠牲者の家族をねんごろに見舞った。
 そして、後顧の憂いを断つため、首謀者及びこれまで手加減していた「疑わしきもの」
 を徹底排除する決意を固めた。
 「見せしめとして、首謀者を一人残らず、残忍な手段で処刑せよ!さらに、古代ゲルマ
 ンの連座法を適用し、関係者、縁者をすべて処罰するのだ」
 フライスラー人民裁判によって、ヴィッツレーベン、ヘプナーら首謀者8名に死刑判決
 が下され、翌日、ベルリン北西のプレッテンゼー刑務所で、ピアノ線による絞首刑が執
 行された。
・では、はたしてシュタウフェンベルグの行動は、現在のドイツ政府が賞賛するように、
 正しかったのであろうか。
 当時のドイツが、ソ連に対する「ヨーロッパの防波堤」の役割を果たしていたことは否
 定できない。
 当時の米英がクーデターを傍観したのも、戦後の冷戦構造を見越して、ソ連に武器輸出を
 しながらも、ドイツにある程度ソ連を叩かせておく必要性を感じていたからだ。
 独ソの共倒れこそ、米英の望む戦略であったのだ。
・もしヒトラーが暗殺されれば、ドイツ中枢が麻痺し、東部戦線は崩壊し、ソ連への抑え
 がなくなる。 
 ソ連は千歳一遇のチャンスとばかり、英仏との連携を無視し、圧倒的軍事力にものをい
 わせ、たちまちにヨーロッパ全土を飲み込んでしまっただろう。
 そして、ヒトラーが行ったように「理解の一致による共存」は認められず、スターリン
 の独裁下に入ったに違いない。
 シュタウフェンベルグは、自らの行動が、ドイツを救うどころか、ドイツはもとよりヨ
 ーロッパをソ連に引渡すことになるという「大局的分析力」が欠けていたと言わざるを
 得ない。
 
最後の攻防
・1945年4月、リッペントロップのが、大島にベルリン退去を要請した後、大島は、
 執務室にこもり、陸軍の暗号印字機に向かった。
 そして、北欧・南欧のドイツ軍健在の事実を踏まえたうえで東京へ打電した。
 「第三帝国いまだ健在ナリ」
 大島は、米英の足並みの乱れを十分勘定していた。
 そして、「米英主力を対独戦に貼りつけ、日本の防衛を固める一方で、米英とソ連の衝
 突誘発」を画策したのである。
・政府・陸軍中央は、「大島最終電」の意図を汲み、スイス公使・「阪本瑞男」の「第三
 帝国瓦解セリ」の電報をあっさり握りつぶした。 
 はたして、大島の読みは的中し、米英情報部は彼の最終電に振り回され、対独戦の兵力
 を動かせず、ソ連が5月8日ドイツ降伏後、8月9日、対日参戦するまで、3カ月間、
 陸軍は対ソ防備を固めることが可能となる。
 その結果、日本は、北方領土を代償にしたものの、「米ソによる日本分割」という最悪
 の事態を回避することができるのである。
・大島は、館員とその家族を、全員無事に日本に連れ帰る義務があった。
 「もはやこれまでか」大島は降伏を決断した。
 大島らは家族と引き離され、陸軍武官「小松光彦」、海軍武官「小島秀雄」らと他の館
 員32名とフランス・ルワーブルの捕虜収容所を経て、ホテル・シェバイベイに移され
 た。
 ルワーブル港から、輸送船でニューヨークへ着いた。
 マウントバーナー収容所で尋問を受けたが、誰も喋るものはおらず、打ち切られ、日本
 へ強制送還が決まった。
 浦賀港へ到着すると、待ち構えていた緊張顔の「牛場信彦」らが乗り込んできた。
 そして、「残念ですが、閣下の逮捕状が出ています!」と打ち明けた。
 大島は、館員の家族が帰国したのを確認すると、外相に昇格していた吉田茂に帰朝報告
 をした。
 武官時代の非礼を詫びると、逆に、大使としての任を果たした労をねぎらわれた。
・神奈川の茅ケ崎の自宅で、豊子、両親に別れを告げた。
 大島の極刑は誰の目にも明らかだった。
 そして、外務省で、大使退任の手続きを済ませ「巣鴨プリズン」の人となった。
・大島の入監が決まると、三羽ガラス、10連隊の部下や「シュターマー」らが、大島の  
 除名活動を始めた。
 彼らの言い分は、「日独軍事同盟推進派、国民脳を受けた陸軍中央・政府の方針であり、
 大島個人への追及は、責任転換で言語道断」であった。
 さらに、彼らの心中には、大島が推進した対ソ参戦を妨害し、太平洋戦争を引き起こし
 た外務省・海軍上層部への根強い不満が鬱積していた。
 そして彼らは、当時の外務省・海軍の責任を国民の前に明らかにし、大島の汚名返上を
 図りたかったのだ。
 
東條との別れ
・大島と東條は、収監所でまた一緒になった。
 東條が、直接対米開戦に踏み切ったのに対し、大島は、間接的にドイツに対米開戦をさ
 せた。不思議な運命のめぐりあわせだった。
 また、大島と「板垣征四郎」は、両手でしっかり握手し、肩を叩き、これまでの労をね
 ぎらい合った。涙が止まらなかった。お互い言葉はいらなかった。
・マッカーサーによる「極東軍事裁判条例」で、裁判の目的、進行、果ては結末まで決定
 済みであった。  
 さらに、条例全スタッフは、作成者キーナン検事を中心に、アメリカ人で占められてい
 た。
 この裁判は、勝者が敗者を、勝者の基準で裁き、アメリカの対日戦への「正当性・大義
 名分」を全世界にアピールする一大ページェントであったことは言うまでもない。
・まず、マッカーサーに指示で、「天皇訴追問題」が不起訴にされた。
 もっとも、マッカーサーは、当初、昭和天皇を日本統治に利用するつもりが、「自分は
 どうなってもかまわない。どうか国民を助けてやってくれないか」との人柄に強く胸を
 打たれ、天皇助命は堅く決心していた。
・その一方で、日本側の弁護に当たったインドの「パール検事」の「意見書」は、条例に
 反して朗読を許されず、「ブレークニー弁護人」の「原爆投下違法発言」は、ウェップ
 裁判長によって、速記、通訳を中断させられた。
・大島は、というより誰もが、キーナン冒頭陳述の時点で、大島はソ連引き渡し後、公開
 絞首刑、東條以下関係者約10名は見せしめの絞首刑であるのは想像できた。
 連合国側検察にとって、一番厄介な存在は、「連合国亀裂の原因となる外交機密」を握
 る大島浩であった。  
 彼の発言次第では、裁判が長引くばかりではなく、最悪の場合、空中分解という危険性
 をはらんでいたからだ。
・実際、「ニュルンベルク裁判」でも、「ゲーリング」が、彼しか知り得ない内部情報を
 基に、巧みな弁論で、逆に、まず、裁く側の検事たちを感心させ、検察側の追及の出鼻
 をくじいている。 
 さらに、ゲーリングは、ソ連、フランス首席検事をあしらい、アメリカの首席検事の
 ロバート・ジャクソンを翻弄、神経衰弱に追い込み、裁判を停滞させた。
・ゲーリングの影響はこれだけではすまなかった。
 孤軍奮闘する彼の姿は、敗戦国ドイツ国民に再び、闘志を抱かせ、団結心を呼び覚まし、
 米英仏ソによるドイツ分割統治に、微妙な影響を与え始めた。
 だが、結局、ゲーリングの「不可解な服毒自殺」によって、検察側はようやく裁判の主
 導権を取り戻すことができた。 
・大島は、当時、国政を左右する政府の「特命全権」で、その発言は直接国益に影響した。
 大島公判の焦点は「ヒトラー、リッペントロップとの擬態的な関わり」であった。
 大島の射記名次第では、国益を大きく損なう恐れがあった。
 そこで、大島は、「大島個人」のドイツの過大評価・過信を前面に出し、「特命全権」
 としてのヒトラー、リッペントロップへの接近に関しては、語気を強め「知らぬ、存ぜ
 ぬ」で突っぱねた。
・さすがに、誰もが周知の大島とヒトラー、リッペントロップとの関係否定発言は、一時、
 会場を動揺させた。
 交渉に長けた大島は、東西冷戦を逆手にとり、外交機密に触れながら、検察に圧力をか
 け、「早期の過去の幕引き」を図っていたのである。
・実は、大島は、裁判中、リッペントロップの処刑を知った。
 そして、その時の大島の胸を激しく揺さぶった彼の最後の言葉を思い出した。
 「また生まれ変わっても、同じ道を選ぶであろう。ドイツ万歳。総統万歳」
 「待ってろよ。俺は、モスクワの人民広場で、あっぱれな帝国陸軍軍人の最後を、見せ
 つけてやるからな!」 
 そして、荒木貞夫の終身刑から始まり、6番目に大島に判決が言い渡された。
 ところが、「終身刑」。
 とっくに覚悟を決めつけていた大島は驚愕した。
 「一票」で、絞首刑が外されたのだ。
 なぜか、プライドを傷つけられた気がした。
・注目すべきは、板垣が絞首刑で、大島が終身刑となったことである。
 連合国の視点で、三国軍事同盟の責任を追及するなら、大島こそ首謀者で、板垣は職務
 上、国内でそのまとめ役であったにすぎない。
・弁護団の「滝川政次郎」さえ、
 「大島は、陸相畑俊六と結託し、三国同盟に反対する米内内閣を倒壊させた。国法を屠
 るの罪は彼がもっとも重い。国民裁判にかけても極刑に値する」
 とやり玉に挙げていた。
 彼も驚きを隠せなかっただろう。
・何よりも、マッカーサーは、SISより大島が事実上、ドイツの最高国策決定のメンバ
 ー扱いだった報告は受けていないはずがない。
 この偶然とも思えない「1票」は、裁判早期終結に対してのマッカーサー流、大島への
 謝辞(キックバック)と以後の「口封じのシグナル」とみてよいだろう。
・親友の東條処刑後、大島は、すっかりやつれてしまった。
 その後、「お前が出てくるまで、死なんぞ」と持病悪化を隠して励ましていた父や母に
 先立たれた。
 また、「グデーリアン」が他界した。
 彼らとの別れは、さらに大島を追いつめた。
 大島は、人生の引き際を悟った。
 そして、東條たちの菩提を弔いながら、豊子と余生を送ることにした。
 1955年に釈放後、社会から身を引いた。
・大島は、釈放後、
 「結果的には国策をミスリードしたが、自分のしたことは正しかったと今でも信じてい
 る」 
 という言葉を残している。