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石原莞爾は、先の大戦の元々のきっかけともなった満州事変当時の関東軍の作戦主任参謀
であり、満州事変を実行した張本人だったと言われている人物である。
石原莞爾は、東北は山形県の今の鶴岡市の出身であり、仙台陸軍地方幼年学校を経て陸軍
士官学校、そして陸軍大学校へと進み次席で卒業した。彼は帝国陸軍の異端児とも呼ばれ、
まさに当時のエリート中のエリート、天才であった。
しかし、あまりの異才と個性の強さから、上官や周囲からから煙たがられたようだ。特に、
東條英機とは何度か衝突したようだ。それもそのはず石原は東條英機のことを「無能者」
呼ばわりしていたから。石原莞爾は天才型、東條英機は努力型の凡才、水と油で交じり合
うことはなかったようだ。陸軍大臣であった東條英機に歯向かったことによって、石原莞
爾は東條英機によって軍をクビにされた。もし、石原莞爾が軍をクビにならず、日本軍の
中枢に残っていたら、先の大戦の結果も少し変わっていたのかもしれなない。
しかし、酒田法廷での歯に着せぬ石原莞爾の主張は、今の時代においても正論に思え痛快
に感じた。

プロローグ
・石原莞爾は平和主義者だった。彼は「日本は軍備をもたぬほうがよろしい」と怒鳴った。
 そして日本が敗れた理由は、作戦の間違いと同時に、日本民主主義でなかったからだと
 遊説先々で語った。
・満州国は、アメリカ合衆国のような共和国家を独立、建国させることが夢だった。だが、
 日中事変で主戦派が深入りし、また海軍が太平洋戦争に突入して日本国民を巻き込んで
 いったために、国力衰え、満州はソ連軍に侵攻された。
・石原は「不戦十年、国力強化」を誓い、政府と約束したにもかかわらず、彼は軍閥の波
 に押し出された。昭和十六年春には軍を追われて、ただの民間人となるが、終戦後は、
 「配線は神意なり。あとのカラスが先になる日が必ずくる!」全国を駆け歩きながら、
 悲観にくれる国民を励まし続けた。
・「都市解体」「永久平和」「農工一体」が、彼の日本国家の針路の根幹だった。
極東国際軍事裁判ではGHQの言いなりになって何ひとつ弁明できずにいる軍人たちに
 代わり、独り堂々と「マッカーサー軍政は失敗なり」「満州事変まで遡るなら、ペリー
 を連れてこい!」などと、尋問にきた検事たちに噛みついた・。
・石原は、むしろ戦犯を歓迎した。彼は法廷で堂々と、「太平洋戦争は指導者が無能だっ
 たからで、私が総参謀長だったらアメリカには負けていなかった」と、全世界のメディ
 アを前に豪語したかったからである。もうひとつは「第一級の戦犯は、広島、長崎に原
 爆を落とし、東京、大阪、横浜、神戸その他を空襲し、非戦闘員を大量に虐殺したトル
 ーマンだ」と言うつもりでいたのである。
・調査委員会は、満州事変に関わった軍人の犯罪性を立証するため、山形県酒田市の商工
 会議所臨時の極東国際軍事裁判「酒田臨時法廷」を設置し、石原への二日間にわたる証
 人尋問を続けた。彼の周りには、たった一万の兵で二十二万人の軍閥・張学良軍を破り、
 広大な満州をわずか三カ月で征服した軍略家(石原)に日米戦の話を聞こうと、内外の
 記者たちが集まった。
   
極東国際軍事裁判「酒田臨時法廷」前夜
・東京駅を発った八輌編成の特別寝台列車が仙台、秋田経由で酒田駅に着いた。乗客は、
 A級戦犯を裁いている極東国際軍事裁判調査員が石原莞爾を尋問するため派遣した判事、
 検事、弁護団、裁判執行官、内外の記者など二十三名である。
・この特別列車は皇室御用列車などを改装した車輛で、応接椅子付きの車輛、食堂車もあ
 った。裁判中は酒田駅構内に停車してホテル代わりに利用された。その他、GHQとの
 連絡のため、送信機を積み込んだ特別車輛二輌も連結されていた。寝台車は全て二段式
 の一等寝台だった。
・終戦直後の酒田は空襲に遭い、造船所や港湾が爆撃された。幸い羽越線の酒田駅は空襲
 を免がれ、木造平屋の小さな駅舎はそのまま残った。 
・農家の二、三男を戦地で失い、まっるきり農夫の姿を見かけなくなった庄内平野を、豪
 華な特別列車は黒煙を上げて、羽越線を南へと進んだ。列車が日本海に沿って秋田県羽
 後本荘駅を出て間もなく、左手の山並みの向こうに、まるで列車と呼吸を合わせるよう
 に鳥海山がその姿を現した。
・酒田商工会議所の所在地は、南に最上川と庄内平野を見下ろす高台にある。市役所など
 官庁街で、東へ下りると日本一の大地主・本間本家の旗本二百石級の屋敷がある。
・酒田商工会議所の所在地は、南に最上川と庄内平野を見下ろす高台にある。市役所など
 官庁街で、東へ下りると日本一の大地主・本間本家の旗本二百石級の屋敷がある。
・吹浦駅前から西山へは月光川があり、丸太を組み板を並べただけの粗末な橋は車では行
 き来できない。吹浦駅から車から下りると、歩いて橋を渡って西山農場に入ることにな
 る。
・石原莞爾は、さぞかし豪族のような山城に住んでいるだろうと想像していたが、馬小屋
 のような粗末な平屋の一軒家に案内されて、呆然として足を止めた。質素な生活をして
 いるとは聞いてきたが、あまりにも質素しすぎる将軍の姿に、涙も出なかった。
・商工会議所の壁には、毛筆で書いた二枚の額がかけられている。椅子席に向かって右は
 山形県出身の元大蔵大臣の結城豊太郎筆の「非千人是英郎万人是傑」である。向かって
 左側には元商工相の八田嘉明筆の「徳如海」である。どういう意味かと聞かれた本間市
 長はうまく説明できなかった。「徳は海の如し」と言っても、今度は二世の通訳官が訳
 せない。
・一行は客船第二梅丸に乗り込んだ。梅丸は酒田港を西に進み、日本海に出た。そこから
 海岸に向かって南下し、最上川の河口を左手に見て一時間後には湯野浜温泉に近い加茂
 港に着いた。案内役の本間市長と酒田警察署長は、通訳官を通じて、酒田から大阪、京
 都へ千石船が同じ航路で航海していたことを説明した。「京都」と聞いて、判事や検事、
 弁護人たちは色めきたち、互いに顔を見合わせた。
・リヤカーに乗った石原の後ろに質素なモンペ姿の妻と付き添いの看護婦などが続いた。
 石原の妻は、陸大国府教官の長女である、石原は陸大のときに両親が決めた女性と結婚
 し二カ月で離婚したが、のちに知人の勧めで見合い結婚した。看護婦は当時三十三歳で、
 福島県の医師の娘で、父子ともども石原の治療と看病に尽くした。
・昭和二十年九月に新庄で石原が講演したときは、聴衆者は三万人だった。しかも国鉄は
 秋田や鶴岡などから無料の臨時便の貨客列車を出した。その講演で石原は次のように語
 った。「諸君に勇気が足りなかったから敗けたわけではない。誤れる指導者たちが、準
 備のない戦争に我々を引きずり込んだから敗れたのである。彼らは祖国を裏切り、天皇
 を裏切った。我々は今やアジア共栄圏を再建してまったく新たに出直さなければならな
 い。しかし今度は武力を持ってではなく、アジア諸国民との友好を通じて、これを成し
 遂げなければならない。我々はいまに、おそらく十年以内に、旧に復しうるであろう。」
 
関東軍作戦主任参謀・石原莞爾
・ナポレオン戦史の研究家として第一人者で、昭和天皇に「ヨーロッパ戦史ナポレオンと
 フリードリヒ大王」を一週間進講した石原は、敗者が勝者に戦犯として処刑された歴史
 を知っているだけに、日本人では誰が戦犯として処刑されるか、おおよその見当はつい
 ていた。彼を含め、太平洋戦争を決断した当時の東條英機首相兼陸相、杉山元参謀長、
 永野軍司令総長、海相の島田らを初め、多くの軍人、政治家が逮捕されるだろうと予想
 している。
・石原の場合は、アメリカがハワイに進出した時点で「日米開戦は必至の運命。二十世紀
 における最大重要事にして世界歴史の大間接なり」と予言し、アメリカが進出しようと
 した満州を占有すべしと主張し、対米戦に向けての布石を築き、昭和六年九月の満州事
 変当時、関東軍の作戦主任参謀として作戦を立案、実行した張本人だった。   
・石原らの主張は、「満州を安定させるには、関東軍で占有する他にない。このままでは
 日本人は満州から追い出されてしまう。彼らは国際法が通じない連中だ。武力で占有し
 て、満州を統治する」というものだった。
・石原は日露戦で使った二十四センチ砲を奉天のコーリャン畑に設置し、柳条溝事件をき
 っかけに張学良軍の拠地である奉天お北大営にぶっ放して戦火を切った。関東軍の兵力
 は一万の第二師団のみで、張学良軍は二十二万の大軍だった。しかもイギリス、ドイツ  
 ソ連製の武器の他、戦闘機まで備えた近大装備の軍隊である。正面から挑んでは、端か
 ら勝ち目はなかった。しかし軍略家の石原は、張学良の心臓である奉天の北大営西門に
 二十四センチ砲をぶっ放して城壁を破り、突撃した。今川軍を破った信長の桶狭間の戦
 いを思わせる作戦である。それからわずか三カ月で、満州全土を占有し、昭和七年三月
 には反張学良派の民間人の要請に応じて、関東軍は身を退き、満州人による満州国を建
 国した。その仕掛人が、四十二歳の若き作戦参謀、石原莞爾中佐だった。この偉業はマ
 ッカーサーを含め、全世界の軍人たちを震撼させた。
・マッカーサーが二度目のフィリピンに高等弁務官として就任した昭和十年秋は、ちょう
 ど石原が仙台の第二師団第四歩兵連隊長から参謀本部の中核である作戦課長に大抜擢さ
 れ、三宅坂の参謀本部に勤務した年である。
・石原は作戦課長になると、先ず国家百年の計として、日本の国防国策を提案した。国防
 国策は明治時代に作成されてはいたが、時代に沿わず、無国策だった。彼は国力のない
 日本の国防国策のため、日本と満州の重要産業を五年ごとに計画、育成し、国力をつけ
 る案を打ち出す。それが「日満重要産業五カ年計画」である。
・石原は、必ずソ連はウラジオストックやハバロフスク、ブラゴエシチェンスクなどの極
 東軍事基地を強化し、満州に三方から侵攻してくると予測している。ソ連の子供の教科
 書には「満州を取り戻そう、奪還しよう」と書かれていたからである。モスクワで情報
 を得た彼は、「満州は共産党を喰い止める日本の生命線である」と部下たちに説諭した。
・だがこうした最中の昭和十一年二月二十六日、陸軍将校による叛乱が起きた。不運にも、
 石原は参謀本部作戦課長のまま、戒厳司令部の第二課長を兼任させられるのである。
・石原は読書家で、企画力でも奇才だった。二階建ての小さな借家の玄関脇には四畳半の
 書斎室があり、壁三方には本棚が並んでいる。机の上にはいつも「広辞苑」が置かれて
 いた。
・石原は、参謀本部第一部を組織変えすると、新しく戦争指導課を設け自ら指揮した。そ
 こで打ち出したのが「十年不戦」である。「十年間、決して戦さをせず、日満重要産業
 五カ年計画を進めて国力を養い軍備を強化し、必ずや最終戦争をアメリカと戦うことに
 なる」と予想し、対米戦に備えた。それも、戦艦ではなく、飛行機による戦いで終わる。
 しかも一国の大統領、首相がボタンひとつで決着する、という戦さにかわり最終戦争を
 迎える、という予測である。皮肉にも後年、石原の予言通り原爆が一人の軍人のスイッ
 チで投下され、広島、長崎が爆撃されることになる。
・石原は参謀本部第一部長になった昭和十二年に、国家戦略を作れぬ政治家に代わり、日
 満産業開発計画構想を立案し、実行のため林内閣を立ち上げた。その年の七月、北京か
 ら西の盧溝橋で中国軍からの実弾発砲をきっかけに日支間の武力衝突に発展した。石原
 は満州国の経営のため、事変が拡大しないように天津に駐在している司令部とかけ合い、
 現地解決を成立させる。だが北支には、中国共産党が北西から進出し、謀略をもって現
 地日本人被害を加えた。日本人二百人が中国の保安隊によって虐殺された通州事件や、
 北京と天津を結ぶ電話線を切断、電線切断、レールは餓死など、ゲリラ戦法に出てくる。
 ついには廊坊事件が発生し、日中は小競り合う。
・満州へソ連軍が侵攻するのを警戒する参謀本部第一部は、戦火が拡大しないように「止
 め」に出るが、石原が満州の関東軍から呼び寄せ、作戦課長に起用した武藤章大佐と陸
 軍省の田中新一軍事課長、杉山元陸相らの主戦派によって、少数意見の石原派は包囲さ
 れてしまった。大局に立って全体を見れない陸軍省と武藤課長らにより、石原は第一部
 長を追われ、満州の東條英機が参謀長をしている関東軍へ、更迭されるのである。
・二度目の関東軍では、主よして作戦だけの仕事で、満州国の再建に意欲的だった石原は、
 政治と経済には触れられず、居ても立ってもいられなかった。ついには東條と衝突し、
 冷やメシを喰う存在になる。
・海軍は対米戦を想定し、石油確保のためボルネイ、インドネシア、インドシナに侵攻す
 る方針を固めていた。陸軍はまだ満州と北支を守る方針だったが、武藤、田中、東條陸
 相は海軍に協力して石油資源を確保した意向だった。しかし、石原は、「まだ支那との
 戦さが解決していないときに、戦局を広げるとは何ごとですか。陸軍は南方進出に断然
 反対すべきである。まず蒋介石と講和してからである」と反対した。石原は、東條、武
 藤に噛みついたため、半年後の昭和十六年三月に陸軍をクビになる。中将の定年は六十
 歳だが、石原は五十二歳で軍を追われた。
・石原は、東條が作家島崎藤村に頼んで監修させた悪名高い「戦陣訓」を巡っても東條と
 対立している。「東條は天皇統率の本義を蹂躙した不敬きわまる奴である。陸軍大臣は
 文官として政治に参与するものであり、全軍に精神訓育などできる身分ではない。戦陣
 訓などもってのほかであり、統帥権の干犯である。軍人へ訓諭は明治天皇陛下の軍淫勅
 諭だけである」といって、将兵には読ませなかった。これも、東條陸相の逆鱗に触れて、
 ついに石原は昭和十六年三月にクビの内示を受けたのである。
・軍を追われた石原は、立命館大学の教授に迎えられた。新しく「国防研究所」ができ所
 長となり、大学で国防論を講義した。雄弁な彼の講義は人気が高く、近くの京都大学の
 学生までが潜り込んで聴講していた。
・この立命館大学教授のとき、石原は「国防論」を立命館大学出版部から出版した。この
 本はベストセラーとなり、国民を勇気づけた。ところが、東條は憲兵と特高を遣って
 「発禁処分」に出た。また中央公論社から出版した軍事学の著書「戦争史大観」も、出
 版元に圧力をかけて、出版差し止めに出た。ついには、立命館大学の中川総長に圧力を
 かけ、石原を退めさせた。石原は無職となり、京都にもいられなくなった。痛風の母親
 と妻と三人は京都を離れ、郷里の鶴岡に戻る。
・東條首相が石原に会う機会を交渉させたのは昭和十七年の秋である。陸軍二個師団が全
 滅したガダルカナル戦後のことで、東條は今後の戦い方について、石原の意見を求めて
 いる。石原はそのとき初めて、海軍はミッドウェーで空母四隻を失い敗北したことを知
 る。ガダルカナル島の戦況も知らせられる。そこで石原は、「ただちに、全員引き揚げ
 て、和睦を交渉することだ。戦さは最後まで分からないけど、戦域を縮小することだ」
 と言ったあと、「戦争は、あなたでは勝てない。あなたには戦争はできないことは、最
 初から分かりきったことだった。このまま行けば日本は亡び、満州も台湾も北方も何も
 かも失ってしまいますぞ。即刻、総理と陸軍大臣を辞めることです。それが早道です」
 そう言って、石原と東條の会談は物別れになった。
・ガダルカナルからの撤退は翌年早々に実施されるが、石原の諫言を無視したため、サイ
 パン島の日本軍は全滅した。この前後から、参謀本部付の津野少佐と皇宮警察柔道師範
 の牛島が三笠宮に持ちかけて、東條暗殺を計画したが、憲兵に漏れて不発に終わった。
 また海軍でも高松宮周辺が東條暗殺を練ったが、こちらも憲兵に漏れて中止となった。
 しかし、まもなく東條英機は総理を辞職した。
・戦後の石原は、終戦と同時に上京し、天皇を中心とする国体を護持するため、東久邇宮
 を口説いて組閣運動に走った。宇都宮での講演会での石原の第一声は「皆さん、敗戦は
 神意なり!」だった。そして「負けてよかった!勝った国は今後、益々軍備増強の躍進
 をするであろうが、日本は国防費が不用になるから、これを内政に振り向ける。戦争で
 蒙った国土の荒廃は、十年で回復しますよ!」「どうですみなさん!何も悲観すること
 はありません。後のカラスが先になるんです。敗れた日本が世界史の先頭に立つ日がく
 るのですよ!」
・石原は講演先では「一国の大統領ともあろう者が数十万の非戦闘員の殺戮を目指す原子
 爆弾投下を命ずるとは、世界の戦争史上類例を見ない暴挙ではないか。私を講和の全権
 大使させれば、私はアメリカから賠償を取ってくる。トルーマンこそ戦争犯罪人だと石
 原が声を大にして叫んでいた、とマッカーサーに言え!」と傍聴している記者や私服特
 高たちに向かって叫んだ。

マッカーサー軍政に堂々と批判
・石原が戦犯リストから除外された背景には、GHQ内で「石原を法廷に出すとやっかい
 である」「全世界のメディアが見守る中で、トルーマン大統領が第一級の戦犯だと発言
 されたら、アメリカの恥になるばかりか、裁判が長引き、ことによったら大混乱になり
 はしないかといった議論が交わされたと想像する。共和党系のマッカーサーは、極東国
 際軍事裁判で戦犯を処分しアメリカへ帰国後、次の大統領選に出馬する腹であった。そ
 のためには、原爆と投下したアメリカは、石原に発言されてはまずいばかりか、マッカ
 ーサー自身にも跳ね返ってくることになる。
・昭和二十一年四月、講和条約締結前でまだ交戦状況下にある昭和二十一年四月、石原は
 マッカーサーやトルーマン大統領、アメリカ国民に向かって堂々と反論した。「私が現
 役に止まっていたら、あなた方アメリカ人にもっと金を使わせたでしょう。前線を縮小
 し、アメリカの補給路を延長させ、日華事変を解決すればもっとうまくやれたと思う。
 日本の指導者たちがミッドウェーの敗戦の意義を理解し、ソロモン群島の防衛戦を強化
 していたら、太平洋の広さが日本に味方したにちがいない。山本五十六大将らは誤りを
 犯した。どこに根拠地を求めるかを知らなかったからだ。サイパン失陥を聞いたとき、
 私は敗戦を覚悟した」「私は支那とは和平できたと思っている。われわれは東亜連盟に
 非常に確信を持っていた。その精神を中国民衆に滲透させることができたら、戦いを終
 えることができた。東亜連盟は終始非侵略主義だった。連盟は、中国が満州国を承認さ
 えすれば、日本軍隊は中国から撤退しうると論じた。蒋介石は葬儀に結末をつける段取
 りとなっていたから満州国を承認しただろう。私は終始、中国本土から撤退し、満州国
 をソ連との緩衝地帯にせよ、との意見だった。むろん我々はソ連と戦う意志はなかった」
・そしてと石原は、東條について「無能な男と語る。「対中国政策に関しては、東條と私
 との間に別に意見の相違はなかった。なせなら、東條という男は、およそプラン(作戦)
 など立てる男ではないからだ。彼は細かい事務的なことはよくできる。しかし中国政策
 というような大問題に関しては全く無能だった。彼は臆病者で私を逮捕するだけの勇気
 もなかった。東條のような男やその一派が政権を握りえたという事実が、すでに日本没
 落の一因でもあった」 
・さらに石原はマッカーサーについて「不幸なことは、東亜連盟は貴国の命令で解散させ
 られました。東條も連盟を弾圧しようと試みましたが連盟は朝鮮でも満州でも、また支
 那においても力強い勢力を維持し続けただろう。マッカーサーが東亜連盟を解散させた
 とき、我々は旧日本の軍国主義とアメリカの軍国主義者とは何の違いもないことを知っ
 た。東亜連盟こそ、共産主義思想と対等の条件で戦える唯一の組織だった」
・軍隊生活について石原は「軍隊では私は兵隊にはすこぶる人気があった。今でさえ私の
 もとには人たちが、何処からともなく訪ねて来てくれる。が上官にはいつでも嫌われた。
 上官は正しい人間や正しいことが嫌いだったに違いない」
・日本の敗因について石原は「日本の真の敗因は、民主主義でなかったことだ。特高警察
 と憲兵隊のおかげで、国民はいつも怯えていた。しかしこれらの警察力が、今除去され
 たということが、ただちに日本の民主化を意味するものではない。が秘密警察が破壊さ
 れた以上、マッカーサーは日本人の手で追放を行わせるべきである。総司令部のやり方
 を見ていると、どうも信用できない人たちの情報に頼っている、というのが現状だ」
・石原は東條との対立について「東條には思想も意見もない。私は若干の意見は持って
 いた。意見のない者と、意見の対立などあるはずがないではないか」
・誰が第一級の戦犯かとの問いに対して石原は、アメリカ軍が飛行機からバラ撒いたビラ
 を手にして「もし、日本民族が銃後において軍と共に戦争に協力するならば、老人、子
 供、婦女子を問わず、全部爆撃する、だから平和を祈願して反戦態勢の機運をつくれ」
 とトルーマン大統領名で書かれている。これは何だ。国際法では、非戦闘員は爆撃する
 なと規定があるにもかかわらず、非戦闘員を何十万人も殺したではないか。国際法違反
 である。このビラがそうだ。立派な証拠である。トルーマンの行為は第一級の戦犯だ。
 一国の元首である大統領ともあろう者が、こんなビラを出したのは蛮行である、と。
・マッカーサー元帥の軍政についてどう思うかとの問いに対して石原は、「それは大失敗
 だな。マッカーサーは過去の日本軍隊の軍政とまったく同じことをやっている。満州国
 は世間では悪く言う。一面では、確かに日本軍隊お侵略的結果だけが目に映るようだ。
 しかし満州国誕生の経緯は充分に認識されていない。これは後世の歴史家により、改め
 て研究する必要がある。このままでは後世を誤ることになる」「各民族は歴史駅にも各
 々言い分がある。不平もある。各民族はそれぞれに主張し得る権利を持っていたのが満
 州である。その各々の言い分や権利を揚棄して大きく協和する。アメリカのカリフォル
 ニア州のように美しい国にしようと、率然と出現したのが満州国だった。それは激しい
 闘争と苦闘の体験から生み出した歴史の必然だったのだ」「マッカーサーが失敗する原
 因は、一般の日本人から嫌われている日本人の最も軽蔑するオベッカ使いの言い分を信
 用して軍政を行っているためである。それはあたかも漢奸によって誤った日本軍の轍を
 踏むのと全く同じであるのだから、マッカーサーは失敗するに違いない」
 
酒田臨時法廷 一日目
・満州事変について石原は「満州事変の中心はすべてこの石原である。事変終末は錦洲爆
 撃である。この爆撃は石原の命令で行ったもので、責任は石原にある。しかるに石原戦
 犯とされぬことは腑に落ちない」
・アメリカとしては石原を裁判する必要はなかったらしい。だが満州事変で世界的に名が
 売れてしまって、世界的な大立者となっている。そこでソ連その他の世界列国の注目の
 手前もあり、裁判に付さぬということもできない。それで石原に発言させずに、一応形
 式的に証言させて、ソ連その他の列強国に向かっても、いかにも石原を裁判したかのよ
 うに見せて、東京裁判を有利な方に導きたい。それには酒田市辺りの田舎の方が目につ
 かなくてよろしい。とにかく石原に発言を与えぬ方がよい、という方針でやって来たも
 のと信ずる。  
  
酒田臨時法廷 二日目
・マッカーサー軍政は大失敗であると言ったがいかなる点でそうなのかの問いに対して石
 原は、「その第一は、敗戦国の精神を侮辱していることである。君らは間違ってはいけ
 ないよ。君たちが日本に勝ったのは武力が少しばかり日本より強かったからである。つ
 まり武力、拳骨で勝ったのである。精神の問題ではない。精神が劣っているから日本が
 負けたなどという馬鹿げたことがどこにあるか。腕力の強い奴が、腕力の弱い者より精
 神がすぐれているなどと定めていることが間違いではないか。日本には日本の優れた精
 神がある。マッカーサーは異本に来て敗戦国の精神を侮辱し、民主主義を強要している
 のではないか。勝った国が、負けた国を奴隷的扱いをするということは大きな誤りであ
 る」
・さらに石原は続けて「勝者は敗者に対する思いやりこそ大切である。武力に勝ち、精神
 にも勝ってこそ、はじめて勝者となり得るのである。マッカーサーは日本人をセパード
 のように訓練しているが、さてその効果はどうか。教育は教育者が被教育者の立場に立
 って行うこ とにおいて、はじめてその効果も目的も達せられるものである。日本軍が
 満州・中国でやったように、勝者が敗者に対する態度は、すなわち支配、被支配の関係
 では、教育は絶対にできるものではない。教育はなんといっても、教育者、被教育者の
 心の通いが大切である。支配被支配の間柄では、心の通いなどあるものではない。」
 「日本は石炭不足でストーブもたけない。国民は寒さに凍えている。ところが進駐軍の
 ストーブだけは赤々と燃えているというではないか。また日本の汽車は非常に混雑し、
 人死がある騒ぎである。二、三日前もこの付近で、背負った赤ん坊が圧殺されたという。
 しかるにこの混雑する列車のさなか、特別に上等で、君らうあ進駐軍だけの専用列車が
 ある。がら空きと言ってよい。二十三人しか乗っていない。どうだ君たち、これが君等
 のいう民主主義なのか。これがマッカーサーの強要する民主主義なのか。これでは日本
 がかつてやってきた特権階級的態度と何ら変わらない。いやそれどころではない。日本
 軍が占領地で取った態度も、決してこれほどひどいものではなかった。部隊の出動には
 一貨車専用の場合もあったが、個人の出張、少数者の行動は、現地人と同じ客車に乗り、
 汽車賃も出していたものだ。日本の過去を罪悪といって、これを責め裁く君ら自身が、
 全く日本人と同じことをしていながら、馬鹿げた優越感を奮って、日本人を動物扱いし
 ている。日本人の精神まで侮辱している」
・さらに石原が続けて「満州国を世間ではいろいろ悪く言うが、なるほど一面だけに固執
 して見れば、たしかに異本軍の侵略的な結果だけが目に映る。しかし満州国の誕生に際
 しての経緯は一般に認識されていない。それは後世の歴史家によって、あらためて検討
 を要する重大問題であり、世界的意義を有するものである。このままでは後世を誤るこ
 とになる。元来満州という所は東亜諸民族混在の地で、各民族おのおのお言い分があり、
 民族間の闘争の絶え間なかった所である。激しいこの闘争と苦闘の結果、協和がなくて
 は生存も繁栄も到底できないことを悟って、民族協和という新道徳が創造され、民族協
 和のうるわしい理想郷の建設を目指して、満州国は生まれたのである」「満州国の失敗
 の原因は、非革新的な官僚を計算の中に入れなかったことと中国人の嫌う漢奸を使った
 ことである」
・さらに石原の主張は続き「失敗の第三点は、日本にたった一つの最も民主的な団体であ
 る東亜連盟を解散させたことである。東亜連盟は戦争中、東條軍閥、右翼団体から、民
 主主義である、平和主義である、国際主義である、反戦論であるといて弾圧されていた。
 それをマッカーサーは解散させてしまったではないか。これで日本に民主的な団体はな
 くなってしまった。我々はマッカーサーも東條軍閥と少しも変わりのないことを知った。
 しかもその権力的なことは東條よりもはるかに強圧であることを知った」
  
エピローグ
・現在の日本の不幸は、政治が「日本の進路」を持たず、計画経済を打ち出せないからで
 ある。それは昭和十年頃の日本とよく似ている。政治家が無力だったため、陸軍省や参
 謀本部の若手将校たちは、政府に代わって国防国策、経済計画を打ち出した。その中心
 人物が、当時参謀本部作戦課長の石原莞爾大佐だった。彼は仙台の第二師団第四連隊長
 だったが、満州と日本の再建を目指していたところを、参謀本部に抜擢された。
・しかし、少数意見の石原グループは、やがて主戦派の東條軍閥によって次第に排除され、
 計画性のない戦さへと進んでいった。大局に立って見ようとしない無能な指導者が集ま
 ると、それは不幸の始まりでもある。今こそ、私たちは、軍略家石原莞爾に学ばなけれ
 ばならない。