再考「世紀の遺書」と東京裁判 :牛村圭 |
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この本は、いまから20年前の2004年に刊行されたものだ。 この本の著者は「比較文学」「比較文化論」を専門とする学者のようだ。 「世紀の遺書」と「東京裁判」という言葉に興味を持ち読んでみたのだが、「比較文化論」 とは何たるかも知らない私にとっては、なかなか難解な一冊であった。 BC級戦犯裁判や東京裁判、そしてA級戦犯、さらには著書「菊と刀」や『「甘え」の構 造」』と幅広く論理展開されているのであるが、この本の著者は最終的に何を主張したか ったのか、私にはよく理解できなかった。 一つ言えることは、「A級戦犯」という言葉を使用するとき、その「A級戦犯」と呼ばれ た人たちには、どんな人たちがいたのか、その人たちはどんなことをしたのか、もよく知 らずに使っている場合が多いという指摘には、確かにその通りだと思わずたじろいだ。 「A級戦犯」と言えば「東条英機」の名前は出てくるが、その他の人たちのことはよくわ からないというのが正直なところではないだろうか。 そして、その「A級戦犯」の中には、どうして死刑に処せられなければならなかったのか 疑問に思えるような政治家・外交官がいたのも確かだろう。 こう考えると、みんな一括りにして「A級戦犯」と呼ぶには、はたして適切なのだろうか と思える。 さらに言えば、この著者の主張するようにBC級戦犯裁判や東京裁判は「勝者の裁き」で あったのも確かだろう。それに異を唱えたい気持ちは、少なからぬ日本人が持っているだ ろう。 しかし、日本が無条件降伏し、ポツダム宣言を受け入れたからには、これを翻すことは、 国際的観点からして、無理筋といえるのも当然なのだろうと私はには思える。 ただ、「勝者の裁き」とは別に、日本国内の裁きとして、「A級戦犯」を含めて戦争責任 を総括する必要はあったのではないだろうか。 戦争責任のすべてを「A級戦犯」にだけに押しつけたまま、戦争全体についての総括をし ないままに現代に至ったことは、日本は大きな禍根を残したと言えるのではないか。 過去に読んだ関連する本: ・靖国問題 ・昭和天皇・マッカーサー会見 ・パール判事の日本無罪論 ・東條英機 「独裁者」を演じた男 |
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序にかえて(対日戦犯裁判と日本文化論から「戦後」をかえりみる ・「ベン・ブル−ス・ブレークニ」とは、「東郷茂徳」や「梅津美治郎」担当の弁護士と して極東国際軍事裁判に忘れ得る足跡を残したアメリカ人弁護士である。 ・対日戦犯裁判は、日本の戦後精神史に大きな刻印を残した。 戦争犯罪人とされた人たちの足跡を具体的に検証などせずに、彼らにまつわる全てを負 の遺産と断じ、およそ戦前的なるものは悪である、という見方を生むきっかけとなった。 戦後は一つの「空気」である、と考えるならば、対日戦犯裁判はその戦後の空気を作る のに、多大の影響力を行使した。 同じ国、同じ場所であっても、時代が変われば空気も変わる。 しかし歴史は連続するため、その中にいると空気の変化は気づきにくい。 ・連合軍による敗戦日本を断罪する裁きの場であった戦争犯罪法廷は、その頂点に立つ東 京裁判(極東国際軍事裁判)における主席検察官の発言、 「我々はげんにここで全世界を破壊から救うために文明の断乎たる闘争の一部を開始し ている・・・彼らは文明に対して宣戦を布告しました」 に如実に表れているように、「文明の裁き」と称された。 ・文明を標榜して裁いた連合国側の戦後の行動、ソ連の東欧諸国への軍事介入、アメリカ のベトナムへの派兵など、を振り返れば、その「文明」は粗末で、偽善に満ちた枠組み だったと結んでよい。 つい先ごろ(平成16年4月)世界に報じられた米軍兵士によるイラク人捕虜への虐待 事件は、「文明の裁き」の欺瞞を再び思い起こさせた。 ・「BC級戦犯」の多くが、「ポツダム宣言」にあった「吾等の俘虜を虐待せる者」との 嫌疑をかけられた。 アジア各地や横浜に設置された軍事法廷で、戦争中起きた敵国兵への暴行や殺害、そし て俘虜収容所で発生したとされた虐待、の責任を問われ死刑を含む厳罰に処された。 ・イラク捕虜への捕虜虐待の一件は、日本の占領期の基準に適応するならば、疑いなく 「BC級戦犯」として「厳重なる処罰」を加えられる類いの犯罪だった。 対日裁判で掲げた「正義の正しき執行」という大義が高貴な理想と主張とするならば、 米軍は前例を準拠して、「厳重なる処罰」を加えてこそ半世紀前の大義が本物だった、 という理屈になる。 しかし、涙ながらに虐待の実態を証言し、虐待した被拘束者や家族、イラク国民に謝っ たという一兵士は、禁錮一年の判決を受けたに過ぎない。 正義の感覚からして、半世紀前と比して著しい不公平がある。 ・一方、対日軍事裁判では勝者の行為は一切不問に付された。 勝った側が判事席に座った。 「勝者の裁き」と形容される所以であり、この見方はいまや誰もが首肯する視角である。 <BC級戦犯裁判と戦後思想> 不条理に抗する言葉(「世紀の遺書」という文学) ・平和を享受する世から、その平和の対極にある戦争を倫理的に批判することはたやすい。 だが、倫理を振り回すだけでは歴史の解釈はかなわない。 そして、他社の高みに立ち倫理的糺弾をもって史実を解釈し得たとすれば、自己満足以 外そこからは生まれてこないだろう。 ・なぜあのような悲劇が起こったのか。大多数が戦争を欲していないにもかかわらず、 どうして開戦のやむなきに至ったのか。そして敗戦が残した内外への影響は何だったの か。 少なくとも、こういうことへも思いを巡らさなければ、歴史は一向に見えてこない。 ・「無謀な戦争」と切れ捨てる前に、たとえば、開戦を阻止しようと命がけで努めた東条 内閣の外務大臣、東郷茂徳の以下の言葉を噛みしめてみる必要があろう。 戦後、「『ハル・ノート』を受諾できなかったはずはない」という避難が東郷に浴びせ られるようになった。 そういう批判を、獄中で記した外交回想録の中で、 「戦争による被害が少なかっただけ有利ではなかったかとの考えがあるかもしれぬが、 これは一国の名誉も権威も忘れた考え方であるので論外である」 と喝破した。 過去の戦争を考えるにあたっては、倫理の前に論理、さらに「一国の名誉」「権威」、 すなわち国威といった要素をも勘案する必要があることを論した一文と読める。 ・「世紀の遺書」が埋もれた名著になっていることは残念に思う、ということは記してお きたい。 文学の完成度は、記された言葉の力ですべてが決まる。 出征した以上死を覚悟した身で書かれた手記と、翌日あるいは数日後に確実に訪れる刑 死という人為的死を見据えて書かれた遺書、この二種類を読み比べてみると、ともに心 動かされずに読むことはかなわない。 しかし、「世紀の遺書」の発する言葉の強さに、驚かさざるを得ない。 ・旧連合国の11カ国か構成される極東国際軍事裁判(東京裁判)で被告とされた28人 が「A級戦犯」であり、それとは別に、旧連合国各国により、かつての戦場であった地 および横浜に設置された軍事法廷で裁かれたのが「BC級戦犯」である。 そこでは5千人以上が訴追され、そのうち千人近くが刑死した。 戦後史の上で、看過し得ない事件となっている。 こうして戦争犯罪人とされ、刑死した人たち、および獄中で病死あるいは自裁した人た ちの遺書を編纂したものが「世紀の遺書」である。 収録総数約7百、そのほとんどが「BC級戦犯」の手による。 ・BC級戦犯法廷は、東京裁判同様「勝者の裁き」の場だった。 その裁きは、戦犯たちが収容されていた獄舎での取り扱いとともに、過酷なものだった。 ・日本を訴追対象とする戦犯裁判が有する欠陥の最たるものは「勝者の裁き」である、と いう批判は、開廷当時から根強く存在していた。判事席に座ったのは、中立国のメンバ ーではなく旧敵国の人たちであり、この一事だけで報復の側面を認めることができよう、 という批判である。素朴ながらも一理ある批判ではある。 だからといって、関係史料を精読することもなく感情の赴くまま裁判批判を展開してみ たところで、その批判は説得力を欠く。 ・裁判のうえで最も重要な証拠の取扱いにも、目を向ける必要がある。 検察側から提出された証拠が、反対訊問できない伝聞証拠であったり、あるいは、外国 語を解しない日本人被告から威圧的雰囲気のもとに採られた調書の類であった場合も少 なくなかった。 ・横浜軍事法廷で裁かれた戦争犯罪の中で、井上勝太郎大尉の関係した「石垣島事件」ケ ースというのは、被告数と死刑判決数で注目を引いた裁判だった。 この事件は、戦争末期の昭和20年4月、沖縄の石垣島で日本海軍警備隊が撃墜して捕 虜したアメリカ人飛行士3名を殺害した件に関わる。 警備隊は情報聴取ののち、2名を斬首、1名を刺殺したとされる。 戦況悪化のなか連日の空襲で仲間を失い警備隊の戦意が高揚し、また玉砕の日も近いと 覚悟を決めていた折に捕虜して敵兵の処刑だった。 ・やがて敗戦となったが、石垣島は玉砕の地とならず海軍警備隊の面々は生き延びた。 証拠隠滅のため、敗戦後米軍兵士の遺体を掘り起こし火葬の上、海中に投棄した。 だが、鹿児島県加施田の消印のあるGHQへの匿名の投書により、事件は発覚したとい う。 ・3名の捕虜殺害に対し、46名が起訴され、うち41名が絞首刑の判決が出た。 のちの再審の結果、最終的には34名が減刑されたものの、警備隊司令井上乙彦海軍大 佐をはじめとする7名が処刑された。 ・「戦争犯罪の実相」(巣鴨法務委員会)では、多数の死刑判決が出たのは「上官の責任 回避及び責任転換・・・責任のなすり合いにより、責任の所在判明せず」のため、と解 している。 そして「本事件は、横浜全裁判中もっとも復讐的にして、惨忍な裁判なり」と結んでい る。 ・井上司令に次ぐ副長というナンバーツーの地位にあった井上大尉は、遺書で「最初の命 令は誰にもよらず彼(井上乙彦司令)の独断によって発せられたことは間違いない事実 であった」とはっきり記す。 副長井上勝太郎大尉には、司令井上乙彦大尉が自己保身のため責任を法廷で名言しなか ったことに、判決の混乱ぶりの主因があるとうつった。 ・法廷でまず米軍兵士への自己の処刑命令の存在を否定したのち、一転して自己の責任で あると証言し、日本側弁護人をも混乱させた当の井上司令は、処刑直前になってマッカ ーサーへ嘆願書を書いた。 そのなかで「由来、日本では命令者が最高責任者でありまして受令者の行為はそれが命 令の場合はきわめて責任が軽いことになっています」と述べ、自分以外の6名の助命を 訴えた。 どうやら、井上大尉の言が真実のようである。 もっとも判決が出たあとで、それも処刑の直前になって、「自己に責任あり」と言って みても、その訴えの無力なことをも皮肉っぽく井上副長は言及している。 ・とはいえ、死出の旅路をともにする旧上官への憤慨を書き記しているのではない。 「彼の性格の弱さがこの事件に致命的であって取り返しのつかないことにしてしまった。 それは彼自らが人生の終わりの今において知り得るのだ。万事はそれで良い・・・私は 彼を非難しているのではない。再びこれに似たようなことを起こしてはならないという ことを悟っていただきたい」という記述から、達観といってよい境地になっていること を、読み手は窺い知ることができる。 ・なお、石垣島事件の被告への処刑は、巣鴨プリズン絞首台での最後の処刑となった。 時空をこえて死者の声を聴く(戦後史の中の木村久夫) ・「風も凪ぎ雨もやみたりさわやかに朝日をあびて明日は出でまし」 この短歌の詠み手は、どういう気持ちでこの31文字を連ねたんだろうか。 明日出て行く先は、心待ちしていた行楽地や景勝地などではない。 人為的にわが命を奪う絞首台なのである。 すなわち、一夜明ければ死出の旅が待っている。その折りの心境を託した一首だった。 ・時は昭和21年5月夜半、場所は南国シンガポールのチャンギ―監獄、そして読み手は 28歳の陸軍上等兵、木村久夫だった。 ・大阪出身の木村上等兵は、豊中中学卒業後、四国の旧制高知高等学校へ進み、その後、 京都帝国大学経済学部に入学した。 大学入学から半年後の10月に応召、学徒兵として戦地に向かう身となったのである。 病を得て前線への出発は贈れたものの、回復ののち南方総軍の一員として、インド洋ベ ンガル湾に浮かぶアンダマン・ニコバル諸島へ送られた。その中のカーニコバル島で数 度の激戦を生き延び、終戦の日を迎えた。 ・終戦直前の昭和20年7月、日本軍の戦況悪化に伴い食料補給も困難になっているなか で、米の窃盗事件がカーニコバル島で発生した。 窃盗犯として捕らえられた島民の一人は、イギリス軍の軍事情報等を送っているという スパイ活動を自白。その証言をきっかけに80数名の島民がつぎつぎに逮捕され、自白 という確証のもとに、「軍律裁判」にかけられ、そして処刑された。 ・この住民処刑事件のそもそもの端緒となったスパイを発見したのが、島の民政部に勤務 していた陸軍上等兵木村久夫だった。 木村に取り調べを受けたこの原住民は、取り調べののち間もなく死亡した。 ・戦後、この住民の処刑が戦争犯罪にあたると指摘され、旅団長「斎俊男」陸軍少将以下 16名の軍人とともに、木村上等兵はイギリス軍による対日軍事裁判にかけられた。 「BC級戦犯」である。 17名中、1人は免訴、1人は無罪となり、他の15名は有罪と判定された。 ・昭和21年3月に斎旅団長は銃殺刑、木村は他の4名とともに絞首刑を宣告された。 旅団長は5月3日に、そして絞首刑判決を受けた5人は、チャンギ―監獄で5月23日、 処刑されるに至った。 ・木村青年は母国への思いを馳せてこう記した。 「降伏後の日本は随分と変わったことだろう。思想的にも政治経済機構的にも随分の試 練と経験と変化とを受けるであろうが、そのいずれも見応えのある一つ一つであるに相 違ない。その中に私の時間と場所が見出されないのは誠に残念だ」 ・「戦争犯罪」という表現がある以上、戦争とは合法的な殺人である、という現実を改め て指摘したのは、東京裁判のアメリカ人弁護士「ベン・ブル−ス・ブレークニ」だった。 交戦方法こそ異なれども、今も昔も戦争の第一義は敵を破ること。そしてそこには当然 のこととして敵を殺害することが含まれている。 ・外地でのBC級戦犯被告の裁判は、しばしば原住民の密告に基づく検挙に出発した。 通訳陣は不備で弁護活動は不十分だった。 加うるに法廷側の報復的な処罰姿勢によって、無実の罪で極刑に処せられた例さえ少な くないといわれている。 他方、旧日本軍側の国際法の軽視ないしその教育の不徹底、それに命令に対する絶対服 従の軍律が、不幸にもBC級戦犯者として訴追されるべき事件の発生を容易にしたので ある。 ・木村の遺稿の一文「ニコバル島駐屯軍のために敵の謀者を発見した当時は、全軍の感謝 と上官よりの賛辞を浴び、方面軍よりの感状を授与されようとまでいわれた私の行為も、 一ヵ月後起こった日本降伏のために、たちまちにして結果は逆になった」からもわかる ように、彼は「島民のスパイ検挙がおこなわれた時、通訳をつとめた」のではない。 その前の、食料窃盗事件の犯人を取り調べたにすぎない」 その折、一被疑者の口からスパイ事件についての自白が得られ、それをきっかけとして かねたより疑われていたスパイの存在が明らかとなり、いわば芋づる式に原住民の検挙、 そして裁判・処刑へと発展したのである。 そして重要なことは、木村自身は、この原住民の処刑には関わっていないことである。 ・「BC級戦犯」木村久夫は、こうして見てくると、「A級戦犯」「広田弘毅」と似てい るところが多分にあるようにさえ思えてくる。 すなわち、ともに死刑に値しない身の潔白さを有しながら、戦犯裁判という空前の異文 化の裁きの中で極刑を宣言され、忌み嫌っていた軍人たちとともに処刑された、という 悲劇の主人公、という見方が成り立つであろう。 ・アンダマン・ニコバル島関係の裁判での一弁護人は、以下の回想を記しているが、これ は対日戦犯裁判の本質を突いていると思われる。 「軍事法廷は、一応公正な形で審理が行われた。原告官の証拠は、証人のみであり、そ の証人たちは、アンダマンから船を仕立てて運ばれ、証人のためのキャンプに食事付で 収容されていたと聞いた。もちろん、キャンプでは原告官側のトレーニングが徹底的に 行なわれたらしく、証言は身振り手振りを交えた類型的なもので、信憑性など到底認め られないものであった。反対訊問は制限されなかったが、判決の結果には全く影響がな かった・・・弁護人の意見陳述に内容の制約はなかった。弁護人は、復讐裁判であると も叫んだ。日本軍隊における上官の命令に絶対服従の規律を強調し、いわゆる期待可能 性の議論も試みた。しかし、一切無駄な努力に過ぎなかった。 <東京裁判から日本文化論へ> 英米法で闘った人(高柳賢三弁護人) ・東京裁判の弁護人「高柳賢三」は、何よりも英米法学者高柳賢三であった。 ・近代日本は、ドイツやフランスの流れをくむ大陸法に主に依拠して、法典整備を行なっ た。 たとえば刑事法事件を扱う刑事訴訟法では、戦前、裁判官が自ら被告人に問いただして 犯罪の有無、およびその実態を明らかにするという糾問主義的な仕組みがとられていた。 しかし、英米法では異なる。 訴追は検察側に任せ、裁判官は検察側、弁護側双方の言い分をよく聞いて、公平な第三 者的な立場から判定を下すという弾劾主義的な方法が採用されていた。 したがって、大陸法で法体系を整備してきた日本にとり、東京裁判が基づくと予想され る英米法は異文化だった。 ・こういう近代日本の西洋法受容史を考えれば、まもなく実施されようとしている東京裁 判は、連合国という「他者」が裁くという異文化の裁きであるばかりか、慣れ親しんで きた大陸法ではなく英米法で裁くという構図を持つため、日本にとって二重の意味で異 文化となるものだった。 ・昭和21年2月から戦犯担当となって戦犯裁判につきGHQとの連絡にあたっていた外 務省の「太田三郎」公使には、日本人弁護団が英米法に不慣れであることが一番の弱点 に思われた。 太田は、アメリカ人弁護人をつけることを考えた。 首席検察官「ジョゼフ・B・キーナン」に早速相談したところ賛意を得たのでウエッブ 裁判長に陽性の手紙を出した。 裁判官の合同会議の結果、その希望は受け入れられ、費用は占領軍が負担することに決 まった。 ・太田公使の配慮が実りアメリカ人弁護人が揃ったのは、しかしながら、開廷から半月ほ ど経った昭和21年5月中旬だった。 とはいえ、英語で反駁し英米法のルールで応戦しなければならない東京法廷、相手側の 法論理をもって戦わざるを得ない勝者の裁きの庭で、英米法に通じ西洋側の事情に明る いアメリカ人弁護人の存在は不可欠だった。 ・もちろん、日本人弁護人の働きを過小評価するのではない。 日本側の複雑な事情を知り、それを弁護に役立てられるようにアメリカ人弁護人に伝え ることができたのは、日本人弁護人をいて他にはいなかったのである。 もっとも、肝心の日本人弁護団は、速成の気味が多分に感じられる集団であったことも 確かである。 構成要員については、「大島浩」被告担当の主任弁護人、島内龍起の説明が詳しい。 「正副あわせて百人に近い日本人弁護人の中には、訴訟の実務や刑事弁護の経験が全く ない人が多数いた・・・彼等の中には純粋な軍人もおれば、最近まで外交官であり行政 官であった人も多く、学者、政治家、右翼主義者、被告の親戚までいるというありさま で、被告を代表すべき主任弁護人の中にさえ弁護士の経験のない人が、5、6人いたし、 英語がよくできるというだけの理由で、あるいは被告との特別の知り合いの関係から弁 護を依頼されたような人も多かった」 ・「A級戦犯」とされた人たちが、次々に巣鴨プリズンへ収容されてきてきた。 容疑者のほとんどが、来るべき公判に備えて弁護人を獲得し始めた。 しかし警備上の問題などから、被告候補者には弁護人との面談は許されなかった。 だが、三人の日本人弁護人がプリズンの外側から、差し迫る弁護の指揮を遠隔操作して いた。 その三人とは、「清瀬一郎」、「鵜沢総明」、そして「高柳賢三」であった。 ・個々の被告から依頼されて弁護人となった者たちの集団、それがこの未曽有の裁きの臨 む日本人弁護団だった。 「朝日新聞」の法廷記者団の一員であった野村正男は、この弁護団につき以下の回想を 残している。 「弁護士の世界ほどまとまりにくいところはないという・・・この法廷は従来のものと は全く勝手がちがったもので、事件そのものが個人の刑事事件でもあり、また国家を対 象とするような一面もあって、弁護団としてはなかなか一致し難かったこともある。 最初から一番まっとまっていたのは、麹町の清瀬邸にあつまった真珠湾開戦関係のグル ープで、つぎには高柳賢三氏を中心とする一グループであった」 ・傍目から見ても「なかなか一致し難」い、と思えた弁護団は、実際権力争いを抱えても いた。 ブラックマン記者は、鵜沢総明が満場一致で団長に選出された、と書くが、島内弁護人 によれば真相は異なる。 鵜沢か清瀬一郎かという状況の中で、鵜沢は自分を支持するメンバーが多い日を選び、 その日に突然選挙を行なうという「不公平な手段」に訴えて団長に選出されたのだとい う。 ・結成にあたって二つの流れがあった日本人弁護団は、その後の弁護の方針についても対 立した。 「国家弁護」か「個人弁護」か、という方針の対立である。 天皇に迷惑をかけぬこと、すなわち、天皇が被告に選定されるのは極力避けるばかりか 証人としての出廷依頼は絶対しないこと、では意見の一致を見た。 しかし、国家弁護を優先して個人弁護を第二とする、つまり、個人の身の証しは立って も、それによって日本が侵略国とされるような事態の発生は回避する、という点では意 見が割れた。 基本的人権の侵害にあたる、という意見も出された。 論理と常識とを武器として(山本七平の東京裁判) ・BC級戦犯裁判について「山本七平」は、二つの著作を遺している。 一つは「私の中の日本軍」、もう一点は「洪思翊中将の処刑」である。 ・「私の中の日本軍」は厳密の意味では、「BC級戦犯」裁判論というのではない。 しかしその論述の中心には、昭和12年12月の日本軍による南京陥落に伴って起こっ たとされる、「南京事件」を裁く中華民国の軍事法廷で銃殺刑の判決を受け、処刑され た二人の日本人将校を採り上げている。 昭和12年当時、ある新聞記事は二人を「百人斬り」を競い合う勇士に仕立て上げ、 軍国の英雄にしてしまった。 そのため「百人斬り」は既成事実となり、必然的に戦後二人は、残忍行為を行った戦争 犯罪人として処刑されざるを得なくなった。 新聞記事の「虚報」が二人の青年将校の命を奪うにいたるという悲劇の、論理的展開を 克明に追う試みである。 ・「私の中の日本軍」は、戦場でのデマ、さらに戦争一般に対する世間の誤解を、例を挙 げて検討し、それが事実ではないゆえんを説くことから始まる。 戦争を知らない世代には「事実」と思えてしまうことを、次々と挙げて説得力ある筆致 で論破していく。 著者の実戦経験と、論理的思考の完成度の高さを感じさせる書きぶりである。 ・著者による「百人斬り」記事反駁を期待してこの書を手に取る者は、このような段階を 追った書きぶりを少々歯がゆい、と思うかもしれない。 せっかちな読み手ならば、じれったいという印象を持つだろう。 本丸にそのまま突入する軍備も軍勢も有しているのに、まず外堀を埋め、しかるに後内 堀に取りかかり、それからようやく・・・というかくのごとき手法を、石橋を叩きすぎ ている、と言いたくなる向きもあろう。 ・しかし、このように慎重だからこそ説得力を持つのである。 「南京事件」のように論者がついつい感情的になりがちで、また自己の信奉するイデオ ロギーから自由になりにくいテーマであればこそ、著者の冷静で論理的な叙述は光って くる。 書かれた時からどれほど歳月が流れようと、この書を手に取る読者はいつの時代でも、 ひとたび著者山本七平の叙述のテンポに慣れ親しんだら、展開される論理的思考に知的 好奇心を満たされるだろう。 ・二人の日本人将校が「百人斬り」を行なった証拠として、中国の南京法廷が重視した 昭和12年当時の新聞記事には以下の記述があった。 「出発の翌朝、野田少尉は無錫を距る8キロの無名部落で敵トーチカに突進し、4名の 敵を斬って先陣の名乗りをあげ、これを聞いた向井少尉は奮然と起ってその夜林鎮の敵 陣に部下とともに躍り込み55名を斬り伏せた」 ・こういう事実はありえない、と山本元少尉は断定する。 この記事には、「日本軍というタテ組織では絶対に許されないこと」を行ったと書いて あるから、という。 歩兵砲の小隊長である向井少尉が中隊長の命令ではなく、野田少尉との私的盟約に基づ いて兵を動かしたとなれば、「大権の干犯・統帥権に侵害」であり、「日本軍では、こ れを行なったと判定されたものには、(軍法会議にかかられて)死以外にない」、つま りこの部分は記者の創作である、ということになる。 ・著者は、なぜこのような記事が出現したかという、記事の背景にある記者の心理の分析 をも付す。 すなわち、この記事は「前線で砲煙弾雨の下を駆け回って取材しております」という自 己誇示、「軍人以上に軍人らしく振舞っていたように自分を見せようという欲求しかな い人間」、が生み出したものである、という結論を出している。 ここにいたり、「南京事件」法廷をこえて、山本七平の叙述は戦時中の日本に見られた 風潮への批判、一つの日本人論となる。 ・「王様より王党的」そのままの、あの軍部より軍部的で、軍人より軍人らしく振る舞い、 軍人以上に好戦的言葉を弄していたあの「軍系民間人」、砲煙弾雨の中を駆けめぐって いたか如き自画像を華々しくかかげ、兵士の屍体を踏台にして大見得を切り、軍にゴマ をすって、われわれ下っ端を憤慨させ、またそれに一言でも異論をのべれば非国民扱い をしたあの人びと、あの人たちの正体は一体全体、何だったのだろう。だれか糾明して ほしい」 ・「洪思翊中将の処刑」は、法廷での論戦を多く採り上げていて、本格的な戦犯裁判論に 仕上がっている。 韓国出身の洪思翊中将は日本の陸軍大学校を卒業した将官であり、戦後フィリピンでの アメリカ軍による軍事裁判で戦争犯罪を問われ、公判では一言も発せず、絞首刑の判決 を受け昭和21年9月処刑された。 洪思翊中将は南方総軍の兵站総監の地位にあった。 兵站監部は、軍の作戦に必要な物資の補給と兵站線の整備を主要任務とする。 その頂点に立つ洪思翊中将が、捕虜虐待の罪で有罪となり処刑されたのである。 「洪思翊中将の処刑」はその疑問を解こうとして書き上げられた。 ・対日戦犯裁判を論じる者は、その裁きの不条理に憤慨する山本七平の筆致は覚めている。 「考えてみれば皮肉である。検察側が自己の主張の正当性を裏づけるべく登場させた証 人たち、法廷で洪中将を告発した多くの証人、かつての捕虜・抑留者は、自分がその人 の処置によって生き、それによって今この法廷に立ちうるのだということも知らずに、 自分たちを無事に米軍に引き渡すべくあらゆる努力をしたその人を絞首台に送るべく、 一心に告発しているのであった」 ・敗戦直後、かつての日本の占領地で開廷された対日戦犯裁判、その裁きにうかがえる 「皮肉」を指摘するものとして、これにまさるものは知らない。 ここにあるのは、論理と常識とを駆使した説得力のある文章である。 ・山本七平は東京裁判において、「洪思翊中将の処刑」のなかで大変重要な発言を行って いる。 正確には、東京裁判への言及ではない。 東京裁判を扱った影響力を持った論考「丸山眞男」の「軍国支配者の精神形態」で注目 された表現「無責任体系」への言及である。 著者は「無責任体制」と言い換えてはいるが、文脈から同一のものであることは明白で ある。 ・この「無責任体系」の語は、「軍国支配者の精神形態」を高く評価刷する者はもちろん のこと、それ以外にも広く浸透したため、戦前戦中の日本政治を語る時、たいして注意 も払わずに今なお使われることが多い。 「無責任体系」に対する以下の批判は実に論理的で、読んでいて小気味よささえ感じさ せてくれる。 「『天皇制無責任体制』という言葉は、しばしば、各人が意識的に責任を回避できる非 論理的体制の意味に使われ、その意味で非難されている。しかし、考えてみれば『意識 的に巧みに責任を回避したり転嫁したりすること』は、明確な責任体制の中でこそ起こ り得る非論理的行為であり、体制そのものが無責任であるということは、それとは逆で、 その中の『責任者』が事実を事実のままに率直に述べれば述べるほど、責任の所在が不 明になっていく体制のはずであるそれであるからこそ『無責任体制』といえるはずで、 いわば正直であればあるほど責任の所在が不明になる不思議ではない体制のはずである」 「A級戦犯」の濫用を憂う(戦後精神史の一側面) ・ドイツでは、国際軍事裁判という狭義のニュルンベルク裁判閉廷ののち、12の「ニュ ルンベルク継続裁判」と呼称される戦犯裁判が実施された。 だが、被告人の数も総計2百人にも満たず、日本のBC級裁判の規模を有していない。 ・ドイツへの戦犯裁判を振り返る際、「A級戦犯」の語を聞かない。 ニュルンベルクのナチ被告は、せいぜい「主要戦争犯罪人」と呼ばれるにすぎない。 ・「主要戦犯」と「A級戦犯」、どちらの表現が耳目を引くのに効果的だろうか。 また、どちらが日本の国情に適した表現たりうるのか。 「主要」と一方で言えば、もう一方は「非主要」としか書けなくなる。 日本の戦後精神史のなかでは「BC級戦犯」こそが「主要」なのである。 したがって、その「BC級戦犯」を「非主要戦争犯罪人」とまとめてしまうことなど、 とうていかなわない。 「主要」は「非主要」か、という区別ではなく、アルファベットを冠することで分類す るという手法の方が、戦後日本の精神的風土を考えれば利にかなっているとさえ言えよ う。 ・終戦直後の日本人が「A級戦犯」という語に、罪万死に値するような重大責任者、極悪 人、の意味を見てとったとしても、それは無理もないことであった。 戦争中は正確な情報を知りうる立場になかった上に、戦後は占領軍による、一握りの軍 国主義者だけが諸悪の根源であり、日本国民もまた犠牲者であるという、巧みな情報操 作が行き渡っていたからである。 ・だが、終戦から半世紀以上の時を閲してなお、「A級戦犯」イコール極悪人、では、思 考の硬直化の例以外の何ものでもない。 ・世間一般は、誰が「A級戦犯」であり、そのうちの誰が合祀されていて、かつその人た ちは、昭和の歴史上いかなる足跡を残したのかについて、「独習」の経験がなければ正 確な知識を有していない、と考えてまず間違いない。 ・実際、平成13年夏の参議院選挙に東京都から立候補した政治家の中に、靖国公式参拝 をめぐる質問を受けて、「朝日新聞」紙上で次のように回答している者もいた。 「アジアの民衆を傷つけた責任を負うA級戦犯が合祀されており、反省と償う姿勢に欠 けている」 ・一読して、この人は、誰が「A級戦犯」で、そのうちの誰が合祀されているのか全く知 らないで発言しているな、と思った。 自らの不勉強を恥じることなく、世間一般に流通している意味を振り回しているに過ぎ ない。 それでいて国政に参加しようというのだから、困り者である。 この国会議員志望者は、おそらく東条英機は知っていても、あの勇気ある職業外交官、 「東郷茂徳」のことは、聞いたこともないだろうし、知ろうとしたこともないだろう。 ・早期和平実現のため、終戦内閣となった内閣の首班予定者「鈴木貫太郎」に請われて外 務大臣として入閣し、和平反対派の襲撃をまさに命がけでかわしつつ、ついに8月15 日の到来を導いた東郷も、かつて開戦時の東条内閣の外相だったがために、その際の戦 争回避の努力は何ら考慮されず、「A級戦犯」の一人として訴追された。 禁錮12年の判決を受け、その後獄中で病死し、靖国に合祀されている。 東郷の、文字どおり生命を賭した努力があったからこそ、昭和20年夏、アメリカ軍の 本土決戦は回避され、その結果、平成の世の平和をこうして享受できていることに、参 議院選挙に名乗りを上げるこの政治家は思いも至らないのか。 政治家は、歴史学者である必要はもちろんない。 だが、いやしくも国政に携わろうと志すくらいの者ならば、歴史について発言する際、 どうか最低限の基礎知識を身につけてからにしていただきたい。 ・靖国神社に昭和53年秋合祀されたのは、刑死した、「土肥原賢二」、「板垣征四郎」、 「木村兵太郎」、「松井石根」、「東条英機」という5人の陸軍大将、陸軍中将の「武 藤章」、政治家・外交官の「広田弘毅」の7人のほか、公判中に病没した、「松岡洋右」、 「永野修身」、判決後、受刑中に病没した「平沼騏一郎」、「小磯國昭」、「白鳥敏夫」 「東郷茂徳」、「梅津美治郎」、以上合わせて14名である。 ・誰が「A級戦犯」で、そのうち誰が合祀されているのかは、言及されないことがほとん どである。 この14名の顔ぶれを見れば、「A級戦犯」合祀を批判する人たちが具体的に個人名を 挙げないのは、無知のためばかりでなく、意図的なのではとさえ考えられる。 それは、東京裁判の悲劇のヒーローとして度々話題となる広田弘毅が、「A級戦犯」の 一人であるからに他ならない。 ・たしかに廣田弘毅は、個性ある被告であった。 自己弁護も国家弁護も一切せず、証言台にも立たず、判決を受け黙々と死んでいった。 国家弁護と天皇のために、首席検察官と証言台で堂々と渡り合った東条英機の対極に位 置していた。 ・東京裁判は、多くの点で欠陥を持つ裁きであった。 裁きの場に提出された証拠に今日の歴史学の水準から見て、たとえあやしげなものがあ ろうとも、形式上は、証拠を重んじ、採用された証拠を根拠に、英米法に準拠して審理 は進められた。 ・東京裁判で訴追された日本人被告のことを「A級戦犯」と通称する、に止め、それ以上 は「A級戦犯」という他者の与えた枠組みを振り回す必要はない。 戦時指導者がかつての敵国によって裁判に付され、死刑判決さえ受け実際に処刑された というのが、二十世紀中葉の日本で実際に起こったことである。 なぜ、日本は大東亜戦争と呼ばれる対外戦争に踏み切ったか、その戦争の遺産は、正負 両面どういうものがあるか。 また、「A級戦犯」という通称で呼称される人たちは、その歴史の中で如何なる足跡を 残したのか。 判決は冤罪だったのか、それとも歴史を振り返れば糺弾されてしかるべきところを持つ 人たちだったのか。 学ばなければいけないことはたくさんある。 「戦後」を決めたもの(東京裁判、「菊と刀」、そして『「甘え」の構造』) ・米国の文化人類学者「ルース・ベネディクト」は、文化人類学者として一家をなす女流 学者だった。 だが、「菊と刀」は純粋な学問研究ではなかった。 内なる学問上の知的好奇心に駆られて取り組んだ研究が、実を結んだのではなかった。 アメリカの戦時情報局からの委託を受けての研究、すなわち専門知識である文化人類学 を国策へ生かすようにという依頼に、そもそもの起源を持つ、国策としての国民性研究 だったのである。 ・こういう国情は、同時代の日本人とは好個の対照をなす。 戦時下の日本では、およそアメリカ的なもの、イギリス的なものは国民の暮らしからは 意図的に遠ざけられていた。 敵である英米を、知ろうとするより、拒み、貶し、罵倒することに意は注がれた。 ・「汝の敵を知れ」というアメリカ合衆国の国策の一環として行われた国民性研究が結実 した「菊と刀」は、対日戦終結には間に合わず、英文原著の刊行は終戦の翌年1946 年になった。 ・題名に見られる菊とは美しいものを愛でる日本人の一面、刀は好戦的な軍国主義者の一 面、をそれぞれ表わす。 この相反すると思われる日本人の二面性を分析することを、著者のベネディクトは考察 の目的に掲げた。 もちろんベネディクトは日本人読者を念頭において、やがては翻訳が出版されることを 前提に、書いたのではない。 しかし、翻訳「菊と刀」によって、汝らはこういう国民だと、敗戦から3年、未だ占領 下にある日本人は知らされた。 ・連合軍の占領政策の一環として実施が決まった東京裁判という「勝者の裁き」は、昭和 21年5月、28眼の戦時指導者たちを被告として開廷し、途中3名の欠落(2名病死、 1名免訴)を見たのち、昭和23年11月に25名全員に有罪の判決(絞首刑7名、終 身禁固16名、有期刑2名)を下し閉廷した。 ・ナチスを被告として実施された国際軍事裁判「ニュルンベルク裁判」とは異なり、おそ らく唯一の例外東条英機を別にすれば被告はさほど知られた存在ではなかった。そのた め開廷時もそしてその後の戦後の歴史においても、世界史の文脈の中では、東京での国 際軍事法廷はあまり注目されない存在であり続けている。 ・しかしながら、日本国民に与えた影響には、およそ看過しえないものがあった。 昭和21年6月、検察側冒頭陳述の場で首席検察官「ジョセフ・キーナン」は、「世界 を通じて被告を含む極めて少数の人間が私刑を加え自己の個人的意志を人類に押しつけ んとしたのでした。彼等は文明に対し宣戦を布告しました」と宣した。 この裁きが、「文明の裁き」であり、自分たち連合国こそ「文明」であると形容したば かりか、その「文明」に宣戦布告したのは、日本人全体ではない、「被告を含む極めて 少数の人間」だったと言い切った。 ・空襲による惨害をもたらしたのは、元を辿れば被告席に座るこの「極めて少数の人間」 たちだ、という指弾も加えた。 自分たちで日本を無差別空襲しておきながら、そういう事態を引き起こしたのはこの被 告たちのせいだ、という何とも勝手な理屈ではある。 だがともかく、日本人一般もまた犠牲者だ、という枠組みを提示して見せた発言という ことは、誰の目にも明らかだった。 ・キーナンの冒頭陳述は、強い政治的意図を有する発言だった。 「極めて少数の人間」の戦争責任を問い、その他の日本人を事実上免責することで占領 軍の施策への協力が得られ、また軍国日本を否定するよう国民一般を仕向けることが容 易になる、そんなメッセージをそこに読み取ることができた。 こういった枠組みを、敗戦から一年も経たない混乱期の日本国民は提示されたのである。 ・開始された対日国際軍事裁判は、さらに別の一面をも持つにいたった。 そもそも占領軍の制作の一部として実施されたのだが、訴追期間を昭和3年1月1日以 降としたため、戦中、戦後と史実を知らされていなかった国民に向け、「真相はこうだ」 のように、当時国民に未知だった事件を公表しかつ責任は軍国日本にある、という歴史 解釈作業を施す場ともなった。 国をこえた国際という「舞台」では、歴史上の事件は単独の国だけで引き起こされるこ とはない。必ず相手あってのものである。 しかし、東京法廷では原告である連合国側の過去の行動は不問に付された。 そのため、検察側による法廷での史実解釈作業は、言うまでもなく敗者日本を一方的に 断罪するものに終始した。 ・同じころ、文化人類学という目新しい学問の成果である「菊と刀」の翻訳書から、自分 たちの国民性を知らされた。 思想闘争もなく受容された、他者による自己規定であった。 ・世紀も変わった今日、「戦後」という空気を振り返るとき、敗戦国史観を強要された国 民は、その後、この「菊と刀」をおそらく無意識のうちに規範として日本人論・日本文 化論を次々と書き、上から押しつけられた歴史解釈への溜飲を下げてきたかのような様 相を呈しているとも言えなくもない。 ・「菊と刀」は、著者ベネディクトの意図とは関係なく、戦後の外国人による日本研究だ けでなく、日本人による日本研究、日本人論の規範ともなった。 敗戦直後、国民としてのアイデンティティを失い、新たな自己規定をできずにいた日本 国民に、日本人とはこういう国民であるという視点を提供した一書は、期せずして戦後 精神史の上で大きな役割を演じ始めたのである。 ・「菊と刀」が戦後日本に紹介された外国人による日本論のなかでの古典とすれば、それ からおよそ四半世紀後に出版された『「甘え」の構造』は、日本人の手による戦後日本 文化論の代表作である。 ・ここで私的しておきたいことは、著者自身が『「甘え」の構造』の冒頭で回想するよう に、ベネディクトの「菊と刀」が土居の国民性研究に対するアプローチに与えた影響力 が大きいということ、またベネディクトのへの言及は『「甘え」の構造』の中に少なか らず見られる、という点である。 ・1944年6月、ルース・ベネディクトは戦時情報局から日本研究という課題が出され た。 当時彼女はアメリカ有数の文化人類学者ではあったが、日本語の知識はもとより、日本 での実地研究の経験も有していなかった。 そこでベネディクトは、日英両国に通じた移民とのインタビューを活用した。 つまり彼女は研究対象となる日本の国語の知識を持つことなく、移民や二世という、当 時アメリカ政府の方針によって収容所に入れられていた、特殊な立場の人たちを情報源 として日本研究を始めたのである。 ・ルース・ベネディクトは「文化の型」によって文化人類学者としての名声を確立した。 この著作は彼女の方法論宣言であり、異文化研究への基本的姿勢を読み取ることができ る。 最終ページでは文化の相対性に言及し、「今日、社会を研究するにあたって文化の相対 性を十分考慮に入れること以上に重要な作業はない」と明記した。 そして、この「文化の型」の方法論を初めて近代社会に応用した成果が、「菊と刀−日 本文化の型」だった。 ・ベネディクトは相対主義の重要性を繰り返し強調するが、その中で最もはっきりした一 節は次の箇所であろう。 「異文化の研究が客観的に行われる今日、『真の尊厳』とは次のように考えられる。 つまり、国が変われば見方も変わるということだ。ちょうど不真面目なことを、それぞ れの国民がそれぞれに定義しているように、アメリカ流の平等主義の原則を押しつけな くては日本は自尊心を持てない、と声高に主張するアメリカ人がいるが、そういう人は 自民族中心主義の誤謬を犯している」 ・これまでの日本での「菊と刀」論には、ベネディクトは世界の文化を「罪の文化」と 「恥の文化」とに二分し、相互に無関係とした上で前者が後者に優るとした、そしてそ の考えが上からの日本論、つまり西欧優位を前提とした上での外国人による日本論を準 備した、という傾向が強かった。 ・だが「菊と刀」といテクストを虚心坦懐に読む限り、こういった主張はベネディクトへ の不当な解釈、誤読と言って差し支えない。 ・文化相対主義という偏見の少ない理論を日本社会に応用し、対日戦遂行のため、そして 円滑な日本占領のため、を目的としたベネディクトの研究「菊と刀」は、著者の意図と 関係なく負の遺産と呼べるものを日本に遺した。 一つは、安易な日本文化論の流行であり、もう一つは、その論述にあたって、日本をそ して日本人を、多様性を持たない一つの同一集団とみなすという手法であった。 ・ダワーの「敗北を抱きしめて」には鋭利な視点が見られる。 その特徴とは、一元的な日本を描くことを意識的に避けるというアプローチである。 日本語版訳書冒頭に掲げられた「日本の読者へ」に見られる以下の一節は、ありきたり の日本文化論の弊を知っている者には、実に力強い宣戦布告とさえ思えてくる。 「『日本文化』だとか『日本の伝統』だとか、そういうものは実際には存在しないので す。実を言うと、『日本』でさえ存在しません。逆に、私たちが語らなければならない のは、『日本文化たち』であり、『日本の伝統たち』なのです。私たちは、『日本たち』 と言うべきなのです。そのほうが日本の歴史の事実に近いし、今日の日本社会の実情に も近い。そういう表現することによって、日本を世界のなかで比較することができ、 本当に新しい、目の覚めるような日本理解が可能になるし、今後もそうするようにわれ われは促されることになるのです」 ・ここで見られるダワーの視角は、「菊と刀」の方法論と対照的でさえある。 ダワーはベネディクトの名こそ挙げるものの、「菊と刀」そのものについては何ら言及 していない。 「敗北を抱きしめて」は占領期の日本を論じる著作でありながら、戦後日本において ベネディクトが、敗戦国民に自己規定の枠組みを付与したという事実に触れることはな い。 意図的にベネディクトを無視しているかのような印象さえ受ける。 あるいは「菊と刀」には意義を認めない、と言っているかのようである。 ・ジョン・ダワーが、戦後日本文化論の古典について全く触れていないのは、「菊と刀」 の研究手法からの決別の気持ちの表われだったかもしれない。 日本を論じる研究のアプローチに限って評価するならば、「敗北を抱きしめて」は確実 に一歩前進した論考であった、と結んでよい。 |