ノモンハンの夏 :半藤一利

隅田川の向う側 私の昭和史 (ちくま文庫) [ 半藤一利 ]
価格:858円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

ソ連が満洲に侵攻した夏 (文春文庫) [ 半藤 一利 ]
価格:649円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

日露戦争史 1 (平凡社ライブラリー) [ 半藤 一利 ]
価格:990円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

日露戦争史(2) (平凡社ライブラリー) [ 半藤一利 ]
価格:990円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

日本のいちばん長い夏 (文春新書) [ 半藤 一利 ]
価格:770円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

「昭和天皇実録」の謎を解く (文春新書) [ 半藤 一利 ]
価格:968円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

昭和史の10大事件 [ 半藤 一利 ]
価格:1320円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

聯合艦隊司令長官 山本五十六 (文春文庫) [ 半藤 一利 ]
価格:682円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

昭和と日本人失敗の本質 (中経の文庫) [ 半藤一利 ]
価格:704円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

昭和史裁判 (文春文庫) [ 半藤 一利 ]
価格:759円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

21世紀の戦争論 昭和史から考える (文春新書) [ 半藤 一利 ]
価格:913円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

原爆の落ちた日 決定版 (PHP文庫) [ 半藤一利 ]
価格:1100円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

聖断 昭和天皇と鈴木貫太郎 (PHP文庫) [ 半藤一利 ]
価格:900円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

「BC級裁判」を読む (日経ビジネス人文庫) [ 半藤一利 ]
価格:1540円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

山本五十六 (平凡社ライブラリー) [ 半藤一利 ]
価格:1034円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

ノモンハンの夏 (文春文庫) [ 半藤 一利 ]
価格:803円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

歴史と戦争 (幻冬舎新書) [ 半藤一利 ]
価格:858円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

あの戦争と日本人 (文春文庫) [ 半藤 一利 ]
価格:737円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

占領下日本(上) (ちくま文庫) [ 半藤一利 ]
価格:858円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

占領下日本(下) (ちくま文庫) [ 半藤一利 ]
価格:858円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

日本型リーダーはなぜ失敗するのか (文春新書) [ 半藤 一利 ]
価格:858円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

ナショナリズムの正体 (文春文庫) [ 半藤 一利 ]
価格:759円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

賊軍の昭和史 [ 半藤一利 ]
価格:1650円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

あの戦争になぜ負けたのか (文春新書) [ 半藤 一利 ]
価格:880円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

日本のいちばん長い日 決定版 (文春文庫) [ 半藤 一利 ]
価格:660円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

昭和の名将と愚将 (文春新書) [ 半藤 一利 ]
価格:814円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

昭和史の10大事件 (文春文庫) [ 宮部 みゆき ]
価格:737円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

撤退戦の研究 (青春新書インテリジェンス) [ 半藤一利 ]
価格:1100円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

昭和と日本人失敗の本質 (Wide shinsho) [ 半藤一利 ]
価格:1048円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

ノモンハン航空戦全史 [ ディミタール・ネディアルコフ ]
価格:2750円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

史料が語るノモンハン敗戦の真実 [ 阿羅健一 ]
価格:2200円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

ノモンハンの戦い (岩波現代文庫) [ S.N.シーシキン ]
価格:1100円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

ノモンハン戦争 モンゴルと満洲国 (岩波新書) [ 田中克彦 ]
価格:924円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

ノモンハン 責任なき戦い (講談社現代新書) [ 田中 雄一 ]
価格:990円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

ノモンハン秘史[完全版] [ 辻政信 ]
価格:1210円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

シンガポール攻略 [ 辻政信 ]
価格:1540円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

潜行三千里 完全版 [ 辻政信 ]
価格:1210円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

私の選挙戦 [ 辻政信 ]
価格:1540円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

昭和史裁判 (文春文庫) [ 半藤 一利 ]
価格:759円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

失敗の本質(戦場のリーダーシップ篇) [ 野中郁次郎 ]
価格:1980円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

南京城外にて (光人社NF文庫) [ 伊藤桂一 ]
価格:880円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

蒋介石の密使辻政信 (祥伝社新書) [ 渡辺望 ]
価格:858円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

関東軍 (講談社学術文庫) [ 島田 俊彦 ]
価格:990円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

黒幕はスターリンだった [ 落合道夫 ]
価格:1760円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

ノモンハンは忘れられていなかった 六十七年後の今 [ 小山矩子 ]
価格:1320円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

ハルハ河・ノモンハン戦争と国際関係 [ 田中克彦 ]
価格:1870円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

児玉誉士夫 巨魁の昭和史 (文春新書) [ 有馬 哲夫 ]
価格:1034円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

大本営参謀は戦後何と戦ったのか (新潮新書) [ 有馬 哲夫 ]
価格:880円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

ガダルカナル 悲劇の指揮官 [ NHKスペシャル取材班 ]
価格:1980円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

自壊の病理 日本陸軍の組織分析 [ 戸部 良一 ]
価格:2200円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

昭和天皇とラストエンペラー 溥儀と満州国の真実 [ 波多野勝 ]
価格:1760円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

満州と岸信介 巨魁を生んだ幻の帝国 [ 太田尚樹 ]
価格:1870円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

日ソ戦争 1945年8月 棄てられた兵士と居留民 [ 富田武 ]
価格:4180円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

麻山事件 (草思社文庫) [ 中村雪子 ]
価格:1045円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

川島芳子 動乱の蔭に (人間の記録) [ 川島芳子 ]
価格:1980円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

満州国は日本の植民地ではなかった (Wac bunko) [ 黄文雄 ]
価格:974円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

キメラ増補版 満洲国の肖像 (中公新書) [ 山室信一 ]
価格:1056円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

満州 集団自決 [ 新海 均 ]
価格:2090円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

日中戦争の正体 中共・ソ連・ドイツにだまされた [ 鈴木荘一 ]
価格:990円(税込、送料無料) (2021/1/5時点)

日米開戦の正体 なぜ真珠湾攻撃という道を歩んだのか [ 孫崎享 ]
価格:1925円(税込、送料無料) (2021/1/6時点)

山本五十六の戦争 [ 保阪正康 ]
価格:1760円(税込、送料無料) (2021/1/6時点)

名将 山本五十六の絶望 [ 鈴木荘一 ]
価格:990円(税込、送料無料) (2021/1/6時点)

木戸幸一 内大臣の太平洋戦争 (文春新書) [ 川田 稔 ]
価格:1320円(税込、送料無料) (2021/1/6時点)

変節と愛国 外交官・牛場信彦の生涯 (文春新書) [ 浅海 保 ]
価格:1034円(税込、送料無料) (2021/1/6時点)

外務官僚たちの太平洋戦争 (NHKブックス) [ 佐藤元英 ]
価格:1760円(税込、送料無料) (2021/1/6時点)

真実の日米開戦 隠蔽された近衛文麿の戦争責任 [ 倉山満 ]
価格:1430円(税込、送料無料) (2021/1/6時点)

スターリン 「非道の独裁者」の実像 (中公新書) [ 横手慎二 ]
価格:990円(税込、送料無料) (2021/1/6時点)

ソ連史 (ちくま新書) [ 松戸清裕 ]
価格:902円(税込、送料無料) (2021/1/6時点)

北海道を守った占守島の戦い (祥伝社新書) [ 上原卓 ]
価格:880円(税込、送料無料) (2021/1/6時点)

新版 独ソ戦史 ヒトラーvs.スターリン (文庫) [ 山崎雅弘 ]
価格:946円(税込、送料無料) (2021/1/6時点)

女と独裁者 愛欲と権力の世界史 [ ディアンヌ・デュクレ ]
価格:3080円(税込、送料無料) (2021/1/6時点)

ヒトラーの時代 (文春学藝ライブラリー) [ 野田 宣雄 ]
価格:1595円(税込、送料無料) (2021/1/6時点)

この本は、1939年5月から同年9月にかけて、ノモンハン付近において当時の満州国
とモンゴル共和国の間における国境線をめぐって発生した紛争を題材にした作品である。
ノモンハン事件は、日本軍側の国境侵犯がきっかけだったようだ。もともとこのあたりの
国境線は、満州国とモンゴル共和国の主張に食い違いがあり、曖昧だったということもあ
るが、当時の日本軍には、国境を侵犯するということの重大さが、あまり認識されていな
かったような気がする。
その背景にあるものの一つには、日露戦争で勝利したことによるソ連に対する慢心があっ
たのだろう。日露戦争に勝利したとはいえ、それは辛うじて幸運によってもたらせた勝利
だったにもかかわらず、時が経つにつれて、その「かろうじて勝利した」ことが薄れ、
「勝利した」ことだけが強調され、慢心につながったようだ。そしてもうひとつ、島国で
育った日本人にとっては、そもそも陸続きのところに引かれた国境線に対する意識が希薄
だったのではなかろうかと私には思える。
国境線をめぐる紛争といっても、当初は小規模な衝突で、本来ならば、それで終わってい
たはずである。しかし、それが簡単に収束せずに、どんどん拡大していってしまった原因
は、関東軍作戦課に「辻政信」という「やる気満々」の作戦参謀がいたことにあったよう
だ。「辻政信」という人物は、とにかく「敗け」ということを絶対に認めたくない人物の
ようだった。敗けも「この作戦なら勝てる」というように次から次と新しい進撃作戦を立
案する。それによってどんどん戦況が拡大していき、ついには8千名近い戦死者を出すと
いう悲惨な結果になってしまった。そこには「何のために戦うのか」という目的すらない。
「戦う」ということだけが目的化してしまっている。一度はじめたら後戻りすることを知
らない、当時の日本陸軍という組織の本性ともいえるものが露骨に現れている。当時の日
本陸軍には「撤退」という言葉は存在しない組織だったようだ。それに本来、まともな組
織であるならば、ひとりの参謀が暴走したからといって、その上官やそのまた上官によっ
て、その暴走を止めることができたはずだ。しかし、当時の日本陸軍は、そういうブレー
キが働く組織ではなかったようだ。
さらに、当時の日本陸軍は、天皇の「統帥権」をうまく利用していたようだ。外に対して
は「統帥権の独立」を強調し、「天皇の軍隊」を誇示しながら、自分たちの都合でそれを
利用し、天皇に背くことにまったく平気であったようだ。陸軍は「天皇には権威はあるが
権力はない。権力は我が方にある」ということを認識していたのであろう。いかに天皇に
権威があっても、実力組織である陸軍にはかなわないことは、歴史を見ればわかることで
ある。陸軍はそのことを見抜いていたのだろうと想像する。こういう場合、その陸軍の暴
走を止めることは、もはや国内ではだれもできない。
ところで、このノモンハン事件の3年前の1936年に、「辻政信」は、満州事変の首謀
者と言われている、当時参謀本部で戦争指導課長を務めていた「石原莞爾」と面会し、
満蒙ついての理念を教示されたといわれる。石原莞爾との出会いは「辻」にとって衝撃的
だったようで、これ以降、生涯にわたる石原崇拝が始まったようだ。
ノモンハン事件後、一度は左遷された「辻」ではあったが、1941年、太平洋戦争が始
まる直前に、あろうことか、今度は大本営参謀本部作戦課に班長として栄転したようだ。
そして、日本陸軍の中央で国運をかけて太平洋戦争を「熱血指導」し、ノモンハンと同じ
ようなことをする繰り返すこととなったようだ。
「辻」は、太平洋戦争も生き残り、敗戦後は戦犯追及から逃れるために、数年間を国内外
で潜伏したのち、政治家に転身し衆議院議員、参議院議員を歴任したようだ。そして、参
議院議員在任中の1961年(昭和36年)月に視察先のラオスで行方不明となり、消息
不明のまま、1968年に死亡宣言がなされたようだ。いやはや、なんともすごい人物で
あるというほかはない。

ところでいま、新型コロナ禍の日本において、政府の対応が「場当たり的」「泥縄式」
「後手後手」と批判されて続けているが、それは何もいまにはじまったことではなく、こ
のノモンハン事件における日本陸軍の秀才と云われたリーダーたちにおいても、全く同じ
ようなことが行われていたようだ。これは日本という国の、あるいは日本人の病根なのか
もしれない。日本人は、ものごとを判断する場合、組織内の人間関係、つまり「人情」や
「感情」に大きく左右されて、合理的な判断ができない人種のようである。これからも先、
日本のリーダーたちは、組織内の「人情」「感情」に左右された、合理的でない政策や対
応を繰り返していくのだろう。この本を読んで、そういう暗澹たる思いに駆られた。

参謀本部作戦課
・古くは加藤清正の上屋敷がそこに建てられていた。三宅坂の名が起こったのは、いまの
 国立劇場の建つあたりに、三河の田原一万石の三宅土佐守の邸が隣接してあったからで
 る。しかもその名が有名になったのは、その学殖ゆえに自刃せねばならなかった蘭学者
 渡辺崋山がこの田原藩邸で生まれ育ったためらしい。
・その地に、イタリアの美術家カッペレッチの設計による三階建ての白亜の大殿堂が建て
 られたのは、1881年(明治14年)のこと。白の清潔な三層の上に、ミドルの銅屋
 根がのり、ならんだ数多い屋根窓の豪華さが、当時の東京市民たちの度肝をぬいた。日
 本陸軍の参謀本部の建物である。
・昭和10年代の大日本帝国のそこは、建物こそ古びていたが、まさしく国策決定の中枢
 であった。三宅坂をのぼりきった正面に太い門柱が立ち、「大本営陸軍部」の大きな標
 識があたりを圧してかけられている。そして左手に馬上の元帥有栖川宮熾仁親王の銅像
 が、陸軍の威厳を象徴するかのように建っていた。
・いまはすべてが消滅し、とりはらわれて、かわりに本部のうしろにあった兵器本廠跡に
 菊池一雄制作の「平和の群像」が建てられている。
・いまも名残りとして、憲政記念館の庭内にあるのが、「日本水準原点標庫」である。参
 謀本部陸地測量部が明治24年につくったもので、日本全国の土地の標高を決める基準
 となる。原点標の標高は24.414メートルであるという。
・参謀本部とは、大元帥(天皇)のもつ統帥大権を補佐する官衙である。主要任務は毎年
 に国防および用兵の計画を策定すること、参謀の職にある陸軍学校の統轄そして教育で
 ある。また全国各地の陸地の測量も管掌していた。 
・しかし1937年(昭和12年)7月の日中戦争の勃発いらい、宮中に大本営も設置さ
 れ、日本は戦時国家となった。参謀本部の主要任務は、大本営陸軍部として海軍部(軍
 令部)と協力し、統帥権独立の名のもとに、あらゆる手をつくしてまず中国大陸での戦
 争に勝つことにある。つぎには来るべき対ソ戦に備えることである。そのために、議会
 の承認をへずに湯水のごとく国税を臨時軍事費として使うことが許される。    
・大本営報道部の指導のもとになされる新聞紙上での戦局発表は、順調そのもので、南京、
 徐州、漢口、広東と、つぎつぎに中国の主要都市を攻略した。日本軍は中国大陸の奥へ
 奥へと進撃していった。その輝かしい戦果を、日本本土では国民が旗行列と提灯行列を
 繰り返すことで慶祝した。
・三宅坂上の参謀本部は、その門柱には大書して「東洋道義文化の再建へ」「日満支善隣
 の統合へ」の看板をかかげた。参謀本部がこの二つの国家理想実現のための先頭に立つ
 のである。 
・なるほど、重要な任にあたる参謀たちがいずれも陸軍大学校出の俊秀であることには変
 わりがない。海軍もそうであるが、とくに日本陸軍には秀才信仰というのがあった。日
 露戦争という「国難」での陸の戦いを、なんとか勝利をもってしのげたのは、陸大出の
 俊秀たちのおかげであったと、陸軍は組織をあげて信じた。
・明治天皇が手ずからデザインしたという菊花と五稜星を組み合わせた陸大卒業記章を、
 彼らは胸にかざった。記章は大きさ輪郭が天保年間の百文銭に似ているというので「天
 保銭」といった。命じ15年の創設から昭和20年の廃校まで60余年間、天保銭を軍
 服につけえたものは3485名にすぎない。文字通り日本陸軍のエリートは天保銭をつ
 けたものにかぎられた。とくに参謀本部第一部(作戦)の第二課(作戦)には、エリー
 ト中のエリートだけが集結した。第一部にはほかに第三課(編成・動員)、第四課(国
 土防衛・警備)があるが、花形はだれが何といおうと、作戦と戦争指導を掌握する第二
 課。そこが参謀本部の中心であり、日本陸軍の聖域なのである。
・すべての根基となる作戦計画は第二課で立案された。天皇の勅許を得て大元帥命令(奉
 勅命令)としてそこから発信され、かつ下達された作戦の指導も作戦課の秀才参謀たち
 によってなされる。そこで立てられる作戦計画は外にはいっさい洩らされず、またその
 策定のついては外からの干渉は完璧なまでに排除された。
・こうした高度の機密を要求されることとも関連して、作戦課の参謀はできるかぎり他部
 課との接触を少なくした。このため、ややもすれば唯我独尊的であると批判された。  
・彼らは常に参謀本部作戦課という名の集団で動く。部内ではどんなにはげしい議論があ
 ってもよく、徹底的に論じ合うことがむしろ奨励されたが、はてしなき論議のはてに、
 いったん課長がこれでいこうと決定したことには、口を封じたただ服従あるのみである。
 そこには組織が大事か個人が大切かなどという設問は存在しない。要するに参謀本部創
 設いらいの長い伝統と矜持とが、一丸となった集団意思を至高と認めているのである。
 彼らにとっては、その中での人間と人間の付き合い自体が最高に価値あるものであった。
・こうして外からのものを、純粋性を乱すからと徹底して排除した。外からの情報、問題
 提起、アイデアが作戦課にじかにつながることはまずなかった。作戦課は常にわが決定
 を唯一の正道としてわがみちを邁進した。   
・日中戦争は表面的には連戦連勝ではある。が、漢口攻略をもって日本軍の攻勢は終末点
 に達して、続行の弾発力は失われてしまっていた。
・満州事変(昭和6年)以後、ソ連は軍備の増強に力を入れ始めた。満州防衛の任に当る
 関東軍と正面から向き合った極東ソ連軍は、国境線でのトーチカ陣地の構築に力を入れ
 だした。トーチカは二列、三列と築かれ、野戦築城の陣地に加えて、日本軍からみてほ
 れぼれとするような縦深陣地ができ上っていく。シベリア鉄道の輸送力も改善され、ソ
 満国境への兵力の集結に大車輪の働きをし始めた。
・昭和14年の春には、日本軍11個師団に対してソ連軍は実に30個師団。国境線にソ
 連軍は圧倒的な攻撃力を誇っている。
 ・戦車   日本軍200輛   ソ連軍2200機
 ・飛行機  日本軍560輛   ソ連軍2500機
・中国大陸で戦いを続けながら、いっぽう満蒙ではこの状況である。もしソ連軍が侵攻し
 てきたらという恐怖は、作戦課の参謀たちの背筋を常に凍らせている。
・近代戦争史は、二正面作戦が戦略上もっとも不利であることを、多くの戦訓をもって示
 している。これを避けるのが戦略の重要課題であることは、参謀本部の秀才参謀ならず
 とも軍事史を少しでも学んだものは知っている。にもかかわらず、その愚をおかしたの
 は、そもそも陸軍自身なのである。満州国の長大な国境線でソ連、そしてソ連と軍事同
 盟関係にあるモンゴル人民共和国ときびしく対峙しつつ、いっぽうでなぜ広大な大陸で
 中国軍と戦い続けなければならないのか。
・陸軍戦術論に主流となっていた「中国一撃論」(中国軍は一撃を加えれば屈服する)と
 いう空虚な戦術論によってはじめたのが、対中国戦争である。対ソ戦が起こったとき、
 中国が対日参戦してくるのは避け難い。ならば、将来の対ソ戦にそなえてまず中国に一
 撃を加えて、蒋介石政権の基盤をくじいておく。またそれが容易であり可能であると日
 本陸軍は考えていた。  
・日中戦争がはじまったときの陸相杉山元大将は、昭和天皇に明言している。「事変は一
 カ月で片付くでありましょう」
・合理的な戦理を無視し、曖昧いい加減のままに、ただ勇ましい「一撃論」のみがひとり
 歩きしてはじめられた日中戦争は、半年後には早くも戦術転換しなければならなかった。
・国境線への兵力増強というソ連軍の無言の重圧をたえず考慮しながら、兵力の逐次投入
 という下策に陥った広大な大陸での戦いは、中国軍からも兵力や弾薬の不足を見透かさ
 れて、泥沼の長期戦へ引きずり込まれている。蒋介石が長期抗戦を呼号している以上、
 和平への道は閉ざされている。
・秀才参謀をいらいらさせている現実的な問題が、もうひとつあった。日本とナチス・ド
 イツそしてイタリアの三国軍事同盟をめぐる国内政治のはげしい動きである。  
・ことの起こりはドイツからの急速な接近にある。昭和11年11月にすでに日本はドイ
 ツと防共協定(共産インターナショナルに対する協定)を結んでいたが、その協定をソ
 連だけにかぎらずさらに他国にまでひろげて、軍事同盟に切りかえようという強いお申
 し出が昭和13年夏ごろにドイツからあった。ソ連の脅威に直面している陸軍中央はむ
 ろん望むところであったから、この画策にのった。
・陸軍中央のねらいは明瞭そのもので、要は、泥沼の日中戦争の早急な解決にある。その
 ための有効な手段ならなんなりと積極的に採用すべきである。ドイツと同盟を結ぶこと
 で、ドイツの軍事力をもってソ連を背後から強力に牽制することができる。これによっ
 て北からの攻撃の心配なしに、中国に対して全兵力を行使することが可能になる。また、
 そうした勢いを誇示することによって蒋介石を和平に応じさせることができよう。
・いうまでもなく、そうした日本陸軍の腹づもりと、ドイツのそれとはかなりかけ違って
 いる。そのことを陸軍中央は十分承知している。ドイツは前年の1938年3月オース
 トリアを併合した。同じ年の10月にはチェコのズデーテン、ボヘミア、モラヴィアを
 併合し、スロヴァキアを保護国にしてしまった。あくなき領土拡張ですぎにめざすはポ
 ーランド併合である。そうなればポーランドと相互援助条約を結んでいる英仏との全面
 戦争は避けがたい。英仏は「平和を欲する」からといって、いつまでも引きさがってば
 かりいられない。  
・イタリア首相ムッソリーニとドイツ空軍の元帥ゲーリングとの会談内容が興味深い。残
 された記録によると、ゲーリングは、「もし日本がどうしてもヨーロッパ戦争に参加す
 るのが嫌だというなら、それでも構わない。名目だけでよい。日独伊三国同盟を世界に
 発表することで、日本の強力な海軍力で十分に英仏を牽制し威嚇できる」そのためにも、
 ソ連だけを条約の対象とするというのでは意味がない。ドイツは、結ぶなら英仏をも対
 象とする全面的な軍事同盟でなければならないと、この点だけは一歩も譲ろうとしなか
 った。 
・陸軍大臣板垣征四郎中将は、そうしたドイツの腹は承知している。ドイツ日本大使大島
 浩
よりの報告を受けていたからである。板垣はすべてを呑み込んだうえで、「職に賭け
 ても、この同盟を成立させる」と約束をしていた。
・この対英仏は当然のことながら対アメリカの戦争にもつながっていく。緊密な提携ぶり
 から見て米英不可分とするのが自然である。とてもこれ以上の戦いは常識では考えられ
 ない。その常識では考えられないことを幻想するのが、秀才参謀たちであったのである。
 陸軍中央の課長会が開かれたとき、ほとんど全課長が三国同盟締結に賛成したことでそ
 のことが知れる。 
・ただひとり参謀本部第二部(情報)第六課(欧米)課長辰巳栄一大佐が反対の意を表明
 した。「英国は腐っても鯛である。軽視して敵にまわすべきではない」しかしそれは単
 に勇気ある発言にすぎず、完全に無視された。陸軍中央に秀才軍人たちが集結すると、
 ものの考え方は奇妙なくらい現実離れしていく傾向があったのである。
・こうした陸軍中央の意思統一を反映して、政界の一部、そして右翼団体も三国同盟案を
 支持し、さらには宮廷内にも賛成意見のものが増えていった。外務省部内にも陸軍にエ
 ールをおくる親ドイツのグループがしだいに勢力を増した。しかも困ったことに、平沼
 首相は外交にまったく門外漢であったゆえ、陸軍の強圧に屈することが多いのである。
・いきおい、「時代の流れ」に正面から立ちふさがるのは、海軍省の首脳ということにな
 る。海軍大臣米内光政大将、次官山本五十六中将、軍務局長井上成美少将のトリオであ
 る。同盟はあくまでソ連を主たる対象とすること。状況により英仏等をも対象とするこ
 ともある。しかし、軍事的な武力援助は、ソ連対象のときは、これを行うことはもちろ
 んであるが、英仏など対象のときは「これを行ふや否や、それは状況による」。つまり
 決定権は日本にあるというのが、海軍側の譲りうる最大限度の条件であった。
・山本五十六は後に、このときの判断について「世界新秩序を目標とするドイツと与する
 ことは、必然的に英米旧秩序を打倒せんとする戦争にまきこまれることであり、日本の
 海軍軍備とくに航空軍備の現状をもってしては、対米英戦争には勝算はまったくない。
 それで自動的参戦などとんでもない、ということであった」と語っている。
・三国同盟問題を議するための平沼内閣の五相会議は、入口のところで足ぶみしたまま紛
 糾しつづけた。賛成を主張する陸相板垣に対し米内海相が正面から対峙した。会議はい
 つはてるともなくつづき、数十回を数えたが、合意に達しようもなかった。
・強硬派ならずともがっかりさせられる確たる情報が、宮中の侍従武官府から伝えられて
 きたりした。それは、天皇が明確に三国同盟案の「参戦」条項に反対の意思を表明して
 いる、という思いもかねない話しなのである。
・秀才参謀たちは知らなかった。いや、のちに愕然たる想いをもって知ることになるので
 あるが、このころヨーロッパでは微妙に、かつはげしく国家間の情勢が動き出していた。
 その中心にあるのがドイツ総統ヒトラーとソ連首相スターリンである。「二十世紀が生
 んだ悪魔」ともいうべき二人が、それぞれの野心と計算のもとに、地球をあらぬほうへ
 転じさせようと動きだしたのが、まさにこのときなのである。かれらは自分の目的のた
 めには悪霊であろうと死神であろうと手をにぎるを辞さない男たちである。かれらにく
 らべれば、三宅坂上の秀才参謀たちは日本帝国を皇国とみなし、その神秘と使命とをあ
 どけないほど信じ、善良でさえあった、といってもいいかもしれない。
・ヒトラーは「わが闘争」で、日本人を創造力の欠如した劣等民族、ただしドイツの手先
 として使うなら、小器用で小利口で役に立つ国民というふうに書いているが、このころ
 はその認識をいくらか改めていたのか、演説ではむしろ持ち上げて、日本人を喜ばした。
 とはいえ正直なところ、ヒトラーは日本の日和見主義的な態度には愛想をつかし始めて
 いるのである。 
・ヒトラーはつねづね、「英仏ソが同盟を結ぶようなことをすれば、ただちに英仏を攻撃
 し潰滅的な打撃を与えるであろう」と演説などで強がりの発言を繰り返しているが、こ
 の英仏ソによる大規模なドイツ包囲同盟を真底から恐れていた。
・ヒトラーは本気になっていたのである。きたるべき対英仏戦争に備えて、日本との同盟
 を半ばあきらめて、ソ連との同盟に乗り換えようとしているのである。日本はそれこそ
 ファー・イースト(極東)の国であった。いくらか疎遠になっても少しも痛痒を感じな
 かった。東京よりもモスクワはぐんとベルリンに近かった。
・スターリンは考える。弱みをみせることはかえって、自分が二正面作戦を戦わざるを得
 ない愚を犯すことになる。東方のソ満国境には、日本帝国の関東軍が狼のように牙をみ
 がいてすきを狙っているのである。その日本とヒトラーとは強固な軍事同盟を結ばんと、
 たがいの友情を確かめ合っている。西からドイツ国防軍、東から関東軍の猛攻を受けて
 は、軍備整備のための五カ年計画が進行中のいま、とうてい抗しきれるものではない。
・スターリンは急がなかった。しかし、東方の日本の動向をしっかり見据えながら、ヒト
 ラーへのシグナルは忘れない。   
・こうして疑心暗鬼のうちにも二人の独裁者は、思い切って接近していった。不安と領土
 拡張意志とを基本の動機としているところは、共通している。ともに二重取り引きであ
 る。ヒトラーはソ連と日本と、スターリンは英仏とドイツと。そのためには、過去のイ
 デオロギー上の意見のちがいなど、当面なんの障害にもならなかった。
・ヒトラーの第五十回の誕生日の祝宴に、駐ドイツ日本大使大島浩と駐イタリア日本大使
 白鳥敏夫が列席、宴もはてた夜半ごろ、ドイツ外相リッベントロップがひそかに、おど
 ろくべきことを二人に語ったというのである。「もし三国同盟条約交渉があまり手間ど
 るようなら、ドイツはソ連との不可侵条約を考慮しなければならなくなるかもしれませ
 ん」腰をぬかさんばかりにびっくりした二人は、リッベントロップの言葉をどう受けと
 めるかについて、夜が明けるまで議論した。
・もちろん、このことは東京へ報告された。東京でもほとんどが大島と同じ解釈をした。
 ヒトラーのこれかでの共産主義への憎みようはどうだ、もともとソ連とドイツは不倶戴
 天の敵同士なのだ、そしてなによりかんじんなのは、ドイツは日本と防共協定を結んで
 いるではないか。それが常識的な見方というもので、だれもがその常識を超えようとは
 しなかった。独ソ不可侵条約などが結ばれるはずはない、それが結論である。
・関東軍司令部から「満ソ国境紛争処理要綱」案が送りとどけられたのは、まさにそのよ
 うなときであった。その内容は、国境付近で紛争が起こった場合にはどう処置すべきか
 についての、関東軍としての独自の作戦計画案といったものである。しかもそれは、す
 でに参謀本部より関東軍司令に示達してある作戦方針「侵されても侵さない。紛争には
 不拡大を堅守せよ」と背馳するような物騒な内容をもっていた。紛争を防止するどころ
 か、むしろ挑発するのである。

関東軍作戦課
・島国に生まれた日本人は、国境線というものを重要視することなくきたのかもしれない。
 日本人が否応もなく国境線を国家の運命線のごとくに意識させられるようになったのは、
 昭和7年に満州国ができてからである。国際社会ではまったく認知されなかったが、日
 本帝国は満州国を新生の国家としていち早く認めた。さらに満州国に独立国家としての
 面目を失わせないため、関東軍は九カ国条約や国際連盟規約にそむかないように、いく
 つもの苦肉の策をとる。そして中国人自身の独立意志によって満州国は生まれた、日本
 はそれに手をかしただけ、という大義名分をくっつけた。
・その堂々たる一独立国の満州国と日本は、その建国後に、「日満議定書」という条約を
 調印する。これには二つの密約が、しかも公然たる密約として、結ばれていた。ひとつ
 は満州国居留日本人の諸権利の確認尊重であるが、重要なのは第二条である。要するに、
 満州国を侵すものは日本帝国を侵すものにひとしい、であるから関東軍が満州防衛を引
 き受ける、と謳いあげた密約である。軍事的にみれば、ソ満国境はソ日国境にほかなら
 なくなる。 
・ソ連は、満州国建国に対しては静観を表明し、あえて否定することはなかったが、国家
 として認めたわけでもない。満州の大地は依然として中国領とみている。となると、新
 生満州国が国歌として改めて国境線についてソ連と協議するわけにはいかない。結局は、
 それ以前に清国とロシアの間で話し合われ画定された国境線が、ソ満国境ということに
 なる。ところが、この国境線が、いたるところでまことに不明確なのである。
・もともとがそんな曖昧な国境線であるから、双方が兵力を展開して相対峙している、そ
 れだけでも避けることのできない偶発事件の起こることは想像はつく。満州建国以来、
 国境での紛争事件は絶え間なく、増えるいっぽうである。とくに満州西北部、興安北省
 が外蒙古と境を接するノモンハン付近では、昭和13年から14年にかけて急激に小さ
 な衝突事件が増えていた。
・とにかく陸軍中央はソ連軍と全面対決となるような事態を極度に恐れ、慎重かついくら
 かは腰の引けた方針を関東軍に示していた。一言でいうと「侵されても侵さない」のが
 参謀本部の示した対ソ方針ということになる。
・しかし、これでは関東軍が不満この上ない。では国境紛争が実際に発生した場合には、
 それもソ連軍が出動してくるようなことがあったら、いったいどう処置したらいいのか。
・事実、ソ連と満州と日本(朝鮮)が国境を接している朝鮮半島の東北端の張鼓峰付近で、
 昭和13年7月に日本軍一個師団対ソ連軍二個師団が戦果をまじえる大事件が起きてい
 たのである。ソ連軍の飛行機、戦車、重砲をくりだす正攻法の近代戦法の前に、出動し
 た日本軍は叩かれっぱなしの手ひどい損害を蒙る。
・このときは、参謀本部にはそのきびしい作戦指導のもとに限定戦闘をやってみて、ソ連
 軍に日中戦争に介入する意図ありやなしや、確かめてみようという秘かな計画があった。
 つまり「威力偵察」的な意味から、朝鮮軍に出動を命じている。だが、”火遊び”もい
 いところとなった。結果は惨たるものとなり、予想だにせぬソ連軍の猛攻の前に、参謀
 本部作戦課は顔入りを失った。
・ここに関東軍司令部の第一課(作戦)参謀「辻政信」少佐が颯爽と登場してくる。停戦
 成立の直後、張鼓峰付近の戦場へと飛んだ「辻」は、死傷1400名余の犠牲者を出し
 ながら、日本軍が兵力を撤収し、ソ連軍が越境の既成事実を確保し、国境線を拡大形成
 していることに憤激した。ソ連軍が国境を侵犯してきたときには即座に一撃を加え、こ
 れを粉砕することが、紛争の拡大を防ぐことになる。いや、それこそが唯一の道といえ
 る、と「辻」はいきり立った。   
・昭和14年3月の人事異動で、関東軍の第一課(作戦)に参謀本部から寺田雅雄大佐と
 「服部卓四郎」中佐ならびに島貫武治少佐が転入してきた。参謀本部の意思は、これら
 陸軍中央勤務をへた参謀を送り込むことで、いま課題となっている「対ソ西正面作戦」
 を求める乙案が、はたして可能かどうか十分に研究してもらおう、ということである。
 あくまで現地で研究するためで、積極的な攻勢など夢にも考えてはいなかった、という。
・「辻」にとっては、さながら自分が選んだような理想の人びとの着任である。おそらく
 この異動を知ったとき、「辻」は「してやったり」と歓喜したにちがいない。気心の知
 れているものの着任である。なかんずく「服部」中佐の存在が「辻」には大きく、有難
 さを数倍にも感じさせた。参謀本部編制課で席をならべたときから、二人は奇妙にウマ
 があったという。ともに稀に見る秀才であった。
・「辻」と「服部」は性格的には水と火のごとくに違っていた。「辻」が内柔外剛、その
 信念と才智と豪気にまかせて、行くところしばしば風雲をまきおこし、敵をつくったの
 に反し、「服部」の歩みはその性格の内剛外柔にふさわしく、先輩後輩の尊敬を集めつ
 つ、包容力ある人物として、エリート幕僚の道を一歩一歩のぼってきた。剛毅不屈、鬼
 参謀とか勇士参謀とかよばれた「辻」であるが、「服部」には心から信頼し尊敬する上
 司として仰いで仕えている。逆に、「辻」を部下としてよく使いこなした上司としては、
 「服部」が唯一無二の人といわれた。
・「辻」という軍人は、個人の行動で局面を動かせる場合には、縦横無尽の働きができる
 男であったけれど、ひとたび組織というものの力に頼らねばならないときは、ほとんど
 疎外されることが多い。そのときこそ「服部」が必要なのである。そしてその逆が、官
 僚的軍人「服部」における斬り込み隊長「辻」の存在であったのではないか。
・「辻」はその信念とするところを実現に移すチャンス到来とみてとった。われわれは事
 に当たっては常に断乎たるものでなければならない。陸軍中央とは異なり、関東軍の方
 針は侵さず、侵されざる」であるべきである。
・考えてみるとおかしなことである。その方針には軍隊統帥に関する厳粛なる遵守の精神
 がかけらもない。もっとくだいていえば、参謀本部作戦課の方針へのはっきりとした非
 難ないし嘲笑を聞くことができる。その集団主義への明らかな反逆といっていいかもし
 れない。   
・関東軍作戦課はいまや、目鼻のはっきりしない参謀本部作戦課の集団主義とは違って、
 作戦参謀「辻政信」と彼をバックアップする作戦課主任参謀「服部卓四郎」という、き
 わだって戦闘的な二人を中心にして、独自の道を驀進しはじめた。
・昭和14年4月、植田軍司令官は新たな関東軍処理方針「満ソ国境紛争処理要綱」を麾
 下の将軍たちに示達した。参謀本部の「年度作戦計画」の遅滞をよそに、この方針は
 「辻」参謀が建策し起案し、「服部」参謀が承認し、作戦課が一致して強力に推進した
 ものである。   
・ここにはソ連軍に対する極めて安易な思い込みがある。軽視がある。つまり、昭和8年
 に配布された極秘「対ソ戦闘要綱」から一歩も外へ出ない観念的なソ連観が基本になっ
 ている。要するにソ連軍は消極鈍重であり、頭脳が粗雑で非科学的で、精神力は書ける
 ところが大いにある。ただし無神経で困苦欠乏に堪え、小さな敗戦に対しる感受性はす
 こぶる劣る、愚鈍に近い、ということなのである。ソ連軍の能力を軽侮する形容がつづ
 く。つまりそれが日本陸軍の観念的なソ連軍戦力への一般的な評価であったのである。
 こんど関東軍司令部が下達した「処理要綱」はそうした独善的な優越感に基づいて書か
 れたものであった。
・ともかくすさまじい方針である。越境してきた敵を殲滅するためには国境外へ兵を進め
 てもいいとは、天皇の統帥大権に対する配慮もへちまもない。完全無視である。また、
 国境線のはっきりしない地域とは紛争の起きやすいところで、そこでは「自主的に」つ
 まり勝手に国境線を認定したほうが紛争の防止になるとは、まるで通らない理屈ではな
 いか。越権行為もいいところであるばかりでなく、それは危険この上ない戦闘挑発とい
 うことになろう。
・この武断主義の背景には、ソ連軍軽視とともに、昭和陸軍の戦術思想の主流たる「一撃
 主義」があったのである。それがあるゆえに、植田軍司令官磯谷参謀長ともあろうお
 偉方がすんなりと受け入れてしまう。
・しかし示達を受けた将官の中には、ただちに危険この上ないことを見抜いた人もいる。
 第三軍司令官多田駿中将は立って激しく噛みついた。
・さまざまな質問を受けた磯谷が西北部ホロンバイル地方における国境線について、こう
 明言したというのである。「ハルハ河を国境とすることを、このたび中央で認められた」
 これはのちに問題を残す重要な一言となる。ノモンハン事件の発端ばかりでなく、悲惨
 この上ない戦闘を続け停戦に到るまで、これが影響するところは実に重大なものがある。
・しかし、参謀本部作戦課長であった稲田正純は、磯谷の主張には一瞥さえも与えない。
 「大本営からは、関東軍に対し国境を明示したことはない。関東軍にまかせていた」
・かんじんの国境線の認識からして陸軍中央と関東軍司令部とのちぐはぐには、評すべき
 言葉もなくなる。やがてはじまるノモンハン事件が国境線をめぐっての強引この上ない
 「惨戦」となるのは当然のことであったのである。
・それにしても、稲田作戦課長の国境線のことは「関東軍にまかせていた」の言は、なん
 ともやりきれない。それをしっかり認定することが大本営のしなければならない緊要の
 ことではないのか。 
・関東軍司令官は、発令と同時にこの文書を参謀総長に報告した。きちんとした事務手続
 はなされている。にもかかわらず、それを受領した参謀本部が、なんら正式の意思表示
 も確たる判断をも下そうとしなかった。返事がないということで、関東軍がめでたくこ
 の方針が陸軍中央によって容認されたと考えても、これは不思議ではない。実務上よく
 あることである。
・ここはやはり「国境紛争には積極的に攻撃にでる」ことを決めた「処理要綱」に対して、
 決然たる参謀本部の考えと意思を示さなければならないときであった。黙認と受け取ら
 れるようなあやふやな態度を見せてはならなかったのである。
・土門周平氏の考察によると、どうやら東京の稲田課長と関東軍の作戦課の面々とは、過
 去に、というよりつい前年の昭和13年春に、ある衝突事件を起こして、たがいに心の
 内にわだかまるものを残していたらしい。ことは当時、世界的風潮であった一師団三個
 連隊編成の問題をめぐってのことである。日本陸軍はこの三個連隊案を妙案良策である
 と実行に移すことにして、参謀本部編制動員課(第三課)が中心となり大いに張り切っ
 て研究し推進した。その主担任が「服部卓四郎」少佐で、同課員には寺田雅雄中佐、
 「辻政信」大尉がいた。そこへ陸軍省軍事課から転じて、作戦課長に稲田大佐が就任し
 てきたのである。稲田はこの「全面的三単位改編」に対する大の反対論者である。そこ
 で、ほぼ大綱をまとめ、あと一歩と張り切っている編制動員課に、稲田は頭から水をか
 けるかのように待ったをかけた。とうてい承服できない服部は再三再四にわたって翻意
 を求めたが、稲田は頑として譲らなかった。
・この年の3月、スターリンが党大会で行った演説の内容が、この服部や辻を中心とする
 関東軍の独善的な参謀たちの耳には、はたして届いていなかったのであろうか。
 「ソ連は侵略国の犠牲となり、祖国の独立のために闘う民族を支持する。ソ連は侵略国
 からの強迫を恐れない。ソ連国境に対する打撃に対しては、二倍の反撃をもって応ずる
 用意をもっている」 
 スターリンもまた、国境の保全のため「侵さず、侵されず」の強烈な意志を持っていた
 のである。

五月
ヒトラーは用心深かったのである。スターリンの外相交代などのジェスチャーが、ある
 いは英仏相手の交渉をうまく運ぶための偽装なのではないかと疑えば疑えた。ヒトラー
 はスターリンをほとんど信用していない。その策謀でかためたような不愉快な男によっ
 て手玉にとられるようなことは我慢ならないとばかりに、ときには、狂暴な怒りに襲わ
 れて想像上の敵の抹殺をすら厳命するヒトラーが、このときはわけのわからないほど忍
 耐強く、何かを待ち続けた。
・ヒトラーとはそもそも何者なるか、という設問に簡単に答えられるようなら、これまで
 世界中で二千冊におよぶ「ヒトラー伝」が書かれるはずもない。第二次大戦における日
 本のリーダー東条英機なんか、たかだか十冊がいいところ。格が違う。あれやこれや論
 じた書を読みふけってみても、ついにどんな男かわからない。ヒトラーの性格を説明す
 ることは、論理的分析をもってしては不可能なようである。しかし、ただひとつはっき
 りしているのは、その目指していることである。第一次大戦後のヴェルサイユ体制を打
 破すること、ドイツをふたたび世界的強国に再興すること、旧ドイツ植民地を回復する
 こと、一民族・一国家・一指導者の大ドイツを建設すること、である。
・国境線を変更してドイツの領土をひろげるなどということは、戦争なしには行いえない。
 いいかえれば、戦争の覚悟もなしの強硬な外交はありえない。領土条約に挑戦すること
 は戦争にそのままつながる。ヒトラーはそのことを百も承知であった。そして、かれは
 戦争の危険をまったく意に介してはいなかった。 
・ヒトラーは、ふたたび、なんとなく頼りないアジアの帝国たる日本のほうへ、視線を向
 け直した。イギリスやフランスと戦わねばならないとき、日本の海軍力はどうしても必
 要なのである。そしてまたイタリアの陸軍力も・・・。さらにソ連とことをかまえねば
 ならなくなったら、その背後をおびやかす日本の陸軍力のなんと頼もしい味方であるこ
 とか。
・町には独ソ接近の噂にも近いニュースが流れ、新聞も確信なげにそれを報じていた。街
 角には「三国同盟即時締結せよ」などのビラが張られ、雑誌などにはポーランドをめぐ
 る英独開戦はもはや必至という観測記事がのりはじめる。
・一日も早く協定を結びたい陸軍中央はやきもちした。平沼首相の尻をたたき、一種の恫
 喝まがいの圧力を加えて、ヒトラーとムッソリーニに対して首相のメッセージを直接送
 って局面打開をはかる工作を成功させた。ところが五相会議で、外相有田と海相米内の
 強い抗議に首相が譲って、平沼メッセージは陸軍の期待に反して、かなり腰くだけのも
 のとなった。 
・陸軍中央の全将校の激励を受けて五相会議にのぞんだ板垣は、陸軍の総意を予定どおり
 主張した。最後の頑張りである。盛岡出身の彼は、どちらかというと口が重かった。そ
 の口の重さが、実は8年前の満州事変の点火から爆発の際に役立った。関東軍の作戦参
 謀「石原莞爾」という天才的な戦術家をバックアップして、このときの高級参謀として
 のこの人の存在は大きかった。天皇や陸軍中央の不拡大厳守の命を受けて、まさに崩壊
 寸前のときに、北垣の出番がきたのである。石原をはじめほかの参謀たちがもうアカン
 と投げ出してしまう中で、軍司令官本庄繁中将の真正面に坐って、ただ一言イエスを引
 き出すためにこの人は粘り抜いた。そんな生一本な軍人がこの大事なときに陸相であっ
 たことは、当人にとっては不幸なことであったかもしれない。
・全陸軍の期待を背負いながら、とうてい板垣は米内に敵するところではなかったらしい。
 三宅坂上の参謀たちの切歯扼腕のさまが容易に想像できる。
・陸軍参謀本部作戦課が明らかにつぎの世界戦争を必至のものと考え、三国同盟はそれに
 備えるものとしているところにある。それと、満州事変以来のさまざまな経緯およびな
 いがいの現情勢から、英米とはもう仲よくできないと確信している。そうである以上、
 つぎの戦争の勝者となるためには、独伊と結ぶのは必然と主張する。
・ところが、あてにしていた天皇が、作戦課の面々をびっくりさせるようなはげしい態度
 を示した。侍従武官長宇佐美興屋中将が参謀本部を訪ね、天皇の強い意向を申し入れた。
 天皇は武官長にこういったという。
 「参謀総長が本日参内したいという話であるが、その目的は防共協定強化のことだと思
 う。もし万一にも参戦というふうな事を申し出るようなことがあれば、それには、明確
 に反対するから、その旨を事前に伝えておいてもらいたい」
 宇佐美の話を聞いて作戦課の秀才たちは面くらった。   
・しかし、予定通り閑院宮総長の参内は実行に移すことにした。天皇に会った閑院宮は、
 総帥部の結論として「参戦」条項を認めてもよいことを奏上、三国同盟を一日も早く結
 ぶのが賢策である旨の進言を行った。天皇にして大元帥は、参戦には絶対不同意である
 といい、これをきびしく「拒否」した。
・天皇としてみれば、宣戦と講和は憲法によってきめられた天皇の大権であるから、かり
 にも「参戦」を含んだ同盟条約に、天皇がはっきり意志を表示するというのは、憲法に
 のっとった大権行為といえる。また、大元帥としても、自分を補翼する幕僚長である参
 謀総長に対して、厳格に「ノウ」の命令を下すことは、総帥者としての当然の任務なの
 である。
・参謀本部の秀才たちが、自分たちの意のままに大元帥を動かせると考えたとしたら、と
 んでもない話。それは統帥権の尊厳を無視するもので、それこそが統帥権干犯そのもの
 の行為というほかはない。
・しかし、内閣の輔弼によって国務を総攬している天皇としては、宣戦と講和の決定が天
 皇大権としても、かりに内閣が一致して責任ある決定を進言してきた場合には、自分の
 意思のままに国策を変更することはできない。自分の意にそおうがそむこうが、内閣一
 致の決定を必ず嘉納する。それが大日本帝国憲法における天皇の慣習的な立場であった。
・山本海軍次官が新聞記者を相手に、吹きまくったという。「この問題に関するかぎり、
 海軍は一歩たりとも譲歩はせぬ。陸軍は狂っているよ。そんな陸軍にのせられて五相会
 議を続けているのが、無駄もいいところだ。いまの平沼内閣じゃ政治など存在しないと
 いっていい。いずれ政変はまぬがれない」
・いまの海軍のかたくなな態度は、主として山本次官がうしろで舵をとっている、との観
 測はずっと以前からあったが、改めてそれが明瞭になったかの感がある。陸軍中央の山
 本をみる目は完全に硬化した。
・このような海軍に対して、当時の社会情勢には「宣言」とか「要請」とか「辞職勧告」
 とかいう名の脅迫状を送り付けたり、右翼団体の直接の海軍省乗り込みがあったり、あ
 るいは一人一殺のテロの動きが見られた。
・このことから陸軍中央は山本次官の身を案じて、その安全を期するためその夜から憲兵
 をひとり護衛につけることをきめている。そのことを知らされたとき、山本は苦笑して、
 「これがほんとうの送り狼というやつかもしれんな」
・ノモンハンとは小さな集落の名である。この辺をホロンバイルといい、広さはざっと九
 州ぐらいで一望千里、無人の、広漠とした砂丘と草原が海のように広がっている。ひざ
 の高さに草が茂っているだけで、山もなく、一本の樹もなく、なだらかな起伏が大波の
 ようにゆっくりとつづき、四方の稜線は地平線で雲と接している。
・満州国が成立して以来、ハルハ河が国境線とされ、ノモンハン付近は満州国領内に組み
 入れられた。ノモンハンの国境警察分駐所には、警士五名が配置され、満州国側がきび
 しく目を光らせた。そのことを認めない外蒙古側は「失地回復」の意味もあり、しばし
 ば家畜をおってハルハ河を越えて進出した。このとき少数の外蒙古軍が護衛についてき
 た。満州国軍の目からみればこれは「越境」となる。
・草と水の奪い合いから、しばしば国境線をめぐって小さな戦闘が起こっていた。
・5月4日、外蒙兵がバルシャガル高地を偵察していたので、満州国警察隊がこれを包囲
 攻撃し、少尉一名と兵一名を逮捕した。
・5月10日、ハルハ河渡河点付近で巡察中の満州国警察隊は、外蒙側から突然の不法射
 撃を受け、ただちに応戦した。
・1924年(大正13年)以来、人口80万足らずのモンゴル(外蒙古)はソ連の16
 番目の共和国のごとくになっていた。そして1936年(昭和11年)3月、ソ蒙相互
 援助議定書が締結され、外蒙古は完全にソ連の保護国となり、対日本帝国主義侵攻の防
 波堤の役割を担わされていた。
・5月12日、外蒙軍700名がふたたび越境してきた、と今度は満軍側がみた。事実は
 60名というが、外蒙兵は複馬制で馬の数は二倍ゆえ、大挙して攻撃してきたとみえた
 のかもしれない。
・5月13日、小松原師団長は前日の参謀の報告を受け、積極的かつ戦闘的になった。満
 軍の司令官が、「国境の小紛争であるゆえ満州国軍にまかせてほしい」と意見を具申し
 たが、小松原はぜんぜん受けつけなかったという。その理由の一つに、この5月13日
 の午前中に、師団の団隊長会議が開かれる予定になっていたことがあげられる。それは
 関東軍司令部より下達された「満ソ国境紛争処理要綱」を、麾下の全部隊に周知徹底す
 るためのおごそかな会議であった。もう一つに、この日、東京より稲田作戦課長と、荒
 尾、櫛田、井本の、参謀本部作戦課のエリート参謀の四名が現地視察旅行の途次に訪れ
 ていたおともあげられる。
・「辻」参謀の手記によれば、「幕僚中誰一人ノモンハンの地名を知っているものはない、
 眼を皿のようにし、拡大鏡をもって、ハイラル南方外蒙との境界付近で、ようやくノモ
 ンハンの地名を探し出した」とある。でたらめもいいところで、例によって「辻」のつ
 くる話かとおかしくなる。幕僚は全員その名を熟知していた。その付近が国境線のもっ
 とも不明確な地帯ということも承知していた。
・関東軍作戦課の処理はすこぶる早く、積極的であった。小笠原の要望は相当に欲張った
 ところがあるのに、関東軍は植田軍司令官の命のもとそれ以上の手当てをしている。
・報告を受けた参謀本部の反応も実にすばやい。それも当然で、作戦課長以下が現地にあ
 るのであるから、委細をのみこんでの処置がなされたと考えたにちがいない。   
・すべては順調にと書きたいが、このさい踏みとどまって考えねばならない大事なことが、
 東京・新京・ハイラルのいずれにおいてもすっぽり抜け落ちてしまっている。国境紛争
 の危険性に対する認識である。つい前年に戦略単位の兵力が増員され、激突するという
 張鼓峰事件の一大事をひき起こしている。
・これは下手をするとエスカレートして大事件をひき起こすことになるかもしれないと、
 東京や新京のエリート参謀たちのだれひとりとして直感することがなかったとは、当時
 の陸軍軍人の辞書には「反省」の文字がなかったというほかはない。
・小松原師団長は、二週間前に上長の関東軍から示された「処理要綱」にもとづいて、躊
 躇なく実効に移すまでである。なんら責められる話ではない。現場指揮官がやや過早な
 出撃命令を下しても、そこに居合わせた東京の作戦課長以下は黙認するばかりなのであ
 る。軍人は「勇敢さ」とか「断じて行う」とか「大声」とかには、とかく弱いのである。
 そして上長の関東司令部は現場の要望をすべて満たして頑張れと声援を送り、自分のほ
 うがいっそう勇見立っている。
・つまり、このとき、国境での衝突があのような大戦争になろうとは、だれひとり考えて
 もいなかったことを証明する。なぜならだれもがソ連軍の猛反撃などあるべくもないと
 思っていたからである。当時の陸軍軍人は高級であればあるほど、自国の軍事力への過
 信と、それと裏腹のソ連軍事力への過小評価の心情をもっていた。共通して対ソ戦力へ
 の評価は観念的なもので、機械化戦力を充実しつつあるソ連軍備についての、客観的な
 分析はごくおろそかにされている。
・昭和13年6月の、極東地方内務人民委員部長官リュシコフ三等大将の「粛清を恐れて
 脱出してきた」という満州国亡命事件が、日本軍の独善的な優越感に拍車をかけた。革
 命の際の功績でレーニン勲章を授与されている超大物が、「スターリン」の恐怖政治の
 実相をすべて語ったのである。ただし、このときリュシコフは、長大なソ満国境におけ
 る彼らの兵力、戦力に相当の差のある事実も、あからさまに語った。たとえば飛行機は、
 日本の340機に対してソ連軍は6倍の2000機、戦車は日本の170輛に対してソ
 連軍は11倍の1900輛であると。
・軍首脳は驚倒し、一時は浮き足立ったが、次官が経つとまた観念的なソ連戦力軽視へと
 戻っていった。好ましくないほうはさっさと捨てられていく。情報がなかったわけでな
 く、「無視した」というほうが正確であろう。
・ハイラルからの堂々たる日本軍出撃の背景には、この情報無視があった。自己の戦力過
 信とソ連軍軽視があった。関東軍作戦課は、普段からソ蒙軍などわが精鋭三分の一の兵
 力でもお釣りがくると豪語している。東京の作戦課も、きっとそうに違いないと信じて
 いる。
・東八百蔵中佐を指揮官とする第二十三捜索隊は、盛大な見送りを受け、ハイラルより出
 撃した。日本軍大部隊の出動に、外蒙軍は抵抗すべくもなく大半がハルハ河を渡って西
 岸に退き、残った一部も、東捜索隊の戦場進出とともに、いちはやく退却する。戦闘ら
 しい戦闘もなく、空振りながら日本軍は出動の目的を達したことになる。
・小松原は、満軍第八団にそのままノモンハン付近の国境警備を命じ、捜索隊ほかにはた
 だちにハイラルへ帰還せよの命を下した。命令に従って全部隊はハイラルに戻っている。
 小松原にとっては予想どおり、強く出れば敵は逃げるということを確認しただけにとど
 まった。戦果なし。
・ところが戦果が実はあったのである。飛行第十戦隊第三中隊の九七式軽爆撃機五機があ
 げたもので、小松原の日記には「左岸にある包囲20に対し爆撃し相当の損害を与えた
 り」とある。  
・問題なのは、この空襲がハルハ河の西岸、すなわち日満側の主張する国境線を越えて行
 われていることである。まだ小競り合いの段階ですでに堂々と国境線を越えて行われて
 いることである。まだ小競り合いの段階ですでに堂々と国境侵犯行為を日本軍は行って
 いる。いったいいつの時から日本陸軍は、天皇の命令なくして国境を侵犯することに平
 気になったのか。満州事変以来の「勝てば官軍」意識にはじまる退廃は、”ここにきわ
 まれり”であったのである。
・東捜索隊の総攻撃はもちろんのことであるが、この軽爆五機によるハルハ河西岸への越
 境攻撃が、結果的にソ連軍の神経を逆なでしひどく痛めつけたことは明らかである。一
 言でいえば、外蒙軍にまかせておけずソ連軍がこんどは矢面に立つ決意を固めたといえ
 る。
・ノモンハン付近で小競り合いが行われているうちに、ヨーロッパの情勢は大きな変容を
 みせはじめた。軍事同盟に対する日本帝国のあやふやな態度に業をにやしたヒトラーが
 動きだしたのである。ムッソリーニへの急接近である。実はムッソリーニはここ何年間
 も、暗い不安な予感から、ドイツとの関係を具体的な義務を負った軍事同盟の形にする
 ことを断っていた。その彼が急に機嫌よくなって交渉に乗り出してきたのである。ヒト
 ラーは得手に帆をあげる感じで、暖かい視線をムッソリーニに向けた。
・スターリンは、ヒトラーがつぎの戦争に国家の運命をかけていることはわかている。そ
 れに巻き込まれたくないゆえに、ヒトラーへ協調のシグナルを送った。それにわずかな
 りとも答えようともせず、依然としてソ連に非妥協の姿勢をとるヒトラーを、スターリ
 ンは改めて猜疑の目でみるほかはない。
・この独裁者はひがみっぽく、多分に偏執狂的な性質を持っていた。その性質は人を疑う
 ときにはとくに発揮されたという。彼は人間の愛情や友情を信用せず、「だれでも買収
 されることがありうる」と信じていた。彼が許可した粛清や大虐殺は、まさしくだれを
 も信用しない、妄想にとらわれてのものであったといえる。
・ドイツの軍事力とヒトラーの非情さが、スターリンの心をひきつけるとともに、恐怖を
 かきたてている。スターリンの政策を一本につらぬくものがあるとすれば、それは恐怖
 である。そのスターリンの眼には、ヒトラーとムッソリーニとがいまの世界の勝利の潮
 流にのっている人物のように映る。その二人が急速に手を結ぼうとしている。それに日
 本である。日本もまた勝利の潮流に棹さして全満州を占領し、中国領土内にかつてない
 ほど奥深く侵入している。しかもその日本がいま満州と外蒙古の国境線で侵略的な軍事
 行動に出ている、という許しがたい報告も送られてきていた。スターリンはそのことに
 も激しく恐怖を感じ、怒りをかきたてていた。
・スターリンは軍事上の判断をせまられた場合でも、地図を用いず、もっぱら地球儀を用
 いていたという。その地球儀も決して大きいものではなく、小、中学校で使われている
 程度のものであったらしい。この感覚は軍事専門家のものではない。戦略戦術を地球儀
 で考えられたのではたまったものではない。このために、のちに対独戦では死なずとも
 すんだ数十万の将兵が死ななければならなかった。しかし地球儀の距離感覚でみるとき、
 ノモンハンはモスクワからほんのわずかな距離にあるように思える。ノモンハン事件の
 場合は、スターリンが地球儀で対策を考えたのは、日本軍にとっては皮肉なことながら、
 間違ってはいなかった。
・「永遠の謎」の男スターリンよりは、と考えるヒトラーは、とりあえずムッソリーニと
 握手をかわすことにした。「鉄鋼条約」と名づけられた独伊の軍事同盟が、盛大な儀式
 のもとに調印される。ヒトラーはこの条約を、自分の外交勝利とみなし大々的に宣伝さ
 せることにした。
・日本では、依然として海軍の強硬は反対で、同盟問題は暗礁にのりあげたままである。
 もうそのころになると、陸軍・若手外交官僚そして右翼はもとより言論界も、同盟強化
 へと狂奔しはじめた。 
・そこへ日本ののけものにして独伊同盟成るの衝撃的な報が入ってきた。推進派には早く
 からそれらしい情報が入っていたとはいえ、いざ現実となってみるとやっぱり外された
 のかの無念の思いもある。だれもが完全に怒り心頭に発した。とくにベルリンの大島大
 使とローマの白鳥大使である。大上段から政府の施策を批判し、何をもたもとしている
 か、ここまできた以上はほかに道はないと高飛車に要求をつきつけた。これまでにも大
 島大使とともに、白鳥大使は、政府の思うように動かぬことが多かった。大島大使も白
 鳥大使も軍事同盟は緊要と考えており、そのため独伊が英仏と戦争をするときには、日
 本は独伊の側に立って参戦する義務がある、と独断で解釈し、先方の政府にそう申し出
 ている始末であった。 
・がぜん右翼が動き出した。デマもしきりに飛び交った・陳情の名のもとにさまざまな団
 体が押しかけ、三国同盟の即時締結を主張し、反対する海軍の弱腰を糺弾、大臣・次官
 の親英米主義を非難してやまなかった。
・小松原師団長の、このときの決断を支えていたものは、明らかに驕慢であったと考えら
 れる。敵情を熟知した上での作戦計画ではなく、わが軍が出動すれば敵は退却するもの
 と頭から決めつけたうえのものである。新たに得たる報告によれば、その弱敵が、国境
 線を越えて陣地を築いたということが、堪忍できないのである。小松原は駐ソ武官を長
 くやり、陸軍部内でも有数のソ連通とされている。しかしソ連の何を見てきたのであろ
 うか。日露戦争の勝利に幻惑され、栄光の余沢によりかかる、ソ連通とは名のみの軍人
 でしかなかったのである。
・小松原師団長が、ノモンハン方面の外蒙軍を「捕捉殲滅」する攻撃命令を下したのは、
 空中戦闘が開始された5月21日である。今度は包囲して敵を逃さないよう強力な部隊
 を迅速に派遣すると決心した。山県武光大佐が指揮する約1600名の戦闘部隊の大挙
 出動となった。しかし小松原師団長は砲兵はともなわせなかった。明らかに敵を甘く見
 ている。なによりも、すでに戦場に姿をみせているソ連兵のことがまったく念頭にない。
 そこに最大の甘さがある。
・ハイラルよりの報告を受けた新京の関東軍作戦課は、この出動を尚早とみなした。目的
 が敵の殲滅にあるならば、国境線を越えてきたからといっていちいち出撃するよりも、
 ソ蒙軍を「満領内に誘致」し油断させたうえで一挙に急襲するほうが有効である、と判
 断したのである。服部参謀の具申で、参謀長磯谷中将が派兵再考の旨を打電すると、大
 内参謀長も小松原師団長に、おなじ主旨で出動を中止すべきだと意見具申を発した。
・しかし、小松原師団長は、これらの意見を拒否した。 
・山県支隊は作戦命令どおりハイラルを出発し、前進基地のカンジュル廟付近に集結を完
 了した。ところが、山県支隊長はこのカンジュル廟で、小松原師団長から「しばらく待
 機せよ」という命令変更を受ける。小松原師団長は、上長の関東軍司令部にやはりいい
 顔を向けないわけにはいかなくなった。  
・いったい陸大出の中将ともあろう軍人が何を血迷っているのであろうか。防衛司令官た
 るものは勝手に作戦をたて、兵力運用に権限をもっていると、小松原司令官は本気で考
 えているのか。国境紛争の解決とは申し条、あるいは大戦争につながりかねない兵力の
 行使なのである。軍旗を奉じた連隊長を出動させているのである。軍隊指揮権(統帥権)
 は大元帥にある。大元帥の命なくして一兵たりとも勝手には動かせないと基本的には考
 えねばならない。当時の陸軍軍人は統帥権の何たるかを知らず、それを干犯するなど朝
 飯前のことに考えている。  
・ところが、軍神はこのとき、ソ蒙軍のほうにひどく味方する。山県支隊のカンジュル待
 機が、兵力移動のための貴重な時を彼らに与えたのである。ソ連工兵中隊が来て、ハル
 ハ河に橋をかけたのである。橋をかけることにより、戦車、装甲車や装備器材や砲兵大
 隊といった主戦力部隊が、つぎつぎに西から東へと河を渡って陣をしくことができた。
・そうとも知らぬままに、5月26日に小松原師団長自身が出動し、カンジュル廟の支隊
 本部に姿をみせて、命を下した。「ハルバ河東岸に進出中の外蒙軍を攻撃、捕捉殲滅せ
 よ」そして命令を下すと小松原師団長は、夜のうちにハイラルに戻っている。命令され
 た山県大佐も、小松原師団長に劣らぬくらい楽観していたほうである。
・小松原師団長や山県大佐だけではない。すでにして敵をのむ概は上から下まで共通した
 ものであった。ある若い中隊長は「敵が逃げないように」と笑って天に祈った。
・日本軍の自動車は灯火をつけて戦場へ向かっていたのであろうか。ソ蒙軍は退却するど
 ころか十分な余裕のもとに戦闘態勢をととのえ、迎え撃つことができた。東捜索隊は機
 動速度の早さもありかまわずハルハ河沿いに敵中に急進していった。逃げ出す敵をハル
 ハ河岸で遮断するのが任務であるから、日の出前までに川又付近の丘に陣地を築いてお
 かなければならない。幸いソ蒙軍の抵抗を受けることもなく川又軍橋の砂丘に到着する
 ことができた。そして陣地をすばやく構築することができた。
・東中佐がはじめて、思いもかけないほど強力な敵が前方に戦闘態勢をとっているのを知
 ったのはこのときである。ハルハ河西岸の外蒙領のコマツ台地にも少なからぬ戦車、砲
 兵、騎兵がいる。東岸の高地には、戦車を有する大部隊が日本軍の攻撃を持ち受けてい
 る。これでは退路を断つどころか、自隊がへたをすれば脱出路のない戦いを戦わねばな
 らなくなる。 
・事実、山県大佐指揮の支隊主力の歩兵部隊との共同作戦は完全に分断され、その後の東
 捜索隊は孤軍となって戦わざるえなくなった。ソ蒙軍砲兵の集中砲火と戦車の蹂躙と、
 さらには急行したソ連軍の狙撃連隊によって側背からの攻撃を受け、逆に包囲され潰滅
 する。東中佐を中心に将兵はとりまくように円陣形になって戦い、ほとんど全員が戦死
 した。  
・東中佐は、自隊の苦戦のさまを報告している。しかし、すべては”なしのつぶて”で、
 支隊主力の動静は不明のままの力戦であった。
・ハイラルにいる小松原師団長も、戦況がそんな悲惨なものになっているとはつゆ思って
 もみなかった。山県連隊長からの早めの戦果報告を受け、作戦は予定どおり進行し、
 越境した外蒙軍を捕捉殲滅はできなかったとしても、おおよそ撃破し国境外へ追い払った
 と判断していた。目的は半達成したと判断し、小松原師団長は山県支隊のカンジュル廟
 付近への命令を下達した。   
・命を受けた山県はさすがにあわてた。戦場の実情は日本軍にきびしくなるいっぽうなの
 である。山県はやむをえず「夜にもう一撃加えたるのち、戦場を離脱する」旨を、小松
 原師団長に返電する。  
・小松原師団長はわが目を疑ったにちがいない。そして、陽が昇ると、増援軍を加えたソ
 蒙軍の猛攻がふたたびはじまったとの緊急の報告を受ける。ここの関東軍の「辻」参謀
 が登場するのである。
・敵の攻撃いよいよ激越のときに、支隊を戦場から引き揚げカンジュル廟への集結命令を
 出している小松原師団長の尻を「辻」はおおいにたたいた。そして小松原師団長を翻意
 させた。
・「辻」参謀の主張がそのままに影響したと思われる電報がハイラルより山県支隊に発信
 されている。「一部の兵力を増加する以て、前命にかかわらず、敵の撃滅を期せられた
 し」命令のやり直しである。これによって山県支隊主力の運命は好転する。あのまま
 ”一撃”を督戦されただけであったら、明日は東捜索隊のあとを追ったかもしれない。
・翌日、師団命令により、歩兵、機関銃、速射砲中隊、山砲中隊が増援されることになり、
 部隊は十分に準備をととのえてハイラルを出動、ノモンハン付近の戦場に到着する。こ
 の部隊の自動車に便乗し、「辻」参謀もはじめて戦場に姿をみせる。
・支隊本部に現われた「辻」参謀は、さすがに闘志と実行力のかたまりと言われるだけの
 真価を発揮する。山県がどうしていいか処置に窮しているのを知ると、「辻」参謀はこ
 れを一喝した。
 「あなたは東捜索隊を見殺しにした。あなたにとって東中佐は同期生ではないか。その
  部隊長の遺骸は収容しようともせず、これを戦場に放置したままとは何たることか。
  今夜半、支隊をあげて夜襲を実行しなさい」
・この夜襲部隊に、むろん「辻」参謀は同行している。敵の避退したあとの戦場をまっし
 ぐらに進んだ部隊は、東捜索隊全滅の現場につき、死体収容をはじめる。
・その日、小松原師団長は「完全に戦場掃除を実施したのち、ハイラルに帰還すべし」と、
 山県支隊に撤収命令をした。戦闘はこれで自然収束した。
・歩兵連隊の出動人員は1058、死傷および行方不明118、損傷率は11パーセント。     
 これに対して東捜索隊は出動人員220、死傷者139、損傷率は63パーセントであ
 る。 
・ノモンハン方面の戦闘で、東捜索隊が戦理からいえば全滅に近い打撃を受けたという報
 告を、その時点ではまた受けていない参謀本部作戦課は、関東軍司令部に電報を打って
 いる。「ノモンハンに於ける貴軍の赫々たる戦果を慶祝す」
 参謀本部は暗黙の承認をしていたのである。
・参謀本部以上にノモンハン事件に対し報告を受けていない天皇の、このころの憂慮は、
 もっぱら三国同盟問題をめぐる陸海軍の離反に対して向けられている。宇佐美興屋にか
 わって侍従武官長になった畑俊六大将に、めんめんとこれまでのいきさつを説明し、条
 約締結に反対である自分の考えを述べた。
・天皇が陸軍中央の強引な同盟推進を、いかにこころよく思っていないか。その得手勝手
 な振舞いと、いくら言ってきかせてものれんに腕押しとなる陸相の言動とに、いかに参
 っていたか。信頼する武官長につい愚痴をこぼしてみたのである。その天皇が、このと
 きに、ノモンハンの東捜索隊の悲惨を知らされたら、どんな思いを抱いたことであろう
 か。一年前の張鼓峰事件の際、天皇は激怒して板垣陸相にいった。「今後は、わたくし
 の許しなくして一兵たりとも勝手に動かすことはまかりならん」
・叱責どこ吹く風で、陸軍はこんども大元帥を無視して軍を動かした。「朕の命令」なく
 して軍旗を奉持した大部隊が動いたのである。陸軍は自分の意思を押し通すためには、
 外には統帥権の独立を強調し、利用した。しかし自分に都合の悪いときには都合のいい
 理屈をつけて、これを完全に無視したのである。彼らは「天皇の軍隊」を誇示しながら、
 天皇に背くことにまったく平気であった。
・三国同盟問題に関しても天皇の意思を知らないわけではない。内閣が一致した国策であ
 れば、たとえその意に反しようが、天皇は「ノウ」といわないのが憲法上のしきたりで
 ある。陸軍はそれを心得ているがゆえに、五相会議で粘り抜くのである。天皇の反対意
 思などははるか雲の上の話である。陸軍に注射されている世論は、さらに先鋭化してき
 た。親ドイツ熱、反イギリス熱で国民はカッカとなり、挙国一致そのままにまとめられ
 てしまう。この勢いに反するものは非国民となるのである。    
・昭和日本ではいつのことからか暗殺ということが英雄的行為となった。専制君主が絶対
 の権力で君臨していて、これを除くことが立派な行為であったという中国の歴史に、日
 本人が親しんで以来のことであろうが、昭和の日本にはそのような圧制者などいなかっ
 た。にもかかわらず、浜口雄幸、井上準之助、団琢磨、犬養毅、そして二・二六事件の
 斎藤実、高橋是清とつぎつぎに要人が殺害されている。
・日本の政治史とは暗殺史ではないかと思われる。そして調べて情けなくなるのは、暗殺
 が国家にとってつらい損失であるにもかかわらず、犯人が英雄視されるのが普通、とい
 うだけではなく、なぜか世論がそれを是認することであった。それを望んでいたといっ
 てもいい声や動きが、世の中にひろくあることである。
・昭和14年5月末、このやられて当然という冷たい目は、海軍に向けられている。とく
 に標的は次官山本にしぼられている。山本もさすがに死を覚悟せざるをえなくなった。
・それにしても、海軍次官がテロによるおのが死を覚悟するほど、情勢が険悪であったと
 き、内務省も警察庁も手をこまねいて眺めていたのであろうか。実は、内相木戸幸一は
 同盟推進派の旗をしきりにふっていた。
・結局は海軍が時代の流れに対して当時は異端であったのである。世論は滔々として日独
 伊同盟のほうへ流れている。テロ取締りに対しる不熱心さは、そのことをあからさまに
 示すものであった。 
 
六月
・スターリンはどちらかといえば背が低い男である。それをたえず気にしていて、163
 センチという背丈を大きくみせるため、4センチあまり高くなる長靴を秘密につくらせ、
 それをはいている。それで、だれもがスターリンを小男などとはつゆ思いもしなかった。
・ソ連軍は、日ロ戦争での敗北をよく研究し、そこから貴重な戦訓をえて、新しい野戦方
 式をあみだしている。それを「縦深陣地」という。横一線に陣を布くのではなく、タテ
 に深く矩形の陣地を構築する。攻撃主義をとる敵軍を撃破するのに、もっとも有力な防
 御方式といえた。 
・大兵力の増派決定がなされた。とくに注目されるのが空軍力である。さる陸上戦を支援
 しつつ戦われた空中戦では、ソ連軍の戦闘機隊は完敗した。日本機に一機の損害もなく、
 ソ連機は13機が撃墜された。モスクワはこの敗北を重視した。スペイン上空での独伊
 空軍との戦闘経験者を中心に48名の最優秀パイロットを外蒙古へと急派する。こうし
 て万全を期しつつ、ソ蒙軍はふたたびハルハ河を越えて大兵力が東岸に進出した。
・戦場となったノモンハンから鉄道の末端駅までの距離は日本軍がハイラルから約200
 キロ、たいしてソ連軍はボルジヤ駅、またはヴィルカ駅から約750キロもある。陸軍
 中央と関東軍とを問わず、作戦参謀たちの兵站常識からすれば、つまり端末駅から戦場
 までの距離を考えれば、ソ連軍がこの方面に「大なる地上兵力」を輸送集中するのは不
 可能、そうみるのはいわば当然すぎることなのである。参謀本部作戦課はこうして、当
 分のあいだ大戦闘はこの方面では惹起されまい、と判断した。
・参謀本部作戦課は基本構想の「ノモンハン国境事件処理要綱」を、参謀有末中佐が主と
 なって作成した。それは、関東軍の地位を尊重し、信頼して処理はまかせるが、敵に一
 撃を加えたのちは速やかに兵力を撤退させる。さらに事件を拡大にみちびきやすい航
 空部隊による越境攻撃はまかりならぬと、使用兵力を規制かつ制限する内容を主旨とす
 るものである。 
・ところが、奇妙なのは、せっかく作ったものの、この参謀本部の「処理要綱」はただの
 腹案にとどまったことで、関東軍に正式に示達されることなく、作戦課の金庫中に深く
 蔵されてしまった。「もう紛争は終わった」といっているところへ、なにも気持ちを逆
 撫でするような指令を送る必要もあるまい、というような思惑が働いた。
・一定の戦理や理論にもとづいてつくられた冷厳な作戦方針が、仲間うちにあっては、多
 分に情緒や、山本七平氏のいう「空気」によって支配されてしまうことがある。集団主
 義の参謀本部作戦課にあってはとくにその傾向が強かった。
・天津のイギリス租界で暗殺事件が起きた。その容疑者4人の引渡しの外交交渉をめぐっ
 て、日本とイギリスが真っ向から対立した。容疑者を引渡せと日本側は最後通牒をだし、
 イギリス側がそれを拒否すると、北支那方面軍は。租界を封鎖するという強硬手段にで
 る。   
・この高飛車で理不尽な日本軍の行動には、面子にかけてイギリス政府も反撥せざるをえ
 ない。「英国政府は在中国の英国権益を擁護するため、迅速活発な措置をとらざるをえ
 ない」というイギリスの重大声明を、ロンドンからの報が日本に送ってきた。東京では、
 こしゃくなイギリスめとの反撥が、いちどに燃え上がる。
・そして天津のイギリス人に対する強硬な日本軍の措置の報は、日本国内の三国同盟推進
 論者はもちろん、どんどん増えつつある反英運動家たちをいっそう喜ばした。多くの日
 本人はそれでなくとも、殺害容疑者の引渡し拒絶というイギリスの利敵行為に、激しく
 腹を立てていたのである。
・このころの日本人の悪化した対英感情というものを考えてみると、なんとも解せない不
 思議さをそこに見出す。明治日本はまさしくアングロサクソンと協調することによって
 大きな発展をとげたのである。しかし、昭和になって、日本は米英との協調という政策
 を捨て一気にドイツに傾斜していった。
・なにも陸軍や外務官僚だけではない。実は海軍もまた、反英親独に完全にのめり込んで
 いったのである。イギリスに範をとり、建設の緒につき、長年にわたり士官を派遣しそ
 のよきところを学ばせ、開明的といわれてきた日本海軍にして、このころはこの反英国
 観なのである。裏返していえば、なぜあれほどまで陸海軍人や外交官がドイツかぶれし
 たのかである。
・昭和10年前後にベルリンを訪れた陸海の少壮軍人や外交官が目を見張ったのは、圧倒
 的な統一への熱と力ばかりではなかった。ドイツの民族的性格について、ある種の共感
 と、日本に共通するイメージをそこに描いたからにちがいあるまい。堅実、勤勉、几帳
 面、端正、徹底性、秩序愛、などのいい面から、頑固、無愛想、形式偏重、唯我独尊と
 いったマイナスの面まで、日本人のおのれの投影をみとめ、すこぶる付きの親近感を抱
 いた。  
・日本とドイツはどちらも単一民族国家、団体行動が得意で、規律を重んじ、遵法精神に
 とみ、愛国心が強い。日独はいずれも教育水準が高く、頭がよくて、競争心が強く、働
 くことに生き甲斐を感じている。日独はともに組織に対する忠誠心にあふれ、勇敢で、
 機械にも強く、軍事的潜在力が高い。   
・しかも日独は、近代国家としては「おない年」であり、統一国家を形成した1870年
 ごろには、先進列強の地球上における領土分割はほぼ完成し、優秀民族でありながら
 「持たざる国家」としての苦悩をともにしてきている。
・とくに第一次世界大戦中、日本は「大英帝国の番犬役」として地中海にまで艦隊を派遣
 し、さんざんに働いた。にもかかわらず、戦争が終わった途端にイギリスは日本をふり
 捨ててしまった、と憤慨する海軍士官がしだいに部内に多く存在するようになった。そ
 の後に日英同盟も葬られた。そして反作用的に、勃興するドイツに対する親近感が自然
 に生まれていたのである。
・オットー駐在大使を中心とするナチス・ドイツの諜報・宣伝部隊の活躍も見過ごすわけ
 にはいかない。陸軍省、内務省、外務省さらには右翼団体に潜入したナチスの勢力の宣
 伝戦は、まことに巧妙そのものである。
・日本で発行されるさまざまな出版物が、ドイツのプロパガンダ用に大いに利用された。
 ドイツの鉄砲、タンク、飛行機などの写真を見ながら、その軍事力に日本人は魅せられ
 た。また、彼らは宮城遥拝、神社参拝などの国民的儀礼にもすすんで参加し、日中戦争
 の犠牲者に対する大口の慰問金を出す、そうすることで国際的な孤立感に悩む日本人の
 心理的弱点に巧みに入り込んでくる。
・なぜ開明的な海軍があれほど親独となったのか。あっさりと回答を示してくれた元海軍
 大佐の言葉が想い出される。「それはドイツにいた軍人に、必ずナチス・ドイツが女を
 あてがってくれたからですよ。しかも美しい女をね。イギリスやアメリカはピュリタン
 な人種差別のある国ですから、そうはいかなかった」
・こうして国内の漠とした反英気分は、もっと激越な排英気運へと転じはじめる。その裏
 には、すぐに解決するはずの日中戦争が泥沼にはまったのは、中国に大きな権益を持つ
 英米などの援助のためである、という陸軍中央の宣伝があるのは書くまでもない。
・6月19日、関東軍司令部は、18日にソ連機約15機がハロンアルシャン方面を攻撃、
 さらに19日に、約30機がカンジュル廟付近を空爆し、集積してあったガソリン5百
 缶を燃え上がらせたことを知らされた。
・さっそく関東軍司令部の作戦室に集まった参謀たちの顔は、一様に紅潮している。ソ連
 軍が大編制の爆撃機をもって、国境線を深く越えて攻撃をかけてきたのは、単なる嫌が
 らせなどではなく、本格的挑戦以外のなにものでもない、という点で意見一致をみた。
・「辻」参謀は声を大にした。「傍若無人なソ蒙側の行動に対しては、初動の時期に痛撃
 を加えるべきである」眼光炯々、容貌魁偉、なにものも恐れぬ「辻」参謀が頭に血をの
 ぼらせて説くのである。しかも、能動積極的な意見は好感をもって迎えられ、受動消極
 の意見は蔑視される、という軍人共通の心理がある。会議では「過激な」「いさぎよい」
 主張が大勢を占め、「臆病」とか「卑怯」というレッテルを貼られることをもっとも恐
 れる。    
・このとき、「辻」参謀の最強硬論を押しとどめるものがあったとしたら、それは声望な
 らびない作戦班長「服部」の、確たる一言であったであろうか。しかし、その「服部」
 があっさりと、「辻」の熱弁と説得に賛意を表したのである。瞬間、慎重論は吹き飛ん
 だ。
・作戦課の意見は一致した。それから時間をかけて検討し、「辻」の原案を基礎に、関東
 軍は超積極的な作戦方針を決定した。成案をえた参謀たちは、植田軍司令官と磯谷参謀
 長にこれを示して承認を懇請する。
・磯谷は「これほどの兵力を動かす作戦ならば、中央部に企画を報告し、その了解を得た
 のちに行動を起こすべきと思う」と注文をつけるのを、寺田と服部がこもごもこれをは
 ねかえした。「しかし、もし中央部が作戦行動を許可せずといってきたら、関東軍はど
 ういう立場におかれるのでありますか。このさい機を失せずに速やかに作戦を実行すべ
 きであります」磯谷はしぶしぶ同意するほかはなかった。
・陸軍最長老の大将である植田司令官は、美髭をたくわえ生涯独身ゆえ”童貞将軍”と呼ば
 れている。その植田はいともあっさりと作戦案を承認した。  
・明らかに関東軍作戦課は自信満々である。第一次事件のときとちがって、今度は彼らが
 戦争を指導するのである。しかし、「服部」や「辻」が敵の戦力を判定するのに大きな
 努力をした形跡はまったくない。ともかく、ソ蒙軍の後方基地から750キロ余も離れ
 ている。不毛の砂漠地帯をこえて長大な兵站を維持するのは不可能である、と自分たち
 の兵站常識だけで甘く考えている。
・事前協議はおろかほとんど連絡もなく、関東軍作戦命令のみの通報を受けた参謀本部作
 戦課の驚愕は察するにあまりある。この報告に参謀本部佐久紗円かは賛否両論にわきか
 えった。大本営陸軍部命令をもって暴挙を制止すべし叫ぶもの、すぐに新京に部員が飛
 んで行き納得ずくめで止めるべきだ、と主張するもの、この程度ならやらしてみようじ
 ゃないか、と弁ずるもの、激論で時のたつのも忘れた。
・とにかく、大事中の大事である、ということから、作戦課長の稲田が陸相にも報告する
 ことにした。「一個師団くらい、いちいちやかましくいわないで、現地にまかせること
 にしよう」陸相のこの一言で、関東軍の作戦は中央でも承認された。  
・だが、参謀本部作戦課はほとんどお人好しの集団といっていい。秀才たちの整然とした
 集まりは、組織をはみ出し、組織に背を向けて、下克上を承知の上で自分の思うとおり
 のことをやる野心家というものがいることなど毫も考えつかなかった。
・しかも、関東軍作戦課は重大なことを隠していた。作戦計画はすべてが報告されている
 わけではなかった。地上作戦開始にさきだち、ハルハ河西方の外蒙古領内の敵空軍基地
 を爆撃しようという計画も含まれていたが、関東軍はこれを中央部にはあえて秘してい
 た。実は作戦課長がはじめは猛反対をした。しかし「服部」、「辻」に押し切られ、不
 承不承にこれを認めた。
・背景には、三好参謀が偵察機にのり、タムスク、マタット、サンベースの基地に敵機合
 計200機以上が集結しているのを目撃した。地上作戦開始前に、これらを潰しておく
 必要があった。
・極秘計画は、しかし、東京に出張した関東軍第四課(対満政策)参謀の片倉衷中佐から
 岩畔軍事課長に伝えられてしまった。片倉は、「辻」の独断専行にずっと批判的であっ
 たから、統帥違反の事態を重大視したのである。ところが、参謀本部作戦課の弱腰はひ
 どいものであった。中島参謀次長名で関東軍の磯谷参謀あてに、電報が発信されたが、
 爆撃の自発的中止勧告である。そんな「勧告」より真っ向から「中止」を命令すべきで
 あった。
・この日、関東軍が大命なにするものぞと越境航空作戦を秘密裡に企画しているとも知ら
 ぬ天皇は、関東軍作戦計画の上奏、裁可を求めに参内してきた参謀総長閑院宮に言った。
 「満州事変のときも、陸軍は事変不拡大をいいながら、あのような大事件となった。こ
 んどもまた、そうならぬよう十分に注意せよ」
・6月27日、タムスク爆撃によって、事件は大規模な戦闘となっていく。精力絶倫の参
 謀「辻」は26日に新京よりハイラルに飛び、爆撃機に同乗して自分が策定した空襲作
 戦に参加している。
・この不法の仕掛けをしているのは「辻」だ、と見ぬくものが参謀本部のなかにあったと
 いう。そして板垣陸相に作戦課長が「辻」の追放をあえて進言した。しかし山西作戦の
 ときに「辻」を認めた陸相の回答は、「まあいいじゃないか。そんなに辻を過大評価す
 るな」というものであったとか。満州事変のとき独断専行した古傷をもつ陸相には、他
 人を裁く資格がないということか。
・いずれにせよ陸上作戦の範囲は、ボイル湖以東ではなく、湖の南西に布陣するソ蒙軍を
 捕捉殲滅することに決した。いや、ハルハ河を渡って外蒙古領に進出しようとするもの
 である。参謀本部よりの統帥命令は完全に無視された。
・そうとは知らない閑院宮総長は、関東軍に示達する「大陸令」「大陸指」の裁可を受け
 るべく参内した。関東軍のタムスク空襲はすでに天皇の耳にも入っていた。天皇は、こ
 の攻撃を天皇の名で出されていた命令に違反、すなわち大権干犯である、ときびしく判
 断していた。責任は一つに関東軍司令官にあると、天皇は畑侍従武官長にあらかじめ伝
 えてあった。閑院宮参謀総長は畑からそのことを聞かされていた。天皇の下問をまたず
 に、関東軍司令官の処分に関しては、「いずれ慎重に研究し処分いたします」と、閑院
 宮総長は奏上した。天皇は満足そうにうなずいた。そして、「将来とも、このようなこ
 とがたびたび起きらぬように、十分に注意するように」と天皇は重ねて注意する。
・東京のさまざまな思惑とはまったく関係がなかった。関東軍は準備完了次第ただちに攻
 撃を発起するように指示した。小松原師団長はその意にそうよう急いだ。そこへ航空偵
 察による奇妙な情報が届けられてくる。どうしたことか、ソ蒙軍が橋を渡って三々五々
 撤退し始めているという。
・この「ソ連軍退却」情報は、報告の分析を誤り、部隊の移動行動を誤解してそう判断し
 たものという。  
・6月30日、小松原師団長の決断が下される。総勢1万5千名の各部隊は、夜を徹して
 その準備を整える。そして作戦計画どおり、それぞれが攻撃発起地点へと動きだした。
 
七月
・歩兵は背嚢に食糧(乾パン一食分、米飯一食分)や弾薬、衣類などを入れ、その上に外
 套を巻きつける。このあたりは日中の気温は40度近くあがるのに、夜は霜がふるほど
 の寒さとなる。腰には銃剣、小銃弾30発ずつをこめた弾薬盒左右に2個、後ろに60
 発を入れた弾薬盒。鉄兜、防毒マスク、円匙、手榴弾の入った雑嚢。それに生命より大
 切な三八式歩兵銃を肩にかつぐ。総重量は十数貫(40キロ余)になる。
・最初にジャクジン湖付近で会敵し戦火を交えたのは、西岸攻撃隊である。おもいもかけ
 ない地帯に現われた日本軍を迎え撃って、ソ蒙軍は戦車十数輛をくりだしてきた。
・このころ東京では、平沼内閣は総辞職せよの声のみがやたらに高まっていた。三国同盟
 問題は依然として暗礁にのりあげたままである。天津租界問題では「いまさら外交によ
 って」とは、政府が弱腰をみせはじめていると民衆の目には映った。とくに平沼は三国
 同盟問題に関しては定見を持つことなく日和見主義、右顧左眄で終始し、ときに陸軍の
 主張を支持しときに海軍に左袒しているように眺められる。倒閣の声の澎湃として起こ
 るのは当然である。
・この日、西岸攻撃隊の先頭に立って行動を開始するのは斎藤勇中佐が指揮する工兵部隊
 である。斎藤工兵部隊は、満州へ赴任してくる際に携行してきていた訓練用の渡河資材
 をもっていた。利用できるものはそれだけ。ともかくそれで橋を架けようということに
 なった。ただし、架けられる軍橋は一本だけである。
・東岸攻撃隊は、各隊が所定の地点にまで進出すべくひたすら南へ南へと兵を進めている。
 山県連隊は、前面から敵戦車砲、ときに対岸台上から敵砲兵の射撃を受けつつ、いささ
 かもひるまず進撃を続けた。あとを追うように、吉丸戦車連隊が右に、玉田戦車連隊が
 左に、波状の高原を頭をふりたてふりたて急進している。これだけの機甲部隊の戦場へ
 の進撃は、日本陸軍はじまって以来の壮挙といえた。
・やがて夜のとばりがおりてくる。西岸の越境攻撃隊は待っていたように行動を開始した。
 集積地から暗夜無灯火のもとに、自動車部隊が多量の渡河資材を運んだ。 
・これよりさき、東岸攻撃隊は予定を早めて、攻撃前進をはじめている。山県大佐から、
 歩兵独力で夜襲を決行したい、との意見具申があったからである。
・安岡の決断による夜間の追撃方式による攻撃は、一種の奇襲となり一応の戦果をあげた。
 しかし、敵が退却中とはとんでもない誤報であることが判明した。ソ蒙軍が縦深堅固な
 陳地を構築していることも、否応もなく知らされた。吉丸部隊の戦車が受けた損傷は、
 速射砲を含む有力な火砲、それに戦車の備砲からの射撃によることも明らかになった。
・7月2日、東京では、参謀本部作戦課がさすがにこれ以上は知らん顔をしているわけに
 はいかない、と覚悟を決めた。ノモンハン付近の国境紛争において、国境線を越えて外
 蒙古領内に侵攻する。その基本計画は関東軍作戦課においてつくられている。それを参
 謀本部が黙認していまに至っている。明日はいよいよその実行である。群の頭領たる大
 元帥陛下のまったく存ぜぬ間に。
・7月2日、中島参謀次長が参内して、天皇に初めて攻撃計画を奏上した。天皇にして大
 元帥は、こんなあいまいな事後承認の計画を認めてはならなかった。戦術上といい、一
 時期の手段というが、他国領内に日本軍が侵攻するのである。この作戦が大戦争につな
 がらない道理はどこにもない。 
・昭和の陸軍は、戦争に際しては政治に影響されずに、軍独自に作戦を遂行する権限、そ
 れが統帥権であるとして、「魔法の杖」のようにいざというときに持ち出してふりまわ
 した。いまや、その統帥権を行使できるのは大権を持つ大元帥だけであることも忘れる
 ほど、のぼせあがっている。しかも、この頃からおかしな論理がひそかにささやかれ出
 している。大御心が間違っている場合だってある。国家の大事のためには聞かなくても
 いい。そうした反逆的な思想を持つものが、ごくごく少数からかなりの数へと変わりは
 じめている。 
・国境を越えて軍が侵攻するという厳粛な事実を、親裁はおろか、委任した憶えすらない
 天皇は、厳として認めてはいけないときであった。しかし、中島の奏上はあまりにも巧
 妙であったのである。長年にわたって陸軍の鍛えこんできた謀略的横暴は、天皇を言葉
 巧みに誘うことなど朝飯前であったのかもしれない。
・それにしても、天皇の意思をないがしろにできるほど、そのころの陸軍の勢威は国家の
 すみずみまであまねく行きわたっていた。当時の日本帝国は日本陸軍によって占領され
 ている、と形容しても誤りがない。とにかく大軍が動いてしまってから大元帥の許可を
 得ているのである。  
・東京の参謀本部の作戦部長橋本群少将が、お伴の参謀をつれて、この渡河作戦を現地で
 視察しているという事実がある。それにしても東京の作戦部長が戦場に姿をみせたのは、
 関東軍のお手並み拝見といった軽い気持ちなんかではないはずである。ところが橋本が
 このとき、小松原師団長と、あるいは関東軍作戦課の面々とじっくり話し合ったという
 痕跡はまったくない。これはまた奇妙なことで、なんのための戦場視察であったのであ
 ろうか。    
・すでに渡河した岡本、酒井の両部隊は、前進を開始して一時間足らずで激烈な戦闘に突
 入した。正面と左右に戦車地雷と火焔ビンをもった肉迫攻撃班、連隊砲、速射砲を配
 置して前進した。それでも前方の波うつ砂丘に隠顕しながら、ソ蒙軍戦車が突進してく
 るのを見たときには、将兵はしばし呆然となった。その豪勢さ、20輛、30輛と群を
 なして戦車が、装甲車が、地平線の全周からわき起こってくるかのように急進してくる。
・歩兵をともなわない戦車の殺到は、日本軍将兵にとっては、ある意味では闘志をかき立
 てられる戦いといってよかった。戦車だけを相手に訓練どおり迎え撃つことができる。
 速射砲と連隊砲は必中距離400メートル以内にひきつけて身を乗り出して猛射した。
 車体を貫徹するとかならず戦車は炎上した。
・撃ちもらした戦車の突進を迎えて、つぎは歩兵対戦車の戦いである。ソ蒙軍の切札で
 ある機甲部隊は、T26軽戦車とBT中戦車によって編制されている。ともにガソリン
 エンジン装備であったから、榴弾でも命中貫徹すると発火した。炎天下を、長時間猛ス
 ピードで走ってきているから車体は焼けていて、日本兵が肉迫して投げる火焔ビンでも
 容易に燃え上がった。空冷式になっているから戦車は内部へ焔を吸い込んで、一瞬にし
 て内部は火の海となった。
・日本兵は、戦車の死角は前後8メートル、左右4メートル以内と教えられていた。その
 死角に飛び込み、自陣に突入してきた戦車とともにつかず離れず走りまわり、銃眼や後
 部の機関部に火炎ビンを叩きつけた。 
・ソ連軍戦車は時速約50キロで突進してくる。戦車砲や速射砲での応戦のあとは、肉迫
 攻撃班の挺身攻撃である。将兵は夢中になって火焔ビンを、自陣を蹴散らす戦車めがけ
 て投げつける。火焔ビンの油の膜が燃え上がると、その炎の終わるころボッと音がして、
 すでに長距離の猛進で鉄板の焼けている戦車の内部から火がでる。黒煙がもうもうとの
 ぼって焼けはじめる。
・火焔ビンは、サイダーの空ビンにガソリンをつめ、点火芯には乾パンの袋や、平気手入
 れ用の晒もめんや手拭いを裂いて使った。将軍廟で応急に兵たちがつくったものである。
 もっとも原始的な兵器が信じられないほどの戦果をあげた。
・わずかな戦闘休止の訪れた戦場には、百台をこえるソ連軍戦車がいつまでも黒煙あるい
 は白煙をあげて燃え続けている。火焔ビンで炎上した戦車では、やがて搭載している砲
 弾の爆発がはじまる。弾丸は仕掛け花火のように上に飛ぶ。機関銃弾も誘発する。内部
 から鳴りもの入りの爆発で、四方八方に弾丸が飛び散る。戦車は一度火が発すると、延
 々4、5時間にわたって煙をはき続けた。
・炎上しているのは西岸のソ蒙軍戦車だけではなかった。日本軍の戦車もまた、ハルハ河
 東岸の戦場で、多数が破壊されて燃えていた。
・この日の朝、吉丸戦車連隊長が受けた命令は、「山県歩兵連隊の戦闘に協力し、ソ連を
 川又に向かい追撃捕捉すべし」というものである。渡河部隊の攻撃に対する援助攻撃と
 いう主任務を超えて、ハルハ河東岸のソ蒙軍を追撃せよ、と勝ちに乗じるような威勢の
 よい追撃命令を受け、吉丸はひどく困惑した。前夜の攻撃で、東岸の敵が強力な機甲部
 隊を持ち、堅固な対戦車陣地を築いていることもわかっている。その上に西岸のコマツ
 台地からのねらい撃ちともいえる猛砲撃がある。とても”追撃”できるような状況ではな
 い。しかし、吉丸大佐は攻撃につぐ攻撃を要求する”追撃”命令にいさぎよく従うことに
 した。
・ソ連軍は戦車、装甲車を砂丘のかげに配置して、砲塔射撃で迎撃する戦法をとった。し
 かもソ連軍陣地外周にはピアノ線使用の蛇腹式鉄条網が張り巡らされている。
・吉丸部隊は猪突ともいえる猛進ぶりを示した。結果は悲劇的である。集中火力を浴び、
 それを冒して七三三高地前面にたどりつくと、ピアノ線が待っていた。双眼鏡で見えな
 いから、至近距離でそれとわかる。勇敢にのり越えようとすると、弾力ある鋼線がキャ
 タピラーに蜘蛛の巣のようにからみつく。身動きのならなくなったところを対戦車砲で
 ねらい撃ちされた。吉丸大佐は燃える戦車内で戦死した。戦車13輛、装甲車5輛が破
 壊され炎上した。連隊長以下幹部の戦車は全滅。残余の多くもかなりの損傷を受け戦闘
 力を失い、退却せざるをえなくなった。
・それにしても頼みにしていた日本の戦車はあまりにももろすぎた。実は、それが当然と
 いえばいえたのである。なぜなら、日本陸軍は大正14年に戦車隊を創設依頼、戦車対
 戦車の戦闘について常に懐疑的であったからである。そこにもろい原因があった。西欧
 列強のように、戦車を主兵とし、これに歩兵、工兵などを支援兵種として、機動力のあ
 る戦闘集団とする、つまりは「動く砲兵」とする、という考え方になぜか疑問を抱き続
 けてきた。フランスに学んだ陸軍は、その伝統を模倣して軽量小型の戦車を多くつくっ
 て、歩兵を直接に支援し協同してその戦闘能力を増強させる方針を、もっとも正しい戦
 車の使用法としたのである。 したがって歩兵速度にあわせた直協戦車をもっぱら開発
 する。 
・勇敢に突進した吉丸部隊主力の八九中戦車は、まさに理想とする歩兵直協戦車で、日本
 陸軍の制式戦車第一号である。昭和4年(1929年)に完成したが、この年が神武歴
 の二五八九年にあたっていることから八九式と銘打たれている。エンジンも操縦装置も
 優秀であった。重量は8.9トン。100馬力で最大速度26キロ、運行距離は120
 キロである。戦場への輸送にさいしての日本内地の狭軌の鉄道、輸送船にのせる起重機
 の能力や埠頭の設備など、日本の宿命ともいえる制約をすべてパスすることができた優
 秀な戦車という。しかし、八九式の場合は、攻撃力として57ミリ短砲身砲と機関銃一
 を全周回転砲塔にもつ。が、この砲は対戦車戦能力はゼロの火砲。敵の機関銃などを撲
 滅するのが任務と指令されていたから、ソ連軍の主力戦車のBT戦車の全面装甲が撃ち
 ぬけない榴弾を撃つ砲なのである。八九式の全面装甲の17ミリはそれほど弱いもので
 はないが、高初速の徹甲弾を撃つBT戦車の対戦車備砲47ミリには敵対すべくもなか
 った。このソ連戦車の方針の長い速射砲は貫徹力がすごかった。500メートルの距離
 で、60ミリから70ミリの装甲をつらぬいた。
・日本陸軍は、ソ連軍が戦車王国の威容を誇り、「戦車には戦車で」という方針で、軽戦
 車から装甲車にいたるまで、45ミリ以上の対戦車砲で固めているという情報は、十分
 に承知していた。しかし、参謀本部の秀才たちは、歩兵直協で敵の機関銃撲滅が戦車の
 主任務であろうと、頑強に主張した。対戦車戦闘力ゼロの57ミリの短砲身砲の威力を
 ひたすら信奉したのである。幻日より抽象的な思考を好み、「戦車対戦車の戦闘」を無
 視した。 
・司馬遼太郎が書く帝国陸軍の思想が、この悲劇の突進を生んだ、と考えたほうがわかり
 いい。
 「防禦鋼板の薄さは大和魂でおぎなう。それに薄ければ機動力もある。砲の力が弱いと
 いうが、敵の歩兵や砲兵に対しては有効ではないか。実際は敵の歩兵や砲兵を敵の戦車
 が守っている。その戦車をつぶすために戦車が要る、という近代戦の構造をまったく知
 らなかったか、知らないふりをしていた。戦車出身の参謀本部の幹部は一人もいなかっ
 たから、知らなかったというほうが、本当らしい」
・玉田戦車隊は、独力で攻撃しても成功の算はほとんどないと冷静に判断した。指揮する
 全戦車の攻撃力で敵陣奪取の突進は無謀である。やむなく玉田は主力をいったん後退さ
 せて、爾後の攻撃命令に備えることとした。そしてその決心は結果的に正しかった。
・玉田が率いるのは、八九式中戦車7輛と、35輛の九五式軽戦車である。九五式軽戦車
 は、八九式が時速40キロを普通に出す自動車部隊とは一緒に走れない、という歎きを
 受けて昭和10年に製造された。重量7.1トン、最大時速45キロ、37ミリ砲搭載
 という小型戦車である。歩兵直協任務というよりも、”機械化部隊の機動軽戦車”という
 意味あいを持たされてつくられた。装甲は12ミリというあるかなしかの防禦力しか持
 っていなかった。これでは機関銃にも耐えられない。「弱装甲」「弱武装」の戦闘でき
 ない戦車では、とても戦車とは言えぬ、という反対の声はただちに押しつぶされた。
 陸軍にあっては「戦車は戦車なのである。敵の戦車と等質である。防禦力も攻撃力も同
 じである」という不思議な論理がまかり通っていた。
・防禦力の軽視はなにも陸軍だけの問題ではない。海軍もまた然り、零式戦闘機がその典
 型といえようか。昭和前期の日本軍部は、司馬氏がいうように、確かに正気の人びとと
 は思えないほど攻撃的空想家集団であったような気がする。いや、昭和前期の日本全体
 が無敵を幻想するおかしな国家であったのかもしれない。
・ハルハ河を渡った西岸攻撃隊も、苦戦はもう蔽うべくもなくなった。圧倒的なソ蒙軍の
 機甲部隊の反覆攻撃を、日本軍歩兵部隊は超人的な強靭さを示して退けてきた。しかし、
 ソ蒙軍の攻撃も早くも戦訓をとりいれ組織的になり、無闇に戦車で突入することなく、
 歩兵砲の射程外で稜線上に砲塔だけをだい砲撃してくる戦法に変えている。そして日本
 軍を囲んで西・南・北から半円形の鉄の環をつくりあげることにも成功する。
・このソ蒙軍の執拗な砲撃以上に、日本将兵を苦しめたものは水である。照りつける太陽
 と灼ける大地。それに遠く、近くで焼けただれている戦車の熱気が将兵を襲った。彼ら
 が頼みとしたのはハルハ河渡河のとき満たした水筒だけである。それもほとんど空とな
 り、給水のあてもない。
・この状況下で、小松原のいる師団司令部に、関東軍の参謀副長矢野少将と、「服部」、
 「辻」の両参謀が参集した。矢野が小松原に「閣下のお考えはいかかですか」とたずね
 ると、小松原は関東軍にゲタを預けるような答えだったという。
・戦争指導をした三人の参謀は、無責任をそのままにさらけだしている。かれらが作成し
 た作戦は、万事に行き当たりばったりで、寸毫も計画的らしきところがない。戦闘半日
 にして「転進」というのでは、渡河して作戦することが最初から無理であったことを証
 する以外のなにものでもない。
・給水や弾薬補給などまったく念頭になかった。転進理由として橋は一本というが、架橋
 材料がまったくないことを計画前に調べようともしなかった。弾薬も残り少なく、とは
 ソ蒙軍の兵力を過小に評価したゆえのものである。明日の戦果が機体できないとは、全
 軍が潰滅するやもしれないということである。
・須見部隊の撤退にふれておかねばならない。乗車部隊を敵中深く残したまま、須見は命
 令であるからとさっさと撤退するわけにはいかなかった。須見は、士気かの兵を攻撃隊
 と救出隊とにわけ、攻撃隊の白兵と突入に呼応して、救出隊が生き残りの兵にまず水を
 与え、すばやく死傷者を収容して引き揚げる作戦をとった。みずから攻撃隊と同行した。
 この日本陸軍の本領とする銃剣突撃は成功した。攻撃隊は三度突撃をくり返し、血路を
 開き、将兵は死傷者をかかえて、急いで後退していった。
・岡本部隊は戦死47名、負傷108名。酒井部隊は戦死48名、負傷8名。須見部隊の
 戦死者は228名、負傷484名。
・須見部隊の最後の兵が渡り終えると、軍橋は爆破された。
・「辻」は軍橋が爆破されたのを見届けると、何もいわずにそのまま東方へ姿を消した。
・戦場において、戦う将兵が必勝の信念をもって、敵をのんでかかることは必要なことで
 ある。しかし作戦を立てる参謀や、全軍指揮の任にある師団長までが抽象的な必勝の信
 念を抱きすぎて、敵を弱いとのんでかかるのは危険この上もない。服部や小松原が敵の
 戦力を正確に把握することなく、また知ろうともせずに、ゆえに万が一の際の対策を用
 意することもなかったことは、渡河した兵士が二日分の「携帯口糧」しか持たなかった
 ことで知ることができる。
・ただ一本の橋はなんども砲撃されて空漠されたが、高射砲隊や工兵部隊そして陸軍機が
 頑強に守りとおしたからよかった。もしこれが落とされたとしたら、太平洋戦争におけ
 るガダルカナルや南太平洋の小さな島嶼での玉砕の悲劇が、すでにしてハルハがあ西岸
 で現出していたことになろう。
・こうして日本軍の外蒙古領への侵略作戦は二昼夜で挫折した。これ以後、日本軍がハル
 ハ河西岸のモンゴル領へ進出したことはない。戦闘はすべて東岸で行われることになる。 
・東京では、ハルハ河両岸で日本軍が、ソ蒙軍に大きな損害を与えはしたが、結局は敗退
 して退却したことなど報道されるはずもない。それもあって国民の間には、日独伊三国
 同盟に関連して反イギリス的気運のほうがいよいよ昴まりを見せている。
・天皇の耳にもまだノモンハンでの敗退など入ってはいない。板垣陸相もよもやそのよう
 な事態になっているとは想像もしていなかったと思える。三宅坂上の秀才参謀たちも、
 鼻息荒い関東軍作戦課がその壮語どおりにやってのけるのかどうか、はりかにお手並み
 拝見の気分にあった。三宅坂上の面々もまた、”無敵日本陸軍”のお題目を信仰するこ
 とでは、人後に落ちない。
・板垣陸相は、人事問題と寺内寿一大将をナチス党大会出席のためドイツに派遣する件を
 内奏しようと、空中に参内していた。石原莞爾少将と山下奉文中将の軍司令官新補(栄
 転)を天皇は認めなかった。それ以上に強く、寺内のドイツ派遣に対して、板垣を詰問
 した。天皇は三国同盟に反対の意思を明確にして、陸軍の下克上について、また陸軍が
 すべて主観的に物事をみる伝統があることについてなどにもきびしく注意した。
・天皇の批判は三国同盟問題にからんでであるが、銃火の発せぬ問題でこれほどの興奮ぶ
 りを示した。このときに大命無視のノモンハン方面の戦闘のことを知らされたら、なに
 ほど激怒したものか。天皇を策略的に「地勢上やむをえないから」とたぶらかし、正式
 の大命を受けることなく「手段を選ばず独断専行」した。それが関東軍作戦課が作成し
 たあの作戦命令であった。   
・なにも知らない国民は、このころひたすら反イギリス熱をあげている。対英強硬論がや
 たらに新聞雑誌でぶちあげられていた。それは巧みに誰かによって扇動されたものであ
 る。いいかえれば、側近や重臣のいわゆる現状維持派、あるいは親英米派を排撃するた
 めの、内政問題ともいえる。また、そんな側近や重臣に取り込まれて成立した平沼内閣
 を倒さなければならない、という倒閣運動ともつながっている。
・要人暗殺の容疑の逮捕者が次から次と出た。「官製の排英運動」は血を見ないことには
 収まらない、とだれの目にも映った。「国策に反する非合法デモの如きは、断乎取締る」
 と正論をぶった内務省保安課長橋本清吉のところへ、もう翌日には陸軍の将校団がきて
 「貴様、海軍の犬か」と脅迫まがいの罵声をあびせるという始末なのである。
・戦いの主戦場がハルハ河東岸に移ったいま、転進してきた全兵力を掌握した小松原師団
 長は、その主戦場で、主力をもってホルステン河北岸一部をもって南岸の各ソ蒙軍陣地
 を攻撃、左右から挟撃して川又軍橋を破壊占領することを帰したのである。しかし、転
 進直後の混乱状態にある各部隊の整備は思うように進まず、命令下達さえままならな
 い。各部隊は自分たちが立つ位置すら正確に把握できてきないのである。 
・その上に、虎の子の戦車部隊である玉田部隊に、ソ蒙軍が戦車、装甲車に歩兵を協同さ
 せ逆襲してきた。玉田部隊は砲塔だけを稜線から出して射撃する巧妙な戦法で応戦、歩
 兵、砲兵の支援も得て、敵戦車5輛を破壊、撃退した。しかし玉田部隊も八九式中戦車
 6輛、九五式軽戦車5輛が戦闘力を失った。
・この戦闘の結果を見とどけたあと、矢野、服部、辻の関東軍の三参謀は、新京の司令部
 へ戻っていった。交代して参謀長磯谷と高級参謀寺田が、戦場へ姿を現わした。
・日中戦争二周年記念日を期して、小松原師団長の総指揮のもとに日本軍の攻撃がとにも
 かくにも再開された。しかし、十分な火力をもたない日本軍に勝算がはたしてあったの
 か。三日の戦車をおしたてての攻撃すら失敗に終わっているのに、歩兵の肉体だけの吶
 喊が成功するか。にもかかわらず日本軍将兵は勇敢に攻撃を続けた。その攻撃法はもっ
 ぱら夜襲による白兵戦であった。  
・この夜襲による白兵第一主義というのは、日本陸軍の唯一の、牢固としてゆるがざる必
 勝の戦法である。九七式中戦車も九五式軽戦車も、いってみればこの信念を背景にして
 開発されている。戦車の威力が弱ければ、強力な対戦車装備を開発する技術は不要不急
 のものとなる。戦車対戦車の戦法もいらない。残るは隊戦車地雷、爆薬、火焔ビンをも
 った歩兵が、戦車に対して白兵戦を挑むことになり、それが尊しとされたのである。し
 かも、この夜襲による白兵戦、突撃戦法に歩兵が徹するためには、精神力の最大限の発
 揮が根基となる、と強調された。そこには日露戦争の勝利が深い影を落としている。
・日露戦争後、参謀本部で戦史が編纂されることになったとき、高級指揮官の少なからぬ
 ものがあるまじき指摘をしたという。
 「日本兵は戦争において実はあまり精神力が強くない特性を持っている。しかし、この
 ことを戦史に書き残すことは弊害がある。ゆえに戦史はきれい事のみを書きしるし、精
 神力の強かった面を強調し、その事を将来軍隊教育にあって強く要求することが肝要で
 ある」 
・なんということか。日露戦争史には、こうして真実は記載されなかった。つまり戦争を
 なんとか勝利で終えたとき、日本人は不思議なくらいリアリズムを失ってしまったので
 ある。そして夢想した。それからは要らざる精神主義の謳歌と強要となる。航空戦力や
 機械化戦力に大きな期待を持たず、白兵による奇襲先制を極度に重視し、積極主導の心
 構えを強制する。
・三八歩兵銃というのがある。ノモンハンの戦闘で日本兵士はこれをもって戦った。明治
 38年の日露戦争の末期に制定された銃である。5発ずつ遊底に押し込め、一弾ずつ槓
 桿操作で遊底を動かして弾丸を込め、一発射つと、また槓桿を動かしてカラ薬莢をはね
 出さなければならない。機関銃や自動小銃を相手にしては無力といえる銃であるが、弾
 丸をくさるほど製造してあったゆえ、日本陸軍はこの銃を太平洋戦争終結まで歩兵に持
 たせた。   
・日本陸軍は、真実にそっぽを向いて日露戦争の全肯定から出発した。ノモンハンの戦場
 は、日露戦争そのままのような歩兵の夜間突撃のくり返しに終始する。攻撃精神の強調
 による精神力を、戦力の主体とすること。銃剣突撃により最後の勝利をうる、すなわち
 肉弾によって勝ちを制すること。この二大戦術方針のもとに、日本軍は連夜、夜襲につ
 ぐ夜襲で、ソ蒙軍をおびやかした。
・しかし、日露戦争を全否定することから出発しているソ連軍は、日本軍の得意とする戦
 法を十分に研究し心得ている。 
・いくら歩兵が勇敢でも、攻撃の成功はおぼつかない。ところがはじめから重砲なしに戦
 っている。戦線の兵団に豊富な鉄量の使用を保証することが、近代戦の戦略というもの
 である。いまさらそれに気づくなど戦理からすれば愚の骨頂であるが、所詮は敵を甘く
 見た結果なのである。
・ともかくもそれに気づいて関東軍作戦課は手を打った。植田司令官に強く訴えて、砲兵
 戦による敵砲兵の粉砕を決意し、砲兵団の編制を発令したのである。大本営もこれを承
 認した。これが「攻勢再興」の妙策というわけであろうが、兵力逐次使用という愚行の
 見本そのものと評しえようか。
・戦闘の主体を歩兵から砲兵に切りかえる、という指示をもらってさすがの小松原師団長
 も、砲兵力強化には異論はないものの、すでに命令を下し、麾下の歩兵部隊は夜襲によ
 る作戦成功を期して奮戦しつつあるのである。そこへ関東軍から「歩兵の夜襲中止」と
 はなんという命令かと、小松原師団長がぶつぶつ言っている暇もないほど、関東軍作戦
 課は矢継ぎ早に処置をする。
・小松原師団長の「大乗的見地」からの命令で、せっかくの占領地を捨てて攻撃前の位置
 まで後退する。山県部隊の100名に近い将兵の犠牲はまったくの徒死であったのか。
 山県大佐がなかなか小林兵団長の命令をきこうとしなかったのは、指揮官としての当然
 の心情であるといえよう。
・関東軍作戦課は、大きなる期待をもって、安岡戦車兵団をひっぱり出してきた。ところ
 が、案に相違してさしたる戦果をあげぬうちにその半数を損傷で失った。とっさに秀才
 参謀たちは思考をくるりと百八十度回転させた。ノモンハンの戦況は「当面の敵は主力
 を殲滅され、一部は西岸に退避しつつある」と判断できる。そこでこの虎の子の戦車兵
 団を戦場からひっこめる、という命令を案出したのである。
・安岡兵団は、「充実計画」の重要部分である戦車部隊増強プランの母体として、もとも
 と予定されていた。それを潰しては増強もへちまもなくなる。関東軍としてはこれ以上
 の戦車の損耗を避けたかった。  
・「服部」と「辻」は弁もさわやかに植田司令官の決裁をもらうことができた。それは、
 安岡戦車兵団は原駐地に帰還すべし、という作戦命令である。副長の矢野はこれを知る
 と、「この命令は、敵を撃滅できることが確実となった時期を選んで下達すべきものと
 思う」と注意した。また、それを条件にして植田司令官の承認を得たのであるが、「辻」
 がケロリと忘れたように発令をしようと言い出したのである。服部がさっそくそれに同
 意した。
・こうして戦車部隊後退の命令は師団参謀長へ発せられた。受取った小松原師団長は、
 さっそく安岡に通達した。戦闘は継続している、どうしてこのまま唯々諾々と後退でき
 ようかと、安岡が激怒したのは当然である。安岡は「実に遺憾に思う」旨を、直接植田
 司令官あての電報でぶちまけてきた。軍司令官が「これはいったい何事か」と問いただ
 すに及んで、またまた、作戦課はすったもんだの大騒ぎとなる。
・いったい「服部」も「辻」も小松原も安岡も、何をしていたのかと言いたい。歩兵部隊
 が屍山血河の肉弾攻撃を実行しているそのときに、関東軍作戦課と前線指揮官のこのて
 いらくは、何と表現したらよいものか。彼らがそろって陸軍大学校で学んだのは、保身
 と昇進と功名と勲章の数を誇るだけであったのであろうか。
・戦場では、なお攻撃続行中の一部をのぞいて、来るべき重砲を主力とする総攻撃にそな
 えて歩兵は、せっかく占領した地域を捨てて、命令どおり所定の陣地へ退いた。  
・同じとき、東京は三宅坂上の参謀本部作戦課の面々は何をしていたのか。関東軍司令部
 の作戦課が指導したハルハ河西岸への侵攻作戦が、敵機甲部隊の半数を潰滅させたもの
 の、結果的にうまくいかなかった報告はとどけられてはいる。けれども関東軍は依然と
 して強気なのである。今度は歩兵と砲兵の全軍を集結させて東岸に総攻撃をかける、成
 功確実であるという。参謀本部作戦課は、必ずしも楽観視してはいなかった。さりとて
 作戦が全面的に失敗に終わるとまでは悲観的ではない。ソ連軍は、民族性から「強者に
 は実力以下に怯、弱者には実力以上に勇」と秀才参謀たちは頭から見下している。要は
 猛攻に対するに猛攻をもってすれば、ソ蒙軍は退却すると、彼らもまた考えてはいた。
 大兵力を動かした以上は、ソ蒙軍に痛撃を与えるという作戦目的だけは何としても達成
 しなければならない。何をぐずぐずしているのかと、関東軍の戦争指導にむしろ不満と
 焦ら立ちを抱いているものが多かった。
・まったく外に出ず内に潜むこととなれば、スターリンは世界の指導者のだれにも負けな
 い忍耐強さを持っている。彼の唯一の独裁の方式は秘密であり、公衆の前へ出て大演説
 をぶったりすることではなかった。 
・地球儀でアジアのほうを見るスターリンの目は真剣さを増した。ハルハ河西岸での戦闘
 で、ソ蒙軍の戦車がかなり手ひどい損害を受けたことも報告されている。この際、さら
 に兵力を増強し、二度と余計な渡河攻撃を思い立たせないほど、うるさい関東軍を叩き
 つけておくことの重要性を、スターリンは改めて認識したのである。とにかく問題はヨ
 ーロッパなのである。ヨーロッパで戦争が起きた場合、ソ連は他国の政策に引きずられ
 ず独自の道を進まねばならぬ。そのためにも東方をフリーハンドにしておかねばならな
 かった。
・7月半ば頃からおもむろにソ連空軍が優位に立ち攻勢をとりはじめた。空中戦には圧倒
 的な強さを示していた日本航空隊ではあったが、重なる戦闘に疲労が骨身に徹している。
 ソ連空軍はそのことを察知できた。それに鈍重なイ15、イ16といった旧式機に替え
 て、強力な砲を装備した新型イ16チャイカと新鋭の局地防衛機が送り込まれてきた。
 しかも日本陸軍機との交戦の経験を重ねるにつれて、日本機の特性と戦法とを知り、ソ
 連空軍はそれに対応する戦術もあみだした。編隊で高空から急降下射撃しながら加速を
 利用して離脱する”垂直一撃離脱戦法”ともいうべきものである。さらにソ連空軍は燃料
 タンクなどへの防弾装備を著しく改良した。日本戦闘機の7.7ミリ機銃の一連射か二
 連射で火を吐いていた機が、容易に墜ちなくなった。搭乗員の死傷率はがぜん軽減され、
 これが彼らを勇気づけ反攻に勢いづいた。
・対して日本機搭乗員は撃墜による損害はもとより、被弾損傷や不時着事故などによる消
 耗は激しかった。それまでは思う存分「墜としまくった」日本航空隊の力には、明らか
 に限界が見えはじめている。人と機ともに疲労の色が濃くなりはじめる。新手の敵を迎
 え撃って日本機は一日に5回も6回も出動するのであるから、いくら格闘戦の名人芸を
 誇っても、戦闘力が自然と低下するのはとめることができなかった。
・外交的には、アメリカの対日姿勢も思いもよらぬほどの強硬さを示しだしている。前年
 から開始されている蒋介石政権の本拠・重慶への、日本軍機の爆撃に対して、突然にル
 ーズヴェルト大統領からの抗議が駐米日本大使に手渡された。「これは無差別爆撃であ
 る。日本政府から直接の声明を聞きたい」
・さらに中国における日本軍の行動や、日本国民の反英的態度を指摘して、日米通商航海
 条約の廃棄をワシントンが日本政府にちらつかせはじめた。日中戦争がはじまってから
 後は、日本の戦争遂行のための資材の主な供給源はアメリカなのである。条約廃棄でこ
 れらの貿易を中止するかどうかのカードは、アメリカの手の内にあった。
・参謀本部と関東軍との軋轢はますます深くなった。彼らはいずれも秀才であった。とい
 って、これは念のためにいうのであるが、特に大戦争を見事に指導できたり、国家的見
 地から正しい政略判断ができたりする生まれつきの器量を持っていたわけではなく、幼
 年学校・士官学校・大学校と試験によって栄進してきた連中である。子供の頃から社会
 的には目隠しされたまま、成績と履歴によってそこまできた人物でしかなく、人間的に
 とくにすぐれているわけではない。彼ら秀才とはそれでなくとも常に主観的にものを見
 る人びとである。そして正しいとしていることが踏みつけられると、躍起となるか、ふ
 てくされる。プライドを傷つけられることは許さない。関東軍作戦課の面々はいまや完
 全に、東京に対して感情的になっていた。そのプライドの上からも三宅坂上の連中の言
 うことはことごとく気に入らないのである。
・砲兵による総攻撃においても、過去すでに何度もくり返したと同じく、秀才参謀たちの
 ソ蒙軍を甘くみたための失敗があった。このときになってもなお、ノモンハンの戦場が
 鉄道の末端駅から750キロ離れていることから、大兵力の運用・補強は困難であると
 いう、根拠のない計算が参謀たちの頭にあったのである。
・確かに日本内地から関東軍に送られた重砲部隊は強力この上ない兵力である。砲兵団長
 以下だれもが自信満々である。関東軍参謀もそれを疑わなかった。しかし、日本軍が総
 攻撃の準備のため歩兵の攻撃を手控え、砲兵が展開している一週間ほどの間に、ソ蒙軍
 の戦備はたえまなく増強されていたのである。航空兵力も歩兵力も陣地設備も急速に強
 力になった。特に砲力である。スターリンは、砲兵力に絶大な信頼をおき、みずからは
 重砲を「戦の神」とさえよんでいる人物である。日本軍はまったくそうしてソ連軍の砲
 力信奉など知ろうともしなかった。
・7月23日、小松原師団長はと関東軍砲兵司令官内山は予定どおり攻撃命令を下した。
 戦法は、砲兵の射撃を開始し、ついで歩兵が前進に移るといういわゆる払焼攻撃の方式
 である。満州事以来、日本軍が対ソ戦術として研究に研究を重ねてきた、とっておきの
 戦法である。 
・この攻撃は遂に成功を見ることなく終わらざるをえなかった。それは総体的にソ連の空
 地両面の火力がはるかに優越し、陣地の組織設備がこのときすでに強靭をきわめていた
 からである。      
・ソ連軍に比べ日本軍の火砲は一般に射程が劣っていた。最長が日本の10センチ加農砲 
 は1万8千メートル、対してソ連は15センチ加農砲3万メートル。また各種砲の機動
 力も日本軍はかなり遅れていた。中国戦線の重砲はほとんど馬で引いたが、ノモンハン
 ではトラクター(牽引車)で引く機械砲を主力とした。にもかかわらず時代遅れで、た
 とえば牽引車が破壊されるとお手上げで、速やかな陣地転換が容易ではなかった。
・こうして戦場にあった全将兵の絶大な期待も空しく、砲兵による総攻撃はわずか三日間
 で頓挫した。 
・小松原師団長は、砲撃の成果なしとみきわめ、小林兵団長指揮の主力による歩兵の突撃
 を再び試みさせる決意を固め、関東軍に一会戦分の砲弾の増送を求めている。しかし、
 関東軍から届けられたのは砲弾ではなく、思いもかけない命令であった。それは、なん
 と、攻撃中止命令ではないか。五月の事件勃発以来、関東軍司令部が戦争指導として一
 貫してとり続けてきた攻撃作戦は、いまになって全面的に放棄された。そしてこれから
 は守勢に転ずるという。師団の死傷者は4400名を超えた。
・「服部」が作戦中止の理由としてあげているのは、攻撃は意のごとく進展せず、保有弾
 薬も不足している、やがて訪れる冬にいまのうちから備える必要があることなどである。
 朝令暮改そのものである。
・しかし事実は、別のところに作戦転換の決心の理由があった。「服部」や「辻」はこの
 とき満州東部あるいは北部正面のソ連軍の動きを非常に気にしていた。参謀本部の連中
 がいう、ソ連に全面戦争の意図はないということの確証はない。関東軍としては満州全
 域の防衛に作戦を転換しなければならないのである。
・7月下旬、ノモンハンの戦況は必ずしも有利ならずの情報は、一般民衆はともかく、宮
 中や政界にひろく知れ渡るようになった。
・真の統帥からいけば、統帥の混乱は人事の更迭によって解決せねばならないのである。
 すでに関東軍司令官の問責は6月の越境爆撃の際の天皇の言葉により既定の方針である
 が、しかし関東軍の面目を考慮してのびのびにしてきている。親ごころというものであ
 る。それを関東軍の頭に血ののぼらせた連中はまるで理解しようともしない。
・7月27日、英国にかなりの譲歩を強いたしっぺ返しがアメリカからきた。日米通商航
 海条約廃棄の米政府の表明である。三宅坂上はさすがに動揺した。もはや条約の延長は
 ない。半年後に、アメリカがさらにどういう政策をとってくるのか。結果によっては、
 日本の戦争遂行能力と国民生活とが不安にさらされることになる。政戦略の根本にかか
 わる大問題をアメリカから突きつけられたのである。

八月
・関東軍命令にもとづいて、最前線の将兵は守勢持久のための築城工事に精をだしている。
 きめられた防禦陣地は、コマツ台地の敵重砲群の火制下にある。たえず砲撃下にさらさ
 れ、さらには執拗さを増してきた各方面の敵の攻撃もあり、その応戦も忙しく、陣地構
 築は思うようにまかせなかった。
・その上に将兵を大いに悩ませているもうひとつの敵がいた。ノモンハンの蚊と名づけら
 れた蚊の攻撃である。日本の蚊と違って大きく強く、皮膚に喰いついたのを指でつまん
 でひき離さぬと離れないくらい獰猛である。牛や羊の厚い皮を刺して血を吸っているか
 ら、夏の軍服ぐらいは容易に刺しとおしてくる。
・兵士たちは排便のときには、円匙をもって壕外に出て、戦友にヨモギをいぶしてもらい、
 その煙が尻のあたりにくるようにあおいでもらって、穴を掘って用を足した。それをし
 ないと、尻に真っ黒になるくらい喰いつかれ、手でなでればぼろぼろとこぼれるほどに
 蚊に襲われる。
・しかもやがて冬が来る。持久戦となれば、酷寒零下50度の砂漠での越冬の準備もしな
 くてはならない。関東軍はなおかつ、一度は占領したという面子もあるゆえに、小松原
 師団をしてホロンバイルの草原を冬越しをしてでも死守させると、本気で考えていた。
・軍司令官の植田が、「敵が優勢な兵力でノモンハン方面に全面的に攻撃をかけてきた場
 合、現在の兵力では不満足ではないのか。いまのうちに第七師団を増派する必要はない
 のか。少なくともハイラル付近まで前進させておく必要はないか」との意見を出し、参
 謀長も副長も同意した、しかしそれを「服部」や「辻」は押し返した。「第七師団は、
 全関東軍の戦略予備であり、計画どおり東部正面に備えるために、この兵団は軽々しく
 動かすべきものではありません」   
・ほぼ一カ月何事もなかったかのようにもの静かなモスクワの音なしの構えに、ついにヒ
 トラーのほうがしびれを切らしてしまった。ロンドンでもパリでもワシントンでも、猛
 虎が頭をさげるなどとだれも想像していなかったときに、ヒトラーがまさしく態度を変
 えた。ヒトラーは内心では屈辱を感じたが、必要であるからやむを得ないと観念した。
・スターリンは両手を叩いて躍り上がらんばかりに喜んだ。戦時的な駆け引き、つまりは
 多面的な神経戦で、ヒトラーのほうがさきに参ってしまったことに満足した。イギリス
 とフランスにむけて正面の門を大きくひらいておき、裏門をとおして静かにドイツと連
 絡をとっていた自分の両面作戦が、外交的には見事に図に当たったことにもスターリン
 はかなり得意となった。
・ヒトラーの求愛は、あおられたように優しく、かつ執拗になっている。スターリンは猛
 虎をじらしながら、時間かせぎをはじめた。この場合、やがてモスクワに来るであろう
 英仏の使節団は、ヒトラーとの条約が失敗したときの保障となる。また、英仏との交渉
 をぐずぐずと続けることにより、独ソ同盟を結ぶに際してヒトラーに最大の対価を支払
 うことを強いることができるであろう。まことにスターリンは計算高かった。
・ヒトラーはそのずるさを許せないと思った。それでも「それが必要」ゆえにスターリン
 に媚びを寄せることをやめるわけにはいかなかった。   
・日本国内の世論はやたらと硬化していた。アメリカがいかに不遜であり、非友誼的であ
 り、そこには寸毫の道義性を見出しえない、との論が新聞や雑誌を飾りだしている。ア
 メリカがいまや敵性国家として日本帝国の前面に立ちはだかるようになったのである。
・頭を圧している難問のどれをとっても、容易に解決の途がさぐれそうにはない。対症療
 法としてなによりのものは、ただひとつ、ずっと懸案になってきている日独伊三国同盟
 の締結がある。モスクワとロンドンとワシントンとをいっぺんに牽制し圧力をかけるた
 めの妙策に、おそらくはこれ以上のものはない。 
・8月4日、参謀本部はノモンハン戦争の指揮を関東軍司令部から第六軍司令部へと移し、
 この第一線軍と緊密な連絡をとり、参謀本部が作戦指導を行おうとしたのである。思い
 つきではなく、長い時間の研究と検討を経ての決定であった。
・新設の第六軍は、軍司令官には萩洲立兵中将、参謀長は藤本鉄熊少将、以下優秀な参謀
 が名をつらね、形式としては軍の威容が成ったように見える。ただし萩洲ははじめとし
 て、関東軍やソ連軍について、満州の地形や気候についてなど、必要な予備知識をほと
 んど持たない面々である。参謀本部はなぜこのような人事配置をしたのか疑問を抱かざ
 るをえない。中央のいうことを聞きそうな幕僚で固めたと勝手な想像をしたくなる。
・第六軍はハイラルでの編制にともなう事務処理に追われ、やっと8月12日から将軍廟
 に軍司令部をおき統帥を発動するが、なお戦場を遠く離れている。軍司令官はもちろん
 一人の軍幕僚もいまだ戦場に進出しないうちに、ソ蒙軍の総攻撃を迎えることになる。
 東京と新京との白眼視といがみ合いが、重大局面での戦場統帥をわきにおしやってしま
 ったと結論できる。   
・しかもその上に、三宅坂上の秀才たちは、みずからの無能と無責任さを露呈するかのよ
 うな決定を突如として行なった。5月以来、絶対に外蒙古領に対しる越境侵攻航空作戦
 は行わないと、関東軍からの「謹んで」の意見具申をすら、頑としてはねつけていた参
 謀本部作戦課が、なんと外蒙古領内タムスク空襲をあっさりと認めたのである。
・第六軍の新編制にからんでの命令変更かとかんぐりたくなる。つまり三宅坂上が責任を
 もつ軍を新たに編制して関東軍の手を引かせた。そのかわりに、その面子を立ててやる
 ためにも、しきりに希望しているタムスク再攻撃を許可してやろうではないか。それは
 また意気消沈しつつある航空部隊を元気づけることになろうからと。そのような秀才参
 謀の底意地の悪さが感じられる。しかも面子を立ててやるつもりで、かえって関東軍の
 面子を踏みにじることになっている。そのことに鈍感なあたりにも、天下独往の連中な
 らさもありなん、という気にもさせられる。
・中島次長は参内、天皇の裁可をうるためにこう説明している。「ソ連の航空部隊は最近
 になってようやく行動巧妙となり、わが航空基地奇襲、あるいは制空帰還の直後に攻撃
 するなどと、まことに始末におえなくなっております。これに対する対策としまして、
 関東軍に、これは要すればわが航空部隊をもってタムスク以東の敵の航空基地を攻撃す
 ることを得べし、とのご命令をお下しいただきたく・・・」
・天皇はこの上奏に対して、「あくまでも不拡大を守り関東軍が隠忍するならば、このさ
 いは異存がない。やむを得ぬこととしてとくに許可する」と裁可している。
・8月8日、陸軍三長官会議で決した結論をひっさげて、板垣陸相が五相会議にのぞみ、
 だれも予想しえなかった爆弾的発言をぶっつけてきた。アメリカの態度の硬化に対抗す
 るためにも、またノモンハン事件の処理の上から、ソ連を牽制して事態を有利にみちび
 くためにも、かつ日英会談の有利な促進のためにも、このさいは三国同盟を遅くとも8
 月下旬までに、なにがあっても締結させねばならない、と陸相は力説した。
・米内は、ノモンハン事件も米国の条約廃棄も予想されなかった問題ではなく、国際情勢
 のことはむしろ主務の外相に聞くべきであると思う、といった。外相の有田は「三国同
 盟は英米の結束をますます強固にするばかりで、日本にはかえって不利になる。政府の
 既定方針をまげてドイツの要求に屈服する必要はどこにもない」と答えた。
・石渡がそれではと米内に向かって問う。「日独伊の海軍と英米仏ソの海軍が戦って、わ
 れに勝算ありますか」米内はあっさりと答えた。「勝てる見込みはありません。だいた
 い日本の海軍は、英米を向うにまわして戦争するように建造されてはおりません。独伊
 の海軍にいたっては問題になりません」
・陸軍の”爆弾”的発言も、この瞬間、無効になったと言っていい。もともとは条約をな
 んとか締結したいとの意向を持っていた平沼首相も、この日ははっきりと陸軍に背を向
 けた。
・ところが、一部の少壮の陸軍軍人たちは、強行突破ならずとなっても「負けた」とは思
 わなかった。彼らは海軍および宮中そして財界の抵抗なんか屁とも思ってはいない。な
 ぜならば、日本の世論が反英排米そしていまや反米へと色彩をとみに濃くしているから
 である。新聞や雑誌の論調は明らかに陸軍に味方していた。この民意の威力をテコにす
 れば国策は動かせると、いっそう策をめぐらせた。
・日本陸軍の強引な策動は、かえってヒトラーの決意を固めさせた。オットー駐日大使か
 らの報告が、否応なしに、日本国内になお反ドイツ勢力の根強いことを、ヒトラーに知
 らせた。いまやヒトラーは日独伊三国同盟の思うような締結がほとんど不可能であるこ
 とを確認した。そうとなれば、外交は対ソ連一本にしぼられる。
・ノモンハンの戦場での日本軍の猛烈な頑張りが、スターリンをしてヒトラーに急速に接
 近せしめたといえる。スターリンはアジアでの戦争が拡大し、いっぽうでドイツと戦端
 をひらくことになる二正面作戦を、極度に恐れていた。そしてヒトラーにとっても、ノ
 モンハン事件は渡りに舟と利用すべき戦いであった。さも日ソ両国間をとりもつ努力を
 するかのような言辞を切り札のように使って、スターリンの顔をしっかりとドイツのほ
 うへ向けさせることができる。
・鷹の巣山荘に長くこもっているのを忘れさせるくらいに、ヒトラーは快活さをすっかり
 取り戻していた。この独善的な独裁者は、スターリンが恐る恐る手をさしのべてきたこ
 とが、鬼の首をとったかのように嬉しくてならないのである。しかも、英仏をだしぬい
 て、ドイツにとっては不倶戴天の敵と世界のだれもが考えているソ連と、条約を締結さ
 せるというのであるから、これ以上にヒトラーの虚栄心を満足させるものはない。
・スターリンのうちには、奇妙なくらいヒトラーへの親近感が生まれていたようである。
 それは尊敬と言い換えてもいいほどの、暖かいヒトラー観である。ドイツ軍がモスクワ
 の郊外のまで殺到して来た1941年の冬、英外相イーデンを相手に、スターリンはこ
 んなことを語ったという。   
 「ヒトラーはすばらしい天才だとずっと私は思っている。ばらばらになった敗残の国民
 を、たちまち強大な列強の一つに仕立ててしまった。そして、だれもかれもがヒトラー
 の意志どおりに動くように、ドイツ人を組織化することに成功した」
 イーデンが呆然となるほど、スターリンは熱を入れていた。そして「しかし」とそこで
 言葉を切り言った。
 「ヒトラーには一つの運命的な欠陥が見えている。彼は、どこで止まるかということを
 知らない男だ」
 瞬間、イーデン外相は思わず噴き出してしまった。
・スターリンは、ヨーロッパで大戦争の戦端が開かれようとするとき、ソ連が中立でいら
 れる保証もなくて、アジアで大攻勢を敢行するほど無謀ではない。それは日本からの宣
 戦布告をよびよせる危険がある。みずからが言うように「止まる」ことを知る男なので
 ある。しかし、中立が可能となった暁には、つまりはヒトラーとの握手が間違いないも
 のとかったときには、徹底的に日本軍を潰滅させてやるとの決意を固めることが可能で
 あった。
・ソ蒙軍は実はそのころハルハ河に何本もの橋梁をつくり、河を自由に越えて決定的な攻
 撃に移るべく、周到にして十分な準備をすすめていた。戦線に逐次到着してくる戦車、
 装甲自動車、火砲その他の重兵器資材は目立たぬよう分散配置し、そのための音を消そ
 うと、夜間も砲撃を続けた。ほとんど日本軍陣地に命中しなかったが、ソ蒙軍は意に介
 さない。部隊の移動や工兵の作業は深夜午前2時から午前4時の間に限定され、しかも
 飛行機の爆音や軽機関銃の発射音でその気配を消した。
・戦車にも改良が加えられた。大部分の戦車は日本軍の火焔ビンの攻撃を無効にするため
 ディーゼルエンジンにかえられる。その機関部には金網がはられる。歩兵の接近攻撃を
 防ぐため火焔放射戦車も輸送されてきた。
・関東軍司令部が航空偵察を大いに催促していれば、敵軍の兵力集結は白日の下に現われ
 ていたはずである。ところが、「ノモンハン航空偵察状況」によれば、8月12日から
 19日までのあいだ、「悪天候ノタメ捜索シ得ズ」であったという。
・このときになっても、自分たちの国力に照らし合わせた兵站常識にとらわれていたとい
 うのであろうか。ソ連軍が大規模な自動車輸送をやっていることもつかんでいたが、作
 戦担当者はソ連軍の大規模攻勢の可能性ありという情報に注意を払わなかったという。
 作戦担当者とは「服部」であり「辻」である。  
・こうして8月半ばには、日本軍の全正面にソ蒙軍総兵力約5万7千人が集結した。
・当時軍隊でひそかに歌われていたという「将校商売、下士官道楽、お国のためは兵隊ば
 かり」といううざれ歌が想いだされる。ただし将校といってもよく戦った中隊長や小隊
 長クラスの下級将校のことをいうわけではない。参謀肩章を派手に吊った連中のことを
 指している。 
・”離れて遠き満州の”戦場では、関東軍も第六軍も第一線諸部隊も、戦機が刻々と近づ
 いていることをまったく予期していない。それ以上に状況に無知である東京では、陸海
 軍の中央部の間で、なんということか、一触即発の戦闘の危機に直面しつつあったので
 ある。敵とではなく陸海相撃の危惧なのである。
・天皇はこのとき葉山の別邸に静養中である。天皇が留守ということも戒厳令施行の噂が
 まことしやかに流れる一因であった。  
・8月14日朝、麹町付近で小演習をしていた近衛師団の一中隊が、海軍省の前に姿を現
 して包囲するかのように展開、示威行動を行って去った。陸軍部隊による海軍省襲撃の
 噂がしきりであったし、物情騒然たるとき、何があっても不思議ではなかった。 
・軍務局長井上成美は、山本五十六次官と相談し、横須賀鎮守府に陸戦隊一個大隊を常時
 待機を命じ、大阪にあった連合艦隊の主力艦艇にも東京湾回航を指令する。いざとなれ
 ば陸軍と戦う覚悟をいっそう強固にしたのである。
・8月16日、ヒトラーがスターリンに、独ソ不可侵条約を結ぶ用意があると通告する。
 ヒトラーはもう永遠の仇敵スターリンの心を疑ってはいなかった。ヒトラーはポーラン
 ドを含めた東ヨーロッパを、ソ連と分割してもいいという覚悟である。  
・8月14日、ヒトラーは国防軍の司令官たちを鷲の巣山荘に招集し、戦争の計画とその
 見通しについて長時間の講演をしている。ヒトラーの長い演説を、参謀総長ハルダー元
 帥も、陸軍総司令官ブラウヒッチュ元帥も、空軍総司令官ゲーリング元帥も、だれもが
 黙って聞いている。ドイツを第二次世界大戦へと駆り立てようとするヒトラーの計画を、
 全員が認めたのである。演説が終わっても、質問の手をあげようとしたものすらいない。
 英仏は戦おうとはしない、ソ連が局外に立つ、という保証は、ただヒトラーが確信して
 いるだけであるのに、伝統あるドイツ国防軍の指揮官たちのなかにひとりとして疑問視
 するものはいなかったのか。
・冷静に世界情勢を分析すれば、ポーランドへの攻撃は「隔離された戦争」にとどまるど
 ころか、世界的な規模での全面戦争に発展するであろうことは明白である。そうなれば
 不可避的に長期戦となり、国力消耗戦となる。ドイツは強力な同盟国もなく、単独で大
 戦争を戦い抜けるだけの国力があるのか。
・ただひとり国防軍経済装備局トマス大将が、公然とヒトラーに挑戦する勇気を持った。
 ヒトラーの言う「迅速な戦争、すなわち迅速な平和」は完全に妄想にすぎない、とトマ
 スは主張した。
・ドイツ国防軍の将星はほとんどが、長い間のヒトラーへの阿諛追従や無抵抗従順になれ
 きってしまっており、まともな判断力を喪失していたかのように思われる。強力な独裁
 者のもとでは良識は不必要であり、必要なのはいつでも保身のための判断停止という手
 続きだけなのである。  
・ヨーロッパで大戦争がはじまる前に、ソ連がその局外に立つことは、いろいろな駆け引
 きがあったが、確実となった。ヒトラーと握手できるという見通しは、いくら疑い深い
 スターリンでも、もう大丈夫と自分にいいきかすことができた。となれば、その間にア
 ジアの問題に集中できる。スターリンは計画されている総攻撃に「ゴー」の命令を発す
 るのに、なんらの躊躇もにせなかった。
・8月20日、ソ蒙軍は日本軍を包囲、殲滅するための総攻撃を開始した。数百機の編隊
 による爆撃。続いてコマツ台地を中心とする砲撃。実に2時間45分。
・日曜日のことだった。第六軍の軍司令官をはじめほとんどの参謀がこの日ハイラルに出
 かけていた。  
・ソ蒙軍の総攻撃はさながら戦術のよき標本のごとく空襲から開始された。戦場には、そ
 の朝うっすらと朝霧がかかっていて、ソ蒙軍歩兵の進撃に味方した。日本軍の第一線に
 知られることなく近接し、空襲・砲撃につづく攻撃開始となったとき、思うような戦果
 をあげることができた。それくらいソ蒙軍は日本軍の不意を襲うことに成功した。
・しかし、戦局が推移すると、日本軍歩兵は頑強に抵抗した。最北のフイ高地付近では井
 置捜索隊が猛烈に反撃し、包囲されながらも戦車の進撃をたちまちに停頓させている。
 また、バルシャガル高地付近でも、力ずくで進撃してくる中央軍を山県部隊の将兵が押
 し返し、主陣地への反覆攻撃もそのつど撃退している。ノロ高地もまた然りの猛反撃で
 頑張りぬいた。 
・ソ蒙軍は、日本軍に対して、歩兵が1.5倍、砲兵が2倍、飛行機は約5倍、戦車・装
 甲車は日本軍ゼロであるから比較のしようがない。ソ蒙軍は日本軍を撃滅しうる平均3
 倍近くの兵力をととのえて、総攻撃をしかけてきたのである。
・対して日本軍は寡兵のうえにあまりにも防禦正面をひろげ過ぎている。歩兵中隊、歩兵
 大隊の間隔が広すぎて、いかに勇戦しても敵の侵入の防ぎようもない。各中隊、各大隊
 はそれぞれ孤立して、四周から包囲攻撃を受けねばならなくなった。関東軍作戦課が守
 勢持久の作戦命令を出したとき、翌春の攻撃再興の拠点として、奪取した高地をすべて
 確保しようとしたとこりに結果的に最大の敗因がある。防禦正面を当然のことながら狭
 縮しておかなければならなかった。
・ソ蒙軍の圧倒的な兵力と火力による総攻撃を受けた第一日目から、第一線将兵は勇戦す
 れど、戦況はどこの日本軍にも容易ならざることになっている。そして否をおって絶望
 的になる。 
・事前にこれを予期すべき情報のかけらも持っていなかった作戦課はさすがに驚いたが、
 この時点ではまだ楽観視していた。築城は相当の強度に達しているであろうし、第七師
 団から抽出された二個大隊がすでに将軍廟付近に集結中である。存分に戦えるにちがい
 ない。「服部」や「辻」たちはそう期待していたからである。
・ベルリンの大島大使が、独ソ不可侵条約が23日にモスクワで調印されるであろうと知
 らされた。大島は夢のなかで話を聞いている気分であり、聞き終わったあとは唖然とし
 て二の句もつげなかった。大島は「ドイツの行動は防共協定違反である、厳重に抗議し
 たい」というのが精一杯である。完全に打ちのめされた。軍人である大島は、これでソ
 連がアジア戦線に全力で結集し、日中戦争にも介入してくるであろうと、そのことをと
 っさに懸念した。  
・戦場は東岸のあらゆる日本軍陣地で死闘が展開されている。前線も第二線もない。火焔
 ビンもアンパン(地雷)もなかった。ソ連の戦車が真っ向から日本軍部隊に突っ込んで
 きて、兵士たちを踏みつぶしていく。速射砲も直撃弾を受け宙高く飛び散った。とくに
 火焔放射戦車が威力を発揮し、珍事の掩蓋と地下壕はつぎつぎに焼かれ、日本軍の組織
 的抵抗は完全に破砕された。それでもなお、日本軍兵士は包囲下で頑強に抵抗し続けた。
・こうした状況下では、破壊された陣地から退き、後方の、ノモンハン付近の台地に防禦
 陣地を固め直すのが、自然というものではないか。しかし、戦場の指揮官や参謀たちの
 頭には、そんなシロウト的構想は浮かばなかったらしい。守備固めどころかそれと正反
 対の、攻勢移転の軍命令を小松原師団長に下達している。
 「重点を東方に保持し、敵を捕捉殲滅する如く準備すべし」
・「敵を捕捉殲滅」できる戦力があると、どこを押したら信じることができたのであろう
 か。制空権はなく、敵の兵力が3倍以上とはっきりしているとき、補給もなく、火力の
 増強もない。 
・小松原師団長は、参謀長だけを侍立させて、須見大佐と対座するとすぐに口を切った。
 師団長じきじきの命令である。 
 「須見君、ご苦労でももう一度君の部隊に働いてもらいたい。君の部隊は、ホルステン
 河左岸の師団主力のさらに遠く左方に出て、ハルハ河東岸に進出している敵の右翼を突
 破し、当面の敵の退路を遮断してもらいたい」
・須見大佐は舌打ちする想いで聞いた。敵の戦車が駆け回るなか、しかもコマツ台地の敵
 の重砲が筒先をならべている正面を、あたかも分列式でもやるようにわが部隊が大きく
 転進する。そんなことは考えられるだろうか。およそ架空の夢物語とはこのことである。
・小松原師団長は、作戦参謀が持っているであろう部署にもとづく師団の兵力表を、自分
 の目で見て、そのうえで十分に検討してこの攻撃命令を下したのであろうか。この須見
 大佐との一件からしてとてもそうとは考えられない。とすれば、勝手な自分の思い込み
 の戦力を基礎に、攻勢移転の準備命令を全軍に通達したというのか。
・須見大佐は明確に答えた。
 「只今承ったような重要な任務は、いまの状況で私の部隊ではできません。お引請けで
 きません。私の部隊はいまの陣地を保つことで精一杯であります。私の部隊は現在の陣
 地で頑張って最期を遂げる考えです。もはや軍旗の処置も決めております」
・意見を問われたゆえに須見大佐の返答であるが、一種の抗命として小松原師団長の頭に
 は残ったらしい。    
・結局、須見大佐の意見具申は採用されなかった。ただし、正式に下達された攻撃計画で
 は、最左翼の敵の側背迂回部隊には、須見部隊ではなく、新たに編制した独立守備歩兵
 第六大隊基幹の支隊が充てられている。また、現陣地死守の願いも空しく、須見部隊も、
 左翼攻撃隊に配属されていた。
・敵を知らず己も知らずの攻勢移転は、決定された。攻撃にでるべきときではないのに防
 禦を捨てて攻撃をとることは、前線の壊滅を早め、悲惨なものにするだけである。須見
 大佐のいう土崩瓦解はすぐにそこに迫っている。
・8月24日、「撃滅」の朝がきた。師団は戦線の各所から、集められるだけの兵力を集
 めてホルステン河南方で攻勢にでるのである。歩兵全九個大隊基幹をもってモホレ湖付
 近から打って出て、敵主力の側背に向かって攻撃前進する。そして計画では敵の南方軍
 を「捕捉殲滅」することになっている。
・しかし、現実は図上演習のようにはいかない。戦術上の常識を型どおりやってみたまで
 で、ろくな準備もできていない攻勢移転が成功するはずはない。   
・日本軍の攻撃前進はその日の太陽が地平線に沈む頃に頓挫どころか、逆に衆をたのむ敵
 の猛攻を受け、退却せざるをえなくなった。
・日本軍が死にもの狂いの突撃であったことは、小林兵団長が長靴に将官服姿で、みずか
 ら軍刀をもって突入したということからもわかる。しかし型も大きく快速となり、火焔
 ビンではもはや発火しなくなったソ連戦車の猛撃の前には、日本軍部隊の将兵はただ殺
 戮されるだけの存在でしかなかった。
・戦場における日本軍には、攻勢移転の第一日目にして、すでに惨憺たる敗色のみが濃か
 った。ソ連戦車は全戦線にわたって、鉄のローラーをかけると同様に戦場を駆け巡って
 いる。第六軍司令部とともにあった「辻」参謀は、戦況すこぶる悪化と見てとると、勇
 猛参謀の名に恥じず戦場へ急行した。日没後に、彼が最前線で見たものは、ほとんどパ
 ニック同然となって退却してくる右翼部隊の将兵の姿である。
・遠く北方のフイ高地には、”現実的な必要”から命令するものがいなかった。フイ高地の
 井置捜索隊は、このまま勇戦を続ければ全滅するほかないぎりぎりのところに追いつけ
 られていた。なぜ、彼らは戦うのか。20日すでに攻勢移転を南翼方面から実行するこ
 とに決定している。その成果は師団との連絡途絶ゆえに不明ではあるが、フイ高地確保
 の意義はそのとき失われたといっていい。
・井置捜索隊長がフイ高地を脱出して後図を策そうと決心したのは、当然の判断といえる
 であろう。井置中佐は、指揮下の生き残り各隊長の意見を個別に聞いたうえで、命令を
 下した。
・捜索隊のフイ高地撤収は上級指揮官の命令なしの無断退却にあたるのであろうか。捜索
 隊759名のうち脱出したのは269名。日本軍隊において、50パーセントの損害を
 受けたことは、日露戦争などの戦訓により殲滅的打撃を受けたとみなされる。井置捜索
 隊は殲滅的打撃を受けながらパニックに陥ることもなく、次の作戦行動のために整然と
 フイ高地から脱出していくのである。
・広大な戦場にばらばらに散ったそれぞれの陣地で、敵に包囲された態勢下、独力で頑強
 に戦い続けてきた日本軍のどの部隊も、このころにはほとんど潰滅しとうとしていた。
 弾薬、飲料水、食糧、燃料などはすべて砲爆撃のために焼尽、上級本部または司令部と
 の通信連絡も途絶、隣接部隊との連絡も切れ、孤立したままの奮戦の連続なのである。
・砲兵部隊を護っていた須見部隊が無理矢理移動させられたため、敵の戦車は思うように
 攻撃を砲兵部隊にかけてきた。部隊長染谷義雄中佐は、あらかじめ用意してあった絶筆
 に最後の日時を記入し、伝令下士官に託して砲兵団長に報告させたのち、観測所で自決
 した。ほとんどの将兵も火砲の撃ちつくしたのち敵中に突入して果てた。    
・野戦重砲兵第一連隊は、第一大隊長梅田恭三少佐の指揮のもとに戦い続けてきたが、梅
 田少佐は遺書を書いたあと、同じく砲兵団長への報告をすませると、観測所で自決した。
 部下は、各自一本の銃剣と少数の小銃をもって、歩兵となって戦闘し、全滅した。
・8月28日の夜のとばりが戦場におりた。日本軍部隊は壊滅するか、かなり後方で辛う
 じて態勢を保持しているかで、完全に駆逐された。戦場のかつての日本軍陣地には赤旗
 が林立するにいたっている。日本軍の攻勢移転はかえって潰滅を早める結果となった。
・このとき、バンシャガル高地一帯をなおひとり死守している部隊があった。山県支隊と
 伊勢大佐指揮の野砲部隊とがそれで、この両部隊はソ蒙軍の猛攻に耐え、激闘を続けて
 いたのである。いや、バルシャガル高地へ向かって救援のために急行しているもう一つ
 の部隊があった。小松原師団長が直率する部隊である。
・師団長が直率の部隊をもって来援することを、山県は午後早くの段階で知っていた。そ
 の後の敵の攻撃のため通信不能で連絡は絶えたが、救援部隊が来るものと信じている。
 ところがいつまでたってもその気配すらない。しかも第一線の苦戦苦闘は全滅を覚悟し
 なければならない状況なのである。
・ここにいたって山県は救援部隊もソ蒙軍攻撃のために前進不能と判断した。山県はと伊
 勢は麾下の部隊に、撤退命令について下達することになる。上級指揮官の命令なき退却
 である。    
・総指揮をとる第六軍司令部は、こうした麾下の諸部隊の惨たる状況に直面しながら、な
 んらの適切な命令を下せないでいた。全滅に瀕している将兵に対して、撤退させ、もし
 くは攻撃前進を中止させる必要を感じながら、参謀たちはだれもが口をつぐんでいた。
・独ソ不可侵条約の締結という一大衝撃が加えられたあと、亀が甲羅の中にちぢこまった
 ように、なんらの動きも示さなかった平沼内閣がやっと総辞職したのが8月28日であ
 る。頼みにしていたドイツに裏切られたの思いはある。 
・独ソ条約締結の発表があって5日後に、平沼はやっと退陣した。後継には陸軍大将阿部
 信行と決まり、天皇はきびいし条件をつけた。
 1)英米に対しては協調しなくてはならない。
 2)陸軍大臣は自分が指名する。三長官の決定がどうであろうとも梅津美治郎か畑俊六
   のうちどちらかを選任せよ。
 3)内務、司法は治安の関係があるから選任に特に注意せよ。
・このときの天皇の態度は厳然たるもので、阿部は「お叱りを受けた」と感じたという。
 天皇は確かに叱ったのである。それも陸軍を叱りつけたのである。三国同盟問題をめぐ
 る陸軍の横暴には許せないものを感じていた。
・とにかく当面これ以上に問題を大きくしたくないのは、ノモンハン方面の戦闘である。
 いかに糊塗しようが、立て直しがきかないほど第二十三師団が壊滅的戦勢になっている。
 しかし関東軍作戦課がなお強気の姿勢を崩していない。
・事実、関東軍は第七師団のみならず、満州東部に備えていた第二、第四師団、さらに第
 一師団の一部までも動員した。対戦車の軽砲はほとんど全満州を裸にしてかき集められ
 た。そして断乎として結氷期までに攻撃を再興し、敵を撃破するという弔合戦を企図し
 ている。    
・関東軍はまさにルビコンを渡ろうとしている。参謀本部は震え上がった。怒りでもあり
 暴走に対する恐怖や憂慮でもあった。自由裁量を許したのは一個師団までである。それ
 を全満州の半数に近い師団を動かすとは、うちに続く敗北はすでに常軌を逸したか。そ
 の上に、冬営、来春は対ソ全面戦争をも準備せよ、とは自暴自棄もきわまれりというほ
 かはない。世界情勢の激変をよそに関東軍の連中はなにを考えているのか。
・8月29日の作戦命令で、萩洲第六軍司令官は、最終的に、「ノモンハン付近に兵力を
 集結し、爾後の攻撃を準備する」ことを決定した。麾下全軍に対する立った井命令の下
 達である。第七師団に対しては、左翼隊の森田部隊や須見部隊・芦塚部隊を後退させ、
 主力はモホレヒ湖南側地区を守ることを命じた。第二十三師団に対しては、「速やかに
 敵線を突破してノモンハンに向かって前進すべし。この際自重し現状の如何にかかわら
 ず本命令の実行を厳命す」と命令した。
・この命令は簡単には伝わらなかった。なぜなら、戦場に残って力闘を続けているのは、
 なんとか後退脱出しようとしている山県部隊と伊勢部隊の残存将兵、それとこれを救援
 すべく前進しようとしている師団長直率の部隊だけである。すなわち小松原師団長その
 人が敵中深くあった。これでは命令がただちに伝わるわけがない。その上に、山県大佐
 も伊勢大佐も、ともに敵の包囲下ですでに自刃している。山県は軍旗を完全に焼くひま
 がなかった。焼け残った軍旗の房の布地と旗竿を地に埋め、その上に身を伏せて自決し
 たという。   
・参謀本部作戦課が策案したノモンハン事件の作戦集結命令は、天皇の親裁を受けて、8
 月30日、大陸命すなわち天皇命令となって発せられた。この天皇命令は、作戦を中止
 し兵力を撤退させる、そこに根本趣旨がある。ただ撤退のため必要な小作戦は認める、
 とやむをえない条件が加えられている。しかも今回はその徹底を期すために、中島参謀
 次長みずからが新京に飛ぶことになった。
・ところが、ことは妙な成り行きになった。関東軍司令官室で、大命を植田司令官に確か
 に伝達したのち、中島は戦況報告および将来の企図などを関東軍参謀から聞かされた。
 このとき、十分な兵力をもって冬期前に攻勢に出て、できるだけ短期間に敵に大打撃を
 与えたのち、速やかに全兵力を撤退する計画を持っていることを、関東軍は明らかにし
 た。 
・中島は「勉めて小なる兵力で持久の意味は、要するに戦略的持久の意味で、その範囲内
 にて戦術的攻撃をとることは妨げません」との認識を示した。ほとんどの後退が終わっ
 ているいま、攻撃作戦はすべて必要ない。中島は全面的に攻撃停止を指導しなければな
 らなかったのに、なんということか。
・参謀総長は閑院宮で、海軍の軍令部総長の伏見宮と併列して、いわばお飾りの存在であ
 る。戦略戦術の総本山の参謀本部を実質的に統率するのは次長なのである。その次長が
 ノモンハン事件に対する認識がこのざまとは、ただただあきれるほかはない。その無計
 画、無智、驕慢、横暴のゆえに関東軍の秀才たちを責めねばならないのは当然のこと、
 いや、それ以上に三宅坂上の秀才たちの無責任さにノモンハン事件の悲惨を許すべから
 ざる最大原因がある。  
・なお、「辻」参謀はこの大命伝達のときには新京にはいなかった。「辻」はこの夜には
 将軍廟の第六軍司令部に飛んでいっている。そして、ここで「辻」も着任の申告にいき
 唖然とせざるをえない言葉を耳にしている。軍司令官の萩洲はウィスキーなしではいら
 れなかった軍人で、その夜もかなり酔っていた。「辻君、僕は小松原が死んでくれるこ
 とを希望しているが、どうかねえ、君っ」と萩洲は言ったというのである。
・萩洲もまた中島同様に私情だけの、大局をわきまえぬうつけた将軍と評するほかはない。
 日本陸軍はよくもまた自分の使命の本質を忘れた無能なる将軍を頭にいただいていたも
 のである。 
・阿部新内閣は8月30日に成立した。陸相には板垣にかわって、天皇の希望どおりに侍
 従武官長の畑俊六大将が着任する。海軍は大臣・次官ともに交代する。新海相には連合
 艦隊司令長官吉田善吾中将、新次官には住山徳太郎中将がきまった。山本は、海兵同期
 の吉田の下で、時局重大なときゆえ次官にとどまっていいといったが、米内は山本を連
 合艦隊司令長官として海へ出すことに決めた。
・ほとんどのベルリン市民は戦争に反対していた。しかし、彼らは何も知らされていない。
 だれもが、何が起こっているかを、なぜ我々に教えてくれないのかと不満を訴える。そ
 して、その反面で、あのちょび髭の偉人が、なんとか窮地を脱しようと外交的妙手を打
 ってくれるにちがいないと、漠然と信じ込んでいた。そのちょび髭の偉人ヒトラーは戦
 争の決意をすでに固めていた。前日の8月30日に、ポーランド政府に十六カ条にまと
 めた要求事項を手渡しであった。ポーランド政府がそれを拒否し交渉は決裂する。それ
 を待って9月1日に宣戦を布告する。
・スターリンに、ノモンハン方面の戦闘の戦勝報告が届けられた。ソ連とモンゴル共和国
 が主張する国境線の外へ、日本軍はすべて駆逐された。ソ蒙軍の総攻撃は戦史に残るよ
 うな勝利をもって成功したのである。スターリンの命令どおりアジアのほうでは、ソ蒙
 軍が、彼らのいう国境線の手前で、進撃を停止した。 
・ところがこのころ、ヨーロッパではポーランドとの国境線に向けて、戦車、砲車、トラ
 ック、そして何個師団ものドイツ国防軍部隊があとからあとからと進撃を続けている。
 ドイツ軍は電撃作戦という新しい方式の戦争を、全世界に示すため明日に向かって前進
 を開始したのである。

万骨枯る
・関東軍司令部は戦闘は終わったとは考えてはいなかった。一個師団が潰れるほどの大打
 撃を受けながら、いや、受けたればこそ、いっそう次の戦闘での勝利を期すべく新しい
 作戦計画を企図するのである。
・新京にまで来た参謀次長を完全に同調させることに成功し、意気投合することにとって、
 三個師団を戦場へ投入し、さらに二個師団の増派を受けるという明るい前途がひらけた。
 それで関東軍の意気は大いに揚がっている。
・さらにまた、第二次世界大戦の勃発が、ノモンハン事件に好影響をもたらすであろうと
 確信している。アジア方面に展開している兵力のヨーロッパへの移動も考慮にいれざる
 をえない。当然のことながら、満州での全面戦争の可能性は消えた。この方面で日本軍
 と事を構えていることが得策とは、ソ連軍も考えるはずはない。そうして戦略的観察も、
 関東軍を大いに力づけるのである。
・しかし、翌9月3日、事態は急変する。参謀本部が、関東軍司令官あての参謀総長名で、
 ノモンハン方面におけるすべての作戦中止を命令してきたのである。関東軍作戦課の参
 謀たちは愕然となるより先に激昂した。この命令は三宅坂上の秀才どもの裏切り以外の
 何ものでもない。中島次長の約束はどこへいったのか。
・しかし「服部」、「辻」を中心に関東軍の参謀たちは、怒りの虫をひとまずなだめて、
 苦心の末に、軍の取るべき処置案をまとめた。大命にもとづいて攻勢作戦は確かに中止
 する。ただし、死体や兵器の収容という戦場掃除の名目をかかげて攻撃作戦計画の実行
 を、彼らは計画した。まだやる気満々なのである。大命は尊重するが、同時に無視する
 こともまた「大御心」にそうことになると、詭弁をも弄した処置を考え出した。
・三宅坂上は、はじめて毅然たるところをみせた。第一線の心理は感情に惑わされず、合
 理的な大方針を示した。参謀総長名で軍司令官あてに電報が打たれた。
 「意見具申の企図は、大命の趣旨に鑑みこれを採用せず」
 関東軍作戦課の大兵力を注ぎ込む弔い合戦的な最後の決戦計画は、これで空無と化した。
 事件は完全に終わったのである。
・ノモンハン事件の責任を明らかにする人事異動は、翌9月7日から三宅坂上より発令さ
 れはじめる。今度は迅速であった。中央部では、参謀総長は皇族なので別格とし、中島
 参謀次長と橋本作戦部長が予備役に編入された。つまりクビである。稲田作戦課長は化
 学戦を研究する習志野学校付を命ぜられる。関東軍では植田軍司令官、磯谷参謀長が
 予備役に編入、矢野参謀副長は参謀本部付、寺田高級参謀が千葉戦車学校付とされた。
 「辻」参謀は第十一軍司令部付に発令された。「服部」作戦班長は、千葉歩兵学校付に
 転出した。    
・このように幕僚に対する処断はきわめて甘い。予備役になったものはいない。陸軍にあ
 ってはそれは当然のこととされた。原則どおりノモンハン事件敗退の責任は、最高指揮
 官と幕僚長にあり、多少の越権行為はあってもたんとう幕僚にはない、としたからであ
 る。
・積極的な軍人が過失を犯した場合には、人事当局は大目にみるのを常とする。一方、自
 重論者は卑怯者扱いされることが多く、その人が過失を犯せばきびしく責任を追及され
 る場合が少なくなかった。  
・こうした信賞必罰ならざる悪しき慣例が、最前線で勇敢に戦った指揮官たちの上に適用
 されていった。結果としての連隊長クラスの犠牲を見ると、ノモンハン戦がいかに熾烈
 な戦いであったかがわかる。彼らは戦死または自決し、あるいは自決を強いられてほと
 んどが逝った。 
・そのために、この戦争における統帥の非合理さと拙劣さ、作戦計画の粗雑や誤断、指揮
 の独善などへの現場からの批判は、すべて曖昧たるものとなった。真の「大命」であっ
 たかどうか不明のまま、「奉勅命令」の威力は絶対的にひとり歩きし、多くの将兵を死
 に追いやったその事実も。
・のみならず、戦いの終わった後の、誤解や上長の悪感情が、悪戦苦闘した部隊長を殺し
 た。捜索連隊長の井置中佐は、フイ高地よりの無断撤退の責を負わされて将軍廟の草原
 で自決した。守備隊長の長谷部中佐も同じく、ノロ高地よりの撤退の責を負わされて、
 ノモンハンの塹壕内で自決した。歩兵連隊長の酒井大佐は、負傷後送され、病院で責任
 を迫られてチチハルの病院で自決した。
・小松原師団長は、みずからの責任を毫も考えず、また状況の考慮もなく二人の部隊長に、
 問答無用に「死刑」を宣告している。その小松原は、師団の善後処理が一段落ついた後
 に、関東軍司令部付となり、続いて予備役に編入された。萩洲も同様に予備役となった。
 師団参謀長の岡本大佐は、陸軍病院で負傷入院加療中に、精神錯乱で入院中の将校に斬
 殺された。もちろんノモンハンでの敗戦責任にからんでいる。そして今日まで犯人の将
 校の名は明らかにされていない。
・戦場で自決したのは山県大佐、伊勢大佐、染谷中佐、梅田少佐。そのほか戦場で戦死、
 あるいは部隊ぐるみ全滅した連隊長はほかに5人を数える。
・連隊長で生き残ったのは、須見大佐、鷹司大佐、と負傷して早く後送された三嶋大佐の
 三人だけである。その須見大佐も、生き残ったものの予備役に編入された。理由は、小
 松原師団長の命令を、到底実行不可能と拒否した「抗命」ゆえ、という。須見部隊ほど
 終始敢闘を続け、そのうえに兵力を多方面に抽出分派され、ばらばらにされて難戦を戦
 わざるをえなかった部隊は、ほかに例をみない。よくその任を全うしたといえる部隊長
 も、自重論者すなわち卑怯者とみなされて処断された。
・これら連隊長クラスの悲劇をみれば、大隊長、中隊長、小隊長そして下士官・兵おびた
 だしい犠牲については改めて書くまでもないであろう。いかに救いのない死闘であった
 か。 
・第二次ノモンハン事件に関して、出動人員5慢8925人、うち戦死7720人、戦傷
 8664人、戦病2363人、生死不明1021人、計1万9768人となっている。
 第二十三師団にかぎっていえば、出動人員1万5975人中における消耗(戦死傷病)
 は1万2230人。実に76パーセントに達したという。実質の損耗率はもっと大きい
 ともいわれる。
・ちなみに日露戦争の遼陽会戦の死傷率が17パーセント、奉天会戦が28パーセント、
 太平洋戦争中もっとも悲惨といわれるガダルカナル会戦の死傷率が34パーセントであ
 る。この草原での戦闘の苛酷さがこれによってもよく偲ばれる。   
・ソ連軍の死傷者も、最近の秘密指定解除によって、惨たる数字が公開されている。戦死
 6831人、行方不明1143人、戦傷1万5251人、戦病701人。これに外蒙軍
 に戦傷者を加えると、全損耗は2万4492人になるという。圧倒的な戦力を持ちなが
 らソ蒙軍はこれだけの犠牲を出さねばならなかった。
・9月15日、現在の線において全軍の駐が命ぜられ、16日に一切の敵対行動をやめよ、
 という指示が出された。
・9月17日、ソ連軍は国境線を越えて東部ポーランドへ侵攻を開始した。ノモンハン方
 面の停戦をまって、十分な戦備をととのえた上での猛進撃である。ポーランド騎兵部隊
 がソ連の戦車に向かって突撃した。その雄たけびは、ソ連戦車兵にとっては、ノモンハ
 ンの戦場で経験ずみのものであったであろう。ポーランド人がもっているのは勇敢さだ
 けで、敗北は決定的である。
・日本陸軍がこのノモンハン事件からどんな教訓を得たかの問題が残る。確かに、陸軍中
 央は事件後に当時としては大規模な「ノモンハン事件研究委員会」を組織して、失敗を
 今後にどう活かすかを研究した。しかし、その結論はどうみても落第点をつけるほかは
 ない。要はほとんど学ばなかったのである。そして太平洋戦争で同じ過ちを繰り返した。
 その根本は、ノモンハン事件を日本軍がソ連軍と戦った最初の本格的な近代戦とみなさ
 なかったことにある。 
・結果として一年もたてば、ノモンハン敗戦の責任追及は終了したということになる。し
 かも小松原中将は事件の一年後には世を去っている。いったんは責任を問われて左遷さ
 れた「服部」と「辻」が、いくばくもなく三宅坂上に華々しく復帰してきても、そこに
 はなんの不思議はないのである。「服部」は、なんと三宅坂上の参謀本部作戦課に栄転
 してきた。昭和16年には作戦課長に昇格する。「辻」はやや遅れるが、昭和16年に
 ひっぱられて参謀本部員となり、作戦課戦力班長として「服部」作戦課長を補佐し、太
 平洋戦争の発動に得意の熱弁をふるうのである。いや、むしろ「辻」がまたしても作戦
 課全体をリードした。
・昭和16年、不可侵条約をホゴにした予想どおりの独ソ戦の開始によって、大本営はそ
 の戦略方針の新たな決定を迫られる。昭和15年に締結した日独伊軍事同盟にもとづい
 てソ連を攻撃するか、米英との開戦を覚悟で南方の資源地帯へ出るか、である。
・「服部」作戦課長は、「いま必要なのは、南北いずれにも進出しうる態勢を完整するこ
 とだ。北に対しては、ドイツ軍の作戦が成功してソ連がガタガタの状態になったら、北
 攻を開始する。南方に対しては好機を求めて攻撃を決断する」という方針を出した。こ
 れまた秀才が考えそうな手前本位の、絵にかいた餅のような方針である。若い参謀が反
 論する。好機南進は必ず米英との戦争となる、独ソ戦の見通しもつかないうちに、日本
 が新たに米英を相手に戦うなど、戦理背反そのものではないか、と。
・「辻」参謀はとたんに大喝した。
 「現状で関東軍が北攻しても、年内に目的を達成するとはとうてい考えられぬ。ならば、
 それより南だ。南方地域の資源は無尽蔵だ。この地域を制すれば、日本は不敗の態勢を
 確立しうる。米英は恐るるに足りない」
・若い参謀はなおねばる、「米英を相手に戦って、勝算があるのですか」
・「辻」参謀は断乎として言った。   
 「今や油が絶対だ。油をとり不敗の態勢を布くためには、勝敗を度外視してでも開戦に
 踏み切らねばならぬ。いや、勝利を信じて開戦を決断するのみだ」
・こうして”太平洋戦争への道”は強力に切り開かれた。そして「服部」と「辻」が「不明
 のため」に詫びねばならぬ”英霊”は、数千のノモンハンと異なり、数百万におよぶ悲惨
 を迎えることになる。
・ノモンハン敗戦の責任者である「服部」「辻」のコンビが、対米開戦を推進し、戦争を
 指導した全過程を見るとき、個人はつまるところ歴史の流れに浮き沈みする無力な存在
 にすぎない、という説が、なぜか疑わしく思えてならない。そして人は何も過去から学
 ばないことを思い知らされる。  

あとがき
・横光利一の遺作に「微笑」という短編がある。不利な戦況を逆転するために、殺人光線
 を完成させようとしている二十一歳の天才的な数学者がでてくる。この青年は、殺人兵
 器が完成に近づいたとき戦争が終り、発狂死してしまう。戦争という狂気の時代を積極
 的に生きた横光の、戦後のつらくはかない想いが、この幼児のような「微笑」をただよ
 わせながら殺人兵器をつくろうとしている青年を造型させたのであろう。
・戦後少したって元陸軍大佐の「辻政信」氏とはじめて面談したとき、この「微笑」の青
 年が二重写しとなって頭に浮かんだ。眼光炯々、荒法師をおもわせる相貌と書いたが、
 笑うとその笑顔は驚くほど無邪気な、なんの疑いをも抱きたくなくなるようなそれとな
 った。 
・まともな日常のおのれに帰れば、殺人兵器を完成させようとしていたことは神経的に耐
 えられない。精神を平衡に保とうにも保たれない。普通の人間とは、おそらくそういう
 ものであろう。
・戦後の「辻」参謀は狂いもしなければ死にもしなかった。いや、戦犯からのがれるため
 の逃亡生活が終わると、「潜行三千里」ほかのベストセラーを次々とものし、立候補し
 て国家の選良となっていた。議員会館の一室ではじめて対面したとき、およそ現実の人
 の世には存在することはないとずっと考えていた「絶対悪」が、背広姿でふわふわとし
 たソファに座っているのを眼前に見るの想いを抱いたものであった。
・「ノモンハン事件」の凄惨な戦闘をとおして、日本人離れした「悪」が思うように支配
 した事実をきちんと書き残しておかねばならないと思った。多くの書を読みつなぎなが
 らぽつぽつと調べているうちに、いまさらの如くに、もっと底が深くて幅のある、ケタ
 はずれに大きい「絶対悪」が二十世紀前半を動かしていることに、いやでも気づかせら
 れた。彼らにあっては、正義はおのれだけにあり、自分たちと同じ精神をもっているも
 のが人間であり、他を犠牲にする資格があり、この精神を持っていないものは獣にひと
 しく、他の犠牲にならねばならないのである。
・怖気ふるうほかのないような日本陸軍の作戦参謀たちも、彼らからみると赤子のように
 可愛い連中ということになろうか。およそ何のために戦ったのかわからないノモンハン
 事件は、これら非人間的な悪の巨人たちの政治的な都合によって拡大し、敵味方にわか
 れて多くの人びとが死に、あっさりと収束した。
・それにしても、日本陸軍の事件への対応は愚劣かつ無責任というほかはない。手前本位
 でいい調子になっている組織がいかに壊滅していくのかの、よく教本である。