ヒトラー最後の日 :トレヴァー・ローパー

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この本初版は、1947年に出版されたノンフィクションである。出版後すぐに英米両国
でベストセラーになったという。日本訳は1950年に発行された。
著者は、第二次世界大戦中は、イギリス情報局秘密情報部でラジオ・セキュリティ部門の
将校として従軍し、ドイツの諜報機関アプヴェーアから流されるメッセージを傍受する任
務についたという。
1945年に秘密情報部の上官からヒトラーの死の状況を調べ、当時のソ連政府によるヒ
トラーは西側世界のどこかで生きているというプロパガンダに対する反証を成立させるよ
うに命じられ、総統地下壕の中でヒトラーと最後に会った人々に対する聞き取り調査を行
った。その調査の成果としてこの本が出来上がったということらしい。
ヒトラーは、ソ連軍や連合国軍と戦争を始めたときから、もしドイツがこの戦争で負ける
ことがあるならば、ドイツ国民は一人残らず戦死するまで、徹底抗戦することを命じてい
たらしい。このような考え方は、日本の敗戦間際における日本陸軍の一部幹部たちの考え
方と共通するところがある。勇ましく潔いという見方があるかもしれないが、自分だけで
は死にたくない、道連れが欲しいという卑しさもある気がしてならない。
私はこの本を読むまで、ヒトラーが軍部の指導者たちと対立していたということは知らな
かった。軍部は完全にヒトラーの支配下にあったものとばかり思っていた。ヒトラーと軍
部との対立の原因は、戦争目的に違いにあったようだ。軍部の指導者たちは、ポーランド
とフランスの征服だけで満足だった。しかし、ヒトラーの戦争の最終目的は、ロシア民族
の絶滅にあったという。
ヒトラーは、人種主義や優生学のなどの選民思想を持っていたといわれるが、それにして
も、どうしてヒトラーはその絶滅をねらったほどスラブ民族を嫌ったのだろうか。不思議
な気がする。
ヒトラーは、日本人については、彼の著書「わが闘争」の中で、「文化的には創造性を欠
いた民族である」と酷評していたようだ。しかし、それを知らなかったのか、それとも知
っていての上でのことだったのか、当時の日本陸軍内部には、日独伊三国同盟を熱望する
人たちが多くいたようである。また、外相だった松岡洋右も三国同盟締結を強く主張し、
この締結が結局日本にとって命取りとなっていった。
もちろん、ヒトラー政権も、すべてが悪いというわけではなく、いい面もあったようだ。
ヒトラーがおこなった経済政策については、「ヒトラーの経済政策」(武田知弘著)にも
あるように、評価すべき点もあったようだ。
この本でヒトラーという人物がどのような人物であったかが多少わかってくるが、それと
同時に、今のアメリカのトランプ大統領の行動が、ヒトラーと共通する点が多いことに気
づいた。自分が気に入らないものは、それは思想であろうと人であろうと、自分の持つ権
力で徹底的に「排除」する。この徹底的な「排除」によって、自分に従順な者だけを残す
という手法である。この手法はトランプ大統領もよく使う手法だ。このままずっとトラン
プ大統領が大統領を続けたら、もしかしたらアメリカに第二のヒトラーが誕生したかもし
れないと思えてしまう。そしてそれは、なにもアメリカの大統領だけではない。この日本
のリーダーにも、その手法を用いる者がいる。最近起きた、日本学術会議の会員候補6人
の任命拒否も、その一例といえるだろう。
国の政治や経済が行き詰ると、国民は国のリーダーに対して強いリーダーシップを求める
が、そこには思わぬ大きな落とし穴もあるということを、我々は常に認識していなければ
ならないだろう。なぜなら、強いリーダーシップは、知らないうちに狂気のリーダーシッ
プへと変わっていくこともあるからだ。
ところで、この本を読んでいくと、ヒトラーを取り巻くいろいろな人物が登場するのだが、
その登場する人物がどのような人物であるのかを知った上で読み進めないと、なかなか本
の内容が理解できなかった。そこで、この本に登場する主な人物の簡単な経歴をメモしな
がら読み進んだ。以下がその経歴メモである。

【ゲーリング】
ゲーリングは、第一次世界大戦ではエース・パイロットとして活躍したようだ。ヒトラー
に惹かれてナチ党に入党し、ドイツ空軍総司令官などの要職を歴任し、ヒトラーの後継者
に指名されるなど高い政治的地位を得た。しかし、しかし政権内では対外穏健派だったた
め、対外強硬派のヒトラーと徐々に距離ができたようだ。戦後のニュールンベルク裁判で
は、最も主要な被告人としてヒトラーとナチ党を弁護し、検察と徹底対決して注目を集め
た。しかし、死刑判決後に服毒自殺した。

【ヒムラー】
ヒムラーは、ヒトラー政権下において治安・諜報などで強大な権力を握った親衛隊のトッ
プであり、国内統制と反ナチ勢力・ユダヤ人などに対する迫害を実行した人物である
第二次大戦後期には軍集団の指揮も任されたが、軍事的素質には乏しかったらしく、目立
った戦果はあげられなかったようだ。ドイツの戦況を絶望視して独断でアメリカ合衆国と
の講和交渉を試みたが失敗し、ヒトラーの逆鱗に触れて解任された。その後は逃亡を図っ
たが、エルベ川を渡った後にイギリス軍の捕虜となり、翌日に自殺した。

【ゲッベルス】
ゲッベルスは、ナチスのプロパガンダを積極的に広めナチ党の勢力拡大に貢献した。ヒト
ラー政権下では国民啓蒙・宣伝大臣を務め、強制的同一化を推進した。第二次世界大戦の
敗戦の直前にはヒトラーの遺書によってドイツ国首相に任命されるが、自らの意志でそれ
に背き、ヒトラーの後を追って家族とともに自殺した。

【ボルマン】
ボルマンは、ヒトラーの側近・個人秘書を長らく務め、その取り次ぎ役として権力を握っ
た。親衛隊名誉指導者でもあり、親衛隊における最終階級は親衛隊大将。ヒトラーの政治
的遺書によって党担当大臣として指名されたが、ベルリン陥落の混乱の中で消息を絶った。
戦後長い間行方不明とされてきたが、総統地下壕脱出の際に青酸で服毒自殺していたこと
が近年明らかにされたようである。

【シュペール】
シュペールは、ヒトラーのお気に入りの建築家であった。首都建築総監となり、新首都計
画のための権限を掌握した。ヒトラーの取り巻きの中では、いちばんまともな人物だった
ようだ。終戦後、ニュールンベルク裁判では有期刑の判決を受け、釈放後はナチス時代の
証言者として広く知られた。1981年にイギリスの愛人宅において心臓発作で倒れ、ロ
ンドンの病院で76歳で死亡した。

【シェーレンベルグ】
シェーレンベルグは、ナチ党親衛隊の情報機関SDの国外諜報局局長を務めた人物である。
大戦末期にデンマークで連合軍に逮捕された。ニュールンベルク裁判では他の被告に不利
な証言を行った。その後、自身もニュールンベルク継続裁判の大臣裁判にかけられ、6年
の禁固刑を宣告された。釈放後はスイス、続いてイタリアで生活し、イタリアで癌のため
死去した。

【ハルダー】
ハルダーは陸軍参謀長を務めた人物である。ヒトラーと対立して陸軍参謀長を解任された
ハルダーは、その後、以前にあったクーデター計画に関わっていたとして妻や長女と共に
逮捕され、強制収容所送りとなった。一時処刑される危険もあったが、連合軍が迫ってき
たことを知った親衛隊員たちが任務を放棄して逃げたため、連合軍の捕虜となり保護され
ることになった。戦後は、強制収容所に収監されたという経歴などが幸いして、戦争犯罪
で訴追されることはなく、あっさり釈放され、アメリカ陸軍戦史研究部ドイツ支所の所長
として長年勤務したようだ。

【ヨードル】
ヨードルは、ドイツ陸海空軍の調整役務めた人物である。ドイツ降伏後、ドイツ降伏文書
の調印を行った人物である。戦後、対ソ侵攻作戦開始に積極的役割を果たした人物として
ニュルンベルク裁判の被告人の1人とされ、絞首刑に処された。

【フォン・シュタウフェンベルク】
フォン・シュタウフェンベルク伯爵は、名門貴族の家柄であったようだ。あと少しで成功
するところだったヒトラー暗殺計画を実行した人物である。しかし、その後のクーデター
計画も失敗し、逮捕され銃殺刑に処せられた。現在のドイツにおいては英雄とされている
ようだ。

【カイテル】
カイテルは、国防軍最高司令部の総長を務めた人物で、ドイツ降伏時にはソ連に対する降
伏文書にドイツ軍を代表して調印した。戦後、ニュールンベルク裁判で死刑判決を受けて
絞首刑となった。

【グーデリアン】
グーデリアン将軍は、第二次世界大戦の緒戦の大勝利を飾った電撃作戦の生みの親(発案
と部隊育成)であり、またそれを実践(実戦部隊の指揮)した野戦軍指揮官であったよう
だ。大戦末期には、国境に迫ったソ連赤軍に対する防衛戦略を巡ってヒトラーとの対立は
頂点に達し、ヒトラーから6週間の休養をとるように命じられ、事実上解任された。敗戦
後はアメリカ軍に降伏し捕虜となった。ニュールンベルク裁判ではソビエトとポーランド
は戦争犯罪人としてグーデリアンを起訴しようとしたが、結局起訴されずに済んだ。釈放
された後は、アメリカ陸軍機甲学校で講義を行ったり、回想録を執筆して余生を送ったよ
うだ。

【リッター・フォン・グライム】
リッター・フォン・グライムは、敗戦間際にヒトラーからドイツ空軍総司令官および元帥
に任命されるが、敗戦後にアメリカ軍の捕虜となった。しかし、その後ソ連に引き渡され
ることを米軍から知らされ、絶望して獄中にヒトラーからもらった毒薬で自決した。

【ハンナ・ライチュ】
ハンナ・ライチュは、女性初のヘリコプターパイロットであった。そのほか世界初のジェ
ット戦闘機やロケット戦闘機などのテストパイロットを務めた。ドイツが連合国に降伏す
るとまもなく、ライチュはグライムと共に米軍に捕われ、“重要犯罪人”として情報将校ら
に尋問・取調べを受けた。ライチュは15ヶ月間の拘留の末に釈放された。その後、彼女
は67歳まで生きた。生涯独身だったようだ。

【フェーゲライン】
フェーゲラインは、ヒトラーとヒムラーの間の連絡将校であった。ヒトラーの愛人エヴァ・
ブラウンの妹グレートルと結婚した。しかし、総統防空壕から無断で脱出し、愛人宅泥酔
し、ヒトラーの出頭命令にも応じなかった。激怒したヒトラーは、処刑命令を下し、銃殺
された。

【リッペントロップ】
外務大臣だったリッペントロップは、ドイツ、イタリア、日本3国の同盟によって大英帝
国を分割するという考えの主唱者だったようである。また彼は、友好国の首脳に各国のユ
ダヤ人をドイツが設けた強制収容所に移送するよう依頼しており、ユダヤ人移送に関して
中心的役割を演じていたようだ。ニュールンベルク裁判により絞首刑に処せられた。

【ゲープハルト】
ゲープハルトは、ミュンヘン大学医学部で医学を学んだ医師で、ヒムラーの主治医を務め
た人物である。ドイツの敗戦直前にはドイツ赤十字社の副総裁になった。しかし、戦時中
に強制収容所の囚人を使って残虐な医学実験を行ったとされ、戦後、アメリカ軍から戦犯
に指定され処刑された。ゲープハルトは強制収容所の囚人の身体を使って外傷に関する人
体実験を行ったようである。若い娘を使った人体実験で、ゲープハルトは少女たちを切り
刻みながら、主な筋肉や神経、骨の小片などを採取し、時にはこうして切り開いた傷口を
化膿状態に見立てて、そこに様々な細菌の培養液を注入したりもしたという

【デーニツ】
デーニツは、ドイツ海軍の軍人である。ヒトラーの自殺後、その遺言に基づき大統領に就
任し、連合国への無条件降伏を行った。

【ホフマン】
写真師ホフマンは、ヒトラー専属の写真家だった。ヒトラーにエヴァ・ブラウンを紹介し
たのは彼だった。1923年からヒトラーの写真を撮ることを許可された。以降ヒトラー
の行く場所どこにでも同行して彼の写真を撮った。ホフマンが残した写真数は250万枚
にも及ぶという。ヒトラーの写真集を続々と出版し、ホフマンは莫大な富を築いた。戦後、
ナチ党政権の不当利得者として西ドイツの裁判にかけられ、財産のほとんどを没収された。
10年の実刑判決を受けて投獄された。減刑されたが、1957年に72歳で死亡した。
ライカのカメラを愛用していたという。

【エヴァ・ブラウン】
エヴァ・ブラウンは、17歳のときヒトラーと出会った。ヒトラーとの齢の差は23歳と
父娘ほどの差があった。エヴァ・ブラウンはヒトラーの愛人となるわけが、二人の関係が
どの程度のものだったのかよくわかっていない。二人はプラトニック・ラブの関係ではな
いかと言われることもあった。エヴァ・ブラウンはヒトラーと共に自殺することになるが、
そのとき、エヴァ・ブラウンは33歳だったようだ。
後に、エヴァ・ブラウンの日記が発見され、日記からエヴァが1942年妊娠し秘密のう
ちに男児を出産したという。日記には、それがヒトラーとの子供であることをうかがわせ
る記述があったという。しかし、この日記は偽物であるとの話もあり、何が真実なのかい
まだのよくわららないようだ。

【グレートル】
グレートルは、エヴァ・ブラウンの妹で、フェーゲラインと結婚し子を身ごもった。姉の
エヴァ・ブラウンの死の5日後に女児を生んだ。

側近と陰謀
・敗北に当面したヒトラーの周囲には、種々のかたちでの陰謀が渦巻いていた。それらの
 陰謀のうちには、直接彼の生命をねらったものもあれば、彼をおしのけて連合軍と接触
 をはかり、終戦処理に主役を演じようとはかったものもあった。ベルリンの陥落の寸前
 にいたっても、なお彼の側近者たちによる後継者争いも熾烈をきわめていた。
・ヒトラーの暗殺計画のうちで、ほとんど成功しかかったのは、1944年7月の、陸軍
 によるそれであった。元来陸軍はヒトラーの独裁にとっては最強の敵であった。ヒトラ
 ーと陸軍参謀本部との確執は、戦争期間中のナチ党の歴史のうちでも、もっとも興味あ
 る問題の一つなのである。
・陸軍参謀本部は彼の反対勢力の一中心をなしていて、ヒトラーも、それを崩潰させるこ
 とには成功したが、完全に屈服させることはできないままであった。ヒトラーは政権を
 獲得してみると、その参謀本部が彼の政策の強力な武器になることに甘んじないのを悟
 らされ、彼は苦い失望を味わった。参謀本部には参謀本部独自の政策があったのである。
・ヒトラーは、一撃も加えることなく、労働組合を解消させた。中産階級はおどしつけて
 屈服させた。実業家は買収した。教会の方面からも面倒は起こらなかった。共産党員に
 いたっては、ずっと前から屈服していたのだから、一番手数のかからない転向者になっ
 てくれた。だが、陸軍だけは、がんとして転向もせず、買収や威嚇もはねつけた。
・しかたがないので、彼は内側から陸軍をきり崩す策戦に出た。辞職を強要したり、自分
 の息のかかった者を新たに任命したりすることによって、多少はその策戦に成功した。
・ヒトラーの企てたポーランドおよびオーストリア侵攻が成功するにいたって、いちおう
 ヒトラーに陸軍支配は確立したかに見えた。ところが、1941年の対ソ戦開始ととも
 に、ドイツ陸軍参謀本部の反ヒトラー感情は、ふたたび表面化しはじめた。
・だいたい、ドイツ陸軍の指導者たちは、一貫して、ロシアとの戦いには反対をとなえて
 いたのである。彼らもある限度をもった侵略戦争には賛成だった。彼らもドイツが有能
 な、給与のいい、特権を維持するにたるだけの強国になることは望んでいた。それには、
 旧ドイツ帝国の領土を回復するだけで、十分だった。本来実際家であり、打算家であっ
 た彼は、なんの見通しもつかず、結果の予測もつかないような、無制限な侵略には反対
 だった。
・ドイツ軍部の指導者たちはポーランドとフランスの征服だけで満足し1940年には喜
 んで軍隊に停止を命じ、彼らの獲得した基盤の上に地位の安定を計ろうと望んだ。とこ
 ろが、不幸なことには、彼らを満足させた成功も、ヒトラーに対してはその自信を増幅
 させ、食欲を刺激する役にしかたたなかった。旧ドイツ領土の回復などは、ヒトラーに
 とっては軽蔑すべき野心としか思えなかった。彼らにとっては目的であったことが、ヒ
 トラーにとっては手段にすぎなかった。背後を完全にしたうえで、ロシアを征服するこ
 とが、彼の最初からの大目的だったのだからである。
・ヒトラーの英仏に対する態度と、ソ連に対する態度とには、根本的な相違があった。フ
 ランスには強国としての存在を終わらせ、二流国の地位に落とす。イギリスは純粋な海
 の覇権者にとどまらせ、ドイツの大陸政策に干渉させない。これが、フランスやイギリ
 スに対する彼の基本的な外交政策だった。
・しかし、ロシアに対しては、ロシア民族の絶滅が彼の根本的な方針であった。ロシアと
 の戦いは、一種に十字軍であり、「イデオロギーの戦い」だったのである。 
・ロシアの征服、スラブ民族の根絶、東方の植民地化。これがヒトラーの主眼であり、彼
 が国民に言い残した最後の唯一の積極的な目標は、「東方の領地の征服」であった。
・このように、ロシアをめぐる方針については、ヒトラーやナチ党と、ドイツの陸軍の首
 脳部とのあいだには、根本的な意見の相違があったし、戦略上の点からも、今のような
 時期にロシアを相手に戦うことには、陸軍は反対だった。
・1941年12月には、ヒトラーはドイツ軍最高司令官の地位についた。それから数か
 月後には、もっとも有能な人物と折り紙をつけられていたハルダーが解任された。総合
 参謀本部が新たに三軍の政治的統帥権を握り、その部長には、ヒトラーを戦術の天才と
 信じきってその言いなりになっていたカイテルが据えられ、その作戦部長にはヒトラー
 の戦術を実行に移した勤勉なヨードルが就任した。
・こうした根本的な対立だけでなく、つねにヒトラーに無能呼ばわりされ、面罵されたい
 た将軍連の個人的な恨みもあったろう。いずれにせよ、陸軍首脳によるヒトラー暗殺計
 画は、1942年以来続けられていた。ヒトラーの本部に爆発物を送りつけたことも数
 回あったが、いずれも何かの技術上の故障で失敗した。
・1944年7月の暗殺計画はもう少しで成功するところだった。そのときは、フォン・
 シュタウフェンベルク伯爵が、書類鞄の中に爆弾を隠して、ラステンブルクの会議室に
 持ち込むことに成功した。ヒトラーが席につき、会議が始まると、シュタウフェンベル
 クは書類鞄をテーブルの足もとにもたせかけておいて、口実をもうけて会議室から抜け
 出した。彼が外庭を横切ったころに爆発音が聞こえてきた。そこで、彼は自分の飛行機
 に乗り込み、ベルリンへ飛んで、地震たっぷりに、ヒトラーの死と政権奪取の成功を宣
 言した。  
・ヒトラーがどうして免れたかは、今でもまだ明らかでない。彼はちょうどその瞬間に席
 を離れたか、テーブルの構造のぐあいか何かで、爆風が彼の体をよけたのかもしれない。
 爆発の飛塵と混乱がいくらか静まったとき、陰謀は失敗に帰したことが明らかになった。
・ヒトラーは鼓膜が破れ、右腕にかすり傷を受け、軍服はぼろぼろになり、気を失って、
 つねにご機嫌とりにきゅうきゅうしていたカイテルの腕の中に倒れ込んでいた。 
・その同じ日には、ムッソリーニが、ヒトラーに敬意を表すためにラステンブルクに到着
 するはずになっていた。ヒトラーは、紙のように青ざめた顔をしてプラットホームまで
 出迎え、そのあとでのお茶会で、彼のたびたび見せる狂乱状態におちいった。彼は、猛
 り立ち、唇に泡をためて、いっさいの裏切り者どもに復讐せずにはおかないとわめきた
 てた。総統がたっぷり30分間も猛り立っていたあいだ、彼の側近たちは、シーンと静
 まりかえっていた。客人たちは、ヒトラーは気が狂ったに相違ないと思った。
・その後に行われた血の粛清も、猛烈をきわめたのであった。旧参謀本部では、50人以
 上の将校が殺され、数百人にのぼる下級者が目立たぬように片付けられた。フランス占
 領軍司令官をしていたシュツルプナーゲルをはじめ自殺した者も多く、一時砂漠の英雄
 として名声を称えられたロンメル将軍までが、自殺を命じられた。
・つぎに、ヒトラーをはじめ、ドイツ第三帝国の首脳者全部を、暗殺によって除き去る計
 画を立てたのは、11年間にわたってヒトラーの愛顧を受けていた軍需相アルベルト・
 シュペールであった。  
・シュペールは元来建築家であって、総統官邸のビルディング・マネージャーをしていた
 際に、総統に見いだされた人間なのである。ヒトラーは「直感的に」彼を選んだのであ
 る。やがて彼は、35歳の若さで、しかも危機のまっただなかに、全軍需生産と生産の
 整理統合、交通機関の建設と維持、産業の指導と再編についての全権限を委ねられるに
 いたった。
・シュペールは非常に聡明で有能な人物であったが、それにしても、技術家の彼が陰謀家
 ぞろいのヒトラーのお取り巻きの中にあって生き残れただけでなく、次第に頭角をあら
 わしたのは、不思議なくらいであった。彼は、ほかのヒトラーの側近たちとは違って、
 野心も持っていなければ、政治への関心も持っていなかった。彼は軍需大臣になって以
 後の二年近くのあいだ、政治を無視し、政治家たちの演じる道化を高みの見物している
 だけで、もっぱら自分の完全に精通している交通機関や工場に、活動力と関心を集中し
 ていた。
・そういう彼が、急に政治の世界におどりこみ、最後まで彼を愛していたと思われるヒト
 ラーを暗殺しようとまで考えるにいたったのは、ヒトラーの宣伝相ゲッベルスが敗戦に
 あたってとった、「焦土戦術」にあったのである。
・ヒトラーはすでに1934年にこう言っている。「もしかりにわれわれが世界を征服し
 えなかった場合には、われわれは世界の半分をわれわれとともに滅亡にひきずりこみ、
 ドイツの上に勝利を誇りうる人間を一人も残さないであろう。1918年のくり返しは
 しない。われわれが降服するなどということはない」「われわれが滅ぼされるときには、
 世界をともにひきずっていく。火の海となった世界を」
・1944年のナチ党地方指導者会議でも、ヒトラーはこんなふうに述べている。「かり
 にドイツ国民がこの闘争に敗北するようなことがあれば、ドイツ国民は歴史の試練に当
 面するだけの力を持たず、したがって滅び去るにふさわしい国民であることを立証した
 ことになる」  
・したがって、ソ連軍や連合軍がドイツ国内に侵入し始めたとき、ヒトラーがどういう態
 度をとるかは、すでに明白だったといえよう。彼は国民に一人残らず戦死するまで徹底
 抗戦することを命じ、敵軍の利用しうるようなあらゆる橋梁や工場の破壊を命じた。ヒ
 トラーの忠実な司祭であったゲッベルスもまた、敗戦に当面した国民を鼓舞するスロー
 ガンとして、「破壊」をかかげ、新聞やラジオを通して、いっさいのものを破壊し去る
 ことを説いた。
・これは、「破壊」ではなく「建設」に、政治ではなくて工場や交通機関にすべてをかけ
 ていたシュペールにとっては、耐えがたいことだった。その結果、懊悩のはて、ついに、
 長年の恩顧を受けてきたヒトラーに背いても、自分の理想を守り、ドイツを破壊から救
 わなければならないと決心した。
・彼はヒトラーの破壊命令の裏をかく工作を開始した。あらゆる産業自殺命令に対抗して、
 自分の系統機関を通じて、取り消し命令を発した。
・7月の陰謀事件以来、陸軍参謀総長になっていたグーデリアン将軍は、戦争は敗北に帰
 したと、自分の口から外務大臣リッペントロップに告げた。リッペントロップはその言
 葉をヒトラーに報告し、ヒトラーは、グーデリアンとシュペールに二人を呼び寄せ、そ
 ういう言葉を口にすることは反逆罪だと申し渡した。今後いかなる地位身分も、そうい
 う裏切り者を死から救い、彼らの近親者を逮捕から免れさせることはできないであろう
 と。
・同時に、ドレスデンが大空襲を受けたことから気ちがいのようになったゲッベルスは、
 協商の廃棄、4万の連合軍の飛行士の虐殺、二種の新しい毒ガス、ターバンとザーリン
 の使用を要求した。このときになって、シュペールはついにヒトラーとその側近を暗殺
 する決心をかためた。
・シュペールの計画は、人の目につくような武器を持ち込む必要のないものだった。防空
 壕は換気装置によって空気の交流をはかるようにされており、その外部に突き出た換気
 筒が官邸の庭に口を開けていた。建築家であるシュペールはその構造を熟知していたが、
 なおそのうえに官邸の主任技師に尋ねて、知識を完全なものにした。ヒトラーが会議を
 開いているときに、毒ガスをその通風筒の中に送りこめば、たちまちガスは壕内全体に
 ひろがるに相違なかった。
・だが、この計画はついに実行されずじまいに終わった。いよいよ準備が完了したとき、
 シュペールが官邸の庭に検分に行ってみると、総統からの直接の命令で、通風筒のまわ
 りに3.6メートルの高さまで防護煙突が作られており、彼の計画は実行不可能になっ
 たことがわかったからである。     
・第三のヒトラー暗殺計画は、と言っても、これは頭の中だけにとどまった、具体化され
 ずじまいの計画であったが、ヒムラーによるものだった。ヒムラーというよりも、彼の
 部下の親衛隊の諜報機関の長、ワルター・シェーレンベルグがヒムラーをそそのかして
 実行させようと努力した計画であった。もっとも、シェーレンベルグの計画の本筋は、
 ヒムラーをヒトラーの後継者として総統におしたて、連合軍と講和折衝させて、自分が
 戦後のドイツの外交をきりまわそうという、野心にもとづくものであった。  
・ヒトラーの後継者といえば、第一に数えられるのは、ドイツ元帥ヘルマン・ゲーリング
 のはずであった。ところが、そのゲーリングは、そうした肩書にもかかわらず、実際上
 の権力は喪失かかっていた。それというのも、1941年ごろには彼はすでにヒトラー
 につく最高の地位を占めていたし、途方もない金持ちにもなっていて、満足しきってい
 たからである。彼は次第に安楽を求めるようになり、職務をおろそかにしはじめた。空
 軍は失敗し、敵の爆撃機は隙をねらって入り込み、ドイツの産業は軋りだしていたが、
 彼はたにしかベルリンへも伺候しなくなった。
・ゲーリングにつく総統後継者候補といえば、内務大臣であり、親衛隊、武装親衛隊、警
 察、秘密警察等々の長である、ハイリッヒ・ヒムラーということになる。一時は、ヒト
 ラーはあの爆発の際に殺されるか、それとも政権横奪者の手で監禁されるかしていて、
 ヒムラーが国家の実際上の主権を握ったものと、多くの者は想像したほどであった。
・だが、一見ヒムラーの権力が増大したかに見えたときに、実際には彼の勢力は凋落しか
 かっていた。あれほど大規模な反逆があれほど長期にわたって準備されていたのに、ヒ
 ムラーが知らないはずはない、そんなことは自然に反しているし、少なくともいっさい
 の前例に反している、と言う者すらあった。そうした疑惑はヒムラーの耳にも入らない
 ではいないし、ヒトラーのそばにそうした疑惑を利用して、ヒムラーやゲーリングを総
 統位継承者の地位から蹴落とそうと策謀しているナチ党の幹事長ボルマンがいた。
・ヒムラーといえば、幾百万という無力な囚人たちを、あらゆる洗練を極めた拷問によっ
 て、情け容赦もなく虐殺した人間であり、ユダヤ人虐殺の責任者でもあった。そういう
 文明世界の嫌悪と増悪を一身に集めているといっていい人間を、ドイツ国民の代表とし
 て、敗戦処理に当たらせようと考えたシェーレンベルグの神経は、理解を絶したもので
 あった。
・だが、ヒムラーは上役の命令を受けてでなければ行動のできない、官吏タイプの人間だ
 った。あれだけの残虐な行為を犯していながら、自分はただりっぱに義務を果たしただ
 けだと考えて平然としておれる、一介の能吏にすぎなかった。
・ヒトラーの側近には、なおこのほかにも、彼の秘書であり、ナチ党の幹事長であった、
 陰謀家マリチン・ボルマンがいた。ボルマンは、モグラみたいな男で、日光と表面だっ
 た生活を避け、賞罰も問題にしなかったらしいのだが、そのくせ、権力の実権を握るこ
 とにかけては飽くことのない貪欲ぶりを発揮する人間だった。
・ヒトラーは本来芸術家肌の人間であり、枠にはめられた規則だった生活や、間断なく仕
 事に追われている暮らしは、大きらいだったはずなのである。平和時の彼は、不規則な
 習慣や、映画見物や、いろいろな気まぐれなこと、仕事の延期や休暇、視察旅行やオー
 ベルザルツベルクでの週末、仲間の「芸術家」を集めてのお茶会や社交の集いなどに、
 革命期の政治の要求する耐え難い圧迫からの救いを見出していた。そのころはヒトラー
 もひとの批判に耳を傾け、仲間を相手に笑ったり、雑談したりしていた。政務の重圧が
 耐え難くなると、きまって政治には無関係な友人やエヴァ・ブラウンを伴って、オーベ
 ルザルツベルクに姿を消した。  
・ところが、大元帥になり、古今を絶した戦術の大天才ということになるとともに、ヒト
 ラーをとりまく人間の顔ぶれが変わり、彼の仕事時間も単調なほど規則だったものにな
 った。
・ヒトラーは、芸術家や友人にではなく無学文盲な軍人連に取り巻かれて暮らすようにな
 った。しかも彼はそういう連中を、思い上がった軽蔑の高みから、ただ社会的、政治的
 にではなく、軍事的にも見下していた。会話は気晴らしではなくなり、兵営や軍隊の食
 堂での話のように、決まり切ったくだらないことに限られていた。それをつぐなってく
 れるような有利なことは何ひとつなかった。
・かつては社交的だった総統が、ますます孤立した隠者のようになり、そうした陰気な生
 活に付きものの、抑圧された心理状態に陥った。彼は人間から切り離されただけでなく、
 事件からも切り離された。
・自分のみがドイツ国民を敗北から切り抜けさせ、勝利へ導くことができる。したがって、
 自分の生命は何にもました重要だと確信するいっぽう、すべての人間の手が自分に危害
 を加えようとしており、暗殺があらゆる曲がり角に待ちかまえていると、彼は信じこむ
 のだった。  
・彼はまれにしか戦線を訪れたことがなく、自分の軍隊、都市、産業などの真の損害程度
 も知らなかった。全戦争期間を通じて、一度も、空爆された都市を訪れたこともなかっ
 た。
・彼の侍医のうちでももっとも批判的であり信頼のおけるハッセルバッハ博士は、こう言
 っている。「1940年までのヒトラーは、実際の年齢よりずっと若く見えた。その年
 あたりから、彼は急速に老けはじめた。1940年から43年までは年齢相応に見えた。
 1943年以後は老人のようになった」。
・1945年の4月末ごろにヒトラーに会った人間は、いずれも、彼が肉体的に廃人にな
 っていたと言っている。晩年の数か月のあいだに彼の健康を破壊し去った真の原因は、
 彼の生活様式と、彼の侍医たち、との二つだった。
・ヒトラーの侍医は、ブラント、フォン・ハッセルバッハ、モーレルの三人だった。ブラ
 ント医師はヒトラーに主任外科医で、1934年以来ずっと彼の側につき従っていた。
 ハッセルバッハ医師は、彼の推薦によって出仕しはじめた人物であり、やはり外科医だ
 った。問題は内科医モーレル医師にあった。
・モーレルは藪医者だった。どうして侍医に選ばれたりできたのか、がてんがいかなかっ
 た。ところが、ヒトラーは彼を選んだだけではないのである。彼は九年間モーレルをた
 えず側におき、ほかのすべての医師よりも彼を尊重し、最後には、一致した忠告をしり
 ぞけてまでも、このいかさま師の有害な実験に、自分の体をゆだねてしまったくらいで
 あった。それにはヒトラー自身の性癖も関係があった。ヒトラーは占星学や夢中遊行の
 話を好んで聞くようなところがあり、魔術が好きだった。
・モーレスは、ベルリンの高等淫売たちの世界で、性病の専門医として開業した男なのだ
 が、ベルヒテスガルテンへやってきたと思うと、すぐに財産を作ってしまった。財産と
 いっても、普通の繁昌している開業医が貯める程度の財産ではない。モーレスの財政上
 の野心はそんな程度をはるかに超えていた。
・モーレスは工場を建て、特許の薬品を製造した。宮廷医である彼は、自分の製造したも
 のを一般に普及させる便宜を持っていた。彼は自分の製品に専売兼を得た。もっとも、
 それらの薬品は、広くドイツ国民のあいだに普及される前に、実感が行われた。ところ
 が、その実験台になったのが、ヒトラーだったのである。モーレスがヒトラーに用いた
 薬品のなかには、ライプチッヒ大学の薬学研究室から神経に有害であるという非難を受
 けた、彼の特許薬や種々のいかさま薬、麻酔剤、刺激剤、催淫剤などが含まれている。
・モーレルは、患者にただちに効果を感じさせるように、蒲萄糖やホルモンやビタミンな
 どを含んだ注射薬を注射した。この種の治療法はヒトラーに好印象を与えるらしかった。
 ヒトラーは、風邪をひきそうだと思うと、毎日三度から六度注射させ、こうして病気の
 実際上の進展を食い止めるようにしていた。モーレルはそのやり方を病気の予防にも用
 いだした。 
・こうして肉体の通常の抵抗力が次第に人工的な媒介物にとり代えられていった。戦争が
 始まると、ヒトラーは、戦争中を通じてほとんど連続的に注射を受けた。最後の二年間
 には、それが毎日になった。ブラント博士が、どんな薬を使っているかを尋ねても、モ
 ーレルは答えることを拒んだという。ヒトラーはますます注射に頼るようになり、最後
 の一年間は、その頼り方があまりにも目だってきた。
・ヒトラーの肉体に最初の変調の兆候が表れたのは、1943年だった。ヒトラーの手足、
 ことに左手と左足が震えだした。彼は左足を地面に引きずるように歩き、猫背になった。
・ブラント博士は、ヒトラーに、モーレルは組織的に毒をもることによってあなたの健康
 を破壊し去ろうとしている、と告げた。だが、ヒトラーが理性や議論に耳を傾ける時代
 は過ぎていた。しばらくどっちつかずな沈黙が続いたが、つぎの瞬間には雷が落ちた。
 ブラントはいっさいの政治上の地位からも、侍医の任務からも解雇され、やがては、ヒ
 トラーの直接の命令で逮捕され、死刑の宣告まで受けた。
・ヒトラーは暗殺される危険や、側近者の陰謀にとり巻かれていただけでなく、怪しげな
 医師にも付き添われていたわけである。
・だが、彼にも頼りになる友人が一人だけあった。それは、エヴァ・ブラウンという女性
 だったのである。わしは、最後の決定的な瞬間にも、わしを見捨てないでいてくれそう
 なただ一人の友人を持っている。それはエヴァ・ブラウンだ、と彼は繰り返して言った
 ものである。また、事実そのとおりになっている。ヒトラーの愛人としてのエヴァ・ブ
 ラウンの存在は、ドイツでもあまり知られていなかったようである。二人の友情は少な
 くとも12年間は続いたにもかかわらず、当事者たちが死んではじめて、彼女の存在が、
 ふたりを取り囲んでいた身近な者たちのサークルから外へ知れ渡ったほとだった。
・エヴァ・ブラウンをヒトラーに紹介したのは、モーレルの場合と同じように、写真師の
 ホフマンだった。彼女はホフマンの仕事に使われていたのである。美しいというよりは
 可憐で、新鮮な皮膚の色、多少頬骨の高すぎる顔をしていて、ひかえめで、さし出口を
 きかず、相手をよろこばせることばかり考えているような彼女は、すぐにヒトラーをと
 りこにしてしまった。やすらいに満ちた雰囲気を、彼女は持っていたからだった。彼女
 のそばにいるときは、ヒトラーはほかでは求めようともしなかったくつろぎを見いだし、
 彼女のほうでも、家庭的なくつろいだ気持ちを与えるように努力し、外部の政治上の問
 題には絶対に口ばしをいれないようにして、彼の荒々しい調子はずれな生活の日常をや
 わらげた。   
・エヴァはスキーや山登りが上手で、ダンスも好きだったし、無知な連中には学者として
 とおるほどに、熱心に書物や絵画を論じた。彼女は大部分はベルヒテスガルテンに閉じ
 こもって過ごした。最後の二年間を除けば、ヒトラーは彼女がベルリンに来ることを許
 さなかった。
・それにしても、ヒトラーは彼女に対する愛情では一度も動揺したことがなかった。ヒト
 ラーとエヴァ・ブラウンとの実際上の関係が、どうなっていたのかについては、わかっ
 ていない。「二人は寝床を別にして寝ていた」といやらしいモーレルは述べている。
・それでいて、12年間以上にもわたって、エヴァ・ブラウンにはなんらの認められた身
 分がなかった。彼女は妻でもなければ、認められた情人でもなかった。ヒトラーは疑い
 もなく彼女を愛していたのだから、なぜこんな長いあいだこういう曖昧な、明らかに迷
 惑な地位に、彼女を置いていたのであろうか。彼らの関係がプラトニックなものである
 か、プラトニックなものであるとひとに思わせる意図から出ていたものだとすると、妻
 だとか情人だとかいう名前をつけることは無意味でもあるし、妥協的な態度でもあると
 思えたに相違ない。
・それに、いっさいの人間的な制限を超越していると思われる、また国民にそう思わせね
 ばならない、ドイツの救世主ともあろう人間は、プラトニックな関係が一番ふさわしか
 ったに相違ないのだ。結局、二人の死の前夜に行われた結婚式は、純粋に象徴的な意味
 を持つものなのであろう。  
・ヒトラーは西部戦線での彼の最期の反撃、アルデンヌの攻勢を指揮して失敗し、ついで
 東部戦線に転じて、ダニューブ川沿岸のロシア軍に対して反撃を加えたが、これも失敗
 して、1945年1月からは、ベルリンの総統官邸の地下の防空壕に閉じこもった。戦
 闘がベルリンに接近してきたとき、彼はエヴァ・ブラウンをミュンヘンへ行かせた。だ
 が、彼女はそこに留まることはしなかった。4月、首都がすでに包囲戦に備える準備を
 していたときに、彼女は自分から総統官邸へ駆けつけた。ヒトラーは彼女に立ち去るよ
 うに命じたが、彼女は行こうとしなかった。彼女は自分の結婚式のために、自分の儀式
 的な死のために、やってきたのである。
 
危機と決心
・会議が終わると、来訪者たちは防空壕を去り、トラックと飛行機との長い護送隊によっ
 て、ベルリンからオーベルザルツベルクへ総退去がおこなわれた。立ち去る者たちのう
 ちには、空軍の将校たちがいた。彼れらは、ほっとした思いで立ち去っていた。彼らは
 最近ひとつひとつの失敗ごとに、ヒトラーから数かぎりない侮辱、不可能な命令、激し
 い非難を浴びせられてきたのだったが、オーベルザルツベルクへ行けば、少なくともそ
 うしたことからだけは免れるに相違なかった。
・「一人二人、空軍の将校を銃殺しろ!そうでもすれば、少しはききめがあるだろう!」
 とヒトラーは弁解する将軍にどなりつけるのだった。「空分の参謀全部を絞首刑にして
 しまえ!」と、彼は震えているコルラー将軍に電話でかなりつけ、ガッチャリとたたき
 つけるように受話器を置くのだった。
・実際、空軍は失敗した。完全に失敗していた。今となってはどうもがいても、彼らの失
 敗の結果を逆転させる方法もなかった。空軍の生みの親でもあれば、その失敗の生みの
 親でもあったヘルマン・ゲーリングも、みんなといっしょにベルリンを去った。それは
 ひややかな訣別だった。彼らはその後二度と会わなかった。  
・ゲーリングは総統司令部と接触を保つために、彼の高級将校を二人あとへ残して行った。
 彼の参謀部長のコルラー将軍と、彼の作戦部長クリスチャン将軍だった。クリスチャン
 将軍はまた若くもあり、出世の波に乗っているような男で、たちまちのうちに頭角を現
 してきた。彼はヒトラーの秘書のフロイライン・ゲルダ・ダラノウスキイを二度目の妻
 にした。
・ヒトラーの誕生日会議のあった日の夜、防空壕を立ち去ったもう一人の人間は、アルベ
 ルト・シュペールであった。彼は、戦争が明らかに終局に近づいているいま、党がその
 没落を飾るために計画的な大破壊大虐殺をやりはしないかということを、恐れていた。
 彼は、戦争が敗北に帰したことを声明し、ドイツ国民に、いっさいの産業設備や工場、
 いっさいの強制収容所や囚人キャンプとそのなかの人たちを、そのままの状態で連合軍
 に手渡すよう主張する演説を放送するつもりだった。シュペールはいまでは自分の公的
 な義務はドイツ国民に対するものだけであり、ヒトラーが早く死んでくれればそれだけ
 有利だと、信じていたからである。
・シュペールは、放送局の地価のスタジオで、見知らぬ二人の局員を前にして、不安な気
 持ちでこの反逆演説を録音させた。シュペールはそのレコードを持って帰り、カウフマ
 ンにあずけた。そして、もし自分になにごとかが起きたら、彼の恐れている人狼隊が彼
 を暗殺するか、ヒトラーが彼の死刑命令を発するかした場合は、これを放送してくれ、
 と言っておいた。 
・シュペールの演説はヒトラーその人を対象にしたものではなく、まだだれともわからな
 いが、ヒトラーがベルリンで倒れた後も、彼の破壊政策を実行しとうと企てるかもしれ
 ないナチ党の人間を対象としたものだった。
・4月に、ヒトラーはベルリン地区の軍隊による、全戦闘力を投入しての、最後の攻撃命
 令をくだした。シュタイナー攻撃と呼ばれるものだった。この攻撃は市の南側の郊外で
 おこなわれるはずになっていた。そしてあらゆる兵員、あらゆる戦車、あらゆる飛行機
 は、あげてこの攻撃に参加せよ、という命令が出ていた。「部下の兵隊をひっこめて出
 さないような司令官があれば、5時間以内に死刑に処せられるものと思え」とヒトラー
 は絶叫した。  
・だが、彼の命令はいまでは現実となんの関係も持っていなかった。彼は空想上の軍隊を
 動かし、机上のプランをたて、ありもしない戦闘隊形をつくっているだけだった。シュ
 タイナー攻撃は、ヒトラーのみずからおこなった作戦の、最後の、もっとも象徴的なも
 のだった。それはついに実行されなかったのだから。
・南方のシュタイナー軍に応援するために軍隊がしりぞいたすきに、ロシア軍が北方から
 郊外に突入し、いまでは彼らの先鋒の装甲隊がベルリン市内に入りこんできた。
・ついで、ヒトラーの最後近くの歴史のうちでも有名なものにし、決定的なものにしてい
 る、あの嵐が起きた。ヒトラーは激怒したのだった。彼はかなきり声をあげて、裏切ら
 れたと絶叫した。陸軍を罵倒した。だれもかれも裏切り者だと叫んだ。すべてが反逆と
 失敗と腐敗と虚偽に満ちていると言った。つで、声にも力がなくなった彼は、最後が来
 た、と宣言した。  
・将軍たちも政治家たちもすべてが口々に翻意を求めた。彼らはシェルナーとケッセルリ
 ングの軍団がまだ無傷のまま残っていることを指摘した。彼らは絶望する理由はないと
 保証した。そしてふたたび、時機を失わないうちに、いまただちにオーベルザルツベル
 クへ撤退するようにすすめた。
・ヒトラーは、ベルリンに踏みとどまる、とくり返した。彼はみずからベルリン市の防御
 にあたるつもりだと言った。そして、総統はベルリンにいる、総統は絶対にベルリンを
 去らない、総統は最後までベルリンを守り抜く、ということをベルリン市民に声明せよ、
 と命じた。翌朝その報道は世界に中継放送された。
・ヒトラーはゲッベルスを呼びにやり、つづいてゲッベルス夫人と子供たちを呼びにやっ
 た。いままでゲッベルスとその一家は自宅か宣伝省内に住んでいた。だが、今後は彼ら
 の家庭を総統防空壕内に移すことになった。ゲッベルス夫人と六人の子供は外側の防空
 壕に住み、ゲッベルス自身は総統防空壕の奥まったところへ、一室を与えられることに
 なった。ゲッベルスは、自分もベルリンにとどまり、そこで自殺する覚悟だと言った。
 ゲッベルス夫人も、ヒトラーの勧告を聞き入れず、運命をともにすると声明し、子供た
 ちには毒を与えるようにと言った。  
・ヒトラーは、他のものがなしえなかったベルリンの防衛に、自分みずから当たるという
 決意をくり返し述べた。ベルリンが崩落するような事態になった場合には、自分は自殺
 してはてるつもりだと言った。自分は肉体的には廃人に近い体だから、戦闘に加わるこ
 とはできない。だが、生きたままではもちろん、死体となっても、敵の手中におちいる
 ようなことはしないつもりである。ヨードルとカイテルは決心をひるがえさせようと努
 めてみたが、むだだった。
・ゲープハルトは、ベルリンを訪れる自分だけの目的を持っていたのだった。赤十字の総
 裁としての自分の地位をヒトラーに確認してもらいたかったのである。ゲープハルトが
 防空壕に着いたのは夜の11時近くだった。やがてヒトラーに面接を許され、要件を述
 べた。まず最初に、官邸から夫人子供たち、エヴァ・ブラウン、秘書たち、ゲッベルス
 夫人とその子供たちを撤退させる役目を引き受けようと申し出た。ヒトラーは、婦人た
 ちもそれぞれ自由意思で、彼とともに踏みとどまる決心をしている、と答えた。最後に
 ヒトラーは、ゲープハルトのドイツ赤十字総裁への任命を確認した。
・ヒムラーにとっては、ヒトラーを排除するなどということは、ヒトラーを無視すること
 でさえも、心理的に不可能なことだった。仮にそれができたとしても、さらにそれ以上
 の困難が横たわっていた。仮にヒムラーがヒトラーを廃するなり、無視するなりしても、
 国民にしたがってもらえるだろうか?シュペールも悟らされたように、ドイツ国民から
 無条件の服従を受けることができるのは、ヒトラーが生きているかぎりは、ヒトラーた
 だ一人だった。それはドイツ国民全体にかけられていた魔法のようなものであり、ヒム
 ラーにしてもシュペールにしても、同じ魔法にかかっている仲間であった。
・そのときにはもう陸路ベルリンへ行くことは不可能になっていた。シュペールはレヒリ
 ンまで自動車で行き、そこからベルリンの西飛行場ガートウへ練習機で飛んだ。シュペ
 ールは自分の最近の活動のいっさいをヒトラーに告白した。ヒトラーは耳を傾けて聞き、
 シュペールの淡泊さに「深い感動を受けた」ように見えた。話が終わっても、ヒトラー
 はなにもしなかった。シュペールは逮捕されもせず、銃殺もされなかった。
・すべての人間に疑いをかけ、血を、人質や捕虜だけでなく、ドイツ人の将校や自分の使
 っている者たちの血までも、さけび求めていたその当時のヒトラーが、なぜ、彼にそむ
 いた行動をとっているシュペールに、こんなに思いがけなく寛大だったのかということ
 は、いろいろな解釈の生じる問題である。
・ヒトラーは、ある面では猛烈に憎むと同時に、自分の愛するものたちには、ほとんどす
 べてのことを許るせる人でもある。たぶんシュペールの場合は、この一般的な特質を示
 すひとつの例証に当たるであろう。確かにヒトラーは、自分が行為をよせていた「芸術
 的な」世界の出身であり、自分で選び出して、ドイツのもっとも困難な、試験的に任務
 の一つを担当させたシュペールに、深い愛情をいだいていた。
・四年間、ボルマンはゲーリングを破滅させる機会をねらってきた。ボルマンはまたヒト
 ラーに六か月前にもゲーリングは連合軍と折衝を開始しようとした疑いを受けたことを
 思い出させた。ヒトラーは激怒しており、激しい言葉でゲーリングを非難した。ヒトラ
 ーはこんなふうに言った。「しばらく前から自分はゲーリングが職務をなまけ、堕落し、
 麻薬患者になりさがっていることを知っていた。だがまあ、あの男にだって幸福の折衝
 をするくらなことはできるだろう」。
・結局、ヒトラーはゲーリングを銃殺にすることは賛成しようとはしなかったが、彼から
 いっさいの官職と総統位継承権を剥奪することには同意した。それはゲーリングに、彼
 の行動は国家社会主義と総統に対する反逆を意味すること、その罪に対する刑罰は死刑
 であること、しかし党に対する彼の過去の奉仕を考慮し、もし彼がいっさいの官職を辞
 するなら、その極刑を免じるであろう、ということを告げるものであった。命令は実行
 された。真夜中少しすぎに、オーベルザルツベルクの一派全部が逮捕された。翌日ベル
 リンから、ゲーリングは健康上の理由でいっさいの官職を辞した、という発表があった。
 ボルマンは勝利をおさめたわけだった。
・ニュールンベルク裁判の際、ゲーリングがナチ運動選り抜きの闘士としての自分の姿を、
 党員たちの目に復活させようと努めていたとき、自分の解職は技術上のまちがいから生
 じた不幸な結果だったと言っているが、明らかに彼の言うことに多少の正しさがないわ
 けではない。だが彼は、なぜその技術上のまちがいが、故意に利用され、一般に歓迎さ
 れ、ついに訂正されずじまいになったかという理由を説明しなかった。ゲーリング没落
 の機会は彼の軽率な電報によってもたらされたには相違ないが、彼の没落の根本の理由
 はもっと深いところにあった。それは空軍の壊滅であった。
  
包囲下の防空壕
・総統防空壕からの電報がミュンヘンに着いた。内容は、リッター・フォン・グライム大
 将に総統官邸へ出頭を命じたものだった。グライムは抜群の功績を残している空軍将校
 だった。その夜、彼はただちにレヒリンへ飛行機を飛ばす計画だったが、彼の飛行機が
 空襲にあって地上で破損してしまった。翌朝、彼はオーベルザルツベルクに姿を現し、
 コルラー将軍を訪ねた。ちょうどそれは連合軍がオーベルザルツベルクを空襲した直後
 であり、その朝見た者の話によると、月世界の風景そのままだったそうである。ヒトラ
 ーの山荘は半ばつぶれ、ボルマンの家は全壊しており、ゲーリングの家にいたっては、
 ほとんど完全に吹き飛ばされていた。
・コルラー将軍のとろにも出頭を求める電報が届いていた。しかしコルラーは行くことを
 断った。そんなことは無意味で、自殺的行為だと彼は言った。彼にはある任務を翌日に
 控えていたので、いい口実があった。健康も衰えていたし、元気もなかった。総統防空
 壕について伝えられる噂のすべては、そこの連中が全部気が狂っていると思わせられる
 ようなことばかりだった。そこで、彼は健康上の理由で出頭できないと答えた。  
・グライムはレヒリンへ飛んだ。彼の飛行機を操縦してくれたのは、彼のこの最後の冒険
 に終いまで同行したエキゾチックな人物、有名なテストパイロットのハンナ・ライチュ
 であった。ハンナ・ライチュにこの最後の訪問を決行させた動機が何であったかは、は
 っきりしないにしても、彼女の個性の一つの要素、その勇気だけは、明瞭に浮かび上が
 っている。彼女がグライムと一緒にベルリンへ行き帰りしたこの旅行は、テストパイロ
 ットとしての彼女のどの経験にも劣らない、冒険と刺激に満ちたものであった。
・早朝レヒリンについてグライムとライチュは、官邸の庭にでも街路上にでも着陸できる
 ヘリコプターを利用して、さらにベルリンまで飛ぶつもりだった。ところが彼らは、役
 に立つヘリコプターが1機しかなく、しかもそれがその日に損傷を受けたばかりだと聞
 かされた。ただ、シュペールが最後に防空壕を訪れたとき乗せて行った航空軍曹がおり、
 すでに一度経験ずみなのだから、もう一度それをくり返し、同じルートを通ってグライ
 ムをベルリンへ運べという命令を受けた。使用機はフォッケウルフ190であった。こ
 の飛行機は操縦者隻の背後に同乗者一人を乗せる余地があるだけだった。だが、ライチ
 ュは、どうあっても、今度の旅のこの最後の段階を逃したくないと思った。そこで、グ
 ライムも彼女を連れて行くことに同意してくれたし、彼女は小柄でもあったので、小さ
 な非常口をくぐって気の後尾にもぐりこんだ。40機の戦闘機が護衛につき、彼らは絶
 え間ないロシア空軍の襲撃をくぐって低空飛行を続け、まだロシア軍の手中に落ちてい
 ないただ一つのベルリン飛行場であるガートウへ向かった。彼らは機翼に数発の弾痕を
 残しただけで、ガートウに着くことができた。だが、護衛戦闘機の多くは撃墜された。
・グライムはガートウから総統官邸へ電話をかけようとし試したが、通じなかった。飛行
 場に練習機が1機あるのを見つけたので、彼はそれに乗って市内へ飛び、官邸へ歩いて
 ゆける範囲内の街路上に着陸しようと決心した。残りのドイツ軍戦闘機がロシアの空軍
 と戦っているあいだに、グライムは飛行場から飛びたった。今度は彼自身が操縦に当た
 り、ライチュは同乗者席に乗った。彼らは木の梢すれすれの高さを飛んでブランデンブ
 ルク門へ向かった。
・眼下のグルーネヴァルトでは市街戦がたけなわだった。数分もたたない内にロシア軍の
 激しい銃砲火が機の底部を射ち抜き、グライムの右足を砕いた。ライチュは彼の肩越し
 に操縦桿を握り、銃火を避けてのたくるように地上に近づき、東西幹線道路上に着陸さ
 せた。    
・ヒトラーは外科室にやってきて、グライムを歓迎した。たとい軍人であろうと、無駄で
 もあれば望みを持てないような命令には、従わなくてもいい権利があるのだ、とヒトラ
 ーは言った。ヒトラーは、なぜ召喚されたのか知っているか、とグライムに尋ねた。グ
 ライムは、知らないと答えた。
・「ゲーリングがわしと祖国を裏切ったからなのだ」とヒトラーは説明した。ヒトラーの
 目には涙が浮かんだ。頭はがくりと落ち、顔は蒼白だった。グライムに読ませようとし
 てゲーリングの致命的な電報を渡したとき、彼の手の震えを伝えて、頼信紙がヒラヒラ
 と動いた。グライムが読んでいるあいだ、ヒトラーは、苦しげに、ハッハッとせわしな
 い、痙攣的な息づかいをしながら、ながめていた。
・しばらくして、ヒトラーは落ち着きを取り戻し、グライムを呼んだのは、かれをゲーリ
 ングの後継者として、元帥の位につけ、空軍総司令官に任命するためであったと語った。
 ドイツの航空隊員の生命と猛烈な不足を続けている飛行機を犠牲にしてしてまでも、グ
 ライムを防空壕へ呼び寄せたのは、ただこの任官式のためだけだったのである。電報一
 通でもことたりたはずのことだった。だがヒトラーは、たとい高価な犠牲を払おうとも、
 こういう劇的な手段を好んだのであった。
・その夜、ヒトラーはライチュを自分の部屋に呼んだ。彼はいまもう望みがないように思
 われると語り、ただ一つの希望があるとすれば、それは、ヴェンクの軍隊がベルリンを
 救援するために、南西部から進軍してきれくれることだけだと言った。もしロシア軍が
 ベルリンを占領するようなことになれば、そのときには、自分とエヴァ・ブラウンとは
 自殺をし、死体は火葬にしてもらうように、いっさいの計画が立ててある、と彼は語っ
 た。そして、危急の場合に用いるようにといって、彼女の分とグライムの分の毒薬入り
 の小瓶を与えた。    
・その夜、ロシア軍の砲弾は官邸そのものの上に落下しはじめ、防空壕の住民たちは、広
 大な、びくともしなさそうに見えた上部建築が、ひび割れ、彼らの頭上にくずれ落ちて
 くる音を聞きながら、恐怖と空威張りのさまざまなポーズをとって、眠れない夜を過ご
 した。ライチュは、その夜の大部分をグライムのベッドのそばで、看病しながら過ごし、
 翌朝ロシア軍が侵入してきた場合に一緒に自殺するための準備をした。彼らはヒトラー
 のくれた毒薬を飲み、ついで、まだその毒が体にまわらないうちに、近くに寄せておい
 た重手榴弾のピンを手早くぬこう、ということに相談を決めた。こうして、毒薬で死ぬ
 のと、死体をみじんに吹き飛ばすのとを、一度にやってのけようというわけだった。ひ
 と思いにこの世をおさらばしたがっていたのは、ヒトラーとエヴァ・ブラウンだけでは
 なかったのだ。
・防空壕の住民のすべてが同じように気が狂っており、青春の泉に酔わされていたわけで
 はなかった。少なくとも一人の人間は健全さを示した。彼にとって不幸なことには、気
 狂い病院にいて頭が健全なのは、健全人の世界で気が狂っているのと同じくらい始末の
 悪いことなのである。フェーゲラインの経験がそうだった。   
・フェーゲラインは、ヒムラーの連絡将校としてヒトラーのもとへ来た。ナチの宗門政治
 での権力の中心は、内閣や各省を離れて、宮廷謁見に移っていることを見抜いた彼は、
 エヴァ・ブラウンの妹のグレートルと結婚したのである。
・フェーゲラインは卑劣漢だったとしても、ばか者ではなかった。少なくともグライムの
 ようなばか者ではなかった。防空壕のほかの住民たちが、狂気のようにヒトラーのまわ
 りにはせ集まり、彼の死の聖式に参加させてもらえるように嘆願しているのを尻目にか
 け、フェーゲラインは、うまい機会をつかんで、人目につかないようにこっそり防空壕
 をぬけだし、姿を消した。
・官邸で彼が通常住んでいたところは、総統防空壕のなかではなく、ほかの二つの防空壕
 のうちの一つだったために、彼のいなくなったことが、しばらくのあいだヒトラーの身
 近な側近者たちには気づかれなかった。ヒトラーがフェーゲラインの出席を求め、彼が
 もはや邸内にいないと知ったのは、4月17日の午後おそくであった。調査がなされた。
 だれも彼がどこへ行ったか知っているものはなかった。
・ただちにヒトラーは自分の護衛警察隊の隊長を呼んだ。隊長ヘーゲルは、自分の家のベ
 ッドにしずかに体を休めているフェーゲラインを見つけた。フェーゲラインはただちに
 受話器をとりあげて、防空壕呼び出し、妻の姉にあたるエヴァ・ブラウンに話しかけた。
 エヴァ・ブラウンはそっけなく答えた。そんな提案は考慮の余地がない、あなたは防空
 壕へ帰らなきゃいけない、と。
    
ブルータス、汝もか
・ヒトラーはフェーゲラインを連れてこさせた。いまになってみると、彼はなぜフェーゲ
 ラインが防空壕を逃げ出したのかという理由がわかったような気がした。しかし、フェ
 ーゲラインの脱出の企ては、それだけでも十分に犯罪的である、と彼は声明した。彼は
 血を望んだ。簡単な裁判ののち、フェーゲラインは警備兵によって防空壕から官邸の庭
 に連れ出され、銃殺された。
・ヒトラーはエヴァ・ブラウンとの結婚式をあげた。この象徴的な儀式のためにゲッベル
 スはワルター。ワグナーという男を防空壕内に連れてきた。この男は、地方監督官だっ
 た。おそらく死の行政官の一人として名誉ある地位にいたので、こういう民事上の儀式
 を司らせるには適当な人間と見なされたのであろう。儀式は防空壕の奥まったところに
 ある小会議室、すなわち「地図室」で行われた。ヒトラーと、エヴァ・ブラウンと、ワ
 ルター・ワグナーのほかには、ゲッベルスとボルマンが立会人として列席した。
・式は簡単なものだった。両者から、純粋なアリアン人種の血統をひくものであり、遺伝
 の病気はないという宣言があった。両者から結婚承諾の言葉があり、登記簿に署名され、
 式は終わった。花嫁が署名するだんになったとき、彼女は「エヴァ・ブラウン」と書き
 はじめたが書き終わらないうちに気がついた。彼女は大文字のBを消して、「エヴァ・
 ヒトラー」と訂正した。   
・彼らは、やがて結婚披露の宴につくために私室へしりぞいた。それからまもなく、ボル
 マン、ゲッベルス、ゲッベルス夫人、ユンゲ夫人が私室に招待された。彼らは数時間シ
 ャンパンを飲み、語り合った。
・こうして、長い年月を経て、ここにはじめて、エヴァ・ブラウンの地位が明白にされた。
 彼女の身分のあいまいさもついに終わるときがきた。召使いが、次の日の危機の瞬間に、
 「E・B]に話しかけることを禁じられている命令を破って、彼女に、「慈愛深いお嬢
 さま」と呼びかけたとき、彼女はついに「ヒトラー夫人と呼んでくれても、もう大丈夫
 なのよ」と答えることができた。
・ヒトラーがどういう動機からこのおそまきな結婚式をあげることになったのかは、知ら
 れていない。だが、あまり大きな見当はずれをおかすことなく、推測がつくように思わ
 れる。結婚式をあげることは明らかにエヴァ・ブラウンの希望だった。長いあいだ彼女
 は宮廷での自分のあいまいな地位に悩んでいたのであり、ヒトラーさえその気になって
 きれれば、もっと早くこういう解決法を喜んで受け入れていたに相違なかった。だが、
 ヒトラーは気が進まなかった。おそらく彼は、妻なり情婦なりを認めることによって、
 ヒトラーもまた人間にすぎないと見られることを、避けたかったのではないかと思われ
 る。最後のころには、彼は彼女をそばにおくことを望んでいなかった。彼女が4月に最
 後にベルリンへ着いたときには、無駄には終わったが、彼女を送り返そうとしたくらい
 であった。だが、それでもなお踏みとどまったのだから、彼女にはそれだけの報いを得
 る資格があった。すべての者が離れ去っていくにつれて、彼女の献身はいっそう目立っ
 てゆき、いっそうありがたいものになっていった。
・ヒトラーは秘書のユンゲ夫人を呼んで、二通の遺書の口述をはじめていた。彼の私事に
 ついての遺書と政治問題についての遺書。それは子孫への彼の最後の訴えとなり、ナチ
 神話の文献上の基礎となるはずのものだった。目的がそこにある以上、これらの文書は
 異常に興味のあるものとなってくる。なぜなら、世界に対する威厳に満ちた告別の辞と
 して、後世へのメッセージとして書かれた。この最後のナチ運動の宣伝文書には、破壊
 哲学の、昔のままの空疎な人気とりと、否定への訴え、無目的な軍国主義以外には、何
 もなかったのだから、それからの無実の罪への抗議と、失敗の責任のなすり合い以外に
 は。 
・「戦争を求め、挑発したのは、ユダヤ民族の流れをくむか、ユダヤ民族の利益のために
 工作している、国際政治家どものみであった。後世の人たちは、いくたびも和足の軍備
 撤廃の提案を思えば、この戦争の責任はわたしの上にかぶせることはできないはずであ
 る!」「なお私は、敵軍の手中に落ち、ユダヤ人の手で、ヒステリカルな大衆に気晴ら
 しをさせるための、新たな見せ物にされるようなことにはならない覚悟である。したが
 って、私はベルリンにとどまり、総統の居所および官邸がもはや支えきれないと信じら
 れた瞬間に、自発的に死を選ぶ決心をした」「将来においては、わが国の海軍がすでに
 実例を示しているがごとく、ドイツ陸軍の将校にあっても、彼らの名誉にかけて、領土
 や都市には絶対に敵の手に渡さない覚悟を持つべきであり、ことに司令官にいたっては、
 死を賭して義務に献身する輝かしい模範を示すべきであろう」「他のすべてにもまして、
 種族法を厳重に維持し、いっさいの民族の、国際ユダヤ民族の、世界的な毒素に対して、
 無慈悲に抵抗しなければならない」「遺言執行人として、私は私のもっとも忠実なる党
 友マルチン・ボルマンを任命する」
・マリチン・ボルマンは非ロマンティックな人間だった。政治家でもなければ、軍人でも
 なく、予言者でもなければ、司祭でもなく、戦士でもなければ、帰依者でもない彼は、
 ただ一つのものを、権力を愛していた。彼の愛した権力は、その外観上の見せかけや、
 その飾りや敬意、その物質上の報酬などからなるものではなくて、その実体、安心して
 それを行使できる保証からなるものだった。ヒトラーのもとでは、彼はその保証を享受
 してきたが、ヒトラーが死を決心したいま、彼はその継続へのどのような希望が持てる
 だろうか?彼は実際死にたいと思わなかったし、常に生き残りと脱出を主張してきた。
 だが、仮に生き残るとして、彼はどのようにして自分の愛する権力を保持することがで
 きるだろうか? 彼は主人あってはじめて存在するような、自分自身は零に等しい人間
 だった。
・選ばれた後継者は、いまはデーニツだった。デーニツは政治家ではなく、海軍軍人だっ
 た。彼はまたナチ党員でもあった。彼は政治上の経験は皆無だったが、ヒムラーとヒト
 ラーの理想に身を捧げていた。 
・ゲッベルスは全然違った性格の持ち主だった。党の知識人としての彼が、自分の生活の
 よりどころとし、それを正当化する根拠としていたものは、権力でもなければ、その権
 力から得る報酬でもなかった。それは神話であった。彼がその予言者であり、彼のみが
 明晰に力づよく表現できる神話だけが、彼の生きがいであった。彼にとっては、生きる
 ということは、自分の肉体の生きのこりを意味せず、神話が生きのこることであった。
・ヒトラーの遺書は、ローレンツ、ツァンディル、ヨハンマイエルの三人に託された。使
 者三人が防空壕を出発した4月29日の朝のうちに、ベルリンと外界とを結ぶいっさ
 いの電話連絡が途絶した。総合参謀本部への無線電信の唯一の頼りの綱であった軽気球
 が射ち落とされてしまった。官邸の将軍たちの副官や将官付き武官は何もすることがな
 くなってしまった。 
・ヒトラーの空軍副官ニコラウス・フォン・ベロウ大佐は、ヒトラーの死の前に総合防空
 壕を出た最後の人間だった。フォン・ベロウ大佐は8年間総統の側近に仕えてきて、い
 までは、下位の人間ではあるが、宮廷にはなじみが深い存在になっていた。この個人的
 なつながりのおかげで、彼は4月29日の結婚披露宴にも招待され、ヒトラーの私事に
 関する遺言にも副署を求められた。だが、彼は自分から求めてヒトラーに毒薬をもらっ
 てはいたけれども、その最後の行動に参加するほどの野心はぜんぜん持っていなかった。
 
ヒトラーの死
・フォン・ベロウが防空壕を出発したときには、ひとらーはすでに死の準備をしていた。
 昼のあいだに、外界からの最後のニュースがもたらされていた。ムッソリーニの死のニ
 ュースであった。
・ムッソリーニと彼の情婦のクララ・ぺタッチとはパルチザンに捕らえられて、死刑にさ
 れ、その死体はミラノの市場に逆さに釣り下げられて、復讐心にかられた群衆の打ちな
 ぐるままにまかせられた。
・その日の午後には、ヒトラーは、かわいがっていたアルサス犬のブロンディを殺させた。
 彼の以前の外科医で、いまはベルリンの自分の病院で負傷者の手当てをしていたハーゼ
 医師が防空壕にやってきて、毒薬で殺したのであった。総統の家で飼われていたもう二
 匹の犬は、彼らの世話をしていた軍曹が鉄砲で射ち殺した。その後で、ヒトラーは彼の
 二人の女性秘書に、いざというときのためにといって、毒薬入りのカプセルを与えた。
・午後2時ごろには、ヒトラーは昼食をとった。エヴァ・ブラウンはその席にはいなかっ
 た。明らかに彼女は空腹を感じていなかったか、それとも、自分の部屋で一人ですまし
 たのであろう。ヒトラーは彼女のいないときのいつものように、二人の女秘書や料理人
 と食事をともにした。 
・ヒトラーの親衛隊の副官が、ガソリン200リットルを官邸の庭へ届けておくようにと
 命じた。
・ヒトラーとエヴァ・ブラウンは全部のものたちと握手し、自分たちの私室に引き返した。
 ほかのものも、高僧たちと手伝いに必要な少数のものだけを残して、それぞれ引き下が
 った。残ったものたちは廊下で待っていた。一発の銃声が聞こえた。そばらくあいだを
 おいて、彼らは室内に入った。ヒトラーは血まみれたソファの上に横たわっていた。彼
 は自分で口から射ぬいたのであった。エヴァ・ブラウンも、やはり死体になって、ソフ
 ァに横たわっていた。拳銃が彼女のそばに転がっていたが、彼女はそれを使っていなか
 った。彼女は毒薬を飲んだのだった。
・彼らはヒトラーの死体を毛布に包んで、血まみれ、うち砕かれた頭部を隠し、廊下へ運
 び出した。廊下で見ているものたちには、死体の見馴れた黒のズボンで、すぐにそれと
 わかった。 
・二人の死体は入り口から数メートル離れたところにならべて置かれ、ガソリンがそそが
 れた。
・ヒトラーとエヴァ・ブラウンの死体の残骸の処置については、詳しくは知られていない。
 何一つ残らないように焼かれたと言われたが、そういう完全燃焼が起こりえるかどうか
 は疑わしい。180リットルのガソリンが砂地の上で徐々に燃やされたとすれば、肉を
 焦がした屍体の湿気を発散させ、見分けのつかない、くずれやすい残骸だけを残す程度
 だったろうと思われる。骨は熱に耐えたに相違ない。だが、それらの骨については見つ
 からなかった。多分バラバラにして、ほかの死体と一緒に、官邸の防衛に当たっていて
 戦死した兵士たちの死体や、やはり庭に埋られたフェーゲラインの死体と一緒に、埋め
 られたのであろう。
・防空壕内の雰囲気が変わったことに最初に気がついたのは、儀式のあいだ追い出されて
 いて、いま彼女たちの持ち場に帰ってきた秘書たちだった。ヒトラーに死を悟らせるも
 のがそこにあった。だれもがみな防空壕内で煙草を吸っているのを、彼女たちは見た。
 ヒトラーの生きているあいだには、煙草は絶対に禁止されていたのだった。
・引継ぎの問題があった。ヒトラーの死とともに、権力の中心は、防空壕から遠く離れた
 シュレスヴィッヒホルシュタインにある新総統の司令部に、自動的に移った。あれほど
 長らくヒトラーの名前で命令を発し、権力を行使してきたボルマンにとっては、デーニ
 ツが新政府の党務大臣としての自分の任命を確認してくれないかぎりは、もはや自分が
 ぜんぜん地位のない身分だということを認めるのは、いかにもくやしいことだった。
・いっぽう、ヒトラーの遺言がまだデーニツの手もとに届いていず、したがってデーニツ
 はヒトラーの死の覚悟のことだけでなく、自分の継承権についても知らずにいるという
 こともありうるわけだった。  
・防空壕では、ボルマンとその仲間が、みんなの生命を救い、彼を権力に到達させるはず
 の、集団脱出計画を詳細に検討していた。もっとも、全部が救われようと望んでいるわ
 けではなかった。なかには、もはや生きることへのいっさいの望みもいっさいの興味も
 捨て去り、むしろ、ツァンディルが選んだだろうように廃墟になった官邸に踏みとどま
 って、最後を迎えることのほうを選んだ者たちもあった。そういう者たちのなかには、
 ゲッペルスがいた。
・ゲッベルスは主人とはり合おうなどとは企てなかった。ヒトラーは、種族に族長らしく、
 人目を驚かすような、象徴的な葬式を行うのもいいだろう。だが、ゲッベルスは、補助
 的な人物らしく、うやうやしく間をおいて、邪魔にならないように、冥土にお供するつ
 もりだった。自己絶滅は彼の虚無思想の論理的な帰結だった。最初に六人の子供に、そ
 の目的の前から用意していたカプセルで、毒薬を飲ませた。
・ゲッベルス夫婦は防空壕のなかを歩いていった。彼らは階段の下で、シュヴェーゲルマ
 ンとガソリンをもってそこに立っていた運転手のラッハの横を通った。彼らは一言も言
 葉をかけずに通り過ぎ、階段を上がって、庭へ出た。ほとんど同時に、二発の銃声が聞
 こえた。ラッハとシュヴェーゲルマンが庭へ着いたときには、二人は死体になって地上
 に横たわっていた。彼らを射った親衛隊の伝令兵がそばに立っていた。彼らは命じられ
 たとおりに死体にガソリンをかけて、火を放ち、帰っていった。
 
エピローグ
・ヒトラーの死または逃亡については、種々の説が流布されていた。ロシア軍は、ヒトラ
 ーは死亡したと声明したかと思うと、次には、その声明には疑問があると述べた。のち
 には、ヒトラーとエヴァ・ブラウンの死体を発見し、歯によって確認したと述べた。さ
 らにその後には、イギリス側がイギリスの占領地帯内にエヴァ・ブラウンを、そしてお
 そらくはヒトラーを、かくまっていると非難した。
・その当時は、ヒトラーの死亡説の根拠となっていたように思われる究極のよりどころは、
 1945年5月1日の晩、デーニツ提督がドイツ国民にむかってした放送声明であった。
 この声明のなかで、デーニツは、ヒトラーがその午後ベルリンで軍の先頭に立って戦い、
 戦死したと発表した。この声明は、少なくともある種の事実上の目的から、事実と認め
 られた。
・スイスの婦人新聞記者は、ヒトラーは、エヴァ・ブラウンやその妹のグレートルやグレ
 ートルの夫のフェーゲラインなどとともに、バヴェリアにある屋敷内に暮らしている、
 と証言した。  
・デーニツは電報以外には何の根拠も持っていなかった。なぜなら、最後までヒトラーと
 ともにいた者たちは、一人としてデーニツのもとまで辿り着けなかったのだから。ヒト
 ラーの死の唯一の証拠は、ゲッベルスの署名した電報一通だった。ところが、そのゲッ
 ベルスは死んでおり、彼の死体は、ヒトラーの場合と違って、げんにロシア軍に発見さ
 れているのだから、彼を尋問してみることもできなかった。
・1946年の春と夏には、ヒトラーの二人の秘書、クリスチャン夫人とユンゲ夫人とが
 ついに発見されて、尋問を受けた。尋問の結果、わずかな疑問は解消したが、重要な点
 についてはなんら変化がなかった。