独ソ戦 絶滅戦争の惨禍 :大木毅

独ソ戦 絶滅戦争の惨禍 (岩波新書) [ 大木 毅 ]
価格:946円(税込、送料無料) (2022/5/16時点)

ドイツ軍攻防史 マルヌ会戦から第三帝国の崩壊まで [ 大木毅 ]
価格:2970円(税込、送料無料) (2022/5/16時点)

ドイツ軍事史 その虚像と実像 [ 大木毅 ]
価格:3080円(税込、送料無料) (2022/5/16時点)

灰緑色の戦史 ドイツ国防軍の興亡 [ 大木毅 ]
価格:3080円(税込、送料無料) (2022/5/16時点)

第二次大戦の〈分岐点〉 [ 大木毅 ]
価格:3080円(税込、送料無料) (2022/5/16時点)

新版 独ソ戦史 ヒトラーvs.スターリン (文庫) [ 山崎雅弘 ]
価格:946円(税込、送料無料) (2022/5/17時点)

同志少女よ、敵を撃て [ 逢坂 冬馬 ]
価格:2090円(税込、送料無料) (2022/5/17時点)

ソ連史 (ちくま新書) [ 松戸清裕 ]
価格:924円(税込、送料無料) (2022/5/17時点)

ソ連兵へ差し出された娘たち [ 平井 美帆 ]
価格:1980円(税込、送料無料) (2022/5/17時点)

日中戦争の正体 中共・ソ連・ドイツにだまされた [ 鈴木荘一 ]
価格:990円(税込、送料無料) (2022/5/17時点)

ロシア現代史再考 ソ連崩壊から読み解く大国の真相 [ 山内聡彦 ]
価格:2200円(税込、送料無料) (2022/5/17時点)

最後の転落 ソ連崩壊のシナリオ [ エマニュエル・トッド ]
価格:3520円(税込、送料無料) (2022/5/17時点)

北朝鮮現代史 (岩波新書) [ 和田 春樹 ]
価格:990円(税込、送料無料) (2022/5/17時点)

蠅の帝国 軍医たちの黙示録 (新潮文庫) [ 帚木 蓬生 ]
価格:869円(税込、送料無料) (2022/5/17時点)

危機と人類(上) [ ジャレド・ダイアモンド ]
価格:1980円(税込、送料無料) (2022/5/17時点)

日本人が知らない近現代史の虚妄 (SB新書) [ 江崎道朗 ]
価格:990円(税込、送料無料) (2022/5/17時点)

日米開戦へのスパイ 東條英機とゾルゲ事件 [ 孫崎享 ]
価格:1870円(税込、送料無料) (2022/5/17時点)

新版 独ソ戦史 ヒトラーvs.スターリン (文庫) [ 山崎雅弘 ]
価格:946円(税込、送料無料) (2022/5/17時点)

南京事件増補版 「虐殺」の構造 (中公新書) [ 秦郁彦 ]
価格:1034円(税込、送料無料) (2022/5/17時点)

シベリア出兵 「住民虐殺戦争」の真相 [ 広岩 近広 ]
価格:1650円(税込、送料無料) (2022/5/17時点)

アウシュヴィッツ収容所 (講談社学術文庫) [ ルドルフ・ヘス ]
価格:1595円(税込、送料無料) (2022/5/17時点)

小さな抵抗 殺戮を拒んだ日本兵 (岩波現代文庫) [ 渡部良三 ]
価格:1078円(税込、送料無料) (2022/5/17時点)

プーチンの戦争 [ ナザレンコ・アンドリー ]
価格:1650円(税込、送料無料) (2022/5/17時点)

国の死に方 (新潮新書) [ 片山杜秀 ]
価格:792円(税込、送料無料) (2022/5/17時点)

スターリン 「非道の独裁者」の実像 (中公新書) [ 横手慎二 ]
価格:990円(税込、送料無料) (2022/5/17時点)

嫉妬の世界史 (新潮新書) [ 山内 昌之 ]
価格:814円(税込、送料無料) (2022/5/17時点)

この独ソ戦というのは、第二次世界大戦中におけるナチス・ドイツ及びその同盟国とソビ
エト連邦との間で約4年間にわたっておこなわれた戦争のことだ。
当初、ドイツとソ連との間では独ソ不可侵条約が結ばれていたのだが、その条約を破って
ナチス・ドイツが突如ソ連に軍事侵攻を開始したのだ。
当初、ソ連の主導者スターリンは、独ソ不不可侵条約が結ばれていることで、ナチス・ド
イツに対してあまり警戒心は持っていなかったようだ。しかし、ヒトラー当初から生存圏
確保のためにロシアはドイツの支配下に置くことは執拗不可欠と考えていたようだ。また、
ヒトラーとドイツ軍首脳部は、ソ連は恐るるに足らずとも思っていたようだ。
しかし、いったん戦争が始まると、当初は貧弱を見せたソ連軍だったが、想像以上の強靭
さを見せ、反撃へと転じていったようだ。
そして、お互いに惨酷な闘争が徹底して行われるようになっていく。そのなかにおいては、
ジェノサイドや捕虜虐殺など、軍事的な合理性からは説明できないような蛮行がいくども
繰り返されたようだ。
ナチス・ドイツというと、ホロコーストを思い浮かべるが、ソ連軍も、それに負けず劣ら
ずの蛮行を行っていたようだ。ひとたび戦争となると、そこには国際法とか道徳や倫理と
いうものは、もはや存在しないのが常のようだ。
そして、この独ソ戦において蛮行を経験したソ連兵は、そのまま満州や樺太・千島列島へ
と移動し、今度はそこにいた日本人に対しても行われることとなったのだ。

2022年2月24日にロシアが突然、一方的にウクライナに軍事侵攻を始め、すでに三
カ月が過ぎたが、その戦争は未だに終わる気配はない。
ロシアのプーチン大統領に言わせれば、この軍事侵攻の理由は、ウクライナの「非ナチ化」
のためと言っているようであるが、その背景には、この独ソ戦があるようだ。プーチンか
ら見れば、西側諸国は独ソ戦時代のナチズムの国に見えるのであろうか。それはわれわれ
から見れば、狂気の沙汰にしか見えないのだが。
いずれにしろ、この戦争においても、ソ連軍は独ソ戦と同様な蛮行を行っているようだ。
こうなると、もはやウクライナ側も簡単には和平協定など結べないだろう。どちらかが絶
滅するまで戦い続ける独ソ戦のような「絶滅戦争」に限りなく近づいていきそうな気配だ。
この戦争からもわかるように、戦争は一旦始まったら、コントロールができなくなる。そ
して、そこでは国際法も道徳も倫理も存在しなくなる。このことは日本も先の戦争で膨大
な犠牲の上にしっかり学んだはずだ。しかし最近ではまた、ウクライナ危機をきっかけに、
「敵基地攻撃能力」とか「核共有」とか「防衛費倍増」とか、自衛力の増強に前のめりな
政治家が増えてきているようだ。
しかしこれは、あまりにも安直な考えではないのか。すべての戦争は自衛から始まると言
われる。「我々は攻撃されかけている」という恐怖感を煽り、戦争へと突入していく。今
回のロシアもそうだ。
ある程度の防衛力を持つことは必要だとは思うが、それはあくまでも専守防衛に徹するべ
きだと思う。その枠を超えてしまうと「絶滅戦争」への危険が増すことになると私は思う。
防衛力増強に前のめりな政治家たちは、戦争は自分たちでコントロールできるものだと考
えているようだが、ほんとの戦争の実態とはどういうものか、ぜひウクライナの戦闘最前
線に立って、一度実際の戦争を体験してみたたほうがいいのではないかと思うのだがどう
だろうか。


読み終えた関連本:
ソ連が満州に侵攻した夏
証言・南樺太 最後の十七日間
ヒトラー最後の日


はじめに(現代の野蛮)
・1941年6月、ナチス・ドイツとその同盟国の軍隊は、独ソ不可侵条約を破って、ソ
 ヴィエト連邦に侵攻した。以後1945年まで続いたこの戦争は一般に「独ソ戦」と呼
 ばれる。ドイツ、ないしは西欧の視点から第二次世界大戦の「東部戦線」における戦い
 と称されることも少なくない。
・この戦争は、あらゆる面で空前、おそらくは絶後であり、まさに第二次世界大戦の核心、
 主戦場であったといってよかろう。
・独ソ戦においては、北はフィンランドから南はコーカサスまで、数千キロにわたる戦線
 において、数百万の大軍が激突した。戦いの様態も、現代の陸戦のおよそあらつるパタ
 ーンが展開され、軍事史的な観点からしても、稀な戦争であった。
・しかし、独ソ戦を歴史的にきわだたせているのは、そのスケールの大きさだけではない。
 独ソともに、互いを妥協の余地のない、滅ぼされるべき敵とみなすイデオロギーを戦争
 遂行の根幹に据え、それがために惨酷な闘争を徹底して遂行した点に、この戦争の本質
 がある。
・およそ四年間にわたる戦いを通じ、ジェノサイドや捕虜虐殺など、近代以降の軍事的合
 理性からは説明できない、無意味であるとさえ思われる蛮行がいくども繰り返されたの
 である。
・日本の総人口は、1939年時点で、約7138万人であった。ここから動員された戦
 闘員のうち、210万ないし230万名が死亡している。さらに、非戦闘員の死者は、
 55万ないし80万人と推計されている。充分に悲惨な数字だ。
・けれども、独ソ両国、なかんずくソ連の損害は桁がちがう。
・ソ連は1939年の段階で、1億8879万3千人の人口を有していたが、第二次世界
 大戦で戦闘員866万8千ないし1140万名を失ったという。
・対するドイツも、1939年の総人口6930万人から、戦闘員444万ないし531
 万8千名を死なせ、民間人の被害も150万ないし300万人におよぶと推計されてい
 る。
・こうした悲惨をもたらしたものは、まず、アドルフ・ヒトラー以下、ドイツ側の指導部
 が、対ソ戦を、人種的な優れたゲルマン民族が「劣等人種」スラヴ人を奴隷化するため
 の戦争、ナチズムと「ユダヤ的ボリシェヴィズム(レーニン主義)」との闘争と規定し
 たことが、重要な動因であった。彼らは、独ソ戦は「世界観戦争」であるとみなし、そ
 の遂行は仮借なきものでなければならないとした。
・ヒトラーにとって、世界観戦争とは「みな殺しの闘争」、すなわち、絶滅戦争にほかな
 らなかった。加えて、ヒトラーに認識は、ナチスの高官たちだけでなく、濃淡の差こそ
 あれ、国防軍の将官たちもひとしく共有するものであった。
・そうした意図を持つ侵略者に対し、ソ連の独裁者にしてソヴィエト共産党書記長である
 スターリン以下の指導者たちは、コミュニズム(共産主義)とナショナリズムを融合さ
 せ、危機を乗り越えようとした。かつてのナポレオンの侵略をしりぞけた1812年の
 「祖国戦争」になぞらえ、この戦いは、ファシストの侵略者を撃退し、ロシアを守るた
 めの「大祖国戦争」であると規定したのだ。
・これは、対独戦は道徳的・倫理的に許されない敵を滅ぼす聖戦であるとの認識を民族レ
 ベルまで広めると同時に、ドイツ側が住民虐殺などの犯罪行為を繰り返したことと相ま
 って、報復感情を正当化した。
・ソ連軍の戦時国際法を無視した行動もエスカレートしていった。両軍の残虐行為は、合
 わせ鏡に増悪を映したかのように拡大され、現代の野蛮ともいうべき凄惨な様相を呈し
 ていったのである。
・ドイツ軍人たちの回想録の多くは、高級統帥に無知なヒトラーが、戦争指導ばかりか、
 作戦指揮にまで介入し、素人くさいミスを繰り返して敗戦を招いたと唱えた。死せる独
 裁者に敗北の責任を押しつけ、自らの無謬性を守ろうとしたのである。ヒトラーが干渉
 しなければ、数に優るソ連軍に対しても、ドイツ国防軍は作戦の妙により勝利を得るこ
 とができた。そのような将軍たちの主張はまた、ソ連の圧倒的な軍事力と対峙していた
 冷戦下の西側諸国にとっても都合のよいものであった。
・「砂漠のキツネ」「バルバロッサ作戦」「焦土作戦」などの一連の著作で知られる、
 ウル・カレル
の著作の根本にあったのは、第二次世界大戦の惨禍に対して、ドイツが負
 うべき責任はなく、国防軍は、劣勢にもかかわらず、勇敢にかつ巧妙に戦ったとする
 「歴史修正主義」だった。
・カレルの描いた独ソ戦争は、ホロコーストの影さえも差さぬ、あたかも無人の地で軍隊
 だけが行動しているかのごとき片寄った見方を読者に与えるものであった。
 
<偽りの握手から激突へ>
スターリンの逃避
・スターリンは、1941年の初夏に、独ソ戦が迫っていることを告げる情報をいっさい
 信用しようとはせず、国境守備にあたっている諸部隊に警告するどころか、逆に挑発的
 行動を取るなと戒めつづけた。
・この錯誤の対価は高くつく。スターリンが強制した手かせ足かせのおかげで、ソ連軍部
 隊は無防備かつ無警戒のまま、ドイツの侵略に直面することになったのである。
・スターリンは「近代の戦いのなかで、侵攻を受けたいかなる指導者よりも、危機が切迫
 していることについて、攻撃開始の日時までもあきらかになるような、はるかに多くの、
 かつ、より質の高い情報を得ていた」。それにもかかわらず、なぜスターリンは警戒措
 置を取らなかったのか。 
・まず考えられるのは、イギリスへの強い猜疑心であろう。
・ミュンヘン会談(1938年)以来、西欧資本主義諸国、とりわけイギリスは、ソ連を
 ないがしろにするばかりか、敵対的な態度を取ってきた。少なくとも、スターリンは、
 そう考えていた。イギリスはドイツを対ソ戦に誘導することをたくらんでいるとさえ、
 疑っていたのである。
・戦争など起こってほしくない。いや、起こってはならないのだし、起こるはずがない。
 スターリンを現実逃避にも近い願望にしがみつかせた理由は、もう一つあった。当時の
 ソ連軍は著しく弱体化していたのだ。
フィンランド侵略で、はるかに劣勢な相手に、ソ連軍は苦戦を強いられている。この戦
 争で暴露された通り、ソ連軍は劣悪な状態にあった。その原因は、「大粛清」にある。
・隙あらば反逆に踏みきり、自分を追い落とそうとしている者が多数いる。そのような強
 迫観念に囚われたスターリンは、内務人民委員部麾下の秘密警察を動員し、おのが先輩
 や仲間を含む、ソ連の指導者たちを逮捕・処刑させた。粛清は、文官のみならず、赤軍
 幹部にもおよび、その多くが「人民の敵」として、あるいは銃殺され、あるいは逮捕投
 獄されていった。
・大粛清は、高級統帥、すなわち大規模部隊の運用についての教育を受けた将校、ロシア
 革命後の内戦や対干渉戦争での実戦経験を有する指揮官の多くを、ソ連軍から排除して
 しまったのである。
・いうまでもなく、スターリンは、自ら命じた粛清によって、おのれの軍隊を骨抜きにし
 てしまったことを承知していた。数々の実戦経験を積み、宿敵フランスを降したドイツ
 国防軍に、ソ連軍が作戦・戦術的にはいまだ太刀打ちできる状態にないことも認識して
 いたにちがいない。したがって、このまま、ドイツとの戦争に突入すれば、ソ連の崩壊
 は必至であろう。そう予想したゆえに、スターリンは、目前に迫ったドイツの侵攻から
 眼をそむけ、すべてはソ連を戦争に巻き込もうとするイギリスの謀略であると信じ込ん
 だ。不愉快な事実を突きつけられたにもかかわらず、起こってほしくないことは起こら
 ないとする倒錯した「信仰」のとりこになったのだ。
・けれども、現実を拒否した独裁者は、尋常でない災厄を呼び込もうとしていた。こうし
 た、ソ連にとっての悲劇をいっそう深刻なものにしたのは、大粛清等による権力集中に
 よって、ソ連指導部からは異論が排除され、スターリンの誤謬や先入観、偏った信念が、
 そのまま、国家の方針となったことであった。
 
対ソ戦決定
・ヒトラーは、1923年にミュンヘンでクーデターを試みて失敗し、投獄されたことが
 ある。彼はそのころから、首尾一貫して、ソ連を打倒、東方直民地帝国を建設するとい
 う政治構想を追求していたという。
・ヒトラーは、豊富な資源や農地を有する空間、「生存圏」を確保しなければ、ゲルマン
 民族の生き残りはかなわないと確信していた。そのためには、東方のロシアを征服して、
 ドイツの支配下に置くことが必要不可欠である。しかしながら、第一次世界大戦で証明
 された通り、イギリスとロシアを同時に敵にまわして、二正面戦争に突入するようなこ
 とになれば、ドイツは再び敗北することになろう。
・第二次世界大戦がヒトラーの思惑を外れたかたちではじまった。不倶戴天の敵であった
 はずのソ連と不可侵条約を結び、英仏の牽制とポーランド侵攻の局地紛争化をはかった
 にもかかわらず、大戦への拡大は防げなかった。
・しかしながら、英仏に先行して軍備拡張を進めていたドイツ国防軍は、1940年の対
 仏戦で思いがけぬ大勝を収める。イギリスは大陸をおわれ、孤立することになった。
・一躍優位になったヒトラーは、イギリスに和平を提案してが、英首相となったチャーチ
 ルは、これを一蹴、徹底抗戦の方針を固め、英本土の防衛態勢を強化した。
・ヒトラーは、ドイツ空軍に大規模な英本土空襲を実行させた。これを迎え撃ったイギリ
 ス空軍とのあいだに展開されたのが、有名な空英本土航戦である。
・フィンランドや石油を産するルーマニアをいずれの勢力圏に置くかをめぐって、独ソ関
 係は冷却しはじめていた。そうして緊張を解決すべく、ドイツ外相リッベントロップは、
 ソ連が外務人民委員モロトフをベルリンに招き、日独伊ソ四国同盟を結んで、大英帝国
 を解体するとのプランを提案、両国のあつれきを解消しようとした。ところが、モロト
 フは、リッベントロップの壮大な計画など一顧だにせず、秘密議定書の規定を忠実に履
 行すべしと求めるのみだった。そうした、にべもない反応をみて、ヒトラーは、独ソ戦
 やむなしと決断するに至ったとする説もある。
・ドイツが準備未成で西方攻勢を実施できずにいるあいだに、ソ連はフィンランドに戦争
 (冬戦争)をしかけ、革命の聖地であるレニングラードに隣接するカレリア地方を割譲
 させた。ソ連が国境を西に動かそうと努めていることは明白であった。
 
作戦計画
・ソ連侵攻作戦は、若干の余裕を取ったとしても、全部で9ないし17週間で完遂される
 とみていたのだった。おのれの能力の過大評価とソ連という巨人に対する過小評価、と
 いうよりも、蔑視がなさしめたといってもさしつかえないほどに、傲慢な作戦計画であ
 った。
・「バルバロッサ作戦開進訓令」が下達された。これらは、モスクワか、それ以外の目標
 かという優先順位のあいまいさ、実施部隊が強いられる過剰な負担、兵站の困難など、
 さまざまな欠陥を抱えたものであった。にもかかわらず、ヒトラーは、ソ連軍など鎧袖
 一触で撃滅できるのだから、そのような問題が表面化することはないと確信していた。
・「バルバロッサ作戦」は、はたしてヨーロッパ・ロシアの占領はスターリン体制の瓦解
 につながるのか、一度、あるいは複数の会戦でソ連軍主力を撃滅できるのか、長大な距
 離にわたる機動を維持するための兵站態勢を構築できるのかといった、さまざまな問題
 を真剣に検討したいままに立案された、純軍事的に考えても、ずさんきわまりない計画
 にすぎなかった。その結果、ヒトラーとドイツ国防軍は、ソ連軍は「頭のない粘土の巨
 人」であると思い込んだまま、人類史上最大規模の戦争に突入したのである。

<敗北に向かう勝利>
大敗したソ連
・1941年6月22日、ナチス・ドイツはソ連邦への侵略を開始した。総兵力はおよそ
 330万。かかる大軍がバルト海から黒海までのほぼ3千キロにおよぶ戦線で、いっせ
 いに攻撃にかかったのだ。
・緒戦におけるドイツ軍の進撃は驚異的であり、得られた戦果も膨大なものであった。ま
 ずドイツ空軍が、スターリンが警戒措置を取ることを許さなかったこともあって、国境
 地帯に配置されていたソ連空軍を奇襲することに成功、多数を地上ないし句中で撃破し
 て、航空優勢を握った。
・中央軍集団は、ほぼ開戦1週間でソ連領内400キロの地域まで突入していたのである。
 ソ連西正面軍の主力を包囲撃滅、七月初旬までに捕虜32万を得ていた。
・このような巨大な勝利に、ヒトラーと国防軍首脳部は、ソ連恐るるに足らずという自分
 たちの判断が正しかったものと確信した。
・ソ連軍がこうした大敗を喫した理由としては、スターリンが無数の警告を無視して、警
 戒措置を取らせなかったことが大きい。
・ロシア内戦と外国の干渉が終わり、ひとまず平和を得たものの、新生ソ連が置かれた戦
 略的な状況は、きわめて困難なものだった。世界最初の社会主義国は、資本主義諸国、
 すなわち、潜在的な敵国に囲まれており、彼らとの戦争は避けられないと考えられてい
 たのだ。来るべき戦争は、決戦によって帰趨が定まるのか、長引く消耗戦になるのか。
 攻勢を取るべきか、防御に頼るべきか・・・。
・独ソ開戦時のソ連軍指揮官には、自らの作戦・戦術能力の程度にかかわらず、たとえ防
 御戦を強いられる場合でも反撃を決行し、事態を転回させるという原則のみが習い性に
 なっていた。
・ドイツの侵攻を受けた時点でのソ連軍は、反撃や逆襲を遂行し得る練度になく、将校の
 指揮能力も貧弱だった。また、戦車や大砲といった正面装備は充実していても、それを
 機能させるための通信・整備のインフラストラクチャーは、劣悪な状態にあった。この
 ような軍隊を以ってする反撃は、敵に損害を与えるどころか、自滅的な作用を及ぼすこ
 とになる。事実、緒戦において、ソ連軍は、結果的には無謀というしかない攻撃を繰り
 返し、貴重な機械化部隊を減衰させた上に、ドイツ軍に乗じられていく。
・独ソ戦初期において、ソ連軍は、攻撃偏重のドクトリンを固守し、指揮官の能力、兵站、  
 整備、通信といったさまざまな欠陥を無視した反撃を行ない、自壊ともいうべき大損害
 出した。

スモレンスクの転回点
・ドイツ軍将兵は、「バルバロッサ」作戦が開始された直後から、ロシアはフランスでは
 ないと思い知らされることになる。指揮系統を混乱させられ、補給路を断たれても、現
 場のソ連軍部隊はなお頑強に戦い続けたのだ。
・「ソ連兵は、フランス人よりもはるかに優れた兵士だ。極度にタフで、狡知と奸計に富
 んでいる」 
・事実、包囲され、取り残されたソ連軍の抵抗や反撃は無視できないレベルのものだった。
 たしかに、そうして攻撃は、いずれも小規模かつ散発的であったし、多くの場合、大損
 害を出して撃退されるようなものではあったが、ドイツ軍はそれらに対応せざるを得え
 ず、そのぶん進撃は遅れた。
・加えて、地勢もドイツ軍には不利に働いた。「電撃戦」を可能としてくれるはずの道路
 は、ドイツ軍の予想とは裏腹に、ロシアでは劣悪きわまりなかった。
・「バルバロッサ」作戦開始から七月にスモレンスク戦に至るまでのあいだ、ドイツ軍は
 表層的には勝利を重ねつつも、戦略的な打撃を与える能力を失いつつあった。
・さらに、前線の派手な戦闘ほどには眼を惹かないものの、政戦レベルにおいては重要な
 意味を持つ事態も生じていた。初期の段階から、ドイツ軍の兵站機構はうまく機能しな
 かった。というよりも、国境会戦で決着がつくものと確信していたドイツ軍首脳部は、
 補給を維持できるだけの充分な準備を整えていなかったのである。その結果、ドイツ軍
 諸部隊補給不足に苦しみ、それを補おうと略奪の挙に出た。
・奇妙な事態ではあった。中央軍集団は、ソ連軍の抵抗や反撃を粉砕しつつ、スモレンス
 ク周辺のソ連軍を包囲殲滅すべく前進している。だが、その進撃速度は、ソ連を打倒す
 るという大目標のためには遅すぎたし、そのために支払った代価は、あまりにも高くつ
 いた。

最初の敗走
・ヒトラーとドイツ軍首脳部は困難な決断を強いられた。短期決戦で勝利が得られると楽
 観しきっていたことへのつけがまわってきだのだ。開戦前に、どこを衝けば、あるいは、
 どういう状態に持っていけば、ソ連という巨人がくずれおれることになるのか、彼らが
 真面目な考察を加えることはなかった。作戦次元、すなわち、戦場での成功を積み重ね
 ていけば勝利が得られると信じ込むばかりで、銃後も含めた彼我のリソースを冷静に測
 り、戦術次元での優劣を計算に入れた戦争計画が立案されることはなかったのである。
 だが、独ソ開戦以後の現実は、そうした判断の必要性を突きつけてきた。
・ヒトラーは、モスクワ進撃を優先すべきだとするOKH(陸軍総司令部)の進言を押し
 切って、キエフへの南進を命じた。このとき、ヒトラーは、最重要なのはモスクワ占領
 ではなく、クリミア半島やドニェツ工業・炭田地帯の奪取、コーカサスからのソ連軍に
 対する石油供給の遮断、レニングラードの孤立化だと断じている。戦争経済上の目標を
 優先すると明言したわけだ。
・作戦的には大勝利であった。しかし、戦略的には、深刻な時間の浪費であったと、ハル
 ダーをはじめとするドイツ国防軍の将星たちは、戦後に主張している。なるほど、キエ
 フ戦では巨大な成功を得られたが、かかる作戦のおかげで時間が浪費され、戦略目標で
 あるモスクワへの進撃が遅れた。その結果、ソ連軍は首都の防備を固めたし、また、モ
 スクワ攻略作戦が冬季にずれこんだことにより、攻撃はきわめて困難になり、同市の占
 領は成らなかった。こうした経緯からすれば、ヒトラーがキエフの包囲戦を、モスクワ
 への進撃に優先させたことは、致命的な失敗だというのだ。
・しかし、今日では、ドイツ国防軍の元将軍たちによる、キエフよりもモスクワを先に攻
 めるべきだったとする主張は成り立たないことが論証されている。八月の時点で中央軍
 集団の補給は深刻な状況にあり、ただちにモスクワ進撃を行なうことは不可能だったと
 している。
・さらに言い添えるなら、政治・経済・交通の中心である首都モスクワを占領すれば、ソ
 連は崩壊するというのは、ドイツの将軍たちの盲信にすぎない。彼らが、ソ連にとって
 致命的な打撃とは何であるかを真剣に検討した形跡がないことは、史料的に証明できる。
・みかけの快進撃とは裏腹に、ドイツ軍の窮状は頂点に達しようとしていた。機動戦の機
 会を得て急進した装甲部隊が、たちまち燃料不足に陥ったのだ。10月4日のソ連軍の
 反撃に対応するため、燃料を使い果たし、翌日には前進不能になった。
・加えて、天候がドイツ軍にブレーキをかけていた。10月6日から7日の夜にかけて、
 中央軍集団の戦区に、最初の雪が振ったのである。翌朝、この雪はすぐに融け、ほとん
 ど舗装されていないロシアの道路は泥沼と化した。ドイツ軍車輛の運用は、きわめて困
 難になった。キャタピラ装備の車輛でさえも、しばしば軟泥にはまりこみ、動けなくな
 る。燃料消費量も、事前計画のおよそ三倍に跳ね上がった。
・ドイツ軍は限界に達していた。12月初頭、ロシアの冬将軍が到来し、豪雪と厳寒をも
 たらしたのだ。ちなみに、1941年から1942年の冬は、ナポレオンがロシアに侵
 攻した1812年同様の異常気象、ロシアでもめったにない厳冬であった。
・ドイツ軍攻撃部隊は寒さにあえぎ、ソ連軍部隊の抵抗をくじく打撃力を失った。12月
 5日、「台風作戦」の先鋒となっていた装甲集団は攻撃を中止した。
・ソ連軍が全面的に攻勢に転じたのは、その翌日であった。極東ソ連から召致したシベリ
 ア師団をはじめとする予備兵力、T−34戦車に代表されるような新型兵器を投入して
 の攻撃を受けたドイツ軍は、たちまち敗走していく。
・結局、短期決戦でソ連を打倒するという「バルバロッサ作戦」の目的は果たせなかった。
 ヒトラーとナチス・ドイツにとっては、一大打撃というほかない事態だった。
・そればかりではない。モスクワ攻防戦に敗れたのと同じころ、ドイツは、もう一つの大
 国、アメリカ合衆国との戦争に突入することになった。
・ヒトラーは、対米戦争が勃発した際に備え、日本から参戦の確約を得ようと、アメリカ
 と戦う場合には、ドイツも参戦するとの言質を日本側に与えていたのだ。かくして、真
 珠湾攻撃の報を聞いたヒトラーは、1941年12月11日、アメリカ合衆国に宣戦布
 告した。
 
<絶滅戦争>
対ソ戦のイデオロギー
・ヨーロッパにおける領土拡張と海外植民地獲得を同時に遂行しようとすれば、第一次世
 界大戦の轍を踏むことになるとヒトラーは考えた。よって、自らの計画遂行の過程を二
 段階に分けた。まずは、ヨーロッパ大陸においてソ連を征服し、東方植民地帝国を建設、
 ナチズムのイデオロギーにもとづく欧州の「人種的再編成」を行なうのが、第一段階で
 ある。
・ただし、この段階での目標を達成するには、イギリスを同盟国、ないしは中立状態にし
 ておく必要があった。また、第一次世界大戦のように、大規模な二正面戦争に突入する
 のではなく、オーストリア合邦やチェコスロヴァキアの解体、さらには西の大敵である
 フランス覆滅等を、時間的・空間的に限定された小戦争の連続というかたちで、段階的
 に遂行していかなければならない。そうして国力を固めた上で、ソ連打倒に着手する。
・首相となったヒトラーは、軍備拡張を実行したが、国民に犠牲を強いることは避けた。
 体制への支持を失うことを恐れたためだ。だが、戦争準備と国民の生活維持という二兎
 を追ったことは、ナチス・ドイツの国内政治に緊張をもたらすことになった。
・まず、財政の逼迫が生じた。軍拡や公共事業に要する財源は、当然、国家が確保しなけ
 ればならない。そのため、ヒトラーは、敢えて赤字支出を選んだ。増税によって国庫の
 収入を大きくすれば、国民の不満が高まるからであった。
・ついで、貿易の分野でも「危機」が顕在化した。いわゆる「持たざる国」であるドイツ
 が軍拡を行なおうとすれば、兵器生産のために大量の原料を輸入せざるを得ない。だが、
 外国から原料を得るには、外貨による支払いを必要とするから、大規模な軍拡は、外貨
 準備高の急激な沈降につながる恐れがあった。
・ところが、こうした「危機」のさなかにおいても、国民が不満を持たぬよう、貴重な外
 貨を使って、嗜好品や衣料の輸入は継続されていたのである。
・好景気は、たしかに失業者をなくしたけれども、これは、軍拡を実行する上で、大きな
 問題となった。再軍備が工業に好景気をもたらすとともに、労働力の需要が高まり、人
 手不足が生じたのだ。
・再軍備の進行自体が、軍備拡張のインフラストラクチャーにダメージを与えるという、
 皮肉な自体が生じた。
・外交だけでなく、内政において「危機」が生じたのである。通常、こうした場合に取ら
 れる対応は、軍需経済への集中を緩和し、貿易の拡大をはかるか、逆に、より厳しい統
 制や国民の勤労動員強化でしのぐかのいずれかであろう。ところが、「大砲かバターか」
 ではなく、「大砲もバターも」の政策を選んだナチス・ドイツ政府には、どちらの措置
 も不可能だった。
・結果として、彼らは、第三の選択肢へと突き進んでいく。他国の併合による資源や外貨
 の獲得、占領した国の住民の強制労働により、ドイツ国民に負担をかけないかたちで軍
 拡経済を維持したのだ。
・ナチス・ドイツは「危機」克服のため、戦争に突入せざるを得なくなっていたのである。
 ナチス・ドイツは、独裁者ヒトラーの「プログラム」とナチズムの理念のもと、主導的
 に戦争に向かうと同時に、内戦面からも、資源や労働力の収奪を目的とする帝国主義的
 侵略を行なわざるを得ない状態に追いつめられていたのだといえよう。
・事実、フランスなどの諸国を征服したのちのドイツの占領政策は、資源や工業製品の徴
 発、労働力の強制動員といった点を強調したものとなる。そのおかげで、ドイツ国民の
 生活は、戦時下であるにもかかわらず、1944年に戦争が急速に敗勢に傾くまで、相
 対的に高水準を維持していた。彼らは、初期帝国主義的な収奪政策による利益を得てい
 ることを知りながら、それを享受した「共犯者」だったのである。

帝国主義的収奪
・ドイツの戦争は、対ソ戦に至る前から、通常の純軍事的な戦争に加えて、すでに「収奪
 戦争」の性格を帯びていた。とはいえ、ドイツの西欧諸国に対する戦争は、比較的にと
 いうことはあるが、捕虜取り扱いにおける戦時国際法の遵守や非戦争員の保護など、
 「通常戦争」の性格を遺してはいた。ただし、金品や美術品の略奪、フランス軍の植民
 地部隊から取った捕虜の殺害なども皆無ではない。ポーランドやユーゴスラヴィアなど、
 ナチスの眼からみた「劣等人種」の国々に対しては、人種戦争の色彩が濃厚になった。
・そして、ヒトラーの宿願であった対ソ戦においては、帝国主義的収奪戦争に加えて、イ
 デオロギーに支配られた「世界観戦争」、具体的には、ナチスが敵とみなした者への
 「絶滅戦争」が、全面的に展開されることになる。独ソ戦は、いわば「通常戦争」「収
 奪戦争」「絶滅戦争」の三つの戦争が重なり合って遂行された複合的な戦争だったとい
 えよう。
・ドイツのソ連占領が収奪に集中していく過程には、もう一つの動因がある。1939年
 の第二次世界大戦勃発とともに、連合軍の封鎖を受けたドイツは、海外からの輸入を遮
 断された。よって、食料調達の隘路が生じ、不足分の確保については、主としてソ連に
 頼ることになった。
・食料供給の責任者であったヘルベルト・バッケは、このような状態が続けば、第一次世
 界大戦のように、国民の飢餓がきっかけとなって、敗戦に至ることになりかねないと警
 告していた。そこで、対ソ戦決意をしらされたバッケが立案したのは、占領したソ連か
 ら食料を収奪し、住民を飢え死にさせてでも、ドイツ国民、なかんずく国防軍の将兵に
 充分な食料を与えるとする「飢餓計画」と通称される構想だった。
・「戦争三年目に、国防軍全体がロシアからの食料で養われるようになった場合のみ、本
 大戦は継続し得る」。バッケのロシア人に対する評価は非情なものだった。「ロシア人
 は、何世紀ものあいだ、貧困、餓え、節約に耐えてきている。その胃袋は伸縮自在なの
 だから、間違った同情は不要だ」。
・ドイツのソ連占領において特徴的なのは、一元的に責任を持つ管轄省庁がないことであ
 った。「権限のカオス」と呼ばれる、ナチズム特有の現象が、ここでも現われたのであ
 る。これは、ヒトラーがしばしば決断を回避した結果、麾下の諸機関が同じ争点をめぐ
 って、自らの政策を貫徹すべく、激しい権限争いを行なったことを意味している。
・そこから最初に脱落したのは国防軍だった。政治的な面では、ヒトラーは軍を信頼して
 いなかったのである。1941年3月、「陸軍の作戦地域の奥行きは、可能な限り広範
 囲に制限すべし」との命令が下され、国防軍は、占領地域全体に軍政をほどこすのでは
 なく、前線での純軍事任務に集中するものとされた。

絶滅政策の実行
・ヒトラーとナチス・ドイツの指導部にとって、対ソ戦が「世界観戦争」であり、軍事的
 な勝利のみならず、彼らが敵とみなした者の絶滅を追求する戦争だったという補助線を
 引けば、その論理を知ることができるだろう。しかも、この「絶滅戦争」を支えるイデ
 オロギーは、ヒトラーの脳髄のなかに存在していたのみならず、ドイツ国民統合の原則
 として現実を規定するようになったことにいり、独自のダイナミズムを得ていたのであ
 る。
・「出動部隊」は、国家公安本部長官ラインハルト・ハイドリヒ親衛隊中将直属の特殊部
 隊で、敵地に侵攻する国防軍に後続、ナチ体制にとって危険と思われる分子を殺害排除
 することを任務としていた。
・通訳の助けを借り、多くは地元住民から得た情報によって、ユダヤ人が特定され、集め
 られる。そこから、射殺地に運ばれるか、追い立てられるのだ。また、射殺される前に
 は、ユダヤ人は貴重品と着用している衣服を提出させられたこうしたやり方で、出動部
 隊はソ連各地で虐殺を重ねていった。
・二日間で女性や子供を含むユダヤ人三万人を超える生命を奪ったキエフ近郊バビ・ヤー
 ルの殺戮
(1941年9月) 
・1942年初頭のハリコフにおける一万人の射殺。
・出動部隊の手にかかった人々の数は、少なくとも90万人と推計されている。ただし、
 正確な犠牲者の総数は、その膨大さゆえに、今日なお確定されていない。
・独ソ戦前の1941年3月、ヒトラーは国防軍首脳部との会議において、来るべき対ソ
 戦においては、政治委員は捕虜に取らず、殺害するとの方針を示した。OKW統帥幕僚
 部は、このヒトラーの意向を受けて「コミッサール指令」と通称される命令を起案した。
・こうして、ドイツ軍の捕虜となった政治委員やソ連軍のユダヤ人将兵は苛酷な運命を強
 いられる。通常のソ連軍捕虜から分別されたユダヤ人のうち、約五万人が命を失ったと
 推計されている。
・ところが、コミッサール指令は、皮肉な結果をもたらした。捕まれば殺されるのだと知
 ったソ連軍の政治委員たちは、たとえば、包囲された絶望的な状況にあっても、徹底抗
 戦を命じ、ドイツ軍を悩ませるようになったのである。ドイツ軍の前線指揮官たちは、
 コミッサール指令の撤回を求めたが、ヒトラーは頑として応じなかった。
・捕虜になった一般のソ連軍将兵も、戦時国際法にのっとった扱いを受けたわけではない。
 彼らは、非人間的な環境の捕虜収容所に押し込められ、労働を強制されて、死に至った。
 その背景にあったのは、またしても「世界観」であった。
・1941年3月の演説で、ヒトラーは有名な言葉を漏らしている。ソ連の敵は、「これ
 まで戦友ではなかったし、これからも戦友ではない」と。
・捕虜たちは、食料も充分に配給されず、ろくに暖房もない捕虜収容所にすし詰めにされ
 た上、日々、重労働に駆り出された。飢餓と凍傷、伝染病のため、多数のソ連軍捕虜が
 死んでいく。反抗した、あるいは脱走を図ったとのかどで、射殺される者もいた。
 570万名のソ連軍捕虜のうち、300万名が死亡したのだ。実に、53%の死亡率だ
 った。
・ナチス・ドイツは最初からユダヤ人絶滅を企図していたのではなく、国外追放が失敗し
 た結果、政策を背スカレーとさせていったとする解釈が定着している。また、追放から
 絶滅への転換についても、ヒトラーの意図というアクティヴな要因と、それを受けた関
 連諸機関の競合・急進化というパッシヴな要因が相互に影響し合ってのことだったとす
 る説が有力である。
・そもそも、ナチ政権は、彼らのいう「ユダヤ人より解放された」ドイツを実現すべく、
 当初、国外排除の政策を進めていた。公職追放や市民権の剥奪、経済的な締めつけによ
 って、ユダヤ人が自らドイツを去って行くように仕向けたのだ。ところが、ユダヤ人の
 貧困層、あるいは高齢層は国外に逃れようとせず、ナチスの眼からみれば、もっとも残
 ってほしくない分子が「滞留」したことになる。
・ナチス・ドイツは、占領下のポーランド、仏領マダガスカル、また対ソ戦開始後はロシ
 アの一部と、ユダヤ人を大量移住させる先を探しもとめた。しかし、そのいずれもが破
 綻した結果、システマティックな絶滅政策へと舵を切っていく。1941年3月には、
 ハイドリヒがゲーリングと対ソ戦における絶滅の対象について協議している。ゲーリン
 グ
は、「ユダヤ人問題の最終的解決」に必要な措置すべてを取るに当たっての全権を、
 ハイドリヒに付与し、絶滅政策の総責任者にした。ハイドリヒは、親衛隊大将に進級し
 てた。
・独ソ開戦後には、出動部隊が組織的な殺戮に踏み切った。彼らが得た経験をもとに、射
 殺から毒ガスの使用へと、殺害の「効率化」が行なわれた。1941年9月、アウシュ
 ヴィッツ強制収容所
では、ソ連軍捕虜600名などに対してガス殺の実験が行なわれた
 が、これは同収容所におけるツィクロンBを用いたガス殺の最初の事例である。
・1942年1月、ハイドリヒは、ベルリン郊外ヴァンゼーに親衛隊公安部が持っていた
 保養施設にユダヤ人政策に携わる関連機関の実務者たちと召集し、「最終的解決」を協
 議した。この「ヴァンゼー会議」によって、労働可能なユダヤ人には、劣悪な条件での
 労働を課して自然に死に至らしめ、労働できない者は毒ガスで殺害するとの計画が了承
 された。絶命政策が、正式に国家の方針として採用されたのだ。
・ドイツ北方軍集団は、包囲したレニングラードを一気呵成に陥落させるのではなく、兵
 糧攻めにして干上がらせる策を採った。軍事的には、大きな損害が出ることが不可避の
 市街戦を避けるという理由付けがなされている。しかし、ヒトラーは実際には、レニン
 グラードを「毒の巣」とみなし、その守備隊のみならず、住民もろともに一掃すること
 を欲していた。彼の相談にあずかる国防軍首脳部も、「ペテルスブルクをとろ火で煮込
 む」ことを望んだ。
・こうして、北方軍集団麾下の大18軍が、大都市レニングラードを取り囲み、外界から
 の物資輸送を遮断することになった。
・このドイツ軍の封鎖によって、レニングラード市民が嘗めた悲惨は筆紙につくしがたい。
 食料備蓄がほとんどない状態で包囲された同市の配給は、とても生命を維持できない量
 にまで切り詰められた。
・こうした窮境にあって人肉食が横行するようになった。ソ連内務人民委員部(NKVD) 
 は、死肉食・人肉食の嫌疑で2105名を逮捕した。ただし、当時のレニングラードの
 NKVDは、体制に従順でない分子を逮捕する名目に人肉食を使ったと伝えられている
 から、実際の数は判然としない。
・もっとも、レニングラードの惨状を招いたのは、ドイツ軍だけではない。革命の聖都を
 放棄することをよしとしなかったスターリンは、敵がレニングラードの門前に迫っても、
 市民の一部しか避難させなかった。その結果、およそ300万人が包囲下に置き去りに
 されることになった。さらに、レニングラードの防衛態勢を維持するために、NKVD
 の秘密警察も冷厳な対応を取った。動揺する者、統制に従わない者を「人民の敵」とし
 て狩り立てたのだ。
・結局、900日におよぶ包囲に結果、100万人以上が犠牲になったとされるが、正確
 な数字は確定していない。 
  
「大祖国戦争」の内実
・1930年代に完成されたスターリン独裁は、個人崇拝、秘密警察による統制を前提と
 した恐怖政治、体制にとって不都合な者の粛清・追放といった特徴を有していた。
・スターリンの「敵」とみなされた人々は、あるいは処刑され、あるいはシベリアの労働
 収容所に押しやられた。こうした「スターリニズム」と呼ばれる統治は、独ソ不可侵条
 約に付属する秘密議定書にもとづき、ソ連が西方に勢力を伸ばすに至って、国外にも拡
 張されることになる。占領されたバルト三国やポーランド東部では、聖職者や大学教授、
 官吏や軍将校といった、ソ連に対する抵抗の核となリ得る分子の殺害や追放が実行され
 た。
・そのなかでも悪名高いのは、カティンの殺戮であろう。1940年3月、NKVDは、
 ソ連軍の捕虜となったポーランド軍将校の抹殺を提案した。スターリンとソ連共産党政
 治局は、これを承認、カティンの森で、捕虜となったポーランド軍将校が大量に射殺さ
 れた。ほかにも、カリーニンやハリコフの監獄で処刑が行なわれており、殺害されたポ
 ーランド軍将校の総数は2万2千名におよんだと推計されている。この蛮行が、軍事的
 な抵抗運動の芽をつむことを狙ったのはいうまでもない。
・しかし、1941年6月に、ドイツの奇襲を受けてソ連軍が大敗するとともに、スター
 リニズムの脆弱性もあらわになった。ウクライナや旧バルト三国では、ドイツ軍はスタ
 ーリン体制からの解放者として歓迎された。
・ただし、この反スターリン意識も、ドイツ軍や親衛隊の残虐行為があきらかになるにつ
 れて消えていき、民衆も体制持しに転じたとされる。
・注目されるのは、ソ連が、対独戦開戦直後にナショナリズムと共産主義体制支持を合一
 させるのに成功したことであろう。スターリンとソ連政府が、対独戦の名称を「大祖国
 戦争」と定めたのは、それを象徴している。
・1812年のナポレオンの侵略撃退は、聖なる戦いとして、ロシア人の歴史的記憶とな
 っていた。スターリンは、今度の戦争は、その「祖国戦争」に匹敵する闘争、いや、そ
 れ以上の国民の運命がかかった「大祖国戦争」なのだと規定したのである。
・その結果、ソ連側においても、対独戦は、通常の戦争ではなく、イデオロギーに規定さ
 れた、交渉による妥協など考えられぬものとなっていく。かかるソ連側の「世界観」は、
 ドイツのそれとの対立のなかで、いっそう過激化し、独ソ戦を凄惨なものとしていく。
・開戦直後、スターリンは、「ファシスト抑圧者に対する祖国国民戦争」、すなわちパル
 チザン活動を行なうように、占領された地域の住民に求めたが、反応ははかばかしくな
 かった。パルチザンを組織するため、幹部要員がパラシュート等で送り込まれたものの、
 多くは消息を絶った。
・この時期、ドイツ軍を苦しめていたのは、パルチザンよりも、撃破されたソ連軍部隊の
 生き残りであった。彼らは、守屋湿地に立てこもり、機をみては、ドイツ軍の後方連絡
 線を攻撃していたのだ。
・ドイツ軍は事態を事件視し、住民を人質にしては殺害する、または、ソ連軍の敗残兵を
 捕虜にしても、その場で射殺するといった措置を取った。むろん、これは逆効果であり、
 スターリンのナショナリズムによる動因の効果と相俟って、かえって真のパルチザンを
 生み出すことになった。
・ソ連軍の捕虜に対する対応も、けっして戦時国際法にかなう人道的なものではなかった。
 そもそも、開戦からの数か月においては、捕虜となったドイツ兵をその場で殺すことが
 しばしばだった。ソ連軍将兵は、ドイツ側が政治委員捕虜とせず殺害せよとの指令を出
 していることを知り、報復措置を取ったのである。
・1941年6月の開戦から1943年2月までに、17万ないし20万のドイツ軍将兵
 が捕虜になったが、そのうち、捕虜収容所で生き残ったのは5%にすぎなかったと推計
 されている。

<潮流の逆転>
スターリングラードへの道
・ソ連軍は極寒を衝いて反攻に出た。ドイツ軍はちょうど攻勢から防御に移る途中の脆弱
 な状態にあったから、最悪のタイミングで捕捉されたものといえる。その結果、ドイツ
 軍は大幅な後退と抵抗拠点の放棄を強いられた。
・モスクワを南北からうかがう態勢にあったドイツ軍も、1942年初頭には、完全に撃
 退されていた。 
・だが、モスクワ全面の反攻に参加したソ連軍諸部隊は、実は、装備豊かでもなければ、
 潤沢な補給を受けていたわけでもなかった。その多くは、直前までの首都防衛線で消耗
 しているか、兵員こそ、かき集めたとはいえ、貧弱な兵器や装備しか持たない新編部隊
 だったのだ。
・にもかかわらず、期待以上の勝利に有頂天になったスターリンは、1942年1月、ほ
 とんど全戦線にわたって攻勢を命じた。
・ソ連軍の冬季連続攻勢は、無敵と称してきたドイツ軍に初めて敗北の苦杯を嘗めさせ、
 同時に深刻な危機感を抱かせていた。この窮境に対応すべ、ヒトラーは1941年12
 月に、現在地を死守せよとの仮借ない要求を発した。軍司令官・軍集団司令官といえど
 も、総統の許可なくしては、一歩たりとも退却を命じてはならないとしたのだ。この方
 針に反対した高位の軍人たちは、つぎつぎと解任された。
・ソ連軍の冬季攻勢と、そこから生じた統帥危機は、思いがけない効果をおよぼしていた。
 ヒトラーの政権掌握以後にあっても、国防軍、とくに陸軍は、独立した地位を継続し、
 ナチスに全面的に従うことはなかった。 
・1940年のフランスに対する電撃的勝利ののち、ヒトラーの威信は極度に高まったが、
 国防軍はなお独自の地位を占めていたのである。しかし、統帥危機によって、陸軍首脳
 部の少なからぬ部分が現役を去った。つまり、統帥危機は、ヒトラーに異論を唱えかね
 ない将軍たちを遠ざけ、総統の軍事指導権を絶対的なものとする効果をおよぼしたのだ
・1941年から1942年にかけての冬に、ドイツ軍を潰滅から救ったのは、ソ連軍が
 実力を顧みない総花的攻勢を強行したからであった。ところが、ヒトラーは、死守命令
 こそが危機を克服したと思い込み、おのが軍事的才能を信じて疑わぬようになった。以
 後、彼は、軍人たちの反対を押し切り、軍事的合理性にそむくような指令を乱発してい
 く。
・ヒトラーは、スターリングラードの完全占領を命じた。作戦的には、不必要な指示であ
 った。というのは、スターリングラードはすでに廃墟と化し、その軍需工場は無力化さ
 れている。同市周囲の水上輸送も機能を停止し、ソ連側がヴォルガ川の水運により、石
 油をはじめとする南方の資源をモスクワ地域に運ぶことも不可能になっていたからだ。
・にもかかわらず、ヒトラーは、スターリングラード奪取を厳命した。ソ連軍主力は殲滅
 され、作戦は残存部隊の掃討段階に入ったものと確信する独裁者にとって、いまや同市
 の占領は、軍事的にはさほど負担にならぬまま、政治的な成果を獲得し得る好目標なの
 であった。
・ヒトラーは、スターリングラードの住民は徹底した共産主義者、危険な存在であるから、
 陥落後、その市民のうち、男性をすべて除去し、女性と子供は強制移送すべしと命じて
 いた。つまり、ヒトラーにとって、スターリングラードは、憎むべきボリシェヴィキの
 象徴となっていたのだ。 
・しかし、戦況は、ヒトラーとドイツ軍首脳部が期待したように進まなかった。スターリ
 ンと赤軍大本営は不退転の決意で、予備軍をスターリングラードに送り込んだ。
・ドイツ軍の打撃力は尽きかけており、しかも、ロシアの冬が忍び寄っていた。

機能しはじめた「作戦術」
・スターリングラードで包囲された枢軸軍の数は、現在でもなお確定されていない。しか
 し、スターリングラードの敗北によって、ドイツ軍が戦略的攻勢を行なう能力、つまり、
 攻勢によって敵国を屈服させる打撃力を失ったことだけは間違いない。
・スターリングラードで捕虜となったドイツ軍将兵9万のうち、戦後、故国に生きて帰る
 ことができた者は、およそ6千名にすぎなかった。
・ヒトラーの命のもと、ドイツ軍は、スターリングラードの廃墟に突入していった。かか
 る愚行は、ついにヒトラーに支配され、軍事的合理性を度外視せざるを得なくなったド
 イツ国防軍の黄昏を示していたのであった。

<理性なき絶対戦争>
軍事的合理性の消失
・現実に敗勢に直面してからも、ヒトラーの姿勢は変わらなかった。東部戦線、あるいは
 OKHの将軍たちが退却を懇願しても、ほとんど認めようとしなかった。
・通常の戦争では、軍事的合理性に従い、敵に空間を差し出すことによって、態勢立て直
 しや反攻準備のための時間をあがなう。しかし、世界観戦争、また、それを維持するた
 めの収奪戦争の必要から、ヒトラーには、後退という選択肢を採ることはできなかった
 のだ。
・南方軍集団司令官マンシュタインは、麾下の諸軍が臨界点に達しつつあると見て取り、
 OKHに総退却を打診する。もちろん、ヒトラーは、マンシュタインの意見具申を認め
 ようとしなかった。しかし、南方軍集団のみならず、全東部戦線が崩壊しかねないとの
 マンシュタインの判断を聞かされては、退却を許さざるを得なかった。かくて、巨大な
 撤退作戦が開始された。
・ドニエプルへの撤退は、ほぼ完璧に遂行され、軍事的には成功を収めたということにな
 る。しかし、その陰で、ドイツ軍は、ヒトラーの命のままに、悪名高き「焦土作戦」を
 実行していた。ソ連の進撃を妨害するために、渡河作業を可能とするようなものは、何
 であれ、破壊されるか、徴発された。敵の掩護物になるような施設や宿営所も、その対
 象とされる。加えて、ソ連軍の補給を容易にするであろう食料、戦時生産に死する資源
 や工作機械なども破棄されるか、ドニエプル川西岸に運び去られた。
・奪われたのは、物資だけではない。ドイツ軍は、ソ連軍が五体満足な男子なら一人の残
 らず徴兵し、残る住民も軍需産業に動員するはずだと判断した。それゆえ、ドイツ軍の
 退却とともに、当該地域の住民も強制移送の対象としたのである。その数は数十万にお
 よぶとされる。加えて、家畜数万頭も収奪されていた。
・こうした収奪戦争の徹底は、前線だけではなかった。スターリングラードの敗北以後、
 ヒトラー以下のナチス・ドイツ指導部は、軍需生産の拡大を迫られたが、体制の動揺を
 恐れるがゆえに、なお自国民に多大ななる労働を強いようとはしなかった。その代わり
 に、ソ連軍捕虜、強制連行されたソ連やポーランドの労働者、ユダヤ人、強制収容所の
 被収容者などを投入し、軍需物資の増産を強行したのである。
・彼らの多くは、苛酷な条件のもとで重労働に従事し、あるいは病、あるいは衰弱により、
 斃れていく。生きるに値しないと判断された者たちを非人間的な労働に強制動員し、生
 産拡大を達成するとともに、その過程で死なせていくという、ナチス・ドイツ指導部の
 想定通りであった。
・ドイツとソ連との戦争を通常の和平交渉によって終わらせようとする動きもあった。た
 とえば、同盟国日本は、ドイツの戦力を吸収し、対米英の戦争努力を阻害する独ソ戦を
 終わらせたいと、さまざまなアプローチを試みていた。
・1942年2月から3月にかけて、海軍軍令部が駐日ドイツ海軍武官に独ソ和平を打診
 した。同3月、東郷茂徳外務大臣も、駐日ドイツ大使と独ソ和平の条件について話し合
 っている。ついで、陸軍参謀本部作戦部も独ソ和平工作に傾く。
・ところが、リッベントロップ外務大臣は、ドイツには対ソ和平の意思はないと日本側に
 通告した。 
・にもかかわらず、戦況が悪化するにつれ、リッベントロップは戦争継続と和平のあいだ
 で動揺するようになる。1943年前半、駐独日本大使大島浩に日本の対ソ参戦を慫慂
 していながら、一方では、和平の可能性を模索して、中立国スウェーデンでソ連側との
 接触を深めたのである。
・ファシスト・イタリアの独裁者、ベニート・ムッソリーニも、スターリングラードの敗
 戦後、ソ連との和平をヒトラーに訴えていた。しかし、結局のところ、日本も他の同盟
 国も、さらにはリッベントロップによる和平交渉の勧奨も、独ソ戦を、外交による解決
 が可能な戦争だと誤解しつづけたいたのである。

「バグラチオン」作戦
・1941年6月、ドイツ軍がソ連に侵攻したとの報を、米英は歓迎した。それによって、
 大国ソ連を味方に引き入れることができたと考えたのである。
・スターリンの外交攻勢の陰で、ソ連軍の側でも、人道を踏みにじる蛮行が繰り返される
 ようになっていた。東部戦線におけるドイツ軍の捕虜に対する扱いは苛酷であった。と
 はいえ、ソ連軍のそれも、とうてい戦時国際法を守ったものとはいえない。ソ連が取っ
 たドイツ軍捕虜の総数は、260万から350万まで諸説あるけれど、およそ30%が
 死亡しているというのは、おおかたの一致するところである。
・また、ドイツ兵だけでなく、ソ連国内の「適性住民」にも、非人道的な措置が適用され
 た。 
・ソ連には、ヴォルガ・ドイツ人をはじめとする多数のドイツ系住民が存在していた。独
 ソ開戦時で、その数は140万だったとされている。スターリンは、彼らに対し、シベ
 リア、カザフスタン、ウズベキスタンへの強制移住を命じたのだ。かくて、70万とも
 120万ともいわれる人々が、家畜搬送用の貨車、あるいは徒歩で大移動を行い、飢え
 や渇き、過剰に貨車に詰め込まれたがために酸欠で死亡した。また、移住先の環境も厳
 しく、最初の4年間の死亡率は、20ないし25%におよんだという。かかる強制移住
 の対象は、ドイツ系住民だけにとどまらず、のちには、ムスリムや旧バルト三国の国民、
 反スターリン運動が強かった西部ウクライナ住民にまで広げられた。
・前線のソ連軍将兵の蛮行も、その残虐さにひけをとるものではなかった。イデオロギー
 とナショナリズムの融合と、それによる国民の動員は、否が応でも敵に対する仮借なさ
 を増大させていた。いまや、祖国を解放し、ドイツ本土に踏み入ることになったソ連軍
 将兵は、敵意と復讐心のままに、軍人ばかりか、民間人に対しても略奪や暴行を繰り広
 げたのである。
・ソ連軍の行く先々で地獄絵図が展開されることになった。
 「女たち、母親やその子たちが、道路の左右に横たわっていた。それぞれの前に、ズボ
  ンを下げた兵隊の群れが騒々しく立っていた」 
 「血を流し、意識を失った女たちを一か所に寄せ集めた。そして、わが兵士たちは、子
 を守ろうとする女たちを撃ち殺した」
・「大祖国戦争」を標榜し、スターリン体制の維持とナショナリズムを合一させた政策は、
 ソ連側においても通常戦争の歯止めをはずし、犯罪好意を蔓延させていたのだ。ドイツ
 側もまた、ソ連側の蛮行に直面し、よりいっそう残虐なかたちで戦争を遂行することに
 なった。

ベルリンへの道
・ソ連軍は、北方軍集団の後方を遮断しつつ、ドイツ国境に迫っていた。軍事的にみれば、
 すでに戦争の決着はついていた。
・この窮境を見たリッベントロップ外相は、駐独日本大使大島浩を招き、ソ連との仲介を
 依頼した。日本側は、望み薄とは思いつつも、工作に着手し、その旨をリッベントロッ
 プに伝えた。ところが、結局、ヒトラーは最後まで軍事的成果に頼ると決定したという。
・しかし、ヒトラーはそうであったとしても、ドイツ国民は何故、絶望的な情勢になって
 いるにもかかわらず、抗戦を続けたのだろう。第一次世界大戦では、総力戦の負担に耐
 えかねた国民は、キールの水兵反乱にはじまるドイツ革命を引き起こし、戦争継続を不
 可能としたのではないか。ならば、第二次世界大戦においても、ゼネストや蜂起によっ
 て、戦争を拒否することも可能ではなかったか。
・ナチ体制は、人種主義などを前面に打ち出し、現実にあった社会的対立を糊塗して、ド
 イツ人であるだけで他民族に優越しているとのフォクションにより、国民の統合をはか
 った。しかも、この仮構は、軍事拡張と並行して実行された、高い生活水準の保証と社
 会的勢威の上昇の可能性で裏打ちされていた。
・とはいえ、ドイツ一国の限られたリソースでは、利によって国民の支持を保つ政策が行
 き詰ることはいうまでもない。しかし、第二次世界大戦前半の拡張政策の結果、併合・
 占領された国々からの収奪が、ドイツ国民であるがゆえに特権維持を可能にした。換言
 すれば、ドイツ国民は、ナチ政権の「共犯者」だったのである。
・ドイツ国民にとって、抗戦を放棄することは、単なる軍事的敗北のみならず、特権の停
 止、さらには、収奪への報復を意味していた。ゆえに、敗北必至の情勢となろうと、ド
 イツ国民は、戦争以外の選択肢を採ることなく、ナチス・ドイツの崩壊まで戦いつづけ
 たというのが、今日の一般的な解釈である。
・つまり、ヒトラーに加担し、収奪戦争や絶滅戦争による利益を享受したドイツ国民は、
 いよいよ戦争の惨禍に直撃される事態となっても、抗戦を放棄するわけにはいかなくな
 っていたのである。 
・スターリンとソ連にとっての独ソ戦はすでに、生存の懸かった闘争から、巨大な勢力圏
 を確保するための戦争へと変質していた。ドイツの侵攻前に獲得していた地域に加え、
 さらに領土を拡大することが戦争目的とされたのだ。
・こうしたスターリンの政策が如実に示されたのは、1945年2月にクリミア半島のヤ
 ルタで行われた米英ソ首脳会談であった。スターリンは、敗戦ドイツの分割統治のほか、
 ポーランド、バルト三国、チェコスロヴァキア、バルカン半島諸国を勢力圏とすること
 を求めた。
・大戦最終段階のドイツは黙示録的様相を呈していた。ドイツ本土に進攻したソ連軍は、
 略奪、暴行、殺戮を繰り返していたのだ。かかる蛮行を恐れて、死を選んだ例も少なく
 ない。なかには、集団自決もあった。
・加えて、ドイツが占領した土地へ入植した者、ロシア、ポーランド、チェコスロヴァキ
 ア、バルカン諸国のドイツ系住民が、ソ連占領軍や戦後に成立した中・東欧諸国の新政
 権によって追放されたことによっても、膨大な数の犠牲者が出ていた。彼ら「被追放民」
 は、財産を没収され、飢餓や伝染病に悩まされながら、多くは徒歩でドイツに向かった
 のだ。その総数は、1200万ないし1600万と推定されている。うち死者は100
 万とも200万ともいわれる。

<「絶滅戦争」の長い影>
・ドイツ側においては、軍事的な意味でも、ナチ犯罪・戦争犯罪という面でも、対ソ戦の
 責任は、戦後ながらく、死せるヒトラーに押しつけられ、ゆがめられた独ソ戦像が描か
 れてきた。国防軍の将軍たちは、陸軍総司令部は対ソ戦に消極的だったにもかかわらず、
 ヒトラーの意思に押し切られたとする伝説を広めたのだ。東部戦線で行われたジェノサ
 イドについても、すべて親衛隊のやったことで、国防軍は関与していないと述べたてた。
・しかし、このような将軍たちの仮構も、歴史研究が進み、また、冷戦終結後に国民意識
 が変化するにつれて、月くずされていった。
・独ソ戦とその結果は、さまざまに利用されてきた。最近では、プーチンのロシアが、民
 族の栄光を象徴し、現体制の正統性を支える歴史的根拠として、対独戦の勝利を強調し
 ているのは、周知のとおりだ。
・絶滅・収奪戦争を行ったことへの贖罪意識と戦争末期におけるソ連軍の蛮行に対する憤
 りはなお、ドイツの政治や社会意識の通奏低音になっている。敢えてたとえるならば、
 ドイツ人にとっての独ソ戦の像は、日本人が「満州国」の歴史や日中戦争に対して抱く
 イメージと重なっているといえよう。