国家の罠 :佐藤優
            (外務省のラスプーチンと呼ばれて)

この本は、いまから19年前の2005年に刊行されたもので、当時外務省に外交官とし
て務めていた著者が「鈴木宗男事件」に絡む背任、偽計業務妨害罪で逮捕され懲役2年6
月の判決を受けた顛末を記したものだ。
著者は、これは「国策捜査」によるものだったと主張している。
確かに、事件の過程を見ても、論告求刑の内容を読んでも、判決文を読んでも、私にはど
うもしっくりこない。無理やり犯罪者に仕立てられたように私にも感じられた。
この国策捜査の本当の目的は、鈴木宗男氏を追い落とすためだったのではないかと言われ
ている。
当時、鈴木宗男氏は、外務大臣の田中眞紀子氏と激しく対立していたようだ。
もっとも、田中眞紀子氏も外務大臣となった当初は外務省幹部と激しく対立し「外務省は
伏魔殿」のようだとの有名な言葉を吐いていた。
この国策捜査を仕組んだのは誰か。それははっきりとはしないが、この事件でいちばん得
をしたのは、外務省の一部の官僚だったというのが著者の見立てのようだ。
なんだか最後までモヤモヤが消えない内容の本だったが、当時の北方領土を巡る日本とロ
シアの外交関係がよくわかる内容だった。
それにしても、この19年前に刊行された本の中にプーチン大統領が出てきているのには
驚いた。くプーチン氏が如何に長く大統領の座にとどまっていることか。これはやはり、
明らかに独裁者と呼んで間違いないであろうと思った。
なお、北方領土交渉については、安倍晋三元首相がが首相在任中にロシアのプーチン大統
領と27回もの首脳会談を行ったが、結局、何の進展もないままプーチン大統領から袖に
された形で終わってしまった。何か収穫があったとすれば、ロシアは北方領土を日本に返
還する気はさらさらないのだということが、改めて明らかになったということだけだろう。

過去に読んだ関連する本:
性と国家
ソ連が満州に侵攻した夏
北朝鮮がアメリカと戦争する日
日本の「運命」について語ろう
永続敗戦論
戦後史の正体
長期腐敗体制

「わが家」にて
・私は楽しい「わが家」に戻ってきた。
 裁判の間は、東京地方裁判所地下二階にある「仮監」という独房に閉じ込められる。
 この檻は水洗トイレ、洗面所を入れて二畳、それに座布団がない。
・東京拘置所の独房は、三畳のたたみ部分に一畳のコンクリート床の洗面所と水洗トイレ
 がついている。
 部屋には買い置きの食料品や文房具があり、それに知り合いが差し入れてくれた分厚い
 座布団がある。
 座布団の有無といったちょっとした差が獄中生活では決定的な意味をもつ。
・拘置所ではラジオが貴重な情報源であり、娯楽だ。
 ニュースは、NHKの朝7時のニュースが正午に、正午のニュースが午後7時に約10
 分間放送されるが、東京拘置所で取り調べが行われている事件については検閲で放送が
 削除されることもある。
 平日は、午後5時から9時の就寝時までラジオが流れる。
・独房ラジオのスイッチとボリュームは独房の外側についている。
 この日、私の耳に飛び込んできたのは衝撃的な臨時ニュースだった。
 小泉純一郎総理が北朝鮮を日帰り訪問して、金正日総書記と会談したというのだ。
 あわてて看守に頼んでラジオの音量を最大にしてもらった。
 こうして時折飛び込んでくる臨時ニュースに関しては検閲は行われない。
 新聞購読が認められずニュースに飢えている私は、一語一句聞き逃すまいと、全身に神
 経を集中してラジオに聞き入った。
 メモを取りながら、血が騒いでくるのを感じた。
・そして、私は小机に向かい、次のようなレポートを一気にかきあげたのだった。
 「なぜこのタイミングで小泉首相が外交的「賭け」に出たのか。日朝国交正常化に向け
 て宰相としての強い想いがあることに疑問の余地はないが、日本経済に改善の兆しが見
 えないことに対する焦りから、国民的人気を飛躍させるためには内政・経済のみでは不
 十分との認識を抱き、外交的成果を狙ったのであろう。
 外務省としては、「松尾事件」、浅川事件(プール金詐欺)、更に鈴木宗男衆議院議員
 絡みの私の事件(背信・偽計業務妨害)、「瀋陽総領事館における北朝鮮人亡命未遂事
 件
」など一連の失態を日朝首脳会談カードで挽回しようとしたのであろう。
 この外務省の目論見が、吉とでるか凶とでるかについて云々するのは時期尚早だ。
 拉致問題で日本ナショナリズムという「パンドラの箱」が開いたのではないのか。
 ナショナリズムの政界では、より過激な見解が正しいことになる。
 日本のナショナリズムが刺激されれば、日露平和条約(北方領土)交渉も一層困難にな
 る。ナショナリズムは経済が停滞した状況では昴揚しやすい。
 日朝首脳会議の成果が日露関係にもつながることを、何人の外交専門家が気づいている
 であろうか」
・いったい何のために私はこんなレポートを作っているのだろうか。
 私は情報屋としては終わった人間だ。
 もう外交の現場に戻ることはない。
 私はそのことをよく自覚している。
 しかし、10年以上かけてついた職業的習性はそう簡単にはとれない。
・モスクワで親しくしていたソ連時代の政治犯のことばを思い出す。
 「強い者の方から与えられる恩恵を受けることは構わない。しかし、自分より強い者に
 対してお願いをしてはダメだ。そんなことをすると内側から自分が崩れる。矯正収容所
 生活は結局のところ自分との闘いなんだよ」

・1991年8月早朝、ソ連国営タス通信が「ゴルバチョフ大統領が病気のため執務不能
 になり、ヤナーエフ副大統領が大統領代行に就任した」と発表した。
 ソ連教壇等守旧派によるクーデターの勃発だ。
 全世界の関心がゴルバチョフの生死に集まった。
 当時、ソ連の政界は、中道改革のゴルバチョフ派、クーデターを起こした共産党守旧派、
 急進民主改革のエリツィン派に分かれていた。
 私は在ソ連邦日本大使館三等書記官で、内政と民族問題を担当していた。
・大使館幹部たちがゴルバチョフ派を重視していたので、私は「落ち穂拾い」として、
 教壇等守旧派とエリツィン派、つまり左右両極と深い付き合いをしていた。
 そのなかで守旧派の牙城と言われたロシア共産党のナンバー・ツーであったイリイン中
 央委員会第二書記が私のことを非常に可愛がってくれた。

・私の経歴は外交官としてはちょっと変わっている。    
 京都の同志社大学神学部と大学院で組織神学を学んだ。
 具体的にはチェコスロバキアにおける共産党政権とプロテスタント教会の関係をテーマ
 にしていた。
・1985年に外務省に専門職員で入省した理由も、ほんとうのことを言うとチェコ語の
 専門家となり、チェコの民族思想と神学を研究したかったからだ。
 しかし、外務省からはロシア語を学ぶことを命じられた。
 外交官の仕事を始めてみると、それはそれなりに面白い。
 この仕事を一生続けてもいいと思うようになった。
 もっとも、社会人になってからも神学と哲学の勉強は続けていた。
・私はモスクワ大学留学中に反体制学生運動活動家やバルト諸国の民族主義者と交遊を深
 めた。
 これらの人々が私が大使館で勤務する頃には議員やジャーナリストになり、反ソ連運動
 の指導的役割を果たすようになっていた。
 彼らに誘われてモスクワの秘密アジトで行われる研究会に参加したり、バルト諸国に
 「観光旅行」した際にモスクワ大学時代の友人の紹介で民族独立運動の中心となった人
 民戦線幹部たちとの人脈が広がっていった。
・同時に、政治的には急進改革派やバルト諸国の民族主義者と対極に位置する共産党守旧
 派の人々は、ソ連型共産主義の理念を心底信じていた。
 この人々にとっての共産主義とはソ連国家に対する愛国主義と同義であった。
 国のために生命を捨てる覚悟のできている人々という印象を私はもった。
 これらの守旧派の人々と私は「国家、民族とは何か」という話をざっくばらんにするよ
 うになった。 
 北方領土問題に関する私の説明にも熱心に耳を傾けてくれた。
・イリイン第二書記があるときこう言った。
 「あの戦争で神風攻撃をしたのは日本人とロシア人だけだものな。スターリングラード
 でロシア人も地雷を背負って戦車に突っ込んだんだよ。
 僕たちは国のために命を捨てた神風のパイロットたちを心底尊敬しているよ。
 北方領土を取り返したいという日本人の気持ちはよくわかる。
 しかし、僕たちはソ連の愛国者だから、今、ソ連の敵陣営に属する日本に島を渡すこと
 はできない」
  
・1991年8月のクーデター初日、私はイリインしから友人用の直通電話番号を教えら
 れていたので、イリイン氏と何度も電話で話した。
・私が探りたい情報は二つあった。
 第一は、ゴルバチョフ大統領の安否である。
 「ゴルバチョフは既に殺された」
 「ゴルバチョフはモスクワ郊外のKGB施設に監禁されている」
 など種々の噂が乱れ飛んでいた。
 第二は、このクーデターの成否についである。
・「ゴルバチョフは生きているんですか」
 「生きている」
 「ゴルバチョフが病気で執務不能になったということだけど、意識はあるのか」
 「ある」
 「病名は何か」
 「ラジクリートだ。しばらく経てば回復する」  
・「ラジクリート」という単語の意味を私は知らなかったので、大使館に戻ってから辞書
 を引いた。「ラジクリート=脊椎神経根炎、ギックリ腰」
・大統領が執務不能になった病気がギックリ腰であるというのは噴飯物だが、ゴルバチョ
 フの安否を正確に知りうる立場にいるクーデター派高官から、「ゴルバチョフは生きて
 いる」という確度の高い情報をとったことは大きな成果だった。
・後にこの情報について当時ソ連課長であった「東郷和彦」氏から「ゴルバチョフの生存
 を確認する非常に早い情報だった」と評価された。
・クーデター未遂事件は三日間で終わった。
 勝利を宣言したエリツィン・ロシア共和国大統領は、ロシア共産党とロシア領内におけ
 るソ連共産党の活動を禁止した。
・イリイン氏は政治活動から距離を置き、ビジネスにも転出せず、名目上はコルホーズ
 (集団農場)から衣替えしたモスクワ郊外の農業コンツェルンの理事に就任したが、
 世の中との交わりを避けるようになった。
 ソ連の崩壊と共に、イリイン氏の健康も急速に破壊されていくのが淋しかった。
 時間の経過と共にイリイン氏の酒量が増え、独りでウォトカ3本、コニャック2本くら
 いを平気で飲み干す様子を見て、私は少し不安になってきた。
・1998年初夏、ロシアから知り合いの共産党幹部が訪日した際にイリイン氏が前年に
 死去したと教えられた。

逮捕前夜
・今振り返ってみると、東京地方検察庁特捜部は、この時点ですでに国際機関である
 「支援委員会」絡みの背任容疑で私を逮捕し、そこから「鈴木宗男」氏につなげる事件
 を”作る”という絵図を描いていたに違いない。
・1991年12月にソ連は崩壊し、旧ソ連邦構成共和国はすべて独立した。
 これらの諸国にとって社会主義的計画経済から市場経済に向けての構造転換が最重要の
 課題になった。
 「支援委員会」はバルト三国を除く旧ソ連邦構成共和国十二カ国の改革を支援するため
 に1993年1月に作られた国際機関である。
 そして、同委員会は2003年4月に廃止されたのだった。
・通常、国際機関は各国から拠出金を募り、国際機関が独自の判断で事業を決定するが、
 支援委員会に関しては、資金を供与するのは日本政府だけで、しかも日本政府が決定し
 た事業を支援委員会が執行するというきわめて変則的な国際機関だった。
 モスクワの日本大使と外務本省のロシア支援室長が日本政府代表だが、その他諸国政府
 の代表は空席であるという状態が続いていた。
・支援委員会の活動と特筆すべきは、北方領土関連の業務である。
 北方四島は日本領なので、厳密に言えばロシアに対する支援ではないが、四島住民への
 人道支援も支援委員会の重要な任務のひとつとなっていた。
・それでは、この支援委員会の活動の何を検察は問題視してきたのだろうか。
 彼らが目をつけたのは、外務省が改革促進事業の一環として、2000年1月にロシア
 問題の国際的権威であるゴロデツキー・テルアビブ大学教授夫妻を訪日招待したことを
 端緒とした有識者の国際的な学術交流だった。   
 さらに同年4月には、テルアビブ大学主催国債学会「東と西の間のロシア」に日本の学
 者等7名と外務省職員6名を派遣した。
 これら二つの事業が支援委員会設置協定に違反し、総計三千三百万円の損害を支援委員
 会に与えたので、この事業で主導的役割を果たした私を背任罪として刑事責任を追及す
 るというのが検察の論理だった。
・「東郷和彦」氏と「前島陽」氏と私の三人は、1994年から95年にモスクワの日本
 大使館に勤務するという共通の経験を持っていた。
 東郷氏は特命全権公使、私と前島氏は政務担当の二等書記官だった。
・1996年秋、東郷氏が欧亜局審議官に就き、対露外交の司令塔としての機能を果たす
 ようになった。
・1997年7月、経済同友会における演説で「橋本龍太郎」総理が日露関係を「信頼」、
 「相互利益」、「長期的な視点」の三原則によって飛躍的に改善すべきであるという
 「東からのユーラシア外交ドクトリン」を提示するが、この三原則は東郷審議官が起案
 したものだ。
・この演説を契機に日露関係は、北方領土交渉を含めて大きく動き出す。
 この頃、前島氏はロシア支援室総務班長に異動していたが、北方領土問題を解決し、日
 露関係を戦略的に転換することが日本の国益に貢献すると確信し、いろいろなアイデア
 を私と率直に話し合うようになっていた。
 そして、東郷審議官も前島補佐の能力に着目し、目をかけるようになった。
 一言でいうと、1997年以降、東郷審議官、前島補佐、私は同じ対露外交戦略で結び
 ついた盟友関係にあったのである。 
・鈴木宗男衆議院議員から電話がかかってきた。
 過去数年、私は一日一回は鈴木氏と何らかの形で連絡をとることが習慣となっていたが、
 鈴木バッシングの高まりとともに外務省関係者が鈴木氏から離れていくのを横目で見な
 がら、逆に私は鈴木氏に毎日二回、電話をすることにした。
・人間には学校の成績とは別に、本質的な頭の良さ、私の造語では「地アタマ」があると
 いうことを私はソ連崩壊前後のモスクワで体験を通じて確信するようになった。
 鈴木氏は類い稀な「地アタマ」をもった政治家だった。
・鈴木氏から再び電話が入った。
 「どんなことがあっても早まったまねをしたらだめだぞ。俺や周囲のことはどうでもい
 いから、自分のことだけを考えてくれよ。俺のためにあんたがこうなってしまい本当に
 申し訳なく思っている」
 どうやら私が思い詰めて自殺することを心配しているらしい。
・まずは弁護士への連絡だ。半蔵門法律事務所の大室征男弁護士に電話をかけて「検事が
 やってきます。いよいよ逮捕です」と伝えた。
・大室氏は、
 「自分は何もやっていないのに不当逮捕されたから黙秘するというのもひとつの選択で
 すが、公判の現状では黙秘は浮利です。特に特捜事案では黙秘しない方がよいと思いま
 す。事実関係をきちんと話し、否認することです」
 というアドバイスをしてくれた。
 これは実に的確なものだったと後でわかった。
・当初、私は政治事件に関しては、取り調べの段階では完全黙秘を通した方がよいと考え
 ていたが、もしそのような選択をおこなったならば、検察がどのような恐ろしい「物語」
 を作り上げていたことを想像すると、今でも背筋が寒くなる。
 
田中眞紀子と鈴木宗男の闘い
・「自民党をぶっ壊す」
 そんなスローガンを掲げて小泉純一郎内閣が誕生したのは、2001年4月のことだっ
 た。
 発足時の支持率は80パーセントを超え、森前内閣の不人気で崩壊の危機に瀕している
 とすら言われた自民党は、小泉総理の言葉とは裏腹に奇跡的な復活を果たしたのだった。
・小渕恵三総理の緊急入院を受けて、自民党の実力者五人の指名により後継総裁となった
 森喜朗氏だったが、密室で誕生したと批判された森内閣は低支持率に苦しみ、わずか一
 年足らずで崩壊。同時に自民党自体も危機的な状況に陥ってしまう。
・身体窮まった自民党執行部が目をつけたのが、政界では「変人」といわれた小泉氏だっ
 た。少なくとも当時は妥協を許さないといわれた小泉氏の政治姿勢は、多くの国民から
 強い支持を受けた。
 そして、この時「小泉内閣生みの母」の役目を果たしたのが、田中眞紀子女史だった。
・従来の永田町政治のメインストリームからは”異邦人”だと見られており、それゆえ人
 気も高かった小泉・田中の二人が手を組んで登場してきたことで、国民的な熱狂は一大
 ブームとまでになる。
 異常な興奮は田中眞紀子女史が小泉新政権において外務大臣という重要閣僚のポストに
 就いたことで、最高潮に達する。
・それから、約四年を経った今日、小泉首相と田中女史とのコンビは早々に解消され、田
 中女史の姿は政権内どころか、自民党にすらない。
 そして、支持率維持を”最優先課題”にして場当たり的な印象の強い政治を行ってきた
 小泉首相の人気も、いよいよ本格的にかげりが見え始めてきている。 
・「構造改革なくして景気回復なし」
 就任当時、小泉首相が何度となく繰り返したこのスローガンを今思い返すと、多くの人
 々は空々しい気分になるかもしれない。
 「改革などほとんど実現しなかったではないか」
 「小泉政権の公約は空約束のオンパレードだ」
 という声も聞こえてくる。
・確かにそれはその通りだ。
 小泉首相が改革の俎上にあげた個別の組織や制度に関しては中途半端な点が目立つのは
 事実である。 
・しかし、日本という国の根本的方針が、小泉政権の登場前と後では大きく変貌を遂げた
 というのが、私の分析である「。
 歴史を振り返った時、あの時がターニングポイントとなったという瞬間がある。
 「小泉内閣の誕生」は、日本にとってまさにそんな瞬間だったのではないだろうか。

・小泉政権がスタートしたとき、自民党同様に外務省もまた、未曽有の危機に瀕していた。
 年明け早々に「松尾克俊」元要人外国訪問支援室長の内閣官房報償費(機密費)詐取事
 件が明るみに出たのをきっかけに、「組織ぐるみ」の機密費流用や首相官邸への機密費
 「上納」などの疑惑は芋づる式に広がった。
 こうした「腐敗」は世論の猛烈な怒りを買った。
・一方、この時期、本業である外交活動でも停滞が目立った。
 特に森前総理と「プーチン大統領」の間で行われた日露首脳会談について、北方領土問
 題の解決を遠ざけたのではないかという批判が強まった。
 2000までに日本とロシア間で平和条約を締結するという外交目標があったのに、結
 局はその具体的な道筋をつけることができなかったからである。
・そんな状況に置かれた外務省に、世論の圧倒的な後押しを受けて、意気揚々と乗り込ん
 できたのが田中眞紀子女史だったというわけだ。
・2001年4月、外務大臣に就任した田中女史は、自民党守旧派の幹部として、また、
 外交族として同省に影響力を持っていた鈴木宗男氏と激しく対立。
 二人は「天敵」同士として泥仕合を繰り広げ、外務省を大混乱に陥れた。
・田中女史が外相のポストにあった約九ヵ月の間、新聞、テレビや週刊誌など多くのマス
 コミは基本的にはこの構図で二人の関係を取り上げた。
 しかし、実態はそう単純なものではなかった。
 そこには外務省内部の権力闘争、「知り過ぎた」政治家を知り過ぎた政治家を排除した
 いという外務省の思惑、自民党内の内部抗争、また、支持率維持を最優先とする官邸の
 思惑など、さまざまな要素が複雑に絡み合っていたのである。
・田中女史は記者会見で、今後の日露関係について、
 「1973年の田中(角栄)・ブレジネフ会談が原点だ。当時は四島一括返還でという
 ことだったが、途中で二島先行して返還してもらうのがいいのではと方向転換している。
 もう一度原点に立ち返り、しっかり検討したい」
 と述べたのだが、そのことは、既に日露外交専門家の間では日本政府の外交方針転換に
 繋がると大きな波紋を呼んでいた。
・鈴木宗男氏は「東郷さん、田中大臣は事情をよくわからないので、田中角栄に対する強
 い思い入れであるような発言をしているのだから、あんた、事情を丁寧に説明してやっ
 てくれ」と言った。
・東郷局長は、私は以前から田中大臣とは面識があるので、私が説明すればきっと理解し
 てくれるでしょう」と楽観的だった。
 しかし、後になって考えると東郷氏の「説明」が田中眞紀子女史の鈴木宗男氏、東郷和
 彦氏、私に対する心証を悪化させる端緒になった。
・東郷氏は話術が巧みで、特に政治家に対して複雑な外交案件をわかりやすく説明する才
 能がある。
 ただし、気分が高揚すると声が大きくなり、時に机を叩いたりして熱を込めて説明する
 ことがある。このときはそれが裏目に出た。
・その数日後、私は外務省幹部に呼ばれた。
 「東郷の大臣への説明はまずかったな。田中大臣は東郷に恫喝されたと言いふらしてい
 るよ。それから、誰が吹き込んだかわからないが、田中さんは君のことを『ラスプーチ
 ン』と呼んでいて、『ラスプーチンを早く異動させろ』と言うんだ。田中さんは『世の
 中には、家族、使用人と敵しかいない』と公言しているんけど、君や東郷に対する目つ
 きは敵に対する目つきだ」
 
・1945年8月、ソ連は当時有効だった日ソ中立条約を侵犯して、日本に戦争をしかけ
 てきた。
 ポツダム宣言を受け入れ、日本は無条件降伏したが、法的には平和条約が締結されては
 じめて戦争が終わる。
 平和条約には、戦争状態が終わり、外交関係が再開されることと、領土・国境問題があ
 る場合には、その解決について記されるのが通例である。
 アメリカ、イギリスなどほとんどの国とは1951年のサンフランシスコ平和条約で戦
 争状態は終結した。
・ロシア(ソ連)との間は、未だ平和条約が締結されていない。
 1956年の日ソ共同宣言で、両国間の戦争状態は終結し、外交関係が開始された。
 しかし、領土問題が解決されてないので平和条約は締結されなかたのである。
・その後、ロシアに対して歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島の北方四島が日本領である
 ことを確認して平和条約を締結することが日本の国家目標となった。
・北方領土問題に絡みで重要な文書は三つある。
 @1956年の日ソ共同宣言(鳩山一郎首相、ブルガーニン首相らが署名)
  ソ連は平和条約締結後に歯舞群島、と色丹島を日本の引き渡すことを約束している。
  共同宣言という名前ではあるが、これは両国国会で批准された国際条約で、法的拘束
  力を持つ。
  しかし、1960年にソ連政府は、日本からの全外国軍隊(米軍)撤退という追加条
  件を付け、この約束を一方的に反故にしてしまった。
 A1993年の東京宣言(細川護熙首相、エリツィン大統領が署名)
  北方四島の名前を列挙し、四島の帰属の問題を解決して、平和条約を締結すると約束
  している。 
 B2001年のイルクーツク声明(森喜朗首相、プーチン大統領が署名)
  1956年の日ソ共同宣言を「平和条約締結に関する交渉プロセスの出発点を設定し
  た基本的な法的文書であることを確認し、童子の東京宣言の内容も確認している。
・イルクーツク声明は、戦後の北方領土交渉の成果を最大限に盛り込んだ、日本にとって
 最も有利な外交文書である。
 ただし、東京宣言とイルクーツク声明は、重要な政治的合意ではあるが、法的拘束力は
 もたない。  
・1973年の田中(角栄)・ブレジネフ会談では、日ソ共同声明が発表され、そこには、
 「双方は、第二次大戦の時からの未解決の諸問題を解決して平和条約を締結することが、
 両国間の真の善隣友好関係の解決に寄与することを確認し、平和条約の内容に関する問
 題について交渉した」と記されている。
・田中・ブレジネフ会談以降、日ソ(露)関係は冷え込み、18年後のゴルバチョフ大統
 領の訪日まで首脳会談は実現しなかった。
 外相レベルの平和条約交渉ですら10年以上も中断してしまったのである。
・田中・ブレジネフ会談は冷戦時代の象徴であり、田中女史がこの会談を今後の日露関係
 の基礎にすると述べたことをロシア側が小泉新政権の対露外交政策の基本的変化と受け
 止めたことにはそれなりの根拠がある。
   
・一般に日本外交は対米追従で、外務省には親米派しかいないという論評がなされる。
 この論評は、半分ずれていて、半分あたっている。
 日本外交は常にアメリカに追従しているわけではない。
 日本がアメリカの方針に従わないことも多い。
 しかし、私を含め、外務省員は全員親米派である。
・冷戦構造の崩壊を受けて、外務省内部でも、日米同盟を基調とする中で、三つの異なっ
 た潮流が形成されてくる。そして、この変化は外部からは極めて見えにくい形で進行し
 た。 
 @第一の潮流:アメリカとの同盟関係の強化
  冷戦がアメリカの勝利により終結したことにより、今後、長期間にわたってアメリカ
  の一人勝ちの時代が続くので、日本はこれまで以上にアメリカとの同盟関係を強化し
  ようという考え方である。
 A第二の潮流:アジア主義
  アメリカを中心とする自由民主主義陣営が勝利したことにより、かえって日米欧各国
  の国家エゴイズムが剥き出しになる。
   世界は不安定になるので、日本は歴史的、地理的にアジア国家であるということを
   もう一度見直し、中国と安定した関係を構築することに国家戦略の比重を移し、そ
   のうえでアジアにぃて安定した地位を得ようとする考え方である。
 B第三の潮流:地政学論
  共産主義というイデオロギーがなくなった以上、対抗イデオロギーである反共主義も
  有効性を喪失したと考える。
  その場合、日本がアジア・太平洋地域に位置するという地政学的意味が重要となる。
  つまり、日本、アメリカ、中国、ロシアの四大国によるパワーゲームの時代が始まっ
  たのであり、この中で、最も距離のある日本とロシアの関係を近づけることが、日本
  にとってもロシアにとっても、そして地域全体にとってもプラスになる、という考え
  方である。  
・「地政学論者」の数は少なかったが、橋本龍太郎政権以降、小渕恵三、森喜朗までの三
 つの政権において、「地政学論」とそれに基づく日露関係改善が重視されたために、こ
 の潮流に属する人々の発言力が強まった。
・外務省には、東大閥、京大閥、慶應閥といったいわゆる学閥は存在しない。
 代わりに、外務省用語では「スクール」と呼ばれる、研修語学別の派閥が存在する。
 それらは、「アメリカスクール(英米派)」「チャイナスクール(中国派)」「ジャー
 マンスクール(ドイツ派)」「ロシアスクール(ロシア派)」などに大別される。
・さらに、外務省に入ってからの業務により、法律畑を歩むことの多かった人々は「条約
 局マフィア」、経済協力に関しては「経協マフィア」、会計部門の専門家は「会計マフ
 ィア」というような派閥が存在する。
・人事はもっぱら「スクール」や「マフィア」内で行われ、情報もなるべく部外へは漏ら
 さないことで、省内にはいくつもの閉鎖した小社会が形成されることになった。
 これがよい方向に出れば、専門家集団としての活力を十二分に生かすことができるし、
 悪い方向に出れば、不正の温床になってしまう。
・外務省の場合、対露政策については、欧洲局長の指揮下、ロシア課長が具体的戦略を策
 定し、それが通常日本の外交政策となる。
 しかし、人事の巡り合わせから局長、課長がロシア専門家ではない、あるいは「ロシア
 スクール」に属していても能力的に劣る人物の場合には、実質的な意思決定が「ロシア
 スクール」に親分恪の人々によってなされることになる。
 この親分恪にあたるのが「丹波寛」氏であり「東郷和彦」氏だった。
・人事についても、公には人事課に決定権があるのだが、ロシア関係者、中国関係者や会
 計関係者については、「ロシアスクール」「チャイナスクール」「会計マフィア」がが
 っちりと握っている。  
・派閥があれば必ず抗争が生じ、それがまた必然的に人事と結びつく。
 しかし、派閥の存在が肥大化すると、往々にして抗争自体が自己目的化しはじめること
 になる。そうした動きを組織が抑えきれず、組織の目的追求に支障をきたすようになっ
 た時、組織自体の存亡にかかわる危機となるのである。
・外務省の場合、田中眞紀子外相の登場により、組織が弱体化したことで、それがこれま
 で潜在していた省内対立を顕在化させることになり、機能不全を起こした組織全体が危
 機的な状況へと陥った。
 その際、外務省は、そもそも危機の元凶となった田中眞紀子女史を放逐するために鈴木
 宗男氏の政治的影響力を最大限に活用した。そして、田中女史が放逐された後は、「用
 済み」となった鈴木氏を整理した。この過程で鈴木宗男氏と親しかった私も整理された。
・一部の外務省関係者が「佐藤優は、鈴木宗男の意向を受けて外務省を陰で操るラスプー
 チンだ。組織を健全化するためには、早く佐藤を追放しなくてはならない」という話を
 新聞や週刊誌の記者に流しているということは私の耳も入っていた。
・この時、田中女史に働きかけて私を追放しようと画策する人々の中心になっていたのが
 「小寺次郎」ロシア課長だということは、すぐにわかった。
・小寺氏とはモスクワで一緒に仕事をしたことがあった。
 特に親しくもなかったが、敵対してわけでもない。それなりに関係は維持できていた。
 それが崩れ、小寺課長と私、そして東郷局長の関係が決定的に悪化したのは、2000
 年秋からである。
・1997年11月、橋本龍太郎首相とエリツィン大統領がシベリアのクラスノヤルスク
 で会って、
 「東京宣言に基づき、2000年までに平和条約を締結するよう全力を尽くす」
 と合意した。
 東京宣言では、北方四島の帰属問題を解決するということが明記されている。
 つまり、クラスノヤルスクの合意とは、2000年までに北方領土問題を解決するため
 に全力を尽くすという約束を日露両首脳が取り交わしたことに他ならない。
・そして、1998年4月、静岡県伊東市川奈で橋本首相はエリツィン大統領に対して、
 北方領土問題を基本的に解決し、平和条約締結が可能になる大胆な秘密提案を行った
 (川奈提案)。
・しかし、その後、2000年夏時点で、両国の首脳も替わり、年末までに北方領土問題
 を解決することは非現実的な状況になっていた。
 プーチン大統領が9月に訪日することが予定されていたが、その際にプーチンが「川奈
 提案」を正式に拒否することになるという感触を日本側はつかんでいた。
・日ソ共同宣言は、「宣言」という名前だが、両国の国会で批准された法的拘束力をもつ
 国際条約だ。
 それにもかかわらず、ブレジネフ書記長、ゴルバチョフ大統領は、ソ連が歯舞群島、色
 丹島を日本に引き渡す義務を負っていることについては頬被りをしていた。
・エリツィン大統領も1956年共同宣言の有効性について間接的には認めたが、歯舞群
 島、色丹島の引き渡し問題については踏み込まなかった。
・1956年以降、日本政府の立場は四島に対する日本の主権を確認することで日露(ソ)
 和平条約を締結するということで一貫している。
 平和条約が締結されれば、北方四島のうち、歯舞群島、色丹島の二島が日本に引き渡さ
 れることについては既にロシア(ソ連)との間で合意している。
・したがって、日本の立場からすると国後島、択捉島が日本領であることを確認すること
 が平和条約交渉の要点なのである。
 日本はまず1956年宣言の二島引き渡しをロシア(ソ連)に認めさせ、そのうえで国
 後島、択捉島の日本の主権を認めさせるというのが日本政府の冷戦時代からの伝統的 戦
 略だった。
・東郷氏が「二島返還」で和平条約を締結することを考えたことは一度もない。
 東郷氏が「二島先行返還」すなわち、歯舞群島、色丹島を先に返還し、国後島、択捉島
 の帰属が決まらなくても平和条約を締結することができるなどと考えたこともない。
 歯舞群島と色丹島についてはロシアから日本への引き渡しについて合意しているのだか
 ら、「返還の具体的条件」について話し合い、国後島、択捉島については帰属について
 交渉するという「2+2方式」が日露平和条約交渉を加速する現実的方策と東郷氏は考
 えらのである。
・2000年9月のプーチン大統領訪日直前に、大統領訪日時に合意しようとしていた重
 要文書の日本案が朝日新聞に漏れてしまった。
 これに対して森喜朗首相が激怒。
 外務省では東郷氏が中心となり、かなり本気で「犯人探し」をしたが、漏洩者を最終的
 に特定することはできなかった。
・プーチン訪日後、東郷局長は、ロシア課では機微な情報工作を行うことは無理だと判断
 し、当時私がチームリーダーをつとめ、国債情報分析第一課内に設けられていた「ロシ
 ア情報収集・分析チーム」に対して、いくつかの特命案件の処理を命じた。
・これまで「チーム」の活動について、職制上はロシア課長に対して報告義務はなかった。
 しかし、私はロシア課長にはできるだけ「チーム」に与えられている仕事の内容を説明
 するようにつとめた。 
 小寺氏の前任ロシア課長・篠田研次氏との間では、意思疎通がよくできたので、大きな
 トラブルはなかった。
・小寺課長になってからも意思疎通はできていたが、肝胆相照らすという関係にはならな
 かった。
 私は、ロシア課のなかに鈴木宗男氏、東郷和彦局長、そして、私を中心とする「ロシア
 情報収集・分析チーム」メンバーに対する不満が蓄積されているのを感じた。
・小寺氏の名誉のために述べておくならば、小寺氏は自らの出世だけを考え他人を蹴落と
 すためにさまざまな画策をするという陰謀家ではない。
 小寺氏には自分の美学があり、それを大切にする。いわゆる真面目な官僚であり、どろ
 どろした政治の世界から外交官はできるだけ距離を置いて、外務省という「水槽」のな
 かの秩序を正しく維持する。
 私の見るところ、それこそが小寺氏の美学である。
 したがって、部下に能力を超えるような困難な仕事を与えたり、長時間の残業を強いる
 こともない。そういう意味では理想の上司だ。
・東郷局長の仕事スタイルは小寺課長と対照的だ。
 極端な能力主義者で、能力とやる気のある者を買う。
 東郷氏自身も、英語、フランス語、ロシア語が堪能で、相当困難な交渉も通訳の助けを
 借りずにできるロシア語の語学力をもつ数少ないキャリア外交官だ。
 私は東郷氏とモスクワで二年間共に仕事をしたが、東郷氏ほどロシアの政治・経済・学
 術のエリートに食い込んだ外交官はいなかった。
・2000年秋以降、対露関係で、官邸絡みのいくつかの重要案件に関する指示が小寺ロ
 シア課長を迂回して、東郷局長から私に直接なされるようになった。
 私は東郷氏に対して「このままだと、ただでさえ複雑な私のチームとロシア課の関係が
 一掃複雑になります。その点について配慮してください」と要求した。
 これに対して東郷氏は「ロシア課にはあなたを慕っている人も多いので、心配しないで
 よい。小寺は僕がきちんと抑える」   
・特に2000年12月、クレムリンで行われた鈴木宗男自民党総務局長とプーチン大統
 領側近のセルゲイ・イワノフ安全保障会議事務局長との会談については、事前にロシア
 課には課長を含めその計画を一切知らせていなかったので、私と小寺課長の関係は決定
 的に悪化した。
・私は「東郷さん、このような体制で仕事をいつまでも続けることはできません。チーム
 員の負担が大きすぎます。作業の一部をロシア課に移管すべきです」と訴えたが、
 東郷局長は「あと2,3ヵ月だ、平和条約への道筋ができれば、みんな理解してくれる。
 まずは成功することだ」と言った。
・ある意味で東郷局長の主張は正しかった。
 しかし、私にとっても東郷氏にとっても不幸だったのは、その正しさが成功によってで
 はなく、失敗によって証明されたことだ。
 結局、平和条約への道筋をつけることはできなかったのである。 
 それゆえに東郷氏も私も「チーム」も外務省の同僚たちからは理解されず、反感だけが
 蓄積されたのだった。そして、それは巨大なマグマのうねりのように地中で蠢き始めて
 いた。
 これが、田中眞紀子外相誕生前夜に、私たちが置かれていた状況だったのである。

・小泉政権が発足した後、2001年のゴールデンウィーク中のことだ。
 田中女史が上高地の別荘にいる小寺氏に電話をかけた際、小寺氏は鈴木宗男氏と東郷局
 長、佐藤にかなりひどい目に遭わされたということを訴えたという話が、新聞記者を通
 じて私の耳に入ってきた。 
・3月にロシア課長から英国公使へ異動の命令を受けていた小寺氏は、5月7日にロンド
 ンに赴任するために成田空港を飛び立った。
 その日の夕刻、まだ小寺氏がロンドンに着く前に、ある成功ブローカーが私との面会を
 強く求めてきたので、都内某所で密会した。情報ブローカーは、
 「田中眞紀子が小寺をロンドンから呼び戻すことにした。再びロシア課長に戻す人事を
 強行し、鈴木宗男を挑発するつもりだ。次はあなたをアフリカか砂漠の国に追い出すこ
 とを考えている。十分注意したほうがよい」
 と伝えてきた。
・昼前に私の携帯電話が鳴った。「渡邉正人」ロシア課長からだった。
 小寺氏が田中大臣に「私をロシア課長の戻すよりも、佐藤優を何とかしてください」
 と言ったという。
・私は自分に迫っている危険について心配するよりも、自らのリスクを省みずに正確な情
 報を伝えてきれた渡邉氏の勇気に感激した。
・私はこの話を東郷局長と信頼する外務省幹部に伝えた。
 東郷氏は、田中眞紀子女史の矛先がとりあえず自分ではなく、私に向かうので、ちょっ
 と安心したようだった。   
 もう一人の外務省幹部は「馬鹿だな小寺は、ほんとうに馬鹿だな。何でそんなことを言
 いふらすんだ」と言ってその後は絶句した。
・その日は夜遅くまで私は鈴木氏と話し込んだ。
 私は「ここは一歩後退・二歩前進で、『チーム』も解散し、私も異動し、対露外交は、
 新執行部の『お手並み拝見』で行くべきだと主張した。
・だが、鈴木氏はこれに反対した。
 「この問題は、あんた個人にとどまらない。田中も小寺も超えてはいけない一線を超え
 た。これに対しては責任をとってもらわなくてはならない。あんたは日本の国益のため
 にここまで一生懸命にやってきたんだろう。そのあんたの仕事を評価しないのはおかし
 な話だ。もはや官僚の力ではあんたを守りきれない」
・信頼する外務省幹部は次のような話をした。
 「5月8日、アーミテージ米国務副長官との会談をトダキャンしたが、婆さん(田中女
 史)はその時、大臣就任祝いにもらった胡蝶蘭への礼状を書いていたんだ。これに対し
 てみんなが危機感をもった。来日したアメリカ政府の要人に会うより、胡蝶蘭の礼状書
 きがプライオリティの高い仕事だというのだからね」
 にわかには信じられなかった。私は「ほんとうですか」と尋ねた。
・すでにこの時期、田中外相と外務官僚の対立は世間に広く知られるようになっていた。
 対立の発端は、田中女史が就任早々に発した「人事凍結令」だった。
 この凍結令によって前外相時代に内定していた大使19人と退任帰国予定の幹部7人の
 人事がストップされるという異例の事態になったのである。
 もちろん、これまで述べてきた小寺氏に関する人事もこのなかに含まれる。
・省内の緊張が高まるなかで田中女史は「外務省は伏魔殿」と発言。
 さらに、川島事務次官、飯村官房長官らを「大臣室出入禁止」にしたことで外相と官僚
 の対立はいよいよ深刻なものとなっていた。
・私は、田中眞紀子女史は「天才」であると考える。
 田中女史のことばは、人々の感情に訴えるのみではなく、潜在意識を動かすことができ
 る。
 文化人類学で「トリックスター(騒動氏師)」という概念があるが、これがあてはまる。
・「トリックスター」は、神話や昔話の世界によく見られるが、既成社会の道徳や秩序を
 揺さぶるが、同時に文化を活性化する。
 田中女史の登場によって、日本の政治文化が大きく活性化されたことは間違いない。
 しかし、問題は活性化された政治がどこに向かっていくかということだ。
・小寺氏をロシア課長に再任することについて、外務省幹部は強く抵抗した。
 もはや、小寺氏を巡る「ロシアスクール」内部のいざこざにはとどまらない大問題とな
 った。外務大臣が従来の慣行を無視して、恣意的に人事を行うようになると外務省の秩
 序が崩れ、官僚がパトロン政治家に媚を売り、行政の中立性が侵害されるとの危機意識
 が強まった。  
・これまで鈴木氏の影響力を排除するために、田中女史を最大限に活用した一部外務省幹
 部たちも、急速に反田中色にした。
 私とあまり親しくないある幹部が、廊下ですれ違いぎわに、
 「俺たちは田中眞紀子をジャンヌ・ダルクと思っていたが、実は西太后だった」
 と私に囁いた。
・外務省幹部は、小寺氏がロシア課長任命を固辞することを期待していたのだ。
 ある幹部が私にこううち明けた。
 「小寺は変わった奴だよ。こんな人事は固辞すると思っていたが、受けたよ。嬉しそう
 にしていたんだ。あいつには呆れたよ」
・鈴木宗男氏とのき軋轢ではむしろ小寺氏に同情的であった外務省幹部も、小寺氏が田中
 女史を後ろ盾にしたことにより、厳しい眼で小寺氏を見るようになった。
・この一件で、外務省の鈴木宗男氏に対する依存度は一層強まり、それぞれの思惑から、
 今まで私と親しくなかった幹部や中堅幹部が私に接触してくるようになった。
 私を通じて、鈴木氏の覚えをめでたくしようとの思惑が透けて見えた。
・小寺氏がロシア課長に復帰した後、鈴木氏が最も懸念したのは、田中女史の気迫に押さ
 れて、対露外交政策に揺らぎが生じ、日露関係が再び不信の構造に陥っていくことだっ
 た。 
 
・それまで私は一カ月から一カ月半に一回はロシアに出張して、自分の眼と耳で政治情勢
 をつかむようにつとめていたが、田中女史が外相に就任した後、それをやめた。
 第一の理由は、モスクワの政治エリートから「表面上の説明はともかく、日本の対露政
 策が変化したのではないか」という突っ込んだ質問がなされることが目に見えており、
 私の「引き出し」には、それに対する答えがなかったからだ。
 第二の理由は、小寺課長と私の関係は既に修復不能となっており、とりあえずの「手打
 ち」後の鈴木氏と田中女史の関係が「冷たい平和」とするなら、小寺氏と私の関係は
 「冷たい戦争」状態だったからである。
・「冷たい戦争」を「熱い戦争」に転換させないことが「チーム」メンバーと私と親しい
 ロシア課員を困難な状況に追い込まないために不可欠だった。
 そのためには目立たないことが重要だった。
 私や「チーム」メンバーの出張をとりやめ、「チーム」の会合も差し控え、また、私や
 「チーム」メンバーが研修生に対して行っていたロシア語やロシア事情に関する教育も
 やめた。  
・しかし、「チーム」の活動をやめたわけではない。
 ロシア情勢は依然注意深くウォッチする必要があったからだ。
 イスラーム原理主義のロシアに与える影響と大量破壊兵器(核兵器、生物化学兵器)
 不拡散問題に対するロシアの姿勢を重点調査項目にした。
 
・当初、外務省内の雰囲気は基本的に反田中が基調だった。
 しかし、田中女史が外相に長期間とどまるとの見方が強まるにつれて、田中女史に接近
 し、自己の権力基盤を強化しようと図る幹部も出始めた。
・田中女史周辺の外務官僚、秘書官たちは、田中女史からのモラルハラスメントにもかか
 わらず、外相に献身的に仕えた。
・国際情報屋には、猟犬型と野良猫型がいる。
 猟犬型の情報屋は、ヒエラルキーの中で与えられた場所をよく守り、上司の命令を忠実
 に遂行する。  
 全体像がわからなくても危険な仕事に邁進する。
 野良猫型は、たとえ与えられた命令でも、自分が心底納得し、自分なりの全体像を掴ま
 ないと決してリスクを引き受けない。
 独立心が強く、癖がある。
 しかし、難しい情報源に食い込んだり、通常の分析家に描けないような構図を見て取る
 のも野良猫型の情報屋である。
・野良猫型だけだと組織は機能しなくなる。
 猟犬型だけでは、組織が硬直と緊縮を起こし、応用問題に対応できなくなる。
 結局、両方が必要なのである。
 全体として見れば、国際情報屋は、猟犬型9割5分、野良猫型が5分くらいに分かれる。
  
・外務省内部の田中女史と事務方(官僚)の対立も、2001年8月の「川島裕」事務次
 官の退官、「野上義二」事務次官の就任により新たな局面に入った。
・野上体制の成立と共に田中女史を所与の条件とみなし、外務省幹部の中で田中大臣と折
 り合いをつけようとする雰囲気が強まってきた。
 「田中眞紀子はインフルエンザだが、鈴木宗男は癌だ。この機会に治療しておかないと
 命にかかわる」 
 との話が私の蜘蛛の巣にも引っかかってくるようになった。
 他方、外務省は怪文書を継続的に作り、鈴木宗男氏に田中女史に関する否定的情報を流
 し続けた。
・田中外相の長期登板が確実との見通しが強まると、外務省の機能低下が著しくなった。
 2001年に発覚した内閣官房報償費(機密費)詐取事件に関する捜査が進み、腐敗の
 構造が明らかになされるにつれて、外務省課長クラス以下は、上層部に対する不信感を
 強めた。外務省内の権力抗争は複雑なモザイク画を作った。
・親田中眞紀子の立場を公言する官僚は少なかったが、外務省の腐敗構造を暴き、膿を出
 し切るには田中女史の破壊力に頼るしかないと考える者は少なからずいた。
 それに自らの出世のために田中女史に擦り寄る人々が加わった。
 これらの人々にとって、第一の敵は鈴木宗男氏であり、その「御庭番」であるラスプー
 チン、つまり私だった。
 そのため、私の信用失墜を図る動きも活発になった。
・親鈴木宗男の立場を公言する外務官僚は、私を含め少なからずいた。
 主として、これまで鈴木氏と外交案件を共に進め、鈴木氏の外交手腕と政治力に一目置
 いている外務官僚だった。  
 しかし、この中にも温度差があった。
・アーミテージ国務副長官との会談をドタキャンし、その後、アメリカのミサイル防衛政
 策に批判的発言をする田中女史に外務省内「親米主義者」は危惧を強めた。
 一方、「アジア主義者」は、中国への思い入れの強い田中女史を最大限に活用しようと
 した。
 「地政学論者」は、田中女史がいる限り、戦略的外交は展開できないと、半ば諦めの気
 持ちでやる気をなくしていった。
 
・そんな状況下で、2001年9月11日、米国同時多発テロ事件が起こったのである。
・実は、その日の早朝、私は鈴木氏から、
 「アフガニスタンの北部連合の指導者マスードが暗殺されたという確度の高い情報が入
 ってきた。タリバンの攻勢が始まり、アフガニスタン、タジキスタン、ウズベキスタン
 国境地帯で紛争が発生するかもしれないので、情勢を注意深く見てほしい」
 という連絡を受けていた。
 鈴木氏は、アフガニスタン問題についても知識の蓄積があり、この分野で最高水準の情
 報源をもっていた。
・この日から、鈴木氏も私もフル回転で活動する。
 このことに田中女史が苛立ち始め、それからしばらくして、野上事務次官を巻き込んだ
 ある事件が起きるのである。
 そして、それが翌年のアフガニスタン復興支援会議NGO出席問題を契機とする鈴木氏、
 田中女史、野上次官の三つどもえの闘いの序曲となる。
・これまで、田中女史、小寺課長の眼を考慮して、目立つ作業は避けていたが、今回の同
 時多発テロ事件は、情報収集、調査・分析の特別な訓練を受けた者にしか理解できない
 面が多いので、私自身も積極的に動き、また「チーム」もテロ絡みでの資料作成や、情
 報収集にシフトし、ユニークな成果をあげた。
・鈴木氏が最重要視したのは、中央アジアのタジキスタンだった。
 タジキスタンはアフガニスタンと隣接し、双方の国境にまたがってタジク人が住んでい
 る。
 暗殺された北部連合のマスード将軍もタジク人だ。
 また、十年近く続いた内戦の結果、イスラーム原理主義者勢力の台頭し、現在の連立政
 権は、この原理主義勢力を取り込んでいるが、戦力基盤は脆弱だ。
 タジキスタンの安定を担保しているのが駐留ロシア軍だ。
・ラスモノフ大統領は、親露政策を基調としているが、隣国ウズベキスタンのカリモフ大
 統領はアメリカ支持の検量基盤とし、反露政策をとっている。
 過去の国境問題から、タジキスタンとウズベキスタンの関係はよくない。
 今、ここでタジキスタン情勢が混乱し、過激派が中央アジアで権力基盤を構築すれば、
 ユーラシア地域の秩序が極めて不安定になる。
 鈴木氏はそのような絵柄がよくわかっていた。
・2001年10月、鈴木氏はラフモノフ・タジキスタン大統領と会見した。
 現地時間でその前日(7日)深夜、アメリカ軍がアフガニスタンに空爆を開始、戦争が
 始まっていた。タジキスタン
 対アフガニスタン戦争の遂行上、タジキスタンの領空通過と基地使用が死活的に重要な
 問題だった。
 ラフモノフ・タジキスタン大統領がどのような態度に出るか。全世界の関心が集まって
 いた。
・ラスモノフ大統領は、「初めて明かすことだが、米軍に対するタジキスタンの領空通過
 と基地使用を認めた」と述べた。
 鈴木氏が「このことを記者達に話してもよいですか」と尋ねると大統領は「どうぞ」と
 答えた。
・大統領執務室から出ると鈴木氏は20名以上の記者に囲まれ、即席の会見がおこなわれ
 た。
 記者達の関心は、タジキスタンがアメリカの軍事行動に対してどのような態度をとるか
 ということに集中していた。
 鈴木氏は、ラフモノフ大統領の決断を伝えた。
 日本のマスコミのみならず、AP(アメリカ)、イタルタス(旧ソ連のタス通信社)、
 ロイター(イギリス)なども鈴木氏の会見を大至急で伝えた。
・この会見の後、鈴木氏は私にこう言った。
 「ラフモノフも戦略家だね。俺をうまく使ったな。タジキスタンが米軍に協力する話が、
 アメリカの同盟国である日本の政治家だが、同時にプーチン政権ともいい関係にある俺
 から出てくるならば、誰からも文句がでないと考えたんだろうね」
・一方、同時多発テロ事件を契機に田中眞紀子女史を巡る状況も変化した。
 テロ事件から数時間後の9月12日未明、田中女史は、米国務省の緊急連絡先を記者団
 に漏らしてしまうという、致命的なミスを犯したのである。
 テロリストの攻撃が続く可能性があるなかで、大臣自らが極秘中の極秘事項を公開して
 しまったことは、日米の外交関係者に大きな衝撃を与えた。
 外務省では危機管理の観点から「田中大臣には一切機微な情報を与えない」ということ
 がコンセンサスになった。  
 「もう一度ミスをしたらアウト、つまり田中外相は更迭されるという密約が官邸と外務
 省の間でなだれたという噂がまことしやかに駆けめぐった。
・こうして鈴木氏の活躍がマスメディアで頻繁に報道されるのと対照的に、田中女史の外
 務省内における求心力が衰えてきた。
 この状況に田中女史が満足できるはずがない。
・外務省における田中眞紀子女史の”奇行”は次第にエスカレートしていった。
 10月、田中女史が突然人事課に乗り込み、その内の一室の鍵を内側から閉め、「籠城」
 し、女性事務官に「斎木昭隆」官房付に異動する」という人事異動命令書をタイプで打
 たせ、斎木人事課長の更迭を試みたのである。
 事務当局は、そのような横車は認められないと、再び田中女史と事務当局の緊張が激化
 する事件があった。その過程で再び私が田中女史のターゲットになった。

・私はモスクワ出張を再開した。
 ロシア人の友人たちはとても喜んで、私の仕事を助けてくれた。
 翌2002年1月、鈴木氏は再度タジキスタンを訪問し、キロ、モスクワで森喜朗前総
 理と合流し、クレムリンでプーチン大統領と会談する予定ができた。
 ここでちょっとした異変が起きる。
・今から考えると、この時に、その後、国策捜査の対象として鈴木宗男氏、そして私が狙
 われる伏線が潜んでいたのだが、そのことに私は気づかなかった。
 正直に言うと、いくつかのシグナルが入っていたのだが、その情報の評価を私は誤った
 のである。 
・深刻な警告は2002年初め、ロシアではない別の外国政府関係者から寄せられた。
 「小泉総理周辺が外交に与える鈴木宗男先生の急速な影響力拡大に危惧を抱いている。
 半年後に鈴木氏は政界から葬られているだろう」
 それからしばらくして、ある外交団の幹部が、山崎派参議院議員の実名をあげ、
 「この人が、鈴木宗男排除を小泉総理は決めたので、鈴木を窓口とする国は早くチャネ
 ルを変更したらよとの話を流している」
 との情報が入った。
・2002年1月に開催されたアフガニスタン復興支援東京会議に二つのNGOが招待さ
 れなかったが、それが鈴木氏の明示的圧力によるものだったという憶測が強まった。
 衆議院予算委員会で、菅直人民主党党首が「鈴木氏が一部NGOを出席させないように
 指示をしたといわれているが、そのようなことがあったのか」という質問をした。
・これに対して、田中女史は「野上事務次官に電話で話をしたら、そうした名前があった
 ことを、私は確認している」と答えた。
・この時から、鈴木宗男バッシングが本格化し、それが私を巻き込み、私の外交史料館へ
 の異動、私や東郷和彦駐オランダ大使、森敏光駐カザフスタン大使、渡邉正人技術協力
 課長ら鈴木派と目された官僚への処分、そして、私の逮捕へとつながっていく悲喜劇の
 序章となるのである。
・私はNGO出席問題の発端を知る数少ない人間である。
 私の見るところ、この件に関するいずれの報道も正確ではない。
 それはモスクワでの出来事だった。
 プーチン大統領との会談の見通しが立たず、森氏も鈴木氏も神経過敏な状態にあった。
 鈴木氏のお世話係としては私が、森氏のお世話係としては「佐々江賢一郎」アジア大洋
 州局審議官が同行していた。
・佐々江氏が「ちょっと別件で鈴木大臣に相談があります」とホテルの部屋に入ってきた。
 佐々江審議官の別件とは、アフガニスタン復興支援東京会議に参加するNGOについて、
 鈴木氏の了解を求めることだった。
 佐々江氏は、「もうタイムリミットですので」と前置きしたうえで、
 「ピースウインズ・ジャパン、ジャパンプラットホームはかつて問題を起こした団体で、
 特にカネの使途の問題があったので、今回は外します」という外務省の判断を伝えた。
・鈴木氏は「それでいいよ」と答えた。それだけのことである。
 鈴木氏のほうから、どの団体を入れるなどという話はまったくなかった。
・鈴木氏の問題意識は、アフガニスタンのタリバンはまずNGOを深くアフガニスタン奥
 地に引きずり込んで、それから民間人を人質にとる計画を立てているという有力情報が
 あるので、外務省が「引け」と言ったときにそれを聞くような信頼関係がある団体を重
 視すべきだということだった。
・鈴木氏からすれば、外務省が自らの判断で、二つのNGOを参加させないという決定を
 し、その了解を求められたのに、それが鈴木氏の圧力とされたのは何とも腑に落ちない
 ことではあったにちがいない。
 しかし、鈴木氏は「誰かが俺の名前を勝手に使ったな」という形で外務官僚に詰め腹を
 切らせるシナリオだけは避けようとした。
 むしろこの機会に、事実と異なる国会答弁で鈴木氏を追い込もうとした田中女史と全面
 対決し、決着をつけようとしたのである。
・1月、自民党幹部からモスクワ滞在中の鈴木氏に電話があり、衆議院議院運営委員長に
 就任してほしいとの打診があった。
 議院運営委員長は、議長、副議長に次ぐナンバー3のポストだ。
 小泉首相の了承なくしてこの人事はありえない。
 鈴木氏と官邸の関係は十分安定していると私は見ていた。
・国会を舞台に大臣と事務次官が全面的に対立するという前代未聞の事態となった。
 野上次官は特に無理をして鈴木氏を守ったわけではない。事実を事実と言ったのみだ。
 しかし、世論は、野上次官が嘘をついてまで鈴木氏を守っているとの印象を強めた。
・外務大臣と事務次官の国会答弁が食い違うということは、国政で本来あってはならない
 話だった。
 どちらかが嘘をついているということだ。
 しかし、小泉首相は、事実関係を徹底的に詰めることはせずに田中外相、野上事務次官
 の両名を更迭し、それと同時に国会混乱の責任をとって鈴木氏は議院運営委員長を辞任
 する手続きをとった。
 マスコミはこれを小泉流の「三方一両損」と受け止めたが、実態は少し異なっていた。
・私は鈴木氏に電話をかけた。
 「こんな形の終わりでいいんですか。嘘をついているのは向こう(田中女史)なんです
 よ」と言った。
 鈴木氏は、「佐藤さん、心配しないでいいよ、これは俺から切ったカードなんだ。『田
 中をやめさせてください。それなら私も引きましょう』と俺から総理に言ったんだ。総
 理から担保もとっている。田中をやめさせただけでも国益だよ」と淡々と電話口で述べ
 た。
・外務省では、大多数の省員が田中更迭を歓迎したが、これと共に鈴木宗男氏の影響力が
 決定的に強まり、田中時代に鈴木氏、さらに私と対峙した人々には激しい圧迫が加えら
 れるとの恐怖が走った。
・イーゴリ・イワノフ外相と鈴木氏が外相会談前に会ったということは、一部外務省幹部
 にとって衝撃だった。
 「今後、重要なことはすべて裏で鈴木氏が決めるようになる。これでは外務省はいらな
 くなる」
 といった内容の外務省幹部のオフレコ懇談の内容が私の耳にも入った。
 
・今回はワイドショー、週刊誌のみならず一般紙も鈴木叩きの論調に傾いた。
 「鈴木宗男の運転手をする外務省幹部」という見出しで私を扱った記事が「週刊文春」
 に出たのを契機に、外務省内部、それもロシアスクールの幹部しか知らない内容に種々
 の嘘を混ぜた情報が各週刊誌、月刊誌に掲載されるようになった。
 この嵐は止まらないというのが私の見立てだった。
・私を含め、外務省関係者は鈴木宗男氏こそが日露関係のキーパーソンであるとロシア人
 に紹介してきた。
 もし、私が鈴木氏を裏切れば、ロシア人は今後、日本人外交官がどのような政治家をキ
 ーパーソンと紹介しても、信用しないであろう。
・ロシア人はみなタフネゴシエーターで、なかなか約束をしない。
 しかし、一旦、約束をすれば、それを守る。
 また、「友たち」ということばはなによりも重い。
 政治体制の厳しい国では、友情が生き抜くうえで重要な鍵を握っているのである。
 このことはイスラエルをはじめとして世界中で活躍するユダヤ人についても言えること
 だった。 
 私が沈むことによって、ロシア人とユダヤ人の日本人に対する信頼が維持されるならば、
 それは本望だと私は思った。
・鈴木氏が田中更迭にあたって「鈴木氏からカードを切った」ことが恐らく裏目に出るだ
 ろうと私は思った。
 小泉氏にすれば、それは鈴木氏が閣僚人事まで手を突っ込んできたことになる。
・鈴木氏本人は、嫉妬心が希薄な人物だけに田中女史や小泉氏の嫉妬心に気がついていな
 い点が致命的だと思えた。
 2月1日の参議院予算委員会で小泉総理が「今後、鈴木議員の影響力は格段に少なくな
 る」と述べたことはレトリックではない。
 この時点で既に流れは決まっていたのである。
・2月20日の衆議院予算委員会で、共産党の佐々木憲昭議員が外務省の内部文書を暴露
 し国後島のプレハブ建築「友好の家」の入札を巡って、鈴木氏からの不当な圧力があっ
 たのではないかと追及した。
 この瞬間から世論のみならず自民党の鈴木氏に対する風当たりも急速に強まった。
  
・小泉政権の誕生により、日本国家は確実に変貌した。
 第一:外交潮流の変化
    冷戦後に存在した三つの外交潮流は一つに、すなわち「親米主義」に整理された。
 第二:ポピュリズム現象によるナショナリズムの昂揚
    日本人の排外主義的ナショナリズムが急速に強まった。
    ナショナリズムには二つの特徴がある。
    第一は「より過激な主義が正しい」という特徴で、もう一つは「自国・自国民が
    他国・他民族から受けた痛みはいつまでも覚えているが、他国・他民族に対して
    与えた痛みは忘れてしまう」という非対称的な認識構造である。
    ナショナリズムが行き過ぎると国益を毀損することになる。
    私には、現在の日本の危険なナショナリズム・スパイラルに入りつつあるように
    思える。
 第三:官僚支配の強化
    小泉政権による官邸への権力集中は、国会の中央官庁に与える影響力を強め、結
    果として外務官僚の力が相対的に強くなった。ただし、官僚の絶対的力は落ちた。
・外務官僚は、田中女史、鈴木氏に対する攻撃の過程で、内部文書のリークなど「禁じ手」
 破りに慣れてしまい、組織としての統制力がなくなった。
 組織内部では疑心暗鬼が強まり、チームとして困難な仕事に取り組む気概が薄くなった。
 
作られた疑惑
・私にかけられた容疑は二つある。
 第一:「背任」
    2000年1月にゴロデツキー・テルアビブ大学教授夫妻を日本に招待したこと。
    更に同年4月、テルアビブ大学主催国債学会「東と西の間のロシア」に末次一郎
    安全保障問題研究会代表、袴田茂樹青山学院大学教授など7名の学者と外務省か
    ら「ロシア情報収集・分析チーム」のメンバー6名を派遣したが、この際、外務
    省関連の国債機関、支援委員会から資金3千3百万円を引き出したことが違法で
    背任罪を構成する、というのが検察の論理だ。
 第二:「偽計業務妨害」
    2000年に行われた国後島におけるディーゼル発電機供与事業の入札で、三井
    物産に対して違法な便宜を図ったり、前島陽ロシア支援室課長補佐や三井物産の
    連中といろいろな悪巧み(偽計)をして、支援委員会の業務を妨害したという
    のが検察の論理である。
    悪巧みの内容は、一般競争入札に参加したい会社に圧力をかけて参加させず、実
    際には参加する意思のない会社を形だけ入札に参加させ、三井物産に落札させる
    ような「出来レース」をつくることを私が主導したという話だ。
・イスラエルの大学教授の訪日招待や同国で行われる学会への日本人学者らの派遣に支援
 委員会からカネを引き出したことが犯罪だというのである。
 どちらの支出も外務省の決裁を得ている。
 訪日招待は欧亜局長と条約局長、派遣はそれに加え外務事務次官、要するに外務省事務
 方のトップの決裁を受けているのだが、検察の論理では、私の背後に鈴木宗男氏がいる
 ため、外務省関係者は鈴木氏に恫喝されたり、人事上の不利益を被るのが恐いので違法
 であるとは思っていたが仕方なく決裁書にサインをしたというのだ。
・当時、マスメディアは、私が自分の影響力を誇示するために知り合いの学者や外務省の
 部下や同僚をイスラエルに観光旅行に連れて行ったとか、あるいは鈴木宗男氏の意向を
 反映し私が三井物産に対して入札予定価格を漏洩した、三井物産から鈴木氏にカネが流
 れているのではないか、という類の”検察リーク”に基づく話ばかり報道したが、いず
 れも事実と異なる。 
 
・専門家以外の人にとって、イスラエルとロシアが特別な関係にあることはなかなかピン
 とこないにちがいない。
 その意味で、ワイドショーや週刊誌の報道が「ロシアとは無関係なイスラエルの学会に
 行ったのはけしからん。本当の目的は観光旅行だろう」という内容になるのも仕方のな
 いことだった。
・第二次世界大戦中、ナチス・ドイツにより6百万人のユダヤ人が殺された。
 アウシュビッツ収容所の悲劇については誰もが知っている。
 戦後、多くのユダヤ人がこの悲劇を繰り返さないためには、ユダヤ人国家を再建するこ
 とが不可欠だと考えた。
 既に十九世紀から、エルサレムのシオンの丘に帰って、もう一度ユダヤ人国家を作ろう
 という運動が始まっていた。これがシオニズムで、イスラエルの建国理念になった。
・1948年にイスラエルが建国されたが、それを世界で最初に承認したのがスターリン
 のソ連だった。
 もちろんソ連はシオニズムに共感を持ってイスラエルを承認したのではなく、当時、
 反帝国主義・反植民地主義の観点から、イギリスからイスラエルが独立することを支援
 したに過ぎない。
 その後、いくつかの偶然が重なって、冷戦体制の成立とともに、イスラエルはアメリカ
 陣営に、エジプト、シリア、リビアなどの一部アラブ諸国がソ連陣営に加わった。
・第三次中東戦争の後、ソ連はイスラエルと国交を断絶。
 国交が回復するのは1991年である。
 国交断絶後、ソ連に在住するユダヤ人のイスラエルへの出国は事実上不可能になった。
 しかし、不可能を可能にする不屈の精神をイスラエル人はもっている。
 ソ連全国にユダヤ人の秘密ネットワークをつくり、ユダヤ人の出国を支援するとともに、
 欧米においてソ連政府のユダヤ人に対する抑圧政策を改めるようにとのロビー活動を展
 開し、東西冷戦期にユダヤ人問題は米ソ関係の最重要課題として取り上げられるまでに
 なった。
 その結果、1988年頃からソ連在住のユダヤ人の出国が緩和された。
・198年代から2000年までに旧ソ連諸国からイスラエルに移住した人々は「新移民」
 と呼ばれ、その数は百万人を超えた。
 イスラエルの人口は6百万人であるが、そのうち、アラブ系が百万人なので、ユダヤ人
 のうち20パーセントがロシア系の人々である。
・「新移民」は、ロシアに住んでいたときはユダヤ人としてアイデンティティーを強く持
 ち、リスクを冒してイスラエルに移住したのだが、イスラエルではかえってロシア人と
 してのアイデンティティーを確認するという複合アイデンティティーを持っている。
・ロシアでは伝統的に大学、科学アカデミーなどの学者、ジャーナリスト、作家にはユダ
 ヤ人が多かったが、ソ連崩壊後は経済界、政界にもユダヤ人が多く進出した。
 これらのユダヤ人とイスラエルの「新移民」は緊密な関係を持っている。
 ロシアのビジネスマン、政治家が、モスクワでは人目があるので、機微な話はテルアビ
 ブに来て行うこともめずらしくない。 
 そのため、情報専門家の間では、イスラエルはロシア情報を得るのに絶好の場なのであ
 る。
 しかし、これまで日本政府関係者で、イスラエルの持つロシア情報に目をつけた人はい
 なかった。
・周囲を敵に囲まれているイスラエルは、国家全体が常に神経を張りつめ緊張状態に置か
 れている。
 そのため、情報に対して非常に敏感なのである。
 政府部内でも一部の人間にしかその存在が知られていない秘密機関、あるいは機関名は
 公表されていても活動がほとんど知られていない組織も多数ある。
・イスラエルは、ある意味でアメリカ型民主主義が最も浸透した国で、情報公開に対する
 国民の要請も強いが、国家安全保障に関する事項については、政府が秘密活動を行うこ
 とを国民のほとんどが認めている。
 そして、テルアビブ大学はこれら政府機関への人材供給源になっているのである。
・イスラエルという国は、国民が「イスラエル村」と呼ぶほど、国の規模が小さい。
 そのなかで政治・学術エリートは数が限られているだけに、お互いに面識をもっている
 ことが多い。
 エリート同士、お互いの能力、性格を知り尽くしているケースも珍しくない。
・イスラエルのロシア専門家は、アカデミズムのみならず、軍隊でも、政府機関でもゴロ
 デツキー教授の教え子たちによって占められており、「ゴロデツキー・ファミリー」を 
 形成していた。
・カミングス・ロシア東欧センターにはゴロデツキー教授以外にも国際的に著名な学者が
 何人かいた。
 しかし、日本政府はもとより日本の大学関係者もこれまでカミングス・ロシア東欧セン
 ターとの間でキチンとした人脈をつくってはいなかった。
・ゴロデツキー教授の北方領土問題解決に対する見通しは悲観的だった。
 ただし、この見方は、その後、ゴロデツキー氏が日露関係について情報を収集し、分析
 するなかで変化する。
 当時の彼の見方について説明しておこう。
 「北方領土問題は、スターリニズムの負の遺産であり、基本的に東西ドイツの分裂や東
 欧社会主義圏の成立と同じ第二次世界大戦の結果によりもたらされた。
 従って、それを解決する『機会の窓』は、1989年のベルリンの壁崩壊から、91年
 のソ連崩壊に最も大きく開いていた。
 しかし、この機会を日本は十分に活用しなかった。
 その後、ユーゴ、チェチェンなどで民族紛争が激化したので、ロシアの政治エリートは
 領土変更に対して抵抗感を強めた。
 北方領土問題が解決する可能性はまずない」
 
・1998年8月、ロシアのバブル経済が崩壊する。
 対外債務が事実上支払不能となり、銀行は取り付け騒ぎを起こし、深刻な経済危機が発
 生した。 
 この頃、エリツィン大統領の健康状態も急速に悪化していた。
・日露関係では、4月に訪日したエリツィン大統領に対して橋本龍太郎総理は北方領土解
 決に向けた大胆な新提案(川奈提案)を行った。
 エリツィン氏は橋本氏の体愛に強い興味を示し、北方領土問題が解決に向けて大きく動
 き出すかに見えた。  
・しかし、その年の7月に行われた参議院選挙で自民党が大敗し、橋本首相は辞意を表明。
 小渕恵三内閣が成立する。
 11月、モスクワで小渕・エリツィン会談が行われたが、エリツィンの健康状態が悪く、
 政治力を発揮するにはほとんど遠い存在だった。
 さらに、プリマコフ首相の北方領土問題に対する慎重な姿勢も相まって、首脳会議では
 北方領土問題に関する実質的な議論はほとんどおこなわれなかった。
 しかし、この時点ではエリツィン大統領も小渕首相も2000年までの平和条約締結に
 対する情熱は失ってはいなかった。
・テルアビブ大学の内規では、学部長やセンター長は一期四年、連続して三期以上はとど
 まれないことになっている。
 カミングス・ロシア東欧センターでは、ゴロデツキー氏が任期満了となり、シモン・ナ
 ベー教授が所長をつとめていた。
 ゴロデツキー氏は、同大学のキュリエル国際関係センター長に就任していたが、同氏が
 イスラエルにおけるロシア専門家の首領的状況にあることに変化はなかった。
・プリマコフ首相は、ロシアでは守旧派の代表格で、東洋学研究所でアラビア語を学んだ
 中東専門家だった。
 「プラウダ」カイロ特派員をつとめ、あのイラクの独裁者サダム・フセイン大統領とも
 親交があった親アラブ派として知られる人物だが、彼はユダヤ人なのである。
・ここで、「ユダヤ人の血統」について少し説明する。
 ユダヤ人は母系を原則とする。
 すなわち、母親がユダヤ人ならば、その子は無条件にユダヤ人なのである。
 したがって、苗字だけでは、ユダヤ人か否かがわからない場合が多い。
・私は、ゴロデツキー教授、ナベー教授に訪日してもらい、彼らのロシアに対する深い学
 識を日本の外交官、政治家、学者に伝え、また彼らが北方領土問題に対する理解を深め
 ることができないかと考えるようになった。
・1999年3月、両教授は訪日し、外務省関係者のみならず、鈴木宗男内閣官房副長官、
 末次一郎安全保障問題研究会代表らと意見交換した。
 ゴロデツキー教授、ナベー教授の北方領土問題に対する理解は深まり、また、日本側関
 係者もイスラエルのロシア情報の重要性を理解した。
 ただし、この準備過程において外務省内部でちょっとしたいざこざがあり、それに鈴木
 宗男氏が関与した。
 東京地検特捜部は、ここに着目して背任罪を作り上げていくのである。
・「末次一郎」氏は、旧日本軍の諜報員養成機関として知られる陸軍中野学校を卒業した
 元情報将校で、戦後は巣鴨プリズンに収容された戦犯の支援、青年運動の創設、沖縄返
 還運動などで活躍した社会運動家でもある。
 与野党政治家を広範な人脈をもち、歴代首相の相談相手も務めていた。
 日本人だけではなく、末次氏の高潔な人柄と、原理原則では絶対に譲らないが、利害が
 対立するとも誠実に対話をするという姿勢に惹きつけられるロシア人も多かった。
 末次氏は北方領土返還をライフワークとして活躍していたので、外務省「ロシアスクー
 ル」とは緊密に連絡を取る関係となっていた。

・その年は「2000問題」で、コンピューター・トラブルが発生するとの危機感が強か
 ったため、外務省にも特別のチームが作られ、関係者が出勤していたので、いつもの大
 晦日よりはにぎやかだった。
・不意に携帯電話が鳴った。
 「通知不可能」と表示されているのだ、外国からだ。
 電話に出ると相手はロシア人だった。
 私の蜘蛛の巣はモスクワにも伸びていた。
 そこにある情報が引っかかったのである。
 「エリツィン大統領が本日辞任して、プーチン首相が大統領代行に任命される。既に大
 統領の特別声明が録画されており、モスクワ時間正午に放送される」
・重大情報だった。青天の霹靂である。
 情報源は非常に信頼できる人物で、確度は高い。
 私は東郷局長と鈴木宗男自民党総務局長に電話し、念のためにモスクワの丹波寛大使に
 も電話した。
 丹波大使もこの時点では情報を得ていなかった。
 後で確認したところ、私の電話が大使館にとっての第一報になったということだった。
・2000年は正月返上で連日出勤した。
 ロシア人はエリツィン政権に飽きていた。
 若いプーチン氏が後継指導者となることを歓迎する一方で、元KGBという経歴を持つ
 プロの諜報機関員がロシア国家のトップとなることに対する危惧が、特にモスクワ出身
 のインテリに見られた。  
・私は、プーチン氏が90年代半ば、サンストペテルブルグ副市長時代にイスラエル政府
 の招待で2回テルアビブを訪問していることを思い出した。
 イスラエルならばプーチンの人脈についてもよく押さえているだろう。
 私はゴロデツキー教授夫婦が日本にやって来た時に、この点について詳しく聞いてみた
 いと思った。
・ゴロデツキー夫妻は1月末に、約1週間の日程で日本を訪れた。
 これは外務省の正式の決裁を経た招待だった。
・この際、ロシア政局、特にプーチンとエリツィンの連続性と断絶性、今後の人事予想、
 チェチェン問題などについてゴロデツキー教授から興味深い話を聞くことができた。
 また、鈴木氏にもゴロデツキー夫妻と会ってもらい、人間的信頼関係を強めることがで
 きたのも大きな成果だった。
 もちろんこの席には東郷氏も同席した。
・外国人に日本のエチゾチズム(異国情緒)を伝えるには温泉が効果的なので、私はロシ
 アやイスラエルからのお客さんを京都鞍馬の鉱泉や日光湯元の温泉によく案内した。
 後に東京地検特捜部は、このときゴロデツキー夫妻を箱根の温泉や京都に案内したこと
 が「過剰接待」であるとして、私の刑事責任を追及するのである。

・2000年4月、クレムリン宮殿。
 大統領待合室前のホールで鈴木氏が私にささやきかけた。
 「佐藤さん、緊張するな」
 「ようやくここまで来ましたね。先生とモスクワで初めてお会いしたときから9年かか
 って、ようやく大統領まで行き着きましたね」
・その二日前、私を含む日本代表団は、学会事務局の案内で、テルアビブ大学付属博物館
 を訪れていた。 
 在イスラエル日本大使館の書記官から私の携帯電話に「小渕総理が倒れたが、鈴木特使、
 東郷局長は予定通りモスクワに向かうので、佐藤主任分析官も予定通りモスクワに向か
 うようにとの指示が本省から来た」との連絡があった。
・私は東京の鈴木氏に国際電話をかけた。
 「総理の具合はいかがですか」
 「俺にモスクワに行けというくらいだから、大丈夫だと思うよ。詳しくはモスクワで話
 す」 
・ちょっと引っかかる言い方だ。
 いずれにせよ私はモスクワに行くしか選択がない。
 モスクワには鈴木氏よりも数時間早く着いた。
 大使館で丹波大使と話したが、小渕総理の容態は十分深刻で、再起不能ということだっ
 た。
・私は小渕総理に30回以上、ロシア情勢について説明したことがある。
 いくら説明しても自分で納得するまでは、こう言うのだ。
 「イヤ、あんたの言うことはわからねぇ、もう一度説明してくれ」
 何度同じテーマについて、説明資料を作り替えて、説明し直したことであろうか。
 そして、小渕総理は納得すると、かなり複雑な外交案件を実にわかりやすく自分の言葉
 で説明し、最後に、
 「あんたの言いたかったことはこういうことか」と訊いてくる。
 私が「はいその通りです」と答えるとそのテーマに関する説明は終わりである。
・小渕総理の声が私の頭の中で何度も木霊した。
 小渕総理は、北方領土問題の解決にとても熱意をもっていただけに、たいへん残念だっ
 た。
・プーチン大統領代行との会談では、鈴木氏に小渕氏の魂が乗り移っているようだった。
 「この席に小渕さんが座っているように思う」とプーチン氏が言ったとき、鈴木氏の目
 から涙が流れた。
 プーチン氏は鈴木氏の瞳をじっと見つめていた。
・会談が終了し、日本側出席者が部屋を出る間際にプーチン氏が「ちょっと話がある」と
 鈴木氏を呼び止めた。
 「実は、できればのお願いなのだが、5月にロシア正教会の最高指揮官アレクシー二世
 が訪日するのだが、その際に天皇陛下に謁見できるように、鈴木さんの方で働きかけて
 もらえないか。もし、迷惑にならなければということでのお願いだ」
・鈴木氏は「全力を尽くす」と約束した。
 ロシア人は、信頼する人にしか「お願い」をしない。
 鈴木氏はプーチン氏に気に入られたのだと私は感じた。

・国後島ディーゼル発電機供与事業は、私とは部局を別にする欧亜局ロシア支援室が担当
 した案件で、私は入札で何が行われたかについてもほとんど知らないし、関心がなかっ
 た。
 初めてなぜ私がこの事件で逮捕されたかについて、狐につつまれたような感じで全く理
 解できなかった。
・1956年の日ソ共同宣言で、両国間の戦争状態は終了し、外交関係が再開されたが、
 領土問題が解決されていないので未だ平和条約は締結されていない。
 国交回復後、日本政府の立場は、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島の四島は日本固有
 の領土であるということでは一貫している。
・しかし、無人島である歯舞群島を除く、実際には残りの三島にロシア人が定住しており、
 色丹島、国後島を管轄する「南クリル地区行政府」、択捉島を管轄する「クリル地区行
 政府」が存在している。
 日本政府は、北方四島はロシアの不法占領下に置かれているとの認識で、これらの「地
 区行政府」の存在を認めていない。
・ロシアの実効支配を認めることにつながる行為は一切差し控えるというのが日本政府の
 方針だ。  
 例えば、ウラジオストクから北方四島には定期船便が出ているので、日本人であっても
 物理的に北方領土に渡航することは可能である。
 しかし、パスポートを持ちロシアのビザ(査証)をとって四島に入ると、それは四島が
 ロシア領であると日本政府が認めたと受け止められてしまう危険がある。
 従って、そのようなことはしないようにとの閣議了解がなされ、日本の多くの旅行社は
 政府の方針を理解し、そのようなツアーは組まない。
・北方四島に建物や工場を造ることも、ロシア側の建築基準に従うならば、日本がロシア
 の管轄を認めたことと受け止められかねない。
 それに、四島でのインフラ整備が進めば、ロシア人が四島から出て行かなくなり不法占
 拠が助長されるおそれがある。
 だから、四島はぺんぺん草が生えるような状態にしておくことが望ましいというのが冷
 戦時代の日本政府の論理だった。
・しかし、ソ連が崩壊し、新生ロシアは、自由、民主主義、市場経済という日本と価値観
 を共有する国になった。
 北方領土問題についても、問題の存在を認め、「法と正義の原則」によって問題を解決
 すると約束し、実際に誠実に交渉を行っている。
・ソ連崩壊少し前に日本人が北方四島に渡航する新たな枠組みが生まれた。
 ピザなし交流である。  
 元島民を中心とする日本人が、パスポートやビザをもたず、日本政府の立場からすると、
 国内旅行として北方四島に渡航する仕組みができた。
・四島のリシア系住民も日本に来る。
 もちろん、ロシアからすると、出国手続きをとっていることになるが、「お互いの立場
 を侵害しない」といういわば大人の論理で、人道的見地から交流が可能になったのであ
 る。 
・ロシア人を日本政府のカネで受け入れるのは税金の無駄使いとの批判もある。
 しかし、日本政府としては、四島のロシア系住民が自らの眼で日本の現状を見ることに
 より、「北方四島が日本に返還され、日本人と共生したほうがよいのではないか」とい
 う感情を育てたいとの思惑がある。
・そもそも外交の世界に純粋な人道支援など存在しない。
 どの国も人道支援の名の下で自国の国益を推進しているのである。
 ロシアとしても、「日本の人道支援を有り難く受け入れる」との姿勢をとりつつも、
 日本のカネを使っていかにロシアにとって有利な状態を作るかを考えている。
・特に領土問題は国益に直結するので北方四島の人道問題、人道支援を巡っては虚々実々
 の駆け引きが両国の間で行われていた。
・ソ連時代、北方領土には優遇措置がとられており、旧領は大陸の2.1倍、物資も特別
 配給で豊富にあった。
 数年、島で出稼ぎをしてから、本土に帰り、マンション、車、別荘を買うというのがロ
 シア人のライフスタイルだった。
 しかし、ソ連崩壊でこのような優遇措置もなくなった。
 ロシア本土につてのある人びとは帰郷し、事情のある人々だけが残った。
・日本外務省は、
 「もはやモスクワは四島のロシア系住民の要請を満足させることはできない。ここで日
 本が人道支援を強化すれば、対日感情は改善し、北方領土返還に対するロシア系島民の
 抵抗感も薄れるのではないか」
 と考えた。
・もちろん、ロシア系住民が率先して日本への返還を望んでいるということではない。
 しかし、仮に両国政府が北方領土を日本に返還することを決めても、ロシア人の生活と
 尊厳が保証されるならば、その決定に従おうという考え方が主流となったのである。
・医療機関の整備は命に直結する問題として重要だ。
 また、四島では物流が悪いので、住民は冷蔵庫や冷凍庫に食料品を大量に備蓄する。
 しかし、ソ連崩壊後、停電が頻発するようになり、備蓄した食料品が腐ってしまう。
 これはもう生活に直結する深刻な問題だった。
・特に1994年10月の北海道東方沖地震で、色丹島は壊滅的打撃を受けたので日本の
 人道支援に対する依存度が高まった。
・一方、日本政府の北方領土に関する法的立場は不法占拠論があるので、ロシアの不法占
 拠を助長するような行為は差し控えるという方針との整合性が求められる。
 そこで、基礎工事をきとんとして壊すことが難しい恒常的なインフラ整備は行わないが、
 プレハブのように簡単に解体して撤去できるものならば「箱物」でも供与してもよいと
 いうことになった。  
・電力支援に関しても、発電所を建設するのではなく、ディーゼル発電機を供与し、そこ
 にプレハブの「箱物」を作るという体裁にこだわったのも、このような理屈からである。
・念のために言っておくと、「友好の家」(ムネオハウス)はロシア人のためというより
 も、ビザなし訪問で訪れる日本人の宿泊を目的として作られたものだ。
 地震などの天災が起きたときは緊急避難所としてロシア人も使用することができるが、
 それ以外のときは使わないという約束で供与された施設である。
 
・1998年4月、静岡県伊東市の川奈ホテルで日露首脳会談が行われた。
 橋本首相が北方領土問題解決に向けた大胆な提案(川奈提案)を行った。
 このとき、橋本氏は、前年11月のクラスノヤルスクでエリツィン大統領から受けた北
 方領土への電力支援について、「ディーゼル発電機を供与する」との提案をした。
 エリツィン大統領は「ありがとう」と言ってそれを受け入れた。
 ここからディーゼル事業が本格的に動き出すのである。
・エリツィン大統領は、日本政府のよる北方領土へのディーゼル発電機供与を喜んで受け
 入れた。しかし、ロシア内部での反応は、一様ではなかった。
・サハリン州は、相変わらず地熱発電に固執した。
 本音では日本製ディーゼル発電機より日本が北方四島の「首根っこを押さえる」ことに
 なるよりは、現状の電力不足が続いたほうがましくらいの考えだったに違いない。
 現地、特に色丹島では、「とにかく電気がほしい。地熱だろうがディーゼルだろうが関
 係ない。ただし、日本が人道支援を領土奪取という邪悪な意図に結びつけるなら、それ
 は許さない」という雰囲気だった。
・根室を中心とする元島民の間では、「なぜロシア人にそこまで手厚くしなくてはならな
 いのか」という不満の声もあった。
 官邸、外務省は、「川奈提案」は従来の日本政府の立場からすると大幅な妥協案なので、
 この案を基礎に日露平和条約が締結されても元島民や圧力団体に不満が高まることも危
 惧していた。
・これらすべての要素を勘案して、誰かがこの複雑な連立方程式の解をすべて満たす必要
 があった。 
 橋本首相の側近で現職閣僚、根室を含む同党を選挙区とし、元島民、返還関係団体との
 パイプも強く、ロシアにも人脈がある鈴木宗男氏がこの難しい課題を解決するのに最適
 な人物であるということで関係者の認識は一致していた。
・外務省は鈴木氏が現職閣僚としてはじめて北方四島を訪問する機会に専門家を同行させ、
 そこでディーゼル発電機供与に関する予備調査を行うことが適当と考えた。
・鈴木氏は私に向かって「あんたも現地を見てみないか」と言うので、私は「ぜひ見てみ
 たいと思います。ただしこれはうちの局(国際情報局)の話ではないので、私が決める
 ことのできる話ではありません」と述べると、「西村六善」欧亜局長が私を遮り「佐藤
 も同行させます」と答えた。
・こうして、私亜は欧亜局の要請に基づいて北方四島に出張することになった。
 その後、鈴木氏の北方領土訪問のほとんどに私は同行することになった。
・2002年に国会で私が鈴木氏に同行してロシアや北方四島に19回出張したことが鈴
 木氏と私の不適切な関係として取り上げられたが、これらはいずれも欧亜局からの依頼
 に基づき、正式の決裁を経て行ったことである。
・1998年10月から11月に色丹島、択捉島に非常用発電機が供与され、1999年
 6月から10月に色丹島、同年7月から9月に択捉島に本格的なディーゼル発電機が設
 置された。
 日本から重油も部分的に供与され、これら二島の日本への依存度は強まった。
・日本側の戦略は、「喉の渇いた人間にコップに半分だけ水を入れて与えるともっと水が
 欲しくなる」というもので、能天気に人道支援をしているわけではなかった。
 ロシア側もそのことはわかっていたが、当時、モスクワもサハリン州も北方領土の住民
 対策やインフラ整備に支出する財政的余裕がなかった。
 色丹島では親日感情が強まり、日本返還を望むと公言するロシア人もでてきた。
 最も反日感情の強かった択捉島でも、対日感情は改善した。
・色丹島、択捉島に本格的なディーゼル発電機が供与され、両島での電力問題は基本的に
 解決した。  
 これまでの電力調査で、国後島の電力事情は、残り二島に較べればマシなので、ディー
 ゼル発電機供与の順番は後回しになった。
・このことに国後島の住民は不満を抱き、「日本政府はなぜ国後島に差別待遇をするのか。
 ディーゼル発電機が欲しい」という声も聞かれるようになった。
 裏返して言うならば、ロシア系住民が日本に対する依存度を強めてきたということだ。
・これに対して、サハリン州は、モスクワが策定した「クリル開発計画」に国後島での地
 熱発電所の建設があるので、それに日本の協力を得るのがよいとの変化球を投げてくる。
・鈴木氏は、その変化球を逆用し、1995年7月に日本の地熱発電の専門家とともに現
 地を視察し、近未来に地熱発電所を作ることは難しいとの専門家の所見に裏付けられた
 結論を導き出し、地熱発電所論争にとりあえず終止符を打つことに成功した。
・国後島ディーゼル発電機供与の式典は、2000年10月に行われた。
 このときはじめて根室近郊の中標津空港から、国後島のメンデレーエフ空港までサハリ
 ン航空の直行便が飛んだ。
 鈴木宗男氏を団長とする一行は、1950年代の主要機であった双発プロペラ機アント
 ーノフ20に乗って出発したが、日本、国後島での給油ができないために、乗客数も制
 限され、荷物もほとんど持ち込めず、大多数の団員は事前に船で国後島に向かった。
 日本と北方四島を結ぶ航空路開設は、歴史的事業だった。
・ディーゼル発電機の供与とは言っても、実質的には本格的にはインフラ施設の供与だっ
 た。この発電機は、これまでの発電所の隣に建設された日本製プレハブの中に設置され
 た。 
・こうして四島の「日本化路線」が着実に定着するかに見えた。
 このとき鈴木氏に同行したメンバーには、私の他に森敏光欧亜局審議官、前島陽ロシア
 支援室総務班長がいた。
 また、三井物産からは「都甲岳洋」顧問(前駐露大使)、飯野政秀氏、島嵜雄介氏が参
 加していた。
・その1年半後に森氏はカザフスタン大使から解任され退職を余儀なくされ、外務省では
 私と前島氏、三井物産からは飯野氏と島嵜氏が、国後島ディーゼル発電事業を巡る偽計
 業務妨害容疑で逮捕されることになるとは、このとき関係者の誰ひとりとして夢にも思
 っていなかった。

・よく、日本では、エリツィン氏やプーチン氏といった特定の人物に賭けるような外交は
 まともな外交ではなく、もっと国家機関と国家機関の関係を重視しなくてはならないと
 いう話が聞かれる。
 あるいはエリツィン大統領時代は属人的関係が重要だったがプーチン氏が大統領になっ
 てからは官僚組織が重要なので対露外交のスタイルももっと外務省を重視する形に変更
 しなくてはならないという識者の意見を耳にする。
・結論から言うと、私はこれらの意見をロシア政治の内在的ロジックを理解していない中
 途半端な専門家のコメントとみなしている。
・ロシアの官僚機構は日本以上に発達しているし、官僚は同程度に優秀であり、仕事熱心
 だ。  
 しかし、ロシアではある種の問題は、官僚レベルでは絶対に解決しない。その中に、戦
 争と平和問題、領土問題などが含まれる。
・もし、日本外交が北方領土返還を真剣に考えないのならば、多大な労力を費やし、のみ
 ならずリスクを冒してまでクレムリンにロビングをかける必要はない。
 しかし、ロシアが、自国の安全保障にとって重要な意味を持つ国は、かならずロシアの
 トップとの個人的チャネルを作る努力をする。
 これは公帝時代も、レーニン、スターリン、ブレジネフの時代も、ゴルバチョフ、エリ
 ツィンの時代も、そしてプーチンの時代にも変化することはない。
 ドイツやフィンランド、モンゴルの対クレムリン戦略を見ればそのことは一目瞭然だ。
 これらの国にとって、ロシアとの関係を崩すと国家存亡の危機につながりかねないから
 だ。  
・日本は今のところロシアとの相互依存関係は高くない。
 したがって、本気でロシア大統領と付き合わなくても日本国家がなくなることはない。
 しかし、北方領土問題を解決するためには、大統領の眼を日本に向け、決断させること
 が不可欠だ。
 この基本がわからない識者のコメントを聞いても対露外交を動かす役には立たないので
 ある。

・当時、飯野政秀氏は三井物産の東京本社につとめていたが、一カ月の半分はモスクワや
 ロシアの地方都市に滞在していたので、事実上のロシア在住者だった。
 経済官庁の人脈、どの政治家がどの金融資本家の影響を受けているかなど、断片的だが
 害鯉煥に得られない情報を飯野氏は豊富に持っていた。
 一方、飯野氏は私のロシア政界情報に強い関心をもった。
・飯野氏との関係は、私が東京に戻ってからも続き、以前よりペースこそ落ちたものの定
 期的に会っていた。
・私は、ロシアビジネスに従事する三井物産以外の商社やメーカーの人たちともつき合っ
 ていたが、みな能力が高く、人間的魅力に富む人も多かった。
 また、情報を担当する日本のビジネスマンは、官僚やジャーナリストに較べて口が堅い。
 飯野氏は、それらの商社員やビジネスマンと比べても能力が傑出していた。
 さらに飯野氏はロシア語の新聞を徹底的に読み込んでいた。
・情報専門家の間では「秘密情報の98パーセントは、実は公開情報の中に埋もれている」
 と言われるが、それを掴む手掛かりになるのは新聞を精読し、切り抜き、整理すること
 からはじまる。   
 情報はデータベースに入力していてもあまり意味がなく、記憶にきちんと定着させなく
 てはならない。
 この基本を怠っていくら情報を聞き込んだり、地方調査を進めても、上滑りした情報を
 得ることにしかできず、実務の役に立たない。

・日本とロシアはお互いに嫌い合っても引っ越しすることができない関係にある。
 ソ連が崩壊して自由、民主主義、市場経済のロシアになったといってもロシアは所詮異
 質な世界で、全体主義的性格から脱皮することはできない。
 ロシアの状況を考えるならば、全体主義体制への逆戻りもありうる。
・日露ビジネスは、モスクワ政局動向の影響をできるだけ受けないようにすべきである。
 ロシアにたとえ共産党政権が復活しようとも、シベリア・極東の開発にあたっては、地
 理的観点から日本を重視せざるを得ない。
 したがって、極東の湾岸整備、シベリアの林業開発、シベリアの鉄道の整備など日本に
 近い地域のプロジェクトを開発して進めるべきである。
・ロシアは過渡期であり、全体主義に後戻りする危険性は確かにある。
 しかし、事態を傍観するのではなくて、日本は何をすべきかを真剣に考えるべきだ。
 エリツィン政権は権威主義的要素はあるものの欧米と同じ自由、民主主義、市場経済と
 いう価値観を共有している。
 この流れを強化するような、つまりクレムリンが関心をもつような経済案件を発掘し、
 それにカネをつけるべきだ。
・ロシアで政治とビジネスが緊密な結びつきをもっている以上、いかなる経済案件の実現
 も特定の政治勢力の力を強化する効果をもつ。
 政治的中立性などという幻想にとらわれずに、日本の国益にとって有利な経済案件を進
 めるという姿勢を明確にすべきだ。
 現に欧米もそのような戦略で対露ビジネスを行っている。
 ロシアに共産党政権が生まれれば、欧米とのまともなビジネスはできなくなる。
 改革派系政治勢力を外国のビジネスマンも支えるべきだ。
・バイカル湖以東の東シベリア・極東の人口はわずか7百万人に過ぎず、まともなビジネ
 スの対象にはならない。  
 天然ガス、石油などクレムリンが関心をもつ場合にのみ、シベリア・極東の案件も実現
 可能性をもつ。
 重要なのはクレムリンの意思で、地理的状況に特別の意義を付与するべきではない。
・ただし、ひとつ例外がある。サハリンの石油・天然ガス開発だ。
 これは戦前から日本の投資の実績もあり、冷戦時代も国策会社サハリン石油でサハリン
 1開発に着手し、その後、メジャーと組んで三井物産、三菱商事がサハリン2開発を進
 めている。 
・21世紀にサハリンはロシアのクウェートになる。
 この利権を日本に結びつける必要がある。
 この関係で北方領土問題の解決が急務だ。
 北方四島はロシアの行政単位ではサハリン州に属する。
 領土問題は経済合理性を超えて国民感情を刺激する問題なので、領土係争を残しておい
 てはサハリンのエネルギー開発に日本が本格的に参加することはできない。

・1998年11月のモスクワ首脳会談の数日後、私と前島氏は飯野氏と昼食をとった。
 このときの会合も、いつものように日露首脳会談後の情勢について意見交換することが
 あり、ディーゼル案件について話し合うために特別の席を設けたわけではないことを強
 調しておきたい。
 大部分は日露首脳会談後のロシアの政局動向について話し合った。
 ただし、ディーゼルについて、5分程度のやりとりがあったと記憶している。
・まず、私が次のような趣旨のことを話した。
 「先日、鈴木大臣と話した際に私から『三井物産はロシアで頑張っていることはもより、
 北方領土問題についても勉強しており、ディーゼル事業についても意欲的だ』という話
 をしたら、鈴木大臣は『それなら、三井物産に委してもいいんじゃないか』とおっしゃ
 っていましたよ」
 「ディーゼルはロシア支援室が主管ですから、何かありましたら前島が窓口になります
 から聞いてください」 
・これに対して飯島氏は「ありがたいことです。頑張ります」と応えたと記憶している。
・一般競争入札が「ゲームのルール」として採用されている以上、それを守ることは大前
 提だった。
 私は、この「ゲームのルール」の枠内で、北方領土の難事業を仕上げる意思と能力のあ
 る会社が受注することが望ましいと考えただけだ。どうしても三井物産ということでは
 ない。
・たとえば日商岩井でも十分にこの事業を完遂できると思った。
 ましてや鈴木氏の理解を得なくては受注できないということではない。
 鈴木氏から「どの会社にとらせろ」というような指示を受けたことはなかったし、逆に
 飯野氏から鈴木氏に働きかけてほしいとの依頼を受けたこともなかった。
・私の記憶が正しければ、1999年1月、私と飯野氏、同氏の上司にあたる岡井良幸産
 業機械部長の三人ですき焼きを食べた。
 私の記憶によれば、私はそれ以前に2回、飯野氏とともに岡井部長と会っている。
  
「国策捜査」開始
・「西村尚芳」検事と検察事務官の引率で、私は小菅の東京拘置所に着いた。
 これから身体検査があるという。西村検事が言うところの「屈辱的な検査」とは、小説
 で読んだ校門検査のことであろう。ガラス棒でも突っ込まれるのだろうかと考えていた。
・検査は身長、体重、視力、写真撮影、レントゲン撮影、血圧測定、心電図測定、既往歴
 に関する問診などで、期待の肛門検査は「立ったまま後ろを向いてください。ちょっと
 お尻を手で開いてください。それで結構です」とあっさり終わってしまった。
・取り調べの初期段階で、西村氏が真剣に耳を傾けたのは、私と鈴木宗男氏との関係につ
 いてだった。それを聞いて、西村氏の目が挑戦的に光った。
 「あなたは頭のいい人だ。必要なことだけを述べている。嘘はつかないというやり方だ。
 今の段階ではそれでもいいでしょう。しかし、こっちは組織なんだよ。あなたは組織相
 手に勝てるとおもっているんじゃないだろうか」  
 「勝てるとかなんか思ってないよ。どうせ結論は決まっているんだ」
 「そこまでわかっているんじゃないか。君は。だってこれは『国策捜査』なんだから」
・西村検事は「国策捜査」ということばを使った。
 これは意外だった。
 この検事が本格的に私との試合を始めたということを感じた。

・観察していてすぐに気づいたが、拘置所職員は検察官や法務本省の役人を好いていない。
 私には肌でそれが感じられる。
 拘置所内では一種の職能集団による独自の世界が形成されている。
 彼らにおもねる必要はないが、検察官に対して腹を立てたが故に拘置所職員に迷惑をか
 けるというのはお門違いだ。
・検事も人柄はいろいろで尊大な人間も多いが、西村氏は大いなる知識人で検察事務官や
 部下への人当たりもよい。
 東京拘置所には午前10時頃登庁し、帰宅はだいたい終電である。
 ほとんどの特捜検事は、昼間は書類を読み込み、午後から取り調べにあたり、時間も深
 夜におよぶことが多いが、西村検事はなぜか佐藤さんに対しては夜だけ、それも短時間
 調べることにしている。
・午後3時と午後8時半に取り調べ状況について、検事のミーティングがあり、それを基
 礎に担当検事が取り調べの軌道修正をする。
 検事も役人なので、何か成果を毎日出さなくてはならい。
・検察は背信事件について、私の供述には期待していない。
 それでは私に期待する内容は何か。
 それを見極めることが私の課題になった。
・特捜流取り調べの常識では、「官僚、商社員、大手企業社員のようないわゆるエリート
 は徹底的に怒鳴り上げ、プライドを傷つけると自供しやすい。検察が望むとおりの供述
 をする自動販売機にする」という。
 私に関しては、自動販売機にならず黙秘戦術をとる危険性があると見て、軟弱路線に切
 り替えたのではないかということだった。
・私が要請したのはクォーター化の原則である。
 この原則は情報の世界では当たり前のことであるが、全体像に関する情報をもつ人を限
 定することである。
 知らないことについては情報漏れはないので、秘密を守るにはこれが最良の方法だ。
 檻の中にいる者には極力情報を与えず、檻の中から得る情報については弁護団だけが総
 合的情報をもつようにするという考え方である。
・弁護団は「ふつう中にいる人は外の様子を少しでも多く知りたがり、自分の置かれた状
 況について全体像を知りたがるんですが、ほんとうにクォーター化してよいのですか」
 と念を押すので、私は「獄中という特殊な状況に置かれている以上、この方法しかない
 と思います」と答えた。
・クォーター化の原則を貫いたことで、結果として余計な情報が検察に抜けなかった。
 そもそもこの種の国家権力を相手にする闘いで被告人側の勝利ということはあり得ない
 のだが、少なくとも「マイナスのミニマム化」には成功した。
・特殊検事は、物事の理解能力が高い。
 問題は、西村氏が理解しようという気持ちになるか、つまり私の言うことを額面通りに
 受けとめて、被疑者の言説に耳を傾けるという決断をするかどうかだ。
・結論から言えば、西村氏は耳を傾ける決断をした。
 ここから奇妙な取り調べが続けられることになった。
 背信事件については険悪なやり取りが続く。
 しかし、日露平和条約交渉や外交情報、特殊情報に関しては、検事が被疑者のレクチャ
 ーを聞き、それをまとめる。
 私が推薦した参考文献を西村氏はよく読み込み、ときどき適切な質問をしてくる。
 このような関係は、取り調べが終わる8月下旬まで続いた。
・おそらく西村氏は、国際政治について、特に複雑な日露平和条約交渉について、正確な
 理解をしておくことが鈴木宗男氏と私の間に事件を組み立てる上で有益だという検事と
 しての職業的勘が働いたのだろう。
 それと、私の見立てでは、この検事は知的好奇心が強い。
 司法官僚として事件を作り上げることだけでは満足できず、ほんとうは何があったのか
 ということを自分で納得したいという性格なのだ。
 西村氏を職業型の性格であると私は分析した。
・検察は基本的に世論の目線で動く。
 小泉政権誕生後の世論はワイドショーと週刊誌で動くので、このレベルの「正義」を実
 現することが検察にとって死活的に重要である。
 鈴木氏と外務省の間になにかとてつもない巨悪が存在し、そのつなぎ役になっているの
 がラスプーチン=佐藤優らしいので、これを徹底的にやっつけて世論からの拍手喝采を
 受けたいというのが標準的検察官僚の発想だろう。
・「この事件は横領でも背任でもどっちでもできる。こっちが背任にしたのは、カネに触
 っていない東郷を捕まえるためだった。あんたと前島だけならば横領でよかったんだ。
 僕たちは外務省が東郷を逃がしたと考えている。あんたはわかっていると思うが、これ
 は鈴木宗男を狙った国策捜査だからな。だからあんたと東郷を捕まえる必要があった。
 前島はそれに巻き込まれた。東郷は逃げた。全体の作りがどうなっているか、あんたに
 はわかるだろう。こっちは組織だ。徹底的にやるぜ」
・西村検事の情報は正確だと思った。
 検察庁としては局長や事務事件まで巻き込むことになれば、大金星だ。
 しかし、外務省も必至に抵抗するだろう。 
 もはや、これは役所対役所の闘いとなっている。
 私としては「横領」も「背任」も心外だが、少なくとも事件の構成としては「背任」を
 維持させて、外務省が「善意の第三者」として被害者面できなくしなければならないと
 考えた。
・「検察官の話に乗ったらだめですよ。西村検事はいい人なのだけれど、検察組織として
 佐藤さんへの位置づけは既に決められているので、取り引きの余地はありませんよ」
・弁護士は論するように言った。
 私にとっても西村さんが「いい人」かどうかは本質的な問題ではない。
 取り引き可能かどうかが重要な問題であった。
 このような状況で西村検事が「いい人」だということは、かえって私の冷たい計算を阻
 害する可能性になるいわばマイナス要因なのだ。
・西村氏の私に関する分析は、「本質的なところでプライドが高い」という部分を除けば、
 私の自己分析と一致していた。私はプライドこそが情報屋の判断を誤らせる癌と考えて
 いる。  
 別にブライドをかなぐり捨てて、大きな目的を達成できるならそれでよい。
 現役外交官時代、大きな目的はそれなりに見えていた。
 この囚われの身で、私が追求する大きな目的は何か。
 もう一度よく考えて整理してみなくてはならない。
・弁護人たちは、法律家として、特に元検事として今回の事件の作り方に憤慨していた。
 外務事務次官の決裁まで得た国際学会への派遣案件を背任とするのはいくら何でも無理
 がある。 
 初めに鈴木宗男氏ありで私を捕まえて、後はいかようにも事件を作り上げ、それを鈴木
 氏の逮捕につなげていくというのが検察のやり方だった。
 しかし、このような事件を許してしまえば、公益の代表者である検察の自殺行為に等し
 い。
 司法の危機が生じると弁護団は真剣に考えていた。
・事実、特捜部以外の検事が、「今回の背任には無理がある」という噂話をしていること
 が法曹村に流れ、その声は、一部新聞や週刊誌の記事に反映されるようになった。
 「佐藤さんが背任ななどという特捜のシナリオを呑み込んでしまうと、佐藤さんが後で
 後悔するだけではなく、法的正義の観点からもよくない」と若い弁護人たちは切々と私
 に訴えた。 
・30分の面会時間で、自分の思いを論理だってきちんと伝えることができない。
 また、拘禁の緊張で若干涙もろくなっている。
 面会室で私は泣いた。
 こんな調子で泣いたのは何年ぶりであろうか。
 私が涙を見せたのは弁護士にとっても衝撃のようだった。
 翌日からの弁護人面会では、外務省関係者、新聞記者、同志社大学神学部関係者たちか
 らのメッセージが伝えられた。また涙が出てきた。
・「もっと自分のことや自分の将来のことを考えろ」というのは毎日、西村検事から言わ
 れていることでもあった。 
 弁護士が敵に見え、検事が味方に見えるというようなマゾヒティックな転倒は起こさな
 かったが、弁護人も西村氏も両方が検事のように思えてきた。
・この時点でも、私が守りたい価値のいくつかはすでに守ることができるように思えた。
 外務省の盟友たちに被害はこれ以上拡大せず、鈴木宗男氏の事件への突破口にもならな
 い。 
 後は外交に実害が及ばないことと特殊情報の取り扱いだ。
・私は、弁護団の助言に反して、事実と異なることもいくつか認めた。
 それは公判対策の観点から間違えた判断だったかもしれない。
 しかし、そのような迎合をしなければ、西村氏も私との取り引きに応じなかったであろ
 う。
・全体として、奇妙な供述調書群ができあがった。
 「協定違反」であるとか、「違法」であるとかいう文言はないが、自白調書と読むこと
 もできる。 
 しかし、謝罪や反省のことばはまったくない。とりあえず折り合いはついた。
・今回の国策捜査が鈴木宗男氏をターゲットとしていたことは疑いの余地がない。
 私はその露払いとして逮捕されたのである。
 同時に検察は私を逮捕すれば、外務省と鈴木宗男氏を直接絡める犯罪を見つけ出すこと
 ができるとの強い期待を抱いていた。
 しかし、残念ながらその期待は適わなかった。
 鈴木氏の逮捕につながらないならば、私は既に用済みなのだが、検察はそう考えず、
 私の気持ちを鈴木宗男氏から切り離し、検察のために最大限活用することを考えた。
・検察の目標は、逮捕した鈴木氏をいかにして「歌わせる(自白させる)」かに置かれて
 いた。検察は本気だった。本気の組織は無駄なことをしない。
・私の分析では、西村氏が私に期待している役割は二つあった。
 第一:鈴木宗男氏に関する情報収集である。私しか知らない鈴木氏に関する情報を獲得
    すること。それにマスメディアや怪文書で流布されている情報の精査である。
 第二:何か隙を見つけて、私と鈴木氏が直接絡む事件を作ること。

「時代のけじめ」としての「国策捜査」
・私は2002年6月、に背任で起訴され、同年7月に国後島ディーゼル発電機供与事業
 を巡る偽計業務妨害で再逮捕されることになる。
 
・1991年8月、ソ連共産党守旧派によるクーデター未遂事件後、バルト三国(リトア
 ニア、ラトビア、エストニア)の独立が各国により認められ、同年10月、日本戦府も
 これら諸国との外交関係樹立のために政府代表を派遣することになった。
 そして当時外務政務次官をつとめていた鈴木宗男が政府代表に命じられ、在モスクワ日
 本大使館三等書記官として民族問題を担当していた私が通訳兼身辺世話係として団員に
 加えられた。
 鈴木との出会いが後の私の運命に大きな影響を与えることになろうとは、当時は夢にも
 思っていなかった。
・鈴木、「杉原千畝」元カウナス(当時のリトアニアの首都)領事代理が人道的観点から
 ユダヤ系亡命者に日本の通過査証(ビザ)を与え、6千名の生命を救った史実に大きな
 感銘を受け、当時の外務省幹部の艦隊を押し切り、杉原夫人を外務省飯倉公館に招き、
 謝罪している。
 外務本省は、訓令違反をし、タイム賞を退職した外交官を褒め讃える鈴木の言動に当惑
 し、この話題がランズベルギス・リトアニア大統領との会談で提起されることを警戒し
 ていた。
・私は別の観点から杉原問題をランズベルギスに提起することには反対だった。
 実はランズベルギスの父親は親ナチス・リトアニア政権で地方産業大臣をつとめ、ユダ
 ヤ人弾圧に手を貸した経緯があり、また、1991年時点でのランズベルギスを中心と
 するリトアニア民族主義者とユダヤ人団体の関係もかなり複雑だったからである。
 私は鈴木にランズベルギスの背景事情を説明し、杉原問題を提起することは不適当であ
 ると直言した。 
・鈴木は私の意見によく耳を傾け、しばらく考えた後にこう言った。
 「佐藤さん、ランズベルギス大統領は、ソ連共産全体主義体制と徹底的に闘って、リト
 アニアに自由と民主主義をもたらした人物である。それであるならば、杉原さんの人道
 主義を理解することができるよ。一流の政治家というのはそういうものだ」
・鈴木はランズベルギスとの会談で杉原問題を提起した。
 ランズベルギスは「命のビザ」の話に感銘を受け、カウナス市の旧日本領事館視察日程
 を組み込むように同席していた外務省儀典長に指示するとともに、ビリニュス市の通り
 の一つを「杉原通り」に改名すると約束した。
 私は一流の政治家が大所高所の原理で動く姿を目の当たりにし、少し興奮した。
・この話は、イスラエルやユダヤ人団体ではよく知られている。
 内閣官房副長官時代の鈴木が小渕総理訪米に同行したとき、シカゴの商工会議所会頭が
 「杉原ビザ」の写しを示し、「私はこのビザで救われました。あなたがその杉原さんの
 名誉回復をしてくれたのですね」と話しかけてきたとのエピソードを鈴木は私に語った
 ことがあるが、イスラエルの外交官、学者が鈴木をユダヤ人に紹介する際には「鈴木宗
 男さんがセンポ・スギハラの名誉回復しました」といつも初めに述べるのが印象的だっ
 た。  
 鈴木のイスラエル、ユダヤ人社会における高い評価は、私たちがテルアビブ大学との関
 係を深める際にも大いに役立った。
 
・国策捜査を巡る西村氏とのやりとりは実に興味深かった。
 逮捕後、三日目の時点で西村氏は「本件は国策捜査だ」と明言し、そのうえで「闘って
 も無駄だ」ということを私に理解させようと腐心した。
・私は「僕もついこの前まで末端だけれど国家権力を行使する側にいたので、国家が本気
 になったとき、他のいかなる集団や個人も太刀打ちできないことはわかっている。
 ただ死ぬときは自分がどうして死ぬのかをきちんと理解してから死にたい」と答えた。
・西村氏は「外ではマスコミも、検察庁も、そして弁護団も熱気に煽られているんだろう
 けど、君は意外に冷静なんだね」とつぶやいた。
 このときから西村氏と私の間では、国策捜査とは何であるかについて、ときおり議論す
 るようになった。
・国策捜査は「時代のけじめ」をつけるために必要だというのは西村氏がはじめに使った
 フレーズである。私はこのフレーズが気に入った。
 「これは国策捜査なんだから。あなたが捕まった理由は簡単。あなたと鈴木宗男をつな
 げる事件を作るため、国策捜査は『時代のけじめ』をつけるために必要なんです。時代
 を転換するために、何か象徴的な事件を作り出して、それを断罪するのです」
・東京地検特捜部が鈴木宗男氏逮捕の突破口にした事件は、北海道の伐採会社「やまりん」
 から5百万円を受領した暗線収賄容疑であった。
 鈴木氏は「やまりん」から受け取ったのは内閣官房副長官への就任祝いとしての4百万 
 円で、林野庁にも不当な働きかけはしておらず、しかもこのカネは後で返却していたの
 で、賄賂ではないと主張している。
 
・なぜ、他の政治家ではなくて鈴木宗男氏がターゲットにされたからだ。
 それがわかれば時代がどのように転換しつつあるかもわかる。
・現在の日本では、内政におけるケインズ型公平分配路線からハイエク傾斜配分路線への
 転換、外交における地政学的国際協調主義から排外主義的ナショナリズムへの転換とい
 う二つの線で「時代のけじめ」をつける必要があり、その線が交錯するところに鈴木宗
 男氏がいるので、どうも国策捜査の対象になったのではないかという構図が見えてきた。
・小泉政権の成立後、日本の国家政策は内政、外交の両面で大きく変化した。
 森政権と小泉政権は、人脈的には清和会(旧福田派)という共通の母胎から生まれては
 いるが、基本政策には大きな断絶がある。
 内政上の変化は、競争原理を強化し、日本経済を活性化し、国力を強化することである。
 外交上の変化は、日本人の国家意識、民族意識の強化である。
・この二つの変化は、小手先の手直しにとどまらず、日本国家体制の根幹に影響を与える
 まさに構造的変革という性格を帯びている。
 それと同時に、私の見立てでは、この二つは変化は異なる方向を指向しているので、こ
 のような形での路線転換を進めることが構造的に大きな軋轢を生み出す。
 この路線転換を完遂するためにはパラダイム転換が必要とされることになる。
・「小さな政府」、官から民への権限委譲、規制緩和などは、社会哲学的に整理すれば、
 「ハイエク型自由主義モデル」である。
 このモデルでは、個人がなにより重要で、個人の創意工夫を妨げるものはすべて排除す
 ることが理想とされる。 
 経済的に強い者がもっと強くなることによって社会が豊かになると考える。
・それでは、経済的に強い者と弱い者の関係はどのように整理されるのだろうか。
 強者が機関車の役割を果たすことによって、客車である弱者の生活水準も向上すると考
 えるのである。 
・鈴木宗男氏は、ひとことで言えば、「政治権力をカネに替える腐敗政治家」として断罪
 された。
 これは、ケインズ型の公平分配の論理からハイエク型の傾斜分配の論理への転換を実現
 するうえで極めて好都合な「物語」なのである。
 鈴木氏の機能は、構造的に経済的に弱い地域の声を汲み上げ、それを政治に反映させ、
 公平分配を担保することだった。
・ポピュリズムを権力基盤とする小泉政権としても、「地方を大切にすると経済が弱体化
 する」とか「公平分配をやめて金持ちを優遇する傾斜配分に転換するのが国益だ」とは
 公言できない。
 しかし、鈴木宗男型の「腐敗・汚職政治と断絶する」というスローガンならば国民全体
 の拍手喝采を受け、腐敗・汚職を根絶した結果として、ハイエク型新自由主義、露骨な
 形での傾斜配分への路線転換ができる。
 結果からみると鈴木疑惑はそのような機能を果たしたといえよう。
・西村氏は、「自民党の政治は、日本的な社会主義の要素があると思う。公共事業も、そ
 の本質においては公平配分を担保するためのものと思う。鈴木さんの場合、政治資金が
 大きいといっても、それは幅広く集めているからで、個々の政治献金の額は小さい。
 だから今まで贈収賄として摘発することができなかった。
 しかし、基本的な構造は、政治の力をカネに替えることで、それが社会的機能としては
 公平分配を担保しているとしても断罪しなくてはならないという時代状況がやってきた
 ということなのだろう。
 小泉路線は、当事者がどう認識しているかは別として新自由主義的な傾斜配分路線をひ
 たすら走っていることは間違いない。鈴木さんは時代に遅れた」と語った。
・北方領土問題について、鈴木宗男氏、東郷和彦氏と私は、「四島一括返還」の国是に反
 する「二島返還」、あるいは「一島先行返還」という「私的外交」を展開したと非難さ
 れたが、これは完全な事実誤認に基づきものだ。
 鈴木氏、東郷氏、私の考え方は、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島に対する日本の主
 権(もしくは潜在主権)を確認したうえで平和条約を締結するという基本線から外れた
 ことは一度もない。 
 ただ、ロシアとの現実的に噛み合う交渉についての種々の工夫をしたにすぎない。
 この工夫なくして外交は成り立たない。
・しかし、事実誤認に基づく非難がこれほどまでに国民世論を掻き立てたことについては
 冷静に分析する必要がある。
 北方領土問題について妥協的姿勢を示したとして、鈴木氏や私が銃弾された背景には、
 日本のナショナリズムの昂揚がある。
 換言するならば、国際協調的愛国主義から、排外主義的ナショナリズムへの外交路線の
 転換がこの背景にはる。 
・鈴木バッシングの過程で昂揚したナショナリズムは、その後の日韓国交正常化交渉にも
 大きな陰を落とすことになる。
 このような排外主義的ナショナリズムの昂揚が、日本の国益に合致するかどうかについ
 ても冷静に検討しなくてはならない。
 私は、それは国益に合致しないと考えるのだが、そのような声は現下の状況では聞き入
 れられないであろう。
・鈴木宗男氏は、「公平分配モデル」から「傾斜分配モデル」へ、「国際協調的愛国主義」
 から「排外主義的ナショナリズム」へという現在日本で進行している国家路線展開を促
 進するための格好の標的になった。
 鈴木氏をターゲットとしたことによって、二つの大きな政策転換が容易になったと言っ
 ても過言ではない。
 このように整理すれば、鈴木疑惑の背景にある構造が見てくるようになる。
・国策捜査について考察を進めるうちに、私は「国策捜査」が「冤罪事件」とは決定的に
 異なる構造をもつことに気づいた。
・冤罪事件とは、捜査当局が犯罪を摘発する過程で無理や過ちをおかし、無実の人を犯人
 としてしまったにもかかわらず、捜査当局の面子や組織防衛のために自らの過ちを認め
 ずに犯罪として処理する。
 したがって、犯人とされる人は偶然、そのような状況に陥れられてしまうのである。
・これに対して、国策捜査とは、国家がいわば「自己保存の本能」に基づいて、検察を道
 具にして政治事件を作り出していくことだ。
 冤罪事件と違って、初めから特定の人物を断罪することを想定してうえで捜査が始まる
 のである。
・「被告が実刑になるような事件は良い国策捜査じゃないんだよ。うまく執行猶予をつけ
 なくてはならない。国策捜査は、逮捕がいちばん大きなニュースで、初公判はそこそこ
 の大きさで扱われるが、判決は小さい扱いで、少し経てばみんな国策捜査で摘発された
 人々のことは忘れてしまうというのが、いちばんいい形なんだ。
 国策捜査で捕まる人たちはみんなたいへん能力があるので、今後もそれを社会でいかし
 てもらわなければならない。うまい形で再出発できるように配慮するのが、特捜検事の
 腕なんだよ。だからいたずらに実刑判決を追求するのはよくない国策捜査なんだ」
・一部には最近、国策捜査が頻発していることを「検察ファッショ」と呼び、この状況を
 放置すれば戦前・戦時中のように広範な国民の権利自由が直接侵害されるような事態に
 なると警鐘を鳴らす向きもある。
・しかし、私の見立てでは、この批判には論理的飛躍がある。
 最近、検察が政治化していることは事実だ。
 しかし、国策捜査の絡みでは、一般国民ではなく、第一義的に国家の意思形成に影響を
 与える政治家で、その絡みで派生的にそのような政治家と親しい関係を持つ官僚や経済
 人だ。 
 一般国民は、むしろ検察に対して「もっとやれ」とエールを送っているのである。
 より正確に言うならば、一般国民からの応援を受けることができるように検察が情報操
 作を行っているのである。
・だが、そのような情報操作工作によって、逆に国民の検察に対する期待値があがり、
 その期待に応えるために国策捜査で無理をするという循環に検察は陥っている。
 この構造が当事者である検察官、被告人、司法記者にはなかなか見えないのである。
  
・検察の基本的な組み立ては、鈴木宗男氏を贈賄、私を収賄とする贈収賄事件を作ること
 であった。
 具体的には2000年12月のセルゲイ・イワノフ・ロシア安全保障会議事務局長と鈴
 木宗男氏の会談に関して、私が職務権限を利用して特別の情報提供や便宜供与を鈴木氏
 に対して行って、それに対して私が鈴木氏からカネや接待を受けたという構図である。
 政治家が官僚に賄賂を渡すというきわめて変則的な事件の構成であるが、何度も申し上
 げた通り、当時の鈴木叩き、外務省批判の世論の背景にすれば、どのような事件でも作
 ることができると考えた特捜部幹部たいたとしても不思議ではない。
・取り調べがかなり進んだある日、西村氏はつぎのようにつぶやいた。
 「この話を事件化すると相当上まで触らなくてはならなくなるので、うち(検察)の上
 が躊躇しはじめた。昨日、上の人間に呼ばれ『西村、この話はどこかで森喜朗(前総理)
 に触らなくてはならないな』と言われた」 
・「西村さん、それは当然だよ。鈴木さんにしたって僕だって、森総理に言われてセルゲ
 イ・イワノフとの会談を準備したんだから」

・西村氏がにこやかに言う。
 「これで佐藤優関連の捜査は終わりです。御協力どうもありがとうございます」
・「唐突な終わりだね。いったい何があったの」
 西村氏は、捜査が終了した経緯について率直に説明した。
 この内容について、私は読者に説明することはまだ差し控えなければならない。
 しかし、ひとことだけ言っておきたいのは、西村氏の説明が踏み込んだ内容で説得力に
 富むものだった。
・「そうすると今回の国策捜査をヤレと指令したところと撃ち方ヤメを指令したところは
 一緒なのだろうか」  
・「わからない。ただし、アクセルとブレーキは案外近くにあるような感じがする。今回
 の国策捜査は異常な熱気で始まったが、その終わり方も尋常じゃなかった。ものすごい
 力が働いた。初めの力と終わりの力は君が言うように一緒のところにあるかもしれない」
  
・2002年9月に東京地方裁判所で第一回公判が行われた。
 私だけが本件は国策捜査であるとの認識を述べ、罪状を否認したので、前島氏、飯野氏、
 島嵜氏とは、後半の途中で分離となり、手錠と捕縛をかけられ退廷させられた。
・この日に小泉総理が平壌に渡り、金正恩と会談したので、夕刊紙面はほとんど日朝首脳
 会談で占められ、私の事件などはベタ扱いと思っていたが、各紙が写真入りで、私が本
 件が国策捜査であると述べたことが見出しを躍った。
  
獄中から保釈、そして裁判闘争へ
・前島、飯野、島嵜三被告人が罪状を全面的に認め、私は全面否認なので、公判は初日に
 分離された。
・三人とも家族水入らずの正月を送っているだろう。
 個人が国家権力と闘っても勝つことはできないとの諦で、とにかく公判をできるだけ早
 く終わらせ、人生の再出発を図るというのも一つの選択だ。それはそれなりに尊重しよ
 う。 
・しかし、私は別の選択をした。
 歴史に正確な記録を残しておきたい。
 そうすれば、2030年には、私たちとゴロデツキー教授の関係、テルアビブ国際学会
 に関する外交文書も、北方四島へのディーゼル発電機供与事業に関する外交部文書も原
 則的に公開される。
 そのとき検察のストーリーと私の供述のどちらが正しいかが明らかになる。
 諦めてはならない。
 歴史に対する責任を果たすんだ、と意気込んでいた。
・そのためには、私が考える三人のキーパーソンに証言してもらわなくてはならない。
 ゴロデツキー教授、鈴木宗男衆議院議員、東郷和彦元欧洲局長だ。
 この三人をどうやったら法廷に連れてくることができるか。
 暖房のない独房で、背中を丸めながら、獄窓の雪を眺めつつ私は考えを巡らせた。
・検察側は、私の共犯とされた前島氏、飯野氏、島嵜氏の他、外務省・支援委員会関係者、
 業者など8名を証人に請求し、裁判所はその全員を採用した。
 弁護側は20名以上の証人を請求したが、裁判所に採用されたのは6名だった。
 私が歴史に正確に記録を刻み込むために是非とも証言台に立ってほしいと考えていた3
 人のうち、裁判所はゴロデツキー教授、東郷和彦元欧洲局長を証人に採用したが、東郷
 氏は出廷しなかった。
 鈴木宗男氏について、裁判所は弁護側の証人要求を却下した。
・ゴロデツキー教授の証言と前島氏の証言は多くの点で異なっている。
 前島証言では、国債学会のプログラムが直前までわからなかったということになってい
 るが、ゴロデツキー教授は、開催の1ヵ月前から3週間前に決定し、その時点で前島氏
 に連絡したと証言した。
・前島氏は、ゴロデツキー教授の経歴について知らなかったと述べ、また同教授が駐露大
 使候補になっていることも佐藤被告人から聞いただけで検証の方法がなかったと証言し
 た。 
 ゴロデツキー証言によれば、1999年6月、前島氏が同僚2名とイスラエルに出張し、
 同教授と懇談した際に、ゴロデツキー教授自身から経歴と駐露大使候補になったいきさ
 つについて聞いているとのことだった。
・また、ゴロデツキー教授の証言で、死海、ゴラン高原への旅行は学会発表と一体のプロ
 グラムとしてテルアビブ大学が計画したもので、観光ではなく視察で、死海はイスラエ
 ルの南、ゴラン高原は北にあるので日程が2日必要だったのであり、学会参加者中4、
 5名は直接帰国したが、それ以外の人々はこの2日間の視察に参加したことも明らかに
 なった。 
 この視察についても、ゴロデツキー教授は前島氏に3週間前に連絡したと述べた。
・さらに、ゴロデツキー教授は、同教授の日本への招待とテルアビブ国際学会についても
 佐藤被告人は被告人やゴロデツキー教授の利益のために働いたのではなく、日本政府の
 利益のために働いていたと明確に証言したのである。
  
・私は保釈になった。保釈金は6百万円だった。
 勾留日数は鈴木宗男氏より75日多い512日だった。
・現役時代には、仕事の関係で付き合いたくない人々ともつき合わなくてはならなかった
 が、これで人間関係を一回リセットできるので、実に爽快な気分だった。
・公判闘争にエネルギーの4分の1、残りは読書、思索、著述と気の合う人々と話をする
 ことに使うようになった。  
 ようやく自分の好きなことを中心に生活を組み立てることができそうだ。
 これからは人間関係を広げずに、静かに国内亡命者として生きて行こうと思った。
 もはや時代に積極的に関与していくことはないが、次代を見る眼だけは持ち続けたいと
 いうのが私の考えだった。
・保釈後、「この事件を通じて現在の日本がよく見えてくるので面白い」という話をして
 いたら、新聞記者、テレビ記者から週刊誌、月刊誌の記者、編集者、ノンフィクション
 作家、小説家、学者と私の公判を支援するネットワークが広がっていった。
・ただし、私はできるだけ人脈を広げないようにした。
 また、公判は徐々に「劇場」と化していったが、私は「劇場」での演技に過度に熱中し
 ないように注意した。 
・さて、その後「劇場」では2回ほど当初のシナリオから外れる場面があった。
 一つ目は「川口順子」外務大臣による書簡問題、二つ目は東郷和彦氏の出廷拒否問題だ。 
・2003年10月に、私の活動を最もよく知る中野潤也証人(元分析第一課総務班長)
 に弁護側が質問したところ、中野証人は、質問の内容が刑事訴訟法第144条に抵触す
 る国家秘密にあたる可能性があるとして証言を拒否した。
 中野氏の対応は、一つの見識で、「チーム」の活動について外務大臣の承認が得られれ
 ば本当のことを話すという意思表示である。
・これに対して、同年12月付で川口順子外務大臣から書簡の形で回答がなされた。
 「外務省において、被告人佐藤優を中心とするロシア情報収集・分析チームという組織
 が存在したか、については、外務省の具体的な情報収集活動に関する職務上の秘密に当
 たるものであり、右を対外的に開示することは、国の重大な利益を害することとなるた
 め、当省職員を証人として尋問することについては承認致しかねます」
・これによって弁護側は「チーム」の任務や活動について証人尋問を行うことが不可能に
 なった。  
・川口外相のこの対応はフェアでない。
 捜査段階で、外務省は私の「チーム」に関する資料や情報を検察庁に提供した。
 さらに検察側の攻撃ラウンドでは、ロシア支援室長をつとめたことのある外務省現職幹
 部が「チーム」について証言している。
・倉井高志証人は「ロシア情報収集・分析チーム」が外務省に存在したこと、同「チーム」
 に関しては外務省の「決裁書が存在する」こと、更に同決裁書には「それまでの通常の
 業務ではなかなか行い得ないようなロシアに関する情報収集などを行うというようなこ
 とが記載されていたと思います」と述べた。
・「渡邉正人」証人も「チーム」の決裁書が存在したこととその任務について、「通常の
 ルーチンの業務とは別に情報収集でいろいろ活躍しているというような話はあったと思
 います」と証言した。
・外務省の現職課長がこのような証言をしたことは、公判段階になっても「チーム」に関
 する事項が「国家の重大な利益を害する秘密」として取り扱われていなかったことを意
 味する。
 それが弁護側の反証段階になって、突然「国家秘密」に指定されたのである。
 これで、法廷で「チーム」について真相を明らかにする道も閉ざされてしまった。

・想定外の番狂わせがあった。
 東郷氏の代理人が東京地検を訪れ、吉田検事と面会し、2002年の捜査当時に東郷氏
 がロンドンで検察官面前調書を取られた際、東郷氏の立場が参考人なのか被疑者なのか
 はっきりしないので、念のため背任事件と東郷氏の関連について知りたいと端的に尋ね
 た。 
・これに対し、吉田検事は「東郷については共犯者の位置づけであり、東郷が帰国して証
 言した場合の検察官の姿勢については文字通り何も言えない」と発言。
 その結果、東郷氏は身の危険を感じ、出廷しないとの決案をした。
・検察官が東郷氏を共犯者であると位置づけるならば、被疑者として取り調べるのが筋で
 あり、本人が日本国内にいなくても起訴すべきである。
 これまで放置していたにもかかわらず、東郷氏が出廷の意向を明らかにした途端、同氏
 の代理人に「東郷については共犯者の位置づけである」と伝えた。
 その結果、東郷氏が翻意したのであるから、「吉田正喜」検事の態度は、捜査における
 怠慢、被告人・」弁護人の防御権に対する侵害、より大上段に構えるならば、憲法で定
 める「法の下の平等」に反する行為だ。
 
(論告求刑)
・2004年10月、検察官が約3時間に及ぶ論告求刑をおこなった。
・ゴロデツキー夫妻招聘および国際学術会議参加は、被告人が、ゴロデツキーとの個人的
 関係を構築することにより外務省内における自らのロシア専門家としての評価を高め、
 将来の人事面での優遇を意図したものである。
・被告人は、その各費用につき委員会資金を使用することが協定に反することを熟知しな
 がら、前島に指示し、これを実行させたものであって、被告人が本件犯行の主犯である
 ことに疑念の余地はなく、しかも、有能な後輩外交官をも犯罪に巻き込んだ点も厳しく
 弾呵すべきであって、被告人の刑責は極めて重大である。
・被告人は、北方四島の事情に精通した三井物産に本件工事を受注させることが日本の国
 益にかなうと考えた旨を供述している。 
 仮にそのような考えがあったとしても、本件違法行為を何らに正当化するものではない
 ことは明らかであり、これをもって酌量すべき事情であったとは言い難い。
・また、三井物産が本件工事を受注できたことは、何よりも、被告人において、鈴木議員
 から、同社に北方四島発電施設設置工事を受注させることによって、その了解を取り付
 けること、さらに、前島に対して本件工事の積算価格を漏洩するよう指示したことによ
 るのであって、被告人の役割は重要かつ不可欠なものであったと言わざるを得ず、被告
 人の刑責は極めて重要である。
・加えて、官と財との悪しき癒着が白日のもととして露されたことで国民の外交行政、対
 ロシア外交に不信の思いを抱かせたことは、極めて重大であり、これにより日本の対外
 的信義・信用が著しく損なわれたことも疑いのないことであり、その社会的影響も極め
 て深刻である。
 被告人には反省の情が認められない。
 被告人は、当公判廷において、公訴事実のすべてを否認して執拗に争っているもので、
 その応訴態度に照らせば、反省の情を認めることはできない。
 
(被告人最終陳述)
・第一点目は、今回の国策捜査が何故に必要とされたかということです。
 私が逮捕されたのは、私が鈴木宗男氏と親しかったからです。
 検察は私の逮捕を突破口に外務省と鈴木氏を結びつける事件を作りたかった。
 問題は何故に鈴木宗男氏が国策捜査の対象になったかということです。
 小泉政権成立後、日本は本格的に構造転換を遂げようとしています。
 内政的には、ケインズ型公平配分政策からハイエク型傾斜配分、新自由主義への転換で
 す。外交的には、ナショナリズムの強化です。
 鈴木宗男氏は、内政では、地方の声を自らの政治力をもって中央に反映させ、再配分を
 担保する公平配分論者で、外交的には、アメリカ、ロシア、中国との関係をバランスよ
 く発展させるためには、日本人が排外主義的なナショナリズムに走ることはかえって国
 益を毀損すると考える国際協調主義的な日本の愛国者でした。
 鈴木宗男氏という政治家を断罪する中で、日本はハイエク型新自由主義と排外主義的な
 ナショナリズムへの転換を行っていったのです。
 国策捜査が行われる場合は、その歴史的必要性があります。
 当事者である検察官も被告人もその歴史的必然性にはなかなか気付かずに、歴史の駒と
 しての役割を果たしているのでしょう。
 もっとも、国策捜査に歴史的必然性があるということと、自ら行っていない犯罪を呑み
 込むということはまったく別の問題です。
・第二点目には、国策捜査とマスメディアの関係についてです。
 国策捜査を展開するうえではマスメディアの支援が決定的に重要です。
 仮に政官の関係に不正や疑惑があるならば、それを徹底的に暴くのはマスメディアの責
 務です。 
 ジャーナリストの職業的良心とは『国民の知る権利』に奉仕するために事案の真相に肉
 迫していくことだと思います。
 しかし、あの熱気の中で、メディアスクラムが組まれ、私の鈴木宗男氏の関係について、
 『佐藤は鈴木宗男の運転手をしている』『外務省には出勤せずに鈴木事務所で勤務して
 いる』『外務省の機密費を横領し、それが鈴木宗男に流れている』などの疑惑報道がな
 されました。
 私は日本の運転免許証をもっていませんし、その他の疑惑についても、もしそれが事実
 ならば職務専念義務違反、横領などで厳しく責任を追及されるべき筋合いの話です。
 しかし、そのような事実はなかったので、当然のことながら、刑事責任の追及もなされ
 ませんでした。
 しかし、いったん報道された内容は後で訂正されません。
 大多数の国民には、自己増殖した報道による私や鈴木氏に関する「巨悪のイメージ」と、
 その『巨悪』を捜査当局が十分に手気圧しなかったことに対する憤りだけが残ります。
 『国民の知る権利』とは正しい情報を受ける権利も含みます。
 正しくない情報の集積は国民の苛立ちを強めます。
 閉塞した時代状況の中、『対象はよくわからないが、何かに対して怒っている人々』が、
 政治扇動家に捜査されやすくなるということは、歴史が示しています。
・第三点目には、今回の国策捜査で真の勝利者は誰だったのかということです。
 真の勝利者は、「竹内行夫」外務事務次官をはじめとする現外務省執行部の人たちです。
 外務官僚は、外交政策の遂行に資するためだけでなく、外務官僚にとって都合のよい状
 況を作り出すために鈴木宗男氏の政治力を最大限に活用しました。
 しかし、ひとたび鈴木氏が外務省にとって厄介な存在になると、それをありとあらゆる
 方法を用いて排除しました。
 私の事件では、テルアビブ国際学会への学者などの派遣について、外務省事務方のナン
 バー・ワン、ナンバー・ツーである事務次官、外務審議官の決裁サインのある決裁書が
 外務省から消え去ってしまうという不思議なことも起きています。
 外務省から本事件や鈴木宗男氏、東郷和彦氏、私に関連する文書が消え去ってしまわな
 い限り、真実は必ず明らかになると確信しています。
・第四点目に、今回の国策捜査が日本外交にどのような実害をもたらしたかということで
 す。  
 検察官は、論告で、『国民の外交行政、対ロシア外交に不信の思いを抱かせた』『日本
 の対外的信義、信用が著しく損なわれた』と私を糺弾しましたが、私はそのことばをそ
 っくるそのまま検察官にお返しします。
 私の理解では、政党に業務を遂行する特殊情報を担当する外交官を国策捜査で逮捕した
 ことにより、『日本の対外的信義・信用が著しく損なわれた』のです。
 ときの内閣総理大臣、外務省幹部の命に従い、組織の明示的な決裁を受け、その時点で
 は官邸、外務省が評価した業務が2年後には犯罪として摘発されるような状況が許され
 るならば、誰も少しでもリスクがあると思われる仕事はしません。
 また、上司の命令に従っても、組織も当時の上司も下僚を守らず、組織防衛のために下
 僚に対する攻撃に加担する、あるいは当時の上司は外国に逃亡してしまうという外務省
 文化が私の事件を巡って露呈したことは大きな意味があると思います。
 このような状況では、誰もが国際政治のプロとして『こうしたらよい』と感じたとして
 も、それを口に出すことがなくなります。
6年 不作為による国益の損失は見えにくいのです。
 そしてこのような状況が数年続くと、日本外交の基礎体力が著しく低下します。
(判決)
・2005年2月、判決が言い渡されました。
・主文、背任、偽計業務妨害被告事件につき、被告人を懲役2年6月に処する。
 この裁判が確定した日から4年間その刑の執行を猶予します。
・被告人はいずれの事実についても公判廷において自己を正当化する供述に終始しており、
 その刑事責任を自覚し、その重さに真摯に思いを致しているとは認めがたい。
 他方、本件背任罪の実行行為を行ったのは前島であること。
 偽計業務妨害の犯行においても実行行為の多くを行ったのは三井物産の社員である共犯
 者であること。  
 被告人は偽計業務妨害の犯行に関しては特に経済的利益を得ていないものと認められ、
 また、各背任の犯行においても被告人が積極的事業を利用して私的な経済的利益を得よ
 うとしていたとは認められないこと。
 各背任の犯行については各決裁書の決裁手続に関与した外務省の幹部職員の一部もまた
 委員会資金の支出につき協定解釈上問題があるにもかかわらず種々の思惑からそれを容
 認する姿勢を示しており、そこには鈴木宗男議員の影響が相当及んでいたことなどもう
 かがわれ、こうして被告人の責任のみに帰し得ない状況の存在が各事件の発生に寄与し
 たことも否定できず、被告人に前科前歴はなく、これまで日本のロシア外交に熱心に取
 り組んできたのであるがロシアとの外交等に対する思い入れの強さが本件のような犯行
 に結びついた面は否定できない等、被告人にとって酌むべき事情も認められる。
・私は大室征男弁護人、緑川由香弁護人に「即日控訴の手続きをとってください」と依頼
 した。