ソ連が満州に侵攻した夏 :半藤一利

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先の戦争において、終戦間際に、それまで中立条約を結んでいたソ連がいきなり日本に対
して宣戦布告をして、日本が実質支配下においていた満州に侵攻してきた。その時に日本
は、首都東京をじゅうたん爆撃され、広島と長崎に原子爆弾を投下され、既にそれ以上戦
う気力を失っていた状態であった。降伏を模索している状態のところに、攻め込まれてき
た日本軍は、もはやなすすべがなかった。
当時の日本軍部も、ソ連を完全には信用していなかった。ソ連が必ず攻め込んでくると、
警告を発する者も一部にはいたが、もはや対ソ連に備えるだけの軍事的余力はなく、ただ
ひたすら「ソ連は攻め込んで来ない」という妄想だけが、ひとり歩きしている状態であっ
た。
今から考えて、当時の日本軍部で正しい判断をしたと言えるのは、侵攻してきたソ連に対
して日本側からは「宣戦布告」をしなかったことだ。もし日本がソ連に宣戦布告をしてい
たら、それこそ火事場泥棒のようなソ連に対して、五分の理を与えることになっただろう。
そうなると、北方領土どころか北海道までも、ソ連の手に渡っていたかもしれない。そう
思うとゾッとする。
さらに言えば、当時日本は、ソ連に戦争終結の仲介を依頼していた。それはまさに日本が、
ソ連に哀願するという状況下にあった。それなのにソ連は、そんな日本にいきなり宣戦布
告をして攻め込んできたのだ。
その背景には、日本に対する日露戦争での敗戦の怨みもあったであろうが、それ以上にソ
連の戦勝国としての分け前をできるだけ多く奪いとろうという魂胆があった。それが、シ
ベリア抑留北方領土問題につながっている。
ソ連という国はしたたかであり、また容赦のない国であったのだということを、我々日本
人は忘れてはならないのだ。

攻撃命令
・ソ連側の公式記録によると、ソ連軍最高司令部が満州侵攻の作戦計画の検討を始めたの
 は、1945年の早春、2月初旬の、米英ソ首脳によるヤルタ会談が開かれた前後のこ
 とである。
・ソ連軍部は、日本軍の下士官兵は狂信的に頑強であり勇敢であるとの認識に立っている。
 その上に、日本の兵士たちは服従心が極端に強く、命令完遂の観念は強烈この上ない。
 かれらは天皇のために戦場に斃れることを名誉と考えている。かつ、ソ連軍に対する敵
 愾心は非常に旺盛である。戦術面でいえば攻撃を最高に重視しているが、不利な防衛戦
 となっても頑強堅忍そのもの。夜戦の白兵攻撃を得意とし、小部隊による急襲に長じて
 いる。しかし、上層部は近代戦の要諦を学ぼうとせず、支那事変の戦訓を極度に自負し、
 依然として「皇軍不敗」という根拠なき確信を抱いている。軍隊指揮能力は脆弱であり、
 創意ならびに自主性が欠如している。戦車やロケット砲など高性能の近代兵器に対し、
 将兵とも恐怖心を強く持っている。それはみずからの兵器や装備がかなり遅れているた
 めである。師団そのものの編制も人馬数が多いばかりで、火力装備に欠け、機動力は相
 当に劣っている。そうした欠点を持つとは言え、強靭そのものといえる日本兵を相手に
 「攻撃」をかけるとなれば、攻撃側は防御側の2倍という戦理の原則以上の兵力を集中
 しなければならない。望むらくは対日本軍3倍の兵力の配備である。そのためには百万
 人以上をヨーロッパ戦線から東へ移動させのが前提となる。これがソ連軍部の認識であ
 った。
・勝利を確実にする十分な戦力をソ満国境全域に集結させるためには、ドイツ降伏後4ヵ
 月の期間はどうしても必要とする、という結論になった。スターリンは不満である。
 「長すぎる。侵攻兵力をなんとしてもドイツ降伏後3ヵ月以内に集結させる」と命令し
 た。
・計画では全兵力百五十七万余、戦車および自動走行砲五千余、重砲から迫撃砲におよぶ
 砲力二万余、これらを東送し、八千キロ以上にのびた長大なソ満国境正面に展開させね
 ばならない。 
・当初きめられた基本計画によれば、8月5日までに集中を完了し、8月22日から25
 日の間に全兵力が国境を突破し日本軍への攻撃を開始するというものである。しかし、
 スターリンは条理にもとづいて説明を受けていながら、不満を表明し「速やかなる参戦」
 になお固執する。「攻撃開始は8月11日とす」。この正式命令がモスクワより届けた
 れたとき、極東ソ連軍総司令部は一瞬声を失ったという。
・ちなみに日本の参謀本部は、ソ連軍が満州に侵入してきたその当日、まだ軍用列車が集
 団東行している情報をつかんでいる。国境線への全軍の展開はかならずしも十分ではな
 かったことは明らかである。それだけに、極東ソ連軍が全兵力の集中を待つことなしに、
 原爆投下にせかされ「バスに乗り遅れまいとして」対日作戦を開始したものと判断して
 いる。
・モスクワの極秘の動きをすべて照らし合わせれば、アメリカの広島への原爆投下をみて
 強引に侵攻計画を変更した、との正式記録はないものの、原爆投下と早められた侵攻と
 がまったく無関係とはとても考えられない。日本政府が原爆の被害に恐怖し、あっさり
 降伏するのではないかと、それを惧れて、スターリンは明らかに焦っていた。
・(ソ連の)各部隊はその展開を日本軍に気どられぬように入念な注意がはらわれる。国
 境付近の動きにはなんの異状もみせぬよう、市民は後方に退かず、各守備隊の勤務ぶり
 も不変、平常どおりの生活ぶりをみせつける。無線による余計な交信はいっさい禁止さ
 れ、徹夜につぐ徹夜である。
 
八月九日
・比島の戦場から人事異動で東京にもどったばかりの参謀本部作戦課の朝枝中佐は、「日
 本が対米戦で戦力を失い、まさに抵抗不能の熟柿の段階でソ連はかならずや参戦してく
 るであろう。前門の虎ではなく、後門の狼によってわが国の息の根をとめられる。南方
 と同じだけの兵力をいま満州に向けないかぎり、日本は戦うすべを失うほかない」と結
 論を下した。     
・比島戦の悲惨をみるまでもない。日本陸海軍の戦力は消耗しつくしている。もはや「泣
 く子も黙る関東軍」はその面影すらとどめていないのは、だれの目にも明らかなのであ
 る。いまや関東軍は張子の虎であり、満州の防衛は不可能と結論するほかない。南方や
 太平洋の島々での戦勢の悪化にともない、大本営は関東軍の精鋭兵団をぞくぞくと引き
 抜いて第一線へと転用した。特にさかんに実行されたのは昭和19年である。なんと
 12個師団(25万人)が満州から引き抜かれて比島、台湾、沖縄、中部太平洋の島々
 へと運ばれている。  
・満州には、いまや広大な原野と長い国境線を守り抜けるだけの戦力がなくなっている。
 はっきりいえば空っぽである。にもかかわらず満州は、日ソ中立条約によりかかり、依
 然として「王道楽土」の逸楽をむさぼっている。中国大陸からのB29の空襲が前後数
 回あったからと、重要機関や軍需工場をソ連に近い北方へ移そうとした。また手狭くな
 ったからと関東軍総司令部を新京郊外に増築中であった。軍の幹部や、満鉄や満州国の
 要人たちは、家族を絨毯爆撃の下の日本本土においておくのは危険であるからと、わざ
 わざ満州へ呼び寄せたりしている。
・陸軍中央の参謀や課員たちすべてが、そう考えていたとは言わない。しかし、大半がそ
 う楽観していたのである。もっと正確に言えば、ソ連がでてきたら日本陸軍の太平洋戦
 争における今後の全作戦構想は壊滅する。でありから、ソ連にはでてきてほしくはない。
 こうした強烈なる「来らざるを恃む」願望が、でてこないのではないかという期待可能
 性に通じ、さらにそれが「ソ連軍は当分でてこない」、起ってほしくないことは起こら
 ないという根拠のない確信になっていたのである。 
・考えてみると、人は完全な無力と無策状態に追い込まれると、自分を軽蔑しはじめる。
 役立たず、無能、お前は何もできなのか。しかし、いつまでもこの状況にはいられなく
 なる。逃れるために、いや現実は逃れることなどできないゆえに、自己欺瞞にしがみつ
 く。ソ連軍はでてこないという思い込みである。来るはずはないという確信である。も
 はやどうにも手の打ちようもない、という絶望的状況に陥ったとき、人はいつでも根拠
 のない、幻想でしかないことに、確信とか信念とかいうものを見つけるもののようであ
 る。   
・あらゆる犠牲をはらっても、ソ連の好意を得ようとして懸命な日本政府の外交努力は水
 泡に帰した。「この戦は、この内閣で終末をつけることにしましょう」と鈴木首相はき
 っぱりと言った。ソ連の参戦は、陸海軍部の主張した「ソ連を仲介に」降伏条件の緩和
 による終戦の企図が、白昼夢におとしかったことを教えている。さらにそれは内閣がす
 すめてきた政策の完全の失敗を示している。鈴木内閣はこの際辞職するのが政治常識と
 いうものであろう。しかし、ソ連が満州・朝鮮半島と侵略の範囲をひろげて発言権をま
 してくれば、国体(天皇制)の存続が危うくなることは明瞭である。それゆえに、鈴木
 は辞職することなく、あえて火中の栗をひろう決意を固め、何があろうと一刻も早い終
 戦へとなだれ込もうと決意するのである。   
・軍上層部は滑稽にすら思えるほど情報収集能力、国際感覚が欠如していたのである。し
 かし、一部では、きびしく国際政治の動きに注視し、そこから正確な読みをしている者
 もいた。参謀本部第十二課(戦争指導)が研究しその直前に作成した文書がそのひとつ
 である。ソ連参戦は不可避であるとし、米英などの意向とは無関係に、早急に、突然に
 最後通牒を突きつけて「自主的」に参戦してくるであろう、とその文書は正確な判断を
 まとめあげた。しかも興味深いことは、この研究素案「対ソ戦争指導の要領には、「対
 日参戦してきたソ連に対しては宣戦布告はしないものとする」と、実に微妙にして大事
 な先見が記されている。   
・現実には、宣戦布告して攻め込んできたソ連に、日本政府はついて宣戦布告をしていな
 い。ひたすら防禦戦闘だけを行い、一方的に蹂躙された。ソ連が条約など破るになんと
 も思わぬ国であるとわかっていたから、あそこで宣戦をしていたなら泥棒にも五分の理
 を与えることになる。そうなれば、ソ連軍は米英や中国との作戦協定を無視して、正々
 堂々と北海道へ侵攻してこられた。これはいかん、と即座にそう判断した。宣戦布告を
 しなかったことで、戦後の国家分断を防ぐことができた。対米英戦争の開始直後から、
 なにやら国際法無視の気運の強かった日本が、最後の段階に及んでその遵守を強調する。
 歴史の皮肉としかいいようがない面もあるが、それはまさに正しい判断であった。
・宮中で開かれる最高戦争指導会議は、冒頭から鈴木首相が、天皇の「終戦」の意思を体
 して、発言した。「広島の原爆とソ連の参戦という四囲の情勢からみて、とうてい戦争
 継続は不可能である。どうしてもポツダム宣言を受諾し、戦争を終結させるほかないと
 考えます。ついては客員の意見を承りたい」。結論から言えば、この首相発言が今後の
 国策の方向を決定づけたということになる。有事のときのトップの厳然たる言葉が、い
 かに複雑かつ浮動し続ける状況を単純化し落ち着かせることか。それほど驚くべき力を
 発揮するのである。 
・海相米内光政大将が口火をきった。「みな黙っていてはわからないではないか。どしど
 し意見を述べることにしよう。ポツダム宣言受諾ということになれば、これを無条件に
 鵜呑みにするか、それともこちらから希望条件を提示するかを、十分に議論しなければ
 ならないではないか」。この発言は、鈴木首相発言をさらに決定づけた。会議はいつの
 間にかポツダム宣言を受諾するという前提のもとに、連合国につけ加える希望条件の問
 題に入ってしまった。つまりいきなり終戦の討議になり、若手参謀たちが期待した対ソ
 参戦に対する緊急措置など議題から消し飛んでいたのである。   
・それにしても参謀たちが期待をかけた陸相阿南惟幾大将と参謀総長梅津美治郎大将が、
 首相や海相のいきなりの終戦宣言になんら反撥しなかったことに、少しく首を傾けざる
 をえない。彼らはあくまでも戦争を続け「目的完遂ニ邁進」することを主張せねばな
 らなかったはずである。しかし、なんらそうした強い反撃の言は二人の口からは出てい
 ない。むしろポツダム宣言の受諾を認め、その上で希望条件について自分たちの考えを
 述べ、粘っこく主張を続けているのである。
・それにつけても梅津という軍人は、結果論でいうと、不思議な存在として終始する。こ
 の最大の国家危機に際して、参謀本部の統領としての絶大なる統率力を発揮したとは、
 とても言えない。いや、昭和の陸軍激動史のなかに、陸軍次官、関東軍司令官、総長と
 重要な地位を占め続けながら、外部的に確たる存在を示すことなくひっそりと生きてい
 る、という表現が彼には一番ふさわしい。いっさい自筆の文章を残していない。語るべ
 きエピソードもほとんどない。それでいて梅津は二・二六事件以来終戦まで堂々と陸軍
 の第一人者として終始したほとんど自分の意見を言わず無口に、地味に、しかし図太く
 すべてを合理的にやってのけた稀有の官僚的政治軍人であったのである。    
・8月9日午前の陸軍中央の、あわただしい動きから見えるのは「短才」にして「楽天」
 すぎる面ばかりである。ソ連が満州の東、西、北から全面的に攻撃を開始し、日本に宣
 戦布告状をたたきつけることは明白な事実なのである。にもかかわらず、陸軍中央とく
 に参謀本部の措置は、万事において不徹底であり、優柔不断そのものである。宮中にい
 った参謀総長の帰るのを便々として待ち続け、その間適切な指示も命令を出していない。
 沈みかけた船の上で右往左往しているだけとするのは酷すぎるであろうか。秀才参謀た
 ちの失望と苛立ちの雰囲気だけが手に取るようである。それゆえに、すでに全面的戦闘
 状態に入っている関東軍総司令部は全軍に、否応もなく独自の作戦命令を発せざるをえ
 なくなった。そしてそのあとは参謀本部よりの大本営陸軍部命令ならびに参謀総長より
 の指示を待つばかりであった。その命令がいっこうに届かない。
・いまになってみれば、不可思議もとおり越して、面妖なというしかない。参謀本部作戦
 課が「その規模大ならず」といかなる情報から判定したものか。この間に国境線ではい
 くつもの部隊がすでに玉砕し、一般民衆がまきこまれて数知れず死にはじめている。ソ
 連軍の大砲は山容が改まるほど弾丸を打ち込んでいる。戦車部隊は轟々とキャタピラを
 ならして、日本軍陣地を踏みつぶしている。そのときにまだ「作戦の発動を準備せんと
 す」なのである。 
・「ソ連を利用」あるいは「対ソ交渉継続」、そして大陸命の「準備せんとす」のウラに
 隠された陸軍の本心、ということになるのであろう。政略・外交的な意味でのソ連利用
 になお固執するものがあったのである。溺れるものは藁をもつかむとはあまりに常套句
 にすぎるが、それ以上の言葉は見つからない。国際情勢に対しる無知として感覚のなさ
 にも驚かされる。「短才」「楽天」「神がかり」、そのいずれでもあった。恐ろしいが
 ゆえにその好意にすがりたいと考えるのは、いつの場合でも浅薄な考え方であるようで
 ある。考えたくもなかった危機に直面して、陸軍中央は熱に浮かされていたのであろう。
 完全にお手上げといっていい状況下に、なんとか活路を見出そうと必死である。が、矢
 継ぎ早に起こる事態のスピードに追い立てられ、それによって起こるであろう悲惨この
 上ない結果を想像することなどできなくなっている。想像力をだれもが失っている。刻
 々に変転する情勢は参謀たちの息もつかせないのである。
・日本の政軍の指導層が、ソ連による和平仲介という甘い考えを持ったように、国民もま
 た奇妙なほどにこの日までソ連への信頼を傾けていた。ソ連が米英に知られないように
 ひそかに裏側から日本へ石油を送り込んできているとか、日ソ間の協定なって明日の世
 界のためソ連は米英に宣戦を布告するとか、そんな流言が乱れ飛んでいた。それを本気
 で信じている日本人も少なくなかった。 
・「なぜソ連が日本に戦争を?」その背後にどんなに複雑怪奇ともいえる国際政治のかけ
 ひきがからんでいることか。それを知らない日本人には、ただ殺到するソ連戦車に理解
 を超えた無気味さを感じ、襲い来るソ連兵が不吉で真っ黒な悪魔の化身のごとくに思え
 たとしても、それはごく自然なことであったかもしれない。
・当時の暗澹たる状況下に書かれた日記を書き並べてくると、日本国民にとって、ソ連の
 対日参戦の報がいかに驚天動地の衝撃であったことかがよくわかる。それというのも、
 戦争中の日本人はソ連という国を「敵」にしたくはない強い想いを抱き、そのあまり
 「味方」なのだとする勝手に裏返った気持ちを、ひそかに育てていた。そのように思わ
 れてならない。    
・ソ連の朝刊は、まず日本が過去において、帝国ロシアならびにソ連邦にはたらいた罪状
 を細やかに数えたてた。二十世紀初頭の日露戦争にはじまって、1918年のシベリア
 出兵、1939年のノモンハン事件、第二次大戦中の対ソ軍事干渉からヒトラーに与え
 た軍事援助まで、日本はソ連人民の平和をおびやかす戦争狂集団として伝えられた。日
 露戦争は、旅順港のロシア海軍に対する日本の「だまし討ち」によってはじまり、その
 ためにわれわれは実に40年も耐え忍ばねばならなかった。と「恥辱」として書き、い
 まこそその仕返しをするときである、と強調した。そして、この宿敵日本に対して宣戦
 することは、連合国に対する「義務を果たす」必要があるからであると高らかに謳い上
 げた。   
・しかし、ソビエト人民もひとしく熱烈に歓迎したであろうか。ロシアの大衆がドイツと
 の戦争に際して示した反応と、この日本との戦争に対する反応との差異は著しいものが
 あった。全国を通して無関心と冷淡の気分が支配していた。なるほど軍隊は従順であり、
 命ぜられるままに行動した。しかし4年間もヨーロッパで精根つきる戦いをつづけた揚
 句、なぜまた極東で新たな犠牲が必要なのか、連合国に対する「義務を果たす」必要が
 あるからだというような言葉も、国民にはピンと来なかった。   
・駐日ソ連大使から対日宣戦布告状を正式に受け取ったとき、東郷外相は「ソ連側におい
 ては、ポツダム宣言は拒否されたとみなしているが、ソ連政府が日本側に対してこれを
 確かめようとせず、拒否したものと判定されたことは実に軽率きわまりない。その上に
 わが国の戦争終結のための申し入れになんの回答もなさず、突如国交を断絶し、戦争を
 開始することは不可解であるばかりでなく、東洋における将来の事態から考えても遺憾
 至極である」と厳重に抗議した。
・スターリンは、ソ連国民が望もうが望むまいが関係なく、アジアでの戦勝の分け前を多
 く奪い取ろうとして宣戦布告したのである。アメリカの独占は許せないとして、日本が
 戦力を喪失した熟柿のときを待って参戦しようとした。予定より少し早めたのは、アメ
 リカの原爆による攻撃で日本の降伏がもう目睫の間に迫ったことを知ったからである。
・第一次大戦後、敗戦国ドイツから苛酷なまでに連合国が賠償金をとったことから、ヒト
 ラーとナチス・ドイツの出現を許したという反省が世界に生まれた。第二次大戦では、
 無賠償がとなえられ、また固有の領土は併合の対象にしないという原則が叫ばれはじめ
 る。帝国主義的な要求は、かえってつぎの戦争を準備するということに、世界の各国が
 気づいたのである。なのに第二次大戦の指導者でスターリンだけが、その原則を認めよ
 うとはしなかった。それが日本軍将兵のシベリア抑留の問題に絡んでくる。創造的な革
 命を指導し開拓したスターリンは、その反面で矯激な帝国主義者であったといえる。国
 内では全体主義機構を築き上げ、容赦なく反対派を弾圧し、国民を厳しく圧迫した。厳
 正な指導者原理にそって自国を支配し、他人の容喙を許さなかった。そして対外的には
 自国の領土拡大をひたすら追求した。その意味では、ヒトラーと著しく相似している。
・10日早朝、大本営より対ソ全面作戦が発動された。満州放棄と朝鮮への後退持久の作
 戦命令のうちには、満州に居留する一般民間人の処置は、考慮に入ってはいない。非戦
 闘員は居留現在地にあってまとまって留まるのが、もっとも安全である。戦闘員はこれ
 に接触しないのが戦争の原則であり、これを紳士的に保護して取扱うのが、文明国の軍
 隊に求められる道義である。それが参謀本部の、そして関東軍の作戦参謀らの考えであ
 ったのであろう。しかし、これはソ連軍に信頼をかけすぎていた。
・公刊戦史は妙なことを記している。それは「関東軍は希望的心理と、防勢企画を秘匿せ
 んとする考え」を持っていたため、居留民に対する決定的措置をとることができなかっ
 た、としているが、そこまではいい。問題はそのあとである。「いまだかつて接壤交戦
 を経験せず、きわめて多数におよぶ在外居留民が、直接、戦乱の渦中に投げ込まれた体
 験を持たなかったことが、大きな原因であったといえよう」、いったいこれはどういう
 ことなのか。経験がなかったから悲劇を大きくした、とはどの面さげていえることなの
 か。虐殺や自決や強姦や暴行や、そしていまも多くの問題を残している残留孤児と、一
 般市民がうけた悲劇の責任は市民にもある、といっているにひとしい。それは誤りであ
 る。すべての責任は軍にある。参謀たちの判断の誤りにあって、ほかには決してない。
・国の舵は、徹底応戦からいまに戦いを集結するかの方向に向けられているのである。軍
 隊は与えられた任務どおりに動く。軍の原理はそれ以外にはない。いまこのとき、満州
 国防衛の任務を放棄してよい、と命ずることが、どういう悲惨をうむかについて、少し
 も思いをいたさなかったというのか。敗戦という現実に対する想像力が、大本営にも関
 東軍総司令部にも欠けていた。 
 
宿敵と条約と
・日本人にとって満州はどんな意味を持っていたのか。
 ・対ロシアに対する国防の生命線としての満州
  日露戦争後もロシアの南下政策は、強まることはあっても決して消えることはなかっ
  た。脅威は依然としてして続き、日本にとって依然としてロシアは仮想敵国の第一
  の強国なのである。
 ・開拓・収奪が大いに可能な資源地帯としての満州
  資源なき日本はこれまで、鉄・石油などを英米の植民地からの輸入に依存してきた。
  いまや五大強国の一として、ライバルとなりつつある英米への依存から脱却し、日本
  帝国が対等となるためには、満州の資源はどうしても必要不可欠なものなのである。
 ・日本内地からの未開の沃野へ、その人口流出先としての満州
  ・明治末から対満移民政策にとられ、多くの日本人が海を越えて渡満した。農家の二
  男、三男の土地なき農民たちから、挫折した人びと(失恋から左翼運動まで)がこれ
  に続いた。 しかし、必然的に、すでに中国人や朝鮮人たちが開拓し住み着いていた
  農地を、日本人が強権的に奪うことが多くなった。
・昭和二十年の敗戦までの移民数は30万人を超えたが、現地の中国人そして朝鮮人に与
 えた苦痛はなみなみならぬものがある。さらに対ソ戦に備えて、関東軍の予備軍として
 配備された青少年義勇軍がいる。義勇軍はその総数が八万六千五百人を超えている。こ
 うして多くの日本人が海を越えて渡り、あるいは先住民をおしのけて、大地に住みつい
 た。そこから日本および日本人に対するするどす黒い怨嗟や増悪が生まれた。こうして
 満州は日本人の「見果てぬ夢」の大地となり、ここを基盤に明治から大正、そして昭和
 にかけて日本は、産業を興し、強国への道をかけ上がっていった。あえていえば、満州
 という植民地をもったゆえに、日本は巨大な陸海軍を建設し、国家予算の半分近くを使
 って整備育成・強大化し、四囲にたえず牙をむいたような軍事国家となった。しかも、
 国防の戦略拠点としての満州、重要な資源地域としての満州、それを保持し、強化し、
 世界列強に伍する高度国防国家の建設を急げば急ぐほど、現地の民衆ばかりでなく、列
 強との摩擦や対立も次第にあらわになっていく。
・はっきりいって、ロシア革命以来、日本とソ連が友好関係に立ったことは、ただ一度も
 なかったといっていい。革命勃発の翌年には、日本政府は七万以上の大兵力をシベリア
 に出兵
させ、革命干渉の挙に出ている。
・国境を隔てて日ソ両軍が相対することで、国境が不明確なため、はたまた武力偵察のた
 め、越境事件が次々引き起こされた。特に十四年夏のノモンハン事件でのほぼ一個師団
 喪失という手痛い敗北を喫した体験は、日本陸軍の宿敵ソ連軍像に根本からの訂正を迫
 るものとなった。
・広漠不毛な地で、大兵力の作戦を遂行したソ連軍の後方補給能力のたくましさ。砲兵、
 戦車、飛行機など兵器の近代化と優秀さ。しかもそれら火力の綿密な協同攻撃のすざま
 しさは、重量感あふれるローラーのそれであった。また、被服こそ貧弱そのものであっ
 たが、その兵たちの拠点に踏みとどまって戦い抜いた頑強さ。それはあらゆる点におい
 て日本軍の脅威となった。明らかに帝政ロシア軍とは違う、基礎戦力を着実に強化した
 堂々たる近代軍をソ連は築きあげているのである。
・日中戦争という泥沼の戦いに足をとられている日本陸軍は、不断の焦燥と不安に悩まさ
 れることになる。強大な軍事国家となったスターリン体制のソ連が、戦争を宿命的に不
 可避とする戦争観を持っていること、まずそのことがある。しかもその国は、弱味をみ
 せれば、ただちにつけ込んでくる浸透戦略性を持っている。かつ、その国は他国に対す
 る赤化工作が実に巧妙なのである。   
・永遠の宿敵が強大になればなるほど、正面衝突は避けたいとする戦略観が働く。そのこ
 とと、もしできることなら協調したい、という想いとは、いわばコインの両面である。
 陸軍が、いや陸軍のみならず海軍、政治家そして知識層にまで、奇妙なほどソ連への心
 の傾斜をよりはっきりとさせてくるのは、まさしくノモンハン事件以後のことである。
大正デモクラシーの洗礼を受けた昭和の日本人には、潜在的にロシアへの親近感がある
 と説く人もいる。一つにロシアの自然と結びついたロマンチックなイメージである。
 「カチューシャの歌」や、「雪の白樺並木、夕日が映える」で始まる「トロイカ」など
 の歌がそれを代表する。もう一つはロシアの政治・社会制度に結びついた「反逆」のイ
 メージであろうという。ドストエフスキートルストイや初期のゴーリキーの翻訳を、
 日本人は社会的抗議の書として読みふけった。昭和初期のロシア文学の翻訳が、ほかの
 国のそれと比べて、かなり情緒的であったのが思い出せる。それを日本人は好んで読ん
 だ。現実のソ連からいくら逸れていようと、つまり恐るべき粛清と暴政がそこで起こっ
 ていようと直視せず、自分の願望をこめて美しいロシア・イメージを描くものが、日本
 人にはかなり多くいたのである。    
・それまで、三国同盟問題は海軍の猛反対によってしばしば暗礁に乗り上げて進まなかっ
 た。ヨーロッパにおいて、第二次世界大戦をひき起こしているドイツと結ぶことは、日
 本を大戦へと近づけることになる。英米をはっきりと敵にすることであるからである。
 ところが十五年九月の初めに、ドイツ外相の特使が来日して日本側と交渉を始めるや、
 交渉は急テンポに進み、十日あまりであっさり同盟成立ということになった。ドイツ特
 使が外相の意向として、ノモンハン事件で悪化した日ソ関係を旧に復すため、ドイツが
 「正直なる仲買人」として仲介の労をとることを約束した。そのことが、反対し続けて
 きた海軍中央をして同盟に踏み切らせる契機をつくったといわれている。このとき、軍
 部をはじめ政治指導者たちは、前年の昭和十四年八月に調印された独ソ不可侵条約とこ
 の日日独伊三国同盟を結合することにより、日独伊ソの四国協商が可能なのではないか、
 この四国連合は米英と対決する日本の立場を飛躍的に強めることになる、と考えたので
 ある。このソ連を友邦にくみこむ連合構想は、海軍が三国同盟に反対する根拠を失わせ、
 賛成へと転じる大きな誘因となった。ときの外相松岡は確言する。尊大なるアメリカが
 折れてくるのは、日独伊三国同さらには日独伊ソ四国の結盟をもって日本の国際的地位
 を強化することにより、すなわち日本が毅然として強くなる以外にはないのである、
 と。
・日中戦争を契機に対英米関係が悪化すればするほど、宿敵ソ連と友邦になるということ
 を、日本人は朝野を上げて期待した。敵が味方になるという夢想を。当時の日本の政軍
 関係のリーダーたちは恐れつつもいやそれだけにいっそう、ソ連への心を傾けている。
 そのことをまぼろしの四国連合構想は実によく物語っている。
・日独伊三国同盟が締結されてから約半カ年後の、昭和十六年四月、無気味な沈黙を保っ
 ていたソ連が、突然に日本に友好的な態度を示し、日本中をアッと言わせる。訪ソした
 松岡外相を迎え、ソ連側からの提案で、モスクワにて日ソ中立条約が調印されたのであ
 る。
・日本では、救国の英雄たる松岡の帰国を迎え、東京市民は朝から深夜まで、千駄ヶ谷の
 松岡邸の門前で万歳を三唱しつづけた。スターリンが何を魂胆に秘めているか、考えよ
 うともしなかった。が、このときの参謀本部の少数の参謀たちはわずかに不審な眼差し
 を北に向けた。松岡がスターリンによって見事にあやつられたのではないか、という底
 知れぬ疑惑にとらえられたのである。なぜなら、中立条約の締結前の三月ごろから、ソ
 満国境線のソ連軍兵力が少しずつ抽出されて、西へ送られていることを情報でつかんで
 いたからである。その送り先としては、対ドイツ正面しか考えられないではないか。ド
 イツとの戦争の意志を固めているとみるほかはない。明らかにスターリンは、西にドイ
 ツ、東に日本の二正面作戦を怖れている。そう判断できる。仇敵である日本軍がドイツ
 と呼応して北に出てくるようなことがあったら、たまったものではない。その進出の舵
 を南に向けさせそう。中立条約はそのための謀略ではないか、どうせ本気ではない、と
 参謀本部の一部は冷静に推測した。
・事実、重要な情報がモスクワから東京へ届けられていた。条約調印後の小宴において、
 日本大使館付海軍武官に、スターリンが近づくと声をごく低くして言ったという。「こ
 れで日本は安心して、南進できよう」これこそ悪魔のささやきというものではあるまい
 か。   
・この日ソ中立条約に力をえて、陸海軍部はもとより、日本の国内の動きはマスコミに煽
 られて南進論一色にそめあげられていく。スターリンの言葉そのままに「安心して」英
 米との正面衝突が確実の、東南アジアへの進出の国策を樹て、憑かれたように突き進ん
 だ。スターリンが心ひそかに期待しているそのとおりの、太平洋戦争へ向かって一直線
 の坂からの転がりようであった。
・昭和十六年六月、ナチス・ドイツが予想どおりソ連に侵攻したのである。三国同盟締結
 時の目標である日独伊ソの四カ国が提携して米英に当たるという夢は、この瞬間に崩壊
 し、いまやソ連は米英陣営の一員となった。理論的には、約束を破ったドイツと手を切
 り三国同盟から脱退、中立化して世界戦争から脱出できるチャンスが日本に訪れたこ
 とになるが、そうしようともせず日本はあえて三国同盟に固執した。一つには一途の勝
 利を信じて、その後に来る新しい世界地図を想像したからである。そしてごく自然に、
 日本のとるべき政略戦略として、ドイツを支援するために、ソ連とただちに戦火をひら
 くべきか、延期するかをめぐって、白熱的な論議が噴出したのである。中立条約を結ん
 だ直後であることなど忘れたかのように、陸軍の大勢は対ソ戦の発動に傾いた。
・松岡は大本営政府連絡会議において強硬に対ソ攻撃を主張する。「わが輩はさきに南進
 論を主張してきたが、いまは北進論に転向する」と。「じかんが経てばソ連の抵抗力は
 増し、日本は米英ソに包囲されることになる。日本が満州より攻撃に出てスターリンを
 叩き、ヒトラーに勝たせる。そのあとで南方へ進出すれば、米英を押さえることができ
 る。ところが、さきに南方へ出れば、米英と衝突となり、米の欧州参戦を招くことにな
 り、ドイツが不利になる。ソ連は生き延び、日独はともに敗北するやもしれない」と主
 張した。
・結果的には、予想に反して、訓練十分の強兵をヨーロッパに送ったものの、日本側の構
 想を察知したのかソ連は、それに相当する新兵力で、すぐにソ満国境を固めた。日本軍
 に乗ずる隙を見せようとはしなかった。武力行使の第一要件たる「極東ソ連軍の半減」
 は成立せず、やがて積極攻勢は断念せざるをえないことになる。しかも七月下旬の日本
 軍の南部仏印(南ベトナム)進駐に対するアメリカの対日石油禁輸という超強硬戦争政
 策の発動で、太平洋の波が一挙に荒くなり、宿敵ソ連軍撃破の北進など、夢のまた夢と
 なっていく。 
・関東軍の精鋭師団の南方転用はどしどし実行された。転用兵団の情報が的に流れれば、
 輸送中に海上で撃沈される危険性が増大する。一個師団となれば一万七千〜八千名の将
 兵と、おびただしい数の兵器や軍需品が動く。そのための輸送をいかに秘密裡に行うか。
 最大の注意が払われた。敵を欺くにはまず味方から、である。もし国境付近はもちろん
 のこと、その他の地域の居留民に知らせるならば、軍隊の保護がなくなると、大量の日
 本人が後方へ動き出すことが予想される。これまで行ってきたすべての秘匿行動が水泡
 に帰す。当然のことにソ連を刺戟することになる。
・もう一つの主張がある。居留民や開拓民に対する措置は、と千のこと満州国政府側がし
 なければいけないことである、というのがそれである。軍が政府側高官に新方針を示し
 た以上は、満州国総務庁側がこれに対応する政治方針を、各省の省長あるいは省次長に
 命じ、彼らが善処指導すべきであった、と。しかし歴史が示すとおり、満州移民を推進
 したのは関東軍そのものである。しかも治安の悪いソ満国境付近まで入り込み、中国人・
 朝鮮人が拓いた土地に入植し、現地住民を追いはらってまでして開拓団がはりついたの
 は、関東軍を信頼していればこそではなかったのか。それでもなお、関東軍に責任があ
 るとすれば道義的なそれでしかない、というならば、ただ一つの事実だけは指摘してお
 きたい。関東軍総司令官は同時に満州国長官でもあったのである。満州の曠野にひろく
 ちらばって居住していた一般の法人は、それゆえに関東軍に満腔の信頼を傾け、まだ満
 州は安全な楽土であると信じきった。そして、それが夢まぼろしのようにはかなくなっ
 ている現実を、かれらはついに知されることはなかった。 
・参謀本部は早々と、満州の曠野の大部分を放棄することを想定している。はっきりいえ
 ば、兵力の南方転用を決定したときに、陸軍中央は関東軍を見捨てたのである。参謀本
 部は南方作戦の本土決戦のため関東軍を捨てた。関東軍はそれならばと居留民と開拓団
 を見捨てたのである。
・11月にモスクワで10月革命27周年の祝賀会が盛大に開かれた。そのときにクレム
 リン宮殿で、スターリンがすべての日本人を愕然とさせるような演説を行ったことが報
 じられてきたのである。「歴史の住めるところによると、侵略国。攻撃国は、被侵略国・
 被攻撃国よりもさきに、つねに新しい戦争の準備を整えている。かの真珠湾事件そのほ
 か太平洋の諸島にみる攻撃、香港、シンガポールに対する日本軍の攻撃のごときは、決
 して偶然とみるべきではなく、侵略国としての日本が、平和愛好政策を堅持する米英両
 国よりも、戦争に対し、完全な準備を整えていたことを示しているのだ」、と。日本政
 府も軍部も、その指導者たちは背筋に冷たいものを走らせた。
・スターリンが侵攻の機を窺っていることは明白である。にもかかわらず、なんとなく
 「甘い考え」を日本陸軍は抱いていた。ソ連は出てこないのではないか、という。
・スターリンはそれほど甘くはなかった。対日参戦の野望は、突如として胸中にきざして
 きたかのような、そんな浅いものではない。日本政府も軍部も、国際戦略の動向に疎く、
 それを知らなかったまでなのである。
    
独裁者の野望
・スターリンがこう解説している。「われわれの任務は、敵の挑発的な行為に関係なく、
 われわれの威信を損じようとする小うるさい攻撃に関係することなく、ソビエト政府の
 平和政策を続けることにある。敵の陣営の挑発者はわれわれを挑発する。われわれの平
 和政策はわれわれの弱さから生ずるものだと主張して、いつまでもわれわれを挑発し続
 けるであろう。これはわが同志のなかの挑発を受けやすいものを暴発せしめ、断乎たる
 措置をときに要求させる。しかし、そういうものは神経が弱いのである。忍耐力が足ら
 ないのである。われわれは敵の笛に踊らされてはならない。われわれは独自の道を歩ま
 ねばならない」「戦争が始まる気配があるならば、われわれはひたすら手をこまねいて
 傍観してはいけない。われわれも参戦しなければならない。が、他のものよりあとで参
 戦する。そして、われわれが参戦するのは、運命のハカリに決定的な重みを加えた
 めである」
・グルジアの農奴のせがれから、元バクーの監獄の囚人、シベリア追放、レーニンの門弟
 という経歴を経たスターリンは、待つこと、忍ぶこと、耐えることにおいては、類まれ
 な資質を持つ男であった。ドイツ軍の砲声が郊外にとどろき、歩兵の猛攻の下に、いま
 にも陥落するかというモスクワに、スターリンは逃げ出すこともなくとどまった。ヒト
 ラーがモスクワはすでに占領されたと発表したころ、迫り来るドイツ軍の砲声を聞きつ
 つ、彼は赤の広場で狙撃部隊の閲兵を行っている。軍部をはじめモスクワ市民は、この
 ことによって心から奮起した。それから一カ月後、ドイツ軍は猛吹雪のなかを退却を開
 始せざるを得なくなった。
・昭和十九年は、ヨーロッパ戦線で、次から次へと軍事的成功をスターリンにもたらした
 年である。以後は兵力においても、また武器においても、赤軍ははるかにドイツ軍を凌
 駕する。そうなってもスターリンは、ヒトラーがやったような電撃作戦といった幻想を
 抱こうとはしなかった。「派手な攻撃は敵をうちのめし、混乱させるかもしれないが、
 また攻撃側の戦線を広げ、弱い横腹をさらす危険がある」といい、スターリンはいかな
 る急進撃の殲滅戦も試みようとはしなかった。スターリンがいかに忍耐強く慎重である
 かがよくわかる。 
・スターリンは並外れた人物であることに疑いはないが、魅力ある人物ではない。彼の容
 貌は気持ちが悪いほど、冷酷、狡猾、残念で、その顔をみると、いつでも私は彼が髪の
 毛一筋動かさずに人々を死の運命に追いやる様子を想像することができる。他面、彼が
 機敏な頭脳をもち、戦争の本質なるものを真に把握していることに疑いはない。
・アメリカはこの時点ではソ連に信頼を少しもおいていなかった。ソ連がドイツに勝つと
 いうことを信じるものより、いつまでソ連の戦力が対独戦に持ちこたえうるか、を問題
 にしているもののほうが多かったのである。米国務省の高官たちは、むしろスターリン
 が勝手に講和をヒトラーと結ぶのではないか、との疑いを深くしていた。アメリカがと
 にかく必要としていたのは、日本本土を直接爆撃できる空軍基地を手に入れることであ
 る。日本本土に徹底的な空爆を敢行することで、軍需工場や基地を粉砕し、日本人の戦
 意をもぎとることが緊要のこととみられている。そのためにも、ソ連が厭戦から講和な
 どを考える前に、沿海州のソ連空軍基地を利用できるようにすることがなんとしても緊
 要なことであった。
・アメリカ政府は、ソ連をなんとかいて対日参戦させたい、そのための処理案を極秘裡に
 決定した。このとき、参戦の見返りに、樺太南部はもとより、「千島列島はロシアに引
 き渡さるべきである」ということを、至極当然の政策として決めている。その根拠は、
 日ソ中立条約がモスクワで結ばれた際のスターリンの言葉である。あのときのスターリ
 ンと松岡の交渉内容を、日本の外交暗号解読によってアメリカは十分に把握していた。
 あの時まさしくスターリンは条約締結の見返りに、千島列島の譲渡を要求していた。
・テヘランにおける第一回米英ソ三国首脳会議で、スターリンは、「ドイツを最終的に撃
 破できれば、シベリア戦線を増強することは可能であり、かくしてわれわれは共同戦線
 を構成して日本を打倒することができましょう」と言った。どのくらい戦力を増強すれ
 ばいいか。この問いに対しては、いまのシベリアのソ連軍兵力は純防衛的な目的のため
 には十分であるが、日本に対する地上攻撃作戦にでるだけの強さを持つまでには、と前
 提し、「現在の兵力の約三倍の兵員が必要となるでありましょう」とスターリンは言っ
 た。この言明が、スターリンの対日参戦の意志を公式に表明した最初のものとなった。
・ところが、日本の参謀本部は、懸命の情報収集にもかかわらず、テヘランにおいて議さ
 れたのは、ヨーロッパの第二戦線をめぐる問題だけであろうと判断している。ソ連の対
 日参戦問題がもう議題にのぼっているなどとは、つゆ考えようともしなかった。さみし
 くなるほど日本帝国は正確な情報をうることができなかったのである。   
・スターリンは米英首脳に対して、「日本の支配する海峡によって取り囲まれた状況を打
 破したい」といい、「極東に不凍港がほしい」と具体的な政治的要求を初めて出してき
 た。ルーズベルトが、これに「大連港を自由港として使用しうるようにしたら如何」と
 答えているが、だれの口にも千島列島の名はのぼっていない。ルーズベルトも英首相
 ャーチル
も、昭和十六年に米英両国で作成した「大西洋憲章」の、堂々たる宣言を忘れ
 るわけにはいかなかったからである。第二次大戦勃発の最大要因となった領土拡大を防
 止するためにも、この戦争によって連合国は新たな領土の獲得を行わない、という理想
 的な大原則を定めたのは彼らである。そして、この領土不拡大の原則は、その後に連合
 軍各国が、「戦後の共通の指標」として承認した。ソ連もまたこれに賛同している。そ
 うであればこそ、対日参戦の条件として「千島列島を引き渡す」を持ち出すのは、まだ
 時機尚早ということを、だれもが意識しないわけにはいかなかった。ルーズベルトとス
 ターリンの暗黙の了解事項としてとどめられたのであろうか。
・「対日攻撃には六十個師団を必要とする。あと三十個師団を増強しなければならない。
 これには軍用列車千台を必要とし、輸送に三カ月はかかる。もし連合国が必要な軍需品
 を援助し、ソ連参戦の名分を立てるような政治的条件を整えてくれるならば、ドイツ敗
 北の三カ月後には、対日攻撃を間違いなく行う」とスターリンは明白にいいきった。
・スターリンはすっかりご満悦となっている。とにかく「ドイツ敗北の三カ月後」にソ連
 が対日戦に参加することについて、スターリンからしっかりした保証をとりつけたので
 ある。いままで得体の知れぬ男とみていたソ連の「偉大な元首」を、この数日間、チャ
 ーチルは尊敬を込めた眼差しで見るようになった。帰国したのちにスターリンに送った
 仰々しいばかりの礼状は、この二人の指導者がよき友愛関係にあった最高の時を明かし
 ている。     
・そのチャーチルが知ったら目をむくような要求をスターリンが言いだしたのは、その年
 の12月、「千島と南樺太とはロシアに返還してもらわねばならない」といった。さら
 に地図の上に旅順、大連を含む遼東半島の南部に線を引き、「これらの港と周辺の地域
 を租借したい」と強く言った。   
・スターリンは、大西洋憲章を尊重する気などまったくないのは明かでる。帝政ロシアが
 失ったアジアの領土と権益をすべて奪還する、憲章に照らせばそれは恐るべき野望とし
 かいいようがない。   
・クルミア半島の東岸にあるヤルタは、帝政ロシア時代には閑静な保養地として知られて
 いた。皇帝や皇族のための宮殿が建てられ、貴族や金持ちもそこに別荘を持つことを名
 誉とした。風光明媚な海岸をもつこの町は、上流社会のものたちの夏の社交場としてた
 いそう賑わったものである。昭和二十年二月、飛行機嫌いのソ連の首脳の希望もあって、
 ルーズベルト、チャーチル、スターリンの三巨頭が再びこのかつての保養地に集まった。
・このヤルタにおけるルーズベルトは、ソ連を対日戦に参加させようと躍起になっていた。
 ひとつには日本軍の戦力に関するアメリカの情報が正確ではなかったためである。とく
 に関東軍の兵力についてはなんの情報も持っていなかった。そしていよいよのときには、
 日本軍は天皇を擁して大挙して満州に移り、そこにいる無傷の関東軍の強兵をも加えて
 最後の一兵まで戦う、日本はそうした狂信的な国家である、という情報が、総合参謀本
 部を脅かしていた。ルーズベルトはこうした日本軍の戦意と戦力を過大評価している軍
 部の見解にひきずられていた。   
・スターリンは、「日本とは中立条約を結んでおり、いまのところわが国はなんら損害を
 蒙っていない。敵ではない。その国と戦争をせねばならないというのは、ソビエト国民
 は容易に理解しないかもしれない。はっきりとした参戦の理由を示さなくてはなりませ
 ん。かつてのロシア帝国の権益の復活ということがもし満たされるとしたならば、国民
 に対日参戦が国家利益であることを理解させることができると思うのです」と言った。
・ルーズベルトはあっさりと答えた。「南樺太と千島列島がソ連に引き渡されることにつ
 いては、なんら問題はない」   
・スターリンはぼそりと言った。「私は日本がロシアから奪い取ったものを、返してもら
 うことだけを願っているのです」ルーズベルトはこれに相槌を打った・こうしてわずか
 15分間の会談で驚くべき合意「ヤルタ密約協定」が成立した。
・このヤルタ密約協定で注目すべきは、外蒙古の条項と「千島列島引渡し」の条項が、あ
 えてほかの条項と分けられ、並列に扱われていることである。しかも協定のなかで、
 「南樺太はソビエトに返還される」、となっており、樺太をソ連領と認めているが、
 「千島列島はソ連に引き渡される」、なのである。これを見る限り、千島列島は日本領
 であることを認めている。ただし、千島列島とは地理的にどこからどこまでを言うのか、
 その定義は協定のなかにはない。また、それを討議した形跡はまったくみられない。不
 健康で気力のないルーズベルトの頭のなかは、ソ連の対日参戦を一日でも早く実現させ
 ようという「求愛」の想いだけでいっぱいで、千島列島に日本固有の島が含まれている
 かどうかなど、どうでもいいことであったのかもしれない。
・南樺太、千島列島の献上は、あとになってみれば不利な取り引きだったかも知れないが、
 少なくともヤルタ会談の時点では有利な取り引きだったのだ。とにかく、当時、ルーズ
 ベルトもチャーチルも対日戦争は1947年まで続くと予想し、覚悟していたのだから。
 補足すればこの時点は、アメリカにとって原爆製造の目途がまだついていないときであ
 る。     
・日本は、敵国であったとはいえ、その領土や権益を勝手に米ソによって取引きお道具に
 使われている。それが問題である。無法もいいところである。そんな取引きが日本を拘
 束する力を持たないことは国際法理上当然である。「条約は第三者を害せず利せず」と
 いうのが国際法上の大原則なのである。しかも空しさを痛感させられるのは、当時の日
 本はヤルタの密約についてまったく知るところがなかったことである。   
・ルーズベルトとは違って、ソ連は満州に総領事館を持ち、東京には大使館を持ち、綿密
 な情報網を持っており、スターリンは日本に抵抗力の評価においてはるかにすぐれてい
 た。戦争は予想よりもずっと早く終わるであろう、その時までにフリーハンドを得てい
 なければならないと、スターリンの計算まことに的確なのである。スターリンは、日露
 戦争での帝政ロシアの敗北に対して、また革命にともなう内戦時の、シベリア出兵での
 日本軍の惨虐行為に対して、日本に復讐するチャンスを逃すつもりはなかった。
・それにつけても、「鬼畜米英」と叫びつつ、永遠の宿敵と目していたソ連にべったり傾
 斜していく当時の日本人の心の不思議を思わないわけにはいかない。たとえば、天皇の
 側近の内大臣木戸幸一が知人に語った言葉が残されている。それを読むにつけ、やはり
 時代の空気というものに一種異様の感を抱かざるをえない。「共産主義と云うが、今日
 はそれほど恐ろしいものではないぞ。世界中が皆共産主義者ではないか。欧州も然り、
 支那も然り。残るは米国くらいのものではないか。今の日本の状態からすればもうかま
 わない。ロシアと手を握るが良い。英米に降参してたまるものかと云う気運があるので
 はないか。結局、皇軍はロシアの静安主義と手を握ることとなるのではないか」
・もうひとつ、梅津参謀総長の天皇への報告がある。「大本営の意見では、アメリカの戦
 争に対する方針が、日本の国体を破壊し、日本を焦土にしなければ飽きたらぬものであ
 るから、絶対にアメリカとの講和を考えられない。それに反してソ連は日本に好意を有
 しているから、日本本土を焦土にしても、ソ連の後援の下に徹底して対米抗戦を続けな
 ければならぬ」何を証拠にソ連が日本に好意を持っていると判断したのか、まったく不
 明であるが、この一辺倒ぶりには驚かされるばかりである。実際は、どうにもならない
 戦局の悪化に、白昼夢を夢見たのであろうが、それにしてもあまりにも手前勝手すぎる。
・ソ連に信をおいていない東郷は主張した。「対ソ工作はもはや手遅れである。軍事的に
 も経済的にも、利用し得る見込みがない」しかし、たとえそうであろうとも、それで
 引き下がってはいられない状況となった。ヒトラーがベルリンの地下防空壕で死んだの
 が4月30日。5月8日にはドイツが無条件降伏した。そして日本軍の沖縄防衛戦も敗
 北が決定的となった。もはや手遅れであろうと、可能性皆無であろうと荏苒日送るわけ
 にはいかなくなっている。ソ連の対日参戦防止にはあらゆる方法を講ずる必要がありと、
 陸軍中央は躍起となる。これに海軍中央も同調した。
・最高戦争指導者六人だけの会議の席上で、なんと海相米内光政大将が珍しく積極的に論
 じたほどなのである。「海軍としては単にソ連の参戦防止だけではなく、できればソ連
 から軍需物資、とくに石油を買い入れたいとすら考えている」東郷は愕然となった。
 「ソ連という国を知らないにもほどがある。今日の情勢下でそこまで求めるのは無理以
 外のなにものでもない」が、外相は存知なかったのである。いや、鈴木首相すら知らな
 いことをすでに海軍は実行していた。米内の使いとして軍務局第二課長末沢大佐がソ連
 大使館を訪ね、残っている軍艦の全部である戦艦長門や駆逐艦5隻と引き換えに、ソ連
 の飛行機を、燃料付きで交換しようと申し込んでいた。もちろんだれにも報告せずに、
 である。しかし話はひきのばされ、その後、ソ連大使館になんど足を運ぼうが、ただウ
 ォッカを振舞われるだけであった。
・陸相、参謀総長さらには海相からも、対ソ工作を放胆果敢に実行するように迫られた東
 郷外相に判断は、今日の時点で見ても非常に正確なもので、大いに賞揚されてしかるべ
 きであろう。ノモンハン事件当時の駐ソ大使だけに、ソ連のことを体験的に過たずに、
 よく知っていたのである。にもかかららず、最高戦争指導会議は外相を説き伏せて対ソ
 哀願的国策を決定した。幻想、独善、泥縄的な発想は日本人の常なのであろうか。
・日本帝国は悲しくなるほどけなげになっている。戦争においては不名誉は敗者にしか存
 在しないのである。政治と軍事のトップは、和平のため多くのものをソ連へ提供し、日
 露戦争以前の島国日本に戻ることを覚悟した。和平の終局の条件は国体の護持だけであ
 る。それ以外の条件はない。「十万の戦死者、二十億の国費」という明治いらいの根本
 的命題は弊履のごとく捨てられた。したがって、国防の生命線としての満州も、後方資
 源地帯としての満洲も、そして人口の流出先、開拓すべき新天地としての満洲も、不名
 誉この上ないが見捨てられる運命となった。対英米戦争は、「ハル・ノート」が突きつ
 けた満洲を失うことは我慢ならぬと、清水の舞台から飛び下りてのことではなかったか。
 それをいまはすべて捨てる。ただひとつ、宿敵ソ連の対日参戦を防止するために、であ
 る。
 ・むしろ問題は日本の指導層に、満州放棄といい労力提供といい、政治工作のためには
 それもやむなしとする空気いや諦観、いや神経の鈍麻があったことである。戦争の哲学
 に中庸論を持ち込もうとすると、馬鹿をみる。戦争は一つの暴力行為であり、この暴力
 の発現には限界など存在しないと。日本の指導層は最後まで、戦争の哲学に「ソ連へ傾
 斜する心」を持ち込みたがっていたようである。そして、そのためには何を提供しても
 よいとする。
・ソ連の侵攻に対して、いまなお多くの人は中立条約侵犯を厳しく告発する。が、陸軍中
 央も外務省もほとんど日ソ中立条約を考慮に入れていない。当時の軍や外交のトップは
 政治や外交は本質的に揺れ動くものであり、約束が紙くず同然になることは百も承知し
 ていた。それが世界政治の現実なのである。その非をソ連にだけ負わせるわけにはいか
 ないのである。   
・日本に降伏条件を突きつけた宣言の原案は、五月下旬にすでにトルーマンの手もとにあ
 ったのであるが、軍事上の理由から発表が延び延びになっていた。それを七月六日の原
 爆実験の成功で、対日降伏勧告に原爆は実質的な力を与えうるとわかり、米政府は改め
 てとりだしてきた。トルーマンは、チャーチル、蒋介石の承認の上で、公表に踏み切る
 ことを決意する。ただしスターリンには完全に伏せていた。戦後処理や対日参戦をめぐ
 って重要な会議の進行中の、日本の降伏問題に関する突然の発表に、ソ連首脳が驚愕し
 たであろうことは、想像するに難くない。   
・老獪な政治家としてスターリンはいち早く、原爆の威力によって支配されるであろう戦
 後世界経営に目を向けている。その上に彼は、原爆完成の見込みをつけた米国が、ドイ
 ツ降伏後から、ソ連の対日参戦を不必要と考え出していることを見抜いていた。事実、
 米政府はポツダム会議のはじまったときには、ソ連の対日参戦をそれほど歓迎していな
 かった。にもかかわらず、対日参戦を否定したりして、米ソ関係の険悪化することも望
 んではいない。ヨーロッパでの勝利の果実や、戦後の国際連合設立に向けての努力が、
 すべて水の泡になることを恐れていた。
・ポツダム宣言の発出はスターリンを激怒させた。アメリカの真意ははっきりとした。対
 日戦の終結にソ連は不要なのである。ヤルタ会議の秘密協定を無視するほどに、アメリ
 カ政府は国際的良心や政治的良識を失っていると。スターリンの苛立ちは高まった。み
 ずからの軍事力で奪取できるものを、ヤルタ秘密協定を結んだがために、まずその前に
 中国との交渉の場を持たなければならないとは。その上に、日本帝国は今や青息吐息で、
 いつ白旗をかかげるやもしれない。日本の降伏に近いことを、スターリンは肌で感じて
 いる。ましてや、日本への原爆投下の影が、すでにちらちらする状況下にあっては。対
 日参戦は急がねばならない。ソビエトがアジアで得ようとしている覇権は、軍事的作戦
 を通じてのみ確保されるのである。
・そのとき日本政府は、よく知られているように、ポツダム宣言を「黙殺」するという立
 場をとったのである。宣言にスターリンの名のないことに注目し、ソ連仲介による和平
 に最後の、そのまた最後の望みを抱く。追い詰められて、国体護持の一点を守るべく交
 渉に夢をつなぎ、国際情勢の動きに注意を払う遑もなかった。
・そのとき関東軍は、青年義勇隊をふくめた在満の適齢の男子約40万のうち、行政、警
 護、輸送そのほかの要員15万人ほどを除いた残り約25万人の根こそぎ動員をかける。
 師団長は日本本土から予備役招集の老将軍が着任したりした。これによって関東軍は師
 団22、旅団8など70万に達した。戦車は合計約160万輌、飛行機は戦闘用のもの
 約150機。しかし、真の戦力となると、根こそぎ動員兵には老兵が多く、銃剣なしの
 丸腰が10万人はいた。新京では、ガリ版刷りの召集令状に「各自、必ず武器となる出
 刃包丁類およびビール瓶2本を携行すべし」とあった。出刃包丁は棒にしばって槍とし、
 ビール瓶はノモンハン事件での戦訓もあり戦車体当たり用の火焔瓶である。もっとも銃
 を持つこのでさえも弾丸は一人百発と制限されている。そしてこの根こそぎ動員が辺地
 の開拓民や居留民にもたらしたものは、無残この上ないものとなった。
・それから間もなく、ソ連軍は国境を越えて侵攻を開始した。兵力は将兵百五十七万余、
 戦車・自走砲五千五百輌、飛行機は四千六百五十機である。スターリンは絶対損をしな
 い大博打を打ったのである。
  
天皇放送まで
・東京の政治・軍事の指導層が、ソ連仲介による和平というはかない夢想をものの見事に
 踏みにじられ茫然としていたころ、ソ満国境付近では日本軍の各陣地が、十倍余の火力
 と衆をたのむソ連軍部隊を迎え撃って必死の敢闘を続けているのである。
・日本軍は、飛行機をともなう大軍を相手に、五分五分の戦いを挑んでいたことがわかる。
 将兵の士気は旺盛であった。敵の攻撃がいかに熾烈であろうと、これを喰い止めなけれ
 ばならない。それを将兵は使命と心得ているからである。参謀本部も関東軍も作戦方針
 としてすでにして満州の三分の二を放棄していた。彼らはそれとも知らず、その時間か
 せぎのためのはりつけ部隊でしかなかった。近く援軍が到着するであろうから、それま
 では何があっても頑張ろうと、兵士はもちろん民間人にいたるまで、要塞内にあるもの
 誰もが考えている。  
・結果として居留民や開拓団は無警告・無防備のまま放り出された。しかも屈強の青年層
 はもちろん、一家の大黒柱ともいえる父親が「根こそぎ動員」で関東軍に召集されてい
 る。辺境の開拓地に取り残されたのは老人や婦女子ばかり、というところが多かった。
・各地の開拓団や青少年義勇隊や居留民は、それぞれの逃避行動を開始する。離れがたい
 「自分の土地」を捨てる。各開拓団が相談の上で統一行動をとったわけではない。早く
 いえば、お前が行くならという群集心理も働いてまとまって動き出したといえる。どの
 開拓団が何十人、何日に、どのようなコースをたどったか。それを正確に示すことはほ
 とんど不可能である。多くの人が必死になって人の後をついていっただけなのである。
・虎頭要塞のあった広い地域に散在していた開拓団で言えば、関東軍の指示にあるように
 虎林線の鉄路にそって南下して、林口から牡丹江そして朝鮮北部へ逃れるのが理想的で
 あったであろう。が、虎林線がいきなりソ連軍の攻撃によって寸断されてしまった。い
 くともの開拓団の人びとは南下をあきらめ、西へ西へとあとさきになりつつ、満州東部
 の曠野をあてどなく歩いていくことになったのである。それがのちに多くの悲劇を生ん
 だ。しかもいち早く後退作戦をとった関東軍は、ソ連軍の急追撃をおそれ、計画どおり
 諸方にかかる橋を爆破した。結果的には、あとから逃げてくる老人や婦女子たちの進路
 と速度を妨害したことになる。それがいっそう悲惨をよんだのである。
・新京の居留民の避難輸送に関して、消し去ることのできない歴史的汚点を残したことは
 よく知られている。軍官の要人会議で決められた初めの輸送順序は、確かに民・官・軍
 の家族の順であったようである。実は、そこに問題が残った。新京にいる邦人の一軒一
 軒に知らされるためには多くの時間がかかる。そこで、軍人の家族は緊急行動になれて
 いるし、警急集合が容易であるから、これをさきに動かして誘い水としようとした。
 そして会議で決まった避難順序がいつの間にか逆になるにつれて、今度は軍人家族の集
 結・出発を守る形で、ところどころに憲兵が立った。自分らも、と駅に集まった市民は、
 なぜか憲兵に追い払われるようになった。
・新京駅前広場は来るはずもない列車を待つ一般市民で次第に埋まってきた。駅舎に入り、
 ホームにあふれ、怒号、叫び声として泣き声が入り混じって異様な熱気にあたり一帯が
 包まれた。彼らは口々に、軍人の家族や満鉄社員の家族の優先に対する不満と怨みの声
 を上げたのである。こうした軍部とその家族、満鉄社員とその家族が、特権を利し列車
 を私した、という非難と責任追求の声は現在でも大きく叫ばれている。対して少しは理
 のある弁明や言い訳もないではないが、およそ耳をかす人はなく、通用しないと言って
 いい。悲劇の体験記のほとんどすべてにおいて、その事実が告発されている。
・幸いに列車で新京をあとに国境を越えることができた人たちのその後を待ち受けていた
 のは、苦難な平壌での生活で、多くの家族が結局は飢えや伝染病で死んだ。しかし、そ
 んな不運をのちに知ることがあっても、しばらくはだれも信じようとはしなかった。そ
 の上にまた、関東軍総司令部は参謀本部からの指示もあって、長年かかって鍛えに鍛え
 てきた軍団らしく、必要な処置をできぱきと打っている。ソ連軍侵攻とともに、直接作
 戦に関係のない関東軍軍楽隊、関東軍化学部、防疫吸水隊、毒ガス研究部隊、軍馬防疫
 隊などをいち早く後方に移動させている。   
・婦女子や子供の後方輸送の問題は、新京在住の一般市民の怨恨をかったが、それ以上の
 憤激、というより市民をア然とさせたのは、早々とした関東軍総司令部の新京からの離
 脱のほうである。 
・ソ連侵攻の予期せぬ大混乱のさなか、関東軍総司令部だけではない、軍の指揮官、参謀
 たちの情けない卑劣そのものの行動を語るエピソードが他にもある。満州国中が大混乱
 にあったとき、「関東軍の上級将校が家族とともに列車を仕立てて、大連に向かうとい
 う情報を予備士官学校の候補生が掴んできました。軍人たる者が何事か、学徒出身の者
 たちは怒りました。下級将校たちの厳しい検問に、列車からは金ピカの参謀肩章を吊っ
 た佐官クラスの士官たちが降りてきた。「惨めな居留民や開拓民を見捨てて逃げるとは
 何事か」と詰め寄る血気の学徒出身将校たちを前に、参謀たちは平然として言い放った。
 「本官らは身を賭して本土防衛の任に赴くものである。それを何だ、貴様らの行為は抗
 命罪だぞ」この一言に、残念ながら、下級将校たちの一斉射撃の決断は突如として萎え
 てしまったという。もちろん、本土防衛に赴くんとはペテンもいいところである。列車
 内には参謀たちの妻子がいた。それで決戦場への急行もないものである。しかし、まだ
 命令系統と階級序列は生きている。敗軍であればあるほど、軍記は守らねばならないの
 である。   
・作戦上の予定がどうであったにせよ、総司令部の過早の通化異動は有害無益であった、
 というほかはない。新京付近の居留民が、われわれを置き去りにして総司令部が「逃げ
 た」と怨むのは当然である。そして戦後、満州各地にあって生命からがら逃げ延びて、
 帰国することのできた人びとがこの事実を知り、唇を震わせて怒ったのも無理はない。
 全満各地に居住していた日本人は、だれもが関東軍が守ってくれるものと信じ、関東軍
 の庇護を唯一の頼りにしていたからである。それがさっさと「退却」したなどとは、考
 えてもしなかった。
・ヒトラーの自決後の、敗亡のドイツの総指揮をまかされた海軍元帥デーニッツは、すで
 にドイツの敗北を予見していて、海軍総司令官の権限で、降伏の四カ月も前から水上艦
 艇の全部を、東部ドイツからの難民や将兵を西部に移送するために投入していた。ソ連
 軍の蹂躙から守るためである。こうして東部から西部へ運んだドイツ人同胞は二百万人
 を超えている。    
・敗戦を覚悟した国家が、軍が、全力をあげて最初にすべきことは、攻撃戦域にある、ま
 た被占領地域にある非戦闘民の安全を図ることにある。その実行にある。ヨーロッパの
 戦史をみると、いかにそのことが必死に守られていたかがわかる。日本の場合、国も軍
 も、そうしたきびしい敗戦の国際常識にすら無知であった。   
・だが、考えてみれば、日本の軍隊はそのように形成されてはいなかったのである。国民
 の軍隊ではなく、天皇の軍隊であった。国体護持軍であり、そのための作戦命令は至上
 であった。本土決戦となり、上陸してきた米軍を迎撃するさい、避難してくる非戦闘員
 の処理をどうするか。この切実な質問に対し陸軍中央の参謀は言ったという。「やむを
 えん。轢き殺して前進せよ」そうした帝国陸軍の本質が、満州の曠野において、生き残
 った引揚者に「国家も関東軍もわれわれ一般民を見捨てた。私たちは流民なのであった。
 棄民なのであった」とつらい叫びをあげさせるもとをつくったのである。
・牡丹江市付近における日本軍の防禦戦闘のさまは、字義どおり壮絶の一語につきる。
「多くの決死隊員はとくにソビエト軍将校を目標とし、白刃をかざして襲った。彼らはし
 ばしば爆弾や手榴弾を身体にしばりつけ、高い高粱の下にかくれながら、戦車やトラッ
 クの下に飛び込んだり、ソビエト兵たちの間に紛れ込んで自爆したりした。時には多数
 の決死隊員が身体に爆弾や手榴弾を結びつけ、生きた移動地雷原となった。牡丹江入口
 では日本軍が反撃に出たときは、地雷や手榴弾を身体中結びつけた200名の決死隊が
 おい茂った草の中を這い回り、ソビエト戦車の下に飛び込んでこれを爆破した。
・興安街から徒歩で、白城子をめざして避難してきた婦女子を大半とする二千余の日本人
 居留民が、そこで新京をめざして急進中のソ連軍機甲部隊に追いつかれてしまった。ソ
 連軍の指揮官が、戦争はもう終結の一歩手前まできていることなど承知しているはずは
 ない。それに総力戦と名づけられたこの第二次大戦においては、国民全体が戦闘に参加
 し、戦争が国民全体の責任とみられるようになっている。つまり市民と軍人の区別はか
 ぎりなく消えているのである。そして、いかに非人間的な野蛮な行為であれ、それを軍
 が要求するのであれば、正当な作戦行動となる。苛酷なヨーロッパでの戦場体験を持つ
 指揮官は、敵味方の差なく、そう考えるものが多かった。「成功に導くものであれば、
 軍隊の義務でもある」ドイツ国防軍の代表的将軍カイテル元帥のこの言葉は、そのまま
 多くの戦闘指揮官たちに承認されていた。その思想がアジアの戦場に持ち込まれ、この
 ときのソ連軍の指揮官もそう考えているひとりであったようである。八月十四日の昼近
 くである。東京で、天皇が「国民の生命を助けたい」と二十三人の男を前に降伏の決断
 を下したときと、ほとんど時を同じくしている。飢えと疲労で何日も歩きつづけてきた
 人びとは、中型戦車十四輌に蹴散らされ、轢き潰された。殺戮はそれだけではすまない。
 後続の自動車隊から降りてきたソ連兵が、幼児といえども情け容赦なく、それが既に冷
 たい屍になっていようが見境なく、マンドリン(自動小銃)を射ちこみ銃剣で止めを刺
 した。先を急ぐソ連軍機甲部隊にとっては、とぼとぼと動く難民の列は前進を妨げる障
 害物以外なにものでもなかったのか。
・日本の軍は負けることをそれまで考えてこなかった。常に不敗でなえればならない軍部
 は、降伏の図など想像することさえできない。それゆえに降伏命令は遅れに遅れた。い
 や、有史いらいはじめての亡国に際し、軍部だけを責めるのは大局を誤ることになる。
 このとき、日本の政治家や外交官もそれ以上に責められなければならない大きな過ちを
 犯している。彼らもまた、降伏に際して国際法的に厳密に、かつ緊急に突き止めなけば
 ならないことについて、素通りというより無知と錯覚で見過ごす、という許されざるこ
 とをやっている。それが満州にある日本人すべてになにをもたらすか、やがて明らかに
 なる。  
・八月十五日午後、千島列島占領の上陸作戦命令を発している。スターリン大元帥よりの
 突然ともいっていい命令にもとづいている。日本の降伏が決定したあとになお、スター
 リンが武力占領を意図した。彼独特の猜疑心による、とみるよりも、すでにして米英に
 たいする不信の深さを物語る、とするほうが正しいであろう。千島への米軍の進駐を、
 スターリンは本気で恐れていたのである。

降伏と停戦協定
・今日になっても、戦時下に生きた多くの日本人は、八月十五日の、朝からの灼熱の太陽
 と、汗まみれの姿で聞いた天皇放送と、染み入るような蝉の声を憶えている。しかし驚
 くべきほど翌十六日の記憶を失っている。本土にあった日本民衆の大多数は、空しさ、
 悲しみ、惨めさ、無念さ、衝撃、幻滅、そして将来の不安をもって敗戦を迎えた。いま
 までの世界観が崩壊し、白けきり、気力のない日を迎えたものに、記憶にとどめるべき
 ことのあろうはずはなかったのかもしれない。
・この日朝早く、米国政府は、速やかなる停戦と、連合国最高司令官にマッカーサー元帥
 が任命されたことを、正式に通告してきている。マッカーサーは、天皇・日本政府・大
 本営にあてて命令第一号を発した。「連合国の降伏条件を受諾せるにより、連合国最高
 司令官は、ここに日本軍による戦闘の即時停止を命ず」そして「幸福条件を遂行するた
 めに必要な諸要求」を受け取る使節を、翌十七日にマニラへ派遣するようにと命じてき
 た。
・「天皇陛下におかれては八月十六日十六時全軍隊に対し即時停戦の大命を発せられたり」
 政府も大本営もこれで手続きは十分と考えた。連合国軍はすべてこれを承認したものと
 考え、降伏は完成したときめてしまったようなのである。しかし、それはどんでもない
 誤解であり大誤断であった。その一つは、ポツダム宣言受諾による降伏といっても、連
 合国にとっては、日本の降伏の意思表示にすぎなかったということ。つまり、国際法上
 の正式の「降伏」を完了させるにはすべての降伏条件をみたす正式調印をまたなければ
 ならなかった。第二の錯覚は、アメリカが連合国の代表であり、連合国最高司令官はマ
 ッカーサーと信じきったことである。実はそうではなかった。ソ連はそれを認めてはい
 なかった。それゆえに、マッカーサーに停戦の正式通告をなそうともそれと関係なく、
 満州の曠野では、なおソ連軍の猛進が続けられている。一方的な猛攻を受けて、停戦し
 ようにもできない日本軍各部隊はやくなく自衛反撃し、いたずらに死傷者を増やしてい
 った。なぜ、この無法が許されるのか。理由は実に簡単なことである。八月十五日正午
 以来、日本政府と軍部とがそうと信じた「降伏」とは、すべて、降伏文書調印(九月二
 日)以後に実現することであったからである。    
・満州事変いらい長らくアジアの孤児であり続けた日本に、それだけの国際感覚を持てと
 いうのは、あるいは、無理な要望であったであろうか。それに日本の無知と無力の舞台
 裏で、日本占領後の占領地域の区域わけをめぐり、米ソはすでに熾烈な戦いを始めてい
 たのである。スターリン大元帥にとって幸いなことは、日本軍部のこの無知であり無能
 である。想像力の欠如である。
・「八月十四日の日本の天皇による日本の降伏に関する通告は、無条件降伏の一般的声明
 にすぎない。日本軍に対する戦争行為中止命令はまだ出されておらず、日本軍は依然と
 して抵抗を続けている。したがって、日本軍の実質的降伏はまだ存在しない。日本の天
 皇がその軍隊に対して戦闘行為を中止し武器を捨てることを命じ、かつこの命令が現実
 に実行されたとき初めて、日本軍は降伏したものと認めることができる。以上の理由か
 らして、ソ連軍は極東で日本への攻撃を継続するべし」と、モスクワの総司令部から極
 東ソ連軍へ通達命令が出ていた。    
・戦争は国家間の闘争である。軍隊はその一手段にすぎない。戦争終結を軍部だけで締結
 することはありえない。停戦協定は国家行為である以上、政府の参加しない協定はない
 のである。日本政府は、ソ連と停戦協定を結ぶことなど考えてもいなかったソ連は連合
 国の一員であるから、停戦協定はマニラの連合国司令部と結べば事足りると思っている。
 であるから、ソ連側に政府代表を派遣することなど全く念頭にない。政府の判断は根本
 的に誤っていた。   
・政府を代表しない下っ端参謀が賠償の話など持ち出せるわけがないし、発言権のあろう
 はずもない。日本人の国際法に対するその種の無理解は覆うべくものがない。しかし昭
 和の日本軍は、日清・日露の戦いのときのように、どの軍にも国際法の専門家を配置す
 る、という従来の教訓も無視していた。昭和日本の指導者というのは、一言でいえば、
 それくらいに野郎自大であったのである。手前勝手であり自己過信に陥っていたのであ
 る。が、ひとたび敗北の悲運に遭うと裸の王様の情けなさを示すほかはなかった。
・日本政府というより日本陸軍は、ソ連軍の戦力およびその戦略戦術については、過去に
 おいてかなり研究もし、情報も多く集めている。参謀本部の「対ソ戦闘法要綱」には、
 ソ連軍はときに奇想天外のことをすることがある、としている。あくまで戦場での話で
 ある。しかしソ連邦そのもの、その実態や政策や政略についてはおよそわかっていなか
 った。分析は不十分であった。ましてスターリンその人の研究においてをや。猜疑心が
 強く、あらゆることに不信と警戒を抱き、議論や術策や外交的洗練を軽蔑し、自分の利
 益を執拗に追求し、実行に当たっては情け容赦のない男であるとは、想像してもみない
 ことであった。その野望がどれほどのものか、まったく無知といっていい。いや、スタ
 ーリンの野望の底の底まで見抜けなかったのは、敗亡に打ちひしがれた日本帝国だけで
 はなかったのである。戦勝の余裕のあったアメリカすらもソ連の意図するものに半ば以
 上気づかなかった。古代ならいざ知らず、世界戦史上、満州でソ連が行ったようなこと
 をした戦勝国はない。連合国も「まさかあそこまで」と予測のつかないことであった。
・ドイツを敵としての国家総力戦がソ連邦にもたらしたものは、字義どおり凄まじいもの
 があった。戦いには確かに勝つことができたが、国家としてソ連が目にしたのは、歓喜
 の裏にある戦慄といったものである。将兵の戦死は実に二千四百六十万人、一小国が全
 滅したにひとしい。     
・スターリンがヤルタで、頑強に二百億ドルの賠償を主張した裏には、到底甘受すること
 のできない自国の壊滅的な数字があったのである。戦勝国といえない悲惨な現実が背後
 にあった。それだけに損害を説明するとき、スターリンの唇はめずらしく震えたという。
・スターリンにとっては、日本軍将兵の労働力は経済的にも政治的にも見逃し難いものな
 のである。戦争中に失った二千万以上の労働者と技術者の代わりになるものを、どうし
 て手放すことができようか、しかも繰り返すが、ヤルタ会談の際にドイツ人捕虜を復興
 のために使用することについて、スターリンは米英首脳の同意を得ている。それをポツ
 ダムにおいて日本人捕虜に採用しても、なんら不法行為とはならないではないか。スタ
 ーリンはそう考えたに違いないのである。
・関東軍がソ連側との停戦交渉に望んだ時にせねばならなかったのは、捕虜送還に関する
 手続きや規定について話し合うことでなければならなかった。これら諸条約とポツダム
 宣言の適用について強く主張し、捕虜送還の時期を明確にし、つまりはのちのちの事態
 に備えることであった。それではくても、ドイツ軍捕虜がどんどんシベリア方面に送ら
 れていることを、すでに日本の新聞も報じていたはずであるから。しかし関東軍の代表
 が交渉したのは、中心テーマたるべき捕虜送還についてはまったく放置されて、行軍の
 名誉とか、軍刀の保持とかが大事なことのように日本側から主張されているのである。
・何を言っても無駄、所詮は敗者、引かれるものの小唄よ、という見方もあるだろう。た
 とえそうであろうと、主張すべきは主張せねばならなかったのである。当時の日本人が
 いかに世界を知らなかったことか、悲しくも情けなくも思えてならない。国際法に無知、
 というより無視、国際情勢に対する理解の浅薄さ、先見性や想像力の欠如、外交交渉の
 つたなさ、それが今日のわれわれにそのままつながっているのではないかと、それを危
 惧するがゆえにそういうのである。
・戦車隊を先頭に乗り込んできたソ連軍の将兵は、惨憺たる服装をし、肉の落ちた面構え
 ではあったが、軍歌を高唱しながらお祭り騒ぎであった。戦車隊に続いて、愉快そうに
 ジープを運転し、トラックに乗車した部隊が陸続として続いた。車輌の多いことと武器
 がよく磨かれていることに、居留日本人は目をみはった。しかも車輛は、ジープはもと
 より、トラックなどすべて米国製で、米軍の星のマークがそのまま付けられている。彼
 らは無造作に裸になると用水槽で身体を洗い、そして口笛を吹きながら武器の手入れを
 した。傍若無人そのものである。
・市内の治安はその日を境に混乱し、乱れに乱れていった。ソ連兵の乱暴狼藉はいまや目
 に余るものとなった。赤旗や晴天白日旗をかざした一部の中国人(満州人)も反日行動
 をあらわにし始めた。彼らは争うようにして、日本人を襲った。殺人、婦女強姦、略奪、
 暴行はひんぴんとして行われだした。軟禁同様の関東軍は、もう完全に無力な存在であ
 る。軍人民間を問わず、いまや日本人は丸裸の自然状態に放り出されたのである。
・ソ連兵は腕時計と万年筆を強奪するから外出するときに持ち歩くな、という注意もいち
 早く伝わった。街頭ばかりではなく、日本人住宅に押し入って手当たり次第に略奪する
 ものの中には、将校を先頭の部隊ぐるみのものもある。     
・女性と子供は丸刈りになり、日中でも一人で外出することは禁止となった。しかし、白
 昼、買い物に出かけた近所の奥さんが、マンドリンと呼ばれる自動小銃を抱えたソ連兵
 に捕まり、社宅裏の空き地で強姦されるのを目の当たりにした。
・それはある意味で、対ドイツ戦線での習慣を満州にまで持ち込んできたものであったか
 もしれない。ドイツでは、老女から四歳の子供にいたるまで、エルベ川の東方で暴行さ
 れずに残ったものはほとんどいない、と言われている。あるロシア人将校は、一週間の
 うちに少なくとも二百五十人に暴行されたドイツ人少女に出会いさすがに愕然とした、
 という記録が残されている。ドイツ戦線で、そして満州で、ソ連軍将兵の素質の悪さに
 ついては、他にもさまざまな書物がこれにふれている。しかもその惨虐行為は上からの
 指示によるとも伝えられている。スターリンの娘もこれを裏付ける証言をしている。そ
 れによると、スターリンはヨーロッパを荒廃させることを奨励し、それに喜びを感じて
 いた。その意図には、赤軍の暴虐さを許すことで敵国の嫌悪を買い、親しくなることで
 堕落しないようにしむけた、という複雑性を含んでいたという。    
・スターリングラード防衛戦で有名をはせたロコソフスキー元帥は、囚人の中から選ばれ
 た軍人であるという。「彼はその部隊を全部囚人仲間から編制した。ウォトカを飲み放
 題に飲ませた。無鉄砲な囚人たちが酒の勢いで猛攻を重ねた」。そしてその軍隊が満州
 に送られてきたのであるという。しかも、ソ連戦車がドイツの民間人や避難民や婦女子
 を攻撃し、轢き殺しているという報告がスターリンのもとに届いたとき、この独裁者は
 上機嫌で言った。「我々はわが軍の兵士たちにあまりにも沢山の説教をしてきた。少し
 くらいは自主性を発揮させてやれ」つまりスターリン大元帥を頂点として、上級指揮者
 のもとに、ヨーロッパと同様に満州でも略奪や暴行が行われていたとみられるのである。
 それも戦争一般にありがちの偶発的、個別的な現象ではなく、意図的かつ組織的な犯行
 である。よく言われるように、略奪は兵士への報酬なのである。洗浄での勝利は、兵士
 たちに略奪、それも一日といわず数日間にわたる略奪を約束する。将軍たちは言う、略
 奪や暴行を放任することは、兵士に精神的な落ち着きを与え、つまりは軍隊の士気を高
 めることになると。戦争の許されざる「悪」と非情さがそこにあるというほかはない。
・人種的増悪と破壊的精神だけで鍛えられた兵士たちが、満州の曠野へ送られてきたので
 ある。しかも関東軍は作戦方針に従って戦わず後退している。猛り立つ攻撃精神をぶつ
 ける相手は、無力な居留民や開拓民ということであった。しかもソ連軍は実にあざとい
 ことをやっている。ある百貨店がソ連軍部隊に襲われ、目ぼしいものはみなトラックで
 運ばれていった。そのあと中国人(満州人)が蟻のように集まり、残った半端なものに
 群がる。と、待ち構えていたソ連兵が空砲で威嚇射撃をして、彼らを追い払う。この場
 面をソ連のカメラマンが丹念に撮影し、ソ連兵が必死に略奪を防止している、という証
 拠をつくるのである。略奪は中国人であり、ソ連兵ではない。まさに合法的な略奪とい
 うほかはない。 
・奇異の目を見張ったのは、少佐以上ぐらいの将校が、全部ではないが、女性を伴ってい
 たことである。彼女たちはフロントワヤ・ジェナー(戦場妻)と呼ばれていた。プロで
 はない普通の女性であり、彼女たちは「ゲネラル(将軍)にあるのは食料だけ、マイオ
 ール(少佐)には食料もあればあれもある。レイテナント(中尉)はあれだけ」などと
 いっていたという。彼女たちの愛の巣は、一時間後に明け渡せ、と日本人を追い出した
 あちらこちらの社宅であった。一方、下士官・兵は公営の慰安所が設けてあった。
・略奪暴行は、あとから質のよくない部隊が入ってきて頻繁になった。将校も混じって組
 織的になった。実に多くの事実や噂があったが、噂の中にはおかしなものもあった。ソ
 連の女性兵士による日本人男性に対する性的暴行のそれである。ドイツや東欧の諸国で
 も同じことが行われたというが。  
・さらい現地人が仕返しの意味も含めて匪賊のごとく襲いはじめた。関東軍の敗退と、根
 こそぎ動員によって屈強のものがいないと知ると、「これまで親しんできた満州人の友
 人さえも加わって」暴徒化して、現地人がかたまって日本人難民に波状攻撃をかけてき
 た。彼らはときに日本製の銃を持っているものもあった。
・男子なし武器なしの開拓団も、ところによってはレンガ、鍋、釜を割って投げつけたり
 して応戦した。中には十五、六歳の子供たちが切り込み隊を組織して戦い、最後には全
 員が自決して果てた熊本県来民開拓団のようなグループもある。    
・開拓団は逃げながら、日を追って、愛する祖国日本は降伏をしたにちがいないと考える
 点で、みんな一致していた。そこでいっそう絶望的にならざるを得なくなる。結果とし
 て、だれもが無慈悲になり、疲労困憊者や負傷者が出たりすれば置いてきぼりにした。
 った。彼らはあらゆる憐れみの感情を失い、何としてもソ連軍の攻撃から逃れようとい
 う熱望から、ただ歩かねばならないと思い歩き続けた。
・なんどもなんども暴民や武装匪賊の襲撃ですべてを奪われ、乞食以下となった日本人の
 行列に、中国人や朝鮮人が「粟を買わんか」「とうもろこしは要らんか」と声をかけて
 くる。指導者が「決して買ってはならんぞ。この行列はまだ金があるとみたら、また襲
 ってくるに違いないから」と止めた。また、幼い子供をつれて歩いている者には、中国
 人が「子供をくれ、子をおいてゆけ」とうるさくつきまとい、ついには「女の子は五百
 円で買うよ。男の子は三百円だ、それでどうだ」と値段をつけてまでして、執拗そのも
 のであった。    
・疲れ果て追いつめられ絶望的になった開拓団の集団自決が、八月二十日を過ぎたころよ
 りいたるところではじまった。生命を守ってくれる軍隊に逃げられ、包囲されて脱出の
 望みを絶たれた人びとにとって、最後に残された自由は死だけであった。諦め、無関心
 に陥り、自ら死を選ぶことによって救われようと思う。忍耐の限界を越えると、生きて
 いることはむしろ無意味な苦痛となっていく。   
・自決とはいい条、実は殺し合いであったのである。親が子を、子が親を、兄が妹を、夫
 が妻を殺して、最後は自ら命を絶つか、生き延びるかである。どうしてもわが子を殺せ
 ないものは、友人の手をかりた。銃や、包丁や農具や、石や、何もなければ素手で。
・昭和二十年五月現在で、開拓団は八百八十一団、約二十七万人であった。実は、日本帰
 国までその後の苛酷な生活による病没と行方不明者を入れると、開拓団の人びとの死亡
 は七万八千五百人に達するのである。三人強に一人が死んだ。国家から捨て去られた開
 拓団の満州での悲惨は戦後も長く、いつまでも続いていたことになる。
・評論家や歴史家が旧満州を語るとき、つねに上からの目で、「侵略の歴史」として見る
 ことが多い。果たしてその人たちは下から満洲を見つめたことがあったのだろうか。異
 民族に混じり、ともに汗にまみれ油に汚れた日本人もいたことを知っていたのだろうか。
・現地人のすべてが、開拓民や居留民に敵対行動をとったわけではないことを指摘してお
 かねければならない。「主人」であった日本人を最後まで助けてくれた現地人も、決し
 て少なくなかった。結局、暴動の背景には土地や家屋を取り上げたり、不当な仕打ちを
 加えるなど、良き隣人ではなかったため、というところがあったようである。
・八月二十八日、日本政府は、はじめてソ連政府に対して、満州における武装解除後の将
 兵の安全保障・衛生、補給などについて要請を行っている。また、居留民の安全や引き
 揚げ輸送そのほかについても強く申し入れた。   
・朝鮮との国境に近い延吉と、省都吉林とのちょうど中間にある敦化の五キロほど町はず
 れ、日満パルプ工場の独身寮の一室で、二十三人の日本女性が集団自殺したのである。
 その死はソ連兵に対する「血の抗議」というべきものであった。ソ連軍は進駐してくる
 と、八月二十五日、ここに生活を営んでいた日本人の男と女とを分け、約百七十人の女
 性や子供たちを独身寮にまとめいくつかの部屋に住まわせた。いわば監禁である。男た
 ちは工場外の飛行場わきの湿地帯に拉致されていった。この強引な処置は初めから意図
 されたものとみるほかない。そして、暴行は弁解を許さぬ集団によるものであった。そ
 れをまた、ソ連軍の幹部はまったく止めようともしなかった。二十六日の夜明けにそれ
 が起こった。酔って欲望に狂ったソ連兵は、二、三人の集団となって波状的に各部屋を
 押し入り、マンドリン銃を空に向けて威嚇するように撃ちながら、「ジイ・シュダー
 (ここへ来い)」と、叫び容赦なく日本女性を襲った。力ずくで部屋から引きずり出し
 た。一人の女性に一人の兵というわけではなかった。そして襲撃は二十六日の深夜もま
 た行われた。女性たちの絶望の号泣と嗚咽もソ連兵の耳には、いや胸には全く届かなか
 った。犠牲者は全員に及んだ。ソ連兵が去ったとき、ある部屋の女たち二十三人の決意
 はもう決まっていた。あどけない子供たちを道連れにすることにも何の躊躇もなかった。
 幸か不幸か、課長婦人が青酸カリを隠しもっていた。二十七日朝、巡視にきたソ連兵は
 茫然となる。死体は日本人に見せないように細心の注意が払われて、どこかに運ばれて
 いった、という。勝者は絶対的な権力を持つ。事実の抹殺に良心の呵責など覚えるはず
 もないのである。すべては闇の中となる。ソ連軍将校が恐れたのは責任を問われること
 だけであり、日本人の「血の抗議」に対する反省と痛惜の念は微塵もなかった。
・八月二十八日、新聞に妙な求人広告が出ている。特殊慰安施設協会の名で「職員事務員
 募集」と大きく打ち出されていた。これが占領軍相手の「特殊慰安婦施設」であり、職
 員ならぬ接客婦の募集であることは、大抵の人の目にも明らかである。また、流言飛語
 もしきりである。米軍進駐にともない、やがて婦女子の一定割当てが行われるとか、婦
 女子は男装化せねばならないとか。接客婦千人を募ったところ四千人が応募して、係員
 を憤慨させたとか。占領政策が不明のうちから、敗戦日本のほうがどんどん心理的に迎
 合し、さっさと変わろうとしているかのようである。

一将成りて
・東京に設置された連合国の対日理事会も、「アジア各地にあった日本将兵の送還はポツ
 ダム宣言の条項により行われるものだが、一般日本人の送還は連合国最高司令官の義務
 ではない」とはっきり言っている。これゆえに、満州にあるいっぱん居留民や開拓団は
 まったく放置された。国家という大きな力が失われたとき、これらの人びとは侵略や搾
 取の手先であり、保護するものなき孤立した民族の集団にすぎなくなったのである。ま
 ったく裸のまま敵地と化した曠野に放り出された。日本に帰るまで、殺人、暴行、略奪
 にさらされ、言語に絶するような恐怖の日々を、彼らはなお送らねばならなかったので
 ある。
・満州国という巨大な「領土」を持ったがために、分不相応な巨大軍隊を編制せねばなら
 ず、それを無理に保持したがゆえに狼的な軍事国家として、政治まで変質した。それが
 近代日本の悲劇的な歴史というものである。「他人の領地を併合していたずらに勢力の
 大を誇ろうとした」、その「総決算が”満州”の大瓦解で」あったのは確かである。
 いまこの教訓を永遠のものとすることが大事である。曠野に埋もれたあまりにも大きす
 ぎた犠牲を無にしないためにも、肝に銘ずべきことなのである。
・それにしてもスターリン大元帥が戦勝で得たものは巨大なものである。ヤルタ会談で対
 日参戦を切り札にして、ロシア帝国がうしなった領土と権益の奪還を強調したが、結果
 的には一方的な攻撃による「日ソ一週間戦争」でそれ以上のものを獲得したことになる。
 満鉄(南満州鉄道)の財産は記帳価格にして約五十億円であったという。日本政府が満
 州帝国にもっていた資産が約二十二億円、満州国政府のそれが約十億円である。満州重
 工業開発をはじめ在満法人のものが総計約二百六十億円にのぼる。そのほか個人の財産
 の推計が五十八億円。合計すると四百億円と算定されるといういまに換算したら、いっ
 たい何兆円、いや何十兆円になるのであろうか。 
・ソ連軍のやり方は万事に抜け目なかった。要は、満州国の産業施設の四割が持ち去られ、
 四割が破壊されてしまったのである。この現実を知って中華民国政府が厳重に抗議する、
 満州国の遺産は中国に帰属するものであると、ソ連の回答はそっけないものである。
 「全部、戦利品である」
・それでもなお、ソ連軍将校が言った。「満州はベルリンと違って、案外に物が少ないね」
 それがまた、下級兵士や性の悪いソ連将校の、日本人居留民への略奪、暴行へとつなが
 っていったという。囚人部隊を先頭に立てたという説もあるが、一番乗りで突進してき
 たソ連兵はドイツ戦線で鍛えられた猛者が多く、戦場できたえられはしたが、教育や訓
 練で鍛えられる余裕のなかったものが多かった。   
・さらに、彼らが武器ひとつ持たない開拓団の逃避行を平気で攻撃してきたのは、戦場の
 常とはいえ許されることではない。兵士の熱狂は、その武力に酔って全能であろうとす
 るとき、理性はもはや無きにひとしくなっている。無抵抗のままに死に追い込まれた犠
 牲者は数万人に及ぶのである。