戦後史の正体1945-2012 :孫崎享

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この本は、いまから11年前の2012年に刊行されたもので、1945年の終戦直後か
ら2012年までの日本の歴史を通常の歴史観とは異なる視点で述べているものだ。
この本の著者は、長年外交官の職に就いていたとのことで、その経験から海外情勢に詳し
く、通常の人とは異なる視点を持っているようだ。

著者の主張は一貫している。それは、戦後の日本の歴史は米国からの圧力によってつくら
れてきたということだ。
戦後の日本は無条件降伏によって、マッカーサー最高司令官を頂点とする俗にGHQと呼
ばれる米国軍による占領からはじまった。
日本政府はおろか天皇までもが、マッカーサー元帥の支配下に置かれたのだ。日本の政府
や官僚、行政機関は、マッカーサー元帥の指示を忠実に実行するだけの存在となった。
そのような状況下においては、マッカーサー元帥に気に入られることが自身の運命おも左
右する最優先事項だった。
昭和天皇は、マッカーサー元帥に気に入られることによって、その天皇制を保持すること
ができた。もし、マッカーサー元帥に気に入られなかったら、激烈な運命がまっていたか
もしれない。
吉田茂首相も、マッカーサー元帥に気に入られることによって、長く首相の座におさまっ
ていることができた。

とにかく、生き延びるためには、マッカーサー元帥に逆らってはいけなかったのだ。
ここが対米従属の原点だと言えるのだろう。
占領が終わった後の日本の政治もまた、占領時代と同じく米国の言いなりだったと言える
だろう。
近年の政治を見ても、日本の首相は、米国大統領にしっぽを振り振り一目散に駆け寄り、
日本の国民に説明したり国会にはかる前に、「軍事費を倍増します。米国の兵器を大量に
購入します」とささやき、よしよしと頭をなでられてご満悦の顔の首相が目についた。
こういう光景を目にすると、「やはり日本は、アメリカの属国なんだ」という事実を再認
識にさせられ、自分の国はいったいどういう国なんだと、なんだか恥ずかしい思いが募る
ばかりだった。

この本を読むと、「やはり日本はアメリカの属国なのだ」という思いが、さらに深まるば
かりなのだが、そんな中において、米国に抗した首相も、少なからずいたのだということ
がわかって、少しばかり希望をもらった気がした。
私がとくに意外と思ったのは岸信介首相だ。岸首相は安保改定で国民の反感をかって、辞
任に追い込まれた。
しかし、岸首相の安保改定は、それまでの一方的に対米従属的な旧安保条約を、対等な内
容に近づけるものだった。いきなり安保条約廃止などということは、とても現実的なもの
ではなかったのだ。
いまから考えると、あの60年安保闘争は、いったい何だったのか。誰が仕掛け、何に反
対したのか、闘争に参加した人々は、当時の日米外交を理解したうえで参加していたのか、
多くの疑問が出てくる。
そのほかにも、この本の「おわり」の章にあげられているように、自主路線を主張した首
相や米国の圧力について一部の問題について抵抗した首相もいたのだということを知って、
いままでの認識を改めさせられた。

この著者の主張には、異論をとなえる識者も多いようだ。しかし、この著者の主張は、い
ままでの戦後史について、多くの問題提起をしているのは確かだろう。
歴史は勝者によって作られるというのは、よく言われることだ。戦後の歴史も勝者によっ
てつくられてきたのはたしかだろう。しかし、その勝者のよってつくられた歴史観が、
はたして真実なのかと言えば、多くの疑問が残っているのだと私には思えた。

過去に読んだ関連する本:
昭和天皇・マッカーサー会見
60年安保闘争の真実 あの闘争は何だったのか
永続敗戦論
沖縄密約



はじめに
・第二次大戦をへて、米国は世界最強の国になりました。
 米国には世界をどう動かし、経営していくか、明確な戦略があります。
 その世界戦略のなかで、米国は他の国をどう使うかをつねに考えています。
 当然、日本もその戦略のなかに含まれています。
・「米国は日本を同盟国として大切にしてくれている」
 「いや、そうではない。米国は日本を使い捨てにしようとしているのだ」
 日本では、よくそういう議論を聞くことがあります。
 でも、どちらも事実ではありません。
 正しくは、
 「米国との関係は、そのときの状況によって変化する」
 ということなのです。
・日本のみなさんは、戦後の日米関係においては強固な同盟関係がずっと維持されてきた
 と思っているでしょう。
 そして日本はつねに米国から利益を得てきたと。
 とんでもありません。
 米国の世界戦略の変化によって、日米関係はつねに大きく揺らいでいるのです。
 おそらくみなさんもこの本をお読みになることで、日米関係の本当の姿がおわかりにな
 ると思います。  
・では、米国が日本をコマとして動かそうとするとき、日本はそれにどう対処したらよい
 のでしょう。
 米国は軍事面、経済面で日本より圧倒的に強い国です。
 その現実のなかでどう生きていくか。
 それが日本に与えられた大きな課題です。
・ひとつの生き方は、
 「米国はわれわれよりも圧倒的に強いのだ。これに抵抗してもしようがない。できる
 だけ米国のいうとおりにしよう。そしてそのなかで、できるだけ多くの利益を得よう」
 という選択です。
・もうひとつの生き方は、
 「日本には日本独自の価値がある。それは米国と必ずしもいっしょではない。力の強い
 米国に対して、どこまで自分の価値を貫けるか、それが外交だ」
 という考えを持つことです。
・私は後者の立場をとっています。
 「力の強い米国に対して、どこまで自分の価値を貫けるか」
 それが今後の日本人にとって、もっとも重要なテーマだという確信があるからです。

なぜ「高校生でも読める」戦後史の本を書くのか
・私が日米関係を真剣に学ぶきっかけとなったのは、イラク戦争です。
 2003年3月、米軍はイラク攻撃を開始し、まもなくサダム・フセイン政権を崩壊さ
 せました。
 しかし、イラク側の抵抗はその後も続き、米軍は結局9年近く駐留を続けることになり
 ます。
・いまでこそ、イラク戦争は米国内できびしい評価を受けています。
 しかし、戦争開始当時の雰囲気はまったくちがっていました。
 国民のほとんど全員が圧倒的に支持を受けていたのです。
・2003年12月には、自衛隊がイラクに派遣されることになりました。
 このとき私が非常に問題だと思ったのは、この戦争が起こった理由です。
 米国がイラク戦争を始めた理由は、
 @イラクが大量破壊兵器を大量に持っている。
 Aイラクは9.11米国同時多発テロ事件を起こしたアルカイダと協力関係にある。
 Bいま攻撃しないとサダム・フセインはいつ世界を攻撃してくるかわからない。
 というものでした。
・私は外務省時代、国際情報局長でしたし、駐イラン大使も経験しています。
 官僚や経済界のなかに多くの知り合いもいます。
 ですから、そうした人たちに対して何度も、
 「米国のイラク攻撃の根拠は薄弱です。自衛隊のイラク派遣は絶対にやめたほうがいい」
 と進言しました。
・数ヵ月して、経済官庁出身の先輩から次のように言われました。
 「君の言い分を経済界の人たちに話してみたよ。みな、よくわかってくれた。でも彼ら
 は、「事情はそうだろうけど、日米関係は重要だ。少々無理な話でも、協力するのが日
 本のためだ」という。説得はあきらめたほうがいい」
・「対米追随」路線と「自主」路線、もっと強い言葉でいえば「対米従属」と「自主」路
 線、このふたつのあいだでどのような選択をするかが、つまりは戦後の日米外交だった
 といえます。  
・多くの政治家が、「対米追随」と「自主」のあいだで苦労し、ときに「自主」路線を選
 択しました。
 歴史を見れば、「自主」を選択した多くの政治家や官僚は排斥されています。
 ざっとみても、重光葵、芦田均、鳩山一郎、石橋湛山、田中角栄、細川護熙、鳩山由紀
 夫などがいます。 
 意外かもしれませんが、竹下登や福田康夫も、おそらく排斥されたグループに入るでし
 ょう。
 外務省、大蔵省、通産省などで自主路線を追求し、米国から圧力をかけられた官僚は私
 の周辺にも数多くいます。
・少しでも歴史の勉強をすると、国際政治のかなりの部分が謀略によって動いていること
 がわかります。日本も戦前、中国大陸では数々の謀略をしかけていますし、米国もベト
 ナム戦争で「トンキン湾事件」という謀略をしかけ、北爆(北部ベトナム)の口実とし
 たことがあきらかになっています
・もっとひどい例としては、米国の軍部がケネディ政権時代、自国の船を撃沈するなど、
 偽のテロ活動を行なって、それを理由にキューバへ侵攻する計画を立てていたことがわ
 かっています。(ノースウッド作戦
 ケネディ政権はこの計画を却下したので実行はされませんでしたが、当時の参謀本部議
 長のサインが入った関連文書を、ジョージ・ワシントン大学公文書館のサイトで見るこ
 とができます。  
・戦後、昭和天皇は日米関係の基本路線を決めるうえで、もっとも重要な役割をはたして
 います。
 たとえば昭和天皇は「沖縄の軍事占領を無期限に継続してほしい」というメッセージを
 米側に伝えています。
・戦後の混乱のなかで、米国に毅然と立ち向かい、意見を主張した政治家たちがいました。
 重光葵、石橋湛山、芦田均、鳩山一郎などです。驚くことに多くの人の印象とは逆に、
 岸信介もこのなかに入ります。
 そして彼らお多くは、米国によって政治の表舞台から排斥されています。
 
「終戦」から占領へ
(敗戦後の10年は、吉田茂の「対米追随」路線と、重光葵の「自主」路線が激しく対立
 した時代でした)
・通常、戦争は戦闘行為を停止し、休戦条約を結び、講和条約(平和条約)の交渉をして
 調印をするという手順を踏んで、はじめて終戦となります。
 昭和天皇が「共同声明を受け入れることにした」と述べられたのは、そうして手順の一
 部にしかすぎません。
 日本は、1945年9月2日、東京湾に停泊して米国戦艦ミズーリ号で降伏文書に署名
 しています。
・米国のトルーマン大統領は、9月2日の降伏調印式の直後、ラジオ放送を行ない、その
 日を「対日戦争勝利の日」と宣言しました。そして、
 「われわれは真珠湾攻撃の日を記憶するように、この日を「報復の日」として記憶する
 だろう。この日からわれわれは安全な日を迎える」
 「日本の軍閥によって犯された罪悪は、けっして償われもせず、忘れられることもない
 だろう」
 と述べています。
・英国のチャーチル首相も同じく、
 「本日、日本は降伏した。最後の敵はついに屈服したのである」
 「平和はふたたび世界におとずれた。この大いなる救いと慈愛に対し、神に感謝を捧げ
 ようではないか」  
 と述べています。
・日本の第二次世界大戦への突入は、真珠湾への奇襲攻撃から始まります。
 でも、この攻撃に対し、連合国側は驚いたでしょうか。
 まったく驚いていません。 
・英国のチャーチル首相は、回顧録で次のように書いています。
 「真珠湾攻撃によって、われわれは戦争に勝ったのだ。(これによって米国が参戦し)
 イングランドは生き残るだろう。ヒットラーの運命は決まった。日本人にいたっては微
 塵に砕かれるであろう」 
・実はチャーチルやルーズベルトは、日本が真珠湾攻撃をしかけるように誘導していた。
・米国と戦うにあたって日本が立てていた戦略は、
 「ドイツ、イタリアと提携して、まず英国を降伏させ、米国の戦争継続の意志を失わせ
 るようにする」
 「対米宣伝と謀略を強化する。米国世論に厭戦気分を誘発するようにする」
 となっています。
 これが戦争直前の日本の公式の立場です。
・チャーチルがチェスの名手のように何手も先を読んでいるのに対し日本側はただ「願望」
 を書いています。自分の都合のよい、しかしあり得ない状況を想定し、それを根拠に圧
 倒的に強大な敵との戦争を開始したのです。
・このように日本の軍部は、開戦時に甘い見通しを立てて苦い経験をしていながら、敗戦
 時もまた、自分の都合のいいような情勢を判断していたのです。
 それで苦しむのは国民のほうですから、まったくたまったものではありません。
・そしていよいよ戦況がどうしようもなくなると、最後は「玉砕する」「自害する」。
 それが責任のとり方でした。
・阿南惟幾は8月15日、陸相官邸で自刃します。
 「一死をもって大罪を許し奉る」
 が遺書の文句です。
 しかし申し訳ないですが、「一死」では「大罪」を償えないのです。
・降伏文書には、
 「日本のすべての官庁および軍は降伏を実施するため、連合国最高司令官の出す布告、
 命令、指示を守る」
 「日本はポツダム宣言実施のため、連合国最高司令官に要求されたすべての命令を出し、
 行動をとることを約束する」
 ということが書かれています。
 日本政府は「連合国最高司令官からの要求にすべて従う」ことを約束したのです。
・関係者は、みな調印式で屈辱的な降伏文書に署名しなければならないことを知っていま
 す。ですから、できればその役割を担いたくない。みな、逃げます。
 梅津美治郎参謀総長は「降伏文書に署名するくらいなら自決する」とまで言ったそうで
 す。 
・しかし結局、当時外務大臣だった重光葵と梅津美治郎が全権代表になり、調印すること
 になりました。
・このとき随員として参加した「加瀬俊一」は、出発の際、母親から「降伏の団に加わる
 ように育てたつもりはない」と言われたそうです。

・首相の人選は木戸内府、近衛公、吉田外相を中心に進められた。
 吉田外相がマッカーサー司令部にサザーランド参謀長を訪問するなど、米軍司令部の内
 意が確かめられていた。
 このように対米従属路線が露骨に出ています。
 「進んで米国の対日政策にしたがって行こうとする熱意ある人」が首相の条件です。
 そして吉田茂が米側との窓口になっています。
・吉田茂がこうして米側にすり寄っていたのは占領初期だけではありません。
 その後の首相在任期間を通じて一貫した行動です。
 その吉田がとくに頼りにしていた人物に、マッカーサーの情報参謀であるウィロビーが
 いました。 
・ウィロビーはGHQでは参謀第部の部長として諜報・保安・検閲を担当しました。
 日本の政治改革を担当した民政局の局長ホイットニー、次長ケーディスと共に、占領政
 策を牛耳った人物です。
・終戦時の参謀次長であった「河辺虎四郎」が、戦後このウィロビーのもとで働いていま
 す。 
 また生物化学兵器の研究を行っていた731部隊は、戦争犯罪に問われないことを条件
 に米国側への情報提供を行ったといわれていますが、そこにはウィロビーの関与があっ
 たとされています。
・つまり、彼は徹底した裏工作のエキスパートなのです。
 そのウィロビーのもとに首相が裏庭からこっそり通ってきて、組閣をした。ときには次
 期首相の人選までした。
 それが占領期の日本の本当の姿なのです。
 一般にイメージされている吉田首相の傲慢で人をくったような、占領軍とも対等にわた
 りあったという姿は、神話にすぎません。
・進駐軍にサービスするために「特殊慰安施設」が作られ、すぐ「慰安婦募集」がされま
 した。終戦の三日目ですよ。
 内務省の警備局長がが、各府県の長官(県知事)に占領軍のためのサービスガールを集
 めたいと指令をあたえました。 
・内務省の警備局長といえば、治安分野の最高責任者です。その人が売春の先頭にたって
 いる。しかも占領軍兵士のために。
 歴史上、敗戦国は多々あります。占領軍のための慰安婦が町に出没することはある。
 慰安私設が作られることもあります。
 しかし、警備局長やのちの首相という国家の中核をなす人間が、率先して占領軍のため
 に慰安施設を作る国という国はあったでしょうか。
・こうした状況について、重光は次のように書いています。
 「結局、日本民族とは、自分の信念を持たず、強者に追随して自己保身をはかろうとす
 る三等、四等民族に堕落してしまったのではないか」
 「節操もなく、自主性もない日本民族は、過去においても中国文明や欧米文化の洗礼を
 受け、漂流していた。そうして今日においては敵国からの指導に甘んじるだけでなく、
 これに追随して歓迎し、マッカーサーをまるで神様のように扱っている。その態度は皇
 室から庶民にいたるまで同じだ」
 「はたして日本民族は、自分の信念をもたず、支配的な勢力や風潮に迎合して自己保身
 をはかろうとする性質をもち、自主独立の気概もなく、強いものにただ追随していくだ
 けの浮草のような民族なのだろうか」
・では、日本はいま、そうした本来の自尊心をとりもどした時代に入ったでしょうか。
 残念ながら、入っていません。
 逆に終戦直後には、まだ重光のような人物がわずかながら日本の社会に存在していまし
 た。
 今日、日本の政治家では重光のような矜持をもつ人はいるでしょうか。
 おそらくいないでしょう。
・重光外相は、降伏文書に署名した9月2日のわずか二週間後に外務大臣を辞任させられ
 ています。  
 「日本の国益を堂々と主張する」
 米国にとってそういう外務大臣は不要だったのです。
 求められるのは、
 「連合国最高司令官からの要求にすべてしたがう」
 外務大臣です。それが吉田茂でした。
 重光が辞任したあと、次の外務大臣は吉田茂になります。
 吉田茂は占領期・占領後を通じて、外務、首相と重要な役職を歴任し、戦後日本の方向
 を決めた人物です。
 さらに吉田の政策はその後、自民党の政策となり、50年以上継続します。
・占領期、米国は日本経済を徹底的に破壊します。
 現在の私たちが常識としているような「寛大な占領」だったわけでは、まったくありま
 せん。 
 その方針が変わるのは冷戦が始まり、日本をソ連との戦争に利用しようと考えるように
 なってからのことなのです。吉田首相が占領軍とやりあったから、戦後の経済復興があ
 ったわけではありません。
・吉田は自分の意向にそぐわない人物を徹底的にパージ(追放)しています。
 外務省ではそれを「Yパージ(吉田による追放)」とよんでいました。
 そうしたなか、かつて重光外務大臣に同行してマッカーサーと交渉したあの「岡崎勝男
 も、重光から離れ、吉田茂と「表裏一体」といわれるようになっていくのです。
・1946年、重光はA級戦犯容疑で逮捕起訴され、有罪判決を受けています。
 この逮捕と判決は、おもにソ連側の要求によるものだったともいわれますが、ここで注
 目すべきは岡崎をはじめとする外務省の元部下たちの冷酷な態度です。
・巣鴨刑務所の取り扱いは苛酷をきわめたので、在監者はみな心身ともに衰弱した。
 事実、「松岡洋右」元外務大臣、「永野修身」元海軍大臣は、裁判中に病死しています。
 梅津元参謀総長、東郷元外務大臣、小磯元首相、白鳥元駐伊大使、平沼元首相、が獄中
 で死亡しています。そうとう高い死亡率といってよいでしょう。
・(昭和の妖怪)いう異名をとった「岸信介」ですら、
 「監獄に入るとガチャーンという大きな門が閉まるあの音を、ずっーと後までよく夢に
 みたものです」   
 といっているほどですから、相当こたえていたようです。
・岡崎は降伏直後、重光と共に、「公用語を英語とする」などの三布告を撤回させた人物
 です。
 けれどもその後、彼は重光と離れて吉田茂に重用され、めざましく出世していくことに
 なるのです。
・岡崎は1949年には政界に転じ、吉田内閣の官房長官、そして外務大臣になります。
 吉田内閣の外務大臣ですから、もちろんその方針は徹底した対米追随路線でした。
 米国のラスク国務次官補と交渉し、非常に問題のある日米行政協定(現在の日米地位協
 定)を締結したのがこの丘崎です。
・また第五福竜丸が被曝したときも、その直後の1954年4月に日米協定でスピーチし、
 「米国のビキニ環礁での水爆実験に協力したい」などと述べています。
 終戦直後にあれほど自主路線で活躍した人物が、対米追随路線の代表的担い手となって
 しまったのです。 

・「にほんは米国の保護国である」いえば、多くの人は「そんなバカな」という反応をさ
 れると思います。
 しかし米国人の発言のなかには、たしかに保護国という言葉が出てくるのです。
ブレジンスキーは、カーター大統領時代、国家安全保障担当の大統領補佐官として辣腕
 をふるった人です。最近でもオバマ大統領の選挙で外交顧問をつとめ、オバマ大統領
 ら「もっとも卓越した思想家のひとり」と呼ばれています。
 そのブレジンスキーは、著書の中で、日本をアメリカの「セキュリティ・プロテクトレ
 イト」、つまり米国の「安全保障上の保護国」と書いています。
・この「日本が米国の保護国である」という状況は、占領時代に作られ、現在まで続いて
 いるものです。
 ではなぜ、「日本が米国の保護国である」という状況が、一般国民の眼には見えないで
 しょう。
 それは実にみごとな間接統治が行われているからです。
・間接統治では、政策の決定権は米国が持っています。
 しかし米国の指示を執行するのは日本政府です。
 「米国が日本政府に命令している場面」は国民には見えません。見えるのは日本政府が
 政策を実行しているところだけです。その部分だけを見ると、日本は完全に独立してい
 るように見えます。
 しかしだれが安全保障政策を決定し、命令しているかとなるとそれは米国です。
 日本はただ従属しているだけというケースが多いのです。
・日本ではドイツのような露骨な直接統治は行われませんでした。
 そこには偶然の要素も大きく働いていました。
 もし重光葵と岡崎勝男のがんばりがなかったら、戦後日本のあり方は大きく変わってい
 た可能性があります。
 米軍が直接統治する。英語が公用語となる。ドルが紙幣となる。この状態はかなりドイ
 ツに近いものです。 
・連合国最高司令官マッカーサーが日本政府に命令し、日本政府は最高司令官の指示にし
 たがって政策を実行する。
 そこに日本の自主的な統治が存在すると思うと、大きな判断ミスを犯すことになります。
 
・1945年9月、トルーマン大統領から統合参謀本部にマッカーサーの権限の範囲を定
 めた通達が送付されました。
 第一条:天皇および日本国政府の国家統治の権限は、連合国最高司令官のとしての貴官
     に属する。
     われわれと日本国の関係は契約的基礎の上に立っているのではなく、無条件降
     伏を基礎とするものである。
 第二条:日本の管理は日本政府を通じて行われるが、それはこのような措置が満足な成
     果をあげる限度内においてである。そのことは、必要とあれば直接に行動する
     権利を妨げるこのではない。
 日本がGHQに完全に従属することを明確に述べています。
 いざとなればGHQが実質的に統治する。
・マッカーサー自身、次のように書いています。
 「私は日本国民に対して、事実上無制限の権力を持っていた。歴史上いかなる植民地総
 督も征服者も、私が日本国民に対して持ったほどの権力を持ったことがなかった」
 「軍事占領というものは、どうしても一方は奴隷になり、他方はその主人の役を演じ始
 めるものだ」
・天皇も総理大臣も、マッカーサーからみれば「奴隷」なのです。
 つまり自主的には判断ができない存在です。
・しかし「奴隷」だからといって、イコール悲惨な生活ということにはなりません。
 奴隷は財産です。しっかり働いてもらわなければないので、虐待されるとはかぎりませ
 ん。古代ギリシャでも19世紀の米国でも、財産である奴隷が大事にされるケースは数
 多くありました。  
 一方、主人に嫌われれば命をなくすのも奴隷の宿命です。運命は御主人様しだいなので
 す。
・さらにいえば、奴隷には上級奴隷(日本人支配層)と下級奴隷(一般市民)が存在し、
 前者が後者を支配するという構図が存在します。
・トルーマン大統領は書いています。
 「日本は事実上、軍人をボスとする封建組織のなかの奴隷国であった。
  そこで一般の人は、一方のボスのもとから他方のボス、すなわち現在のわが占領軍の
  もとに切りかわったわけである。彼らの多くの者にとってはこの切りかえは、新しい
  政権のもとに生計が保たれていれば、別に大したことではないのである」
・思えば吉田首相は、占領下の首相に実にふさわしい人物でした。ある意味で占領中の彼
 の「対米追随路線」はしかたなかった面もあるでしょう。
 問題は彼が1951年の講和条約以降も首相の座に居すわり続けたことです。
 その結果、占領中の対米追随路線が独立後もまったく変わらず継続され、むしろ美化さ
 れて、ついには戦後60年以上も続くことになってしまった。
 ここが日本の最大の悲劇なのです。
 
・米国の一般大衆は昭和天皇に対して、きわめてきびしい見方をしていたのです。
 事実、GHQの政治顧問だったシーボルトは、東京裁判のウェッブ裁判長自身が、本当
 は昭和天皇の罪を問うべきだと主張していたことを記録しています。
 「日本が戦争を行うためには天皇の機能を必要としていた。もしも天皇が戦争を希望し
 ないのなら、彼の機能を発動させなければよかったのだ。そんなことをすれば暗殺され
 るかもしれないといっても、それは答えにならない。すべての主権者は、その義務をは
 たさなければならない場合には、危険をあえておかすべきなのだ。
 しかし天皇は、蓮舫国の利益のために、この裁判では初めから免責の扱いを受けている」
・天皇には明白な戦争責任がある。それなのになぜ連合国が最初から天皇を裁かないこと
 に決めているかといえば、それは、「連合国の利益」のためだからです。
  
・1945年11月、日本が負うべき戦時賠償を調査するため、E・Wポーレーを委員長
 とする賠償委員会17名が訪日します。
 ポーレーは訪日中に次のような声明を出します。
 @米国の賠償政策は、最小限の日本経済を維持するために必要でないすべてのものを、
  日本から取り除く方針である。
 A「最小限」という言葉は、日本が侵略した国々の生活水準よりも高くない水準を意味
  する。 

・占領時代を象徴するのは、日本政府が負担した米軍中駐経費です。
 日本は敗戦後、大変な経済困難にあります。
 このなかで、6年間で約5000億円、国家予算の2割から3割を米軍の経費にあてて
 いるのです。ちょっと信じられないような金額です。
・「石橋湛山」は戦前も軍部に対してきびしい発言をしています。
 戦前、軍部にたてつくことは容易なことではありませんでした。
 しかし、戦前にそれができた人物は、占領下でもみな堂々と発言しています。
・GHQが終戦処理費を増額したことに対して石橋大蔵大臣が憤慨し、マッカーサー側近
 のマーカットに書簡を送りました。
 「貴司令部においては昭和22年度(1947年度)終戦処理費(米軍駐留経費)を、
 さらに増額しようという議論がされていると伝え聞いている。
 インフレが危機的事態にたちいたることは避けられない。
 そうした事態になれば私は大蔵大臣としての職務をまっとうすることは到底不可能であ
 る」 
・こうして抵抗した石橋湛山は、GHQによって1947年5月、公職追放されてしまい
 ます。
・石橋の側近だった「石田博英」は次ように書いています。
 「当時は国民のなかに餓死者が出るという窮乏の時代にもかかわらず、進駐軍の請求の
 なかに、ゴルフ場、特別列車の運転、はては花や金魚の注文書まで含まれていた。
 総額は60億ドルになると記憶しているが、石橋蔵相はあらゆる手をつくして、それを
 削減した。
・石橋大蔵大臣を追放したときの首相は吉田茂です。
 吉田は石橋に対して「山犬にかまれれたとでも思ってくれ」と言ったそうです。 
・日本が米国の意志を受けて実施した政策の頂点が日本国憲法の制定です。
 いまでは広く知られるようになりましたが、マッカーサーは自分たちで日本国憲法の草
 案を書いたあと、それを受け入れるよう、強く日本政府に要求したのです。
 この事実は占領中の検閲によって日本国内では完全に秘密にされていたため、日本人は
 長らくそのことを知りませんでした。
・1946年2月、マッカーサーの右腕だったGHQのホイットニー民政局長が、吉田外
 務大臣をはじめとする日本政府関係者と会合をもち、自分たちがつくった憲法草案を受
 け入れるよう強く求めます。
 ホイットニーは、当時日本側が作成中だった憲法草案を完全に否定し、自分たちの草案
 を採用しなければ天皇が戦犯になるかもしれないと脅しました。
 
・1947年4月、新しい日本国憲法のもとではじめての総選挙が行われました。
 その結果、「片山哲」ひきいる社会党が第一党になり、片山哲が首相になりました。
 憲法制定後はじめての総選挙で社会党が第一党になるというのは、不思議に思われるか
 もしれません。しかし、食料すら満足にない時代です。社会的不満が高まるなか、国民
 が社会主義政党に投票したのはそれほどおかしなことではありません。
・不思議なのは、占領下に社会党政権ができることを、なぜマッカーサーが許したかとい
 うことです。当時はすでに米ソ対立が起こり始めていました。
・そのちょうど一年前には、やはり総選挙で第一党となった自由党総裁の「鳩山一郎」が、
 組閣前に公職追放されているのです。  
・新憲法のもとで最初に誕生した片山内閣とGHQの関係は、どのようなものだったか。
 「占領下の日本政府などというものは、あってなきがごときものです。内閣のなすべき、
 当面する課題、目標は、すべて押し付けてくる司令部(GHQ)への闘争があるだけだ
 といっても過言ではありません」
・1948年2月、退陣を表明した片山首相は、後継に芦田を指名しました。
 しかしそれを吉田派が「政権のたらいまわしだ」と非難し、歩調を合わせたようにして
 読売新聞、朝日新聞が芦田首相の誕生に激しく反対します。
・こうした波乱のなか、1948年3月に成立した芦田内閣は、わずか三ヵ月後に大スキ
 ャンダルに巻き込まれます。昭和電工事件です。  
・芦田内閣の前副総理だった「西尾末広」が逮捕され、芦田内閣は総辞職します。
 辞職後、芦田均自身も逮捕されました。
・実はこの事件には、GHQが深く関与していました。
 昭和電工事件とは、「G2(参謀第2部ー吉田茂ー読売新聞・朝日新聞」対「GS(民
 政局)ー芦田均ーリベラル勢力」という戦いだったのです。
・当時、GHQの内部には、ふたつの流れがありました。
 ひとつは上方担当部局(G2)で、ここは軍事志向が強いので早くから冷戦的態度をと
 りました。  
 一方、GHQ民政部門(GS)の関心は日本の戦後改革でした。
・GHQの情報部門の代表者はウィロビーです。民政部門の代表者はケーディスです。
 ウィロビーは根っからの軍人ですが、ケーディスはハーバード大学の法科大学院を卒業
 したエリートです。ふたりはもともと肌合いが悪かったのです。
 そしてG2は共産主義との対決を最優先し、GSは日本の民主化を最優先しました。
・G2対GSの戦いは「昭電事件」によってG2が勝利し、決着がつきます。
 賄賂の対象が日本人だけでなく、GSにまでおよんでいたのです。
・G2はケーディスとその愛人だった「鳥尾元子爵夫人」との関係も徹底的に調べていま
 す。おそらく彼らがケーディス夫人に伝えたのでしょう。
 鳥尾夫人との関係がバレてケーディスは離婚されています。
・この一連の出来事の背景には、国際政治の大きな変化がありました。
 冷戦が始まり、東西陣営の対立が深刻化するにつれ、米国は日本の民主化よりも、日本
 を共産主義勢力との戦いのために利用するという方針に転換したのです。
  
・米国とのあいだに問題をかかえていた日本の政治家(首相クラス)が、汚職関連の事件
 で摘発され、失脚したケースは次のとおりです。
 〇芦田均    逮捕      昭和電工事件
 〇田中角栄   逮捕      ロッキード事件
 〇竹下登    内閣総辞職   リクルート事件
 〇橋下龍太郎  派閥会長辞任  日歯連事件
 〇小沢一郎   強制起訴    西松建設事件、陸山会事件
 
冷戦の始まり
・1948年1月に行われた米国のロイヤル陸軍長官の演説は、日本の占領政策を180
 度変えることを示唆する重要な演説でした。
 「日本の占領においては、将来極東で起こるかもしれない全体主義との戦争に対し、日
 本が抑止力として貢献することのできるよう、自給自足の民主主義を作ることが目的で
 す」
 冷戦下のソ連との戦いのなかで、日本を防波堤として使うという考えが出てきたのです。
・日本人のなかで、もっとも早い時期から、
 「米ソ間で冷戦が起こりつつある。このことは自分たち日本人に大きな影響を与える」
 という観察をしていた人物がいます。「岸信介」です。のちの首相で「昭和の妖怪」と
 よばれた人物です。
・岸は1920年に農商務省に入り、1936年には満州にわたり、そこで要職を歴任し
 ます。1941年には東條内閣に商工大臣として入閣しました。開戦時の大臣であり、
 戦時中の物資動員の責任者です。
 岸は1945年9月、A級戦犯容疑で逮捕され、巣鴨拘置所に入ります。
・岸は冷戦の始まりを、早くも1946年8月の時点で明確に認識していたのです。
 岸は獄中でありながら、国際関係で米国や英国が平和を望んでいることや、ソ連がその
 スキをついてバルカン半島にどんどん勢力を伸ばそうとしている図式をしっかり把握し
 ています。占領下の獄中にあって、いったいどこからそんな情報をとっていたのでしょ
 う。
・しかし、この米国本国の急激な路線転換は、それまで日本に君臨してきたマッカーサー
 の占領政策を完全に否定するものでした。
 当然、マッカーサーとトルーマン大統領および国防省との対立が始まります。
 結局、朝鮮戦争をめぐってその対立は激化し、マッカーサーは解任されることになるの
 です。
・米国が「ソ連への対抗上、日本の経済力・工業力を利用する」方針へ転換したことは、
 日本の占領政策を大きく変える結果となりました。
 政策だけでなく、人の扱いも変わります。戦犯に問われた人も、ソ連との対抗上、必要
 とされるようになります。戦犯が釈放され、政界に復帰する動きが続きます。
 まさに岸信介が獄中で予想したとおりになったのです。
   
・1950年6月、約10万の朝鮮人民軍が38度線を越えて朝鮮を攻撃しました。
 ソウルはあっというまに陥落し、準備不足の韓国はどんどん追いつめられ、半島南端の
 釜山周辺まで追い込まれました。
・急遽、国連軍が編成され、10月には平壌を占拠し、5日後には中国との国境の鴨緑江
 付近まで攻め込みます。 
 こうした状況のなか、中国が北朝鮮に人民義勇軍を派遣しました。
・両軍の攻防が続き、1953年7月に板門店で休戦協定が調印され、38度線が国境と
 なります。 
・朝鮮戦争の犠牲者は国連軍側が17万2千名、共産軍側が142万名とされています。
 しかし、この戦争の悲惨さは一般市民が大量に死んだことです。
 一説にはこの戦争の死者は全体で400万人〜500万人ともいわれ、その大半が一般
 市民だったとされています。
・なぜ北朝鮮はこんなバカな戦争を始めたのでしょうか。
 一番の理由は、北朝鮮がいま攻めれば韓国を制圧できると判断したからでしょう。
・しかし北朝鮮にとって最大の問題は、「われわれが韓国に侵攻した場合、米国はそれを
 黙って見逃すだろうか」という点だったはずです。
 北朝鮮は「米国は攻めてこないだろう」と、ただ妄想したのでしょうか。それともなん
 らかの根拠をもっていたのでしょうか。
・米国の国家安全保障会議は1949年12月、「南朝鮮から撤退する」ことを決めてい
 ます。
 さらに1950年1月、アチソン国務長官は次のような演説をしています。
 「アメリカの国防ラインは、アリューシャン列島から日本列島、沖縄をへてフィリピン
 にいたるラインである。この防衛ラインを越えた場合、アメリカは武力を持って阻止す
 る」
・国防長官がわざわざ「防衛ライン」を具体的に設定し、朝鮮半島をその外側に置いてい
 るのです。ソ連や北朝鮮が、「北朝鮮が韓国を攻撃しても米軍は動かない」と判断した
 としても無理はありません。

・1980年から88年まで続いたイラン・イラク戦争では、米国は「サダム・フセイン」
 を支援しました。
 その後イラクは1990年8月にクウェートを攻撃します。
・サダム・フセインがクウェートを攻撃する直前、米国のエイプリル・グラスピー駐イラ
 ク大使(女性)をよび、クウェートの攻撃を示唆します。
 このときグラスビー大使は、
 「自分の仕事は二国間関係を発展させることである。アラブ社会の紛争はアラブ社会内
 で処理してもらいたい」
 と述べました。
 サダム・フセインはこれを米国のGOサインと誤解してしまったのです。
・しかし、このときグラスビー大使は独断でうっかりこうした発言をしてしまったのでし
 ょうか。そうではなかったのです。
 クウェートが攻撃された時点でさえ、米国はまだ軍事介入するかどうか決めていなかっ
 たのです。 
 ところがイラク軍がサウジアラビア国境に近づいたため、米国はこの段階ではじめてサ
 ウジアラビアを守る必要性を感じ、イラク制圧の決定をしました。
・このときイラクは朝鮮戦争のときの北朝鮮と同じように、「自分たちが攻撃しても米国
 は攻めてこないだろう」という判断ミスを犯しました。
 
・そもそも日本は第二次大戦によって、どの程度、経済的な打撃を受けたのでしょうか。
 生産財、消費財、交通財、これらをすべて合わせると被害は25.4%と言われていま
 す。
・とくに食料事情が深刻でした。
 1946年の米の配給は一日ひとり当たり一合(お茶碗二杯分)です。
 1946年、47年の輸入品に占める食料の割合は55〜56%です。
 食料がなんとか国民に十分行きわたるようになるのは1950年以降です。
 
・マッカーサーは日本の占領は早く終わらせるべきであると考えていました。
 また日本の再軍備には反対の立場をとっています。
・そもそも占領軍の一番の目標は、なんだったでしょう。それは日本の非軍事化です。
 マッカーサーはそれをもっとも重視していました。
 そのマッカーサーが再軍備に賛成するはずがありません。
 ここから日本をめぐり、なんとか再軍備させようとするトルーマン大統領および軍部と、
 マッカーサーとの戦いが始まります。
・そして1950年6月、朝鮮戦争が起こりました。
 共産軍が韓国に攻め入ったのです。
 これで「トルーマン大統領+軍部」対「マッカーサー」の戦いに決着がつきます。
 共産主義の脅威が日本のすぐとなりの朝鮮半島で、侵略という形で起こりました。
 だれもが日本の軍事力強化の方向に向かったのは自然な流れでした。
・米国側の思惑とはちがい、このときの日本側は再軍備に積極的ではありません。
 「もし再軍備を強行すれば、日本経済はたちどころにその重圧の下に崩壊し、民生は貧
 窮化し、そこに共産陣営の絶好のねらいである社会不安が醸成される」
・吉田はマッカーサーに泣きついた。
 「私はいま、ダレス大使から非常に困った問題をつきつけられ、苦しんでいるところで
 す」 
・マッカーサーは微笑してダレスのほうを見て、
 「自由世界が今日日本に求めるのは軍事力であってはならない。生産力をフルに活用し、
 もって自由世界の力の増強に活用すべきである」
・ところがそのマッカーサーは朝鮮戦争に関する意見の衝突で、トルーマン大統領によっ
 て解任されてしまいます。
 その結果、吉田首相は一気に強力な後ろ盾を失うことになってしまいます。
・マッカーサーは1951年4月、解任されました。
 それはマッカーサーが進めた、
 @非軍事化
 A戦争犯罪人の処分
 B民主化の最優先
 を軸とする日本占領政策の終わりを意味していました。
・マッカーサーに代わって連合国最高司令官となったリッジウェイは、政治家や将校たち
 に出されていた公職追放令をゆるめ、25万人以上の追放解除を行ないました。
 鳩山一郎や石山湛山、岸信介といった著名な政治家たちが、このとき政治的権利を回復
 しました。

講和協約と日米安保条約
・マッカーサーが解任されてから5カ月後の1951年9月8日、日本はサンフランシス
 コ講和条約(平和条約)と日米安保条約に調印しました。
・しかし、よく見ると調印に際しての両者の扱いは驚くほど異なるのです。
 講和条約はサンフランシスコの華麗なオペラ・ハウスで、48ヵ国の代表が調印して結
 ばれました。
 しかし、日米安保協約はどうだったでしょう。
 米国側は、アリソン(国務長官)、ダレス(国防省顧問)、ワイリー(上院議員)ブリ
 ッジス(上院議員)の4人が署名しています。
 では日本はとみると、吉田首相ひとりです。
・なにか変です。米国が4人署名し、日本側はひとり。こういったアンバランスなことは、
 ふつうの外交の世界では起こりません。
・さらにおかしなことがあります。
 この条約をどこで署名したかについて最近まで一般にはほとんど知られていませんでし
 た。  
 場所はサンフランシスコ郊外にある米国陸軍第六軍の基地のなか、しかも下士官クラブ
 でした。
・旧安保条約でなにが一番の問題だったか見てみましょう。
 最大の問題は、旧安保条約には米軍の日本駐留のあり方についての取り決めが、何も書
 かれてないということです。
 それは「条約」が国会での審議や批准を必要とするのに対し、政府間の「協定」ではそ
 れが必要ないため、都合の悪い取り決めは全部この行政協定のほうに入れてしまったか
 らなのです。
・安保条約に対する第一の疑問は、これが平和条約のその日、わずか数時間後、吉田首相
 ひとりで調印されていることである。
 という意味は、半永久的に日本の運命を決すべき条約のお膳立てが、まだ主権も一部制
 限され、制限下にある日本政府、言葉を変えて言えば手足の自由をなかばしばられた日
 本政府を相手に、したがって当然きわめて秘密裡にすっかりと決められているのである。
 言い換えれば決して独立国の条約ではない。
 
・現在ではおそらくご存じない方も多いと思いますが、占領中、米国は日本の新聞や雑誌、
 書籍などを事前に検閲し、印刷を中止させたり、問題のある部分を白紙のまま印刷させ
 たりしていました。
 さらに個人の手紙に関しても、年間何千万通という規模で開封・翻訳し、日本人全体の
 動向を把握し、コントロールしていたのです。
 さらに問題なのは、こうした検閲の事実そのものが、日本人には秘密にされていたとい
 うことです。
・新聞や雑誌は、作ったあとで発行できなければ、もちろん大変な損失をこうむることに
 なります。そのため、GHQの方針に反するような記事については、すぐ自分たちで
 「自主検閲」をするようになりました。
・占領軍の検閲は大作業でした。そのためには高度な教育のある日本人5千名を雇用しま
 した。給与は当時、どんな日本人の金持ちでも預金は封鎖され、月に5百円しか出せな
 かったのに、9百円、千2百円の高給が支払われました。その経費はすべて終戦処理費
 だったのです。
 つまり日本人のお金で、日本人が日本人を検閲し、言論統制をしていたのです。
・この「高度な教育のある日本人5千名」とは、いったいだれだったのでしょう。
 これまでに、ほんのわずかな人たちが、自分が検閲官だったことをあきらかにしていま
 すが、その人たちはいずれも大学教授や大新聞の記者になっています。
 ほかの人たちも当然、占領終結後は官界やジャーナリズム界、学界、経済界などでそれ
 なりのポストを占めたはずです。
・このように米国の方針に逆らえば追放される。逆にすり寄れば大きな経済的利益を手に
 することができる。この構図は今日まで続いているのです。  
 
・1951年1月、日本との交渉に先立ち、ダレスは最初のスタッフ会議において、
 「われわれは日本に、われわれが望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留さ
 せる権利を確保できるだろうか、これは根本問題である」と指摘した。
・ダレスが日本との講和条約を結ぶにあたってもっとも重要な条件とした、日本国内に
 「われわれが望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を確保する」
 という米国の方針は、その後どうなったでしょうか。
 それはいまでも変わっていないのです。 
・その後、日本側から「われわれが望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留さ
 せる権利を確保する」ことを変えようとする動きが出ると、そうした動きは必ずつぶさ
 れてきたのです。
 1951年からもう60年以上経過しています。しかし米軍とそれを支える日本側の関
 係者は、60年も前にダレスが決めたこの方針から、どうしても抜け出せないようです。
・2009年9月から、2010年5月まで、鳩山由紀夫首相が普天間基地問題で、「最
 低でも県外」とし、「国外移転」に含みを持たせた主張をしました。
 これは日本の首相として、歴史的に見てきわめて異例の発言でした。
 鳩山由紀夫首相のこの主張は、米軍関係者とその日本側協力者から見れば、半世紀以上
 続いてきた基本路線への根本的な朝鮮でした。
 そこで鳩山首相をつぶすための大きな動きが生まれ、その工作はみごとに成功したので
 す。
・日米安保条約がもつ意味について、米国の歴史学者シャラーは、こう解説しています。
 「これらの軍隊には日本の防衛は要求されておらず、いつでも引き上げることができ、
 また日本国内の騒乱にも使用することができた」
・日本の国民はほぼすべて、「日米安保条約を結んだことで、それからずっと日本は米国
 によって守られている」と思っています。
 では、旧安保条約の交渉担当者、ダレスはそのように思っていたでしょか。まったく思
 っていませんでした。 
・米国は少なくとも1960年まで、法的には日本防衛の義務を負っていなかったのです。
 米国は日本国内に軍隊を駐留させられる。しかし米国は日本を防衛する義務は負わない。
 こうした条約をいったいだれが支持できるでしょうか。
・占領時代、日本の首相が米国のいうことを忠実に聞くのは、基本的にはやむを得ないこ
 とだと思います。しかし、独立したあとは別です。
・米国が「われわれは日本に、われわれが望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ
 駐留させる権利をもつ」ような条約を、独立後も結ぶべきではなかったのです。
 吉田首相自身、それが本来、独立国が結ぶべき条約ではないことをよく知っていました。
 日本側で署名したのが吉田ひとりだった理由はそこにあったのです。
・旧安保条約は全部で5カ条あります。ほぼ抽象的な表現で、実態がつかめません。
 一方、行政協定は全部で29カ条あります。これだけでも、こちらのほうが実質的に意
 味を持っていることがわかります。  
・まず行政協定の第二条は、
 「日本は合衆国に対し、必要な施設および区域の使用を許すことに同意する」
 と規定しています。「施設および区域」というのが、いわゆる基地のことです。
 つづいて
 「いずれかの要請があるときは、施設および区域を日本国に返還すべきことを合意する
 ことができる」
・合意することが「できる」という言葉が使われています。これは義務ではありません。
 では合意しなかったらどうなるか。現状維持です。
・ではこの行政協定に代わって結ばれた。現在の日米地位協定を見てみましょう。
 地位協定第二条
 「いずれか一方の要請があるときは、前記の取り決めを再検討しなければならず、また、
 前記の施設および区域を日本国に返還すべきこと、また新たに施設および区域を提供す
 ることを合意することができる」 
 やはり「合意することができる」となっています。現在でも、合意が成立しなければ、
 米国は基地の使用を無限に継続する権利をもっているのです。
・この日米行政協定の交渉を担当した大臣は「岡崎勝男」、そう、敗戦直後に重光と共に
 マッカーサーと交渉し、その後、吉田茂の側近となったあの岡崎勝男です。
 彼はこのころ、吉田内閣の官房長官から、行政協定締結のための担当大臣に移動してい
 ました。
・米国は、日本国内における「基地の自由使用」を望みました。しかし日米安保条約には、
 とても書きこめません。
 それでは「独立する意味がないにひとしい」ことが、だれの目にもあきらかだからです。
・そこで行政協定のほうに入れました。
 しかし、「宮沢喜一」などの目にとまって具合が悪くなると、さらに行政協定から削除
 し、ほとんどだれも見ない「岡崎・ラスク交換公文」に書き込んだのです。
 「交換公文」とは国家間で取り交わした合意文書のことで、「協定」のようにおおやけ
 には発表しませんが、ほとんど同じような効力を持っています。
 ラスクとは米国側の交渉担当者で、のちの国務長官の名前です。
・吉田首相は講和条約にも書けず、安保条約にも書けず、行政協定にこっそり書き込もう
 としました。しかし宮沢の指摘によってそれもできず、ついには岡崎を使って「交換公
 文」という形で、だれにもわからぬようこっそり認めてしまったのです。事実上の密約
 です。  
・国民だけでなく、親米派の政治家に対しても、都合の悪いことは議論せずに隠す。
 これが講和条約と安保条約の締結時からの吉田外交の伝統なのです。
 このあとの岡崎は、おそらく行政協定締結のご褒美でしょう。外務大臣に昇進していま
 す。
・吉田茂の首相在任期間は、講和をはさんで合計七年におよびますが、その最初の四年半
 は自分で外務大臣を兼務し、のこりの二年半は岡崎にまかせています。つまり戦後の日
 本外交の極端な従米姿勢は、ほとんどこのふたりによって決められたものなのです。
・つぎに行政協定の第3条を見てみましょう。
 「米国は施設および区域内において、それらの設定、使用、運営、防衛または管理のた
 めに必要または適当な権利、権力および機能を有する」
・そしてもっとも問題とされる行政協定の第17条には、
 「米国は、軍隊の構成員および軍属ならびにそれらの家族が日本国内で犯すすべての罪
 について、専属的裁判権を日本国内で行使する権利を有する」
 軍人だけでなく、軍の関係者やその家族が犯した罪についても、裁くのは米国。つまり
 実質的な治外法権を与えているのです。
・米軍はドイツやイタリアでは、基本的に相手国の法律を守って行動することになってい
 ます。
 それに対して日本の行政協定では、米軍は日本の法律を守る必要がなく、基地の運営上
 必要であれば、なにをしてもいいことになっています。
・もうひとつ記憶しておくべきことは、芦田均が片山内閣の外務大臣だった1947年9
 月、米国側に「有事駐留」案を提案していたということです。
 有事駐留というのは、非常事態が起こったときだけ米軍は日本にある基地を使用するが、
 普段は日本国内にはいないというものです。
 しかしこの考えは、ダレスや米国軍部が考えてきた方針とはもちろん大きく異なってい
 ました。 
・片山内閣の崩壊後、首相と外務大臣を兼務して内閣を組織した芦田均は、GHQのG2
 (参謀第2部)が関与した汚職事件をしかけられ、わずか7カ月で失脚しています。
・それから約60年後、やはり米軍の「有事駐留論」を持論とする鳩山由紀夫首相が日米
 双方から総攻撃を受け、9カ月で辞任に追い込まれています。

・1955年7月、重光外務大臣はアリソン駐日大使と会談して、米軍の撤退についての
 驚くべき要請しています。
 重光外相は、米国地上軍を6年以内、米国海空軍を米国地上軍の撤退から6年以内、合
 計12年以内に米軍の完全撤退を提言しているのです。
・普天間問題のとき、鳩山由紀夫首相はメディアや評論家たちから、「アメリカは激怒し
 ている」とさんざん脅かされました。
・ではこの重光の提案に対して、米国は怒り狂っているでしょうか。
 少なくともアリソン駐日大使はちがいます。
 米側のコメントは、地上軍の撤退に関しては「緊急時に米軍を送る戻す権利を維持する
 こと」を目的とするとなっています。
 つまり最低限、有事駐留を認められればよいという考えです。
 12年以内の完全撤退についても、「海軍と空軍は無期限に駐留できると考えていた」
 としながらも、コメントは「日本側の提案に合わせるよりもかなり有利な取り決めを手
 に入れたい」という交渉の余地を残したものとなっています。
・さらに重光は「在日米軍支援のための防衛分担金は今後廃止する」ことも主張していま
 す。
 「米軍は米国の都合で日本に留まっている」ということも、彼はよくわかっていたので
 す。
・現在の日本では、米軍完全撤退や有事駐留論はおろか、普天間基地ひとつ海外へ移転さ
 せるというだけで、「とんでもない暴論」とみなされてしまいます。
 しかし過去のこうした実例を見ると、それが非常にかたよった議論であることがわかり
 ます。
 米国内でも、そうした日本側のさまざまな要望を真剣に検討する姿勢は、過去の存在し
 ていたのです。

・1954年12月、鳩山一郎政権が誕生しました。
 鳩山首相はソ連との国交回復を政権の最重要課題とします。同時に日米間の重要課題と
 して、防衛分担金の問題がありました。
・当時の日本の予算は1兆円以下です。
 しかし、日本はそのなかから在日米軍維持費に毎年550億円支払っていました。
 鳩山内閣はこの削減方針を打ち出しており、その後、「防衛分担金を200億円に減額
 し、その分を国内の住宅建設費い当てる」というアリソン駐日大使との了解を成立させ
 ました。 
・吉田首相時代は米国の言い分をそのままのんでいました。その代表例が分担金でした。
 重光外務大臣はまず、この分野に切り込み、当時の日本の国家予算の2パーセント近く
 を減額することに成功したのです。
・鳩山政権はソ連との国交回復を考えています。さらに重光外務大臣は米軍撤退の交渉も
 考えています。
 そうしたふたつの難題をかかえ、重光は訪米することになります。
・この重光の訪米は、米軍削減を真っ正面から交渉するということが目的ですから、大変
 な覚悟が必要だったのでしょう。
 鳩山首相は、重光外務大臣の強硬姿勢には、一抹の不安を持っていました。
 そこで腹心の河野一郎農林大臣に同行を依頼します。さらにその河野農林大臣は任務の
 重要性を意識して、岸信介民主党幹事長にも同行を依頼します。
 こうして、重光外務大臣・副総理、岸信介民主党幹事党、河野農林大臣という当時の日
 本政界における超大物がそろって訪米することになったのです。
・会談では重光・ダレス間で激しいやりとりがありました。
 重光外相はダレスとの会談において、アメリカに安保改定を提案したのです。
 重光外相の提案について、ダレスは意外だったらしい。
 ダレスはほとんど、とりあげなかったのです。
 日本の現在の状況からいって、アメリカとの間に対等な安保契約を結ぶなんで、日本に
 はそんな力はないのではないか、といって吐き捨てるようにダレスが答えたのです。
・ダレスの言った趣旨はこうだ。
 日本側は安保条約を改定しろというけれど、日本の共同防衛というのは、今の憲法では
 できないではないか。
 日本は海外派兵できないから、共同防衛の責任は日本が負えないではないか。
 自分の方の体制ができないのに安保契約の改定とは、一体どういうことなのだ。
・これに対して重光外相は、次のように主張した。
 どこの国の憲法にはじめから侵略的な海外派兵を肯定している憲法がありますか。
 アメリカの憲法と日本の憲法と比べてみて、この点についてどこがちがうか。
・重光外相は、この会談にのぞむ前に、昭和天皇に内奏(国務報告)しています。
 そのときの天皇の言葉を紹介しています。
 「陛下より駐屯軍の撤回は不可であること、また知人への心のおもった伝言を命ぜられ
 た」 
・天皇は外交交渉におもむく前の外務大臣に、「在日米軍の撤退はダメだぞ」と念を押し
 ているのです。
 このことからわかるように、戦後の歴史において昭和天皇はけっしてたんなる象徴では
 ありませんでした。
・吉田首相の米軍基地に関する極端な属米路線には、こうした「在日米軍の撤退は絶対ダ
 メだ」という昭和天皇の意向が影響していた可能性が高いそうです。
・重光外務大臣は、鳩山内閣の崩壊に伴い、ダレスとの交渉した翌年の1956年12月、
 辞任しました。そしてわずか一ヵ月後の1957年1月、急逝しています。
・鳩山政権はソ連との国交回復に邁進しました。ここで一番重要になってくる問題が、北
 方領土問題です。
 そこには現在、一般の日本人がほとんど知らない重要な事実があります。 
・実は北方領土の北側の二島、国後島、択捉島、というのは、第二次大戦末期に米国がソ
 連に対し、対日戦争に参加してもらう代償として与えた領土なのです。
 しかもその米国が冷戦の勃発後、今度は国後島、択捉島のソ連への引き渡しに反対し、
 わざと「北方領土問題」を解決できないようにしているのです。理由は日本とソ連のあ
 いだに紛争のタネを残し、友好関係を作らせないためにです。
・日本の周辺国の関係を見ても、ロシアとは北方領土、韓国とは竹島、中国とは尖閣諸島
 と、みごとなくらいどの国とも解決困難な問題が残されていますが、これは偶然ではな
 いのです。
 どんな国にも国境をめぐる対立や紛争はあります。しかし日本ほど、その解決に向けて
 政府が動けない国はありません。それは米国に意図的に仕組まれている面があるからで
 す。
・鳩山首相は1956年、交渉の結果、日ソ共同宣言に署名します。
 領土問題については、将来、平和条約が締結されたときには、「歯舞群島および色丹島
 を日本国に引き渡すことに同意する」と書かれていました。
・鳩山首相はソ連との国交回復をはたし、それを花道に退陣します。
 
・日本に原子力発電所を作る動きは1950年代に確立しています。
 日本の経済はまだ高度成長が始まる前の段階で、安い石油が自由に手に入る時代です。
 なのに1955年に原子力基本法が成立し、翌56年に原子力委員会が設置され、原子
 力発電への流れが本格化します。
・1950年代、原子力開発に積極的に関与した人物に「中曾根康弘」氏と「正力松太郎
 氏がいます。ふたりとも米国と強い結びつきを持っています。
・1954年3月、米国はマーシャル諸島のビキニ環礁で水爆実験を行いました。  
 そのとき、ちょうど第五福竜丸が実験の風下85マイルの地点で、遠洋マグロ漁を行っ
 ていました。その結果、汚染された灰と雨が第五福竜丸に降りかかったのです。
・この被曝事件に関して、米国の対応にはいくつもの問題がありました。
 まず、被曝した乗組員の治療には、死の灰の成分を知ることが不可欠ですが、米側は教
 えてくれません。 
 医師が米国から派遣されてきましたが、治療ではなく、調査が目的でした。
 米国は被曝で病気が出たことを認めず、補償額もきわめてわずかな金額しか示しません
 でした。
・ところが吉田首相は米国に抗議することをためらいます。その結果、第五福竜丸事件は
 吉田政権の基盤を揺るがし、米国への批判が一気に噴出することになりました。
・第五福竜丸がビキニ環礁水爆実験で被曝したことを契機に、杉並区の女性が開始した原
 水爆実験反対の署名運動はまたたくまに3000万人の賛同を得、運動は燎原の火のご
 とく全国に広がった。
 このままほっておいたら営々として築きあげてきたアメリカとの友好的な関係に決定的
 な破局をまねく。
・正力松太郎の懐刀の「柴田秀利」が、
 「日本には昔から毒は毒をもって制するということわざがある。原子力はもろ刃の剣だ。
 原爆反対をつぶすには、原子力の平和利用を大々的にうたいあげ、それによって、偉大
 な産業革命の明日に希望を与えるしかない」
 と熱弁をふるった。
・読売新聞が中心となって、日本国内に原子力平和利用の動きが展開されていきます。
 正力松太郎はその後入閣し、初代の原子力委員会委員長になります。
・日本が原子力の平和利用を推進するうえで、もうひとりの中心人物が中曾根康弘氏です。
・世界に原子力の平和利用が広がったきっかけは、1953年12月に「アイゼンハワー
 大統領
」が国連で行った演説です。  
・米国は、恐ろしい原子力のジレンマを解決し、この軌跡のような人類の発明を、人類滅
 亡のためではなく、人類の生命のために捧げる道を、全身全霊を注いで探し出す決意を、
 みなさんの前で、誓うものである」
・原子力を核兵器ではなく、平和利用するという宣言は魅力的です。この動きを取り入れ
 たのが中曾根康弘氏です。
 その後、中曽根氏が中心となって原子力委員会設置法や科学技術庁設置法など、約8本
 の法案が議員立法で国会に提出され、これにより科学技術庁や原子力委員会が発足する
 ことになりました。
・1955年11月、自由党と日本民主党というふたつの保守政党が合併し、自由民主党
 (自民党)が誕生します。
・米国のダレス国務長官は自民党結党の3カ月前に岸信介・日本民主党幹事長に会い、
 「もし日本の保守政党が一致して共産主義者とのアメリカの戦いを助けるなら、経済的
 支援を期待してよい」
 と明言したそうです。
・その後も1960年代まで、CIAを通じて自民党に政治資金が提供され続けたことが、
 米国側の公文書で明らかになっています。
・1956年4月に行われた総裁選挙で、鳩山一郎が初代総裁に選ばれます。
 そしてその年の暮れ、鳩山首相の退陣に際して行われた総選挙で、「石橋湛山」が自民
 党総裁に選ばれ、自動的に首相となりました。
・石橋湛山は、すでに占領時代、大蔵大臣として米軍の駐留経費の削減を要求し、公職追
 放になってました。
 米国のいうことを黙って聞くような政治家ではありません。
 ですから、みんな石橋がどんな対米自立路線を打ち出すだろうと期待していました。
 事実、石橋は自主独立路線を次々に表明します。
・戦前、日本の軍部が暴走した背景に統帥権という問題がありました。
 大日本帝国憲法に「天皇は陸海軍を統帥す」とあることから、軍事面における権限はす
 べて天皇と天皇を支える軍部が持っており、内閣はそれに干渉できないという考えです。
・軍部はこの統帥権をたてにとり、暴走を繰り返しました。
 そのひとつがロンドン海軍軍縮会議において、政府代表が海軍の削減に合意したのは統
 帥権違反だと主張したことです。
 これに対して石橋湛山は、昭和5年に「東洋経済新報」の社説で、
 「統帥権なるものは今日の時世において許すべからざる怪物である」
 と書き、堂々と軍部を非難する論陣を張っています。
・母校早稲田大学での総理就任祝賀会に出かけた石橋湛山は、突如肺炎になり、施政方針
 演説と質疑応答をできない事態となり、退陣に追い込まれます。
・決め手になったのは、医師団の診断でした。
 1957年2月、4名からなる医師団が次の診断結果を発表しました。
 「約2ヵ月の静養と治療を必要とする」
・主治医は「肺炎の病状は消えて回復の途上にある。肺炎以外の病気は心配ない。体重の
 異常な減り方が、肺炎でやせたものとしては理解できない」との談話を発表します。
・石橋湛山は
 「新内閣の首相としてもっとも重要な予算審議に、一日も出席できないことがあきらか
 になりました以上は首相としての進退を決すべきだと考えました」   
 と述べ、辞任しました。
 わずか2ヵ月の首相在任期間でした。
・惜しい首相でした。
 もし、石橋政権が長く続けば、日米関係にも新しい時代が訪れたと思います。
・石橋氏は1973年4月に亡くなります。
 病気で首相の座を降りてから、15年後のことでした。
 まったく1957年の病気はなんだったのかと思いたくなります。
 
・岸信介は、1960年に新安保条約の維持を強行した人物です。
 CIAから多額の資金援助を受けていたこともわかっています。
 したがって米国追随一辺倒だった政治家というイメージがありました。
 でも調べていくと、驚くべきことに岸は対米自立路線を模索しているのです。
・岸信介は1956年12月、石橋内閣の外務大臣になります。
 このとき岸は、
 「級安保条約はあまりにもアメリカに一方的に有利なものだ。形式として連合国の占領
 は終わったけれど、これに代わって米軍が日本全土を占領しているような状態だ」
 という認識をもっています。
・岸信介は、吉田茂首相の結んだあの講和条約のままでは日本民族の恥さらしだと考え、
 安保をもっと自主性のあるものに改定する、そのためには再軍備も必要で、憲法も改正
 にまでもっていかなければならないという考えを持っていた。
 あわせて沖縄の返還を実現したい。
・たしかに岸信介とCIAとのあいだに闇の関係がありました。
 しかし、だからといって岸は自分の行なおうとしたことをやめたわけではありません。
 逆に利用します。このへんの芸当は、戦前の満州帝国の経営など、きれいごとの通
 じない世界でメキメキと頭角をあらわした時代の経験が大いに役立っていたのでしょう。
 その満州時代を振り返る形で、岸信介はこう話しています。
 「政治というのは、いかに動機がよくとも結果が悪ければダメだと思うんだ。
 場合によっては動機が悪くても結果がよければいいんだと思う。
 これが政治の本質じゃないかと思うのです」
・2009年、政権の座についた鳩山由紀夫首相が「普天間基地を最低でも沖縄県外に移
 転させたい」といって、各方面から袋叩きにあい、政権を投げ出しました。
 時代はちがうとはいえ、たったひとつの基地でもそのようなことが起きたのです。
 もし米軍関係者が、「岸信介首相は駐留米軍の大規模撤退を求めてくるだろう」と判断
 していたとすると、どのような事態が予想されるでしょうか。
・岸信介は「二段階論」を考えていました。
 つまり安保条約を改定して、その後「行政協定を改定する」方針でした。
 行政協定の条項の多さを考えれば、この方針はうなずけるものです。
 このやり方だと、「駐留米軍の最大限の撤退」もゆっくり協議することができます。
・ところがこのとき、池田勇人、河野一郎、三木武夫という実力者たちが、そろって、
 「同時大幅改定」を主張したのです。「同時大幅改定は、現実問題としては実現不可能
 な話でした。
・では、なぜ池田勇人、河野一郎、三木武夫は「同時大幅改定」を主張したのでしょうか。
 池田勇人は岸信介首相のあと、首相になっています。その後、彼は行政協定(地位協定)
 を改定する動きをしたでしょうか。まったくしていません。
 したがって池田勇人が「同時大幅改定」をのべたのは、難題をふっかけ、岸政権つぶし
 を意図していたからだとみることができます。
・新安保条約の批准は本来、問題なく進んでよかったはずでした。
 なぜなら自民党は当時衆議院で288議席という圧倒的多数をもっていたからです。
 一方、社会党は128議席で、民社党は37議席です。さらにその民社党は、岸首相に
 協力の姿勢を伝えていました。
 客観的にみて、自民党は圧倒的多数で安保条約の批准はできたはずです。
 安保騒動をまねいたのは、自民党内部の遅延策だったのです。
・安保反対運動のピークは1960年6月15日です。
 「全学連、国会構内乱入」
 「女子東大生が死亡」
・死亡した女性は樺美智子さんです。警察病院の検屍で、死因は胸部圧迫および頭部内出
 血と発表されました。
 樺美智子さんの死去以降、それまでまったくデモに参加しなかった無数の人たちが運動
 に参加していきます。  
・6月15日は、総評が580万人の動員を行ない、新安保条約の阻止と岸退陣を要求し
 ていました。
 その3日後の18日には、日本政治史上最大のデモが国会・首相官邸付近をとりまきま
 す。総数50万人の労働者が参加し、それとほぼ同数の市民団体が加わっていました。
 学生だけでも5万人を超えていました。
・全学連を指導していたブントという組織からは、運動を指導する重要人物がほとんど逮
 捕されていました。
 この段階で大集団を指導できる人物はだれもいなかったのです。
 結局デモは最後まで暴動には発展しませんでした。
 ある意味、この日をもって安保騒動は終結したといえます。
・その後、新安保条約は参議院の議決がないまま、自然成立し、一方、予定されていたア
 ンゼンハアーの来日は延期(事実上の中止)となりました。
・これを受けて岸首相は辞意を表明します。
 全学連や総評のデモが要求した岸内閣の打倒は達成されたのです。
 しかし、闘争の最大の焦点であった安保条約はその後、50年以上たった現在まで、
 一言一句変わることなく続いています。
 つまり、この安保闘争は、当初の目的をまったく果たせなかったことになります。
・全学連運動の中心人物のひとり、「森田実」は著書で、
 「60年安保最大のヤマ場は4月から6月にかけての国会における批准阻止の運動でし
 た」
 「安保闘争は自然成立をもって、事実上終わったといってよいと思います」
・標的であったはずの安保条約は残っているのです。
 それなのに、なぜ闘争は「事実上終わった」のでしょう。
・同じく全学連運動の中心人物であった「西部邁」は著書で次のように書いています。  
 「総じていえば、60年安保闘争は安保反対の闘争などではなかった。闘争参加者のほ
 とんどが国際政治および国際軍事に無知であり無関心ですらあった」
・1960年の安保闘争を率いたのは全学連です。
 1958年に、全学連で活動していた学生たちが日本共産党からケンカ別れしてできた
 組織です。当然、金はありません。
・「島成郎」らは、「田中清玄」と接触し、資金提供を受けます。
 田中清玄は電力業界のドン、松永安左衛門をはじめ、製鉄、製紙、新聞など多くの業界
 のドンを紹介します。
・田中清玄は占領時代、米国の情報関係者が積極的に接触を求めていた人物です。
 彼は全学連への資金提供の理由を
 @左翼勢力が共産党の下でまとまったら大変だから、内部対立をめざした。
 A岸内閣をぶっ潰すためだった。
 と述べています。
・ここで重要なことは、金は田中清玄から出ていただけではなく、財界のトップから出て
 いたということです。
・このとき財界から資金提供を受けた人物に、篠原浩一郎(全学連中央執行委員)がいま
 す。
 「財界人は財界人で秘密グループを作っていまして、とにかく岸さんではダメだという
 ことで岸を降ろすという勢力になっていたんですね。そういうなかで安保闘争が始まっ
 たわけで、そういう人たちは岸を追い落とすために安保闘争を利用したんです」
・このとき全学連の人びとがめざしたものと、資金を提供した側の思惑はまったくちがい
 ます。180度ちがうといってよいと思います。
 全学連の人びとがめぜしたのは、若者らしい純粋な理想だったはずです。
・私は、「岸じゃダメだ」といって全学連へ資金提供した「財界グループ」の中心に、
 「中山素平」と「今里広記」がいたことに注目しています。
 このふたりは、経済同友会の創設当初からの中心メンバーだからです。
・中山素平は、安保騒動当時、経済界でもっとも力のあった人物のひとりといえるでしょ
 う。しかも彼はまだ興銀の調査部長・復興金融部長だった時代に、興銀を廃止しようと
 するGHQに対して交渉をくり返し、存続を認めさせたという、米国と深いつながりを
 もった人物です。  
・ではなぜ経済同友会などの財界は、この時期、岸政権をつぶす必要があったのか。
 もちろん確証はありませんが、私は一番ありうるシナリオは、
 @岸首相の自主独立路線に危惧をもった米軍およびCIA関係者が、工作を行って岸政
  権を倒そうとした。
 Aところが岸の党内基盤および官界の掌握力は強く、政権内部から切り崩すという通常
  の手段が通じなかった。
 Bそこで経済同友会などから資金提供をして、独裁国に対してよく用いられる反政府デ
  モの手法を使うことになった。
 Cところが6月15のデモで女子東大生が死亡し、安保闘争が爆発的に盛りあがったた
  め、岸首相の退陣の見通しが立ったこともあり、翌16日からはデモを押さえ込む方
  向で動いた。
・安保騒動をめぐって驚いたのは、池田勇人が「警官を総動員して、徹底的にとりしまれ」
 と強行したことでした。
 東大生の樺美智子さんが亡くなった国会でも、「あれは国際共産主義の陰謀だから、自
 衛隊を使え、警察官を全国から動員せよ」と発言したように思います。
 なぜああゆう強硬論をとったのか。
 考えてみると、それで岸信介の命運を絶とうとしたのかもしれません。
・池田内閣が成立したとたん「忍耐と寛容」「憲法改正はいたしません」と180度転換
 しました。
・安保闘争が一気に国民的規模にもりあがったのは、東大生だった樺美智子さんの死去以
 降です。この死亡事件により、国民がいだいていた岸信介への怖れが噴出したのです。
・かつて日本を第二次大戦に導いた開戦時の閣僚、しかも極東裁判でA級戦犯容疑者にな
 った人物。彼にこのまま任せておくと、再び日本を戦前のような世界へもっていくので
 はないか。警察権力によって国民を抑圧するのではないか、議会制民主主義を崩壊させ
 るのではないか、米国と一体になって海外でも武力を行使するようになるのではないか、
 という怖れがあったのだのだと思います。
 始まりは米国やその意向を受けた財界の工作であったにせよ、そうした国民心理により、
 60年安保はその最終段階で、日本の歴史で他に例のない大衆闘争となっていったので
 す。 
・中国は日本の首相のなかで、岸首相をもっとも攻撃しました。
 それはある意味当然です。
 岸信介は、かつて満州帝国の経営にあたった人物ですし、対中戦争時の閣僚でもありま
 した。中国が攻撃しないはずがありません。
・あわせて岸首相は、台湾総統の蒋介石とも親交があります。
 共産主義に対抗するという目的で、岸首相は蒋介石と親交を結んでいます。
・しかし、岸は自分の中国政策を「政経分離」でいくと明言していました。
 政治では中国にきびしい姿勢でのぞむが、経済的な関係は発展させるという考えです。
・岸首相は従来の日米関係とは異なった路線を模索していました。
 米国従属の姿勢を変え、在日米軍の撤退を視野に入れています。
 中国政策でも独自路線を歩もうとしています。
 「米国の虎の尾」である「米軍の撤退」と「中国との関係改善」に、ふたつとも手をつ
 けているのです。 

・1960年5月31日の米国の国家安全保障会議で、CIAの代表のアモリーは、
 「日本の一般国民は岸信介に対する信頼をうしなっている。自民党のライバルたちは岸
 の交代を望んでいる。彼らは安保条約に本質的に反対はしていない」と報告した。
・6月8日に米国の国家安全保障会議でCIA長官は、
 「日本のために望ましいのは岸信介が退陣し、できれば吉田に代わることだ」
 と述べた。
 
・「米が植民地支配をするときは、よくその国の少数派と手を組みます。これがセオリー
 です。主流派は、別に外国と手を組まなくても支配者になれるからです。
 でも少数派はちがいます。外国と手を結ぶことではじめて、国の中心に進出することが
 できるのです。 
・米国が岸首相を外して、池田首相に代えた理由はよくわかります。
 岸信介は戦後・A級戦犯容疑者という大きなハンディを背負って出発しましたが、もと
 もとだれもが認める次官候補であり、首相候補でした。
 一方、池田勇人首相は大蔵省の入省後もエリートコースとはまったく縁のない、完全な
 傍流にいた人物でした。
・実は吉田茂首相も同じような側面があります。
 外務省の後輩で9歳も年下の重光葵が先に外務大臣になっていることを見てもわかるよ
 うに、吉田茂もまた、つねにエリートコースを歩んだ人間ではありませんでした。

自民党と経済成長の時代
・池田首相の時代は、日本人の言葉に誠実に耳をかたむけた、「ライシャワー駐日大使
 の時代でもあったのです。
・ライシャワー大使は1960年代という日本の黄金期を、米国側から支えた人物です。
 彼が大使をつとめた60年代前半は、長い日米関係の歴史のなかでも異彩をはなってい
 ます。
 どこに特徴があるのでしょうか。
 それはライシャワー大使が使った言葉「イコール・パートナーシップ」にありました。
・ライシャワーの特徴は、「自分がもし日本人の立場だったら米国にどう要求するか」と
 考え、それが公平であれば、大使として実現のためにつとめたということではないかと
 思います。 
・米国外交の特徴は、米国が正しいと考えることを相手の国に実施させようとするところ
 があります。
 「米国は世界一素晴らしい国だ。だから世界が米国の価値観を受け入れれば、世界も米
 国米国のようにすぐれた国になる」という善意の信念があるからです。
 その意味で、日本の立場に立って考えるというライシャワー大使は、きわめてユニーク
 な存在でした。 
 それも当然かもしれません。ライシャワーはよく「ふたつの祖国」という意味を使いま
 した。そう、ライシャワーは日本で生まれているのです。
・ライシャワー大使の最大の功績は、1960年の安保闘争によってきわめて緊張したも
 のとなった日米関係に、安定を取り戻したことでしょう。
 さらに沖縄返還の糸口を作ったという大きな功績もあります。長期的な視点に立てば、
 それが米国にとっても国益にかなうと確信があったからでしょう。
・佐藤栄作首相は大変に慎重で、沖縄返還の要請を口にしようとしませんでした。
 保守派の人びとは、米国人の感情をそこなうのをおそれていたのです。
 岸信介なども非常に慎重でした。
・ライシャワー大使の働きかけにもかかわらず、日本側の慎重姿勢と、大統領がケネディ
 からジョンソンに代わったこともあり、ライシャワー大使在任中は沖縄返還問題は動き
 ませんでした。   
 しかしライシャワーの沖縄返還への動きは、1966年に大使を辞任したあとも続きま
 す。
・沖縄返還を主張した人は数多くいました。
 しかし、日米両政府が公式に協議するようにもっていったのは、どうもライシャワー氏
 だったようです。
 残念ながら日本の外務省でもなく、日本の政治家でもないのです。

・結局、池田内閣がかかげた「所得倍増計画」は、予想を上回るペースで進み、目標は佐
 藤政権時代の1969年に達成されました。
 この成功によって、日本では安全保障問題を棚上げにし、ひたすら経済成長をめざせば
 よいという路線が定着したのです。
・池田首相は東京オリンピックの開幕を翌月にひかえた1964年9月、喉頭がんの治療
 のため入院、閉会式の翌日に退陣を表明しました。
・1964年11月、佐藤栄作氏が首相の座につきます。
 翌1965年1月、佐藤首相は訪米します。
 佐藤首相とジョンソン大統領との会談は、たった2時間です。
 アイゼンハワー大統領と岸首相がゴルフをいっしょに楽しんだときと状況は一変してい
 ました。
・最大の理由は、ベトナム戦争に対する日本の態度でした。
 日本の消極的な姿勢に、ジョンソンは大きな不満を感じていたのです。
・米国の同盟国の多くはベトナムに自国軍を派遣していました。
 韓国はジョンソン大統領になってから、1964年に韓国軍の派遣を行ています。
 1965年には1万数千を派兵します。
 タイやフィリピン、オーストラリア、ニュージーランドもベトナムに派兵していました。
・ベトナム戦争に関して、ジョンソン大統領は、
 「こちらが援助を求めているのに、わが朋友はこぞって橋の下に逃げたり、洞窟のなか
 に隠れたりしているのか」
 と切り返し、ジョンソン大統領は佐藤に、
 「旗幟を鮮明に(show the flag)すべきときがきており、日本が苦境に
 陥れば、われわれは日本を防衛するために飛行機や爆弾を送る、アメリカはベトナムで
 苦境に立っており、問題はわれわれをいかに助けてくれるかだ」
 と述べた。
・ジョンソン大統領の発言は実に興味深いものです。
 「旗幟を鮮明に(show the flag)」は、その後、1991年の湾岸戦争
 で「日本が積極的に参加すべきだ」と米国が圧力をかけたときと同じ言葉です。
・「われわれは日本を守っているが、日本はなにをしてくれるのだ」という言葉もよく使
 われます。 
・今日こそ、日本は米国との関係を最優先し、米国とちがう立場をとることは、ほとんど
 考えられません。
 しかし、1960年代の外務省はちがったのです。
・1966年2月、朝日新聞は次のような「下田外務次官」の発言を報じています。
 「核を所有する国が自分のところは減らそうとせず、非核保有国に核を持たせまいとす
 るのはダメで、このような大国本位の条約に賛成することはできるはずがない。他国の
 核の傘に入りたいなどといったり、大国にあわれみをこうて、安全保障をはかることは
 考えるべきでないと私は考えている。現在の日本は米国と安全保障条約を結んでいるが、
 日本はまだ米国の傘のなかには入っていない」
 今日ではとても考えられない発言です。
・戦後、日本の経済関係が大きな格差をもっていたときでも、日本は米国に向かって、堂
 々と異なる意見をいっていた時代があったのです。
 今日のように100%属米でいいのか、それを考えるうえで貴重な糧を提供してくれる
 例だと思います。
・ジョンソン大統領は一期限りで引退し、1969年1月から大統領はニクソンに代わり
 ます。 
 ニクソン大統領はこのあと、ベドナム戦争の終結に動きます。
 もしベトナム戦争が終わるなら、沖縄の重要性は大幅に減少します。
・ニクソンは沖縄のことを、いつ爆発するかもしれない火薬庫だと評した。
・1969年1月、国家安全保障会議は対日関係の見直しを開始した。
 1969年3月、国家安全保障会議は、日本の要求を拒めば、琉球列島と日本本土の双
 方で基地をまったく失ってしまうことになるかもしれないと報告した。
・1970年には日米安保条約の10年間の固定期間が終わることになっていました。
 その後は1年ごとの自動延長が想定されていましたが、日本が延長を拒否してくる可能
 性もありました。  
 ですからこの時期、米国の対応はあきらかに柔軟になっていました。
・佐藤首相は1969年3月の参議院予算委員会で、沖縄返還については「核抜き・本土
 並み」を求めることを表明します。
・1969年6月、「愛知揆一」外相が訪米し、ニクソン大統領と会談して、
 「1972年中に返還、核抜き・本土並み」
 という日本側の基本的姿勢を伝えます。  
 米国も日本の条件を受け入れる方向で動きます。
・しかしこうして沖縄返還という大プロジェクトに突き進む両政府に、思わぬ難題が生ま
 れることになります。繊維問題です。
・ニクソン大統領にとって、繊維問題はきわめて重要な政治課題でした。
 外国製繊維の輸入を規制することは、南部の州にとっては生活のかかった重大問題だっ
 たのです。  
・ところが残念ながら在米日本大使館は、繊維問題がそれほど重要な政治的意味を持って
 いるとわかっていなかったようです。
 これがあとで佐藤首相の命とりになります。
 おそらく佐藤首相が、まだ若く外交経験もない政治学者、「若泉敬」氏を首脳会談の下
 交渉に使ったのが失敗につながったのでしょう。
・ニクソン大統領は核兵器を沖縄から撤去させることには合意します。
 問題は、米国が沖縄に核兵器を再び配備する必要があると判断したとき、どうするかで
 す。 
・ニクソン大統領は緊急時には沖縄に再び核兵器を持ち込めるとする秘密協定に佐藤首相
 が合意するよう求めます。
・1969年11月の首脳交渉で、ニクソン大統領と佐藤首相はふたつの密約を結んでい
 ます。ひとつは核兵器の持ち込みに関する密約、もうひとつは繊維に関する密約でした。
・このふたつの密約は、「キッシンジャー」と若泉敬のあいだですべてが決められました。
 首脳会談にニクソン大統領と佐藤首相がどういう話をするかまで決めていたのです。
 しかし、首脳会談のときには外務大臣や、大使も同席します。どうやって密約を結ぶの
 でしょうか。 
・まず核密約については、事前にキッシンジャーと若泉のあいだで合意文書を作っておき、
 それに会談の最期、ふたりの首脳が別室へ行ってこっそりサインするという形をとりま
 した。
・では、その密約の内容はどのようなものだったでしょうか。
 米国大統領
 「重大な事態が生じた際には、米国政府は日本と事前協議を行ったうえで、核兵器を沖
 縄に再び持ち込むことが認められることを必要とするであろう。かつ事前協議において
 は米国政府は好意的な回答を期待するものである」
 日本国総理
 「日本国は米国政府の必要を理解し、かかる事前協議には、遅滞なくそれらの必要を満
 たすであろう」
・一般にはあまり知られていませんが、この会談の二日目、繊維に関するもうひとつの密
 約(繊維密約)も結ばれています。
・核兵器の沖縄への持ち込みは「もし重大な事態が生じたとき」の問題でした。
 したがって日米間で問題になることがありませんでした。
 しかし、繊維は1970年1月1日から適用するという話です。
・悲劇は繊維交渉に担当となった宮沢通産大臣にふりかかります。
 宮沢通産大臣が1970年6月、渡米します。議題はもちろん繊維問題です。
・宮沢通産大臣が渡米することになったとき、昔からの親友のリードから電話があった。
 「スタンズ商務長官は総理大臣のところに一枚の紙がある。それを見てきてくれと言っ
 ている」   
・そこで宮沢が佐藤首相のところへ行って、
 「出かける前に、なにか紙があって、それを見てきてくれと先方は言っていますが、そ
 ういうものはありますか」
・佐藤首相は「そんなものは一切ない。心配しないで行ってきてくれ」といいます。
・渡米した宮沢がスタンズ商務長官と交渉していると、スタンズが一枚の紙を出します。
 「ここに一枚の紙がある。昨年のニクソン・佐藤会談で、できた紙だ」
・宮沢は「そんな紙はないと日本を出るときに確かめてある。だから自分は見ない」とい
 い、それを受けてスタンズは紙の内容を説明します。
・宮沢は「そんなものは知らない」といい、スタンズは「すでに合意はできている」とい
 います。
 この日は4時間にわたって、「ある、ない」を繰り返すだけでした。
・ニクソン大統領と佐藤首相の密約は、あくまでも密約です。
 「密約があるかないか」と迫られれば、「そんなものはない」と言わざるを得ません。
 しかし表の交渉で「ない」ということになっても、密約を結んだ事実は消えません。
 そしてその密約を、結局、佐藤首相は国内事情によって守ることができなかったのです。
・当然、ニクソン大統領は怒ります。同時にキッシンジャーも怒ります。
・キッシンジャーと若泉のあいだでは、核兵器についての合意はうまくいきました。
 ニクソンと佐藤が合意すればよかったからです。
 しかし、繊維問題になると繊維業界との合意が必要になります。もともと秘密外交では
 処理できない問題でした。ここから破綻が出てきます。
・その後、日本の繊維産業の代表者が、政府間の協定を必要としない3年間の輸出自主規
 制をニクソンの政敵であるミルズとのあいだで合意したと発表します。
・当然、ニクソンは激怒しました。
 さとうは約束を果たさなかっただけではありません。
 ニクソンが処理できなかった繊維問題を、3年間の自主規制とはいえ、政敵であるミル
 ズが解決することになったから大変です。
 繊維問題はたんある貿易問題ではありません。ニクソンにとっては、大統領選挙の公約
 ともいえる大問題だったのです。
・ニクソン大統領は、佐藤首相への報復第一弾を実行します。
 実はニクソンが、1971年7月突如、中国訪問計画を発表したとき、日本に事前通告
 しなかったのは、佐藤首相への報復だったのです。
・アメリカの戦後の対日政策のなかで、日本のパワーエリートをこれまで打ちのめした発
 表はない。
 それはやがて、外務省非難という形で日本国内にこだました。
 「こんな重大なことを、事前につかむことができないほど、外務省は無能なのか」
 誇り高かった外務省の威信は、この日、音をたてて崩れたのである。
・1971年8月15日、ニクソン大統領はわざわざこの日を選んで、ドルと金の交換
 (金兌換)を停止するという経済措置を発表しました。
 このころドルは金といつでも交換できたのです。
 そして、日本からの輸入品に10%の課徴金を課すことを合意したことを発表した。
・この当時、米国市場は日本の輸出の約30%を占めていました。
 大部分の輸入品に10%の課徴金を課すということになれば大変です。
・このようにニクソン大統領の報復は、1971年12月まで休むことなく続きました。
 そのひとつが尖閣諸島に対する米国の態度です。
 「ニクソン訪中のあと、尖閣諸島について国務省は日本の主張に対する支持を修正し、
 あいまいな態度をとるようになった。佐藤の推測によれば、ニクソンと毛沢東のあいだ
 で、なにかが話し合われたことを示すものだった」
・こうしてニクソンとの関係が決定的に悪化した佐藤首相は、1972年7月辞任します。
・それから30年以上たって、このとき密使として動いた若泉敬氏は、1996年7月に
 自殺します。
 自分の行なった返還交渉が沖縄の米軍基地の固定化につながったのではないかという後
 悔と、繊維密約の不履行から日米関係が悪化したことが大変な重荷になっていたのだと
 思います。 
・日本にはなにも教えない。独自に動けば脅す。
 これが日本の政財界が現在でも指南役として頼っているキッシンジャーの1971年か
 ら72年にかけての動きです。

・1980年、大平首相が総選挙の公示日に街道演説直後気分が悪くなり、二週間後に心
 不全で死去します。その後、「鈴木善幸」氏が首相となりました。
 鈴木首相については、
 「国際政治をなにもわかっていなかった」
 という評価が定着しています。
 その代表が中曽根氏で、彼は「田舎の村長だ」という言葉を引用しています。
・鈴木善幸氏は若き日に、「中野正剛」や「賀川豊彦」に傾倒します。
 みじめな生活苦にあえぐ東北の漁村、漁民を見て育ち、人道主義的な立場から、最初は
 社会党から選挙に出ています。 
・鈴木首相には「平和」という理念がつねに存在したと思います。
 つまり明確な哲学を持ち、勉強もしていた人でした。
 しかも自分の見解を対外的にしっかり発信しています。
 しかし、その哲学や見解は米国を望むものとはちがっていたのです。
・1979年に日米で開催された第五回下田会議で鈴木善幸氏は「アジアー日本の役割・
 アメリカの役割」という演説をして、次のことを述べています。
 第一:わが国の努力は、平和的手段のものに限られるということです。わが国として各
    国に対する軍事的協力はおこないません。この方針はアジア諸国も理解していま
    す。
 第二:わが国のなしうる最大の貢献は、経済社会開発と民生安定に通ずる各国の国づく
    りに対する協力です。
 第三:国づくりとともに、この地域の平和と安定のための政治的役割を果たしていくこ
    とが求められていると思います。
・非常にみごとだと思いませんか。
 よく鈴木首相に哲学がないという批判がありますが、このような立派な哲学があったの
 です。
・鈴木首相に就任直後に、「ワインバーガー国防長官」が来日し、防衛費の増額要請をし
 ましたが、鈴木首相は「それは賢明でない」と断っています。
・1981年5月、鈴木首相が訪米します。ここで問題が起こります。
 共同声明のなかにあった「日米同盟」という言葉が問題になったのです。
・この「日米同盟」という言葉は、すでに会談などでは使われていました。
 しかし共同声明には出てきたのは初めてです。
・鈴木首相は、
 「わが国の努力は、平和的手段のものに限られる。わが国として各国に対する軍事的な
 協力はおこないません」
 という考えを持っています。
 それなのに外務省と国防省の用意した文書には「日米同盟」という言葉が入っています。
 もちろん米国側の要望です。
 ところが外務省は鈴木首相が心配しないように、これは軍事的協力を目指すという意味
 の言葉ではないと説明します。
・こうした説明を受けていた鈴木首相は、記者会見で「同盟」という言葉が使われてから
 といって、軍事的側面について変化はないと発言します。
・これを新聞が、鈴木首相は「日米同盟に軍事的意味はないといった」と報じ、東京の外
 務次官も「同盟に軍事的意味がないという鈴木首相の発言はナンセンス」とコメントし
 ました。 
・帰国後、首相は官邸に「伊東正義」外務大臣と外務省幹部をまねいて善後策を協議しま
 す。そして「日米安保がある以上、軍事的な面があるのは当然だが、新たな軍事的な約
 束をしたのではない」という統一見解をまとめました。
・閣議で首相は外務省を批判し、鯨岡環境長官、渡辺蔵相がこれに同調します。
 それに不満だった伊藤外務大臣は辞表を提出します。
・この事件がきっかけとなり、鈴木首相は「安全保障問題についてまったく分からない首
 相」だというイメージが作られていきます。
・鈴木首相の記者会見での発言は確かに混乱をまねきました。
 しかしその裏で米国は、日本に十分説明しないまま、日本の海軍力をソ連との戦いに使
 う工作を進めていたのです。
・実は1970年代末から、ソ連はオホーツク海に原子力潜水艦を配備していました。
 このオホーツク海の海底にひそむ潜水艦からミサイルを発射し、8000キロメートル
 離れた米国本土を核攻撃することができるのです。
・潜水艦は海底にいますから簡単に発見できません。
 こうなると米国は、ソ連が米国本土を核攻撃することを防げないのです。
 それまでソ連は大陸間弾道弾を陸上に配備していました。
 それですと、どこに配備されているかを監視衛星などで見つけて、攻撃することができ
 たのです。 
・米国は、オホーツク海にひそむソ連の原子力潜水艦を攻撃する能力を、どうにかして持
 とうとします。
 そのとき、もっとも必要なのはこの潜水艦を見つける飛行機です。
 P3Cという機種(対潜哨戒機)がそうした機能を持っています。
 そこで日本にこのP3Cを大量に買わせ、オホーツク海にひそむ潜水艦を見つける役割
 を日本にやらせようとしたのです。 
・しかし、日本人に対してほんとうの事情を説明しても、日本が米ソの戦争に巻き込まれ
 るのではと恐れ、尻込みするだけです。
 そこで日本には「日本は中東から石油を輸入している。それを運ぶ航路、シーレーンを
 ソ連が攻撃する恐れがある。これを防ぐためにシーレーン防衛をすべきだ。そのために
 はP3Cを買う必要がある」と説明しました。
・日本政府はこの説明を受け入れ、シーレーン防衛という名目のもと、P3Cの購入に踏
 み切ります。
 だまされる日本が悪いのですが、米国はこのように日本をうまく利用して、オホーツク
 海にひそむソ連の潜水艦を見つけ出す能力を持たせたのです。
・だから、この時期に突然、「同盟」という言葉が首脳会議に出てきたわけです。
 しかし、鈴木首相は米国の真意がわかれば、この考えを受け入れないことが予想されま
 した。
 そこで鈴木首相に対し、「総理の器ではない」「暗愚の宰相」というキャンペーンがは
 られていったのでしょう。

・1982年11月、中曽根政権が発足します。
 中曽根首相は、すぐに訪米し、レーガン大統領と会談します。
 この訪米では首脳会議もさることながら、「浮沈空母」発言が注目されました。
・中曽根首相がワシントンに到着した翌日、ワシントン・ポストの社主「グラハム女史
 が自宅で朝食会を開きます。
・この朝食会で中曽根首相は次のような発言をします。
 「有事の際は、日本列島を適性外国航空機の侵入を許さないよう、周辺に高い壁を持っ
 た大きな船のようなものにする」
 この発言を通訳が「不沈空母」と意訳したというのです。
・日本の新聞や議会では「不沈空母」と言ったか、言わないかが議論されましたが、
 「不沈空母」はあくまで象徴的な表現です。
 中曽根首相は米国のなかに存在する対日不信を吹き飛ばすことを狙っています。
 その意味では「不沈空母」発言は、中曽根首相の思惑どおりの展開になりました。
・確かに中曽根首相は、レーガン大統領との個人的な親密さをアピールするなど、日米間
 の雰囲気を改善するために貢献しました。
 しかしそれは、非常に大きな代償を払ってのことだったのです。
・日本はその後、潜水艦を見つけるための対潜哨戒機P3Cを百機以上購入します。
 しかしこの巨額な出費は日本の防衛には直接関係ないものです。
 ソ連が日本を攻撃するときには、潜水艦ではなく、ソ連の陸上に配備された大陸間弾道
 ミサイル(ICBM)で攻撃してくるからです。これに対して日本は無防備です。
・一方、P3Cが発見すべき潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)は、日本向けではあり
 ません。米国向けです。
 日本は米国の本土防衛のために巨額のお金を使っていたのです。
・この問題はさらに危険な要素を持っていました。
 ソ連がオホーツク海に配備する潜水艦は米国本土を狙っています。
 その目的は、米国がソ連を攻撃した時に報復することです。
 だから米国としはこの報復能力をなんとかして排除したいと考えています。 
・米国がオホーツク海にひそむソ連の潜水艦を攻撃するとすれば、それは戦争の初期の段
 階です。つまり戦争の初期に日本のP3Cが戦闘に参加します。
 ということは、米ソ戦争の初期に、ソ連は日本に対して攻撃をしかけてくることになり
 ます。 
・このようにP3Cを大量に購入することは、たんにお金の問題ではなく、日本がとてつ
 もなく危険な道を選択したことを意味していたのです。
 しかし当時、日本のなかでこの事実に気づいた人はほとんどいませんでした。
・レーガン大統領は政治的にタカ派です。
 ソ連を「悪の帝国」と呼び、軍備拡張戦争をしかけました。
 ソ連はレーガンの軍備拡張路線に引き込まれ、結局経済がついていけず、国家の崩壊に
 つながったと考えられています。
 そのためレーガン大統領を「ソ連崩壊をもたらした強い指導者」として高い評価を与え
 る人がいます。
・しかし、レーガン時代の軍拡拡張路線は、米国の経済に大変な悪影響を与えました。
 また富裕層に対して減税をしたことから、巨額の財政赤字と累積債務が激増します。
 莫大な貿易赤字と財政赤字が並存し、「双子の赤字」と呼ばれる状況が生まれました。
 
・1985年ごろ、日本の半導体は米国よりも圧倒的に優位に立ちました。
 そこで米国からの激しい圧力により1986年9月に日米半導体協定が結ばれます。
 ここでは日本は米国から半導体を日本市場の20%以上買うことを約束させられたので
 す。
・売れるか売れないかは本来、買い手の企業が決めることです。
 それを、「日本政府は20%以上買うことを保障しろ」というのですから、もはや経済
 における自由競争の理念が放棄されています。
・しかし、米国はされに攻撃をかけてきます。
 通商法301条によって、パソコン、電動工具、カラーテレビの関税を100%に引き
 上げたのです。 
・これまでの秩序は「世界貿易をできるだけ自由にしましょう」というものです。
 米国がガット(GATT:関税貿易一般協定)で「これ以上関税は引きあげません」と
 約束しているのですから、明らかに国際的な約束への違反です。
・米国は歴史的に、国際的な約束より自国の決定が優位に立っていると考えてきた国です。
 国際的な約束を守ることが自分の国に有利な時には、国際的な約束を守ります。
 他の国にも守るよう圧力をかけます。
 しかし、自分の国が不利になると、国際的な約束を破って行動するところがあります。
 この半導体をめぐる摩擦は、まさにそうしたケースでした。

・日本の政治家のなかで、もっとも経済に通じた人はおそらく「宮沢喜一」氏でしょう。
 彼は著書のなかで、
 「日本の不良債権の問題をたどっていくと、どうしてもきっと、プラザ合意のところへ
 いくのだろうと思います」
 と述べています。
・「プラザ合意」とは、1985年9月、ニューヨークのプラザホテルで先進五カ国蔵相
 ・中央銀行総裁会議で決定された合意です。
 ここで円高にすることが決められたのです。
 それは円高にすることで、日本の商品が米国に大量に輸出されることを防ぐ措置でした。
・ここで問題があります。
 ひとつは、この円高がどこまで進むと日本側は予測していたのでしょうか。
 もうひとつは、それが日本の経済に深刻な影響を与えることをどこまで理解していたの
 でしょうか。  
・宮沢は著書のなかで次のように述べています。
 「後年になりまして、プラザ合意の時にどれくらいまでドルを下げるつもりだったのか
 関係者に聞いてみても、だれも確たる考えがあったわけではないらしいですね。2割く
 らいと思っていたのではないかと思います」
・このプラザ合意を実施したのは「ベーカー財務長官」です。
 1985年6月に東京に来て、中曽根首相と竹下大蔵大臣の合意を取り付けています。
・竹下大蔵大臣はこの問題が日本の貿易問題と関係していることは明確に認識しています。
 そして対米協力をする決意を固めています。
 この時期、竹下氏は首相になるためには、米国の支持が必要であることをはっきりと認
 識していました。 
・日本の経済界は激しい円高に悲鳴をあげます。
 確かに円はドルに対して高くなりました。しかし、アジアの通貨はそのままです。
 本来はドルを切り下げればいいだけの話でした。
・ところがレーガン大統領は「ドルを切り下げると国民の指示を失う」と考え、同じこと
 ですが、「主要非ドル通貨の上昇」を求めたのです。
・しかし、「主要非ドル通貨」でないアジアの国々の通貨はそのままだったため、このと
 きから日本製品はアジア各国の製品に対して競争力を失います。
 中国、韓国が優位に立ち、日本の企業もどんどんASEAN諸国などに進出します。
 そのため日本経済の空洞化が始まったのです。
 
・1980年代、日本経済の繁栄は最高の水準に達していました。
 世界の金融機関のベスト10ランキングに、1990年時点で、日本の銀行は7行入っ
 ていました。
 では、それから約20年経過した2009年、世界の金融機関ベスト10はどうなって
 いるでしょう。
 かろうじて9位に三菱UFJファイナンシャルグループが入っているだけです。
 見事なまでの凋落です。
 なぜこのような事態が起こったのでしょう。
・さまざまな理由があります。
 しかしもっとも重要な要因として、いわゆるBIS規制があります。
 1988年、国際決済銀行が銀行の自己資本比率に関する規制を決めました。
 BIS規制では、総リスク資産に対して自己資本比率8%を持ちなさいと決めたのです。
 「もし、自己資本比率が8%に達しない銀行があるなら、国際業務から撤退してくださ
 い」
 と決めました。
・当時日本の企業にはあまり倒産という事態は起きておらず、日本の銀行は貸し出したお
 金に対する自己資本の比率が低くなったのです。8%はとてもありませんでした。
・ではなぜ、自己資本比率が8%に達しない銀行は国際業務から撤退しなければならない
 という決定が、突如行われたのでしょうか。
 それはこの当時、高騰下日本の土地を担保にした日本の銀行の貸付能力に、すざまじい
 ものがあったからです。  
 米国はそれに不安を感じ、対抗手段を考えたのです。
・1987年7月、ボルカーFRB議長は、
 「自己資本比率規制に関する合意は、日本の銀行との競争力において、アメリカの銀行
 が不利な立場にあると考える多くのアメリカの銀行の懸念を和らげるものになるだろう」
 と述べています。
 つまりBIS規制には、日本の銀行の競争力を弱める狙いがあったのです。
 当然、日本経済と日本の銀行は大きな打撃を受けることになります。
・貸し出しに対して自己資本を高めるにはふたつの方法があります。
 ひとつは貸し出し額を減らすことです。
 そのために日本の銀行は貸し渋り、貸し剥がしが起こります。
 当然企業の活動は停滞します。
 企業の活動が不振になると、貸し出しは不良債権になります。
・もうひとつの自己資本を高める方法は、自己資本そのものを増やすことです。
 そのため銀行は新たな株式を発行しました。
 ところがその結果、大量の新規発行株式が市場に出まわります。
 株式にまわるお金にはかぎりがありますので、既存の株式にお金がまわらず値下がりし
 ます。 
 そうすると銀行が持っている株式の評価が下がり、自己資本比率も低下することになり
 ます。
・こうして日本の銀行はBIS規制を守ろうとした結果、みずからの経営の悪化と、日本
 経済の悪化をまくことになったのです。

・1987年11月、竹下内閣が発足しました。
 竹下内閣がもっとも力を注いだのは消費税の導入です。
 ですから日米関係をどうするかという問題は、竹下内閣では重要度が低かったと思いま
 す。
・1980年代、米国は日本に対して「バードンシェアリング(役割分担)」を求めてき
 ました。
 そのなかで米国は経済的な側面だけでなく、「防衛責任の増強」も求めてきたのです。
 それに対し、鈴木首相は反対しています。
 中曽根首相はみずから「防衛責任の増強」を行なうと表明しました。
・では、竹下首相はどうだったのでしょう。
 中曽根首相と同じように、「防衛責任の増強」に積極的だったと思われるかもしれませ
 ん。でもちがうのです。
・ブッシュ大統領になってから明確に役割分担が求められた。
 ただ、バードンシェアリング(役割分担)の意味については若干の認識の相違が日米間
 にあったようだ。
 米国側は、日本の貢献策として防衛責任の増強をあげている。
 これに対して竹下は、バードンシェアリングにミリタリー(軍事分野)は含まないとい
 うことをずっと言い続けてきたことだ。
・レーガン政権時の1988年6月、竹下首相は国連軍縮会議で演説をします。
 ここで竹下首相は、核実験の監視と査察を強化する制度の設立をめざす「日本会議」を
 提唱します。 
 そして「日本が二度と軍事大国にならないこと」と「非核三原則を国是として堅持する
 こと」を表明します。
・竹下首相は記者会見を行ない、具体的な人的貢献について、
 「軍事的な分野に人を出す考えはまったくない。ミリタリー(軍事的)な分野はない」
 と述べています。
・米国は軍事的貢献をしない竹下首相を望ましい首相とは思ってなかったでしょう。
 そうしたなか、
 「リクルート事件」が発生します。この事件も非常に不思議な事件です。
・リクルートから未公開株を受取った議員の名が多数報道されます。 
 宮沢喜一蔵相もそのなかのひとりです。
 宮沢蔵相はこれが原因で辞任します。
 そして最終的にこの事件は竹下首相の辞任につながりました。
・ロッキード事件に疑念を持っている田原総一郎氏は、リクルート事件についても著書で
 検察の作った犯罪だったと書いています。
  
冷戦終結と米国の変容
・冷戦が終結した1991年ごろ、米国民はどの国が米国にとって最大の脅威だと思って
 いたでしょうか。
 ソ連でしょうか。ソ連は崩壊寸前です。
 中国でしょうか。中国の経済はまだそんなに発展していません。
 日本だったのです。
 一般人と指導者層で、ともに日本の経済力が、ダントツで死活的脅威とされていたので
 す。
・こうした状況のなかで米国の考えるべき問題は次のふたつです。 
 ひとつは「ソ連が崩壊したあとも、われわれは強大な軍事力を維持する必要があるだろ
 うか。もし維持しようとした場合、国民の支持が得られるだろうか」という問題です。
 もうひとつは「日本の経済力にどうやって対抗するか」という問題です。
・「米国の成長率の低下と、巨額の防衛支出との関係に注目する必要がある。日本が非常
 に少ない金額しか防衛支出に向けないとすれば、米国の競争相手である日本は、米国よ
 りもはるかに多くの資金を民間の投資へ向けることができる」
 と「ポール・ケネディ」は軍事産業から民間の需要を中心とした経済への切り替えを主
 張します。 
・しかし結局は、「米国の軍事力は世界最強になったのだ。これからもそれを維持すべき
 だ」という議論が勝利をおさめたのです。
・代表的な意見は、当時総合参謀本部議長の「コリン・パウエル」です。
 「米国ほど力をもつ国は他に存在しない。他の国から力を行使することを期待されるの
 は米国だけだ。われわれはリーダーシップをとることを義務づけられている」
・しかしソ連が崩壊したのです。具体的な脅威がなければ、米国民は「予算を削減しろ」
 というに決まっている。
 軍事力を維持するには、たにか米国への脅威が必要となるのです。
 ここでイラク・イラン・北朝鮮という「ならず者国家」の存在がクローズアップされま
 す。 
・ではそうした米国の世界戦略のなかで、日本のあつかいはどうなるでしょう。
 ここで米国は日本について考えることは、ふたつあります。
 ひとつは台頭する日本の経済力をどう対応するか。
 もうひとつは新しい軍事戦略のなかに日本をどうあつかうかです。
・米国は今後も世界に大規模な軍事作戦を展開していくつもりです。
 もし日本がこの枠外にいて、ただ経済に専念した国になると、日本の経済力が強くなり
 すぎてしまいます。 
 その結果、日本をどう米国の軍事戦略に組み込み、お金を使わせるかが重要な課題とな
 りました。
 ここから「日米同盟の強化をはかり。そのために同盟国である日本の貢献を必要とする」
 という方針が出てきたのです。
 
・1990年8月、サダム・フセインがクウエートに侵攻しました。
 このとき日本は「海部俊樹」首相、「小沢一郎」自民党幹事長という体制でした。
・ブッシュ(父)政権はこの戦争のために協力を日本に求めてきました。
・結局、1991年1月に始まった湾岸戦争のために、日本は130億ドルの資金協力を
 行いました。
 なんの積算根拠もないままに、10億ドル、また10億ドル、次は90億ドルと、巨額
 な資金をただ言われるままに出していったのです。
・しかしその次は、「お金だけではダメだ。人的貢献(自衛隊の派遣)がどうしても必要
 だ」という空気が支配的になります。
・問題は、日本が自衛隊を派遣しなかったことが本当に国際的非難を浴びていたかという
 点です。
 国際的に評価されなかったことの証しとしてよく引用されるのが、クウェートが戦後米
 国の有力紙に掲載した感謝広告である。
 感謝対象国に日本が入っていなかった問題だが、あの直後、真意をたずねた黒川大使に
 対し、クウェート外務省は、あれは本国政府が指示したものではなく、現地が十分考え
 ることもせず新聞にのせてしまったものだと釈明したという。
・クウェートは戦後発行した開放記念切手シートに日の丸を入れており、戦争記念館には
 日本国旗を掲載し、日本の貢献の数字(130億ドル)で説明する特設パネルを展示し
 ている。 
・ではどうして、そういう話が日本の政界やメディアに広まったのでしょう。
 それは当時の「アマコスト駐日大使」が日本の各層に、「人的貢献がどうしても必要だ」
 と説いてまわったからです。
 「湾岸危機はまた、国際貢献について日本に大きな自省をせまった。日本は国際貢献を
 財政的貢献に限定すべきではないという外国からの批判は、徐々に日本人自身にも浸透
 した」
 アマコストなどお工作が成功したのである。
 
・1993年8月、細川連立政権が誕生します。
 この政権はなんと38年ぶりに誕生した非自民党政権でした。
・細川首相は防衛問題懇談会を立ち上げます。
 この懇談会の実質的責任者は「西廣整輝」元防衛次官です。
 また、表には出ませんでしたが、実質的にとりしきっていたのは「畠山蕃」防衛次官で
 した。 
・この懇談会の最終報告書は、次の村山政権時代になって発表されました。
 その第三には「新たな時代における防衛力のあり方」という表題がついています。
 ここで「冷戦時的防衛戦略から多角的安全保障戦略へ」として第一節で「多角的安全保
 障協力のための防衛力の役割」が検討されています。
 つづいて第二節が「日米安全保障協力関係の充実」となっています。
 「多角的安全保障」のほうが、「日米安全保障」の前にきているのです・
 これは大転換です。当然、米国はこの動きに警戒します。
・さらに、38年ぶりに非自民党政権を率いる細川首相の動きも過去と異なります。
 過去の歴代首相たちは、日米間に摩擦がある場合、それを極力回避しようとしました。
 しかし細川首相は対立があることをそのまま受け取り、これをなんとか回避しようとす
 る動きは示していません。 
 この動きも米国は警戒しました。
 ここから細川政権つぶしの動きが出てきます。
・まず最初に、米国は連立内閣の要である「武村官房長官」について、
 「北朝鮮に近すぎるから、彼を切るように」
 という指示を出しています。
 これを受けて細川首相は、一時、女房役の武村官房長官のクビを切る決意をします。
・しかし、細川首相が佐川急便から借入金返済疑惑を野党自民党から追及され、武村長官
 を切る前に自分が辞任してしまいます。
・日米安保よりも「多角的安全保障」を優先した防衛問題懇談会の西廣整輝氏は1995
 年12月にガンで死亡しました。
・もうひとりの重要人物の畠山蕃も1994年10月にガンで防衛医大に入院し、翌95
 年6月に58歳で死亡しました。
・元CIA長官コルビーは、
 「国家は自国を守るためには武力を使うことも許されている。そこまでいかない裏工作
 は当然許されると著書に書いていました。
・そしてついにそれと同じ論理が、「軍事安全保障」の分野だけでなく、「経済安全保障」
 の分野についても適用されることになったのです。
 しかもその対象となったのが、日本だったのです・
・冷戦時代、米国の敵はソ連でした。
 しかし1990年代初頭になり、日本が米国の経済をおびやかす敵として、CIAから
 位置づけられることになったのです。  
・1980年代末から90年代はじめにかけて、さまざまな名前の日米経済交渉が行われ
 ました。
 たとえば「日米構造協議」や、「日米包括経済協議」といった経済交渉です。
・米国の目的は明確です。
 もはや交渉内容は貿易だけではありません。
 日本の国内市場のあり方そのものについて注文をつけてくるようになったのです。
 日本国内の金融、保険といったサービス分野の市場を開放することや、両国の貯蓄、投
 資パターンや、市場・産業構造問題が検討項目となりました。
 日本の社会システムそのものを変更させて、米国企業が利益を得られるようにする。
・いまの日本政府や官僚はまったくTPPに反対せず、むしろ推進の旗をふっていますが、
 このときの日本の首相と官僚はちがいます。はげしく抵抗したのです。
・1990年代に入り、米国は「同盟国に公平さを求めれば、米国自体が繁栄する」とい
 う時代ではなくなりました。  
 米国は露骨に自己の利益をゴリ押しするようになり、それを黙って受け入れる相手国の
 首相が必要になってきたのです。
 米国にとって理知的な首相はもう不要になり、ことの是非は判断せず、米国の言い分を
 そのまま受け入れる首相が必要になったのです。
・結局宮沢首相は、内閣不信任案が可決され、解散後の総選挙で過半数を大きく割り込み、
 総辞職しています。
・その後は、従来路線をとらない細川首相が登場しますが、わずか9カ月で辞任してしま
 いました。
・官僚の抵抗はどうだったでしょうか。官僚たちは当然抵抗します。
 その結果、米国側は日本の官僚制そのものを壊すことを考えるようになります。
 元駐日大使アマコストは90年代半ばに次のように述べています。
 「政治環境から見て、これまでより規制緩和がしやすくなったのに、現実の前進はまこ
 とに微々たるものである。その理由を求めるのはむずかしくない。もっとも巧妙かつ執
 拗な抵抗は、他ならぬ官僚機構によるものである。
 日本の経済と政府を牛耳ることを許している規制制度を抜本的に変えようという動機は、
 官僚側にはほとんどない」
・このアマコストの発言は実に興味深いものです。
 つまり90便代半ばには政治家レベルの抵抗は少なくなったということです。
 だからあとは抵抗を続ける官僚機構をつぶせば、米国の思うようになるというのが、ア
 マコストの考えです。
・こうしたアマコストの考えに応じるかのように、日本国内では官僚たたきが激しくなり
 ました。  
 1999年に起こった「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」といわれる大蔵省接待汚職事件は
 その典型でした。
 この事件が大きく報道された結果、官僚イコール悪というイメージが国民のあいだに定
 着し、省庁再編で大蔵省は分割されてしまったのです。
・振り返ってみると戦後の日本社会では、かろうじて官僚機構が「シンクタンク」の機能
 を果たしてきてといえるでしょう。
 政治家は選挙区へのサービスと政争に明け暮れています。
 学者は学会という身内の組織に閉じこもるか、たんなる御用学者となっています。
 ジャーナリズムも権力の一部になることに安住しています。
 わずかに残っていたシンクタンクとしての官僚機構を崩壊させられた日本は、国家戦略
 を考える組織が完全に消滅してしまったのです。
・1996年1月、村山首相の退陣を受けて連立政権をひきついだのは「橋本龍太郎」氏
 です。
 ですから、米国は橋下龍太郎首相を大事にしてもよいはずなのですが、そうはなりませ
 んでした。
 米国は橋本氏に対し、ふたつの懸念を持っていたからです。
 ひとつは中国問題で、もうひとつは金融問題でした。
・1989年6月、天安門広場に民主化を求めて終結した市民のデモ隊に対し、中国人民
 解放軍が攻撃し、多数の死傷者を出しました。「天安門事件」です。 
・西側諸国はこれに抗議し、閣僚クラスの交流を停止しています。
 こうしたなかで橋本氏は1991年、西側の閣僚(当時大蔵大臣)として最初の中国訪
 問を行ないます。
 これをきっかけに橋本氏は中国とのあいだに親密な関係を築くことになりました。
・一方、1996年2月、橋本首相は日米首脳会議で普天間飛行場の返還を要求しました。
 翌1997年6月には、ニューヨークの講演で、「何回か、日本政府が持っている米国
 債を大幅に売りたいとの誘惑がかられたことがある」と発言し、翌日ニューヨーク株式
 市場が大きく株価を下げました。
 こういうことがあったため、米国は橋本首相を警戒していたのです。
・そうしたなか、「クリントン大統領」の女性問題が浮上します。
 1996年1月、クリントン大統領がホワイトハウス内で実習生の「モニカ・ルインス
 キー
」と性的関係をもったのではないかと報道されました。
・すぐに議会で共和党が攻撃を開始します。
 弾劾裁判が開かされそうな状況になりました。
・同じ時期、共和党がイラクは大量破壊兵器を持っているとして、クリントン大統領にイ
 ラク攻撃をするように圧力をかけ始めました。
 イラクを攻撃すれば大統領弾劾をしないという話も出てきました。
・クリントン大統領はイラク攻撃に傾きます。
 自分の地位を救うためには仕方ありません。
・このとき、橋本首相はクリントン大統領に親書を送り、長野五輪開催中の武力行使の自
 粛を求めたのです。  
 これにクリントン大統領は激怒します。
 同年6月、クリントン大統領はこえみよがしに中国を訪問し、米中間の親密な関係を誇
 示します。
 同年7月の参議院選挙で自民党が惨敗し、橋本首相は退陣しました。
・クリントン大統領と橋本首相の関係は、結局橋本首相が退陣するまで改善することはあ
 りませんでした。 
 当然その後をついだ小渕首相と森首相はふたりとも、悪化した日米関係を立て直したい
 と思っていたはずです。
 しかし、クリントン大統領は日本に対する関心を失っていました。
 
9.11とイラク戦争後の世界
・2001年9月1日、アメリカン航空11便がニューヨーク世界貿易センターの超高層
 ビルであるツインタワー北棟に突入し、爆発炎上しました。
 次いで、ユナイテッド航空175便はツインタワー南棟に突入し、爆発炎上しました。
・この同時多発テロ事件で約3000人の犠牲者が出ました。
 このことにより米国内の空気は一変し、怒りと報復の機運が高まります。
 その結果、2001年10月にアフガニスタン戦争が開始され、2年後の2003年3
 月にはイラク戦争が開始されました。
 しかし、このふたつの戦争とも、正当化できる戦争だったか非常に疑問です。
・まずアフガニスタン戦争ですが、同時多発テロ発生後、すぐに犯行はテロ組織アルカイ
 ダによるものと報道されました。  
 一方、当時アフガニスタンを統治していたのはタリバンという勢力で、彼らは民衆から
 一定の支持を得ており、決して単なるテロ組織ではありません。
 ところが米国はアフガニスタン国内にいるアルカイダ指導者の引き渡しを求め、タリバ
 ンがそれに応じなかったとして、アフガニスタン戦争に踏み切ったのです。
・戦闘は2カ月ほどの短期間で終結しタリバン政権は崩壊しました。
 戦争は、本来ここで終わるはずでした。
 けれども米国はタリバンのメンバーがアフガニスタンに少しでも残っていると、いつま
 たアルカイダがアフガニスタンを根拠地にするかわからないとして、タリバンの撲滅を
 めざします。 
・一方、イラク戦争は、次の理由で開始されました。
 @イラクは大量破壊兵器を大量に持っている。これはイラクが他国を攻撃しようとして
  いるからで、それが使用される前に破壊しなければならない。
 Aイラクはアルカイダと協力関係にある。
・しかし、2004年には米国の公的機関が、@もAも否定しました。
 そして2011年12月、米軍はイラクから完全撤退しました。
 イラク戦争とは、いったいなんのための戦争だったのか問われています。
・日本は2003年12月から2009年2月まで、自衛隊をイラクに派遣しました。
 イラクの国家再建を支援することが目的でした。
 しかし、いくら任務が人道復興支援だといっても、その活動は米国のイラク戦争に含ま
 れています。  
 米国は戦闘によって反米勢力を打倒するとともに、支配地域で人道復興支援を行ない、
 イラクの民衆の支持を得ることをめざしていたからです。
 つまり日本はこのとき、ついに米国が世界中で展開する「米国の戦争」に自衛隊を参加
 させてしまったのです。  
・私は20202003年、間接的な形でイラク戦争を批判した。
 「アメリカはイラク問題では、仏、独の反対にあい、国際世論に抗する形で武力行使に
 踏み切った。
 イラクの国内状況をみれば、攻撃後も一気に民主体制は確立されず、中東が不安定化す
 るような形で武力行使に踏み切った。
 いまイラクをめぐり、米英首脳対仏独首脳の対立がある。
 それはフセイン大統領とイラクの大量破壊兵器の危険性についての判断をめぐっての対
 立である」
・「山内昌之」東大教授は
 「われわれの姿勢が独仏と異なるのは当然である」
 と主張し、
・「椎名素夫」参議院議員は、
 「日本に反米を掲げる贅沢は許されない」
 と主張しています。
・「山崎正和」氏は、
 「一極体制(米国中心)は少なくとも多極体制や二極体制よりもましな体制だと考えら
 れる」 
 と主張していました。
・「北岡伸一」東大教授も、
 「日米安保を基軸とした「国連重視」へ。私は国連中心主義には反対である。イラクは
 化学兵器と生物兵器を保有しているだろう。問題はどうやってイラクの大量破壊兵器を
 破棄させるかである」
 と主張しています。
・私のイラク戦争への批判は、「中央公論」に掲載可能なラインを意識して、間接的に批
 判したものでした。
 私は中央公論社から毎年2,3本の論評を掲載しますといわれていたのです。
 しかし2003年5月の間接的な批判ですら受け入れられなかったのでしょう。
 このあと中央公論からの論評はなくなりました。
・たとえ正論でも、群れなら離れて論陣を張れば干される。
 大きくまちがっても群れのなかで論を述べれば、つねに主流を歩める。
 そして群れのなかにいさえすれば、いくらまちがった発言をしても、あとで検証される
 ことはない。 
 これが日本の言論界です。

・1998年8月、北朝鮮がテポドン・ミサイルを発射し、それが日本列島を飛び越えて
 三陸沖に着弾しました。
 日本国内には大変な緊張が走りました。
 しかしその直後、クリントン政権は北朝鮮への融和政策を発表しています。
・2001年1月、ブッシュ(子)大統領が登場しました。その3カ月後日本で小泉純一
 郎
首相が誕生します。
・ブッシュ大統領は2002年1月、一般教書演説で
 「北朝鮮は、自国民を飢えさせる一方で、ミサイルや大量破壊兵器で武装している政権
 である」   
 と述べました。そして北朝鮮に対しては
 「きびしくのぞむしかない」
 という政策を固めています。
 米国の同盟国に対しても、この路線に従うことを求めました。
・ところがこの警告にもかかわらず、小泉首相は2002年9月、北朝鮮を訪問します。
 そして「日朝平壌宣言」を発表します。
 そのなかには、
 「国交正常化交渉を再会する」 
 「国交正常化の後、経済協力を実施」
 などの言葉が含まれていました。
 一方、米国が関心のある核開発問題については、
 「核問題の解決のため、すべての国際的合意を順守する」
 とだけ書かれています。
・この首脳会議の直線、拉致被害者について、
 「5人生存、8人死亡」
 という衝撃的な内容が伝えられます。
・平壌宣言などは結ばず帰国すべきだという強硬意見も、安倍晋三・内閣官房副長官など
 のなかから出ました。   
・一方、金正日総書記は
 「拉致問題に関して謝罪するとともに、二度とこういう事件は起きない」
 と述べました。
・米国は核開発問題で進展がないなか、日本が国交回復をめざして動き出したことに烈火
 のごとく怒ります。
・小泉・ブッシュの友情は、キャンプ・デービット山荘の出会いから始まった。
 だが、この日の小泉・ブッシュ会談はどこか冷たい感じが否めない。
 ブッシュ大統領の表情も心なしか硬かった。
 小泉は冒頭で訪朝にふれ、ブッシュ大統領の理解を求めた。
 このときブッシュは、隣に座っていたパウエル国務長官に冷ややかな視線を投げた。
 君が応答しろ、と無言で促したのだ。
 パウエルが大統領の意を察して引きとった。
 「われわれは、北朝鮮が核開発をいまだにあきらめていない証拠を握っています」
 毅然として物言いだった。大統領は表情を動かさない。ひんやりした空気が流れた。
・これ以降、小泉首相は歴代のどの首相よりも米国への追随姿勢を鮮明に打ち出していく
 ことになります。

・小泉政権の看板政策は「郵政の民営化」でした。
・1951年6月、GHQは対日援助削減を発表し、財政支援は打ち切られます。
 しかしその後も日本が行うべきことは数かぎりなくありました。
 電源開発、造船、石炭、鉄鋼などの近代化が必要です。
 道路、鉄道、電気、教育、福祉、住宅などの公共投資も必要です。
 けれどもそうした分野は、通常のマーケット・メカニズムでは対応しきれません。
 投下する資本が大きすぎるからです。
 しかも回収までに長い時間がかかりますし、事業のリスクも大きいうえ、収益性も低い。
・そこでこうした問題に対応するために財政投融資制度ができました。
 まず国民が税金のほかに、郵便局をとおして貯金や保険金を政府にあずけます。
 政府はこの資金を国鉄や住宅公団、中小公庫、日本開発銀行、道路公団などに出資しま
 した。 
 そして資金を得た公団などが事情を展開したのです。
・1950年代後半に、日本型財政投融資システムをひとつのテコとして、経済基盤を確
 立しました。 
 つまり戦後の日本経済は、経済成長と同時に弱者保護をあわせて追求してきたのです。
・もちろん現在では社会環境が大きくちがっています・
 しかし、それでもまだ社会全体からみると、マーケット・メカニズムでは対応しきれな
 い、投下資金が大きすぎる、収益性の低いという、政府が充実させるべき分野があるは
 ずです。 
・ところが小泉政権はそうした郵便貯金の役割を全否定し、
 「競争を最優先する」
 「弱者切り捨てにする」
 という米国型社会システムの導入をめざしたのです。
・そもそも郵便貯金が存続しているかぎり、そのお金はたとえ無駄な公共事業でも、基本
 的には国内で使われ国民をうるおします。
 ところが郵便局が普通の銀行のようになると、その資金はどこにまわるでしょうか。
 銀行と同じように、米国債を買うことになります。
  
・洞爺湖サミットは2008年7月に開かれています。
 このとき、ブッシュ大統領と「福田康夫」首相のあいだに相当の緊張が存在していたの
 です。
 ブッシュ大統領は福田首相にアフガンへ陸上自衛隊の派遣を要求していたのです。
 しかし福田首相は「陸上自衛隊の大規模派遣は不可能」と返答していたのです。
 それだけではありません。福田首相は金融面でも米国の要請を拒否していた可能性が高
 いのです。
・2008年、米国で金融危機が発生します。米政府系の住宅金融機関二社が経営危機を
 むかえていました。
 このうち、ファニーメイ社が巨額の損失を出し、ニューヨーク証券取引所への上場が廃
 止されています。 
 このファニーメイ社が経営危機をむかえたとき、日本に融資の依頼がきていたのです。
・日本政府は外貨準備を使って両社の支援を検討していた。
 入札不調に終わる懸念のあった二社の社債数兆円を、日本政府が買い支える計画だった。
・当時の伊吹財務相が慎重論を主張し、9月に福田首相の退陣表明で政府が機能不全に陥
 ったため、実現はしなかったといわれています。  
・日本政府がファニーメイ社に融資していれば、なんと数兆円ものお金をドブに捨てるよ
 うなものでした。
・福田首相は辞任会見で、「国民生活のために新しい布陣で政権実現を期してもらいたい」
 とのべています。
 多くの日本人には、この説明は意味不明でした。
 ですからみな、急に政権を投げ出した福田首相を非難しました。
・しかし、おそらく福田首相は自分の首と、自衛隊の海外派遣おとび数兆円の資金提供を
 引きかえにしたのでしょう。 
・2009年8月、衆議院総選挙で民主党が大勝し、鳩山由紀夫首相が政権の座につきま
 す。
 民主党は選挙前にマニフェストで新しい政策を打ち出していました。
 @日米地位協定の改定を求め、米軍再編や在日米軍基地のあり方についても見直しの方
  向で米国と交渉する。
 A東アジア共同体の構築をめざし、アジア外交を強化する。
・このふたつの政策がきわめて危険な要素を含んでいることは理解されると思います。
・鳩山由紀夫民主党代表は2009年の夏に行われた衆議ヒ選挙で、普天間米軍基地の移
 設先は「最低でも県外」にすると明言しました。
 このあと鳩山首相にとって、普天間問題が政権を揺るがす大問題となっていきます。
・米国は早い段階から、この鳩山首相の「最低でも県外移転」に反対を表明しました。
・民主党では、北沢防衛大臣、岡田外務大臣が「県外移転はむずかしい」と表明します。
 外務省、防衛省の閣僚たちも、なにもしようとしません。
・結局、鳩山首相はその年の5月、沖縄を訪問して仲井眞知事と会談し、「日米同盟の関
 係のなかで抑止力を維持する必要がある」とのべ、県外移設を断念した。
 そして支持率の急落を受け、2010年6月、
 「国民は聞く耳をもたなくなってしまった」
 といって首相を辞任します。
・鳩山首相が「最低でも県外移転」といったことに対して、政府内のだれも鳩山首相のた
 めに動こうとしませんでした。
 首相が選挙前に行った公約を実現しようとしているのに、外務省も防衛省も官邸も、だ
 れも動こうとしなかったのです。
 異常な事態が起こっていました。
 日本の政府が首相ではなく、米国の意向にそって動くという状態が定着していたのです。
 残念ながら、日本のマスコミはこの点をまってく報道しませんでした。
 
あとがき
・「戦後史の正体」を書いたことで、私が確認できた重要なポイントは次の3点です。
 @米国の対日政策は、あくまでも米国の利益のためにあります。日本の利益とつねに一
  致しているわけではありません。
 A米国の対日政策は、米国の環境の変化によって大きく変わります。
 B米国は自分の利益にもとづいて日本にさまざまな要求をします。
・戦後の首相たちを「自主」と「対米追随」という観点から分類すると次のようになりま
 す。  
 (1)自主派(積極的に現状を変えようと米国に働きかけた人たち)
   ・重光葵(軍事植民地化政策を阻止。米軍完全撤退案を米国に示す)
   ・石橋湛山(膨大な米軍駐留経費削減を求める)
   ・芦田均(米国に米軍の「有事駐留」案を示す)
   ・岸信介(従属色の強い旧安保条約を改定。行政(地位)協定の見直し試みる)
   ・鳩山一郎(米国が敵視するソ連との国交回復を実現)
   ・佐藤栄作(沖縄返還を実現)
   ・田中角栄(米国の強い反対を押し切って日中国交回復を実現)
   ・福田武夫(米国一辺倒でない外交を展開)
   ・宮沢喜一(クリントン大統領に対して対等以上の態度で交渉)
   ・細川護熙(日米同盟よりも多角的安全保障を重視)
   ・鳩山由紀夫(普天間基地の県外、国外への移設と東アジア共同体を提唱)
   
 (2)対米追随派(米国に従い、その信頼を得ることで国益を最大化)
   ・吉田茂(きわめて強い対米従属路線をとる)
   ・池田勇人(安全保障問題を封印し、経済に特化)
   ・三木武夫(米国が嫌った田中角栄を裁判で有罪にするため特別な行動をとる)
   ・中曾根康弘(「日本は不沈空母になる」と発言。経済面ではプラザ合意)
   ・小泉純一郎(米国要請により自衛隊の海外派遣)
 (3)一部抵抗派(特定の問題について米国からの圧力に抵抗)
   ・鈴木善幸(米国からの防衛費増額要請を拒否。米国との軍事協力を否定)
   ・竹下登(米国からの世界的規模での自衛隊協力要請に抵抗)
   ・橋下龍太郎(長野五輪中の米軍の武力行使自粛を要求)
   ・福田康夫(アフガンへの陸上自衛隊の大規模派遣要求を拒否)
   
・ここで指摘しておきたいのは、占領期以降、日本社会のなかに「自主派」の首相をひき
 ずりおろし、「対米追随派」にすげかえるためのシステムが埋め込まれているというこ
 とです。
・ひとつは検察です。
 なかでも特捜部はしばしば政治家を起訴してきました。
 この特捜部の前身はGHQの指揮下にあった「隠匿退蔵物資事件捜査部」です。
 終戦直後、日本人が隠した「お宝」を探し出しGHQに差し出すのがその役目でした。
 したがって検察特捜部は、創設当初からどの組織よりも米国と密接な関係を維持してき
 ました。
・次に報道です。
 米国は政治を運営するなかでマスコミの役割を強く認識しています。
 占領期から今日まで、米国は日本の大手マスコミのなかに、「米国と特別な関係を持つ
 人びと」を育成してきました。
 さらに外務省、防衛省、財務省、大学などのなかにも、「米国と特別な関係を持つ人び
 と」が育成されています。
・自主派の政治家を追い落とすパターンもいくつかに分類できます。
 @占領軍の指示により公職追放する
  ・鳩山一郎
  ・石橋湛山
 A検察が起訴し、マスコミが大々的に報道し、政治生命を絶つ
  ・芦田均
  ・田中角栄
  ・小沢一郎(少し異色)
 B政権内の重要人物を切ることを求め、結果的に内閣を崩壊させる
  ・片山哲
  ・細川護熙
 C米国が支持していないことを強調し、党内の反対勢力の勢いを強める
  ・鳩山由紀夫
  ・福田康夫
 D選挙で敗北
  ・宮沢喜一
 E大衆を動員し、政権を崩壊させる
  ・岸信介
  
・ではそうした国際政治の現実のなかで、日本はどう生きていけばいいのか。
 米国は本気になればいつでも日本の政権をつぶすことができます。
 しかしその次に成立するのも、基本的には日本の民意を反映した政権です。
 ですからその次の政権と首相が、そこであきらめたり、おじけづいたり、みずからの権
 力欲や功名心を優先させたりせず、またがんばればいいのです。
 自分を選んでくれた国民のために。