日本の「運命」について語ろう  :浅田次郎

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本書は、小説家である筆者が、小説家の視点から江戸時代から明治時代を中心に、日本の
歴史を振り返ったものである。普通の歴史家とはちょっと違った視点で見ており、「そう
だったのか」と今までの常識を改めさせられる部分もあり、なかなか興味深く拝読した。
筆者はこの著書のなかで、近代の歴史を学ぶ重要性について説いているが、同感させられ
ることが多い。江戸時代とはどういう世の中だったのか。明治維新とはどういう背景から
起こったのか。日清戦争や日露戦争が起こった背景には何があったのかなど、興味深い内
容が多い。現代という時代は、どういう経緯から現代になったのか。現代を生きる者とし
て、やはり知っておくべきことである。そして、そのことが、これから将来進むべき方向
を考えるヒントとなるであろう。まさに歴史から学ぶ点は多いのだ。


なぜ歴史を学ぶのか
・明治維新とは何だったのか。この原動力は一点に尽きます。欧米列強の植民地になって
 はならない、これだけです。産業革命以来、まずヨーロッパが、そして遅れてアメリカ
 が強大な力を蓄えて、植民地獲得に奔走しました。産業革命の結果、資本主義が成立す
 るのですが、当時の資本主義とは植民地経営なしには成り立たないと信じられていまし
 た。植民とを獲得することは資本主義国家の必須条件だったんです。
・それまでの日本は、先進の軍事力をもたずに鎖国を通そうとする無防備国家でした。無
 防備ですんだのは、産業革命からしばらくは、先進国といえども産業レベルでの遠洋航
 海ができないでいたからにすぎません。海軍に遠洋航海の能力が備わり、二十世紀の初
 めまでにアフリカのほとんどがヨーロッパ諸国の植民地になると、先進国は力を蓄えて
 ”列強”となり、その牙を一気にアジアに向けます。インドの全部がイギリスの植民地と
 なり、最大の目標となったのが清(中国)でした。列強の多くが清に狙いを定めます。
・清から茶や絹、陶磁器を大量に輸入して大幅な輸入超過になったイギリスは、植民地の
 インドで栽培したアヘンを清に蜜輸出する三角貿易で国富の流出を防いだわけです。ア
 ヘンを取り締まろうとした清との間で戦争になりましたが、近代的なイギリス軍の前に、
 清はあっけなく敗れてしまいました。大人が子どもを殴り倒すような戦いの後、清はま
 ったく一方的に香港島の領有を宣言されてしまい、抗議もむなしく1842年、南京条
 約の締結によって香港の領有を確定されてしまいます。  
・その様子を目の当たりにしていた日本で、「同じ目にあったら小さな日本などひとたま
 りもないぞ。いち早く鎖国を解いて統一国家を作り、欧米列強に追いつかなくてはなら
 ない」と意思統一がされていくのが幕末の動乱期です。
・日英同盟のおかげて、日本は日露戦争に勝利し、第一次世界大戦後には世界の五大国の
 ひとつに数えられるまでになりました。近代日本として、国際社会に堂々たる地位を占
 めることに成功したのですが、同時に国家としての未熟さを露呈してしまいます。植民
 地に取られる側から、取る側に回ってしまうのです。明治27年7月〜翌年3月の日清
 戦争に勝ち、戦時賠償として台湾を日本の領土としました。
・台湾総督府の民政長官になった後藤新平は、同郷の岩手県人・新渡戸稲造とタッグを組
 んで台湾のインフラを整え衛生環境を改善し、サトウキビの裁判によって台湾の経済を
 近代化させることに成功しました。これは奇跡的な植民地経営です。
・戦時賠償の当時の日本円での約3億1千万円は、日清戦争までの日本の国家予算の2倍
 以上、戦費を差し引いてなおも残り、財政はよくなり公共投資は拡大、経済活動が活発
 化します。「戦争に勝てば大儲け」という感覚を育ててしまったのだと思います。朝鮮
 を併合したり、満州まで植民地化しようとしましたが、さすがにちょっと分不相応でし
 た。当時の国際秩序からどんどん外れて、あとはご存じの通りの歴史になります。   
・自分たちの父親が軍人、兵隊だった世代ですから、もちろん戦争があったことはわかっ
 ています。しかしながら、いったいどういう経緯で戦争になって、戦地で何があって、
 戦争の結果どうなったかを、実はほとんど学校で教わっていない。教科書にもわずかし
 か載っていません。中学でも高校でも、ほぼ明治時代の条約改正あたりまで。その先は
 ほとんど教えていないと思います。
・理由は二つあります。ひとつは説明しにくい歴史であるということ。もうひとつは大学
 入試での出題頻度が非常に低いということです。そんな理由で、日本の近代史は途中で
 終わってします。しかしこれはとんでもないエラーでした。もっともよくないのは、今、
 高校で日本史は選択科目です。これはどういうことでしょうか。自分が生まれて育った
 国の歴史を勉強しなくていい、知らなくていいなど、世界中どの国を見渡しても、ただ
 の一国もないはずです。自国の歴史を教えないのは恐ろしいことです。今、自分が生活
 しているこの社会の座標がわからないという意味ですから。
・どの世代にも誰にも幸不幸があります。ただ、その幸福も不幸も、すべて自分一人で作
 り出したものではありません。全部が自分の業績でもないし責任でもない。こうふくを
 享受する人間は、その幸福には誰かが作り上げた歴史があって、自分のところにもたら
 されたということを、必ず知らなければなりません。それとは逆に、自分が何をやって
 もうまくいかない、不幸なことがあったという人も、かならずしも自分ひとりの責任で
 はありません。これも歴史の中に理由があって、たまたま自分が尻拭いのような不幸を
 味わわなればいけなくなる場合もあります。  
・わが身の幸・不幸とは、いったいどういうことなのか。過去の歴史とどんな縁があるの
 か。幸福の来歴、不幸の来歴を知るために学ばなくてはならないのが歴史だと思います。
 だから近ければ近いほど大事です。現在、私たちが置かれている幸・不幸の座標上には、
 石器時代や縄文時代、弥生時代のことなど直接は関係してきません。対して、日本と中
 国との戦争はいついかなる状況で始まったのか、といったことは、やはりきちんと教え
 なければならなし、勉強しなければならないことだと思います。日本などんな戦争をし
 たのか、戦争で何がおこったかなどを次の世代に伝える、申し送ることは、私たちの義
 務であると思います。
・江戸時代、幕府から石高一万石以上の所領を与えられた武家が大名ですが、参勤交代の
 義務があったのは、大名だけではありません。将軍直属の家来である旗本のほとんどは
 江戸に住んでいましたが、知行地に在国して大名なみに参勤交代する「交代寄合」と呼
 ばれる旗本もいました。
・大名行列では、一日に平均十里(約四十キロ)を歩いていました。美濃の領地から江戸
 までは十日の行程だったそうです。歩いてみて実感しましたが、現代人は十日間で歩け
 と命じられても、どんな健脚の人でも無理だと思います。
・昔の人はすごいなと思ったのは、大名行列では一切荷車を使わないことです。大名行列
 の絵などを見ても、人海戦術で担いでいます。荷車など使いません。天下の公道、とく
 に五街道に関しては、大名行列に荷車は一切まかりならぬ、すべて担げ、という定めだ
 ったそうです。
・江戸時代は武家政権、軍事政権ですが、世界にも稀なほどの文化国家でした。鎖国しな
 がらも、世界情勢などに興味をもって、分析している学者が日本中にいました。
・「古いから悪い」で一緒くたに断罪してしまったために、大事なものが失われたという
 面はたしかにありますから、それを復権するは必要なことです。ただ、やっかいなこと
 に、戦前のものは何でも一緒くたに捨て去ったがために、こんどは、統治システムまで
 含まてそれほど悪くなかったという一緒くたな主張が出てきます。これはどうなのでし
 ょうか?
・やはり私たち戦後生まれの世代が、今の幸福、日本の繁栄はどこから来ているのか、あ
 まりに知らない、考えずにすませてきたことに原因があるそうです。実際、尖閣諸島だ
 の歴史認識だのと、近頃の中国と日本の間には、いろいろ困ったこともあります。韓国
 は従軍慰安婦問題を声高に言い立てています。他国に対して、歴史への向き合い方に注
 文をつけるのはどうかと思いますが、私たちが整理をつけずに来たことも確かでしょう。
・歴史と史実は違います。歴史とはその国の人々の共通の記憶、つまり起こった事実の捉
 え方ですから、客観的な事実、史実による議論を期待するのは難しい。 
・私は小説家ですから、ひとつの視点や歴史観でなくてはならないという主張には与しま
 せん。魅力も感じません。しかし、日本人の国民性はよくもあしくも集団主義的ですか
 ら、どうしても歴史にアイデンティティを求めます。だから今の世相について、ある一
 定の知的レベル以上の人と議論をすると、これがつまらないんですよ。新聞かテレビで
 言っていた四〜五パターンの受け売りで、オリジナルな考えがない。
・長い歴史をもつ中国ですが、共産国家となってからは、儒教の思想は古い時代のものと
 されて否定されました。そんな中国でも、儒教から完全に独立して根を下ろしているの
 が「考」の精神です。これは中国の人々の生活に、はっきりと残っています。「考」と
 は、親孝行の「考」、この一字は親に対する孝行、先祖に対する孝行を示します。中国
 を旅行した人には、若い人がお年寄りを大切に介抱しながら歩いている姿とか、お年寄
 りがとても幸せそうに日向ぼっこをしている様子が印象的だったという方もいるかと思
 います。
・領土問題だの環境問題だのと、近頃の中国はいろいろ困ったこともありますが、この
 「考」の精神は尊敬に値します。中国の抱える難題は、一人っ子政策の後で高齢化社会
 が来ることです。そのときの社会の苦悩たるや、日本の少子高齢化どころではありませ
 ん。十三億人という大きな分母の上に、ぼとんどの場合が一人っ子ですから、親の世代
 が歳をとったら大変です。なんとか安定しているのも「考」の精神があればこそでしょ
 う。
・アメリカは老いが嫌われる社会です。老人が嫌われるという意味ではありません。アメ
 リカはパワーが美徳とされる社会ですから、肉体的なパワーが衰えてくる「老い」に対
 して、否定的な価値観が根底にあるんです。だからアメリカを旅された方はよくご存じ
 の光景だと思いますが、夫婦の一方が亡くなった後、一人になった老人が、犬を連れて
 寒々しくスーパーの袋を抱えて歩いている寂しげな姿、これはどこの街角でも見かけま
 す。つまり日本のような「家」という概念がなくて、自立が尊ばれるから、子供は結婚
 すれば出て行ってしまって夫婦が残る。そんなケースが圧倒的に多い。しかも、大統領
 のニュース映像を見てもわかる通り、アメリカ社会は夫婦でひとつのユニットを構成し
 ます。 おそらくは広い国土を開拓してきた歴史に源流があるのでしょう。そのユニッ
 トから一人が欠けたとき、やはり社会から疎外されやすい。ずっと夫婦同士のつきあい
 で、ホームパーティを開いたり旅行に出かけたりしていたのに、ご主人が亡くなって、
 奥さん一人になったら、ちょっと今までと同じようには誘いにくいでしょう。そんな現
 実がアメリカにはあります。パワーが美徳であるというアメリカ的な考え方もあって、
 やはり「老」という概念自体が嫌われるんですね。アメリカの影響を受け続けた私たち
 の中にも、はたして同じような「老」に対して嫌がる感情がありはしないでしょうか。

父の時代・祖父の時代
・多摩が天領だったことが幕末に新撰組が成立した下地になっています。近藤勇も土方歳
 三も、現在の調布付近の豪農の倅です。苗字帯刀を許された豪農の子供たちは、「自分
 たちのお殿様は将軍様だ。徳川幕府の家来だ」という誇りをもっていました。辛辣な見
 方をすれば、彼らはさほどたいそうな思想をもっているわけではなく、不良集団に近い
 連中でしたが「自分たちは公方様の家臣である」という大義がありました。天領の領民
 としての意識が、子供のころから染みわたっていたことはたしかでしょう。
・兵役に就いて、第二次世界大戦で犠牲になった人のほとんどは大正生まれでした。とく
 に大正10年から大正15年生まれは、もっとも苦労したはずです。国を挙げ、国民を
 総動員しての戦争でしたが、戦場で戦った兵士は圧倒的に若者でした。戦争も末期にな
 ると戦闘が激烈をきわめるようになって、その方たちがみんな死んでしまいます。特攻
 隊で飛び立ったのは多くが十九歳、二十歳の人たちです。飛行機の操縦を速成で叩き込
 まれ、上達の速かった人から特攻機に乗っていきました。兵力不足を補うため、二十六
 歳まで徴兵が猶予されていた旧制の大学・高等学校・専門学校などの学生も学徒出陣、
 出征することになりました。
・東京地内の優雅な地名を、役人がひとからげにして、みんな変えてしまった。誰が変え
 たか知りません。しかしこれは大変腹立たしいことです。暴力だと思います。土地の名
 前を変えるなど、それ自体が文化の破壊です。数字で番号を振ってしまえばいいいとい
 うのは、いかにも乱暴で便宜的です。
・郵便物の配達だとか、役所で整理するのに便利だから、地名を減らして何丁目何番地と
 いう表示にしたのだろうと思いますが、これだけ高度なデジタル社会になってしまえば、
 数字の地番でも漢字の地名でも同じように処理できるでしょう。となれば、元に戻して
 もいいんです。
・世の中、何でもかんでも合理化すればいいというものではありません。生き残るために
 変化しなくてはいけないことはたくさんあります。でも、「変えなくて済むものまで変
 える必要なんかない。先人の残した文化は継承すべきである」という意思は、きちんと
 もっていければならないと思います。
・土地が長い歴史が集積しています。地形や地質、自然条件の上に人間の営みが何層にも
 重なっているのです。そのことを忘れて、効率だの利便性だのを優先していくのは、た
 だの横着です。後世の日本人から、「あの時代の人たちは立派だった」と敬意をもたれ
 るのか、「浅はかな人々の時代だった」と白眼視されるのか、いつも審判されていると
 思わなくてはいけません。
・日露戦争以降、大正四年までの陸軍の常備兵力は、師団の数にして、わずか21個師団
 でした。師団というのは、歩兵、砲兵、輜重兵などをすべてもった自己完結できる集団
 のことで、2万〜3万人の規模です。大正三年に勃発した第一次世界大戦に、日英同盟
 に基づいて日本も連合国として参戦していますが、それでもこの規模です。第一次世界
 大戦が大正七年に終わると、軍縮が世界の潮流になって、どこの国でも軍隊を縮小しま
 す。その結果、日本では17個師団まで小さくなりました。陸軍の総人数で25万人。
 これは今の自衛官の総数とほぼ同じ程度です。そのくらいまで、縮小しました。
・兵役の義務がありますから、男子は二十歳に達すると全員が徴兵検査を受けることにな
 ります。身体頑健で身長が152センチ以上あれば甲種合格、普通に健康だとか、頑健
 でも視力がよくない丙種合格です。徴兵令によれば本来、甲種合格は三年の兵役に就い
 たわけですが、大正から昭和初期にかけての軍縮の時代は、甲種合格でもくじ引きをし
 て当たった者だけが入営していました。それくらい兵隊の数を必要としなかったんです。
 だから平和な時代には徴兵忌避どころか、貧しい農家の二男坊、三男坊は、甲種合格に
 なったらくじに当たれ当たれと念じたそうです。農村には働き口がないけれども、軍隊
 に行けば多少は殴られたりつらい思いはするかもしれないが、三食白い飯が食べられて、
 読み書きまで教えてくれる、様々な技術も習得できる、といった理由がありました。 
・それが昭和に入ると、昭和三年の張作霖爆殺事件を皮切りに、六年の満州事変、八年の
 国際連盟脱退、十一年の二.二六事件、十二年の日中戦争と十三年の国家総動員法成立
 というふうに、まるで最悪のカードを引き続けたかのように、世の中はどんどんキナく
 さくなっていきます。どこか一点に歴史の転換点があったわけではなく、政治も、経済
 も、軍も、メディアも、そして国民もつぎつぎにカードの切り方を間違えていったと考
 えるのが適切でしょう。
・そもそも戦前の日本は国民皆兵です。男性には兵役の義務がありました。徴兵令が布告
 されたのは昭和六年のことです。国民皆兵は、十九世紀の世界の趨勢です。フランス革
 命以前の戦争では、騎士のような軍インが戦っていたのですが、国民主権、国民国家の
 考え方を進めていった結果、国民全員が戦争に参加する義務が生じました。自国を守り、
 他国を攻めて領土にしたり、つまり「国益」をあがなうためには国民が血を流さなくて
 はならない、という論理です。しかも兵器の発達によって軍隊は消耗が激しくなります
 から、一部の専門的な軍隊ではいよいよ足りなくなります。
・そうした趨勢も踏まえて国民皆兵、徴兵の仕組みを発案したのが大村益次郎です。靖国
 神社に行くと大鳥居の先、参道の真ん中に、お侍さんの姿の立派な銅像がありますが、
 彼が大村益次郎、日本の陸軍の生みの親です。
・明治二十二年に公布された大日本帝国憲法第二十条に、「日本臣民は法律の定るところ
 により、兵役の義務を有す」とあります。この法律が徴兵令のことです。ただし、これ
 は度々改正されます。社会事情に合わせて何度も改正され、昭和二年には全面改正。改
 題されて兵役法となりました。私たちが一般的にイメージする徴兵制度は、戦時中、昭
 和十七年の兵役法だと思います。これによると、二十歳になると徴兵検査を受けて体力
 壮健、体格もよしとなると甲種合格、入営となりる陸軍は2年、海軍は3年、現役兵を
 務めることになります。徴兵令では三年の兵役でしたから、陸軍は短くなったようにも
 見えますが、任期を終えると、現役除隊となって予備役・後備兵役に編入されて、陸軍
 は15年あまり、海軍は9年、その間に召集令状がきればただちに、原隊に戻らなけれ
 ばいけないという決まりでした。
・戦後生まれの私たちの頭には、軍隊が勝手に戦争をして、庶民がその戦争の犠牲になっ
 たという構図が刷り込まれています。ところがよく考えてみるとそうじゃないです。
 兵役法のシステムは、ひとりひとりの国民が軍隊そのものだったことを意味しています。
 軍人のほとんどが一般国民です。だから全員が職業をもっている。 
・昭和二十年、本土決戦体制となった最終局面で、日本にはどれだけの軍人がいたのか。
 驚くなかれ師団の数にして、172個師団です。考えられない数です。それ以外に、機
 動力があって運用の簡単な独立歩兵大隊が117ありました。しめて陸軍の総員数は、
 500万人と言われています。
・たしかに、沖縄を占領した米軍が九州に上陸すれば、ほぼ完成している陣地と複雑な地
 形を盾に、一戦交えることもできたでしょう。しかし、サイパン島やテニアン島から毎
 日のようにB29が飛んでくるのです。圧倒的な空軍の掩護下で、相模湾や九十九里へ
 の上陸作戦を米軍がとったら、日本の陸海軍は関東平野を守れません。たちまち東京は
 陥落して、国家の機能は喪失します。本土決戦という方針は、外交交渉によって国体を
 護持するという目的があったからです。すなわち天皇制の維持を確約させようとしたわ
 けです。軍も政府も、連合国による敗戦後のドイツの処遇に震え上がっていました。ヒ
 トラーは自殺し、ナチスは徹底的に解体されたので、日本も同じことになるのではにか
 と恐れたのです。    
・おそらく昭和天皇はドイツと日本の国家構造の違いについて、はっきり認識しておられ
 たのでしょう。ポツダム宣言受諾、無条件降伏という決断を下されたのは、遅きに失し
 たとも言えるでしょうが、政府と軍のそうした基本方針を覆したのですから、英断であ
 ったと思います。 
ポツダム宣言を伝えた外国通信社のニュースを、日本が傍受したのが7月27日早朝で
 す。日本政府の方針は黙殺でした。鈴木貫太郎首相の「ただ黙殺するのみ」というコメ
 ントが広島、長崎への原爆投下につながったという説もありますが、トルーマン大統領
 による原爆投下命令は7月25日に出ていましたから、直接の関係はなさそうです。た
 だ、トルーマンはこの日本政府の反応をよみきっていた可能性が高い。原爆投下の口実
 に黙殺発言が使われたのではないでしょうか。
・8月10日未明、御前会議での昭和天皇の決断によって、ようやくポツダム宣言受諾が
 決まるわけです。しかしその後も、抗戦派の抵抗が続きました。陸軍省の参謀たちはク
 ーデター計画を練り上げていました。クーデターといっても隊付将校らが起こした二・
 二六事件のような単純なものではありません。国家の意思は戦争継続にあると、法的な
 根拠をもって運べるものでした。それが、陸軍大臣のもつ「応急局地出兵権」です。す
 なわち、ポツダム宣言の受諾による終戦の決定が一部の反戦主義者の謀略であると認識
 すれば、陸軍大臣は独断で治安維持のために兵力を動員することができたのです。
・抗戦派は阿南陸相を動かして、「応急局地出兵権」を行使しようと図りました。閣内で
 は陸軍を代表して徹底抗戦を主張していた阿南陸相でしたが、真意ではなかったようで
 す。戦争の始末をつけられるのは鈴木貫太郎内閣だと考えていましたから、強硬な意見
 を述べたてることで、陸軍の倒閣運動を押さえ込んでいたわけです。昭和天皇の決断の
 後、阿南陸相には戦争を続けるつもりはありません。
・阿南陸相は8月15日早朝に自決しますが、これはクーデターの法的根拠となる「応急
 局地出兵権」を消滅させてしまうためだったのではないでしょうか、というのが私の仮
 説です。陸軍大臣が空席となれば、戦争継続のためのクーデターは論理的は崩壊します
 から。
・玉音放送によって、日本人は一斉に銃を置いたことになっています。世界の感覚からは
 信じられないほど粛々と武装解除が進んだのですが、これはあくまでも内地のこと。よ
 く知られているように、満州は大変悲惨な状況でした。侵攻してきたソ連軍の勢いは、
 8月15日を過ぎても止まりません。満州や樺太に展開していた日本軍は、防衛戦に追
 われました。ソ連軍の司令部は「日本軍は戦闘行動を止める気配がない」として、攻勢
 を続けましたから、日本軍は自衛のために戦うしかなかったのですが。
・終戦直前に始まり、8月15日以降も続いた旧満州の関東軍の戦いは、事実としてよく
 知られています。9月2日、戦艦ミズーリの艦上の降伏文書調印を経てもなお、無視し
 て継続されました。ソ連軍の攻撃が完全に停止したのは9月5日になってからです。止
 めたのに止まらなかった戦争でした。
・しかし、それとは根本的に違う「戦争が終わったのに攻めてきた戦い」があったのです。
 「終わらざる夏」で描いた、占守島の戦いです。北方領土、北方四島のずっとずっと北
 部、北千島のいちばん先に占守島という島があります。その占守島に、昭和二十年8月
 18日、カムチャッカ半島に終結したソ連軍が武力上陸してきました。武装解除に来た
 わけではありません。武力占領に来たんです。しかしすでに戦争が終わってから3日が
 経っている。ソ連側の資料を見てもまったくの謎の戦闘です。この占守島には日本軍が
 いました。それも皮肉なことに、戦車部隊を含む精鋭師団がいたのです。南洋の島々で
 は、武器も食糧もない戦いを続けていた日本軍ですが、ここには満州から転用された精
 鋭の部隊と装備がありました。
・関東軍というのは、関東地方から出兵した兵隊さんで編制された軍という意味ではあり
 ません。関東軍の「関」というのは、山海関の「関」です。華北と東北を分ける万里の
 長城の最東端、海のところに設けられた関所です。中国の北方民族と漢民族の戦いは、
 必ずこの山海関の取り合いから始まるという戦略上の要衝です。
・この山海関から東に展開した日本軍であるから関東軍です。第二次世界大戦の開戦時、
 帝国陸軍はこの関東軍のほか、南方軍、朝鮮軍、台湾軍、支那派遣軍という軍をもって
 いました。関東軍は、強大な陸軍力をもつ仮想敵国・ソ連と真っ正面に対峙していたの
 で、練度、装備とも優れていました。世界最強の軍隊だと言われていた時期もあるくら
 いです。
・昭和二十年のぼろぼろになってしまった帝国陸軍の中で、開戦当初のような軍隊が一個
 師団以上、つまり2万人くらい、奇跡の戦力が国境の島に残っていました。そこにソ連
 軍が攻めてきた。この戦いに日本軍は圧勝します。ロパトカ岬から大砲を撃って、8千
 の兵力が上陸してきました。しかしこの大砲、精度を欠いているのか、練度が低いのか、
 ともかく当たらない。日本軍は、戦争は終わっているので撃ち返してはならない、歴史
 が占守島の戦闘は正義であったと認めるほどの客観的事実が必要だとして無抵抗でした。 
 とはいえ、札幌の軍司令部から自衛のための戦闘はやむなしという連絡が入ってので、
 沿岸砲を撃ち返したところ、敵の砲台はあっという間に沈黙してしまった。
・戦車聯隊ももっている完全な師団、2万人以上の最精鋭部隊の日本軍に対して、上陸し
 たソ連軍は8千名です。日本軍の兵力は、ソ連軍も哨戒機を飛ばして確認しているはず
 ですか、いかにも無謀な不可解行為でした。
・事実、この戦争は8月23日まで続くのですが、皮肉なことに日本軍の圧勝でした。ソ
 連軍がほとんど抵抗できないくらいの圧倒的な強さで、あと一日あれば海に追い落とし
 ていたくらいの戦いでした。しかし、8月23日に戦闘停止命令がかかって、翌24日
 に武装解除されるという結末になります。日本兵の犠牲者は約千人、ソ連は公開してい
 ないのでよくわかりませんが、戦況からすれば日本軍の3倍くらいの犠牲者が出ている
 はずです。8千人上陸して、3千人が戦死というのは軍隊の論理で言えばもう玉砕です。
 部隊としての戦闘機能を失っている状態です。
・帝国陸軍最後の戦だったわけです。しかしその後、占守島の日本軍は、勝ちながらソ連
 に抑留されてしまいます。千人を単位とする作業部隊に再編され、9月中旬からソ連領
 内へと移送されたのです。満州や樺太からの抑留者も合わせて60万人とも言われる人
 々が、最長で11年も抑留され強制労働させられました。降伏による捕虜であったとし
 ても、あまりにも無法でした。戦勝国にそんな権利はありません。飢えと寒さの中で、
 およそ6万人もの人々が亡くなったと言われています。 
・8月9日にソ連軍が満州国境を突破してなだれ込んできます。三方面軍、総数160万
 人と言われています。約3万人の師団がいくつか集まった上に軍と言う編制ががり、そ
 の上が方面軍です。三方面軍、160万人といえば、おそらく世界史上でも最大の作戦
 であったと思います。第二次世界大戦のノルマンディ上陸では、連合軍の数は17万6
 千人でした。
・ソ連の立場を少しだけ言い訳しておきますと、第二次世界大戦で戦死者がもっとも多か
 ったのは、間違いなくソ連です。日本は軍人・民間人合わせて約3百万人の犠牲を出し
 ました。ドイツでは8百万人が死んだと言われています。ソ連は開戦直後からドイツ軍
 と熾烈な戦闘が続いたため、非常に大きな犠牲をだしたのですが、記録としては正確に
 は残っておりません。2千百万〜2千8百万人とも言われてきましたが、最近、社会的
 増減から推測できると考えた学者の研究が発表されました。これによると、2千6百万
 人が死亡したとされています。
・函館の五稜郭で明治二年まで戦った幕臣、榎本武揚をご存知でしょうか。一緒に戦って
 いた元新撰組の土方歳三は函館戦争で斃れましたが、榎本は死に損ねます。新政府に楯
 突いた”賊軍”の指揮官ではあるのですが、あまりにも優秀な人材だったので助命され、
 後に明治政府に登用されました。幕府留学生として四年半にわたってオランダに留学し、
 国際法、軍事、造船などを学んだ、とても優秀な人物です。幕府が発注した軍艦「海陽
 丸」とともに帰国したのは、倒幕運動の真っ最中でした。
・明治政府に登用された榎本は、高官を歴任します。そんな彼の偉業が、明治八年の千島
 樺太交換条約です。当時、樺太は日本とロシア、どちらの国にも帰属していませんでし
 た。めぼしい資源もなく、経済水域がどうのという時代でもありません。あまりに緯度
 が高すぎて気候も厳しい。せいぜい日本やロシアの漁民が来て混住していたというくら
 いの土地でした。一方の士島列島は、サケ、カニ、タラといった水産資源が豊富です。
 それ以上に軍事上の意味が大きい。狭い海峡を隔てて、だいたい均等な間隔で島が並ん
 でいるので、ここを押さえておくと、太平洋とオホーツク海を分かつ壁をもつことにな
 ります。つまり軍事的に価値の高い要衝でした。
・特命全権公使として帝政ロシアの首都・サンクトペテルブルクに渡った榎本は、「樺太
 はどちらのものでもないけれど、全部を帝政ロシアの領土として認めましょう。その代
 わり、この千島列島は全部日本の領土です」という条約をまとめたのです。これはすご
 い外交手腕です。日露戦争より30年も前に、平和的な条約の結果、千島列島が日本の
 ものだと確定しました。 
・ちなみに戦後ずっと問題になっている北方領土、すなわち択捉島、国後島、色丹島、歯
 舞群島は1855年の日露通好条約以前から北海道の延長とみなされて、これが外国の
 領土だったというためしは、ただ一度もありません。
・戦後の繁栄は、日本の政治システムが戦前との一貫性を断ったと世界から認められたこ
 とでもたらされました。それは事実です。でも、どさくさにまぎれて、歴史的に認めら
 れてきた主権の及ぶ範囲までも踏みにじられてしまった事実も認識しておかなくてはい
 けません。
・いわゆる北方四島は「日本の固有の領土」という言い方をよくされます。でも本当は千
 島列島全体が日本固有の領土なのです。明治八年の条約の結果ですから。

中国大陸の近代史
・中国人の生活の中に、靴を脱いで家に上がるという習慣はまったくありません。西洋人
 と同じで、椅子と机とベッドの生活だからです。だから中国人は日本のお座敷に入ると
 きはとても戸惑います。アメリカ人も中国人も同じで、畳の上に座ること自体に抵抗が
 あるのです。そもそもあぐらがかけません。
・私見ですけれど、日本人は中国人と関係ないけれども、おそらく旧満州、朝鮮半島とは、
 あるひとつの流れでつながっているように思います。日本には襖や障子のような引き戸
 があります。実は中国に引き戸はなくて、アメリカやヨーロッパと同じようにみんなド
 アなんです。だから中国人の生活様式は日本よりもずっと欧米に近い。
・自動ドアが世界一多いのは日本です。というのも自動ドアは横に開くから意味があるわ
 けで、バタンバタンと前後に開いたら危ないし、よほど場所に恵まれたところでない限
 り作れないです。だから襖の仕組みを自動化したことで、自動ドアが日本には増えてい
 ったのです。 
・徳川幕府、というより日本の相続制度は、昔から長男相続です。長男が必ずしも優れて
 いるわけではないのに、暗黙のうちに、家を継ぐのは長男と決まっている。日本の伝統、
 というより、実はこれは農耕民族の伝統です。つまり農耕民族にとっては強力なリーダ
 ーシップだとか、ずば抜けた能力などはあまり必要ない。それよりも一族にとって怖い
 のは、田畑をめぐる相続の揉め事でしょう。相続人を長男と聞けておけば揉め事を避け
 られる。農耕民族は「地域の中で協力してうまくやっていく」ことが大事なので、突出
 したリーダーシップは必要ないのです。農耕民族にとっては、長男相続がいちばん適し
 ているようです。
・日本でも地域的には長子相続という場所もあります。男女にかかわらず、先に生まれた
 者が相続する。だから女子でも相続権を持つという地域があるんです。実はこれがいん
 ですよ。長女に婿をもらうとなると、親が有能な人間を選ぶことができます。これはい
 ちばん手堅い相続のような気がしますが、どうでしょうか。 
・一方、清朝の相続は生まれ順は関係ありません。皇帝の指名です。皇帝は正室のほか多
 くの側室とできるだけたくさんの子供を作って、その中から「この子だ」と決める。こ
 れがずっと清朝の相続方法です。清朝の、というよりも騎馬民族、いわゆる狩猟民族、
 遊牧民族の相続ルールはたいだいこうです。つまり指導力がなくてはならない。体力に
 優れていなければならない。部族を率いていく力がなくてはならない。部族を率いてい
 く力がなくてはならない。それだけの力量のある後継者を父親が指名する仕組みです。
・昔はそもそも横書きはなかったんです。中国語にも日本語にもありません。しかし私た
 ちのまわりはみんな横書きになってしまいました。いずれ小説もみんな横書きになるん
 じゃないかって恐れているんですけれど。私は横書きを大事にしたいと思います。なぜ
 かといえば、手で文字を書いたときに、最後の一画は、必ず下につながるんです。横に
 はつながりません。はねるにしてもはらうにしても、縦につながるようにできている。
 どんなに一生懸命、文字を練習しても、横書きにしている間はうまくならないですよね。
 だから文字は縦に書く。それ以前に、手で書くことですね。生活習慣の中で取り入れて、
 実践していかなければならないことだと思います。
・私たち日本人はともかく丸く収めようと、みんな考えます。和の国ですよ。日本は、国
 土が狭くて人口が過密であるということがもともとの原因でしょう。しかもよそ者のや
 ってこない環境ですから、同じメンバーで2千年も、稲作を中心に農耕生活を続けてく
 れば、仲間うちの和を乱さない文化ができ上げります。私たちほど、たがいの諍いを嫌
 う民族は世界でも稀でしょう。その点、やはり中国は自己主張の国です。丸く収めよう
 と考えるよりも、自分がこうだというなら徹底的に主張するのが中国人の気質です。
・乾清宮や、公式な儀式をとり行った大和殿の玉座の真上には、軒轅鏡と呼ばれる大きな
 銀色の球が吊り下がっています。実は「世界の中心はここだ」という意味なんです。
 自分たちが世界の中心という、中華思想のシンボルです。中華思想がすごいのは、中国
 は天命を戴く天子=皇帝が統治する、地上で唯一の国であるとしたところです。だから
 対等な国などなく、周辺の異民族はすべて文化の劣る蛮族とされました。だから外交と
 いえば、臣下の礼をとった冊封国とのつきあいを意味するわけです。臣従した国は、宗
 主国である中国に貢物を献上します。これに対して、中国ははるかに多くの財物を下賜
 していました。これが朝貢貿易です。経済的には中国にとっては損なのですが、敵対関
 係になって軍備を整え、いつも戦争をしているよりもずっとコストが低く抑えられると
 いう現実的なメリットがありました。周辺の異民族が、中国よりずっと力が弱い時代な
 ら、なかなか合理的な安全保障システムです。だからこそ長きにわたって続いてきたの
 ですが、産業革命を経た西欧列強の覇権主義には通用しませんでした。
 
明治維新が目指した未来とは
・幕府とはそもそもクーデター政権ですよ。本来、朝廷がもっていた統治権、政治に関す
 るあらゆる権利を、武士が軍事力にものを言わせて簒奪する。これは軍事クーデターに
 ほかなりません。
・王朝を滅ぼさず、そのままにして権威だけ担当する存在へと象徴化しておいて、実質的
 に国を自分たちのものにしてしまう。それが幕府というシステムの考え方です。
・豊臣秀吉も徳川家康も、禁教令を出してキリシタンを弾圧し、鎖国へとつながっていき
 ます。私たちは宗教が弾圧されたことに対して、「ひどい話しだ」「残酷だ」などとい
 う価値観で教わっていきますが、これは安全保障上の国策でもありました。どいしてか。
 十五世紀半ばから、インドをはじめとするアジア各地、南北アメリカなどへ植民地を求
 めて、ヨーロッパ人の海外進出が始まっていたからです。大航海時代として知られてい
 ます。産業革命以前ですから、帆船によって探検や交易をしていたわけですが、すでに
  植民地獲得競争が始めっていたのです。
・植民地を作るとき、先兵としてまず派遣されるのがイエズス会の宣教師でした。イエズ
 ス会の宣教師が現地に行き、おぼただしい情報を本土に送って、その地域の状況を理解
 した上で、最終的には植民地にしてしまう。それが常套手段であると、秀吉も家康もわ
 かっていたから、キリシタンを弾圧したわけです。したがってこれは安全保障政策だっ
 たという評価もできるでしょう。それが江戸時代はずっと続いたのでした。
・ところが1853年、アメリカ海軍の黒船が来航します。4隻のうち外輪式の蒸気船が
 2隻、あとの2隻は帆船でしたが、遠洋航海のできる西洋式の大型帆船などもちろん日
 本にはありません。鎖国しているのですから、もっていないのは当然です。黒船を見て、
 みんな腰を抜かしました。 
・彼らはなぜ日本にやってきたのか。もちろん理由があります。当時、最大の海洋産業は、
 捕鯨でした。クジラを捕獲して工業用の鯨油を取っていた。これはアメリカに限りませ
 ん。産業革命を果たした各国は、大量の鯨油を必要としたため、世界中で捕鯨をしてい
 たのです。
・アメリカは太平洋で、捕鯨船に物資補給するための寄港地として、日本に開港を迫った
 ことになっていますが、そもそも彼らは捕鯨船の護衛艦隊でした。ペリー艦隊の正体は、
 捕鯨団の一員なんです。もちろんペリー艦隊は、捕鯨船団護衛のついてに日本に来たわ
 けではありません。大統領の親書を持ち、蒸気船。ミシシッピー号で単艦、大西洋を渡
 ってアフリカ最南端の喜望峰を回り、インド洋を越え、香港や上海でアメリカ海軍の東
 インド艦隊の軍艦と合流して、日本へとやってきたのでした。 
・世界地図を見れば一目瞭然ですが、日本とロシアは近いです。アメリカは遠いです。に
 もかかわらず、どうしてロシアはアメリカに後れをとったのか、なかなか開国を求めて
 こなかったのかといえば、これも理由がありました。ロシアはこの時期、ヨーロッパで
 クリミア戦争の真っ最中だったんです。ナイチンゲールが野戦病院の看護師として活躍
 したのが、このクリミア戦争です。
・「攘」とは「打ち払う」、「夷」は「外国」を意味します。つまり外国から来た者を打
 ち払う。鎖国を続けろというのが攘夷運動です。これが国民運動になりました。なせか
 といえば、徳川幕府が諸外国と勝手に開港条約を結んだからです。このとき、幕府には
 井伊直助という強権主義のカリスマ的大老がいて、朝廷の勅許を得ず、つまり天皇陛下
 の許しを得ずに条約を結んだ。政権はすべて徳川幕府が握っているわけだから、構わな
 いのではないかと思えるのですが、井伊大老が独断で開国をしてしまったということに
 対して、世論が紛糾します。
・当時は参勤交代の制度がありましたから、お殿様は一年おきに江戸と領国を往き来する
 わけです。たとえば尾張藩のお殿様が、今年名古屋城に住んでいたら、来年は大名行列
 をして江戸に来て、一年間住みます。尾張藩の上屋敷は、今、市ヶ谷の防衛省が建って
 いるあの場所です。そして翌年はまた大名行列で名古屋に戻る。
・しかし水戸藩は例外でした。家康によって冷態中の例外が認められていたのです。徳川
 家康はたくさん子供を作りましたが、とりわけ晩年に作った三人の子供をかわいがりま
 した。「歳をとってからの子供はかわいい」と言い慣わされてきた通りです。九男、十
 男、十一男が尾張藩、紀伊藩、水戸藩の初代藩主になって、これがやがて御三家と呼ば
 れるようになるわけです。  
・また尾張徳川家と紀伊徳川家には、将軍家に跡取りがいなくなった場合に嗣子を出す権
 利を認めましたが、水戸徳川家にはその権利を与えていません。そのかわり参勤交代は
 しなくていい、領国は近いのだから、ずっと江戸にいて将軍の補佐をする、ということ
 になった。そこで俗に「天下の副将軍」と呼ばれるようになるわけです。
・水戸徳川家の殿様はずっと江戸にいますから、主だった家来もほとんど江戸にいるんで
 す。水戸藩の上屋敷は、今の小石川後楽園、東京ドームのあたり全域で十万坪ありまし
 た。尾張藩の上屋敷が七万坪ですから、それより広いんです。紀伊藩の江戸屋敷は、今
 の迎賓館と東宮御所のほぼ全域で、十万坪ほどありましたから、やはり御三家の屋敷は、
 大名の中でもトップクラスの広さでした。
・こうした屋敷用用地は、江戸幕府から大名に複数与えられていて、お殿様と家族が居住
 する上屋敷、別邸である中屋敷、下屋敷などを構えていたわけです。それぞれの屋敷用
 地内には家臣の住む長屋もありました。
・大名連合のトップが徳川幕府だけれども、大名はそれぞれ領国をもち、独立国と言って
 もいいような大幅な自治権をもっていました。幕府が勝手に開国して、しかも貿易を独
 占しようとしていることになります。列強としても、幕府が必ずしも日本代表する政権
 ではないと気付きますから、個別に藩を切り崩していけば租界や租借地などいくらでも
 できるでしょう。まさに植民地化の危機でした。それを防ぐには、260年もつづいた
 徳川政権を倒して幕藩体制を変え、天皇を中心とした統一国家を作って、国力、軍事力
 を高めるしか手立てはない、となったのです。
・天皇を中心に据えて、権威は持たせるけれども統治は政府が行なう。目指していたのは、
 そのシステムを憲法によって規定するという立憲君主制でした。つまり憲法を持ち、君
 主を戴いて国を統治するのが、当時のちばんスマートな国家形態で、ヨーロッパ諸国は
 だいたいそうなっていました。国王の権力を憲法によって規制する。これはなかなか洗
 練されたやりかたでしょう。
・アメリカがイギリスの植民地から独立し、ジョージ・ワシントンが初代大統領になるわ
 けですが、当時、アメリカの国論としてはジョージ・ワシントンを国王にするという考
 えがかなりあったのだそうです。当時は国家といえば王政が当たり前だったわけですか
 ら。ところがいろいろな意見がありまして、新大陸で新しい国を作るのだから、どうせ
 なら今までなかった民権政府を作ろうという理想に突き進むわけです。
・試行錯誤をしながら作り上げたアメリカの大統領制度ですから、今のアメリカの大統領
 はものすごい強権をもっています。世界各国の首相、大統領に比べると、ほとんど選挙
 制度で選ばれる国王と言っていいほどです。行政権には独立命令である大統領令の発令
 が含まれ、立法には通過した法案への拒否権、軍の最高司令官としての指揮権をもつな
 ど強大な権限を持っています。 
・江戸時代、立派な藩主はたくさんいますが、実績を調べてみると尾張藩の徳川慶勝ほど
 領民のことを考え、現実的な政治を行なった名君は珍しい。倹約するとなると、自分は
 めざしとご飯しか食べないというくらい徹底する。紙にメモを取るときには、必ず裏表
 を使う。尾張藩の財政を立て直すときも、部下に丸投げにしたりせず、城の御殿に商人
 を呼んで、膝詰で談判しています。本来、大名とは神秘的であるべき存在です。人前に
 出て、商人と話をするなどどんでもないことです。そんな意味で、尾張慶勝という殿様
 はとても近代的な頭を持った名君でした。
・そのころ尾張の支藩である美濃の高須藩にいた松平義建というお殿様は、しっかりと政
 治もしましたが、健康で優秀な子供を大勢育てました。この中の一人、松平義建の次男
 にあたるのが慶勝です。三万石ほどの小藩から養子に来た彼が、見事に尾張本家の財政
 を立て直すのです。 
・慶勝の弟たちも揃って優秀でした。いろいろなところに養子に行って藩主を継いでいま
 す。もっとも有名なのは、会津松平家に行った容保です。ご存じ、京都守護職として佐
 幕の中心的な役割を担います。京都所司代に任じられた定敬、一橋家を継いだ茂栄とと
 もに「高須四兄弟」と呼ばれる優秀な兄弟でした。このうち、容保と定敬はバリバリの
 佐幕側で、会津藩と桑名藩は新政府からは朝敵とにらまれます。慶勝は勤王の新政府側
 ですが、戊辰戦争の会津攻めには、さすがに尾張藩は兵力を送っていないです。 
・盛岡藩士の三男に生まれた新渡戸稲造は、札幌農学校(現・北海道大学)で農学を学ん
 で、いったんは道庁に勤めますが、さらなる学問を志して東京大学に進み、アメリカに
 留学し、帰国して自らも学んだ札幌農学校で教鞭をとります。同郷の後藤新平に請われ
 て台湾に渡り、総督府で精糖産業の基礎を築きます。
・日露戦争後、明治三十年代に世界的ベストセラーになった「武士道」を著したのも新渡
 戸稲造です。国際的に知名度が高い日本人だったので、1920年に国際連盟が設立さ
 れた際、事務次長に選ばれています。教育者として、第一高等学校(現・東京大学)校
 長や東京女子大学学長などを歴任したほか、多くの学校設立にも関係しています。
・新渡戸稲造が事務次長に就任した国際連盟の発足に先立ち、第一次世界大戦後の国際体
 制を決めるパリ講和会議で、日本は人種差別撤廃案を主張しています。アジアの独立国
 として、有色人種のリーダーたらんという姿勢は、多くの国の支持を得ることができた
 のですが、アメリカ、イギリス、オーストラリアなどの反対によって否決されてしまい
 ました。 
・植民地にされないために明治維新を成り遂げ、必死に西洋文明に学んだ日本が、なぜ植
 民地を奪う側に回っていったのか。日清戦争については、明治政府の悲願だった条約改
 正のために、「日本は近代的な戦争のできる強い国になったと示さなくてはならない」
 という意図もあったようです。当時の外務大臣だった陸奥宗光が、はっきりとそう言っ
 ています。そのころの資本主義は、植民地によって成り立つものと考えられていました
 から、いわば「先進国になったぞ」とアピールする戦争だったとも言えます。とはいえ
 日清戦争後の日本は、新渡戸稲造が台湾で実現したように、搾取的なヨーロッパ流とは
 違う植民地経営を行なっています。
・軍事力で他国を押さえつけていこうとする帝国主義国家の側面が強くなるのは、やはり
 日清戦争で巨額の賠償金が入ってきたからでしょう。日清戦争で、当時の国家予算の2
 倍もの戦費を使って勝利を収めると、台湾などが割譲されたほか、使った以上の莫大な
 賠償金が入ってきて、日本は空前の好景気に沸きます。官営八幡製鐵所や京都大学はこ
 の賠償金で設置されたのです。
・日露戦争は、冬に凍らない港を求めて南下政策をとるロシアによって朝鮮半島が奪われ
 るのではないか、そうなったら日本も危うくなる、という恐怖心が起こった戦争です。
 ご存じの通り、どうにか勝つことができて、列強の仲間入りをするわけですが、払った
 犠牲も大きかった。日露戦争の戦死者8万4千人は、およそ1万3千人の犠牲者を出し
 た10年前の日清戦争から急増しています。戦費もものすごくかかりました。国家予算
 の6倍にあたる17億円です。このうち8億円が外国からの借金、9億円が国民からの
 借金と増税でまかなわれました。ところがポーツマス講和条約で、当初の目的だった朝
 鮮の独立こそ守れましたが、賠償金は取れません。おびただしい血を流し、戦費の負担
 に耐えて頑張った国民の不満が爆発して、内務大臣官邸、新聞社、交番などが暴徒に襲
 われる日比谷焼き討ち事件も起こりました。
・日本はロシアから賠償金は取れませんでしたが、ロシアが清国領内にもっていた権益を
 引く継ぐことには成功します。そのひとつが南満州鉄道、いわゆる満鉄の獲得です。そ
 の鉄道権益は、十年もしないうちに広大な日本人街に姿を変えました。

参勤交代から覗く「江戸時代のかたち」
・私たちは江戸時代を固定観念をもって見ています。たとえば大名行列といえば「下にぃ、
 下に!」という声で、手槍を振り上げながら東海道の松並木を歩いてくる。もし出会っ
 たら、百姓、商人はみんな土下座をして顔を上げられないという情景をイメージするの
 ではないでしょうか。しかし、調べてみると、実態はまなり違いようです。まず、手槍
 を立てて、「下にぃ、下に!」という先払いの声。実は、これが許されたのは御三家だ
 けです。そのほかの殿様はできません。これは考えてみれば当たり前でした。殿様には
 それぞれ領国があって、自国であれば自分の領民ですが、江戸に上がってくる最中は他
 国の領地や幕府領(天領)を歩いてくるわけですから、そこの領民に対して土下座を命
 じることは道理としてできません。せいぜい全国を支配する徳川将軍家、御三家までが
 許されたわけです。
・江戸幕府は街道のあちこちに関所を設けて、鉄砲などの武器が江戸に入ることや、江戸
 から地方へ下る女性を取り締まりました。キャッチワードは「入り鉄砲に出女」です。
 江戸に住む諸大名の子女は、幕府に反旗を翻さないようにするための人質ですから、自
 国へ逃げ帰らないように、地方へ下る「出女」に目を光らせたのでした。
・関所を通行するには旅行許可を証明する通行手形が必要です。もっていなければ裏山を
 抜けることになりますが、関所にはやぐらがあって見張っています。関所破りは重罪と
 され、磔刑に処せられるという決まりでした。では山を越えようとしてつかまってしま
 うと、待っているのは磔刑かというと、案外そうはならなかった。役人が「お前は道に
 迷ったんだな、道に迷ったんだと言え」と迫り、「はい、道に迷いました」と素直に答
 えれば、「そうか、通行手形をもっていないのだから、江戸に帰りなさい」となって、
 これで放免されたようです。関所破りには違いないけれども、道に迷ったことにすると
 いう、大変寛大な世の中でした。ひと昔前までは、江戸時代というと支配階級である武
 士が威張っていて、庶民は虐げられたかわいそうな存在だ、厳しい身分社会だったとい
 う思い込みがありましたが、実はそうでもかかったことが、近年、いろいろ明らかにか
 ってきています。
・将軍を君主として戴くことで、石高一万石以上の領地(藩)を与えられたお殿様、すな
 わち藩主が大名です。これが大名の定義ですので九千石の大名というのはありません。
 お侍の中では最高の階級です。それに次のが旗本ですが、こちらは徳川の直臣になりま
 す。将軍の家来ですから、石高の違いはあっても大名とは違う権威がありました。徳川
 の直臣にはもうひとつ御家人があります。旗本と御家人の違いは、将軍にお目見えする
 資格があるかどうか。将軍に直接お目見えできるのが旗本、そうでないのが御家人です。
・徳川幕府の二百六十年間、外国と戦争をしていません。おそらく人類史の中で、戦争を
 しなかった期間の最長記録でしょう。それを保持する国家が日本です。私はこの平和な
 時代に学ぶ姿勢が、今も必要だと思います。徳川幕府の権力の強さ、そして世の中をコ
 ントロールする巧みさ、いろいろなものが組み合わさった上での平和でした。
・参勤交代の効用をまとめますと、政治的にも文化的にも江戸の中心化が進んだことが挙
 げられます。そして安全保障体制の確立です。半分の大名が江戸にいる。しかも人質が
 いる。だからこれは謀反の起こしようがない。しかも参勤交代のための大名行列に、非
 常にお金がかかって軍事費を捻出しようがない。藩の収入の5%が参勤交代にかかった
 と言われていますから、これは大変な出費です。今の日本の歳入ベースが92兆円だそ
 うですから、5%といえば約4兆6千億円、ほぼ防衛関係費の金額に匹敵します。幕府
 はそれだけの支出を強いていたわけですから、各藩は軍事費に回すお金がなくなります。
・現代人はビラミッド型の組織の中で人生を送っています。頂点がひとつあって、階層と
 ともに枝が拡がるように部門が分かれた組織が一般的です。会社勤めや役所勤めでは、
 ピラミッド型組織が当たり前のように思われているかもしれません。ところがこのピラ
 ミッド型の組織、それほどの歴史はありません。おそらく起源は十八世紀、ナポレオン
 の時代でしょう。一人の人間が声をかけて指揮できるのは、理想的には3〜4人、せい
 ぜい5人が限度です。だから3〜5人のグループの長を、3〜5人集めてこれを指揮す
 る人間を一人立てる。それを繰り返して積み上げていったのがピラミッド型の組織でし
 た。今の自衛隊でも最小の単位として班があり、小隊、中隊、大隊、連隊、師団といっ
 た単位で編制されていますし、会社組織も同様です。ピラミッド型組織は、軍隊に起源
 をもち、役所や会社にも応用されたのです。
・江戸時代の組織はどうだったのかというと、これはまったく違います。幕府の最高指導
 者は征夷大将軍ですが、これは象徴的存在でした。徳川幕府の十五人の将軍のうち、政
 治家としてきちんと仕事をしたのは家康、秀忠、吉宗ぐらいものです。体の弱い不健康
 な人が多かったこともあって、多くの将軍は権威の象徴でした。では、実務を行なって
 いたのは誰かといえば、老中と若年寄のツートップです。どちらお役職も大名が就きま
 すが、原則として老中は三万石以上、若年寄は一万石以上の譜代大名であることが条件
 でした。ツートップはそれぞれ定数が5人ほどで、月番交代制で勤務します。
・江戸時代の役人は、ほとんどがこの月番交代でした。このツートップの下にいろいろな
 お奉行様がいたわけですが、すべてダブルキャストで複数いるんです。わかりやすいの
 が町奉行です。ご存じ大岡越前守忠相は南町奉行でしたが、町奉行にはもう一人、北町
 奉行がいました。現在の感覚では、江戸の町を南北に分けた所轄だと思うでしょうが、
 違います。北町奉行所と南町奉行所で月番交代制だったのです。
・幕府もさることながら、大名も旗本も二百数十年も前例の踏襲を続けてくると、古くか
 ら伝わる習慣は、意味も由来もわからなくなります。いったいその習慣が何のためにあ
 るのか、どんな理由や価値があるのかが忘れ去られ、「古いしきたり」というだけで大
 切にされ、踏襲することだけが目的化してしまう。大切なものが消え、どうでもよいよ
 うな末節ばかりが残っていることも少なからずあったはずです。  

あとがき
・昔の人は個の利益よりも衆の利益を優先し、現在よりも未来を大切に考えていた。時代
 が下るほどにそうした理念は失われて、人は刹那主義と個人主義の中に幸福を見出すよ
 うになった。