井上成美 :阿川弘之

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この本は今から年前36年の1986年に発表された作品で、作者の代表作のひとつにな
っている。
この本の題名になっている井上成美という人は、仙台出身の旧海軍軍人で、米内光政
本五十六
と共に、旧海軍における良識派といわれた人物で、「最後の海軍大将」ともよば
れたようである。もっとも本人は大将なんかになりたくはなかったようであるが。
この本は、井上成美の伝記物ではあるが、一般的な軍人の伝記とはかなりちがっている。
それというのも、井上成美という人物は、武将としての軍人とはかなり異色な存在であり、
ほとんど軍人の域からはみ出していた人物であったからだろう。
というのも、井上成美は、軍人としての軍事的な栄光というものからは遠い存在で、何か
華々しい軍事的成果というものを見出すのは難しい人であった。逆に、一時期、指揮官と
して軍事作戦の指揮をとったこともあったようだが、完全に失敗に終ったようで、海軍の
同期からは「いくさの下手な井上提督」と呼ばれていたようで、軍人には不向きの人物で
あったようだ。本人も晩年、自分は教育者に一番向いていたのではというような回想をし
ていたようである。井上は晩年、「私は海軍に入っていなかったら、今ごろきっとお琴の
師匠で身を立てていただろう」言ったことがあったという。

井上成美は、昭和初期から一貫した対米戦争反対論者であった。三国同盟に際しては、必
ず米国との戦争になるとして、米内光政・山本五十六と共に推進論者たちと正面切って対
決したようだ。井上成美の見識の鋭さや態度の一貫ぶりにおいては、米内光政・山本五十
六に比べても、すば抜けていたようだ。
もっとも、井上成美たちの抵抗もむなしく、三国同盟は結ばれてしまい、日本は太平洋戦
争へと突き進んでいった。
敗戦前夜においても、井上成美は米内光政海軍大臣の下で次官として終戦工作に身命を賭
して秘密裏に動いていたようだ。もっとも、その甲斐があったかどうかははっきりしない。
終戦間際になって、米内光政が井上成美を大将に昇格させたため、井上成美は道半ばで、
次官の職を辞しなければならなくなったからだ。どうして国の運命を左右するような重要
な時期に、そのような人事を行なったのか、未だに不明なようである。

戦後、井上成美は、「私の見通しこそ正しかった。私の意見に耳を傾けていてくれたら、
こんな惨憺たる敗戦にはならずにすんだのに」なという発言は、一切しなかったようだ。
井上成美は、公的なものからはいっさい退き、三浦半島の僻村で隠遁して、清貧・耐乏生
活を送り、高潔な一生を貫いた。
そのあたりが井上成美の立派なところだ。それが井上成美なりの責任の取り方だったのだ
ろう。敗戦後に、こういう軍人がいたのか、戦前、戦中、戦後を通じてこれほど見事に己
の信念を貫き通した日本人がいたのかと思うと、正直なんだかとても感激した。

なお、晩年、井上成美は、「人間を神様にしてはいけません。神様は批判出来ませんから
ね」と語っている。このあたりも、昨今、何も考えず早々に元総理大臣の「国葬」を決め
てしまった、現在のこの国のリーダーとは、まったく違うなと感じた。

井上成美は私生活においては、不運続きだったようだ。ったようだ。結婚した相手は、後
に首相となる人物の夫人の妹だったようだが、結婚してまもなく胸の病で病床に伏し、娘
ひとりを残して他界する。その娘も、結婚して一児をもうけたものの、母と同じ病気で、
若くして他界したようだ。このため井上成美は寡夫生活が長かった。
唯一の救いは、晩年に知り合い妻となった富士子という女性の存在だ。彼女に批判的な人
も多かったようだが、井上成美にとって、暗い私生活で唯一の救いだったのではなかろう
か。

ところで、井上成美が戦後隠遁して暮らした三浦半島にある井上別荘(井上成美旧邸宅)
であるが、あるじ亡き後、損傷が激しかったため改装され、「井上成美記念館」として公
開されていたようであるが、2011年の東日本大震災で被害が出て閉館してしまったよ
うである。現在は、どのようになっているのかわからないが、歴史的建築物等にしてなん
とか保存して残せないものだろうか。このまま消えてしまうのは残念でならない。

過去の読んだ井上成美に関する記述があった本:
賊軍の昭和史
昭和陸海軍の失敗
撤退戦の研究
あの戦争は何だったのか
日本は戦争に連れてゆかれる
集団的自衛権とは何か 
ノモンハンの夏


序章
・晩年、東郷元帥をどう思うかと問われて、井上成美は、
 「人間を神様にしてはいけません。神様は批判出来ませんからね」
 と答えている。そのことがのちに国の進路を誤らせたと、彼は考えていた。
・しかし、井上の言う東郷平八郎提督の神格化がいつどんな形で始まったかとなると、必
 ずしもはっきりしな。海軍史に詳しい人の話を聞いてみても、「海軍の軍人が東郷さん
 を神様扱いするなんて、明治の末年ごろには、そんなこと全然ありませんでした」そう
 である。
・軍艦にガンルームで若い士官たちは、あまり品のよくない東郷伝説を公然と口にしてい
 た。佐世保の海軍料亭万松楼に、むかし東郷さんが芸者にふられて泣いた記念の間が
 あるとか、壮年のころ女人と部屋へこもると東郷さんは如何に精力絶倫だったとか、真
 偽不明のそういう小話である。
・ただ、大正と昭和の変わり目あたりから、国粋主義賛美の風潮と共に一種の東郷復活気
 運が生まれて来る。 
・陸軍が企てた張作霖将軍の爆殺を手始めに、昭和初期、きなくさい事件が続発する中で、
 海軍はロンドン軍縮会議の後始末をめぐって二つに割れる。艦隊派と称する恐慌組の勢
 力が強くなり、日本独自の国体論に影響を受けた青年将校、兵学校上級生徒の、天下国
 家を論じる光景が見られるようになる。彼らが五・一五事件を起こすのは昭和七年だ。
・五・一五事件軍法会議の法廷において、
 「目的達成の上は、東郷元帥の許に至って国法を犯した罪を謝する」
 「東郷元帥を戴いて国家の安泰を図る」
 つもりだったと陳述する被告がいた。
 
・第二次大戦関係の戦史戦記を片っ端から読んでみると、高木惣吉少将の著作や米内光政
 を扱った書物の中に、ちょいちょい井上成美という名前が出て来る。米内さん高木さん
 の他にも、末期の海軍にこういう軍人がいたかと、不思議な感じのする提督であった。
・自分では何も発表せず、世間との接触を避けて、三浦半島のどこか僻村に隠棲している
 らしかった。 
・初めて見る実物の井上提督は、粗末な身なりをした痩せぎす禿頭の老人であった。
・「山本神社の件を、どうお考えになりますか」と私は質問した。「戦死されたあと、あ
 のころの空気としては、乃木神社東郷神社の先例があることでもあり、やはり神社を建
 てて山本元帥を祀りたいという動きが、郷里の長岡あたりであったようですが」
・すると、それまで気軽に話していた老人が少し色を成した。
 「ああいうことはいけません。如何に偉功を樹てた軍人といえども、軍人を神格化する
 など、もってのほかの沙汰です」
満州事変から支那事変に至る宣戦無き大陸のいくさについて、
 「あれは、為政者が軍を私兵化し、自分の野心のために国軍を使ったもので、およそ聖
 戦にほど遠い。こんなことで命を捨てさせられる国民こそいい面の皮だと私は思ってい
 ました」
 と言い、海軍の責任者としてそれをチェック出来ず、むしろ同調して対米戦争への道を
 開いてしまった昭和の提督たち、永野修身末次信正及川古志郎嶋田繁太郎豊田
 貞次郎
ら先輩にあたる人々を、きびしい口調で、一々具体例を挙げて批判した。
・現存の人もいるのだが、名前は伏せてもらいたいとか、ここだけの話なんだがとか、そ
 ういうことは一言も言わなかった。井上さんにはさぞ敵が多いだろうなと、私は思った。
・しかし、どんな立場のどんな反批判があるにせよ、米英との戦争に対する井上の予見が
 極めて正しかったのは、戦後誰しも認めざるを得ない事実であった。

第一章
・日本の敗北が決まり、東京湾内「ミズーリ」号上で降伏調印式が行なわれてから旬日後、
 井上成美は第五航空艦隊の終戦事務閲官という役を命ぜられた。明治三十九年兵学校入
 学以来海軍生活足かけ四十年の、これをついの公務にして彼は三浦半島の長井へ隠棲す
 るのである。
・本州西部、四国、九州の各基地に三千以上の特攻機を擁して展開している第五航空隊は、
 徹底抗戦の気構えが強く、厚木の航空隊と同様上からの停戦命令をなかなか受け入れよ
 うとしなかった。あちこちの基地で不祥事件が起きていた。責任者の宇垣纒中将自身、
 「長官が特攻をかけられるなら、私の隊は全機お供します」
 と、頬を紅潮させて申し出る若い搭乗員たちを道づれに、終戦の日の夕刻、彗星爆撃機
 十一機で大分基地を発信し、沖縄へ突入憤死してしまった。
・井上は「一人でやる」ことすら認めなかった。宇垣纒中将沖縄突入の翌日開かれた大将
 会の席上、 
 「責任の地位に在った者が次々と自殺しているようだが、なるほど自殺すれば当人の気
 持としては満足だろうし、自己の生涯は飾れるかもしれない。しかし、これが自殺流行
 の風潮となって、誰も後のことを顧みぬというのでは、国家のために大きな損失だ」と
 の意見を述べている。

・ある会合の席上、三笠宮が、自身陸軍少佐の身分でありながら軍の悪口を言い出したこ
 とがあった。
 「自分は陸軍へ入りたくなかったんだが、陛下の御命令でやむを得ず入った。今の陸軍
 は、お上のお気持ちは踏みにじる、庶民のことは頭から馬鹿にしてかかる。どうしてこ
 のようなことが公然とまかり通るのか、一度徹底的な体質改善をする必要があるのでは
 ないかと思う」
 
・井上は単身、横須賀郊外の長井町荒井の家へ帰って来た。行政上横須賀市の一部に入っ
 ているが、実際は三浦半島最西端の半農半漁村である。残された生涯をこの村で終るつ
 もりだったらしく、横須賀市役所へ転入届け出をすませ、同時に戸籍を移した。菊池と
 いう留守番の大工と、菊池の娘君代が、無冠の人になって帰宅した井上を迎えた。
・長井の持ち家は、眼下に相模湾を望む赤屋根二本煙突の洋館で、村の人たちから井上別
 荘と呼ばれていた。十年余年前、妻喜久代の結核療養所代りに設計したものだが、喜久
 代は完成を見ずに亡くなり、以後、井上が時たま週末の休養に使うだけで、あれが目立
 った。名称は別荘でも、官舎暮し借家暮しの長かった井上に、東京の本邸や地所家作が
 あるわけではなく、「これから先どうやって生きて行く」が、彼自身にも見当はつかな
 かった。
・ただ、戦災で家を失った人に較べれば、ともかく住むところがあり、菊池父娘を雇って
 おくだけの経済的余裕が未だあり、倉庫に相当量の石炭に缶詰類や鰹節や南方占領地か
 ら送られてきたコーヒー豆などが残っていて、彼が極度の貧困状態に陥るのはもう少し
 あとのことである。
・大工の菊光平は、たまたま井上と同郷仙台出身の、年をとった律義な忠僕であった。
 潮風で傷み易い家を、資材不足の中、何とか補修し、「別荘」へ通じる畑道の草刈りを
 欠かさず、いつ井上が戻って来てもいい状態にして待っていた。
・昭和初年喜久代夫人の健在なころ、長女を鎌倉の家へ女中奉公に出したのが縁で井上を
 尊敬するようになり、あとの娘たち二人も、次々井上家へ上げて結婚前の行儀見習いを
 させた。二番目の春子は少将時代横須賀の官舎と東京幡ヶ谷の家で、三女君代が江田島
 の校長官舎で井上のそばに仕えた。
・井上は、主従の関係を超えて、実の娘のように君代を遇した。食事は同じテーブルでい
 つも一緒だったし、島内の散歩の折には必ず供を命ぜられた。
・「井上大将には、一種のアブノーマル・メンタリティとして少女愛の傾向があったので
 はないか」と言う人もいる。
 井上の一生をたどって行くと、四十代でやもめになったあと、浮いた噂一つ見出せない
 代り、身辺に時々点景人物のような少女像があらわれるのは事実である。井上に接した
 時、いずれも十三、四から十七、八の年齢であった。しかし、思春期の女の場合で何か
 それらしき気配を感じさせられたことがあるかとなると、君代を含めて、往年の少女た
 ちから完全に否定的な答えしか返って来ない。
 
・長井の高台には、「井上別荘」のほかに別荘が三、四軒あった。横須賀市内にも逗子に
 も遠い辺鄙なところだが、春になると椿の花が咲き、海に臨む崖の上で鳶が舞っており、
 景色は大変よかった。井上のすぐ東隣りが大竹別荘、少し離れて井上の兄の井上秀二別
 荘、もともと長兄秀二の土地と別荘を頼って、井上はここへ妻の療養所を建てたのであ
 る。秀二の家には知り合いの白井という疎開家族が、大竹別荘にも戦時中疎開したまま
 の後主の家族が住んでいた。この人たちは井上元提督の境遇に同情的であった。
・大竹家の、郁子という長井小学校四年生の女の子は、怖さ半分興味があって、よく垣根
 をぐぐり抜け、井上別荘の庭先をのぞきに行った。
・白井家の娘は俊子といって、大竹郁子より一級上の長井小学校五年生である。父親は井
 上秀二一家とは古い関係があって、弟の成美大将が海外在勤が長かったことを俊子の母
 親は知っていた。英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語までお出来になるというの
 に、ああやって荏苒世捨人のような暮しをしてらしてと、大竹夫人との間で度々噂が出
 た。
・昔ならとんでもない話だけど、井上さん、うちの娘に英語の手ほどきをしてくださらな
 いかしらと、白井夫人が言い出した。月謝が多少ともあちら様の御生活の足しになるな
 らというともりであった。
・「お教えしましょう。必ず出来るようにして差し上げます」と井上は乗り気の様子を見
 せたが、「ただ、謝礼は困る」と何としても取るのを承知しなかった。以後十一歳の白
 井俊子は、毎晩提灯をさげて一時間半ずつ、無給奉仕の井上先生のところへ英語のレッ
 スンに通い始める。
・全国に英語学習熱の高まっている時期で、希望者はほかにもいた。大竹別荘の郁子もや
 がて仲間に加わる。勧明寺の跡取り息子も少しあとで生徒になる。「海軍大将の英語塾」
 と後年呼ばれるものの芽が、こうして生まれることになった。
・このころ、井上の一人娘静子と孫の研一が長井の家へ帰って来た。敗戦の年の暮近くで
 あった。この一年二カ月の間に、静子は次々人並みのつらい経験をした。ようやく安住
 静養の地を得ることができた。二十六歳の未亡人は、亡母ゆずりの胸の病気で、顔色が
 すき透るように白かった。
・長井の別荘なら、空気もいい、新しい魚や野菜もきっと手に入る。研一に正月の白い餅
 ぐらい食べさせてやれるだろう、お祖父ちゃまも少しは気が弱くなっているにちがいな
 いと、それを期待して戻って来たのだが、君代や英語を習いに来る女生徒にはやさしい
 父親が、実の娘と孫に対してはあまりやさしくなかった。
 
・静子たちと入れちがいに、菊池父娘が井上家をやめることになった。光平は身体の具合
 が思わしくなく、茨城在の長男宅へ引き取られて行く。君代は前々からの婚約者が復員
 して来て職も見つかったので、暮れに式を挙げる。持たせてやる嫁入り道具が、下駄箱
 ぐらいしかなかった。喜久代夫人の思い出につながる古い下駄箱を、井上は君代と二人
 できれいに水洗いし、彼女に与えた。
・さしあたり幼い孫と病弱の娘を世話する者がいなくなり、困った井上は、年が明けるの
 を待って近所へ相談に出かけた。交渉の結果、斎藤善次方のミエという二十の娘を、給
 料五十円で、君代の後釜の行儀見習いに預かることが決まった。
 
第二章
・井上成美の英語塾がかたちを成しかけた昭和二十一年春の初め、マッカーサー司令部は
 いわゆるA級戦争犯罪人容疑者の摘発を打ち切った。多くの政治家重臣外交官陸海軍将
 星が逮捕され、すでに収容所入りをしていた。
・同じ時代海軍の同じような要職に在りながら、井上には指名の来る気配が全く無くて終
 った。 
・米内光政は
 「仮に私があの時期、総理大臣であったなら、日本をこの戦争に突入させなかったろう
 と固く信じております」
 と述べ、長年にわたる陸軍の無知独善政治的横暴が国を誤らせたことを遺憾とする口吻
 を洩らしている。
・陸海軍の協調がうまく行かなかった主因は何だろうかとの問いには、
 「陸軍と海軍の教育方針の相違が根本にあったと思います。陸軍は十五か十六の子供時
 分から将校生徒の教育を始めて、若年の者に戦争のこと以外何も教えないのです。彼ら
 は視野が狭く、海軍士官のように外の物事を広い眼で見ることができませんでした」
 と答えた。
 
・満州事変上海事変に関しても、「我が東洋民族が共存共栄のため宿載の禍を転じて永遠
 の福をもたらさんとする意図に発するもの」、自存自衛の正しき軍事行動というのが、
 日本人大方の解釈であった。
・芸術家をふくむ国民の大多数が、大陸の戦乱を国威の発揚の如く受け取っていたけれど、
 海外の半農は全く逆で、日本の信用はガタ落ちになり、日本に対する警戒心がたかまり、
 日本人の野蛮さを巧みに諷刺したカリカチュアが欧州各地のジャーナリズムを賑わすよ
 うになった。じりじり下がった円の為替相場は、五・一五事件のあとさらに急落した。
・井上成美はそのころ、戦略教官の大佐で、東京築地の海軍大学校に勤務していた。
 「一部の者が国軍を政争の具野心の手段として使ったいくさは正義のいくさに非ず」
 「軍人が手近に武器を保有しているのを奇貨として勝手に人を襲えば、ただに殺人者に
 なる下る」
 満州事変、五・一五事件に関する彼の見解はそれに尽きていた。
 雑談の中でも、五・一五事件被告に対して同情なぞ全く示さなかった。
 
・井上が重視したもう一つのものは情報である。日本の海軍は、情報を志す兵学校出身者
 は極めて稀であった。 
 ワシントン軍縮会議当時、日本の外交暗号は全部アメリカ側に読まれていたことが暴露
 されたが、情報防衛情報蒐集の徹底した対策は何も立てられなかった。
・正確な情報の裏づけを持たない作戦計画は、希望的観測で動く神だのみのいくさになる
 と、井上は戦略講義の教材用に執筆し、プリントした学生に配布した。
・九年後、広義の戦略情報についての考え方も、狭義の索敵偵察情報に対する取扱い法も、
 曖昧なままで海軍は対米戦争に突入するのである。緒戦時の総合艦隊には、かつての井
 上の講義を聞いた幕僚が幾人もいたのに、情報軽視の報いが来ているらしいと彼らが勘
 づくのは、ミッドウェーの大敗北を喫してのちになる。
 
・井上成美の妻喜久代は後年首相をつとめる阿部信行陸軍中将の、夫人の妹にあたる。
 色は少々黒いけれど、松竹の大スター八雲恵美子に似ていると評判の、美しい人であっ
 た。ただし、井上側の親戚すじでは、「成美は家庭的に不幸で気の毒だ」と、ある含み
 を以て皆が言っていた。親戚の集まりに加わって睦み合うことを喜久代が殆んどしなか
 った。
・井上が軍務局第一課長に正式発令された日の午後、喜久代は鎌倉市小町の自宅で亡くな
 った。
 金沢の北陸女学校を出た彼女が井上と結ばれて十六年目、夫婦はこの時数えの四十四歳
 と三十七歳であったお茶の水高女一年生の一人娘静子があとに残された。
 
・昭和八年三月、「軍令部条例並に省部事務互渉規程の改定」という難題が井上の肩にか
 かって来た。官庁の起案文書は、標題だけ見ても、どんな危険な内容をはらんでいるか、
 部外者には中々わからないし、通読したところで何をどうするのかよく理解出来ないの
 だが、これは、もしそのまま通せば軍令部に戦争決定のフリーハンドを渡すに近いもの
 であった。
・軍令部長は伏見宮博恭王であった。「軍令部条例並に省部事務互渉規程の改定」の試案
 を見せられた伏見宮は、「私の在職中でなければ恐らく出来まい、是非やれ」と高橋軍
 令次長を激励したそうで、これは、皇族部長の威光を笠に通してしまえという意味であ
 る。
・試案を通読して、担当局員に委せておける問題ではないと見た井上は、自分でこれを処
 理することにした。 
・軍令部二課長の南雲忠一大佐が直接の交渉相手で、そのうしろに高橋三吉中将、もうひ
 とつうしろに伏見宮がいる。
・南雲は井上に対して、
 「おい、貴様のこの机をひっくり返すぞ」
 「貴様みたいな分らない奴は殺してやる」
 と、脅しをかけた。
・しびれをきらした伏見宮は、
 「書類は一体どこで止まっているのか」
 「それなら一課長を替えればいいじゃないか」
 「この案が通らなければ、私は軍令部長を辞める」
 と言い出し、井上と一緒に反対していた大角海軍大臣も次官の藤田尚徳中将も寺島軍務
 局長
も、ついに折れた。「では宮様にお辞め願おう」と言える人はいなかった。
・「こんな馬鹿な案によって制度改正をやったという非難は局長自ら受けるから、まげて
 この案に同意してくれないか」と一課長に井上を抜擢した寺島健軍務局長が、肩に手を
 置いて懇願するように言うのに、井上は同意しなかった。
・「自分が正しくないと思うことに、私は同意出来ません。私は節操を捨てたくありませ
 ん。どうしても通す必要があるなら、一課長を更迭してこの案に判を捺す人を以て来ら
 れたらよろしいでしょう。こんな不正の横行する海軍になったら、私はそのような海軍
 に居たくありません」
 井上は、それだけ言って、軍服を背広に替え、鎌倉の家へ帰ってしまった。
・井上に、待命予備役編入の前提であるような無いような辞令が交付された。一課長は阿
 部勝雄大佐に替り、その直後、新しい「軍令部令」と「海軍省・軍令部業務互渉規程」
 が、大臣の決裁を経て天皇の御裁可を得る運びとなった。
・ただし、葉山御用邸へ上奏に赴いた大角海軍大臣は、俗に「一札お取り上げ」といって、
 陛下から突っこんだ質問を受けたあと、一旦書類を下げ渡される。大臣は顔面蒼白だっ
 たそうである。

・条例改定を機に、軍令部長の呼称が陸軍なみの軍令部総長に変わった。軍令部の権限は
 大幅に強化され、海軍省の機能が制度上も人事上も弱体化した。海軍大臣を選出する際、
 軍令部総長伏見元帥宮の御内意を得ることという不文律も出来上がった。
・軍令部の独走にブレーキをかけるはずの海軍省が、逆に軍令部のチェックを受けるかた
 ちとなり、やがて、伏見宮の御覚えめでたからぬ所謂条約派の提督たちが次々海軍を終
 わる結果となる。
・不思議なのは、井上が結局首にならなかったことである。彼がまだ将官でなかったから
 か、あまりの硬骨ぶりに伏見宮が感心したのか。
 
第三章
・春光のどかな三浦半島でも、敗戦後三年目の世相は険しく、人の心は荒んでいて、こと
 に男子中学生一部の非行が目立った。畑の作物を盗むとか、隠れて煙草を吸う、授業中
 教室を窓から逃げ出す、その程度はやさしい部類で、山学校というものがあった。
・教室へ出ても面白くない成績不良の男の子同士、山中につどって、木の実をかじって唇
 を赤紫に染めたり、蛇の生皮をはいだり、一日中そういうことをして遊んでいる。下校
 時刻になると山を下って来る。蛇や蛙は、学校帰りの女生徒下級生を待伏せして家の金
 品を持出させる脅し道具に使われた。
・山学校の少年たちから一番ねらわれ易いのは、地の者の眼にハイカラとも小生意気とも
 映る疎開家庭の子供たちであった。井上の隣家大竹別荘の郁子のところ、秀二別荘の白
 井俊子のところ。いずれも母親が娘の服装髪型をなるべく田舎風にさせ、戦争が終った
 のに自警団が要るわねと用心していたが、それでもやられる。
・郁子の弟の小学生が血だらけになって山から担ぎ出される事件が起きた。手首の静脈を
 刃物で十文字に切られて気を失っていた。
・長井中学校教員の誰も、適切な対策が立たなかった。大竹別荘では、傷の治った四年生
 の男の子を福島県二本松市の祖父の家へ再疎開させてしまった。
・問題児を一人一人呼んで、「あんたらをみんな、英語に通わせる。井上先生のところへ
 連れて行って、よくお願いします」と半ば本気で申し渡すと、意外な反応があった。
 「いやだ。別荘の大将はおっかねえからいやだ」
 真剣な表情で、一様に尻込みした。
 
・少年少女の授業料について、ある時期から父兄の申し合わせによる一人五十円の月謝が
 支払われるようになったが、それまでは一切無料であった。月々五十円の取り決めが出
 来てのちも、払う父兄の方で、あれじゃおやつ代に大方消えるだろうと言っていた。そ
 れ以上余分な付け届けは、井上がいやな顔をする。場合によって突き返される。
・皆が心配し、農家の者は野菜や卵や炭を、漁師の家では新しい魚を、直接渡さず、井上
 別荘の井戸蓋の上へそっと置いて帰るようにした。
・井上別荘の台所は貯蔵物質が底をつきかけていた。ミエが手伝いに入ったことたくさん
 あったコーヒー豆も鰹節も石炭も、姿を消してしまった。ミエは引き汐の磯へ下りて、
 貝を掘ったりウニやところぶしを獲ったり、それを主従四人の僅かな食卓の補いにして
 いた。腰に空き缶をぶら下げた井上がついて来ることもある。
・孫の研一はこの春から長井小学校へ通っている。研一の母親は病状があまり思わしくな
 かった。育ちざかりの孫と病気の娘に栄養を摂らせる必要があるのだが、闇の食料は買
 おうにも買えなかった。
・静子は二年前長井へ引き移った当座、部落婦人会の仕事を手伝ったり、組合の養豚部で
 豚の世話をしたり、レース編みの内職をしたり、ともかく働いていたが、胸の病気が進
 んで、おいおいそれも難しくなった。
・井上は、目ぼしい家財道具衣類、次々売り払って孫の養育費、娘の療養費に充てていた。
 隣の大竹別荘に、静子の三面鏡とか錦紗の晴れ着とか、買ってもらえないかという内緒
 の申入れがしばしばあった。長年愛着の深いピアノも、手放さざるを得なくなっと、大
 竹夫人が相談を持ちかけられた。

・英語塾の生徒と土地の学校教師以外、訪客はほとんど無い。ただ、誰から伝え聞くのか、
 時たま横須賀基地の米軍将兵が訪ねて来た。旧敵国の軍人でも海軍同士だと奇妙な親近
 感を持つのが、万国海軍共有の気質だが、真面目なインタビューを求める士官は少なく、
 唇を赤く染めた女を連れて、多くは好奇心半分の兵隊の訪問であった。
・そのころ、宮中より使者が長井を訪れたとの伝聞がある。葉山御用邸での記録を含めて
 宮内庁の文書に全く記載がなく、事実かどうか分らないけれど、あまりの貧窮乱雑な有
 様を見るに見かねた陛下のお使いは、一旦立ち去り、しばらく時をおいて正式に口上を
 述べに再訪した。井上は玄関口を掃き清め謹んで承り、
 「私のやったことが天子様の御心にかなった。これで死後、大きな顔をして両親に会う
 ことが出来る」
 あとでそう洩らしたと、一部に伝えられている。
 
・昭和二十二年の春、米内光政が亡くなった。目黒富士見台の自宅で仏式に葬儀と告別式
 が行なわれた。旧海軍からも政財界からも大勢の人が参列したが、井上成美の姿は無か
 った。
・横須賀「小松」の女将山本直枝も、井上の姿が見えないのを不審に思った。もしかして
 加減でも悪いのではありまいかと、長井へ電話をかけてみた。
 「申し訳ないと思ったが、実は娘の容態が思わしくない。一人では何も出来ない有様な
 んだ。心の中で、遠くから米内さんにお詫びしておいた」
 と井上は答えた。
 
・この年の夏、水泳の古橋橋爪選手が、日本選手権水上大会で千五百メートル自由型に世
 界新記録を樹立した。
・長井でも人々がしきりに古橋橋爪を話題にしていたが、井上家の家計は、その頃落ちる
 ところまで落ち込んだ。
 「うちじゃもう、あんたのお給料払えなくなったのよ」
 病床の静子に呼ばれて、ミエは解雇を言い渡された。やめるに異存はないけれども、実
 家から時々味噌醤油芋沢庵、台所へ持ち込んでいるのを、ミエは隠していた。自分がい
 なくなったら、この一家はどうするのだろう、そのうち栄養失調でみんな倒れてしまう
 のではないかという気がした。
 
・大竹別荘の郁子は、英語レッスンの楽しみと寒天版印刷助手の役割を失い、毎晩家で勉
 強していたが、夜半雨戸をコツコツ叩く者があり、あけてみると井上が立っていた。
 「娘の様子がおかしい。ちょっと来てください」
・井上家にはまとまった不時の貯えなぞ無かった。東京から駆けつけた研一の叔父叔母、
 丸田家側が費用の大部分を負担し、あとは部落の組合総出で弔いの支度を調えた。英語
 塾の子供らは棺に草花を供え、白井夫人や大竹夫人や近所の主婦たちは野菜こんにゃく
 を持ち寄りで通夜の煮炊きをした。土地の風習にしたがった粗末な葬式が営まれた。
・研一は、悲しいという実感があまり湧かなかった。
 「お母さんはもう行ってしまうんだ。さよならしなさい」
 祖父にそう言われて、開かれた柩の中の母にぴょこんと頭を下げた。
・二十九歳の寡婦の遺骸は、近くの焼場へ運ばれて薪の火で長い間かかって骨になった。

第四章
・海軍士官にとって最高の学問の府も、時代の思潮の完全な圏外には立っていなかった。
 三上卓や山岸宏のような右翼過激派の士官が何者かの影響下にあらわれ、何故勢いを得
 るようになったかを、海軍の人事制度にだけ即して考えてみると、末次信正提督の存在
 が浮んで来る。
・米内光政中将が、末次信正長官と酒席の口論になり、
 「五・一五事件の陰の張本人は君だ。若い者を焚きつけて、あんなことを言わせたりや
 らせたり、甚だ以てけしからん」
 と、二期先輩の胸ぐらをつかんで詰め寄ったという噂も、それを立証するもののように
 思われた。
・陸軍軍務局長の永田鉄山少将が殺されたのは、井上の比叡退艦後すぐであった。ソ連と
 の衝突回避、部内統制強化を主張する永田少将は、皇道派青年将校の間で評判がよくな
 かった。彼らに人気のある真崎甚三郎大将を教育総監の椅子から追い落とした張本人、
 「天皇機関説を奉じ、昭和維新を阻止せんとする中心人物」と見なされて、省内軍務局
 長室で執務中を、突然入って来た相沢三郎という歩兵中佐に斬られた。
・右翼の檄によれば、永田らの背後に元老重臣の陰謀があることになっており、これはこ
 のあと、一少将の刺殺事件くらいで収まりそうもないと、井上は感じていた。
・事が成ったら維新政府の首班と目されていた真崎甚三郎大将は、事件発生当日「お前た
 ちの気持ちはヨーウ分かっとる、ヨーウ分かっとる」と、佐賀弁で首謀将校を激励した
 そうだし、少将クラスはみんな内心、彼らのとった行動に同情的である。多くの陸軍高
 官が、今の天皇さんにも困ったもんだ、生物学のご研究なぞより、国家革新にもう少し
 理解をお持ちになるがいいと思いっている。
・年恰好も容貌もよく似た義弟が間違って射殺され、そのため官邸女中部屋の押入れに隠
 れていて助かった岡田啓介首相は、総辞職後、政界の表面から身を引いた。
 
第五章
・支那事変がすでに四カ月目に入っていた。海軍は、艦隊航空隊の一部を戦線へ投入して
 いるけれど、米内山本の最上層部が大陸の戦火に消極的、陸軍のやり方に批判的である
 のは、部内周知の事実であった。
・山本五十六次官は、盧溝橋事件突発の報を聞いて、「陸軍の馬鹿がまた始めた」と腹を
 立て、好きな煙草をやめてしまった。
・昭和十三年一月、首相の近衛文麿は、「今後国民政府を対手にせず」の声明を発表した。
 東亜同文書院院長大内暢三が、
 「何という馬鹿だ。中華民国の唯一の指導者と世界が認めている?介石を、対手にしない
 などと、陸軍にかつがれて自ら交渉の道を閉ざすような声明なんか出して、近衛はほん
 とうに馬鹿だよ」
 と慨嘆したとうさが、海軍省の首脳三人も、上海から伝えられる大内の意見に賛成であ
 った。これで事変の解決はますます難しくなり、英米との溝がさらに深まるだろうと見
 ていた。
・近衛公は、五摂家随一の高い家柄と、若くて知的で革新好みの姿勢が買われて陸軍の強
 力な支持を受け、国民の各層からも、何か新時代に清風をもたらしてくれそうな期待を
 抱かれたけれど、海軍側の見方はちがった。「総理として統一性も主体性も無い五目飯
 のような人」というのが井上の近衛評で、ジャーナリズムの表面にあらわれるものと、
 米内山本井上の考えていることとの隔たりは大きかった。
 
・ヒットラーの「我が闘争」の日本版は、昭和十二年末に出ているが、原著のほうに、ア
 ーリアン民族至高主義者のヒットラーが、日本人に対し露骨な侮蔑と嫌悪感を示した箇
 所があるのを読んで、井上は省内各部局へ軍務局長名の通達を出し、その点について注
 意を促した。
 「ヒットラーは日本人を想像力の欠如した劣等民族、ただしドイツの手先として使いな
 ら、小器用で小利口で役に立つ国民と見ている。彼らの偽らざる対日認識はこれであり、
 ナチス日本接近の真の理由もそこにあるのだから、ドイツを頼むに足る対等の友邦と信
 じている向きは、三思三省の要あり、自戒を望む」
 
第六章
・井上の読むものは横文字が多かった。思索第一主義で、「考える、頭を使え、アングル
 を変えて物事を考察する力を養え」と、若い幕僚たちへ口癖のように言った。
・井上は琴、ピアノ、ギター、アコーディオンが自分で弾けるのだが、音楽面のそういう
 天分は、おそらく育った環境と遺伝によるものであった。
・伊達一門石川氏の領地、阿武隈沿いの角田の町に、維新前、石川家三十七代目の石川義
 光という領主がいた。この領主の第十女、安政二年生まれのもとが、維新後、旧幕臣宮
 城県庁一等属井上嘉矩の後添いに入って、成美ら男兄弟九人を産む。つまり、角田藩最
 後の藩主が井上の母方の祖父である。

第七章
・三国同盟承認に関する大臣説明会への出席のため、山本五十六は、近衛首相のたっての
 希望で荻窪の近衛私邸荻外荘を訪れ、その席上、日米戦争になった場合海軍の見通しは
 どうかと聞かれて、山本が、
 「それは、是非やれと言われれば、初めの半年や一年はずいぶん暴れて御覧に入れます。
 しかし、二年三年となっては、全く革新が持てません」
 と答えたのは、有名な話だ。これについて意見を求めると、井上が
 「失敬ながら、山本さんいけません」
 と言った。
 「近衛という人は常に他力本願で、海軍に一言やれないと言わせれば自分は楽だという
 考え方なんです。さぞ言いにくかったろうし言いたくなかったろうと察するけれど、敢
 えてはっきり言うべきでした。事は、国家百年の運命が決するかもしれない場合なんで
 す。そうでなくても責任感の薄い、優柔不断の近衛公に、半年や一年ならたっぷり暴れ
 て見せるというような曖昧な表現をすれば、素人は判断を誤るんです。総理、あなた三
 国同盟なんか結んでどうする気か、あなたが心配している通りアメリカと戦争になりま
 すよ。なれば負けますよ。やってくれと頼まれても、自分には戦う自信がありません。
 対米戦の戦えない者に連合艦隊司令官の資格なしと言われるなら、自分は辞任するから、
 後任に誰か、自信のある長官をさがしてもらいたいと、強くそう言うべきでした」
・「私は一度、国軍の本質というものについて考え抜いてみたことがあります。結局、国
 が危急存亡の淵に立たされて、もはや凡百の政策も役に立たぬ、国家の基本となる独立
 保持のためギリギリ何とかせねばならぬ、その瀬戸際に立ち上がるのが軍隊の使命だ、
 したがって、失政の糊塗策として国軍を使うとか、満州事変のように為政者の野心やミ
 エで国軍を動かす、これは罪悪だと考えた。その手のいくさを始めて、国民の生命を犠
 牲にし財貨を捨てさせる、そんな権利が国家にあるものか。だけどね、歴代総理大臣の
 中に、このような戦争で国民を死なせては可哀相だと言った人は一人もおりませんよ。
 ただ、勝てるか、大丈夫か、その不安ばかり。それも中学生の作文みたいないい加
 減な戦略論が大威張りで通用していた時代に、米内さんだけが、勝てる見込みはありま
 せん、やるべきいくさではありません、やれば必ず負けますと言い張って、終始一歩も
 ゆずらなかった」
・「三国同盟を呑んだ海軍側の最高責任者は、大臣の及川大将です。及川大将はロジック
 が無いんです。温厚誠実ないい人だけで海軍の責任者はつとまりません。誰が及川を大
 臣に持って来たのか、あの定見の無い無能ぶりを陸軍が承知していて、近衛あたりに推
 薦したとしか考えられない。実に不謹慎極まる人事でした」
・「天子様は初めから不賛成ですよ。満州事変以来、やっちゃいかん、国民が難儀する、
 やるな抑えると、機会ある度、その衝の者に言いつづけて来られた。それを、なしくず
 しに、なだめすかして三国同盟の御裁可まで持ち込み、挙句の果てが、当然の帰結の対
 米戦争を戦って徹底的敗北を喫してしまった。世間普通の人間なら、腸の煮え返る思い
 でしょうよ。御信任にお応えすべき立場の者が、みなで寄ってたかって、天子様だまし
 ていくさを始めたようなもんなんだ。それで最後は、再び無責任も甚だしく、自分ら自
 殺して、後始末だけ天子様に押しつけたんですからね」
 
第八章
・時々、奥津ノブ子という軍需部の少女給仕が遊びに来て、井上の側にじっと座っていた。
 正月、官邸で催した映画会へ仲間たちと招ばれた時、井上に挨拶して気に入られ、それ
 以来長官宿舎へ出入り自由のかたちになっている娘であった。色の白い可愛い子で、小
 田原の小学校高等科を出てすぐ南方行きの海軍軍属を志願し、未だ満の十五歳になって
 いなかった。いくら気に入りの相手であろうと、井上は面白おかしいことなぞ一切言わ
 ない。娘の方も余計なお喋りはしない。仄かでも男女関係を想像させるような雰囲気は
 全く無かったけれど、黙って向い合っているだけで、お互い気持は慰まるらしかった。
・元大阪商船南米航路船のぶらぢる丸が、婦女子民間人の引揚者、軍人軍属の転勤者多数
 を乗せて、トラックを出港した。船客の中に奥津ノブ子がいた。
・島における彼女の生活は、十五歳の小娘が女子寮の一部屋に住んで身のまわりの用に島
 民のメイドを使い、毎日軍需部へ出て雑務をしていればいいという大様なものであった。
 三十余円の給料に戦時加俸がついて、月々親元への送金もたっぷり出来た。井上司令長
 官には可愛がってもらうし、何も不服は無かったけれど、南洋暮しがいつかもう一年半
 になり、さすがに家恋しさがつのって来て、帰ることに決めたのであった。
・夜半すぎ、彼女は三人部屋の上段ベッドで眠っていた。船尾の方に強いショックを感じ
 て眼がさめた。緊急事態を告げる汽笛が断続して鳴り出した。船体はすでに大きく傾い
 て、身体が寝台の片端へ磁石で吸いつけられたようになり、いくらもがいても手が届か
 なかった。物の崩れ落ちる音や女の泣き叫ぶ声に混じって、「高い方へ進んで、高い方
 へ」と指図しているボーイの上ずった声が聞こえた。すべる靴を脱ぎ捨て、何か鉄の器
 具につかまって、辛うじて一つ上のデッキへよじ登ることが出来た。波がもう周りを洗
 っていた。泳げないのにどうしようとしゃがみこんだ途端、大きなうねりが来て彼女の
 身体をさらって行った。
・奥津ノブ子たちぶらぢる丸の生存者を満載した三隻のボートが、漂流二十三日眼に友軍
 の飛行機に発見された。次の日トラックへ帰り着くことが出来た。携帯品一切を失った
 ノブ子は、着の身着のまま、大方一カ月ぶりの夏島の桟橋に上陸した。
・衰弱の恢復は早かった。退院を許されてすぐ、丘の上の長官宿舎を訪ねて行った。井上
 は、「よく生きて帰って来た」「済まなかった」可哀相なことをした」と何度も言い、
 思いつく限りの品物を出して彼女に与えた。
  
第九章
・この年、夏から秋にかけて、井上別荘には割りに頻々と訪問客があった。都立三田高校
 生となっていた大竹郁子は、夏休みが始まって間もなく、友達と三人づれでやって来た。
 東京引越しの際締めて、それきりの自分の家へ、風通しを兼ねて泊るつもりだったが、
 長井の丘の上までたどり着き、さあここよと勝手口から入ろうとしたら、鍵を持って来
 るのを忘れていた。困った彼女は、いずれによせ顔出しせねばならぬ隣家の裏庭へ廻っ
 て行った。
・「井上せんせん、郁子です」
・本を読んでいた先生に挨拶をし、これこれなんですけど私たち三人、一晩泊めて頂けま
 せんかと頼んでみた。女の子が三人泊りこめば、洗濯もする、料理も作る、独りぼっち
 の淋しいお暮しだから、もしかしたら却って喜んでもらえるかもしれないと思ったのに、
 井上は、「泊めて上げたいのは山々だが、私は男です」と言った。
・「歳ごろになったお嬢さん方を、男一人の家へ泊めるわけにはいかない。その代り、以
 前白井俊子さんたち一家が住んでいた私の兄の別荘に、今私と知り合いの婦人が入って
 おります。紹介して上げるから、そちらでお泊んなさい」
・勝って知ったすぐ近くのその別荘に、五十年輩の女性が、なるほどこれも独り暮らしを
 していた。田舎者のようでいて妙に粋なつくりの、不思議な感じの人であった。猫をた
 くさん飼っていて、猫くさかった。女子高生三人は顔を見合わせた。
・一旦もとの大竹別荘へ引き返し、あちこち突いたり引っ張ったりしているうちに、雨戸
 が一枚はずれた。先生の好意を断り、結局自分のところに泊ることになったが、郁子は、
 「あの女の人と井上先生と、一体どういう関係なんだろうと、不審でならなかった。
・海軍の部下でちょいちょい訪ねて来るのは、昔の比叡飛行長今川福雄であった。今川は
 井上と一緒に小学校の運動会へ出かけた。
 「私は海軍にはいっていなかったら、今ごろきっとお琴の師匠で身を立てていただろう
 と思います」
 突然井上がそう言った。何を聯想したのか分からないし、近くに粋な感じの不思議な婦
 人がいることに今川は気づいていなかった。
・田原富士子というその女性は、花柳流日本舞踊の名取であった。「東京タイムズ」の記
 事を読んで井上の生き方に共鳴し、及ばずながらそういう方のお世話がしてみたいと、
 人の紹介状を持って訪ねて来たまま、夏前から長井に住みついていた。
・井上が大量の血を吐きこの婦人に付添われて病院へかつぎこまれるのは、翌昭和二十八
 年の六月である。
・井上は家の中で吐血して倒れた。近所の農家の者が入って来た時、ろくろく口もきけぬ
 状態で、紙切れに、「隣の別荘の奥さんを呼んでください」と書いて手渡した。
・五十年輩の女に付添われた身なりのみすぼらしい六十男を、市立横須賀病院の長井分院
 は急患として受け付けたが、事務の職員も看護婦も、それがどういう人か知らなかった。
 分院長兼本院内科部長の林信雄医師が、カルテの名前を見てオヤと思った。全くの偶然
 だが、林信雄は山本義雄元少将の従兄、かつ義弟にあたっていた。彼の指示により、長
 井分院は総がかりでこの患者の介抱手当てをしてくれた。四日目には流動食も少し喉が
 通るようになった。それを待って、井上は精密検査の必要上市内の本院へ移送された。
・その四日間、田原富士子は患者につききりで、傍目にも甲斐甲斐しい働きぶりを見せて
 いたが、どういうものか、井上の急を一向外部へ知らせようとしなかった。
・本院の委員長が、「海軍の元大将だそうだから、米ケ浜の小松にだけ通知しといてやれ。
 小松の女将さんなら旧海軍のことは詳しいだろう」と、婦長に電話をかけさせたのがも
 とで、女将の直枝や古いメイドたちが初めて事実を知った。井上大将重態の報は、彼女
 らの口を通じて各方面へ伝わって行った。
・姪の伊藤由里子婦人が、田原富士子と一緒にずっと枕元へ付添っていた。時たま思いが
 けない人が顔を見せることもあるのだが、由里子が席をはずしていると、富士子はそう
 いう見舞客を、「面会謝絶」の貼り札を縦にとって皆扉のところで追い返してしまった。
 由里子は奇妙な感じを拭い切れなかった。
・一番近い血筋は孫の研一だが、もはや縁が絶えてしまったような状態で、誰も祖父の重
 病を知らせなかったし、井上も会いたいと言わず、したがって研一や丸田家側の人々は
 一度も見舞いに来なかった。
・発病前にすでに衰弱し切っていた井上は、体力の恢復が遅れて、退院許可がなかなか下
 りなかった。前後七十五日間を横須賀病院で暮し、ようやく長井の古別荘へ帰って来た
 のは、八月末であった。夏中締めてあった家の掃除からして、またまた富士子の世話に
 ならねばならなかった。
・彼女との間が妙な眼で見られていると、井上は感づいているらしく、
 「世の中には奇特な人があるもんですねえ」
 という風な言い廻しで、富士子の存在を認めてほしそうな素振りを示した。
 「あの人は気の毒な境遇の孤独な婦人でして、御主人を亡くしたあと周りに冷たくされ、
 つてを求めて私のところへ頼って来られたのを、兄貴の別荘に置いて上げたんだが、い
 てもれって助かった。命の恩人ですよ」
・彼女は埼玉県北葛飾郡吉川町の医師易い栄吉四女、浦和高等女学校を経て共立女子職業
 学校卒業、和裁教師の資格を取得、田原家に嫁するも死別して寡婦となる。子無し。花
 柳流日本舞踊の名取。当時五十三歳。
・井上が入院中、軍人恩給が復活した。井上の本籍地神奈川県の県庁宛に請求書を提出し
 ておけば、いずれ年四回に分けて年金の給付が始まる。どうやらこれで、老後の生活見
 通しだけは立つが、さしあたりこの度の入院費用が問題であった。井上には健康保険も
 適用されず、貯えも全く無く、病院の支払いや医師への謝礼、すべてが旧海軍在籍者の
 醵金で賄われていた。
・退院後の井上は、「海軍の人たちが皆親切で」と言い、「兵学校の生徒諸君が自分の命
 を救ってくれた」と言い、その話になると往々、涙を浮べてただ有難がっていた。「命
 の救い主」として彼が終生恩を着るつもりの相手は、一方で何千人かの旧兵学校生徒、
 もう一方に一人の田原富士子らしかった。
・この年の秋、少数の海軍関係者が井上から、実は富士子と結婚した、仲人も立てなかっ
 たし、披露なぞ何もやらなかったが、御覧の通りもうこうして一緒に暮らしている、入
 籍もすませたと聞かされた。
・かねておおよその想像はついていたものの、誰もがあらためてちょっと変な感じを抱い
 た。この初老の新夫人は、戸籍上の自分の名前富士子を富士湖と書きたがる。かかる通
 俗少女小説めいた好みは、少なくとも帝国海軍健在なころなら、一人前の士官の家庭で
 は通用しにくかった。
・現役時代その風姿風格スマートネスの標本のようだった提督の後添いとして、まことに
 ふさわしい方とは思いかねるところが、みんなの胸に澱となって残った。
・しかし井上さんが気に入っておられるならそれでいい、恩給も出たし、これからは貧し
 いながらも平穏で安楽な老年をお過ごしになれるだろう、今までの独身生活がひどすぎ
 たと、彼らは一様にほっとし、ともかくこの結婚を祝福する気持になったが、井上をめ
 ぐる女性たちの間では評判すこぶる芳しくなかった。
・そろそろ一人前の女になろうとする英語塾の女子卒業生たちが、寄るとさわると喧しい
 ことを言い立てた。「先生が変な人と結婚してがっかり」とか、「井上先生を見損なっ
 た」「自分を美化するし、独占欲が強くて、先生を独り占めにしないと気がすまないら
 しい」とか、その種の陰口だったが、富士子に独占欲が強いのだけはほんとうかも知れ
 なかった。

第十一章
・山本五十六の遺骨を積んだ戦艦武蔵が木更津沖へ入港した。その日の午後、初めて、山
 本長官の戦死が大本営から公表された。国葬六月五日、日比谷公園内の斎場で行なわれ
 た。
・中央では、東條総理大臣兼陸軍大臣がさらに参謀長を兼摂するとの発表があった。同じ
 日、嶋田繁太郎海相も、東條の慫慂により、兼職の軍令総長に就任した。
 「国務、統帥の高度の緊密化をはかるため」という政府側の説明を呑んで、各新聞は
 「憲法上の疑義なし」と解説を載せたけれど、それは憲法上疑問があることであった。
・前から悪かった部内における嶋田海相の評判は、これで決定的に悪くなった。課長クラ
 スおほとんどが、「東條の副官」「東條の男妾」なるあだなを、公然と口に出した。
・軍令部三部五課の実松譲中佐は、中立国を通して入って来る情報を分析翻訳の上、
 「昭和十八年暮ごろから、米国は国内の生産態勢を平和産業に切り換え始めた」と彙報
 に書いて嶋田総長に提出し、ひどい叱責を受けた。彼は第一次の交換船で帰国した最後
 のアメリカ駐在武官補佐官である。「総長は昨今の米国事情が充分お分かりになってお
 られまいと思い、御参考までに執筆したのですが」と弁明してみても、「僕の思想に合
 わん」と、取り合ってもらえなかった。アメリカが平和産業に移行しようとしている事
 実が、海軍大臣兼軍令部総長の「思想に合わん」とはどういうことなのか。嶋田大将に
 完全に愛想をつかした。

第十二章
・春ごろから度々聞かされたのは「次期決戦」「次の一戦」という、期待をこめた言葉で
 あった。今度の戦争の天王山となるような日米洋上会戦、次第に熟しているらしかった。
・サイパン・テニアンの攻防をめぐって、マリアナ諸島西方海域にその「決戦」が生起し
 たのは、昭和十九年六月中旬で、結果は、戦後多くの戦史戦記に書かれている通りであ
 る。アメリカ側に喪失艦艇が一隻もなかったのに対し、ミッドウェーの蹉跌後満二年を
 かけて再建された味方機動艦隊は三空母を失い、日本側の一方的敗北に終った。
・七月七日にはサンパン島の陸海軍守備隊が全滅した。
・東條内閣がついに総辞職。小磯米内内閣成立。米内光政は現役に復帰し、副総理格の海
 軍大臣に就任。

・ある日、井上は、「陛下より燃料の現状について御下問があったので、奉答に必要な資
 料を提出してもらいたいと、大臣の指示を受けた。
・軍需局長の嘗め島茂明中将が、「ほんとうのことを書きますか」と念を押した。
・「妙なことを聞くね。陛下に嘘は申し上げられないだろう。何故そんな質問をする」
・「実は」と鍋島局長が答えた。「嶋田さんの大臣当時、御命令でいつも、油は充分ある
 ようにメイキングした資料を差し出しておったものですから」
・「油はもうこれだけしかございませんと、ただ真っ正直に奉答するつもりが米内さん。
 油は未だこれだけございますが嶋田大将。天子様に平然と嘘をつき、陸軍の言いなりに
 なって国を亡ぼす。あんなのを国賊と言うんですよ。国賊の典型だね。自分で自分の力
 の限界ぐらい分かりそうなものなのに、東條にそそのかされて大臣と総長を兼務するな
 んて、そのこと自体能力の無い証拠なんだ」と井上は非難した。
 
・海軍省の機構の中には、井上の気心をよく知っている者が少なからぬ数いた。彼らは、
 米内大将が大臣に返り咲き、「首に縄つけても」と言って井上を引き出して来たのが何
 を意味するか、ほぼ勘づいていた。海軍は新しい陣容で徹底抗戦一億玉砕の道を進むな
 どと、誰も思っていなかった。米内井上と、大きな灯台がともったような気がした。た
 だし、彼らにとっても、「和平」だけは絶対の禁句であった。
・井上も、和平への意志を人に匂わせるようなことは一切しなかった。ただ彼は、連日局
 部長を次官室に呼んで、所掌事項の率直な説明をさせ、軍政軍令の機密書類に、丹念に
 眼を通していた。
 艦船航空機の防御能力一つ取ってみても、日米間にもはや格段の差が生じていること、
 昭和十七年十月の南太平洋海戦で「ホーネット」が沈んで以後、アメリカ側が喪なった
 航空母艦は一隻もない事実、米海軍の戦闘機は、近ごろこちらが十二・七ミリ機銃弾を
 浴びせても、蛙の面に水で逃げもしないというような話が、いくらでも手元へ集まって
 来た。
・井上は意を決して大臣室へ入った。米内と二人差し向かいになって、
 「日本の敗戦は必至で、このままいくさを続ければ、それだけ人命資材国富を失うばか
 りでなく、和平の条件も日に日に悪くなります。一日も早くいくさをやめる工夫をしな
 くてはなりません。今から私は、極秘裡に、如何にして戦争を終結させるかの研究を始
 めますから、大臣限りご承知置き下さい。及川軍令部総長にだけは、私から申し上げま
 す。研究の実施の衝に高木教育局長を充てたいと思いますので、併せてこれも御諒解願
 います」
・高木惣吉少将の、不思議な人事が話題になった。先日まで元気に通勤していた者が突然
 熱海へ転地療養と言われても、誰も額面通り受け取らなかった。ただ彼には、東條政権
 末期倒閣運動をやった前歴があり、東條暗殺の具体的毛行け句を立てていたという噂ま
 であった。  
・熱海の藤山邸滞在中、戦争終結のための問題点として高木惣吉の考えをまとめた項目が
 四つあった。
 一、どうやって陸軍を終戦に同意させるか。
 二、国体護持に関する日本側の危惧と、連合国側の降伏条件とをどう調節するか。 
 三、民心の不安動揺をどうして防止するか。
 四、陛下が決意を固められるために、海軍はじめ各方面で密かな萌しを見せている和平
   への動きを、如何に連繋統合して宮中へ伝えればいいか。
・一番の難題は「一」だというのが彼の観測であった。陸軍省の上層部も参謀本部の中堅
 も、「戦争は未だ五分五分」と称していて、講和の話など持ち出せる雰囲気ではなかっ
 た。
・陸軍は古くから、陸軍第一国家第二、自分らの考えに合わぬ者は天皇さんであろうと誰
 であろうと地獄の底まで道連れにしかねない一種猛烈な体質がある。最近では、東條の
 憲兵政治がその伝統を思わせた。首相当時の東條英機は、海軍や知識人にこそ評判が悪
 かったけれど、重臣、枢密顧問官、宮内省の職員、侍従たちの間では必ずしもそうでは
 なかった。それは付け届けが行き届くからだと、近衛公や岡田啓介大将に聞かされてい
 た。
・司法省の調べでは、東條が政権担当中アヘンの密売で作った金は十六憶だと言われた。
・「戦争に勝つということと、負けたくない気持ちと、負けている事実、この三つを混同
 してはいけない」と井上は何かの折に言っていた。
・高木は「研究」の結果を巨細にわたって井上に報告した。近衛文麿が下々の女に手が早
 いというような話まで聞かせた。 
 「五摂家筆頭の公卿の、生活と性格はどんなものか、知っておいて頂いた方がいいと思
 って申し上げるのですが、押入れの中で女中を手籠めにした自慢など、自分の方から平
 気で喋ります。湯河原の天野屋で、細川護貞を高松宮様の情報係にどうだろうという相
 談をした時、食後の雑談になったら、『おい、さっきのお給仕をしてくれた女中ネ、あ
 れ沢蘭子によく似ているじゃないか』と、ぬけぬけと言い出した。アムールに対するの
 と同じくらい近衛侯爵が国事に熱心だったら、日本は三国同盟から対米戦争への道を進
 まないですんだかもしれませんが、どんな時局になろうと、女に対する余裕綽々の審美
 眼が働くところだけはさすがです」
 
・大臣の米内は、何処かで一度米軍をしっかり叩いてから和平へ持ち込みたい意向のよう
 だが、その望みはもはやあるまいという井上の判断であった。
・このままでは国が大変なことになる、戦争終結の道を講ずるべき時だと考え始めた中堅
 士官が、省内に何人かいた。井上次官の密命を承けて、高木惣吉少将が九月からその作
 業を実際にやっているとは、誰も知らなかった。
・「精神力とか大和魂とか。盛んに鼓吹するが、物量の裏づけの無い近代戦なんか、やる
 抜けるものではない」と口にする中堅士官もいた。鹿児島の出身で、西郷隆盛の次に尊
 敬しているのが井上成美中将という人であった。
 
比島沖海戦の敗残艦隊が内地へ帰って来た。長門と大和が、その中にいた。碇泊してい
 るだけで莫大な油を食う生き残りの大戦艦をこれからどう処置するかは、作戦当局にと
 って頭の痛い問題であった。長門の方は当分動かさない方針で、横須賀湾内小海岸壁に
 繋留と決まったが、大和まで露骨に厄介者扱いにしては具合が悪いらしく、呉工廠のド
 ックに入れて損傷箇所の修理を行なうことになった。
・この件について井上次官は、
 「軍令部は、今になっても未だ戦艦に対する執着を捨てきれないのか。真珠湾やマレー
 沖で、戦艦が航空機の敵とはなり得ないお手本を、他ならぬ我々が世界に示し、今度の
 比島沖海戦では、戦訓に学んだアメリカが、武蔵をはじめ多数の大艦を飛行機で沈めて
 見せた。それでもない眼が醒めない。無用の長物の修理なぞ、いい加減にやめたらどう
 か」と主張した。しかし、アメリカが依然戦艦を持っているからとの軍令部側の反論で、
 結局有耶無耶にされてしまった。
・呉の軍港には、大和のほかにも応急修理を要する小型艦艇がたくさん入っていた。高角
 砲を主兵装とする新鋭駆逐艦の「涼月」も入港した。涼月砲術長の倉橋友二郎少佐は、
 今後いくさの役に立つのはこういう性能の良い小型艦だけだと思っていた。
・「意見具申に参りました」と倉橋少佐は次官室を訪れた。一少佐が本省の次官室へ意見
 具申に乗り込むなど、ひどいルール違反だったが、よし、話してみろと、井上が仕草で
 促した。
 「第一に、大本営発表の余りにひどいでたらめぶりです。あれでは、いつか国民が真相
 を知った時、必ず海軍に対する怨嗟の声が起ります。
 次は、特攻作戦に関してです。あれは作戦の外道です。何とか今のうちに歯止めをかけ
 ないと、やがて特攻戦法が普通の攻撃法という異常事態になりかねません。私は、ミッ
 ドウェー、マリアナ沖、レイテと、三度の作戦失敗で、この戦争はもう先が見えたと思
 っております。国破れて山河だけ残っても何もなりません。もし国が破れるものなら、
 残すべきは人ではないでしょうか。特攻を、今すぐにも禁止して頂きたいと思います。
 第三に、艦船修理のプライオリティの問題です。工廠の工事が大和に集中していて、工
 員何万人かを護する工廠全エネルギーの半分が大和へ注がれている感じで、いずれ立派
 に修理は完成するでしょうが、そうなればきっと又、大和を活かすための無理な戦法が
 編み出されることになります。大和クラスの戦艦が搭載している油の量は、日本中のト
 ラックを一年間走らせるに充分と聞き及びます。これを何と考えられるでしょうか。頭
 が完全な後ろ向きで、物事の順序を取り違えておられるとしか私には思えません」
・「未だそれをやってるか。よく分かった。然るべく取り計らうから、安心してもう呉へ
 帰れ」井上はそう言って砲術長の話を打ち切らせた。
・二日後、呉湾内お涼月のブリッジに立っていた倉橋少佐は、双眼鏡を大和に向けて見て、
 あっと思った。渡り板を渡って工員が続々大和を立ち去って行くところであった。その
 うち、沖待ちの小型艦艇あてに、ドック入りを指示する信号が出た。

・海軍省調査課の調べによると、民間軍需工場の生産力低下はもっとひどいらしく、近頃
 作業能率の一番高いのが刑務所の囚人、次は勤労動員の学生や女子挺身隊隣組工場の主
 婦たち、軍関連工場の工員が最低というデータが出ていた。
・刑務所の囚人の方が軍需工場の工員より生産性が高いという情報をつかんだのは、調査
 課の中山定義中佐であった。
・近頃軍部大臣が秘密会で戦況の詳細を説明すると、翌朝都電の中で乗客がその内容を囁
 いていると言われていた。一旦洩れたら、話には必ず尾びれがついて、たちまち町工場
 の末端まで行き渡ってしまう。連合艦隊は全滅したとか、日本の戦闘機はマッチと言っ
 てすぐ火がつくからいくら造っても無駄だとか、空き腹に聞かされれば、誰しもやる気
 を無くすのは当然であった。いずれを取ってみても、もはや末期現象ばかりという気が
 した。
・どんなかたちで戦争が終るかだが、日本の最後の姿を決めるのは政府でも統帥部でもな
 く、結局のところ陸軍省の中枢にいる佐官クラスの将校群ではないかと、中山は見当を
 つけていた。満州事変以来彼らが示した下剋上の実績からして、そう考えざるを得なか
 った。馬糞けだものと毛嫌いせずに、強硬派の陸軍政治幕僚と接触を保っておく必要が
 あると思うのだが、誰にどうやってアプローチすればいいか、調査課も陸軍の内部事情
 には疎かった。
・中々道がつけられずにいたら、四カ月ほど前、思いもかけず向うから会談を申し込んで
 きた。軍務局軍務課の畑中健二椎崎二郎という二人の少佐であった。国を憂えてやま
 ぬ感じの、純情そうな畑中少佐の人柄に、中山は好意を持った。
・中山中佐が、B29の東京空襲が始まって、かなりの被害が出ているが、間もなくあん
 な程度ではすまなくなる。サイパン・テニアンの基地整備が完了すると、アメリカはド
 イツ諸都市に対する絨毯爆撃を上回る規模の空襲を、日本全土にしかけて来るだろう。
 敵の爆弾は、伊勢神宮にも宮城の中にも降る可能性があることを覚悟しておかねばなる
 まい。そう言うと、畑中が色をなした。
 「日本は神国です。そんなことは絶対起こらない」
 起こらないし、我々が神州護持の信念を持って起させないと言い張った。
・中山は、アメリカ人の国民性や国土の広さ資源の豊かさ、科学技術の水準の高さについ
 て、根気よくかつ分かりやすく説明した。青い顔をして聞いていた畑中少佐が、しまい
 に、「そんなら一体どうすればいいのか」と、テーブルを叩いて泣き出した。

第十三章
・戦況はその後も日に日に悪くなって行った。各地の練習航空隊で、燃料不足のため飛行
 訓練を中止する事例が続出していた。ガソリンの補いの松根油堀りに、国民学校の子供
 らまで動員され始めた。
・ラバウルやトラックや、米軍の上陸しなかった南の島々には、数十万人にのぼる陸海将
 兵が捨て駒となって残り、兵隊たちは古い軍歌をもじって、「敵は幾万ありとても、置
 いてきぼりにすればよい」と、自嘲の歌を歌っているということであった。
・米内井上あたりが一番怪しいと目星をつけているのは、陸軍の上層部であった。海軍と
 一部重臣の間にある和平の動きを封じ、徐々に本土決戦へ国内の地固めをして行こうと
 いうのが、さしあたって陸軍の大方針らしかった。陸海軍一元化の名目で実質上海軍の
 解体を目ざす、国防省設置法案の準備が秘かに進んでいた。
・参謀本部の中堅将校で満州の新京へ遷都を考えている者がいるとか、今の陛下を廃して
 三笠宮殿下を皇位に据えようとする陰謀があるとかという話も、井上の耳に達した。
・陸海軍統合案を、陸軍側が公然と出して来た。国防省設置国防軍創設の手始めとして、
 先ず大本営に最高幕僚長を置いてみてはどうかと、最初は打診のかたちで話が始まった。
 「海軍次官は何でも反対」と言われるのを承知で、井上はまたまた反対の意見書を書い
 た。  
・参謀本部と軍令部を合体させて最高幕僚府のようなものを置けば、総幕僚長の地位に就
 くのは必ず陸軍の軍人である。その結果は、陸海どうしても意見が一致しないぎりぎり
 の場合、陸軍の意志によって最後の決定が行なわれることになる。これは、満州事変以
 来彼らの野望だった国家乗っ取りの第一歩であって、どんな大義名分が謳ってあろうと
 も、絶対に受け入れてはいけない。
 
鈴木貫太郎大将が後継内閣組織の大命を承けた。井上はすぐ、「誰が何と言うと米内海
 相留任の線だけは守り抜いて頂きたい。これは海軍の総意です」と告げさせた。「総意」
 とは、実のところはったりで、軍事参議官たちにも軍務局の局長課長にも、当の米内に
 すら、井上は事前の相談をしていなかった。
小磯大将退陣は歓迎だが米内が辞めては困る。自分やいやだが米内にいやとは言わせな
 い。常識的にもこれでは無茶だし、政治倫理上問題があるのも承知しながら、敢えて自
 分流のやり方で押し通した。
・宮中で鈴木内閣の新任式が行なわれた。米内は渋々海軍大臣に留任し、陸軍大臣は阿南
 惟幾大将に替った。見る人によって、はっきり戦争終結のための内閣であった。鈴木首
 相は和平への意志など全く見せず、陸軍の要求をすべて容れて、相変わらず強気一点張
 りの姿勢だったが、大命降下直前、東條が鈴木内閣の誕生に疑問を呈したという情報が、
 井上のところに伝わって来た。
 「国内が戦場になろうとしている現在、よほど御注意にならぬと陸軍がそっぽを向くお
 それがある。陸軍がそっぽを向けば内閣は崩壊する」と言う東條を、岡田大将が強くた
 しなめたとのことであった。
・鈴木内閣成立の日、沖縄へ出撃する大和が、奄美大島西北方を航行中米軍機の集中攻撃
 を受けて沈没した。大和がいよいよ呉を出港すると聞いた時、井上は露骨にいやな顔を
 見せた。
 「何故こんな無謀な作戦を許したのか。戦艦は所詮飛行機の敵ではない。アメリカに大
 和沈没のスコアを稼がせて、彼らの士気を高めるだけだ。第二艦隊の面目を立てるには
 よかろうが、面目の道連れにされる何千人もの将兵が可哀相じゃないか。世界最大の軍
 艦なんだから、残しておけば和平交渉の際、一つの力にはなったろうに」

・不思議なことに、それ以来陸軍が、陸海統合問題についてあまり表だった催促をして来
 なくなった。すっかり鳴りをひそめてしまった。井上は、米内中心に海軍側がいっさい
 の妥協を廃し無言の抵抗を見せたのが効いたのだと解していた。
・もっとも、米内大将には「ぐず政」という若い頃おあだな通り、少し動きの鈍いところ
 がある。陸海軍統合問題はともかく、和平のことになると、いつどうやって戦争を終わ
 らせるつもりか、今一つ煮え切らなかった。
・ドイツ降伏と欧州の戦乱終結に関する一連の情報が入電し始めたころ、井上は「大臣が
 お呼びです」と告げられた。何事だろうと思いながら大臣室へ入ったら、米内が立ち上
 がって姿勢を正した。
 「陛下が御裁可になったよ」「塚原と君の大将新任をよ」
 井上は心外の面持ちで軽く頭を下げた。大将昇進の話は、これが四回目であった。
・「陛下の御裁可があったのでは致し方ありません。普通ならここで、大臣のお取り計ら
 いに対し御礼を申し上げるべきでしょうが、私は申しません。なお、次官は辞めさせて
 頂けますでしょうね。
・あとの次官には、軍務局長の多田武雄中将が就任した。
・戦争終結のイニシアチヴを取って陸軍を引っ張って行けるだけの政治力は、実質上もう
 海軍にしか無い。米内海相に配する井上剃刀次官というのは、そのための理想に近い組
 み合わせで、いずれ機が熟し、海軍主導型の急転換が起こるだろうと、口にこそ出さな
 いけれど、徹底抗戦派以外の者は皆期待していた。それが一緒に突き崩された。
・「大将にすると言われるのは、次官を辞めろということだ。自分がこのまま次官のポス
 トに留まれば、現役の海軍中将全員を侮辱することになる。それはできない」というの
 が井上さんの言い分だが、国が亡びるかどうかの時、職制上の慣例にこだわる必要があ
 るのか。大将次官で何故悪い。自身の潔癖と論理の正しさばかり押し通そうとしないで、
 もう少し泥をかぶる大度を持たれたらどうなんだろうと思っていた。
・米内が説明や弁明を一切しないから、真実は分らないけれど、省内では今回の首脳人事
 についてさまざまな憶測が行なわれた。海軍出身の総理大臣が陸軍中堅の急進派に寛大
 で、その後も一億玉砕当然のような強硬論を唱えつづけているのは奇妙な現象だが、仮
 にそれが真に迫った芝居だとしても、海軍側としては一応老首相の方針を尊重し、陸軍
 の主張もよく聞き、顔を立てるだけの姿勢を示さなくてはならない。「すべて国家乗っ
 取りの策謀。不可と言ったら不可」と毛嫌いするだけの次官では、無用に陸軍を刺戟し
 て、実るものも実らなくなる。井上を陸軍の眼から遠ざけ、あとは自分独りでやると、
 米内さんが悲痛な決心をされた結果だろうというのが一つの見方であった。
・米内海相は譲れぬ最後の一線を日本の国体に置き、皇室をつぶすようなことは絶対して
 はいけないとの意見だが、井上中将は、将来独立さえ保証されればという相手が天皇統
 治の原則を認めないと言っても戦争はやめるべきだと主張していた。次官の考え方に危
 険な要素があると、米内さんが思いはじめた、それで切ったというのが、もう一つの見
 方であった。
・それはちがう。米内さんの井上次官に対する信頼は終始変わらなかった。ただ、血圧が
 異常に高く、二百四十を越えていた。「俺はもうくたびれた」と言って度々大臣の椅子
 を井上さんに渡そうとしたのも、現職海軍大臣に必要な心身の健康状態を保って行ける
 かどうか、自信が持てなかったからだ。米内さんがいやがる井上さんを無理矢理大将に
 仕立てて軍事参議官の閑職へ退けたのは、万一の場合の後継者候補、控えの海軍大臣と
 して残しておきたかったのだ。その配慮が井上さんには通じていないようだと言う人も
 いた。
・「一体総理と陸軍大臣はいくさの前途をどう考えておられるのかと質したところ、二人
 ともトコトンまでやるんだと言う。トコトンまでやるのはよいが、それで肝腎の国体護
 持が出来るのかと訊ねると、トコトンまでやることによってのみ皇位皇統の守護も可能
 になる、したがってトコトンまでやらなくて済む結果になると、不思議な返答であった。
 臨時議会を開いて鈴木首相がこの方針を内外に宣言する予定と聞き、そのあと自分は早
 々に席を立った。海軍大臣を辞めさせてもらうつもりだったが、阿南陸相らに強く引き
 とめられ、やむを得ず翻意した。ソ連がヨーロッパ戦線の兵力を極東へ移動させている
 のを知って、陸軍は一時逆上気味だったけれど、最近何か別の楽観材料が入ったらしく、
 又強気に変わって来たよ」という話しを米内から聞いた。
・陸軍は日ソ中立条約を延長しソ連の好意的中立を取りつけろということをしきりに言う。
 一番恐ろしい相手はソヴィエトで、結局そこへ和平の斡旋を依頼する羽目になるだろう
 が、ソ連を通す場合総統の土産が要る。日本は何をどれだけ犠牲にしてロシアへ差し出
 せるか考えておかなくてはいけないとも、米内は語った。
・陸軍側に戦争終結の意志が全く無いわけではないのだけれど、内部事情があって向うか
 らは絶対言い出せないらしい。阿南なんか、個人として話している時と陸軍を代表して
 話す時と、内容がまるで変わってしまう。終戦の話に乗って来るとすれば、おそらく、
 海軍が弱音を吐くから仕方がないと、責任をこっちへかぶせるかたちで乗って来ると思
 う。今さら陸海どちらが良い子になるかの言い争いなぞ愚かなことで、そのような汚名
 も甘受すべきかと考えているがどうかねとも言った。
 
・中山中佐は、沖縄本島守備隊の陸海軍部隊が最後の総攻撃を敢行したとの大本営発表が
 あった直後、椎崎中佐中畑少佐から、久しぶりに会談の申入れを受けた。この人たとも、
 盟邦ドイツの敗北を知り、B29の焼夷弾で炎上する宮城を眼の当たりも見て、何が感
 ずるところがあっただろう。戦争の前途に対する考え方も多少柔軟になっているのでは
 ないかと想像して会ってみたら、まるきり見当ちがいであった。敵が本土に上って来れ
 ば、相手は極めて不利、味方は極めて有利、これをやってこそ最後の勝利を獲取出来る
 と、二人がかりで強調した。要するに、本土決戦に賛成しろということであった。
松岡洋右元外務大臣は、得意の持論を披露した。第二次近衛内閣の外務大臣の時、アメ
 リカの参戦を防止しようとして三国同盟を締結したのは、今となってみると自分の失敗
 だったかもしれないが、いつかその辺りの詳しい事情を世間に発表したい。一口に言え
 ば自分はアメリカよりドイツが怖かった。ロシア人なんか、ドイツ人に較べると遥かに
 いい人間だとも語った。
・中山中佐は、白井正辰中佐と出会った。椎崎中佐畑中少佐の上司だった人である。
 「海軍側が原子爆弾原子爆弾と言い触らして歩くので困る」と白井中佐は言った。
 「調査団の調査結果が出るまで断定は出来ない。トルーマン声明は恫喝だと我々は見て
 いる。それに万一原子爆弾だったとしても、あれはあれ一発限りで、アメリカはあとを
 持っておらんだろう」

・降伏か否かを決する再度の御前会議が終ったのは十四日正午で、その晩遅く宮中におい
 て、「玉音放送」用のレコーディングが行なわれた。この録音盤を奪取しようとして陸
 軍の一部将校が叛乱を起こし、宮城を占拠する騒ぎがあったが、十五日未明には鎮圧さ
 れた。首謀者の中に、椎崎中佐中畑少佐がいた。クーデター失敗と同時に、両人とも自
 決した。
・八月十五日は晴れた暑い日であった。正午前、海軍省軍令部航空本部その他全部局の職
 員が、焼跡の広場へ集まり始めた。やがて、「全国の聴取者の皆さま御起立願います」
 というアナウンサーの声につづいて、拡声器から「君が代」の奏楽が起った。この時を
 誰よりも待ち望んでいたと思われる井上成美の姿は、列の中に見あたらなかった。
・終戦の詔勅を朗読される陛下の、雑音混じりの声を聞きながら、ほとんどの者が頭を低
 く垂れて泣いていた。放送が終って解散となってもなお、あちこちで暫くすすり泣きが
 絶えなかった。 
大西瀧治郎が腹に軍刀を突き刺し、駆けつけた軍医を、生きるようにはしてくれるなと
 押しとどめ、長い時間苦しんだ末亡くなった。
 
終章
・旧海軍に縁故のある学者文筆家で井上の事蹟を書き残しておきたいと思っている人は少
 なくなかった。学問研究上、戦史戦記の執筆上、必要だからと言って申し込めば、井上
 の方も大抵の要望に応じた。こうして本人の志と関係なく、「最後の海軍大将井上成美」
 の名が知識層の間で追い追い広く知られることになったが、親戚や旧英語熟関係者の多
 くは逆で、最晩年の十年間、彼の存在を忘れてしまったかのように、ほとんど井上別荘
 へ寄りつかなくなった。井上が縁辺旧知と疎遠になった原因の大半は、実のところこの
 「奥さん」にあった。
・英語塾第一期生、大竹別荘の郁子は、満三十歳の子持ちの主婦だったが、先生の誕生日
 はよく覚えていて、お祝いに手製のクッションを用意し、久しぶりで独り長井へ訪ねて
 行った。標札の下のボタンを押すと、富士子夫人が出て来た。郁子の姿を見るなり、富
 士子は玄関の扉をうしろ手でしめて、その前へ立ちはだかった。一瞬、先生が面会謝絶
 の重い病気なのだと思った。
 「主人ちょっと今都合が悪いので、又次の機会にお眼にかからせてくださいね」
 今日はお誕生ですからと、何度も頼んでみたが、「またこの次」としか富士子は言わな
 かった。
 やむを得ず、品物を置いて帰りかけた時、家の中から「どなた?」と井上の声がした。
 「郁子でーす」直接大声で彼女は答えた。
 「上げって頂きなさい」
 それでようやく、中に入れてもらうことが出来た。
・先生七十七のお祝いに私が作ったんですと、男物女物のクッションを手渡された井上は、
 眼に涙を浮かべた。話したいこと聞きたいことが沢山あったけれど、長居をせずに辞去
 した。以後、彼女は二度と井上に会わなかったし、会おうという気持ちも捨てた。
・それとなく問合せてみると、「先生とところへ行くのはもうやめました」と言う人が大
 勢いた。奥さんから邪魔にされてる感じで、何となく足が遠のいてしまってと、理由は
 皆同じであった。
・丸田家側の親戚がやはり、三浦半島ドライブの途中立ち寄って富士子に門前払いを食わ
 されていた。
・トラック島軍需部の少女給仕だった奥津ノブ子も、二十数年ぶりに会いに行って玄関払
 い同然の扱いを受けた。几帳面な長官が、ここ数年、暑中見舞いや年賀状を出しても返
 事をくれないのを彼女は不審に思っていたが、なるほどあの後妻さんが見せずに全部破
 ってしまうのだろうと、納得した。
・江田島の校長官舎で仕えた菊池君代は、夫と一緒に井上別荘のすぐ下まで来て、近所の
 噂を耳にし、恐れをなしで会わずに帰って行った。
・旧海軍士官の中にはこういう経験をした者がない。どのような基準でどんな人が遠ざけ
 られるか、はっきりしないのだが、概して言えば、身内の女性あるいは昔井上の身辺に
 いた女性が一番いけないらしかった。
 
・再婚当初の富士子夫人は、年齢不相応な派手なつくりで土地の百姓を驚かせたものであ
 った。偏屈な大将のところへ困った後妻が来たもんだと思われていたが、半年経ち一年
 経つうち、彼女が部落のしきたりの中へ溶け込もうとする様子を見せ始め、部落の方も
 それを受け入れて、段々皆が親しみを示すようになった。つき合ってみれば、格別高ぶ
 っているわけでも気取っているわけでもなかった。
・井上自身が農家の庭先へ来て話し込むということは殆んどなかったけれど、「天気予報
 の大将」と呼ばれて、彼もまた部落の人々に存外親しみを持たれていた。台風の季節や
 種蒔き刈入れの時期、三浦半島一帯の局地的天候に関してなら、彼の意見を聞いた方が
 気象台の予報よりよくあたる。伊豆半島の噴煙の棚引き具合とか、強風より先に磯へ打
 ち寄せる波のかたちとかをデータに、井上は趣味の気象観測をしていて、求められれば
 それを取次ぐのが富士子夫人の役目であった。
・ある時からそれが変わった。井上先生のとこの奥さんは少し変だという声が、あちこち
 で聞かれるようになった。常に何か疑ってる様子で、人の来るのを嫌い、昔の知り合い
 が訪ねて行ってもひどくよそよそしい。

・孫の研一は、昭和三十九年の春、早稲田の教育学部を出て小学館へ入社し、間もなく同
 僚の近内雅子という女性編集者と恋仲になって結婚式を挙げる段取りが決まった。それ
 でもなお、祖父を訪ねようとしないので、婚約者の方が気になって、「一度、二人で横
 須賀へ伺って正式に御挨拶をして来なくてはいけないと思う」と言い出した。
・研一を育ててくれた叔母の八巻順子に付き添ってもらって、とうとう長井行きを実行す
 ることになった。訪問の約束は、十三年前の失敗で懲りている研一が、電話で取りつけ
 た。
・何しろ少年の頃の僕は祖父に前へ出ただけで膝がガクガクしたんだという話を聞かされ、
 雅子は緊張したが、一方、実の孫にこれほどの恐怖心を植え付けた元海軍の軍人とはど
 んな人だろうと、興味もあった。
・別荘に着き、本人に会って、意外な感じがした。身なりは粗末だが気品のある中々スマ
 ートな老紳士が、にこやかに彼らを迎えてくれた。
・特に研一が、会社で「教育技術」という学年別雑誌の編集をやっていると告げた時、井
 上はテーブルの上に身を乗り出した。
 「そうか、教育方面が専門なのか」
 「僕は軍人だけど、江田島時代の経験からして、自分に一番向いていた仕事は教育では
 なかったかという気が今もしています。僕に本当の跡継ぎが出来たようで嬉しいな」
・富士子夫人が蜜柑や菓子をすすめ、何度も立って茶を淹れ替えて来た。控え目で質素な
 ごく普通のお婆さんであった。晴々した気分で三人は帰途についた。
 「聞いていた話と全然ちがうじゃない」と雅子は言った。
 研一は「ウーン」と考え込んだ。
 
・江田島時代の若手にとって、新宿の古鷹ビルは相変わらず仲間の寄合場所であり、井上
 校長と接触したい時の連絡所でもあった。井上へ月々の顧問料が、引き続き古鷹商事か
 ら支払われていた。
・井上から、顧問料の見返りに、長井の土地建物を老夫婦居抜きで貰ってくれという申し
 出があった。それでは話のすじが違ってしまう。大体そんな物を貰ったら、自分たちが
 世間で何と言われるかわからない。古鷹商事は僅かな金と引換えに井上老大将の唯一の
 財産である家屋敷を乗っ取ったと、噂を立てる人が必ず出て来るだろう。
・しかし、それでは井上さんは気がしまないだろう。「あの爺さんが精神的に大きな借銭
 を背負ったままあの世へ行くようなことがあったら、君たち寝覚めが悪いよ」 
・とにかく貰ってあげなさい。古鷹商事の持ち物にした上で、井上さんたち御健在の間は
 これまで通り住んで頂いて、お二人百年ののち、処分するなり会社の寮にするなり又考
 えればいいじゃないか、ということになった。
・昭和四十四年六月、長井へ出向いて契約書を取り交わした。税金対策上売買契約の形式
 にしたが、実際は約束通りお無償譲渡であった。
・井上の兄秀二の別荘は、すでに長井町へ寄付され、バス停留所のそばへ移築されて町の
 公民館になっていた。 
・今回で井上一族の持ち家が長井に無くなってしまったけれど、契約書に印鑑を捺し終っ
 た井上はせいせいしたように富士子を顧み、
 「今後は私たちがここに住ませてもらうんだよ。私が死んだら、お前は古鷲クラブの使
 用人になるんだからね」と言った。富士子夫人はいやな顔をした。
 
・井上は日本海軍の本質について、 
 「根無し草のインターナショナリズム。陸軍が、あれも俺の権限、これも俺の領分と、
 強欲で傍若無人だったのに対し、海軍は、あれも自分の責任外、これの自分の管轄外と、
 常に責任を取るのを回避した」と語った。
・「あの戦争は負けてよかったという意見もありますね」という発言に対して井上は、
 「三百万近い犠牲者を出しているでしょう。これをどうしますか。その人たちに死んで
 よかったと言えますか。これだけの人の命というものを勝手に奪っておいて、その償い
 が何処にあるか。負けてよかったという理論は、それは負け惜しみです」
 「何故こんな馬鹿な戦争をやったか、真剣にその反省と研究をすべきだと思います。あ
 の作戦は失敗だったとか、この戦争しくじった、負けたとか、そのような簡単な問題じ
 ゃないんだ」
 
・昭和五十年十二月、井上は自宅の病室で満八十六年の生涯を了えた。
・長井の家に残された蔵書の中に聖書と讃美歌があった。「精神分析入門」「心理学入門」
 「性格」等、その種の本の意外に多いのが眼についた。 
・書類束の中から井上富士子名義の預金通帳を数冊見つけ出した。古鷹商事が過去六年間
 月々送った土地建物の管理費は、ほとんど全額、手つかずでこれに積み立ててあった。
 言いくるめられたような顔をして顧問料や管理費をその都度受け取ったのは、一にも二
 にも富士子夫人の老後のため、自分が死んだら奥さんの暮しがどうなるかを案じて、曲
 げたくない節を曲げたのだと、そう思っていた。
 「富士子は私の看病をする為に私と結婚してくれたようなもので、長い間何一つ楽しみ
 らしい楽しみを与えてやることも出来ず、実の可哀相だよ」と語ったという話も聞いて
 いた。
・富士子はしかし、この預金を楽しみに使える状態には再び戻らなかった。夫に一年六カ
 月遅れて昭和五十二年六月、亡くなった。
・古鷲商事所有の丘の上の井上旧居は、社員に利用希望者が無いまま、鍵を閉じられて無
 住となった。 
・隣の夫婦やミエの里の斎藤一家は、畑仕事の休みに、茶を飲みながら時たま井上の思い
 出話をした。
 「葬式に天子様からお供えが来たぐらいだからさぁ、偉い人だったにゃ違いないよ」