あの戦争は何だったのか :保阪正康

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あの戦争はいったい何だったのか。なぜ戦争という手段を選んでしまったのか。この問い
に対して、いまだにこの国は答えを出していない。戦争を起こしたあの時代の指導者たち
はもちろんのこと、71年経った現在までのこの国の指導者たちも、この問いに対して答
えを出して来なかったし、出そうともしなかったように思う。戦勝国が行った東京裁判
その結論とし、自らの国で総括することをしてこなかった。そして、あの戦争に対する反
省もなしに、今になって「押し付けられた憲法だった」などと、身勝手な歴史認識を振り
回す指導者も出てくる始末だ。
結局この国は、今も昔も変わっていないのではと感じてしまう。もし、今の日本が当時と
同じような状況に置かれたら、また同じように戦争に走ってしまうのだろうと強く感じる。
「一億総活躍社会」などという政府のスローガンが出ているが、あの戦争中の政府のスロ
ーガン「一億総特攻」と、とてもよく似ている。今までの憲法を改正して、国民を権力者
の都合のいいように支配したいと考えているとしか思えない人たちが、この国の政治の中
心にいる。そして、そのことに何の疑問も感じず、むしろ自らその人たちを担ぎ上げる国
民がいるこの国は、昔となんにも変わっていないのだ。


はじめに
・「太平洋戦争とはいったい何だったのか」、未だに我々日本人はこの問いにきちんとし
 た答えを出していないように思える。
・広島市の広島平和記念公園にある原爆死没者慰霊碑に記されている「安らかに眠って下
 さい。過ちは繰り返しませぬから」という碑文があるが、何を訴えたいのか、よくわか
 らない。不思議なことに、この文に主語はない。原爆を落としたのはアメリカであるは
 ずなのに、まるで自分たちが過ちを犯したかのようである。
・いわゆる平和教育という歴史観が長らく支配し、戦争そのものを本来の「歴史」として
 捉えてこなかったからだといっていいだろう。太平洋戦争を語る際は必ず「侵略」の歴
 史であるとしなければならず、そして「反戦」「平和」「自由」「民主主義」「進歩」
 といった美辞麗句をちりばめ、史実の理解もなくやみくもに一元的に語ってきた。それ
 で、後は臭いものには蓋と、一切の歴史をそうした枠内に追い込んできた。その結果、
 日本人全体が、歴史としての「戦争」に対して、あまりに無知となるに至ったのである。
 知的退廃が取り返しのつかないほど進んでしまった。
・本当に真面目に平和ということを考えるならば、戦争を知らなければ決して語れないだ
 ろう。だが、戦争の内実を知ろうとしなかった。日本という国は、あれだけの戦争を体
 験しながら、戦争を知ることに不勉強で、不熱心。日本社会全体が、戦争という歴史を
 忘却していくことがひとつの進歩のように思い込んでいるような気さえする。日本人は
 戦争を知ることから逃げてきたのだ。
・太平洋戦争そのものは日本の国策を追う限り不可避なものだったと思い至っている。そ
 してあの3年8ヶ月は、当時の段階での文明論、あるいは歴史認識、戦争に対する考え
 か方など、日本人の国民的性格がすべて凝縮している。最良の教科書なのだ。太平洋戦
 争を通じて、無限の教えを見出すことができるはずである。
・現在の大衆化した社会の中で、正確な歴史を検証しようと試みるのは難しいことかもし
 れない。歴史を歴史として提示しようとすればするほど、必ず「侵略の歴史を前提にし
 ろ」とか「自虐史観で語るな」などといった声が湧き上がってくる。しかし戦争という
 のは、善いとか悪いとか単純な二元論だけで済まされる代物ではない。あの戦争にはど
 ういう意味があったのか、何のために310万人もの日本人が死んだのか。きちんと見
 据えなければならない。 
  
旧日本軍のメカニズム
・「軍部」というのは、参謀本部、司令部などの作戦部、あるいは陸軍省、海軍省の軍務
 局など、軍の政策や戦略を司る中枢部のことをいう。「軍国主義」とは、そうした中枢
 部が発する命令、彼らの時代認識から来る戦略がどういうものだったか、それを指して
 定義するものである。  
・陸軍にしても海軍にしても、軍人というのは大きく二つの構造から成り立っている。そ
 れは、一般徴集された兵士と職業軍人である。一般の兵士とは、戦場における末端の一
 戦闘員のことである。平時の場合でも、二十歳になると日本国民の男子はすべて兵役の
 義務があった。それに対して職業軍人とは、現場の指揮を執る将校を指す。職業軍人と
 なるためには陸軍士官学校や海軍兵学校など将校士官養成のための教育機関を卒業する
 ことが条件となっていた。  
・「統帥」とは、陸海軍すべてを指揮・統率すること、そしてその権限を持つのは天皇で
 ある。陸軍の軍人は何を使命として、何を目的とするか、それは「天皇に奉公すること」
 であり、「我々は天皇の軍隊である」と明確に教えられた。それにより陸軍内では、部
 下をどう指導し、どのような作戦を立てるか、一本の筋の通った命令系統が出来上げる
 こととなった。  
・しかし、昭和に入ると、この「統帥」の名の下で、陸軍は政治の上で君臨する強力が権
 限を作り上げていくことになる。「統帥」が陸大で徹底的に教えられたという事実は是
 非とも押さえておかなければならない歴史である。  
・太平洋戦争開始時、日本の軍人や兵士は陸海合わせて総計で約380万人いた。そして
 終戦前年の昭和19年には、その数、なんと800万人にも膨れ上がっていた。当時の
 日本の人口が約7500万人だったから、10分の1以上の国民が兵士となっていたこ
 とになる。  
・旧日本軍「軍部」は頂点に位置する天皇の下、大きく二つの構造からできていた。「軍
 令」と「軍政」である。「軍令」というのは、一言でいえば「戦争方針を決定する」部
 門のこと。通称「統帥部」と呼ばれていた。「大本営」と言い換えてもいいだろう。
 「大本営」とは、戦時に設置される最高統帥機構と指している。一方の「軍政」は、陸
 軍省と海軍省からなる。統帥部に対して、「軍政」の陸軍省、海軍省は、陸軍大臣、海
 軍大臣の下、飽くまで行政機関の一つという位置づけであった。  
・統帥部とは、天皇が持つ統帥権を付与された機関である。この統帥部は陸軍と海軍の二
 つに分かれていた。陸軍は「参謀本部」といい、海軍は「軍司令」と言った。参謀本部
 には、作戦部、情報部、運輸通信部、戦争指導部などが、軍令部には、作戦部、軍備部、
 情報部などがあり、大本営は全体でおよそ200人ほどの幕僚が詰めていた。
・大本営にいること自体、キャリア組の証しであったが、その中でも参謀本部、軍令部と
 もに、ヒエラルキーのトップにあったのが「作戦部」である。作戦部にいた20人前後
 の幕僚は、特にエリート中のエリート、実際に軍を動かし、戦略を決定していた存在で
 あった。いわゆる「軍部」といった時、指されるのは、彼ら「作戦部」の連中のことで
 ある。 
・一方の「軍政」である陸軍省、海軍省であるが、彼らにしても高級軍人であることは変
 わりなかった。特に陸軍省の軍務局軍務課は、国内、対外政策の立案をする重要なポス
 トであり、優秀な人材が配された。
・念を押しておきたいのは、「参謀本部」と「陸軍省」、「軍司令」と「海軍省」は全く 
 別の組織だということである。一方は「統帥権」を付与された組織である、もう一方は
 「統治権」の内にある組織であった。
・統帥権と統治権は両方とも、天皇の大権として付与されたものであった。この二つは、
 簡単にいってしまえば、「軍事」権と「政治」権のことである。この二者の調整により、
 国策は決定されていた。
・昭和十二年には「大本営政府連絡会議」という場が作られ、そこで両者の意見調整が行
 われた。ここで決定した議案は次に天皇の列する「御前会議」にかけられる。しかし、
 御前会議は飽くまで決定事項を追認する場に過ぎず、大本営政府連絡会議が、事実上の
 国策決定の最高機関であった。といっても大本営側は「統帥権の干犯は許さない」の名
 目で、軍事作戦や軍事行動計画について、一切その内容を洩らさずに独断で決定してし
 まうようになっていく。むしろ軍事作戦を円滑に行うためにいかに政治の側を利用する
 かという目的で、この会議を使うようになっていった。戦争開始後も、どのような作戦
 を進めているのか、決して明かすことはなく、「政府はもっと船を造れ」「飛行機を造
 れ」と催促するだけになっていた。明らかに、「統帥権」は「統治権」より上だという
 考えが支配していったのである。「統帥権の干犯」という言葉は、いわば「魔法の杖」
 であったのだ。シビリアン・コントロール(文民統制)が効かなくなっている。国家と
 して異常な状況にあったといっていいだろう。 
・陸軍における隊の基本は「中隊」にある。戦時には中隊が三つか四つの小隊に、小隊が
 さらに分隊に分けられる。「中隊」は平時100人ほどの編制だ。中隊が三つか四つ集
 まると、「大隊」になる。これで300人規模である。この大隊が三つに機関銃隊ほか
 二つの中隊が加わって集まると「連隊」が構成されるのである。連隊になると2000
 人余の規模となる。さらに、連隊の上に「師団」という単位があった。連隊が四つか五
 つ集まって構成された。師団になると司令部や工兵隊や高射砲隊とかいくつかの部隊も
 含まれるので一挙に1万人規模となる。師団が最初に編制されたのは、明治二十一年、
 師団数は六つであった。第一が東京、第二が仙台、第三が名古屋、第四が大阪、第五が
 広島、第六が熊本に置かれた。時代が進むにつれて増えていき、日中戦争開始前には
 十七個師団、太平洋戦争開始時は四十九個師団、終戦時には一六九個師団を数えるまで
 になっていた。    
・海軍の戦略単位は「艦隊」であった。艦隊とは、軍艦二隻以上を以って編制した部隊を
 いう。編制に応じて戦隊に区分した。日本海軍で軍艦とは、戦艦、巡洋艦、航空母艦、
 水上機母艦、潜水母艦、海防艦、砲艦などである。太平洋戦争中の戦艦は、「陸奥」
 「長門」や戦時中完成した「大和」「武蔵」など十二隻。重巡洋艦は十八隻、空母は十
 隻あった。そして、艦隊二個以上を以って編制し、これに艦船部隊を編入したものを
 「連合艦隊」と定義したのである。連合艦隊司令長官は、天皇に直隷していた。
・「八紘一宇」という言葉は、日本書紀の神武天皇の条に出てくる言葉で、「八紘」とは
 「四方と四隅」を表し、八方のはりかに遠い果てを指す。「一宇」は一つの家のことで
 ある。つまり、この言葉は「地の果てまで一つの家のようにまとめて天皇の統治下にお
 く」という意味となる。東條英機や軍部などは演説でよく使った。また新聞、ラジオ、
 あるいは職場や学校などでも、戦争の意義を説明するものとして日常的に使われていた。
 
開戦に至るまでのターニングポイント
・太平洋戦争開戦直前の日米の戦力比は、陸軍省戦備課が内々に試算すると、その総合力
 はなんと1対10であったという。「1対10」という数字自体もだいぶ身びいきがな
 されて出された数字だったが、データをもとに軍事課では、戦争開始以降の日本の潜在
 的な国力、また太平洋にすぎに動員できる地の利も考慮すれば「1対4」が妥当な数字
 だと判断し、改めて東條に報告がなされた。東條はその数字を、「物理的な戦力比が
 1対4なら、日本人の精神力で勝っているはずだから、五分五分で戦える」、そう結論
 づけてしまった。
・「二・二六事件」というテロが、明らかに時代の空気を歪ませてしまった。テロという
 暴力が、軍人、政治家はもちろんのこと、マスコミ、言論人たちも、そして日本国民全
 体の神経を決定的に麻痺させていった。この「暴力に対する恐怖心」が、日本を開戦へ
 の道へと一気に突き進ませていったように思えてならない。   
・「二・二六事件」が起きたのは昭和11年2月のこと。この時、昭和天皇は36歳であ
 った。天皇は、陸軍の青年将校が「天皇の、君側の奸(天皇のそばにいて国民の思いを
 曲げて伝える者)を討つ」といって決起したと聞いた時、「断固、青年将校を討伐せよ」
 と強く意思表示をしたという。
・テロは、何も「二・二六」が初めてではなかった。それに先立つ4年前、「血盟団事件」、
 それに「五・一五事件」が、日本を震撼させた。「五・一五事件」では海軍士官と陸軍
 士官候補生、農民有志らにより首相の犬養毅が惨殺された。にもかかわらず、当時の一
 般世論は加害者に同情的な声を多く寄せていた。年若い彼らが、法廷で「自分たちは犠
 牲となるのも覚悟の上、農民を貧しさから解放し、日本を天皇親政の国家にしたいがた
 めに立ち上がった」と涙ながらに訴えると、多くの国民から減刑嘆願運動さえ起こった。
 マスコミもそれを煽り立て、「動機が正しければ、道理に反することも仕方ない」とい
 うような論調が出来上がっていった。日本国中に一種異様な空気が生まれていったので
 ある。   
・「五・一五事件」の前年には満州事変が起きていた。関東軍は何の承認もないまま勝手
 に満蒙地域に兵を進め、満州国を建国した。だが、これら軍の暴走、国際ルールを無視
 した傍若無人ぶりにも、国民は快哉を叫んでいたのである。
・青年将校の決起自体は失敗におわったわけであるが、結果的に「二・二六事件」は、彼
 らが訴えていた通りの「軍主導」、とくに「陸軍主導」による国家体制への方向へ進ま
 せることになった。
・「二・二六事件」後、「軍部大臣現役武官制」が復活している。この「軍部大臣現役武
 官制」が、軍が政治にまで介入する「伝家の宝刀」となった。「軍部大臣現役武官制」と
 は、現役の軍人でなければ陸軍大臣、海軍大臣になれないという制度である。
 「二・二六事件」をきっかけに、二度と同じようなことが起こらないようにするためと
 称して、軍の内情をよく把握している現役の将官のみが大臣に就く、としたのである。
 つまり、軍の気に入らない内閣ならば、陸軍大臣、海軍大臣を出さなければいいのだ。
 そうしたら組閣できず、その内閣は潰れてしまう。軍は意のままに内閣を操れることと
 なり、圧倒的な権力を持つようになった。 
盧溝橋事件を戦端に、日本軍は一気に中国国内に侵攻、日中戦争として一方的に戦線を
 拡大させていった。軍の勝手な行動に対して、近衛内閣は、日中戦争を止めさせるよう、
 政治的に働きかけた。しかし、中国の国民政府の指導者である蒋介石と外交交渉で和平
 を結ぼうと努力する度に、ことごと軍部に潰されてしまった。
・また「二・二六事件」後、軍内では粛軍人事が行なわれ、統制派の幹部たちが軍内の一
 切を牛耳るようになっていった。彼らの意に沿う者のみが重用されていった。
・東條にしても梅津にしても、何も決して無能だったというわけではない。ただ彼らは、
 あまりにも「軍人勅論」一筋に無心無欲で励むだけで、広い視野からの価値判断ができ
 ない者たちであった。指導者たりえる人材ではなかったと思える。
・この時、軍にも見識を持ち備えた人材は各所に存在した。例えば、アメリカの駐在武官
 をしていた山内正文。カンザスの陸軍大学に留学し11位の成績で卒業するくらいの秀
 才であった。山内は駐在武官時代、「アメリカとなんか戦えるわけがない」と何度も本
 省に忠告してきていた。やがてそれが東條に煙たがれて外地ばかりを転任するおとにな
 る。   
・そしてもう一つ、「二・二六事件」は当時の日本のある状況に大きな爪痕を残すことに
 なる。それは「断固、青年将校を討伐せよ」と発言した天皇の存在である。天皇は、
 その後一切、語らぬ存在となったのである。まるで自らが意思表示することの意味の大
 きさを思い知り、それを怖れるかのように。「大本営政府連絡会議」で決まった議案が
 「御前会議」で諮られる際も、「君臨すれど統治せず」と、天皇はより徹底して口をつ
 ぐみ、ただ追認するだけとなった。日米開戦が決まるまで、天皇は一貫して開戦に反対
 であったと思われるが、そうした意向も決して表に出すことはなかった。
・開戦前の時期、もし天皇が「断固、戦争に反対する」と語っていたらどうなっていたか。
 のちに天皇は「昭和天皇独白録」の中で、もし自分が開戦に反対したら、「国内が必ず
 大内乱となり、私の信頼する周囲の者たは殺され、私の生命も保証できない」状態にな
 っただろうと言っている。私の生命はかまわないが、「今次の戦争に数倍する悲惨時」
 になったとも告白している。
・皮肉なことに天皇の神格化は「二・二六事件」後、ますます進んでいくことになる。天
 皇を神格化することで、軍部が「統帥権」の権威付けをうまく利用していったのである。
・昭和十五年、この年は「皇紀2600年」に当たった。「皇紀」とは、「日本書紀」に
 記載されている、神武天皇が即位した年を元号とする紀元をいう。神話に基づいての年
 数であった。日本建国2600年の祝い、日本各地で提灯行列が行われたり、奉祝会が
 開かれるなどお祭りムードに沸いていた。それはまるで鬱屈した空気を取り払うかのよ
 うに。
・近衛首相によって「大政翼賛会」が結成され、民政党、政友会など、当時の政党はこぞ
 って解散して「翼賛会」に吸収されていった。つまり、国家危機の時、議会で討論して
 何か結論を出すなどと悠長なことをやっているのではなく、今こそ、「天皇への帰一の
 下、国民は一致団結して国を動かすべき」としたものである。「国民は臣民なり。すべ
 てが天皇に帰一した国家システム」が最終的に作り上げられたのだ。「皇紀2600年」
 の大式典は、こうした「天皇に帰一する国家像」を象徴するものであった。いわば、日
 本は理性を失った、完全に「神がかり的な国家」に成り下がってしまったのである。
・まもなく日本は、ドイツとイタリアを交えた「三国軍事同盟」を結んだ。いったいなぜ
 日本は、ドイツと手を結ばなければならなかったのか。泥沼化するばかりの日中戦争に、
 その遠因があった。南京、徐州、武漢三鎮、いくら都市を攻め落としても一向に埓のあ
 かない戦局に日本中が疲弊感を募らせていた。軍部の指導者たちはその理由を考えた。
 そして出した答えが「援蒋ライン」という考えである。つまり、蒋介石政府がギブアッ
 プしないのは、裏でアメリカとイギリスが軍事物資の援助を行っている「援蒋ライン」
 が存在するからだと。軍部は「蒋介石政府を倒すには、まずアメリカとイギリスが行っ
 ている援助のラインを断たなければならない、悪いのは米英だ」と巧みに導いていった
 のである。ヨーロッパでイギリス相手に快進撃を続けるドイツと手を結ぶのは、もはや
 自然な流れだったのである。
・もちろん「三国同盟」の締結に当たっては、前首相で海軍大将の米内光政、連合艦隊司
 令官の山本五十六、海軍省軍務局長であった井上成美のように同盟反対を主張する良識
 ある海軍軍人もいた。だが、日本を取り巻く「時代の雰囲気」がそれを許さなかった。
・近衛の後継者選びをめぐっては、内大臣の木戸幸一が裏で糸を引いていた。木戸はいわ
 ば天皇の相談役ともいえる側近の立場であった。そして一つの賭けに出る。一番の強硬
 論者である東條を首相に据えることであった。東條は、とにかく天皇への忠誠心に篤い
 男であった。それをあえて利用しようとしたのである。事実、東條は天皇の意をくんで
 今まで通り日米交渉を継続する一方、開戦回避が可能かどうか、今一度、陸海軍省の担
 当者たちに命じて、基本となるデータをすべて出させることにした。しかし、東條の下
 に集まってくる数字はどれも絶望的な数字ばかりであった。特に石油の備蓄はこのまま
 だと、2年も持たないとの結論だった。また、このデータが出されると、海軍の軍司令
 は「このまま油がなくなったら、日本はどうなるかわからない」と執拗に迫ってきた。
 東條は、もはや抜き差しならぬ状況に追い込まれてきた。
・東條は、この時点では、強硬な主戦論者であった。当然、一刻も早く戦争を始めたかっ
 たはずである。それは陸軍の「軍部」の総意を表すものでもあった。でも、東條は、い
 や陸軍は、「武力発動」はできなかったのである。太平洋戦争において「武力発動」が
 できたのは、唯一海軍だけであった。いくら陸軍が、南洋諸島や東南アジアで「武力発
 動」をしたくても、海軍の護衛で運んでもらえなければ、始めようがない。
・あの戦争は、陸軍が始めたわけではない。海軍が一言「できない」といったら、始める
 ことはできなかった。東條は「海軍はどう考えているか」、それを気にしていた。実は、
 本当に太平洋戦争開戦に熱心だったのは、海軍だったということである。そこには、
 「ワシントン軍縮条約」体制のトラウマがあった。ワシントン会議において軍艦の保有
 比率お大枠をアメリカ五、イギリス五、日本三、と決められてしまった。その反発が海
 軍の中にずっと燻り続け、やがてアメリカ、イギリスを仮想敵国と見なしていったので
 ある。ワシントン条約の単独破棄を強引に決めて、その後、一気に「大鑑巨砲」主義の
 道を突き進んでいく経緯があった。対米英戦は、海軍の基本的な存在理由となっていた。
 特に昭和初年代に、ちょうど陸軍で「統制派」が幅を利かせていった頃、海軍でも同じ
 ように、中堅クラスの幹部に多く対米英好戦派が就いていったのだ。「三国同盟」に反
 対した米内光政や山本五十六、井上成美などは、むしろ少数派であった。海軍での一番
 の首謀者は、海軍省軍務局にいた石川信吾や岡敬純、あるいは軍司令部作戦課にいた富
 岡定俊、神重徳といったあたりの軍官僚たちだと思う。 
・石油の備蓄量は「二年も持たない」というのが直接の開戦の理由であった。しかし、実
 は日本には石油はあったのだ。開戦前、アメリカに輸入を止められてしまい、石油がな
 く「ジリ貧」だというのは、一般国民でも知っていることでした。それでそんなに石油
 がないのならと、ある民間貿易会社が海外で石油合弁会社を設立するというプロジェク
 トが起こった。普通だったら喜ぶ話ですが、軍は圧力をかけて意図的に潰してしまった。
 つまり、「石油がない」という舞台設定をしないと、戦争開始の正当化はできない。特
 に海軍は船を動かすことができなくなってしまう、というのが大義名分としてあった。
 それをうまく利用したのである。
・なぜ彼らは戦争を欲したのか。満州事変、日中戦争と陸軍ばかりが表面上は国民に派手
 な戦果を誇っているのに海軍はいっこうに陽があたらない。アメリカ依存の石油供給体
 制を脱し、東南アジアの油田地帯を押さえて、不安のないようにしたい。軍縮条約から
 解放されての建艦自由競争で大艦巨砲主義に相応の自信をもったことなどがあげられよ
 う。だが同時に時の勢いに流されたということも指摘できるように思う。
・現在、我々が理解する開戦の「歴史」は、「陸軍の暴走に日本は引き摺られていった」
 という構図である。戦後の「東京裁判」がいい例だろう。A級戦犯に指定された28人
 の内、陸軍の軍人は15人、海軍はたった3人。その上、絞首刑となった7人は、広田
 弘毅を除いては、全員陸軍軍人であった。「陸軍悪玉説」で納まってしまっている。
 だが、陸軍の軍人には大いに異論がある。あの戦争を始めたのは海軍なのだ。
   
快進撃から泥沼へ
・12月8日、朝7時にラジオから流れてくる臨時ニュースで、日本の国民は初めて戦争
 状態に入ったことを知った。その時、国民はみんな歓喜に沸いたのである。アメリカに
 押さえつかられて背伸びできない鬱屈感があった。イライラした生活から一気に「胸の
 つかえが降りた」という開放感に満たされたのだ。
・開戦前のアメリカ海軍の予想では、日本が最初に攻撃を仕掛けてくる地はフィリピンだ
 と、読んでいた。日本軍の標的はアジアの南方にあるはず。何よりフィリピンには、ア
 ジアにおける最大のアメリカ軍基地があったからだ。だから、日本がハワイに先制攻撃
 を仕掛けてきたと知った時、アメリカの軍事指導者は本当に驚いた。
・私は、この戦争が決定的に愚かだったと思う、大きは一つの理由がある。それは、「こ
 の戦争はいつ終わりにするのか」をまるで考えていなかったことだ。当たり前のことで
 あるが、戦争を始めるからには「勝利」という目標を前提にしなければならない。その
 「勝利」が何なのかを想定していないのだ。 
・山本五十六の構想では、日本とハワイの中間に位置するミッドウェー島をまず押さえて
 おけば、当分は太平洋西部の制海権を固められるはず、と考えであった。加えてこの海
 域に太平洋艦隊の空母を誘い出し一気に叩くという計算もあった。山本五十六には真珠
 湾攻撃の作戦を成功させたという強味があり、軍令部でも山本の意見を無視することが
 できなかった。こうして「ミッドウェー作戦」が進行していくことになる。だが、実は
 「ミッドウェー作戦」は完全にアメリカ側に読まれていたのだ。この頃、日本側の暗号
 通信はすべてアメリカ軍に傍受され、筒抜けになっていたのである。日本軍がミッドウ
 ェーにいつ攻めてくるか、その日付ばかりか攻撃開始の時間まで、正確に見抜かれてい
 たのだ。
・日本の連合艦隊の持つ主要空母のうち、4隻も動員し、南雲忠一司令官が率いる機動部
 隊はミッドウェーに臨んだ。と、突如、高度上空から多数の爆撃機が急降下してきたの
 である。機動部隊は度肝を抜かれるばかりで、反撃をなすすべもなかった。
 その日、東京の軍司令では、満を持した作戦が成功することを確信し、祝宴を張る用意
 もすっかり整っていたという。後は戦勝の報を待つのみであった。敗北など考えてもい
 なかった。しかし、いくら待っても「作戦成功」お報告がもたらされることはなかった。
・「ミッドウェー」に引き続き、日本はこの時期、もうひとつ決定的な敗北を味わうこと
 になる。「ガダルカナル攻防戦」である。海軍は、前線基地としてガダルカナル島に飛
 行場を建設していた。飛行場建設のために設営隊2500名と警備隊150名が島に派
 遣されていた。飛行場は設営隊による突貫工事の末、何とか完成にこぎつけるに至った。
 ところが、完成の二日後の未明、隊員たちが起きてみると、海上を海面が見えないほど
 アメリカ軍の艦艇が埋め尽くしているではないか。アメリカ海軍の総攻撃であった。
 そして夜も明けきらぬうち、2万のアメリカ海兵隊が上陸を開始してきた。アメリカは、
 やはりこのガダルカナル島が、ミッドウェー島と同じく日本の前線基地として「要点」
 となることを充分読んでいたのだ。一方、島にいた日本兵はほとんど抵抗もできず、後
 方のジャングルに逃げ込むのが精一杯であった。設営隊員は武器さえ持っていなかった。
 前線となるガダルカナルの飛行場が奪取されたとの報を受けた大本営は、さっそく第一
 次派遣隊の出動を命じた。しかし、大本営では事態を重くみていなかった。攻撃してき
 たアメリカ軍の正確な数字を精査することもなく、たまたま通りかかったアメリカの偵
 察機が飛行場を見つけ、攻撃を仕掛けてきたにすぎないだろうと高をくくっていた。
 わずか1000名の派遣隊が全滅するのにわずか一晩もかからなかった。だが、大本営
 は「行った連中が弱いからだ」と責任を現場に押し付けて、二度、三度と同じような編
 成を繰り返すだけであった。次々に部隊を上陸させるが、輸送船が沈没され、武器弾薬
 はおろか食糧もなかった。戦死者のうつ、餓死者は1万5000人と推定される。ガダ
 ルカナル島は「餓島」と呼ばれた。
・撤退は、ラバウルの基地から駆逐艦が夜陰に乗じて三度にわたり着岸し、1万人を超え
 る日本兵を引き上げさせた。皮肉なことに、この撤退作戦だけは、アメリカ軍の攻撃を
 受けることなく、迅速に成功した。これは「撤退」ではなく、あくまで「転進」だと、
 大本営の参謀たちはくだらない言い換えにのみこだわった。
・「戦争を終結させる」とはいわない、なにせ、まともに「戦争の終結」像すら日本の首
 脳部は考えていなかったのだから。でも、せめて「綻び」が出始めた昭和17年末の段
 階で、「このままの戦い方でいいのか」、あるいはもっと単純に「この戦争は何のため
 に戦っているのか」と、どうして立ち止まって、誰も顧みなかったのか。
・一般国民には、ほとんど正しい戦況は知らされなかった。「軍政」に携わる将校として、
 100パーセント正確な戦況は伝えられてはいなかった。知る立場にあった唯一の者た
 ちは、「大本営作戦部」のエリート参謀たちだけであった。しかし、その大本営は、自
 分たちの都合の悪い状況を隠すことのみに汲々とし、決して自己省察などしようとしな
 かった。「戦争の目的は?」と聞かれれば、「自存自衛のため」などときれいごとを述
 べるだけであった。大本営に集まってくる人材は、日本のトップ・エリートであった。
 それが、この体たらくである。    
・私はこれまで、太平洋戦争中に戦争指導者たちが行ってきた「大本営政府連絡会議」を
 始め、様々な会議の資料をずいぶん当ってきた。しかし、一度として、「この戦争は何
 のために続けているのか」という素朴な疑問に答えた資料、あるいは疑問を発する資料
 さえ目にしたことがない。
・軍事指導者たちは「戦争を戦っている」のではなく、「自己満足」しているだけなのだ
 と。おかしな美学に酔い、一人悦に入ってしまっているだけなのだ。兵士たちはそれぞ
 れの戦闘地域で飢えや病いで死んでいるのに、である。挙句の果てが、「陸軍」と「海
 軍」の足の引っ張り合いであった。   
・危機の陥った時こそもっとも必要なのは、大局を見た政略、戦略であるはずだが、それ
 がすっぽり抜け落ちてしまっていた。大局を見ることができた人材は、すでに二・二六
 事件から三国同盟締結のプロセスで、大体が要職から外されてしまい、視野の狭いトッ
 プの下、彼らに逆らわない者だけが生き残って組織が構成されていた。
・日本の軍人が徹底的に教え込まれた「戦陣訓」には「生きて虜囚の辱めを受けず、死し
 て罪禍の汚名を残すこと勿れ」という有名な一節がある。いかなるときも「捕虜になっ
 てはいけない」という根本教育がなされていたのである。日本の兵士たちは「戦時ルー
 ル」というものを全く知らなかった。一兵卒はもちろんのこと、士官養成学校でも教え
 られることはなかった。第一次世界大戦から、オランダのバークで決められていた「戦
 時国際法」では、きちんの「捕虜の扱い」について明記している。「捕虜には食事を与
 えなければならない。作業を課してもいいが、その作業が祖国のためにならないことで
 あれば、拒否する権利もある」というような内容が書かれている。そのほか多くの国際
 法規があるのだが、二十世紀の戦争は一定のルールのもとで戦われるという約束ができ
 あがっていたのだ。
・それに比べて日本軍はというと、戦時ルールなんてものは全く無視、毛頭なかった。日
 本兵にとっては、「生きて虜囚の辱めを受けず」だけである。だから、アメリカ人を捕
 虜にしたら、拷問を加え、なぶり殺しにしてしまうことすらあった。同じ発想から玉砕
 も行われてしまうのだ。大本営はアッツ島の全滅を「玉砕」という言葉を使って国民に
 発表した。まるでこの言葉には、「潔さ」の美学があるかのようである。しかし、そこ
 には知性も理性も、国際的な感覚もない。あるのは「自己陶酔」だけなのである。
・一定の枠内で戦えばいい、それ以上、無益な死になるのなら捕虜になれ、そして敵の中
 にあってその戦力を消耗させよというのは二十世紀の戦争の鉄則である。玉砕などとい
 うのは、戦時下における日本の国民性さえ愚弄する軍官僚の知性の退廃であった。
・1918年9月に御前会議で、「絶対国防圏」という新作戦方針が決められている。そ
 して「この領域が破綻すると、もう日本に軍事的な勝利はない」とも補足されていた。
 「絶対国防圏」などというと聞こえはいいが、実際は、大本営作戦部の参謀たちが地図
 上を眺め、何の根拠もなく延びきっている日本の制圧地域に線を引いただけのものであ
 る。戦後、私が話を聞いた参謀たちも「あれは単なる「作文」にすぎなかった」と述壊
 していたほどだ。実行力の伴わない願望であった。しかし、その何の根拠もない空虚な
 ものが、以後、「このラインを絶対に死守すべし」と、大本営のお題目となっていく。
 硬直化した発想以外の何物でもなかった。
・この「絶対国防圏」が表しているように、昭和18年後半になっていくと、日本の戦時
 指導そのものが硬直化し、もはや末期病状となりつつあった。大本営は、相変わらず
 「船を造れ」「飛行機を造れ」と、要求ばかりを繰り返す。ひどいもので、それを真に
 受け、生徒の勤労動員が本格的に始まり、中学生たちは工場で働くのが日課となり、実
 際には授業などは中止になった。国民学校{小学生)からの勤労動員さえも決まられた。
 しかし、いかに労働力をそれで満たしても、鉄や銅、アルミ、ジュラルミンなど材料が
 なければ造りようがない。輸送船が間に合わず、物資が東南アジアから届かないのだ。
 では、どうしたかというと、寺院の鐘や仏具、商店の看板、あるいは手摺、門扉、一般
 の国民の持つ装飾用の貴金属なども回収し、溶かされて、軍需物資に充てられた。しか
 し、それでも間に合わず、鉄やジュラルミンの代わるに木で飛行機を造るといった有様
 であった。軍需物資だけでなく、食糧、嗜好品も不足し、配給制となっていった。こう
 して日本経済は一気に底をついていく。
・昭和18年に戦況が悪化すると、東條の演説や側近への話には筋道の通らない論理が含
 まれるようになった。たとえば、「戦争が終わるということは、戦いが終わった時のこ
 と、それは我々が勝つということだ。そして、我々の国が戦争に勝つということは、結
 局、我々が負けないということである」、という意味不明のことさえ口にした。あるい
 は「戦争は敗けたと思ったときが敗け。そのときに彼我の差がでる」とも言うのである。
・「戦争」というのは、結局、東條にいわせれば、「敗けた」と言ったときに初めて負け
 になるのである。スポーツの得点差などで勝敗を決するといった、理になかった考え方
 ではない、幼稚な意地の張り合いなのだ。  
・国民の側も、ウソの情報に振り回されていた。国民自身が、客観的に物を見る習慣など
 なかったから、上からもたらされる「主観的な言葉」にカタルシスを覚えてしまってい
 た。「今は苦労するけれど、いずれは勝つんだ」そういう考えに耽っていってしまった
 のである。 
・この頃、既に「大本営政府連絡会議」「御前会議」という、日本の意思決定最高機関自
 体が混乱し、態をなしていなかった。「御前会議」は「連絡会議」で決まったことをた
 だ追認するだけの場であり、また「連絡会議」にしろ、たとえそこで軍部がいったこと
 を否決したとしても、軍は天皇のところに持っていき、勝手に判をもらってしまう。そ
 うすれば、それで「勅令」として実行してしまえるのであった。  
・軍部の杜撰さは、戦術面でも窮まっていた。特に大本営の作戦部は、現場の状況を顧み
 ることもなく、またアメリカ軍の動きを精査するわけでもなく、「絶対国防圏」を盾に、
 闇雲に数合わせのため部隊を動かしているだけであった。
・国民には強制的な言論統制がなされていた。とにかく米英にかかわる文化や言語、教養
 などはすべて日常生活から追い払えというのだ。まさに末期的な心理状態がつくられて
 いく予兆であった。指導者たちが自分たちの都合のいい情報のみを聞かせることで国民
 に奇妙な陶酔をつくっていき、それは国民の思考を放棄させる。つまり考えることを止
 めよという人間のロボット化だったのだ。ロボット化に抗して戦争に悲観的な意見を述
 べたり、指導者を批判したりすると、たちまちのうちの告げ口をする者によって警察に
 連行されるという状態だった。ドイツやイタリア、そして二品は枢軸体制を形成してい
 たが、ドイツやイタリアにしても事の是非はともかく、ヒトラーのいう「第三帝国の建
 設」、ムッソリーニの「古代ローマへの回帰」といった国家目標があった。その国家目
 標のために戦争という手段を選択した。つまり、まずはまずイデオロギーがあり、そし
 てそれを実現するために戦争という手段が選ばれた。日本はどうだったか。戦争はイデ
 オロギーや明確な国家目標があって始めたのではなかった。日中戦争しかり、太平洋戦
 争しかり。軍部が一方的に戦争を始め、それがアメリカにはあまりにも唐突だったため
 に、たまたま戦果をあげることになったが、実際に反攻が始まるとたちまちのうちに日
 本は軍事的なほころびを見せた。どの国とも異なって、まずは軍部が先陣を切って戦争
 という既成事実をつくりあげ、さてそれから戦争目的があたふたと考えられ、国民には
 とにかく戦争に協力しろ、待たなければこの国は滅ぼされると強権的に押さえつけのこ
 とのみで戦われたのだ。       
・日本は占領地域の、あるいは日本と意を通じている親日派の指導者を集めて、大東亜会
 議を開いている。その目的は、ひとつに、大東亜共栄圏の国々と連携をしているという
 姿を連合国に見せること、もうひとつは、アメリカ、イギリス、中国の指導者が開くと
 いうカイロ会議に対抗して、日本がアジアの国々に独立を約束するというポーズを見せ
 ることだった。  
・大東亜会議には、中国の汪兆銘政府や満州国、ビルマ、フィリピン、タイの代表、それ
 にインド独立運動に挺身するチャンドラ・ボーズなどが集まり、表面では盛況に見えた。
 しかし、どの政府も、日本がアメリカとの戦争に勝利するとは考えていなかった。それ
 どころか、いかにも義理で参加しているとの表情を隠すこともなかった。当然のことな
 がら、それぞれの国にとっては、日本に特別に義理があるわけではない。自国の国益に
 とって日本が役立つか否かが関心事である。日本がアメリカとの間で必ずしも有利な状
 況ではないということは、どの国も知っている。大東亜会議に指導者を出席させるため
 に、現地の日本軍は威圧をかけたり、独立を約束したりとあの手この手を使ってそれぞ
 れの国を説いて、とにかく形だけはつくったというのが実際の姿であった。 
・この戦争の「突破口」を開いた責任は、確かに海軍にあったと思う。「ミッドウェー海
 戦」での情報隠蔽などということもあった。しかし、かといって、昭和18年に至る状
 況を、「海軍が悪い」だけで済ませてしまうことはできない。さらに「昭和天皇に責任
 はない」とも言い切れないだろう。だが、「天皇の責任だ」といった瞬間に、それは
 「逃げ」になってしまう。その責任は緻密に多様化しながら考えるべきことだろう。ま
 た反面、この時代ほど、日本国民が「総力を結集した」ことはなかったのも事実だ。国
 民は、「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません勝つまでは」とのスローガンの下、貧しさ
 に耐え、装飾品の類は軍需物資のためにすべて提供した。そして女性たちは出征した兵
 士のために千人針を縫い、国民学校生までもがみな工場で働いた。日本国中がただひた
 すら一つの方向に、団結して向かっていったのである。
   
敗戦へー「負け方」の研究
・「日露戦争」までの日本には、「戦略」がきちんとあった。引き際を知り、軍部だけ暴
 走するようなこともなく、政治も一体となって機能していた。国民から石を投げられて
 でも、講和を結びにいくような大局に立てる目を持つ指導者がいた。しかし、「日露戦
 争」に勝利したことを過信した軍部には、夜郎自大な精神がカビのようにはびこってい
 たのである。   
・ビルマ南に進駐する第十五軍司令官の牟田口廉也が大本営に執拗に要請していた「イン
 パール作戦
」の許可がなされた。このときは陸相の東條が強力な支援者だった。牟田口
 は、実は泥沼の日中戦争のきっかけとなった盧溝橋事件を起こした部隊の連隊長であっ
 た。日頃から、「支那事変はわしの第一発で始まった。だから大東亜戦争はわしがかた
 をつけなければならん」というのが牟田口の口癖だった。その独善に直接仕える参謀た
 ちは不快感を隠さなかった。
・この「インパール作戦計画」はどう考えても無謀なものであった。作戦計画を聞いた段
 階で、参加すると決められた三つの師団長は猛反対する。三人の師団長とは、第三十一
 師団の佐藤幸徳、第十五師団の山内正文、第三十三師団の柳田元三であった。短絡的な
 牟田口に対して、三人とも理性的な判断の下せる指導者たちだった。本来なら中央の要
 職にあって軍政、軍令を担うべき人材でもあった。
・戦闘は激烈を極めた。日本軍が攻め入り、一時はインパールを半ば孤立させるまでに至
 った。しかし、戦闘が二週間、三週間と続くうちに、補給がないので、食糧も弾薬も尽
 きていく。次第に戦線はイギリス軍の押され始めて行った。イギリス軍はもっぱら空か
 ら日本軍を攻撃したのである。作戦展開中、牟田口はというと、前線から400キロも
 離れたメイミョウという場所から、ひたすら前進あるのみと命令を下していた。メイミ
 ョウは「ビルマの軽井沢」と言われた避暑地であった。とうとう佐藤が痺れを切らした。
 「こんな無理な戦いで、これ以上、部下たちを殺されるわけにはいかない」と、勝手に
 撤退を始めてしまったのだ。そもそもが牟田口の立てた作戦計画の無謀さが原因だった
 が、佐藤は、しかしその場で抗命罪に問われてしまう。一方、戦線の一角が崩れ、残さ
 れた者たちの戦況はますます悪化した。弾薬や食糧の補給もなく、徐々にインパール近
 郊から撤退させられていくばかりであった。しかしそんな苦戦を強いられていた中、牟
 田口に批判的だった他の二人の師団長、柳田、山内に続き、やがて佐藤も牟田口に解任
 されてしまう。こうなるともう戦えるような状態ではなかった。食糧も水もない。挙句
 の果てにインドは雨季を迎えていた。部隊内ではマラリアや赤痢が蔓延した。兵士たち
 はうめき声をあげながら次々と死んでいったという。ようやく撤退命令が下ったが、イ
 ンパールからビルマへ向かう街道には、日本兵の死体が延々と並んだ。それは「白骨街
 道」と呼ばれた。この戦いで5万人近くの将兵が戦死した。一説によると7万人とも言
 われていて、その数は今でも正確にはわからない。それほど犠牲者が出たのだ。この
 「インパール作戦」の失敗を問われた牟田口は、「この失敗はひとえに、師団の連中が
 だらしないせいである。戦闘意欲がなく、私に逆らって、敵前逃亡したのだ。」と、部
 下に一切の責任を押し付けたのである。三人の師団長たちはそれぞれ罷免、更迭された。
 しかし、牟田口は責任を問われることはなく参謀本部付という名目で東京に戻っている
 のだから、空いた口がふさがらない。牟田口が作戦失敗の責任を問われなかった理由の
 一つは、東條と親しい関係にあったからである。
 
八月十五日は「終戦記念日」ではないー戦後の日本
・なぜ、こんな無謀な戦争を始めてしまったのか、なぜ、歴史的使命も明確でなく、戦略
 も曖昧なままに、戦争を続けてしまったのか。誤解を恐れず結論的にいうなら、「この
 戦争は始めなければならなかった」のだ。日本はやはり戦争に向かう「必然性」があっ
 たのだと思う。たとえ、昭和16年12月8日に始めなくても、遅から早かれ、軍の
 暴発は起こっていたはずだ。他に選択肢がなかったのだから。今で言う「逆ギレ」のよ
 うなものだろう。緻密な戦略を立てる前に「手が出てしまった」という感じだった。も
 っとも、始めたはいいが、「どう収めるべきか」ということを全く考えていなかったの
 は、お粗末というしかなかった。
・乱暴かもしれないが、明治期以降の日本はいったん「ガス抜き」が必要であったのだろ
 う。そして、誰も「なぜ戦っているのか」という疑問も持たず、無為無策のまま戦争を
 続け、本土決戦まで持ち込まれる寸前までいった。「一億玉砕」などという事態にもな
 りかねなかった。  
・日本人は、アメリカ軍が来たら「竹槍で刺し違える」などといっていたが、一夜明ける
 と、すべてがリセットされてしまった。そしてその後は、見事に占領軍に治められてし
 まう。みな「アイ・ラブ・マッカーサー」に変わってしまえるのだ。昨日まで全国民の
 約十人に一人が兵士となり、アメリカ相手に増悪をかきたてた戦いをしていたのが、ま
 るでウソのように掌を返して好意的になってしまう。こんな極端な国民の変身は、きっ
 と歴史上でも類がないだろう。 
・敗戦後のどん底生活から、高度成長を成し遂げた。その「集中力」たるや、私には太平
 洋戦争に突入した時の勢いと似ているように思えてしまう。つまり逆にいうと、高度成
 長期までの日本にとって、「戦争」は続いていたのかもしれない。ひとたび目標を決め
 ると猪突猛進していくその姿こそ、私たち日本人の正直な姿なのだ。
・終戦の8月15日以降も収まらない地があった。満州、樺太、千島列島の、ソ連との戦
 線である。「日ソ中立条約」を一方的に破り、8月9日、ソ連は満州に侵攻してきた。
 その勢力たるや、戦車5千両、飛行機5千機、火砲2万4千門、兵員174万名という
 圧倒的なものであった。一方の関東軍は、ほとんどの戦力が南方、本土に送られており、
 わずか戦車2百両、飛行機2百機、火砲1千門しかなかった。兵士には銃器さえゆきわ
 たっていなかった。     
・ソ連軍の南下は止めようがなかった。新京(現長春)にあった関東軍司令部も撤退を余
 儀なくされ、司令部は満州南の通化に移されていく。悲惨だったのは、関東軍司令部が
 撤退となり、取り残された日本人たちであった。兵士はもちろんのこと、満州には、女
 性や子供を含む、数多くの民間人がいた。彼ら彼女らは、ソ連兵による容赦のない略奪、
 蹂躙にも晒された。   
・大陸の満州から南下する部隊とは別に、ソ連軍はまた、樺太方面から、それにカムチャ
 ッカ半島から千島列島沿いに、二経路に分けて侵攻してきた。ここでも多くの日本の民
 間人が犠牲となっている。   
スターリントルーマンとの間で、こんなやり取りがあった。「勝ち戦」に乗じて日本
 の領土が欲しかったスターリンは、トルーマンに「我々は関東軍を掌握し、北海道方面
 に侵攻している。ソ連の制圧地域として北海道を認めて欲しい」と要求していた。しか
 し、トルーマンは、決してそれを認めなかった。スターリンはもう一度、「北海道が欲
 しい」と重ねて訴えるが、やはり断られてしまう。ならばと、「領土の代わりに、関東
 軍の兵士を労働力としてもらう」と勝手に決めてしまった節がある。こうして、「シベ
 リア抑留」が行われた。多くの日本兵が、極寒の地で強制労働につかされた。宿舎に暖
 房らしい暖房はなく、粗末な食事しか与えられなかった。そのうえ、スターリン主義へ
 の洗脳教育を強制された。そんな抑留が、長い者で13年近くも続けられた。少なく見
 積もっても60万人、一説には100万人の日本兵が抑留され、戦後に犠牲になった兵
 士は10万人近くに及ぶとの説があった。  
・「戦争が終わった日」は8月15日ではない。ミズーリ号で「降伏文書」に正式に調印
 した9月2日がそうである。いってみれば8月15日は、単に日本が「まーけた!」と
 言っただけにすぎない日なのだ。世界の教科書でも、みんな第二次世界大戦が終了した
 のは、9月2日と書かれている。8月15日が「終戦記念日」などと言っているのは、
 日本だけなのだ。   
・終戦の8月15日以降、東南アジアの国々でも日本軍は武装解除を行った。武装解除し
 た日本兵は、みな収容所に降っていった。だが忘れてならないのは、日本軍がいなくな
 った後、マレーはイギリスに、インドネシアはオランダに、ベトナムはフランスにと、
 また支配されていった事実である。なんのことはない。西欧列強お植民地主義が復活し
 たのだ。それぞれの国々では、その地に住む人々による民族独立運動が、再び起こって
 いったのだ。そうした民族義勇軍の中には、一部の日本兵たちも加わった。彼らは、日
 本人であることを捨てて、あえてそうした民族独立運動の戦いの中に身を置いていった
 のである。インドネシアでは、現地の独立義勇軍に、武器を以て参加した日本兵たちが
 およそ3千人近くもいた。そのうち、1千人が独立運動で命を失い、1千人は、その後、
 日本に帰国した。そして、3千人の残りの1千人は、現地に住み着き、現地人の妻を娶
 り、インドネシア人として生き続けていた。
・こうした人たちは実は数多くいるのだ。インドネシアだけに限らない。ビルマ(現ミャ
 ンマー)にもいる。ベトナムにもいた。その国の独立運動のために命を賭した。しかし、
 こうした真の「東亜解放」の戦士たちは、日本では「逃亡」扱いとされ、生きて日本に
 帰ってきた者も、軍人恩給の面で差別されていた。彼らは日本から送られ、そして見捨
 てられた。彼らの存在は、今では忘れられ、ほとんど語られることすらない。どの程度
 こういう兵士たちがいたのか、正確な数さえわかっていない。
・よく、「大東亜共栄圏はアジアの独立、解放のためになったのだ」などと、したり顔で
 言う下高級軍人や政治家を見受ける。それに追随して「大東亜戦争の肯定論:」を撒く
 人たちがいる。そんな彼らを見ていると、戦後、日本で安穏と暮らしながら、臆面もな
 くよく言うよと思ってしまう。歴史から抹殺された彼らのことを思うと、そういう発言
 に不謹慎な響きを感じる。こういう人たちに指導された結果があの戦争だったのだと改
 めて怒りがわいてきてしまうのだ。    

あとがき
・あの戦争の目的は何か、なぜ戦争という手段を選んだのか、どのように推移してあのよ
 うな結果になったのか、あの時代の指導者は結局なにひとつ説明していない。戦後の内
 閣も、たとえあの戦争に批判的であっても、当時の資料を用いながら最低限戦争の内実
 を国民に説明する義務があるように、私には思える。   
・あの戦争では「一億総特攻」とか「国民の血の最後の一滴まで戦う」などといったスロ
 ーガンが指導者によって叫ばれた。馬鹿なことを言いなさんな、おの国の人びとをそん
 な無責任な言辞を弄んで駆り立てる権利は、「歴史上」はあなたたちに与えられていな
 いと、私は言いたいのだ。
・あの戦争のなかに、私たちの国に欠けているものの何かがそのまま凝縮されている。そ
 のことを見つけてみたい。その何かは戦争というプロジェクトだけではなく、戦後社会
 にあっても見られるだけでなく、今なお現実の姿として指摘できるのではないか。戦略、
 つまり思想や理念といった土台はあまり考えずに、戦術のみにひたすら走っていく。対
 症療法にこだわり、ほころびにつぎをあてるだけの対応策に入り込んでいく。現実を冷
 静にみないで、願望や期待をすぎに自いつに置きかえてしまう。太平洋戦争は今なお私
 たちにとって、「良き反面教師」なのである。