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この本は、今から6年前の2015年に出版されたもので、半藤氏と江坂氏の対話を整理
して本にしたもののようだ。
本のタイトルは「撤退戦の研究」となっているが、大部分は、昭和の日本軍のリーダーの
ダメさ加減を辛辣に批判した内容となっている。「太平洋戦争の日本軍のリーダーを見れ
ば、よくこれだけ無能なリーダーで戦争をしたと思うほど無能なリーダーばかりです。名
将・知将と呼べるような指揮官はほとんど見当たりません」と、相当に手厳しい。
一般的には”名将”だと言われることが多い山本五十六も、この二人にかかっては散々だ。
山本五十六は人見知りのところがあり、自分の考えを明確に部下たちに説明しそれを共有
することをしなかったからだというのが評価を落とした理由だ。山本五十六というと「や
ってみせ 言って聞かせて させてみて ほめてやらねば 人は動かじ」という格言が有
名であるが、これは、自分自身への戒めの言葉であったのだろうか。
しかし、神様でもないかぎり、完璧な人間などこの世には存在しないと私は思うのだが、
それは甘い考えなのだろうかと、つい思ってしまう。もっとも、敗れた戦争だったのだか
ら、なかなかこの人は名将だと評価するのは難しい点もあるのだろう。なにはさておき
”勝てば官軍、負ければ賊軍”ということなのだろう。
この本に、”人の偉さには旬がある”という言葉が出てくる。自分の旬を知らなかったため
に、”偉さの旬”をすぎた人間がトップに座り続けて老害になるという。私はこれを読んで、
どういうわけか、今年2月にドタバタ劇を演じて退任した東京五輪組織委員会の元会長の
森喜朗氏を思い浮かべて、「なるほど」と納得してしまった。
ところで、日本のリーダーは平時と非常時の切り替えができないとよく言われるが、これ
は太平洋戦争においてもそうだったようだ。日本海軍は、ミッドウェー海戦という重要な
作戦の直前に、平時と同じ感覚で定期の人事異動を行っていたというのには驚いた。
さらに驚いたのが日本陸軍の歩兵銃に関してである。太平洋戦争で使われた日本陸軍の歩
兵銃は一発一発しか撃てない三八式銃であった。これは明治の時代の日露戦争で使われた
銃が、そのまま昭和の時代の太平洋戦争でもそのまま主力兵器として使われたという。こ
れに対して米軍などではすでに連射できる自動小銃になっていた。これでは、日本兵が一
発撃てば、米軍からはその何十倍も撃ち返されることになる。これだけ見ても、とても勝
ち目はないと思うのだが、なぜ日本軍は明治時代の三八式銃を太平洋戦争まで使い続けた
かというと、日露戦争のときに三八式銃の弾丸を大量に作り、それがまだ大量に余ってい
たからというのが理由だったというから、これには唖然としてしまった。しかし、よく考
えてみると、何百万人もの兵士の銃を最新の自動小銃に替えるだけの国力が、日本にはな
かったからというのが、本当の理由ではなかったかと私には思えた。所詮日本は、中国と
戦争をしながら、さらに米英と戦争ができるような国力はなかったのである。ほんとうに
ばかげた戦争をしたものだと、つくづく思えた。
なお、この本の著者はどちらも、太平洋戦争は自衛戦争だったから、国際法的には宣戦布
告はしなくてもいいのだと主張しているのだが、しかし、その戦争が自衛戦争かどうかと
いうのは、どこでどうやって決めるのだろうか。日本が勝手に、「この戦争は自衛戦争だ」
と主張すれば、それで自衛戦争になるのだろうか。ほとんどの戦争は「これは自衛のため
だ」との主張のもとで始められる。日中戦争だって日本は「自衛のための戦争だ」と主張
していたように思う。そうなれば、ほとんどの戦争は宣戦布告は必要ないということにな
りそうだが、はたしてどうなのだろうかと私には思えた。
さらに撤退戦に関していえば、この本のなかでは、太平洋戦争時に成功した撤退戦はガダ
ルカナルでの撤退とインパール作戦での撤退だけだと言っているが、これに対しても、私
にはすんなり納得はできなかった。というのも、どちらも多数の日本兵の犠牲を出した後
での撤退であったからである。いくら撤退作戦をうまくやったとしても、はたしてそれは
成功した撤退と言えるのであろうか。成功した撤退と言うならば、それは多数の犠牲を出
す前に撤退することではないだろうかと私は思うのだが。
現在、コロナ禍における東京五輪開催も、まさに撤退戦といえるものではなかったのだろ
うか。予定どおりに前進するか、それとも多くの犠牲が出ないうちに撤退を決断するか。
菅首相は、あくまでも前進することを決断した。この決断が正しかったかどうかは、東京
五輪終了後には明らかになっていくのだろう。


戦後七十年、日本人が”いま”試されていること
・歴史にはかならずターニングポイントがある。これからの日本は、欧米に手本もモデル
 もなき時代を送らざるをえない。いかにつくるかより、まず何をつくるかが問われる。
・異種、異端の人材を排除するという社会の論理はくずしていかねばならない。出るクイ
 は大いに伸ばすべし。人材の多様性が企業の創造力をうむ。努力と成果はかならずしも
 一致しない。年功序列はゆるやかに廃止すべきであろう。とりわけ頭の古いトップは、
 引退してもらいたい。古い経営者は過去の成功体験にとらわれて、ヨコならびという一
 時代前の競争をやりたがるから。
・バブル破裂で第二の敗戦。以降日本経済は長い混迷期に突入する。まるでアクセルとブ
 レーキを同時にふんでいるようなもの。折からのアベノミクスとやらがその混乱に拍車
 をかけた。金が欲しければ、輪転機でどんどん刷りまくればよい。円安、株高。輸出大
 企業が大儲け、久々に小金持ちを大喜びさせた。が、円はドルと違って国際基軸通貨じ
 ゃない。おまけに国の金庫はカラッポ。バブルのツケをバブルで払う手品がバレるのは
 時間の問題。その重すぎるツケは次世代に確実にまわってくる。
・地方再生をとなえつつ、東京五輪で一極集中をますます加速、何のこっちゃと言いたい。
 
はじめに
東京裁判は、どうみても勝者が敗者を一方的な論理と心情で裁いた、文明のバーバリズ
 ムであり、断じて公平とはいえない。戦争の責任は日米双方にある。が、戦争に負けた
 高級軍人には、当然、敗戦責任がある。
・旧日本軍の戦略思想には、情報と補給の重要性が、信じられないほど希薄だった。太平
 洋戦争のターニングポイントになったミッドウェー海戦は、日本海軍が兵器、兵力、パ
 イロットの練度など圧倒していたにもかかわらず、「情報戦」で負けた。また、補給、
 輸送という戦略思想がなかったために、たくさんの兵士たちが海没、餓死した。
・最悪のケースが人事。昭和の陸海軍は、戦争に突入しても、秀才主義と年功序列にこだ
 わり、平時のリーダーと戦時のリーダーの交替ができなかった。国を守ること、戦いに
 勝つことよりも、陸軍ムラ、海軍ムラの和と秩序、既得権を守ることに懸命だった。
・日本軍にも、勘と決断力、闘争心の塊の「山口多聞」のような名勝がいたが、そういう
 異才たちが、独軍、米軍と違って、大抜擢されることは、ついになかった。
・たんにアメリカの物量作戦、要するに工業力に負けたのではない。戦略と戦術の立て方、
 人事、さらには情報と補給思想、ソフトパワーで負けたのである。
・もう一つは成功体験の復讐。陸軍は白兵戦、海軍は艦隊決戦という、日露戦争の成功体
 験が捨てられなかった。世界の状況変化と戦争技術の進歩が読めなかった。
・近代日本の不思議さは、貧乏国のときしぶとく強いが、世界の軍事一等国、経済大国と
 舞い上がったとき、かならずアングロサクソンにガツンと一発かまされ、頭に血が上っ
 て、負けるに決まっている戦法で、つまずいてしまうことである。
・旧日本軍もいまの日本企業も撤退戦がきわめて未熟で下手である。

なぜ失敗に学べないのか
・太平洋戦争を振り返ると、いくつかのターニングポイントとなる戦闘があります。陸軍
 では戦争突入二年前のノモンハンと中期のガダルカナル、海軍ではミッドウェー海戦が
 その大きなターニングポイントになるでしょう。
・ミッドウェー海戦で日本海軍は「ニミッツ」率いる太平洋艦隊に敗れています。なぜ敗
 れたかと言えば、陽動→挟撃→包囲という日本海軍の作戦計画が完全に読まれていたか
 らです。
・ミッドウェー海戦は、本来日本海軍があれほど大敗する海戦じゃない。ただし、ミニッ
 ツのアメリカ海軍に、ミッドウェー決戦が読まれていないこと、つまり情報戦で負けて
 いないこと、ミッドウェー島攻略と敵航空艦隊撃沈という二兎を追うという愚行をおか
 さないかぎりにおいてです。
・よく旧軍人が、アメリカの圧倒的な軍事力、兵器力、物量作戦に負けたと言いますが、
 これは半分は自分たちの責任回避のホラ話です。ミッドウェーにおいては日本のほうが
 上だったからです。艦隊編成、パイロットの練度、士気の高まりなどを総合的に判断す
 れば、日本は決してアメリカに負けるはずがない。しかし、日本はミッドウェーで敗れ
 た。
・ミニッツには四つの幸運があった。しかもその幸運は、皮肉なことに日本海軍自体がも
 たらしたものです。
 第一:真珠湾攻撃を受けたものの、ハワイには石油タンクが残っていたこと。日本は真
    珠湾攻撃を第一撃だけでやめてしまった。それ以上の攻撃をかけず、地上にむき
    出しになっていた石油タンクの攻撃をしなかった。
 第二:海軍の工場が残ったことです。戦艦も大被害を受けたが、ただハワイの海に沈め
    られただけですぐ引き揚げられ、残った海軍工場で復元できた。
 第三:アメリカには空母が残っていたことです。空母はちょうど別の作戦行動中で、真
    珠湾に空母はいなかった。
 第四:これからの戦いが飛行機主力になることが分かったこと。しかも戦艦のほとんど
    がやられてしまっているから、かえって空母中心の戦争システムへの切る替えが
    容易にできたこと。
・また、ミッドウェー海戦では、同時にアリューシャンの陽動作戦をおこなっています。
 日本がミッドウェーとアリューシャンの両面作戦をやる必然性はまったくありません。
 ミッドウェーだけに絞っていれば、日本軍もあそこまでの大敗を喫することはなかった
 でしょう。
・ここで企業経営にとってのいくつかの教訓が出てきます。
 第一:ここというときの抜擢人事の重要性です。じつはアメリカだって組織の和が大事
    だから、平時の軍隊は年功序列です。が、いざ戦時になると、ガラッと人事シス
    テムを変える柔軟性がある。
 第二:リーダーにはタイミングと運が必要だということです。
 第三:戦争には仮借なき徹底性が必要だということです。日本には”七部勝ち”でよしと
    する風潮がありますが、アングロサクソンはとことんやってきます。
 第四:両面作戦の戒め。つまらない陽動作戦は、かえって墓穴を掘ることになる。
・ミッドウェーのときの連合艦隊司令官は、よく知られている山本五十六です。山本は、
 ミッドウェーを叩けば、アメリカ機動部隊はかならず出てくる、と考えたわけです。し
 かし、山本の案は軍令部や陸軍の大反対に遭ってしまう。軍令部や陸軍としては、ミッ
 ドウェーに打って出ることなど想像もしていなかった。南方は攻略してしまった、あと
 はじっくり腰を据えて日本海海戦のような大艦巨砲による一大決戦をもう一度やろう、
 アメリカ艦隊が出てくるのを待とうという考えが支配していたからです。
・山本にしてみれば、そんな戦略が成り立たないことは分かっています。軍令部や陸軍は、
 日本海海戦のような一大決戦をもう一度やると言うが、アメリカ艦隊がどこを通過して
 くるのかわからない。北のアリューシャン方面から来るのか、中央突破で来るのか、オ
 ーストラリアで大終結して北上してくるのかわからない。さらに、それほどの多方面に
 艦隊を出すことは、少ない兵力の分散につながる。とてもではないが、アメリカ艦隊を
 迎え撃っての艦隊決戦などできるはずはないからです。
・そこに、昭和十七年四月の「ドゥーリトル」の東京大空襲がありました。その瞬間に、
 東京を空襲されるのでは防衛の責任が取れない、ミッドウェーを取れば哨戒網が配備で
 きて二度と東京大空襲のようなことは起きないというので、陸軍もミッドウェー攻略賛
 成に傾く。陸軍が賛成ならばということで、軍令部も賛成に回る。こうして経緯で、ミ
 ッドウェーが決定されたのです。
・太平洋戦争の海戦のなかで、結果としていちばんアホな海戦がミッドウェーだったと思
 っています。ミッドウェー海戦というのは、簡単に言えば少し成功した「珊瑚海海戦
 の二番煎じだからです。珊瑚海海戦での戦法は、”仙人”と渾名された「黒島亀人」と
 いう連合艦隊の仙人参謀が考え出した奇策です。
・珊瑚海海戦でのアメリカ部隊は、少々練度不足のところがあって作戦がうまくいった背
 景がありますが、結果としては、アメリカの空母を一隻撃沈し、こちらも空母が一隻中
 破している。大戦果は挙げられなかったが、互角というよりは戦術的に日本の勝ちに終
 わった。
・ミッドウェー海戦の敗戦の因は多々あるでしょう。なかで、山本五十六のリーダーシッ
 プに疑問符をつけたい。このミッドウェーのとき、山本は連合艦隊参謀の「宇垣纒」と
 話をしていない。機動部隊指揮官の「南雲忠一」とも相談していません。山本は口が重
 い性格で、南雲と気性が違うから話をしたくなかったかも知れませんが、気性が違うか
 らこそコミュニケーションを取らねばならない。とくに重大な決戦だというのに、部下
 と意思の疎通を欠いていては戦争になりません。結局、ミッドウェー海戦で、日本は、
 リーダーのビジョン、リーダーのグランドデザインが部下に徹底していなかった。これ
 では戦争に勝てません。
・珊瑚海海戦ではうまくいった挟み撃ち作戦が、ミッドウェーではうまくいかなかった。
 その理由は、情報参謀「レストン」の判断でミニッツが日本の手の内を読み、また同じ
 作戦を仕掛けてくると考えたからです。日本軍は気がついていませんが、ミニッツはす
 でに手の内を読んでいる。だから、主戦場はミッドウェー、右往左往しないでミッドウ
 ェーの北方海辺で待ち伏せするにかぎる、と行動は決まっていた。
・第三次ソロモン海戦と言われている海戦でも、日本は前に成功したからと、同じ手を使
 って失敗しています。
・ミッドウェーに関して日本海軍はもう一つ信じられないことをやっています。昭和十七
 年六月のミッドウェー作戦の直前に、人事異動をおこなっているんです。ミッドウェー
 に出撃したとき、第二航空戦司令官は山口多聞ですが、直前の人事異動で第二航空戦隊
 の司令部は半分上が交替している。だから、山口は参謀をほとんど相手にしなかった。
 着任したばかりの人間ですから、人となりもわからなければ能力もわからない。「そん
 な人間を相手にできない」という気持ちが山口にはあった。だから、ミッドウェー海戦
 で、山口多聞は孤軍奮闘になってしまった。
・海軍は十二月が定期の人事異動ですが、戦争開始で遅れたんですね。しれにしてもなぜ
 そんな時期に海軍は人事異動をやったのか。そのことを質問してみると「だって、君、
 階級が上がる人をいつまでも同じ階級に止めておくわけにはいかないじゃないか」とい
 う驚くべき返事が返ってきた。 
・海軍は、太平洋戦争がはじまって定期の人事異動ができなくなり、そのツケをミッドウ
 ェー作戦という重要な作戦の前に、清算したというわけです。日本海軍は、戦時でも平
 時と同じ感覚で行動を取っていたんです。
・日本海軍と違い、アメリカ軍は太平洋戦争中に定期人事異動をやっていません。戦時が
 十年も二十年も続くわけないから、そんなものをやる必要はない。 
・アメリカは過去の失敗から学んだ。成功体験に寄りかかる日本と失敗に学ぶアメリカの
 違いは大きい。
・よく日本海軍は、飛行機の時代、空母の時代といった認識ができなかったといわれます。
 真珠湾で成功しながら、なぜ飛行機の時代がわからなかったのか非常に不思議かもしれ
 ませんが、その理由は人間の数にあります。当時は大艦巨砲主義の時代で、兵学校優等
 生、海軍大学校優等生はだいたい砲術でした。その砲術出身の大艦巨砲主義者が海軍中
 枢にズラリと並び、飛行機出身者はごく少数しかいなかった。
・学校教育からして、飛行機は大艦巨砲の艦隊決戦をやるためのものとされていた。飛行
 機は、大艦巨砲による艦隊決戦をやるまでの、敵を少しずつ沈めていく補助と教えられ
 ています。
・山本五十六も砲術でしたが、飛行機に早く気づいたのは少し亜流出身だからです。山本
 はエリートの主流である軍令部に一度も行っていません。軍令部に行かないということ
 は亜流の証明です。
・海軍は大艦巨砲主義と艦隊決戦主義から抜け出せなかった。ここにエリートの持つひ弱
 さと特権意識が表れています。海軍のエリート中のエリートコースは砲術科であり、そ
 の序列を崩したくなかったのだろうと思います。
・日露戦争という成功体験もまた太平洋戦争に濃い影を落としています。”日露の亡霊”は、
 太平洋戦争中の戦略、イノベーション、リーダーシップ、参謀と至るところに顔を出し
 ます。その亡霊が、太平洋戦争を引き起こし、日本を絶望的な敗戦にまで至らせたと言
 っていいでしょう。
・日露戦争後、日本軍は最強の軍であるという幻想を抱いてしまった。しかし、じつは、
 講和にうまく持ち込めたために国際的な評価としては日本は勝利者になっていますが、
 日露戦争における日本の勝利は辛勝です。惨勝と言ってもいい
・その点からすれば、明治のリーダーはものが見えていた。陸軍が勝っていないことを完
 全に認識しており、日本海海戦が終わった時点で、この先は海戦の勝利をうまく使って
 上手に講和に持ち込もうという戦略を持っていた。
・日露戦争で海軍はたしかに勝ったが、陸軍は勝ち戦さばかりではなかった。ロシアにこ
 れ以上南下させない日本の防衛戦という意味では勝ちましたが、もしロシアの本土に攻
 め込み倒すつもりなら、たぶん失敗したでしょう。陸軍は奉天から北へは攻める余力が
 なかったし、旅順では大失敗している。
・ロシアという広大な国では、撤退戦は決して負けではない。ナポレオンもロシアに深入
 りしすぎて、モスクワの焼き討ちと冬将軍の到来で散々な目にあってます。引くことも
 一つの作戦です。だから、陸軍の勝ちということはありえない。そのことを、大山巌、
・辛勝だった日露戦争を大勝利と宣伝しているうちに、”日露大勝利”が一人歩きをしはじ
 めた。誰もが大勝利を疑いなく受け入れるようになり、大国ロシアに勝った日本は絶対
 に負けない国、”神国”であるという信念が培われていってしまった。大戦略家だった
 「石原莞爾」は、「日露は負ければよかった」と喝破している。
・日露戦争に勝利してから太平洋戦争に敗れるまでの経緯と、敗戦国日本が焦土から立ち
 直り、高度成長を経た後のバブルとその崩壊から現在に至るパターンは非常に似ていま
 す。それまでの二流国、三流国からやっと一流国になった、先進国にキャッチアップし
 たときにいつも成功に復讐されている。
・日露戦争で、日本軍は最強軍であるという幻想に日本はとらわれた。その勝利に酔った
 軍が何をしたかと言えば、 じつはほとんど何もしていない。日露戦争の勝利を国民に
 強く印象づけるために、軍人を厚く叙しただけです。
・戦争に勝ったからといって軍人が貴族になる時代というのは、よくない時代だと思う。
 具体的に言えば、陸軍は六十五人、海軍は三十五人、合計百人が男爵以上になっていま
 す。文官は三十一人。まさに勝てば官軍なんですよ。
東郷平八郎乃木希典も伯爵になっています。乃木希典を名将とする人もいますが、私
 はそれほどの名将だとは思いません。指揮官としての資質にはかなり欠けているところ
 のある指揮官だったと思います。人格的には立派でしたが。しかし、日露戦争の勝利を
 確定づけるために、陸軍は乃木大将をどうしても英雄にしなければならなかった。だか
 ら、二百三高地の戦いの作戦的失敗は全部伏せられ、日露戦争勝利の偶像として伯爵に
 なり、神格化がおこなわれた。そして乃木さんを神格化したために、二百三高地でやっ
 た精神力による白兵戦が陸軍の伝統として残ってしまった。
・軍事衝突以外でも、活躍した人間はいます。たとえば、奉天での戦いが終わったとき、
 参謀総長の「児玉源太郎」はひそかに日本に帰り、あとは政治家と外交官の仕事だとバ
 トンタッチしている。 
・また日露戦争のとき、「高橋是清」は外債集めに走り、「金子堅太郎」はハーバード大
 学時代のルーズベルトとの交友関係を利用して外交戦を繰り広げています。「明石元二
 郎
」はいまの一千億円にも当たる資金を使って反ロシアの情報戦、調略戦をやっている。
 革命家たちを助けて、「ロマノフ王朝」に揺さぶりをかけた。
・日露戦争のとき、日本とロシアの国力の差は十対一、日米戦争のときもアメリカと日本
 の差は十対一です。
・日露戦争に勝ってから、日本には傲りが出始めました。昭和になって一等国という幻想
 を抱いてしまった。その一等国の幻想が太平洋戦争を招き、完膚なきまでの敗戦に至っ
 た。
・近代の日本軍には、ある一つの指揮官像がありました。指揮官というものはあまりもの
 を言ったり、余計なことを考えたりせず、どっしりと座って「ウン、ウン」言っていれ
 ばいいという指揮官像です。その指揮官像の原形も日露戦争以降につくられたもので、
 その代わりに参謀の存在がクローズアップされた。
・結局、近代日本の将が戦国武将よりも劣るのは、日本が参謀重視になったからです。そ
 の参謀の上に乗っている将はほとんど何の判断もしないというか、とにかく自分では余
 計なことを言わない。参謀の上に乗っかってゆったりしていればいいという妙な将の像
 がつくられ、将は本当の意味の決断者でなくなってしまった。
・その結果。軍司令官、つまりトップが参謀がつくった作文の代読者になってしまった。
 本来、トップは決断者です。自分で決断を下し、これからわれわれはこうするというこ
 とを全軍に知らせるべき存在です。それが、参謀作文の代読者になってしまった。”日
 露の亡霊”がここにも顔を出し、トップの責任をまったく果たさない指揮官たちが軍の
 トップに座るようになってしまったわけです。
・大山巌は弥助砲を発明しただけでなく、本来はカミソリのように頭の切れる人間だった。
 しかし、大山巌のある一面だけを取り出し、それを理想とするリーダー像がつくられて
 しまった。たとえば、海戦してからも、つねに頭のどこかに講和を置いている。講和の
 ない戦争はありませんから、どこで講和するかが重要なポイントです。
・太平洋戦争の陸軍は「行け行け、攻めろ」しか考えなかったが、大山はそれを忘れなか
 った。だから、奉天会戦での勝利が確定しかけていたとき、「いまならロシアが応じる
 と思うので、ただちに和平の交渉を開始してほしい」と政府に電報を送っている。大き
 な戦いが有利に進んでいる最中に、これは和平のいい機会だと考えたような司令官を、
 私はほかに知らない。
・また、乃木のワンパターンの攻撃、作戦の硬直性、優柔不断を見兼ねた総参謀長の児玉
 源太郎が旅順で乃木の代わりに指揮を取っているあいだ、大山はみずから陣頭指揮して
 いる。
・集団合議というと聞こえはいいが、何のことはありません。実態は当事者不在です。決
 定した責任者がいないということです。もう集団合議制経営、アマチュアにちょっと毛
 の生えた程度の経営では、激流の時代は乗り切れません。選択の権限はトップが握って
 いる必要があります。
・日露戦争後、日本がきちんと学ばなければならないことはいくつかありました。しかし、
 それを学ぼうとしなかった。
 第一:作戦を最高に優先する姿勢です。日露戦争の実際は、経済戦略・政治戦略・諜略
    のほうがしっかりしていた。
 第二:”とにかく二百三高地”の攻勢至上主義です。白兵主義です。屍を踏み越えてどん
    どん攻勢をかける。それが、軍の最大の攻撃手段になってしまった。
 第三:”何が何でも先制攻撃”の考え方です。
 第四:”寡を以って衆を討つ”という考え方です。普通に考えれば”多勢に無勢”が戦争の
    常識です。その常識無視に陥った。
 第五:無形の戦力が強調されたことです。精神力の強調です。   
・きちんと学んだ軍人もいました。たとえば、海軍大臣の「加藤友三郎」です。加藤は、
 軍の傲りに歯止めをかけた。さすがに、日露戦争を経た大権威です。加藤は結核のため
 に体が弱く体力もなかった人ですが、「原敬」も、”無口で貧相で、ひょうひょうとし
 た人間だが、非常に油断のならない人間”と褒めています。
・フランスのモラリストであるラ・ロシュフーコーは「人の偉さには旬がある」と言って
 います。
・バブル崩壊で大量の不良債権を抱え込んでしまった銀行のトップは、まさにラ・ロシュ
 フーコーの言う”人の偉さの旬”を知らなかった実力会長たちです。自分の旬を知らなか
 ったために、鈍った判断力で重大な時期の決断ができなかった。
・東郷平八郎も日露戦争までは偉かったが、神様になって以後は側近に囲まれて時代の流
 れがわからなくなっています。日本でもよくある例に、実力会長といわれる人が晩節を
 汚すのは、すべて側近に囲まれて祭り上げられてしまった結果です。
・”偉さの旬”をすぎた人間がトップに座りつづける弊害が、老害です。 

なぜ情報が軽視されるのか
・太平洋戦争の転換点は陸軍ではノモンハン、海軍ではミッドウェーでした。ノモンハン
 の戦い
は昭和十四年ですから、開戦の二年前になります。なぜ開戦前のノモンハンが転
 換点かと言うと、ノモンハン大敗の教訓がその後の陸軍に生かされなかったからです。
 学ぶべきことを学ばずに、精神主義だけを認めてしまった。
・使用した銃は、三八式歩兵銃です。三八式歩兵銃は明治三十八年につくられたことから、
 その名がついているように、日露戦争を戦った銃です。そんな旧式銃で昭和十四年に、
 さらには対米英戦争を戦った理由は、じつはバカバカしいものです。日露戦争の際に、
 日本は大予算をかけて三八式銃の膨大な量の弾丸を生産しましたが、その膨大な量の弾
 丸が残っていたんです。そこで陸軍は、三八式歩兵銃の弾丸がなくなるまで三八式銃か
 ら転換しなかった。それも、「気を静め、相手に狙いを定めて一発一発撃っていくから、
 三八式は精神修養になる」などとバカなおとを言っていた。
・かつて私は、「向こうはすでに自動小銃になっているのが分かっている。それなのに日
 本はなぜ替えなかったのか」と、陸軍にいた人間に尋ねたことがある。返ってきた答え
 は「帝国軍人は、自動小銃のような卑怯な武器は使わない」というものでしたが、三八
 式銃の弾丸がまだ残っていたというのが真相です。完全に武器の遅れをとっていた。
・ノモンハンで明らかになったもう一つのことは、兵站戦略の違いです。日本人の思い込
 みというのは、時として信じられないほどの錯覚を呼びます。シベリア鉄道のいちばん
 近い駅から、ノモンハンの戦場までは約六〇〇キロあります。その距離を戦車とか大砲
 を運搬するとなれば、まず道路をつくる必要がある。それに大量の自動車も投入しなけ
 ればなりません。当時の陸軍には、近代戦がものすごい数の自動車などを使う機動力の
 戦いであるという認識がない。だから、関東軍にも自動車はあまりありません。そこで、
 関東軍は、「道路などつくっている暇はないし、ソ連にもそんな大量の自動車はないは
 ずだ。だから、戦車や大砲をノモンハンの戦場まで運搬してくるのは不可能だ」と、考
 えてしまった。「日本ができないことはソ連もできない」と、勝手に思い込んでしまっ
 たわけです。
・ノモンハンでは、日本の戦車がソ連の戦車にまったく歯が立たなかった。さすがに由々
 しき事態であると、陸軍は感じた。しかし、ノモンハンの戦いに対する陸軍の正式の認
 定は、”日本の精神力対ソ連の火力の互角の戦いであった”ということになってしまった。
 同時に、「ノモンハン事件の最大の教訓は国軍伝統の精神威力をますます拡充するとと
 もに、低水準にある火力戦能力を速やかに向上せしむるにあり」とも言っている。さす
 がの陸軍も火力戦能力が低水準であることは認めざるを得なかった。しかし、それから
 わずか二年で太平洋戦争が勃発しています。こんな短期間で火力の充実などははかれる
 わけがありません。結局、ノモンハンの教訓は「必勝の信念をますます強くせよ」で、
 白兵戦を賛美したものになってしまった。
・戦争のイノベーション、つまり画期的な変革はじつは第一次世界大戦で、従来の概念を
 超えた兵器が開発され、実際に使用された。第二次世界大戦におけるほとんどの兵器は
 リノベーションだった。形こそ変えたものの、第一次世界大戦で使用された兵器が第二
 次世界大戦でも主力を占めたています。
・この第一次世界大戦で日本陸軍は情報収集を怠り、イノベーションの流れを見落として
 しまった。ノモンハンの戦いで、日本陸軍は戦争のイノベーションから取り残された現
 実をはっきり知ったはずです。 
・第一次世界大戦こそ実際に見なかったが、陸軍にとって、ノモンハンとは近代戦を知る
 チャンスだった。しかし、近代戦を学ばず、”国軍伝統の精神主義”を再確認するだけ
 に終わってしまった。
・昭和八年に国際連盟を脱退してから、昭和の軍隊は一種の鎖国状態になっています。国
 際連盟を脱退したと言っても、まだ戦争状態には突入していませんから、集めようと思
 えば情報は集められる。しかし、鎖国的状態になると同時に、学ぶという謙虚さが失わ
 れてしまった。
・極言すれば、日本はアメリカのおアテントで兵器をつくり、アメリカの石油を使い、ア
 メリカと太平洋戦争をしたともいえるでしょう。
・イノベーションが非常に遅れていたうえに、鎖国状態で学ぶことも不足した。ただ、鎖
 国状態のなかで、日本も国産兵器が製造できるという自信だけが生まれた。その自信が、
 結果的には第二次世界大戦で「戦艦大和」や「零式戦闘機」、それに「酸素魚雷」とい
 った国産兵器をつくり出したわけです。
・零戦はたしかにすごい技術革新でしたが、それ以外の技術の大革新、技術の大ブレーク
 スルーは日本に皆無でした。
・対して、太平洋戦争中、アメリカはものすごいブレークスルーをやっています。レーダ
 ー、ソナー、それに兵器ではないですがペニシリンも開発しています。
・零戦は、いわばベンチャーです。東大を出たばかりの堀越二郎を中心に、三菱重工がや
 った大ベンチャーです。しかも、パソコンやCADがもちろん、電卓もなかった。計算
 尺と手回しの計算機、定規とコンパスなどを使って、わずか二年半くらいで完成してい
 ます。
・昭和十五年九月に、零戦が中国の漢口で空中戦をやっています。本当かどうかわかりま
 せんが、この空中戦で零戦は相手の二十七機全部を撃墜して、自分のほうは被害がゼロ
 だったと言います。この報告が有名なシェンノート報告ですが、米国の国防総省はその
 情報を信じようとはしなかった。
・ポスト工業化社会の現代は、知識・情報化時代です。リーダーはもちろん、ミドルも、
 情報に対して正しく対処できなければなりません。だから、「情報を読み解く総合知を
 持て」と私は言っています。
・「情報を読み解く総合知」とは、つまるところ、歴史と教養、先見性に基づく情報の読
 み方になります。そうした総合知を持った人間だけが、情報を正しく読み解ける。
・そして、情報に接するとき注意点がいくつかあります。
 第一:成功体験を捨てること。
 第二:情報の読み方を間違えないこと。先入観を持たないこと。
 第三:判断するときは二つ以上の違った意見を参考にすること。
 第四:情報が100パーセント完全に集まることを期待しないこと。
・情報とは、一つ一つの積み重ねです。日本軍の戦争のやり方にしても情報で、その情報
 を積み重ねていってはじめて日本軍の戦争のやり方がはっきり見えてくる。情報の積み
 重ねと言っても、ただ情報収集だけでは意味がありません。収集した情報は分析しなけ
 ればならない。分析するためには、情報参謀は継続される必要がある。アメリカ軍はそ
 れをやったが、日本軍はやらなかった。日本の情報参謀は情報を集めるだけで、分析は
 次に任せた。次の人間も、分析せず情報集めばかりやっていた。
・日本の情報参謀のなかで優秀だと思われる人を一人挙げるとすれば、陸軍の「堀栄三
 中佐になるでしょうか。堀栄三は、”マッカーサーの参謀”という渾名を陸軍内部でたて
 まつられたくらいで、マッカーサーの手の内を全部先読みしていました。
・士官学校や兵学校、それに陸軍大学校や海軍大学校で情報の重要性を認めない教育をさ
 れる。その教育のなかの想像力の鈍い、はっきり言ってしまえば偏差値エリート(この
 タイプは作戦参謀には向かない)が作戦参謀になって出世の階段を昇っていき、やがて
 指揮官というリーダーになる。そうしたシステムが確立されていれば、情報とか兵站を
 重視しない風潮が蔓延するし、軍全体がそうなるのは当たり前です。
・開戦前に、いよいよ日本が東南アジアに出てマレー半島とシンガポールを攻略しようと
 いうとき、山下奉文軍司令官の参謀として「辻政信」がついていきます。そのとき、輸
 送船団で南方方面の上陸作戦に送られる兵隊たちに渡されたという、辻政信のつくった
 小冊子があります。”これを読めば戦争に勝てる”という内容ですが、それを見て私は驚
 きました。なかに”土人”という言葉が使われていたからです。裸でハダシの人々とでも
 思っていたのでしょうか。こんな精神で東南アジアに進出して占領していくから、いく
 ら”八紘一宇”とか”大東亜共栄圏”とか言っても占領がうまくいくはずはない。
・日本の軍政がうまくいったのは、「今村均」のいたときのインドネシアや台湾です。台
 湾でも乃木希典は失敗しているが、その後の児玉源太郎、「後藤新平」はうまくやって
 います。
・今村均のような精神性の高い司令官が統治、あるいは内政を支援する国はうまくいく。
 逆に辻政信のような好戦的で、権力欲の強い参謀がのさばり、高声を上げる国は、圧政
 になる。属人主義です。統治システムができていない。
・開戦の詔勅にもあるように、太平洋戦争は日本にとっては自衛戦争でした。自衛戦争と
 いうのは、国際法的に宣戦布告をしなくてもいいことになっています。しかし、日本は
 開戦通告もなしに奇襲をかけた、卑怯だという論調がよく聞かれます。負け惜しみでは
 ありませんが、イギリスは怒っていません。マレー半島の攻撃は、じつは真珠湾攻撃よ
 りも先におこなわれています。それも無通告でしたが、イギリスは抗議すらしていませ
 ん。
・当時の外務大臣・東郷茂徳は、アメリカに宣戦布告しなくてもよいと考えていました。
 もちろん、東郷外務大臣は、真珠湾にあれほどの大攻撃をかけることは教えられていな
 かった。東郷外務大臣自身は十一月三十日が開戦と思い込んでいて、開戦がほぼ決定さ
 れたのが、二十八日で、時間的な問題と自衛戦争であるということから、東郷には宣戦
 布告なしでやらざるをえないという考え方があったと推測されます。
・十二月一日に御前会議が開かれて正式に対米戦争開戦を決めたあと、昭和天皇が「東条
 英機
」総理を呼んで、「間違いなく開戦通告をおこなうように」と告げています。承っ
 た東条英機が、「おい、開戦通告はちゃんとやるぞ」と東郷外務大臣に告げるような経
 緯で正式に開戦通告をおこなう運びになっている。
・一説によれば、完全な開戦通告と現実アメリカに対しておこなった通告、それにもう一
 つは訳のわからない通告の三通りが用意されていたことになっています。 
・開戦通告は十四頁からなっていますが、はじめの十三頁は、とても開戦通告とは思えな
 いような文章です。そして、最後の十四頁に、「私たちはもはやこのまま交渉を続ける
 ことはできない」と書かれている。駐米日本大使館では送られてくる順に翻訳していた
 が、最後の十四頁になって、はじめてこれが開戦通告であることがわかった。それで慌
 てた。
・開戦通告に関しては複雑な過程があり、それに関わる人間が微妙な精神状態にあったこ
 とは間違いありません。その複雑で微妙な部分がワシントンの大使館に伝わっていたか
 どうか、ここが問題です。いまになると、大使館側には責任がなく本庁側に責任がある
 と言う人がいますが、私は大使館側にも重大な責任があるととらえています。
・重要な開戦通告を並電で打ち、本庁側は、「それを日本人だけできちんとタイプで打て」
 と指示しています。私は、その責任の一旦は当時のアメリカ局第一課長の加瀬俊一にも
 あると思う。もちろん、大使館側にも重大な落ち度があります。その日は転勤する書記
 官のためにパーティをやっていた。 
・問題はそのあとで、開戦通告の遅れという致命的なミスを犯した井口参事官奥村書記
 官
は責任を問われなかった。それどころか、昇進してしまった。その理由は、二人が外
 務省のエリートだったからだといわれています。こういう悪弊は、現代の官僚社会にも
 生きている。仲間内でかばい合い、何とかミスを隠そうとする官僚主義はまったく消え
 ていない。もっとも理解できないことは、戦後、井口参事官は外務事務次官になり、駐
 米大使までやっている。奥村書記官も外務事務次官になり、井口などは勲一等までもら
 った。太平洋戦争開戦時にとんでもないことをやってくれた人たちが、戦後の外務省の
 要職に就いている。

平時のリーダー、戦時のリーダー
・太平洋戦争の日本軍のリーダーを見れば、よくこれだけ無能なリーダーで戦争をしたと
 思うほど無能なリーダーばかりです。名将・知将と呼べるような指揮官はほとんど見当
 たりません。
・太平洋戦争期の指揮官、つまりトップはだいたい四つのタイプに大別することができま
 す。
 第一:自分が指揮する権力と権限の両方を持たないタイプ。したがって責任も取らない
    タイプになりますが、これが非常に多い。
    このタイプの例を一つ挙げれば、「富永恭次」という第四航空軍の司令官です。
    富永はフィリピンにいましたが、レイテ決戦がはじまってやがてルソン決戦とい
    う段階で、少数の人間を引き連れて台湾に飛んでしまった。なかに愛人も混じっ
    ていた。はっきり言えば敵前逃亡に等しい行動です。残された兵にしてみれば指
    揮官が不在になってしまうのですから、まったくひどい話です。さらに、特攻機
    を見送って、「自分もあとから行く」などと言いながら、実際はそのつもりなど
    まったくなかった。
 第二:まったく権限は持たなかったが、責任だけは取ったタイプ。自分では何もしなか
    ったが最後に切腹した人がいるように、このタイプは若干いました。
 第三:権限と責任の両方を持ったタイプ。これが本当の名将ですが、残念ながらほとん
    ど見受けられません。   
 第四:権限だけ持って責任を取らないタイプ。このタイプが陸軍にはまた多い。トップ
    だけでなく、特に参謀には山ほどいる。
    このタイプの代表は、ビルマのインパール作戦をやった第十五軍司令官の「牟田
    口廉也
」中将と牟田口軍司令官の上にいた総司令官の「河辺正三」中将です。こ
    の二人は盧溝橋事件の時のコンビです。
・一般的に、日本の軍隊は下剋上がひどいと言いますが、むしろ上が下に依存した、上が
 下に乗りかかりすぎた側面のほうが大きい、と私は考えています。命令しても、「細部
 は参謀をして指示背せしむ」という一文が必ず入っている。やることは大まかには書い
 てあるんですが、細かい点については参謀の指示待ちになっている。とくに陸軍ではこ
 れがひどく、参謀に全権限を与えている。組織というものは、やはりトップが指示しな
 ければいけません。
・河辺ー牟田口コンビのような無責任野郎が最近増えてきた気がしないでもありません。
 新潟県警のキャリア組がそうでした。九年ぶりに行方不明の少女が発見されたというの
 に当時の小林幸二県警本部長と、招待された中田好昭関東管区警察局長がホテルで雪見
 酒、宴会、麻雀!どちらも相手が、こんなことはやめて、すぐ現場に駆けつけようとい
 う言葉を待っていたのですね。アホと言いたい。
・山本は日本的社会のリーダーとしては最高のリーダーの一人であり、権限も責任もきち
 んと取る古武士的風格がありますが、近代戦上で世界の名将の列に加われるかと言えば
 否定的にならざるをえません。山口多聞などを同行して山本がアメリカに行ったとき、
 「アメリカのことを調べましょうか」と山口多聞が進言していますが、山本は「そんな
 武士道に反するようなことはやめておけ」と一蹴している。山本は、テキサスの油田、
 デトロイトの自動車など言い聞かされたところだけを見ている。健気で律義な長岡藩士
 の末裔です。
・山本五十六には、大いに評価できる点と評価できない点があります。評価できる点とは、
 対米戦争の理解です。山本ほどこの対米戦争の本質を理解している人間はいなかった。
 対米戦争の本質を理解していた人間をあえてもう一人挙げるとすれば、「小沢治三郎
 でしょうか。あとの人間で対米戦争の本質を分かっている人間はいなかった。
・山本五十六自身のなかでは、ミッドウェーに打って出る目的ははっきりしていた。だか
 ら、自分なりの作戦目的を軍令部の会議で主張し、説得すべきだった。部下にもはっき
 り明示すべきであった。しかし、山本五十六はそうしなかった。なぜ山本が説得しよう
 としなかったかと言うと、彼が越後人だったことに理由がある、と私は見ています。
 私は越後人の口の重さ、人見知りをよく知っています。山本はその生粋の越後人で、口
 の重さも手伝って「分からない奴は何を言っても分からない」と他人を説得することを
 しなかった。戦争がはじまってから上京することもなく、永野修身軍令部総長と顔を合
 わせることすらしなかった。要するに、山本は三国同盟締結の責任者や対米英強硬派の
 面々とは口もききたくなかったんです。山本は、南雲忠一中将以下の幹部にミッドウェ
 ーの戦いの意味を徹底しなかったし、嫌いだった「宇垣纒」参謀長とは話もしていない。
・つまり、ミッドウェー海戦は当初の作戦の意図が曖昧にされたうえ、総指揮官・参謀長・
 参謀・部下の将兵との間に共同理解がなかった作戦だったわけです。
・じつは、ミッドウェーと同じようなことを、真珠湾攻撃、つまりハワイ作戦のときも山
 本はやっています。「ハワイは徹底的に叩け」というのが山本五十六の決断であり、本
 心であり、リーダーシップでもあったのに、山本はその決断も本心も話さなかった。
・日本の名将と呼べるとすれば山口多聞しか思い浮かばない。山口はミッドウェー沖海戦
 で「飛龍」と運命をともにしていますが、その指揮ぶりは指揮官として見事なものです。
・山口多聞は、南雲忠一が率いる機動部隊の第二航空戦隊司令官でしたが、南雲ではなく
 この山口が機動部隊の司令長官であれば、展開はまた違っていたかもしれません。
・戦略とは選択、その選択、決断は先見性、カン、胆力のあるリーダーしかできない。リ
 ーダーは、組織は何をするのか、これからん何をしようとしているのかという目標を決
 断する。さらに、リーダーはその目標を明確にして組織の共通目標にする責任があり、
 明確にできないリーダーはリーダーとなるべき人間ではありません。
・だから、真珠湾やミッドウェーで軍令部の会議で自分の考えも言わず、さらに南雲忠一
 中将以下の幹部や宇垣纒参謀長とコミュニケーションを取ろうとしなかった山本五十六
 に、私は辛い点をつけるんです。
・太平洋戦争の撤退戦で成功した作戦と言えば、まずガダルカナル、インパール、キスカ
 といったところが浮かびます。ことガダルカナル撤退では山本五十六は名リーダーぶり
 発揮したと思います。
・会社経営でも、現場の戦闘、バトルはミドルがやります。しかし、儲ける仕組みと撤退
 戦という難事だけはトップしかできない。全員が撤退戦に賛成したときは、もう撤退の
 タイミングがズレて消耗戦に巻き込まれている。
・ガダルカナルは昭和十七年の八月、九月に激戦を繰り広げ、十月から不利になり、十一
 月の決戦に敗れてから日本軍は負け戦になり、翌昭和十八年二月に撤退を開始します。
 日本軍に”退却”とか”撤退”という用語はなしとしていますから、”転進”がはじまったわ
 けです。
・しかし、撤退がスムーズに決まったわけではありません。ガダルカナルの戦いの最中、
 陸海軍は「ガダルカナルを奪回する」と昭和天皇に約束してしまっています。だから、
 いまさら「奪回できません」とはいえない。それともう一つ、陸海軍の面子もありまし
 た。海軍は勝手にガダルカナルをやったために、撤収を言いにくい。陸軍は陸軍で大失
 敗して兵の半分は餓死させていますから、本心は撤収したくて仕方がないが、面子から
 切り出せない。
・御前会議で、これ以上ガダルカナルで戦争を続けると犠牲を増やすばかりだからと”転
 進”が決定される。そのとき、昭和天皇は、「ガダルカナルから兵を転進させることは
 認める。では、どこで攻勢を取るのか」と下問され、それに対して、永野修身軍令部総
 長と杉山元参謀長が「ニューギニア方面で取ります」とバカなことを言ってしまったと
 いう。天皇の前でそんなことを言わなければいいものを、「ニューギニアでやります」
 と言ってしまったために、それから惨たるニューギニアでの戦いがはじまってしまった。
・当時の状況として、もう手一杯に陥っていることは明らかです。本当であれば、ラバウ
 ルまで撤収してもよかった。トラック島まで撤退してもよかったかもしれない。現実的
 な対処としてはそこまで撤退すべきだったでしょう。ところが現実は逆に戦線を拡大し
 ている。
・意識転換のできない経営者、説得ができなかった経営者が撤退の時期を失い、結局、企
 業を潰してしまう。たとえば、「ダイエー」や「西洋環境開発」、「そごう」などです。
 「中内功」さんや「堤清二」さんは攻撃はそれなりにうまかったが、撤退戦ができなか
 った。そごうの「水島廣雄」さんなど、二十世紀最後の年まで高度成長の夢が捨てられ
 なかった。
・ガダルカナルは日本に残された最後のポイントでしたが、陸軍と海軍の共同作戦もうま
 くいかなかったし、戦力の逐次投入という初歩的ミスをやり、結局、惨敗から撤退とい
 う結末を迎えざるを得なくなっています。
・陸軍と海軍の協調がうまくいかなかった理由はたくさんあるでしょうが、陸軍の今村均
 が軍司令官でなかったことがあると思います。今村均は立派な人で、陸海軍の協調が必
 要だと分かっていました。今村が軍司令官になったのは昭和十八年です。今村は間にあ
 わなかった。
・ガダルカナルと並んで成功した撤退戦と言えば、「宮崎繁三郎」のやったインパールの
 撤退があります。宮崎繁三郎中将は二つのことをやっています。一つは、階級にこだわ
 らずにいちばん気の合う同士で分隊をつくらせ、いちばん親分格の人間に分隊長をやら
 せたことです。もう一つは、街道に縦深のいくつもの陣を敷かせて、「とにかく食い止
 めろ、最善を尽くして、食い止めろ」と命令したことです。ただし、「全員戦死する必
 要はない。一分でもいいから長く食い止めればいい。ダメとなったらすぐ退がれ」と言
 うのを忘れていません。
・宮崎中将の作戦は、第一陣が敵を食い止めている間に、直後の第二陣が陣地をつくる。
 それで、「これまで」と思った第一陣はいちばん後ろに撤退し、次は第二陣が敵を食い
 止める。第二陣が撤退しなければならなくなったら、第三陣が敵を食い止める。これが
 宮崎中将の作戦でしたが、あまりにも強力な抵抗が連続したために、「何かある」と考
 えたインド・イギリス連合軍は急進撃を中止してしまった。この作戦の成功で、日本の
 主力部隊はうまく逃げることができている。
・サハラ砂漠で、ロンメルの機甲師団を破ったイギリスの「モンゴメリー」将軍は、「リ
 ーダーシップとは、人を共通の目的に団結させる能力と意志であり、人に信頼の念を起
 させる人格の力である」と言っています。
・もう一つ成功した撤退戦と言えば、キスカ島の撤退があります。この作戦は「木村昌福
 中将が持ち上げられていますが、木村さんよりむしろ「神重徳」参謀の功績が大きい。
・日本の指揮官というのは、言ってみれば超エリートです。超エリートでありながら、あ
 るいはあったためと言うべきかもしれませんが、ナポレオンの言う”大胆”とか”頑固”に
 欠けていた。超エリートとは陸軍士官学校、海軍兵学校から陸軍大学校、海軍大学校を
 優等で卒業して参謀になり、参謀から指揮官へのレールを歩いてきた人間です。
・陸軍大学校と海軍大学校は参謀をつくる学校ですが、その授業内容はひどい。戦術ばか
 りで、どう戦争してどう勝つかということ、バトルばかりをやっている。私は、陸軍大
 学校や海軍大学校では、もう少し一般教養的な人間教育が必要だったのではないかと考
 えています。
・本当のリーダーはいかにあるべきかを考えてみました。
 第一:権威を明らかにすると同時に責任をしっかり取ることです。これがリーダーの心
    構えとして最も大事だと思います。 
    権威を明らかにして責任を取った最高のリーダーは、戦中最後の陸軍大臣の阿南
    惟幾です。
 第二:組織の目標を明確にするための決断をすること。さらに、決断し、高く掲げた組
    織の目標、明確にした組織の目標を部下に教え、示す。これをやらない人が日本
    軍にはたくさんいた。山本五十六がその典型です。山本五十六にはリーダーとし
    ての根本的なものが欠けていた。
 第三:焦点の場に位置せよということ。事態から逃げずに、事態と面と向かうことが、
    焦点の場に位置することになります。いちばん簡単なのが指揮官先頭、リーダー
    先頭です。
 第四:情報を自分の耳で確実に聞くことです。人間というものは、イヤの情報は聞きた
    がらなかったり、どこから出たかわからない情報を信じたりするものです。
 第五:規格化された理論にすがらないことです。発想を豊かにすること。
 第六:部下に最大限の任務遂行を求めることです。「お前が行ってこい。お前しかない
    んだ」という形でやらせなければいけない。
    部下に最大限の任務遂行を求めた好例が、インパール作戦の撤退を指揮した宮崎
    繁三郎中将です。
・ダメな経営者の六つのタイプ
 第一:目的がはっきりしていない官僚的経営者
    目的の達成より手順、手続きが正しければそれでいいといったリーダーです。
 第二:時代性のない経営者   
 第三:問題を先送りする経営者
 第四:部下の人気取りばかりを考えている経営者
 第五:運の悪い経営者
 第六:いまだに「全員頑張れ」と言っている経営者
    各自の持ち場における最大の義務を果たせと言うべき
    
組織を伸ばす人事、潰す人事
・参謀重視は、”日露の亡霊”の一つで、日露戦争以来の日本軍の伝統です。なぜ参謀が重
 視されたかの由来は、じつは日本軍隊の起こりである西南戦争にまでさかのぼります。
 西南戦争の総督の宮は「有栖川宮熾仁」親王で、軍隊の「ぐ」の字も知らない。そこで、
 山県有朋が参謀長ついています。指揮官はお飾りで、実権は参謀が握っていた。そして、
 その参謀重視のシステムで日露戦争に勝てた。だから、参謀は大事だということで、参
 謀をつくるための陸軍大学校、海軍大学校の創立は非常に早かった。
・そうして歴史的背景から、参謀重視、指揮官軽視の風潮が日本の軍隊草創期からあった。
 その風潮が一日露戦争の勝利で加速され、参謀に優秀な人間を集めると戦争に勝てると
 いう幻想を持つようになってしまったわけです。しかし、太平洋戦争ではそうはいかな
 かった。
・幼年学校は中学二年修了程度の学力でしたから、一年生でも受けることができました。
 中学一年、あるいは二年で幼年学校に入り、そのまま士官学校、陸軍大学校へと進み、
 優等、優等、優等できた人間が参謀になる。そこでは広い意味での常識は勉強せず、戦
 術ばかりを学んで結局、軍事専門家になっていく。
・参謀とは、つまるところ完全な偏差値エリートです。参謀本部や軍令部の作戦課にいる
 ような秀才参謀は、いまの官僚と同じような偏差値エリートたちだった。参謀と官僚は
 似ているどころか、参謀は官僚そのものだといえます。戦後の日本は、そんなことも学
 ばなかった。戦争に負けて復興ばかり目が向いていたということもあるでしょうが、参
 謀の悪いところがそのままそっくり戦後の官僚制度のなかに生き残ってしまった。
・いまの日本の一番の欠点を指摘すると、明治の人間が持っていたプロフェッショナリズ
 ムの欠如にあります。プロが少なくなって、官僚化と一億総サラリーマン化が進んでし
 まった。
・日本軍は、スペシャリストとすべき参謀をゼネラリストへの階段にした。その根底には、
 優秀な人間、本当を言えば偏差値優等生にすぎない人間を優秀な人間と考え、優秀な人
 間はゼネラリストになるという考えがあった。
・太平洋戦争を語るとき、張作霖爆殺事件、満州事変、盧溝橋事件、ノモンハン事件など
 を起こした関東軍の存在を抜きにはできません。そうした一連の事件は参謀たちの陰謀
 で、その陰謀から日中全面戦争となり、太平洋戦争に突入していたからです。
・昭和二年に、国民政府軍、これは北伐軍とか蒋介石軍という表現もありますが、国民政
 府軍は軍閥を追い払って南京を占領しています。そのときに各国領事館を攻撃するとい
 う「南京事件」が起こりましたが、救援に向った日本の陸戦隊が間にあわず、日本領事
 館の職員が凌辱されてしまった。死者こそ一人ですが、みな素っ裸にされて相当ひどい
 目に遭っている。
・昭和三年六月に起きた張作霖爆殺事件は、明らかに陸軍全体の陰謀です。関東軍の参謀
 の「河本大作」大佐たちは、陸軍全体の陰謀として張作霖の乗る特別列車を爆破した。
 陸軍には、この企てがうまくいけばそこで満州事変を起こせるという計算があった。爆
 破をきっかけに日本軍と中国軍を衝突させ、全満州を占領しようとしたわけです。しか
 し、満州事変は起こらなかった。なぜなら、日本軍の陰謀がバレでしまったからです。
・責任を問われた河本大作大佐は日本にもどされ、村岡長太郎関東軍司令官は予備役に編
 入されます。その代わりに石原莞爾中佐が作戦参謀に、板垣征四郎大佐が高級参謀に、
 後任の司令官には本庄繁中将が着任する。石原莞爾と板垣征四郎は参謀本部のエースで
 したから、この二人を送り込んだのは、「次はうまくやるぞ」という陸軍の総意のあら
 われでしょう満州事変は暴走した関東軍が引き起こしたとよくいわれますが、じつはそ
 うではなかった。満州事変は陸軍の総意で引き起こされたと言ったほうがいいものです。
・そして、満州国をつくってから、日本には見果てぬ夢が出てきた。そのために、「岸信
 介
」以下の革新官僚や「鮎川義介」などの新興財閥、それに元左翼の優秀な連中を満鉄
 に持っていったりする。 
・関東軍の作戦参謀とは何者であったかをじっくり考えました。その正体は、自分たちは
 非常に優秀な参謀である、自分たちの作戦構想は抜きん出ている、自分たちは戦闘集団
 として最強であるというもので、一言で表現すれば”根拠なき自信過剰”の男たちという
 ことになります。当時の参謀本部や関東軍の作戦参謀というものは、本当に”驕慢なる
 無知”の集団だった。
・もう一つ言えば、関東軍の参謀課は、全員が底知れない無責任な者ばかりだった。だか
 ら、責任を感じていれば到底できないようなことを平気でやる。もちろん、失敗しても
 責任は取りませんが、責任ある立場だという自覚があればやれないことを平気でやって
 いる。
・なぜそんな底知れない無責任が生じるかと言うと、ものすごいエリート意識があったか
 らです。自分たちは陸軍大学校優等生だというエリート意識が”驕慢なる無知”と底なし
 の無責任に参謀たちを導いていた。
・いまの日本を見ると、子供のときから受験、受験の偏差値教育ばかり。試験には受かる
 かもしれないが、これほど知的レベルの低い国民はいないのではないかとさえ思えて仕
 方がない。だから、日本には真のエリートはいない。
・陸軍と海軍とでは大きく異なりますが、太平洋戦争時の参謀はいくつかのタイプに分け
 ることができます。 
 第一:書記官型、または側近型で、指揮官の意思を伝達するだけで自分の判断はしない
    タイプです。指揮官の知的、肉体的ロスを最小限にとどめるタイプともいえます。
 第二:代理指導型、または分身型で、指揮官の身になって自分でも判断し、適切な指導
    調整をおこなって補佐するタイプ。
 第三:専門担当型、または独立型です。指揮官を補佐するが、同時に自分の専門に関し
    ては独自に判断し指導するタイプ。
 第四:準指揮官型、または方針具体化形。みずから権限を持って振る舞い、時に指揮官
    を乗り越えて指揮官としての役割を果たすタイプ。
 第五:長期構想型、または戦略型。長期的な戦略展望に取り組み、独自の構想を持つ思
    索型タイプ。 
・この五つのタイプと、陸軍省や海軍省、それに参謀本部や軍令部という軍中央にあって
 は、政略担当型のタイプがあります。これは政治軍人型と言ってもいいんですが、各官
 庁や政界・財界トップとの折衝に特殊な才能を発揮するタイプです。
・そうしたタイプの参謀たちは、だいたい大きく二つの型になっていく。一つは、ノモン
 ハンの「服部卓四郎」と「辻政信」のようなタイプで、自分たちが結束して軍司令官以
 上の権限を持ってしまうタイプです。その結果、上には口をはさませない下剋上になり
 ます。もう一つは、茶坊主です。日本の参謀はリーダーになるためのワンステップとい
 う側面があったため、軍司令官に気に入れられるといった形による出世の道が開けた。
 これは非常に楽な出世方法ですから、多くの参謀は司令官のご機嫌をうかがって出世を
 はかる茶坊主になってしまった。
・最後の海軍大将・「井上成美」は、識見も教養の深さも一流だった。海軍兵学校の校長
 さんならいいですが、ただし、井上さんを将に頂いて戦争することだけはご免こうむり
 たい。珊瑚海海戦が示しているように、知識が豊富だからといって実戦がうまいとはか
 ぎらないからです。あれこれ情勢判断しすぎて、かえって自分で自分を混乱させてしま
 う。それに井上さんは、頭がよすぎるから、参謀の意見もあまり聞かない。リーダーと
 しても、参謀としても、何か重要なものが欠けています。
・判断力や知識、教養といったものは勉強すればある程度身につきます。しかし、決断力
 は勉強だけでは養えません。判断力と決断力との間には、命がけの飛躍があります。だ
 から、本物のエリートを養成するためには、温存主義ではできません。
・硫黄島の「栗林忠道」陸軍中将も、えらかった。ドカンドカンと圧倒的な火力で米軍が
 攻める上陸地点での攻防戦を避け、バンザイ攻撃も絶対やらせなかった。やったのはゲ
 リラ戦。そして五日で落ちるといわれた硫黄島を一カ月以上持ちこたえさせたのみなら
 ず、死傷者は米軍のほうが多かった。
 
なぜ、誰もそれを止められないのか
・なぜ日本が太平洋戦争に突入していったのかの理由の五つのポイント
 第一:日本型タコツボ社会における小集団の弊害
    タコツボに秀才が小さく固まり、非常に不十分なトップマネジメントしか生み出
    さなかった。世界全体の動きを見渡せる視野がなかった。
 第二:理性的な判断の目を曇らせる情緒的、ムード的な思考の支配
 第三:国際社会における日本の位置づけを客観的に把握していなかった。
    つねに主観的な思考に偏って独善主義に陥っていた。
 第四:現象面での成果を急ぐ短兵急な発想。
    時間的、空間的な深まりを持つ大局観や複眼的な思考、多面的に考える姿勢がい
    っさいなかった。
 第五:自民族の利益のみを追求する国際的エゴイズム。
・あのとき、日本にはいくつかの選択肢がありました。一つは、ハルノートへの回答を引
 き延ばして三カ月の時間を稼ぐ。もう一つは、「ハルノートを受諾します。ハルノート
 のとおりに日本はやります」と、ハルノートを呑んでしまう選択です。日本は先延ばし
 が得意だから、こうしたときに先延ばしをやればよかった。ハルノートは中国からの撤
 退を要求するものです。ハルノートを受諾してから中国からの撤退をゆっくりとやれば
 よかった。そうすれば、太平洋戦争など起こらなかった。
・太平洋戦争と大東亜戦争という言葉がよく議論になりますが、むずかしく議論する必要
 はないと考えます。海軍はとにかく敵国がアメリカで、最初から対アメリカ、対イギリ
 スを考えていて、主戦場は太平洋だから太平洋戦争です。一方、陸軍の考える主敵はソ
 連でした。だから、南方資源地帯を確保したらソ連をやらなければならない。満州から
 シベリアへと侵攻しなければならない。だから大東亜全域を舞台の戦争ということにな
 ります。つまり大東亜戦争です。
・はっきりいえることは、陸軍は対米戦争には本気ではなかったことです。本気ではない
 から西に目がいかなかった。東南アジアを占領したらもう満足してしまった。
・ヒトラーもスターリンも、独裁者であり、かつ戦争の確信犯です。ヒトラーなど確信犯
 だけに、恐ろしいほどの戦略眼があった。
・確信犯はヒトラーとスターリン以外にもいる。じつは、チャーチルもルーズベルトも確
 信犯だった。好戦的で、最初からやる気満々でした。
・結局のところ大戦略は政治家がやるものです。政治家しか国をどうするという大戦略は
 やれません。日本の重臣たちの誰一人として、対米戦争開戦には積極的には判を押して
 いない。そんな状態からは大戦略は生まれません。近代戦、現代戦は国対国の戦いです。
・じつは、山本五十六にはすぎに熱くなる日本人と世論に対する不信感がありました。そ
 れは日露戦争の体験です。日露戦争がポーツマス講和条約で終わったとき、その講和の
 内容に激昂した民衆が「日比谷で焼討ち事件」を起こしたりしている。だから、東京や
 大阪が焼け野原になって惨めな形の敗北が続いたりすれば、国民の軍への不信から革命
 騒ぎということにすらなりかねない、と考えていたのです。山本はそうした国内大混乱
 を招き、自滅するような事態はどうしても避けたかった。日本が有利なうちに早期に戦
 争を終わらせることが不可欠と考えたんです。
・山本五十六にとって、ハワイ作戦とはまさに乾坤一擲の作戦で、これが失敗するような
 ことがあれば、天運われにあらず、戦争はそれで終わり。向こうの条件をある程度呑ん
 で、すぐに手を挙げようという腹づもりがあった。そして自分は腹を切る。
・だから、山本五十六は断々乎として真珠湾奇襲攻撃をやった。その真珠湾攻撃が大成功
 する。その成功のために講和どころではなくなり、国民は「これで勝てる」と思ってし
 まった。毎夜毎夜提灯行列の有頂天ぶりです。山本五十六の心中を察すると、「これは
 困ったことになった」と思ったでしょう。
・海軍は国際主義だったといいますが、根無し草の国際主義です。しかも中国に関してま
 ったくといってよいほど無知です。海軍出身者が言いたがらないことですが、中国戦場
 の拡大(上海戦)には、米内光政海軍大臣が積極的にかんでいるのです。むしろ陸軍統
 帥部のほうが抑えにかかろうとしていた。米内さんが終戦工作で体を張ったのは、自分
 にも責任があるという痛恨の思いがあったからでもあるでしょう。
・海軍が善玉で、陸軍が悪玉といった構図はまったくの嘘です。海軍中央つまり海軍省と
 軍令部は対米強硬派が占拠し、米英協調派は一人もいません。しかもその反米派の多く
 が薩長です。
・明治の陸海軍は薩長閥といわれ、大正にも薩長閥の名残りはいくらかありました。昭和
 になって薩長閥はなくなったといわれていますが、それは完全な誤りです。海軍の中央
 にいた主な人間は薩摩と長州だったんです。
・極言すれば、明治以来続いてきた薩長閥が国を滅ぼし、戊辰戦争の賊軍が国を救った。
 米内光政は盛岡藩で賊軍、井上成美は仙台藩で賊軍、鈴木貫太郎は関宿藩でこれも賊軍、
 山本五十六も越後長岡藩でやはり賊軍です。
・初期においては、零戦は無敵だった。その理由は、アメリカ機に比べて零戦が軽くつく
 られていたからです。零戦はその軽さをフルに利用して、アメリカ機をドッグファイト
 に持ち込んだ。
・しかし、アメリカは研究して戦法を変えてきた。ドッグファイトに持ち込まれないよう
 に、高空からの急降下戦法を取りはじめた。この戦法は重い飛行機のほうが有利です。
 それ以来、空中戦での零戦の戦果は激減してしまった。
・しかし、日本は、一度成功すると戦法を変えませんでした。零戦はあくまでドッグファ
 イトをやろうとしたし、夜間の奇襲作戦が成功すれば毎日同じ戦法を繰り返した。
・特攻もそうです。あんな狂気じみたことがやれるのは、日本人だけだという連中もいま
 すが、逆に特攻をやってまで国を守りたいという健気さがあったのも日本人だけでしょ
 う。
・特攻は「大西瀧治郎」中将の発案とされていますが、じつは軍令部の指令によるもので
 あったらしい。最初の特攻が成功したから、日本はそのあと沖縄戦まで特攻ばかりを繰
 り返している。こんな戦法を取っていれば向こうは分かってしまう。なぜ一回特攻を止
 めなかったのか。なぜ特攻戦法を変更しなかったのか。あまりにも無策無惨すぎます。
・アメリカはすぐに対策を考える。しかし、日本はさらに有利な対策を考えなかった。万
 事においてそうでした。あるものは精神主義で、「行け行け、突っ込め」ばかりだった。
・日本はハード温存と艦隊決戦という観念で戦争をやり、アメリカは戦争目的に対するア
 ングロサクソン流の仮借なき徹底性で戦争をやった。東京大空襲もその仮借なき徹底性
 の一つです。使用された爆弾は焼夷弾で、焼夷弾は人間殺戮爆弾ですから、東京大空襲
 の目的は市民の殺戮にあった、と考えるしかない。その無差別爆撃は、アメリカの司令
 官が「カーチス・ルメイ」に代わってからすぐにおこなわれています。私が許せないと
 思うのは、戦後、そのルメイに勲一等を授けていることです。叙勲の理由は航空自衛隊
 を育てたということですが、東京大空襲、広島、長崎の原爆投下で多くの人命を奪った
 司令官に勲一等を授ける官僚の気持ちがどうしてもわからない。それを許す国民性こそ、
 戦後日本のいやらしさだと思います。
・大戦略なく開戦に踏み切ったように、戦争終結についても日本にははっきりした戦略が
 ありませんでした。マリアナ諸島の争奪戦で負けたとき、日本は生命線を突破されて敗
 戦は予想されています。というのは、陸海軍はマリアナ諸島に最後の絶対国防線を引い
 ており、これを突破されれば終わりだと言っていたからです。そこから日本本土空襲は
 必至になりますしね。
・しかし、陸軍の戦死者の七〇パーセントは戦死と海没で、いわゆる主力決戦をやっての
 戦死者はあまりいない。陸軍にとって、決戦をしないで負けるという歴史上ないことは
 許されなかった。だから、陸軍としては、マリアナの最後の防衛線を失っても戦争を続
 ける以外の選択はなかった。残された選択は、本土決戦です。
・真相は定かではありませんが、昭和天皇はかなりインチキな報告を受けていた可能性が
 あり、当時の侍従武官の日記を見れば、昭和二十年の六月までは「なんとか戦局を挽回
 しなければ」と戦争続行のほうに顔が向いていたことがうかがわれます。その昭和天皇
 六月の十日前後に正確な報告を受け、「いままで軍部が私に報告してきたことは全部、
 嘘じゃないか。がとんでもない大間違いをしている」と痛感する。
・昭和天皇みずからが戦争指導会議の六人を呼んで天皇の意向を聞く形を鈴木貫太郎が考
 えだす。六月二十二日にその懇談が召集され、昭和天皇がはじめて和平への意思をトッ
 プの六人に明かされる。和平への歩みが本当に具現化するのは、この懇談からになりま
 す。
・こうして動きは極秘だったが、やがて陸軍省や参謀本部に漏れる。そこで、徹底抗戦を
 叫びつづけている陸軍省や参謀本部は、阿南惟幾陸軍大臣に辞表の提出を迫る。阿南陸
 相に辞表を出させて後任の陸相を出さなければ、当時の内閣制度では内閣は崩壊し、そ
 れまでの決定はすべて反古になります。陸軍省や参謀本部はそれを狙ったが、阿南陸相
 は辞表を出さなかった。そして、ポツダム宣言受諾当日の八月十五日未明、責任を取っ
 て阿南陸相は割腹自殺をしています。