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先の戦争の直接のきっかけをつくったのは、日本帝国陸軍の暴走だといわれるが、そこに
は軍という組織に、根本的な欠陥があったからのようである。それは、軍のエリートを育
てる陸海軍の大学校の教育自体が、広い視野を持った人材、あるいは国際性を持った人材
を育てるというようなものになっておらず、受験エリートの猪突猛進型の馬車馬のような
人材ばかりを育ててきたことにあったからのようだ。
昭和陸海軍では、軍という組織内での出世競争や権力闘争に明け暮れていた。なかには、
真の教養を持ち、広い視野を持った良識的な人材もいたが、出世競争や権力闘争の中では、
冷遇され閑職に追いやられた。
また、参謀という本来は指揮権のない者が、上官である指揮官を差し置いて、自分の出世
欲のために勝手に命令を出すという下克上もまかり通っていた。軍隊組織として機能不全
に陥ってしまっていたのが、暴走の原因となったと言えるようだ。
しかし、これはなにも旧日本軍に限られたことではないように思える。現代においても、
国の政治や官僚組織、地方自治、民間企業においても、似たようなことが起きている。そ
のような状態を見ていると、日本という国は、あるいは日本人という民族は、また同じ過
ちを繰り返すのではないのかと思えてならない。


派閥抗争が改革をつぶした
・太平洋戦争末期の硫黄島総指揮官、栗林忠道陸軍中将が有能な軍人だったことは間違い
 ないところです。しかし考えてみれば、栗林ほどの知謀の士がなぜ軍の中で主流になれ
 なかったか。栗林のほかにも数多くの勇将、賢将がいながらなぜ日本は戦争に負けてし
 まったのか。そこには昭和の陸軍が組織として、抱え込んでいた固有の問題があるので
 はないかと思います。
・戦争指導の中心となった陸軍大学校(陸大)出のエリートたちはどうして国家を破滅の
 淵に追いやったのか。国家の中枢を担うエリートについての問いは、平成の我々が直面
 している問題でもあります。
・近代日本の基礎となったのは、維新の原動力である長州・薩摩・土佐各藩の藩兵たちで
 す。維新の元勲の一人で長州出身の山縣有朋が主導して次第に軍制を整えていった、と
 いえば聞こえがいいのですが、要は長州閥が牛耳っていたわけです。
・たとえ実力がなくとも、長州出身者であれば陸軍大将になることができた時代がずっと
 続きました。
宇垣一成は岡山出身ですが、昭和初の陸軍大臣として軍の近代化を推し進め、日本を総
 力戦に耐えうる体制に作り変えようと努力しました。一方、その強烈な個性から陸軍内
 に多くのアンチ宇垣派を生み出し、昭和の陸軍の派閥抗争の震源となった感もある人物
 です。 
・第一次大戦は戦争史上の大変革期でした。飛行機、戦車、毒ガスなどの新兵器が次々と
 登場し、戦争の質が変わったのです。大戦で本格的な戦闘を体験できなかった日本は、
 遅ればせながら、戦争が始まって一年後に臨時軍事調査委員会を設立して、ヨーロッパ
 戦線の調査研究を行います。そこで見えてきたのは、これからの戦争が、国家がその国
 力を総動員して戦う、いわゆる「総力戦」時代に突入したのだ、ということです。日露
 戦争の延長線上で次の戦争を考えていた陸軍のショックは非常に大きいものでした。
・宇垣は若い頃から、陸軍が中心となって日本の政治を引っ張り、自身も総理となって東
 アジアの覇権を握るんだ、という壮大な目標を思い描いていたようです。
・宇垣が陸相として行った最も大きなことは軍縮でした。四個師団の削減に踏み切ってい
 ます。当時の日本は大戦後の不況と関東大震災の余波を受け、緊縮財政を余儀なくされ
 ていました。この軍縮には一定の合理的理由があるけれど、身内の陸軍の反発はすごか
 った。  
・宇垣にとって不幸だったのは、彼の狙いは、師団削減によって余った予算で軍備充実を
 と意図したのですが、不況と震災などの影響で資金投入が遅れてしまい、結局のところ
 軍の近代化はほとんど進まなかった。  
・それでも彼はよくやったと思いますよ。師団を減らすとき、自分の出身地である岡山の
 師団をまず減らしたし、残った部隊を実に巧妙に配転していくことで、駐屯地をかかえ
 ていたどの都市でも部隊がなくならないようにした。彼の軍官僚としての能力の高さが
 うかがえます。 
・宇垣自身はかなり個性の強い人物で、軍内外で敵も多かったようです。宇垣の政治的に
 曖昧な言動をふまえて天皇は、「この様な人は総理大臣にしてはならないと思う」と厳
 しく批判しています。 
・宇垣が抜擢人事で引き上げたのは永田鉄山など、のちに軍内部でその名が知られていく
 人材ばかり。人を見る目は持っていたようです。
・宇垣は軍人でありながら政治にも積極的に介入していった。明治期の山縣や桂のような、
 かなり古いタイプの政治的軍人だったのでしょう。
・宇垣の強引な陸軍運営に反発した青年将校たちが対抗馬として期待を寄せたのが、荒木
 貞夫でした。荒木には何といっても人間として魅力があった。陸相になるまでは、永田
 や東條などの後の統制派将校からも慕われていたんじゃないでしょうか。なにしろ、あ
 れだけ自宅で部下と酒盛りをしている上司はあまりいません。それだけでなく、荒木は
 豊富な戦場体験を持っていました。東條などは大戦時は後方にいて新聞記事などで見聞
 を広げるしかなかったわけで、荒木の経験はそれだけでも尊敬を集める理由になります。
・荒木の場合は陸軍大臣になる前と後で豹変したように思うんです。陸相になってから、
 あたらに「皇軍」という言葉を用いるようになり、過剰に精神主義へと傾いていく。
 偏った派閥人事も平気で行う。快活な印象がどこかに行ってしまいました。作戦課長だ
 った今村均をわずか六ヵ月で上海に飛ばしたりかなり露骨でした。 
・永田ら統制派のエリート将校は、皇道派の青年将校とちがって、クーデターといった非
 合法な手段ではなく、軍内部の実権を掌握しながら、自分たちが目指す方向にもってい
 こうとします。中堅幕僚たちが軍上層部や司令官の意向を汲ますに独断で軍を動かして
 しまうのは、昭和の陸軍の大きな問題ですが、いわゆる「幕僚統帥」の萌芽は、このあ
 たりから始まったように思います。
・板垣と石原莞爾が満州事変を企画し、彼ら中堅幕僚は事変後、政府の不拡大方針に従わ
 ず関東軍のサポートに回ります。ここで軍人としてのある一線を踏み越えてしまったよ
 うな気がするんです。 
東條英機は岩手、永田鉄山は長野の出身です。東條の父親の英教は陸大一期の首席とい
 うエリートでしたが、藩閥の壁に阻まれ出世できず不遇のまま終わる。そうした時代が
 ようやく終わりを告げたのです。長州閥といった地縁、あるいは貴族的な血縁が優遇さ
 れるのではなく、陸士や陸大で好成績を挙げたエリートたちが軍の中心になる。ある意
 味できわめて民主的な形で軍が運営されるような時代が来た、とも言えるのです。 
 
エリート教育システムの欠陥
・一夕会のメンバーの中では、やはり永田鉄山が突出して優秀だった、と言われています。
 陸士で首席、陸大でも52人中2番で恩賜の軍刀をもらっています。しかも決してクソ
 真面目というわけではなく、士官学校を抜け出して女郎を買いに行った、という逸話も
 残っている。永田の給料の半分は洋書屋の丸善にいく、と言われたほど読書家だったそ
 うです。永田は軍の中で上下を問わず評価されたのみならず、おそらく政治家や実業家
 とも対等に付き合うことができるだけの知性と見識を持っていたと思います。
・もし永田が生きていたら、昭和史の流れが変わっていた可能性もあります。純粋培養で
 社会的経験にとぼしい他の軍人たちとちがって、視野が抜群に広がった。たとえば盧溝
 橋事件の時点で生きていたら、石原莞爾とともに、武藤や田中を抑えて、戦火の拡大を
 防ぐことができたかもしれない。永田は石原莞爾よりはるかに人望がありましたから。
 少なくともあれほど下克上が陸軍組織内にはびこることはなかったはずです。  
・ただ、いくら永田が優秀だったとしても、どれだけ歴史を変えることができたのかは疑
 問です。彼自身も次の戦争にそなえ、総力戦体制を作ろうと陸軍内部の人事割刷新を行
 っていたわけですから。一人の人間の力によってあの戦争が回避でいたとは思えないん
 です。
・永田が生きていれば東條が出てくることもなかっただろうとも言われています。
・良くも悪くも昭和の陸軍の象徴的存在である東條英機は、対米開戦時の総理大臣であり、
 戦後はA級戦犯の代表のように扱われることが多いです。彼は父親の影響を受けて極度
 の長州嫌いでした。南部藩士の息子だった英機の父・英教は、猛勉強して陸大第一期生
 の首席として卒業しています。戦術面で特異な才能を発揮しましたが、日露戦争時には
 優柔不断だとして抗命の疑いで指揮官失格の烙印を押され、軍を辞したあとは軍事評論
 家として反藩閥運動に邁進します。 
・東條英機は、才能も、門閥もないのに、受験勉強を勝ち抜いて陸軍大臣。そして首相ま
 でのぼりつめたという点では、昭和のデモクラシー的陸軍の体現者とも言えます。大変
 な努力家です。 
・東條は永田や石原莞爾のような天才肌の軍人ではなく、努力家タイプの人間でした。陸
 大も三度目の受験でやっと合格し、その受験勉強も科目別に毎日時間を決めて、かつ子
 夫人と一緒に真面目にこつこつ取り組んでいました。部下の再就職先をコツコツ探して
 あげたり、連隊長時代には夜になるとゴミ箱をあさって兵隊の食事の状況を把握しよう
 としていたり、実に真面目で細やか。東條を知る者は口を揃えて「真面目で一生懸命」
 と評します。克己心を持って努力していくという戦前の日本人の一つの模範だったと思
 います。 
・天才肌の石原莞爾は東條を「東條軍曹」「東條上等兵」と呼んで馬鹿にしていました。
・東條は妙にメンツを重んじて偏狭なところがありました。また、首相時代に秘書官や参
 謀と話しているメモが残っているんですが、サイパンが陥落して防衛線の一角が崩れた
 ときに「蚊に刺されたようなものだ。我々の方が敵を挟んでいると思え」「負けると思
 ったときが負けだ」と口走ったり、飛行学校の少年たちへの訓示でも「高射砲は精神で
 撃つ」なんて場違いな精神論をぶちあげている。人事も自分のお気に入りばかりを側近
 におく一方で、一度敵視した者はどことん冷遇しました。石原莞爾を予備役に追いやっ
 たり。 
・東條は対米開戦の直前に首相に就任したとき、もうこの期に及んで戦争回避は確かに不
 可能な状況だったのに、天皇の意を汲んで懸命に避戦の道を探ろうとする。天皇への上
 奏の態度なども本当に律儀でした。だからこそ天皇も東條を信頼したわけです。 
 ただ、一国の指導者としてはどうだったのか。開戦直前、まさに国家の危急存亡のとき
 に「真面目で一生懸命」なだけの指導者に国運を託さざるを得なかったのは日本の不幸
 ですし、東條にとってもある意味でかわしそうなことだったと思います。独裁者のイメ
 ージとはほど遠い、小心翼々とした能吏タイプです。
・とにかく東條は世間が狭いですよね。戦争指導者は、やはり政界を含めた外の世界との
 つながりがある人でなければ務まらない。東條は陸軍次官時代、いろいろと政治に口出
 しをするんですが、それがいかにも世間知らず、というものでした。なぜあの時、彼が
 軍のトップの座にあったのか。彼しか人材がいなかったのだとしたら、そのこと自体が
 陸軍という組織が抱える欠陥でしょうね。 
・東條のような軍人が戦争指導者になってしまったことの背景には、二・二六事件の影響
 もあります。事件後の粛軍人事で、荒木、真崎をはじめとした皇道派の上の連中や派閥
 抗争に関わった上級軍人は予備役に編入され、かなりの数の将官が抜けてしまった。永
 田のような有望株はもういない。そこで東條のような軍の中でコツコツ真面目にやって
 きたタイプが自動的に浮上してくる、という構図はあったように思います。
・ただ、もし粛軍人事がまったくなくて、事件前の将官クラスがみんな残っていたとして
 も、それが本当によかったとは思わない。彼らが広い視野を持っていたかどうか、
 あるいは教養を持っていたのか、国際性はあったのか。答は残念ながら「否」です。
 どれもこれも猪突猛進というか、馬車馬のような者ばかり。これは彼らをエリートとし
 て養成した陸軍大学校の教育が間違っていた、としかいいようがない。結局これは、明
 治以来の陸軍教育、陸大教育のやり方が間違いだった。
・問題は日露戦争後の高級参謀・指導官の基礎を養成する教育課程を作らなかったことで
 あり、少壮参謀用に教育した戦術中心主義を、総力戦時代に突入した昭和に入っても変
 えなかったことです。 
・東京裁判のときに東條や畑俊六が、自らの罪状の中で出てきた九カ国条約や不戦条約の
 詳細について何も知らなかったという話があります。畑は陸大を首席で出ています。そ
 れなのに国際法などの知識がほとんどないままに軍首脳になれたわけです。 
・終戦時に大本営参謀を務めた人は「陸大の教育はなっていなかった。なにしろ全てが他
 律主義で、上から言われたことだけをするように教育され、本来柔らかかったはずの自
 分の頭がどんどん固くなって、融通がきかなくなっていく、前の時代のやり方を踏襲す
 るような思考法しか教わらなかった」というのです。今の官僚機構が抱えている慣例主
 義、前例踏襲主義に通じるものが見ます。 
・陸士を出て、隊付任務を二年以上つとめた者から選抜された優秀な将校が、陸大を受け
 るわけですが、合格者は約一割という難関です。帝国大学に入る以上の受験勉強が必要
 だったと言われています。二度目、三度目でようやく合格する人も多い。大変なエリー
 トだったわけですが、今の官僚と同じで彼らはやはり受験エリートでした。しかも戦術
 研究に特化して、一般教養という点では大いに問題があった。対米、大英戦略は何一つ
 教わらなかった。対ソ戦略一辺倒。憲法についても丁寧に教わらなかったし、開戦や停
 戦、終戦手続きなども一切学んだことがないと言っていました。
・満州事変の時の板垣征四郎と石原莞爾のように、局面局面で指導官と参謀のいいコンビ
 はみられるけど、国家戦略全体を見通せる将帥は現れませんでした。将帥を、正規の教
 育課程の中で養成することはきわめて難しいのです。教育機関としてできるのは参謀養
 成までで、そこから先は、本人が自分自身で学んでいくしかないのではないでしょうか。
 リーダーを人工的に作ることはできないのです。今でも東京大学は官僚養成機関という
 か、エリート候補生を育てる場となっています。でも、官庁に入ったあとは競争ですし、
 その中で上に立つ素養を身につけた者が次官レースに勝ち残っていく。軍人も同じだと
 思うんです。
・むしろ問題なのは、陸大が参謀を養成するか、指揮官を養成するか、明確にしなかった
 ために、中途半端な指揮官意識を持った参謀たちが数多く生まれてしまったことだと思
 います。それが「幕僚統帥」へとつながっていくんです。
・満州事変にしても、支那事変にしても、現場の中堅将校が軍中央を無視して突っ走った
 背景には、参謀の領分と指揮官の領分が曖昧なままに現場に配属されてしまったことが
 あったからと言えます。参謀なのに指揮官きどりで暴走を始めてしまった。  
・日清、日露のころからさんざん兵站で苦労したというのに、日本の陸軍は最後まで兵站
 や輜重を重視しなかった。代わりに現地調達を基本とした。このことが太平洋戦争の陸
 軍戦死者165万人のうち、実に70パーセントが餓死によるものという災禍を招いた
 ように思います。カダルカナルにしろニューギニアにしろあんな作戦指導をしていて、
 エリート参謀とは恥ずかしくて言えない。

天才戦略家の光と影
・戦時中の陸軍の名将を五人選ぶとすると、一位に石原莞爾、二位に板垣征四郎、三位に
 阿南惟幾、四位に今村均、五位が安達二十三と言われる。
・国防政策担当者という立場で見ても、石原莞爾はまったくもって天才的です。それまで
 日本の国防計画は、国防方針と軍備充実計画、そして年度作戦計画しかありませんでし
 た。そこにはじめて戦争指導という概念を導入して、実際に中長期にわたる戦争指導計
 画を作り、参謀本部に戦争指導課を作ってしまう。実に真っ当なことをしているんです。
 しかも、総力戦を想定して軍備を整えるためには、産業計画を国防計画体系の中に組み
 込むことで軍備充実を図っていくしかありませんが、それを考えていたのは石原莞爾だ
 け。戦争をする以上は、ここまで考えてくれなければ困るんです。
・石原感じは東條英機とは犬猿の仲でしたが、それもむべなるかな。東條とは対照的な個
 性の持ち主ですから。石原は部下で陸大を受けたいと言う者がいると、東條とは逆に仕
 事を倍にしてしまうんです。陸大に行きたいというようなやつは彼にとって軽蔑の対
 象でしかない。当然部下からは恨まれます。彼が対米開戦の直前、京都の第十六師団長
 の職を離れて予備役になるとき、師団の食堂や売店のおじさんおばさんは見送ってくれ
 ましたが、将校の見送りは一人もいなかったといいます。戦後、山形県の吹浦に農場を
 作って朝鮮人や中国人を交えた共同生活を営みますが、そこにも職業軍人は一人もいま
 せんでした。  
・石原莞爾の場合は東亜連盟や満州協和会、青年同盟の人たちによって完全に神格化され
 ているところがあって、たとえば「石原さんの指揮した部隊は絶対に弾が当たらない」
 なんて荒唐無稽な話が信じられている。おそらくここにも日蓮の立正安国論だったり、
 彼が唱えた最終戦争論などが影響しているはずです。彼のカリスマ的な部分に感応して
 「命を捧げます」と信奉してしまう者は、軍人よりむしろ一般市民の中にいるんです。
・石原莞爾は演説のときに「天皇と日蓮、どっちが偉いんですか」という質問に「当たり
 前じゃないか、日蓮だろう」と平気で言ったという。満州についても「日本と戦っても
 独立すべきだ」と言い切る。  
・石原莞爾は陸大時代、本ばかり読んでいた。彼は仙台の地方幼年学校から東京の中央幼
 年学校に出てきて、図書館の存在を初めて知って驚くんです。「タダでいくらでも本が
 読める」と。家が非常に貧しいから軍人になったわけで、もしある程度豊かな家に生ま
 れていて普通の教育を受けていれば、学者や思想家になっていたと思うんです。心性は
 おそらく同じ国柱会の宮沢賢治などと相通じるものがあったのだと思います。宮沢賢治
 も、もし長生きしていたら満州に行っていたでしょうね。 
・石原莞爾が大きくクローズアップされる場面は二つあると思います。一つは満州事変で
 あり、もう一つは支那事変です。前者では事変の首謀者であり、後者では参謀本部作戦
 部長という要職にありながら、事変拡大を阻止できなかった。この二点についての責任
 は非常に重い。 
・それにしても、対米開戦時の参謀本部の陣容は最悪の組み合わせです。杉山参謀総長
 田中作戦部長、その下には服部課長、そしてしばらくして辻が作戦班長としてくる。ノ
 モハン失敗のコンビが幅を利かせるようになったわけです。だとすると、東條などより
 も杉山の方がよっぽど戦争責任は重いですね。開戦後、南方作戦がうまくいったからと
 いって、海軍のいいなりに持久戦の遂行可能な地域を越えたガダルカナルの責任は、間
 違いなく参謀本部の長たる杉山にある。おまけにその時の海軍は永野軍司令部総長です。
 開戦直前にこのコンビで参内して、昭和天皇から杉山が叱責を受けると、永野がへんな
 助け舟を出すんですね。杉山・永野のコンビで開戦を迎えなければならなかったのは、
 日本にとって本当に不幸なことでした。 
 
良識派は出世できない
・今村均は新発田中学から陸軍士官学校に入学。その後、陸軍大学校へ進み、首席で卒業
 します。成績優秀につき軍刀が下賜された、いわゆる「軍刀組」です。太平洋戦争では
 開戦直後に第十六軍を率いて、オランダ領東印度(現在のインドネシア)を攻略し、シ
 ャワ島に上陸してわずか九日間でオランダ軍を降伏させました。
・今村の業績としてまず挙げられるのが、占領したジャワで素晴らしい軍政をおこなった
 ことです。今村はまず二年間、税金の免除を約束しました。そしてオランダ軍から没収
 した金で各所に学校を作らせたのです。こうした政策によって、シャワの人たちがとて
 も親日的になり統治がうまくいった。また敵のオランダ人も、兵隊ではない一般の人は
 住宅地に住まわせ、外出も事由に認めていたそうです。ところが、この政策が「生ぬる
 い」として軍中央の不興を買うんです。  
・「八紘一宇」というのが、同一家族同胞主義であるのに、何か侵略主義のように思われ
 ていると、今村は他の地域で行われた強圧的な軍政には批判的だったんでしょう。結局、
 わずか一年足らずでジャワ島方面司令官の職を解かれてしまい、第八方面司令官として
 ニューギニアの東にあるラバウルへ赴任して、終戦までこの地にとどまります。
・今村均は昭和の軍人の中でもっとも尊敬できる人物ですね。今村がいたラバウルには、
 「ゲゲゲの鬼太郎」で有名な漫画家の水木しげるさんが二等兵として従軍していました。
 水木さんは自伝漫画の中で、ビンタなど理不尽な仕打ちを描き、軍隊という組織の非人
 間性をいま最も広く喧伝している人だと言えるかもしれません。その水木さんでさえ、
 今村大将は立派だったと、インタビューしたときに語っていました。
・日本の陸軍士官学校を卒業している朴正煕元大統領も、今村を尊敬していたそうです。
 それほど彼の人徳はひろく知られていた。今村の部下に何人化会いましたが、みなが口
 を揃えて称賛する。「軍人だとは思えない人格者」というんです。
・戦争中の評判もよいのですが、敗戦後の姿勢も素晴らしい。不当な戦犯容疑でオースト
 ラリア軍から禁固十年の刑を受けた今村は、みずから希望して将校用ではなく、一般兵
 士用の収容施設に入ります。その後、オランダ軍の裁判を受けるためにジャワ島のバタ
 ビアへ移送された。そこで無罪となり、巣鴨プリズンへ移送されますが、「部下が条件
 の悪い孤島の収容所で服役している。司令官の私もそこで服役すべきである」とマッカ
 ーサーに訴えて、マヌス島の収容所へ戻るんです。このときマッカーサーは「日本には
 まだ真の武士道が生きている」という声明を出しています。昭和二十九年に刑期が満了
 したあとは、自宅の庭に建てた三畳一間の小屋で蟄居していました。彼の人間性があら
 われています。    
栗林忠道は硫黄島で二万人あまりの兵を率いて、約六万人の米兵を相手に三十六日間持
 ちこたえた。玉砕戦法を禁じて、島中に地下壕を掘って徹底的な持久作戦を展開したわ
 けですが、あの状況とあの地形において、いちばん正しい防禦戦闘のやり方を選択した
 と思います。実際に硫黄島に行ったことがありますが、あんな地形の小さな島で、一カ
 月も米軍に血を流させたのですから、本当に驚きです。
・そもそも、栗林が小笠原諸島の守備を担当する第百九師団に配属されたのか疑問を持っ
 ています。栗林は陸大を二番で卒業した秀才ですから、一般的には作戦部など軍の中枢
 を担うべき存在でしょう。東條に嫌われて硫黄島に左遷されたという説がありますが、
 真偽のほどはわかりません。
・栗林が立派なのは、自分も硫黄島に赴いて、部下と一緒に戦ったことです。栗林は小笠
 原兵団の司令官なのですから、小笠原諸島の中心にある父島にいてもよかった。父島か
 ら指揮をとっても誰も批判などしないでしょう。ところが自ら最前線に赴いて戦った。
 軍人としては最高の姿勢です。
・栗林本来、参謀本部中枢に配属されるべき成績です。陸大二位ですから。それが断然、
 中央と縁がなかったのは、やはり軍の雰囲気にあわなかったということでしょう。上の
 者から見れば煙たかったでしょう。大陸や硫黄島などどさ回りすることになったのもわ
 かります。誰も中央へ引っ張ってくれる人がいなかったのだと思います。  
・硫黄島の地形や、本土への侵攻を喰い止めようという目的を考えれば、栗林の戦法は最
 高の戦法だったと思います。さらに言えば硫黄島だけではなく、第一段作戦によって日
 本軍が占領した島すべてで、栗林のような戦い方をしなければいけなかった。それも最
 初からです。
・太平洋戦争における日本の戦争指導計画は石井大佐が起草した一つだけです。 要する
 に「アメリカには勝てない。アメリカが戦争を継続するのが厭になるまで粘れ」という
 ことです。そのためには、とにかく自給自足圏を作って死守しようと謳っている。それ
 なのに多くの指揮官は中途半端な戦力で攻撃を仕掛けては、敵の圧倒的な艦砲射撃と航
 空攻撃の前にあっという間に潰された。こうしたことの繰り返しで、ズルズルと後退し
 ていったのです。
・昭和の陸軍は、持久戦をやるのか、短期決戦でいくのかという戦争の基本的なポリシー
 を確立しないまま、昭和十六年の開戦へとなだれこんでしまった。そのため戦争の末期
 にいたっても、玉砕覚悟の突撃と、栗林のように耐えて相手の出血を強要するという戦
 術が混在している。これは陸軍の作戦指導が一貫していなかったことを意味しています。
 陸軍がアメリカと初めて地上戦を戦ったのはガダルカナルです。あそこで何ヵ月も地上
 戦を続けて、撤退はしたものの多くの兵士は玉砕のような形になってしまう。あの戦闘
 から参謀本部の参謀たちは何を学んだのでしょうか。残念ながら、何も学んでいないと
 思います。ガダルカナルのような戦略的に意味のない地域まで出兵して、アメリカが反
 攻してくると、戦力の逐次投入というもっとも拙劣な戦法をとる。それが服部卓四郎や
 辻政信といった中央の作戦指導なのです。本当にバクチうちです。自分が勝っている間
 はいつまでも続けようとするし、負けるようになったら、いつか逆転して取り戻せると
 思い込んで、やめようとしない。それで損害を大きくしてしまった。
 
暴走する参謀コンビの無責任
・理性的が人たちがいかに功績をあげても中央に迎えられない一方で、失敗した人たちが、
 責任を問われることもなく繰り返し中枢に登用されています。その代表が服部卓四郎
 辻政信です。二人とも幼年学校の出身で、関東軍の参謀として昭和十四年のノモハン事
 件を主導して、ソ連に散々な敗北を喫しています。ところがさして重大な責任を問われ
 ることもなく、やがて中央へ戻ってくる。この二人が日本を太平洋戦争に導いたといっ
 てもいいでしょう。しかもガダルカナルの作戦では再び戦死・餓死者二万五千人という
 大失敗をするわけですが、服部はいったん東條陸相(首相)の秘書官に転じますが、奇
 怪なことにわずか十ヵ月半で、また作戦課長に復帰する。
・服部は経歴を見ると陸士、陸大とも優秀な成績で卒業しています。服部は頭はいいが、
 積極的に他人を説得したり、動かしたりすることができる人間ではないように思えます。
 斬り込み隊長の辻を部下として使い、あとから自分の方針を通していく。人当たりは非
 常に柔らかい感じの人だったと聞いています。しかし、彼の人間性に不信感を抱きます。
 というのも服部は戦後すぐにGHQの戦史部に取り込まれてしまった。
・GHQの戦史部、俗に言う服部機関に組み込まれた人に話を聞くと、「缶詰も食えたし、
 甘いものも食えた」と言います。末端の兵士が生活のためにアメリカ軍の仕事をするな
 らともかく、服部は参謀本部の作戦課長までいった人間です。自身の責任をどう感じて
 いたのでしょう。彼の作戦計画で太平洋戦争が始まり、多くの兵士が命をなくしている
 のですからね。  
・辻政信ほど評判の悪い軍人もいない。成績は非の打ち所がないですね。名古屋幼年学校
 一番、それから中央幼年学校へ移って二番、士官学校では一番、陸軍大学校では三番と、
 もう素晴らしい成績です。
・辻はどこに配属されても、強硬論を唱え、ときに上官の目につくような派手な言動をと
 ったと聞いています。戦後、辻は国会議員をしており、議員会館で会ったのですが、い
 きなり「俺の身体の中には六カ国の敵弾が入っているんだ。見るか」ときた。生返事を
 したら、裸になって「最初は上海事変で中国の弾、つぎはノモンハンでソ連の弾・・・」
 といって見せてくれた。おそらく会う人ごとに繰り返していたのでしょう。そういう大
 言壮語はするけれども、自分の戦争責任については、まったく感じていないようでした。
 インパールの牟田口廉也とも会ったことがありますけど、まだ彼のほうが責任を感じて
 いました。「太平洋戦争は自分が起こしたものだ」と言っていました。
・辻、服部のコンビが暴走したノモンハン事件の時、国境紛争が発生すると、関東軍の作
 戦主任だった服部と、作戦参謀の辻は中央の意向を無視して、ひたすら戦局を拡大して
 いったのです。紛争発生を奇貨とばかり暴走した。当時、日中戦争で功績を挙げている
 軍人は山ほどいたが、自分たちはまだだった。彼らはやはり勲章が欲しかったのだと思
 います。 
・結局、この紛争では、最新兵器を備えたソ連軍を前に、関東軍は兵力の逐次投入を繰り
 返し、大敗を喫しています。日露戦争以来、はじめて経験した近代戦で日本陸軍は完敗
 するわけです。 
・ところが最近、「ソ連崩壊で見つかった新資料によると、ノモンハンで日本は負けてい
 ない。死傷者の数はソ連のほうが多いのではないか」と行ってくる人がいる。戦争とい
 うのは、殺した相手の数を競うものではなく、どちらが目的を達成したかによって勝敗
 が決まるわけです。ノモンハン事件はソ満国境の策定をめぐって争い、ソ連の主張した
 通りに国境が定まった。このことを理解しないといけません。現在でも何のために戦争
 をするのか認識していない人が多いようです。 
・辻は、「ノモンハンでソ連の実力は知っている。それより南だ。南方の資源を押さえろ」
 と主張した。北はややこしいから今度は南というわけですが、そうなると米英との戦争
 は避けられません。危ぶむ同僚に対して、「戦争というのは勝ち目があるからやる。な
 いから止めるというものではない」と一喝するわけです。こうした主張がまかり通る陸
 軍とは、いったいどういう組織だったのか。不思議でしょうがない。
・辻は開戦時のマレー作戦に参加して、今度はシンガポールで華僑虐殺事件を起こすわけ
 です。シンガポール陥落後、抗日分子絶滅のための「掃討作戦命令」を出して、多数の
 華僑を処刑させたという事件です。実は命じられた憲兵隊は消極的だったそうですが、
 朝枝など参謀たちが軍刀を振り回して憲兵隊司令部に乗りこみ、「従わぬ奴はぶった斬
 る」と叫んだといいます。本当に憲兵ではなく補助憲兵を駆り出して、辻さんが処刑を
 やらせたと朝枝が言っていました。辻は戦後、戦犯追及を恐れて逃亡していたから、罪
 に問われていません。  
・辻は大本営派遣参謀としてガダルカナルへ飛び出していくのですが、そこでも地形など
 を無視した無謀な総攻撃計画を立てて多くの犠牲者を出しています。しかも責任は司令
 官の川口少将にすべて押し付けた。こういう人物がつねに参謀本部の中枢にいた理由は
 いったん何なのか。
・辻はポーズをつけるのが上手いんですよ。たしかに辻を褒める人も少なくないんです。
 とくに一緒に戦った兵隊さんはみんな褒めるんです。参謀の中で辻ほど前線に出ていっ
 た人間はいないという。「兵を直接、叱咤激励したから、あれだけ弾を浴びている。そ
 んな参謀はほかにはいない。あれはすごい」といって称賛するわけです。
・おそらく辻は、その場に応じて「正論」を巧みに使える才能があり、それで生き残った
 のではないでしょうか。作家の杉森久英は「辻政信」という著書の中で、「彼のする事
 なす事は、小学校の修身教科書が正しいという意味で正しいので、誰も反対しようがな
 く、彼の主張は常に大多数の無言の反抗を尻目にかけて、通るのであった」と書いてい
 ます。
・辻は新しい部署に配属されると、まず経理部へ出かけて、参謀長以下幕僚たちの自動車
 の使用伝票と料亭の支払伝票を調べ上げるのだそうです。これで弱点を握られた上巻は、
 辻に頭が上がらなくなり、彼の横暴を黙認する結果となったという。なんだかどこの組
 織にも、一人二人の辻がいそうですね。 
   
凡庸なリーダーと下克上の論理
・実は陸軍の組織は辻のような参謀の暴走を許す制度的欠陥を抱えていたのです。山縣有
 朋が参謀本部を組織したときに、参謀本部長である山縣自身が、司令部を牛耳れるよう
 に、参謀本部が鎮台司令部などの参謀を直接、統制できる制度を作り上げたのです。参
 謀本部が配下の参謀を通じて、「これが天皇の考えだ」と言って作戦を立案してしまえ
 ば、司令官はその案を破棄するわけにはいかなくなる。統帥権を楯に天皇を持ち出され
 てはいかようにも反対できません。それを推し進めていけば、司令官を差し置いて参謀
 が軍を差配する「幕僚統帥」となるわけです。
原敬内閣のときに参謀本部を潰そうとしましたが、結局は失敗に終わります。参謀本部
 が発足したときに制定された「参謀総長は全陸軍の参謀を統轄する」という、参謀本部
 条例が生き続けてしまった。
・参謀とは上官である指揮官の、いわば小間使いのはずではないか。それなのに上官を差
 し置いて参謀本部の命令を実行する。これは欧米の常識では考えられないことです。制
 度の歴史を勉強して初めて、これが山縣有朋が権力闘争の過程で作り上げた日本陸軍独
 自の制度だ、と理解できだのです。
・普通の参謀は本来の連絡調整の域にとどまっているわけです。でも制度的には参謀によ
 る現地司令部の統括も可能だった。石原莞爾が満州事変のときに暴走して事態を拡大し
 たのも同じ構造です。
・終戦時に作戦課の参謀だった朝枝も、戦争に負けると独断ですぐに大本営派遣参謀とし
 て満州の関東軍へ飛び、七三一細菌部隊の証拠隠滅工作したという。それで幕僚ですか
 ら責任はとらない。朝枝は「大本営参謀、派遣参謀というのはすごい力を持っているん
 だ。関東軍司令官が何を言おうが指揮できる」と言っていたとのことだ。
・ムダな公共事業で財政を破綻させた今の官僚といっしょですな。責任は政治家に押し付
 けて、自分たちは責任なしなんですよ。責任は指揮官がとらされる。最終的に同意した
 のですから仕方ないのでしょうが。
杉山元は太平洋戦争開戦時の参謀総長ですが、彼は陸軍大臣と教育総監、そして参謀総
 長という三官衙のトップをすべて経験しています。どうして杉山がそこまで偉くなった
 のかわからない。杉山は開戦前の昭和十六年に「南洋作戦だけは三カ月で片付けるつも
 りであります」と展望を語っています。それを聞いた昭和天皇は、支那事変のときは一
 カ月で片付くと言っていたのに、四年たっても片付かないではないか、と叱責するので
 す。有名なエピソードですが。天皇にあそこまで言われたのですから、杉山自身が恐縮
 して辞めなければいけなかった。それが辞めないばかりか、奏上の時刻にも遅れてきた
 りと失礼な態度をとっている。
・杉山は敗戦後に自決しますが、陸軍大臣の阿南などに比べると、ずっと遅い。周囲の様
 子をうかがいながら、ようやく決意しています。夫人も一緒に死んでいる。国防婦人会
 の会長などを務めていた杉山夫人は、夫と自分の戦争責任を強く感じていた。
・作戦部は陸大の優等生ばかりがいる奥の院なんです。この「優等生」というのは何を意
 味するかといえば、あまり余計なことを言わないで、力のある人間にお任せ。自分たち
 はそれに乗るだけという人たりのことです。作戦部は三宅坂の参謀本部二階にありまし
 たが、ドアの前には常に衛兵が二人立っていて、作戦部員以外は入れなかったといいま
 す。作戦部の参謀たちは完全な縦割りで、自分の担当以外は何も知らない。タコツボみ
 たいな組織になっていたようです。部員たちは自分たちが立案した作戦について都合の
 よい情報だけに目を向けて、都合の悪い情報は無視していたといいます。正しい情報分
 析など望みようもなかった。自分たちの願望だけで戦争指導を行っていたわけですから、
 組織的に退廃していたと言われても仕方ありません。
インパール作戦を視察してきた情報部の参謀が「戦況が悪いから退却したほうがいい」
 と具申したところ、作戦部参謀の瀬島が「余計なこと言うな。お前なんか言う筋合いで
 はない」と怒鳴ったというのです。つまり「お前は奥の院のものにあらず」ということ
 です。そのぐらい奥の院の人たちはのぼせ上がっていた。周囲の声や情報を聞かず、自
 分だけが正しいと思い込んでいたのです。 
・陸軍だけではなくそれは、海軍でも似たような状況だったようです。軍令部総長だった
 ときの嶋田繁太郎に悪い情報を持っていくと、「こんな情報は持ってくるな」と、報告
 の書類を投げつけられたそうです。聞きたくないことは聞かないし、見たくないことは
 見ないという。これも日本型エリートの問題でしょうね。
・大本営があらだけ無能でありながら、第一線の指揮官たちがかなり奮闘しているのが不
 思議なくらいです。陸大はともかく、陸軍士官学校は機能していたのでしょう。小隊長、
 中隊長、大隊長になる人材を徹底して鍛えた。ですから優秀な前線指揮官が排出されて
 いる。皮肉な見方かもしれませんが、点数が足りなくて陸代に行けず、連隊長クラスで
 終わった軍人たちは、逆にマニュアルに染まりきっていなかったとも言えます。だから
 状況に応じた作戦をとることができて、それが前線の強さにつながったのかもしれませ
 ん。それは海軍も同じです。兵学校の成績が悪いのはみんな前線に配属されましたが、
 この連中はいずれも強かった。
・アメリカやイギリスと異なり、日本は失敗した軍人を更迭しません。平時はそれでもい
 いのでしょうが、戦時には致命的です。仲間うちでかばいあいとうのか、日本人は他者
 の評価を明確にするのが苦手なのでしょう。手柄を立てれば評価するし、失敗すれば降
 格させる。降格させれば当然恨まれるでしょうが、それを引き受ける勇気がリーダーに
 は必要です。その勇気が日本人には残念ながらなかった。アメリカは太平洋戦争の期間
 中、じつに二十六人の指揮官を更迭していますが、日本の陸海軍はそうしたことが一度
 もない。 
・前線で部下のクビを切った指揮官が二人います。硫黄島の栗林は前線で人事評価を断行
 しました。自分の作戦に相容れない参謀長や作戦参謀を次々と更迭して、別の優秀な人
 材に入れ替えた。それからインパールの牟田口。やはり作戦に反対する参謀長をクビに
 しましたが、これは悪い例。無謀な作戦ですから心ある参謀は反対する。
山下奉文は赫々たる戦果を挙げていますが、大本営は絶対に中央へ持ってこようとしま
 せんでした。二・二六事件を起こした青年将校に同情的だった山下は、昭和天皇から名
 指して批判されたことが響いたのか。山下はヨーロッパに出されていたときに最新の軍
 事知識を吸収していた陸軍随一の男で、マレー作戦の指揮は見事なものだと思います。
 しかし、シンガポールを陥落させたら、一直線に満州行きですよ。天皇に拝謁する新任
 式でさえ省略されました。東條が許さなかったのです。
  
「空気」に支配された集団
・なぜ勝てるとは思えない戦争に突入したのか。どうも昭和陸軍の中枢は、精神的な緊張
 感を欠いていたのではないかと言いたくなります。それは一つに大正期の軍縮以降、軍
 の中に不満が鬱積していたことが遠因になっているのではないでしょうか。軍縮により
 まずポストが減らされた。しかも「人件費を減らして、浮いたお金は装備の近代化にま
 わす」ことになっていたのに、実際にはその約束が反故にされた。となると「もう上の
 言うことは信用できない。俺が国を背負うのだ」という独りよがりな使命感を抱く者が
 出てくる。優秀な人間ほど、そうした陥穽にはまったのかもしれません。
・第一次大戦後には軍人軽視の風潮もでてきました。軍人が市電に乗ると、マントや軍馬
 用の靴につけている拍車が邪魔だと、一般の乗客から嫌味を言われたりしたそうです。
 軍人が社会の中で浮いてしまったわけです。そうした世相への反発もあったのでしょう。
・戦争指導班の業務日誌「機密戦争日記」を読んでいますと、ある時期から参謀本部は狂
 気に支配されているとしか思えないような感じをうけます。昭和十六年の七月から開戦
 までの日誌を読むと、アメリカと戦争をしたくてたまらない、という気分が充満してい
 たことがよくわかります。戦いを避けるべく必死の外交努力を続けているのに、「希は
 くは外交不調に終わり対米開戦の「サイ」を投ぜられんことを」とか、「之にて交渉は
 いよいよ決裂しばしメデタシメデタシ」などと中堅の幕僚たちが書いている。この戦争
 指導班に所属していた原四郎に当時の雰囲気を訊いたところ、「戦争をしなければ、も
 うどうしようもないと思っていた」という。その根拠を尋ねたら、「特にない。自然に
 そういった方向へ空気が流れていた」という趣旨の答えでした。これは恐ろしいことで
 す。 
・いまも昔も組織というものは、山本七平の云う「空気」に支配されているという面があ
 っその空気に合った結論しか受け入れられないのではないか。支那事変からずるずる戦
 闘をつづける「空気」の中で、大東亜戦争についても決断してしまったということでし
 ょうか。
・開戦前に海軍が収集したデータなのですが、当時のアメリカのGDPは日本の12.7
 倍です。生産力は艦艇が4.5倍、飛行機が6倍、自動車が450倍、アルミ6倍、鋼
 鉄が10倍なんです。保有量でみれば鉄が20倍、石油が100倍、石炭10倍、そし
 て電力量が6倍。こうした数字が出ているのに、なぜ戦争を始めたのか。「日露戦争の
 ときも国力は10倍の差があった。やってみなければわからない」いま始めないと、も
 っと国力に差がついていしまう」というのが理屈です。
・陸軍も本音ではアメリカ相手に勝てないと思っていたのではないでしょうか。国力の差
 は理解していたはずです。ただし、アメリカの国力が戦力に反映されるまでには時間が
 かかる。それまでに長期不敗に体制を築けば、あとはヨーロッパでドイツが何とかして
 くれる。ないしは蒋介石政権を潰せば何とかなると思っていた。でもそうした見方はす
 べて希望的観測です。自分たちの予想と異なってきたとき、どうすればいいか。この発
 想が当時の日本には欠如していたのです。 
・終戦時の陸軍大臣は阿南惟幾です。一言でいえば、最後のどんづまりになって、一番適
 役が残っていたということです。阿南は派閥にも関係ない。頭も特別優秀というわけで
 はなく、理論より行動の火と。ただ懸命に軍隊のことを考えていた人格者です。陸大受
 験に三回失敗していますから、成績はあまりよくなかった。それでも陸軍大臣になった
 のは時代が彼を呼んだからでしょう。陸軍の出方によっては、終戦時に大きな混乱が起
 こったかもしれない。実際、宮城事件というクーデターが起きて、中堅軍人が天皇を擁
 して宮城に籠り、玉音盤を奪おうとした。そうした動きが拡大しなかったのは、阿南が
 まがりなりにも軍を統率していたからでしょう。昭和天皇の「ご聖断」をうけて、「自
 分としては、もはやこれ以上、反対申し上げることはできない。不服のものは自分の屍
 を越えてゆけ」と部下に訓示し、敗戦の責任を負って自決しました。
・この阿南と、その後を受けて戦後の処理にあたった最後の陸相、下村定は、人材払底の
 陸軍にあってよくぞ人物が残っていたという気がします。下村も派閥には縁のない人で、
 陸梅津は昭和十年代の陸軍を考える上で、陰のキーパーソンと言えるのではないでしょ
 うか。軍が権力を拡大して政治に介入していく流れの裏に、梅津の存在があったのでは
 ないかと思うんです。梅津さんは組織的な利益を守ることに関して、非常に有能な人だ
 ったのでしょう。だから中枢ポストに長くいることができた。石原莞爾も梅津にやられ
 るでしょう。林内閣を背後から支配しようとしてつぶされ、支那事変の処理をめぐって
 対立して参謀本部を追い出される。こういう一見特徴のない人物が実は組織を動かして
 いるというのは、日本型組織の特徴かもしれません。
・それにしても、戦争のない国家なら、軍が派閥争いで揉めるのもわかりますが、日本の
 場合は近代に入ってから、ずっと有事が続いていたわけです。パフォーマンスが常に問
 われていたにもかかわらず、内部で争う体質が変わらなかった。非常に不思議ですね。
・チャーチルの戦争指導部を見て非常に衝撃を受けました。彼らは六畳一間ほどに仕切ら
 れた狭いスペースにチャーチル以下、閣僚、参謀クラスが一緒に泊まり込んで戦時指導
 体制をとっていたのです。イギリスの場合は戦争指導がごく少人数の人間によって行わ
 れていたからこそ可能だったと思います。しかし日本の場合、陸軍省、海軍省、参謀本
 部、軍司令、それに内閣や宮中と権力の所在が分散し結局空洞化してしまった。その結
 果、先ほど申し上げたように大佐、中佐などの佐官クラスが、下克上的に力を持つよう
 になり、挙げ句に作戦課が過大な権力を持ってしまう。そこが大きな違いです。
・確かに戦争指導に関して言えば日清戦争や日露戦争のときの方がはるかにまともでした。
 皮肉なことに陸軍大学校や海軍大学校を卒業したエリートが組織のトップに立つように
 なってから、おかしくなっています。日清、日露の時期のトップは、陸大などとは縁も
 ゆかりもない人たちです。彼らは小村塾で教育を受けたり、または西南戦争で実戦をく
 ぐり抜けた経験を持っていた。
・昭和の陸軍も海軍もジェネラリストを育ててこなかった。外への窓が開いている人は、
 なんとか真っ当な認識を持つことができた。しかし日本の組織では、外に窓が開いてい
 ない人のほうが出世します。組織の論理に染まっているほうが有利なのです。
・軍人だけが悪いのではないと思います。政治家の責任も重い。大正期の代表的政治家で
 ある原敬は軍人の意見を少しでも聞こうと努力していました。政治家が軍人の存念を理
 解しようと真剣に努力していたのです。しかし昭和になると次第に政治家の質も低下し
 てきて、軍を党勢力拡大のために利用しようとする人が増えていった。普通選挙法導入
 などによる民主化、大衆化の影響もあるでしょうね。政治家が大衆にこびるようになっ
 てきた。そうした思惑を敏感に感じた軍人側も、政治家を軽蔑するようになり、「軍部」
 にたてこもる。そして軍人としての分をわきまえずに政治に介入するようになります。
   
成功体験の驕りと呪縛
・海軍は陸軍以上にスーパー・エリートからなる組織でした。海軍兵学校は間違いなく日
 本一のエリート校でしょうね。競争率は30倍にものぼりました。
・なぜ英米を敵に回してまで、対米七割に固執したのか。艦隊派が日露戦争の大きすぎる
 成功体験に固執していたことがわかります。日本海海戦の立役者である、あの秋山真之
 は「攻めてくる艦隊は、守備側に対して五割以上の優勢が必要」という前提にもとづき、
 日本海海戦でロシアの強大なバルチック艦隊を撃破しました。
山本五十六井上成美らは、艦隊決戦はすでに過去の遺物だとして、航空機中心の戦略
 を主張していたのですが、まだまだ少数派でした。   
東郷平八郎が日本海海戦の勝利の後に言ったという「百発百中の砲一門は能く百発一中
 の敵砲百門に対抗し得る」という名言の弊害を考えています。そこから、数が足りなく
 ても訓練や精度のいい兵器があれば勝てる、という考え方が、日本海軍を毒してしまっ
 た。
・日露戦争のときには日本はきわめて合理的な戦争運営を行っていたんです。政治のトッ
 プには伊藤博文が立ち、陸軍は山縣有朋が、海軍の軍政は山本権兵衛が取り仕切ってい
 た。財政的には高橋是清がイギリスに飛んで外債を募り、外交的に旅順戦、日本海海戦
 と並行して、アメリカに和平の仲介を依頼していた。
・東郷元帥は現場からしか日露戦争を見ていません。その意味では、東郷元帥が戦後も日
 本海軍のシンボルとして君臨してしまったことが不幸でした。旅順を攻略した満州軍総
 参謀長の児玉源太郎は、出迎えに来た部下に「こんなところで何をしているんだ。和平
 だ」と叱咤していますが、現場一筋の東郷にそうした政治的センスを期待するのは酷と
 いうものでしょう。
・艦隊派の不満を利用したのは政治家ですよ。ロンドン海軍軍縮条約締結の際、政友会の
 犬養毅鳩山一郎らが、民政党の浜口雄幸内閣を打倒すべく、議会で「統帥権干犯では
 ないか」と責め立てたのです。政治家が党利党略のために、純粋な軍事問題を利用した
 わけです。海軍軍人の質も下がったかもしれませんが、政治家の質も明治に比べ、ぐっ
 と下がっていました。
・「統帥権干犯」問題の仕掛け人は、軍令部次長だった末次信正です。この問題を大きく
 取り上げよう、政治家に働きかけたり、民間右翼やジャーナリズムを巻き込んだのは末
 次です。末次という人は大変なくせ者です。右翼方面にも顔がきく。「統帥権干犯」と
 いう言葉は北一輝が作ったものだといいます。末次は後に政界に転じて、日中戦争のと
 きに内相まで務めている。しかし昭和天皇は末次を嫌っていました。終戦直前に末次を
 現役に復帰させて軍令部総長に任命する案があったのですが、米内海相は賛成したもの
 の天皇のご意向もあって実現しませんでした。
・日本海軍はイギリス海軍をすべてのお手本として、これまでやってきました。第一次大
 戦では同盟国として、イギリスの要請で船団護衛などの任務をこなし、懸命に支援して
 います。ところが、第一次大戦が終わると、イギリスにとって日本は完全に「お役御免」
 となり、排除すべき対象となってしまいます。海軍内部で「イギリスにいいようにこき
 使われた」という反感が募っていたところに、イギリスはワシントン会議でアメリカと
 ともに、日本海軍の弱体化を迫ってくる。結局日英同盟廃止されてしまいます。ベルサ
 イユ講和会議でも、日本は「頼まれもしないのに参戦して」と非難されました。日本海
 軍は、これまで公正な庇護者であったイギリスにはじめて裏切られたわけです。しかも
 ベルサイユでもワシントンでも、平和を口にしながら剥き出しの国家エゴを押し付けて
 きた。

人事を牛耳る皇族総長
・ロンドン軍縮条約締結後、海軍は取り返しのつかない大馬鹿人事をやってしまいます。
 大角人事と呼ばれていますが、条約派の中心人物が次々と放逐されてしまったのです。
 堀悌吉らが相次いで予備役、つまりクビとなります。堀は山本五十六とは海軍兵学校の
 同期で盟友でした。海軍始まって以来の英才と謳われた堀が予備役になったと聞いて、
 山本は「巡洋艦の一戦隊と堀悌吉の頭脳と、どちらが海軍にとって大事なのかもわから
 んのか」と呻いたといいます。
・大角人事のあと残ったのは、悪く言えば単細胞、よく言えば戦意旺盛な人たちばかりに
 なってしまった。勝てない戦争に突入したのは人材難の問題が大きいです。米内光政、
 山本五十六、井上成美くらいしかカードがないのですから。
・ところがこの大角人事、海軍の中堅クラスは大歓迎なんですよ。そうした「青年士官」
 の旗振り役が、南雲忠一です。彼らが粛清人事を歓迎したのは、上がいなくなったから
 出世しやすくなったのが第一、次に、条約派が飛んで、対米強硬派ばかりが残ったため
 に、ワシントン条約もロンドン条約も廃棄して海軍独自の戦略戦術を練ることができる、
 というわけです。
・海軍はこの頃、もうひとつのコップの中の争いをしています。昭和八年に行われた軍令
 部の権限強化です。軍令部が強化されることの危険性に真っ先に気づいたのは昭和天皇
 でした。大角が軍令部の権限を拡大する条例の書類を持って、宮中へ決裁をもらいに行
 くと、昭和天皇は葉山に出かけて大角を避けるんです。葉山まで大角が追いかけたとこ
 ろ、「これは陸軍のようになるはせぬか」と、昭和天皇は明言しています。しかし、結
 局、軍令部は格上げされ、伏見宮が初代の軍令部総長となるのです。 
・昭和天皇は、伏見宮との意見の対立がしばしばあったようです。しかし、大正天皇より
 も四歳年上であり、たびたび名代を勤めている重鎮に対しては、昭和天皇としても一目、
 置かざるを得なかったのでしょう。
・結局、昭和天皇の危惧は当たり、海軍の人事には軍令部の意向がしばしば反映するよう
 になりました。まして大臣人事、軍令部総長の人事は最終的には伏見宮が決めている。
 もし伏見宮が決戦論者でなければ、海軍の状況はすいぶんと変わっていたかもしれませ
 ん。この皇族総長の存在は後々まで禍根を残します。伏見宮は昭和十六年四月まで軍令
 部のトップに君臨しますが、この総長辞めたタイミングも絶妙ですね。もしあと一年総
 長の座にとどまっていたら、おそらく海戦責任を問われて戦犯となっていたはずです。
 そうなると、皇室の責任、天皇制存続の可否にも波及したかもしれません。
  
良識派は孤立する
・日本が対米戦争に向かう引き返し不能点は、昭和十五年の日独伊三国同盟締結だったと
 思います。実は、前年の昭和十四年にこの問題でたいそう紛糾したのです。このいわば
 日本の運命の分かれ道に際し、堂々たる反対の論陣を張って一歩も引かなかったのが、
 米内光政海相、山本五十六次官、そして井上成美軍務局長の海軍「良識派三羽ガラス」
 でした。しかも米内、井上は戦争末期にも再びコンビを結んで、日本を終戦に導きます。
 昭和海軍にとっては数少ない救いですね。
・太平洋戦争全般に言えることですが、アメリカという敵はそっちのけで、海軍にとって
 は陸軍、陸軍にとっては海軍が敵みたいになっていた。海軍主導の終戦工作にしても、
 昭和二十年四月には戦艦大和が沖縄特攻で沈むと、もはや海軍にはまともな戦力は残っ
 ていません。戦いたくても戦えなかったのです。一方、陸軍は兵隊も武器も残っている
 のだから、まだ戦えると主張するのも一理ある。
 
必敗の日米開戦をなぜ?
・だらしない幹部と、血気にはやる中堅将校の組み合わせで、海軍は内部的には「和」を
 保ったまま、組織ぐるみで日米開戦に突入してしまった。しかし、それを許したのは、
 国家最大の難局では考えられないトップ人事です。海軍だけ別の世界にいたのか、と言
 いたくなります。

真珠湾とミッドウェーの錯誤
・真珠湾での南雲の行動は命令違反でもなんでもないんですよ。軍令部からは「第一次攻
 撃を終えたら直ちに帰ってこい」と言われています。しかも「船は沈めるなよ」と軍令
 部から釘を刺されてもいるのです。これは太平洋戦争全体に言えることですが、貧乏海
 軍の悲しさなんですよ。船を一隻建造するのに三年も四年もかかりますし、それがいつ
 予算がとれるかもわからない。そういう貧乏所帯が考える戦争は、ここ一番で思い切っ
 てリスクが取れないんです。
・とにかく伝統的な艦隊決戦思想から最後まで抜けられなかった。軍艦攻撃が最優先され、
 輸送船や商船ましてやドックや石油タンクなどまともな軍人には相手をしていられない、
 というわけです。レイテ海戦で栗田艦隊が突入をやめてしまった原因のひとつも、攻撃
 目標が輸送船団だったからです。武士道というか、戦争に美学を持ち込んでしまったわ
 けです。艦隊派の雄、末次信正が天塩にかけた潜水艦作戦がほとんど失敗に終わったの
 も、このためでした。本来ならば、輸送船を沈め、補給ラインを遮断することが潜水艦
 の任務なのですが、日本海軍の潜水艦は軍艦ばかりを狙って、全く成果が挙げられなか
 った。潜水艦は、水上からの攻撃に弱いんです。艦隊を攻撃しようとすると、どうして
 も駆逐艦に見つかって、一方的に制圧されてしまう。武士たるもの武器を装備していな
 いタンカーや輸送船を攻撃するよりは戦艦や空母に立ち向かえ、という旧態依然たる意
 識でやっていたんですね。それと補給の重要性を理解していない、というのは、陸海問
 わず日本軍の悪弊ですね。総力戦という概念が遂にわからなかったというしか言いよう
 がない。
・それにしても、巷間、山本五十六の名言として「やってみせ、言って聞かせて、させて
 みせ、褒めてやらねば人は動かじ」と言われていますが、本人はあまり「言って聞かせ
 て」が得意ではなかったようです。
・これは結局、日本海軍が農耕民族の海軍だった、ということでしょう。年長者の方が経
 験、知識が豊富だから偉い、という農耕民族特有の年功序列意識が底流にあると思いま
 す。これが欧米などの狩猟民族となると情報力とか、技術力やスキルなどが不可欠で、
 獲物がとれないとリーダーになれないんです。
・前代未聞の大敗北を喫し、太平洋戦争の転換点となったミッドウェー海戦ですが、この
 敗因のひとつもやはり人事でした。六月に全海軍を挙げてミッドウェーへ侵攻するとい
 うのに、五月に上から下まで大幅な人事異動をやっているんです。平時の慣例にならっ
 てです。 
・突然敵と遭遇した時に複雑な命令を出すのはかえってまずい。単純であるというのは、
 本質をつかんでいるということでもあります。入り組んだ複雑な作戦計画を作る指揮官
 や参謀ほど、作戦の優先順位を見失っているケースが多いのです。演習などではそうい
 った単純な命令を出すと、点数が低くなってしまうんですよ。日本の作戦計画というの
 は、とにかく少ない兵力で勝つために、盆栽のように細やかな作戦計画が是とされる傾
 向が強い。しかし実戦では、そんな複雑な作戦に限って連係がうまくいかないんです。
 
戦艦大和とゼロ戦
・実は太平洋戦争中も、世界の海軍はせっせと巨大戦艦を建造していました。決して「大
 和」は時代錯誤の兵器ではない。アメリカだけでも大戦中に十二隻もの戦艦を建造し続
 け、イギリスは戦争が終わった一年後、フランスにいたっては四年後に就役させている。
 次々に戦場に投入しているのです。 
・「大和」でもすば抜けていたのは主砲の射程距離でした。「大和」の四十六インチ砲は、
 約1.4トンの砲弾を42キロ先に打ち込むことができました。しかし、当たるかどう
 かは別問題でした。当時、アメリカの戦艦でもっとも射程の長いもので、せいぜい30
 数キロ。理論的にはアメリカの全艦隊が攻め込んできても、向こうの砲弾はすべて我が
 方の数キロ手前で落ちてしまう。ところが武器というものは遠くから撃てば撃つほど当
 たらないんです。確かに戦艦「大和」は世界一の戦艦に間違いありません。主砲の四十
 六インチ砲は、戦艦の主砲としては今日でも世界最大ですし、四十一センチという世界
 でもっとも暑い装甲で身を守っていた。しかし、大砲は当たらなければ意味がない。兵
 器の本質をどこかで間違えていたのです。
・経済的な制約があるのはわかりますが、その代わりに日本軍の兵器は、合理化や標準化
 が進んでいなかった。工業製品というより、いわば職人的な工芸品だったのです。
・日本人はアイディアはあるし、器用だから非常に凝ったものを作るんだけど、標準化が
 なされていなくて大量生産には向かないものばかり。経済的な限界に対して合理的に振
 る舞っていないように思えるのです。オーバースペックで制作費が高いために量産でき
 ないし、量産効果が出ないので単価が高いまま。 
・名人芸へのこだわりが災いしたという点では、ゼロ戦もそうです。速度・航続力よりも
 格闘性能を重視し、熟練パイロットによる名人芸が生かせる軽戦闘機を採用するのです
 が、これがやがて編隊で一撃離脱戦法を取るアメリカ型にかなわなくなる。この戦法だ
 とパイロットの急速大量養成が可能になるのです。

敵は米国よりも陸軍
・そもそも太平洋戦争の最大の問題は、統一した戦争指導がなされなかったことです。日
 本は陸海軍の両翼・両輪主義を建前にしてきましたが、そのために両者がしょっちゅう
 競合し、衝突する。海軍はアメリカ、陸軍はソ連という二大強国を同時に仮想敵国にす
 るという無謀きわまりない戦争計画自体、両者の縄張り争いの産物でしょう。
・陸軍のいいなりになるのを恐れるあまり、アメリカではなく、むしろ陸軍を敵視して、
 海軍の利益の確保を優先させてしまった。それが昭和の海軍最大の過ちだったと思いま
 す。
・先の戦争で餓死した陸軍兵は60万人から70万人ほどいる。これは世界史的にみても
 異常な数字ですが、かたや海軍兵の餓死者はほとんどいません。しかも海軍は陸軍に食
 糧を分けないんです。硫黄島の戦いでも、陸軍の半分くらいの数の海軍兵が島にいて、
 そっちはちゃんと食べている。
・海軍と陸軍はある意味、対照的な性格を持っていますね。徴兵制によってひろく国中か
 ら兵を集める必要のあった陸軍が、必然的に民主主義的な性質を持たざるを得なかった
 のに対して、海という国際的で開かれた環境を舞台とし、近代テクノロジーを駆使する
 海軍には、厳しい階級制に基づく一種の貴族主義的なカルチャーが根底にありました。
 たとえば食事にしても、海軍では水兵と将校はまったく別のものを食べていて、雨降る
 なか水兵を甲板に立たせたまま、将校が軍楽隊の演奏を聴きながら食事をとっていたり
 する。その是非はともかく、日本の一般社会とは明らかに異質です。上官も兵隊も同じ
 飯盒のメシを食べる陸軍の方が、皮膚感覚として日本人には馴染みやすい。
・海軍は一般の国民から遊離した存在になってしまい、自閉的な仲良しクラブとなってし
 まったのではないか。海軍の首脳部は自己の組織防衛ばかりを重視して、しばしば国民
 全体の運命に無頓着だったのでは、という指摘がありましたが、それも日ごろ、ひろく
 国民と接する機会が少ないことの反映だったのかもしれません。 
・能力主義の抜擢人事にも失敗したし、将官の更迭人事もきわめて不十分でした。日本の
 海軍は最後の最後まで、抜擢を行うと序列が乱れて人事に支障をきたすのではないか、
 と考えていたのです。戦時中、海軍兵学校の定員を増やそうとしたとき、海軍の人事局
 関係者が「日露戦争の時に増やしすぎて戦後、処遇に困ったから、増やしすぎるのは困
 る」と主張した記録が残っています。まるで戦争に敗れても海軍という組織が永遠に存
 続すると思っていたかのようですね。  
・昭和の海軍は、たとえてみればエクセレント・カンパニーの悲劇だったと思います。栄
 光の日本海海戦があって、世界の三大海軍の一角を占めるようになった。大和やゼロ戦、
 酸素魚雷のように、世界に冠たる兵器を自前で開発できるようにもなった。しかも、日
 露戦争から日米海戦までの三十年以上もの間、全力と投じなくてはならない戦争もなく、
 負けることを意識せずに済んできたわけです。その結果、長老が人事を壟断し老害がは
 びこり、年功序列と学校の成績が幅をきかせて、内輪で固まり、外の目を意識できなく
 なった。これは成功した組織には、ある程度共通する病弊だと思います。
・日本海軍はかなり人工的に造り上げたエリート集団でした。日本のベスト&ブライテス
 トを目指したはずなのに、気付いてみればムラの論理で組織が回っていたんですね。ム
 ラの論理は既得権擁護だから強い。それを覆すだけの行動力と説得力、そして勇気を兼
 ね備えたリーダーを持てるかどうか。これは、こんにち我々に課せられた課題でもあり
 ます。 
・同一性の強いす集団主義というのは日本人の長所でもあります。それは今の製造業の成
 功などによくあらわれている。しかし一歩間違うと、結局は組織そのものを滅亡させて
 しまう危険があることを、日本人は肝に銘じるべきでしょう。