賊軍の昭和史 半藤一利

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「勝てば官軍」と言葉があるが、明治維新と呼ばれる薩摩藩・長州藩による「革命」によ
って、日本の近代化が始まったというのは、多くの日本人の共通した歴史認識なのであろ
う。しかし、見方によっては、この薩摩・長州による「革命」とは、暴力によってそれま
での体制を破壊した革命であり、今風で言えば、一種のテロ行動だったとも言える。しか
し、「勝てば官軍」と言われるとおり、勝った側が「正義」であり、負けた側は悲しいか
な罪人扱いとされるのが世の常だ。まさにこの世は「勝てば官軍、負ければ賊軍」なので
ある。
そして、この当時の薩長藩の思想は、長州出身である安倍首相を見ていると、現代におい
ても、脈々続いていているような気がする。そこには、この本に中で語られているような
「日本国家を作ったのは我々長州の人間なのだ」という、伝統的「思い上がり」が垣間見
られる気がする。その思い上がりが、またしても昭和の戦争と同じように「亡国」へと、
この国を導くのではないのかという不安をいだかせる。


官軍・賊軍史観が教えてくれること
・いまの日本国に、なぜか「薩長史観」的な、日本を軍事的強国にし大国にするのが目的
 のような考え方が大きく息を吹き返してきているような気がしてならないでいる。まさ
 か現人神の天皇を中心に挙国一致体制をつくるという戦前の思想そのものではないので
 あるけれども、そうした体系的な理論よりも、とにかくわかりやすく、強くて堂々と突
 き進む「日本のすばらしさ」がいま強調される、そんな空気が世に満ちはじめている。
 事を実現するために、地道な言論によって人々に納得してもらうのではなく、直接行動
 でとにかく挙国一致で人々を引っ張っていく。
・安倍首相は施政方針演説で、吉田松蔭がしきりに唱えた「知行合一」という陽明学の言
 葉を引用して述べた。「この国会に求められていることは、単なる批判の応酬ではあり
 ません。『行動』です」与党が多数の国会はさかんなる拍手大喝采で歓迎した。この科
 白はその昔に何度か聞かされたのではなかったか。「もはや批判し合っている秋にあら
 ず、行動せよ、強い者が勝つのだ」「勝ったものが正しい。それは歴史が証明している」
 しかし、それらの言葉は、維新という名でよばれる「革命」を正当化するために、「行
 動を起こしたことは正しかった」と、繰り返し国民の頭に刷り込んできた明治以来の権
 力者たちの壮語と、同じなんではあるまいか、と。
・日本の近代史とは、黒船来航で一挙にこの高揚された民族主義が顕在化し、そして松陰
 の門下生とその思想の流れを汲む者たちによってつくられた国家が、松陰の教えを忠実
 に実現せんとアジアの諸国へ怒涛の進撃をし、それが仇となってかえって国を亡ぼして
 しまった。 
・自意識過剰や自惚れが人を破滅に誘うように、あまりに否定的反省ばかりするのもまた、
 精神の健康を損なうようである。人間はだれでも「おれにはかくかくの正しい歴史認識
 があるのだ」と、それが唯一無比のように考えるときが、大そう危ない状態にあるとい
 える。思い起こせば、戦争中は排外的な神国思想があり、世界に冠たる民族意識があり、
 八紘一宇の理想の下に、アジアの盟主たるべく運命づけられた国民というのははなはだ
 思い上がった考えが強調されていた。

浮かびあがる「もう一つの昭和史」
戊辰戦争は幕府側からみれば「売られたケンカ」なんですよね。「あのときの薩長は暴
 力集団にほかならない」と、ですから、本来は官軍も賊軍もない。とにかく、薩長が無
 理無体に会津藩と庄内藩に戦争を仕掛けてきたわけです。今流の言葉で言えば、まさに
 侵略戦争ですよ。
・皇太子妃の雅子さんの先祖は越後(新潟県)の村上出身なんですね。村上藩というのは、
 薩長軍が会津藩と庄内藩に攻めて来たとき、同じく越後の長岡藩と一緒になって初めは
 抵抗する。それで奥羽越列藩同盟に入ることになった。
・秋田の久保田藩のような例外はあるけど、東北諸藩のほぼ全部が奥州越列藩同盟に入っ
 て賊軍になった。
・庄内藩や会津藩は最後まで頑張って戦いましたが、ほかの藩では内部で裏切りが出たり
 して、かなりもめています。南部藩なんかそうですね。南部藩と津軽藩なんか、それ以
 前から仲が悪かったから、戊辰戦争中に実際に戦ったらしいですね。
・秋田の久保田藩みたいに、薩長に恭順なのか反対して戦うのか、どっちを向いているの
 かわからない藩もあった。結局、戊辰戦争で藩を挙げて戦ったのは、会津と庄内、長岡、
 二本松くらいです。仙台もあやしげでした。
・戊辰戦争で亡くなった応酬越列藩同盟の人々は靖国神社に祀られていません。賊軍だか
 らなんでしょう。しかし、彼らは国家に、いや天皇に反逆したわけではない。靖国神社
 の起こりは、戊辰戦争の官軍側の戦死者を慰霊する招魂社で、長州の大村益次郎がつく
 たんですね。だから、西南戦争の西郷軍も靖国神社には入れませんでした。
・ところが、幕末の禁門の変で死んだ長州藩の兵は入っているんですよ。禁門の変で長州
 は賊軍だったのに、すごく長州寄りにひいきするんです。   
靖国神社は、戊辰戦争から後は天皇陛下のために戦死した人をお慰めする社であるとい
 うことになっているんですけど、そもそもの起こりは、薩長の藩兵を慰めるための場所
 だったんですから、露骨に差別が出ているんです。
・明治以降、賊軍の出身者は出世できないから苦労したんです。例を一つ挙げれば、神田
 の古本屋はほとんどが長岡の人が創業しているんです。 
・日本の軍隊には海軍が陸軍よりも重視された時代がわずかにありました。
・明治期の将官クラスの出身地を見れば明らかなように、陸軍は長州閥でなければ出世し
 ないし、海軍の場合は薩摩閥でないと出世しないというのは確かだったんですよ。そう
 したほうが組織をまとめやすかったんです。

薩長の始めた戦争を終わらせた賊軍の首相
鈴木貫太郎は、天皇の聖断を仰ぐという超法規的な手段でポツダム宣言の受諾を決め、
 昭和の戦争を終結させた首相です。鈴木は長いこと侍従長を務めていて、昭和天皇と気
 持ちを一つにさせていたところもあり、天皇の意を汲んで、戦争を終わらせるために首
 相となったんです。もし、あのとき鈴木貫太郎という人が戦争終結を諦め、内閣を放り
 出して辞めてしまったら、日本の戦後史は変わってしまったでしょう。
・その鈴木貫太郎ですが、実は、賊軍の出身だったんです。彼の出身である関宿藩は幕府
 直系であり、賊軍に属するわけです。関宿というのは今の千葉県野田市にある。
・昭和16年に日本が対米戦争を始めるときの海軍中央の陣容を見ると、艦隊派が天下を
 取っていたことがわかります。海軍の枢要を押さえていた艦隊派には山口県と鹿児島県
 の出身者が多かったんです。 
・つまり海軍は艦隊派の天下だったんですよ。そして、当時、対米戦争に反対していた条
 約派の流れをくむ人たちは、中央から外へ追い出されていったんです。三国同盟に強硬
 に反対した米内光政(盛岡市)、山本五十六(長岡市)、井上成美(仙台市)の賊軍出
 身トリオもそうでした。艦隊派の意見に逆らい、対米戦に猛反対して邪魔だった米内、
 山本、井上を全部外へ追い出しておいて、どんどん対米戦争へと突き進んでいったんで
 す。 
・あの頃の軍指揮官たちの精神構造を考えてみると、陸軍長州、海軍薩摩の影響はまだか
 なり残っていたと思うんです。要するに、薩長出身の連中には、「自分たちの作った国
 家だから、自分たちで滅ぼしたっていいんだ」という厚かましい精神があったと思いま
 す。これに対して、賊軍出身の人たちには、官軍の人たちとはかなり違った、国家に対
 する深い忠誠心があったのではないか。その忠誠心があったから、敗戦が決定的だった
 時期に、結果的に国が亡びるのを救ったのは、賊軍出身の人たちばかりだったんです。
・昭和初期まで、長州の人間の精神構造のなかに、幕末の松下村塾の教えが残っていたと
 考えるのですが、彼らが大陸侵略をやろうとしたのは明らかにその影響ですよ。松陰は
 いわゆる侵略史観の持ち主だった。台湾やフィリピンまで全部を日本の領土にすると、
 ちゃんと塾生に教育していたんですからね。つまり、松蔭の史観が長州閥にずっとあっ
 たとすれば、その考え方は「大東亜共栄圏」につながっていったんです。
・日本の敗戦が決定的になっていた頃の御前会議や最高戦争指導会議の資料をずっと読ん
 でいくと、負けるということへの恐怖感には異様なものがありますね。「戦争なんだか
 ら負けることもあるんだ」というごく当たり前のことを、受け入れる余裕なんかまった
 くない。敗北を全否定しようとしますね。この構造の中には、むろん軍人として戦に敗
 れるというのは耐えられないとの感情はあるにしても、それを裏付ける理性、知性はま
 ったく欠けている。軍人の発想というのはそのへんが不思議なんです。
・薩長の作った国家制度では、天皇には統治の最高責任者という立憲君主の面と、陸海軍
 の最高責任者という大元帥としての面の、二つの役割があった。立憲君主としての天皇
 は対米戦争に最初から反対していましたし、始まってからは戦争を早く終わらせたいと
 思っていた。ところが、大元帥としての天皇は戦争を遂行しなければならない。一人の
 天皇に背負わされた二つの責任の間で、矛盾が生じだんです。薩長の作った制度が、天
 皇に矛盾する二つの役割を押し付けたからだとも言えます。  
・鈴木貫太郎首相が終戦のために、あえて「憲法」に違反して、天皇に国策、すなわち国
 の行くべき道を決めてもらう。天皇の「聖断」を仰ぐという奇策を使わざるを得なかっ
 たのは、国家の制度にこの矛盾があったからです。「聖断」とは、統治者としての天皇
 と大元帥という二つの権限の上に、国家の最高の大権をもつ存在としての「大天皇」が
 あり、その大天皇が大元帥に終戦を命じるということでした。天皇に政治責任を負わせ
 ることになる。このような苦しい理屈を付けなければ、薩長の作った矛盾を乗り越え
 て戦争を止めることができなかったんですね。 
・賊軍の潜在意識には、次には絶対に賊軍にならない。反天皇にならないという意識があ
 るんじゃないでしょうか。もう金輪際、賊軍になどなりたくない、汚名を歴史に残した
 くないという意識はあるんじゃないですか。だから、昭和の戦争に負けるときにも、賊
 軍出身の人たちは錦の御旗を背負っていたんだと思います。戦争を終結させたいという
 天皇の意志を強烈に擁護した。守りたてた。ところが、官軍にはもう錦の御旗という気
 持ちはない。つまり、自分たちの作った国家だという気持ちですね。天皇も、俺たちの
 国家の一部に過ぎない。俺たちの手の中にある、ということですね。官軍にとって、天
 皇は玉でしかないんです。 
・昭和天皇が鈴木貫太郎を信用したのは、もちろん侍従長時代の関係もありますけれど、
 彼の考え方を難得していたからじゃないでしょうか。天皇を玉としか思っていない官軍
 出身の人たちの考えとは違い、賊軍出身である彼の、国家に尽くそうという気持ちを知
 っていたから信用したんだと思うんですよ。
・昭和の戦争を考えるとき、どうしても、これだけは言っていきたいと思うのは、あの戦
 争で、この国を滅ぼそうとしたのは、官軍の連中です。もっとも、近代日本を作ったの
 も官軍ですが。この国が滅びようとしたとき、どうにもならないほどに破壊される一歩
  手前で、何とか国を救ったのは、全部、賊軍の人たちだったんです。

混乱する賊軍エリートたちの昭和陸軍
・昭和陸軍の最大の問題点は、派閥間の闘争による混乱だったと思うんです。そして、混
 乱する陸軍の象徴的な人物が、東條英機じゃないでしょうか。なぜ東條が政権を握るこ
 とができたのか、あるいはこんな無思想な人物しかいなかったのか。考えさせられます。
 東條は盛岡藩の出身で賊軍ですが。
・徳川の時代、東條家は士族ではなくて、能楽師だったんですよ。幕末に彼の祖父が盛岡
 藩の殿様に呼ばれたんです。その頃の殿様は南部利済という人で、あまりにも浪費家だ
 った。江戸から芸能者を呼んだりしていたんですが、東條の祖父もその一人でした。
・満州事変は関東軍と中央がやっぱり連動しています。大きく言えば省部のプラニングで
 行われたということで、必ずしも関東軍の暴走ではなかった。
一夕会の連中のやったことは、無茶苦茶です。一夕会はよく勉強しているし、秀才なん
 です。ですが、一夕会によって昭和の陸軍の統制が乱れ混乱してしまったのは事実です。
 いい方は悪けれど、これならば長州閥が陸軍をしきっていた時代のほうが上手くいった
 いたとさえ思います。  
・一夕会のメンバーのなかで、永田鉄山は一番バランスの取れていたと思います。彼は人
 格で組織を動かすことができた。国を動かすという意味では、軍だけの改革ではダメだ
 と日頃から一番思っていた人でもあります。 
・永田鉄山あっての一夕会で、彼が一夕会の支柱になっていたと思います。その永田の考
 えはこうでした。これからの戦争は国家総力戦になる。それに備えるためには国家総動
 員体制をとる計画を練らなければならない。総力戦のためには、背景となる経済力と資
 源の確保が大切だ。日本には資源が不足しているから、満州、さらには中国の北部を押
 さえなければならない。つまり、満蒙が資源確保のために橋頭堡になる。この基本姿勢
 に、一夕会はみんなが倣ったんですよ。
・昭和になると、陸軍は完全に官軍がいなくなってしまったんです。長州閥が解消されて、
 陸軍の混乱が残った。そして、無茶で悲惨な戦争へと進んでいってしまった。官軍優先
 の出身派閥という不公平を乗り越えたのは良いけれど、成績至上主義の秀才ばかりの集
 団はまとまりをなくして、矛盾ばかり犯すようになってしまったわけです。いい方を変
 えれば、昭和陸軍が混乱したのは、長州閥という不公平の反動だったということもでき
 ます。秀才たちが全体を考えずに身勝手をするようになってしまったのは、能力がなく
 とも長州出身であるというだけで陸軍を動かしていた長州閥の逆をしていたと、そんな
 ふうに見ることができる。つまり、昭和陸軍の混乱は、長州罰の負の遺産だったんじゃ
 ないか。

官軍の弊害を解消できなかった賊軍の天才
石原莞爾は、旧庄内藩士の三男として生まれた。庄内藩は戊辰戦争で最後まで薩長に抵
 抗しました。会津藩が降伏してもまだ戦っていた。東軍で最後まで降伏したのが盛岡藩、
 庄内と長岡もきりきりまで抵抗したんです。
・石原は、陸大ではトップの成績で卒業したんだけれど、二番にされてしまった。トップ
 卒業だと天皇陛下の前で講義をしなくちゃならない。でも、賊軍出身の石原に、天皇の
 前で講義をさせたら何を言い出すか分からないということで、二番にされたというんで
 す。 
・薩長中心の軍事学というのは、要するに、日露戦争の軍事学なんですよね。陸軍の大正
 時代くらいまでの軍事学は、大山巌、児玉源太郎、乃木希典、黒木為驍ネど、薩摩と長
 州の軍人がやって勝利した、ときの軍事学のままだった。石原は、そんなもので近代戦
 は戦えない。第一次世界大戦がそれを証明しているじゃないか。そう考えて構築してい
 ったのが、石原の軍事学だった。
・日本陸軍の軍事学というのは明治期に導入したプロイセン、つまりドイツのものです。
 陸大でプロイセンの軍事学を丸暗記することが、陸軍のエリート教育でした。石原は東
 條のことを随分とバカにしています。石原が東條と大きく違うのは、彼にはものすごい
 思想があったことです。こういう国家にしなくちゃいけないという、軍事国家の設計図
 が頭のなかにしっかりあったんだと思うんです。ところが、東條にはそんなものはない
 ので、石原は東條を心からぼんくら扱いしたんです。
・戦後、石原は山形県の酒田に居ました。石原は「新憲法は良い」と言っているんです。
 「もう、これからは軍備のない時代だ。この憲法でアメリカを見返せ」とね。賊軍だか
 らこそ、石原は考えを改めたんだと、思えるんです。日本は戦争に敗れた。薩長が主導
 して作った国家体制は崩壊した。この新しい条件のなかで、アメリカを出し抜いてやろ
 うという、賊軍らしい反骨だったのではないか。
・石原という人の頭の中で、どういう国家を作ろうとしていたのか、具体的にはわかりま
 せん。でも、長州閥が作った日本では、世界と伍して戦う次の戦争には勝てないと、少
 なくとも考えていたんじゃないかと思うんです。日中戦争なんて、石原の考えている未
 来図からいえば、全然間違っているんですよ。中国と戦争するなんて、軍事的に長期戦
 になって消耗するだけだというのが、石原の考え方でしたからね。
・陸軍参謀本部では、中国一撃論が叫ばれていて、「ロシアと違って中国なんか弱い。日
 本が攻撃すれば簡単に降参するだろう」という甘い見通しだった。要するに、根拠もな
 く短期戦になると決めつけ、戦争目的はろくになく、戦争をどう終わらせるかも考えて
 いなかった。日本はロシアに勝ったんだと奢っていた。それで、中国を舐めていたんで
 す。ところが、石原はまったく違う考え方だったんですね。「中国の抗戦意思が強けれ
 ば、まったく予想できないほどの長期持久戦になる。半年から一年後には戦火は中国全
 土に及び、数年後には日本は世界戦争に巻き込まれるだろう。彼の予想は見事に当って
 いました。日中戦争だけをとっても、昭和の陸軍が、軍事学の面で日露戦争の頃から何
 も進歩していなかったんだとわかりますね。 
・事変後の満州も、石原は、満州の内政は満州国がやる、日本は介入するなという考えだ
 った。ところが、後から東條英機なんかが満州にやって来て、満洲を日本の直民地にす
 る政策を進めてしまう。石原はそのことに、心底から怒っていた。石原の構想では、満
 洲を「東洋のアメリカ」にするつもりだった。さらに、中国と友好関係を築いておこう
 とした。
・石原は天皇には嫌われました。その点、東條とは対照的です。東條は石原と違って、丁
 寧に律儀に天皇に報告するひとでした。
・石原は二・二六事件を鎮圧しています。二・二六事件の青年将校たちの出身地はバラバ
 ラで安藤は岐阜、対馬は青森、坂井は三重、村中は北海道です、 
・陸軍では、「大善」という言葉をよく使ったと、ある将校から聞いたことがあります。
 天皇が口に出して言っていないことでも、自分たちで察して実現することを「大善」と
 呼んでいたそうです。そうすることで、天皇を名君主にすることができる。だから「大
 きな善」なんだということらしい。実に身勝手な考え方です。実際、満州事変以降、陸
 軍参謀本部のエリートたちは統帥権独立をいいことに、勝手な理屈で天皇の権限をない
 がしろにしてきました。天皇親政を目指していた二・二六事件の青年将校たちですら、
 結局、天皇を自分たちの理想のための手段に使おうとしていたんですから、昭和の軍人
 たちに、天皇を自分たちの側に抱え込んでいるという官軍的な意識が、無自覚のうちに
 深く根付いていたのだとよくわかります。
・日中戦争の端緒となる盧溝橋事件が起こったとき、石原は、「困ったことになった」と
 言っていました。そして、日中戦争が拡大しないように説得しようとしますが、失敗し
 てしまう。東條英機に閑職へと追いやられて、五年ほど後に退役させられてしまう。
・石原という天才的な軍人が昭和の陸軍で孤立していったのは、当時の軍部は薩長の負の
 遺産を精算できなかったからだという視点が必要になります。薩長が作り上げた国家は
 日露戦争の勝利という結果を得ましたが、栄光に目が眩み、その歪みを引きずったまま
 昭和を迎えたのですね。昭和の陸軍は、成績至上主義の官僚たちによって、人事面の改
 革ばかりが進められ、軍事や社会体制の古さという内容を変えるべきだと気づく人材が
 いなかった。昭和の陸軍は、薩長の作った国家の歪みを抱えたまま、悲惨な戦争に突き
 進んでしまった。      
・一番の歪みは、天皇の存在です。一人の天皇に、立憲君主と軍の大元帥という二つの役
 割を背負わせた。これこそ、官軍の作った国家体制で最大の矛盾です。軍にとって、天
 皇が同時に大元帥であることは都合が良かったのです。天皇の二つの顔を巧みに使い分
 けて、軍事が政治の上位に立ってしまった。そして、戦争が始まれば、軍の立てた作戦
 を崇高なものとして、国の全体に押し付けたのです。 
・大日本帝国憲法のもとでは、統治権も統帥権も全て天皇にありました。「天皇」の名の
 下に、政治を軍事も行われた。けれど、天皇自身が二つの大権を直接に行使していたわ
 けじゃない。昭和天皇は「君臨すれど統治せず」の原則を貫いて、政治は内閣の決定を
 受け入れ、自身の意志は抑えていました。軍事も同じで、統帥権を実際に行使するのは
 軍人たちに一任するという態度を崩さなかった。大元帥の統帥権は、軍が代行するとい
 う慣習があったからです。つまり、現実に天皇の代理人として統帥権を行使していたの
 は、陸軍は参謀本部、海軍は軍令部の参謀だった。昭和の戦争の時代、軍の参謀たちが、
 好き勝手に兵隊と国民を動かしていたんです。統帥権独立という名目でね。そして、こ
 の統帥権独立は、やはり官軍が作ったものだった。あの山縣有朋が西南戦争の後で作っ
 たんですよ。山縣は、参謀本部を作り、大元帥の統帥権を代行する独立した組織にして、
 内閣は口出しできないようにしてしまったんです。
・参謀本部や軍令部の参謀たちは、大変な権威を持っていたわけです。前線の司令官たち
 よりも中央の参謀たちのほうが偉かったんですね。ドイツの軍事学を丸暗記した者が、
 つまり成績至上主義で選ばれたひと握りの参謀たちが、戦場の現実を知らず、ろくな軍
 事思想もないまま無謀な戦争を始めて、無責任に振り回した。その結果、兵隊にも国民
 にも膨大な数の悲惨な犠牲者が出てしまった。 

無力というほかない賊軍の三羽鳥
・海軍は場合は、昭和になっても官軍派と賊軍派がはっきり残っていたようなんです。不
 思議なくらいはっきりと、官軍は主流派、賊軍派反主流派だったんですね。具体的にい
 うと、山本五十六がいい例です。海軍の戦略、戦術を決定する軍令部に、山本さんは一
 度も足を踏み入れていません。つまり、賊軍である彼は、主流派には入れなかったんで
 す。これは米内光政(盛岡)、井上成美(仙台)も同じです。彼らは軍令部には入れな
 かったんです。賊軍出身で海軍にいた鈴木貫太郎も出世で差別されていました。
・米内、山本、井上を「海軍の三羽烏」と呼んで、作家の阿川さんがやたらに褒めたので
 すっかり善玉として定着していますが、でも、彼らは、海軍を代表するような立場では
 なく、むしろ、主流から外れた人たちだったんです。
・太平洋戦争については、陸軍だけに責任があるわけじゃない。当時の海軍の主流派、つ
 まり官軍の流れにある艦隊派で海軍の実験を握っていた人たちは、陸軍と同様に親ドイ
 ツで、対英米戦争に積極的だったんです。
南雲忠一は、賊軍出身(米沢)だけれど、南雲は指揮官としては無能だという説に賛成
 したくなる。
・不思議なのは、なぜ、海軍の連中がそんなにヒトラーに傾倒したのか。ドイツ海軍なん
 て大したことはないじゃないですか。潜水艦は別としても、学ぶところはほとんどない
 ですよ。私はそれが不思議でしょうがなかったんです。日本から若手の幕僚がドイツに
 留学すると、ハウスキーパーという名目で、すごい美人がつく。それで、みんながドイ
 ツはいいところだと思うようになったらしいんです。何のことはない、ドイツのハニー
 ・トラップにみんなやられたんです。海軍の全部が全部、ハニー・トラップで、イギリ
 スからドイツへひっくり返ったとはいいたくないですけど、まず大半がそうらしいです
 よ。完全にヒトラーの罠に引かかかった。多分、陸軍にも同じ手口を使っていたんでし
 ょうね。
・あの時代の指導者は出来が悪い。あんな甘い見通しが、まったく批判もされずにそのま
 ま通っちゃうんですからね。あれだと、ドイツの勝利が前提なんですよね。ドイツがイ
 ギリスをやっつけ、日本が蒋介石をやっつける。そうなれば、アメリカがいくら蒋介石
 を援助してもどうにもならない。そこで、イギリス、アメリカの両国民から厭戦思想を
 引き出して和平に進めると、そうなっていました。ドイツが勝つということだけを頼み
 にしている。つまり、この国は、ドイツの勝利という他人のふんどしで相撲を取るつも
 りで、大戦争を決意したんですよね。戦争を始めるのは簡単でも、終わらせるのは難し
 い。そんなことは、軍人ならば誰でも知っているはずなんですよ。それなのに、他人の
 ふんどしで相撲と取ろうというんだから呆れます。    
・昭和の日本軍は軍事学がなかったと言えるんじゃないですか。戦争を終わらせる方法を
 知らなかったんですからね。勝つまでやるというなら、素人の博打とまったく同じです。
 近代以降の日本が起こした戦争を、賊軍と官軍という目で見直してみると、果たして役
 割は対照的だったことがわかると思うんです。戊辰戦争でかった薩長の人たちが天下を
 取った。日本の近代は、薩長の人たちの指導でとにかく二度までも大国難の戦争に勝っ
 た。そして日本を五大強国の一つにまでした。ところが、昭和の戦争となると、戦争を
 指導したのは薩長の人たちやその影響を残した人たちだった。 最後に最後の、戦争が
 終わる直前までそうだった。そして最後の一兵までを呼号してまさに亡国の一歩手前ま
 でもっていった。陸軍の場は、その頂点に立っていたのは東條さんです。彼は賊軍出身
 でしたが、官軍の人たちの作った陸軍への増悪があった。長州を解消するのに夢中だっ
 た一方で、長州閥の遺した日露戦争勝利という栄光に目が眩み、官軍的な軍事思想をそ
 のままにして、かえって陸軍を混乱させている。混乱したまま戦争に突入し、最後の最
 後になってどうにもならなくなり、ついには薩長の影響を残していた人たちはみな、退
 ざるを得なくなっています。それで、官軍の影響から中立的な、阿南陸軍大臣が出て来
 海軍も同じです。薩摩海軍の系譜をひく主流派が対米戦争に突入さ
 せたけれど、最後の最後にはどうにもならなくなって、反主流で賊軍出身の米内海軍大
 臣が出てくるしかなくなるのです。そして、戦争を終わらせる内閣の首相として出てき
 たのは鈴木貫太郎だった。彼もやはり賊軍です。こうした人々が戦争を終わらせてくれ
 たおかげで、日本は国土を壊滅させずにすんだんです。  
   
贖罪の余生を送った稀有な軍人
今村陸軍大将は仙台藩の名門の出なんです。戦後になってかなり経ってから、後に韓国
 の首相になる金鍾泌という人が日本に来て、「ぜひ、今村閣下に会いたい」と言ったん
 です。なぜかといと、彼は韓国士官学校時代から今村さんを尊敬していて、とにかく会
 いたいと思っていたらしいです。今村がインドネシアのジャワの司令官だったとき、陸
 軍中央が軍行政はあまりにも温情的だと怒りますよね。今村さんの軍政はもの凄く良か
 った。彼の軍政はインドネシア人にもオランダ人にも非常に公平だった。あの人は普通
 の軍人とは違う。軍の力で武断政治なんかしなかった。ただ、はっきり言っておかなけ
 ればいけないのは、今村さんがインドネシアを去った瞬間、全部ダメになったというこ
 とです。
・ガダルカナルの制海権と制空権を争ったけど、アメリカにやられてしまいました。撤退
 か死守かという段階で、今村均は撤退を主張します。しかし参謀本部が「いかなる形で
 も死守せよと命じたい」というと、今村はこう反論した。「そんな命令を出せば、第一
 線の将兵はみな、切腹してしまう」そして、戦っている将兵の気持ちを考えた命令を出
 すべきだと繰り返して言います。今村さんのおかげで、ガダルカナルからの撤退は成功
 するんですよ。戦闘で大変な死者を出したのに、撤退戦では被害を出さなかった。日本
 の陸軍を語るとき、今村均については、唯一救いを感じるんですよ。同時代の東條や辻
 政信や富永恭次といった、「それいけ、やれいけ」という人たちとは違う。温厚な、人
 間的にも信頼できる、唯一の軍人だった。
・今村は、どうも賊軍出身というよりも、東北人だったと言ったほうがいいようですよね。
 誠実で口数は多くない。でも無口ではなく聞けば何でも答えてくれる。じっと我慢する
 ところは我慢する。そういう東北人の良さを非常に持っていた人です。太平洋戦争を通
 して、「立派だな」と思える軍人はあまりいないいんです。特に、陸軍には数少ないん
 ですけど、この人は偉いですよね。
・ラバウルには兵隊が10万人いました。第八方面軍司令官として今村さんは、アメリカ
 軍が来る前に、徹底的に防衛陣地を作ると同時に、10万人が食えるよう開梱を始めた
 んです。兵隊に命じるだけでなく、自分でも鍬を振るってね。あの人のなかには、当時
 の陸軍が盛んにいっていた現地調達なんて、とんでもないという考えがあった。現地調
 達とは要するに略奪ですからね。そんなことをせずに我々はちゃんと自活の道を作らな
 ければいけないといっていたんです。食料だけでなく、兵器や弾薬も生産しました。
 ラバウルは地下要塞のなかに工場を作り、飛行機まで生産したんです。アメリカ軍のマ
 ッカーサーはガダルカナルの見事な撤退戦から、今村司令官のいるラバウルが強力だと
 分かっていましたから、攻略しようとせずに素通りしたんですね。それで、10万人の
 兵隊が全部、終戦まで無事にラバウルで過ごしているんです。
・戦後の戦犯犯罪では、現地司令官だった今村さんはBC級戦犯として、捕虜虐待、虐殺
 の罪で法廷にかけられます。けれど、オランダとイギリスの法廷で無罪になるんですね。
 何もやっていないと認められました。
・大した罪ではないからと、巣鴨に入れられるところだったのに、ご本人が「部下がみん
 な暑いところに入っているんだから、自分も一緒に入れてくれ」と訴えたんですね。そ
 れで、日本軍将兵が多数収容されているマヌス島に送られました。マヌス島で刑務所に
 入っていた人たちの何人かに話を聞きましたけど、本当に喜んだらしいですよ。みんな
 毎日しょんぼりしていたのに、「将軍来る!」と、元気になったといっていました。
・マヌス島から日本に帰って来たてからも、自分の責任を感じて、自宅の庭に、刑務所と
 同じ広さの掘っ立て小屋を作って、そこで暮らしていたんですからね。恩給だけで暮ら
 していて、本を出した印税や取材の謝礼などは、全部、戦死者や戦犯の遺族に渡してい
 たという話があります。   
・戦後になってから、庭に「謹慎小屋」と呼ばれた小屋を作って、そこで寝起きしていた
 んですよ。戦争の責任を反省する意味で、粗末な環境に自分を閉じ込めていたんですね。
 謹慎小屋は、東京裁判で禁固刑になったとき、自分で志願して入ったマヌス島の監獄と
 同じ大きさなんです。広さは六畳か八畳ほどです。本当は巣鴨に収監されるはずだった
 のに、「自分の部下と同じところにしてくれ、部下だけを苦しい目に合わすわけにはい
 かない」とマッカーサーに直訴したんですね。マッカーサーが「初めて本当の武士を見
 た」と感激し、願いどおりにした。それで、マヌス島へ収監されたんですよね。
・戦後になってマッカーサーが日本を占領したとき、天皇の軍隊は解散したけれど、「天
 皇の官僚」は解体しなかった。占領政策に必要だったから、そのまま残したんですよ。
 官僚たちは、多分、戦後になっても「この国はおれたちがつくたんだ」「この国の骨幹
 はおれたちなんだ」という官軍的な国家観のままだったでしょうね。  
・軍参謀も生き残りましたよね。東京裁判で裁かれたのは、陸軍省や海軍省に所属してい
 た人ばかりです。陸軍参謀本部や海軍軍令部に所属していて、最も罪が重なったはずの
 エリート参謀たちは裁かれませんでした。理由は、マッカーサーが天皇の責任を追及し
 なかったからです。もし天皇の責任を追及すれば、GHQによる日本の占領統治が極め
 て難しくなる。そのため、陸海軍の参謀たちの責任も追及できなくなったんですね。
 参謀たちは、天皇の持つ統帥権の代行者という建前でしたから、もし参謀たちの責任を
 問えば、天皇に最も大きな責任があるということになる。天皇を裁かないようにした結
 果、参謀たちの罪も問うことができなくなってしまったわけです。戦後、軍参謀たちの
 多くは政財界へと転身して、非常に成功しています。彼らには、自分たちのしたことへ
 の反省もなければ、もちろん、贖罪の気持ちもなかったのではないでしょうか。しかし、
 昭和の戦争で最も裁かれるべきは、軍参謀たちだったはずです。彼らが無責任に戦争へ
 と突入し現場を無視した無謀な作戦を強要して大勢の将兵を犠牲にし、国民を犠牲にし
 た。それなのに、何の罪にも問われなかったことは、戦後日本社会に禍根を残したよう
 に思われてならないんです。戦後、ひたすら戦争の責任を感じ続け、贖罪の半生を送っ
 た今村均は、本当に日本の軍人としては稀有な人でした。彼のことを、まるで日本軍の
 オアシスのように感じるのは、かつての軍上層部のなか戦後に真摯に責任を取ろうとし
 た人が、それほど少なかったという証拠ではないでしょうか。現在の日本は、かつての
 「官軍」的な図々しさを、自覚のないまま社会のなかに引き継いでしまっているかもし
 れない。
 
エピローグ
・官軍が始めたというのはどういうことなのか。むろん官軍の流れを汲む陸海軍の軍人の
 人脈が始めたといういい方もできるが、あえていえば官軍的戦略や手法が始めた戦争は、
 官軍的手法に突き進み、そして動きがとれなくなったということだ。これに対して戦争
 を収めるのに奔走した鈴木貫太郎や米内光政は、賊軍の藩の出身であり、抜いた剣をど
 のように収めればいいか、そのことを少年期からの体験で知っていたといえるのではな
 いか。 
・太平洋戦争の開戦時、軍事指導者たちはとにかく戦争という選択肢しかないと、ほかの
 ことにまったく目もくれない。昭和天皇が戦争に消極的であり、皇統を維持することを
 第一義の目的とし、そのために戦争、あるいは平和は手段にすぎないと考えていること
 を逆手にとり、「戦わなければ国の村立はありえない」と威しに似た恫喝を加えている。
 つまりこの国の主権者であり、軍事的に大元帥である天皇をないがしろにして、軍事行
 動を入っていく。その様子はいわばあまりにも直線的であった。これは幕末のときの長
 州の姿そのものであり、藩主に対しての忠誠も独自に考えていた節があった。
・長州、つまり毛利藩の第13代の藩主である毛利敬親は、藩士たちの幕末・維新につい
 て「君臨すれど統治せず」を地でゆくタイプであった。この藩の下級武士たちは自在に
 自らの論を口にし、ほかの藩の同志と図って相次いで行動を越こし、王政復古をもくろ
 む各種の戦いを成功させていく。ここには藩主が藩士のエネルギーを理解し、それを抑
 えるのではなく、むしろそのエネルギーが歴史変革のバネになると理解していたことに
 なる。高杉晋作や吉田松蔭ら藩士たちが明治維新の導火線になり、彼らの亡き後に長州
 出身の有能な士が権力の座に座っていくのは、こうした毛利藩の藩主がつくりだしてい
 た空気が重要な源泉になっていた。太平洋戦争を決定していくプロセスのなかで官軍と
 なり得た長州閥の姿が重なってくる。 
・戦争終結のときは長州の官軍方式はうまくいかないだろう。とにかく自滅するまで戦う
 姿勢があるからだ。戦いの鉾の収め方を知らないといういい方もできる。陸軍が固執し
 ていた本土決戦などそうした例になるだろう。とにかく成功するまで戦うというのだ。
・「勝てば官軍、負ければ賊軍」というのは、実は戦う兵士一人一人、あるいは軍属一人
 一人にもこの意識はあった。会津戊辰戦争で、会津藩に攻めいった官軍の兵士や軍属は、
 相当に乱暴なふるまいを行った。このことがまた賊軍の側が歴史的怒りをもつようにな
 り、官軍に対する複雑な思いを抱くことにもなった。
・会津城をあけわたすときに官軍の兵士の前を、会津軍兵士は罵声を浴びながら歩かされ
 る。そのとき山本八重は男装して戦ったのだが、官軍兵士からの侮辱的な減に、「今に
 見ていろ、奸賊どもめ」とつぶやきながら怒りの表情で城から出ていった。  
・官軍の略奪行為、あるいは兵士たちの詐欺的行為、そして賊軍の兵士の死体をたなざら
 しにする新政府側の侮辱的行為は日常茶飯事だったのである。こうした官軍の体質が、
 近代日本の軍事的行為のなかでどのようにして現れたのか、あるいは現れなかったのか、
 日中戦争・太平洋戦争時に日本軍の占領地にあっては、少なからず略奪行為があったと
 されているが、それは官軍の系譜を引く郷土連帯ではなかったかと思われ、この点の検
 証が必要になるのではないか。