原発はなぜ危険か     :田中三彦
              (元設計技術士の証言)

この本は、いまから35年前の1990年に刊行されたもので、原発の根源的な危険性に
ついて論じたものだ。
この本の著者は、原子炉の元設計技術者であり、驚くべきことに、福島第一原発の4号機
の原子炉圧力容器が、製造時にゆがみが生じてしまったときに、そのゆがみを矯正するた
めの強度解析に携わったことを告白している。
問題は、原発設備の安全性を左右する最重要機器である原子炉圧力容器のゆがみを矯正す
るということが、安全性という観点から、はたして許されるのかということである。
原子炉圧力容器がゆがんだまま使用されることが問題なのは当然だが、そのゆがみを矯正
した原子炉圧力容器は、強度面からみて、果たして安全といえるのか、ということだ。
当時の国と東京電力は、これを”問題なし”として、このゆがみが矯正された原子炉圧力容
器は、福島第一原発の四号機として収められ、1978年10月に営業運転が開始された。
そしてその33年後の2011年3月にあの福島第一原発事故が起きたのだ。
幸いにもちょうどその時、四号機は定期点検のために運転を停止していた。
もし、このゆがみを矯正した原子炉圧力容器が1号機か2号機か3号機かのいずれかだっ
たら、どういう事態になっていたのか。

この本の著者は次のように述べている。
 「結局、絶対的な安全性を要求される原発用の機器といえどもあくまで、いち民間企業
 の”商品”であって、基本的には「企業の倫理」から自由ではない」
 「製造メーカーは、必要とあらば、さまざまな戦略を駆使しながら、ある程度の薄氷は
 あえて踏むということである」
 「けっして技術的、法律的”良心”が、原発製造メーカーの唯一の行動規範というわけで
 はない」
 「それと同じことは、電力会社という”電気を売る会社”にもいえる」
この35年前の著者の示唆が、福島原発事故となって現実のものとなった。
あの大津波は”想定外”とされたが、専門家の間ではありうる大津波とされていた。
そして電力会社の技術者たちにも、そのことは意識されていたことだった。
ただ、”電気を売る会社”の経済合理性の判断のもとに、その対策は先送りされていた。

この本の著者はまた、次のように述べている。
 「日本の原子力発電は、意見の対立や批判精神がまったく存在しないモノトーンの集団
 によって推進されてきた。いかなる問題を前にしても、国や有識者、電力会社、原発製
 造メーカーの見解は常に一つの方向にまとまり、けっして”内輪もめ”といった醜態をさ
 らすことがない。唯一彼らが批判精神をむき出しするのは、反原発に対してである。こ
 の機械的な反応、無人恪性、無批判性こそ、この先わが国で原子力発電が継続されてい
 く際の最大の危険要素かもしれない」
35年前のこの著者の示唆は、いまなお、現在にもそのままあてはまると私には思える。

過去に読んだ関連する本:
原発のウソ
日本はなぜ脱原発できないのか
原発の深い闇
原発の闇を暴く
原発の底で働いて
FUKUSHIMAレポート
原発を終わらせる


<第一部(福島四号原発・原子炉圧力容器 ゆがみ矯正事件)>

どうゆがみ、どう矯正されたか
・原子炉圧力容器は、位置的にも役割の上でも、文字どおり原発の”中心機器”である。
 それゆえ、万が一にも破壊事故のようなものを起こすことは許されない。
 原子炉圧力容器の破損や破壊は、場合によっては、「緊急炉心冷却系」(ECCS)を
 無力化し、いわゆる「チャイナシンドローム」型の凄絶な公衆災害に発展する可能性が
 ある。
東京電力福島第一原子力発電所の四号機は、1978年10月に営業運転が開始された。
・原子炉圧力容器は専門の製造メーカーの工場で製造され、ふつう海上輸送により、発電
 所の現地に搬入される。 
 ”問題の”東京電力福島第一原発四号機用原子炉圧力容器は、日立製作所の系列会社であ
 る「バブコック日立・呉工場」で、1972年から74年にかけて製造された。
 しかしそれは、いまや世界に数ある原子炉圧力容器のなかでも、きわめて特殊な製造履
 歴をもと特殊な原子炉圧力容器であるといわざるを得ない。
 
・1974年6月、かつて私が勤務していたバブコック日立、ならびにその親会社である
 日立製作所にしたがえば、「1974年6月18日〜30日」のある日に、広島県呉市
 にあるバブコック日立・呉第二工場で深刻な事態が発生した。
 2年と数カ月という長い時間をかけ、工場関係者が異常なほどの注意を傾けながら製造
 にあたってきた東京電力・福島第一原発四号機用原子炉圧力容器が、容器製造の総仕上
 げともいうべき「最終焼鈍」という熱処理過程を受けたあと、関係法規の許す範囲を超
 えて、容器の円形断面が楕円型にゆがんでしまったことがわかったのである。
・バブコック日立・呉工場は「日立」というブランドの火力発電用ボイラーを設計、製造
 する日本有数の工場だった。
 実際、1963年に運転開始されたわが国最初の動力試験炉(JPDR)用の原子炉圧
 力容器や、1970年に大阪場万国博に合わせるように院展が開始された日本初の大型軽水
 炉、日本原子力発電の敦賀一号機の原子炉圧力容器は、この第二工場でつくられたもの
 である。 
 このことからもわかるように、バブコック日立・呉工場の原子炉圧力容器の製造技術は、
 当時わが国で最高のレベルにあった。
・遠目には立派な完成品としか見えない、しかしそのままでは決して電力会社に納めるこ
 とも、国の最終検査を受けることもできない原子炉圧力容器が、それからおよそ2ヵ月
 のあいだ、製造ラインからはずれて、手狭な第二工場にその巨体を横たえることになっ
 たのである。 
・鋼板などを溶接によって接合すると、溶接部やその近傍に、溶接時の高い温度のために
 不自然なゆがみ(ひずみ)が生じ、またそのゆがみと対応するように力(応力)が発生
 する。この力を「残留応力」という。
 残留応力をそのままにしておくと、将来それが力学的に悪い要素として働き、使用中に
 危機を破損させる原因になることがある。
 そのようなことから、製缶過程中に溶接構造品を炉などに入れて数百度に加熱し、溶接
 によって発生したひずみや残留応力を取り除くようにする。
 これが溶接残留応力除去焼鈍(SR)の目的である。
・法規に規定されていることはきわめて単純で、要するに、容器のどの断面においても
 「最大直径と最小直径の差が”ある値”以下になるようにせよ」というものである。
 ”ある値”は、つくる容器の大きさによって変わってくる。
 福島第四号機用原子炉圧力容器の場合、”ある値”は「34ミリ」だった。 
 つまり、容器の任意の断面において、測定された最大直径と最小直径の差が34ミリ以
 内に入っていれば、製品として合格ということになっていた。
 ところが最終焼鈍直後におこなわれた社内寸法検査により、測定したいくつかの断面で、
 最大直径と最小直径の差が許容値である34ミリを超えていることがわかったのである。
 すでにいくつかの原子炉圧力容器の製造を手がけてきた呉工場にとっては、予想もしな
 い初歩的な、しかも深刻なトラブルだった。
・いったいなぜこのようなことが起きたのか。
 力学的な原因は明白である。
 応力除去焼鈍のため六百数十度まで加熱されて少し柔らかくなった圧力容器が、いって
 みれば「自分の重さに耐えかねて」つぶれたのである。
 もちろんこの程度のことは専門かならだれでもはじめから予測できることだから、そう
 ならないように、焼鈍時には圧力容器の内側に通常リング状の板谷現状な棒が支えてと
 して当てがわれる。
 それらの支えが焼鈍中に倒れたか、はずれたか、ゆがんだのか、あるいはもっと極端に、
 支えを入れ忘れたのか、そういう”人間的な原因”についてはよくわからない。
・福島四号のトラブルが発生したのは、私が新しい職場でなれぬ仕事と格闘をはじめてか
 ら1カ月ほどしたときだった。
 そのようなトラブルが起きているとは、ボイラー設計部では噂にものぼっていなかった。
 厳重な箝口令が敷かれていたのである。
 ある日、上司からトラブルの解決のためにしばらく原子力設計部に手伝いに行くように
 いわれ、はじめて「福島四号機用原子炉圧力容器がゆがんでいる」事実を知った。
・楕円形にゆがんでしまった原子炉圧力容器をどうすれば法規が許しているゆがみの範囲
 内に戻すことができるかを考え、それを理論的に検討し、ゆがみ矯正法の原案を立てる
 こと、それが私に、もっと正確にいえば、私が急遽臨時でとりまとめることになった計
 算グループに求められた仕事だった。
・工場関係者にとってこのトラブルのもっとも深刻な部分は、原子炉圧力容器が許容値を
 超えてゆがんだということ自体より、矯正作業に必然的に伴う現象される「材料劣化」
 を考えると、「矯正作業はどうみても一度しかおこなえない」という事実の方であった。
 つまり、これから何とかしておこなわなければならない矯正作業に”万一失敗したら”
 二十数か月の時間をかけて製造してきた完成直前の原子炉圧力容器は、その時点でただ
 の巨大な鉄の塊と化す。 
・数十億円(当時)の原子炉圧力容器をふたたび二十数カ月かけて”つくり直す”だけでも、
 中規模企業にとっては致命的な打撃である。
 が、おそらくことはそれだけではすむまい。
 福島現地への原子炉圧力容器の搬入が予定より二年半も遅れれば、現地の工事はあらか
 たストップするだろうし、当然電力会社の長期的な給電計画も変更になるだろう。
 そうなればバブコック日立はもちろん、親会社である日立製作所も、それに対して責任
 をとらねばならなくなる。
・日立に発表によれば、矯正作業がおこなわれたのは1974年8月5日〜9日で、合計
 5日間ということになっている。
 矯正作業のハイライトの部分は、ほんの数時間のできごとでしかない。
 その「わずか数時間のために」、呉工場の関係者はほぼ2ヵ月にわたる注意深い検討と
 異常な緊張を強いられたわけである。
 1974年8月某日、福島四号機用原子炉圧力容器ゆがみ矯正作業は、とにかく終わっ
 た。
・つけ加えれば、福島四号機用原子炉圧力容器にいわば社運をかけた一発勝負の矯正作業、
 (工場長の”仏滅発言”以後、関係者はそれを”葬儀”と呼び、作業の総指揮者は”葬儀委員
 長”などと呼ばれた)がほどこされたその日に、原子炉圧力容器の購入者であり使用者で
 ある東京電力の関係者が立ち会っていたかといえば、そうではなかった。
 なぜか、そこに東電関係者の姿は一人もいなかった。
 結局、この2ヵ月におよぶ矯正作業の期間中、東電の関係者は一度たりとも、ゆがんだ
 容器を目にすることはなかった。
 トラブル発生以後、東電関係者が圧力容器を直接目にしたのは、矯正作業がほどこされ
 た”あと”、公の件さのときが最初である。
 
「六・二八シンポジウム」の周辺
・1977年3月に、私はバブコック日立・呉工場を辞めている。
 まったく個人的な理由からで、原発のことも、ゆがみ矯正のことも無関係である。
・ゆがみ矯正騒動からほぼ14年目にあたる1988年6月28日、東京・内幸町のイイ
 ノホールで「わかりやすい原発の話」という名のシンポジウムが開催された。
 私は、作家「広瀬隆」氏とともに反原発側の討論者としてそのシンポジウムに参加した。
・シンポジウムが半ばを過ぎたころ、「原発製造メーカーは信用できるか」をめぐって、
 原発推進側の論客、日本原子力発電の板倉哲郎氏と議論しているとき、私は、
 「現在運転中のある原発の原子炉圧力容器が、製造中に法律の枠を超えてゆがみ、その
 ためメーカーは200トン・ジャッキ数本を用い、技術的にも法的にも疑問の残るやり
 方でそれを矯正した」
 という意味のことを発言した。
 むろん私なりに悩み、考えた上での発言であって、偶発的なものではない。
・広瀬氏が私に原発名を明らかにするよう求めるなかで、シンポジウムは終わった。
 深夜までに、朝日新聞は問題の容器を「東京電力福島第一原発四号機の原子炉圧力容器」
 と特定するとともに、東京電力、科学技術庁、そして容器を東京電力に納めた日立製作
 所のコメントをとった。
・東京電力の原子力発電部長は、「(バブコック日立から)少しひずみが出たため、社内
 の設計制度基準をパスしないので、形を変え、精度を上げたいという申し入れがあり、
 その申し入れを受けた」と、大筋で矯正作業がおこなわれたことを認めた。
・一方、科学技術庁原子力安全局は、「そうした話はまったく聞いていない。もしそれが
 事実だという可能性があるとすれば、原子力安全委員会が通産省に対し、詳しい説明を
 求めることになると思う」と語った。
・さらに日立製作所本社の原子力事業次長は、「原子炉圧力容器がゆがんだ事実はない」
 と、問題を根底から否定した。ところが、日立はそれからわずか半日後に記者会見を設
 定し、今度は一転して矯正作業をおこなったことを認めた。
 しかし「作業は合法的であり、安全上も問題ない」と主張した。
・ゆがみ矯正に関する発言は、主催者からシンポジウムへの惨禍要請を受けた時点で、
 すでに心に決めていたことである。
 計算者として矯正作業に関与した当時も、そしてその数年後に会社を辞めてからも、
 つねに心の底に疑問を抱いてきた問題だったからである。
 とくに、大組織に基盤をおく生活に終止符を打ち、私自身のものの見方、考え方、暮ら
 し方が大きく変わってからは、原発という今日の大きな社会問題と無関係を装い続ける
 ことは難しく、いつかは公にせざるを得ないと感じていた。
・ゆがみ矯正によって鋼が有害な後遺症をおわなかったかどうかは、「材料強度学」に属
 する問題である。  
 そしてその議論をしようと思えば、どうしても、福島四号機用原子炉圧力容器に使われ
 た鋼はおろか、それと同じ材質の鋼の高温材料特性さえ、当時はほとんど明確ではなか
 った。
 容器の形を整えることを最優先し、いわば後遺症が小さいことを”祈りながら”、矯正
 作業を強行したといってもいい。
・矯正作業は法的にも大いに疑問が残る。
 もともと、試験データなどの裏付けのない製造技術を、原子炉圧力容器の製造過程に持
 ち込むことは法規上許されていない。
 逆にいえば、”ある”原子炉圧力容器の製造過程で使用されるさまざまな技術、溶接や加
 工や成形や熱処理などは、あらかじめその妥当性を試験片などによって確認しておくこ
 とが義務付けられている。
 妥当性が確認された技術のみ、”その”原子炉圧力容器を製造するための技術として公に
 認められるのである。
 対象とする原子炉圧力容器が変われば、またはじめからやりなおさなければならない。
 絶対に事故を起こしてはならない原子炉圧力容器であるから、この程度の厳しさは当然
 といわねばならない。 
 この基本的な要求を満たそうにも満たせなかったあのゆがみ矯正作業は、それだけでも
 すでに、ほとんど違法である。
・ゆがみ矯正作業には、原発の安全性と関わる技術的、法的な問題のほかに、もう一つ基
 本的な問題がある。 
 それは、作業方法の検討だけでも1カ月以上を要した、違法性の疑いが濃いあのゆがみ
 矯正作業、国や電力会社を一人も立ち合わせることなく、1メーカーの独断で行いえた
 のはなぜか?ということと関わる問題である。
・結局、絶対的な安全性を要求される原発用の機器といえどもあくまで、1民間企業の
 ”商品”であって、基本的には「企業の倫理」から自由ではないということだろう。
 製造メーカーは、必要とあらば、さまざまな戦略を駆使しながら、ある程度の薄氷はあ
 えて踏むということである。
 それと同じことは、電力会社という”電気を売る会社”にもいえることであろう。
 けっして技術的、法律的”良心”が、原発製造メーカーの唯一の行動規範というわけでは
 ない。
・その現実を考えたとき、原発の安全性に関してわれわれ一般大衆が最終的に頼らざるを
 得ないのは、個々の原発の安全性に対して管理責任を有する国の知識と判断力である。
 しかしいまのところそれは、われわれが十分信頼を寄せうるものとはいい難い。
 メーカーの論理に太刀打ちできる”現実的な知識人”が少ない。
 ときにあまりにも官僚的、権威主義的であり、ときにあまりにもアカデミックである。
 科学的・技術的活動を”中立”とはきちがえ、科学性を前面に立て、一般大衆の論理に共
 感する視座をもたない。
 まさにそのことを、今日原発の安全性を危惧する多くの人びとが問題にしているのでは
 ないかと思う。
 そしてあのゆがみ矯正作業は、管理者側のこうした体質を背景に行われたといっても、
 けっして過言ではあるまい。
・実際、福島四号機の問題に対する発言や判断においても、国はみずから、その”頼りな
 い体質”を披露してみせた。
 たとえば、福島四号機ゆがみ矯正問題が浮上した翌日、国は早くも次のような公式見解
 を発表し、すばやく福島四号機問題に蓋をしようとした。
 「ジャッキを使用して真円度の矯正をおこなうことは一般に実施されていることであり、
 とくに問題になることではない」 
・あのゆがみ矯正作業を「一般的に実施されていること」と判断したのである。
 驚くべき現実感覚の欠如である。
 
<第二部(”運転中の原発”の安全性>

理論的構築物の矛盾
・原発の建設がはじまってそれが実際に運転されるまで、少なくとも数年の時が必要だろ
 う。
 したがって、”きょう”運転が開始された最新鋭の原発といえども、それに適用された設
 計、製造、検査の技術、そして関連法規は「数年前のもの」ということになる。
 このように、ともすると最先端技術の塊のような印象を与える原発も、じつは、周辺で
 急速に展開される重要な技術革新に対してきわめて応答の遅い鈍感な構造物である。
・原発の安全性を議論するとき忘れてはならない視点は、現在運転されている原発が「同
 じ安全性を有していない」ということだろう。
 とくに古い原発は新しい原発に比べて、法的にも技術的にも”最近の新しい知見”が反映
 されていない分だけ明かに危険であり、危機の老朽化と併せて、それだけ慎重にケアー
 されなければならない。 
・たとえば、日本で最も古い本格的軽水炉原発、日本原子力発電・敦賀一号機(1970
 年運転開始)が線形されたのは、60年代半ばから後半にかけてのはずだが、設計が開
 始された当時、原子力発電設備に対するわが国の技術基準が未整備であったため、この
 原発の中心構造は、化学プラントなどに適用される技術基準に準じてつくられ、設置さ
 れている。
 したがってこの原発の原子炉圧力容器は”贅肉の多い”、どちらかといえば、ぽってりし
 た設計になっている。
 しかし、「贅肉が多いから頑丈で、安全」ということにはならない。
・この敦賀一号機運転が開始されたのは1970年のことだが、すでにそのころまでには、
 「熱疲労の観点からは、贅肉をつけることは容器の健全性にとってマイナスのである」
 ことが、設計者の常識になっていた。新しい設計センスとはあい入れない原発が、動き
 出していたのである。
・圧力容器にかぎらず、何か構造物を設計するときは、かならず「安全係数」というもの
 を導入する。
 しかし安全係数を「安全のための余裕代」と解釈するのは、おそらく、あまりにも表面
 的であろう。
 たしかに安全係数には、高応物に強度的余裕をもたせる意味でもあるが、けっしてそれ
 が安全係数の本質的な意味ではない。
・一般に構造物は複雑な形をしている。
 そのため、力のかかり方を設計者が正確に把握できない部分がかなりある。
 では、こうした部分はどのように設計されるかといえば、関連法規に記されているあま
 り理論的とはいえない、ある「簡単な計算法」によっておこなわれる。
・このように安全係数は、けっして必要以上に余裕をとるためではなく、正確に把握でき
 ないもの、把握しにくいものがあるという不安や「不確実要素」を配慮して導入されて
 いるものだと考えたほうがよい。
・繰り返せば、安全係数とはけっして余裕代ではなく、設計上”どうしても必要な”安全代
 である。
 実際、大きな安全係数がとられていながら構造物が破壊したりすることはよくあるが、
 それはそうした不確実な要素のいずれかがいわば”予想を超えて”的中したからであって、
 けっして壊れないはずの頑丈なものが壊れているわけではない。
 たとえば化学ブラントや火力発電用ボイラーの諸設備には、「4」の安全係数がとられ
 ている。にもかかわらず、それらが破壊したり、破損したりする事例はけっして少なく
 ない。
・一般の人なら誰でもが、原子炉圧力容器のような重要な原子力発電用機器には化学プラ
 ントより大きな安全係数がとられているに違いない、と考えるのではないかと思う。
 しかし事実は逆である。
 化学プラントやボイラーなどの耐圧部(圧力がかかる部分)の安全係数は「4」だが、
 原子炉圧力容器のそれは「3」である。
・なぜ、わざわざ原発の安全係数を小さくする必要があったのだろうか。
 アメリカは1950年代半ばから後半にかけて、アメリカ機械学会(ASME)が中心
 となって原子炉圧力容器に対する規格制定の準備に入ったが、その際アメリカ機械学会
 は、主として二つの理由から、安全係数を下げる方向を積極的に模索した。
 一つは、化学プラント並みに安全係数を「4」にすると、近い将来かならず起こる原発
 の出力増大にともって原子炉圧力容器がひどく巨大化し、材料の製造、容器の制作や輸
 送などにおいて、さまざまな限界や照会が生じると判断したことである。
 もう一つは、安全係数を高くとって贅肉をつけた圧力容器は内部流体温度の変化に追従
 しにくく、そのため熱疲労という観点からは不利であり、安全褻椅子を高くとることが
 必ずしも圧力容器の健全性を保証することにはならない、という認識が強調されはじめ
 たことである。
・アメリカ機械学会は安全係数を「4」から「3」にさげることの”代償”として、
 「解析による設計」という当時としてはきわめて斬新な、おおよそつぎのような内容の
 要求を付帯させたのである。
 「設計者は、考えられるあらゆる運転条件に対して、圧力容器各部に発生する応力を詳
 細に求め、容器の健全性を理論的に検討すること」
 つまりアメリカ機械学会は、安全係数を「4」から「3」に下げる「危険性」を、設計
 者に「純粋な理論的な応力解析」を義務付けることによってカバーしとうとしたわけで
 ある。  
・こうした考え方をベースに、安全係数を「3」にとった画期的な原子炉圧力容器規格
 「ASMEV」が1963年に正式に刊行された。
・ASMEVは他に例を見ないほどすぐれた規格だが、まさにそれゆえに、「では、改訂
 する前の古い基準や規格で設計された原子炉圧力容器の安全性はどうなるのか?」とい
 う、しごく当然の、しかし大きな疑問が生まれてくる。
・この問題は法的な問題ではないが、大きな事故を起こすことが絶対に許されない原子炉
 が、さまざまな”質”でこの狭い日本に同時に存在していることを、「法的に問題ない」
 といって放置することは、原発の安全性に対する現実的な対応ではない。
・チェルノブイリの事故が起きたとき、国や電力会社、そして原発推進に積極的な意見を
 持つ識者はこぞって「日本の技術力は高い」、「構造がちがう」ことを強調した。
 たしかに、”いまの”技術力は高いかもしれない。構造も確かにちがう・
 しかし問題にすべきことは、”いま”ではない。
 今日運転されている原発の多くは、日本の原発技術者がまだASMEVの解釈も満足に
 できないときにつくられた”古い”ものであることを、忘れてはならない。
 また構造がちがうというなら、日本国内の古い原発と新しい原発の構造は、安全性に対
 する配慮という意味で、とてつもなくちがう。
 なぜその構造差は問われないのか。
・たとえばこれから敦賀一号機とまったく同じものをつくろうとしても、安全性という視
 点から国はそれをけっして許可はしないはずだが、いわば、国みずから否定する原発が
 今日運転されている”現実”は、けっして忘れられてはならない。
・まず国によってこの現実が直視され、具体策が提案されるべきであろう。
 つまり、国はこれまで基準や指針をどう整備してきたか、そしてそれらの整備がおこな
 われる”以前”の原発(新しい理論や技術や実験データが反映されなかった古い原発)
 に問題はないか、などを一つひとつ明確にし、問題があるときはそれをつくった製造メ
 ーカーの協力を得て早急に解決していくべきであろう。
   
原発の老朽化1(圧力容器の中性子照射脆化)
・原子力発電所が建設されるとき、何種類かの「重大事故」や「仮想事故」というものが
 想定され、それをもとに「安全評価」がおこなわれる。
 しかしその重大事故、仮想事故は、どうみても「考えうる最悪の事故」を意味していな
 い。
 原発の場合、おそらく考えうる最悪の事故とは、放射性物質を閉じ込めているすべての
 壁(すなわち「多重障壁」)が崩壊し、射つ側に閉じ込められていた放射性物資が大量
 に大気中に放出されるという悲劇的な状況だろう。
 日本のものと型や構造はちがうが、一瞬にして瓦礫の山と化したチェルノブイリ原発の
 あの姿である。
・事故をどのように想定するかは、あくまで主観的な「選択の問題」である。
 別な言い方をすれば、想定事故には、意識的であれ、無意識的であれ、ある種の価値や
 時代精神が明確に投影されていると考えねばならない。
 すべての壁が崩壊するような最悪事故が想定されない理由は、おそらくたった一つ、
 「そのような事故想定は原発の建設を不可能にする」ということだろう。
・言い換えれば、安全評価で採用される重大・仮想事故とは、原子力発電所を建設すると
 いう目的を不可能にしない範囲で「こんな事故を想定してみました」ということでしか
 ないと思われる。  
・たとえば、原発の安全性が議論されるとき、かならず取り上げられる代表的な想定事故
 の一つに、「冷却材喪失事故」というのがある。
 原子炉圧力容器に出入りしている冷却材用配管が突然何かの理由で破断し、そこから冷
 却材(水)が一気に噴出する、これが安全評価において想定されている冷却材喪失事故
 である
・この初期の時点で、もしすみやかに適切な対応や処置がなされなければ、その先どんな
 ことになるだろうか。
 当然、圧力容器内部の冷却材は、風呂の栓が抜かれたように、急激に減少しはじめる。
 そしてそれまで冷却材の中に浸かっていた核燃料が、徐々に水面に顔を出す。
 顔を出した核燃料棒の温度はたちまち数千度に上昇するだろうから、その部分は溶融す
 る(メルトダウン、ないしは炉心溶融)。
 さらに事態が進行すれば、圧力容器のなかの冷却材が完全になくなってしまう”空焚き”
 状態になり、数千度の温度のために、燃料のみならず容器の中の内部構造物、おして巨
 大な容器自身さえ、溶解するだろう。
 圧力容器が溶解すれば、それを覆っている薄い鋼板でできた1次格納容器も、あるいは
 周辺のコンクリートも溶解し、それらは塊となって地下にもぐり、その過程で施設内の
 水や地下水と接触して水蒸気爆発を起こすかもしれない。
・一般に「チャイナシンドローム」の名でよばれているこうした話を、ありえぬこととし
 て一蹴するわけにはいかない。
 たとえば1979年におきたスリーマイル島原発事故が、自己当初の評価とはちがい、
 このストーリーをほぼそっくりそのまま途中までなぞっていた。
・しかし想定事故においては、チャイナシンドロームのような最悪のストーリーを初期段
 階で断ち切る「ECCS」が登場する。  
 ECCSは、圧力容器の内部上方に設置されている高圧および低圧の注水装置を中心と
 した緊急注水システムである。
 冷却材用配管が破断して冷却材喪失が起きると、このECCSが自動的に作動し、炉内
 に水が注入されることに”なっている”。
・では、もしECCSが期待どおり作動しなかったらどうなるだろうか。
 そのときはもちろん、圧力容器内の中でチャイナシンドローム的事態が進行し、ついに
 は閉じこめられていた放射性物質が大気中に大量に放出される可能性がでてくる。
 しかし繰り返すなら、原発の建設時におこなわれる安全評価においては、そのようなス
 トーリーがそのまま想定されることはない。 
・そうやって考えると、冷却材喪失事故のような大事故が安全評価の対象になっているか
 らといって、けっして安心するわけにはいかない。
 結局、原発事故の究極的な安全は「はたしてECCSが冷却材喪失時に期待どおりに機
 能するかどうか」にかかっているように思えてくる。
 しかしそれでもなお、話しはそう単純ではない。
・公に想定されている冷却材喪失事故には、それが配管破断からはじまるという前提があ
 る。 
 しかし、配管破断以外に、原子炉圧力容器そのものの瞬間的な破壊(脆性破壊)という
 事故の可能性があることは、原子炉圧力容器の専門家ならだれでも承知していることで
 ある。
 そして、もしそのような事故が起きた場合、同じ冷却材喪失でも、配管破断の場合とは
 まるでちがった事態が惹起されるだろう。
・かつて日本原子力研究所で構造強度研究室長を務められたこともある故藤村理人氏は、
 原子炉圧力容器が突発的に脆性破壊した場合、どのような事態が想定されるかを、次の
 ように書いておられる。 
 「もし圧力容器が破局的な破壊をしたならば、その鋼材の破片はミサイルとなって瞬時
 に飛び散ることになるので、格納容器の数十ミリの壁は難なく貫通してしまうであろう。
 格納容器はまったく役立たず、ECCSなど緊急冷却設備なども無力化する。炉心は露
 出し、それこそ数万人の死亡者を出す大災害へと発展してしまう」
・原子炉圧力容器の設計や製造や検査においては十分意識されている「圧力容器の脆性破
 壊」も、安全評価においては正面から取り上げられることがない。
 理由は明白である。 
 「格納容器は全く役立たず、ECCSなどの緊急冷却設備なども無力化するような劇的
 な冷却材喪失事故を安全評価のために想定することは、原発の建設を不可能にする。
・じつはどんな原子炉圧力容器も、程度の差はあれ、時とともにもろく危険な状態になっ
 ていく。 
 そのことは”最初から”わかっていた。
・原子炉圧力容器がもろくなるのは、容器が核分裂で生じる中性子を継続的に被曝するか
 らで、そのためこの現象は、中性子照射脆化」とか、単に「照射脆化」と呼ばれている。
・また加圧水型炉は沸騰水型炉のように炉心と圧力容器のあいだにジェットポンプが入っ
 ていないため、中性子に対する水の減衰効果が少なく、そのぶん照射脆弱化の程度が著
 しいこともわかっている。  
・結局、問題の要点は次のようになる。
 原子力発電用機器のなかでもっとも高い安全性を要求される原子炉圧力容器、それもと
 くに、わが国でいえば関西電力、四国電力、九州電力、北海道電力などが採用している
 加圧水型炉の原子炉圧力容器、が、照射脆化によりかなりの速度でもろくなっていると
 いう事実である。
・そしてこの事故こそ、藤村氏が「格納容器はまったく役立たず、ECCSなどの緊急冷
 却装置なども無力化する」と表現した原子炉圧力容器の脆性破壊である。
・金属材料学という学問の歴史は古い。
 しかし脆性破壊という破壊形態が金属材料の研究者や技術者の集中的、体系的な関心を
 ひくようになったのはさほど古いことではない。
 きっかけは、終戦後、リベット船に代わって普及してきた溶接構造船が”一瞬のうちに
 沈没”する事故が世界各地であいついだことである。
・これまでに起きた典型的な脆性破壊の事故の例をいくつかあげておけば、
 ・1886年にアメリカ・ロングアイランドで、高さ250フィートの給水塔が水圧試
  験中に脆性破壊を起こしている。
 ・1919年にはボストンで製糖用タンクがやはり脆性破壊を起こし、多数の死者が出
  ている。   
 ・1962年にはメルボルンのキングス橋が
 ・1967年にはアメリカ・ウェストヴァージニア沖で石油採掘用プラットホームが転
  覆、作業員123名が犠牲になった。これも最終的な破壊のメカニズムは脆性破壊で
  あった。
・以上は脆性破壊事故のごく一部にすぎず、犠牲者や負傷者と伴わない小さな脆性破壊事
 故まで含めれば例は無数にあると考えていい。
 また構造物の種類も、科学プラント用圧力容器、ボイラー用ドラム、船舶、橋、ビルな
 ど多岐にわたり、とくに溶接がほどこされている構造物に多い。
 幸い原子炉圧力容器は脆弱破壊を経験していない。
 しかしそれはたぶん、脆性破壊防止のためにほどこされてきたさまざまな配慮が、”こ
 れまでのところ”うまく機能してきたということであって、原子炉圧力容器が脆性破壊
 と無縁であるということを意味していない。
 それどころか、ある意味で、原子炉圧力容器ほど脆性破壊発生の条件が整いやすい構造
 物はないといえるかもしれない。
・「落重試験」とは、材料の音頭を下げていったとき、延びを伴わない破壊、つまり純粋
 な脆性破壊が、何度で起こりはじめるかを見定めるためのものである。
 「延びのない破壊に移る温度は「NDTT」とか「NDT温度」といわれる。
・原子炉圧力容器のなかには、脆性破壊事故の防止を唯一の目的とした小さな試験片が多
 数挿入されている。
 これらの試験片は「監視試験片」とか「サベイランス試験片」と呼ばれ、数年に一度の
 割で、原発の定期試験時を利用して炉内よりその一部が取り出され、定められた強度試
 験にかけられる。
 原発の心臓部である原子炉圧力容器が中性子被曝によってどれだけもろくなったかを、
 そして脆性破壊という破局的な事故が起こらないかどうかを、”監視”するためである。
・関西電力美浜一号機は運転開始が1970年(昭和45年)11月のわが国でもっとも
 古い本格的軽水炉原発の一つである。
 運転開前の試験片のNDT温度は「マイナス50度」であった。
 ところが、それからわずか2年半後の1973年(昭和48年)3月に取り出された監
 視試験片のNDT温度は「プラス54度」まで上昇している。
 わずか2年半の運転で中性子照射脆化によりNDT温度が一挙に104度も高くなった
 のである。
 南極どころか、とびきり熱い風呂のなかでも十分脆性破壊が起きうる”ボロボロの鋼”に
 変身したわけである。
・他の原発の照射脆化はどうだろうか。 
 美浜二号、高浜一号、大飯二号、玄海一号なども、はじめNDT温度がマイナスであっ
 たにもかかわらず、現在はみなプラス4、50度付近にある。
 やはり、原子炉圧力容器内面の照射脆化はすでに相当進んでいると考えなければならな
 い。
・そして、照射脆化の進んだこのような加圧水型原子炉圧力容器にとってもっとも怖いも
 のは、”魔女の一撃”である。
 その一撃とともに、原子炉圧力容器は破局的な脆性破壊を起こす可能性がある。
 魔女の一撃は「加圧熱衝撃(PTS)」と呼ばれている。
・原発が完全に冷えた状態から起動されるとき、原子炉圧力容器の中の冷却材は、いわば
 普通の”冷たい水”である。
 この水を数時間かけて、ゆっくり通常運転温度まで上げていく。
 あまり急いで温度を上げると容器の内外面、あるいは容器の部分間に有害な温度差が生
 じ、熱衝撃とまではいかなくても、そうしたことが何度も繰り返されれば最終的に鋼を
 損傷する要素になる(熱疲労)。
・こうした理由から、起動時にかぎらず、通常運転時の冷却材の温度変化の割合は、
 「1時間あたり55度」に制限されている。
 圧力容器を保護するための、きわめて伝統的、経験的な制限値である。
・しかし、たとえば冷却材喪失のような緊急事態が起きたとき、のんびりとそのような制
 限値にとらわれているわけにはいかない。
 そのような場合にはECCS系が自動的に作動し、冷たい水が一挙に炉内に流入するこ
 とになっている。   
 その場合炉は「急冷」され、容器は熱衝撃を受ける。
・原子炉が急冷されると一次系の圧力が急激に低下するが、その急激な圧力低下のために
 ECCSの高圧注水ポンプが自動的に作動し、ふたたび一次側の圧力が上昇する。
 したがって原子炉圧力容器には熱衝撃だけでなく、上昇した水圧力も作用することにな
 る。これが加圧熱衝撃、つまりPTSである。
・アメリカは早くも1980年代はじめに、予想以上に照射脆化の進んだ加圧水型原発の
 二十数機の扱いに苦慮していた。
 当時のアメリカの規定では、圧力容器の鋼材のNDT温度が「寿命末期で93度」に達
 しないことを要求していたが、これら二十数機の原発は照射脆化のため早くもこの規制
 値に達したのである。
・この困難に対処するためにアメリカの原子力規制委員会は、1985年までに、寿命末
 期でのNDT温度を132度まで緩和した。
・そして日本でも1986年には、アメリカにならい、それまでのNDT温度の規制値が
 93度が、問題の意味が一般には知らされぬまま原子力安全委員会の指針により132
 度に緩和されたのである。
・大きな疑問を感じざるをえない。
 といっても技術的、理論的な話ではない。
 日本がアメリカにならって規制値を93度から132度に大幅に緩和した理由は、それ
 が妥当か妥当でないかは別として、それなりにあったにちがいない。
 しかし問題はそこへ至る「過程」である。
・移行する前に、いったいだれがこの問題の重要性、危険性叫んだであろうか。 
 一般の人間はもちろん、近隣住民にさえ告知せず、”秘かに”NDT温度の上限規制値が
 緩和されていたのである。
・この問題の検討や審議にはおそらく多くの学者、技術者が関与したはずだし、直接それ
 に関与しなくても、そうした一連の動きを知り得た専門の学者、研究者はけっして少な
 くなかったはずだ。
 しかしそうした専門家から、一人として批判的な意見はなされなかった。
・決して批判のための批判を求めるものではないが、一般に科学的あるいは技術的な理論
 やデータを前にして、専門家全員の見解が一致するなどということはありえないことで
 ある。  
 しかしこれまで日本の原子力発電は、意見の対立や批判精神がまったく存在しないモノ
 トーンの集団によって推進されてきたとしかいいようがない。
 いかなる問題を前にしても、国や有識者、電力会社、原発製造メーカーの見解は常に一
 つの方向にまとまり、けっして”内輪もめ”といった醜態をさらすことがない。
 唯一彼らが批判精神をむき出しするのは、反原発に対してである。
 この機械的な反応、無人恪性、無批判性こそ、この先わが国で原子力発電が継続されて
 いく際の最大の危険要素かもしれない。
 
原発の老朽化2(理論主義の危険)
・応力解析担当者は、まず、冷却材の温度変化によって構造物の表面や内部各点の温度が
 時間的にどのように変化していくかを、コンピュータを使って追う。
 この作業は「非定常温度分布解析」といわれる。
・非定常温度分布解析により、各運転状況に対する構造物の「時々刻々の温度分布」が明
 らかになったら、つぎにそれをもとに構造物の「熱応力」を求める。
 熱応力というのは、構造物内部に発生している温度分布によって生ずる応力である。
 構造物全体の温度が均一であれば熱応力は発生しないが、場所場所で温度が異なる場合、
 それぞれの点での自由変形(熱膨張)が拘束され、その結果構造物内部に熱応力が発生
 することは容易に想像されよう。 
・さて、この熱応力計算では特殊な”勘”が求められる。
 というのは、非定常温度分布解析によって得られるものは、ある運転状況におかれてい
 る構造物の「一秒後の温度分布」「二秒後の温度分布」・・・「一分後の温度分布」
 「10分後の温度分布」・・・といったものである。
 そして未来は、それら一つひとつの温度分布に対して熱応力を計算していくべきだが、
 そんなことをしていたのではいくら時間があっても足りない。
 そこで解析担当者は、非定常温度分布に関する膨大な量のコンピュータ・アウトプット
 のなかから、熱応力計算にとって意味のある温度分布、つまり、構造物の熱応力が著し
 くなるような温度分布、をいくつか選び出さねばならない。
 しかし何をもって「意味のある温度分布」とすべきか、それに関する絶対的な基準とい
 うものはない。
 そこで解析担当者は、意味のある温度分布を選択するために、主観的な基準を導入せざ
 るをえなくなる。
 勘が要求されるのは、まさにここである。
 この選択が不適切だと、熱応力計算は、そしてそれゆえ詳細応力解析全体は、その時点
 で意味を失うことになる。
・初期の原発の熱応力解析には、絶対的な経験不足からくる不完全さがあったことは否定
 できない。
 少なくとも、今日老朽化しつつある初期の原発の詳細応力解析には、強調されねばなら
 ない重要な問題がいくつかあった。
 そしてそのうちのいくつかは、今日の詳細応力解析の問題でもあると思われる。
・コンピュータが高速・大容量になり、それにともなってコンピュータ・プログラムが改
 善され計算精度が上がれば上がるほど、応力評価の結果が厳しい方向に向かうという、
 明確な傾向がみられたことである。
 つまり、過去の設計では強度が少しも問題にならなかったような構造物が、計算精度の
 向上によって問題になるという現象が、けっこう頻繁におこった。
・詳細応力解析があまりにも理論的であるがために、またその解析過程があまりにも煩雑
 であるがために、その結果を第三者がチェックすることが実質的に不可能になっている
 という問題がある。
・詳細解析には単純ミスというのもあるだろう。
 これらのことで原発の安全性が著しく損なわれるようにするには、詳細応力解析が第三
 者によって注意深くチェックされなければならない。
 確かに、担当者が作成した公的な計算書は、工場組織のなかでそれなりのチェックを受
 け、さらに電力会社の目をとおり、最終的には国の審査を受ける。
 しかしそのどの段階においても、提出された計算書はけっして第三者が正確に内容をチ
 ェックできるものではない。
 極端ないい方をすれば、公的な計算書は”学術論文”であり、形式にすぎない。
・それゆえ原発の安全性の重要な一部は、多くの場合、まだ充分経験を積んでいない若い
 担当者の解析能力と注意力に実質的に依存しており、不注意にしろ、故意にしろ、計算
 内容に問題があっても、ひとたび公的な計算書になってしまえば、それが上位の審査過
 程で指摘される可能性はほとんどない。
・じつに皮肉なことだが、安全性という面では原発ほど厳しさを要求されない化学プラン
 トなどの場合、行政はその設計計算書を容易にチェックすることができる。
 なぜなら、計算書の手順が法規のなかに与えられているので、審査者は担当者の計算過
 程を実際に追っていくことができるからである。
 しかし原発の場合、法規の要求をしていることがあまりに理論的で煩雑であるがために、
 いまのままでは第三者が厳密にその内容を審査できないという矛盾を抱えている。
・詳細応力解析の妥当性は、結局、実構造物の”その後”にあらわれる。
 原発の運転中に構造物匈奴的な問題が発生しなければ、それはそれで、詳細応力解析の
 ”成果”であると考えることもできるだろう。 
 しかし、都合のいいことだけを強調するわけにはいかない。
 構造物が強度上の問題を起こせば、それは詳細応力解析の不完全さの反映であるとみな
 さなければならない。 
・たとえば1977年に起きた東京電力福島第一原子力発電所一号機の「給水ノズル・内
 面の熱疲労事故」はその種の典型的な事故とみなすことができる。
 「福島第一原発一号機が給水ノズルの故障を起こしたのは事実。そのためにGE社から
 技術者が派遣されてきているが、その人数は70人。修復工事は順調に進んでおあり、
 ことし八月には運転開始できる見通し」という、東京電力の記者会見記事が掲載されて
 いる。
・給水ノズルというのは、原子炉圧力容器のなかに冷却材(水)を送り込む重要な”入口”
 だが、このノズルは運転中に配管を通って流入してくる冷たい水と炉内の熱い水に同時
 にさらされるので、設計が難しいことで有名なノズルの一つである。
 事故を起こした給水ノズルには、GE社が当時標準的に採用していた「ルース・タイプ」
 のサーマルスリーブというものが取り付けられていた。 
・しかし結局は、当時の設計者が、隙間からの冷却水流入も考慮して非定常温度分布を解
 析し、さらにそれにもとづいて熱応力や熱疲労の検討をおこない、その結果この構造を
 「問題なし」と判断したに違いない。
 問題なしとは、30年ないし40年の使用に十分耐える、という意味である。
 しかし実際には、運転開始からわずか6年で熱疲労事故が起きたのである。
 おこなわれた詳細応力解析は現実とはまったくかけ離れたものであったといわざるをえ
 ない。
・この事故と関連して述べておかなければならないことは、事故が起こる数年前に、すで
 に製造メーカーの設計者はこのルース・タイプのサーマルスリーブには見切りをつけて
 いたことである。
・ここから一つの大きな問題が見えてくる。
 事故が起こる数年前に、給水ノズルの基本構造が一変したにもかかわらず、それが福島
 第一原発の1、2、3号機などの古い原発の「構造見直し」につながらなかったという
 事実である。
・原子炉圧力容器のなかで特に高い安全性、信頼性を要求される給水ノズルの構造が変更
 されたことは、電力会社も国も当然知っていたはずである。
 にもかかわらず、古い原発に何も具体的な手が打たれなかったのである。
 放置されたのである。
 国や電力会社の怠慢といわざるをえない。
 そういうなかでの福島一号機のトラブルであり、それは起こるべくして起こったものと
 しかいいようがない。
・今日の新しい技術を誇り、原発の安全性を強調するのではなく、その新しい技術で古い
 原発の安全性を見直すことこそ、電力会社と国にあずけられた基本的な仕事のはずだ。
  
・1977年3月、定期検査中だった中国電力島根原発一号機(運転開始1974年3月)
 の制御棒駆動水戻りノズルの内表面に、長さ20センチ、深さ約2センチのひび割れが
 あることが発見された。
 原因は「温度変動による熱疲労」と断定された。
 熱疲労とは、熱応力の繰り返しにより金属が疲労し、ひび割れや破断を起こす現象であ
 る。
・この事故もまた、運転開始からわずか3年で起きている。
 というより、発見されたのが3年後で、実際にはもっと早期にひび割れが発生しはじめ
 ていたとも考えられる。
 ノズルの内面で実際に起こっている温度変動はかなり複雑ではあるが、それは詳細応力
 解析のなかでできるだけ現実的に扱われなければならない。
 しかし詳細応力解析によって40年の寿命を保証されたはずのノズルが実際にはまたた
 くまに事故を起こしたわけだから、当時おこなわれた詳細応力解析は「まったく非現実
 的なもの」だったことになる。
・これと同種のひび割れは、同年11月、中部電力浜岡一号機の制御棒駆動水戻りノズル
 にも発見されている。
 営業運転がはじまってから1年半たらずの事故だった。
 事故原因から考えるとそれ以外の原発でも同じ事故が起きていて不思議ではないが、
 それについて特に詳しく調べてはいないので、私自身が知っているのはこの2件である。
・あくまで一般論としていえば、長さ20センチ、深さ2センチという大きなひび割れは、
 魔がさせば、たとえ脆性破壊のような大規模事故の引金に十分なりうるものであろう。
 それほどのひび割れの発生を、詳細応力解析で防ぎえないという事実は、理論主義の限
 界を浮き彫りにしていよう。
 多くの時間をかけ、最新の理論とコンピュータを駆使しておこなわれる詳細応力解析も、
 結局、「その程度のもの」でしかないのである。
・繰り返せば、理論とはその程度のものである。
 しかし国や電力会社の、最近の原発のハードウェア関係のトラブル処理には、あえて危
 ない橋を
 渡ろうとする危険な理論主義が目につく。
    
東京電力福島第二原子力発電所三号機(1985年6月運転開始)が1989年1月に
 起こしたわが国最大級の原発事故、「再循環ポンプ水中軸受けリング破壊事故」も、
 結局はそうした危険な理論主義がもたらしたものと考えることができる。
・私がこれを書いている時点では、まだ、福島三号機事故調査委員会が事故原因を正式に
 発表していないが、いろいろは情報を総合すると、軸受けリングの固有振動数が、冷却
 材の圧力振動(脈動)数と一致して共振現象を起こし、溶接部の形状の悪さとあいまっ
 て高サイクル疲労を起こした、と推定される。
・しかし、この事故に何度か前兆現象があったことは、よく知られている。
 それらの前兆現象のうちのどれか一つに「保守的」に対応していれば、まちがいなくこ
 の大事故を防止することができた。
 その意味で、福島三号機事故の「最大の背景原因」は、溶接形状にではなく、前兆現象
 への対応にあったといわざるをえない。
・福島三号機もそうだったが、最近の著しい傾向は、中古原発の重要機器や重要部品に発
 生するひび割れに対して、国や電力会社が異常なほど”寛容”であることだ。
 機器や部品の一部にひび割れが存在すること、あるいは存在する可能性があることを十
 分承知の上で、原発の運転を継続するのである。
・問題はなぜそれほふぉまでに寛容なのかだが、ひとつにはもちろん、稼働率を下げたく
 ないという電力会社側のお家の事情があるだろう。
 しかしもう一つの要因として、材料中のひび割れの挙動を専門的に扱う「破壊力学」な
 らびにその周辺の学問分野の急速な発展があげられるのではないかと思う。
・1988年、加圧水型原発を支える重要な機器「一次冷却材ポンプ」の「変流翼取り付
 けボルト」というものに、つぎつぎとひび割れが入るという事態が発生した。
 一次冷却材ポンプというのは、大量の冷却材(水)を原子炉圧力容器のなかに送る込む
 ための大きなポンプで、変流翼とは、ポンプ内にあって冷却材の流れの向きをほぼ直角
 に変える役目をするものである。
 重さ数トンにおよぶこの変流翼は、長さ30センチ弱、直径4センチほどのステンレス
 製ボルト20数本で固定されている。
・ボルトのひび割れが最初に発見されたのは、関西電力大飯一号、高浜一号、美浜三号で、
 87年末から88年3月末にかけておこなわれたそれぞれの定期検査時においてである。
 それら3機のボルトを合計するとボルト本数は240本になるが、じつはその80パー
 セントに相当する194本が、ボルト首下にひび割れを起こしていたのである。
・国はこのトラブルに対して記者会見を開き、「割れが認められた箇所はボルト首下部に
 限られており、また破面調査等の結果から、割れボルト外表面から発生した粒界割れで
 あったことから、原因はボルト締め付けなどによる応力腐食割れであると推定された」
 とし、また「変流翼ボルトの健全性」に関しては、「これまでに調査結果が判明してい
 る国内プラントにおいては、当該ボルトの平均的な割れの深さは許容平均割れ深さのお
 おむね三分の一にすぎず、これらの調査データをもとに評価をおこなった結果、当該ボ
 ルトが全数破断にいたるまでに要する運転時間は、運転開始後おおむね15万時間以上
 と推定される」とした。
 そしてこの会見で国は、「当該ボルトの損傷によっては、ただちに安全上問題が生じる
 わけではないが、念のため予防保全の観点から、早期かつ計画的に当該ボルトの点検お
 よび取り替えを実施していくこととする」という考えを示した。
・「ただちに安全上問題が生じることはない」という見解は、再循環ポンプ水中軸受けの
 トラブルに対する専門家の当初の予断と類似しており、それ自体あまり説得力がない。
・が、それはともかく、ここでもまた原発の安全性が、「15万時間」という部品の「実
 寿命時間」(実際の寿命時間)に頼って議論されていることは、とくに注意する必要が
 ある。 
・原子炉圧力容器やそれと同等の重要機器には「三」の安全係数がとられている。
 それはけっして”余裕代”ではなく、理論的に計算される強度計算に対して、理論では計
 り知れない不確実な要素が入り得ることを想定してのことである。
 それに対して、「当該ボルトが全数破断にいたるまでに要する運転時間は、運転開始後
 おおむね15万時間以上と推定される」という議論は、安全係数も何もすべてかなぐり
 捨てた、いわば裸の安全議論といわねばならない。
・もともと機器は、亀裂が入らないように設計されているわけだから、しれが入ったこと自
 体、設計の前提条件をくつがえす”異常なこと”である。
 にもかかわらず、その異常性を認めるどころか、今度は実寿命時間に頼りながら公然と
 「ボルトの健全性」を主張するなどということは、本来あってはならないことである。
 それはいわば荒っぽい「実験感覚の判断」であり、けっして「現実主義的な安全議論」
 と評価するわけにはいかない。
  
<第三部>

原発に象徴されるもの
・おそらく、あのチェルノブイリの事故から日本が学ぶべきもっとも重要なことは、事故
 後ただちに日本の原発推進者によって強調された「構造の違い」でも、「炉の制御性の
 差」でも、「規則違反」でもなく、もっと単純な次の二つにしぼられるように思う。
 一つは、どこから見ても壊れそうにないあの巨大な原発が、一瞬にして瓦礫の山と化し
 たという「事実」である。
 専門家であれば「きわめて確率の低い仮の話」として真面目に取り合わなかったであろ
 う爆発的な大事故が、現実に起きたという事実である。
 原発の象徴、「白いコンクリートの箱が吹き飛ぶような爆発的事故は、原発の建設に先
 立っておこなわれる安全評価」において少しも議論されてはいない。
 もう一つは、本来人が近寄ることのできない現場の危機的状況(クライシス)がいった
 いどうして比較的短期間のうちに鎮静化されたか、である。
・鎮静化には二つの要素がフルに機能していた。
 一つはヒロイズム。
 そしてもう一つは、じつに哀しいことだが、現場作業員の放射能や被曝に対する無知で
 ある。
・「廃棄物処理」「廃炉技術」「クライシス・マネージメント」(大規模事故時の対応)。
 この三つに対する明確な展望をもたぬまま、日本の原発はスタートした。
・エネルギー中毒のような今日のライフスタイルが原発推進者に格好の口実を与え、その
 結果、たとえわれわれが望んだことではなかったにせよ、いつのまにかわれわれは原発
 にかなりの程度依存し、結果的に多くの人間が支えてしまっているという構図があるこ
 とは、否定できないように思う。
 また原発は自動車産業ほど巨大ではないにしても、すでにある程度すそ野の広い産業構
 造を形成しており、原発の関連企業やそこで働く多くの人間にとっては、原発は電気の
 ためというより、いまや生きるための手段そのものになりつつある。
・技術的に解決しえない三重苦を背負った原発。
 しかし、その原発への依存をますます強めようとする今日の社会。
 とすれば、このジレンマのはざまに、可能な限りグローバルな視点から、完全ならずと
 もある程度妥当な解決策を探っていくことこそ、いまわれわれに求められていることで
 はないかと思う。  
 が、イニシアティブをとってその可能性を真剣に小作すべき国や電力会社は、原発を批
 判するすべての声を「反原発」という古典的な枠組みのなかに閉じこめ、現状を正当化
 することにのみ腐心している。
 だがそれは、問題を次世代に先送りする近視眼的な行為でしかない。
・たとえば、日本の場合は原発はすべて海岸に建設されているという特殊性がある。
 大事故を起こせは、大気ばかりでなく、おそらく海流をとおしても、放射性物質を世界
 中にばらまくことになる。  
 このことだけをとっても、原発はすでに一国の問題ではないといえるはずだが、国や電
 力会社は原発見直しの世界的趨勢を無視して、自国民の「豊かな生活」、そしてそれを
 支えるための「エネルギー論」を説いている。
 そして、いまや技術はアメリカを凌いでいる、日本ではスリーマイルやチェルノブイリ
 のような大事故は起こりえない、とし、原発の安全性を喧伝、強調する。
チェルノブイリ原発事故以来、原発推進者によって日ごとに強化されつつある「安全神
 話」は、あまりにも楽観的、非現実的であり、私にはとうてい受け入れることはできな
 い。 
・原発には「安全ならよいのか?」という、もっとも基本的で、もっと長期的な問題があ
 ると思う。
 今日の核エネルギー利用や原発に象徴されているある種の価値を、今後もわれわれは受
 け入れていくかどうかという問題である。
 そしてそれゆえ、原発に異を唱えることは、じつは、みずからの生き方を問いなおすこ
 とであるだろう。

あとがき
・かつて原発の設計に携わった人間が、一転して原発を批判する。
 その心の変化がいったい何によるのかをとわれる読者もおられると思う。
・原発の設計に携わっていたときの私の心の状態を普遍的なものとして主張できるとは思
 わないが、少なくとも私は、じつに恥ずかしいことであるが、原発の建設というものが
 地域社会にどのようなインパクトを与えるのか、一度も考えたことがなかった。
 原発が地域の様相を、あるいは個人の暮らしを一変させることに思いをはせたことは一
 度もなかった。
 今日ほどではないにしろ、1970年代前半当時にも「反原発」はあり、われわれがつ
 くりつつあった原発が住民の批判にさらされていう話は耳にすることはあった。
 しかしそのようなとき私が考えていたことを正直に記すなら、それはせいぜい、原発を
 支えている”高度な技術”を一般の人びとが理解できないからだろう、という程度のもの
 だった。
・普遍的なものとして主張できない、といいながらも、私は、多くの原発技術者の心の状
 態は、当時もいまも、そのようなものであったと思っている。
 組織のダイナミックスは人の心を或る特有の状態に仕向ける。
 批判的な精神は意識下に降り、価値判断は停止し、組織の目的(原発をつくるというこ
 と)に向けて自己超越してしまう。
 そのような状態にあっては、自分がいま何をなしているかを社会というより大きなコン
 テキストに添えて考えることはしなし、またできない。
 組織というのはいつでも個人の心理状態にそのようなマジックをかけるものだ。
 たまたま属した組織が原発の企業だった。あるいは電力会社だった、というだけで、
 人はその日から熱心な「原発推進者」に変わる。
・原発について悩んで会社を辞めたわけではなかった。
 ただ仕事に疲れ、飽きたということでしかない。
 しかし結局は会社をやめたことが大きかった。
・合理主義一辺倒だった私は変わり、原発は日に日に私の心の中で座りの悪い存在となっ
 ていった。  
 原発に関して決定的だったのはチェルノブイリ原発事故の記録映画だった。
・爆発とともに炉心に埋まり遺体すら出てこない原発技師の写真を前に嘆く母親。
 生まれ育った農地と家を追われる農夫たち。
 涙なしには見ることができなかった。
 瓦礫の山のように崩壊した原発。
 原発の設計に携わっていたとき、このような情景は想像すらしなかった。
 大きなショックだった。
 もはや、原発は合理的に弁護する対象ではないと思った。