東北のキリシタン殉教地をゆく :高木一雄

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この本は、今から22年前の2001年に刊行されたもので、江戸幕府が出した禁教令
よる東北地方における布教の状況とキリシタンたちの殉教の状況を書き記したものである。
この本を読むと、想像した以上に東北地方においてもキリスト教が広まっていたことがわ
かる。
東北地方に広くキリスト教が広まるきっかけとなったのは、二つの理由があったようであ
る。一つは、徳川家康が禁教令を出した当初は、まだ東北ではキリシタンへの取り締まり
は行われておらず、京や大坂などのキリシタンたちが東北に逃れてきたこと。もう一つは、
慶長遣欧使節として支倉常長と共にノベスパニヤ向かったルイス・カブレラ・イ・ソテロ
神父
の存在があるようである。
ルイス・カブレラ・イ・ソテロ神父は江戸に滞在していたころから東北に伝道士を派遣し
て東北での布教に力を入れていたようである。

私がこの本のなかで一番注目したのは支倉常長に関する記載だ。支倉常長に関する記述を
時系列に拾い出してみると、
・慶長十八年(1613)九月、支倉常長ら遣欧使節が月ノ浦を出帆
・元和六年(1620)八月、支倉常長帰国
・元和八年(1622)七月、「支倉六右衛門常長」が死去(五十二歳)(光明寺)。
 一説によると信仰は捨てたらしいが、フランシスコ・バラハス神父が終油の秘跡を授け
 たという。
・寛永十四年(1637)七月、「支倉常頼」の召使い与三右衛門と妻きりが吊し刑
・寛永十六年(1639)十月、「支倉常頼」の信仰が発覚。
・寛永十七年(1640)三月、「支倉六右衛門常長」の嫡男「支倉常頼」と「支倉常坊」
 が斬首刑

元和八年(1622)七月、支倉六右衛門常長が死去(五十二歳)(光明寺)。そして、
「一説によると信仰は捨てたらしいが、フランシスコ・バラハス神父が終油の秘跡を授け
た」と記されていた。また、寛永十六年(1639)十月、ジョアン・バプチスタ・ボルロ神
父の白状で支倉常頼(支倉常長の長男)の信仰が発覚したということも記されていた。
この記述を見ると、支倉常長は処刑されたわけではなかったようだ。ただ常長死亡の十八
年後に、常長の息子二人が信仰が発覚して斬首刑にされている。これはおそらく、息子二
人は伊達藩の自分たちの父親に対する理不尽な扱い方を見て、もはや主君に対する信頼が
持てなくなっていたからではなかろうか。主君よりキリスト教を信じたのだろうと私には
思えた。
ところで、この本では支倉常長の墓は光明寺となっている。ただ、この本の中に「仙台領
内のフランシスコ会士たちは黒川郡黒川の支倉六右衛門屋敷などを転々としていた」とい
う記述がある。これから推察すると支倉常長は帰国後、黒川郡黒川に住んでいたというこ
とになるのではないか。ということは、支倉常長は帰国後、現在の大郷町辺りで隠居生活
を送ったという説
も有力と言えるのではなかろうか。

前に読んだ関連する本:
侍(支倉常長伝)
高山右近
鉄の首枷 小西行長伝
イザベラ・バードの旅


はじめに
・奥羽の地へ最初にキリスト教をもたらしたのは天正十八年(1590)八月に豊臣秀吉
 の奥羽仕置に従ってきたキリシタン武将やキリシタン武士たちであった。
・会津四十二万石領主となったキリシタン大名蒲生氏郷には何人かのキリシタン家臣が従
 ってきた。だが、宣教師や修道士、同宿などを招いて布教した形跡はない。
・天正十九年(1591)二月に、キリシタン大名織田信雄が二ヶ月間出羽国湊城安東
 実季
に預けられた。
・慶長六年(1601)にもキリシタン大名大友義統が五人のキリシタン家臣を伴い約一
 年間安東実季に預けられた。
・慶長十四年(1609)二月、キリシタン大名筒井定次が約六年間、盤城国平城下の長
 興寺に蟄居させられていた。  

・慶長元年(1596)津軽国堀越城津軽為信が京から帰る時一人の同宿(伝道士)を
 連れてきた。しかしあまり詳しい記録は残されていない。
・慶長十三年(1608)初代院内山奉行となった人見九右衛門がペテロという人物であ
 ったならば約200人をキリシタンに導いた。彼は宇喜多秀家の旧臣であり、伏見のキ
 リシタンであったという。
・慶長十七年(1612)早々、江戸キリシタン寺のルイス・カブレラ・イ・ソテロ神父
 から伊達政宗領内に遣わされた五人の同宿(伝道士)の活躍はすばらしい。
・元和年間、江戸幕府のキリシタン禁教令により多くのキリシタンたちが奥羽の地へ逃れ
 てきた。 

奥羽地方キリシタンの伝来
・蒲生氏郷は、弘治二年(1556)蒲生賢秀の子として生まれ、天正十三年(1585)
 高山右近の勧めにより大坂でイエズス会ニエッキ・ソルディ・オルガンチーノ神父から
 洗礼を受ける。二十五歳の時であった。
・天正十八年(1590)八月、奥州仕置きにより、大崎・葛西領を接収して会津黒川城
 に入る。
・天正十五年(1587)六月、南部領二戸郡の宮野城主九戸政実が反乱を起こしてしま
 った。それには久慈城(九戸郡)、櫛引城(三戸郡)、上北城(七戸郡)一戸城(二戸
 郡)、それに大里城(鹿角郡)、大場城(鹿角郡)などの城主も加担していた。
  
・フランシスコ会士が初めて奥羽の地で布教を始めたのは慶長十八年(1613)七月に
 伊達政宗が江戸のキリシタン狩りで六月に小伝馬町牢に入れられたルイス・カブレラ・
 イ・ソテロ神父に代えてボナベンツラ・ディエゴ・イバニエス神父を仙台領に遣わした 
 ことに始まっている。そして八月に釈放されたルイス・カブレラ・イ・ソテロ神父自身
 もイグナシオ・デ・ヘスス神父と仙台領に来て九月に月ノ浦を出帆するまで活躍してい
 た。
・次は元和四年(1618)六月、ディエゴ・サン・フランシスコ神父が遣欧使節と共に
 マニラに着いて仙台藩主伊達政宗に届けるべく書状や品々を託されて長崎に上陸してか
 らであった。 
・前年の元和三年(1617)マニラから潜入していたフランシスコ・ガルベス神父が託
 されて同宿(伝道士)フランシスコを伴い仙台領に入り、続いて磐井郡大籠村左沢の
 佐藤九郎右衛門屋敷に約二年間滞在して布教したからである。
 
ルイス・カブレラ・イ・ソテロ神父
 スペイン国セビリヤの人
 慶長八年(1603)四月来日、
 慶長十一年(1606)大坂、和歌山で布教
 慶応十四年(1609)阿波で布教
 慶長十六年(1611)五月イスパニア国使節セバスチャン・ビスカイーノの通訳とし
 て将軍徳川秀忠に接見、五月には徳川家康に接見する。同年九月、セバスチャン・ビス
 カイーノの通訳として仙台領を旅する。
 慶長十八年(1613)六月、江戸小伝馬町牢に入れらるるも七月に釈放され、八月に
 仙台領へ向かう。そして九月に仙台藩遣欧使節の副使としてヨーロッパに渡る。
 元和八年(1622)八月、薩摩国に上陸するも長崎で捕まる。
 寛永元年(1624)大村で殉教する。(五十一歳)

・フランシスコ・ガルベス神父:
 スペイン国バレンシアの人
 元和四年(1618)八月、同宿(伝道士)フランシスコと江戸を出て十月頃仙台領に
 入る。そして二年間大籠村左沢の九郎右衛門屋敷に留まり磐井地方で活躍する。
 元和六年(1620)末、最上領・会津領で布教
 元和八年(1622)江戸浅草の隠れ家に入る。
 元和九年(1623)秋、同宿(伝道士)ペテロ庄二郎と相模国鎌倉極楽寺村を巡回中
 捕まる。
 元和九年(1623)十月、江戸芝口札ノ辻で殉教する。(四十九歳)

・ディエゴ・デ・サン・フランシスコ神父:
 スペイン国ソリアの人
 慶長十七年(1612)四月、七人の同僚と共に来日、長崎へ送られるも、逃れて江戸
 浅草の隠れ家やシモン佐兵衛の屋敷に匿われる。
 元和元年(1615)三月、江戸浅草で捕まり小伝馬町牢に入れられる。
 元和二年(1616)八月、相模国浦賀湊に滞在中のイスパニア国答礼使節サンタ・カ
 タリーナ神父によって救出されメキシコへ向かう。
 元和三年(1617)十月頃、メキシコで遣欧使節一行のルイス・カブレラ・イ・ソテ
 ロ神父と会い日本の教会事情を告げる。
 元和四年(1618)四月、遣欧使節と共にマニラに到着する。六月に再び日本に上陸
 するも長崎で一年間療養する。
 寛永三年(1626)四月、出羽国酒田湊に入る。
 寛永六年(1629)長崎へ帰る。
 寛永八年(1631)再度最上領へ来るも寛永十一年(1634)以降消息は不明のま
 まである。

・イグナシオ・デ・ヘスス神父:
 スペイン国で生まれるも生年月日はわからない。
 慶長十六年(1611)五月、相模国浦賀湊に上陸、駿府で徳川家康に会う。
 慶長十八年(1613)八月、釈放されたルイス・カブレラ・イ・ソテロ神父と仙台に
 向う。そして九月に仙台藩遣欧使節と共に月ノ浦を出帆する。
 元和元年(1615)六月に再来日するも元和二年(1616)八月答礼使節サンタ・
 カタリーナ神父とともに帰国する。
 寛永五年(1628)スペイン国で亡くなる。

・ブナベンツラ・ディエゴ・イバニエス神父:
 スペイン国で生まれるも生年月日はわからない。
 慶長十六年(1611)五月、相模国浦賀湊に上陸、江戸で第二代将軍徳川秀忠に接見、
 駿府で徳川家康に会う。そしてイスパニア国使節セバスチャン・ビスカイーノに随行し
 て仙台領へ赴く。
 慶長十八年(1613)七月、ルイス・カブレラ・イ・ソテロ神父の入牢で遣欧使節に
 同行のため仙台領へ来て布教する。その後、九月に月ノ浦を出帆する。
 今のところ死亡年月日は不詳である。

・フランシスコ・バラハス神父:
 スペイン国マドリッドの人
 元和五年(1619)七月、五人の同僚と共に来日
 元和六年(1620)仙台領へ行きフランシスコ・ガルベス神父と交代し、磐井軍大籠
 村を拠点に黒川郡や加美郡、栗原郡、伊具郡、亘理郡方面を巡回する。
 寛永十六年(1639)十二月、仙台市中大友文九郎宿守の甚内宅で捕まる。
 そして江戸小伝馬町牢に送られる。日本命を孫右衛門と言った。
 寛永十七年(1640)江戸芝口ノ辻で火刑となる。

・ディエゴ・デ・ラ・クルス・デ・パロマレス神父:
 スペイン国カステリヤの人
 元和五年(1619)七月、五人の同僚と共に来日
 元和六年(1620)秋、江戸から会津・最上地方を巡回
 寛永三年(1626)、江戸から川越、沼田、桧枝岐、会津、仙台、最上方面を巡回す
 るも寛永九年(1632)以降は消息は全く不明である。
 (一説によると、寛永十二年(1635)十二月、会津領耶麻郡野辺沢の隠れ家、横沢
 丹波方で捕まり、十二月に会津城下の薬師堂河原で吊し殺された異人のことではなかろ
 うか)(四十八歳)  

・フランシスコ・デ・サン・アンドレス神父:
 スペイン国カステリヤの人
 寛永三年(1626)五月、出羽国酒田湊に上陸、仙台領でフランシスコ・バラハス神
 父を援けるも最上、庄内、由利地方で活躍する。
 彼も寛永九年(1632)以降の消息は全く不明である。

・ベルナルド・デ・サン・ホセ・オゾリオ神父:
 スペイン国トレドの人
 元和九年(1623)五月、十人の同僚と共に薩摩国に来航し、八月に長崎に上陸
 寛永三年(1626)四月、出羽国酒田湊に入る。一年間鶴岡を中心に布教する。
 のちに山形郊外の中野村休庵宅を隠れ家として庄内、最上地方で十三年間活躍する。
 寛永十六年(1639)捕まり江戸小伝馬町牢に送られた。
 寛永十七年(1640)江戸芝口の辻でフランシスコ・バラハス神父と共に火刑となっ
 た。別名ベルナアルドウ市右衛門と言われていた。(四十八歳)
 
・イエズス士が初めて奥羽の地で布教を始めたのは元和元年(1615)三月に日本語の
 上手なジェロニモ・デ・アンデリス神父が奥州布教長として江戸から津軽国へ旅行した
 ことであった
・慶長十九年(1614)に仙台藩主伊達政宗が大坂に出陣した際に、その中に鉄砲隊長
 として熱心なキリシタンの「後藤寿庵」がいた。
 後藤寿庵は、ジェロニモ・デ・アンデリス神父に会い奥羽の地に来るように願った。
 元和元年(1615)四月、ジェロニモ・デ・アンデリス神父は仙台市中の後藤寿庵屋
 敷に入り十八日間滞在。その後、約四十日間見分(水沢市)の後藤寿庵や染みに滞在し
 た。続いて、久保田領、津軽領などを巡回してしばらく仙台領で活躍していた。
   
・ジェロニモ・デ・アンデリス神父:
 イタリア・シチリア島の人
 元和元年(1615)三月、仙台藩兵に混じって大坂より江戸に入り三人の同宿(伝道
 士)を連れて奥州に向う。途中、会津猪苗代城下に修道院を設立。
 その後、仙台に十八日間、見分に四十日間滞在して久保田領仙北地方に入り羽州街道を
 経由して津軽国に入り流人のキリシタンを慰問する。  
 元和四年(1618)夏、蝦夷地訪問、
 元和五年(1619)夏、佐渡嶋訪問
 元和七年(1621)夏、蝦夷地訪問
 元和九年(1623)江戸町奉行所へ自首する。
 元和九年(1623)江戸芝口ノ辻で殉教する。(五十五歳)
 
・ホアン・マテオ・アダミ神父:
 イタリア・シチリア島の人
 元和三年(1617)、奥羽副地区長として会津猪苗代修道院に常駐
 元和七年(1621)、越後国と佐渡国を巡回する。
 寛永四年(1627)、江戸に逃れ、更に大坂から長崎へ逃れた。
 寛永十年(1633)、長崎で殉教する。(五十七歳)
 
・ディオゴ・デ・カルワリオ神父:
 ポルトガル王国コインブラの人
 元和三年(1617)、京に三ヶ月間滞在してから奥羽副地区長として仙台領に入る。
 元和五年(1619)、津軽国に流人を慰問
 元和六年(1620)六月、蝦夷地を訪問
 元和八年(1622)、出羽国酒田と久保田を訪問
 元和九年(1623)夏、蝦夷地を訪問、十二月に仙台領見分から逃れて下嵐江銀山で
 捕まる。
 元和九年(1624)仙台城下広瀬川で殉教する。(四十六歳)
 
・ジョアン山修道士:
 摂津国の人
 慶長十九年(1614)、マカオへ追放される。
 元和六年(1620)、日本へ帰り会津で活躍する。
 寛永六年(1629)十一月に捕まり会津城下芝原の野島牢に入れられる。そして更に
 江戸小伝馬町牢へ送られる。
 寛永十年(1633)、牢内で穴吊りの刑により殉教する。(六十七歳)

・フランシスコ・ポリドリーノ神父:
 イタリア・ローマの人
 来日年月日は不詳である。
 寛永二年(1625)以来、ディオゴ・デ・カルワリオ神父の後任として仙台領で活躍
 する。
 寛永十年(1633)十一月、病死する。(五十七歳)

・ジョアン・バプチスタ・ポルロ神父:
 イタリア・ミラノの人
 寛永七年(1630)、奥羽副地区長として仙台、筆甫、二本松、白河、会津方面を巡
 回する。
 寛永十五年(1638)、幕府から仙台藩に捕縛命令が出されたため仙台藩宗門奉行
 石母田大膳に自首する。
 寛永十六年(1639)江戸の小伝馬町牢に送られ牢内で凄まじい拷問により一旦は転
 んだとされ小日向の井上筑後守下屋敷に収容される。だが、一、二年後に牢死したらし
 い。おそらく毒殺であろう。
 
・マルチノ式見市左衛門神父:
 肥前国有馬の人
 慶長十九年(1614)十月、マニラへ追放される。
 元和六年、日本に潜入する。
 元和七年、江戸から奥羽各地を巡回
 元和八年(1622)南部領に入る。
 寛永二年(1625)、久保田領や津軽領を巡回する。
 寛永十五年(1638)、仙台領で捕まり江戸に送られる。
 寛永十六年(1639)、小伝馬町牢で拷問により転んだとされ小日向の井上筑後守下
 屋敷に収容される。だが、一、二年後に牢死したともあるが、毒殺ではなかろうか。 

・ペトロ・カスイ岐部神父:
 豊後国浦辺の人
 慶長十九年(1614)十月、マカオに流される。
 寛永七年(1630)マニラ経由で薩摩国坊ノ津に上陸
 寛永十一年(1634)以来、仙台領見分を中心に活躍する。
 寛永十六年(1639)二月、水沢城下の三宅藤右衛門宅で捕まり江戸の小伝馬町牢に
 送られる
 寛永十六年(1639)牢内で穴吊りの刑により殉教する。(五十二歳)
 
・アウグスチノ会士が初めて奥羽の地で布教を始めたのは寛永三年(1626)五月に、
 フランシスコ・デ・テレロ神父が二年間米沢周辺で活躍したことであろう。だがあまり
 詳しい記録は残されていない。
 
・フランシスコ・デ・テレロ神父:
 スペイン国リオハの人
 寛永三年(1626)、出羽国酒田湊に入る。トマス茂助の家に入り山形に向う。さら
 に米沢の隠れ家に入り約二年間二百人の信者を任される。彼は日本語があまり上手では
 ないため同宿(伝道士)ペトロ沢口九兵衛と行動を共にしていた。
 寛永五年(1628)に長崎へ戻ったものの寛永六年(1629)十月捕まってしまい
 入牢したが、さらに大村牢に移されてしまった。 
 寛永九年(1632)、長崎で殉教する。(四十二歳)
 
・ドミニコ会士が初めて奥羽の地を往来したのは寛永三年(1626)五月に出羽国酒田
 湊に上陸したドミンゴ・イバニエス・デ・エルキシア神父である。だが定住して布教し
 た形跡がないため詳しい記録は残されていない。

・ドミンゴ・イバニエス・デ・エルキシア神父:
 スペイン国パンプロナの人
 寛永三年(1626)、出羽国酒田湊に入る。そしてしばらく山形、米沢に滞在してい
 たが、寛永四年(1627)会津、桧枝岐、沼田などを経て北国街道を経由し長崎へ帰
 っている。
 寛永十年(1633)長崎で殉教する。(四十四歳)
 
・ホアン宮崎神父:
 肥前国長崎の人
 肥前国長崎の人
 元和六年(1620)八月、遣欧使節・支倉六右衛門常長一行と共に仙台領牡鹿半島の
 荻ノ浜(石巻市)に上陸した。
 ところが仙台藩ではキリシタン禁制を強化したため活躍する余地もなく間もなく長崎へ
 去ってしまった。
 寛永十年(1633)八月、捕まり、穴吊りの刑で長崎で殉教する。
 
奥羽諸藩とキリシタンの殉教
(津軽藩)
・元和三年(1617)津軽藩の記録によると、この年イエズス会ディエゴ結城神父は京
 から陸路二十日から三十日かけて津軽国へ来てミサをたてた。
 その頃、津軽国のキリシタンは百人以上であり、京、大坂の流人が二団体と改宗者が青
 森新田などに三団体あったとしている。
・元和三年(1617)五月、流人のキリシタン医師マチヤス休庵は人々に教えを勧めた
 ため弘前城下の博労町牢に入れられた。それと同時にレオ土手と妻マリアの二人、それ
 に改宗者のキリシタン三人も入牢した。
・元和三年(1617)七月医師マチヤス休庵と妻アンナ、レオ土手と妻マリア、レオ重
 助、ミカエル仁兵衛の六人が処刑された。
・寛永二年(1625)十一月、大和国の人トマス助左衛門が斬首された。
・寛永二年(1626)十二月、播磨国の人イグナチオ茂左衛門が斬首された。
・寛永三年(1626)津軽領内のキリシタン十一人が同じく博労町牢に入れられた。
・寛永五年(1628)五人が斬首された。
・寛永六年(1629)青森新田で五人のキリシタンが転び流入の五人も転んだ。
・寛永十五年(1638)七十三人が処刑された。
・寛永十六年(1639)イエズス会マルチノ式見市左衛門神父が仙台領内で捕まり江戸
 小伝馬町牢に送られた。その時、拷問によって津軽領内のキリシタン十名を白状してし
 まった。 
・寛永十七年(1640)一人が処刑された。
・寛永十八年(1641)津軽藩典医南条泰庵が捕まり今泉長兵衛も江戸に送られた。だ
 が寛永二十年(1643)転んでしまった。その年、伊勢国の五左衛門が捕まり博労町
 牢に入れられた。
・寛永二十年(1643)伊勢国の人五左衛門が斬首された。

・キリシタンの処刑は第三代藩主津軽信義の時代が最も酷く小人数の斬首の場合は博労町
 牢内の御用場で行われていた。
 火焙りの刑や磔刑の場合は岩木川畔の駒越の渡し場あたりで行っていた。すなわち博労
 町牢から曳き出され市中を引き回された上、弘前城の北西で大浦城址へ抜ける鰺ヶ沢街
 道沿いであった。そこには人々の往来も激しく見せしめのために行われたのであった。
 
(南部藩)
・慶長十六年(1611)十月、仙台藩主伊達正宗は来客のフランシスコ会ルイス・カブ
 レラ・イ・ソテロ神父に対して領内でのキリシタン布教を許した。
 そこで慶長十七年(1612)早々、江戸から三人の同宿(伝道士)が来て間もなく二
 人が来た。
・やがて彼らは仙台領胆沢郡水沢城下から若柳番所を抜け隣の久保田藩仙北領まで来た。
 そして更に横手城下から中世の街道を通り善知鳥川沿いに小松川(山内村)を通り白木
 峠を越えて越中畑(境番所)を抜け、なおも和賀川に沿って沢内街道を湯田、新町、太
 田、川舟を通り山伏峠を越えて盛岡城下へと達していた。そして小さな伝道所を設けた
 らしい。
・その時代、南部領と仙台領との国境には番所があって他国者の往来は不可能に近かった。
 そこで久保田藩仙北地方(山本郡、平鹿郡、雄勝郡)を迂回したわけであった。
・寛永元年(1624)以来、南部領内では小規模なキリシタン捕縛が続いていた。
 そして城下大清水小路の牢に入れられていた。
 その頃の南部藩では他国からのキリシタンはいるが従来かからの領民のキリシタンはい
 ないとしていた。 
 ところが寛永十年(1633)三月和賀郡小山田村の伝右衛門一家三人が発覚した。
・寛永十二年(1635)キリシタン百九十人余りが発覚してしまった。
・寛元年(1624)九月、ディエゴ己右衛門が斬首され、トマス弁左衛門が水死刑とな
 った。 
・寛永元年(1624)十一月、マチヤスとマグダレナ夫婦が正伝寺境内の虎屋敷の柵の
 中に入れられ拷問されたが転ばなかったため斬首された。
・寛永十二年(1635)から寛永十三年(1636)にかけて約百四十人が処刑され一
 人が牢死していた。
・南部藩でのキリシタン処刑はほとんど藩主南部重直の時代に行われたが、少人数の場合
 の斬首は大清水小路の牢か六日町牢の中の仕置場で行われた。
 また多人数の場合は人びとの往来が激しい奥州街道と遠野街道が並行する北上川畔の仙
 北町河原で行われていた。
 すなわち牢から曳き出された一行は八日町ー鍛冶町ー六日町ー石町ー仙北町と市中を引
 き回された上、河原に連れてこられたのであった。
 また処刑者の首を晒した場所は仙北町に面した奥州街道沿いの小鷹であった。 
・寛永二十年(1643)南部藩ではキリシタン詮索のため鹿角郡白根金山を留山にした。
 そのため半年で餓死者が千二百人も出た。
 
(久保田藩)
・久保田藩領でのキリシタン布教は慶長十二年(1607)八月に開発された院内銀山か
 ら始まったらしい。
・慶長十三年(1608)に初代院内山奉行となった人見右衛門がペトロと言う人物であ
 ったならば彼は二百人以上に洗礼を授けていた。
 彼は旧備前国岡山藩の家臣であったらしい。
 その後、熱心の余り追放された。
・その後、ジョヴァンニ太夫というキリシタンが指導者となったが院内銀山では諸国から
 の金掘り達で溢れ返り山小屋千軒、下町千軒といわれ、慶長十七年(1612)時点で
 の人口は三千二百五十四人であった。 
・慶長十七年(1612)隣の仙台領には江戸キリシタン寺のルイス・カブレラ・イ・ソ
 テロ神父から遣わされた五人〜六人の同宿(伝道士)がいた。
 彼等は仙台領水沢城下から若柳番所を抜けたり岩出山城下から鬼首番所を抜けたり、高
 清水城下から花山番所を抜けたりして久保田領へも巡回するようになった。
・元和元年(1617)久保田城下でキリシタン二十人が捕まり羅く丁牢に入れられた。
・寛永元年(1624)隣の仙台藩からキリシタン百人余が仙北地方へと逃げ込んできた。
 それに呼応して久保田藩でもキリシタンの捕縛を命じた。そこで四十二人が捕まり羅く
 丁牢に入れられた。
・元和二年(1616)〜元和八年(1622)の間に8人が斬首された。
・元和九年(1623)正月、シモン与茂佐と平右衛門が斬首された。 
・元和九年(1623)十二月、江戸の人ルイス太郎次とマテオ喜左衛門が斬首された。
・元和九年(1623)十二月、藩主佐竹義宣の側室西の丸(岩瀬御台)の侍女でビセン
 テ萩原三右衛門の妻モニカ岩(二十七歳)が斬首された。
・寛永元年(1626)二月、ルイス右衛門とジョアン喜右衛門が斬首された。
・寛永元年(1624)六月、羅く丁牢にいた四十二人の中、転ばない三十二人が火焙り
 または斬首された。
・寛永元年(1624)六月、久保田城下周辺で捕まった二十五人と院内銀山で捕まった
 二十五人合わせて五十人が火焙りとなった。
・寛永元年(1624)六月、仙北地方山本郡横堀村枝郷寺沢の十四人が処刑された。
・寛永元年(1624)七月、トマス清助、ホアキン志茂田と小シモン仁右衛門、ミゲル
 充之丞が斬首された。
・寛永元年(1624)七月、シモン浪右衛門と妻マリア、ヨハネ松兵衛、アンドレス八
 蔵が斬首された。
・寛永元年(1624)八月、マリアと其一人が斬首された。
・彼等キリシタンの処刑は少人数の場合、羅く丁牢内の御仕置場で斬首さえたが、多人数
 の場合は牢から曳き出されて上肴町、茶町、大工町と人目に晒されながら引き回された
 上、草生津河原刑罰場に到着するのであった。そこは現在の八橋町大道東(旧競馬場)
 であり草生津川に架かる面影橋の近くである。
 それら処刑の様子は、見物に久保田の町からも近郊からも集まってきた人で道路も山も
 広場の周りも一杯であったという。

(仙台藩)
・慶長十六年(1611)九月、ルイス・カブレラ・イ・ソテロ神父は、ボナベンツラ・
 ディエゴ・イバニエス神父と日本人同宿(伝道士)三人を伴い、スペイン国答礼使セバ
 スチャン・ビスカイーノの太平洋沿岸測量に随行して江戸を出立し、十月に仙台城下へ
 と入った。
 そして一行は十月から十一月にかけて約一ヶ月間三陸沿岸に避難港を求めるべく測量し
 て歩いた。
 だが、その間ルイス・カブレラ・イ・ソテロ神父とボナベンツラ・ディエゴ・イバニエ
 ス神父は仙台城下に滞在した。
・藩主伊達政宗は完成したばかりの常駐本丸の大広間にルイス・カブレラ・イ・ソテロ神
 父とボナベンツラ・ディエゴ・イバニエス神父を招いた対談した。
 そして伊達政宗は仙台領内でのキリシタン布教を許した。また市内二ケ所にキリシタン
 寺を建てることも許してくれた。
・慶長十八年(1613)六月、ルイス・カブレラ・イ・ソテロ神父が江戸で捕まり小伝
 馬町牢に入れられてしまった。
・そこで七月に江戸屋敷へ来た伊達政宗はボナベンツラ・ディエゴ・イバニエス神父と会
 い、仙台領へ行くように願った。そのことはルイス・カブレラ・イ・ソテロ神父に代わっ
 てイスパニアやローマへ遣わすことにしたからである。
・ところが七月、第二代将軍徳川秀忠は伊達政宗の依頼によりルイス・カブレラ・イ・ソ
 テロ神父を小伝馬町牢から救出した。
 そしてルイス・カブレラ・イ・ソテロ神父と噂を聞いて駆け付けたイグナシオ・デ・ヘ
 スス神父とは江戸を発ち仙台へと来た。
 そこで三人の宣教師は九月にイスパニアへ出帆するまでの約一ヶ月間キリシタンたちを
 巡回して歩いた。
・慶長十九年(1614)十月、大坂冬の陣が始まった。伊達政宗は兵を率いて大坂へと
 出陣した。それには何人かのキリシタン家臣も従っていたが中でも後藤寿庵は六十丁の
 鉄砲隊を率いて参加している。
・元和元年(1615)三月、大坂の陣中で後藤寿庵に会ったイエズス会ジェロニモ・デ
 ・アンデリス神父と三人の同宿(伝道士)は伊達政宗の兵に混ざって江戸まで来た。
 ところが江戸に着いた仙台藩兵は大坂での事態の急変に急きょ折り返してしまった。
 そこでジェロニモ・デ・アンデリス神父と三人の同宿(伝道士)は江戸を出発して仙台
 城下へと入った。
・元和三年(1617)奥羽副布教長としてディオゴ・デ・カルワリオ神父が仙台領に来
 た。
・元和四年(1618)六月、フランシスコ会日本管区長ディエゴ・デ・サン・フランシ
 スコ神父はマニラで足止めされているルイス・カブレラ・イ・ソテロ神父から託された
 伊達政宗あての書簡やローマ教皇パウロ五世、そしてスペイン国王などからの贈り物
 (ローソクと葡萄酒)などを持って長崎へ潜入した。
・だが健康を損ねてしまい変わって前年に長崎へ潜入したフランシスコ・ガルベス神父に
 依頼した。そこで八月、フランシスコ・ガルベス神父と同宿(伝道士)フランシスコは
 江戸屋敷にいる伊達政宗を訪ねた。
 そして磐井郡大籠村左沢の「佐藤九郎左衛門」屋敷に二年間滞在した。
 彼は仙台藩遣欧使節一行と新イスパニア(メキシコ)へと渡り慶長十九年(1614)
 三月メキシコのサン・フランシスコ教会で洗礼を受けた人物であった。そして元和元年
 (1615)八月頃、仙台領へと帰っていた。
・元和六年(1620)八月、遣欧使節・支倉六右衛門常長一行が帰国した。
 その時ホアン宮崎神父も同行してきた。それらのことは支倉常長が息子の勘三郎に送っ
 た書状によって仙台藩でもわかっていた。
 ところが三日に伊達政宗は家老石母田大膳に命じて三ヶ条から成るキリシタン禁制を公
 布した。
・仙台領内のフランシスコ会士たちは黒川郡黒川の支倉六右衛門屋敷や伊具郡亘理村の医
 師・志仲庵屋敷、仙台市中舟奉行の中村重内屋敷、それに黒川郡石積村、大童村、舞野
 村、沼田村、桧和田村、吉岡村、成田村、渡戸村、長芝村、そして加美郡なども転々と
 していた。 
・元和六年(1620)十月、最上領庄内の人ジョアキム津島と妻アンナ、由利の人トマ
 スともう一人のトマス、それに二人のキリシタンの都合六人が斬首された。
・元和七年(1621)五十人〜六十人のキリシタンを火焙りにしたとある。
・元和八年(1622)七月、「支倉六右衛門常長」が死去。五十二歳(光明寺)。
 一説によると信仰は捨てたらしいが、フランシスコ・バラハス神父が終油の秘跡を授け
 たという。
・元和九年(1623)六月、第三代将軍に徳川家光が就任した。
 そして十二月、徳川家光は伊達政宗を食事に招き領内でのキリシタンについて尋ねた。
 そこで伊達政宗は在所へ一層の取り締まりを命じている。
・その頃、十一月仙台藩ではすでにキリシタンの取り締まりを強化して家老石母田大膳と
 茂庭周防に一任していた。
 そのことは代々伊達家の先鋒を務める白石城主片倉景綱の小重綱へも達せられている。
・元和九年(1623)十二月、見分領ではキリシタン狩りが行われ代表者後藤寿庵屋敷
 が焼き払われてしまった。そこで後藤寿庵など百人余人は仙北街道を久保田藩仙北地方
 へと逃れてしまった。
・元和九年(1624)十二月、マルコ嘉兵衛、と妻マリア、アンドレア掃部と息子パブ
 ロ三九郎、ペテロ金蔵、ルイス新吉が火焙りとなった。
・元和九年(1624)十二月、ジョアン安斉と妻アンナが広瀬川畔で水籠に入れられて
 凍死した。
・元和九年(1624)十二月、マチヤス次兵衛とジュリアノ次右衛門が広瀬川畔で水籠
 に入れられ凍死し、パウロ新蔵が斬首された。
・寛永元年(1624)正月、ディオゴ・デ・カルワリオ神父、レオン藤右衛門、アント
 ニオ五左衛門、マテオ孫兵衛、マチヤス三太夫、マチヤス太郎佐、アンドレア伊右衛門、
 が広瀬川畔で水籠に入れられ凍死した。 
・寛永元年(1624)正月、アンドレア市右衛門と下男ルイス新吉、登米のシモン彦右
 衛門と妻モニカ、その息子一人が広瀬川畔で水籠に入れられて凍死した。
・寛永元年(1624)二月、パウロ金蔵、レオ権右衛門、三宅藤右衛門の三人が処刑さ
 れた。
・寛永元年(1624)十一月、仙台藩家臣黒田平左衛門、フランシスコ孫左衛門、レオ
 ン与左衛門が斬首された。
・寛永十二年(1643)二月、岩城国平藩家臣田中太兵衛が白状したため白石城主片倉
 景長の家臣大和田伊予と大和田主善が発覚した。
・寛永十四年(1637)七月、「支倉常頼」(支倉常長の長男)の召使い与三右衛門と
 妻きりが吊し殺された。
・寛永十六年(1639)二月、仙台藩では裁許所において絵踏みを始めた。
・寛永十六年(1639)十月、ジョアン・バプチスタ・ボルロ神父の二度目の白状で
 フランシスコ・バラハス神父、「支倉常頼(支倉常長の長男)」、田村長門の子二人、
 富塚彌平次の子二人などが発覚した。
 そこでフランシスコ・バラハス神父の逮捕命令が出された。
・寛永十六年(1639)十一月、胆沢郡六日入村の渋谷太郎右衛門が吊し殺された。
・寛永十六年(1639)十二月、大籠村地蔵ノ辻で八十四人が処刑された。
・寛永十七年(1640)三月、「支倉六右衛門常長」の嫡男「支倉常頼」と「支倉常坊」
 が斬首された。
 また渋谷太郎右衛門の妻せつと息子三次が吊し殺された。
・寛永十七年(1640)三月、二十三人が吊し殺され、子供など二十人が斬首された。
・寛永十七年(1640)四月、胆沢郡六日入村合野々の十九人が処刑された。
・寛永十七年(1640)、大籠村上野ノ辻で九十四人、祭畑で二十三人、トキゾー沢で
 十三人が斬首された。
  
(山形藩)
・慶長十七年(1612)早々、江戸キリシタン寺のルイス・カブレラ・イ・ソテロ神父
 から仙台領へ遣わされた五人の同宿(伝道士)たちは笹谷峠、関山峠、鍋越峠などを越
 えて最上領へも巡回するようになった。そこには江戸でのキリシタン狩りが強まると関
 東や京、大坂などからも多くのキリシタンたちが奥羽の地へ逃れて来たからであった。
・最上氏三代に亘る最上・村山地方でのキリシタン布教は至って平穏であり、記録による
 と約三千人のキリシタンがいた。
 元和年間の山形城下は町数が31ケ町、家数が2319軒、人口が1万9796人であ
 った。
・寛永四年(1627)正月、山形領内で小規模な迫害が起こりキリシタン、五、六人が
 追放された。
・寛永六年(1629)八月、老人ジョアキム、それにパウロ彌一と妻クララが捕まり入
 牢した。 
・寛永六年(1630)十月頃、牢内の仕置場で盲女カタリナが斬首された。
・寛永六年(1630)十一月、中野村のジョアキム、パウロ彌一と妻クララが火焙りと
 なった。
・寛永七年(1630)六月、山形領内の三十五人が処刑された。その中の九人が火焙り
 であり二十六人が斬首であった。
・寛永十六年(1639)頃、山形領で二十〜三十人のキリシタンが捕まり入牢した。
・彼らは藩牢から曳き出され市中を引き回された上、馬見ヶ崎川畔の刑罰場に到着した。
・山形市内の善龍寺(市内緑町二丁目)にキリシタンの墓が多いらしい。

(庄内藩)
・古くから庄内地方の中心地は酒田湊であった。
 最上時代の庄内地方におけるキリシタンの布教は慶長十七年(1612)に江戸のキリ
 シタン寺のルイス・カブレラ・イ・ソテロ神父から仙台領に遣わされた江同宿(伝道士)
 たちによって行われていた。
・寛永五年(1628)鶴ケ岡城下の萱場牢の仕置場で戸野口角右衛門が処刑された。
・寛永六年(1629)三月、マテオ孫兵衛、ジョアキムと娘マグダレナ、その子シモン
 とマンショ、そしてジョアキム覚左衛門とその子三人が処刑された。その中の二人は火
 焙りであり七人が斬首であった。
・寛永六年(1629)四月、鶴ケ岡城下で三十人のキリシタンが入牢した。
 牢内では大山のヤコボ六兵衛がひどい拷問で亡くなった。
 同じ頃、坂田城下でも十人のキリシタンが捕まり亀ヶ崎城内の鍛冶小屋の牢内に入れら
 れた。
・鶴ケ岡城下髪谷地刑罰場は、清川街道を江戸に向う途中の赤川の渡し場付近にあった。
・寛永六年(1629)八月、トマス茂助と妻マリア、その子フランシスコと某、リノ彌
 助と妻ウルスラ、その子マセンシヤとスザンナ、そして男子二人が処刑された。
 その中のトマス茂助とリノ彌助の二人は火焙りであり残り八人は斬首であった。
・酒田亀ヶ崎城下の刑罰場は酒田奉行所の反対側であり新井田川を挟んだ小川の傍であっ
 た。
・寛永六年(1629)八月、廃城になった大山でディニシオ与八と妻テクラ、娘コリン
 ダとその男子二人が処刑された。
 その中のディニシオ与八は火焙りであり残る四人は斬首であった。

(米沢藩)
・慶長十六年(1611)九月、イスパニア国使節セバスチャン・ビスカイーノに随行し
 て江戸を発ったルイス・カブレラ・イ・ソテロ神父とブナベンツラ・ディエゴ・イバニ
 エス神父、それに三人の日本人同宿(伝道士)は九月に三日間米沢城下に滞在して仙台
 に向った。だが米沢領で布教した形跡はない。
・寛永二年(1625)家臣のパウロ佐藤亦五郎が斬首された。
・寛永五年(1629)二月、家臣と家族二十九人が順次斬首されていった。
・寛永五年(1628)十二月、城下をはじめ原方衆のいる糠山、新藤ヶ谷、花沢などか
 ら家臣と家族のキリシタンが発覚した。だが家臣の場合は藩牢に入れられないため屋敷
 内で蟄居させることであった。
 そして奉行の広居雲忠佳は家臣や家族のキリシタンに信仰を棄てるように三日間の猶予
 を与えた。
・寛永五年(1629)十二月、イグナチオが斬首された。
・寛永五年(1629)十二月、北条郷宮内村の金七、池黒村のヨハネ美濃、が磔刑とな
 り、二色根村の四郎兵衛が斬首された。
・寛永五年(1629)十二月、盲人ジョアキム皆川庄市が斬首された。
・寛永七年(1630)六月、シモン角谷九右衛門が磔刑となった。
・寛永十二年(1636)十二月、佐藤内匠と妻、その子一人、百姓五人と妻四人、町人
 一人、川原者三人が斬首された。 
・寛永十三年(1636)四月、信達領の市右衛門、クララ、マリアの三人が吊し殺され
 た。
・寛永十六年(1639)四月、佐野原村のジョアン主殿と妻が吊し殺された。
・正保元年(1645)十一月、信達領の長右衛門が斬首された。

(会津藩)
・慶長十六年(1611)九月、ルイス・カブレラ・イ・ソテロ神父とブナベンツラ・デ
 ィエゴ・イバニエス神父、それに三人の日本人同宿(伝道士)は、イスパニア国使節セ
 バスチャン・ビスカイーノに随行して地震で壊れた会津西街道を避け奥州街道白河宿か
 ら会津城下にと達した。そして城下に五泊してから塩川を経て米沢、仙台へと向かった。
 だが領内でのキリシタン布教はなかったらしい。
・寛永二年(1626)十二月、コスメ林主計が城に近い山の中で斬首された。
・寛永八年(1631)十二月、会津城下の黒川河原刑罰場で四十二人が処刑された 
・寛永八年(1631)十二月、会津城下の黒川河原刑罰場で九人が処刑された。
・寛永十二年(1636)十二月、横沢丹波など五人が磔刑となった。
 この頃から刑罰場は薬師堂河原に移されている。
・寛永十二年(1636)十二月、一人の伴天連が火焙りとなった。
 おそらくフランシスコ会ディエゴ・デ・ラ・クルス・デ・パロマレス神父であったろう。
・正保四年(1647)四月五人が処刑された。
 
(二本松藩)
・元和元年(1615)四月頃、イエズス会ジェロニモ・デ・アンデリス神父が猪苗代城
 下に修道院を造った。
 その頃江戸や駿府で始まったキリシタン狩りに多くのキリシタンが会津領へも逃れて来
 た。
・寛永七年(1630)以来、長崎や京、大坂で活躍した日本語の特に上手なジョアン・
 バプチスタ・ポルロ神父が阿武隈沿いの仙台領亘理の医師仲庵宅や筆甫(丸森町)の東
 海林備後宅を隠れ家として仙道地方(福島県中通り地方)までも巡回するようになった。
・寛永八年(1632)十二月、転ばない男女十四人が阿武隈川畔の供中河原で処刑され
 た。その中大人五人は火焙りであり、女・子供は斬首であった。
 
(白河藩)
・そもそも会津藩白河領は蒲生家三代にわたり支城であったため家臣や領民にかなりキリ
 シタンの影響があった。 
・寛永八年(1632)一月、牢にいて転ばなかったキリシタン十三人が処刑された。