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この本はいまから46年前の1977年に刊行されたものだ。
この作品は豊臣秀吉の家臣の一人であった小西行長の波乱万丈の生涯を描いたもので、小
西行長とはどういう人物だったのかが、その心理面から詳細に描かれている。
小西行長は、この時代の武将のなかでは、特段目立った戦果を挙げた武将ではなかったた
め、知名度の高い武将ではなく、史料なども少ないようで、小西行長を取り上げた作品も
少ないようである。

小西行長が他の武将と異なるところは、当時ではかなり異色の人物で、商人から武将にな
った人物であり、しかも切支丹の武将だったところだろう。小西家は堺の富裕な商人の一
族で、行長の父親も堺の商人であった。それが行長の父親がイエズス会宣教師フランシス
コ・ザビエル
が京都に滞在中の世話役になったことがきっかけで、基督教に興味を持ち、
洗礼を受けたようなのだが、その時、幼かった行長も一緒に洗礼を受けたようだ。
そのため、戦は苦手で敗戦の将だったようで、根っからの武将だった加藤清正などからは
蔑まれていたようだ。
しかし、なぜかしら、秀吉からは優遇されたようで、それは秀吉が他の武将にはない行長
の朝鮮などの異国に対する見識や商人の才能である交渉能力を高く評価していただめだっ
たようだ。
そのためか、朝鮮出兵の際に、小西行長は先兵隊の武将として出兵を命じられたが、秀吉
の朝鮮、さらには中国大陸の征服という無謀な命令に対して、次第に面従腹背を取るよう
になるのだ。
この点が、行長と他の武将との決定的な違いではないかと思える。他の武将にとっては、
豊臣秀吉は絶対的な存在であり、その命令に逆らうなどということは考えもしなかっただ
ろうが、小西行長にとっては秀吉は絶対的な存在ではなく、絶対的な存在は唯一キリスト
様のみであったのだ。そのことが、行長が秀吉に対して面従腹背の行動をとることを可能
にさせたのだろうと私には思えた。
ところで、私がこの作品に関心を持ったのは、小西行長という人物に関心を持ったからで
はなく、秀吉の朝鮮出兵に関心を持ったからだった。
どうして秀吉は朝鮮出兵を命じたのか。この作品を読んでも、そのことは明確にはされて
いない。ただ、織田信長も中国大陸への進出の野望を持っていたとも言われ、豊臣秀吉は
信長の夢を継承したのではないかと、この作品では記されている。
いずれにしても、その朝鮮での戦はどのようなものであったのかを知る上では、この作品
は非常に参考になると思えた。
意外だったのは、朝鮮側の兵力だ。日本側の主力の武器は鉄砲だったのに対して、朝鮮側
の主力の武器は弓矢だったのだ。つまり武器に関しては朝鮮より日本のほうが進んでいた
のだ。これはいったいどういうことなのか。
これは当時の朝鮮は中国の冊封体制の下で統治されており、軍事力は明の軍事力に依存し、
独自の軍事力を持たず、いわゆる官僚が支配する国だったからのようだ。
これは現在に置き換えるならば、アメリカの軍事力に依存している日本のような国だった
と言えるのではないかと私には思えた。

過去に読んだ関連する本:
朝鮮戦争
韓国併合への道
臍曲がり新左
利休にたずねよ


堺−序にかえて
・小西行長の一族がそこに住んで十六世紀の堺を空想することのできるものがこの街に二
 つ残っている。一つは今は工場に取り囲まれ、小さな貨客船が浮かんでいる旧堺港であ
 り、もう一つは南宋寺のそばを流れる環濠の跡である。
・十六世紀の堺は、現在の堺市の三分の一にもならぬ狭さだが、その港は現在の旧堺港と
 同じ位置にあり、その形もほとんど変わっていない。
 だから旧堺港の岸にたって旅人は四世紀前、小西一族がここで貿易を営んでいた頃のこ
 の港を空想することができる。
・この海から文明十五年(1483)、幕府の御用船三隻が南に航路をと中国(明)に向
 けて出発した。それらの費用をまかない、その利潤を幕府と共に得ることができたのは
 もちろんこの堺の商人たちである。三年の後、これらの船が無事に帰還した時は、街の
 市民たちはこぞって黒山のように集まって迎えたという。
・遠い中国に対してだけではない。この港からは朝鮮との貿易を求めてしばしば高麗にわ
 たる商人も多かった。琉球へ出発する船もあった。合法的な貿易だけではなく、時には
 倭寇と同じように武装して海に乗り出すものもあった。
・戦国時代の他の大きな町、それは誰でも知っているように、京都を除いてほとんどが宿
 場もしくは領主の城を中心にして作られている。まず城があり、城を守るために濠が掘
 られ、土塁が築かれ、周囲を家臣団が守り、更にその外側に商人たちが住む。町は結局、
 城の附属物にすぎなかったのだ。
・十六世紀の堺はそういう意味では日本的な城下町ではない。むしろその周りに城壁を築
 き、市民全体を守る場所を町と言ったような西欧的な町である。
 商人や町人であるため、そこには領主の城はなかった。   
・小西行長が堺のどこで生まれたか、どのように育ったかを示す確実な資料は現在までな
 い。彼がいつ生まれたかについては確実な証拠はないが、「絵本太閤記」には天正七年
 (1579)に彼が二十一歳であったとのべ、後に朝鮮の熊川城で文禄四年(1595)
 に行長と和議を論じた朝鮮側使者は彼がこの時三十八歳だと語っている。
 したがって、それから推量すると、行長は1558年頃生まれたということになる。
 その名が史書にはじめて出るのは彼が既に青年になってからであり、宇喜多直家と豊臣
 秀吉との調停に加わる時からである。
・にもかかわらず彼の生き方や行動を見る時、私たちはこの堺の会合衆の生きざまと共通
 したものを感じるのだ。会合衆の智慧は行長の人生の智慧の根底になっており、会合衆
 の事の処し方が行長の処し方になっているように思われる。彼の発想法や処世術には会
 合衆だった小西一族の経験や処世術が大きな痕跡を残していると思わざるを得ない。
・海によって富を得た堺。その意味での堺の商人は農村を地盤として成長した土着的な武
 士や地主とちがい「水の人間」であると言える。彼等はそれぞれ年貢を取る所有地を農
 村に持ってはいたが、本質的には堺が生活の場であり、海がその活動の場所であった。
 しかし堺の外で日夜、戦っている武士たちは農村から生まれ、農村に土着し、ただ農村
 を支配することで勢力を張った「土の人間」である。水の人間である堺の住民たちにと
 って、町の外に生きる者は土の人間だった。
 水の人間は土の人間と根本的に相なじむことはできぬ。のみならず商人と町人との共同
 体であるこの町と、農民とその支配者の集団である武士勢力とは、その考え方において
 も対立するものがある。 
・堺の会合衆はそういう意味でも堺の思考法の代表者だった。堺の市民は「土の人間」た
 ちがこの「水の人間」の共同体である堺に乱入し、これを全面的に支配することを望ま
 なかった。会合衆たちはこの二つの対立した人間群にくっきりとした境界線を引かねば
 ならなかった。土の人間たちの侵略を防ぐために。  
・水の人間と土の人間、後年、小西行長と加藤清正との対立に私たちはこの二つの人間の
 相剋を感じざるをえない。
 尾張中村に育った加藤清正は根っからの土の人間である。彼の画像を見るものはそこに
 あくまでも土の臭い、農村の臭いを嗅がざるをえない。土の人間清正は水の人間小西行
 長を生涯理解できなかった。たとえ朝鮮戦争における二人の功名争いや心理的暗闘があ
 ったにせよ、清正の小西に対する憎しみは異常なものがある。それは面貌や風習のちが
 った異民族の増悪を我々に感じさせる。行長の面貌を伝える肖像画が我々の手もとに残
 されてはいないが、たとえそれが手もとになくても土の容貌をした加納清正と根本的に
 対立した顔を思い描くこともできるのだ。
・水の人間たちである堺市民は下克上とそれに続く戦国時代の悽惨な戦いの渦中で町を守
 らねばならなかった。商人であり町人であった彼等は土の人間たちのように武器をとっ
 て他を侵略し、権力をかち取る欲望はなかった。彼等は自分たちの富の集積場である港
 と町とが戦火からまぬがれることしか願わなかった。  
 もちろん彼等は時には権力者に反抗的な姿勢を示すことはあったが、それは偽態であっ
 て、本心はあくまでも中立であり、戦いの圏外にたって、第三勢力となることであった。
・会合衆は水の人間の持つ政治感覚で土の人間である封建領主たちの弱点を見ぬいた。そ
 の弱点とは堺をも戦火にさらし、街を灰燼にすれば、当の領主たちは戦費を調達する経
 済的地盤を失うということである。戦いに明け暮れる相手はその都度、兵を養う軍費を
 必要とする。堺はその軍用金の供給地ともなりうる。したがって堺をたとえ軍事的必要
 から攻めても、それを焼き払うことは領主たちにとっても得策ではない。
・このような不思議な町を我々は戦国時代、他に見つけることはできぬ。都の京都でさえ、
 貪欲な権力者たちによって次々と戦火にさらされている。そういう時代、堺のような中
 立都市が存在しえたのは奇跡だが、しかし、その平和な街は領主たちが莫大な利潤をあ
 げる堺の港を温存したいためであり、もしその港に収益あがらず、商人に富の蓄積がな
 ければ他の町と同様、軍馬に蹂躙されることも明らかだった。そこに中立都市、堺の限
 界があり、この限界を会合衆たちも感じていた筈である。
・小西家はその会合衆に加わる堺の富裕な商人一族である。家の系譜も明らかではないし、
 いつ頃から、どのようにしてここに住みついたかもわからぬ。
・当時フランシスコ・ザビエルからもたらされた基督教にも敏感な小西の一員がいた。行
 長の父ともいわれる隆佐がそれである。
 天文十九年(1550)の暮、九州布教ののち、ザビエルが瀬戸内海を渡って都にのぼ
 ろうとしたとき、その途中、ある人から堺の豪商、日比屋了珪の父に当てた紹介状をも
 らった。この好意を受けて京にのぼることができたザビエルは堺の繁栄にも注目し、マ
 ラッカ総督に商館をこの町に置いて東西貿易の地にすべきことを勧告している。
・ザビエルは都にのぼり、更に日本最大の仏教大学のある比叡山を訪れることを熱願して
 いた。日比屋了珪はその願いを実現するために当時、京にいる小西隆佐に紹介状を書い
 た。その紹介状を携えたザビエルを小西隆佐はおのれの従僕一人をつけて坂本に案内さ
 せた。小西一族が基督教と接触したのはこれがはじめてだった。
・ザビエルが天文二十年(1551)に日本を去ったのち、永禄二年(1559)に宣教
 師ヴィレラたちが豊後から堺に来た。ヴィレタは堺に四年間ほど滞在した。その時、日
 比屋了珪の家族と四十人の市民たちとが洗礼を受けている。隆佐の洗礼の時期は我々に
 は正確にはわからない。
小西隆佐の受洗の動機は何であったか。宣教師たちを手厚くもてなしたとは言え、我々
 は日比屋了珪や隆佐一家を必ずしも宗教心にあふれた堺商人だとただちに断言はできぬ。
 逆に当時の堺商人は現世的で快楽主義者が多かったことは石山本願寺の蓮如上人も述べ
 ている。
・おそらく日比屋了珪や隆佐の受洗の場合も最初は純粋な宗教的求道心からではなく、商
 人としての功利性から発していたと考えるほうが妥当である。堺商人たちはやがて実現
 するかもしれぬ南蛮貿易の利益を敏感に感じていた。
 もともと彼等は貿易商人として異人には馴れている。水の人間として土の人間よりも精
 神の柔軟性がある。自分の土地にしがみつき、その風習や生活をまもり、ともすれば排
 他的な土の人間とちがって彼等堺の水の人間にはより合理的な面があったのだ。
・いずれにせよ、小西隆佐は彼の妻子と洗礼を受けた。もし行長がこの時、父と共に受洗
 したとしても、その年齢からみて彼がこの異国の宗教を心から理解したとはどうしても
 私には思えぬ。 
・それはともあれ、細川、三好、松永たち近畿の群雄をたくみに操り、中立と自治を保っ
 てきた堺が過信におぼれはじめた時、遂にその傲りが破れる日が近づいてきた。
 永禄八年(1565)、松永久秀が将軍義輝を殺し京を占領すると、その弟、義昭は岐
 阜の織田信長を頼って、永禄十一年(1568)、救援を求めた。信長の精鋭部隊は義
 昭を擁して近江六角氏を滅ぼし京に侵入した。久秀はその大軍に怖れをなしてくだり、
 三好氏もまた二派に分裂して京を捨てた。さしたる抵抗もなく都に入った信長は、摂津、
 和泉、奈良に軍用金の調達を命じた。堺にも二万貫という割当てが行われたのである。
・堺の会合衆三十六人はただちに協議した。信長に屈従するか。堺の誇りを守るか。京に
 いる小西隆佐たちとはちがい堺の会合衆は今井宗久たちを除いて信長の実力をまだよく
 知らなかった。 
・会合衆たちは強硬派と和睦派にわかれて談合したが遂に強硬派が結論を出した。信長の
 課税に拒絶の返事を与えることである。
・信長の要求に反抗したのは堺のみである。見透しは一応あたり、信長はその反抗に沈黙
 した。彼は将軍にただ堺に代官をおくことを求めただけで、そのまま岐阜に引きあげた
 からである。堺の中立はまた救われ、会合衆たちは愁眉をひらいた。  
・だが誤算はそのあとからはじまった。信長の弱みを過大視した三好三人衆は敵側にまわ
 った松永久秀が岐阜に信長をたずねた留守に堺に結集し、京都を急襲、将軍義昭を囲ん
 だのである。
・急をきいた信長は折からの大雪をおかして京に進軍した。三次三人衆の軍勢は惨憺たる
 敗北を喫し、本国の阿波に遁走した。頼みとした三人衆が壊滅した以上、堺はもはや街
 を守る武力的背景を失った。堺が集めた浪人の雇兵だけでは信長には手も足も出ない。
 街は混乱に陥り、市民たちは家財を持って逃走する。
・信長は堺の反逆をきびしく詰問した。街も焼き払い、老若男女を撫切りにすると威嚇し
 た。堺は遂に長い自治の誇りを棄てて屈さねばならなかった。
・信長は会合衆をふくむ商人に莫大な年貢を課した。この莫大な年貢に堺は十人の代表者
 を尾張、安土に送り、軽減を哀願したが、怒った信長はこの使者たちを獄に投じた。二
 人だけが堺に逃げたが、これも斬首され、堺、北ノロで曝し首にされた。
・この苛烈な処置はおのれの経済力に自信を抱いていた堺を震えあがらせた。群雄たちを
 あやつって自立と中立を保っていた自治都市、堺の限界がここではじめて露呈された。
 その上、彼等はこの時、同じように矢銭を課せられそれを拒否した尼崎の運命も見ねば
 ならなかった。信長は同じ年の二月に尼崎を攻め、ことごとく街を焼き払ったのである。
・もう堺は従来の会合衆による自治都市ではなくなった。信長の直轄地として、その臣、
 松井有閑に従う町になった。 

商人から軍人へ
・危険な賭けのなかで堺の商人たちはともかくも信長に骰を投げた。彼等は信長と自分た
 ちを結ぶ線を一つには鉄砲という近代的武器を供給することと、もう一つは武器ならぬ
 茶や茶器によって引いたのである。
・鉄砲は天文二十二年(1553)の頃から堺では製造されていた。堺の職人たちは種子
 島から鉄砲を持ちかえった橘屋又三郎から製法を学んだと言われている。堺は信長に軍
 資金と共に鉄砲を供給し、それがやがて天正三年(1575)の長篠の戦で武田王国の
 壊滅をもたらすことになる。 
・商人たちはまた信長の茶道具に対する欲望を充した。茶器は既に戦国の領主たちにとっ
 て土地と同じ価値のあるダイヤモンドに変わりつつあった。信長は堺の名器を買い集め、
 そのすぐれたものを、戦功をたてた家臣に恩賞として与えるようになった。
・流れの速さのなかで小西隆佐は選ぶことの危険を知っていた。まだどちらの側につく時
 期ではない。 
 隆佐がこの時に思いついた方法は、強大な二大勢力に挟まれた弱小領主たちが当時とっ
 た処世術と同じだった。弱小領主たちは家名と所領を守り続けるためには合戦の場合、
 二大勢力の一方だけに味方することをやめ、一族を二分して両陣営にそれぞれ参陣する
 時があった。信州真田氏のように父と子とが敵味方にわかれたような例さえ少なくない。
 こうして一方についた者が敗れても、他方に味方した者が恩賞によって祖先伝来の家名
 と所領を守りえたのである。
・小西隆佐は一方では信長陣営に接近し、他方では宇喜多直家の動向をじっと見ている。
 やがて信長と毛利とが遂に対決せねばならぬ時、この直家の動物的な勘がどちらに転ぶ
 かを知りたかったのである。
・小西隆佐の予想通り信長と中国の毛利とが戦端を開く日がようやく近づいた。石山本願
 寺はそれまで彼等と同盟していた浅井、朝倉を失い、更に信長を脅かす武田の滅亡にあ
 って、遂に毛利元就の孫、輝元に救援を求めざるをえなかったからである。
 天正四年(1576)の夏、織田、毛利の両軍は最初の戦端を開く。毛利輝元は児玉就
 英の率いる三島水軍を大坂に派遣し、石山本願寺に食糧を入れた。これを妨げようとす
 る信長の兵船三百艘は二倍の毛利水軍に火矢、炮烙をあびせられて木津川の河口で惨憺
 たる敗北を喫した。
 毛利水軍の実力をこの時、信長ははじめて知った。近代的なこの男は土における戦いと
 共に水における戦いの重要性を知ったのである。 
・惨憺たる木津川での敗北を喫した以上、信長はやがて毛利との決戦に備えて水軍の強化
 を感じた。だが信長の将兵はその大半が土の人間であり、水の人間ではない。彼等は船
 の操り方も水路も知らない。水の人間として、戦う能力のある者の出現を信長の家臣た
 ちもひそかに待っていたのである。
・宇喜多直家もまた小西隆佐と同じように信長と毛利との二大勢力のはざまにあって選択
 を迷っていた。
・天正五年(1577)、信長は遂に中国征討を決意し、羽柴秀吉を将として播磨に軍を
 進めさせ、一方、明智光秀、細川藤孝に命じて、丹波、丹後に進撃させる。 
 その年の十一月、はじめて秀吉と直家とは上月の城をめぐって戦う。直家は実力のあま
 りに大きな差を骨の髄まで感じたに違いない。十二月、上月城は陥落し、直家は岡山に
 逃げかえった。
・宇喜多直家の動物的な勘はこの戦いで織田、毛利の最終的な対決のいずれに軍配があが
 るかを、予知した。その後彼の挙動は文字通りカメレオン的となる。毛利から出兵を求
 められれば一応は応じ、家臣こそ差し出すがおのれは病と称して出陣しない。やがて秀
 吉軍に申し開きをする口実を作っておくのだ。そのくせ彼は播州に在陣する信長の長男、
 信忠に密使を送り、毛利を裏切ることを申し出る。
・自分の運命を行動に賭けなかった男。謀殺と毒殺と裏面工作でのしあがった男。しかし
 女性的な勘だけは人一倍、鋭かった男。その男はその後もしばらく洞ヶ峠的な態度を続
 けたのち、遂に秀吉に和睦を乞う決心をする。 
・我々はこの宇喜多直家と秀吉との談合の背景に小西隆佐の存在を感じる。隆佐がその一
 人である堺商人は長い間、群雄たちの争いの調停役をやってきた。三好と永松との争い
 を和に導いたのも堺の会合衆である。
 秀吉ももとよりこの和平交渉の前から、隆佐の次男が宇喜多領内にいることを熟知して
 いたであろう。彼にとっても戦わずして宇喜多直家を味方につけ、岡山に進駐するほう
 が得策である。ひそかな裏面工作が宇喜多側はもちろんのこと、秀吉、隆佐側からも行
 われていたと我々は考える。
・いずれにしろ天正七年(1579)九月、小西弥九郎はこの和平の使者として平山に財
 陣する秀吉の前に伺候する。
・我々が和平工作の陰に小西隆佐という影の人物を感じるのは、その後、秀吉が隆佐を側
 近として近づけているためである。たんなる側近というより自らのブレインの一人とし
 て登用している事実は、隆佐の能力をこの天正七年の岡山への平和進駐で認めたことを
 裏づける。そしてこの出来事は隆佐にとっても毛利を見棄てて織田にすべてを賭けたこ
 とを意味している。 
・秀吉の家臣たちはそのほとんどが「土の人間」によって構成されている。秀吉が隆佐の
 子、弥九郎を必要としたのは「その器量抜群なるを心中に甚だ感じた」からだけではな
 い。平山の陣屋での会見で彼はこの傲岸不遜の青年が麾下の「土の人間」たちとちがっ
 た「水の人間」であることを一目で見ぬいたからである。
・信長や家康やほかの武将とちがい譜代の家来を持たず出世した秀吉は周知のように身分
 家門にかかわらず能ある者を抜擢した。信長にもその傾向があったが、その信長が眉を
 ひそめるほど秀吉は有能なる青年を麾下に入れた。加藤虎之助がそうである。石田三成
 も伊吹山麓の寺の小僧だった時、秀吉から小姓に取りたてられた。
・小西隆佐にとっても次男を秀吉の幕下に入れることは今までとちがった関係を織田家と
 結ぶことになった。おのれの子を秀吉に差し出すことで堺の他の商人たちより更に強い
 絆が彼と秀吉との間に生まれたのだ。
・商人から軍人への転向。農民も時には武器をとって戦いに参加したし堺のような商業都
 市でさえも豪商は海賊の掠奪に備えて多少の私兵を所有していた。岡山の商人、弥九郎
 が秀吉の麾下に加えられ、軍人に変身することは必ずしも奇異な出来事ではなかった。
 二十二歳の弥九郎にとっても秀吉の軍人になることが織田の武力に屈した小西党の再興
 するただ一つの方法であったにちがいない。
・宇喜多直家が秀吉に屈した天正七年(1579)、「絵本太閤記」には弥九郎の年齢を
 二十一歳と書いている。その時、同じ秀吉の幕下にあった加藤虎之助(清正)は十八歳
 であり、石田三成は二十歳である。三成は司令部付の士官、清正は福島正則と共に土と
 汗とによごれる最前線の将校であり、そして小西弥九郎行長は堺商人をバックにした海
 上輸送隊の主計士官候補生だったと言える。
・実戦経験者の十八歳の清正が戦うことのない司令部付の石田三成にどういう感情を持っ
 たか、そして土の人間としての清正が商人出身のくせに自尊心の強く行長をどう見たか
 も推測できる。やがて反目し、憎み、争わねばならぬこの三人の宿命の岐路はこの時、
 既にはじまっていた・・・。
・もし高松城水攻めの戦場がなければ多分、行長はいつまでも海上の物資輸送の任につく
 か、主計将校としての仕事しか果たせなかったであろう。だが秀吉が高松城の周辺に巨
 大な人造湖を作り、水攻めを試みた時、行長ははじめて船を操る水の人間としての能力
 をわずかにみせることができた。
・少しずつ、こうして行長は商人から軍人に変わっていく。そして秀吉も行長が彼の家臣
 団のなかで数少ない水軍の指揮者に成長することを望み、その活用の道を考えはじめる。
 行長が他の一門のなかでも新参者であったにもかかわらず、いつの間にか加藤清正をは
 じめとする子飼の家臣と同じスピードで出世していくのもそのためである。
・高松城の水攻めは功を奏し、城内は日ましに糧食、弾薬ともに乏しくなっていった。
 城主、清水宗治はこの戦国時代には珍しい節操のある人物であり、やがて部下将兵の命
 を救うためにこの人口湖上で自刃する。もちろん、その時、本能寺の光秀反逆のこと、
 信長の横死を宗治は知らない。
 念仏を唱えて城の虎口から船に乗り、秀吉の陣前に漕ぎ出させるや、そこで切腹した。
 おそらくこの光景を加藤清正も石田三成も小西弥九郎も目撃したであろう。
 三成や清正にとって、特に清正のような男の眼には、この清水宗治の自決は闘う者の最
 終的な美しさとうつった。宗治のように城兵を救うために一人、切腹する行為に秀吉側
 も礼をもってこれを見ているほど感動したのだ。
・だが城をかこむ秀吉軍のなかで味方と共にこれを目撃したであろう小西弥九郎だけは少
 なくとも基督教の受洗者だった。彼の信仰はまだ眠ってはいたが、少なくとも自決がこ
 の宗教で禁じられていることは知っていた筈である。
 弥九郎行長が清水宗治の自決の光景を眺めながら何を考えたかは、いかなる野史さえも
 語っていない。しかし商人から闘う者に転向してまだ三年にもならぬうちに、彼は軍人
 であることと切支丹であることの矛盾を、考えねばならぬ場面にぶつかった。
 この問題はおそらくこの時、彼の胸中を去来したにちがいない。もちろん彼にはやがて
 京の六条河原で鉄の首枷をはめられ、信者として宣教師にも会わされず、はずかしめら
 れた死をとげねばならぬ自分の死を、この清水宗治の最期から予想することはできなか
 っただろうが・・・。
  
主計将校の孤独
・人間の一生には一度はまたとない好機が来る。そういう俗的な言葉を笑う者も、天正十
 年(1582)六月二日の本能寺の変の報を備中松山城で幸運にも毛利側より先に得た
 秀吉を考える時はこれを否定することはできぬ。
・「殿が天かをとらるる好機到来」
 参謀だった黒田官兵衛が秀吉の耳もとにこの時、そう囁いた。この智慧者にそう言われ
 なくても秀吉も瞬間、同じ思いをしたにちがいない。
・同じ思いは秀吉麾下の家臣たちの心にも起こったであろうが、ここに家臣たちとはやや
 事情の異にしながら胸震わせたであろう一人の商人がいる。弥九郎の父、小西隆佐であ
 る。
・秀吉がもし信長にかわって「天下をとれば」その恩恵に浴するのは秀吉直属の家臣や麾
 下に加わった武将たちだけではなかった。武将たちがたがいに戦功によってその恩賞を
 求めるように堺の商人たちの間にも眼にみえぬ暗闘があった。
・天正十年(1582)六月、確かにそれは秀吉にとってと同じほどに小西隆佐にも幸運
 な日だった。秀吉はその翌日、高松城主、清水宗治を自決せしめ、講和した毛利氏の動
 きを一日窺うや、急に高松をたち、折からの暴風雨をついてすさまじい速度で姫路に引
 き返す。世に言う「中国大返し」である。  
・小西隆佐はこの秀吉にすべてを賭ける。彼は自らの予感に自信を持っている。彼は早く
 から宇喜多直家の動きによって毛利、織田の勝敗が決まると考え、その予感を的中させ
 たが、この時も秀吉勝利に疑いを持たなかったであろう。
・小西隆佐がこの予感に震えた時、その次男、弥九郎も幸運に恵まれたのである。彼が秀
 吉の家臣となってわずか三年。その主人は今、天下の覇者となるべき機会を思いがけず
 掌中に得たのだ。弥九郎はその主人の幸運についていけばよい。秀吉は「土の人間」で
 はない「水の人間」であるこの若者を今、必要としているからだ。栄達の階段は今、た
 やすく眼前におろされた。戦いらしい戦いもせず、死命を賭けた戦場で功績一つ立てな
 いでこの若者はいまこの階段をのぼろうとする。
・だがすべての幸運がそうであるように、この栄達の道は同時に彼の不幸になる。秀吉の
 近習たち「土の人間」の嫉妬はこの時からはじまるのだ。とりわけ、今日まで最前線に
 たち、命をかえりみず秀吉のために働いてきた加藤虎之助(清正)や福島正則のような
 青年将校たちは自分たちと同じように死命を賭して戦わなかった者の掌中に同じ幸運や
 栄達が入ることを決して悦ばないであろう。土の人間たちは往々にして偏狭である。
 清正と行長の対立は眼に見えぬ形で種がまかれている。
・秀吉が同じ近習でも加藤虎之助や福島正則とちがった任務を弥九郎に与えていたとして
 も不思議ではない。少なくとも弥九郎は秀吉に従って実戦に参加はせず、瀬戸内海に近
 い何処かにあって輜重部隊と情報収集の役を行なっていたと我々は確信をもって推測す
 る。
・輜重撫隊の指揮官は多くの場合、実戦部隊の将校には尊敬の対象にはならぬ。主計将校
 を幼年学校や陸士出将校たちがむしろ軽侮の眼で見たのは日本陸軍の伝統である。いわ
 ば幼年学校や陸士出身の加藤虎之助や福島正則には、生命を賭けた戦場にも出ずに輜重
 部隊の指揮をとる主計将校弥九郎が軍人として考えられなかったとしても当然であろう。
 のちに加藤清正は行長のことを「あれは商人だ」と吐き捨てるように言う。清正にとっ
 て軍人とは白兵戦の猛者でなければならず、敵と一騎打ちをした経験者でなければなら
 なかったからである。事実弥九郎行長はその生涯一度も清正が数多く経験したような白
 兵戦も一騎打ちも行ったことはなかった。  
・輜重部隊の指揮官であることが前線将校たちの軽侮を受けることぐらいは小西隆佐も弥
 九郎もよく承知していたであろう。にもかかわらず直接戦闘に加えられなかった事情は
 秀吉がまだ彼を必要としなかったためであるが、それは形式的にも切支丹信徒として当
 人には幸福であった。なぜならこの時代の切支丹宣教師たちにとって戦争が神学的に肯
 定されるのはそれが「聖戦」である場合のみだったからである。
・輜重部隊の指揮官と主計将校として実戦に参加しえなかった小西弥九郎にその機会が遂
 に与えられた。 
 秀吉は小牧山の戦いが一応終わるや、天正十三年(1585)三月、かねてから考えて
 いた一向一揆との戦いを開始し、弥九郎行長にも出陣を命じたからである。
・一向一揆の戦いは必ずしも宗教戦争だけではない。それは「侍」と「農民」との全面的
 な闘争でもあった。   
 下克上の風潮は侍と農民との境界を曖昧にした。農民たちは武器を持ち、名主、領主と
 争うことで自分たちの力を再認識した。
・信長はこの意識を弾圧し、侍による、侍が農民を支配する天下統一を夢みた。この彼の
 夢に農民が反撥しない筈はない。一向一揆のエネルギーの裏には宗教的闘争と共に侍対
 農民の烈しい対立がひそんでいる。
・秀吉もまた侍による、侍が農民を支配する秩序の恢復を狙っていた。だが秀吉にとって
 一向一揆鎮圧がそのような農民支配の政治的意図を持っていたにせよ、切支丹大名であ
 る小西弥九郎や高山右近におとっては別の意味がそこにあった。即ちそれは異教徒との
 戦いなのである。  
 一応は切支丹である彼等はかねてから宣教師たちがこれらの一向一揆の仏教徒が勝利を
 得れば「勝ちほこった僧兵が畿内の基督教教会をすべて破壊するかもしれぬ」と怖れて
 いるのを知っていた。
・小西弥九郎にとってもこうした宣教師の危惧はおのれの戦争参加を正当化するに充分な
 理由になったにちがいない。行長はまだ本当の信仰に目覚めていなかったが、目覚めな
 かったがゆえに、たやすく自らの行動を正当化できたのである。
・聖戦。異教徒との戦い。かつての十字軍の将兵のように高山右近も小西弥九郎も、この
 戦いの意味をそれ以上に考えはしない。彼等が本当の基督教の意味を理解するのはもっ
 と後になってからであり、神はこのような時、決して人間には語らない。神が本当に語
 るのは左近が秀吉にやがて追われ、行長が関ヶ原の戦いに敗れて鉄の首枷を首にはめら
 れる時なのである 
一向一揆の戦いには秀吉のそれかでの戦いとは本質的に違う一面がある。それは従来
 「人を殺すことは好かぬ」と言い、城攻めにおいて信長のような徹底的な虐殺を敢行し
 なかった彼が、人も動物もことごとく火と鉄とにゆだねよと厳命した。一揆方の千石堀
 城では弟秀長および三好秀次に命じ、敵の城中の火薬庫に火をかけ戦闘員のみならず、
 老幼婦女五千人を焼き殺しにしたのである。
 秀吉は新しい秩序を創るために、最後の強烈な決着をこの大虐殺の敢行でつけようとし
 たのである。
・根来寺のあと雑貨攻めにおいて最も主要な太田城が残った。秀吉はここでも高松城や冠
 山城と同じ戦法、彼の得意とする土木工事と水攻めとを実行した。しかも、その規模に
 おいてはこれら二城の比ではないほど大規模な湖水を城の周囲に作ったのである。城の
 周囲六里を堤で囲み、紀ノ川の水をここに引いたのである。和歌山郊外の鳴神、西和佐
 出水と黒田を結ぶ線がこの人造湖の規模である。秀吉は小西弥九郎に命じ、この大人造
 湖に船を浮かべ城を攻撃することを命じた。
・この小西弥九郎の戦いぶりを秀吉以下全員が堤の上から観戦した。この戦いを見物した
 将兵のなかにはもちろん、加藤虎之助清正や福島正則たちも加わっていたにちがいない。
・水上輜重部隊の指揮官としてこれまで直接戦闘には出なかった男が今、眼前ではじめて
 戦いぶりを見せる。それは清正や正則たち前線将校だった者には格好の見ものであった。
・戦を知らぬ商人出身の男がどのように戦うかを彼等は多少の侮蔑と好奇心で見物したか
 らこそ「たがいに顔を見合わせた」のであろう。土の人間が水の人間に持つ嫉妬と冷笑。
 生命を賭けて戦場を賭けまわってきた現地将校が主計将校に抱く侮蔑感。そうした眼の
 なかに小西弥九郎は曝される。彼は戦う。しかし決定的な打撃を敵に与えることはでき
 ない。なぜならこの太田城は水攻め一ヵ月後に陥落したからである。
・兵士が疲労したので秀吉は退陣を命ずる。清正や正則たちはおそらくうす笑いを浮かべ
 ながら引きあげる弥九郎を見たであろう。
・秀吉子飼の近習将校たちがおのれだけの努力で出世していった時、弥九郎は父や兄や堺
 という一種の共同体の後押しをたえず受けていたのだ。しかも商人から軍人に変わりな
 がら徹底的に軍人にはなりえない男。軍人でありながら同時に商人としての任務をたえ
 ず秀吉から命じられる男。そういう男がおのれの腕一本で功績を立てていく加藤虎之助
 ら近習たちからどういう評価を受けたか想像するに難くない。
・そういう状況のなかでこの秀吉軍のなかに切支丹の高山右近がいることは彼にとって救
 いであった。  
 二人の接触がその前からはじまっていたにせよ、この根来、雑貨の戦いで右近が弥九郎
 にとって救いであったことは我々にはたやすく推測できる。近習出身の青年将校たちと
 肌があわず、その無言の侮蔑をたえず感じている弥九郎にとっては、同じ切支丹である
 という理由だけでもこの年上の右近に友情を求めたことであろう。
高山右近、秀吉の幕僚のなかでこの高槻城主はたしかに特異な存在であった。彼は一時
 の感情や功利的な動機で受洗した初期の切支丹大名とちがい、基督教の信仰を平生のお
 のれの全生活の基準にして生涯、守り続けた侍である。彼は自分が信仰者であることを
 秀吉やその家臣のなかで言葉にも態度にも、はばからずあらわした。
 秀吉麾下の武将たちも右近の切支丹であるゆえに侮ることができなかった。なぜならこ
 の男の山崎の合戦でどれほど勇ましく闘い、賤ヶ岳や小牧の戦場で誰にも引けをとらな
 かったことを皆知っていたからである。
・右近の周囲にはすでに少数ではあるが、切支丹グループともいうべき侍たちが集まりは
 じめていた。信長の娘をもらい秀吉麾下の有力な武将だった蒲生氏郷がそうである。
 氏郷ははじめは右近の信仰を敬遠していたが、この雑貨、根来の戦いの頃はその感化を
 受けて熱心な信徒になっていた。秀吉の参謀だった黒田官兵衛もそうである。
・天正十三年(1585)の根来、雑貨の戦いで行長は同じ宗教を共にする右近や蒲生氏
 郷を陣中に見出した。
 田城水攻めの時、行長はクルスの旗を船にかかげて仏教徒たちを攻撃したという。クル
 スの旗をかかげたというのは彼が右近や氏郷と共にこの戦いを古い基督教のいう「聖戦」
 だと解釈したことを意味する。
・この戦いは右近や氏郷にとってさえもそれまでの戦いとは違う一面があった。
 「人を殺すことは好かぬ」と主張していた秀吉が千石堀城でたてこもる戦闘員のみなら
 ず五千人近い非戦闘員まで焼死させたからである。一向一揆がたんなる城攻めや領主間
 の戦いとちがって思想戦であることを秀吉は痛感していた。それは一向宗による百姓王
 国を願う者たちと侍による、侍の支配する王国を具顕する彼との決定的な闘争だった。
・もちろん千石堀城の戦いには高山右近は加わっていない。彼の軍隊は根来寺を攻撃した
 からである。根来寺は真言宗新義派の本山だが、僧侶たちは自分の手で寺に火をつけこ
 れを燃やした。彼等は争って深い一つの井戸に身を投じて自殺をはかろうとした。
 この時、右近は部下に命じてその一人を救い、着物や食料を与えたという。
  
危険な存在
・日本国の制服は秀吉によって第一段階にすぎなかった。周知のように日本を制圧したの
 ち、彼はそれをステップとして果たすもっと広大な野望を夢のように抱いていたからで
 ある。不幸にして情報不足と誤った認識から生まれたこの誇大妄想ともいうべき夢はさ
 らに軍を進めて朝鮮を先導にして大陸に侵入することにあった。
 野望がいつ頃から徐々にその心に芽生えたかはわからない。かつて信長が中国地方制圧
 の暁にはそれを秀吉に与えようと言った時、自分は唐天竺が欲しいと答えた話や、その
 信長も宣教師フロイスに大陸侵入を洩らしていることからみると信長の夢を継承したも
 のかもしれぬ。
・四国、北陸のこの両戦に小西行長が何をしたのかは、わからない。にもかかわらず、こ
 の翌年の天正十四年(1586)、いささか奇異なことが起こった。小西行長は抜擢さ
 れて小豆島、塩飽諸島および播磨の室津の支配を委せられたからである。
 太田城水攻めに加わったとはいえ、小豆島や塩飽諸島、そして室津まで支配権を附与さ
 れたのは、やはり格別の抜擢だと言わねばならぬ。
 彼と年齢の差もそれほどなくあれほど戦功をたてた加藤清正でさえ三千石にすぎなかっ
 た。清正が行長の抜擢をどのような思いでみたか、想像に難くない。たんなる主計将校、
 輜重士官として蔑んでいた行長が自分より秀吉に遇されたことは決して清正に愉快では
 なかった筈である。
・信長以来の堺の代官だった松井有閑が不正事件を起こし罷免されたという。松井有閑に
 代わって堺の代官となった奉行は、石田三成であり、小西隆佐であった。隆佐は秀吉の
 利益を計るために堺の代表者に任命されたのである。
・堺の代表者として父の隆佐が、瀬戸内海の諸島と室津の領主に子の行長が同じ天正十四
 年に抜擢されたのは秀吉が自己の野望のために二人を一体として使おうとしたことを意
 味している。 
・隆佐も行長も秀吉の当分の行動が朝鮮と大陸制服という大目的のための準備であること
 を既に熟知していた。
 自分たちはこの大目的のためのそれぞれの歯車にすぎぬことも承知していたにちがいな
 い。 
 だが歯車であることは自分の意志を棄てることである。なすべきことと、やらねばなら
 ぬことは、すべて大坂の城塞の暗い部屋で猿のような顔をした男が決定する。
・秀吉が大阪城で宣教師コエリュと会談した際、もし大陸の制服が成功すれば、その時に
 は彼の地に「切支丹の教会を建て、中国人たちを皆、切支丹になるよう命じた後に帰国
 しよう。また日本の半分もしくは大部分を切支丹にさせよう」と語ったという。
 同席した小西隆佐や高山右近は、こうした際の秀吉の大袈裟な表現を知りすぎるほど知
 っていたし、その真意が大陸侵攻に必要な軍船を宣教師の斡旋で手に入れることだけだ
 と見通していた。
 秀吉が宣教師たちを自分の野心や治政に利用できる限りは許し、利用できない以上は冷
 たく棄てるであろうことも右近も隆佐も熟知していた。
・天正十五年(1587)、秀吉は九州に大軍を進めた。口実は島津に突きつけた九州和
 平案の条件に義久が応じなかったためだが、そんな口実など彼にはどうでもよかった。  
 島津攻略が副次的な目的とするならば、この作戦の真の狙いはやがて敢行すべき大陸侵
 攻の予行演習だった。
・秀吉の思惑とは別に宣教師たちはこの九州作戦を「聖戦」とみた。彼等を保護した大村、
 有馬の切支丹領主たちは既に竜造寺隆信によって衰微せしめられ、大友宗麟もまた島津
 のため圧迫されていたからである。
 秀吉の力を借りて切支丹大名たちの勢力をもりかえすことは宣教師たちにとってもこの
 上ない悦びにちがいなかった。宣教師たちが秀吉麾下の切支丹武士、とりわけ高山右近
 の軍勢に祝福を与えたのは、この戦いが同じ信仰を持つ者を助ける聖戦と映ったからで
 ある。
・九州作戦は小西行長にとってははじめてその能力を秀吉から問われた戦いだった。
 勝敗の決まっている島津征伐は二十万の大軍を動員したにせよ副次的なものだったし、
 真の狙いである朝鮮と中国大陸侵攻演習の大作戦ではおびただしい兵糧や馬糧を畿内か
 ら九州まで運ぶことが重要課題だった。
・堺奉行の小西隆佐も石田三成、大谷吉継たちのこの前代未聞の大作戦に必要な軍需品や
 兵糧の補給に当たった。隆佐たちが集めたおびただしい兵糧や軍需品は兵庫、尼崎から
 瀬戸内海をへて赤間関(下関)まで昼夜兼行で輸送され、その指揮をとったのが行長で
 ある。隆佐と行長は文字通り一体となって九州作戦の立役者となった。
・秀吉は輜重輸送の任務が終わっても行長には次々と新しい仕事を与えた。それはまずや
 がての朝鮮上陸のための玄界灘渡航計画の立案とそしてこの九州作戦中に帰順の意を表
 した対馬の宗氏に朝鮮国王の朝貢を交渉させる任務である。行長がこうした特殊任務を
 秀吉から命ぜられたのは、おそらく秀吉家家臣のうちで最も朝鮮通と見なされていたか
 らであろう。  
・秀吉の構想には朝鮮、大陸侵攻には九州切支丹大名たちをできるだけ利用しようという
 考えが含まれていたにちがいない。
・九州作戦は秀吉麾下の切支丹家臣たちにとっては「聖戦」でもあったが、同時に「不安
 な戦」でもあった。秀吉の頭には信長以来のあの一向一揆の執拗な抵抗の思い出がある。
 信心や信仰にもえた庶民たちが団結した場合、権力者にどのような反抗を示すか信長も
 嫌というほど知られた筈である。そのなまなましい記憶が九州切支丹の実体や宣教師の
 過半数の動きをその眼で見ることによって秀吉に蘇らなかったか。
・我々は秀吉がこの九州切支丹について何を見たのか。確実な資料は持たぬ。だが秀吉の
 随行には本願寺光佐や一向宗の実力者、下間頼廉が加わっている。島津攻略にこの一向
 宗門徒の協力があったが、これらの門徒たちはまた反切支丹であることも事実である。
 彼等の切支丹宣教師に対する感情は当然、秀吉の耳にも入ったであろう。
 切支丹門徒の社寺破壊や南蛮船の奴隷買いは当然、訴えられたであろう。更に不幸なこ
 とは大村純忠から植民地のような形で委託当時されていた長崎と茂木とのイエズス会領
 も九州に来た秀吉の眼には一向一揆の武装地域を連想させたであろう。
・当時の宣教師たちにはスペインによる日本占領によって日本を基督教国にする計画を持
 っていた者のいたことは判明したし、それがたとえ宣教師たちの烈しい布教情熱から出
 たとしても秀吉たち切支丹ならざる日本人の眼には日本植民地と映ったのは当然である。
・筥崎を訪れたコエリュが武装したフスタ船を所有し、それを誇示するように秀吉に見せ
 たことは、秀吉の気持ちを甚だしく傷つけたにちがいない。 
 このコエリュを通じて平戸にいるポルトガル船を博多に回送せよとの秀吉の要請を船長
 モンテイロが航海上の危険を理由に鄭重に拒絶したことは、博多を貿易港に復興しよう
 とするこの権力者の夢を傷つけたにちがいない。 
・軍事的にはコエリュのフスタ船を実際に目撃した秀吉は、この二百トンの幾門かの砲を
 備えたアジア製の櫓漕の船が日本の軍船にそれほど勝っていないことを知った。
 また侵攻基地に考えた博多湾が南蛮船を入れるのに不可能であり、船の操作が日本人た
 ちには到底不可能だとポルトガル船長に聞かされた秀吉はその購入の斡旋を宣教師に依
 頼する必要なしと認めたにちがいない。
 要するに秀吉が基督教と宣教師に従来、寛大であったのは、それが九州占領と大陸侵攻
 に役にたつと認めたからであったが、今、その利用価値が失われ、怖れるものがなくな
 った以上、むしろ弊害のほうが浮かび上がり、これを追放することに踏み切ったのだ。
・秀吉は、切支丹、安威五左衛門と小西行長の家臣一名をフスタ船にいるコエリュに送り、
 海岸に連行させて詰問、あわせて二十日以内に全宣教師の退去を命じたせた。
 同時に博多に近い宿舎にいた高山右近にキリスト教を棄てるか、否かの詰問状を出した。
・我々には解きがたい幾つかの謎がそこにある。その謎の大きなものはこのきびしい秀吉
 の処置が切支丹家臣のうち、高山右近にのみ集中したように見えることである。
 秀吉は全切支丹に棄教するよう強制し、拒否する場合は宣教師と共に国外に追放すると
 威嚇したが、実際にはただ、二、三の諸侯に棄教を勧告したにすぎず、黒田や小西のよ
 うな人物には教えを棄てるように仕向けることはなかったという。
・老獪なこの権力者は、神のことは知っているが人間をあまり知らぬ宣教師が誤解したよ
 うに、たんなる怒りによってこの処置を取ったのではなかった。政治家である彼はわが
 身に利益になることと不利益になることの区別は当然、冷徹に計算した上で手を打った
 はずである。
・秀吉は九州征伐の過程で大坂城にいた時には気づかなかったある危険を予感しはじめて
 いた。それはもし切支丹禁制を行なえば宣教師たちが九州切支丹領主たちを連合させ直
 ちに反抗的攻撃を示すかもしれぬということである。
 そしてそのような事態が生じた時、高山右近が宣教師たちの最も頼りになる人物であり、
 反乱の中心に置かれるかもしれぬということである。右近は九州作戦終了後、秀吉にと
 って「危険な存在」になったのだ。
・秀吉の追放令はある意味で麾下の切支丹家臣たちにとって自らの侵攻をためす踏絵であ
 ったが、少なくともその踏絵を前にして敢然と首をふったのは右近だけだったのである。
 
最初の裏切りと魂の転機
・高山右近はこの時、三十六歳である。右近は秀吉麾下の他の切支丹家臣と共に、宣教師
 たちが関白を刺激しないよう、関白に好ましからざる疑惑を持たせぬよう、絶えず気を
 くばってきた。
・秀吉の意図は高山右近にはわかりすぎるほど、わかっていた。求められざる限りは政治
 に介入しないこと、ただ純粋に布教だけを行なうこと、これが秀吉が宣教師たちに要求
 した、ただ一つのことだった。その要求を守る限りでは権力者は宣教師に寛大であろう。
・にもかかわらず、これら切支丹家臣の危惧を気づかぬ宣教師過激派グループが九州にい
 た。副管区長コエリュ、前日本布教長のカブラル、そしてフロイスなどポルトガル人グ
 ループがそれである。彼等はイタリア人グループの穏健派とは異なり、日本を植民地化
 して布教を行なう考えさえ持っていた。
・コエリュは海賊の攻撃を防ぐために武装したフスタ船を持ち、筥崎にいる秀吉を訪問し
 た。武装した船を宣教師が私有していることは、純粋布教のみを望む秀吉には深いと疑
 惑を持たせる無神経な行動である。
 右近や行長は不安にかられ、コエリュに、この船は関白に贈るために作ったものである
 と申し出るように忠告した。だがコエリュはこの意見を聞かなかった。聞かないのみな
 らず、無思慮にも船を博多湾上に浮かべ、関白にそれを誇示した。
・秀吉は中央集権化の確立のためにも戦国時代の領民の私有を極力、排除する必要があっ
 た。家臣たちに恩賞として与える国分け、国替えもその家臣がそこに根をおろし、領民
 を絶対的に私有するという一時代前の形ではなく、いわば「総督」や「知事」のように
 秀吉から委任統治を托しているにすぎないという観点に立っているのである。
・一方、切支丹の右近にとっては領土を持ち、領民を支配することは「神の国」の地上に
 おける具顕だという考えがあった。
 この頃の基督教の国家観は王たる者の義務は神の教えと栄光とをおのれの支配する国に
 あらわすことだという考えが成立していて、この思想は宣教師たちから右近もたびたび
 聞かされていたであろう。信仰に忠実で真面目そのものである明石の領主がおのれの信
 じる理想の「神の国」を領内に実現しようと考えたとしても、それは不思議ではない。
・中央集権を狙い、領主の土着支配をあくまで排除しようとする秀吉と、おのれの信仰か
 ら領土に「神の国」を創ろうとした右近とは、ここで根本的に対立した。
・右近はもはや二度と権力者の道具、一つの歯車になることには耐えられなかった。領主
 という名誉や栄達も結局は秀吉という大権力者の野心を遂行するために与えられている
 にすぎぬ。彼はそれをはっきり知ったのである。権力は肉体を奪えても自由は奪えない。
 彼はおのれの信仰の自由を選択した。数ある切支丹大名のうち、右近ほど純粋な侵攻で
 生きた者を我々は他に知らない。  
・いかなる場合でも弱い人間は自己弁解をする。この時も行長や氏郷たちは「誰かが残ら
 ねば」日本では宣教師や信徒たちはことごとく国外追放になり、それを保護する者がい
 なくなると右近に弁解し、おのれの妥協を正当化したであろう。にもかかわらず彼等は
 右近の烈しい行為の前に、それができぬ自分に後ろめたさと恥ずかしさとを同時に感じ
 たにちがいないのだ。そしてその良心の補償のためにも彼等は右近を保護せねばならぬ
 と思うようになる。 
・右近が博多湾上のわびしい孤島に逃れ、それから瀬戸内海の淡路島に逃れることができ
 たのは、おそらく小西行長のひそかな援助によってであろう。
・一方、右近追放の報を受けた彼の所領、明石は驚愕と混乱の渦に巻き込まれた。家臣た
 ちの家族は家財道具を運ぶ馬車や手押車や小舟を探すために、深夜まで明石の城下をむ
 なしく走りまわった。
・右近の弟、太郎右衛門は教会を訪れ、自分たちは兄のこの行為を悦び、名誉と思ってい
 ると司祭たちを励ました。教会に別れを告げた父子は一族と共に右近の逃れた淡路島に
 向い、長い流転の旅の第一歩を踏み出したのである。
・右近追放の直後、九州の教会は大部分、閉鎖され、破壊された。イエズス会が大村純忠
 から委託されていた長崎、茂木、浦上も没収され、狼狽したこの地方の宣教師は船で平
 戸に逃れ度島で緊急会議の結果、ともかくも可能な限り日本滞在を引き延ばすことを決
 定した。  
・秀吉の命令は畿内に及んだ。有名な京都南蛮寺をはじめ、畿内の全教会は次々と倒され
 た。右近が追放された今、畿内の宣教師たちの頼みの綱は、九州から堺に帰還した小西
 行長だった。神父たちは、ともかく行長の所領である播洲の室津港に集まった。行長
 の保護がほしかったのである。
・だが行長は堺から動かない。彼は怯えていた。それだけでない。この室津の信徒たちま
 でが行長の意向を受けてか、宣教師たちの宿泊を拒絶し、一日も早く退去せよと迫った
 のである。  
 まもなく堺から行長の命を受けて弟がやってきた。これ以上の助力は自分には不可能だ
 から、すぐにも立ち去ることを伝えるためである。まもなく秀吉が大坂に凱旋すること
 を知った行長は、その怒りを恐れていたのである。
オルガンティーノ神父と行長との間に激論がかわされた。おそらくオルガンティーノは
 秀吉の怒りと宣教師の安全を主張する行長にふたたび信仰の決意を促したのであろう。
 にもかかわらず行長の動揺は消えない。神父は遂に自分は九州には決して戻らぬと宣言
 した。自分は殉教を覚悟でふたたび京に戻るか、大坂に帰るつもりだと語った。
 この言葉を聞くと行長は泣きはじめた。彼は右近を思い、今、オルガンティーノ神父の
 不退転の決意におのれの勇気のなさを感じはじめたのである。一言も答えず行長は部屋
 を去った・・・。 
・行長と右近たちは協議の結果、オルガンティーノ神父と右近とは小豆島に隠れること、
 小豆島は行長の領地であり、切支丹の三箇マンジョが代官であるから、二人の居住はあ
 くまで秘密にされ、誰も近づかぬようにすること、を決めた。
・秀吉の野心は止まることを知らない。朝鮮や中国大陸侵略という夢のようなプランさえ
 自分たちの前に示されている。堺出身の行長は、この野心が無謀なことを、その時から
 感じていた。  
・右近が永遠の神以外には仕えぬと室津で語った時、行長は友人とはちがった「生き方」
 をしようと決心した。それは堺商人がそれまで権力者にとってきたあの面従腹背の生き
 方である。表は従うとみせ、その裏ではおのれの心はゆずらぬという商人の生き方であ
 る。
・身のほど知らぬ反抗、無謀な裏切り。いや、必ずしもそうではなかった。行長は関白の
 弱点を知っていたからである。
 言うまでもなく秀吉の弱点、それは国内には通じているが、国外には暗いという点であ
 る。「土の人間」出身の秀吉やその家臣は日本の国内については調べ上げ、知り尽くし
 てはいる。だが国外の情勢や事情については行長のような「水の人間」ほどわかっては
 いないのだ。
・オルガンティーノや行長は関白の望む南蛮貿易が今日まで宣教師の介入なくしては成立
 しなかったことを知っていた。それまで南蛮船で渡来したポルトガル商人たちは日本通
 の宣教師の話をまず聞き、その忠告で取引きに言ってきたからである。イエズス会は南
 蛮船の生糸貿易に投資し、その利益で日本布教費をまかなっている。
・秀吉は今、その宣教師を国外追放し、彼等をぬきにして南蛮貿易の利益を独占しようと
 している。しかしそれを可能にならしめてはならぬ。宣教師がおればこそ、ポルトガル
 商人との貿易も円滑に成立するのだという事実を関白に知らしめねばならぬ。
 そうすればやがて関白は嫌々ながらも切支丹を黙認し、一時は追放しかかった宣教師の
 滞在を許すかもしれぬ。行長やオルガンティーノがこの方法を協議したことはほとんど
 確実といっていい。
・天正十六年(1588)、秀吉は、長崎に入港したポルトガル船から生糸の買占めを行
 なおうとした。生糸投資による収益が日本イエズス会管区の財源であると知ったからで
 ある。この財源を止めるために秀吉は大金を出して生糸のすべてを買い取ろうとしたの
 だ。  
・皮肉にもこの時、この交渉を命ぜられたのは行長の父、隆佐である。
 ポルトガル商人たちには不満きわまるこの交渉が成立したのは、隆佐が宣教師の協力を
 得たからである。秀吉は思い知らされたのである。
・天正十九年(1591)には鍋島直茂や森吉成の代官が「宣教師ぬき」でポルトガル船
 から直接に金の買占めをしようとする。ポルトガル人たちはあくまでもイエズス会の仲
 介を主張してこれを拒否した。秀吉は負けたのである。
・生糸買占め事件に小西隆佐が交渉役になったという事実の背景には秀吉に宣教師たちの
 存在意義と価値を再認識させようとする行長たちの計画を我々に感じさせる。
・はたせるかな秀吉は少しずつ折れはじめた。最初は教会の破壊やイエズス会所領の没収
 を命じていた彼は宣教師の哀願を入れ、その出航を一年待ち、更もそれがうやむやに葬
 られた。明らかに秀吉はマニラやマカオとの貿易では、これら宣教師の援助がなくては
 実行できぬことをさまざまな角度から知りはじめたのであろう。彼もおのれの弱点にき
 づいたのだ。  
・関白は宣教師たちの残留を公然には認めなかったが黙認という形をとりはじめる。
 行長たちは勝ったのである。
 一度は平戸に集まった宣教師たちはふたたび天草、大村、五島、豊後に秘密裡に散って
 いった。 
・室津で行長がオルガンティーノの決意の前に泣いたことは彼の生涯の転機となった。
 彼はこの日から、真剣に神のことを考えはじめるようになる。
  
欺瞞工作
・右近やオルガンティーノ神父を小豆島にかくまったその瞬間から行長は二重生活者にな
 った。面は秀吉に服従するようにしながら、心では自らを守ることをおぼえた。
・小西父子は秀吉の性格がわかってきた。相手を利用できる時には寛大だが、利用できな
 くなった時は冷酷にこれを棄てるという権力者特有の性格である。この性格はそれまで
 かくされていたが権力を握るにしたがって関白のなかに次第に露骨に現れてきたもので
 ある。 
・小西父子の場合も今日まで秀吉が自分たちを引き立ててきたのは一族の持つ水上輸送力
 と財務能力と、そして堺という貿易都市を背景にした財力によるものだと彼等はよく承
 知していた。
・だが九州作戦が終了したあと、秀吉が命じた博多復興の命令は堺商人のみならず、小西
 一族にとって、暗い予感を与えた。
 南蛮貿易はともかく、琉球、朝鮮などとの近隣諸国の貿易で博多や兵庫を抑えていた堺
 を関白は見棄てるのではないかという予感である。
・だがそうした思惑を無視して筥崎に凱旋した秀吉は長らく戦火で荒廃していた博多の復
 興を命じた。その構想のなかでは復興した博多は対朝鮮・大陸作戦の前進基地になる筈
 であり、やがて彼が占領するこれらの国々や東南アジア諸国との貿易中心地になる筈だ
 った。堺にとっては強力なライバルとなる貿易都市が、今、関白の命令で作れることに
 なったのである。 
・堺から博多へという秀吉の移り気はやがてあの隆佐とは別の意味で堺商人の代表者であ
 った利休の断罪によってもはっきり窺える。さまざまな素因はあっても、利休が死を命
 じられた時、秀吉は堺の利用価値をもはや認めなくなったといっていい。利休の死の背
 後には昔日のように堺を必要としなくなった秀吉の計算がかくれているのだ。
・時勢の流れに敏感すぎるほど敏感だった隆佐や行長がこの秀吉の移り気に気づかなかっ
 た筈はない。秀吉から捨てられるために、自分たちが生き延びるための手を打たねばな
 らぬ。彼等はその準備にとりかかった。
・九州国分けでこの地の新領主に任ぜられた佐々成政は、地元の国衆を刺激するなという
 秀吉の指図にもかかわらず、手痛い失敗をしてしまった。彼は国分けを強いられた土豪、
 国衆たちの不満を鎮めるかわりに、支配地に検地を強行した。
 本領安堵の約束を信じていた国衆たちはこの強制に反抗した。肥後は元来、支配者に対
 して反抗する気質の国である。彼等は成政の命令を、認められた自分たちの権利侵害と
 みた。隈部親永が反乱を起こし、他の国衆たちもそれに呼応した。
 成政の手におえぬと見ると秀吉は小早川秀包を将として筑後、肥前の緒将にこの鎮圧を
 命じた。
・関白から失政の責任を詰問された佐々成政は尼崎に幽閉されやがて自決を命ぜられる。
 成政は秀吉にとってかつて柴田勝家と共に、あるいは徳川家康と共に自分に矢を向けた
 相手である。それらの罪をすべてまとめて自決を命じたのかもしれぬ。
・もはや役に立たぬ成政は自決させたが、その兵力や武器は有用である。秀吉は成政の兵
 力と武器をそのままにした。後任領主に与えるためである。兵力、武器を与える以上、
 後任領主は何も有力武将でなくてもよい。それゆえ、関白は信頼できる自参家臣のなか
 から、大陸侵攻に有能な者をここに知行しようとした。
 加藤清正がまず抜擢されたのは、この男が彼にとって最も信じられる子飼の直参であり、
 幼少から陸戦経験で叩き上げた第一線将校だからである。この抜擢には秀吉の正妻で清
 正を我が子のように可愛がっていた北政所の推挙があったと言われる。 
・肥後の北半国を清正の知行地とすると関白は、この直参家臣とはまったく違った能力を
 持った小西行長を南半国の支配者として頭に浮かべた。
 大陸作戦にはおびただしい兵力、兵糧を海をこえて経由地、朝鮮に運ばねばならぬ。そ
 のためにも行長を肥後の南半国におくのは悪くない。のみならず天草の切支丹国衆たち
 を抑えるには、まがりなりにも同じ信仰者の者がいい。秀吉の計算と北政所に対抗する
 淀君の口ぞえで、行長は塩飽、小豆島など瀬戸内海諸島の小領主の地位から二十五万石
 の大名に抜擢されることになった。
・秀吉はこの頃、行長の面従腹背の生き方に気づいてはいなかった。こうして肥後の国は
 ほとんど同年輩でありながら水と油のようにあい合わぬ、違った資質と性格の二人の男
 が背をあわせて支配することになった。
 一方は「土に人間」、他方は「水の人間」。清正が日蓮宗の熱狂的な信者ならば、行長
 は切支丹である。二人はこれまで長い間、秀吉の麾下にありながら決して結び合うこと
 はなかった。清正は行長をひそかに軽蔑し、行長は行長で清正に近寄らなかった。
・行長はかつて宇土一族が拠っていた宇土城の防備的欠陥を補うため、ここに築城を思い
 立った  
 築城の計画が立った時、予想もしなかった出来事が起こった。天草の国衆たちが行長の
 この指令に反して築城の交役を拒絶したのである。二年前、佐々成政が蒙ったと同じ国
 衆の反撃を行長も受けたのである。
 天草の国衆とは大矢野、志岐、上津浦、栖本、天草の五人衆である。
・狼狽した行長はただちに大坂に事態を報告し、関白はこれら国衆の武力弾圧を命じた。
・輸送指揮官の弱点である実戦の拙劣さがここでも露呈した。行長軍の先遣部隊はほとん
 ど全滅状態になり、指揮者の伊知地文太夫は戦死し、敗兵は宇土に逃れた。
 事態はますます悪化し、天草五人衆たちの連合軍の意のままになった。行長はピンチに
 陥ったのである。  
・清正には、行長の天草における敗戦はおのれの優越感を満足させ、相手への軽蔑を抱か
 せるに充分であったろう。清正にとって行長は実戦をほとんど知らぬ主計指揮官にすぎ
 ず、後年、彼が侮蔑をもって口に出したように「商人の子」にほかならなかった。その
 「商人の子」がさしたり戦功もなく、ただ兵員、兵糧の輸送と父、隆佐の能力で、自ら
 をぬき出世したことは決して愉快ではなかったにちがいない。
・一方、行長はやむをえずその清正に援軍を頼まねばならなかった。自分を軽蔑している
 この同僚に救いを求めるのは彼にとって屈辱的な行為だったが他に方法はなかった。 
・志岐を落としたのち、清正、行長の連合軍は本渡の本渡城に拠る天草種元を攻め、その
 頑強な五日間の抵抗を制圧し、他の国衆たちの降伏を促して作戦を終了した。
・この戦いは行長にとって別な意味でも不利だった。天草の五人衆たちは彼と信仰を同じ
 くする切支丹だったからである。切支丹が切支丹と戦う時は、それはもはや「聖戦」で
 はありえなかった。
 清正の敏速な行動にくらべ、行長の戦意が見受けられぬのはそのためである。そのよう
 な躊躇も清正にとっては戦う気力のない「商人の子」と映ったにちがいない。
 天草の反乱は清正の行長に対する侮蔑の感情をかえって深め、両者の溝を更に深めたよ
 うである。
・佐々成政の失敗にはあれほど厳罰をもって臨んだ関白は、不思議に行長のこの手落ちに
 懲罰を与えていない。理由は明らかである。成政はもはや関白にとって不用になった存
 在だが、行長はまだ必要だからである。
・九州作戦の準備を開始した天正十四年(1586)六月の頃、秀吉は対馬の宗義調に書
 状を送り、この作戦の終る頃は準備のなり次第、朝鮮出兵を行なうことを告げ、その時
 は従軍するように命じていた。
・我々には秀吉の大陸侵攻の真意が何処にあったのか、わからない。たんなる征服欲なの
 か、それとも屈服させた日本の領主たちの力をこの侵略で消耗させて豊家の安泰を計ろ
 うとしたのか、あるいは貿易上の利益を狙ったのか、我々には見当がつかない。
 見当がつかぬのは彼の海外認識があまり甘く、その計画は幼稚だったからである。
 秀吉麾下の緒将、文官たちも、九州作戦までは関白のこの計画が実現性のないものと見
 ていたことはその後の彼等の動揺、狼狽、画策などを見ても窺えるのである。
・突然に指示を受けた対馬は混乱と不安の渦に包まれた。対馬は日本よりも朝鮮との通商
 にのみすがり、それによって生きてきた島だからである。
・朝鮮は、1419年、飢饉のため大挙して沿岸を掠奪した対馬海賊に報復するために、
 大軍を送って対馬を征伐したこともあったが、伝統的方針としては懐柔政策を長い間、
 採ってきている。彼等は対馬を朝鮮の属州と考えていたからである。
 島主の宗氏は代々、朝鮮国王からその島主としての権利を認める図書を受給され、経済
 的な援助を仰いでいた。  
・このように日本本土より朝鮮に依存し、朝鮮側がおのれの属州と考えていることを容認
 してきた宗氏は彼等との貿易を失うことを最も怖れた。
 こうした対馬と朝鮮との長い間の関係をまったく無視して秀吉の宗氏に対する命令がく
 だされた。
・周章狼狽した宗氏は一方では関白の威嚇に屈しながら、他方では朝鮮を敵にまわすこと
 はできなかった。 
 宗氏の重臣たちは苦慮討議した揚句、妥協案をつくった。出兵のかわりに調(貢物)と
 人質を朝鮮に求める案を示した。
 秀吉の朝鮮に対する認識は毛利や津島を相手にした時と同程度であったから、この宗氏
 の妥協案は蹴られ、あくまで朝鮮国王の入朝を要求するよう厳命をくだした。
・今まで実現性のないものと高を括っていた大陸侵攻の計画がこうして具体性をもった時、
 関白麾下の諸将は狼狽した。彼等はこの大陸侵攻の動員がどのように自分たちの領国を
 疲れさせ、荒廃をもたらすかを予感したからである。
・隆佐や行長の立場も微妙だった。朝鮮や大陸の侵攻作戦は少なくとも堺商人を背景とす
 る小西一族には利益をもたらすよりは、不利な状況を生むように思われた。
 関白がその隆佐や行長の気持ちをどこまで推察したかは、わからない。だが皮肉にも行
 長は肥後南半国の領主として出兵の前陣を承る立場に任命されている。のみならず関白
 はその行長に宗氏の挑戦交渉を推進させる監督官の仕事も与えている。こうして行長は
 矛盾に追い込まれたのである。
・矛盾に追い込まれた時、この男はいつも二重生活者となる。今は朝鮮計画に対しても、
 行長は面従腹背の態度をふたたびとる決心をした。表面では秀吉に服従しながら、その
 出兵計画を背後で挫折させるか、曖昧にしてしまうのである。
・決心が徐々に行長の心にできたのか、それともある決定的な動機がそこにあったのか。
 資料はまったくない。しかし彼がおのれの娘をほかならぬ宗義智と結婚させた時、この
 決心は既に踏み切られていたのである。この娘の実名は不明で、ただマリアという霊名
 しか我々には伝わっていない。
・いずれにせよ、この婚姻は小西と宗との連合を誓う意味で起請の役割になった。朝鮮に
 対して利害関係の一致した小西一族と宗一族とはここで手を結び、関白を裏切るひそか
 な約束ができあがったのである。
・関白の厳命は朝鮮国王の入朝である。だが明の兄弟国と自負し、対馬を更におのれの属
 州と考えている朝鮮国王が入朝を肯定することなど宗義智たちには考えられもしなかっ
 た。
・苦慮した宗氏はここで国王にかわって特派大使(通信使)の来日を朝鮮側に求める案を
 思いつき、そのために偽って宗氏の家臣、柚谷康広を新しく日本の国王となった秀吉の
 使節と称して赴かせる通達を朝鮮におこなった。
・この通達に朝鮮政府は意見が二つにわかれ、論議は紛糾した。秀吉の使節と偽って渡海
 した対馬の家臣、柚谷康広たちは京城にのぼり、日本の国情を説明したが成果はえられ
 なかった。 
・秀吉は宗氏のこの苦慮も欺瞞工作も知らずただ交渉の遅滞に不満を抱き、宗義調の子、
 義智自身が渡海して国王入朝を促すよう厳命した。
 やむをえず、義智はかねてから親しかった博多の仏僧、玄蘇を正使節としておのれは副
 使となり釜山浦に向かった。
・使節団の焦燥感はこの釜山浦での交渉で、ただ特派大使(通信使)の訪日のみを必死に
 懇願していることでもわかる。
 にも関わらず朝鮮王室ではあるいは渡日航海の困難を理由としたり、秀吉を逆臣として
 この要請に反対する議論が強かった。交渉は難航し、それを知らされた小西行長は島井
 宗室を派遣して義智や玄蘇を助けることにした。
 だが、いずれにしろ国王の来朝を特派大使の訪日にすり替えることは関白をだますこと
 だった。
・こうして行長と宗美智は秀吉の朝鮮出兵を食い止めるために共犯者となった。
 対馬はこののちもたえず権力者に面従腹背の姿勢をとりつつ、欺瞞を行なう政策を取り
 続け、やがて徳川幕府の時代には将軍の国書まで偽作するようになる。
 だが行長の場合は秀吉に対する二重生活は宣教師追放令の時からはじまっていた。
 彼は宗義智の行ったからくりを黙認しただけでなく、ひそかにそれと協力さえしていだ
 のだ。
・大坂にあって関白は何も知らない。何も気づかない。宗義智の希望を入れて出兵を一時
 思いとどまった関白はとりあえず国内全統一のため、関東の北条氏と戦いの準備をはじ
 めていた。

朝鮮戦争における行長の真意
・対馬の宗家と小西とは一体になって、秀吉から命じられた朝鮮国王の入朝という要求を
 通信使の派遣にすり替えた。宗家は小西行長の了解のもとに家臣、柚谷康広を秀吉の国
 王使と偽って朝鮮に送り、その返礼として朝鮮からも通信使を送ることを要請した。
 朝鮮ではこれに対し議論百出し、最後には要請に応じぬこととなって柚谷康広はむなし
 く帰国した。
・天正十七年(1589)六月、秀吉のきびしい催促を受けて宗家の新領主、宗義智が博
 多の僧、玄蘇たちと直接、朝鮮に渡り、三ヵ月の交渉ののち、遂に通信使派遣の約束を
 とりつけた。
・通信使派遣は承諾したが、もちろん朝鮮側はこれを日本への帰順だとは夢にも考えてい
 ない。たんに秀吉の日本統一を儀礼的に祝し、隣好を修める使者としか考えていなかっ
 た。だが秀吉はこれが朝鮮国王の入朝に代わるものだと信じた。
・天正十八年(1590)の四月、長い交渉の末、ようやく釜山を出発した朝鮮の通信使
 は対馬にしばらく滞在したのち、宗義智、小西行長に迎えられて、京都についた。
 折から秀吉は奥羽経略のために不在であったから、彼等は三ヵ月待たされ、ようやく新
 しくできた聚楽第で謁見を許された。
・酒がまわされたあと、ほとんど略式にみえる儀式が終わり、秀吉は一時、退去して、や
 がて子供を抱いて現れた。淀君との間にでき、まもなく死んだ鶴松である。鶴松に粗相
 されて衣服をよごされた秀吉は笑って侍女を呼んだ。傍若無人と朝鮮側は書いている。
・もちろん秀吉はあくまでこの通信使の来日を朝鮮帰順の意志表明と受け取った。
 通信使たちは秀吉の答書に露骨に大陸侵入の野心を述べ、朝鮮に対しては入朝とか方物
 (貢物)とか明らかに挑戦の服従と明に対する裏切りを求める言葉が書かれているのを
 見て愕然とした。彼等は答書の訂正を迫ったが許されなかった。
・行長や宗義智にとっては、謁見は一種の賭けであった。だが今、その賭けは失敗したの
 である。 
・彼等が最も怖れたのは彼等のひそかな工作がやがて暴露される日が近づきつつあるとい
 う点である。もし出兵の暁、たとえば加藤清正のように秀吉の意志を絶対視している武
 将が先発部隊となり、朝鮮に上陸するならば、過去の事情はいっさい看破され、ただち
 に秀吉に報告されるであろう。それを妨げるためには誰よりも先に行長、義智らが朝鮮
 上陸を敢行し、一切を曖昧にしておかねばならない。
・文禄元年(1592)、秀吉がその出兵命令を諸将に与えた。
 発令された陣立てには松浦、大村、有馬、五島を第一軍団としてそれに宗を加え小西行
 長を軍団長としている。 
 第二軍団は加藤(清正)、鍋島、相良を指揮者と定めてそれに続くように指令されてい
 る。
・出陣の前から行長は他の武将たちよりもこの作戦の成功を疑っていた。彼の師事する宣
 教師たちも同じ感情を持っていたことはフロイスの次のような意見を見ても明らかであ
 る。
 「日本人はもともと他国民と戦争することでは訓練されていない。中国への順路も、航
 海も、征服しようとする敵方の言語や地理も、彼等にはまったく知られていない」
・そのような雰囲気のなかで行長は宗義智たちを率いて出陣しなければならなかった。
 彼は上陸後、あの通信使事件を覆い隠すためにあらゆる手を打たなければならなかった。
 次にやむをえず戦端を開かねばならぬとしても味方の有利な状況で講和することが一番、
 望ましいと考えたことであろう。それらを遂行するためにも彼は上陸作戦はもちろん、
 上陸時の進撃でも第二軍団の加藤清正より主導権を握らねばならなかったのである。

・文禄元年(1592)三月、第一軍団、一万八千人は太閤の出兵命令に従って、宗義智
 の支配する対馬に集結した。七百余り隻の上陸用兵船も用意された。彼等はそこから対
 馬の北端の大浦にそれぞれ移動し、総指揮官、小西行長の支持を待った。
・行長と義智はその時、この対馬から最終的な説得を朝鮮に試みたようである。玄蘇ほか
 五人の使者が再度、朝鮮に送られ「仮道入明」つまり朝鮮に道を借りて明に入る最後の
 交渉に当たったという。「仮道入明」は言いかえれば朝鮮に戦意を持ちたくないという
 行長たちの意志表明である。使節が向うで誰と会ったとも、この最後の交渉の過程も不
 明だが、むなしく彼等は帰ったという。
・玄蘇たちはむなしく対馬に戻った。いや、それは必ずしもむなしくではなかった。
 「仮道入明」は拒絶されても行長に停戦和平の意志があることがひそかに朝鮮、明側に
 通じれば充分だったのである。
・行長は上陸作戦の命令を遂に第一軍団の将兵に下した。
 釜山鎮僉節使の鄭撥はたまたま絶影島に猟に出ていて日本軍の兵船を発見。しばらく戦
 ったが、まもなく海を覆った第一軍団の船団に圧せられて釜山城に退いた。
・行長は上陸後、城の周辺をことごとく焼いたのち、使者を送って助命を約束して投降を
 勧告した。戦いは翌朝の午前三時と四時の間にはじまったが、釜山城にたてこもる朝鮮
 兵士六百人は果敢に抵抗した。
 城のまわりには深い濠がつくられ、鉄刺がはりめぐらされていたが、日本兵は板を濠に
 かけてこれを渡り、城塞に侵入した。
 城内には三百あまりの人家があったが、女たちは鍋釜の墨を顔にぬり、泣きながら日本
 兵に投降した。子供たちはわざと足を曳きずったり、狂人の真似をしたりして難を逃れ
 ようとしたが、いずれも捕らえられた。
 鎮僉節使の鄭撥は日本軍の銃弾をあびて戦死した。
・釜山城が陥落すると行長は翌日、釜山城に近い東来城に進撃した。
 ここは朝鮮側の南部拠点であり、二万人の手兵がたてこもっていた。兵力の劣勢を感じ
 た行長は舟子、人夫も動員して夕刻から城壁に梯子をかけて城内に突入しようとしたが、
 朝鮮側は「雨のように矢をふりそそぎ」日本軍もかなりの負傷者を出した。
 二時間にわたる激戦ののち、城将・宗象賢は戦死、東来場も陥落、朝鮮側は五千人の死
 者、それに対して日本は百人を失った。
・釜山、東来のニ城が占領されたという知らせを聞くと、附近の五つの城は戦わずに兵を
 引き上げた。朝鮮海軍守備隊の守る左水営の司令官も一戦も交えず遁走した。
・実戦には弱い行長が緒戦において見ちがえるばかりの快進撃を続けえたのは朝鮮側に防
 備態勢ができていなかったことや、その兵が寄せ集めであり日本軍の新兵器である鳥銃
 の威力に屈したことなどの理由が普通言われている。
・出兵直前から行長と義智との心には中国と戦う意志は、あまりなかったようである。
 朝鮮には致し方なく進撃するにしても、国境をこえて大陸に侵入する無謀を彼等は知っ
 ていた。彼等としては朝鮮の南半分を占領すれば、それを秀吉に対する口実として和平
 工作に乗り出したい気持ちだったようである。それはのちに彼等が中国・明のほとんど
 一方的な要求を受け入れている事実でも推測できる。
・一体、行長の真意は何処にあったのか。彼はたんにこの作戦の無謀を知って和平工作に
 乗り出したのか。それとも彼や義智の利害を考えて戦争の早期終結を望んでいたのか。
 あるいは秀吉ブレインのある派の暗黙の指示と了解で講和を進めたのか。我々にはほと
 んどわからない。
 だがその謎の一端を解くひとつの資料がある。彼が明との間に妥結した、文禄の役の講
 和に際して明政府が秀吉はじめ日本武将に与えた冊封の請願書である。
・我々はこの請願書がたとえ試案であり、形式上のものであるにせよ、行長個人の意図か、
 行長の背後にある秀吉ブレインのある者たちの工作を感ぜざるをえないのである。
 そのある者たちとは大都督の候補者の五名(小西行長、石田三成、増田長盛、大谷吉継、
 宇喜多秀家)の誰か、もしくは何人かである。
 そして彼等はその意図を太閤の許しを経ずに、中国・明の承認の上で実現しようと試み
 たのである。
・行長を含めてこの五人のある者たちは戦争がやがて終わるか、老太閤が死ぬ日の近いこ
 とを想定し、その死後の豊臣政権の新体制をこの請願書に表現したのである。
 すなわち、老太閤が死に、豊臣政権が幼い秀頼に継がれた場合も実験は大都督に任じら
 れた五人、もしくは五人中の何人かが当分は握り、政権の中枢につくという意図がこの
 請願書から我々には窺えるのだ。
・我々はもちろんその後、五奉行のほかに五大老が置かれて豊臣政権の維持を計る制度の
 行われたことを知っているが、それは太閤の意志がそこに作用している以上、請願書か
 ら窺える構想と食いちがうのは当然と言えよう。五大老、五奉行制度とこの請願書の根
 本的な違いは、前者が秀吉の認定によって成立するのに対し、後者は中国・明の許可で
 成り立つものである。言い換えれば、この請願書の新体制は秀吉の独立政権を無視して、
 中国・明を宗家とする新しい国づくりを想定して考えられているのである。もっとはっ
 きり言えば、この新体制は秀吉の死後、その後継者が成長するまで明の権威を基盤とし
 て国内秩序を保とうとしたものなのである。
・つけ加えるならば、この請願書で優遇されている者、破格の抜擢を受けている者が、あ
 の関ヶ原で西軍に味方していることに注目すべきであろう。関ケ原の戦いはこの請願書
 に表明された新体制構想に対する反対派の反撃とも考えてよいほどである。関ヶ原の戦
 いは秀吉の死後、生まれた三成、家康の拮抗だけによるものではなく、その原因は既に
 この朝鮮作戦に早くから尾を引いていたと言っていいのである。
  
空虚なる戦い
・国内ではあれほど不得手たったこの男がこの朝鮮では目のさめるような電撃作戦を示し
 たのは、朝鮮側にはほとんど防禦の準備がなかったこと、日本軍の使用する鳥銃に対し
 て矢で戦わざるをえなかったことなどが普通、あげられている。
 朝鮮側もたしかに善戦したが、それは大人と子供との戦いに似て彼我の勝敗ははじめか
 らわかっていた。行長のように戦争に不得手な男にも比較的、楽な作戦だったのである。
・四月、彼等は巡辺使、李鎰の守る尚州城に迫った。尚州ではわずか千名足らずの寄せ集
 め兵が、山にこもって応戦したが、一万七千の小西軍には敵すべくもあらず、またたく
 まに陥落した。 
 この陥落の翌日、行長は長束正家、木下吉隆を通じて太閤に書状を送り、そのなかで九
 百の敵を二万と誇張し、大将五、そのほか千名以上の者を討ち取ったと誇大な報告をし
 た。
・こうした誇張だけでなくこの書状で彼はほとんど信じられない虚偽的な報告を太閤にお
 こなった。それは尚州城の捕虜敵兵のなかに日本語を話す通詞があり、この通詞は京城
 の朝鮮王から派遣された者で、それによれば国王は情勢が不利になるなら、日本に人質
 を出し、明に入る道案内をすると申し出ていると言うのである。したがって自分として
 はこの求めを入れ、京城を破壊しないでおきたいとも具申している。
・朝鮮側では尚州城陥落の頃、文字通り日本軍の侵略に呆然自失し、議論百出していたが
 抗戦論が主流を占め、決して降伏や日本側の「仮道入明」の要求をのむ結論など出てい
 なかった。 
 尚州で捕虜になったこの通詞は決して朝鮮国王から派遣された講和の使者ではなく、逆
 に行長から講和の書契を托されて朝鮮政府との橋渡しを求められた者にすぎない。
 したがって、行長は自分から講和交渉を朝鮮に求めていながら、太閤には朝鮮側からそ
 のような申し出があったと言いかえているのである。
・行長が朝鮮に提示したこの和平の要求は、言うまでもなく「仮道入明」である。すなわ
 ち朝鮮に道を借りて明に入ることを承認してほしいという要求である。もし朝鮮側がこ
 の要求を入れてくれれば我々は戦う意志はないというのが行長の講和条件である。
・だが宗主国(明)への攻撃を藩属国(朝鮮)に承認させようという、まことに虫のいい
 要求が朝鮮側に入れられる筈はない 
・おそらく行長はこれほどの強い拒絶を朝鮮側から受けるとは当初、予想しなかったにち
 がいない。緒戦において彼の軍団が圧倒的に勝利を示せば、それに威圧されて朝鮮は和
 平交渉の申し込みを受け入れるだろうというのが彼の考えだった。 
 にもかかわらず、朝鮮側は敗退を続けながらも抗戦をやめない。破竹の進撃を続けなが
 ら行長がこの時、焦燥感にとらわれたことは明らかであろう。
・尚州を落としたのち、小西軍団はそこから遠からぬ忠州に進撃した。忠州は朝鮮側が頼
 みとする防衛拠点で、日本軍を迎えうつため八千人の兵を集めて死守している。これま
 でのほとんど無抵抗にひとしい相手とはちがい、小西軍がはじめて遭遇する本格的な敵
 軍である。 
・忠州は前面に島嶺、竹嶺の天険がある。この天険をこえて忠州を占領すれば、あとは一
 気に首都、京城までおりられる。
・この忠州をめざして北進してきたのは小西第一軍団だけではなかった。首都の一番乗り
 を狙う第二軍団の加藤清正軍もここを目指して進撃していた。清正は行長に五日おくれ
 て釜山に上陸してから、東道を北上して彦陽城や慶州を陥落させたあと、同じ忠州に向
 かったのである。両軍はこの忠州の前面で遭遇した。
・行長にとっては、もし作戦のリーダーシップを清正にとられ、京城突入とその後の交渉
 をこの「土の人間」にゆずれば、今までのすべて、太閤に対する彼の報国も含めて、ひ
 そかに行った欺瞞工作が発覚するかもしれぬのである。行長としては、どうしてもこの
 主導権を相手に渡せないのである。
・清正軍がすべて終結しない前に行長は麾下の将兵に忠州城外の西北一里、漢江を背後に
 布陣する敵主力の攻撃を命じた。  
 騎兵を中心とする朝鮮軍は槍と矢で突入してきたが、日本軍から銃火をあびせられて退
 かざるをえなかった。
 敵が総崩れになった時、日本軍は白兵戦に移った。後方の漢江に追い詰められた朝鮮軍
 は争って河に飛び込み、総司令官も溺死、部下将兵も戦死する者と溺れる者とは三千と
 いう敗北を喫せねばならなかった。ここでも朝鮮軍は銃に対して矢をもって戦わねばな
 らず、勝敗は明らかだった。
・忠州が陥落すると小西軍より一日おくれてここに入城した清正は行長と郊外で会し、京
 城攻略を協議した。諸書にはこの時、この「土の人間」と「水の人間」との間に京城進
 撃の先鋒、進路について争いがあり、鍋島をはじめ諸侯が仲裁したと伝えている。
・行長はこの時、加藤清正の第二軍団と合同して京城に突入することを拒絶したことを暗
 示している。そして清正はその夜、行長を出し抜いて進軍を開始したとも書いている。
 いずれにしろ忠州陥落の翌々日、第一軍団と第二軍団はたがいに反目しあい、競いあっ
 た形で京城に北上した。行長としては清正より一足でも早くこの都に入城し、朝鮮朝廷
 と講和を開始せねばならなかった。彼が部下と離れ離れになったにもかかわらず、将兵
 より先に入城していたという。  
・京城に突入した両軍団はそこに死の町を見た。町は静まりかえり、王宮からは黒い煙が
 たちのぼっている。景福宮も別宮も、歴代の宝物、書籍もすべて灰となり、ただ鼓を鳴
 らして時を告げる漏院という建物のみが残っているだけだった。それは国王自身の命令
 であったが、同時に国王が都落ちした後の乱民たちの暴動によるものだったと言われて
 いる。
・忠州陥落の悲報が当日の夕べに、京城に伝わるや、朝廷は混乱の極みに達し、京城死守
 を主張する者、平壌に遷都することを唱える者の二派に別れたが、早朝の雨をついて西
 大門から西に逃れた。一行が沙けんにいたって振り返ると、すでに乱民の掠奪放火がは
 じまり、炎上する王宮の煙を見た。
・無人にひとしい町と煙たちのぼる王宮を見て清正はともかく、行長は愕然としたであろ
 う。なぜなら彼は京城において、ようやく朝鮮政府との和議を直接交渉できるものと考
 えながら北上してきたからである。
 上陸以来、彼はさまざまな方法を使って講和の申し込みを朝鮮側に行ってきたが、すべ
 て失敗に終わった。頼みの綱としたのは国王宣祖とその朝廷であり、それと直接に接触
 をするためにも京城の一番乗りを急いだのである。
・他の日本軍はともかく、このような奇怪な作戦は小西軍団に限り、他になかった。彼等
 は相手を撃滅するために追撃しているのではなく、講和を結ぶために相手を追いかけて
 いるのだった。  
 だが当の相手は追いかけても追いかけても遠くへ去って行った。それに近づけば離れ、
 接近すれば消えてしまう砂漠の蜃気楼に似ていた。
・この朝鮮では本城、都とその王宮を占領しても戦いは一向に終わらなかった。国王は日
 本の領主のように自決もせず降伏もせず、更に北方へ逃げて行った。その北方に日本軍
 が進撃すれば、国王と政府は更に国境をこえて大陸に移るだろう。
・むなしい追いかけごっこに似たこの戦争の形態に行長がはじめて気がついたのは静まり
 かえった京城王城内に彼等が突入した瞬間だったにちがいない。戦争の終結を誓わすべ
 き相手は何処にもおらず、あるのはくすぶる煙と灰となった宮殿の残骸だけだった。
 その瞬間、彼は心理的にこの戦争の言いようのないむなしさを感じたであろう。
・京城占領の報告はまず加藤清正から二週間後には名護屋大本営に届いた。
 狂喜した太閤市秀吉はその当日、大坂の妻、北政所、母の大政所にこの悦びを知らせた
 有名な手紙を送った。
 文中、九月の節句は明国の都で迎えると豪語し、やがては唐の国でそなたを迎えるつも
 りだとものべている。また彼は関白秀次に書状を送り、天皇を北京に送り、日本は羽柴
 秀保か、宇喜多秀家に任せるなどという具体案まで示し、夢は果たしなく拡がるだけで
 あった。
・だがその太閤の狂喜と幻想とはまったく裏腹に京城占領軍のなかには暗いペシミズムが
 生まれつつあった。
 第七軍団長であった毛利輝元が太閤宛も送った、
 「さてさて、この国の手広きこと、日本より広く候ずると申すことに候。このたび、御
 人数にては、この国御治めは、なかなか人が有まじく候間、成らざることに候。少々の
 大なることにてはなく候、お察し給われ候」
 などという言葉でもうかがえる。
 輝元のこの国は「広い」を洩らした歎きの言葉の背後には戦いは際限なく続くかもしれ
 ぬという不安の気持ちがにじみ出ている。
・行長と清正に遅れて北上した第三軍団(黒田長政)、第四軍団(森吉成)、第八軍団(
 宇喜多秀家)が陸続として京城に入城した。これらの将兵たちもここに来てはじめて国
 王の遁走と戦争終結の遠いことを知ったのである。
・ただちに各軍団長は京城郊外に集まって今後の対策を協議した。ともかくも和平進駐と
 朝鮮における戦争終結を第一としる行長のひそかな意図は、あくまで大陸侵攻を主張す
 る清正の気持に対立し、談合は長く続いた。諸将たちはもとより戦争の早期終結を内心
 では望んだであろうが、それは太閤の意志を裏切るものである以上、清正の意志を真向
 から否定することはできない。  
・妥協案が出された。それは今一度、行長たちが朝鮮軍と講和交渉することを認め、その
 結論が出るまでは各軍団は京城に残留することにすること。だが太閤の意志に従うため
 大陸侵攻作戦に備えて、各軍団が今後、朝鮮の八道を分担して経略、巡撫を行ない、不
 足しはじめた兵糧、馬糧を確保することの二つである。
・だがこの軍団長会議の結論に清正は不満の気持を抑えることができなかった。行長の講
 和交渉は時間の浪費であり、太閤の意志を裏切る結果になると彼は思った。
・行長の命を受けた僧、天荊と宗義智の家老、柳川調信は京城から十里離れた臨津江に先
 鋒部隊と共に赴いた。対岸にはさきに京城防衛司令官に任ぜられながら遁走した金命元
 の率いる朝鮮軍が終結していたからである。天荊と調信とはこの朝鮮軍に講和交渉の書
 簡を渡し、朝鮮軍は三日後の回答を約した。だがこの交渉の結論を見ぬ翌日に清正の先
 鋒軍は行長の意志を無視して敵軍を挑発したのである。
・挑発に憤った朝鮮軍は交渉を拒否し、突如、対岸の日本軍を攻撃してきた。守備として
 いた黒田、小西の先鋒隊はやむをえず清正軍に応援を求め、岸に捨ててあった老朽舟を
 こわして筏を作り渡河作戦を開始し、朝鮮軍をほとんど戦わずして敗走させた。
 こうして軍団長会議で取り決めた行長の講和交渉は挫折した。むなしい、空虚な戦いが
 ふたたび続行されたのである。
・行長は少なくとも、この時期大陸作戦などとてもできるものではないことを確信してい
 たようである。延びきった兵站線、現地挑発の兵糧は限界に達し、はじめは協力的だっ
 た朝鮮人のなかからも次第に抗日義兵の機運が起こりつつある。やがてくる冬。この冬
 に行長は恐怖を持っていた。冬に対する準備は各軍団ともほとんど、できていないのだ。
 そのためには講和交渉を一日も早く結ばねばならぬ。それが太閤の怒りをかうとしても、
 誰かがこの権力者をあざむき、戦争を終結せねばならぬ。この気持はもはや京城出発後
 の行長の胸のなかに動かぬものとなっていたようにみえる。
・戦いのむなしさを噛みしめながら早期講和の交渉のために朝鮮国王の行方を追う行長と、
 あくまで大陸侵攻のために北進を行う清正とは京城からそれぞれの思惑を胸に抱きなが
 ら開城で黒田長政の第三軍団と合流、金郊まで同じ道を進んだ。第一軍団と第二軍団と
 はここで別れ、清正は咸鏡道に、行長は長政と共に朝鮮国王を求めて平壌に向かった。
・六月、両軍団の先鋒隊は大同江の南岸に達した。巨大な大同江は舟を持たぬ彼等の前進
 を阻み、対岸に陣する朝鮮軍との睨み合いが続いた。行長はそれでも最後の希望を棄て
 なかった。  
・李徳馨は先に忠州城陥落の折、行長の乞いを入れて、和議の条件を聴こうとして果たせ
 なかった相手である。街のぞんでいた交渉が上陸以来、はじめて行われた。
 李徳馨はこの時、平壌にいたが、この求めに応じ、行長の使者である柳川調信や玄蘇と
 酒をくみながら話し合った。
・だが行長の使者はこの交渉で大事な一点を忘れていた。彼等は朝鮮に敵意がないことの
 みを強調して、この国が中国(明)にどのように依存しているかに気づかなかったので
 ある。仮道入明の要請は一蹴された。
 あれほど待ち望み、せっかくつかんだこの和議は決裂した。
・李徳馨の率いる朝鮮軍は、突如、兵舟で小西軍に攻撃をかけてきた。
 行長の第一軍団は黒田第三軍団の応援をえて、ようやく、これを撃退、敗走する敵を追
 って大同江の浅瀬を渡った・朝鮮軍は壊滅して敗走、翌日、行長は長政と共に平壌に入
 った。
・平壌も空虚だった。ここにも長政が求めた国王の姿は見えなかった。王は四日前に既に
 ここを去っていたのである。臨津江の敗戦を知った国王は、一度は平壌を固守すること
 も考えたが、ついに退避を決めて寧辺に向かっていたのである。
・和議の決裂は行長に深い反省を与えたようである。彼は日本軍が大陸侵攻を標榜する限
 り、朝鮮側は決してこれに応じないことを改めて苦い思いのうちに知らされたのである。
 本心では中国(明)との戦いは無理であることを知りながら太閤の命令を表向き守るた
 めに考え出した「仮道入明「は苦肉の策であったが朝鮮側はその背後にある欺瞞を見破
 った。 
・どうすればいいのか。この時、彼にはまだその突破口を見つけられなかったようである。
 行長はもうそれ以上、朝鮮国王を追おうとはしない。追っても無駄であることを痛いほ
 ど知らされたからである。
・第二軍団の清正軍が前進また前進しているにもかかわらず、行長が平壌に兵をとめて動
 かなかった理由はそこにある。まだ六月だというのに行長は麾下の第一軍団の将兵に命
 令を出して、ここで冬を送ることを告げ、城と城外にいくつかの砦とを築かせた。
 名目は不足してきた兵量を集め、次の作戦に備えるということにした。彼がまだ充分の
 兵糧が残っている平壌に踏みとどまったのは、この戦いの意味のなさをはっきりと知っ
 たからであろう。
・破竹の進撃を続けた陸戦とはまったく反対に朝鮮と日本とを結ぶ海の制海権は五月下旬
 以来、まったく朝鮮水軍に握られた。
 七月に見乃梁で両海軍はその総力をあげて決戦を行ったが、脇坂安治、加藤嘉明、九鬼
 嘉隆の日本連合艦隊は朝鮮軍の装甲船と大砲を活用する圧倒的な戦力と巧妙な作戦に大
 敗を受けた。「閉山沖の戦い」と世に言われるこの海戦の敗北のため、日本軍は以後、
 制海権を失ったのである。
・制海権を失った以上、朝鮮を進撃する陸軍の兵量は以後ままならず、本国からの輸送よ
 りも現地調達に重点をおかざるをえなくなった。その現地調達もやがて底をつきはじめ、
 日本軍は次第に飢えに悩まされるようになる。
・伸びきった兵站線と兵糧の不足と共に行長が最も怖れたのはやがて訪れる冬将軍だった。
 行長はこの朝鮮の冬に日本軍が何の準備もしていないことを知っていた。寒波にきびし
 さは到底、日本の比ではないことをこの頃はもう日本軍の将兵は現地に来て気づいてい
 た筈である。食糧もなく、冬への備えもないのにこれ以上、奥地に進撃することは無謀
 である。にもかかわらず、その事情をまったく無視した太閤からは明への進撃を矢のよ
 うに催促してくる。  
・一方、朝鮮側は中国に対して救援を必死に求めていた。
 こうした朝鮮側の要請に応じて遂に明も国境にいる副総兵の祖承訓の軍隊を南下せしめ
 る方針をきめた。朝鮮軍四千をまじえた明軍は義州をへて南下し、七月、平壌を包囲し、
 その七星門から夜中突入した。
・当夜は雨と風で敵の気配に日本軍はまったく気づかず、朝方、その喚声に驚き、あわて
 ふためいたという。しかし、ここにおいても日本軍の鳥銃の威力と、騎兵を主体とした
 敵軍が雨中の市街を駆け回ることができなかったためどうにか撃退することができた。
 苦戦した小西軍のなかで行長の弟、ルイスは敵に捕らえられ斬殺された。
・この戦いはある意味で重要な意味を持っていた。なぜならばこの明軍との最初の交戦で
 勝利をしたため、行長はある幻想を抱いたからである。明はこの戦いで日本軍に実力を
 知り、和平交渉に応ずるかもしれぬ。彼等はもはや朝鮮国王の乞いを入れて出兵しない
 であろう。この楽観的な気分が、のちに明との外交での錯誤をつくり、平壌を失わせし
 めるに至るのである。
・冬は既に迫り、将兵の疲労と帰郷の願いは手にとるようにわかる。行長はこの時、さき
 に渡海を中止した秀吉の代わりに石田三成、増田長盛、大谷吉継の三奉行が京城に到着
 し、現地視察にあたっていることを知った。
 彼等もまた現地の実情を知るにしたがい、この太閤の命令が無謀であることを認識した
 のちがいない。彼等の報告によって、命令は変更され、明国への侵入は春まで延期され
 た。そして釜山から京城に至るまで、八里ないし十里ごとに城塞が築かれ、防備を厳重
 にすることが要求された。
・八月、平壌は巡察使、李元翼の率いるゲリラ部隊の襲撃を受けたが撃退した。この頃、
 平壌だけではなく朝鮮人の義兵たちのゲリラ活動が活発となり、釜山、京城の兵站線も
 しばしば侵されるようになってきた。
・軍団長会議で黒田孝高は明軍の出兵に備え、分散した日本軍の兵力を京城に集めること
 を主張したが、行長は頑なにこれに反対した。彼は明軍の出兵はもうありえぬと楽観し
 ていたからである。
・この会議の間、おそらく行長は三奉行には自分が明との和平交渉のイニシアチブをとる
 許可を求め、暗黙の了解を得たようである。
 だが、この間、行長の予想とはまったく反対に明は大軍を朝鮮に送る決心をかためてい
 た。それはちょうど、昭和二十五年に三八度線を突破した国連軍が中共軍の越境につい
 て楽観的にあったのとよく似ていたのである。

行長、哀を乞う
・一日も早く行長はこの戦争に終止符を打ちたかった。もはや、この戦争を拡大すること
 は不可能に近かったし、続行することは無謀である。それは行長はもとより加藤清正を
 除いた諸将が、ほとほと感じていたことである。彼等は自分たちが点だけを占領したに
 すぎず、点と点を結ぶ線をまったく確保していないことを知っていた。
 朝鮮でさえ、このように制圧困難なのに、まして計り知れぬほど広大な明を征服するな
 ど夢のような話だった。
・京城に来た三奉行たちもこの現実を明春、渡海する筈の太閤に認識してもらうことしか
 方法はないと考えていた。それまでは現在、占領していた地域を維持する寄り仕方がな
 いという結論に達していた。
・こうした状況下で三奉行や行長が太閤の死について考えなかった筈はない。太閤がもし
 死ねば、この無謀な作戦は自然的に終結するからである。彼等は既に太閤が老い、死が
 まもないことを感じていた。かつての明晰な頭脳が失われ、客観的な判断力を失いつつ
 あることをこの権力者の日常を見れば、それは当然、現実感となって彼等に迫っていた。
・だが太閤が死ねば戦争は終結するとしても、日本はふたたび混乱する。老いたとはいえ、
 太閤は日本の秩序の強力な支柱である。もしこの強力な支柱が倒れれば、豊臣政権はあ
 るいは崩壊するかもしれず、もし崩壊すれば、太閤の力をバックにした三奉行や行長の
 ような家臣はその位置と力を失うことも確かだった。
・途方に暮れたこの年の八月下旬、思いもしなかった出来事が起こった。かつて倭寇の一
 味でもあり、日本語をよくする沈嘉旺と称する男が突然、平壌の小西軍陣営あらわれ、
 講和交渉の打診をしたのである。その説明によると、彼は明国の講和交渉を委任された
 沈惟敬の使者である。本人の惟敬は既に順安にあって自分の返答を待っているという。
・沈惟敬がこの交渉に来た背景は次のようなものである。
 さきに祖承訓の率いる遼東軍が平壌で行長軍に大敗を喫するや、明朝廷はその報に驚愕
 し、日本軍上陸に備えて危険なる海岸の防備を命じ、兵部尚書の石星は朝鮮回復の策を
 一般に公募する有様だった。この時、弁舌の才にたけた沈惟敬が日本との交渉を買って
 出た。彼は石星に自分は日本通であると主張し、日本軍の真意は明との通商貿易にしか
 ないのであるから、これと戦うよりは、まずその本意を探るべきだと進言したのである。
 石星はこの進言を入れて沈惟敬を遊撃将軍に任じ、平壌に赴かせ、日本軍との交渉に当
 たることを許した。 
・行長の気持としては、天から与えられたこのチャンスを逃してはならなかった。このチ
 ャンスを利用して戦争に終止符を打たなければならなかった。
・講和交渉に朝鮮を加えるべきか。行長は今までの経過から朝鮮の強硬な態度を知ってい
 た。彼等は戦いに敗れても決して屈服はしなかった。朝鮮を講和交渉に加えればその成
 立が難航することは明らかだった。行長は惟敬とはこの天でまず意見が一致した。
・こうして朝鮮の講和交渉の圏外におくことに、両者、同意したのち、大陸作戦の不可能
 なことを感じている行長は明にはまったく挑戦する気持はなく、通商を求めるだけだと
 主張した。  
・天文年間(1532〜54)から跡絶えている日中通商と貿易に復活が我々の目的だと
 主張した。
 だが行長をはじめ同席した日本人にとって通商を求めることは中国側から見れば封貢を
 乞うことであり、それを許されることは明の藩国の一つになることだと、この時どこま
 で理解していたかはわからない。おそらく行長はここで名を棄てて実をとることを考え
 たのであろう。
 彼はその代償として大同江以北は明の領土とし以南を日本領とすることを主張した。
 これはおそらく行長にとっても、ぎりぎり一杯の要求であったろう。
・この第一回の交渉の結果、惟敬と行長は五十日間の休戦を約束し、その五十日以内に惟
 敬が明から回答を持ってくることが承認された。
 行長は惟敬の求めに従って鎧、甲のほか日本の武器、朝鮮作戦においては最も有力な効
 果をあげた鳥銃まで贈った。 
・五十日の約束期限は過ぎたがしかし沈惟敬はあらわれなかったのである。やがて姿を見
 せたのは沈惟敬ではなく、その家来の沈嘉旺だった。
 行長は大いに悦び、これを優遇したが、惟敬の現れざるを怪しみ城中にとどめて外に出
 ることを禁じた。 
・こうして第二回目の会談が行われてから一ヵ月近くの間、日本軍は敵軍が鴨緑江をわた
 り、南下しつつあることに気づかなかった。
 矢と弓で日本軍の鳥銃と戦わざるをえなかった今までの朝鮮軍にくらべ、この明と朝鮮
 の連合軍は朝鮮人を祖先にもつ武将、李如松に率いられて、その数四万三千、火箭や投
 石砲や大砲さえ準備していた。
・文禄二年(1593)正月、連合軍の先鋒は平壌の西郊外に到着した。野も山も埋め尽
 くした明の大軍を見て、行長は沈惟敬に欺かれたことを知ったのである。
・行長の兵は一万五千である。李如松の率いる連合軍はその三倍の四万三千。
 連合軍は平壌の含毬門と普通門から侵入しはじめた。彼等は梯子を城壁にかけてそれを
 よじのぼってくる。平壌城内には既に火の手があがっていた。
 日本軍は鳥銃を乱射し、湯水、大石を城壁に迫る敵軍に落とし、長槍、大刀をふるって
 力戦、一時はこれを撃退したが、城外に敵を追いやることはできなかった。   
・城塞の外にあった飯米倉も陣所もすべて焼き払われたのは痛手だった。兵糧がなくなっ
 た以上、これ以上の抗戦は無駄である。行長は清正のように全軍玉砕まで戦う猛将では
 ない。彼は麾下の将兵を集め、平壌城の一角からその夜、撤退する決心をした。
・小西軍の敗走と四万三千の明軍の南下を知った三奉行は平壌、京城間にある各部隊に京
 城を最後の防衛拠点にすべくそれぞれの城塞から撤退を命じた。三奉行はまず諸部隊を
 開城に集結させ、更にそこから全軍を京城に引きあげさせたのである。
・行長の責任は大きかった。彼は先の軍団長会議において、ひとり明軍不戦の説をとなえ、
 沈惟敬との講和交渉の成立を主張してやまなかったからである。軍団長のなかには黒田
 孝高のように明の援軍が必ず来ると警告した者もいたが、彼はその意見も退け、講和交
 渉をおのれに一任させるよう計ったからである。
・行長がこの責任をなぜ、攻められなかったのかは不思議である。
 秀吉は平壌敗戦を聞いても特に行長を詰問せず、退いて開城を黒田勢と守ことを命じた
 だけだった。行長に責任をとらせなかったのは、三奉行が彼のために弁解すること大き
 かったからかもしれない。   
・敗兵をまとめて京城に入った行長はおそらく、朝鮮上陸以来、最も惨めな絶望的な気分
 を味わわされたであろう。
 自分の平壌における無残な敗北のために勝に乗じた明は講和を欲せず、日本軍の徹底的
 殲滅に自分を持ったであろう。加藤清正がこの自分の敗走をどういう眼で見ているかは
 日を見るよりも明らかだった。
・形状に撤収後の行長の行動については明らかではない。彼はもはや諸将のなかにあって
 発言権を失ったためであろう。撤収後の日本軍にも意見がわかれ、小早川隆景を軍団長
 とする第六軍団の小早川秀包、立花宗茂などの師団長はあくまで明軍との抗戦を主張し
 たが、行長の故主だった第八軍団長の宇喜多秀家は京城にたてこもって城を守ることを
 計った。 
・かくて京城に迫った明軍は、有名な碧蹄館の戦いで立花宗茂、小早川隆景、小早川秀包
 などの第六軍団に徹底的な敗北を喫した。日本軍も二千の死傷者を出したが、その三倍
 の痛手を明・朝鮮連合軍に与えて、これを敗走させた。
・この碧蹄館の勝利はふたたび、沈滞していた日本軍の態勢を挽回した。敗北した明軍は、
 はじめて日本軍の強さを知り、戦うことを怖れだしたからである。平壌の戦いの勝に驕
 っていた明軍のなかに停戦の気分が生まれたのもこの時からである。
・行長はこの碧蹄館の戦いにはもちろん参加していない。行長がようやく、その軍勢をま
 とめて実戦に参加したのは碧蹄館の戦いから一ヵ月半たった幸州城の攻撃の時である。
・にもかかわらず発言権を失った行長はふたたび、在朝鮮の日本軍にとって必要な存在と
 なる。碧蹄館の戦いに敗れた李如松はもはや戦意を失い、平壌に退いて京城を攻めよう
 としなかった。停戦の機運が明軍にも日本軍にも生まれつつあった。日本軍もまた冬の
 寒さと食糧の不足に悩まされつつあった。将兵はとうもろこししか食べるものがなかっ
 たのである。のみならず蜂起した朝鮮ゲリラ部隊は京城、釜山の連絡をますます困難に
 している。  
・李如松はそこで李蓋忠なる者をひそかに京城に送り、諸軍より遅れて京城に引きあげた
 加藤清正に接触させた。 
・李如松は一時、遠ざけていた沈惟敬をふたたび前面に出さざるをえなかった。沈惟敬が
 舞台に立つことは発言権を失った行長を登場させることでもある。
 三月中旬、沈惟敬は京城に姿を見せた。兵量不足に悩み、なおも玉砕を覚悟してきた日
 本軍にとっては思いがけない出来事だったが、行長はふたたび彼と竜山で会見した。
 沈惟敬の言に裏切られつづけた行長であったが、今はこの男に和平の望みを托すより仕
 方がなかったからである。
・かねてから行長の講和態度に不安を抱いていた清正は自分も沈惟敬と話し合いたいと申
 し出たが、惟敬から拒絶されている。惟敬と行長の間には平壌での交渉以来、この二人
 だけで講和を進めるという密約ができていたためである。
・沈惟敬はまず行長に日本軍に速やかな京城撤退を要求したようである。また、清正が捕
 えているニ王子の返還も二人の間で論ぜられたことは確かだろう。この時、行長が王子
 の返還は秀吉の許可がなければ不可能だと言い、京城撤兵の件は三奉行に決定権がある
 と答えたと述べている。
 更に行長は、さきに大同江以南を日本に割譲することを変更して、漢江以北を中国に、
 以南を日本にと提案したようである。平壌で破れた日本軍としてはこれ以上の領土要求
 はできなかったからである。
・行長の報告を聞いた三奉行は京城撤退の気持を固めた。彼等の意見具申に太閤も遂に折
 れざるをえない。 
・四月、日本軍は全軍、京城を撤退しはじめた。空虚になった京城は飢えのために死んだ
 男女牛馬の死体が城内に散乱し、その臭気が耐えがたいほどだった。ほとんどの家は灰
 燼に帰し、京城にはただ日本軍の駐留していた崇礼門より以東にやや家が残っているだ
 けだった。 
・明の大軍がこの戦争に介入し、沈惟敬が登場した時、行長は朝鮮に絶望し、これを除外
 して明との単独和平を結ぼうと焦った。朝鮮は明の藩国である以上、やがてはこれに従
 うことがわかったからである。ただ彼が怖れたのは日本との貿易を再開不可能にするほ
 どの増悪が朝鮮や明に残ることだった。
 もし今後、通商を拒絶されれば豊臣政権下における小西一族の存在理由が失われるから
 である。行長は秀吉を信じてはいなかったが、その貪欲なまでの貿易利益の欲望は信じ
 ていた。秀吉の死の間もないことを予感していた彼は、太閤死後の豊臣政権で大きな力
 を持つのは海外貿易の担い手であることを感じていたのである。自分と小西一族の目的
 はそこになければならぬと知っていたのである。
 
太閤の死を望みながら・・・
・三奉行たちの懸命な説得に太閤もやむなく現実に眼を向けざるを得なかった。この権力
 者は強気ではあったが、一応は各軍団に京城を棄てて釜山浦を中心とする朝鮮南海岸に
 撤退することを許可したのである。後退する日本軍を明軍は急追撃しなかったのが幸運
 だった。彼等もまた、碧蹄館の敗戦にこり、出血を怖れたのである。
・行長の第一軍団は多くの兵を失っていたが熊川の海沿いの峻山に城塞をつくり、そこを
 司令部とした。  
・行長だけでなく、各軍団はそれぞれ釜山浦周辺にこのような堅固城塞を築いたが、それ
 は名古屋の大本営にいる太閤の狡猾な指令によるものだった。太閤は麾下の将兵とは異
 なり、また本心から戦意を棄ててはいなかった。彼は日本軍の不利な形勢は朝鮮の厳し
 い寒さと兵糧の不足によるものだから、冬が終わるまで持久戦に持込み、春になれば大
 攻勢をかけようと単純に考えていたのだ。太閤が一応、明の使節を日本に迎えることを
 認めたのも、一つはそのために時間をかせぐ手段であり、敵を欺くために他ならなかっ
 た。
・大本営のこの命令に行長は苦しんだ。彼はその命令に従って、一応は熊川に持久戦に耐
 える城を築いたが、心には戦う意志はなかった。今、彼が戦わねばならぬ相手は明軍で
 はなく、他ならぬ彼の主人の太閤秀吉だった。
 もちろん、他の武将と同様に秀吉の麾下の一軍団長にすぎぬ彼にも表立ってこの権力者
 にクーデターを起こすことはできない。彼には彼の生き方である面従腹背の姿勢をとる
 より方法はなかったのである。
・更にこの頃、彼の心を鳥の翼のように横ぎる大きな不安があった。それは彼と対立する
 加藤清正が和平工作に介入しはじめたことである。気質においても、育ちにおいても彼
 とはまったく異質の人間であり、この朝鮮作戦以来、ますます溝を深めた清正が行長と
 は別に明との交渉ルートを持ったのである。
・行長は絶対に清正はその派閥に講和交渉の主導権を奪われたくなかった。なぜなら行長
 の目算では、やがて太閤が世を去ったあと、豊臣政権下で自分が占める位置を考えてい
 たからである。彼のみとり図のなかでも、次期の豊臣政権では清正のような純粋軍閥は
 力を失う筈だった。代わりに勢力を占めるのは石田三成のような内政派と、自分のよう
 な外交貿易の担当者だった。
・行長が京城を撤退して二週間目、名古屋大本営から太閤の講和条件なるものが三奉行に
 伝達されてきた。行長はその内容を見て、彼我の現実認識の差と講和交渉のこれからを
 思い、暗澹としたことであろう。それは明や朝鮮がおそらくは受諾すまい箇条が含まれ
 ていたからである。 
 一、明国皇女をわが皇妃とすること
     ・
 三、明国大臣と日本有力大名の誓詞交換のこと
     ・
     ・
 七、朝鮮は永代、日本に対して誓詞を提出すること
・行長はその経験で明国がその大国の矜持にかけて、皇女を日本に送ったり、明国大臣が
 日本諸大名と誓詞を交換するなど不可能であることを既に感じ取っていた。
 しかしそんな条項よりも彼を困惑せしめたのは太閤のこの高圧的な勝利者のような要求
 であった。 
・行長は三奉行と、いかにして太閤の一方的な条件を明の誇り高い感情にあわせるべきか
 協議したであろう。もとより結論が出るはずはない。残された方法は妥協案というより
 は一時的な弥縫策で、太閤の無知を利用してその場、その場で辻褄を合わせることだっ
 たであろう。
・彼等は釜山浦で待機している明の予備交渉使をあたかも日本への謝罪使のように仕立て
 て名護屋の大本営に送ることを決めた。そしてその欺瞞工作のため使節に先立って行長
 だけが名護屋に赴くことになった。
・行長は釜山浦を出発、一年ぶりで故国に戻った。
 たった一年であったが彼には十年も二十年ものように感じられた戦争だった。それは不
 慣れな陸戦を戦い、多くの兵を失い、和平を画策し、そのため、太閤をだましてきた一
 年でもあった。 
・太閤に謁見した行長が何を話したかはほぼ推量できる。彼は太閤の戦意が一向に衰えぬ
 のをその眼で確認するより仕方がなかった。翌日、行長はあわただしく名護屋を発し、
 釜山浦に戻った。
・その後、沈惟敬だけをその釜山に残して三奉行と行長は明の予備交渉使節と日本に向け
 て出発した。もとよりこれらの二人の使節な自分たちが三奉行や行長によって謝罪使に
 仕立てられていることを知らなかった。
・名護屋に迎えられた彼等はそれぞれ、徳川家康、前田利家の邸にあずけられた。二人が
 日本語を理解できず、日本人接待者が中国語を解さなかったのがある意味で幸いであり、
 不幸だったかもしれぬ。
・行長には現在の段階ではこの交渉はまったく実現不可能だとわかっていた。やがてニ使
 に太閤が与えるだろう講和条件は、さきに三奉行たちに示した七箇条とおそらく変わり
 あるまい。それを知らされた時の使節たちの驚愕と困惑とが眼に見えるようだった。
 更に加藤清正たちが命令に基づいて普州城を攻撃すれば朝鮮側は更に、抗戦の意志をか
 ため、明は日本にだまされたと考え、いかなる行長たちの努力も疑いの眼で見るであろ
 う。   
・おそらく常識では考えられぬ非常手段を行長はこの時、思いついた。発覚すれば彼と彼
 の一族が破滅するような方法を彼は決行したのだ。この危機を救うためにはほかに手段
 がなかったからである。それはまた、彼が考えに考え抜いた最後の賭けだったのである。
・彼は日本軍の普州攻撃の近いことを沈惟敬に教えたのである。しかもそれを明と朝鮮と
 に連絡せよとさえ指示したのである。そして普州城の住民、兵をあらかじめ撤収させて
 おくならば、日本軍はむなしく引き上げるであろう、とさえ進言した。たとえ相手が沈
 惟敬であれ、敵側に作戦の秘密命令を伝えるのは明らかに内通である。裏切りである。
 終戦を待ち望むのは在朝鮮日本軍の軍団長では必ずしも彼一人ではなかったが、このよ
 うな背信行為を敢行したのは朝鮮作戦中、この行長一人だけであったろう。
・太閤の厳命にやくなく出動した日本軍は宇喜多秀家、毛利秀元を司令官として、明軍の
 援助を受けず、さまざまな朝鮮義兵のみによって守られていた普州城を攻撃した。行長
 の進言を朝鮮側は聞き入れなかったのである。孤立した普州城は日本軍に包囲され五日
 の間、すさまじい戦闘が展開された。加藤清正がこの時、亀甲車という皮をはった車を
 作って城を攻めたというのはあまりに有名だが、朝鮮義兵軍もまた必死に応戦した。
・一方、名護屋にあって日本軍の普州攻撃など知らされていない明の使節は太閤の歓待を
 次々と受けたが、その帰国前、太閤は突如彼等に自分の本意を示し、明の今日までの非
 礼を非難する条目を与え、翌日にはあの七箇条の威圧的な講和条件を示した。
 使節の驚愕は言うまでもない。彼等は太閤に謝罪と朝鮮返還の意志があるかを問う予備
 交渉使として渡日したのだが、そういう意志など日本側にはまったく、なかったことが
 この時、はじめてわかったのである。
・行長らはここで内通以上に怖ろしい裏切り行為をやってのける。まず太閤の七箇条の講
 和条件をまったく無視したのである。その代わりおそらく明側が納得するであろう新条
 件を考えた。  
・この行為を三奉行がどこまで黙認したかは資料的には明らかではない。我々にも行長が
 何を頼りにこの大それた行動に踏み切れたかわからない。しかし、もしそれが三成たち
 に黙認されたとするならば、この非常手段なしには戦争は泥沼に入ることを三奉行も知
 っており、と同時に、太閤の寿命もそう長くないという予想が彼等や行長の心に無言の
 うちにあったからにちがいない。 
・沈惟敬のこの偽作降表にどの程度まで行長の意向が盛り込まれていたかは我々にはわか
 らない。しかし惟敬が独断でこの文書を作る筈はなく、当然、その内容は行長と相談の
 上で書かれたものであるから我々の心には重大な疑問が起きてくる。
・その疑問とは、太閤は決して明から藩国の称号を受ける気持など毛頭ないことを行長は
 熟知していたという点である。むしろ、そのような屈辱的な処置は太閤の自尊心を傷つ
 け、激怒せしめるのみであることさえ、百も承知していたという点である。太閤は明の
 征服者たらんとしていた。明の許可する日本の藩王になろうとは夢にも考えていなかっ
 た。 
・にもかかわらず、いかに泥沼のようなこの戦争に終止符を打つためとはいえ、このよう
 な屈辱的な条件で講和を結ぼうとした行長の真意は何処にあったのか。我々はこの偽作
 降表を見る時、その疑問を感ぜずにはいられない。
・だが答えは明瞭である。行長はひとつの賭けをしたのである。その賭けとは太閤の死が
 やってくるという賭けである。太閤の死は遠くない。その死までに、明の怒りをまず、
 この形でなだめよう。なだめながら太閤の死を待つ。
・この一年以上の間、多くの日本軍将兵は朝鮮作戦が権力者の死がなければ終わらないと
 いうことを切実に感じはじめていた。国内でも国外でも口にこそ出していわね、太閤の
 死を待つ気持が広がっていた。
・行長はある男の動きをまだ怖れていた。その男とは言うまでもなく彼のライバルである
 加藤清正である。長い間、たがいに友情を持つことのできなかったこの二人は朝鮮戦争
 の間、ますます対立を深め、離れていった。その清正だけが行長のからくりを予知した
 疑惑を持ちはじめていた。行長の動きに胡散臭さを感じていた。そのため、清正は行長
 とは別なルートで明と接触していたのである。
・朝鮮や明側もこの日本軍のニ軍団長の確執に気づいていた。

・余談だがこの頃、朝鮮南海岸にたてこもった日本軍の軍団長たちは朝鮮人男女をあたま
 に日本に送っていた。開戦以来、彼等の領土は軍兵と農民徴発のため人手不足で苦しん
 でいたから、領内の労働力を補う必要があったからである。切支丹の行長でさえ、この
 悲しむ行為をやっていたように思われる。
・朝鮮作戦以来、領国は困窮状態になっていた。そのような領国に行長はやむをえず朝鮮
 人の男女を送ったのであろう。
 彼等のなかで有名なのは朝鮮貴族の娘、「ジュリアおたあ」である。彼女は行長の妻の
 侍女として宇土に送られ、切支丹の信仰を頼りに生き続けた。行長の死後は徳川家康の
 侍女となったが禁制の基督教を棄てなかったため、伊豆諸島に流され、神津島で一生を
 終っている。
 また行長は対馬にいる彼の娘マリアのもとに国王の秘書の子と貴族の故の二名を送った
 が、マリアは彼等をあわれみ、その一人を神学校に入学させたと報じている。
 
・今、行長は加藤清正を講和交渉からはずすことに専念した。
 行長は太閤の七箇条の条件を不敵にも無視した。この時、行長は完全にあの権力者を裏
 切ったのである。太閤に対する面従腹背のその姿勢は遂にここまで来たのである。彼は
 もはや太閤を本心では問題にしていなかった。あの老人はまもなくこの世から去るであ
 ろう。去ったあとの状況こそ、彼の今の最大の関心事だった。
・その予想通り、この頃、権力者の肉体はその放縦な生活のため、少しずつ蝕まれていた。
 文禄三年(1594)の七月には太閤の衰弱を知らせる手紙が三奉行から鍋島父子に送
 られている。死は少しずつ、確実のこの権力者を捕えはじめていた。しかも、明の朝廷
 が和議を成立させる前に死が権力者を襲うことを行長はどれほど祈ったであろう。
  
夢の砕かれる時・・・
・文禄三年(1594)の暮、行長の使者、内藤如安は遼東から北京への長い長い旅を続
 けていた。そして如安は一年半の歳月を経た後、十二月、目的地にたどり着いたのであ
 る。
・入京を許可したものの、明の朝廷はまだ日本の真意を疑った。行長はあくまで秀吉が冊
 封のみを求めていると主張しているが、その主張は清正の提出した条件とは食い違って
 いる。如安は明朝廷できびしい査問を受けねばならなかった。
・文禄四年(1595)、如安は石星にかねてから行長の指令によって作成した請願書を
 送った。これは言うまでもなく、日本側の冊封請願書である。その請願書には行長の意
 図が露骨で出ている。
・この請願書が如安の手で北京朝廷に提出された頃、日本国内ではまだ秀吉の後継者は養
 子の関白秀次と定められていた。文禄二年(1993)八月に秀吉は淀君との間に実子
 拾丸(秀順)をもうけていたが、しかしそれよりも早く、公式には秀次が後継者となる
 ことは天下、これを疑わなかった。  
・しかし、この冊封請願書のなかでは、現関白であり、公式的に豊臣政権の後継者である
 秀次は、軽視されているのである。
 行長は秀吉死後の徳川政権の見取り図を書いた。だがその見取り図には関白秀次の存在
 を彼は独断で軽視しているのだ。
 だがこの見取り図は、その後の秀次の運命を見透しているのだ。
・太閤と関白秀次との間にはこの文禄四年の四月頃から実はひそかな軋轢が生じつつあっ
 た。表面的にはこの四月、秀次は伏見城に太閤の御機嫌を伺い、太閤もその頃死んだ秀
 次の弟、秀保の死を慰める使者を出すなど、一応は円満なる関係を装っていたが、五月
 にいたり、秀次の反乱の噂が流れ、太閤は三奉行ほか冨田左近、徳善院の五人を使者と
 して、その真否を詰問し、秀次に起請文を差し出すよう命じている。
・七月にいたって秀次は太閤から伏見に召喚され側近の木下吉隆の邸にあずけられた。そ
 こから更に高野山に押し込められ、切腹を命ぜられている。またその眷族、姫、妻妾こ
 とごとく三条河原で極刑に処せられた。
・あまりに有名なこの秀次抹殺の大事件は拾松(秀頼)を得た太閤が養子の秀次を後継者
 にする気持を失ったためであり、また秀次の私生活が乱脈を極めたためでもあると言わ
 れている。 
・太閤の肉体は衰弱しつつあった。だがこの時期、彼はまだ病床に臥すほどには至らず、
 行長の頼りとする三奉行が政務をすべて代行しているのではなかった。行長は太閤の死
 を待ち望んだが、それが現実になるよりも北京における講和交渉のほうが早く進み出し
 ていた。彼の計算は誤ったのである。
・北京では内藤如安の査問が終わり、その請願書は受け入れられた。石星たち講和派は反
 対派を押し切って日本に冊封使を送り、この戦争に決着をつける諸準備を進め始めた。
 しかし彼等といえども日本軍が依然として南朝鮮に駐留していることは許せなかった。
 日本軍の全面的撤退が冊封の前提条件だったのだ。講和論者は行長にこの条件を伝える
 べく、使者、陳雲鴻を熊川の第一軍団司令部に送った。
・行長は陳雲鴻を迎えて狼狽した。日本軍の撤退というその要求に狼狽したのではない。
 講和交渉が彼の計算よりもあまりに早く進み、冊封使が近く北京を出発すると知らされ
 て狼狽したのである。 
 太閤はまだ死んではいない。彼が死ぬ前に冊封使が日本に到着すれば、行長の作った偽
 りの降表も一切のからくりも発覚してしまうのである。
・追い詰められた行長は窮余の一策を思いつく。それは冊封使を朝鮮雄どこかに留めて、
 できる限りその日本への出発を引き延ばすことである。このほか、この矛盾を切り抜け
 る方法はない。
・冊封使が朝鮮に入ればもうしめたものである。明政府はよほどの事情のない限り一度出
 した命令を引っ込める筈はあるまい。あとは日本軍撤退をできるだけ滞らせ、時間をか
 せげばよい。その間には太閤は病のため、政務を見ることができなくなるかもしれぬ。
 そうなれば行長と通じている三奉行が政務を代行するから、すべては発覚せずに講和は
 成立する。 
・だが、計算はまた失敗した。時間をかせぐという彼の作戦とは反対に北京の講和交渉が
 予想以上に早く進展したからである。冊封使は既に北京を出発していた。しかも彼等は
 その旅を遅らせることなく四月には沈惟敬や内藤如安と共に京城に到着する手筈となっ
 ていた。
・行長と沈惟敬は相談した。冊封使を遅らせることはできぬ。できぬとすれば日本軍の撤
 退を太閤に認めさせることしかない。と同時に二人がうった芝居を太閤に知られること
 なく、終幕まで持っていくより仕方がない。それが彼等の結論だった。
・しかしここにその芝居の嘘とからくりを気づきはじめた男がいた。その男とはいうまで
 もなく、加藤清正である。
 もしこの男が冊封使の渡日に際し、太閤にすべてを報告し、訴え出るならば、今日まで
 の苦心も講和交渉も音をたてて崩れるのだ。
・この時、行長は腹を決めた。彼は太閤に日本軍撤兵のやむをえざる事情を説明するため、
 更に清正を遠ざけるために、帰国する決心をしたのである。清正を遠ざけるためには、
 讒言という卑劣な手段を用いても今はやむを得なかった。
・行長がどのように太閤に日本軍撤兵の必要を説明し、その許可を求めたかは資料がない。
 資料はないが、彼がここでもこの権力者をだましたことは明らかである。それが行長の
 当初からの腹案であったか、それとも太閤が認めたかは不明だが、とにかく日本軍の過
 半数の撤退が許可された。
・行長は清正の非行を訴えた。それは、清正がたびたび自分を敵に対して侮辱し、その侮
 辱がどのように講和交渉に妨害を与えたか、また清正が許しなく豊臣朝臣と称し、越権
 行為を行った点などを指摘したのである。日本軍撤退とこの讒言が成功したのはもちろ
 ん石田三成たち三奉行の口ぞえと支援があったためである。
・全面撤退を主張する明は日本軍が一応は兵を返しながら遅々として進まずその軍隊の一
 部をまだ残していることを非難したが、行長の弁解と沈惟敬の確信ありげな報告に基づ
 いて、ともかくも京城に待機していた冊封使の副使楊方亭を釜山に往かしめた。続いて、
 正使の李宗城も九月、京城を発し、釜山に入った。
・起こった事件の真相については、いろいろな想像があって、どれが事実か、立証できぬ。
 その事件とは行長と惟敬とが日本に渡って三ヵ月後の四月、突然、冊封使の正使だった
 李宗城が「夜半、微服を以て」釜山の日本軍司令部から遁走したことである。  
 真夜中、李宗城は家丁の一人だけを連れ、微官に変装し、顔を布でかくし、日本兵をだ
 まして城門を開かせ脱走した。彼等は山谷にかくれ、三日間、飲まず食わずの後、慶州
 から京城に向かった、と言う。
・理由がどこにあるのか、わからない。ある説は李宗城が行長の娘であり義智の妻である
 マリアに手を出そうとしたため、義智の怒りをかい、身に危険を感じて逃れたと言い、
 別の説は日本軍は内心では彼を冊封使としてではなく人質として日本に送るという風説
 を耳にしたため、怖れて脱走したという。
・仮にこの正使脱走事件を沈惟敬の意識的工作であったとするならば、我々はその理由を
 次のように推論するより仕方がない。
 沈惟敬は冊封使が渡日後、何も知らぬために北京政府が錯覚している彼等の講和条件を、 
 そのまま太閤に伝えることを怖れた。それゆえまず正使を追い、自分がその冊封使の一
 人となるようにひそかに計画したとも考えられるからだ。
・事実、この驚くべき事件のあと、狼狽した北京政府はとりあえず、副使の楊方亭を正使
 にして、沈惟敬を副使にせざるを得なかった。それらの事情から見ると、この事件の背
 後には沈惟敬と行長の工作が考えられることもない。
・行長の讒言と石田三成たちの工作は功を奏し、加藤清正は太閤の勘気を蒙って四月、日
 本に召還の命令を受けて帰国せざるを得なかった。
   
・誰がこの時、大地震を予想していたであろう。誰がこの時、最終舞台を狂わせるものが、
 人間ではなくて天変地異だったと予知していたであろう。それは前例のないほど大きな
 地震だった。しかもその地震は長年にわたる行長と沈惟敬の工作、苦心の上にも苦心を
 重ねた仕上げまでゆすぶり、ひびを入れたのである。
・閏七月十三日未明御前三時地鳴りがした。大地が震えた。冊封使たちが謁見を受ける伏
 見城の天守閣は音をたてて崩れ落ちた。天守閣だけでなく、城を形づくるすべての建物
 も大破した。城内の多くの男女が死に、城下町の諸将の邸、ほとんどの民家も崩壊した。
 地震は伏見だけでなく京、大坂にも及んだ。
・伏見城にあった太閤は危く助かった。
 地震が起きた日の朝方、勘気を蒙っていた加藤清正は三百人の足軽い梃子を持たせて出
 仕し、中門の警備にあたった。秀吉はこの時、庭にうずくまった清正のやつれた顔を見
 て落涙し、怒りを解いた。
・八月に朝鮮の使節も堺に到着し明使と合流をした。そして明使だけの謁見が九月に大坂
 城で行われた。朝鮮使節に対しては太閤はまったく黙殺の態度をとった。
・太閤が怒りを見せるのは多くの場合、抜きうち的である。
 二日目も猿楽が催され、昨日贈られた赤い冠服をまとった太閤は機嫌よく酒盃を使節に
 与えたが、第三日、彼等と三度目の謁見を行っていた時、彼は突然、朝鮮出兵を宣言し
 た。
・この理由については従来、三つの見方がある。
 一つは三日目の謁見において冊封の国書朗読を僧、承兌に読ましめた時、「爾を封じて
 日本国王と為す」という言葉に激怒したという説であり、
 もう一つは、秀吉は明に対してではなく、朝鮮が使節と称して卑官を送り、しかも自分
 の掲示した条件をまったく履行していないことに怒りを発したという説である。
 三番目の説では謁見の儀が終わったのち、堺に戻った使節が朝鮮からの日本軍撤兵と駐
 屯地の破棄を要望したため、太閤は突然、憤激したと言う。
・我々は今日まで江戸時代の資料から、太閤が謁見の席上、突如として激怒し、感情の赴
 くままに再出兵を命じたと、とかく考えがちである。しかし太閤ほどの老獪な男が計算
 なしに行動を起こす筈はない。切支丹禁制礼の時もそうであったように、彼の「抜きう
 ち的」な指令には、考え抜かれた計算が隠されているのだ。もし太閤が謁見三日目に激
 怒したとしても、この時は既に朝鮮使節に対しては講和を結ぶ気持ちはなかったと見る
 べきである。
・彼は清正と行長との対立する報告の真偽を確かめるためにも明使との謁見を許した。
 そして三日間の謁見の間、彼は清正の意見の正しさをはっきり感じた。
・老獪な太閤はここで明の使節にわざと寛容な態度を示している。寛容な態度を示すこと
 で相手の気持ちを許させ、その本心と真意を暴露させるためである。彼は謁見後、堺に
 戻った使節たちに四人の僧侶を送り、その望むものを叶えたいと言わせたのである。
 この甘い餌に沈惟敬ほどの男がひっかかったのは太閤の術策があまりに巧みであったか
 らだろう。沈惟敬と楊方亭は、朝鮮にある日本軍城塞すべてを撤去してほしいと答えた。
・これで清正の報告が正しかったことは、はっきりと確認された。行長の欺瞞が明るみに
 出たのである。太閤は激怒した。
・行長はこの太閤の憤激から、どうして免れえたのか。本来なら処刑されてしかるべき裏
 切りだ。この時、淀君や前田利家が太閤をなだめ、「淀君がこの事件の張本人はこの自
 分であると告白」した、と言われている。
 太閤はこの欺瞞の背後に行長だけでなく三奉行、その他お有力な支持があったことに気
 づき、愕然とすると共に、彼等を処罰することの波紋と不利に気がついたのであろう。
 いずれにしろ、こうして行長の工作は発覚し、暴露された。
   
復讐と報復
・この講和条約が破滅した直後に日本切支丹史の上で見逃すべからざる事件が起こってい
 る。フィリピンを発しメキシコに向かっていたイスパニヤ船「サン・フェリーペ号」が
 台風に巻き込まれて流され、土佐の浦戸湾に流れついたのである。
 世の言う「サン・フェリーペ号」事件がこれである。
・太閤はこれを日本を侵略する武装船と見なして、船荷のすべてを没収し船員を留置せし
 めた。更に彼はこれを利用して今までゆるやかにしていたさきの切支丹禁止令を強化す
 ることを決心し、京都に黙認した形で在住していたフランシスコ会の宣教師たちをこと
 ごとく捕縛し、処刑することを命じた。 
・この事件は今までひそかに信仰生活を守り続けてきた太閤の切支丹家臣たちに大きな衝
 撃を与えた。ある者は殉教し、ある者は宣教師をかくまうために全力を尽くした。
・我々はこの逮捕事件が、やがて宣教師処刑の命令にいたる間に、切支丹ならざる石田三
 成が前田利家と共に太閤の怒りを和らげるために、並々ならぬ努力をしたことを知って
 いる。 
 まず彼は太閤がフランシスコ会のみならず、イエズス会の神父たちも捕縛することを命
 じたのを巧みに反対し、これをフランシスコ会だけに限ったことや、その残酷な処刑方
 法もできるだけゆるめるよう計っている。できれば三成としては、宣教師の助命も行い
 たかったのであろうが、太閤の怒りの前では、これが精一杯だったのであろう。
・一方、太閤は朝鮮と明との使節の退去を命ずるや、再出兵の準備にかかった。自らの威
 信を保ためには引くに引けなかったからである。
・その再征軍に行長はふたたび加えられた。本来ならば一族と共に処刑されて然るべき彼
 が一命ととりとめ、その領土と地位を認められたのは、まことに不思議である。
 おそらく太閤は行長を処罰することにとって起こる波紋を怖れたのであろう。
 第一に行長を処罰すれば、当然その背後にあった石田三成ほか三奉行にもなんらかの処
 置をとらざるを得ない。それは自らの手で豊臣政権の機能を麻痺させることになる。
 第二に行長を処置することはおのれが今日まで彼等にだまされていたことを内外に認め
 させることになる。 
 老獪な太閤はそれらの損得を考慮した上で一応、行長の裏切りに眼をつぶり過去を償わ
 せることを要求したのであろう。
・行長はもう自分の世俗的な野心については諦めていた。彼の世俗的野心とは太閤死後の
 豊臣政権下に明と朝鮮から支持された外務大臣、通産大臣になることだった。
 そのために行長はその智慧と術策の限りをつくして、どうにか講和の成立までたどりつ
 いたのである。だがすべて土壇場で決裂した瞬間、何もかもふり出しに戻った。第一歩
 からやり直さねばならなくなった。その野心も夢も音をたてて崩れたのである。
・この時行長の受けた打撃と落胆はどれほどだったのか。そして恨みはどんなものだった
 か。それを抜きにしては以後の彼の行動を考えることはできまい。
 切支丹ではあったが、同時に世俗的でもあったこの男は高山右近のように静かな諦念の
 境地を持ってはいなかった。
 彼が恨んだものとは何か。それは清正であり、太閤であり、そしてその太閤が面子のた
 めにふたたび行う戦争だった。
・講和を破裂させた太閤もすぐさま、疲れ果てた将兵をふたたび朝鮮に送ったのではなか
 った。彼もまた国内の疲弊と諸侯の厭戦感情を知っていたから、再度出兵を行うために
 は、一応の大義名分をたてる必要があった。
 彼はさきに釈放した朝鮮二王子が日本に謝罪に来るべきであると主張し、もしそれが入
 れられぬ時、再出兵すると宣言した。
・行長は出兵の命令を受けた時、秀吉にこう答えたという。
 「もし交渉が不可能なら、戦ってニ王子を連れて帰るより仕方ありませぬ。が、その勝
 敗は予想できませぬ」
 太閤は行長の答えに立腹した。
・戦いの勝敗は予想できませぬ。この行長の答えの裏にあるものを太閤は気づかなかった。
 太閤はたんにそれを行長の自信のなさ、勇気のなさのあらわれと考えて腹をたてた。
 だがやがてわかるように、行長はこの言葉に、太閤に対する挑戦をこめて口にしたので
 ある。  
・命を受けた行長は再出兵に先だって単独で釜山に渡った。釜山にはむなしく帰国してい
 た朝鮮使節が滞在していたが、その使節に彼は秀吉の意向を伝えた。彼はこの要求が拒
 絶されるぐらい、もちろん知っていた。彼が朝鮮に伝えたかったのはこの実現不可能な
 命令ではない。その時、つけ加えて言った次の言葉である。
 「あなたたちはいつも前の侵略に私が賛成していたと思っておるようだ。そうではなく
 関白の命令に違反できぬからやむを得ず出征したのだ。このことは自分の女婿である宗
 義智の場合も同じである。この事実を朝鮮朝廷に御伝え願いたい」
 この時行長は「今までこの和平の成らぬのはすべて清正のためである。自分は彼を深く
 憎んでいる。清正はかくかく日、海を渡って、この島に宿る筈である。水戦をよくする
 朝鮮側がこれを海で攻撃すれば勝利を獲るであろう」と言ったという。
・これは清正暗殺のための情報を行長は提供したということだ。朝鮮朝廷はただちにこれ
 を協議したが、かつて日本水軍を全滅させた李舜臣将軍のみ、日本側の謀略として反対
 した。だが、行長の提供した情報を決して嘘ではなかった。情報の示した日に加藤清正
 はその島に到着したからである。朝鮮側は絶好の清正襲撃の機会を失った。
・この結果、反対を唱えた李舜臣はその職を奪われた。李舜臣を失った朝鮮水軍は牙を失
 った虎にひとしく、やがて日本水軍のため大きな打撃を受けるようになる。
・清正を暗殺する手段を教えた行長は次々と重要な軍事機密を敵将に教えた。しかも一回
 ではなく、幾度も。機密だけでなく、その対策さえ示したのである。
・このような奇怪な行動を行った日本武将は歴史にあるまい。かつての和平工作では三奉
 行も彼をひそかに支持していたが、この内通は行長ひとりの単独行為だった。しかも日
 本人の誰も知らず、日本軍指揮官の誰も見ぬかなかったのである。

・慶長二年(1597)一月、太閤はあらたに編成した軍団を次々と朝鮮南岸に上陸させ
 た。行長は文禄の役と同じように大村、有馬、宗たち切支丹軍を中核とする軍団の軍団
 長に任ぜられた。   
・再出兵後、上陸した日本軍はただちに慶尚南北道の各地を占領した。水軍はかつて惨敗
 を喫した閉山島沖で、李舜臣を左遷した朝鮮水軍に大勝を博した。日本軍の勢に乗じて
 南原を攻略する準備を整えた。
・南原作戦では行長は宇喜多秀家を総司令官とする第一攻撃軍に編入され、この作戦に従
 わなければならなかった。一方、加藤清正は毛利秀元を司令官とする第二攻撃に加わり
 別の方向から共に南原を衝くことになった。
・宇喜多軍の先鋒を命ぜられた行長は、ほとんど無抵抗の泗川、南海を占領した。
 一方、清正も草渓、威安を通過して南原に肉薄した。
・五万に日本軍に対して、南原にたてこもったのは三千の遼東軍を主体とする雑軍にすぎ
 なかった。  
・これがこの慶長の役で行長が行った二つの戦いの一つである。彼としては戦いたくなか
 ったのだ。だがおのれのあの復讐を果たすためには味方をあざむかねばならぬ。彼は進
 撃した。しかし敵側には戦いに敗れても戦争で勝つ方法はちゃんと教えていたのである。
 なぜなら南原を陥落させたのち、不思議にも日本軍は京城に向けて進撃するのではなく、
 ふたたび撤退をして基地に戻っていったからである。
・その理由は明らかである。朝鮮側が徹底的に兵糧攻めを日本軍に加えたからなのだ。
 禾穀はすべてとり入れられ、野は焼かれていた。兵糧を現地で調達するつもりに日本軍
 にとってこれほどの痛手はなかった。
・行長の敵側に対する内通の通り朝鮮側は稲をかり、野を清めていた。文禄の役で苦しい
 飢えを味わった日本軍は、南原を攻略しても、もう北上できなかったのである。
・朝鮮側は日本軍の最大に弱点を見抜いて兵糧攻めにしたのが、果たして行長の献策に従
 ったためかどうかはわからない。しかし南原から京城に向かう当初の目的を放棄して撤
 退せざるを得ない日本軍を眺めながら、行長は疼くような悦びを感じたかもしれぬ。
 彼の報復には誰も気づいていない。復讐は成功したのである。
・日本軍の兵糧攻めによって撤収させたものの南原の陥落は朝鮮側にとって痛手だった。
 その朝鮮の要請に明は和平派だった石星を処罰したのち、ようやく五万の救援派遣軍を
 送ることを決定した。派遣軍は三つにわかれ、一万二千の朝鮮軍と合体して南下してき
 た。
・順天城とほぼ同じ頃、普請のできかかった蔚山城が、この南下する明・朝鮮連合軍に慶
 長二年(1597)の暮から包囲された。世に言う蔚山の戦いがこれである。
 行長ならおそらく退却したであろうが、加藤清正は兵糧も水も尽きたこの城を死守して
 苦戦ののち、年があけてようやく救援にきた日本軍と共に敵軍を壊滅させた。
・日本軍はもはや文禄の役のように破竹の進撃を行うことはできなくなっていた。兵糧の
 欠乏もさることながら、彼等が第二に怖れる朝鮮の冬将軍がまたやってきてからである。
 日本軍はその冬のために前進もできず、ただ防衛線に蝸牛のようにとじこもるより仕方
 なかった。   
・兵糧の不足、きびしい寒気のなかで慶長二年から三年の冬が終わった。蔚山の惨敗から
 立ち直った明はあらたに十万と呼称する派遣軍を編成し、今度は行長の順天城と島津義
 弘の守る泗川城とを攻略すべく南下してきた。
・行長は苦境に追い込まれた。彼としては明や朝鮮に戦意はもうなかった。できることな
 ら戦わずにすませたかった。彼は明や朝鮮が自分の内通を認めず、あくまで敵として眺
 めていることに不満だったが、どうすることもできなかった。
・この年の春三月、その権力者は秀頼や一族近臣、諸大名をつれて有名な醍醐寺の花見を
 行った。だが花見のあとから、とみに衰弱し、伏見城で臥す身となっていた。梅雨には
 いって衰弱はますます甚だしく、食べものも咽喉に入らぬ様で、七月には東西の大名を
 それぞれ伏見、大坂に集め、十一箇条の遺言を与える段階になっている。
・この七月中旬、明軍は順天城に迫ってきた。だが日本軍を怖れて容易に攻撃を開始せず、
 対峙したまま睨みあっていた。行長も決して自分からは攻撃しなかった。彼は太閤の死
 をひたすら待ちながら城に閉じこもっていたのである。
・八月に入ると秀吉の死はもう確実なものとなり、五大老、五奉行はさきの十一箇条の遺
 言にたいし、起請文をしたため、血判を押し、あの有名な末期の手紙をしたためた。
・明と対峙した順天城の日本将兵は、秀吉の病状は聞いていたが、七年にわたって自分た
 ちを異国の戦野に駆けまわらせたあの六十三歳の老権力者が、かくも気弱な、かくもあ
 われな遺言を書いたとは知らなかったであろう。太閤は伏見城の一室で遂に最期の息を
 引きとったのである。
・家康たち五大老と三成たち五奉行とは太閤の薨去のあと、在朝鮮将兵の動揺をおそれそ
 の喪を隠した。そして在朝鮮将兵の撤退準備にとりかかり、ようやく撤兵令が伝達され
 た。
・九月には諸将に、次の条件で敵側と和議を整え、本国に帰還するよう命令が出された。
 その条件とは、できれば朝鮮王子を人質とするがそれが不可能な場合は日本軍の体面を
 維持できるような貢物で充分だということである。 
・行長は早速、順天をとり囲む敵将に和議交渉を申し込んだ。敵軍はそれを一応、承認し
 たのち、これを利用して謀略を企んだ。すなわち行長が交渉のため城を出た時、伏兵を
 もって襲うことにしたのである。幸い、行長は危くこの暗殺をまぬがれ、急いで帰城し
 たが、この小事件にさえもそのあせりと、そのあせりを利用した敵側の作戦がよく出て
 いる。
・太閤が死んだという噂は当然、明・朝鮮連合軍の耳にも入った。日本軍の戦意喪失を狙
 って彼等は総攻撃をかけてきた。
 それまであまり戦意のなかった城内の日本軍が必死になって応戦したのは、自分たちに
 やっとなつかしい故国に戻れるという希望がでてきたためである。
・十月に敵軍が天順城の周囲から退却しはじめ、日本人の使者をたてて講和を申し込んで
 きた。もちろん行長はこれを拒む筈はなかった。
 泗川城にも敵側から和議の申し込みをしており、日本側も協議の結果、和議を受諾する
 方針をかためた。 
・行長は順天城に人質を要求し、足利時代と同じように朝鮮国王が変わるたびに、通信使
 を日本に送ることを条件に撤兵することを約した。
 だが彼はこの時も謀られたのである。彼はこの交渉は敵将の単独の行動であって朝鮮の
 連合軍があずかり知らぬことに気づいていなかった。
・一方、敵の水軍はまだ抗戦の意欲を失っていなかった。とりわけ、ふたたびこの方面の
 水軍司令官に復帰した朝鮮の名将李舜臣は撤退する日本軍を海上で撃滅する作戦をたて
 ていた。 
・行長と敵水軍との間には一応、撤退の条件が成立したが、敵水軍がこれで満足する筈は
 なかった。ひそかに機を狙っていた彼等は行長撤退の遅れを怪しんで迎えに来た泗川城
 の島津義弘の舟に、襲いかかった。世に言う露梁津の海戦がこれである。
・この海戦のおかげで行長たちは順天を脱出できた。彼等はそう義智の守っていた南海の
 沖に敵船が終結しているのを見て、外洋に逃れたのだ。
・危険は脱出できたものの、この海戦は行長に明・朝鮮との本格的な講和の望みを遂に諦
 めさせたようである。彼はもう疲れきっていた。以後の行長はそれ以上、明・朝鮮側と
 本格交渉を行うことをしな。そのまま釜山から日本に戻っているからである。
・前後七年にわたる愚劣にして、犠牲の多かった朝鮮侵略の戦争はようやく、これで幕を
 とじた。
・日本軍が守りぬいた城はすべて日本軍の手で焼かれていた。義弘は兵を出し、それらの
 城をひそかに偵察させたが、もはや日本兵一人も残っていなかった。
・朝鮮海峡の黒い海を見つめ、去りゆく朝鮮半島をふりかえりながら、行長は何を考えた
 であろう。  
 何という愚劣な戦い。意味のない消耗と出血と徒労。それらすべてはただ六十三歳で死
 んだ老権力者の命令によってなされたのだった。そしてその長い戦いが終わるためには
 行長のいかなる工作も術策もむなしく、結局はただ、その老権力者の死を待つほかはな
 かったのである。
・行長はこの時、あの別れた高山右近のことを羨ましく思ったかもしれぬ。右近はあれ以
 来、自分とちがって世俗的野心をすべて棄てた。行長が宇土領主となって以来、前田利
 家の保護を受けた右近は、以後、信仰と茶道との生活に生き、ふたたび領土を持ち、武
 将となる野望は持たなかったからである。
・その右近にくらべ、行長はその宣教師処刑の時でさえも、ひそかに石田三成に宥和工作
 は要請しても、ふたたび再征軍に加わらざるをえなかった。彼は世俗という鉄の首枷を
 はずすことはできなかったのである。
 世俗という首枷から解脱した右近の人生を行長はこの帰国の船でどれほど羨ましく思っ
 たであろう。 
 この時、小西行長は四十一歳だった。
 
鉄の首枷をはずす時 (最後の戦いとその死)
・慶長三年(1598)の秋、長い朝鮮侵略の戦いから行長は日本に戻った。それから二
 年後の慶長五年(1600)に関ヶ原の戦いに敗れ、京都の六条河原で処刑される。
・朝鮮から九州の土を踏んだ時、行長の心はその肉体と共に疲れ切っていたことは確かで
 ある。他のいかなる将兵よりも疲れ切ってきた。彼ほど術策と精力をしぼり、この無意
 味な戦争を終結させようとした者は日本軍のなかにいなかったからである。
 だが戦いが終わったのは、その術策、その努力のためではなかった。彼の努力がすべて
 失敗に終わった時に、老権力者が死に、その死によって長い戦争に終止符が打たれたに
 すぎぬ。
・行長はおそらく、もう自分の人生はこれで終わったと考えたにちがいない。四十歳をこ
 えたばかりの年齢は当時としてはもはや老境に入る。
 その老境の心境のなかでながりなりに切支丹である彼が世俗の夢、世俗の野望のむなし
 さを噛みしめていたとしても不思議ではあるまい。
 「むなしき望みを抱くにすぎず」
 「むなしき誉を求むるべからず」
 「汝等むなしき神々を恃恃むなかれ」
 という反省をもたらせる。それは他ならぬ彼の心友、高山右近が生きた信仰だった。
・当時、右近は前田利家の庇護のもとに加賀にあった。秀吉があのサン・フェリーペ号の
 事件から京都にいるフランシスコ会の宣教師たちを処刑しようとした時、右近もまた日
 本人信徒として捕縛されることになっていた。
 彼はこの知らせを聞くと悦び勇み、殉教の覚悟をきめ、伏見に滞在していた前田利家に
 別れを告げに来ている。 
 この右近の処刑は利家と石田三成の反対によってとりやめとなった。
・太閤が死んでからほぼ一年の間、豊臣政権ではまだ波瀾の兆しはそれほど見えなかった。
 外征軍の帰還、太閤の葬儀などの雑事に忙殺されている間はまだ無難だった。
 だが帰還した各軍団長の戦功が問題になりと、人事の不満や恩賞の不平が政務の局にあ
 たった石田三成に集中しはじめた。
・反三成派は五奉行の一人だった浅野幸長を中心に集まり、一方、三成派には行長、大村、
 有馬、毛利、寺沢などの切支丹武将が味方についたと言う。
・家康はこれら三成派と反三成派の確執を見逃さなかった。彼の老獪な動きはこの両派の
 確執を巧みに利用して着々と自分の勢力を拡げつつあった。
・そうして状況のなかで行長はもう、高山右近のように、ただ「信仰」だけに生きるわけ
 にはいかなかった。世俗という首枷は彼の首をしっかりと締め付けて離さなかったので
 ある。
・文禄四年の取決めを無視し、縁組によって勢力拡大を計ろうとし露骨にその野心を見せ
 始めた家康に石田三成は警戒の念を抱いた。三成は家康と共に五大老の重鎮である前田
 利家
を通してこの縁組問題について抗議を申し込んだ。三成をあまりよく思っていなか
 った利家も、家康の横暴を見逃すわけにはいかなかった。
 利家と家康の対立はこうしてはじまり、諸侯もまた両派にわかれ、一時は両者、兵備を
 固めるという緊張した状態となった。
・一触即発だったこの対立は浅野幸長、細川忠興、加藤清正らの必死の調停で一応は鎮火
 した。家康は利家の老衰を知ってこれと戦うよりは、その死を待つほうが得策であると
 考えたのである。
・三成派では当時、大坂の藤堂高虎の邸に泊った徳川家康の暗殺を小西行長の邸で計画し
 ている。計画は三成の重臣、島左近の献策によって行われたが、この案に賛成したのは
 行長ただ一人で、五奉行の前田玄以も増田長盛も消極的だった。
 一方、家康も万一を怖れて藤堂邸に加藤清正、福島正則、細川忠興らの兵を集めて警戒
 を怠らなかったので、三成たちも遂に襲撃を思いとどまったという。
 
・秀吉が死んだ翌年の慶長四年、行長の婿の宗義智は五大老の一人である家康の許しを得
 て朝鮮との友好を恢復しようと試みた。彼は家臣の梯七太夫をこの目的のため渡海させ
 たが、もとより日本のため国土を蹂躙された朝鮮側がこれを受ける筈はない、梯七太夫
 も、続いて使者となった吉副左近も捕らえられて戻ってこなかった。
・一方、行長もこの慶長五年(1600)の二月に寺沢広高や宗義智と朝鮮国礼曹に講和
 を求め、捕虜百六十名を送還したが、もとよりそれによって両国友好が恢復する筈はな
 かった。
・行長の野心はむなしくなった。というより彼はあの戦争を通して人間の意志が大きな運
 命の前ではどんなにもろいものかを身にしみて味わったのである。朝鮮や明と戦うこと
 は彼の本意ではなかった。だが大きな運命の流れのなかで彼は出陣せねばならなかった。
 老権力者に引き立てられた行長にはこの老権力者はまた彼を左右する運命でもあった。
 その運命の操り人形とならぬために行長は面従腹背の姿勢を選び、はかない抵抗を試み
 たが、その抵抗がむなしかったことは彼自身が今、一番知っていることだった。
・権力者は死んだ。しかし運命はそれで終わったのではなかった。あたらしい運命が今、
 また地平線の向こうに不吉な、黒い雲のようにあらわれ、好むと好まざるとにかかわら
 ず行長をそこに巻き込もうとしている。運命に抗うことの無意味さ、むなしさを彼はも
 う知っている。 
・家康と戦ってもおそらく勝ち目は薄い。しかし戦う運命である。一方で、三成が歴史に
 結末をつけるために利家なきあとも家康と決戦を試みるならば、行長は野心のためでな
 く運命に身を委ねるために、この「勝ち目なき戦い」に加わったのである。
・三成や行長が家康に対抗する勢力として前面に押し出した前田利家は、慶長四年三月に
 死んだ。年六十二歳である。
・この利家が死んだ夜、かねて三成を憎んでいた加藤清正、福島正則、細川忠興たちが三
 成を襲撃しようとした事件が起った。三成は皮肉にも家康の保護を求めて、辛うじて助
 かり、その代り佐和山に引退することを命じられたが、この時、行長が三成と共にすべ
 てを棄てて運命を共にすることを願い、同行を願ったが、三成はそれを辞退したと言う。
 当時の行長があたらしい野心のために反家康の陣営に加わったのではなく、ただ三成へ
 の友情と義理だてでこの派閥争いに巻き込まれたことを示している。
・慶長五年七月、光成派は利家のかわりに五奉行の末座にある毛利輝元を総帥として十三
 箇条からなる弾劾の文章を家康と諸大名に送った。いわば宣戦を布告したのである。
・皮肉な運命に巻き込まれ、勝ち目の薄い戦いに加わった行長の行動を見ると、我々はそ
 れが形にあらわれぬ自殺と考えざるをえないのである。
・軍人でありながら切支丹の信者である行長はどんなに希望がなくなり屈辱的な状況でも
 自殺は許されない。それは彼の信ずるイエスが最後まで思い十字架を、人生の苦しみを
 背負っても決して自殺しなかったからである。
 しかし他の多くの切支丹大名がさまざまの功利的な計算の上、家康側についた時も、行
 長があえて勝ち目薄き西軍派に身を賭けたのは三成への義理やそうならざるを得ぬ事情
 もあったろうが、我々には彼が無意識に世俗的世界の野心や功利の渦から離れようとす
 る気持とひそかに死を願う心を抱いていたような気がしてならないのだ。
 長い朝鮮戦争で行長は疲れ果てていた。彼の首をしめる世俗的な野望の渦、この鉄の首
 枷をもう取り除きたいという願いはあの朝鮮戦争のあとから彼の胸に去来していた。
 朝鮮戦争の挫折は彼にこの世で何一つ頼るもののないこと、すべてがはかないことを教
 えたのである。
・東軍の進撃は急速だった。この時、三成も行長も内心では諸部隊の士気が衰え、味方に
 一致結束の欠けていることを知っていたのである。その上、彼等は総司令官となる筈だ
 った毛利輝元があまりにも弱気な点に悩んでいた。
・このように戦いに勝利おぼつかなきことを三成も行長も見通していた。見通しながらこ
 の二人は決戦場の関ケ原に向けて出発せねばならない。一人は歴史に結末をつけるため
 に、一人は緩慢的な自殺のために・・・。
・小西軍と戦った寺沢広高も他ならぬ切支丹の信徒である。秀吉の命令で長崎奉行となっ
 た頃、彼は最初は切支丹を憎み教会を破壊していたが、やがて宣教師に対する感情を変
 え、心を変えて信者となった。あのサン・フェリーペ号事件の折、京都のフランシスコ
 会宣教師と信徒が処刑されることとなった二十六聖人殉教事件のときにその指揮を命ぜ
 られたのは彼だったが、広高は三成と共にこれら宣教師の厳刑を寛大な罰に変えようと
 試みている。  
・正午、形勢を見ていたその小早川秀秋の軍に家康の旗本と福島隊が銃撃を向け、東軍に
 参戦させた。この銃撃に怯えたか彼の軍勢は、山をくだり西軍の大谷吉継の部隊を衝い
 た。吉継の軍勢は小早川勢を五町あまり追いまくったが、側面を支えていた味方の筈の
 朽木、小川、赤座の諸軍が突然、東軍に内応したのである。
 兵は乱れ吉継は自決し、部下もほとんど玉砕した。このため行長の軍勢が崩れた。宇喜
 多軍も三成の軍も退却を開始した。ひとり踏みとどまり、奮戦したのは島津義弘部隊の
 みである。
・遁走する部下にまじって三成は西北の山に逃げた。行長もまた夜来の雨で歩行困難な伊
 吹山の東北の方向に向かって落ちのびた。彼に何人、従ったかはわからない。
 おそらく従う者もなく、山道をたどって炭焼きでのみ生計をたてていた山村に到着した
 のである。行長は進んで縛についたのである。彼は寺の僧と林蔵主という関ヶ原の住人
 におのれの名を打ち明けた。
・行長は林蔵主の家に連れていかれたのち馬に乗せられ、草津の家康の家来である村越茂
 助の宿所まで連れていった。村越茂助はここで行長に縄をかけ首に枷をはめた。
 林蔵主には黄金十枚が与えられた。イエスがユダに僅かな金で売られたように行長も林
 蔵主に黄金十枚で売られたのだった。
・他方、石田三成も伊吹山をめざして逃げ、従う家臣とも別れて、ただ三人の従者のみつ
 れ、近江浅井郡の草野谷と小谷山とに潜伏、その後三人に別れ古橋村にある母の菩提寺
 の三珠院に隠れていた。
・三成と行長とはこのように別々に捕縛されたが大津の家康の陣の矢倉に同じく京都六条
 で縛された安国寺恵瓊と共に留めおかれた。
・三成と行長と恵瓊との三人は、家康の家臣、柴田左近、松平重長に護られてまず大坂に
 連れていかれた。大坂と堺とで町で引きまわしの屈辱を受けるためである。
 堺と大坂で引きまわされたのち、三人は京都に連れていかれた。
・処刑の当日、馬の代りに三台の荷馬車に乗せられて三人は刑場の六条河原に向かった。
 この時も三成、恵瓊、行長の順番だった。
・この時、仏僧たちが現われ彼等に説教しようとしたが、行長は大声をあげてこれを断り、
 「私は基督教徒だから仏僧たちと何の関係もない。私も天上に憧れているが、彼等の望
 む天上の生活と一緒になりたくない」
 こう言ってロザリオを手にして大声で祈りを唱えた。
・刑場について時も一人の高僧が供に囲まれて現われ、三成と恵瓊に経に接吻させ、つい
 で行長の頭にもこの経を載かせようとしたが、この時も彼は体よく断った。
・今や鉄の首枷をはずす時が来た。彼はもうただ一つのことのほかは何も望まない。何も
 見ない。彼の鉄の首枷だった現世での野望も野心も消え去ったのである。
 今まで肌身から離さなかったキリスト教と聖母の絵を行長は両手で捧げ、三度、頭上に
 頂き、「晴朗なる顔をもってしばらく天上へ両眼を見据えてから御絵を眺め」、介錯人
 に首をさしだした。その首を介錯人は三太刀で前に落とした。