イザベラ・バードの旅 :宮本常一

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この本は、明治11年にイギリスの探検家・イザベラ・バードが、東京から日光や東北を
通り北海道まで旅行した時に記した旅行記「日本奥地紀行」を解説した本である。
以前、この「日本奥地紀行」をもとに書かれた小説「ジャニー・ボーイ」(高橋克彦著)
の本を読んで、このイザベラ・バードの「日本奥地紀行」にとても興味を持ち、この本に
眼がとまった。
小説「ジャニー・ボーイ」では、新潟までで終わっていたが、この本は、その先の山形県、
秋田県、青森県と進んで津軽海峡を渡り北海道まで行った内容が書かれている。
なぜ、イザベラ・バードは北海道まで渡ったのかというと、彼女はアイヌに非常に興味を
持っていたからのようだ。

特に私が興味を持ったのは、やはり、山形県と秋田県を通ったときの内容である。福島県
の会津地方を通ったときは、当時の会津地方の悲惨な状況ばかりの内容が続いて、気が滅
入ることが多かったが、山形県の置賜地方を通ったときには、「ここはアジアのアルカデ
ヤ(桃源郷)である」とイザベラ・バードに言わしめたほど、この地方の人びとは豊かな
生活をしていたらしいことを知って、ちょっとうれしくなった。秋田や津軽あたりでも、
比較的豊かな生活が営まれていたらしい。
これはやはり、明治維新時に旧幕府側についた藩と新政府側についた藩の違いが出ている
ような気がした。
米沢藩
・山形藩(山形県)や秋田藩(秋田県)、津軽藩(青森県)は早々に新政府側に寝
返ったようだが、会津藩は最後まで幕府側につき、新政府側から攻め込まれ(会津戦争)、
藩内はすっかり荒廃してしまっていたようだ。明治に入ってからも、新政府に逆らった藩
として、その影響が長く続いたからではと思えた。
特に私が不思議に思ったのは、イザベラ・バードが会津の中心地である会津若松の傍を通
りながら、会津若松には立ち寄らなかったことだ。イザベラ・バードが来日したのは、
戊辰戦争終了(明治2年)から9年後だが、その頃はまだ会津若松内は戊辰戦争の傷跡が
色濃く残っていたからかもしれないと個人的には思った。

ところで、この本を読んで初めて知ったのであるが、日本に元々いた馬というのは、ロバ
みたいに非常に小さい馬だったようだ。テレビや映画などに出でくる戦国時代の馬は、み
んなすばらしく立派な馬ばかりなのだが、本当は、当時はあんな立派な馬なんていなかっ
たのだという。現代のような大きい馬になったのは明治に入ってからで、軍馬としての必
要性から海外の馬を輸入などして、馬の改良を進めた結果だということのようだ。
そうだとすると、武田信玄の有名な騎馬戦団などといっても、甲冑を身にまとった武者た
ちが、ロバみたいな小さな馬に跨っていたことになる。その光景を想像すると、なんとも
滑稽に思えてくる。

また、この旅行記では、イザベラ・バードが蚤にたいそう悩まされたようであるが、蚤と
いうのは、今でこそ、すっかり鳴りを潜めているが、明治時代の日本には、すごい量の蚤
がいたようだ。西洋では蚤は、病原菌を運ぶものとして古くから知られ恐れられていたよ
うだが、日本は昔から外国との交流がほとんどなかったため、海外ほど蚤を媒介とした流
行病はそんなに多くはなかったため、蚤に対しての警戒感はあまり高くなかったようだ。
そのため、日本では昔から蚤が蔓延し続け、蚤に対する抜本的な対策が取られたのは、終
戦後に米国から入って来た殺虫剤であるDDT散布によってであった。私自身も小さな子
供だった頃に、このDDTを背中から肌着の中に散布された記憶が微かに残っている。
しかしその後、このDDTは、「沈黙の春」(レイチェル・カーソン著)によって、鳥や
益虫を殺し、さらに人間の命まで脅かす恐ろしい毒性があるとその危険性が指摘され、今
ではほとんどの国で、その使用は禁止されている。

なお、このイザベラ・バードは、新潟で、「パーム博士」と出会ったという記録が残って
いるという。調べて見ると、この「パーム博士」というのは、イギリス 出身の医療宣教
師のようである。1874年(明治7年)に来日し、東京に滞在して日本語を学んだよう
だ。その後、新潟に入って医療伝道を開始したようである。1879年(明治11年)に
新潟の中条に家を購入して説教所にしていたようだ。おそらく、この頃にイザベラ・バー
ドと出会ったのだろうと推察する。また、新潟でのパーム博士の伝道活動を支援したのが
押川方義」という人である。この「押川方義」はその後、仙台に入り、仙台神学校(現
東北学院)や宮城女学校(現・宮城学院)を創設していて、仙台とも縁が深かった人物
だ。

余談になるが、このイザベラ・バードの旅を題材にして高橋勝彦著の小説「ジャーニー・
ボーイ」では、この通訳者の伊藤については、ずいぶんと格好よく書いているが、この本
を読むと、伊藤は、あまり品行方正な人物ではなかったようだ。それでも、当時は、通訳
できる者は、希少で、そんな伊藤でも通訳に雇わざるを得なかったのであったのだろうと
想像する。

過去に読んだ関連する本:
ジャーニー・ボーイ


穀物や果物が豊富で、地上の楽園のごとく、人びとは自由な生活を楽しみ、東洋の平
和郷というべきだ

・モースやイザベラ・バードが日本を賞めるというのも、汚い部分が見えないで賞めたの
 ではなく、彼女たちの育ってきたヨーロッパの文化と、日本の文化を比較した上で感じ
 たことではないかと思います。
・イザベラ・バードという女の人が、初めて日本へ渡って来たのは47歳だったと書かれ
 ています。そしてまず東北から北海道の南部、アイヌの住んでいる地帯を三カ月ほどか
 けて歩いて、その後何度も日本へやって来ているのです。やはりそれは魅かれるものが
 大きかったのだと思います。
・イザベラ・バードの場合は、18歳になる伊藤という男(まことにいかがわしい通訳)
 がついて旅をしている。どこかにずるいところがあるのですが、それでも二人が非常に
 充実した旅ができたというのは、やはり日本人の持ち人のよさみたいなものがあったの
 ではないかと思います。  
・まず、彼女が最初に驚いたのは、富士山の美しさなのです。のちに、フジヤマ、ケイシ
 ャガールが外国人の日本に対するイメージになったといわれますが、やはりその通りで、
 日本へ来て最初に心を打たれるのが、富士山だったのではなかろうかと思います。
・近頃では富士山を自慢する人がいなくなって来ました。今ではみなが登っている山にな
 りましたが、もとは非常に強い信仰の対象になっておりましたし、また風景の対象にも
 なっていました。 
・織田信長や豊臣秀吉までがやはり富士山を見に行くことに、大きな希望を寄せていたこ
 とがわかります。日本人全体が富士を尊敬していて、同時のまた信仰の対象にもなって
 いる。それほど富士は大きな権威を持っていた。
・イザベラ・バードが富士を見て感激したのとは、質的には同じものだったと思います。
 つまり美しさに対してわれわれは信仰の対象にしただけで、人が物に感動するというの
 は、ヨーロッパ人でも、日本人も本質的には同じなのだということをいいたかったので
 す。
・「かれらはみな単衣の袖のゆったりした紺の短い木綿着をまとい、腰のところは帯びて
 締めていない。草履をはいているが、親指と他の指との間に紐が通してある。頭のかぶ
 りものといえば、青い木綿の束(手拭い)を額のまわりに結んでいるだけである。その
 一枚の着物も、ほんのもうしわけにすぎない着物で、やせ凹んだ胸と、やせた手足の筋
 肉をあらわに見せて、皮膚はとても黄色で、べったりと怪獣の入れ墨をしている者が多
 い」
・「上陸して最初に私の受けた印象は、浮浪者が一人もいないことであった。街頭には、
 小柄で、醜くしなびて、がにまたで、猫背で、胸は凹み、貧相だが優しそうな顔をした
 連中がいたが、いずれもみな自分の仕事をもいっていた」
・日本人からみれば乞食なのですが、外国人からみると違った。下駄の歯替えをするとか、
 きせるの掃除をするとか、何か仕事をしていたというのです。何も仕事をしないでお金
 や物をもらう乞食もいたのですが、その多くはレプラ(ハンセン病)の患者だったわけ
 です。 
・「外には、今では有名になっている人力車が、50台ほど並んでいた。あたりは騒音に
 満ちていた。この乗物は、日本の特色となっており、日々に重要性を増しているもので
 ある。発明されたのはたった7年前なのに今では一都市「東京」に2万3千台近くもあ
 る。
・「しかし、車夫稼業に入ってからの平均寿命は、たった5年であるという。車夫の大部
 分の者は、重い心臓病や肺病にかかって倒れるといわれている」
・日本には馬車がなかったし、馬車の通る道がなかったため、結局人力車がこのように発
 達していったわけで、人力車の通れる道さえあれば、これがすぐ全体のものになってい
 ったのです。むろん江戸時代にはこういうものはなく、明治になって許されて流行する
 ようになるのです。 
・「日本旅行で大きな障害となるのは、蚤の大群と乗る馬の貧弱なことだ」
・蚤は戦後アメリカにDDTをふりまいてもらって姿を消すまでは、どこにもすごくいた
 のです。田舎に行くほどひどくて、座敷へ上がるとパッと2、30匹とびついて来るこ
 とが多かったのです。これが日本ではごく当たり前のことだったのです。
・明治のはじめまでは、日本の馬は非常に小さかったのです。馬は原種というのは北アメ
 リカで、多くの化石が出ているといいますが、それはロバより小さく、犬の少し大きい
 ぐらいのものです。それがベーリング海を渡ってアジアへ入って来るのです。長崎の五
 島に馬の化石がいくつか出ていますが、それがやはりロバより小さな馬の化石なのです。
・「魏志」の魏人伝には、日本には馬がいないと書いてある。しかし実はいたのだが、そ
 れは非常に小さい馬だったんです。だからそれを乗りこなすことはなかった。その馬が
 日本全体に拡がっていったのではないか。
・しかしその後騎馬民族が日本に入って来た頃からやや馬が大きくなる。つまり乗ること
 に耐える馬が入って来るのです。 
・もとは皆小さい馬だったろうと思われることは、鎌倉から掘り出された、ちょうど北条
 氏が亡びる頃と思われる馬の骨がやはり小さいのです。すると、鎌倉の終わり頃までは
 日本の馬は小さかったとみてよいのではないか。
・それが江戸時代の初めから、オランダ、イギリス経由で九州へアラビア馬が入って来、
 それとかけ合わせることにより次第に大きくなって来るのですが、すべての馬が大きく
 なったわけではないのです。
・もう一つ、支倉常長が伊達政宗の命令でメキシコ、スペインへ行きます。スペインで洗
 礼を受けた後、ローマに赴き教皇に謁見します。しかし、帰る時にはキリシタン禁制に
 なっていて、いきなり日本へ帰ることが許されないのでルソン(フィリピン)のマニラ
 へ行き、そこから帰ることになるのですが、その時にアラビア系の馬を手に入れて帰る
 のです。たいへんな手柄をたてた人なのですが、キリシタンなので多分、殺されたので
 しょうが、帰って2年くらいで死んでいます。しかしその時に持って来たといわれる馬
 が仙台の西の方の、もと宮崎村という所の牧へ移された飼育されて、かけ合わせが始ま
 って、次第に馬が大きくなる。仙台藩や東北南部の馬の中には体系のかなり大きい馬が、
 その頃から出てくるようになるのですが、全体としては、蒙古系の、それも訓練されて
 いない馬が多かったのです。そのために、日本では江戸時代、ついに馬車が発達しなか
 ったのです。
・馬が大きくなったのは、明治になって陸軍で馬を使うようになり、馬の改良をするよう
 になってからなのです。
・「日本人は、西洋の服装をすると、とても小さく見える。どの服も合わない。日本人の
 みじめな体格、凹んだ胸部、かにまた足という国民的欠陥をいっそうひどくさせるだけ
 である。顔につやがなく、髭を生やしていないので、男の年齢を判断することはほとん
 ど不可能である。鉄道員はみな17歳か18歳の若者かと想像したが、実際は25歳か
 ら40歳の人たちであった」
・「品川に着くまでは、江戸はほとんど見えない。というのは、江戸には長い煙突がなく、
 煙を出すこともない。寺院も公共建築物も、めったに高いことはない。寺院は深い木立
 の中に隠れていることが多く、ふつうの家屋は、20フィート(約7メートル)の高さ
 に達することは稀である」 
・東京へ近づいていっても、全然東京が見えなかった。しかもそこに世界で一番大きい町
 があったのです。明治のはじめにはすでに東京の人口は100万人いたわけでロンドン
 の3倍以上の大きな町があったのに着くまではわからなかった。つまり工業がなかった
 ってことです。
・長崎奉公と称して、長崎周辺の農村から女の人たちがずいぶん女中奉公にいったのです。
 江戸時代から明治の初めにかけて行ったのですが、長崎で女中奉公するような家という
 と、長崎奉行がおり、侍がおり、また上方の問屋の手先などがおったのですが、彼女ら
 が誇りにしたのは実は中国人(清国人)の家へ女中奉公に行くことだったのだそうです。
 これは実際に女中奉公した人から聞いた話です。まず第一に給料が良い。それから日本
 人のように女中を頭ごなしに怒ることがない。そのくせ、道徳のやかましい国ですから、
 しつけは非常に良かったというのです。そうしていて、つい妾になるなんてのも多かっ
 たけれど、ともかく中国人の家庭で奉公して来た方が嫁入り先なんかは多かった。
・ところが日清戦争で中国が負けると、途端に日本の方がえらくなってしまって、中国人
 のことをチャンコロと言うようになるのです。
・イザベラ・バードは通訳を探すのに、大変苦労しているのです。3人の男に会って、ど
 の男も思わしくないのです。  
・「ヘボン博士の召使いの一人と知合いだという、なんの推薦状も持たない男がやってき
 た。彼は、年はただの18だったが、がにまたでも均整がよくとれて、強壮に見えた。
 顔をまるくて異常の平べったく、歯は良いが、目はぐっと長く、瞼が重くたれていて、
 日本人の一般的特徴を滑稽化しているほどに思えた。私はこれほど愚鈍に見える日本人
 を見たことがない。しかし、ときどきすばやく盗み見するところから考えると、彼が鈍
 感であるということは、こちらの勝手な想像かもしれない」「私はこの男が信用できず、
 嫌いになった」 
・といいながらついにこの男を雇うことになるのです。そして三カ月間一緒に歩いてみる
 と意外なほど誠実な人だということがわかって来るのですが、それは日本人の一つの特
 色ではなかろうかと思うのです。
・信用のおけなかった伊藤にまかせ切らなければならないものをおぼえるようになってく
 る。それは彼自身が、それだけの才能と行動力を持っていたということになります。そ
 れは、彼が推薦状を持たずに自分を売り込みに来たということで、自分ならこの仕事を
 やっていけるという自信を持っていたのだろうと思います。
・日本人の中には二つのタイプがはっきりもうこの時から存在していた。それはつまり笠
 に着るタイプと実力でいこうというのとがあって、一般民衆は実は伊藤的な自分の力で
 もって働き地位を保っていこうとする。あるいはうそはつかないという、そういうグル
 ープが大きな厚みで最下層のところにあった。すぐその上にあるいはその端々にはごま
 かしたり、笠に着て生きている人たちがいたわけです。ところが外人たちはその笠を着
 た人たちとのつき合いが多かったのではないかと思います。だから、もう一つの日本人
 の姿を彼女は旅先で痛いほど見ることができて、感激をおぼえるのです。うそもごまか
 しもそこにはない。今もそのとおりだと思います。

蚤の大群が襲来したために、私は携帯用の寝台に退却しなければならなかった
・まず粕壁(春日部)に泊まるのですが、
 「蚤の大群が襲来したために、私は携帯用の寝台に退却しなければならなかった」
 と、他の所にも出てくるのですが、当時の日本にはすごいほど蚤がいたころがわかりま
 す。蚤は家の中だけではなく、人の住まない山中にもいたのです。
・彼女が旅に出て最初にぶつかった問題は蚤だったわけで、外国人としてはおそらく驚い
 たことだろうと思うのです。日本人にとっては蚤に喰われることは当たり前のことだっ
 たけれども、やはりこのくらい嫌なものはなかったと思うのです。
・今、青森、弘前に”ねぶた”(弘前では”ねぷた”)という行事があります。いろんな伝説
 がついていますが、これは”ねぶたい”ということで津軽では”ねぶた流し”といっていま
 す。また、秋田の米代川流域から雄物川流域にかけては”ねむり流し”といい、富山県あ
 たりまでこの言葉がみられます。つまり、夏になると蚤に悩まされてみなねむいので、
 そのねむ気を流してしまおうというのです。
・津軽は小さな車を作り、外側に竹で提灯を作って中に灯をともしてそれを流したのです
 が、ずっと南の方へ行くと笹の葉に蚤をのせて流すのです。結局われわれのねむりを妨
 げるのは蚤であるという考えがあったのです。
・外国では蚤は種々の病菌を持ち歩くとして恐れられたのですが、日本では流行病が少な
 いことで、それほど大きな被害を及ぼさないってことで、笹の葉に乗せて流すまじない
 くらいのことですんでいたのではなかったかと思うのです。
・「上着は、いつもひらひらと後ろに流れ、龍や魚が念入りに入れ墨されている背中や胸
 があらわに見せていた。入れ墨は最近禁止されたのであるが、装飾として好まれたばか
 りでなく、破れやすい着物の代用品でもあった」
・入れ墨は西日本には非常に少ないのです。関東に多いのです。つまり夏の服装が、関東
 と関西では違っていたということで、関東では裸が多かったという記事がしきりに出て
 くるのです。着物と着ると走りにくいとか仕事がしにくいとか、帯をしめなければなら
 ないので、それだけでも汗ばむとか種々理由はありましたが、関西には”じんべ”という
 ものがあって、風通しが良く、紐で結ぶので帯がいらない。極最近まで大阪の人は平気
 で着て歩いていたのです。女だとじんべの下に腰巻きをして、割合い涼しいもので、
 西日本では裸になることが少なかったのです。ですからこういうことは外人の観察がぴ
 ったり当たっていることがわかります。
・「下層階級の男性の多くは、非常に醜いやり方で髪を結う。頭の前部と上部を剃り、後
 ろと両側から長い髪を引き上げて結ぶ。油をつけて結び直し、短く切り、固いまげを前
 につき出し、もとどおりの後部に沿って前方に曲げてある」
・断髪令が明治4年に出るのですが、明治11年頃まではまだまげを結っていた人がたく
 さんいたことがわかります。すると車夫というのは、入れ墨をしているし、ちょんまげ
 を結っていて、とても時代遅れの人たちのように思うのですが、とても良い人たちなの
 です。   
・「車夫たちが私に対して、またお互いに、親切で礼儀正しいことは、私にとっていつも
 喜びの源泉となった」
・「今まで私に親切で忠実に仕えてくれた車夫たちと別れることになった。彼らは私に、
 細々と多くの世話をしてくれたのであった。いつも私の衣服から塵をたたいてとってく
 れたり、私の空気枕をふくらませたり、私に花をもってきてくれたり、あるいは山を歩
 いてのぼるときには、いつも感謝したものだった。そしてちょうど今、彼らは山に遊び
 に行ってきて、つつじの枝をもって帰り、私にさようならを言うためにやってきたとこ
 ろである」
・見た目には無智に見える車夫がそうではなかった。これはイザベラ・バードだけではな
 く、日本を旅行した外人の記事の中にも人力車夫の悪口は殆ど出て来ないのです。当時
 の馬車は、まだ自分の意志通りには走らなかったし、やはり今日のタクシー代わりに使
 えるのは人力車だったわけですから、一番外人に接触する機会を多く持ったのは、この
 人力車夫たちで、彼らが外人に非常に良い印象を与えていたのです。
・どの家も前が開けてあるから、住んでいる人の職業、家庭生活が実際すっかりまる見え
 であった。これらの家の大半は路傍の茶屋で、売っているのはたいていお菓子、干魚、
 漬物、餅、干柿、雨笠、人馬の草鞋であった」
・「私の車夫たちは数マイル元気よく走ってから、ある茶屋の中に車を乗り入れた。私が
 その庭園で腰を下ろしている間に、彼らは茶屋で食べたり煙草を吸っていた。庭は、陶
 器類、なめらかな飛び石、金魚が泳いでいる小さな池、奇形の松、そして石灯籠から成
 り立っていた。茶屋というのは、お茶や茶菓をとったり、それをいただく部屋を貸して
 もらたり、給仕をしてもらう家のことである」
・日本では茶屋と宿屋とはごく最近まではちゃんと区別があって、立派な家でも茶屋だと
 絶対に泊めなかった。それが昭和の初め頃に両方を兼ねる割烹旅館というのが関西に出
 て来たのです。大名が旅をする時も、泊まるのが本陣、休むところが茶屋だったのが、
 しまいには一緒になって茶屋本陣というのが出てくる。
・「私たちが路傍の茶屋で休んでいる間に、車夫たちは足を洗い、口をゆすぎ、御飯、漬
 物、塩魚、そして「ぞっとするほどいやなもののスープ(味噌汁)の食事をとった」
・よっぽど味噌汁というのは外人にとっていやなものだったようで、漬物もいやがります
 が、これはやはり匂いの問題だと思います。しかし日本人にとっては味噌汁ほど大事な
 ものはなかった。特に関東から東北にかけては味噌汁の使用量は非常に多かったのです。
・「どの茶屋にも清潔な感じのする木製か漆器の蓋つき飯櫃がある。熱い御飯は、注文の
 場合を除いて、毎日三度しか用意されない。お櫃にはいつも冷飯が入っており、車夫た
 ちはその飯に熱いお茶を注いで熱くして食べる」
・しかし関東では一般の人たちは、お茶漬はあまり食べなかったようです。冷たくてもそ
 のまま食べる習慣だったのです。だから私が東京の渋沢邸にいた頃、私だけがお茶をか
 けて食べて、皆に不思議がられたのですが、関西は茶をかけて食べるのが当たり前だっ
 たのです。  
・「私は、障子と呼ばれる半透明の紙の窓を閉めてベッドに入った。しかし、私的生活の
 欠如は恐ろしいほどで、私は、今もって、錠や壁やドアがなくても気持ちよく休めるほ
 ど他人を信用することができない」
・「私のお金はその辺にころがっていたから、襖から手をそっとすべりこませて、そのお
 金を盗んでしまうことほど容易なことはないように思われた」
・「私の心配は、女性の一人旅としては、まったく当然のことではあったが、実際は、少
 しも正当な理由がなかった。私はそれから奥地や北海道を1200マイルにわたって旅
 をしたが、まったく安全で、しかも心配もなかった。世界中で日本ほど、婦人が危険に
 も不作法な目にもあわず、まったく安全に旅行できる国はないと私は信じている」
・「労働者にとって和服が不便であるというのが一つの原因となって、彼らは着物を着な
 いという一般的習慣ができたのであろう。和服は歩いている時でさえも非常に邪魔にな
 るから、たいていの歩行者は、着物の裾の縁の真ん中をつまみ、帯の下にそれを端折っ
 て腰にまとうのである」
・昔の人は、「はかま」をはきましたが、あれはたいへんつらいことだったらしいのです。
 大名の道中に奴というのは裾を端折って歩いた。それが一番楽だったようです。
・「栃木という大きな町に着いた。ここは以前に大名の城下町であった。宿屋は非常に大
 きいものだった。すでに60人の客が着いていたので、私には部屋を選ぶこともできず、
 襖ではなく障子で四方が囲まれている部屋で満足しなければならなかった。かび臭い緑
 の蚊帳の下には私のベッドも、浴槽も、椅子を置く余地もやっとしかなかった。その蚊
 帳はまったく蚤の巣であった。部屋の一方は人のよく通る廊下に面し、もう一方は小さ
 な庭に面していた。庭に向かって他に3部屋があったが、そこに泊まっている客は、礼
 儀正しく酒も飲まないという種類の人たちではなかった。障子は穴だらけで、しばしば、
 どの穴にも人間の眼があるのを見た。私的生活は思い起こすことさえできないぜいたく
 品であった。絶えず眼を障子に押しつけているだけではない。召使いたちも非常騒々し
 く粗暴で、何の弁解もせずに私の部屋をのぞきに来た。宿の主人も、快活で楽しそうな
 顔をした男であったが、召使いと同じことをした。手品師、三味線ひき、盲人の按摩、
 そして芸者たち、すべてが障子を押し開けた」
・このように、外人が来ると皆おもしろがって見たのです。こういう物見高さというのは、
 すでに中世の終わりには日本人全体の中にあったわけです。江戸の初期にはまだ「下に
 おろう」というのはなかったようで、昔の大名が、戦争ではなく、旅をした時には同じ
 ようにぞろぞろついていったのではないか。それを排除するために「下におろう」が出
 て来たのではないかと考えます。そしてそれがまた、侍ではない外国人となると同じ形
 でやって来る。またそれのできる国だったのですね。これが一つの動機となって、礼儀
 とか作法とかがやかましく言われるようになってくるのです。
・それから、イザベラ・バードが感心したものに、日光の並木道があって、そのことにつ
 いてずっと書いていますが、やはり近世初期にあれだけ立派な杉の並木道を作ったとい
 うのは、誇って良いことではないかと思うのです。
・日光について、金谷旅館へ泊る。
 「金谷さんの妹は、たいそうやさしくて、上品な感じの女性である。彼女は玄関で私を
 迎え、私の靴をとってくれた。二つの縁側はよく磨かれている。玄関も、私の部屋に通
 ずる階段も同じである。畳はあまりにきめが細かく白いので、靴下をはいていても、そ
 の上を歩くのが心配なくらいである。磨かれた階段を上ると、光沢のあるきれいな広い
 縁側に出る。ここから美しい眺めが見られる。縁側から大きな部屋に入る。ここは大き
 すぎたので、早速二つの部屋に分けられた。ここからきれいな踏み段を四段ゆくと奥に
 すばらしい部屋がある。そこに伊藤が泊っている。別のきれいな階段を行くと浴室と庭
 園がある。私の部屋の正面はすべて障子になっている。日中に障子は開けておく。天井
 は軽い板張りで黒ずんだ横木が渡してある。天井を支えている柱は黒く光沢のある木で
 ある」
・「彼の母は尊敬すべき老婦人で、彼の妹は、私が今まで会った日本の婦人のうちで二番
 目に最もやさしくて上品な人であるが、兄と一緒に住んでいる。彼女が家の中を歩きま
 わる姿は、妖精のように軽快優雅であり、彼女の声は音楽のような調べがある」
・つまり日本の上流階級になると、急にレベルが高くなり洗練されていて、それが突然日
 本へやって来たイギリス人を満足させるものを持っていたのです。日本風のもてなし方
 をしているのですが、その中には違和感がないのです。ここに上層文化の意味がよくわ
 からないのではないかと思うのです。
・そしてもう一つ彼女がいたる所で書いていることは、家の前を開けひろげているという
 ことなのです。これはたしかに驚きだったと思うんです。これについて私の感じること
 を話してみますと、日本の”店”というのは”見せる”ことだったのです。それは品物を見
 せるだけでなく、仕事を、作っている所を見せた。見ると安心して買えたし、声もかけ
 られたわけです。それが家の前を開け放すこととつながって来るのです。こういう店の
 在り方が、こんどの戦争が終わるまではまだ地方にはあったのですが、戦争の少し前か
 ら日本でもショーウィンドウというものが発達しはじめるのです。東京でショーウィン
 ドウがかざり物として生かされたのは高島屋だそうです。そういわれてみると、戦後三
 越にも白木屋にもなかったが、高島屋のはみごとだった。そしてすみっこに花が生けて
 あった。これがみんなの心をひくようになり、物はウィンドウへ並べられて、人間が奥
 へ入り込んでしまう。その時に日本の伝統的工芸が亡びはじめたのだと思うんです。
 下駄屋が衰微し、まんじゅう屋が駄目になったりというのは、自分たちで作っていると
 ころを見せなくなってしまったからで、見せないことが良いことだと思い始めた。する
 と、小ぎれいに作った商品の方がみなさんから喜ばれ、それが店先に並べられて、ショ
 ーウィンドウ時代が続いて来るのです。
・日本で古い食べ方を残したのが「にぎりずし」です。目の前でできるわけで、これは戦
 前、戦中、戦後と変わっていないのです。おそらくこの発想から、近頃みな料理をする
 ところを見せるようになったし、その方がよく売れるのです。すると物を売る場合も同
 じことが考えられていいのではないか。
・これから先、もう一度もとのような店が復活しはじめるのではないか。少なくとも小さ
 な店の場合、こうした日本人の中にある人間関係をぬきにしては成り立たないのではな
 いかと考えるのです。  
・「入町村は、今の私にとっては日本の村の生活を要約しているのだが、約300戸から
 成り、三つの道路に沿って家が建てられている。道路には、四段や三段の階段がところ
 どころに設けてある。その各々の真ん中の下に、早い流れが石の水路を通って走ってい
 る。これが子どもたち、特に男の子たちに限りない楽しみを与えている。彼らは多くの
 巧妙な模型や機械玩具を案出して、水車でそれらを走らせる。しかし午前七時に太鼓が
 鳴って子どもたちを学校に呼び出す。学校の建物は、故国(英国)の教育委員会を辱め
 ないほどのものである」 
・「これは、あまりに洋式化していると私には思われた。子どもたちは日本式に坐らない
 で、机の前の高い腰掛けに腰を下ろしているので、とても居心地が悪そうであった」
・「壁には、りっぱな地図がかけてある。先生は、二十五歳ばかりの男で、黒板を自由自
 在に使用しながら、非常にすばやく生徒たちに質問していた。英国の場合と同じように、
 最良の答えを出したものがクラスの首席となる」
・つまり、今からみれば貧弱なものなのでしょうが、その当時のイギリスと比べて決して
 劣らないものだったというのです。
・「ハルの母のユキは、魅力的なほど優美に話し、行動し、動きまわる。夜とか、よくあ
 ることだが友人が午後のお茶に立ち寄るとかする場合を除いては、彼女はいつも家庭の
 仕事をしている。掃除、縫い物、料理、畑に野菜を植えたり、雑草をとったりする。日
 本の女子はすべて自分の着物を縫ったり作ったりする方法を覚えている。しかし私たち
 英国婦人にとって、縫い物の勉強はむずかしくて分からぬことがあって恐怖の種とされ
 ているのだが、日本の場合にはそれがない」
・日本の女性は家庭にしばりつけられている。外国の女性は外に出ていろいろな職業にた
 ずさわるようになっているのにということがよく言われるのですが、この時期にすでに
 ヨーロッパでは女は食事の支度以外のことはしなくなっていたのです。
・「私は、これほど自分の子どもをかわいがる人々を見たことがない。子どもを抱いたり、
 背負ったり、歩くときには手をとり、子どもの遊戯をじっと見ていたり、参加したり、
 いつも新しい玩具をくれてやり、遠足や祭りに連れて行き、子どもがいないといつもつ
 まらなそうである」 
・これはやはり今われわれが反省してみなければならない問題の一つではないかと思うの
 です。たしかに、日本の親は子どもを可愛がるってことは大きかったと思うんです。親
 が子に仕事をしながら教えていくなんてことは、イギリスあたりではみられないという。
 日本で技術が伝承されていったのは、こういう世界があったからで、このような形で育
 てていくということが親の義務だったのです。近頃ママゴンというのがありますが、こ
 のママゴンもこういう伝統の上にたっていて、ただ優等生にさせようとする努力が少し
 しつこく強すぎるのでそう呼ばれるけれど、基本的にはこういうものがあるのではない
 かと思うのです。しかし100年前のイギリスには親が子どもに対するこういう責任の
 負い方はなかったのです。ある意味において、すでにその時期に家庭というものが崩壊
 していた。団欒とか教育の場としてなくなっていた。
・これは外国人が自分の国と比べながら日本を見ているために、特に日本に対して全然先
 入観のない人が見ているだけに非常に興味ひかれるのです。そして見ていることは見あ
 やまりではなく、感覚の差だけで、本質的なところでは、われわれが反省させられるよ
 うな目でとらえている。そしてそれは100年前のことではあっても、なお今日のわれ
 われの問題でもあることなのです。

子どもたちは、きびしい労働の運命をうけついで世に生まれ、親たちと同じように、
虫に喰われ、税金のために貧窮の生活を送るであろう

・「ほとんど着物らしいものを身につけていない子どもたちは、何時間も傍に立って私を
 じっと見ていた。大人も、恥ずかしいとも思わずにその仲間に加わった」
・つまり真裸の子どもがいたってことです。私が旅をしていても、戦前、あるいは戦後の
 昭和25年頃には鹿児島県下の田舎を歩いていると、殆んどの子が、男の子でも女の子
 でも真裸だったのです。
・小佐越(栃木県)というところで、当時の山中の村の貧しかったことがでてきます。
 「ここはたいそう貧しいところで、みじめな家屋があり、子どもたちはとても汚く、ひ
 どい皮膚病にかかっていた。女たちは顔色もすぐれず、酷い労働と焚火のひどい煙のた
 めに顔もゆがんで全く醜くなっていた。その姿は彫像そのもののように見えた」
・栃木県の横川というところを通るときにも出てきます。
 「五十里から横川まで、美しい景色の中を進んで行った。そして横川の街路の中で昼食
 をとった。茶屋では無数の蚤が出てくるので、それを避けたかったからである」
・日本にはすごいほど蚤がいて、実は茶屋だけではなくて、地面の上にもいたらしいので
 す。日本の国土全体の上に、かつて充満していたようなのです。
・「私のまわりに村の人たちのほとんど全部が集まってきた。はじめのうち子どもたちは、
 大きい子も小さい子も、びっくりして逃げだしたが、やがて少しずつ、親の裾につかま
 りながら、おずおずと戻ってきた。しかし私が顔を向けるたびに、またも逃げだすので
 あった。群集は言いようもないほど不潔でむさくるしかった。ここに群がる子どもたち
 は、きびしい労働の運命をうけついで世に生まれ、親たちと同じように、虫に喰われ、
 税金のために貧窮の生活を送るであろう」
・「宿の亭主の小さな男の子は、とてもひどい咳で苦しんでいた。そこで私がクロロダイ
 ンを数粒この子に飲ませたら、すべて苦しみが和らいだ。治療の話が翌朝早くから近所
 に広まり、五時ごろまでには、ほとんど村中の人たちが、私の部屋の外に集まってきた」
・日本の医療がどんなものであったかが、これで非常によくわかるのです。村の医者では
 どうしようもなかったが、新しい化学薬品にあうと実にきれいになおるのです。
・「ささやく音、はだしの足を引きずる音がだんだん大きくなり、窓の障子の多くの穴に
 眼をあてていた。[障子に穴を開けてのぞくのは、日本の一つの習俗ですね]私は障子
 を開けてみて、眼前に現れた痛ましいばかりの光景にどぎまぎしてしまった。人びとは
 おしあいへしあいしていた。父親や母親たちは、いっぱい皮膚病にかかっている子、や
 けど頭の子、たむしのできている子を裸のまま抱きかかえており、娘たちはほとん眼の
 見えなくなった母親の手をひき、男たちはひどい腫物を露出させていた。子どもたちは、
 虫に刺され、眼炎で半ば閉じている眼をしばたいていた。病気の者も、健康な者も、す
 べてがむさくるしい着物を着ていた。それも、嘆かわしいほど汚くて、しらみがたかっ
 ている。病人は薬を求め、健康なものは、病人を連れてくるか、あるいは冷淡に好奇心
 を満足させるためであった。私は悲しい気持ちになって、私には、彼らの数多くの病気
 や苦しみを治してあげる力がないこと、たとえあったとしても、薬の貯えがないこと、
 私の国では絶えず着物を洗濯すること、絶えず皮膚を水で洗って、清潔な布で摩擦する
 こと、これらは同じように皮膚病を治療したり予防したりするときに医者のすすめる方
 法である、と彼らに話してやった。 
・「この人たちはリンネル製品を着ない。彼らはめったに着物を洗濯することはなく、着
 物がどうやらもつまで、夜となく昼となく同じものをいつも着ている」
・これは裸でいるということと関係があって、着物をできるだけ汚さないようにする。そ
 れは洗濯すると傷んで早く破れるからで、着物の補給がつかなくなるからです。それで
 もだいたい1年に1枚くらいの割合で着破ったと考えられるのです。その着物というの
 は、この山中だと麻か藤布が多かったと思います。すると家族が5人いるとして、5人
 分の麻を作るか、あるいは山へ行って藤をとってきて、その繊維をあく出しして細かく
 さいて紡いで糸にし、それを機にかけて織る、ということになると、着物1人分の1反
 を織るのにだいたい1カ月かかるとみなければならない。5人分なら5カ月で、それを、
 働いている上にそれだけのことをしなければならないのです。着物を買えば簡単ですが、
 買わない生活をしてとなると、非常に自給がむずかしかったわけです。これが生糸にな
 ると、まゆを煮さえすれば繊維の長いのが続いているから、うんと能率も上がってくる
 ことになります。植物の皮の繊維おとって着物を織ることがどのくらい苦労の多いもの
 であったか、そして多くの着物を補給することができなかったかがわかるのです。汚い
 生活をせざるを得なかったということは、こういうことにあると思うんです。
・「おあん物語」の中のおあん様がまだ妙齢の娘だった頃に、着物一枚しか持っていなか
 ったというのです。お父さんは大名に仕えて高300石というのですから、当時武士の
 中でも中流以上の生活をしていた人だとみてよいのですが、それでそのくらいの状態だ
 ったのです。そのくらい衣服というのは得られにくいものだったのです。テレビドラマ
 などに出て来る、あんなきれいな着物を着ていたなんてとんでもないことで、実際に当
 時の服装で出て来たら、これはたいへんなものだったろうと思うのです。それでは綿が
 なかったかというと、あったのですが非常に貴重なものだったのです。
・通訳の伊藤について書いている。
 「彼はきわめて日本的であり、彼の愛国心は人間のもつ虚栄心のあらゆる短所と長所を
 もっている。彼は外国のものはなんでも日本のものより劣ると思っている。私たちの行
 儀作法、眼、食べ方は、彼にとってはとても我慢できぬしろものらしい。彼は英国人の
 不作法については喜んで話をひろめる。英国人は「道路上で誰にでもオハヨーとどなり
 ちらす」という。彼らは茶屋の女たちをびっくりさせ、車夫を蹴ったり、殴ったりする。
 泥だらけの靴を履いて真っ白な畳の上にあがる。みな育ちの悪いサチルスのような振る
 舞いをする。その結果は、素朴な田舎の人びとにむき出しの憎悪心をかきたてることに
 なり、英国人や英国が日本人から軽蔑され嘲笑されることになるだけだ、と彼らは話し
 たてるのである」 
・「伊藤は、自分自身の安楽な生活を大切なものと考えている男であるから、亭主と召使
 いたちを呼びつけて声高くどなり始め、私の持ち物まで投げたりして叫ぶありさまとな
 った。私はこのような振舞いを早速やめさせた。召使いが乱暴に人をいじめるのは、外
 国人とってまったく耐えられないことであり、土地の人に対してもこれ以上に不人情な
 仕打ちはないからである」
・これは武家社会における武士と同じで、一人の人間が地位を得る、つまり伊藤の場合は
 イギリス婦人の通訳として働いているという、するとそれを笠に着て人に当たる。日本
 人の自尊心というのは、裏返してみると、自分の力ではなく他人の力を借りてそれを笠
 に着てのものであるということで、政治家なとは、そのかたまりであるという感じさえ
 するのです。
・イザベラ・バードは、会津西街道を糸沢から川島に出ます。川島には川島本陣という問
 屋本陣があったはずですが、そこには泊っていないようです。
・「最後の宿場間を歩いて川島に着いた。ここは五十七戸のみじめな村であった。私は疲
 れきって、それ以上は進めなかったので、やむなく藤原のときよりもずっとひどい設備
 の宿に泊まることになった。苦労に立ち向かう気力も、前ほどはなかった。息のつまる
 ほど暗くて煙っぽかったが、街路に群集が集まってきたので、窓の障子を閉めざるをえ
 なかった。米もなければ醤油もなかった」
・「川島で私は、五十歳ぐらいに見える宿の奥さんに、彼女は幾歳になるか、質問した。
 彼女は、二十三歳です、と答えた」
・それから田島を通って大内へ来ます。
 「私は大内村の農家に泊まった。この家は蚕部屋と郵便局、運送所と大名の宿所を一緒
 にした屋敷であった」  
 と、あそこの問屋本陣へ泊っているのです。今はこの家はもうないのですが、
 「村や山にかこまれた美しい谷間のなかにあった」
・「私は翌朝早く出発し、噴火口状の凹地の中にある追分という小さな美しい湖の傍を通
 り、それから雄大な市川峠をのぼった。
・市川に入り、
 「そこの駅馬係は女性であった。女性が宿屋や商店を経営し、農業栽培をするのは男性
 と同じく自由である」  
・いよいよ会津盆地へ入り高田へ行きます。
 「町の外観はみすぼらしく、わびしい。外国人がほとんど訪れることもないこの地方で
 は、町のはずれではじめて人に出あうと、その男は必ず町の中に駆けもどり、「外人が
 来た!」と大声で叫ぶ。すると間もなく、目あきも目くらも、老人も若者も、着物を着
 た者も裸の者も、集まって来る。宿屋に着くと、群集がものすごい勢いで集まってきた
 ので、宿屋の亭主は、私を庭園の中の美しい部屋に移してくれた。ところが、大人たち
 は家の屋根にのぼって庭園を見下し、子どもたちは端の柵にのぼってその重みで柵を倒
 し、その結果、みながどっと殺到してきた。そこで私はやくなく障子を閉めたが、家の
 外に押しかけてきている群集のことを考えると、名ばかりの休息時間は少しも心安まる
 暇はなかった。黒いアルパカのフロックコートに白いズボンをはいた五人の警官が、ず
 かずかと部屋に入ってきて・・・」
・この時に警官だけはちゃんと洋服を着ていたのですね。外国の文化が、どういう人たち
 に、どういう形で入ってきたかを端的に示すものとして私には非常に興味があるのです。
 日本の文化というのは、まず役人がそうなっていくことであったわけです。日本人の物
 見高さというのは、江戸に限ったことではなく、相手が自分たちの危害を加えないとわ
 かると、みなこうだったのですね。
・それから高田を出て、会津若松へ入らないで会津盆地の山すそを西北に向かって、坂下
 へ行きます。  
 「みすぼらしく、汚く、じめじめと湿っぽい。黒い泥のどぶから来る悪臭が鼻をつく」
・今の坂下は非常にきれいな良い町になっていますが、やはり100年という歳月が土地
 を変えたのだと思います。そのくせ坂下という町は非常に古風な姿を残しているところ
 なのです。 
・「私が馬に乗り鞍の横にかけてある箱から望遠鏡を取り出そうとした時であった。群集
 の大脱走が始まって、老人も若者も命がけで走り出し、子どもたちは慌てて逃げる大人
 たちに押し倒された。伊藤が言うには、私がピストルを取り出して彼らをびっくりさせ
 ようとしたと考えたからだという。そこで私は、その品物が実際にはどんなものである
 かを彼らに説明させた。優しくて悪意のないこれらの人たちに、少しでも迷惑をかけた
 ら、心からすまないと思う」
・「ヨーロッパの多くの国々や、わがイギリスでも地方によっては、外国の服装をした女
 性の一人旅は、実際の危害を受けるまではゆかなくとも、無礼や侮辱の仕打ちにあった
 り、お金をゆすりとられるのであるが、ここでは私は、一度も失礼な目にあったことも
 なければ、真に過当な料金をとられた例もない。群集にとり囲まれても、失礼なことを
 されることはない。馬子は、私が雨に濡れたり、びっくり驚くことのないように絶えず
 気をつかい、革帯や結んでいない品物が旅の終わるまで無事であるようにと、細心の注
 意を払う。旅が終ると、心づけを欲しがってうろうろしたり、仕事をほうり出して酒を
 飲んだり雑談をしたりすることもなく、彼らは直ちに馬から荷物を下し、駅馬係から伝
 票をもらって、家へ帰るのである。ほんの昨日のことであったが、革帯が一つ紛失して
 いた。もう暗くなっていたが、その馬子はそれを探しに一里も戻った。彼にその骨折賃
 として何銭かをあげようとしたが、彼は、旅の終わりまで無事届けるのが当然の責任だ、
 と言って、どうしてもお金を受け取らなかった。彼らはお互いに親切であり、礼儀正し
 い」
・「伊藤が私に対する態度は、気持ちのよいものでもなければ丁寧でもない」
・「ようやく一時間してこの不健康な沼沢地を通り越し、それからは山また山の旅である。
 道路はひどいもので、すべりやすく、私の馬は数回もすべって倒れた。手荷物を載せた
 馬には伊藤が乗っていたが、真っ逆さまに転んで、彼のいろいろな荷物は散乱してしま
 う有様であった。りっぱな道路こそは、今の日本にもっとも必要なものである。政府は、
 イギリスから装甲軍艦を買ったり、西洋の高価なぜいたく品に夢中になって国を疲弊さ
 せるよりも、国内の品物輸送のために役立つ道路を作るというような実利のある支出を
 することによって国を富ましたほうが、ずっと良いことであろう」
・「片門という部落で、米俵の上に腰を下ろしていた。この部落は、阿賀野川の上流の山
 手で、急な屋根の家々がごたごたと集まったところである。200頭以上の駄馬が集ま
 っていて、咬んだり悲鳴をあげたり蹴ったりして騒いでいた。まだ私が馬から降りない
 うちに、一頭の性悪な馬が私に烈しくぶつかってこようとしたが、大きな木製の鐙に当
 たっただけですんだ。私は、馬に蹴られたり咬まれたりせずにすむ場所を見つけること
 ができないほどである。私の荷物を積んでいた馬は、荷物を下すと大暴れし、歯をむき
 だして左右の人びとに襲いかかり、前肢で乱暴に打ちかかり、後肢で烈しく蹴り上げよ
 うとするので、馬子は壁に追い詰められる有様であった」
・日本の農業をみてみると、鋤が東日本では発達していない。西日本では鋤を使っている
 のですが、これは牛に鋤をつけているのです。東日本で鋤を使ったというのが文献の中
 にはほとんど出てこないのです。東日本で鋤が使われるようになったのは明治に入って
 からで非常に新しいのです。その理由としては、馬が小さかったことが大きい原因では
 なかったか。普通当時の馬は人間の肩より低いくらいの馬が多く、こんな小さい馬では、
 鋤をつけて引く力がなくてせいぜい荷をつけるくらいの駄馬だったと考えられていたの
 です。これもあっただろうが、実馬の調教がたいへんまずくて、くつわをはめないので
 制御しきれなくて、つまりあばれ馬が多かった。これが農耕に馬を使わなかった原因で
 はないかと思うんです。明治になって、関東、東北で馬耕が始まったときも、必ず馬の
 口取りをする人がいないと使えなかった。西日本の方では馬の使い慣らしはかなり早く
 から発達したようで、口取りをしないですんでおります。
・日本の馬はみなおとなしくて、やせっぽちで、人が口取りをしないと歩きもしないよう
 に思っているのですが、実は反対で、小さいけれどあばれん坊だったということです。
・「昨晩、隣の家で二歳半の子どもが魚の骨を呑み込んでしまい、一日中泣きながら苦し
 んでいた。母親の嘆きを見て伊藤はすっかり気の毒がり、私を連れていって子どもをみ
 せた。母親は十八時間もうろうろしているばかりで、子どもの喉の中を調べることに少
 しも思い及ばなかったという。私が喉の中を調べることを、たいそう嫌がっていた。骨
 はすぐ見えたので、レース編みの針で簡単に取り除くことができた。一時間後に母親が、
 お盆にたくさんの餅菓子と駄菓子をのせて贈り物としてよこした。夜になるころ、脚に
 腫物をした人が七人やってきて「診察」を受けたいという。その炎症はすべて皮膚の表
 面だけで、似たものばかりであった。それは蟻に咬まれたあとを始終こすっていたため
 にできたのだ、と彼らは語った」
・「この夏の日に、この地方は見たところ美しくもあり、また同時に繁栄しているようで
 ある。山麓に静かに横たわってる野尻という尖り屋根の並んでいる村に、ひどい貧困が
 存在しようとは、だれも考えないであろう。しかし、ちょうど下の杉の木に下がってい
 る二本の麻縄が、貧困のために大家族を養うことができず二日前に首をくくった一人の
 老人の、悲しい物語を語っている。宿の女主人と伊藤は、幼い子どもたちをかかえた男
 が老齢であったり病身であったりして働けなくなると、自殺することが多い、と私に話
 してくれた」   
・「宿の女主人に頼まれて、私のこの宿屋が見晴らしの良いことを賛美する文章を書いた。
 私がそれを英語で読み、伊藤が翻訳すると、まわりの人びとは皆、たいそう満足気であ
 った。それから私は四本の扇にも書くように頼まれた。女主人はイギリスという国を聞
 いたことがなく、この田舎では少しも魅力のある言葉ではなかった。アメリカさえ聞い
 たことのない言葉であった。彼女はロシアが大国であるということは知っている。もち
 ろん中国のことは知っているが、彼女の知識はそこで終わりである。彼女は東京や京都
 へ行ったことがあるというのに。
・いよいよ新潟の方へ向かうのですが、栄山まで来て宿をとるのです。
・「私はここの混雑する宿屋に泊まった。ここでは、群集から離れた庭園の中の静かな二
 部屋を与えてくれた。伊藤は、どんなところに到着しても、常に私を部屋に閉じ込めて、
 翌朝の出発まで重禁錮の囚人のようにしておきたがる。ところがここでは、私は開放さ
 れた身となって楽しく台所の中に腰を下ろしていることができた。宿の主人は、もとは
 武士という、今では消滅した日本差しの階級(士族)である。下層階級の人たちとくら
 べて、彼の顔は面長で、唇は薄く、鼻はまっすぐ通り、高く出ている。その態度振舞い
 には明らかな相違がある。[武士階級というのは見てもわかるちゃんとたものを持って
 いたのですね]私はこの人物と多くの興味にある会話をかわした。同じ広間で、宿の番
 頭が、机に向かって書きものをしていた。その机は漆塗りのもので、ありふれた形の机
 であった。低くてベンチのように横に長く、両端はまくり上げてある。一人の女性が裁
 縫をしており、人夫たちが板間で足を洗っていた。さらに数人の人夫たちが囲炉裏を囲
 んであぐらをかき、煙草を吸ったり、お茶を飲んだりしていた。一人の下男が私の夕食
 のために米をといだが、その前にまず着物を脱いだ。それを炊く下女は、仕事をする前
 に着物を腰のところまで下ろした。これは品行方正な女性が習慣としていることである。
 宿の奥さんと伊藤は、私のことを人目もかまわず話していた。私は、彼らが何を話して
 いるのかときてみた。すると彼は、「あなたはたいそう礼儀正しいお方だと彼女が言っ
 ています」と答えてから、「外国人には」とつけ加えた。私は、それはどういうことか
 更にたずねた。すると、私が、座敷に上がる前に靴を脱ぎ、また煙草盆を手渡されたと
 きにおじぎをしたからだとわかった」
・「日本の大衆は一般に礼儀正しいのだが、例外の子どもが一人いて、私に向かって中国
 語の「蕃鬼」(鬼のような外国人)という外国人を侮辱する言葉に似た日本語の悪口を
 言った。この子はひどく叱られ、警察がやってきて私に謝罪した」
・それから阿賀野川の中流にある津川という町に出ます。
・「私はこの日飽きることなく楽しんだ。川の流れを静かに下るということは、実に愉快
 であった。空気はうまかったし、津川の美景のことは少しも聞いていなかったから、私
 にとって予期しない喜びであった。その上、一マイル進むごとに、私が待ち望んでいる
 故国からの便りが来ているところ(新潟)に近くなる。津川を出ると間もなく、川の流
 れは驚くべき山々にさえぎられているように見えた、山塊はその岩の戸を少し開けて私
 たちを中に通し、また閉じてしまうようであった。繁茂する草木の間から、ぱっと赤ら
 んだ裸岩の尖った先端が現れてくる。露骨さのないキレーンであり、廃墟のないライン
 川である。  
・新潟へ出て行った。
・「樅の木の林が立っていた。縁側を多く出している料亭が川岸に立ちならび、宴会をし
 ている人たちが芸者をあげて酒宴に興じていた。しかし全体的に見て、川に沿った街路
 はみすぼらしく、うらぶれている。この西日本の大都会の陸地よりの方も、たしかに人
 を失望させるものがある。「新潟という町は、今は大変きれいな良い町になっているけ
 れど、これでみると、これが非常に発達した港だったのだろうかという感が深いのです」
 これが条約による開港場であるとは信じがたいほどであった。というのは、海も見えず、
 領事館の旗も翻っていなかったからである」
・われわれが考えていた華やかな港であったはずの新潟が、明治の初めに外人が見たもの
 と、かなりイメージが違ったものであったのです。生きている川のほとりで生活してた
 新潟を考えると、内部へは船が入り立派な町があったのでしょうが、川に面した所は淋
 しい町であったこともうなずけることなのです。
・こうして一人の女性が東京を出て、汽車も車も通らない道を馬に頼りながら山王峠を越
 えて南会津へ入り、阿賀野川に沿って新潟まで出ていっているのです。明治初年には、
 とにかく外国の女性でも通訳一人を連れて歩ける程度に陸運会社などもできていたとい
 うことがわかるのです。現実に見るものはまだ江戸時代の姿であったのですが、そこに
 はすでに新しい文化が吹き込み初めていたわけです。日本の開けていない土地に、人間
 的良さというものはよく出ているし、外敵に荒らされていない世界は、ある一つの平和
 を保っていた。
  
仕事もなく、本もなく、遊びもない。わびしく寒いところで、長い晩を震えながら
過す。夜中になると、動物のように身体を寄せて暖をとる。

・新潟を出て、それから米沢に向けて歩き出すのですが、砂丘をずっと中条へ向かってい
 るときに、パーム博士の人力車と出会ったというのです。明治11年というと、まだほ
 とんど外国人が日本へは来ていなかったと思うのですが、もうこの頃にイギリス人が伝
 道を兼ねてこの地方へ入って、医療にたずさわっていたのです。
・「日本人の医者たちはここでもパーム博士の心からの助力者となっていて、その中の五
 人か六人が協力して施療院をつくっている。この人たちは公平無私、熱心さ、そして誠
 実という稀な美徳の持ち主である、とパーム博士は認めている」
・新潟から新発田へいく途中で、医療活動が行われていたというのですが、部分的ではあ
 るが意外なほど、こういう人たちの活動が行われていたらしいことがわかるのです。
・「米飯がないというので、私はおいしいきゅうりをこぎそうになった。この地方ほどき
 ゅうりを多く食べているところを見たことがない。子どもたちは一日中きゅうりをかじ
 っており、母の背に負われている赤ん坊でさえも、がつがつとしゃぶっている」
・今と違ってきゅうりが間食であるとともに、食物として非常に大事にされていたのです。
 今はきゅうりは副食物なのですが、明治の初め頃は、主植物、副食物という区別が少な
 かったのではないかと思うのです。
・「米よりもきびや蕎麦に、日本のどこにもある大根を加えたのが主食となっている」
・大根も主食物だったようです。すると副食物とはどんなものだったのだろうかというと、
 味噌汁や塩漬けにしたものだったのではなかろうか。
・「上院内と下院内の二つの村に、日本人の非常に恐れている脚気という病気が発生して
 いる。そのため、この七カ月で人口が約1,500人のうち100人が死亡している。
 久保田の医学校から二人の医師が来て、この地方の意志の応援をしている」
・これは東京でも、脚気にかかる者は多かったのです。これはビタミンB1の不足から起
 こる病気で、米を搗いて食べる、また、偏食することから起こるのです。すると、大根
 やきゅうりなど種類の少ない食物と、米を食べることにより起こったとみてさしつかえ
 ないと思うのです。 
・この脚気が一番多かったのは、実は軍隊だったのです。この紀行文が書かれて後10年
 ぐらい、つまり明治20年頃の軍人の中には、非常の多くの脚気の患者が出ております。
 それで特に困ったのは海軍で、足腰が立たなくなって次々に死んでいく。脚気は当時軍
 人病と言われ、なぜ軍人病が起こるのかわからず、土を踏まないから起こるのだと、当
 時は考えられていたのです。それを海軍軍医総監だった人が、麦、ぬか、小麦を食べる
 と良いと民間で言われていた説を試してみて、確かに脚気が治るし、また、罹りにくい
 ことを発見するのです。日清戦争で台湾に出兵した時に、特に脚気が多く、ずいぶんた
 くさんの人が死んでいるのです。大事なことは、雑食すれば良いわけで、現在では気に
 することもないような縁のない病気になってきております。しかし明治の初め頃には至
 る所でみられ、悪くすると回復のしようのない病気だったわけです。偏食が多かったと
 いうのとは、一つは非常に貧しかったわけですね。
・「家族は陰鬱な行燈の光の中で、煙っぽい火をとり囲みながらうずくまる。仕事もなく、
 本もなく、遊びもない。わびしく寒いところで、長い晩を震えながら過ごす。夜中にな
 ると、動物のように身体を寄せて暖をとる。彼らの生活状態は、赤貧と変わらぬ悲惨な
 ものにちがいない」 
・この貧しさは何から来るかというと、米の生産力は低いし、農業以外の職業もなかった。
 すると、人々が生きていく上には、地域社会の人が助けてくれるわけでもなく、結局、
 地を同じくする人たちが肩を寄せ合って生きていくしかなかった。それが大家族を生み
 出していったのではなかったのだろうかと考えます。
・「私は、好奇心から、沼の部落を歩きまわり、すべての日本の家屋の入口にかけてある
 名札を伊藤に訳させた。そして、家に住む人の名前と数、性別を調べたところが、24
 軒の家に307人も住んでいたのである。ある家には4家族も同居していた。祖父母、
 両親、妻と子どもをもつ長男、夫と子どものいる娘が一人か二人いるのである。長男は
 家屋と土地を相続するものであるから、妻を自分の父の家に入れるのが普通である。し
 がたって彼女は姑に対して奴隷同様となる場合が多い。きびしい習慣によって、彼女は
 自分の親類を文字通り捨てて、彼女の「孝行」は夫の母に移される。姑は嫁を嫌う場合
 が多く、子どもが生まれないときには、息子をそそのかして離婚させる。私の宿の女主
 人も、自分の息子に妻を離婚させている。その理由といえば、彼女は怠け者だというだ
 けのことであった」 
・大家族というのは、労力を持つことであった。労力にならない者は、家を出されていた
 のだということがわかるのです。貧しければ貧しいほど、こういう家族構造を必要とし
 たのです。よく飛騨の白川村のことが例にひかれるのですが、決して白川村ばかりでは
 なく、こういう家族構造を持った家が、日本の僻地いたるところにあったのだというこ
 とです。 
・それから彼女は道を東にとって小国に入っていきます。
・「子どもたちは、しらくも頭に疥癬で眼は赤く腫れている。どの女も背に赤ん坊を負い、
 小さな子どもも、よろめきながら赤ん坊を背負っていた。女はだれでも木綿のズボンし
 かはいていなかった。一人の女が泥酔してよろよろ歩いていた」
・「ここでは、頼りない一軒の農家だけが唯一の宿舎である。二部屋を除いて他は全部が
 蚕を飼う部屋となっているが、この二部屋はとても良くて、庭の小池と庭石が見下ろせ
 る。私の部屋の難点といえば、部屋を出たり入ったりするときに、もう一つの部屋の中
 を通らなければならないことである。その部屋には5人の煙草商人が泊っていて、彼ら
 は煙草を輸送できるまで滞在しており、その間の暇つぶしに三味線というあの迷惑な楽
 器をかきならしている」 
・小国から手ノ子へ行っておりますが、ここでおもしろい記事が出てきます。
・「家の女たちは、私が暑くて困っているのを見て、うやうやしく団扇をもってきて、ま
 る一時間も私をあおいでくれた。料金をたずねると、少しもいらない、と言い、どうし
 ても受け取らなかった。彼らは今まで外国人を見たこともなく、少しでも取るようなこ
 とがあったら恥ずべきことだ、と言った。私の「尊名」を帳面に記してもらったのだか
 ら、と言う。そればかりではない、彼らはお菓子を一包み包んでよこし、その男は彼の
 名を扇子に書いて、どうぞ受け取ってくれ、と言ってきかなかった」
・米沢へ向かい道で、小松に来た時。
・私を見た最初の男が急いで戻り、町の最初の家の中に向かって、「はやく!外人が来る
 ぞ」という意味の言葉を叫んだ。そこで仕事中の三人の大工が道具を投げ出し、着物を
 着るひまもあらばこそ、街路を大急ぎで走りながらこのニュースを大声で伝えた。それ
 で私が宿屋に着くころまでには、大きな群集が押しかけてきた。玄関は下品で良い宿と
 は見えなかったが、屋敷内を流れる川にかかっている石橋を渡り、奥に着くと、大きな
 部屋があった。群集は後ろの屋根によじ登り、夜までそこじじっと座っていた・・・」 
・「大名の部屋であった。柱や天井は黒檀に金泥をあしらったもの、畳はとてもりっぱで、
 床の間は磨きたてられており、象嵌細工の書机や刀掛けが飾ってあった。槍は9フィー
 トの長さで、漆塗りの柄にはあわび貝が象嵌してあり、縁側にかけてあった。手水鉢は
 りっぱな象嵌の黒塗りのもので、飯椀とその蓋は金の塗り物であった」
・この家は、本陣だったことがわかるのですが、街道筋だとは思えませんので、おそらく
 米沢藩の殿様が藩内をまわって歩く時に泊まる宿だったと思うのです。
・「他の多くの宿屋と同じように、ここにも掛物があって、首相や県知事、有名な将軍な
 ど、この家に宿泊してくれた偉い人びとの名前をあらわす大きな漢字が書いてあり、例
 によって同じように詩を書いた掛物もかかっていた」
・「私が小松を出発するとき、家の中には60人もおあり、外には1500人もいた」
・それから東にに進み、米沢の町へは入らないで赤湯へ向かって行くのですが、その辺り
 の平地は、非常に豊かな生活をしているのです。
・「南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い赤湯があり、まったくエデンの園
 である。「鋤で耕したというより鉛筆で描いたように」美しい。米、綿、とうもろこし、
 煙草、麻、藍、大豆、茄子、くるみ、水瓜、きゅうり、柿、杏、ざくろを豊富に栽培し
 ている。実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカデヤ(桃源郷)である。自力
 で栄えるこの豊沃な大地は、すべて、それを耕作している人びととの所有するところの
 ものである。彼らは、葡萄、いちじく、ざくろの木の下に住み、圧迫のない自由な暮ら
 しをしている。これは圧政に苦しむアジアでは珍しい現象である。それでもやはり大黒
 が主神となっており、物質的な利益が彼らの唯一の願いの対象となっている」
・「美しさ、勤勉、安楽さに満ちた魅惑的な地域である。山に囲まれ、明るく輝く松川に
 灌漑されている。どこを見渡しても豊かで美しい農村である。彫刻を施した梁と重々し
 い瓦葺きの屋根のある大きな家が、それぞれ自分の屋敷内に立っており、柿やざくろの
 木の間に見えかくれする。蔓草を這わせた格子細工の棚の下には花園がある。ざくろや
 杉の木はきれいに刈りこまれて高い生垣となり、私的生活を守っている。私たちが通過
 したり傍を通った村々は、吉田、洲島、黒川、高山、高滝であったが、さらにこの平野
 には50以上も村落の姿が見えて、ゆるやかに傾斜する褐色の農家の屋根が林の間から
 のぞいていた。耕作の様式については、少しの相違点も見られない。吉田は豊かに繁栄
 して見えるが、沼は貧弱でみじめな姿の部落であった。しかし、山腹を削って作った沼
 のわずかな田畑も、日当たりのよい広々とした米沢平野と同じように、すばらしくきれ
 いに整頓してあり、全くよく耕作されており、風土に適した作物を豊富に産出する。こ
 れはどこでも同じである。草ぼうぼうの「なまけ者畑」は、日本には存在しない」
・赤湯でも、三味線をかき鳴らし、琴を弾いている者にがまんできずに、上山温泉へ行っ
 て泊っているのです。 
・「私がしばしばものをたずねた警官の語るには、湯治のためにここに滞在している人の
 数は600近くで、毎日6回入浴するのが普通だという。他の病気のときもそうだが、
 リューマチの場合に、旧式の日本の医者は食事や生活習慣にはほとんど注意を払わず、
 薬や外部の手当てに多く注意を払っているように思う。彼らが柔かいタオルで軽くなす
 る代わりに力強く摩擦するようにしたら、薬や温泉の功かもずっと増すであろうに」
・「これは大きな宿屋で、客が満員である。宿の女主人は丸ぽちゃのかわいい好感をいだ
 かせる未亡人で、丘をさらに登ったところに湯治客のための実にりっぱなホテルを持っ
 ている。彼女は11人の子どもがいる。その中の2,3人は背が高く、きれいで、やさ
 しい娘たちである。私が口を出して賞めると、一人は顔を赤く染めたが、まんざらでも
 ないようで、私を丘の上に案内し、神社や浴場や、この実に魅力的な土地の宿屋をいく
 つか見せてくれた。私は彼女の優美さと気転のきくのにはまったく感心する。どれほど
 長いあいだ宿屋を経営しているのか、と未亡人にたずねたら、彼女は、誇らしげに「三
 百年間です」と答えた」
・「私の泊まった部屋は、一風変わっている。ありふれた大きな庭の中の蔵座敷で、庭に
 浴場がある。105度(華氏)のお湯が中に入るようになっていて、私はそのお湯に心
 ゆくばかり浸る。昨夜は蚊がひどく、もし未亡人とその美しい娘たちが一時間もがまん
 強く扇であおいでくれなかったなら、和足は一行も書けなかったであろう」
・それから北へ進み山形に入ります。
・「山形は県都で、人口二万1千人の繁昌している町である。日本の内陸を今まで通って
 きたが、ヨーロッパの食物や飲物、特に飲物のひどいまがい物だけを売っている店があ
 るのには当惑する。日本人は、上は天皇から下に至るまで、外国の酒類を愛好している。
 ほんものの酒類であっても有害であろうに、硫酸塩、フーゼル油、悪い酢などの混合物
 であるときには、ずっとひどいものである。私は山形で、最上種の商標をつけたシャン
 ペン酒を売っている店を二軒見つけた。マルテルのコニャック、バース・ビール、メド
 ックとセン・ジュリアン酒、スコッチ・ウィスキーだが、原価の約5分の1で、すべて
 が毒物混合品である。この種の販売は禁止すべきである」
・「政府の建物は、普通に見られる混合の様式ではあるが、ベランダをつけたしているの
 で見栄えがする。県庁、裁判所、そして進歩した付属学校をもつ師範学校、それから警
 察署はいずれもりっぱな道路と町の繁栄にふさわしく調和している。大きな二階建ての
 病院は、丸屋根があって、150人の患者を収容する予定で、やがて医学校になること
 になっているが、ほとんど完成している。裁判所では、20人の職員が何もしないで遊
 んでいるのを見た。それと同数の警官は、すべて洋服を着ており西洋式の行儀作法をま
 ねしているので、全体として受ける印象はまったく俗悪趣味である」
・実際に戦前に机の前に坐ってまじめに仕事をしている人が、日本に一体どのくらいいた
 かというと、全くひどいもので、一日座ってはいるが、仕事はしないで時間があるとお
 茶を飲みにいったり・・・。日本へ来た外国人が、日本のオフィスにいる人たちが怠け
 者だというのをよく聞くのですが、外国では時間内はみな一生懸命働くといいます。そ
 の芽生えがこの記事にあるように、つまり何をして良いのかわからないのです。もとも
 と日本の官僚社会に事務はなかったのです。税金は庄屋がとりたてて、帳簿をこしらえ
 て来る。勘定方はそれに目を通せばいいだけで、人手はいらないのです。江戸時代まで
 は請負制だったわけで、商人は忙しいが官僚には仕事がなかった。ただ盲判を押すだけ
 だった。しかもその盲判にとても時間がかかり、一番下の者が作成して印を押し、主任
 の未決の箱に入れる。それがなかなか既決の箱に入らないで10日も20日もかかり、
 催促してやっと係長の所へ、そして課長、部長といき責任者の所へ届くまでに早くて3
 カ月、長いと半年かかったといいます。外見は外国のまねをしていても、それはかっこ
 うだけで何もしない。これがごく当たり前で通っていたので、われわれはつい見逃して
 しまうのですが、そういうわれわれの欠点を忠実におさえているという点で、非常に興
 味のある記事なのです。
・山形を通って新庄に入ります。
・「新庄は人口五千を越えるみずぼらしい町で、水田の続き平野の中にある。ここは大名
 の町である。私が見てきた大名の町はどこも衰微の空気が漂っている。お城が崩される
 か、あるいは崩れ落ちるままに放置されているということも、その原因の一つであろう」
・金山での話なのですが、
・「頼まれもしないのに戸長は村中に触れを出して群集が集まらないようにした。そこで
 私は、駄馬一頭と車夫一人とともに平穏に出発できた」
・院内という所では、
・「院内の宿屋はきわめて心地のよい宿ではあるが、私の部屋は襖と障子だけで仕切って
 あるので、しょっちゅう人びとがのぞきこむのであった。このような田舎の地方で彼ら
 の注意をひくのは、外国人とその奇異な風習だけではない。さらに私の場合には、ゴム
 製の風呂や空気枕、なかでも白い蚊帳をもっていたことである。日本の蚊帳は緑色の重
 い粗布でできており、私の蚊帳をとても賞めるので、こころ出るときには、頭髪ととも
 に編むようにその端切れをあげるのが、きっと彼らにとって何よりの贈り物となるであ
 ろう」  
・湯沢に着くと、
・「湯沢は特にいやな感じの町である。私は中庭で昼食をとったが、大豆から作った味の
 ない白い豆腐に練乳を少しかけた貧弱な食事であった。何百人となく群集が門のところ
 に押しかけてきた。後ろにいる者は、私の姿を見ることができないので、梯子をもって
 きて隣りの屋根に上がった。やがて、屋根の一つが大きな音を立てて崩れ落ち、男や女、
 子ども五十人ばかり下の部屋に投げ出された」
・群集が前よりも烈しい勢いでまたも押し寄せてきた。駅逓係が彼らに、立ちさってくれ、
 と頼んだが、こんなことは二度と見られないから、と彼らは言った」
・六郷という町でお葬式に出会って入りますが、その様子を実にていねいに書いています。
 彼女がいかに丹念にものを知ろうとしていたかということがこれでわかるのです。
・六郷を出て、神宮寺に着き雄物川を舟で下ることになるのです。そしてこれには久保田
 と書いていますが、秋田に着くのです。
・「私はたいそう親切な宿屋で、気持ちよい二階の部屋をあてがわれた。当地における三
 日間はまったく忙しく、また非常に楽しかった。「西洋料理」、おいしいビフテキと、
 すばらしいカレー。きゅうり、外国製の塩と辛子がついていた、は早速手にいれた。そ
 れを食べると「眼が生き生きと輝く」ような気持ちになった」
・ここで初めて本物の西洋料理にありついているのです。ということは、山形よりも秋田
 の方が文化が進んでいたのです。ここには本物の文化が入っていた。
・「城下町ではあるが、例の「死んでいるよな、生きているような」様子はまったくない。
 繁栄と豊かな生活を漂わせている。商店街はほとんどないが、美しい独立住宅が並んで
 いる街路や横通りが大部分を占めている。住宅は樹木や庭園に囲まれ、よく手入れをし
 た生垣がある。どの庭にもがっしりとした門から入るようになっている。このように何
 マイルも続く快適な「郊外住宅」を見ると、静かに自分の家庭生活を楽しむ中流階級の
 ようなものが存在していることを思わせる。外国の影響はほとんど感じられない」
・「警官は、静かに言葉少なく話すか、あるいは手を振るだけで充分である。彼らはサム
 ライ階級(士族)に属している。もちろん彼らは生まれつき地位が上であるから、平民
 たちに尊敬を受ける。彼らの顔つきや、少し尊大な態度があるのは、階級差別をはっき
 り示している」   
・日本では巡査というのが恐れられ、戦前までは一段高い所にいるような気がした。よく
 考えてみると、日本の巡査というのはほとんど昔、侍だった人たちなのですね。百姓の
 子が巡査になることは非常に少なかった。
・「秩序を維持するにはこれで充分である。普通の警官の給料は月給六円から十円である。
 日本の役所はどこでも、非常に大量に余計な書類を書くから、警察に行ってみいても、
 いつも警官は書き物をしている。書いてどうなるのか私にはわからない。警官はとても
 知的で、紳士的な風采の青年である。内陸を旅行する外国人はたいへん彼らの世話にな
 る。私は困ったときはいつも警官に頼む。彼らは、いくぶん威張った態度をとりたがる
 けれども、きっと助力してくれる。しかし旅行の道筋についてだけは、彼らはいつも、
 知らない、とはっきり言う」
・これは非常におもしろいことで、ほとんど地理的な感覚は持っていないのです。これは
 彼らだけの問題ではなく、一般の人たちも最近までそうだった。そしてそのくらい土地
 鑑がなくても日本人は気楽に暮らしていたのです。まさに明治初年の巡査はこのとおり
 だったのですね。

あらゆる種類のお面や人形、いろいろな姿に固めた砂糖、玩具、菓子類・・・。
日本では、どんな親でも、祭りに行けば子どもに捧げるための供物を買うであろう
・彼女が秋田へ入ったところから始めたいと思うのですが、当時秋田はまだ久保田といっ
 ておったのです。秋田という呼び方が定着するのは明治の20年代だったと思うのです。
・土崎の祭りのことが出てきます。
・「男も女も子どもも、荷車も人力車も、警官も乗馬者も、今祭りをやっている港(土崎
 の港)へみな急いでいる。港は久保田の荷揚げ港で、このみすぼらしい町では神明(天
 照大神)という神の誕生日を祝って祭りをしている。低い灰色の家屋の上に聳えている
 ものがあった。初めのうちは五本のものすごく大きな指に見えたが、やがて枝を暗い布
 でおおわれた樹木のように見えた。それから、後は何に似ているのかわからなくなった。
 それは謎であった」
・つまり山車の上に立っている鉾を遠くから見て、当時町並の上に高くそびえているのが
 印象的だったのだと思うのです。そういう山車が土崎の祭りにも使われていた。東北は
 遅れていたといいますが、京都に劣らないような祭りが当時土崎で行われていたのです。
・「人力車がそれ以上進めなかったので、私たちは車から下りて群集の中へわけ入った。
 群集は狭い通りの中をぎゅうぎゅう押しあっていた。貧弱な茶屋や店先の並ぶあわれな
 街路ではあったが、人が溢れて街路そのものは見えないほどだった。町中ぎっしり提燈
 が並んでいた。蓆を敷いた壇を支えている粗末な桟敷がかけてあり、壇の上で人びとが、
 茶や酒を飲みながら、下の群集を眺めていた。猿芝居や犬芝居の小屋があり、二匹の汚
 い羊と一匹のやせ豚を、群集が珍しそうに見ていた。日本のこの地方では、これらの動
 物は珍しいのである」
・「三十分ごとに女が観客に首を切らせる小屋もあった。料金は二銭。神社のような屋根
 をつけた車(山車)の行列があって、四十人の男たちが綱を引いていた。その上で上流
 階級の子どもたちが踊りをしていた。正面の開いている劇場があり、その舞台には昔の
 服装をした二人の男が長い袖を下まで垂れて、退屈になるほどゆっくり古典舞踊を演じ
 ていた」   
・これをみると土崎は京都風なものだったことがわかるのです。
・「警察の話では、湊に二万二千人も他所から来ているという。しかも祭りに浮かれてい
 る三万二千人の人びとに対し、二十五人の警官で充分であった。私はそこを午後三時に
 去ったが、その時までに一人も酒に酔っているものを見なかったし、またひとつの乱暴
 な態度や失礼な振舞いを見なかった。私が群集に乱暴に押されることは少しもなかった。
 どんなに人が混雑しているところでも、彼らは輪を作って、私が息をつける空間を残し
 てくれた。  
・現在、二人のオランダ人技師が雇われていて、潟の能力について報告する仕事に従事し
 ている」
・これは八郎潟の天王という所をもっと深く掘り切って秋田の外港として使おうという計
 画があったのです。その調査に来ていたのですが、結局それは殆ど困難なことだという
 ことになって、後に男鹿の船川という所が外港として使われるようになるのです。
・それから彼女は、八郎潟の東の道を歩いて青森に向かって進み始めるのです。
・「日本の町や村では、晩になると毎日のように男の人が歩きながら特殊な笛を低く吹く
 音を聞く。大きな町では、この音がまったくうるさいほどである。それは盲目の人が吹
 いている。しかし盲目の乞食は日本中どこにも見られない。盲人は自立して裕福に暮ら
 している尊敬される階級であり、按摩や金貸や音楽などの職業に従事している」
・それは日本では性病が流行り始め、淋菌が目に入ると、たいてい盲になるのです。これ
 が意外に多く、この病気は近世初期に日本へ入って来たものですが、一般に拡がってい
 くようになったのは江戸中期頃からと思われるのです。しかも東北地方が目立って多か
 った。それは一つは無知が問題になりますが、それ以外に遊郭のようなものが発達して
 いて、売春婦が多かった。
・秋田の能代の北の方に八森という漁村があって、ここには遊郭も何もないのですが、ハ
 タハタがよく獲れたのです。すると、その時に商人がたくさん集まって来る。そしてそ
 ういう女がどこからともなく集まって来て男と一緒に寝る。そのため、この八森には、
 目の見えない男女が意外なほど多かったのです。
・それから檜山と通った。これは能代の南東にあって、士族の村だと書いてあります。
・そこは美しい傾斜地にあった。家は一軒建てで、美しい庭園があり、深い屋根の門がつ
 き、庭先は石段になっていて草木が植えてあった。洗練されて静かな暮らしを楽しんで
 いるように見えた。
・この檜山は、秋田氏が最初に勢力を持つようになったところなのです。秋田氏というの
 は青森の津軽の十三にいた家なのです。この秋田氏は関ケ原の合戦のときに参加しなか
 ったということで、広い領地を取り上げられて福島の三春に追いやられ、小さい殿様に
 かわってしまい、明治まで続くことになるのです。秋田氏が最初の根拠地にしたが檜山
 で、そこには武士の屋敷があったわけです。しかし、今はもうさびれてしまって昔の面
 影はないようです。
・「どこでも藍草が多く栽培している。下層階級の人びとの着物はほとんどすべてが紺色
 であるから、藍草をつくることが必要なのである」
・日本には色に階級があって、だいたい赤い色が一番尊いとされ緋の色といって、天皇な
 どは真赤な衣冠をつけるし、女の人も赤い着物をつける。また武士なども緋おどしの鎧
 をつけるのが一番身分が高いことになる。
・山形の北、天童、東根、村山、河北の辺りが日本で一番大きな紅花の産地なのですが、
 ここで採れた紅花の大半が、京都、大坂へ運ばれて染色に利用されていたのです。もち
 ろん江戸へも来たのですが、江戸では化粧用口紅に一番多く使われているようです。
・米代川をのぼって大舘に出るのですが、その途中の宿で二泊している。
・「二晩とも彼らは酒を飲んで騒ぎ、芸者はうるさく楽器をかき鳴らし、騒ぎを大きくし
 ていた」    
・能代から離れた山中にも芸者がいて、三味線を弾いていたというので。三味線の普及に
 ついてはまったく驚くべきことがあるのです。
・米代川をさかのぼって大舘へ行くのですが、途中大雨にあい、道がずたずたになって、
 なかなか前進することができない。そのため宿に足留めされたようです。
・「ここでは今夜も、他の幾千もの村々の場合と同じく、人びとは仕事から帰宅し、食事
 をとり、煙草を吸い、子どもを見て楽しみ、背に負って歩きまわったり、子どもたちが
 遊ぶのを見てたり、藁で蓑を編んだりしている。彼らは、一般にどこでも、このように
 巧みに環境に適応し、金のかからぬ小さな工夫をして晩を過ごす。(残念ながら)わが
 英国民は、おそらく他のどの国民よりも、このようなことをやっていない。酒屋に人が
 集まっていることはない。いかに家は貧しくとも、彼らは、自分の家庭生活を楽しむ。
 少なくとも子どもが彼らをひきつけている。英国の労働者階級の家庭では、往々にして
 口論があったり言うことをきかなかったりして、家庭は騒々しい場所となってしまうこ
 とが多いのだが、ここでは、そういう光景は見られない。日本では、親の言うことをお
 となしくきくのが当然のこととして、赤ん坊のときから教えこまれている。北へ旅する
 につれて、宗教的色彩は薄れている。信仰心が少しでもあるとすれば、それは主として
 お守りや迷信を信じていることである」
・大舘から碇ヶ関を通って青森県に入っていきます。
・「家庭教育の一つは、いろいろな遊戯の規則を覚えることである。規則は絶対であり、
 疑問が出たときには、口論して遊戯を中止するのではなく、年長の子の命令で問題は解
 決する。子どもたちは自分たちだけで遊び、いつも大人の手を借りるようなことはしな
 い。私はいつも菓子を持っていて、それを子どもたちに与える。しかし彼らは、まず父
 か母の許しを得てからでないと、受け取るものは一人もいない」
・これは決して青森県の片田舎だけの姿ではなく、日本全体にみられた風習だったのです。
 私の子どもの頃も、確かに物をもらう場合、それがどんなに欲しいものであっても、家
 に帰ってもらってもいいかどうかを聞いてからでないと、もらうことはなかったのです。
・「その大部分の病気は、着物と身体を清潔にしていたら発生しなかったであろう。石鹸
 がないこと、着物をあまり洗濯しないこと、肌着のリンネルがないことが、いろいろな
 皮膚病の原因となる。虫に咬まれたり刺されたりして、それがますますひどくなる。こ
 の土地の子どもは、半数近くが。しらくも頭になっている」
・これは決して一カ所だけのことではなく、日本全体の当時の衛生状態だったとみてよい
 と思うのです。よく、日本人はきれい好きである、風呂好きであると言いますが、それ
 は、江戸、大阪や、京都などの町にみられた現象であって、村へ入ってみると風呂のな
 い所が非常に多かったのです。特に東北地方に風呂が普及し始めるのは、今度の戦争が
 すんでからなのです。   
・それから先に、当時のねぶたがどんなものであったかがわかるのです。今、ねぶたは青
 森と弘前が中心になって、青森県全体に拡がっていて、ずっと昔から今のようなねぶた
 がおこなわれていたと考えられがちですが、決してそうではなかったことがわかってき
 ます。
・「私は着物を着て、帽子かぶらず出かけた。このように変装したから、全く人から外国
 婦人と認められずにすんだ。黒石は街燈のない町で、私は、転んだり躓いたりしながら
 急いだ。私たちはまもなく祭りの行列が進んで来るのを見られる所まで来た。それはと
 ても美しく絵のようだったので、私はそこに一時間ほど立ちつくした。行列は大きな箱
 を持って進む。その箱の中には紙片がたくさん入っていて、それには祈願が書かれてい
 る。毎朝七時に、これが川まで運ばれ、紙片は川に流される。この行列には人間の高さ
 ほどの巨大な太鼓が三つ出る。それから小太鼓が三十あって、みな休みなくドンドコド
 ンと打ち鳴らされる。それから何百という提燈が運ばれて来る。それはいろいろな長さ
 の長い竿につけ中央の提燈のまわりについて来る。提燈それ自体が六フィートの長さの
 長方形で、前部と翼部がある。それにはあらゆる種類の奇獣怪獣が極彩色で描かれてい
 る。事実それは提燈というよりもむしろ透かし絵である。何百という大人や子どもたち
 がその後に続き、みな円い提燈を手に持っていた。私は、このように全くお伽噺の中に
 出てくるような光景を今まで見たことがない。この祭りは七夕祭、あるいは星夕祭と呼
 ばれる。しかし私は、それについて何の知識も得ることができない」
・これは七夕祭りだったわけです。そしてねぶた流しが行われた。つまり、いろいろな願
 望を書いて川へ流した。これは二つあって、一つは人の形に切った紙で体をなでて流す
 と病気にならないという。もう一つは文字を書く。字の書けない者は眼をこすってもよ
 かった。それは夏になって、やっかいなねむりを流すことで、ねむりも病の一つと考え
 たわけです。ですからねむり流しとも言っていたのですが、それがなまってねぷたにな
 り、ねぷたは悪いもので坂上田村麻呂が征伐したなんてことになっていますが、ここで
 書かれている様子からすると、秋田で行われている「竿燈」と同じ行事だったことがわ
 かるのです。 
・黒石において、
・「私は、三人の「クリスチャンの学生」が弘前からやって来て面会したいと聞いて驚い
 た。弘前はかなり重要な城下町で、ここから三里半はなれている。旧大名が高等の学校
 (東奥義塾)を財政的に援助していて、その学校の校長として二人の米国人が引き続い
 て来ている」 
・つまりこんな所でアメリカ宣教師が迎えられて東奥義塾の塾長を二代にわたってつとめ
 ている。これはたいへん大事なことだと思うのです。単にキリスト教をひろめただけで
 はなく、この人たちによって、津軽のリンゴが初めて栽培されるようになるのです。ま
 たさらに乳牛を飼うこと。この乳牛を飼うことを実践したのが笹森儀助という人で、津
 軽藩に仕えた武士だったのです。そして封建制が崩れたとき、たくさんの武士だちの生
 活を維持しようとして岩木山の麓を拓いて、そこで乳牛を飼い始めるのです。こうし
 て乳牛を飼うことによって津軽の士族たちは生活をたてることができたわけです。
・次第にこの地方へキリスト教がひろまっていくようになる。この津軽に限らず南部一帯
 にかけて非常に早い時期に進歩的な思想がひろがっていっている。思いがけない所から
 思いがけない人材が出てきている。例えば岩手県の遠野から伊能嘉矩のような学者が出
 て来ている。この人は青年時代に台湾へ行って、あそこの原住民の調査をした日本人と
 してはじめての人です。どうしてあんな北の端の人があの南の方まで行って調べたのだ
 ろうと不思議な気がしますが、この人は千島探検をやり、さらに琉球探検をやってそこ
 の人たちの生活の低さに驚いて、これは自分が救わねばと探検のあと奄美大島の郡長に
 なって治めた。この背後にあったものは、キリスト教的精神であったといってよいかと
 思うのです。 
・それからイザベラ・バードは混浴をのぞきに行きます。
・「浴場においても、他の場所と同じく、固苦しい礼儀作法が行われていることに気づい
 た。お互いに手桶や手拭いを渡すときには深く頭を下げていた。日本では、大衆の浴場
 は世論が形づくられる所だ、といわれる。ちょうど英国のクラブやパブ(酒場)の場合
 と同じである。また、女性がいるために治安上危険な結果に陥らずにすむ、ともいわれ
 ている。しかい政府は最善をつくして混浴をやめさせようとしている」
・日本では混浴であるためにかえって秩序が保たれているという見方は、非常にとらわれ
 ない見方としておもしろいと思っているのです。
・「屋根は乱雑であったが、水瓜をたくさん栽培していて、壁に這わせているので屋根ま
 で隠れていることが多かった」
・これを問題にしたのは、実は日本では西瓜は南の方では作られたが北の方ではほとんど
 作られていなかったということになっている。西瓜を仙台や盛岡の人たちが食べるよう
 になったのは、東北本線が通ずるようになってからで、夏に関東平野から運ばれた西瓜
 をこれらの町の人たちが食べて、これほどうまいものがあるだろうかと驚いたという記
 事が、当時の岩手や宮城の新聞に出ているのです。ところが日本海岸の方ではすでにこ
 の時期に西瓜が作られていた。おそらく船で運ばれていったものだと思いますが、水瓜
 が北の方へ分布していった様子がこういうことからわかると思うのです。
・「”洋食”という文字がうす汚いテーブルかけに書いてある料理店で魚肉を一口急いで
 食べて、灰色の波止場に駆けて行った」
・これは青森での話なのですが、どんなものだったかわかりませんが、いかにも日本人の
 おっちょこちょいぶりが出ていると思うのです。
・「汽船は約七〇トンの小さな古い外輪船であった」
・もうこの時期に青森と函館を結ぶ連絡船が汽船に代わっていたということは興味のある
 ことだと思うのです。      
・この旅の中で悪意を以ってこの人を迎えた者はいなかった。われわれが一番拓けていな
 いと思っている東北の地で、人びとの間には連帯感と善意が満ちみちていたことをふり
 かえってみますと、一体文化とは何だろうと考えさせられるのです。
・とにかく非常に冷静に、しかも愛情を以って日本の文化を観てくれた一人の女性の日記
 に教えられるところが大きいのですが、同時に彼女がこの時期に東京から北海道まで歩
 いてくれたことは、日本人にとってこの飢えない幸せだったと思うのです。
   
私はシーボルト氏に、これからもてなしを受けるアイヌ人対して、新設にやさしく
することがいかに大切かを伊藤に日本語で話してほしい、と頼んだ

・函館において、
・「昨日私は領事館で食事をして、フランス公使館のディースバッハ伯爵、オーストリア
 公使館のフォン・シーボルト氏、オーストリア陸軍のフライトネル中尉に会った」
・このフォン・シーボルトというのは日本に来ていたシーボルトの子なのです、親子二代
 にわたって日本に来ています。シーボルト家はドイツ人ですが、おとうさんの方はオラ
 ンダの日本館勤務のお医者さんで、息子さんの方は公使館員として日本へ来ているので
 す。親子とも日本のことに興味を持ち、特にこの人たちが問題にしていたのはアイヌだ
 ったのです。なぜ日本人がアイヌに対して持つ感心より、シーボルトや他のイギリスの
 学者たちが持つ関心の方が大きかったかというと、とにかく日本の北方にかなり高い文
 化を持った民族がいるが、どうも簡単に日本人と言い切れないものがある。ヨーロッパ
 からシベリアを移動してそこへ行ったものではないかと、そういうことから興味が持た
 れたわけです。
・北海道は歩いてみるととても平和で、駒ケ岳のふもとの小沼までイザベラ・バードは一
 人で行っているのです。  
・「私が函館から一八マイルの旅を、伊藤も他の誰もお供させずに、馬に乗ってやって来
 て、まったく私一人でいることである。「丁寧に頼んだので、良い部屋と夕食を確保す
 ることができた。私の夕食は米飯と卵と黒豆で、私の馬には擂り潰した大豆である」
・「山道を一五マイル登って行くと、七飯という整然とした洋風に村がりっぱな農作物に
 囲まれている。ここは政庁が新風土馴化その他の農事試験をしている所の一つである」
・「森は、噴火湾の南端に近い大きな村だが、今にも倒れそうな家ばかりである。村は砂
 浜の荒涼とした所で、たくさんの女郎屋があり、いかがわしい人間が多い」
・つまり日本の恥部ともいうべきものが政府の高級な開拓方針とは別に、そこへ行くと金
 儲けができるというようなことで、こういう人たちが集まっていて、理想と汚い現実が
 並行して表れる。これは日本の持っている一番大きな弱点とも言うべきもので、朝鮮統
 治の問題にしても、台湾や満州統治にしても、全部これがからんでいるわけです。役人
 の建てた建物は奉天でも新京でも素晴らしく、非常に良い町を作り上げていったのに、
 そこに集まった人たちは、素性の良い人と悪い人が混在していた。これが日本の僻地に
 おける開拓の姿だったといって良いと思うのです。そしてそれが北海道にも如実に出て
 いる。   
・森から室蘭の間に汽船があり、船が室蘭に着くと、
・「いろいろな宿屋から番頭たちが桟橋に下りて来て客引きをするが、彼らの持つ大きな
 提燈の波は、その柔い色彩の灯火とともに上下に揺れて、静止している水面に空の星が
 反映しているかのように魅力的である。女郎屋が多いためであり、悪い連中がよく集ま
 る宿屋が多いためである」
・アイヌの部落へ入っていこうとしているのですが、
・「幌別の場合には、四十七戸のアイヌ人に対して日本人はただの十八戸である。アイヌ
 村は実際よりも大きく見える。ほとんどの家が倉をもっているからである」
・つまり日本人は日本人の村を作り、アイヌをアイヌで村を作るというのが普通なのです
 が、これをみると、同じ所に日本人も住みついている。これはアイヌをみていく場合に
 非常に大事な問題ではないかと思う。それは、やがて日本人がアイヌを追いたてていっ
 てアイヌのいる場所がなくなるのは、別々に住み分けないで同じ所に住んだということ
 にあるのではないか。そして日本人がだんだん増えてくると、アイヌはそこに住めなく
 なってくる。もう一つは、すごい混血が起こってくる。
・今、本当のアイヌはどのくらい残っているかというと、非常に少ないのです。戦後、日
 本民族学会が調査した時、戸籍をずっと洗ってみたら純粋のアイヌは非常に少なくて、
 たいていは日本人の血が入っている。しかもアイヌと思われる人たちには私生児が多い。
 それは日本人がアイヌの女に子を生ませても認知しない。父親がいないので純粋に見え
 るけれど、本当は日本人の血が入っているというのが少なくなかった。
・アイヌ人は非常に顔が整っていたということが書かれています。
・「未開人の顔つきというよりも、むしろサー・ノエル・パトン(英国の歴史画家)の描
 くキリスト像の顔に似ている。彼の態度はきわめて上品で、アイヌ語も日本語も話す。
 その低い音楽的な調子はアイヌ人の話し方の特徴である。これらのアイヌ人は決して着
 物を脱がないで、たいへん暑いときには片肌を脱いだり、双肌を脱いだりするだけであ
 る」   
・やはり、アイヌ人は習俗に上でも日本人とは違っていたということがわかります。
・北海道の方々へ日本人が住みつき始めるのですが、平取の少し手前の所で、
・「日本人村に到着した。ここは六十三戸あり、主として仙台地方からきた士族がつくっ
 た開拓地である」
・このあたりには東北地方から来た人たちの村がたくさんあって、噴火湾の近くに伊達と
 いう町があり、札幌近くに白石という町がある。これらはアイヌの村とは関係なく原野
 に入って拓かれた町なのです。
・「私はシーボルト氏に、これからもてなしを受けるアイヌ人に対して親切に優しくする
 ことがいかに大切かを伊藤に日本語で話してほしい、と頼んだ。伊藤はそれを聞いて、
 たいそう憤慨して言った。「アイヌ人を丁寧に扱うなんて!彼らはただの犬です。人間
 ではありません」それから彼は、アイヌ人について村でかき集めた悪い噂を残らず私に
 話すのであった」 
・これは日本人がアイヌをどう見ていたかということがよくわかるのですが、東京から来
 た伊藤のような男でも、アイヌを人間扱いにしていなかったのですね。アイヌというの
 は、犬と人間のあいのこだから、アイヌというのだなんていうのが出てきますが、その
 くらいに考えていたのです。 
・「彼らは、日本人の場合のように、集まって来たり、じろじろ覗いたりはしない。おそ
 らくは無関心なためもあり、知性が欠けているためかもしれない」
・日本の場合には、垣が壊れたり屋根から転がり落ちたりしてまで、イザベラ・バードを
 見たのですが、アイヌはまるで彼女を問題にしていない。いかにも日本人と違った感覚
 を持っていたことがわかるわけですが、彼らがもう少し日本的物見高さがあれば、また
 違ったかたちでの接触がみられたのではなかったか。
・「彼らは遊牧の民ではない。それどころか、先祖伝来の土地に強く執着している」
・アイヌは狩猟を中心にした生活をしていたのですが、ちゃんとテリトリーがあって、一
 つの山に囲まれた村では、その村のまわりの範囲内のけものは自分たちが獲れる。そし
 て狩猟と採取を中心にして、早くから定着していたのです。アイヌは狩猟民族ではあっ
 たがついに遊牧民にはならず、その狩猟も移動性の少ないものだったというわけもわか
 るのではないか。狩猟を中心にしながら日本の農村集落に近い住まい方をしていると思
 うのです。
・「夕方一人の男がやって来て、やっとしか息のつけない女がいるから行って見てくれな
 いか、と頼んだ。行って見ると、彼女はひどい気管支炎で、だいぶ熱があった。彼女は
 毛布の上着を着て、堅い板の寝床の上で寝返りをうっていた。彼女は蓆を巻いたものを
 頭の下に当てて枕にしていた。彼女の夫はなんとかして彼女に塩魚をのみこませようと
 していた。私は彼女の乾いた熱い手をとった。非常に小さな手で、背中には一面に入れ
 墨がしてあった。それを見ると私は身体が妙にぞくぞくとしてきた。部屋には人がいっ
 ぱいいて、みなたいそう気の毒そうな顔をしていた。ここでは医療宣教師はほとんど役
 に立たないであろうが、医学訓練を受けた看護婦ならば、医薬と適当な食物、適当な看
 護を与えることにより、多くの生命と多くの苦しみを救うことができるのだろう。これ
 らの人びとに一回以上なんどもやらなければならないことをせよと言っても無駄であろ
 う。彼らはちょうど子どものようなものだ。私は彼女に少量のクロロダイン(麻酔鎮痛
 薬)を与えた。彼女はそれをやっと飲み込んだ。そしてすでに調合してあるもう一服の
 薬を数時間後に飲ませるようにと言って、そこを出た。しかし真夜中ごろ彼らがやって
 来て、彼女の病状が悪化したという。行って見ると、彼女は身体がとても冷たく、弱っ
 ていた。呼吸もたいそう困難そうで、頭をだるそうに左右に振っていた。これでは何時
 間ももつまいと思い、私が彼女を殺したと人びとに思われはしまいかと心配した。しか
 し彼らは私にもっと何か手当をしてくれというので、私は最後の望みとして彼女にブラ
 ンデーとクロロダイン二十五錠、非常に強力なビーフティー(牛肉を煮詰めた滋養飲料)
 を数匙与えた。彼女はそれを飲み込もうとする力もなかった。というよりも、むしろ飲
 みたがらなかったかもしれない。そこで私は、樺の樹皮がぎらぎら燃える光の下で、彼
 女の喉に薬を注ぎこんだ。一時間後彼らがやって来て、彼女はよっぱらったようにふら
 ふらしていると言った。しかし彼女の家に戻って見ると、彼女はすやすやと眠っていた。
 呼吸も前より楽になっていた。ちょうど夜明け頃、また行ってみると、やはり眠っては
 いたが、ずっと脈搏もつ強く落ち着いていた。もう彼女は目立って快方に向かい、意識
 もはっきりしてきていた。副酋長である彼女の夫は大喜びだった」
・こうして一人の女が救われることがアイヌたちにとっては非常に印象深いことだったと
 思うのです。イザベラ・バードのヒューマニスティックな態度の中から、日本人の欠け
 た点がわかってくるのです。彼女の調査をみていると、ただ相手の文化を調べて奪い取
 るだけではなくて、返せるものはできるだけ返していこうという姿勢がある。
  
いつか遠い昔において彼らは偉大な国民であったという考えにしがみついている。
彼らには、互いに殺し合う激しい争乱の伝統がない

・「帯に粗末な短刀のような形をしたナイフをつけている」
・今われわれが食事をするときは料理されたものを箸で食べるわけですが、ヨーロッパへ
 行くとナイフとフォークで魚や肉を切って食べている。それではもっと前の時代にはど
 うであったかというと、腰にナイフを差していて、例えば蒙古のあたりですと、それに
 箸も一緒についていて、肉類を食べる時にはそのナイフで切って食べる。そういう食べ
 方をしていたわけです。日本ではどうかといいますと、古い絵巻物を見てみますと、坊
 さんまでが腰に小さな刀を差しているのです。それはやはり旅をしていて何かを食べる
 時に使ったものだと思うのです。今から七百年くらい前までは日本でも刀を差していた
 のですが、アイヌではこの時期までナイフを刺していたということです。そして日本人
 の場合、もう一つ火打袋というものを持って歩いているのです。腰に袋をさげていて、
 火打石と火打金や火口を入れていて、それで火をおこして焼いて食べたのでしょう。こ
 れが様式化して残ったのが武士の脇差しだろうと思うのです。これは元々は人を切るた
 めのものではなくて、物を料理するためのものだったのではなかろうかと考えられます。
・「入口の左手には必ず据え付けられた木製の台がある。一八インチの高さで、一枚の蓆
 で覆われている。これが寝所である」
・アイヌはベッドを使っているのです。
・「家屋の点でも、征服者である日本人よりもヨーロッパ的である」
・「毒矢、仕掛け矢、落とし穴を使って来た」
・日本の場合、毒を使うということはほとんどないのです。これは民族的な差なのか、あ
 るいは日本人が早く毒から離れていたのかよくわかりませんが、多少使ったと思われる
 のは伊達騒動などで毒饅頭が出てくるのですが、実際に日本人が毒殺されたという例は
 極めて少ないのです。事実過去の歴史の中で、例えば江戸時代に多くの人たちが殺され
 ているけれど毒を盛られて殺されているのはほとんどないのです。しかしアイヌの持っ
 ている毒について関心は持っていたらしいのです。それは武田信玄が川中島の合戦でア
 イヌを使っているようなのです。アイヌが毒矢を使うということで戦力として使ってい
 るのです。日本で毒を製造して矢につけたのではなく、毒を持っているアイヌを軍人と
 して使っているというのは非常に興味のあることなのです。
・「熊の肝を乾したり粉にひいたものが彼らの特効薬であって、腹痛やその他の痛みのと
 きにこれを重用する。彼らは健康な民族である。三百人が住んでいるこの村に慢性病で
 苦しんでいる人はいない。ただ一人の気管支炎患者と、子どもたちの間に皮膚病がある
 ことだけである。この村にも、また私が訪れた他の五つの大きな村にも、奇形児はいな
 い。例外として、片方の脚がちょっと短い少女がただ一人いるだけである」
・東北の日本人に皮膚病や目を悪くしているのがとにかく、たくさんいたのに、アイヌに
 はそれがなかったということは、われわれが反省すべき問題ではないかと思います」
・この人びとの習慣は、上品さと礼節が少しも欠けているわけではないが、清潔ではない。
 女性は一日に一回手を洗う。しかし他の洗い方は知られていない。彼らは決して着物を
 洗わず、同じものを夜昼着ている。彼らの家屋には蚤がいっぱいいるけれども、この点
 では日本の宿屋ほどひどくはない」
・清潔ではないが蚤の少なかった。これも病気の少ない原因かもしれないが、とにかく健
 康な民族であった。少数民と日本人とが隔絶した社会を作っていたためかもしれないが、
 これはおもしろい問題だと思います。    
・「彼らはある木の根から、また彼らの作った黍や日本産の米から、ある種の酒を醸造す
 る」
・これは神々のために飲む酒で、たくさん飲んではいけないのです。
・「酒は人間を犬のようにするから」
・日本の場合、犬のようになるまで飲むのがよいとされている。これは人種の差なのか、
 あるいはこの人たちが古い縄文時代の作法を守り、一方日本の社会構造の変化に伴って
 きた差なのかもしれません。   
・「家の中も外も、嫌な臭いが少しもない」
・日本の会津盆地へ入って行く時に非常にくさかったと書いていますが、ここでは家を開
 けっ放っていて空気の流通が良いためです。 
・「彼らは時間を計算する方法をもっていない。だから自分の年齢も知らない」
・日本では時間を計ることは非常に早く中国から入って来ていて、一日も一年もわかって
 いたのですが、アイヌは計数ということにとても劣るものがあった。
・「いつか遠い昔において彼らは偉大な国民であったという考えにしがみついている。彼
 らには、互いに殺し合う激しい争乱の伝統がない」
・つまり戦争をするということは、今日ではいけないということになっていますが、戦争
 をしないと、なかなか国家は生まれてこないのです。彼らは非常に古い時代に戦争を放
 棄したということが大きな停滞の起こる原因になったのではないか、と考えられます。
・「昔アイヌ人は弓矢はもちろんのこと槍やナイフで戦ったが、彼らの英雄神である義経
 が戦争を永久に禁止したので、それ以来は、九フィートの長さの柄のついた両刃の槍は
 ただ熊狩りに使われるだけになった、と言っている」
・イザベラ・バードが行っても皆が物見高物見高物見高く集まるということはなく、無関
 心である。ところが一方、東京を出て青森の間では、どこへ行ってもわんさと人がおし
 かけ彼女を見ている。未開とか進歩とかいうのは、その差ではないだろうかという気が
 するのです。日本人の中には物見高さというか、おっちょこちょいというか、とにかく
 他の国では見られない現象が起こる。それが習俗的なものなのか、体質的なものなのか
 はわかりませんが、そのおっちょこちょいの気質が明治以後、外国文化をすごい勢いで
 吸収する力となっているのではないか。  
・アイヌは日本の骨董を蓄積はしたのですが、それによって自分たちの生活を啓発すると
 いったことはなく、ただ宝として持っている。これが日本だと、下手でも真似をして自
 分で作ってみなければ気がすまないと思うのです。