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この作品は、今から43年前の1980年に刊行されたもので、慶長18年(1613)
に仙台藩・伊達政宗の使者(慶長遣欧使節)としてスペインに渡った支倉常長の生涯を物
語にしたものだ。この作品に出てくる「侍」の長谷倉六右衛門は支倉常長のことであり、
ベラスコ神父はルイス・ソテロのことである。

私はこの作品を読むまでは、支倉常長は、伊達政宗の重臣の一人と思っていたのだが、
実際はそうではなく、藩士の身分でもずっと下位の身分だったことを知って、ちょっと驚
いた。
そこにはいろいろな思惑があったらしく、露骨に言えば、上位の身分の者が下っ端の身分
のものに責任を押し付けたのだ。きっと誰もがこの使節の目的が達せられる可能性は低い
と思っていたからなのだろう。だから、失敗しても差し障りのない身分の低い者に責任を
負わせたのだと思われる。これは現代の政治・官僚などの組織でよく使われる手段であろ
う。

もう一つ私が勘違いをしていたのは、この支倉常長が一緒だった南蛮人たちは、慶長14
年(1609)に嵐で船が難破
し御宿に漂着した南蛮人たちなのかと思っていたが、
その人たちは家康の計らいで既に別の船で帰国しており、慶長16年(1611)にその
時の遭難救助の答礼として日本に来ていたスペインの探検家一行が、日本沿岸の測量調査
の帰りに再び嵐で難破して船を失った人たちだったということだ。この時には、家康の計
らいはなく、伊達政宗の思惑もあって、正宗の援助で船を建造して帰国することになった
ようだ。

この作品を読んで、まず疑問に思ったのは使者の人数である。この作品では使者は4人と
なっているのだが、ネットなどで調べても支倉常長以外の使者は出てこない。実際はどう
だったのだろうか。日本の慣例として、このような使者を出す場合、一人ではなく複数人
を使者を出すのが一般的ではないかと思える。そう考えると、使者が支倉常長ひとりだっ
たという方に私は違和感を感じるのだが、どうだろうか。
それと、複数人の使者だった場合、どうして支倉常長だけが注目されたのだろうか。不思
議である。

この作品の中で、日本人の宗教観について、宣教師が語った言葉として、ずばり言い当て
ている部分があった。
「日本での長い生活で、私はいかに日本人が宗教のなかにさえ現世の利益を求めるかをこ
 の眼で見てきた。つまり現世の利益をより多く獲得するために彼らの言う信心があると
 云ってもよいほどだった。
 病気や災害から逃れるため、彼らは神仏を拝む。領主たちは戦いの勝利を得るために神
 社や仏閣に寄進を約束する。坊主たちもそれをよく心得ていて、薬よりももっと効き目
 のある薬師如来という悪魔の像を信者たちに拝ませているが、この如来ほど日本人に崇
 められている仏像はないのだ。
 そして病気や災害から逃れるためだけではない。日本人の宗教には富を増やし財産を守
 ってくれると称する邪宗も多く、それにあまたの信者が集まってくる」
これを読んで、なるほど確かにその通りだと私は納得した。

キリスト教に関して言えば、長谷倉たちがプエブラの近くのテカリという村で出会った元
修道士との会話が興味深かった。
長谷倉が「あのような、みすぼらしい、みじめな男をなぜ敬うことができる。なぜあの痩
せた醜い男を拝むことができる。それが俺にはようわからぬが」と元修道士に問うたのに
対して、
「あの方は、生涯、みじめであられたゆえ、みじめな者の心を承知されております」
「あの方はみずぼらしく死なれたゆえ、みすぼらしく死ぬ者の哀しみも存じております」
「あの方は決して強くもなかった。美しくもなかった」
「あなたさまがあの方を心にかけられずとも・・・あの方はあなたさまをいつまでも心
 にかけておられます」
と説いているところがあった。私はこれを読んで、キリスト教の基本精神はここにあるの
だなと、なんとなく納得できたような気がした。

ところで、支倉常長の最期についてであるが、はっきりした記録はないようで、いろいろ
な説があるようだ。この作品でも、最期のところはあいまいな表現になっている。
そして現在、支倉常長の墓といわれるものは、宮城県内に3箇所存在する。
・仙台市北山にある光明寺説。
・支倉常長の生まれ故郷とも言える川崎町支倉地区の円福寺説。
大郷町隠棲
さまざまな憶測があるようだが、常長がその晩年を大郷の山里で世の中から身を隠しなが
らひっそり静かに暮らしたという大郷町の隠棲説が有力視されているという。はたして、
真実はどこにあるのだろうか。
また、慶長遣欧使節団が乗った船(サン・ファン・バウティスタ号)が出航した場所につ
いても、「月ノ浦」だというのがいままでの通説となっていたが、これに対して異を唱え
る人が現れている。
はたして、どちらに真実なのだろうか。

なお、支倉の孫が書いたとされる一通の手紙が存在すると言われている。この手紙によれ
ば、1640年に徳川幕府は支倉の次男の権四郎がひそかに禁制の宗教儀式をとり行って
いるのを発見したという。こうした事態を放置していたため、支倉の長男・勘三郎は切腹
を命ぜられたとされている。これも本当のことなのだろうか。

前に読んだ関係する本:
イザベラ・バードの旅


第一章
・侍は三つの村のことを知りつくしていた。父の代に殿からこの村とこの土地とを給地と
 して与えられたからである。今は総領となった彼は公役の命令がくれば百姓たちの何人
 かを集め、万が一、戦がはじまれば供をつれて寄親の石田さまの館まで駆けつけなけれ
 ばならぬ。
・彼の家形は百姓たちの住む家よりはまだ良かったが、それでも藁ぶきの建物を幾つか集
 めたものにすぎぬ。百姓の家と違うのは、幾つかの納屋や大きな馬小屋があり、周囲に
 土塁をめぐらしていることである。
・谷戸の北方の山に、むかし、この土地を支配して殿に滅ぼされた地侍の砦の跡があった
 が、日本中の戦が終わり、殿が陸奥一の大名となられた今は、そんな備えも侍の一族に
 は要らなくなった。その上、ここでは身分の上下はあっても、侍も畠で働き、下男たち
 と山で炭を焼く。彼の妻も女たちと牛馬の世話をする。
・侍は一族の総領であったが、彼は分家さまとよばれる年とった叔父が来るとやはり気が
 重くなる。父が死んだあと彼が長谷倉の本家を継いだものの、なにごともこの叔父と談
 合してとり決めてきた。叔父は殿がなされた幾つかの戦いに父と一緒に出陣してきたの
 である。 
・侍は父や叔父の愚痴にもかかわらず、この野谷地が嫌いではなかった。ここは父が死ん
 でから彼が一族の総領としてはじめて治める土地だったが、彼と同じように眼がくぼみ、
 頬骨が突き出た百姓たちは黙々として早朝から夜がくるまで牛のように働き、喧嘩も争
 いもしなかった。地味のうすい田畠を耕し、自分たちの食べる物を減らしても年貢は遅
 れずに出した。そんな百姓と話をしている時、侍は身分の違いを忘れ、自分と彼らを結
 び付けているものを感じる。自分のただ一つの取り柄は忍耐づよいことだと考えていた
 が、百姓たちは彼よりも、もっと従順で我慢づよかった。
 
・寄親である石田さまからお呼び出しがあった。
 「近く、公役の御指図がある。それにつき、お前に特に申し渡すことも起こるかもすれ
 ぬ。そのこと、忘れるな」
・「江戸では切支丹の御探索が厳しゅうなってな。その引き回しを見た」
 将軍の父である内府さまが今年、幕府直轄領に切支丹の教えを禁じられたことを侍も知
 っていた。そのため追放された信徒たちが禁制のない西国や東北に移住し、殿の御領内
 の金山なので働いていることを彼もたびたび耳にしていたのである。
 「南蛮伴天連もそれにまじっておった。これまでに切支丹の者やバテレンに会うたこ
 とがあるか」
 「ございませぬ」
 それは自分の住む雪ぶかい谷戸には関係のないことだった。谷戸の者は、江戸から逃げ
 てきた信徒も、一生、見ずに死ぬのである。
・館の外ではつめたい雨にぬれきった蓑をまとって与蔵が犬のように従順に侍を待ってい
 た。彼より三つ年上のこの下男は生まれた時から侍と同じ家で育ち、侍の家のために働
 いてきた。 

・湿った藁の臭いは宣教師の座っている牢獄にも充満していた。昨日から彼は自分が処刑
 される率と、釈放される率とを計算してきた。
 助かるとすれば、それはまだ、彼がこの国の為政者たちに役にたつためである。
 今日までこの国の権力者たちはマニラから使節がくるたびに宣教師を通辞として使って
 きたが、実際、彼ほど日本語に巧みな宣教師はもう江戸にはいなかった。
・宣教師は自分の能力に自信を持っていた。ポーロ会の江戸管区長である彼は、今日まで
 の日本での布教の失敗は、自分の会とことごとく対立してきたペテロ会の過失によるも
 のだといつも考えてきた。 
 ペテロ会の司祭たちは些事にはいつも政治的なくせに、本当は政治というものを知らな
 い。彼らは六十年も布教した揚句、長崎に施設権も裁判権も持った教会領を持ち、その
 ために日本の権力者たちを不安にさせ、疑惑の種をまいてしまったのである。
・日本人が、おのれの好き嫌いにもかかわらず利用価値のあるものは、生かしておくこと
 を彼は知っていたし、彼の通辞としての能力は、貿易の利益に眼のくらんだこの国の権
 力者たちにまだまだ必要だった。
 内府も将軍も切支丹を嫌いながら宣教師をこの町に住まわせているのはそのためである。
 内府は長崎に劣らぬもうひとつの遠国との取引をする港を欲しかっていた。とりわけ遠
 い海の向うのノベスパニア(メキシコ)との通商を望み、今日までそのための手紙を幾
 度もマニラのエスパニア(スペイン)人総督に送っている。
・「ベラスコ殿」
 「出られるがよい。これは役人の手ちがいであった」
 「そこもと、切支丹の神父として江戸に住んでおるのではなかろうが。このたびも、あ
 る方のおとりなしがなければ、どうなったかわからぬぞ」
・彼はこの大きな町で、司祭としてではなく、通辞として住んでいるのであった。
   
・「東北に行かれたこはおありか。石田殿の御国では江戸とちごうて、切支丹はお咎めが
 ないそうだ。あそこならベラスコ殿も大手をふって歩ける」
・もちろん宣教師もその事実を知っていた。内府は自分の直轄領では切支丹を禁じてはい
 たが、改宗した信徒や武士が一揆を起こすことを怖れて他の大名にはそれをきびしく強
 いなかったし、江戸を追われた信徒が西国や東北に逃亡するのも黙認していた。
・「ベラスコ殿、塩釜や月ノ浦と申す名を耳にされたことがおありか」
 「東北では、各罰すぐれた入江でござる」
 「その入江で南蛮船と同じような大船を造るやもしれぬ」
・宣教師は、一瞬、息をのんだ。彼が今日まで知っている限り、この国ではせいぜいシャ
 ムや支那の帆船を真似た朱印船しか持っていない。ひろい海を自在に渡るガレオン船を
 造る場所もなければ能力も持っていなかった。
・(と、すると、あの船の船員たちを使うのであろう)
 去年、彼が通辞として江戸城で立ちあったマニラからのエスパニヤ人使節の船が、途中
 の嵐で紀州に漂着し、補修さえ不可能なまま浦賀の港に抑留された。
 使節も船員たちも迎えの船が来るまで江戸で辛坊づよく待っている。その船員たちを使
 って日本人たちはガレオン船と同じ彼らの船を造ろうと考えているかもしれぬ。
  
・晴れた日、石田さまが洩らしておられた公役のお達しが来た。谷戸から二人の者を差し
 出せとのことである。  
 お達しを受けると侍は与蔵をつれて叔父の村をたずねた。
 「聞いておるぞ。雄勝の山々から杉を切り出し、軍船を造るという噂だ」
 「これはひとつ、雄勝まで行って、何が始まるのか聞いてこねばならぬぞ」
・公役に差し出す二人の若者を村から選んで、彼は翌日また馬に乗った。
 雄勝は陸前の海ぞい、鋸の歯のように切り込んだ入江の一つである。早朝、谷戸を出て、
 夕暮、海近くまで来た時、曇り空から雪が頬にあたった。水浜というわびしい漁村で宿
 をかりた。海鳴りの音が一晩中聞こえるので、連れてきた若者たちは心細げに侍の顔を
 見る。漁師たちの話では、雄勝の山々ではすでに公役の人夫たちが集まり、木を切りは
 じめているそうである。 
・静かな入江が見えてきた。そして片側の山には人夫小屋がいくつも既に作られていて、
 木々を伐採する鋭い音が遠くから聞こえてきた。荒れた外海とは違って、島と山とが風
 を遮った入江には既に筏があまた浮いている。
・役人衆の番小屋に出頭して、連れてきた若者の名を書き込んでもらっていると、一人の
 小者が慌ただしく駆け込んできて、御重臣の白石さまがまもなく御到着になる、と知ら
 せてきた。 
・役人たちにまじって侍も御一行を待っていると、間もなく馬に乗った十数人の行列がゆ
 っくりとこちらに近づいてくるのが見えた。驚いたことにそのなかには侍が初めて目撃
 する南蛮人が四、五人、加わっていた。彼らは頭をさげるのも忘れ、ひたすらその異様
 な人間たちを見つけた。そのなかに一人、日本語ができる南蛮人がいて、これは左右の
 供の者に話かけていた。
・行列が役人衆の列の前を通りすぎる時、
 「五郎左衛門の息子ではないか」
 と父の名を口にされた方がいた。白石さまだった。侍が恐縮して頭をさげると、
 「石田殿からも色々聞いておるぞ。お前の父とは郡山や窪田の合戦で共に苦労した」
 侍はひたすら畏まって白石さまのお声を聞いていた。
・ここに来てわかったことは、入江で造る大船は軍船ではなく、去年、紀州に漂着した南
 蛮人の船員たちを国に戻すための朱印船だということだった。さきほどの南蛮人たちは
 その船員で、彼らの指図によって朱印船は異国風に建造されるのである。
  
・ほの暗い広間の上座に殿の御重臣たちは一列に並んで着席していた。
 傍には江戸から連行されたエスパニヤ人の技師長が特に許されて床几に腰かけていた。
 この男は宣教師と違って日本流に坐ることができないのである。
・殿は既にこの大船を造るために二百人の大工、百五十人の鍛冶工を御領内から雄勝に集
 めておられたが、完成を急ぐためにはその二倍に近い職人が必要だった。人夫の数もま
 だまだ足りないと技師長は訴えた。
・「秋にはよく嵐がございますゆえ、御当地よりノベスパニアまで二カ月の船旅を考えれ
 ば、夏のはじまりには船出が望ましいと申しております」
・殿の御重臣たちは大洋の広さを呑み込めていなかった。ノベスパニアがどこにあるかも
 理解していない。  
 だが今は彼らもこの海の遠くにひろい富んだ土地があって、さまざまな人間が住みつい
 ているのだと知りはじめた。
・殿は内府さまの御許可を得て、九州の長崎に匹敵するような貿易港を作ろうと考えてお
 られる。殿のその御意志をノベスパニアの総督に伝達することが帰還船員たちに托する
 ただ一つの条件だという。
・技師長は自分たちは悦んで斡旋すると答えた。それだけでなく彼は日本の産物、とりわ
 け銅や銀、またこの領内で採取できる砂金などはきっとノベスパニアを悦ばし、それら
 を乗せた日本の朱印船が来ることを歓迎するだろうと世辞を言った。
・問題はただガレオン船を停泊させられる良き港を建設することだが、気仙沼、塩釜、月
 ノ浦の入江は、充分それに値するとも説明した。
・「ベラスコ殿、われらはまこと、ノベスパニアと取引きがしたい。ルソン、マカオ、南
 蛮の国々から参る船はことごとく長崎に集まり、この陸前はもとより内府さまの江戸に
 も参らぬからだ。殿の御領地、陸前にはあまた良き港のあるにもかかわらず、ノベスパ
 ニアの船はルソンを経ねば日本を訪れぬ。ルソンを経れば船は潮の流れのため、どうし
 ても九州に着くと聞く」  
・「江戸では知らぬ。だがここではベラスコ殿は通辞ではあるが、また神父でもある」
 と白石さまは静かに答えた。
 「殿の御領内では切支丹は禁じられてはおらぬ」
・その通りだった。江戸と幕府直轄領から追放されたあまたの信徒たちは糧と祈りの地を
 求めてここ東北や蝦夷に逃げてきている。その多くは殿の知行地の金山でも働いていた。
 ここ御領内ではもはや江戸のように司祭たちが身を隠す必要もなかった。信徒たちが自
 分を偽る必要もなかった。   
・「のう、ベラスコ殿、ノベスパニアから更に多くの神父たちをここに呼びたくはないか
 のう」
 「江戸の切支丹たちが処刑されましたことは、ペテロ会の口から既にルソン、マカオよ
 りノベスパニアにも伝わっております。今更、この御領内だけに切支丹を許すと仰せら
 れましても、かの地でそれをやすやすと信じるとは思えませぬ」
 「本国のエスパニヤにこの取引きを認めさすために、そのエスパニヤの王を動かすこと
 ができますのは・・・ただローマの法王さまのみでございますが・・・」
・切支丹の世界に疎い彼らはローマ法王の存在もその法王の絶対的な権威もほとんし知ら
 ない。 
 宣教師は法王と欧州の諸王との関係は京の天子と諸侯とのそれに似て、それ以上のもの
 だと 説明せねばならなかった。
 
第二章
・お城の御談合に加わられた石田さまが、明日、お帰りの途中この谷戸で御休息になると
 いう知らせが急にあった。
 石田さまがお城からのお帰りに、侍の知行地をお通りになることなど父の代からあった
 例はない。それだけに如何なる出来事があったのかと、侍は言いようもなく不安だった。
・「今日は良き土産を持って参ったぞ」
 「殿が雄勝の入江で大船を造られていることは知っておろう。あの船は紀州にうちあげ
 られた南蛮人たちを乗せてノベスパニアと申す遠い国に行く。昨日、御城中で白石さま
 が、ふとお前の名を口に出され、殿の御使者衆の一人として、そのノベスパニアまで赴
 くよう御指図があった」 
・侍は石田さまが何を仰せられているか、理解できなかった。ただその顔を茫然と見上げ
 ていた。考えもしなかった出来事が不意に我が身を襲ってきたようで、息もつけず、言
 葉もでない。茫然としている叔父の膝頭が小刻みに震えはじめている。それだけが侍に
 も伝わってきた。
 「いいか。ノベスパニアと申す国に参るのだ」
・大船のこと、ノベスパニアのことを話される石田さまのお声を侍は遠い世界から来るも
 ののように聞いていた。憶えているのは、大船は南蛮人の船員たち三十余人のほか、日
 本人の使者四人とその従者たち、そしてまた日本人の水手頭など十数名、商人たち百人
 以上が乗り組むことである。船は千石船よりも大きい船で、ノベスパニアまで二カ月の
 船旅をする。別に通辞として南蛮人のバテレンもこれに加わり、かの国に着いてから使
 者衆のためのさまざまな仕儀手配を行なう。
・やがて石田さまがお帰りになるため立ちあがられた。供の者たちが慌ただしく馬を引き、
 再び谷戸の出口までお送りする間、侍も叔父もほとんど口をきかず、茫然として従った。
 一行のお姿が視界から遠ざかったあとも二人は無言のまま家形に戻った。
 さきほど厨で話を聞いていた妻のりくも蒼ざめた顔で姿を消した。
・「何のことだ、何としてもわからぬが・・・」
 叔父がぽつんとつぶやいた。
 侍にも何もわからない。遠い国に差し出されるそのような大事な使者衆なら城中には格
 式のある家来の方々があまたおられる。
 侍の家はその召出衆と呼ばれる身分にすぎぬ。そんな格式低い家臣を特に抜擢して御使
 者衆のなかに加えられた理由が彼にはまったく理解できない。
・厨からりくが再び蒼ざめた顔をしてあらわれ、囲炉裏の片隅に坐ると、叔父と侍との顔
 を見つめた。 
 りくは立ち上がって厨に姿を消したが、侍には妻が泣くのを懸命にこらえているのがよ
 くわかった。

・この雄勝で宣教師が役人から与えられた小屋は大工や人夫たちの飯場からかなり離れた
 入江の先端にあったが、それは他の小屋と同じように丸太を積み重ねただけのものだっ
 た。納屋のようなその部屋は彼の寝室であり同時に一人で祈る場所も兼ねていた。
・神学生の時から眠る時、彼は自分の手首を縛って横たわる習慣を持っていたが、それは
 彼の頑健な体を襲ってくる烈しい性欲に負けないためでもあった。一生、放棄したはず
 のこの性欲は、若い頃ほど彼を烈しく苦しめなくなったけれども、今もいつ暴れるかわ
 からぬ馬を縛りつけるように宣教師は夜の祈りを一人、すませ、床の上に棒のように転
 がる前に、手首を縄でくくる習慣をここでも捨ててはいなかった。
 
・土間にには数人の百姓たちが、侍が姿を見せるのを待っていた。彼らはそれぞれ谷戸の
 三つ村の代表者たちだった。
 囲炉裏の横座に侍は座った百姓たちを眺めた。彼はこの百姓たちから、大きな海を渡り、
 夢にも見たことのないノベスパニアに連れていく従者を選ばねばならなかった。城中か
 らの御指図では従者衆はそれぞれ四人まで供を連れることが許されたからである。
・「悦んでもらいたいことがあるぞ」
 侍が話しはじめる前に、叔父が満足げに口を開いた。
 「雄勝の大船のこと、皆もうすうす聞いてはおろう。あの大船、殿の御指図で遠い南蛮
 の国に赴くが、その船に六右衛門が載ることとなった。殿の御使者衆としてな」
・だが百姓たちは感動も驚くもない鈍い眼で二人を見上げていた。それはまるで人間たち
 のやることを無関心に眺めている老犬のようだった。
・「六右衛門の供として、この与蔵には既に話しておいた。あと三人の者をそれぞれの村
 から一名ずつ連れて参ることにするが」
 うずくまった百姓たちが一瞬、硬直したように顔を強張らせた。
・「長旅ゆえ、女房、子供のある者は迷惑であろう。そこのところもよう考えてな、お前
 たちで選んでくれい」    
・百姓たちは籠のなかのうずらの群れのように顔と顔を突き合わせて小声で相談しあって
 いた。抑えつけた低い声の話し合いが長く続き、その間、侍は叔父と黙っまま彼らを無
 表情に眺めていた。
 谷戸の三つの村からそれぞれ女房、子供のいない清八、一助、大助という三人の若者が
 選ばれた。 
・「なあ、六」叔父は急にしんみりとして、「旅のあいだ体をいとうてくれよ」
 うつむいていたが、侍はやはり少し恨めしかった。叔父の念頭には失った先祖伝来の土
 地しかない。生きている間にその土地がふたたび手に戻ることだけが叔父の今の生き甲
 斐なのだ。
 だが侍自身はさっきの百姓たちと同じように、今更、あたらしい場所を得て、そこに移
 り住む気持ちはあまりなかった。この谷戸でこのまま生き、このまま死にたかった。
・「馬を見て参ります」
 侍は与蔵に眼くばせをして土間をおり、外に出た。
 「苦労だがの」と侍はしんみりと与蔵に言った。「供をしてくれるか」
 一本の藁屑を指先でいじりながら与蔵はゆっくりとうなずいた。
 「なぜわしが使者衆に選ばれたのか、まだわからぬ」
 「どのような難儀な旅なのか、どのような国に参るのかもわからぬ。それゆえ、お前が
 供をしてくれれば心強いのだ」
 侍は自分の意気地のない言葉を恥じたように笑った。
・十日後、侍は与蔵を連れ、馬に乗って殿のお城に出かけた。白石さまから使者衆に召さ
 れた面々に申し渡しがあるからである。
 召出衆にすぎぬ侍は許しなく本丸に登城する資格はない。
 教えられた城内の建物に行くと中庭には既に使者衆が到着していた。
 床机に腰かけていた松木忠作、田中太郎左衛門、西九助の三人で、いずれも侍と同じ召
 出衆である。 
・庭にはあと六つの床机が並べられていて、まもなく足音がして役人が異様な服装をした
 南蛮人たち三人を連れてきた。
 白石さまが建物の奥から重臣二人を伴われて着座した。
・「・・・かの国に到着のあとは」と白石さまは通辞のほうに眼をやられ、「このベラス
 コ殿の指図に万事従うこと」 
 ベラスコと呼ばれた南蛮人は口のあたりに自信に満ちた微笑を浮かべながら侍たちを見
 おろしていた。
・白石さまは一同が中庭を退出しようとすると、
 「六右衛門」
 と侍だけに声をかけられ、一人、残るよう合図をされた。
 「六右衛門、大儀であろうがこの役目、果たしてくれよ。お前を使者衆に選ぶのは石田
 殿とこの白石とが考えたことだ」
・侍は畏ってそのお言葉を承った。白石さまの御厚志が身にしみて有り難く、両手を地面
 についてお礼を申し上げたい衝動に駆られた。 
・突然、白石さまはふしぎなことをおっしゃった。
 「南蛮の国では、その暮らしぶりも日本とは違おう。役目のためならば、日本のしきた
 りを押し通すわけにはいくまい。日本で白きものが南蛮では黒きものならば黒と思えよ。
 心で納得いかずとも納得した顔をするのが今度の役目だ」

・この朝、早くから家形の庭には騒がしい物音がした。馬小屋から引き出された馬に荷が
 くくられ、元日のように馬小屋にも門にも松が飾られ、部屋には勝栗が置かれた。
・馬が外でいなないている。侍は叔父に頭をさげ、りくの眼をじっと見つめた。見つめな
 がら二人の子供の頭にそっと手をおいた。外では既に旅支度をした与蔵が侍の槍を持ち、
 村の年寄りたちが選んだ清八、一助、大助の三人の若者が、荷をくくった三頭の馬のそ
 ばに立ち、門からの道には百姓たちが見送りに集まっている。
・馬にまたがると侍は叔父に再び頭をさげた。うしろにこみあげるものをこらえきつい顔
 で立っている妻の顔がある。侍は下女に抱かれた権四郎と、そばにいる勘三郎に笑顔を
 つくって大きく肯いた。その瞬間、遠い国から谷戸に戻って来る日、二人の子供がどれ
 ほど変わっているかと、ふっと思った。
・あの日、雄勝に行った時と同じ路をとった。既に大船出発のことは御領内に知れわた
 っているから道の途中で人々の挨拶を次々と受けた。
 やがて侍たちは水平線に大船の浮かんでいるのを眼にした。
 「おお、おお」
 彼らは叫び、思わず浜に足をとめた。船は褐色で巨大な砦を思わせた。
・(ようも、ようも・・・このような船を造られた)
 召出衆の侍はあの本丸の奥におられる殿を遠くから幾度か見かけたことがある。殿はい
 つもは彼らの手の届かぬ遠い場所におられた。だがこの大船を眼にした瞬間、御奉公と
 いう三つの文字が頭に黒々と浮かぶのを感じた。侍にとってこの大船は殿であり、殿
 の御力だった。従順な彼には殿に身を尽す悦びがこみあげてきた。 
・「おびただしい荷でございますな」
 一番若い西九助が、
 「この船には百名をこえる商人、金掘り衆、職人たちも乗ると聞きました」
 西九助がしたり顔で五壮挙の真意を話すのを侍と田中太郎左衛門とは気おくれしながら
 聞いていた。松木忠作は皆から離れて腕組みしながら入江を見おろしている。
・商人たちを大船に乗り組ませたのは、かの国にて日本の品々や道具類を売らせ、今後の
 取引を行うためであり、金掘り衆や鍛冶師、鋳物師には南蛮の採鉱技術や鋳造の方法を
 学ばせるためだと西は得意そうに語った。
・使者衆たちをのせ、小舟はゆっくりと岸を離れ、入江の切り立った崖にそって静かに沖に
 進んでいく。侍以下五人は何も言わず何も言えず、白い幔幕とその両側に一列に並んだ
 役人衆、足軽たちを見つめた。
 何年か後に自分たちが生きて帰国し、この入江にふたたび戻って来た時、これと同じほ
 どの人数が出迎えに来るだろうか、とふと思った。

第三章
・五月五日、牡鹿の小さな港、月ノ浦を出航。日本人たちが「ムツ丸」と称し、エスパニ
 ヤ人の船員たちが「サン・フワン・バプティスタ号」と呼ぶこのガレオン船は、つめた
 い太平洋を北東に向かってゆれながら進んでいる。
・十年、口惜しいが日本には神は遂に根をおろさなかった。私の知る限りヨーロッパのい
 かなる国民にも劣らぬほど、智慧と好奇心とに富んだ日本人だが、我々の神に関わると
 なると、眼をつぶり、耳に指を入れる。時には私にはこの国が「不幸なる島」に見える
 ことさえあった。
・外海に出るとさすがに海が多少は荒れた。船室にいる日本人たちはすべて船酔いに苦し
 み、哀れにも食事も受けつけぬのである。あれほど海に四面を囲まれながら、日本人た
 ちはこの海を日本を守る水の要塞にして、自分たちは土の人間として生きてきたのだ。
 彼らの知っている海は手短な近海だけだ。
・使者たちは殿の家臣のなかでは中級の侍たちではあるが、それぞれに小さな所領を山間
 部に持った地主たちでもある。殿が城の有力な家臣のかわりにこれら中級武士を今度の
 使節に選んだのは、死者を重く見ない日本の貴族たちの習慣によるものかも知れぬが、
 そのほうが逆に私には都合がいい。すべてのことに彼らの指示を仰ぐ必要もなく、私の
 考えのままに行動できるからである。
・使者のうち西九助を除いた三人は出航後も輪足に馴染もうとはしなかった。日本人に特
 有な、異国人に対する警戒心と人見知りのためであろう。
 年若い西だけが子供っぽいほどの好奇心をみせ、はじめての船旅に胸を弾ませながら、
 私に船の構造や羅針盤の機能をたずねたり、エスパニヤ語を教えてほしいなどと話しか
 けてきた。
 そんな若い西のあけすけな振る舞いを苦々しい眼で見ているのが、年長者の田中太郎左
 衛門だが、この小肥りの男は万事につけて、重々しく見せよう、エスパニヤ人の前で日
 本人の威厳を失うまい、と汲々としているようである。
・痩せて、その顔に暗い翳を持っているのが松木忠作である。私は彼と三、四度しか話を
 していないが、四人のなかではとりわけ頭がさえていることがわかった。時々、甲板に
 出て一人、何かを考えこんでいるが彼は他の使者と違い、選ばれたことを名誉と思って
 いないようだ。
・長谷倉六右衛門は侍というよりは百姓といったほうが良い男で、死者たちのなかでは見
 ばえがしない。ローマまで行くかどうかはまた決めていないが、私はそのローマへ発つ
 折は、長谷倉を同行するようにとなぜ重臣の白石殿が奨めたのか、どうしても合点がい
 かない。この男は風采があがらないし松木のように頭もよくないのである。
・船長のモンタニオも副船長のコントレラスも私の意図に好意を寄せていない。
 露骨に口には出さぬが、彼らが私の意図について反感を持っていることは確かだ。
 それはこの二人が日本に抑留されている間、日本と日本人について良い印象を得なかっ
 たためである。彼らは必要以外に使者たちや他の日本人と接触しようとせず、エスパニ
 ヤ人の船員と日本人の水手とが話し合うことも好まない。
・船長は二日前の食卓で語った。
 「日本ヒ抑留されている間、自分には日本人の傲慢さや性急さが我慢できませんでした」
 「あの国民ほど率直さに欠け、自分の心を他人に見せぬことを美徳と思っている人間た
 ちはいないと思いましたな」
・私があの国の政治秩序のみごとさはこれが異端の国かと思われるほどだったと弁護する
 と、副船長は、だからこそあのような国は手ごわい。やがてこの太平洋を独占しようと
 するだろう。もし基督教化したいならば、もう言葉ではなく武力で征服したほうが簡単
 だ、と主張しはじめた。 

・船酔いが辛かった。西九助と松木忠作はさほどではなかったが、田中太郎左衛門と侍と
 は月ノ浦を出航してから数日間は、ただ死人のように伏して帆網や帆柱の物憂い音だけ
 を耳にしていた。
・食事を運んでくるのは使者衆たちそれぞれの従者の仕事だが、よろめくように膳を支え
 てやってくる与蔵も船酔いのために蒼ざめ消耗しきった顔をしていた。何を出されても
 食欲はなかったが、侍は大事なお役目を果たすためには食べねばならぬと自分を励まし
 た。
・「長谷倉殿、このお役目、どう考える」と松木は言った。
 「役目?忝なしと思うております」
 「そんなことではない」
 松木は怒ったように首をふり、
 「我らごとき召出衆にこの大役が命じられたこと、どう思われるか。俺は船が日本を離
 れてから、そればかり考えてきた」
・侍や黙り込んだ。彼自身も家格の低い自分などがなぜ、これほどの使者衆に選ばれたの
 か、出発の時から合点がいかなかった。御一門衆はともかく、御重臣の一人も正使とし
 てこの旅に加わらぬのも奇妙なことだった。
・「捨石よ、我らは」
 松木は海に眼をやったまま自嘲するように、
 「御評定所の捨石にされたのよ」
 「もともと、御重臣のどなたかが、この大役、お引き受けになって然るべきであるのに、
 召出衆の我らが選ばれたのは、身分ひくき召出衆ならば道中、海に溺れ、見知らぬ南蛮
 の国で病に倒れても、殿にも御評定所にも一向、差し支えはないからだろう」 
 「使者と申しても我らは言葉も通じず、ただ、あのベラスコ一人を頼りに御書状を運ぶ
 飛脚にすぎぬ」
・「信じられぬ」
 「信じぬのは勝手だが、長谷倉殿はこの大船を出すまでに御評定所の御意見が、二つに
 分かれたことをご存じか」 
・松木の姿は消えたあとも荒れ狂う海と向き合って、侍は一人、甲板に立っていた。
 (この役目は戦と同じだ。戦場では召出衆は雑兵足軽を率いて矢玉、鉄砲玉の降るなか
 を駆け回らねばならぬ。だが、御重臣たちは後方の幕営にあって総軍を動かされる。御
 重臣が使者衆におなりにならなかったのは戦の場合と同じだと思えばよい)
 侍はそう思って憂鬱な心を納得させようとしたが、松木の言葉は鬱陶しく胸の底に残っ
 た。

・「通辞さま、日本の商人は役に立つものならば何事も取り入れます。さればこの旅で切
 支丹の教えを知っても損にはなりますまい」
 私はこの露骨な答えに思わず笑い出した。これはいかにも日本人らしい返事だったが、
 それにしてもあまりに正直すぎた。
・切支丹の話を知っても損にはならぬ。歯の黄色い男の答えは宗教に対する日本人の心根
 をよく示していると思う。
 日本での長い生活で、私はいかに日本人が宗教のなかにさえ現世の利益を求めるかをこ
 の眼で見てきた。つまり現世の利益をより多く獲得するために彼らの言う信心があると
 云ってもよいほどだった。
 病気や災害から逃れるため、彼らは神仏を拝む。領主たちは戦いの勝利を得るために神
 社や仏閣に寄進を約束する。坊主たちもそれをよく心得ていて、薬よりももっと効き目
 のある薬師如来という悪魔の像を信者たちに拝ませているが、この如来ほど日本人に崇
 められている仏像はないのだ。
 そして病気や災害から逃れるためだけではない。日本人の宗教には富を増やし財産を守
 ってくれると称する邪宗も多く、それにあまたの信者が集まってくる。 
・宗教に現世の利益だけを求める日本人。彼らを見るたびに私はあの国には基督教の言う
 ような永遠とか魂の救いとかを求める本当の宗教は生まれないと考えてきた。彼らの信
 心と我々基督教徒が信仰と呼ぶものとの間にはあまりにも多くの隔たりがある。だが私
 は毒をもって毒を制するという方法を使わねばならぬ。宗教に現世の利益を求めるのが
 日本人ならば、その日本院の現世の欲望をどのように神の教えに導くかのほうが大切な
 のだ。

・夜の食事の席でモンタニオ船長は、気圧が低くなり怖れていた嵐が南から少しずつ接近
 していると言った。
 夜半、嵐が急速に近づく。
・横揺れは縦揺れにまじり、私は壁に体を支えるだけで精一杯だった。甲板からはただ波
 のぶつかるすさまじい音が大砲のように響き、船内では物の落ちて砕ける音が響きわた
 り、人々の悲鳴が絶え間なく聞こえてくる。 
・被害を受けたのは商人たちの大部屋で、特に積荷のそばにいた者たちの寝場所は水浸しと
 なり、使えたものではない。食糧保存室にも水が入ったとのことだ。
・私は自分の衣類と寝具の一部とを持っていき、大部屋の外で途方にくれている一人の男
 に与えてやった。
 男は商人ではなく使者の従者だったが、長谷倉六右衛門と同じように土臭い百姓の顔を
 していた。
 「使うがいい」
 私が言った時、この申し出が信じられぬという表情で私を見つめた。
 名を訊ねると、与蔵、とおどおどと答えた。長谷倉の従者だそうである。
・嵐のあと、衣類の一部貸してやったあの男が現われたが、すぐに姿を消し、間もなく主
 人である長谷倉を伴って甲板に出てきた。
 長谷倉は腰をかがめ、自分の従者を憐れんてくれたことを謝し、船中では充分の礼がで
 きぬのが残念だと言って、和紙と筆数本を私に差し出した。
 懸命に礼を言うこの口下手な男の土の臭いのしみこんだような顔を見ながら私は、こん
 な男が殿の命令とはいえ、遠い国に行かされるのを哀れにさえ感じた。
 与蔵という従者も主人から少し離れてただひたすら頭をさげている。エスパニヤの素朴
 な田舎郷士を思わせるこの主従は私を微笑ませる。 

・「女ありけり。長き年月、血の病を患い、家財、ことごとく売りて、あまたの医師をた
 ずねけれど効もなく、はかばかしゅうはあらざりけり。
 この頃、イエス舟にて湖より来たり給いしば人々おびただしゅう集まりけり。
 女、イエスのことを聞き、雑路のかげよりためらいがちにその衣に指をふれたり。
 そはその衣服に触れなば病いえんと思えばなり。
 イエスふりかえり、女よ、心やすかるべしと言い給う。女たちまちいえたり」
・侍はベラスコの声をぼんやりと聞いていた。今日まで切支丹の教えなどは遠い世界のも
 のだったし、今、こんな話を耳にしても無縁なもののように思われる。 
・侍はベラスコの物語ったあわれな女から、谷戸の女たちをふと思い浮かべた。
 押しつぶされたような谷戸の村々。そこにはそんな病気の女よりも、もっとみじめでも
 っと悲惨な人間たちがたくさん住んでいた。飢饉の時、道端に捨て去られねばならなか
 った老婆や女たちの話を父はいつも彼にしていたのだ。
・ベラスコは聖書をとじ、朗読が日本人たちに与えた感銘を確かめるように、ふたたび微
 笑をたたえたまま、商人たちを眺めまわした。
 神妙なそれらの表情の中に、彼はたった一つ、怒ったように自分を見つめている男を見
 つけた。それは侍の召使であるあの与蔵という男だった。

・気圧が次第に低くなってきた。
 やがて時折、波が水しぶきをあげて甲板を超えはじめるようになった。
 左右の揺れが烈しくなった。
 甲板を奔流があらゆるものを巻きこみ、帆柱にぶつかり、渦をつくり、船底におりる階
 段に狂ったように流れ込んだ。
 使者衆の部屋でも大部屋でも膝までうちよせる水のなかを日本人たちは転び、這い、起
 き上がり、声をあげた。
・四時間経ち船はようやく嵐の圏外に出た。
 ようやく朝が来た。
 昼前、侍は残った力をふるい起こし、与蔵以下四人の供を探しに這うようにして濡れた
 部屋を出た。
 足首をひたすほどの水がまだ残っている通路を通って、一層下におりると、足の踏み場
 もないほど商人たちが転がっている。侍を見ても彼らには居ずまいを正して挨拶する力
 もない。昏々と眠る者もあれば、うす眼をあけて茫然と一点を見つめている者もいる。
・積荷をおいた部屋も人々で一杯で、そのなかに侍は与蔵たちのうち伏している姿を見つ
 けた。与蔵、一助、大助は苦しげに身を起こしたが、清八だけがうつ伏して動かぬ。
 昨夜、積荷に胸を強く打ち、一時、濁流のなかで気を失ったのを、三人で引きずり出し
 たという。
・「ベラスコさまが、手当てをなされ」
 与蔵はそう言うことが主人に悪いかのようにうつむき、
 「朝がたまで清八につきそうてくださりました」
・この前の嵐のときベラスコが衣類をこの与蔵に貸し与えたことを侍は覚えていた。
 与蔵もまた今まで知らなかったこの南蛮人が自分のような者にかけてくれた情愛を身に
 しみて感じているようである。 
 侍はこの時も自分が恥ずかしかった。本来ならば主人の彼が心を遣わねばならぬことを
 ベラスコがやってくれていたのである。
・与蔵のそばに小さな数珠のような物があった。
 ベラスコが昨夜、置忘れた切支丹の数珠だと与蔵は説明した
 「ベラスコさまは」与蔵は悪いものを見つけられたようにおずおずと、
 「これにて、清八、その他の者のために拝んでくださいました」
・「言うておくが」と侍は少し強い声を出した。
 「ベラスコ殿をかたじけのう思うが、しかし切支丹の教えには耳を傾けるではないぞ」
・与蔵たちが黙っているので、侍は周りに寝ている商人たちにわからぬように、
 「商人たちが切支丹の話を聞くのは、ノベスパニヤでの取引きのためであろう。
 あの者たちは取引きのために切支丹の教えを知っておかねばならぬ。
 だがお前たちは商人ではない。長谷倉の供である限り、切支丹の教えに馴染んではなら
 ぬ」 
・「充分、清八の世話をするがよい。俺のこと、案ずるな」
 清八に二言、三言いたわりの言葉をかけたが、返事もできぬようである。人々の体をま
 たぎ侍は通路を出ると、陽の強くさした甲板にあがった。

・恥ずかしい夢を見た。谷戸の湿った暗い部屋で、眠っている子供たちに気づけれぬよう
 に妻と重なりあっている夢だった。
 「もう行かねばならぬ」侍は明日が御評定所の決められた船出の日であるのに、使者衆
 のなかで自分だけがまだ谷戸に残り、この妻の裸身から離れられないでいるのを情なく
 思った。
 「もう参らねばならぬ」と彼はさっきからその言葉ばかりを繰り返していた。しかし胸
 の下でりくは汗ばんだ顔を彼に押しつけてきた。「旅立たれても」と妻は喘ぎながら呟
 いた。「無駄にございますのに。黒川の土地など戻りませぬのに」彼は妻から体を離し、
 あわてて訊ねた。
 「叔父上もそのことを御存知か」そしてりくがうなずくのを見て狼狽して起き上がった。
 この時、眼がさめた。

・二度目の嵐でサン・フワン・バプティスタ号は、かなりひどい打撃を受けた。
 一つの帆と一隻のボートを失い、船内にかなりの水が浸水し、甲板には嵐によって破壊
 された船具が散乱している。
・怪我人のなかでとりわけ重態なのは弥平という年寄りの商人と、長谷倉の従者、清八と
 の二人である。ともに積荷に胸をつぶされ、弥平は血を吐いていた。清八は肋骨を折っ
 たに違いない。
 私は二人に葡萄酒を飲ませ、湿布をしたが、ほとんど口もきけず、衰弱していく。彼ら
 がノベスパニヤまで保つかどうかも心配だ。

・日本人ほど他国の人間より優れた理解力や好奇心を持ちながら、現世に役立たぬもの、
 無用なものを拒絶してきた民族は世界にいないだろう。彼らは、我らが主の教えに一時
 は耳を傾けるふりをしても、それはこの教えよりも、戦いや富に役立つものが欲しかっ
 たからにすぎぬ。日本人の現世利益の感覚は鋭敏すぎるほど鋭敏だが、永遠の感覚はひ
 とかけらもない。
・昼すぎ、商人の弥平が亡くなった。そしてそれを追うように長谷倉六右衛門の従者の清
 八も息を引きとった。
 主人の長谷倉は眼に泪をためながら布子という衣服を死者の体にかけて経文を唱えつづ
 けた。使者たちのなかでも見ばえのしないこの男は召使たちには心やさしい主人のよう
 だ。
・船長の指図で二人の死体は海に流すことになった。
 人々が甲板から立ち去ってからも、長谷倉とその供の者だけが長い間、船端に立ってい
 た。そして与蔵一人を残して彼らも船底に降りたあと、その与蔵が好奇心からそれを眺
 めていた私に近づいてきた。
・「わしは」と与蔵がつぶやいた。「切支丹の話を聞きとうございます」
 驚いて私は彼を見つめた。
 
第四章
・夕方、左に山影が点々と見えた。メンドシーノ岬である。
 岬には港がないため、船は沖合遠くに停泊し、ボートに五人のエスパニヤ人の船員と五
 人の日本人の水手とが乗りこみ、飲料水と食糧の補給を行った。
・メンドシーノ岬を離れて十日目の朝、彼らは樹々に覆われた陸岸が遠くに続いているの
 を見た。それが日本人たちの最初に見たノベスパニヤの陸地だった。
 甲板に集まった日本人たちは声をあげ、なかには泪を流す者さえあった。
 日本を離れてまだ二カ月半近くしか経っていないのに、もう長い間、旅を続けたような
 感慨が彼らの胸にこみあげてきた。
・「アカプルコ
 狂喜した叫びが帆柱の上からひびいた。帆柱にのぼっていたエスパニヤ人の船員が、
 入江を刺している。その途端、甲板に集まったエスパニヤ人も日本人もいっせいに悦び
 の声をあげた。
・三時間ほどたって、上陸が許されるのはエスパニヤ人の船員だけだという知らせが入っ
 た。アカプルコの要塞司令官は不意に訪れたこの日本船に上陸許可を与える権限を持た
 ず、メヒコ(メキシコ・シティ)にいるノベスパニヤの総督に使いを出したとのことで
 ある。 
・不満の声がいっせいに起った。使者衆たちも商人も、船旅の間、この国に来ればすべて
 の準備が整い、悦んで迎えられ、万事が順調に運ぶものといつの間にか信じていた。
 彼らにはなぜ、日本人だけが船に残されるのか事情がわからなかった。
・司令官はかなりの老人で、不躾な眼で四人の日本人をじろじろと眺めまわした。
 この男の挨拶は大袈裟な感謝の言葉を連ねてはいたが、しかし彼の当惑したような視線
 で侍は自分たちが悦んで迎えられているのではないと、はっきり、わかった。
・挨拶が終わったあと、昼餐に招待された。食堂には司令官夫人と何人かの士官たちとが
 待っていたが、船長やベラスコに伴われた日本人たちを珍しい獣でも見るように見つめ、
 気づかれぬように顔を見合わせた。
・田中が当たり散らすのも、言いようのない不安を抑えきれぬからである。
 侍も田中と同じようにその不安な気持を感じていた。
 ここの司令官には殿の御書状を受領し、日本人の商人との取引きを許可する権限のない
 ことはわかったが、今日、半日の雰囲気でこのノベスパニヤの国が自分たち日本人の渡
 海を決して悦んではおらぬことが推量できた。
 この状態で総督のいるメヒコという都に向かっても、今日と同じ扱いを受けるだけかも
 しれぬ。殿の御書状は突き返され、商人たちはふたたび荷を船に戻して帰国せねばなら
 ぬかもしれぬ。
 そうなれば使者衆は面目を失い、旧領を戻して頂く望みなど、とても叶わなくなるであ
 ろう。いや、それよりも松木の言うようにこれを理由に召出衆全部にきびしい御処置が
 あるかもしれぬのだ。
・翌日になった。
 昼前、司令官の用意してくれた馬に、ベラスコと船長と副船長、それに使者衆たちが乗
 り、それぞれの供の者が槍と旗を持ち、徒歩の商人たちと荷を積んだ馬車とを従えてア
 カプルコを出発した。見送る要塞の兵士たちが空砲を撃つなかを、この異様な強烈は進
 みはじめた。
・初めて見るノベスパニヤの風景は、まぶしき、暑く、白かった。
 西がそばで声をかけた。
 「このような景色、はじめて眼にしました」
 侍は肯いた。
 自分は限りなく広大な海を渡った。そしてこの馴染めぬ荒野を旅している。
 すべてが夢のようである。本当に自分は、父も知らぬ、叔父も知らぬ、妻も知らぬ国に
 来たのだろうか。夢ではないのかという思いが、胸にこみあげてきた。
・「村長を連れて参りました」
 ベラスコはこのインディオの老人の肩を押して日本人たちの前に出した。
 「日本人を見るのは初めてであろう」
 「ノ、パードレ」
 ざわめきが起こった。
 ベラスコの通訳を待たなくても、ノ、パードレという言葉は日本人にも理解できたので
 ある。自分たちより前にこの遠いこの国に日本人が来たとは信じられないことだった。
・「村長は支那人と日本人との区別も知りませぬ。支那人かもしれぬ」ベラスコは肩をす
 くめた。
 「だが、二年前、この村にエスパニヤ人の神父と日本人の修道士がやって来たと言って
 おります。その日本人は自分たちに稲をつくることを教えたと・・・」
・「名を聞けば」と誰かが声をあげた。「名を聞けば日本人か支那人かがわかりましょう
 に」 
 叱られた子供のように村長は首をふった。それ以上、訊ねても無駄だった。
・岡の上からメヒコの町が見えた時、日本人たちは黙っていた。
 好奇心の強い商人たちさえ騒ごうとしなかった。
 アカプルコで受けた冷遇が彼らをすっかり沮喪させ、彼らのなかに拡がっている不満を
 私は感じた。それでも使者たちは召使に槍と旗とを持たせて行列をつくりなおした。
・城門に入った時、雨あがりの門前の広場にはちょうど市がたち、買物をする男女が集ま
 っていた。その連中ははじめて眼にする日本人の行列に驚き、商売や買物を忘れてあと
 を追いかけてきた。

・商人たちを集めた。
 「アカプルコまで運ばれたお前さまたちの荷は近くメヒコに届きましょう」
 悦ぶ彼らに、私ははっきりと、その荷を売りさばくことは困難だと教えた。
 それは日本での切支丹迫害がこの地の人々にも伝わっており、メヒコの有力者たちは日
 本人に対してよい気持ちを持っていないからだと説明した。そして動揺する彼らに背を
 向けて部屋に戻った。
・私が姿を消したあと、商人たちは互いに何かを談合していた。その談合が何であるか私
 にはもうわかっていた。 
・間もなく、あの歯の黄色い商人が、数人の仲間と部屋におずおずやってきた。
 「パードレ、皆の衆は切支丹に帰依したいと申しております」
 「なんのために」私の声は冷たかった。
 「切支丹の教えは有難きものとわかりましたゆえ」
 彼は口ごもり、くどくどと自分たちの気持ちを説明した。
 私の思い通りになったのである。
・予想していた通り、いや、私が計算していた通り、日本人たちが洗礼を受けるという知
 らせは大司教から有力者たちに、修道士の口から口に、メヒコの町中に拡がった。 
・聖ミカエルの日曜日、ここメヒコのサン・フランシスコ修道院附属教会において、
 日本人三十八人がグワダルカサル修道院長によって洗礼を受けた。 
・修道院長の助祭を務めた私も言いようのない感激で胸を締めつけられていた。
 これら三十八人の日本人の商人たちが受洗したその動機が、たとえ利のため、取引きの
 ためだとしても、洗礼という秘蹟が彼らの人間の心を超えて働くことは確かだからであ
 る。
・祭壇から私は使者たちを窺った。
 彼らは祭壇から三列目にその席を与えられていたが松木の姿が欠けている。
 西は好奇心と興味を持って式の運びを眺め、田中と長谷倉とは腕をくんだまま私の動き
 を眼で追っていた。
 松木の席だけが空席で、その空席はあきらかにこの洗礼式を拒否した松木忠作の意志を
 みせていた。
・日本人の受洗に気をよくした大司教の口ぞえでアクニヤ総督と使者との会談が思ってい
 たより早く決まった。
・会見の月曜日、使者たちは総督の指しまわしの馬車に乗り、それぞれの供の者に槍と旗
 とを持たせた。私も馬車で修道院から総督官邸までつきそった。
 先日の洗礼式の話はメヒコの町中に拡がっていたため、路々を歩いている人々は手を振
 り歓迎の声をあげてくれた。
・黒光りする甲冑と槍との飾られた接待室では、背の高いエスパニヤ人の貴族らしい総督
 が既に二人の秘書官をと我々を待っていた。
 彼は痩せた顔に口髭をはやしていたが、自分の差しのべた手に気づかぬ日本人が日本流
 に頭をさげると、困ったように肩をすくめた。
・それにしても使者たちの日本風の挨拶と、総督のエスパニヤ風の仰々しい演説の交換は
 滑稽な見ものだった。この二つの国民性は本質的にはまったく違っているのに、形式の
 尊重や仰々しい挨拶では似かよっている。
 総督が、日本の王が漂着したエスパニヤ人の船員を保護し送還してくれた厚意に礼を述
 べ、日本の船が無事にノベスパニヤに到着したことを祝い、日本とノベスパニヤとが供
 に富み栄えることを願う、と長々としゃべると、使者のうち、長谷倉が恭しく殿の御書
 状を頭上に捧げて総督の前に進む。両者とも自分たちの可笑しさに気づかず、大真面目
 だった。 
・「我々は、日本の使者たちがメヒコで充分に休養されるために力を尽くしたい」
 と総督は私に言ったが、肝心の問題については回答を避けていた。
 時間がたつにつれ、さすがの使者たちも当惑した表情を見せ、頭の鋭い松木がたまりか
 ねて殿の御書状に対する答えを聞きたいと迫った。
・総督は当惑しながら、
 「自分には、この書状に返答する権限がない。もちろん御希望をマドリッドに伝えるこ
 とは、かたくお約束するが」
・驚いたように使者たちは私の顔を見た。まるで大人に助けを求める子供そのままの不安
 を彼らは顔いっぱいにあらわしている。
・「マドリッドからのその返答が、いつ、届くか日本人たちは知りたがると思いますが」
 私が使者たちに代わって訊ねると、
 「問題が問題だけに、協議の時間を考えれば半年はかかるであろう」
 総統は肩をすくめ、
 「パードレはもちろん、御存知であろうが、ノベスパニヤの東洋貿易は布教と不可欠に
 なっており、それについてはローマ法王の考えも考慮せねばならぬ」
・そんなことはもちろん、私にはわかっていた。
 ノベスパニヤの総督が日本との貿易に承諾を与える権限のないことも熟知していた。
 熟知していたからこそ、日本の使者たちと共にノベスパニヤに来たのである。
 だが私はそれを初めて知ったかのように大袈裟に驚愕したふりを見せ、日本人たちに伝
 えた。
 狙いは日本人たちを狼狽させ、途方にくれさせ、私の意志どおりに向けることにあった。
・「一年はかかると申されています」
 と私は嘘をついた。
 「一年も。一年も待つのか」
 使者たちは打ちのめされたようだった。
・「半年は長いと使者は申しております。ならばむしろ彼らはこのノベスパニヤからエス
 パニヤに渡り、エスパニヤ国王に日本人の王の希望を伝えたいと言っておりますが」 
 「差し支えないが・・・」
・総督の本心がこの厄介な日本の使者をメヒコの町から遠ざけたいのを見抜いて私は誘い
 水をかけた。 
 「その御斡旋をお願いできますでしょうか」
 「使者たちが希望されているならば、拒むわけにはいかぬ。だが、メヒコからノベスパ
 ニヤの東に行くにはかなり危険だとも伝えてほしい」
 「ベラクルスの近くでインディオの反乱が起こっている。しかも私たちには日本人の使
 者たちにつける護衛兵の余裕がない」
・うち萎れて官邸を退出した使者たちには気の毒だったが、私は神に感謝していたし、充
 分満足もしていた。
 可哀相に日本人はノベスパニヤに到着すれば自分たちが悦んで迎えられ、殿の書状の内
 容は快く受諾されると考えていたのであろう。
・「他に方法はございませぬゆえ」と悄然としている使者たちに、
 「私は一人、エスパニヤに参り、良き返事を以て戻りたいと存じますが」
 彼らは黙っていた。怒っているのではなく、何をすべきかわからないのである。
・気力を失った使者衆たちが総督官邸から修道院に戻り、馬車からおりた時、歓声をあげ
 ている見物人のなかから一人のインディオが前に出て侍の袖を強く引いた。 
・驚いて立止まった侍に彼は早口に何かを囁いた。
 「日本の者に・・・ございます」
 驚きのあまり侍は声もでなかった。
・侍の顔、侍の衣服に日本の匂いを嗅ぎ取るように、男は袖を強く握りしめて動かなかっ
 た。やがて、おお、おお、と呻くような声を洩らすと、その眼から泪が溢れ、頬を伝わ
 った。 
・「テカリと申す村におります」
 男はまた口早に言った。
 「だが、このこと、パードレたちには御内聞にお願いいたします。切支丹を棄てました
 元修道士にございますゆえ」
 「テカリと申す村、プエブラの近く。テカリと申す村」
 と言い残して群集のなかに姿を消した。
・茫然とした侍が、やっと我にかえり群集のなかに彼を探すと、人々の体の間から、泪に
 ぬれたその顔がじっとこちらを見つめ、微笑んでいた。 
・部屋に戻ったあと、侍から今の話を聞いた西九助は目をかがやかせた。
 「参りましょう、テカリとやらに、あるいは我らに役立つ通辞になるやも知れませぬ」
・「ベラスコに内密で行けるものか」
 いつものように田中太郎左衛門はせせら笑った。
・それならば、ベラスコのほかに我らだけの通辞も要ると存じます」
 「役にはたたぬ」
 松木忠作は首をふった。
 「切支丹を棄てたゆえパードレたちにも内聞にと当人が申したというではないか」
・「では、このまま、手をつかねてベラスコ殿の言いなりになるのでございますか」
 西の質問に田中も松木も黙り込んだ。どうすべきか、誰一人、決心できなかったのであ
 る。  
・「ベラスコ殿は一人でエスパニヤに参られると申されました」
 「ベラスコには一人でエスパニヤに赴く気持ちはないぞ」
 松木は首を振った。
 「あの男は我らが従いてくるものと内心、考えているのだ」
・「エスパニヤはベラスコの生まれた国だ。その生国の都で、我ら日本人の使者衆を王や
 高官、切支丹の僧侶たちに見せれば敬われもしよう。それがあの男の狙いだ」 
・平生はこんな時、無口な侍が、自分自身に言い聞かせるように、
 「しかし、エスパニヤに赴くことが、御評定所とノベスパニヤとのお取引きに役立つも
 のならば・・・」
 腕を組んでいた田中もうなずいた。
 「長谷倉の申す通りだ。ベラスコが何を思案しようと、お役目を果たすことが第一だか
 らな」
・「帰国が遅れようとも・・・たとえ二年かかろうと、お役目を成就するのがまず第一で
 あろう・・・」
 「では田中殿はベラスコの言うまま、お役目のためならエスパニヤで切支丹にもなるか」
  松木は切支丹嫌いな田中に皮肉をあびせた。
・「いけませぬか」
 西も口を入れた。
 「商人たちも商いのため切支丹になりました。それがお役目に役立つなら・・・」
・「西、方便でも切支丹になってはならぬ」
 「なぜでございます」
 「お前は何も知らぬ」
 松木は西をあわれぬように見つめ、
 「お前は御評定所の争いを知らぬ。この旅で我ら召出衆を使者衆として選んだ経緯を思
 案したことはあるまい」   
 「わかりませぬ。松木さまは御存知でございますか」
 「ひとつには俺たち召出衆の旧領戻しの願いを封じるためだ。この苦しい旅に召出衆の
 何人かを出し、途中で海で揉屑と消えればそれでよし。また至難なお役目がうまく運ば
 ぬ時は不忠勤の名目で俺たちを処罰し、召出衆の見せしめにする。それが御評定所のお
 考えだ」
・「白石さまたちの動きを快く思わぬ御重臣たちもいる。鮎貝さまたちがそれだ。
 白石さまたちと違うて鮎貝さまはベラスコも切支丹も嫌っておられる。
 鮎貝さまは御領内に切支丹をひろめることを将来の禍根となると考えておられる」
・「お役目とは申せ、ベラスコの術策にかかれば、帰国の折、身の破滅になるやもしれぬ。
 帰国までに白石さまが御評定所権勢を失われ、それに代わって鮎貝さまたちが筆頭にな
 れば、俺たちへの扱いも違ごうてくる」
・背後で足音を聞いた。西が溜息をついて立っていた。
 「疲れました」
 「松木はいつも、物事を悪う考える。俺はあれが嫌いだ」
 と侍は言った。
 「松木さまは使者衆のうち、一人は商人たちと共に帰国して御評定所に事の次第を報告
 し、他の者はメヒコに残るべし、と言うておられます。御書状をノベスパニアの奉行に
 手渡しただけでもお役目は果たした。あとはこの地に留まってエスパニヤに参るベラス
 コから知らせを待つべしと」
・「果たしてはおらぬ。白石さまも首尾を果たせと仰せられた。俺はそのお言葉を覚えて
 いる」

・夕暮、侍は与蔵たち三人の召使の居場所を訪れた。
 侍を見て起き上がった三人を手招いて廊下の端に連れていった。
 主人の硬い表情に何かの気配を感じた彼らはじっと犬のように言葉を待っている。
・「旅を続けねばならぬ」
 侍は眼をしばたいた・
 「また海をわたり、遠い国に参る」
 侍は一助と大助との体が震えたのに気づいた。
 「松木殿と商人たちとはここに残り、年の暮、大船に乗り、月ノ浦に戻ることに相成っ
 た」 
 供の者たちに一番つらいこの言葉を侍は一気に言った。
 「だが我らと二人の使者衆は・・・エスパニヤに向かうのだ」
 与蔵は侍をだまって見つめているだけだった。
 
第五章
・出発が近づいた日々、快晴が続く。
 私は修道院でミサをあげ、受洗したばかりの日本人の商人たちに聖体を与える。
 たしかに彼らは利のために切支丹になった。だがその動機が何であれ、彼らは神に関わ
 ったのだ。神に一度関わった者は神から逃れることはできぬ。これら日本人の商人たち
 はその荷を、あの洗礼式のおかげで当地の業者にも売ったし、一方、ノベスパニアの羊
 毛や羅紗を充分、買い込んだ。四カ月後には彼らはこの品物を船に積み、日本に戻って
 大儲けをするだろう。
・だがすべてが完全に運んだのでもない。私の予想していた通り、使者たちはこの私につ
 いて遠いエスパニヤまで赴くと申し出てきたが、一人、松木忠作だけはメヒコに留まり、
 日本人の商人たちと帰国することになった。
・私には松木が実は使者として送り出されたのではなく、私の動きを監視し、それを報告
 する役目を評定所から命じられているような気さえする。

・使者衆たちとベラスコとは馬に乗り、供の者は荷をつけたロバを引いた。
 商人たちにまじって修道院長と修道士たちが手をふって見送っている。
 松木忠作が突然そばに走ってきた。彼は侍の股引を強くつかんだ。
 「よいか、身を守れよ。身を守ることを忘れるな」
 「評定所は召出衆など守りも庇いもせぬ。使者衆となったあの時から、我らはその政の
 渦のなかに巻き込まれたのだ。渦のなかでは、おのれのほか頼るものはないぞ」
・馬上から侍は、手をふっている修道士や商人たちに頭をさげた。
 そのなかに松木も腕を組んで立っていた。彼らがひと足早く日本に戻れるのだと思うと、
 羨ましさに胸をしめつけられた。
 だが、今まで谷戸でもすべてに従順だった侍は自分に今、与えられた運命をすぐに受け
 入れた。うしろから与蔵と一助と大助とがロバを引き、黙々と従いてくる。
・五日目の夕暮れ、汗まみれになり疲れ果てた日本人たちはひとつの町にたどりついた。
 「プエブラの町でございます」
 日本人たちはベラスコに連れられプエブラのサン・フランシスコ修道院に向かった。
・「どうなされます」
 埃だらけの股引きをぬぎながら西九助が侍に小声で、
 「あの日本人をたずねられますか」
 「たずねてやりたいが、お役目の身だ」
 と侍も田中も聞こえぬように声をひそめ、
 「だが、向こうも俺たちがこのプエブラに着いたことを知っているであろう。またあら
 われるような気がする」   
・予想は当たっていた。その翌日の夕方、使者衆たちが供の者と修道院近くにたったイン
 ディオの市を見物していた時、あの日本人がすぐ近くで彼らを見ていたのだ。
 少し離れた埃だらけの鈴掛の大木のそばに、あの日本人が羨ましそうな眼でこちらをじ
 っと見ているのに気づいた。
・「おお」侍は足早に近づき、「やはり来ていたか。なぜ、我らの宿舎に来ぬのか」
 「伺えぬ身でございます。それゆえ、ここで昼すぎよりお待ちしていました」
 「テカリはすぐ近くでございます。明日の朝、この広場に早うから案内人のインディオ
 を待たせておきますから」
 「それはできぬぞ。我らはお役目でこの国に参っておるのだ。見知らぬ土地で何かが起
 これば、お役にも差し障る」
 田中は情容赦なく首をふった。
 元修道士は寂しそうにうなずいた。そして日本人たちが修道院に引きあげるのを鈴掛の
 そばでじっと見送っていた。
・冷気で目を覚ました。月の光のなかで西九助があたりの気配を窺いながら脚絆をつけて
 いる。  
 「御迷惑はかけませぬ。朝のうちに戻って参ります」
 「言葉もわからず、どうするのだ」
 「あの男、案内人をくれると申しました」
 「お見逃しください」
 「待て」
 侍は身を起こし、いびきをかいている田中を窺った。田中や自分の中にあるものに逆ら
 いたい衝動にかられた。
 「行こう」と彼は立ち上がった。
・誰にも気づかれず修道院をぬけ出ると町はまだ死んだように眠っていた。
 ロバをつないだ樹木の根もとにボロ屑のように幾人かのインディオたちが寝転がってい
 る。その一人が眼をさまし、わけのわからぬ言葉で話しかけてきた。
 「テカリ」と西はこの従弟に印籠を見せながら繰り返した。「テカリ、テカリ」
 「バモス」と答え、樹木につないだ三頭のロバの綱を解いた。
・十軒ほど、葦の葉で屋根をふいた小屋が朝陽をあびている。あちこちの小屋から上半身
 裸のインディオたちがあらわれ、そのなかの一人が声をあげた。元修道士だった。 
 「よう来られた、よう来られた」
・肥前、横瀬浦の生まれだと彼は言った。
 少年の時、父と母を戦で失い、この地方を布教していた神父に拾われて召使となり、
 九州の各地を連れられて回った。
 切支丹が迫害され、宣教師たちが日本潜伏を決心した時、神父は彼をマニラの進学校に
 入れるため、同輩に頼んで船に乗せた。
 彼は修道士の資格を得たが、その頃から次第に聖職者たちに嫌気がさしてきた。
 知り合った水夫に誘われてノベスパニヤに向かう船に乗った。ノベスパニヤは新しい天
 地のように思えたからである。  
 たどりついたメヒコでしばらく修道院の雑用係をしていたが、ここでもやはり神父たち
 に馴染めず、すべて幻滅した。インディオの群れに逃げ込み、そして今はこの部落で彼
 らと共に暮らしていると自分の身の上を一気に語った。
・「私は、パードレさまの説く切支丹は信じておりませぬ」
 「パードレさまたちがノベスパニヤに来られる前に、この国にはむごい事がございまし
 た。これらのインディオの者たちは南蛮人に土地を奪われ、故郷を追われ、むごたらし
 ゅう殺され、生きていた者は売られました。
 至るところにその者たちが棄てねばならなかった村々がございます。今は誰も住まず、
 ただ石の家、石垣のみが残っております」 
・「遅れてこの国に参ったパードレさまたちが、それら多くのインディオの苦患を忘れ、
 いや、忘れているのではない。あの方たちは素知らぬ顔をされているのだ。素知らぬ顔
 をされてまことありげな口振りで神の慈悲、神の愛を説かれるのに、ほとほと嫌気がさ
 しました。この国のパードレさまたちの唇からはいつも美しい言葉だけが出る。パード
 レさまたちの手はいつも泥に汚れはいたしませぬ」
・元修道士は侍と西とにこれからどこに向かうのかと訊ねた。
 「ベラクルス」無邪気に西は東海岸の行先を教えた。
 「男は怪訝な顔で「危のうございますぞ」
 「あのあたりのワシュテカ族がエスパニヤ人の村を焼き、家に火を放ち、乱を起こして
 いると御存知ありませぬか」
 「まことか」
 「誰も知っております。ワシュテカ族は鉄砲、火薬も使うとのこと。ベラクルスまで向
 かわれるのは思案なさいませ」
 「行かねばならぬ」
 侍はおのれを励ますように烈しく繰り返した。
 
・日本人たちは餌を運ぶ蟻のように進んでいた。だがそれは進むというよりは、いつまで
 も変わらぬ広大な高原のなかでゆっくりと動いているといったほうがよかった。
・七日目に、はじめて町らしい町に近づいた。コルドバの町である。
・我々は季節風の吹くベラクルスに到着した。そして今、ここおサン・フランシスコ修道
 院に宿泊している。
・一時、休憩をとった。突然、片側の岩山から何か黒いものが飛んできた。それは初め、
 鳥のように思えた。たが鳥ではなかった。岩の上に十人ほど手に網を持ったワシュテカ
 族が出現した。彼らは遠くから我々を発見して待ち伏せし、網に入れた石を投げてきた
 のである。
・日本人たちは田中の鋭い命令の声でサボテンの陰に身をかくそうとした。
 逃げおくれた一人が転倒した。田中の従者である。その従者を救うために田中が身を隠
 していたサボテンから走り出した。頭ほどある白い石が二人に向かって飛んでいくのも
 目撃した。
・連れてきたインディオの小作人は二人とも田中のあとを追って駆け出した。彼らは岩の
 上のワシュテカ族に悲鳴のような声で哀願した。おそらくこの一行がエスパニヤ人では
 なく日本人だと告げたのであろう。ワシュテカ族の男たちは蒸発したように岩山から姿
 を消した。
・私も日本人たちもサボテンの陰から走り出して供の者の周りを囲んだ。
 田中は右足を骨折しているだけだったが、供の者は膝をザクロのように割ってその傷口
 から血が流れ足を真赤に染めていた。
・立ち上がろうとして立ち上がれぬこの男は、ロバの引く荷車に乗せられたあとも呻き声
 をあげていたが、時折、「申しわけございませぬ」と主人に声をあげて詫びた。
 「首に綱をつけてでもお供させてくださいませ。でなければ故郷に戻れませぬ」
・田中もまた自分の苦痛を抑えてその彼に、
 「おお、連れて行くぞ、連れて行くぞ」
 と繰り返し慰めていた。
・日本人の侍と従僕とはちょうどローマ時代の貴族と奴隷とのような関係だが、しかしそ
 こには利害をこえた結びつきとこまやかな家族的な愛情がある。私は日本にいた時、
 自分もこの日本人の従僕のように神に仕えねばならぬとしばしば考えたことがあった。
  
第六章
・大西洋の旅がかくも時間をとったのは、乗船したサンタ・ベロニカ号が強風にあい、
 かなり大きな破損を受けて修理のためハバナで六カ月も停泊したからである。
 このハバナで可哀相に田中太郎左衛門の供の者が息を引きとった。膝に重傷を負ったあ
 の男である。彼を葬ったあとも田中の落胆ぶりは気の毒なほどだった。まるで自分の兄
 弟を失ったかのように、あの傲然とした男が暗い顔をしてカリブの海を見つめている姿
 を私はたびたび目撃した。
 それから二度の季節風による嵐に見舞われ、ようやく祖国エスパニヤのサン・ルカル港
 を遠望したのは、ベラクルスを発って十カ月の後である。

・昨夜、強い雨が河を遡る船を叩いた。その強い雨音に眼を覚ました。
 恥ずかしいことに、私は夢精をしていた。
 きつく縛った手首はこういう場合、罪を犯さないためだった。若い時ほどではないが、
 私は自分の強い肉欲と夜の間、こんな形で闘わなければならないのだ。
 跪いて私は祈った。なんという、みじめな肉体だろう。祈りながら急に怖ろしい絶望感
 に襲われ、鏡のなかに自分の醜悪な顔を見せつけられたように、私はわが心にひそんで
 いた毒の味をひとつ、ひとつ感じたのだ。
 私の肉欲、ペテロ会に対しる怒り、日本の布教に対する傲岸なまでの自信、征服欲、そ
 れらひとつ、ひとつが心に浮かび、私の祈りや望みに主は決して耳を傾け給わないだろ
 うという気さえした。主が私を指さし、私の祈り、私の理想とするものの背後に、最も
 醜悪な野心がかくれていることを指摘されておられるような気がした。

・グワダルキビル河を遡り、使者衆たちは遂にヨーロッパに上陸した。一年前には彼らが
 名も存在も知らなかったエスパニヤのセビリヤに足を踏み入れた。
・はじめて見るエスパニヤの町。京も江戸も知らず殿の御城下しか見たことのない三人の
 召出衆にはこの大きな町のすべてが驚きの種だった。
 彼らは王宮のような絢爛たる建物に溜息をつき、大聖堂の巨大な塊に圧倒され茫然とし
 て黙り込んだ。

・「二日後、我々はエスパニヤの都、マドリッドに出立いたします。エスパニヤの王にお
 目通りいただくためでございます」
 「王にお目通りか・・・いよいよ叶うのか」
・「正直に申し上げねばなりませぬ。・・・思いがけない邪魔が入りました」
 「そのマドリッドには、我々を快く思わぬ者たちもおります」
 使者衆たちは顔を見合わせ、ベラスコの説明を待った。ベラスコがしゃべっている間、
 田中は怒ったように虚空の一点を見つめ、侍はいつもの癖で眼をしばたたくだけで何も
 口をはさまなかった。 
・「讒をなす者は・・・日本は国をあげて切支丹を禁制となしたと申し、パードレを迎え
 るとの殿の御書状も偽りである、と言いふらしております。
 その疑いを晴らすためにも・・もし皆さまのお一人でも切支丹になられるならば・・・」
 そう言った時、無表情だった田中と侍との顔に子どものような驚愕が走った。
・侍はベラスコを睨みつけていた。従順そのもののこの男の顔に怒りの色が浮かんできた
 のをベラスコははじめて見た。 
 「パードレ、なぜ、ノベスパニヤでそれを申されなかった。ノベスパニヤでもこの事、
 はっきりわかっていたのであろうに」
 侍は声を震わせた。
・「俺は・・・切支丹にはならぬ」
 侍は呻くように答えた。
・侍は頑なに黙っていた。小心な彼はそれだけにこういう時、強情になるのだった。
 それは谷戸の百姓の性格でもあった。
 田中も相変わらず虚空の一点を見つめている。
 西は西で自分の態度を決めるためにもこの年上の同僚の答えを不安げに待っていた。
 やがて侍は動かすことのできぬ重い石のように。
 「いや、できぬ。切支丹になることはできぬ」
 強い声で答えた。
・「白石さまは、この旅の間は、万事、ベラスコ殿の指図に従うように仰せられました」
 と西は疲れきったような田中と侍との顔を上目づかい窺いながら言った。
・「だが、日本を発って今日まで、ベラスコ殿がどれほど我らを騙しつづけて参ったか。
 松木の言うた通りだ。あの男の本心、もう信じられぬ。西はそう思わぬか」
 侍は吐息を洩らした。
・「しかしベラスコ殿に頼らねば我々は何もできぬ」
 「そこがベラスコ殿の付け目であろう。あの男は我らを無理矢理にも切支丹にさせるこ
 とだけを願うておる」    
・「だがお役目のために形だけ切支丹になることなど、些細なことでございましょう」
 「たがなあ、先祖や父の知らぬ南蛮の宗派におれ一人が帰依することはできまい」
 侍はそう言って眼をしばたいた。
・「御評定所も、日本のこれからは戦ではなく、南蛮、天竺の国々との取引きの世と考え
 ておられるでしょう。更に天竺はともかく、南蛮の国々との取引きには切支丹を抜きに
 しては叶わぬことも、よう存じておられます。そのお考えがある限りは、我らが切支丹
 になりましても、それはお役目を果たす手だてであったとおわかりくださいましょう」
 西は叱られるのを怖れてか、おずおずと上目使いに田中と侍を窺って言った。
・「この旅で、つくづく世界は広いと思いました。南蛮と申しておりました国々が日本よ
 りも富み栄えていることも知りました。ならば私は南蛮の言葉も学びたいと思うており
 ます。その広い世界の方々がひとしく信心しております切支丹の教えに眼をつぶるわけ
 にはいかぬと考えました」 
・いつものことながら侍は西のみずみずしい若さが羨ましかった。自分や田中とは違い、
 この男は異国の新しもの、眼をみはるものを何の抵抗もなく存分に味わい、吸収しよう
 としている。

・「この男は」ベラスコは使者衆たちに教えた。
 「子供の頃、ここを訪れた日本人の少年たちを見たと言っております」
 「三十年ほど前、九州の生まれの十四、五歳の少年たちが皆さまと同じような切支丹の
 使者としてこのエスパニヤに参ったとか。御存知ありませんか」
・田中も侍も西も初めて耳にする話だった。
 三人は自分たちが最初にこの南蛮の国々を訪れた日本人だと勝手に思い込んでいた。
 だが、四人の少年を中心とした日本人たちが宣教師に連れられて、マドリッドにもこの
 トレドにも三十年ほど前に訪れ、更にローマで法王の謁見を受けたのだという。
・日本人たちは西陽のさす石畳や家々を眺めまわした。
 自分たちより先にこの坂路を歩いた同国人がおり、そして彼らもこの薔薇色の夕陽の染
 みのさした異国の家を見たのだと思うと、言いようのない不思議な気持がした。
 「十四、五歳の子供たちがのう・・・」
 そう呟いた田中だけではなく他の日本人も自分たちの長い辛かった今日までの旅を思い、
 そんな旅を少年たちがしたことが信じられぬ気持である。
・「そして、その子どもたちは」ン氏はベラスコにたずねた。
 「つつがのう、日本に戻りましたか」
 「戻りましたとも」とベラスコは大きくうなずいた。
  
・宿舎の建物の扉を開け、玄関においてある燭台に火をつけ、長い廊下を部屋に戻ろうと
 した時、私は自分の寝室の扉の前に立っている日本人の影に気づいた。
 「どなたですか」
 燭台の炎が三人に使者たちの顔と着物を照らした。
・「ベラスコ殿、お役にたつならば・・・私一人でも切支丹に帰依致します」
 西が一歩前に出て言った。
 私には燭台の炎に照らされた田中の顔がいつもと違って自信なげに見えた。
 「田中さまと長谷倉さまとは」と私は訊ねた。「同じ心にございますか」
 田中も長谷倉も何も答えなかった。
 しかし私はこの二人がセビリヤの話し合いの時のように頑なではないことを感じとった。
・侍は寝台にこしをおろし、当惑した眼で部屋のなかを見まわした。
 この部屋もノベスパニヤ以来、自分たちがいつも泊ってきたあまたの修道院の部屋と同
 じだった。質素な寝台が一つ、質素な机が一つ、そしてその机には唐草模様の陶器の水
 差しと水盤が置かれている。
 むき出しの壁には両手を十字架に釘づけにされた痩せこけた男が首垂れていた。
・(こんな男が・・・)侍がいつものことながら、この時も同じ疑問を感じた。
 (なにゆえに拝まれるのであろう)
 (もし、俺がこんなものを拝めば・・・谷戸の者たちは何と思うであろう)
 すると心にそんな自分の姿が浮かび、たまらない恥ずかしさがこみあげてきた。
  
・「なあ、長谷倉」田中は思いつめたように呟いた。
 「俺は西と同じように切支丹になろうと思う。俺は切支丹は嫌いだ。だが今となっては、
 仕方あるまい。俺はこう思うた。戦の折、あざむく敵の前に手をつき頭をさげることも
 あるとな。たが心まで許すのではない。そう昨夜もおれの心に言いきかせた」
・商人たちはこの荒唐無稽な話を信じもせぬのに肯いてみせた。こんな男は彼らにつって
 槌の代りに使う路傍の石と同じようなものだった。路傍の石は用が済めば棄てればよい。
 この男に手を合わせることが南蛮人との取引きに役立つならば、拝むふりをして棄てれ
 ばよい。商人たちの本心は結局、そうだったのだ。
・(この俺と・・あの商人たちとどこが違うのだろう)侍は目をしばたたいた。
 醜い痩せこけた男、威厳もなく見ばえもせず、ただただみずぼらしい男、利用したあと
 は棄てるためにある男、見たこともない土地に生まれ、既に遠い昔に死んでしまった男
 と自分とはなんの係わりもないと侍は考えた
・廊下の奥で怒っている声がした。与蔵が一助と大助とを叱りつけていた。
 「帰りたいのは誰もじゃ・お家形さまとて一日も早うお役目をすませたいと思うておら
 れるのに・・・この我儘もんが」
 それから平手で叩く音と泣きながら弁解する声とが続いた。
・暗がりのなかに立ったまま侍は眼をしばたたいてその音と声を聞いていた。
 一助と大助とが谷戸に戻りたいと愚痴をこぼしたのを与蔵が耳にしたにちがいなかった。
 戻りたいという一助や大助の気持も、それを叱りつけねばならぬ与蔵の気持もともに侍
 には胸が痛くなるほどよくわかった。 
・(何にこだわっている)彼は耳のなかでもう一つの声を聞いたような気がした。
 (お前一人の我儘であの供の者たちが谷戸に戻るのも遅れるのだ。お役目のためにもあ
 の者たちのためにも、表向き、切支丹になってもよいではないか)
・「与蔵」と彼は小さく声をかけた。
 三つの灰色の影がこちらを向いて恐縮したように頭をさげた。
 「叱るのはよせ。一助や大助が里心のつくのも無理はない。俺とて同じ気持ちだ。
 この頃、谷戸の夢ばかり見る・・・与蔵、俺も田中殿、西と切支丹に帰依することにし
 た」
 彼がそう言い終わると、三つの影は震えるように動いた。
・「それが、この国でお役目を果たすためにも、お前たちを谷戸に戻すためにも・・・・
 役立つからだ」
 与蔵はしばらく主人の顔をいたわるように見上げた。
 「わたしも」と彼は聞こえるか聞こえないほどの声で答えた。「帰依いたします・・・」
 
第七章
・祭壇に向かって最前列に腰かけた田中太郎左衛門と侍と西九助との背後に、主人たちと
 受洗する供の者が並んだ。
・侍自身は夢のなかにいるような気持だった。
 谷戸で冬に備えて百姓たちと粉雪を顔に受けながら木を切っている自分。
 囲炉裏の傍で叔父の長い愚痴にうなずいていた自分。
 それは遠い昔のことのように思えた。
 あの時、その自分がこんな遠い異国にくることも、こんな切支丹の教会で南蛮人に囲ま
 れて洗礼を受けることも、絶対に考えたことはなかった。
 叔父や妻のりくがこの光景を見たならば、どんな衝撃を受けるだろうと思ったが、その
 顔さえ想像できなかった。
・栄養のゆき届いた血色のいい司教の唇が小刻みに動き、田中と侍と西にはわからぬラテ
 ン語で何かを質問した。
 ベラスコが早口にそれを日本語に訳し、「信じ奉る」と答えるように三人に囁いた。
 「汝は主イエス・キリストを信じるか」
 「信じ奉る」
・ベラスコに促されるたびに、田中と侍と西とは口を揃え、「信じ奉る」と、愚かなオー
 ムのように繰り返した。
 と、侍の胸に後悔の念がこみあげてきた。心からではない、これもお役目のためだ、と
 自らに言いきかせても、父や叔父やりくを今、この瞬間に裏切ったような哀しい気持ち
 が、苦い感情を伴って起こってくる。
 それは、愛してもおらず、信じてもいない男と、仕方なしに寝た女の抱く嫌悪感に似て
 いた。 
・ベラスコは得意そうだった。
 司教たちは日本人の受洗に好感を持ちはじめ、使者衆たちを公式の使節として扱いべき
 だという声が日増しに強くなっているからだ。
 その結果、王室も正式な謁見の日取りを通達するだろう。
 そして使者衆たちの持参した殿の御書状は受理され、その要請は公平に考慮されるだろ
 う、とベラスコは侍たちに教えた。
・「日本に戻るのは来年の今頃か」
 田中は指を折って首をかしげた。
・西は侍に体を向けて、
 「帰国の望みができれば、妙にこの国を去るのが名残惜しゅうなります。正直、ここに
 居残り、言葉もおぼえ、さまざまなものを見聞きし、学びなどして帰りとうございます」
 「若いことは羨ましいのう」と侍も笑った。
 
・「司教会議の判定を謹んでお受けする前に、ここで一週間前にマドリッドのペテロ会本
 部に送られて参りました、マカオのペテロ会、デ・ビベロ神父からの緊急書簡を御一読
 頂きたいと存じます。
 「日本における新しい情勢の変化が二つ起こりました。
 ひとつは、我々の敵であるイギリス人はしばしば日本の王に我が国に対する中傷を繰り
 返して参りましたが、国王はその中傷を聞き入れ、さしあたってルソン、マカオとの貿
 易を断絶する準備としてイギリスとの通商を認めることを布告し、日本の西南、平戸に
 その商館を作ることを許可したことです。
 今ひとつの変化は、これまで比較的、布教に対して寛大だった東北の貴族で、先にノベ
 スパニヤにその個人的な通商使節を送った有力な領主が迫害をはじめたことです。
 それは、その貴族が我が国と結んで日本国王に反逆する意志があるという一般の噂を打
 ち消すためと言われています」
・ベラスコはいつものように微笑してみせた。だがその微笑は弱々しく悲しそうだった。
 「御使者衆たち」力のない声で彼は答えた。
 「申し上げねばならぬことが・・・起こりました」
 
第八章
・「望みは・・・」ベラスコはうつろに呟いた。「消え失せました」
 三人の使者衆もまた臨終のように羽ばたいている蝋燭の炎を力なく見ていた。
・「日本に戻るほか、仕方ありませぬ」
 谷戸に戻れる。だが先ほどと今とでは何もかも根底から違ってしまった。
 日本は切支丹禁制に踏み切ったのだ。
 禁制に踏み切ったということは、ノベスパニヤとの通商も棄てたということである。
 自分たちに托された役目も旅もすべてが空しく、無意味に変わったということである。
・「その手紙に書かれしことは、まことであろうか」
 「まことと存じます。いかなるパードレも偽りの知らせを送っては参りませぬ」
 「聞き間違えということもあろう」
 「それを私も考えました。だが日本より遠きマドリッドでは事の真偽を確かめるすべは
 ございませぬ。あるいは法王さまのましますローマには別の知らせが・・・」
・「そのローマでも地の果てでも、俺は参る」
 「長谷倉や西の所存は知らぬ。だがこの俺は・・・もう、空しゅう日本に戻ることはで
 きぬ」
 田中の声は呻き声のようだった。
・侍も衝撃を受けた。
 この男が旧領を返して頂く願いをどんなに強く心に持ち、親類縁者から期待を一身に受
 けてお役目を引き受けていたかを知ってはいた。
 しかしその願い、その一族の期待が、かほど烈しく、かほど強いことが、今はじめてわ
 かったような気がした。
 地の果てでも参ると田中は言った。だがもし、どこに赴いてもどこまでたどりついても
 事が成就しなければどうする。
 突然、心に不吉な予感が、谷をかすめる大きな鳥のように横切った。
 もし事が成就しなければ、親類縁者に詫びるためにこの男が為すことは一つしかなかっ
 た。自決しておのが力の足りなかったことを謝罪すること。腹を切ること。侍は田中の
 横顔を見つめたまま、暗い想念をあえて追い払おうとした。 
・「長谷倉さまはどうなされます」
 「田中殿が参られるならば・・・これも従うてまいる」
 と侍は答えた。
 ベラスコはこの時はじめて弱々しい微笑を浮かべた。
 
・日本人と私とは安住の地を求めて放浪する流浪の民に似ていた。
 司教会議の結論が出てから我々は掌を返したように人々から冷たく扱われた。
 わずかな援助者は伯父とその一族だった。そして、不思議なことにそれまで我々に冷淡
 だったひとりの公爵が味方になってくれた。
 彼はいかなる事情があるにせよ、基督教徒であるエスパニヤ人が同じ宗教に帰依した日
 本人を冷遇することに反対し、我々のため、ローマの有力者ボルゲーゼ枢機卿に助力を
 求めてくれた。 
・冬のマドリッドを発った我々は、グワダラハラの枯れ果てた高原を通りサラゴサやセル
 ベラの町を経てバルセロナに向かった。
・我々はバルセロナの港から小さく粗末なベルガンティン船に乗り込んだが、その日、海
 は氷りのような雨が降っていた。
 海出て二日目、嵐が我々をフランスのサン・トロペの港に避難させた。
 この小さな町の人々は、はじめて目撃する日本人たちに驚きながらも心あたたかく領主
 の館を宿舎にあててくれた。領主夫婦も住民たちも好意に満ちた好奇心を抑えることが
 できず、終日、日本人たちの一挙手一投足をじっと眺めた。彼らは使者たちの衣服にさ
 わり、刀を見たがり、それをトルコの新月刀のようだと言った。
 西九助が皆を悦ばすため、一枚のあつい紙を刀の刃にのせて、静かに動かして紙を切っ
 て見せると、感嘆の声をあげぬ者はいなかった。
・「ベラスコ殿」
 突然、そんな私の想念を破って長谷倉が話しかけてきた。
 それは暗い心を司祭に打ち明ける信徒のようにためらった口調だった。
 「前々から申さねばと思うていたが・・・もしローマに参っても望みの叶えられぬ時は、
 ベラスコ殿はエスパニヤに残られるのか」
 「私が・・・私も皆さまと同じように日本に戻ります。今は日本のほかに私には国はご
 ざいませぬ。生まれた故郷よりも、育った国よりも、あの日本こそ私はおのれお国と思
 っております」
 「最後まで私はお供いたします」
・「ベラスコ殿、お気づきでないのか。万が一、ローマにてすべての望みが空しゅうなれ
 ば、田中殿は・・・腹を切るぞ」
 長谷倉は心に溜まっていたことを思い切って吐き出すように云った。
 そして彼は二度とこのことを口に出さぬために灰色の海に眼をそらして黙り込んだ。
・「切支丹であるからには、神が与え給うた命をおのれで断つことは許されぬ」
 私は震え声で答えた。
・「俺たちは本心で切支丹に帰依したのではない。お役目のため、殿のため、心ならずも
 切支丹になったにすぎぬ」   
 長谷倉は今まで示さなかった冷たさをはじめて私に見せた。それはまるで私に対する仕
 返しのように思えた。

・五日の間、イタリヤの沿岸を南にくだり、ローマの外港、チビタヴェッキア港に近づい
 た。そこに到着したのは夜。霧雨が降っていた。
 与えられた宿舎は枢機卿の所有されているサンタ・セヴェラの城だったが、その城で受
 けた待遇は決して外国人使節に相応しいものではなかった。
 マドリッドから我々についてどのような手紙が送られ、どのような指示が与えられたか、
 もう明らかだった。
・やがてローマに入った。
 彼らが雨に濡れた石畳の路を進むと、まず子供たちがうしろを追いかけてきた。物見高
 い大人がそれに続いた。カピトリオの長い石段を日本人たちは登り、アラ・チエリの修
 道院のなかに消えていった。そして閉じられた扉からふたたび姿を見せなかった。
 人々は、あれはハンガリアから来た使節と噂して引き揚げていった。
・一週間のあいだローマは雨の多い春の気配のなかで復活祭を待っていた。
 だがアラ・チエリの修道院からあらわれる日本人を見たと言う者はなかった。
・復活祭の朝、うす暗いうち、ヴァチカーノのサン・ぺエトロ広場には、一群また一群と
 列をなして人々の影が集まり始める気配がした。 
・九時すこし前、大聖堂の左右の扉が開かれた。石段の前に集まっていた修道士や巡礼者
 は争ってその入口に殺到した。
・突然、パウルス五世の姿は波間の船首の像のように浮かび上がった。司祭たちの担う輿
 の上で、白い法王服をまとい、高い帽子をかぶられた法王が重そうに片手をあげて現れ
 たのである。
・突然、左側の人々のなかから、数人の人間が立ち上がった。彼らは通り過ぎる輿のそば
 におどり出ると、その一人が大聖堂を埋めた者がはじめて耳にする言葉で何かを叫んだ。
 この時、法王は右手をその頬近くに挙げて静かに十字を切ろうとされていた。しかし眼
 下に並んだ三人の男たちの切迫した眼に手を動かすのをやめられた。
・東洋人だった。しかしどこの国から来たのかわからぬ。いずれも足まで達する下衣をつ
 け、その足には白い短い靴下のようなものをはき、異様なサンダルをつけている。
 法王はその一人が何かを訴えているのは理解されたが、その言葉がおわかりにならない。
・「我ら、日本人にござります」田中が夢中で叫んだ。
 「我ら、海を越え、日本から参った使者衆にござります」
・三人の修道士がこれら日本人を輿から離そうとして、その体を強く引いた。
 だが日本人たちは足を突っ張って動こうとはしない。 
・「なにとぞ」三人は言葉を失った。そこまで言うと、胸にこみあげるものを三人は抑え
 きれず、パウルス五世のお顔を見上げた。三人の咽喉には「直訴を」という言葉がひっ
 かかっているがそれが口から出ない。田中も侍も西も泪だけがその眼から溢れ、陽にや
 けた頬骨を伝っていく。
・「なにとぞ・・・」
 修道士たちは自分たちが背中をだいたこれら三人の東洋人がこの時、恭しく、深く、頭
 をさげるのを見て手をゆるめた。彼らが狂人でも敵意ある者でもないおとがわかったか
 らである。
・法王は東洋人の肩越しに跪いている人々に救いを求めるように眼を向けられた。
 法王はこの男たちが何かを必死に求めているのを感じた。その願いが何であるか、お聞
 きになりたかった。
・その視線を受けながら、人々にまじったベラスコは動かなかった。口も開かなかった。
 大聖堂を埋めた人間たちのなかで日本語を知っているのはただ一人、彼である。
 三人の男が何を叫ぼうとしているかを知っているのもただ一人、彼である。
 にもかかわらずベラスコは何かに力強く抑えつけられたようにみじろぎもせず、輿の上
 の肥った、穏やかな法王をじっと見ていた。
・ベラスコの心にひとつの声が囁いた。
 (あなたがたにはこの日本人の悲しみはわからぬ。あなたがたにはあの日本で戦った私
 の悲しみはわからぬ)
 復讐にも似た感情が、彼の口を堅く閉じさせていた。
・誰一人として自分のためにこの男たちの求めるものを教えてくれぬのを知った時、法王
 は少し悲しそうな眼差しをされた。
 法王にはこの東洋人たちのために全世界のすべての信徒が待ち受けている復活祭の儀式
 を怠ることはできなかった。一匹の仔羊のために他の多くの羊の群れを放っておくわけ
 にはいかなかった。彼は輿の担い手たちに進むことを小声でお命じになった。 

サン・ピエトロ大聖堂の暗い小部屋でベラスコは枢機卿を待っていた。
 面会は彼が求めたものではなく、枢機卿の通達によるものである。
・「今日、なぜ、御命令を受けたか、わかっております」
 「日本人たちの過失はこの私の責任だとも存じております。しかし、今日までの彼らの
 苦しみを知っております私は・・・」
・「咎めるためにお前をよんだのではない」枢機卿はベラスコの発言を遮った。
 「法王陛下は、この私からすべての事情をご聴聞になると、彼らの上に深い同情を寄せ
 られた」
 「お前をよんだのは」
 「お前にまだ、かすかな希望が残っているならば、それを棄ててもらいたかったからだ」
・「法王庁が二日前に受けたフィリピンの総督からの手紙だ。読むがいい」
 「諦めねばならぬ。その手紙に書いてあるように、日本の国王は日本に在住していたす
 べての宣教師と修道士との国外追放を断行した。更にいかなる宣教師も今後、日本に上
 陸することを禁止したのだ。お前も日本人の使者たちも・・・諦めねばならぬ」 
・「彼らは死ぬでしょう」
 突然、ベラスコの唇から、弱り切った病人が口に入れられた薬を洩らすように、この言
 葉が力なくこぼれ落ちた。
 「この知らせを聞けば、彼らはそうするより、仕方がないでしょう」
 訝しげに自分を見ている枢機卿にベラスコは繰り返した。
・「なぜ、そのようなことをする」
 「彼らは日本の侍です。日本の侍たちは面目を傷つけられた時は、死ぬことを教えられ
 ているのです」 
 「彼らは義務を果たした。しかも自殺を戒める基督教徒ではないか」
 「法王庁が結局、彼らを殺すのです。自殺という大罪を基督教徒になったあの日本人た
 ちに犯させるのです」
・「お前は何を要求しているのだ」
 「法王の御謁見を。日本人たちを使節として扱ってくださることを・・・」
 「御謁見を賜ったとしても日本人の望みに応えることはできぬ」
 「望みを受けて欲しいなどと申しておりませぬ。ただ、あの使者たちがあまりに・・・
 哀れでございます。せめて彼らの名誉のため、面目のため、法王の御謁見を・・・・」
 「それだけでも・・・お願いいたします」
 
・ローマ法王が日本の使者衆たちを引見する日が来た。
 彼らは宿舎の修道院でミサと朝食とをすませたあと、供の者に手伝わせ、日本から持参
 した謁見用の礼服をはじめて身につけた。 
・非公式の謁見であるために護衛兵はつかなかったが、しかし金の模様に飾られた漆黒の
 馬車には、制帽をかぶり征服を着た御者が3人乗っていた。
 修道士や供の者たちの見送るなか、田中や西やベラスコにまじって乗りこんだ侍は窓か
 ら、与蔵が神仏を拝むように手を合わせてこちらを見ていることに気がついた。
・与蔵は侍に最後まで望みを失うなと励ましているようだった。
 何が起ころうとどこまでも従いていくと言っているようだった。
 だが今、形だけの謁見に出かける侍に望みなどある筈はなかった。
 謁見はただ長かった旅に終止符を打つための儀式にすぎなかった。
・しかし侍にはその与蔵の身ぶりが泣きたいほど心にしみた。
 すべてから見棄てられ裏切られた暗澹たる気持ちになっている今、彼には幼い時から自
 分に忠実だったこの下男だけがただ一人、信じられるような気がした。
 眼をしばたきながら彼はその与蔵に大きくうなずいてみせた。 
・二カ月前なら、王に会う、法王の謁見を受けることは彼らにとっては夢のような光栄に
 思われたろう。殿にさえお眼通り頂いたことのない地侍の彼らには、それは想像もでき
 ぬ破格の出来事だった。
・だが今、何の悦びも胸に湧かぬ。かすかな感激も起らぬ。
 使者衆たちはこの謁見が、ベラスコの哀願を受け入れた枢機卿の同情で行われるのだと
 知っていた。
 自分たちに諦めという決着をつけるためにつくられた花道だとわかっていた。
 長かった旅はそれで終わる。そしてその後は空しく虚ろな長い帰り路が残されている。

・遠くに一人だけ白い帽子をかぶった法王が背の高い椅子に腰かけている。
 法王は背が低く小肥りで、親しみをこめたやさしい眼でこちらを眺めていた。
 王の王というような厳めしさはどこにもなく、その椅子から立ち上げり、こちらに近寄
 ってくるのではないかと思われた。
・ベラスコが足をとめ、右膝を床につけた。三人の日本人もそれに倣おうとしたが、その
 時、西が少しよろめいたのを見て、侍はあわててその体を支えた。
 法王のそばに直立したボルゲーゼ枢機卿が身をかがめ、何かを申し上げた。
・「読むのでございます・・・殿の御書状を」
 うつけたように立っている田中をベラスコは急いで促した。田中は御書状を取り出し、
 両手でそれをひろげた。
 田中の声はつかえ、その手が震えているのが侍にもわかった。
・田中の声がまた、つかえた。田中がつかえるたび、侍の胸には言いようのないむなしい
 感情がこみあげた。
 この謁見の間のあまたの聖職者は今、日本人の使者衆が読み上げている言葉も内容もわ
 かる筈はなかった。それがわかるのは侍たちとベラスコだけだった。 
・もういい、と侍は咽喉まで出かかったこの言葉を抑えた。もういい、この愚かな芝居を
 あわれな田中にやめさせたかった。
 意味のないこの御書状の言葉。それを黙って聞いている白い帽子の人、その人も、その
 横にいるボルゲーゼ枢機卿もこの愚かな芝居に耐えているようだった。
・どもり、つかえながら読み終えた田中の額に汗がみにくく浮いていた。
 ベラスコはその田中が御書状を奉呈するのを待ち、今の御書状の通訳という形で、使者
 衆たちの挨拶に代わって述べるため一歩、前に出た。
・不意に法王が立ち上がった。それはあらかじめ予定されていた式次第にはないことだっ
 たから、謁見の間に軽いざわめきが起こり、聖職者たちはいっせいに王座の方向に体を
 向けた。
・パウルス五世は田中と侍と西とに身をかがめるようにして囁いた。
 その声にはある悲しみに充たされていた。
 「余は、日本と、卿たちのために・・・今日から五日の間、ミサのたびに祈ることを約
 束しよう。余は神が日本を決して見棄て給わぬことを信じている」

第九章
・希望を絶たれ、ヨーロッパ大陸を雨に煙る海の遠くに見て去った私たちの姿を語るのは
 あまりに辛かった。
・チビタヴェッキア港の波止場に我々を送ってくれたのはただ一人、ボルゲーゼ枢機卿の
 秘書官である神父だけだった。
 その神父は枢機卿の好意のあらわれとして三人の使者たちにそれぞれローマ市公民証書
 を手渡たした。二度とこの国を訪れることにない使者たちにはその三枚の証書は何の価
 値もない紙屑だった。私たちは意味のない書状を法王に上呈したが、枢機卿もこの無価
 値な証書をお返しにくれたのだ。
・それにエスパニヤに政府も掌を返したような冷たい仕打ちを加えた。我々がマドリッド
 に立ち寄ることさえ認めず、直接セビリヤに行くように命じてきたのである。
・チビタヴェッキアからセビリヤまで一カ月。更にセビリヤから大西洋を出て、二度の嵐
 にあい三カ月。航海の間、私が屈辱にひしがれた毎日を送ったのに対し、日本人たちは、
 はじめは感情を決して外に見せぬあの無表情な眼で海をぼんやりと眺めていたが、私の
 ような西洋人とちがい、不運を受け入れ、諦めることも早く、時には甲板に集まった彼
 らから笑い声さえ聞こえることもあった。
 長い苦渋の旅からやっと解放され、やがて故郷の土を踏むという悦びが、日本人たちに
 時としてそのようなあかるさや陽気さを与えたかもしれなかった。
・日本人たちの大部分は私が船であげる毎日のミサにも出席しない。
 彼が本心から洗礼を受けたのではなく、ただ役目のために受洗したことを承知してはい
 るものの、しかしミサ典文を唱えながら、聖堂の代りに使う食堂で一人の日本人しか祈
 っていないのを見る時、私は言いようのない屈辱感を味わう。
・一人の日本人だけはそっとミサにやってくる。
 その男は仲間に気づかれぬようにミサの途中であらわれ、聖体を受けるとすぐに逃げる
 ように消えてしまう。その哀れな姿は私に、あの雄勝の木材置場で出会った乞食のよう
 な切支丹を思い出させる。
・その日本人とは使者ではない。田中も長谷倉も西もあのローマ法王謁見の日から一度も
 ミサには出席していなかった。この欠席によって自分たちの心をはっきりと示したのだ
 った。
・そっとミサに来るのは長谷倉の召使の与蔵である。
 私は彼の眼を見ると、犬の眼を連想する。おどおどとした寂しそうなその眼。
 しかし彼は一度、忠誠を誓った主人を決して見棄てはしない。
 私は長い旅の間、長谷倉のそばにいつもより添っていたこの男を思い出すが、今、彼は
 主を同じように見棄てはしないのかもしれぬ・・・。
・我々は大西洋で二度、嵐にあった後、やっとベラクルスの土を踏んだ。

・入口に誰かが立っているのに気づいた。
 「どうされました、長谷倉さま」
 「田中殿が・・・自害された」
 長谷倉は動かず静かに答えた。
・無言のまま長谷倉は私を田中の寝室に連れていった。
 部屋に足を入れると、血だらけの敷布の上に顔を横にむけて寝かされた田中の体が見え、
 枕元には自殺に使った短刀と鞘がきちんとおかれていた。
 田中の従者二人が燭台のそばに正座して、主人の死顔を命令でも待つように見守ってい
 た。 
・私を見ると従者たちは静かに場所をあけたが、彼らも主人の自殺をずっと前から予知し
 ていたように取り乱してはいなかった。それはまるで約束された儀式をやっているよう
 に私には思えた。
・人生の最後の門を閉じたように、その大きく見開いた田中の眼を私は閉じた。
 その間、従者たちも戸口にたった長谷倉も西も、私の祈りを妨げようとせず、隅にかた
 まって動かなかった。
・やがて従者が主人の髪と爪を切り、胸にぶらさげた袋に入れた。
 それから血だらけの敷布のかわりに真新しい絹の布でその遺体を覆った。
 長谷倉はそれらの始末を見届けてから私にたずねた。
 「朝が参ればここのパードレ、イルマンたちにお詫び申さねばならぬ。お助け願いた
 い」
・白い朝が来た。修道院の特別の許しを得て、町とサン・フワン・デ・ウルーワ港をつな
 ぐインディオの墓地のそばに彼を埋めた。
 修道院からは一人の神父、一人の修道士も立ちあわなかった。
 自殺という大罪を犯した者の葬いに彼らは列席することを好まなかったのである。

・ベラクルスからコルドバまでの路のり。山岳地帯は雷雲に覆われ、時折、稲妻が走った。
・「私たちは、この後、どうなるのでございましょうか」
 西九助はコルドバの集会所で寝台に腰かけ、窓を見つめたまま呟いた。
 「日本に戻ってからのことでございます」
 「おれにもようわからぬ。だが、殿も御重臣がたも、我らの苦労をおわかりにならぬ筈
 はない」
・翌朝、コルドバを発った。またしても暑い荒野。
 プエブラの町をとりまく灰色の城壁をくぐったのは十日後の夕暮どきだった。
・「長谷倉さま、あの日本人のこと、覚えておられましょうか」
 「元修道士のことか」
 「私は・・・あの沼にもう一度、参るつもりでございます」
 西はベラスコに聞こえぬように侍に耳打ちをした。
 「参っても無駄であろう。インディオは同じ畠を二度と耕さぬと、あの男、言っておっ
 た」  
 「あの男に会えぬとしても差し支えございませぬ」
 「では、なぜ参る」
 「あの男が日本に戻れぬ心が、なぜか今は、わかる気がいたしますゆえ・・・」
 「お前もここに残りたいのか」
 「広い世界を見た身には、日本が息苦しくなりました。召出衆や足軽の家に生まれた者
 が、生涯、そのまま生きて参らねばならぬ日本を思うと、心がふさぎます。
 だが、私にも・・・待っておる者たちがおります」
・翌朝、まだ暗いうち、一夜を明かした修道院を侍は西とこの前と同じように出た。
 路はもうわかっていた。
・肉塊のように肥った妻に肩を借りながら元修道士はよろめきながら現れた。
 病気の彼は朝の光に苦しそうに眼をつぶり、それからやっと侍と西に気づいて、おお、
 と叫んだ。 
 「よう・・・戻られました」
 「この俺たちも、やむなく切支丹となった。心からではないが・・・」
 侍ははずかしげにうつむいた。
 「今も信じてはおられませぬか」
 「信じてはおらぬ。すべて、お役目のためだった。お前こそ、まこと、あのイエスと申
 す男のこと、信心しておるのか」
 「信じております。だが、私の信じておりますのは、教会や神父の説くイエスではござ
 いませぬ」
 「あのような、みすぼらしい、みじめな男をなぜ敬うことができる。なぜあの痩せた醜
 い男を拝むことができる。それが俺にはようわからぬが・・・」
・「あの方は、生涯、みじめであられたゆえ、みじめな者の心を承知されております。
 あの方はみずぼらしく死なれたゆえ、みすぼらしく死ぬ者の哀しみも存じております。
 あの方は決して強くもなかった。美しくもなかった」
 「あの方は一度も、心奢れる者、充ち足りた者の家には行かれなかった。
 あの方は、醜い者、みじめな者、みすぼらしい者、あわれな者だけを求めておられた」
 「あなたさまがあの方を心にかけられずとも・・・あの方はあなたさまをいつまでも心
 にかけておられます」
・「人が一人で生きうるものならば、どうして世界の至る所に歎きの声が満ち満ちている
 のでございましょう。あなたさまがたは多くの国を歩かれた。海を渡り、世界をまわれ
 た。だがそのいずこにても、歎く者、泣く者が、何かを求めているのを眼にされた筈で
 ございます」
 「泣く者はおのれと共に泣く人を探します。歎く者はおのれの嘆きに耳を傾けてくれる
 人を探します。世界がいかに変わろうとも、泣く者、歎く者は、いつもあの方を求めま
 す。あの方はそのためにおられるのでございます」
・「俺にはわからぬ」
 「いつか、おわかりになります。このこと、いつかおわかりになります」
・侍と西とは馬の手綱を握り、もう二度と会うことのないこの病人に別れの言葉をのべた。

・十一月三日、チャルコ。往路と同じ荒野をメヒコに向かう。
・十一月四日、メヒコ郊外に宿泊。
 だが私たちはメヒコを通過せず、直接、アカプルコ港に向うよう総督の要請を受けた。
 すべてマドリッドからの訓令によったものにちがいなかった。
・メヒコの我が会の修道院長は私たちを憐れみ、葡萄酒や食料をこの宿泊所まで運ばせて
 くれた。ロバにそれらの荷を積んでやってきた二人の修道士は、私に修道院長からの手
 紙を手渡してくれた。それにはローマで聞いたよりもさらに詳しい日本の情勢が書かれ
 てあった。
・<日本では、ビロウドの椅子に腰かけた老人が突如、すべての宣教師だけでなく日本人
 の重だった信徒まで国外に追放し、いかなる土地でも切支丹を奉ずることを禁ずる布告
 を出した。
 布告が出されると、すべての宣教師は家畜のように日本の各地から長崎に追い立てられ
 たという。
 宣教師と日本人修道士たちとは、長崎のそばにある福田に集められ、八カ月近く、家畜
 小屋に似た藁ぶきの家で生活させられた。
 十一月七日、雨の日、軟禁されていた宣教師と日本人修道士の八十八人が五隻のジャン
 クに詰めこまれ、日本を去ってマカオに向った。
 翌八日、三十人の神父と修道士、信徒とが小さな老朽船でマニラに旅立った。
 共に永久の国外追放であり、マニラ行きの船には高山右近殿や内藤ジュリアン殿のよう
 な切支丹の有力な軍人たちもまじっていたという>

・アカプルコ
 日本人たちはアカプルコの要塞の兵舎を宿泊所としているが、日中も死んだように眠っ
 ている。
 長かった労苦と疲れとが一挙に吹き出たように彼らは外にも出ず、ただ眠りこめている。
 船はあと一月後に出帆する予定。
・神の御加護があれば、春のはじめ、我々はマニラに到着するだろう。
 そして私はそのマニラに残り、日本人たちは船と船員とを手に入れ帰国するだろう。
  
第十章
・「おお」
 弾かれたように飛び起き、そばで眠りこけていた西九助をゆすぶった。
 「陸前ぞ・・・」
 この一言に侍は万感の思いをこめた。
・日本人たちは転ぶように甲板に駆けあがった。
 間近に見覚えのある島が見える。島の彼方に淡紅色に霞んだ金華山が続いていた。
・長い間、みんな黙って、島、浜、舟を見つけていた。
 悦びがなぜか湧いてこない。泪さえ、流れない。あれほど長い間、この一瞬を思ってき
 たのに、まだ夢のなかでこの風景と向いあっているようだ。  
・「お役人衆ぞ」
 誰かが叫んだ。藩の紋所を浮き出した幕をはりめぐらした一隻の舟が湾のかげからこと
 らにあらわれた。
 幕の間から背の低い役人がことらを眺めている。そのあとから二隻の小舟を船頭が漕い
 でくる。役人は手をかざし、自分たちを見下ろす日本人一人、一人に視線を走らせてい
 た。船と舟との間に問答がしばらく続き、やっと彼らはすべてを了解した。
・(帰った・・・)
 侍はこの時はじめて烈しい悦びを感じた。
 彼は思わず西の顔を見た。与蔵や一助、大助の顔を見た。
 「日本の・・・浜・・・」と西は息を吸い込んだように絶句した。
・その姿を番小屋からあらわれた役人たちがいぶかしげに立止まって眺めていた。
 が、その一人が、おお、叫んだ。
 「おお」
 男は急に浜の砂を蹴るように駈け寄り、「帰られたか」
 彼は侍と西との手を握り、しばらく放さなかった。「帰られたか」
・役人たちは侍や西の帰国について何も知らされてはいなかった。
 日本に戻る船がないため、一年以上も滞在したルソンから、カマオ経由で送った手紙は、
 やはり日本には届いていないようだった。突然の出来事に役人は驚くだけで途方に暮れ
 ていた。  
・伴われて、出発に日に宿泊した寺に向った。寺はあの時と何も変わっていない。
 役人は、入れ代わり立ち代わり部屋に入ってくる。休息する暇はない。
 帰国のことを評定所に知らせる早馬は既に月ノ浦を発っている。
 評定所からの御指図次第で、侍と西とは明日にでもここから城まで向かうつもりでいた。
・何もかもが懐かしい。日本の部屋の匂いも、そこにある調度も、出された膳も、長い間
 夢に見た日本のものである。別室をあてがわれた供の者たちのなかには柱をなでて泪を
 流す者もいた。 
・住職や役人たちは西の語る南蛮の国々の模様を信じられぬという面持で聞いていた。
 四層も五層もある石造りの街や、空を突く教会を語っても彼らに理解させることはむつ
 かしかった。
・「世界は・・・」西は諦めたように笑って、「この日本では考えられぬほど、広うござ
 いました」
・西の話が終わると、今度は住職と役人たちとが、出発以後の御領内の出来事を話してく
 れた。
 侍たちがローマを後にした頃、日本では最後の大きな戦いがあった。
 大御所さまが豊臣家を滅ぼされたのである。
 御重臣の石川さまが亡くなられた。
 そして侍たちと同行した商人、水手たちがルソンから長崎を経て帰国したのもその頃だ
 という。あの大船はルソンに残し、別の南蛮船に乗って戻ってきたのである。
・「松木殿もか」
 役人はうなずいた。松木は帰国後、御評定所の徒目付にとりたてられたと教えてくれた。
 評定所に勤められるのは召出衆としては出世である。
・自分たちをノベスパニヤに送った白石さまたちが今なお御評定所でお力を持っているか
 を訊ねたかった。だがその問いは咽喉まで出て、侍も西も口には出さなかった。なぜか、
 避けたいという暗い気持ちが働いたのである。
 住職も役人もそれについては何も語ってはくれなかった。  
・翌日の午後、早馬が戻ってきた。御評定所の御指図を持ってきたのである。
 正座したこの御指図を承った。御評定所の御重臣が参られるまでは月ノ浦で待つこと。
 その間、家族との面会や便りもなさぬこと、と役人は伝えた。
・「その御指図」と侍は少し顔色を変えて、「どなたが申されました」
 「津村景康さまにございます」
・「気になされますな」と役人はあわてて二人を慰めた。
 「戻りました商人、水手たちにも同じようにお取り調べがありました」
・合点がいかなかった。
 自分たちが殿の御使者衆として遠い国に渡ったことは誰でも知っている。
 御重臣なら当然、その点を御存知の筈である。商人、水手と同じ扱いを受けるのは心外
 だった。   
 その上、昨日とはうって変わったように役人たちは部屋に寄りつかなくなった。
 その気配で自分たちと気軽の口をきかぬように命じられてきたとわかる。
・三日後の朝、顔を見せなくなっていた役人があわただしく部屋に入ってきて、
 「津村さまが本日、お越しになられます」と告げた。
・津村さまの着座されている座敷に入ると、この御重臣はじっと視線を彼らに注がれた。
 傍に三人の供の者が控えていたが、侍はそのなかに、メヒコで別れたあの松木忠作の痩
 せた姿を見つけた。
 驚愕と懐かしさとのこもった侍の視線を避けて、松木はなぜか縁側に顔を向けていた。 
・「長旅、苦労であった。一日も早う、故郷に戻りたかろうな」と津村さまは、まず二人
 をねぎらった。  
 「だが、藩は御公儀により、昨年より異国より戻る者は誰でも取り知ればねばならぬ。
 役目の家のことと心得よ」
・ようやく侍は自分の長い留守の間、藩がどれほど厳しい切支丹禁制を布いたかを御重臣
 の表情と声とでひしひしと感じた。
 自分と西とがエスパニヤで切支丹に帰依したことを素直に言うべきか否か、彼は動揺し
 はじめた。 
・「ベラスコは如何いたした」
 「マニラにて、相別れ申しました」
 「ふたたび、日本に参ると申したか」
 侍は強く首をふった。
・「藩はもうベラスコに用はない。江戸は、切支丹を奉ずることを日本国中、隅々まで禁
 じられた。切支丹を教え広める者は殿も御領内にお入れにはならぬ。ベラスコも同じで
 ある」 
・侍は額から汗がにじむのを感じた。隣に正座した西の膝が痙攣したように動くのも感じ
 た。 
・「供の者で切支丹に帰依した者はおらぬか」
 「おりませぬ」
 「確かであろうな」
 侍はうつむいたまま黙っていた。
・「それでよい」津村さまははじめてこの時、微笑された。
 「お前たちと旅を共にした商人たちは、かの地で切支丹に帰依したそうだが、これは商
 いの利のため、方便のためゆえ、起請文を書かせて許された。だがお前たちは侍である。
 さればそのこと、とりわけ案じておった」 
・「殿もお考えも評定所の所存も変わったと思え。藩はもはや南蛮の船を迎え、その利を
 得ようとは思わぬ。ノベスパニヤと取引する気持も棄てた」 
・「では・・・」と侍はひきしぼるような声を出した。
 「我らをお使いとされました次第も・・・・」
 「時勢が変わったのだ。お前たちの南蛮への長旅はさぞかし辛苦であったろう。が、
 評定所は今はノベスパニヤに用はない。海を渡る大船もいらぬ」
 「では・・・我らのお役目は・・・」
 「お役目など、もうないのだ」
・侍は膝頭が震えるのをこらえた。怒りの声と呻きとが咽喉に出るのを抑えた。
 口惜しさと悲しみとがこみあげてくるのを手を握りしめて耐えた。
 自分たちのあの旅がまったく意味がなく、役にも立たなかったのだと津村さまは事もな
 げに言われる。
・その時、彼と同じように拳を膝に当て、うつむいていた西が叫んだ。彼の顔は真青だっ
 た。 
 「愚かにございました、我らは」
・「お前たちの咎ではあるまい」津村さまは労わるように、
 「切支丹禁制の御公儀がすべてを変えたのだ」
・「その切支丹に、私は帰依いたしました」
 西の絶叫に津村さまは突然、顔をあげ、白けた空気が座敷を流れ、沈黙が続いた。
 松木だけがその沈黙のなかではじめて、眼をこちらにむけた。
・「まことか」やがて津村さまは低い声を出された。
 「本心からではございませぬ。侍はまだ何か叫ぼうとする西を必死に抑え、
 「お役目を果たすために都合よし、と思うたからにございます」
・「長谷倉も帰依したのか」
 「はい、だが商人たちと同様、本心からではございませぬ」
 津村さまは黙ったまま、鋭い眼で侍と西とを凝視された。
・「私は・・・」西は泪を眼にいっぱい溜め、「申してはならぬことを、申してしまいま
 した」
 「もうよい。いずれは、御評定所にわかることだった」
 (お前が大声で切支丹に帰依したと叫んだ気持はおれにはわかる)
  そう言いかけて侍は口をつぐんだ。
・「これが、我らへの恩賞でございましょうか」
 (いや、俺たちの運命だったのだ)
 と侍の心のなかで呟くものがあった。
 その運命は月ノ浦を船出した時から決まっていた。
 侍はそれを自分がずっと昔から知っていたという気さえした。
・与蔵たち供の者を月ノ浦に残し、津村さまの御一行に従って侍と西とは御評定所に旅の
 経過を報告し、宗門改役に切支丹を棄てる誓詞を出すため出発した。すべて津村さまの
 御命令によるものである。
・今はこの暗さが辛く思われます」
 と西が囁いた。
 「どういう意味だ」
 「ノベスパニヤやエスパニヤの建物は、明るく陽が差し込み、このお城のようではござ
 いませんでした。男も女も笑いながら語っておりました。だが、ここではみだりに話し、
 みだりに笑うことはできませぬ」
・「俺たちは、見てはならぬものを・・・見てしまったのであろう」
 そう、これが日本だった。
・足音をたてて姿を見せたのは、宗門改役の大塚さまと役人だった。
 痩せこけたこの年よりは改めて二人に、なぜ切支丹に帰依したのかお訊ねになった。
 「すべてはお役目のためにございました」
 と訴えた。
 「起請文にそれを書きしるすがよい、それを」
 大塚さまは二人を憐れむように見て、「それをな」と繰り返された。
・客がきた。松木忠作だった。 
 「別れをな、言いに参った」
 この前と同じように眼をそらして松木は壁にもたれた。
 眼をそらしているのは、自分が二人と運命を共にしなかったことに拘っているためか、
 あるいは今の二人を見るに忍びないためなのか、わからない。 
 「これからは、旅のことは何もかもなかったように振る舞うことだ」
・「できませぬ」西は恨みを眼にこめた。
 「御評定所の徒目付におなりになったとか。御出世でございますな。我らは松木さまの
 ように上手には世を渡れませぬ」 
・「白石さまはどうなされている」
 横から侍は二人をなだめるような口を入れた。
 「まだ筆頭でおられるのか」
 「御評定所を去られた。今は鮎貝さまたちが藩を取り仕切っておられる」
・「なあ、西。今でもお前は使者衆だったと思うているのか。使者衆を装わされた囮にす
 ぎなかったと、気づいてもおらぬのか」 
 「囮とはどういうことだ」
 思わず侍は驚きのあまり声をあげた。
・「江戸も藩もあの時・・・ノベスパニヤとの取引きを第一の目論見とはしてはおらなか
 った。日本に戻ってな、俺はこのことわかって参ったが・・・」 
 「まして切支丹の僧を招く気なども毛頭なかった。江戸が藩を使うて知りたかったのは
 な、まず大船の造り方、大船の動かし方。大船が渡る海の航路でそれなればこそあまた
 の水手を商人に交えて乗せたのだ。商人も俺たちもな、そのための囮よ。南蛮人を怪し
 ませぬためお囮であるゆえに然るべき方々ではなく、どこで死のうと朽ち果てようと、
 一向にかまわぬ身の低い召出衆をやはり使者衆に選んだのだ」
・「白石さまの御領内富国のお考えは、あの折り藩のためには正しかった。だが御公儀が
 一藩の富むことを悦ばぬ今となっては、白石さまのお考えは悪と変ったのだ。白石さま
 は御評定所を追われ、その御知行も減らされた」
・「召出衆でも、人間ぞ」
 はじめて侍はこの時、傷ついた獣のような呻き声をあげた。
 「殿も・・・そのお気持ちか」
 
・(旅のことは何もなかったように振る舞うことだ)
 松木忠作が憐れむように言った言葉をまだはっきり憶えている。
 忘れること、すべて無かったと思うこと。
 確かにそのほかは、滅入ったこの心を元に戻すものはない。
 自分たちが名誉ある使者衆ではなく、ただ南蛮の国々を欺く囮にすぎなかったこと、
 それを考えても今はどうしようもない。
 御評定所のなかで白石さまと他の御重臣たちとの確執があり、そして白石さまがお力を
 失ったこと、御政道とはそのようなものだという松木の言葉を今は侍は納得できた。
 仕方のないことだと思った。
・(世界は広うございました。しかし、私には、もう人間が信じられのうなりました)
 それは、御城下から月ノ浦に戻り相別れた時、こみあげる恨みを抑えるように馬の手綱
 を両手で強く握りしめて西九助が洩らした言葉だった。 
 怒りのこもったその声が侍の耳に甦ることがある。
 そう、自分たち二人は、何も知らず、何も気づかず、広い世界を歩かされていたのだ。
 江戸は藩を使おうとし、藩はベラスコを利用しようとし、ベラスコもまた藩を欺こうと
 し、ペテロ会はポーロ会と醜く争う。
 そういう瞞着、争いのなかで自分たち二人はあの長い旅を続けていたのだ。
・辛い日は、侍は百姓たちにまじって、朝から夜まで何も考えず体を使った。家形の周り
 に堀のように積み上げた薪を背がまがるほど背負い、肩の痛さに耐えながら山路を炭焼
 き小屋まで運ぶことが、今はただ一つの逃げ路だった。
・彼のあとを与蔵も同じように股引をはき、薪の山を背負って黙々と従いてくる。
 この男が今、どんな思いをしているのか、帰国後、侍は訊ねたことはない。
 だが訊ねなくても、窪地に腰を下ろしてひと息入れる時、だまってじっと一点を見つけ
 ている彼の眼差しだけで何もかもわかるのだった。
・(この俺よりも、与蔵たちのほうが更にあわれだ)
 侍は与蔵や一助、大助のあの旅の労に対して何も酬いてやれない。
 御評定所が長谷倉の家に何の恩賞の沙汰も与えなかったからである。
 与蔵たちはひょっとすると、死んだ清八を羨んでいるかもしれぬ。
 あの男はそれなりの自由を得たのだ。
 だが与蔵たちは今後、侍と同じように生涯、むかしのままの運命のなかで生きていかね
 ばならない。
・秋が次第に深まった頃、やっと石田さまからのお使いがあった。
 色々と申しつけたきことがあるゆえ、目立たぬように参れ、とのお達しである。
・石田さまは、くたびれたような声で、
 「さぞ・・・無念であろう」
 こみあげる感情を侍は懸命に抑えた。
 帰国してはじめて、優しいいたわりのことばを聞いたからである。 
 「だが・・・どうにもならぬ。お前のおらぬ間、藩の取り決めは変わり、殿もすべての
 夢を棄てられた。お前も・・・黒川の土地のこと、諦めてくれ」
・「一時にせよ、切支丹に帰依した者の家がそのまま許されたこと、有り難いことと思わ
 ねばならぬ」
 「切支丹であるゆえに千松殿、川村殿のお家さえも知行召し上げられたことを思え」
・初耳だった。
 千松家、川村家は長谷倉の家よりはるかに格式高い血筋である。
 特に川村家の川村孫兵衛殿は藩内の灌漑、植林に功をたてられ、猿沢、早股、大鉤など
 三千余石を加増されたお方なのだ。
 その家さえも、切支丹であったため、取り潰しされたとは、侍は知らなかった。 
・「これからはな、ひっそりと生きていくことだ」
 石田さまは、さとすように云った。
・秋じまいといっているそんな最後の仕事がやっと片付いたある日、侍は谷戸の空に白い
 影が舞っているのを見た。 
 鳥たちがどこから来たのか、なぜ、こんな小さな沼を長い冬の居場所として選んだのか
 わからぬが、旅の途中、力尽きて飢え、死んだのもいるのだろう。
・「この鳥も」侍は眼をしばたたいて呟いた。
 「広い海を渡り、あまたの国を見たのであろうな」
 与蔵は両手を膝の上に組み合わせ、水面をみつめていた。
 「思えば・・・長い旅であった」
 言葉はそれで途切れた。
 この言葉を呟いた時、侍はもう与蔵に何も言うべきことはないように思えた。
 辛かったのは旅だけではなかった。
 自分の過去も、与蔵の過去も、同じように辛い人生の連続だったと侍は言いたかった。
・「俺は形ばかりで切支丹になったと思うてきた。今でもその気持ちは変わらぬ。
 だが御政道の何かを知ってから、時折、あの男のことを考える。
 なぜ、あの国々ではどの家にもあの男のあわれな像が置かれているのか、わかった気さ
 えする。
 人間の心のどこかには、生涯、共にいてくれるもの、裏切らぬもの、離れるものを、
 たとえ、それが病みほうけたい犬でもいい、求める願いがあるのだな。
 あの男は人間にとってそのようなあわれな犬になってくれたのだ」
 自分に言い聞かせるように侍は繰り返した。
・この時、うつむいていた与蔵がはじめて顔をあげた。
 そして今の主人の言葉を噛みしめるように沼に眼をむけた。
 「信心しているのか、切支丹を」
 と侍は小さな声でたずねた。
 「はい」
 と与蔵は答えた。
 「人には申すなよ」
 与蔵はうなずいた。
・あまたの国を歩いた。大きな海も横切った。それなのに結局、自分が戻ってきたのは土
 地が痩せ、貧しい村しかないここだという実感が今更のように胸にこみあげてくる。 
 それでいいのだと侍は思う。
 ひろい世界、あまたの国、大きな海。だが人間はどこでも変わりなかった。
 どこにも争いがあり、駆引きや術策が働いていた。
・侍は自分が見たのは、あまたの土地、あまたの国、あまたの町ではなく、結局は人間の
 どうにもならぬ宿業だと思った。
 そして人間の宿業の上にあの痩せこけた醜い男が手足を釘づけにされて首を垂れていた。

・支那人のジャンクに乗って私は一年住んだルソンを出発した。
 マニラに追放された日本人信徒たちが数名、秘かに必要な金を作ってくれた。
 その金で私はこのジャンクを買い乗組員たちを雇って、ルソンを出発することができた
 のである。
・一昨日、嵐が我々を追いかけてきた。
 午後の海は更に荒れはじめたので、支那人たちは七島列島の口之島に避難することを決
 め、その方向にジャンクの進路を向けた。
 四時間の嵐は、我々のジャンクを翻弄した揚句、日本の方角に向けて去っていった。
 ジャンクの舵はもう使いものにならなくなっている。我々は闇の海のなかをなす術もな
 く朝方まで漂っていた。
 そして静かな朝が来た時、海の向こうに口之島がやっと見えた。
 まもなく日本人たちの漁師が小舟を漕いで助けに来てくれた。
・ここには日本の役人たちはいない。島民の話によると、年に一度、役人たちがくるが、
 彼らはすぐに琉球に巡察に向うそうだ。
 何も知らぬ島民たちは、我々が元気になれば自分たちの舟で坊ノ津まで送ってくれると
 申し出てくれたが、支那人たちが、ジャンクの舵が修理できそうだと言っている。 

・口之島を出て四日目、日本を眼前にしています。
 岬のかげに十戸ほどのみすぼらしい日本人漁師の家が並んでいた。
 支那人たちはここで降りるよう奨めたが、私は躊躇していた。
 漁師の小屋の黒い影のなかに誰かがかくれ、じっと我々の動きを窺っている気がしたの
 だ。
・かなりの時間がたった。ようやくあたしは上陸の覚悟をきめて支那人たちに告げた。
 私が舟端に立った時、東側の岬のかげから突然、舟があらわれた。
 旗にはここの領主の紋章が染められ、立ち上がってこちら側を凝視している二人の役人
 の姿も見えた。彼らは我々の動きをさきほどから知っていたのだ。
・私は捕らえられた。坊ノ津の役人たちは、私たちに騙されるほど愚鈍ではなかった。
 商人であるという私の言葉を信じるふりをしながら、詮議がすむまでという理由で牢獄
 に入れた。
 牢のなかには何人かの切支丹信徒も入れられていて、役人たちは我々の会話をひそかに
 聞いていたのだ。一人の老いた病人が私にそっと終油の秘蹟を求めた。それがいっさい
 を発覚させるきっかけになった。 
・私は坊ノ津の牢から出されて鹿児島に連れていかれ、そこで冬まで取り調べを受け、
 正月に舟で長崎奉行所に連行された。今は長崎に近い大村という場所にいる。
・神がくださったこの運命を静かに受け入れよう。
 私はやがて待っている自分の死をもう敗北とは思わない。
 日本と戦い、日本に敗れ・・・私はあのビロウドの椅子に腰かけていた小肥りの老人を
 まぶたに蘇らせる。あの老人は私たち勝ったと思ったかもしれぬ。
・私を消滅させ灰にして海に投げ棄てれば、片付いたと考えただろう。
 だがそこからすべては始まるのだ。

・今日も取り調べがあった。だが、今日は彼は別のことを調べにかかった。
 私と同行して長谷倉と西とが、かの地で切支丹に帰依したのは、彼らの本心からかどう
 かを訊ねてきたのである。私は二人の安全を考えて、
 「あの方がたはお役目のため帰依されたのでございます」
 「では」と役人はじっと私の眼を見て、「切支丹とは申せぬのだな」
 私は黙った。黙っている私を見て役人は紙に何かを書きつけた。
・「なあ・・・愚かしいと思わぬか」
 帰りがけ、役人はあわれぬように私の顔をじっと眺めた。
 「お前も温和しゅうルソンに留まっておればな、切支丹のため、人のため、役にも立っ
 たであろうに・・・無益に捕らえられ殺されるためにこの日本に参ったようなものだ。
 狂気としか思えぬ」 
 
・石田さまからお使いがあり、御評定所の御沙汰があるゆえ、慎んで待つようにと知らせ
 てきた。
・数日後、二人の役人が来た。
 役人が、掃き清められた家形に入り、衣服を改めるため別室に姿を消している間、侍も
 りくに手伝わせて紋服に着替え、座敷の端に正座して待った。 
・上座にあらわれた役人の一人は「御沙汰」とひくい声を出して、御評定所決定の御書状
 を読み上げた。
 「長谷倉六右衛門、南蛮にて切支丹宗門に帰依の事、不届之段、きつくお咎めのあるべ
 き処、格別の御計らいを以て、謹慎の事、仰せ付けらるるもの也」
・両手を床につき、平伏したまま侍はこのお言葉を承った。
 承りながら彼は自分が虚空を落下していくような気がした。
 もう口惜しさも起こらないほど疲れきっていた。
 彼はいつもの癖でくぼんだ眼をしばたたきながら、役人の口頭による説明を聞いた。
 鮎貝さま、津村さまの御慈悲により、謹慎は谷戸の外にでてはならぬことだけにする。
 そして年に一度、切支丹を棄てたという誓詞を御評定所に差し出さねばならぬと役人は
 つけ加えた。
・「胸中、お察し申す」
 役目がすむと役人たちは義務的に慰めの言葉をかけた。そしてその一人が馬に乗る時、
 そっと教えてくれた。
 「内密だがな、松木忠作からの伝言がある。ベラスコが薩摩にて捕らえられた由、江戸
 から御評定所に通知があったのだ。その知らせさえなければ、かかる厳しい御沙汰もな
 かったやもしれぬ」
・「ベラスコ殿が」
 その時も侍は眼をしばたたいただけだった。
・「ただ今は長崎奉行所に送られ、大村にて他のバテレンと入牢しているそうな。まだ転
 んではおらぬと聞いた。 
・かすかな気配を感じた。顔をむけると、廊下にりくが座っている。夕闇のなかでりくの
 肩が震えて、こみあげる感情を必死にこらえている。
 「案ずるな」彼はやさしく妻に声をかけた。
 「長谷倉の家が絶えなかったことと与蔵たちにはお咎めのなかったことは、有り難う思
 わねばならぬ」 

・石田さまから急にお使いがあった。
 谷戸の外に出てはならぬという御評定所の決定があるにもかかわらず、石田さまは供一
 人を伴い布沢に参るよう、特に指図されたからである。
・「もろもろのこと無念であったろう。折をみて墓参りもしたいと思うておる。だがな、
 長谷倉の家の絶えなかったことだけでも良しと思わねばならぬぞ」
・(私が何をしたのでございますか)
 声は咽喉まで出かかったが侍は抑えた。口に出しても無駄なことだった。
・「お前の罪咎ではない。運がわるかったのだ。藩がな・・・」
 「藩がお前をそのように扱わねば・・・申し開きができのうなってな」
・「申し開きと申されますと」
 「江戸への申し開きだ。江戸は今、何とか口実を設け、次々と大藩をとり潰しにかかり
 おる。殿が関東より逃げて参った切支丹を長い間留めおかれたことも、ベラスコの望み
 を容れノベスパニヤへの御書状に切支丹の僧を馳走すると書かれたことも、江戸は今と
 なって責め立てて参っておるのだ。藩はしかとした申し開きをせねばならぬ」
・侍はつめたい床に手をついたまま声も出なかった。ひとしずくの大粒の泪が落ちた。
 「お前はな、政の変わり目に運わるう巻きこまれた」
 「口惜しかろう。お前の口惜しさはこの老人が誰よりもわかっておるぞ」
 「だがな、長谷倉の家門は決して絶やさぬぞ。それだけは御評定所も鮎貝さまもお許し
 くださった」
 「恨むなよ」
 「新しい御沙汰がある」
・重荷を放り棄てるように一気にそう告げると、石田さまはよろめくように立ち上がって
 姿を消された。足音がした。そして、いつぞや谷戸に来た御評定所の役人があらわれた。
・「御沙汰」
 いつぞやのように平伏した侍の頭上で役人の声は聞こえた。
 「邪宗門に帰依したる故、再吟味致すに付、このまま評定所に出頭致すべく・・・」
・障子をしめた廊下で何人かの男が息をこらしているのが侍にはわかった。
 それはもし侍がその御沙汰にかくされたものを感じ、逆上した場合、彼を捕らえるため
 に待っている男たちだった。 

・妻と勘三郎とに宛てた手紙を書き終え、頭髪を少し切ってその手紙に入れた。
 そして彼のそばで待っている石田さまの御用人に頼んだ。
 「小者の与蔵をよんでくだされ」
・与蔵がいつの間にか雪の庭に正座してうつむいていた。彼は用人からすべてを知らされ
 たにちがいなかった。 
 眼をしばたたきながら侍はしばらくこの忠実だった下男をみつめ、
 「今日までご苦労・・・・」
 と言って咽喉をつまらせた。
・突然、背後で与蔵の引きしぼるような声が聞こえた。
 「ここからは・・・あの方が、お仕えなされます」
 侍はたちどまり、ふりかえって大きくうなずいた。そして黒光りするつめたい廊下を、
 彼の旅の終わりに向って進んでいった。 

・処刑執行の日が決まった。前日、ベラスコと修道士のルイス笹田とは特に許されて番人
 の監視のもと体を清め、新しい獄衣に着替えた。
・真夜中、ルイス笹田が突然、泣き声をたてはじめた。
 今夜も死の恐怖に襲われたのである。
 いつものようにベラスコは笹田の細い手を握り、この苦しみをすべて我に与え給え、
 と懸命に神に祈った。
・行列が出発した。役人たちは馬で、囚人と番人たちと足軽衆とは徒歩で、みかん畠をぬ
 う路をおりていく。農婦が手をやすめ、驚いたようにこちらを見ている。
 みかん畠をおりると大村の町になった。藁ぶき屋根の家が並んだ路の両側では、籠を背
 負った男や子供をだいている女が放心したように一行の通りすぎるのを眺めている。
・竹矢来が開かれた。行列が止まった。海風に曝されて死を待つ囚人の顔はいずれも唇ま
 で血の気を失せている。
 竹矢来の真中に藁と薪とを足もとにつみ重ねた三本のあたらしい杭がうちこまれ、まる
 で背の高い執行人のように直立していた。
・役人は二、三歩、歩きかけ、ふと思い出したようにベラスコのそばに戻ってくると、
 「実はな、内密ではあるが、お前と南蛮の国に参ったあの長谷倉と西と申すものは、切
 支丹ゆえ、お仕置きとなったぞ」
 と、黙っていたベラスコの鉛色の唇に嬉しげな微笑が浮かび、
 「ああ、私も彼らと同じところに行ける」
 三人は「主の祈り」を口をそろえて唱えながら一列になって杭まで歩いた。
・足軽の一人が松明を持って杭の足もとにつみ重ねた薪と藁にひとつ、ひとつ火をつけた。
 風にあおられ炎が烈しく動き、煙がたちのぼった。
・火勢が一段と高くなった瞬間、まずルイス笹田が、次にカルバリオ神父の声が突然やみ、
 ただ風の音、薪の崩れる音が聞こえた。
 最後にベラスコの杭を包んだ白い煙のなかから、ひとつの声がひびいた。
 「生きた・・・私は・・・」
 火勢が長い時間をかけて鎮まるまで役人と番人たちとは遠くで寒そうに立っていた。
 日が消えたあとも囚人の姿の失せた杭が三本、弓なりに反ってくすぶっていた。
 番人は骨の灰を集めて菰にいれ、石につめて海に棄てにいった。