高山右近 :加賀乙彦

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この本は、今から24年前の1999年に刊行されたもので、キリシタン大名として名高
高山右近の人生後半期を物語にしたものである。
高山右近は、主君の秀吉からキリスト教を棄てるか、それとも大名の地位を棄てるかと迫
られたとき、大名の地位を捨てキリシタンとして生きる道を選択した人物だ。

私がこの高山右近に興味を持ったのは、「鉄の首枷(小西行長伝)」(遠藤周作著)を読
んだときだ。小西行長もキリスト教の洗礼を受けたキリシタン大名であったが、信仰は高
山右近ほど深くはなかったためか、秀吉がバテレン追放令を出したとき、高山右近のよう
に棄教を迫られることはなく、面従腹背の形を取りながら秀吉の家臣であり続けた。
そして小西行長は、こっそり大名の地位を棄てた高山右近を自分の領に匿ったりしている。
小西行長は、信仰のためにあっさりと大名の地位を棄てた高山右近のことが羨ましいと思
っていたのかもしれない。そんな小西行長は、秀吉から朝鮮出兵で先陣を切らされたり、
関ヶ原の戦いでは石田三成への義理からか西軍側に付くことになり敗北、1600年11
月に、市中引き回しののち六条河原において石田三成安国寺恵瓊と共に斬首刑に処され
るという運命をたどった。
一方、大名の地位を棄てキリシタンとなった高山右近は、秀吉のよるキリシタン弾圧によ
り、小豆島、肥後国そして金沢と、迫害から逃れ前田家の庇護を受けて暮らしていたが、
徳川家康の時代となって、さらにキリシタンへの弾圧が強くなり、前田家への迷惑を考え
て金沢を退去、捕らわれの身となり長崎から家族とともにフィリピンのマニラへ国外追放
となった。
ところがマニラでは、イエズス会報告や宣教師の報告で有名となっていた右近は、スペイ
ンの総督フアン・デ・シルバ(英語版)らから大歓迎を受けたのである。
しかし、船旅の疲れや慣れない気候のためか、老齢の右近はすぐに病を患い、マニラ到着
から40日後の1615年2月に63歳でこの世を去った。
町民から大名になった小西行長の人生と、大名から一切を捨て信仰に生きるキリシタンと
なった高山右近の人生。どちらがしあわせな人生だったのか。とても考えさせられた。

ところで、私がこの本を読んで一番驚いたのは「天正遺欧少年使節」についてだった。
天正十年(1582)に九州のキリシタン大名の名代として4名の少年の使節団がローマ
に派遣されたという。私はこのことはまったく知らなかった。
遣欧使節というと、慶長十八年(1613)に、当時の仙台藩主・伊達政宗がフランシス
コ会宣教師ルイス・ソテロを正使、支倉常長を副使として、スペインおよびローマに派遣
した「慶長遣欧使節」を私は思い浮かべるのだが、それよりも31年も前だというのだか
ら、とても驚いた。
もっとも、天正遺欧少年使節にしても慶長遣欧使節にしても、日本に帰国してから後は、
厳しい運命が待ち受けていた。
また、その後の遣欧使節というと、江戸幕府が文久元年(1862)に総勢38名をヨー
ロッパに派遣した「文久遣欧使節」というのがあるが、これは慶長遣欧使節から約250
年も後のことだ。

ところで東北におけるキリスト教への弾圧について調べてみると、仙台においても仙台藩
主・伊達政宗の時代にも、キリシタンへの弾圧によって殉教した人達がいたようだ。
仙台市内の広瀬川大橋の脇下の青葉区西公園内に「キリシタン殉教碑」がある。
これは三体の銅像が立っているもので、中央はカルヴァリヨ神父で、向かって左は武士の
殉教者、右は農民の殉教者だそうだ。
岩手県奥州市水沢で捕えられたポルトガル人の宣教師カルヴァリヨ神父と信徒ら9名が、
1624年2月、極寒の広瀬川で殉教したことを顕彰するために建立されたものとのこと。
当時、イエズス会のポルトガル人宣教師カルヴァリヨ神父は、東北地方から北海道にかけ
て熱心に宣教を続けていたようだ。
ほかにも、旧仙台藩の領地だった一関市藤沢町の大籠(おおかご)では、1639年から
数年間に300人以上のキリシタンが処刑されたと伝えられている。また、隣接する隣接
する宮城県登米市米川でも約120人が処刑されたという。
キリシタンへの弾圧というと九州でのイメージが強いのだが、この東北でもかなり悲惨な
弾圧が行なわれたのだということを再認識させられた。

このように豊臣の時代や徳川の時代において、キリシタン弾圧によって九州ばかりでなく、
日本の各地で多くの殉教者が出たわけだが、冷静に考えてみると、この殉教というのは、
ちょっと異常なことなのではないかと私には思える。
確かに、キリスト教の信仰を捨てるよりも、死を選んで命を神にささげるというのは、美
しくすばらしいことなのだろうが、はたして自らの命を捨ててまで信仰を貫くというのは、
正常なことなのだろうかと私には思える。表面上は信仰を捨てたふりをして、心の中で捨
てなければ、それでよかったのではないかと私には思えるだ。
信仰を持つということはどういうことなのか。私にはいまだに理解できない。

過去の読んだ関連する本:
鉄の首枷 小西行長伝


さい果ての島国より
・1613年2月 金沢にて
・お前が1609年の春にウベダから発送した手紙は一蹴真ん前に落掌、南スペインのア
 ンダルシアから、この極東の日本まで四年半もの遅々とした長旅を要したことになり、
 この国はそれほど遠くの、世界のさい果てにある。
 まことに困難に満ちた長旅のため、半数以上の手紙は届かないのが実情で、教会関係の
 公的な書簡にはかならず二通の写しを取って発送するのが慣わしだから、お前の手紙が
 私の手に届いたのは奇跡に近い。
・故国では日本という国がこの世に存在していることすら知られておらず、試みにウベダ
 の町の人々に尋ねてみても誰一人名も所在も知らなかったというお前の告白が私には痛
 いようによくわかる。 
・忘れもしない1584年10月のマドリッドにおいてすべてが始まった。当時二十六歳
 の若者だった私は、日本という国から来た少年使節団(天正遺欧少年使節)の接待係と
 なり、ディオゴ・デ・メスキータ神父四人の少年たちとその従者をイエズス会のコレジ
 ヨで出迎えた。
・彼らは歳は十六歳から十七歳で、礼儀正しい物腰、そして、すぐさま判明した利発さに
 は感心させられた。 
・当時は、新大陸や東洋や南洋など全世界の征服地や根拠地からキリスト教徒になった野
 蛮人たちが首都に引き連れられてきて、コレジヨに宿泊し、国王陛下に謁見させられて、
 陛下に、その御威光によるキリスト教布教の成果をお見せして、イエズス会への関心と
 称賛と、その結果としての財政的援助をお願いするのが行事となっていて、私も雑多な
 野蛮人の世話を司祭の義務として遂行してきたのだが、彼らの多くは言葉が通じなかっ
 たり、食事や日常生活の作法に無知であったりし、なかには自分がなぜ世界の中心地マ
 ドリッドに連れてこられたのか理解せずに人身御供になるかのように恐怖をあらわにす
 る者もいたのだが、日本の少年使節団は、まるで違った。
・彼らが長崎の港を出たのが1582年の2月だから、すでに三年近くの年月が経ってい
 て、そのあいだに、ラテン語やポルトガル語のほか、神学、音楽、自然学について、か
 なりの研鑽を積んでいて、とくに語学の進歩の著しいのが原マルチノだった。
・使節団の団長として遇されているのが伊藤マンショで、フランシスコ大友善鎮の名代と
 して、ほかの少年より一目置かれているのに、語学力はいまだしで、とくにポルトガル
 語の会話は不器用であったが、人に好かれるにこやかな態度と率直な話ぶりで会う人
 を愉快にし、すぐ親しくなる社交性を備え、立派に代表の役目を果たしていた。
中浦ジュリアンという少年は、無口で孤独な感じで、ちょっと取っつきは悪かったが、
 付き合って見ると、嘘をつけない真っ正直な性格で、しかも学問や神学については、大
 の勉強家で、努力家であった。
千々石シゲルは、伊東マンショに次ぐ家柄の出身で、いかにも貴公子という可愛い顔立
 ちのうえ、おとなしい性格で、人に可愛がられたが、あまり学問に熱心ではなく、それ
 に体が虚弱で、ふとしたことで発熱して寝込んでしまい、となるとかわいそうで、こち
 らが熱心に看病してやりたくなるような、いたいけな魅力を備えていた。
・スペイン人は、そしてポルトガル人も同様だが、全世界の野蛮な異教徒を教化する使命
 感を持っている人が多く、これが極端になった軍人や貿易商人や船員が、そして強引な
 布教法をよしとする聖職者が「片手に剣を、もう一つの手に十字架をかかげて」、全世
 界に爆発的に散っていき、さかんに野蛮人の国々を征服して領土を拡張するとともに、
 彼らに教えを広めてきた。
・私自身は、マドリッドで日本人に会い、その後インドからマカオ、日本に来た経験から
 だろうか、異教徒を武力で征服してから布教するような強引な方法には当初から反対だ
 ったが、残念ながらイエズス会士のなかにも、日本に対して第二水準、第三水準への武
 力鎮圧方式をとろうと考えた人たちのいたことを知っている。今ではその人たちのほと
 んどが自分の非を悟り、地道な伝道に励んでいるが、ごく一部には、なおも武力行使を
 目論む宣教師もいて、敏感で猜疑心の強い日本の権力者の防衛、つまり迫害を誘発して
 いる。 
・1586年、私は、インドのゴア、フランシスコ・ザビエルの遺体が埋葬された聖信学
 院のあるイエズス会の布教中心地に赴任し、初めて東洋に触れた。
・1587年5月、メスキータ神父に引率された十七名のイエズス会士と日本の少年使節
 団が、リスボンからゴアに到着した。使節たちは、この二年間にもう十八歳ぐらいにな
 っていて、背丈も伸び、大人びてきて彼らは私を覚えていてくれて、のっけから親しみ
 を込めた会話を交わすことができた。
・1588年4月、ゴアを出発して七月にマカオに着いたところ、秀吉大王が宣教師追放
 令を出したという驚くべき報知が伝えられたので、私たちは日本渡航の方策を練り直さ
 ねばならなかった。
・秀吉という専制君主は、熱しやすく冷めやすい性格であり、一旦は追放令を出したもの
 の、その後は布教について寛大な態度を取っている模様なので、こちらが友好的態度で
 臨み、かつ彼の希望である貿易継続について約束すれば、追放令の撤回と布教の推進も
 充分可能であるというのが、私たちの到達した結論であった。
・二隻に船に分乗した私たち一行がマカオを出発したのは、1590年6月で、長崎に到
 着したのが7月であった。
・埠頭に出迎えた人々のなかに、有馬の王、プロタシオ有馬晴信がきらびやかな衣装と大
 勢の兵士を従えているのが目立った。
・すでに私は、ゴアやマカオで東洋というものを知っていると自負していたけれども、初
 めて見た日本の印象はそれとはまったく違う異国で、おのれの短見を修正する必要を認
 めた。   
・東洋によくある、粗末な小屋程度の家々の並ぶ貧相な町ではなく、複雑で精巧な木造建
 築の並ぶ文明国の町であり、裸同然の身なりをして裸足の人びとではなく、着物という
 衣服を着ていて、身分のある人々の服装は入念で優美であるし草履や下駄という履物も
 ちゃんと履いている。
・ところで、遣欧使節たちの立場は、彼らが八年半に亘って日本を留守にしているうちに
 だいぶ変わってしまった。
 もっとも激変を受けたのは団長だった伊東マンショで、彼の御家人のフランシスコ大友
 義鎮宗麟はすでに帰天し、その子、コンスタンティノ義統は、キリスト教嫌いの母親の
 影響を受けて棄教してしまい、教徒殺害などを行っていた。
・数日後、千々石シゲルミゲルの従兄であるプロタシオ有馬晴信に教皇の贈り物を渡すた
 めの荘厳なミサを行ったが、この晴信が私が見た最初の日本の王で、華美な服装をして
 大勢の臣下を従え、領民は土下座して迎えるという威勢を誇っていた。
・使節団とイエズス会士は、都に上り秀吉大王を訪問することに決定したが、大王は追放
 令を出していることだから、あまり大勢の司祭を同伴することは得策ではなく、十二人
 の司祭が同行することになり、遣欧使節とその従者を含めて、総勢二十二名の一行とな
 って出発し、船で都の近くの室津という港に着いた。が、秀吉大王より謁見の許可が下
 りないので、われわれは大坂まで移動して、そこで、追放された雪深い北国の金沢から
 わざわざ出向いてきた、日本の代表的教徒、ジュスト右近とその父ダリオ飛騨守に出会
 った。  
・その後、私と深い関係を持つようになるジュスト右近は、当時四十がらみ、にこやかな
 微笑と人をそらせぬ温かい人触りが印象深く、とくにヴァリニャーノと交わす流暢なポ
 ルトガル語や中国の古典文学や日本の詩歌、天文学や建築技術、さらには料理にまで及
 ぶ該博な知識が私を感心させたが、原マルチノなどはヨーロッパに行ったことのない人
 の語学力と及びもつかない教養の深さに驚嘆して、偉い方ですなと私にささやいた。
・私たち一行が都に上り、広大で豪華な宮殿で秀吉大王の謁見を受けたのは、1591年
 の3月初旬で、このとき私は初めて、日本という島国の大王が、いかに豪奢な生活をし、
 九州の王など吹けば飛んでしまう最高権力者の威勢を誇っているかを逐一目撃した。
・われわれにとっての最大の問題は、大王が四年前に出した宣教師追放令を撤回してくれ
 るかどうかであったのに、大王からインド副王宛てのポルトガル語の返事が届いたのは
 おうやくその年の九月末で、そこには命令を撤回しないけれども貿易の継続を望むとあ
 り、中国攻略の志を伝え、インド副王との平和友好を望むと書かれてあったので、ヴァ
 リニャーノを始めわれわれの目的は公には達せられない結果になった訳、にもかかわら
 ず秀吉大王が副王使節や遣欧使節たちに親愛の情を示したことが、矛盾した不可解な態
 度と私には映った。翌年十月上旬、ヴァリニャーノは長崎を出帆、マカオに帰った。
・1591年、秀吉大王は中国征服という途方もない大戦争を始め、十六万の兵を乗せた
 艦隊で、中国の従属国であった朝鮮を攻め、この戦争のさなか、1957年2月、突如
 として、都と大坂で逮捕した二十六名の教徒(日本二十六聖人)の処刑を長崎で執行し
 た。
・私は折から港に停泊していたポルトガル船の上から港近くの丘の上で行われた教徒たち
 の処刑を見た。 
 角材で作られた十字架に彼らは両手両足を開く形で縄や鉄輪で固定され、十字架が立て
 られると、槍が右側の胸から、時には左右両側の胸から突き刺さって心臓が貫かれ、血
 潮がどっと噴き出して殺されたのだが、中には一度では殺されずに、さらに首を貫かね
 ばならなかった者もい、槍の死刑執行係と鉄砲の警備兵は、丘を遠巻きにしていた見物
 人、その多くが教徒で殉教者を賛美しその血をおのれの着物に塗り、その衣服を記念に
 切り取ろうと近づいてくる人々を制止しようとして揉み合ったが、ついに制止できず刑
 場は混乱した。
・この大量処刑が、なぜ突然に、長崎という伝道の中心地で行われたか、についてはいろ
 いろ込み入った事情があり、とくにイエズス会と、続いて新たに来日してきたフランシ
 スコ会との対立が一因を成していたけれども、日本という島国の最高権力者秀吉大王が、
 その頭に浮かんだことを、すぐさま実行できる絶対君主であり、その権力を民衆に見せ
 つけたかったというのが最大の理由かもしれない。
・神の怒りに触れたに違いなく、翌年秀吉大王は病死して地獄に堕ち、主を失った日本軍
 は朝鮮より撤退し、中国征服を目指した戦争は日本の敗北に終わった。
・ずっと長崎を中心に伝道を続けてきた私が金沢に来たのは、数年前、1607年のこと
 だ。(ファン・バウティスタ・クレメンテ)
 
降誕祭
・1613年12月 金沢にて
・以前この地にいた宣教師の残した日録や信者名簿を含め、すべての書類を最近焼却した
 のは、この国で家康大王のキリスト教徒への迫害が始まっているからだ。
 もっとも、日本各地で荒れ狂っている迫害の猛威も、この金沢には到達せず、今のとこ
 ろきわめて平穏な様子だ。
・1607年、前田利長先生は金沢に里帰りした妹のマリア豪姫、現在は備前殿と呼ばれ
 る教徒の傷心を慰めるために、この聖堂を建て、私はそれ以前からこの地で布教に努め
 たわが友、バルタサールの推薦とジュスト右近の懇請によって、この聖堂の常駐司祭と
 して赴任した。
・江戸では家康大王の子秀忠大王によりスペイン系の宣教師が侵略の手先と見なされ、浅
 草教会が保護していたらい病者二十数人が斬首され、武士のみならず一般庶民の信仰も
 禁止された。
・かつて領主が教えに帰依して領民にも信徒が多かった有馬や大村でも、領主が信仰を捨
 て領民の教徒に対しては弾圧を行っていた。
 すなわち、遣欧使節を送り、その帰国を熱烈に迎えたプロタシオ有馬晴信王は、ある事
 件(岡本大八事件)の結果、家康大王の怒りを買って斬首され、その子、ミゲル直純王
 は家康大王の養女と結婚しただけあって、舅の顔色をうかがい、かつての信仰を捨てて
 教徒への残忍な迫害を行っていたし、サンチョ大村喜前王は、天正使節団帰国のときは
 愛想よく教皇の贈り物を受け取ったくせに、背教者となって宣教師を追放し、信徒を圧
 迫していた。
・これは当時、都の司祭をしていたオルガンティーノから聞いたことだが、秀吉大王の迫
 害が始まったというニュースを都にいたジュスト右近に伝えると、彼はすぐに自分も殉
 教者に加わる決意をして、都の近くの前田王の屋敷へ馬を飛ばして利家王に会い、別れ
 の品として、彼の茶の湯の師匠、千利休より拝領した茶壷を二口持って行った。
 「私の死後、この壺を修められますように。私はオルガンティーノとともに死の宣告を
 受ける覚悟でございます故に」
 と言うと利家王は驚いて、
 「いやいや、秀吉大王はルソンよりのフランシスコ会の布教に御怒りなのであって、イ
 エズス会の友人であるあなたには大事ない」
 と言った。
 利家公は、茶壷も受け取らず、彼はすっかり慰められて、そこを退出したのだという。
 
豪姫
・初代前田利家公が子のない秀吉に四女の豪を養女として送ったころを右近は知っている。
 明るく屈託のない幼女であった。しかし、よく風邪で臥せったり腹下りで蒼い顔をした
 り蒲柳の質でもあった。
 秀吉が関白になり、その室、寧々が北政所と呼ばれて、豪姫が備前の藩主宇喜多秀家の
 正室として岡山に行ったあとは、むろん会う機会がなかったが、関ヶ原で西軍が敗れ、
 秀家が薩摩に逃れ、さらに二人の息子とともに八丈島に流されたあと、娘二人を連れて
 廃残の身を金沢に寄託してからは親しい付き合いが保たれるようになった。備前殿が信
 者だと知ったのはこの時で、都で内藤如安の妹ジュリアの導きを受けて受洗しマリアと
 いう霊名を受けたと如安より告げられたのだ。 
 利長公の肝いりで、以前から計画されていた紺屋坂の南蛮寺の普請が、にわかに急がれ
 たのは一に失意の内室マリアを励ますためであった。
・備前の方はひたすらに、夫、息子たち、母、兄のことを気遣っていて、近親者の安否を
 想うのが唯一の孤独の慰めであるらしい。反面、おのれの今の不如意な暮らし向きにつ
 いてはかけらも不満を表さぬところに憐れが深かった。

悲しみのサンタ・マリア
・天正十五年(1587)3月、関白秀吉は大坂を発って九州動座を起こした。右近は、
 領国、明石より百騎の侍に六百の徒足軽を引き連れて従った。手勢には信者が多く、出
 陣の朝にはパードレ・プレネスティーノより争って秘蹟を受けていた。この秘蹟によっ
 て武運の栄えが保証されると彼らは信じていたのだ。
 明石軍は旗指物にクルスを描いていたが、おのがじし兜や大鎧の弦走りに白の十文字を
 付けるものやロザリオを首に掛ける者もあった。
 家臣領民において信徒となるものが多く、信者であることを誇らしげに示す風潮があっ
 たにしろ、人に信仰を誇ることを偽善と厭う右近は、おのれにおいては、南蛮兜お鉢に
 家紋の七曜星をひっそりと付けたのみであった。
・九州の南端を領にしていた島津義久が降伏し、九州全域が支配下になったので、関白は
 六月初旬、九州北端の博多に凱旋し、海辺の筥崎八幡宮に参詣の後、境内に御殿を建て
 て滞在した。諸将も付近に邸宅を急造して住むことになった。
 そこは湾を見渡す恰好の場所であり、志賀島と能古島の向こうに玄界灘の白波が見えた。
 湾内に一隻の異国船が停泊していた。武装したフスタ船で、大洋航海用の帆船よりも小
 型ではあるが、二基の帆柱のほかに一段櫂を備えた駿足船で、船首には遠目にも明らか
 な大筒を一門装備していた。
 岸辺にたむろしていた軍勢も漁民も、この異様な異国船に驚き、興味を持っていたが、
 むろん関白も注目していたのだ。
コエリョ準管区長は、銃と剣で武装した兵士たちに護られたパードレやイルマンを引き
 連れ、ものものしい行列を組んで関白を訪問した。
・関白は愛想よく準管区長の来訪を受け、船を見たいと言い出し、コエリョはいつでも歓
 迎すると応じた。そして、その機会は唐突に来た。
・ある日、関白は多くの船を従えて舟遊びしていたときに、フスタ船に向かって、急ぎ船
 を漕がせて、武将たちとともにずかずかと乗り込んできたのだ。 
 船上では、不意のこととて準備もできておらず、関白たちを一室の招じ入れ、レモン漬
 けや生姜菓子やポルトガル酒を供した。
・それからコエリョの案内で船内を隈なく見物した関白は、鉄板張りの船体や精巧な大筒
 に目を見張り、いろいろと質問し、武装の完璧なことを上機嫌で称賛したが、とくに長
 いあいだ足を停めたのは、船底の漕手のなかに日本人の姿を発見したときだった。
 漕手は普通ポルトガルの徒刑囚によって構成されていて鎖で繋がれている。
 関白は、あの日本人はどうして鎖につながれているかと質問し、長崎での罪人であると
 いう答えを聞くと、納得した風に、満足げに大きく頷いたが、実はこの大仰な動作こそ
 彼の隠された癇癪を示していたのだ。
・関白の不意な視察を訊いた右近は心配し、小西行長公の仮屋敷を訪れて相談した。
 二人の意見は、南蛮の武装船を見せたことが災いを呼ぶであろうという危惧で一致した。
 で、二人で連れ立ってフスタ船のコエリョに会いに行った。
・「関白殿下は、われわれの船を立派な軍船だと評価し、将来の遠征には強力な味方にな
 るだろうと喜んでおられた」
 「いや、それは浅い見方でしょう。関白はイエズス会が、この船のような武力を持って
 いることに疑惑と警戒の念を持ったに相違ありませぬ」
 「しかし、関白殿下はイエズス会こそはもっとも強力な援軍であると誉め、われわれが
 供した葡萄酒を飲み菓子をつまんで満足げに談笑し、上機嫌で下船なさったのですぞ」
 「その上機嫌が曲者なのです。いかがであろう。このフスタ船を関白に献上するのです。
 この船は関白のために、わざわざ建造し輸入したと思わせるのです」
 「何を言う。この軍船は技術の粋を尽くした、ポルトガルの誇りですぞ。それを、この
 島国の王にただでくれてやるなど不可能である」
 「ただで関白に差し上げるのが、この際、最良の道です」
 「イエズス会は、武力によって他国を支配する団体ではないこと。ポルトガル人の技術
 と智慧とが、関白の天下取りに全面的に協力するのだという心意気を示すことが、この
 際、もっとも肝要。さもないと、関白は何を言い出すかわかりませぬ。不気味ですぞ」
・しかし、二人の懸命な説得を、もはやコエリョは聞いておらず、そっぽを向いてしまっ
 た。それから三日目の夜、突然、関白の使者が左近の陣屋に現れて棄教を迫ったのであ
 る。
・「それがし、これまで関白殿下に忠勤を励んできて、いかなる行為においても無礼を働
 いたことはありませぬ。キリシタンの教えは優れたもの、真理成るがゆえにそれがしは、
 高槻でも明石でも領民に帰依を勧めたのであって、その行為はそれがし一個の手柄と
 さえ自分褒めしております。それがしは全世界に換えてもおのれ一個の守る宗門を捨て
 ぬ覚悟であるからには、仰せの通り明石の所領六万石は即刻殿下に返上し奉る」
・関白の使者へのとっさの返答は右近にとって自明のことであり、それでよしとおもって
 いたのだが、家臣どもには主人の考えが、そのまま素直に受け取られたわけではなく、
 使者が帰ると、それまで静まり返っていた者どもが、不穏にざわめきだした。
・家臣たちは二派に別れて言い争っていた。
 多数派は、主人が領土を広げ、出世していくことを望み、そのために役立つとみて受洗
 していた者で、主人が領土を失うとなると、失望のため信仰にも揺らぎを生じた者たち
 である。彼らは主人が、家臣領地領民を捨てる、つまり戦国大名が共通して求めている
 財産を捨てることに納得がいかなかったのである。
 もう一つの少数派は、信仰に厚く、主人が信仰を守るために領地を手放すのを肯定し、
 今後の忍従の生活に甘んじようとする者たちで、このなかには高槻以来の譜代の臣たち
 が目立った。
・右近は物思いに耽った。
 それは、侍としての出世を目指して兵火の中でひたすら励んできた人生行路をここで大
 転換しなくてはならぬということに掛かっていた。たびたびの戦によって功を立てて、
 六万石の主になった。換言すれば、多くの殺傷を行って伸び上がってきたのだが、それ
 によって得た喜びはわずかで、後悔と慚愧のほうが多かった。敵というのは同じ日本人
 であり、相手を殺す理由は、わが主君に相手が敵対していることだけだ。剣花血臭は勇
 ましくはあるが罪深い。もとより自分は天下人の器ではなく、信長公、秀吉公を主君と
 して仕えてきたのが、日本における天下平定の事業と言っても、全世界から見たら、ほ
 んの片隅の小国の些事に過ぎない。
・「余はわが身の苦難を少しも残忍に思わない。ただ方々が主君を失い禄を得られなくな
 ることのみ気遣う。方々は世の心友であり、勇敢な武士である。余は方々の武勇に報い
 ることを期していたが、それも現世ではできぬ夢となった・・・」  
・家臣たちは嗚咽し慟哭した。右近が五人の供のみ選んで連れていくというと、大勢がも
 とどりを切り、右近に従うと言った。右近はあまりに多人数では謀叛をおこすと疑われ
 ると説いたので彼らはようやく身を引いた。明石には使いを出し、家族に一時淡路島に
 移るように指示し、暗夜、五人の供を連れて漁船に乗って博多湾の小島に逃れた・・・。
 今、左近は、茶室で独り昔を回想しながら、悲しみのサンタマリアに祈った。
 
金沢城
・右近は庭のほうからあがってくる子供たちの歓声を小鳥の快いさえずりとして目を細め
 て聞いた。亡くなった長男ジョアイ十次郎夫婦が残した孤児たちである。十六歳の十太
 郎を頭に、末っ子の女の子まで男四人女一人の孫たちである。右近を「じじさま」ジュ
 スタを「ばばさま」と呼んで慕っている。
・息子夫婦が風邪で倒れてあえなく先立った直後に、右近の母マリアも看病疲れと気落ち
 が重なって急逝した。亡き母を想うとすぐ亡き父ダリオ飛騨守を想う。右近が利長公に
 仕えてから父も公に仕え六千俵を与えられる身分になったが、帰天して今は長崎のキリ
 シタン墓地に埋葬されている。育った孫たちの声で耳を撫ぜられながら、空に消えた歳
 月を思い、おのれの年を右近は実感した。
横山山城守長知は、右近の姿を見るや、躍りあがるように立てひざになり、挨拶抜きで
 切り出した。
 「昨年暮れに幕府の出したバテレン追放令が、今日早暁、高岡の大殿からの早馬で金沢
 の殿のもとに届けられたのじゃ」
 右近は書を開いて見た。
・「激しい文面ですな。かつての秀吉公との差異は、バテレンのみならず、宗門そのもの
 を邪法としているところですな。パードレ方だけでなく信徒にも信仰を捨てよと迫る、
 きつい御達しです」 
・来るべきものが来たと思った。予想していた強風が吹き出したため、かえって暗雲が払
 われて見通しが利き、覚悟も定まっている。
・「ところで」長知は身を乗り出し、ちょっと言いにくそうに切り出した。
 「ルチアをどうするかじゃが」
 右近ははっとした。本人じきじきの来訪理由であったと気づいたのだ。
・もし自分が追放となれば、明石の場合のように妻ジェスタは自分に従うと明言していて、
 その点は定まっている。もし士分でない太郎右衛門が追放をまぬがれたとすれば、孤児
 である孫たちを託すればよかろう。しかし、祖父母を慕っている彼らを捨てて旅に出ら
 れるかどうか、もしも全員処刑の仕置きとなったときに彼らを巻き添えにしてもいいも
 のか迷っていた。しかし嫁いだ娘のルチアは考慮の外にあった。 
・年寄りの嫡男の嫁が邪宗門徒であることは、金沢藩では周知の事実であり、到底隠しお
 おせるものではない。夫に迷惑をかけないため、ガラシヤ秀林院玉子の方のように自裁
 する道もあるが、右近は信者の自裁については反対の意見である。武士の妻としてはガ
 ラシヤの死を天晴れて認めても、キリシタンとしては自裁は主にそむく道だと心得てい
 るガラシヤの死をキリシタンまでが褒めそやしているのが不審でならない。
・すぐさま、ジュスタにバテレン追放令の出たことを伝えた。
 「余に何の御咎めもないとは予想できない。おそらく金沢を退去するか、ここで処断さ
 れるかであろう。いずれにしても、身辺を整理して、いつでも旅立ちができるように準
 備をしておけ」
・「すでに準備はできております。お前様の御出になる所でしたら、どこへでも参ります」
 と妻はきっぱりと言った。
 「どこへでも」とはむろん天国であろうともという意味と右近は取り、
 「これは、言わずもがなのことであったな」
 と改めて妻の晴々として顔を見た。
 彼女は摂津余野の黒田氏の娘で、十八歳の右近の嫁いできたとき十四歳、すでにジュス
 タという霊名を持つ熱心な信者であった。
・天正十五年(1587)のバテレン追放令によって右近は明石の所領を失い、流浪の旅
 に出た。まずは博多湾の小島、ついで信徒大名小西行長領だった小豆島、行長公が肥後
 に移封になると肥後と、ジェスタとともに転々とした末に、前田利家公に拾われて金沢
 に来たのである。高槻や明石での城主生活から、追放、迫害、流浪の旅を、夫婦はとも
 に過ごしてきたのだ。このたびの幕府のバテレン追放令も、二人にとっては、もう慣れ
 っこになっている事態とも言えた。
・右近は思う。無一物となって金沢に来た。いまさら無一物になっても平気である。度重
 なる合戦では、その都度死を覚悟して、思うかぎり戦ってきた。今、禁教令で死罪とな
 ったとしても、命をデウスにお返しするだけで、別に何の恐怖もない。
横山康玄夫婦が赤ん坊の胤長を抱いて待っていた。若夫婦は右近に新年の挨拶をした。
 康玄は二十五、ルチア二十四、慶長八年(1603)に連れ添ってより十年の余を経た
 が、赤ん坊はまだ生後まもない。
・「父にも申しましたが」と康玄は、一瞬ためらいを吹っ切るようにはっきりと言った。
 「妻と拙者は同体でございますれば、妻が信徒であることを隠し、すなわち御禁制を無
 視しても、今まで通りの暮らしを続けたい存念にてございます」
 「それは父上より伺った。それについてルチアの存念を聞きたい」
・そう言われてルチアは顔を赤らめた。父と夫の前で自分の重大な存念を述べるというこ
 とに緊張し汗ばんでいる。母の緊張が伝わったであろう、赤ん坊がむずがるのを康玄が
 抱いた。ルチアは幾分震える声で答えた。
 「御主事様とは離別し、他人となり、父上とともに殉教の道を歩みとうございます」
・「それは余の存念とまるで違うではないか」
 と康玄は驚いてのけぞった。
 その様子から察すると、まだ二人の間でこの問題について合意が成立していなかったよ
 うである。  
・「貴方様の妻がキリシタンであることは、御詮議ですぐに明らかになりましょう。家中
 の者もご近所もみな知っておりますし南蛮寺に出入りしておりましたことは多くの人々
 が目撃しておりましょう。わたくしがキリシタンであるとなれば、貴方様も御疑いを掛
 けられ、横山の御家にとって大事となります。ここは離別して、何もなかったことにす
 るのが最良の解決でございます」
・ルチアが憐れであった。同時にその信仰の形を美しいと思った。
 娘のことらに送ってくる明るい視線、晴れ晴れとした気色が、父の心を決めた。
・右近は妻に娘の別離を伝えた。さすが母は、「不憫な子でございます」と目頭を押さえ
 た。 
 「不憫じゃのう」と右近は言った。「しかし見事な決心だと思わぬか。われらの育て方
 は間違いではなかったのじゃ」
 「ほんとに・・・」と妻は涙を拭った。
 
雪の北陸路
・横山山城守長知が、このたびは前田利光公の正使として駕籠で行列を組み、乗り込んで
 きた。書院の上座に坐った長知は、家臣を従えて平伏する右近に上意として幕命を伝え
 た。
 邪法を弘め正宗を惑わす高山長房を妻子眷属ともども一両日中に金沢より京に護送し、
 教徒所司代板倉勝重い、身柄を委ねよとの厳命であった。
・「一つ伺いたいが」と右近は親しげな口調で尋ねた。
 「”妻子眷属”とあるからには孫たちも免れ得ぬと解すべきか」
 「その点は城内議論もあったが、血を分け士一族全員という意味であろうから御孫たち
 も含まれるであろう」  
 と長知は顔に苦渋をまじえて答え、「むごいことのよのう」と長く吐息を伸ばし、暫時
 あって慰めるように言った。
 「弟御の太郎右衛門殿は妻子眷属に属さぬべしと、これは本多安房守の意見じゃ」
・弟の無事を喜ぶと同時に幼気な孫たちを連れて行くことに憐みの情が動く。
・越前平野を横切り、かつて利家公お居城のあった府中に差し掛かり、町内の、とある茶
 屋で休息となった。縁台に一人腰を下ろしている右近に、土瓶を持った怱兵衛が近寄っ
 て、熱い茶を召されませと言った。それから急に声を落として、殿に打ち割りてお話し
 たき秘事がございますと言った。  
・怱兵衛は一段と声を低め、しかし陰に籠る迫力で言った。
 それがしの父は、ここ府中の百姓にて一向衆でございましたが、車割きの刑にて果てま
 した」 
 「そうであったか」と右近はうなった。
・怱兵衛の祖先が越前の出であるとは聞いたが、一向衆徒であったとは初耳である。
 二十数年前、府中の領土であった利家公が一向一揆の残党に対しておこなった酸鼻を極
 める刑罰は今でも庶民の間でひそやかな語りぐさになっている。斬首焚殺はもちろんの
 こと、車割きや釜茹でなどの極刑がつぎつぎに執行されて、千人ばかりを惨殺したとい
 う。初代領主の蛮行であるから士分の者の間でこの話は御法度であったが、百姓町人の
 あいだでは公然の秘密であり、それはかれらの領主に対する畏怖の念となって現在も尾
 を引いていた。怱兵衛が一向衆徒の子であったとすれば、彼の心の底には前田家への怨
 念が潜んでいるはず、むろん、そんなことを口にしたことはないにしろ、彼が受洗した
 動機に、前田家家臣に多い臨済曹洞や天台真言への反発があったことは推測できた。

湖畔の春
・京都所司代板倉伊賀守勝重は、右近らの仕置きについて駿府の大御所の最終命令を待っ
 ていた。その命令は、おそらく三つで、まず坂本において斬首の刑に処すること、つぎ
 に駿府に移送し見せしめとして磔刑に処すること、最後に一行を離散させて改宗を迫る
 ことであった。
・右近は金沢を出立したときから、前二つの処断については覚悟していたし、殉教の心得
 について機を見て身内の者には論してきたつもりである。しかし、江戸や有馬で現に起
 きている残酷な処刑の事実や、長崎の集団殉教について、パードレ・クレメンテから聞
 いた実情、とくに十字架上で三木パウロの行なった説教、その直後の槍による惨殺など
 の情景については、具体的にみなに告げるのが躊躇された。ジェスタ、ルチア、十太郎
 あたりは彼の話の真意を理解できるかも知れぬが、年歯も行かない孫たちはどうか。
・ところで、現在、右近が、もっとも恐れたのは、大御所の意向が第三の処断に傾くこと
 だった。幼い子らは、じじやばばが神様を捨てたという偽りを言われたとしたら、どの
 ようにおのれを守れるであろうか。もし、誰かが敵の術策にはまって棄教でもしたらそ
 の者こそ不憫であり、それを阻止しえなかったおのれは主に対して申しわけない。
・「殿、京都所司代の御名代が参り、お上のお達しを下達するので、キリシタン一同、即
 刻本堂に参集するようにとの出羽守様の仰せでございます」
 右近は立ち上がった。夢から覚めて心が定まらぬためか足元がふらついた。が、二、三
 歩で腰が定まった。
 居室では、みながあわてて着替えをしている。右近はいつ呼び出されてもいいように装
 いを整えているので別にすることはない。みなの用意ができるのを待って、如安と並ん
 で先頭に立ち全員を引き連れて本堂に行った。
・「・・・国法を軽んじ、邪宗を改めず妄信する高山長房、内藤忠俊、内藤好次の三名を
 長崎に放逐致すべし。ただし、婦女子は京に留まるを差し許す。また、向後、従者の同
 行は一切まかりならぬ」 
・使者が帰ると出羽守は囚人たちに、明日早朝に坂本を立ち、陸路十五里を大坂まで向か
 うこと、途中女と子供は京にて釈放すること、なお従者は明日解き放つゆえに早々退散
 すべきことを告げた。
・右近はジュスタとルチア、ならびに孫たちを呼び集めて、あす京において別れる、長の
 旅の道連れご苦労であったと言った。
 するとジュスタとルチアは、右近とどこまでも行をともにすると答え、十太郎も同じ意
 志を、はっきりと言った。右近はせめて孫たちだけでも京で解き放してもらい、京の知
 人にあずけようと思ったが、孫たちは一致して十太郎に同じ、末の童女などおじじ様と
 お別れするのはいやだと激しく泣く始末だった。右近は、やむなく、全員を同伴するこ
 とに決心して、そのむねを出羽守に告げた。
・「これは幕府の秘事で内々に願いたいが、京で十五人の比丘尼が貴殿たちと一緒になる
 手筈です」
 「内藤飛騨守殿の妹御とその一派の女性たちと聞いています」
・「なるほど」右近はすぐ事情を察した。
 如安の妹ジュリアは京において女性の修道会を作っていた。もともと仏門の人で、兄飛
 騨守の寄進した小寺に住み、尼僧として声名高かったが、齢四十を過ぎてからキリシタ
 ンを改宗し、その後は京の女たちに働きかけて、豪姫を始め多くの人々に信仰を広めた
 ため、今度のバテレン追放令によって異国のパードレたちと同じ危険な存在と見なされ
 たのだ。 

花の西国路
・安治川左岸の川口波止場に着いた。
 京都所司代によって借り切られた船宿にパードレやイルマンが詰め込まれていて、異人
 たちの醸し出す体臭や皮革や香の匂いが川風に乗って流れてきた。
 右近たちの一行は、こういう異人たちのなかでは例外らしく、彼らの好奇の目がこちら
 に集中してきた。
 右近たちが追い込まれたのは簡単な矢来のなかで、そこに十数人の女たちがいた。その
 中から老女が進み出て、役人の許しを得ると内藤如安に近寄ってきた。如安の妹、内藤
 ジュリアであった。矢来の中とて役人たちが大目に見てくれたので、右近たちはジュリ
 アを始め修道女たちと自由に話すことができた。
・内藤ジュリアはジュスタやルチアと親しげに話した。
 妻も娘も内藤ジュリアとは初対面であるのに、そしてルチアは人見知りする質であるの
 に、はなからのこの打ち解けように右近は驚いた。
 それは内藤ジュリアの誰に対しても親しげに話しかける、柔かな人当りのせいだと思わ
 れた。 

長崎の聖体行列
・1614年6月 長崎にて
・私たちは舟に乗せられ、都を北から南に流れる鴨川を下ったが、六条河原なる罪人の処
 刑場のそばでは橋の上のおびただしい見物人が邪宗の坊主どもとして嘲罵を浴び、さら
 に南の伏見まで下ったとき、この地の伝道所のフランシスコ会の人たちも船においこま
 れてき、かくして満員の船は淀川を下り、かつて秀吉大王に謁見するために天正遣欧使
 節たちと遡った川を、かつての盛事を悲境のなさかで追想しつつ下り、川口の大坂港に
 着くと、全員が旅籠に監禁された。
・ここで私はシュスト右近と一緒になり、彼らが私とエルナンデス修道士が金沢を出発し
 てから三日後に金沢を発って、都の東にある大きな湖のほとりに二十日間とめおかれた
 話を聞き、さらにベアタス修道会を結成している都の修道女たちや身分の高い教徒たち
 に会い、都の情勢を逐一知ることができた。長崎送りになった人々の数が多かったため
 船は七艘が必要となり、さらに警備隊の兵士を乗せた二艘を加えて大坂を出航したのが
 四月初めの日曜日の朝で、多くの島のある内海を通り、九州島の北側をめぐり、西側に
 ある長崎についたのは、約一月の船旅の末であった。
・イエズス会士たちと挨拶を交わしている私をじっと見守りながら遠慮深げに脇に退いて
 いたけれども、明らかに私に話かけたくて瞳を輝かしていた。
 イエズス会の司祭服をきた二人の日本人の視線を私は感じていて、どこか見覚えのある
 顔立ちを横目で見ているうちに、彼らが天正遣欧使節の二人、原マルチノと中浦ジュリ
 アンであると気付くや、私は駆け寄り、二人をこもごも西洋風に抱きしめたが、四十代
 半ばの中年男となっていた二人は、少年のように涙を流して私の抱擁に応じてくれた。
 原マルチノはヨーロッパで身につけた印刷の技術を役立たせ、現在、メスキータの助手
 としてサンティアゴ病院付属の印刷所で働いているそうだ。
 原マルチノが密室に籠る学究ないし技師らしく、青白い顔色なのに、中浦ジュリアンは、
 赤銅色に日焼けして勝利のような風貌になってい、島原、天草、肥後、つまりこの辺り
 の国々を巡って伝道司祭として活躍してきたと語ったが、相変わらず口が重くとつとつ
 として語る口吻に説教で鍛えられた力強さが備わっていて、彼の話の真実味を強く感じ
 させた。
 彼らと伊藤マンショの三人は天草河内浦のイエズス会修練院でイエズス会に入り、その
 後マンショとジュリアンはマカオで三年間の修道士生活を送って帰国し、六年前、マン
 ショ、ジュリアン、マルチノと三人揃ってセルケイラ司教によって司祭に叙階されたの
 だが、伊藤マンショは、二年前、病に倒れて帰天したという。
・ふと、千々石シゲルの消息を尋ねたところ、二人は見る見る困惑と躊躇の表情を見せて
 顔を見合わせ、やがてジュリアンが決心して友人の運命を物語ってくれた。
・河内浦の修練院までは四人は一緒に勉学し、ミゲルもイエズス会で認められ、評価され
 た生徒だったのが、なぜか教えを捨ててしまい、俗名、千々石清左衛門となってサンチ
 ョ大村喜前王に仕えたところ、喜前王が信仰を捨て日蓮宗に改宗してからは、元教徒の
 経歴が災いして刺客に襲われ、一度は重傷を負い、ついに領内から追い立てられ、居所
 不明になったという。
・ジュスト右近とは金沢でのよしみから、よく会っていたが、最近、病院で働きたいと申
 し出てき、この意外な申し出に驚いている私に彼が言うには、彼の父ダリオ飛騨守は医
 術の心得があり、とくに眼病の治療の手腕があったそうで、彼も父よりいろいろと薬草
 や傷の手当の法を伝授されたのだそうだ。 
・人手不足に悩んでいた私は、喜んで彼を受け入れたものの、彼ほどの高位のサムライが
 果たして、病者の世話ができるのかどうか危惧したのに、彼は本気で、まず選んだのが、
 癩舎、なんと彼のような生まれつきのサムライが、手足の崩れた病人に大風子油を塗っ
 て繃帯をしていく汚れ仕事、すなわち患部の崩れた悲惨な状況と大風子油の猛烈な刺激
 臭を我慢する苦役を引き受けたので、彼の言いぐさでは、自分は昔戦場で数々の血膿を
 見て慣れているし、老人になって臭覚は鈍っていて、この種の労には打ってつけの男だ
 というのだ。
・ジュスト右近が働くようになってから妻のジュスタと娘のルチアも、病院の手伝いをし
 たいと言い出し、彼女たちには癩舎は無理と踏んだ私は、患者の着物の繕いを頼むこと
 にし、するとこの仕事を、ベアタス会の修道女たちも手伝いたいと言い出し、そのうち
 彼女たちは、見様見真似で看護の手助けに手を出し、すべて教養のある上流の婦人たち
 のこと、医学的な配慮もすぐさま飲み込んでくれ、いまは看護婦として無くてはならぬ
 働き手になってくれたので、こうなったのも、すべてジュスト右近の影響によるのだが、
 当の彼ときたら一切に口出しせず、ただ黙々と癩者の世話をしているだけなのだ。
・病院付属の印刷所では、メスキータの指揮のもと、原マルチノが主任技師となって同宿
 数人とともにグーテンベルクの印刷機、ヴァリニャーノ神父が天正遣欧使節とともに運
 んできた文明の利器を使い、すでに十数冊に及ぶ教会関係の書物の出版を行ってき、今
 も行いつつある。
・中浦ジュリアンは、司祭に叙階された直後博多に赴任し、去年まではそこで布教活動を
 行っていたところ、幕府の意向に添って信徒の弾圧に乗り出し黒田長政王が教会を打ち
 壊して宣教師たちを追放したので、長崎に逃れてきて、周辺の肥後、有馬、大村、薩摩
 などの信徒たちの司牧を始め、そのためこれら各地の情勢に詳しく、その実見話はこの
 地方の迫害の実態をまざまざしく知らせてくる。
・キリスト教徒への迫害をもっとも早く、また残酷に徹底的に開始したのは肥後の加藤清
 正王、仏教の戦闘的宗派である日蓮宗の信者で、領内の宣教師を監禁し追放し、キリス
 ト教徒臣下の禄を没収し、そのためこの迫害を逃れてジョアン安内藤如安やトマス好次
 は金沢に逃れて来たのであった。
・清正王は信仰を捨てぬ武士や家族を捕えて入牢、十字架刑、斬首を行い、時には六歳の
 幼児の首まで切る残虐をあえて実行し、死を迎える信者たちは主の御名を唱え、殉教の
 喜びに満ちた顔付きで息絶えたので、なかには、母の首が打ち落とされて血のなかにう
 ずくまった幼児の首を切るのに、役人たちが躊躇しているあいだ、幼児は、おとなしく
 首を垂れて待っていたというエピソードもあり、結局、清正王は死刑を執行すればする
 ほど殉教者の栄光が増していく事実に気づき、教徒武士に放逐する挙に出、かなりの武
 士がこうして有馬や大村に逃れたのだ。
・長崎のすぎ近く有馬では、遣欧使節千々石シゲルを送った教徒プロタシオ有馬晴信王の
 死後、その後ミゲル直純王が所領四万石を継いだが、彼は、家康大王の養女国姫を妻
 としてから、国姫の後見役であった長崎奉行長谷川左衛門の圧力もあって棄教し、禁教
 政策を励行しだしたところ、領内の信徒の抵抗が強くて、はかばかしい成果を上げえず、
 そこで浜辺で見せしめの火刑、柱に八人の男女、中には十一歳の少年や十八歳の少女も
 いたが、を縛り、薪に火をつけたので、ゼスとマリアの名を唱えながら殉教者は死んで
 いき、二万人の信徒が祈り、まだ燃えきらぬ殉教者に抱きつく人もい、役人たちは、信
 者の熱狂を抑えることができず、結局、直純は教徒撲滅に失敗し、その失態のため領地
 を取り上げられ、延岡に移封されてしまった。
・遣欧使節を歓迎したサンチョ大村喜前王は、大村に大教会を建てるなど布教にも協力し
 ていたが、親しい加藤清正王の影響を受けて肥後から法華経の僧を招いて仏教寺院を建
 て、領内の教会を破壊しイエズス会士を追放し、その嫡子バルトロメオ純頼王も棄教し
 て、教徒弾圧を行っており、これら背教の王たちのあさましい所業にはあきれるばかり
 だが、これが世の常なのであろう。

キリシタン墓地
・教会の裏手に墓地が広がっていた。一直線の石の道が墓の群れを整然と左右に分けてい
 る。南蛮文字で墓碑が書かれたポルトガルやスペインの宣教師の墓が多い。漢字のもの
 もあるが少ない。
・長崎代官「村山等安」は、勝手知った場所と見えて、迷わず入り組んだ脇道に入ってい
 く。
 右近は、狐のように素早く移動する等安を息を切らして追っていた。
・「これでございますな」とある墓の前に足を止めて振り返った。
 十字の形に刻んだ石の小さな墓である。ダリオ飛騨守は1595年に京都において帰天
 し、遺骨が長崎に起きられてきた旨の墓誌がポルトガル語で書かれてあった。
 右近は手桶で運んできた水で墓石を洗い出した。
・かつて大和、沢の城主であった父は何事にも一途に徹底する武将であった。当初は熱心
 な仏教徒、日蓮宗か禅宗かを右近は知らないが、ともかく仏教の教義に精通していて、
 キリシタンを危険な異国の神と見て排斥していたが、あのパウロのように急に回心した
 のだった。右近はなぜ父が急激な回心を遂げたのかを聞かされていない。 
・主君のために命を捨てるのは武士の誉れで、右近もその心得を教えられ納得していた。
 が主君に限らず、どんな人のためにも、たとえ下々の領民のためや、貧しき者のために
 も、おのが命を投げ出すことこそ真の栄光だというのは、ぱっと光り輝くような新鮮な
 教えであった。
・当時、若い右近の信仰は浅く、信仰よりも南蛮異国の珍しい風物に興味があり、とくに
 ポルトガル国の不思議な響きの言葉に引かれていたのも事実である。ロレンソからポル
 トガル語の手ほどきを受けた右近は、父が都から沢に呼んでくる異国の宣教師たちに、
 臆せず話かけては、実地に言葉の修練を積んだ。とくに、将軍足利義輝が惨殺されてか
 らは、世界不安で排キリシタンの勢力が強くなり、多くの宣教師がダリオの庇護を求め
 てきたので、その機会が増えた。右近が、こよなき語学教師手としてのパードレ・フロ
 イスと知り合ったのはその頃であった。軽口をたたいて将軍を悪しざまに言い、冗談で
 人を笑わせるのに長けていた。右近は、日常会話言い回しの妙を彼から学ぶことができ
 た。
・これら異国の宣教師たち、南蛮人と多少軽蔑を込めて呼ばれる人々が、実はヨーロッパ
 という西の大陸にする人々であり、船に乗って万里の波濤を乗り越えて日本に来たこと、
 その日本は世界の果てにあり、唐天竺はもとよりヨーロッパなどとは比較にならぬ小国
 であり、この小国の主、日本一とか天下取りなどは、全世界から見れば、まことに取る
 に足らぬ些事であることを、右近は学んだ。
・この村山等安という人物、右近には得体が知れない。武士、町人、百姓、職人という区
 別をはみ出すところがある。元武士だが、異国との貿易で儲けて、長崎でも有数の長者
 となり、町の頭人として幅を利かせ、文禄の役で名護屋に来た秀吉公にうまく取り入り、
 長崎の惣領に任じられた。今は長崎代官の職にあり、江戸幕府の任命した長崎奉行に対
 して、町民の代表として自他ともに許している。
・代官である以上は、彼も大小を帯びて、足軽や中間を引き連れて歩きはするが、一度は、
 土と汗に汚れた臭い百姓の風体で歩いてい、向こうから声を掛けられて初めて相手が等
 安だと知って驚かされた。つい数日前は、右近が路上で出会った黒い司祭服のパードレ
 二人に挨拶したら、その一人は東南の変装姿で、もう一人は彼の息子の教区司祭フラン
 シスコであった。
・噂では代の艶福者で、この屋敷には何人もの若い女を囲っているし、町内各所にも女を
 置いているという。そのくせ敬虔なキリシタン、アントニオ等安であり、教会では妻ジ
 ュスタや長男徳安を始め受洗した息子や娘に取り巻かれて、祭壇近くの上席に着く。
 こういうときは南蛮渡来の飾り服をつけて小球帽などかぶっている。父の横にいる徳安
 は剃髪して坊主然として目立ったが、彼はロザリオ会頭として貧しい者への食事や宿の
 世話に献身する人物として知られていた。
・等安の評価はパレードの間でもいろいろである。方々の教会に気前よく財貨を寄進する
 のを説くとして誉めそやす人、その女出入りの激しさを嫌悪してヘデロのような悪人と
 見なす人、派手な服装や聖体行列での極端な振る舞いを見て偽善者呼ばわりする人、と
 くに等安が鷹のキリシタンで実は幕府側に通じている隠密だという人もいる。

遣欧使節
・右近の体は錆びついたように動かなくなった。あの雪の山中での疲労の極とそっくりの
 金縛りの状態である。ちょっとかがむと患者の上に倒れかかってしまい、一歩進むのが
 やっとの有様、それに目がかすんで手先の物がぼやけて見える。
 同宿や小者たちが、まだ平気で仕事を続けているのを見ると、自分が老体の衰えを来し
 ているのを思い知らされた。近頃、肉体の衰えはひどく、坂道を登るのが難儀だし、少
 し遠出をすると膝が痛むし、細かい仕事をしたときに目が疲れて対象が霞んでしまう。
 仕方なく休憩を取ることにして癩舎を出た右近は、ジュスタとルチアがいる裁縫室の隣
 の小部屋に入って、板敷きの上にごろりと横になった。すぐルチアが立ってきて自分の
 羽織を取って掛けてくれた。
・病院の方角が人声で騒がしくなった。
 急病人でも入ったのかと思っていると、パードレ・中浦ジュリアンが足音高く現れた。
 最近も近隣を巡って布教に従事している人らしく、まっすぐマルチノの前に近寄り、押
 し殺した、しかし鋭い声で言った。
 「千々石シゲルを連れてきた。道で物乞いをしている瀕死の病人を見つけて、手当てを
 してやろうとよく見るとミゲルだった。弱り果てている。今、クレメンテ先生が診てく
 ださっているが・・・」
・「それはただごとならぬ」とマルチノは言い、印刷を中止して、黒油を落とすため手を
 洗い出した。そのとき、ジュリアンは右近と怱兵衛の存在に気づいて黙礼した。
・四人は病室に急いだ。知らせを聞いた修道女や同宿が途中で加わった。
 屍体が腐ったような悪臭、右近には戦場でお馴染みの臭い、が部屋に満ちていた。垢で
 ひび割れた病人の顔には卑屈な乞食の表情が貼りついていた。肛門のような口からは、
 わずかに残った歯が黒々と不潔な息にまみれていた。息はあるのだが、その目は何も見
 えず、その耳は何も聞いていない様子、ジュリアンが、何度も叫ぶと、やっと「お慈悲
 でござえます」というしゃがれ声が地を這った。クレメンテが眉を曇らし、南蛮人特有
 の仕草で肩をすくめたので、病人の見立てが絶望だと人々に伝わった。マルチノは旧友
 に近づき肩から腕をそっと撫でた。衣の中の骸骨のような腕があらわになった。マルチ
 ノの頬に涙が光った。 

追放船
・「おそらく、今日明日中に奉行所の捕手が到着するであろう。一同はすでに身辺の整え
 を終えられたと存するが、これからが正念場と観念し、一糸乱れず進むのみ。われらは
 遠きルソンに配流と定まりおれば、あとは航海の無事を、デウスとキリシトにお任せあ
 るべし。一言老婆心からの蛇足を申しました」
 言い終わるとすぐ、右近はおのれの高言が恥ずかしくなったが、ルチアが輝かしい目で
 頷き、内藤ジュリアと修道女たちが一斉に頭を下げて去って行き、如安と好次が今のお
 言葉お見事というように会釈して教会を出て行ったので、心慰められた。
・奉行所が挑発した五隻の船のうち三隻はマカオに向けて前日に出発していた。残る二隻
 のマニラ行きのが波止場に横付けされていた。一隻は代官村山等安の持ち船で、唐人の
 ジャンクを改造したもの、もう一隻の大きい方がステファノ・ダコスタ船長のスペイン
 船、船体の傷や帆布の汚れ具合から推すと大分古ぼけた船で、こちらに右近たちは乗組
 むよう命じられていた。
・右近は、陸地が水で薄められたように白藍色となって、やがて海に溶けて行くさまを眺
 めていた。自分の歳では、もう二度と見ることの望めぬ故国である。樹木の種子が偶然
 落ちて育つように、この島国に武士として生まれ育ち、武士である野望である領国と富
 と栄達を追い求め、途中で人生行路を逆転させ、今度は進攻の光を追い求めて、つまり
 おのれは絶えず何かを追い求める人生を送って、草木が枯れていくように年老いた。
 いま、おのれは島国から根こそぎ抜かれて身すらぬ異国へと運ばれていく。おお、一点
 に凝縮していく小さな島国、故国は遠ざかっていく。あの島国を支配するために蝸牛角
 上の争いをして信長、秀吉、家康と三代の余が入れ代わった。これからも入れ代わって
 いくであろう。
・ところで、一生かけて追い求めてきた何かは、これまでひとえにあの国のためであった。
 その故国の土を払われたおれには、もはや何かを追い求める余力はなく、人知れぬ死を
 迎え、故国の人々から忘れ去られてしまう運命のみが待ち構えている。右近はついに消え
 た島影から暗くなった海に視線を移した。
・船酔いに苦しめられた。さしたる上下動ではないのだが、ふわっと持ち上げられ、すう
 と落とし込まれ、足元が頼りない。まずルチアと幼い孫たちがへこたれて苦しみだし、
 続いてベアタス会の修道女たちの気色がすぐれなくなった。年の功か、ジュスタと内藤
 ジュリアが元気で、なにくれとなく看病に当たる。大坂から長崎までの船旅の経験で、
 右近は各自に小壺を用意させておいたのが役立った。
・食事も難事であった。残飯のこびりついた茶碗、砂の混じった粥、カビだらけの南蛮煎
 餅、悪臭を発する干魚、塩辛い水、そういった食べ物を口に入れねばならぬ。気色悪が
 る者、さらに船酔いで食思のすすまぬ者は急速に弱っていくので、励まして無理にでも
 食べさせた。
・さらに用便が問題であった。男たちは桶を嫌い、命綱を付けて舷側から尻をつき出して
 用を足したが、そうもできぬ女たちには非常に試練であった。周囲を布で囲い、中で桶
 にまたがるのだが、音と臭気は防ぎようがない。当初ルチアが腹痛で苦しんだのは、羞
 恥のために排便が我慢しすぎたせいであった。
・が、やがて人々は、こういう生活にも馴れてしまった。ジュスタとルチアはベアタス会
 の修道女たちとともに書物を読み、聖歌を唄い、祈祷をとなえた。
・粗末な食事や窮屈な生活にも、絶え間ない上下動にも、人々は慣れて行った。運動不足
 を解消するために交代で甲板を散歩することも、バードレたちと日本人たちとの話し合
 いで実現した。宣教師と信者には同じ迫害に耐えて旅をしているという連帯感があった。

迫害
・1614年12月 雲仙の山中にて
・追放令実行の総指揮は、上使山口駿河守直友と長崎奉行長谷川左衛門藤広で、教徒の尋
 問は使番間宮権左衛門が管轄していた。彼らは近隣の諸王、大村純頼、有馬直純、佐賀
 の鍋島勝茂、豊前豊後の細川忠興、それに薩摩の島津家久に指令を飛ばして、総勢一万
 の兵士を集めたのであるが、教徒が武力で反抗しないことを知っていたのにこれだけ
 の大軍を招集したのは、万一のための用心よりも、家康大王の威光を示して民衆を威嚇
 することを目的としたからだと私は思う。
・なお、細川忠興の女房ガラシヤは教徒で、敵に囲まれたとき自害し、また彼自身はキリ
 スト教に理解があり、高山右近の親友でもあったのに、今や切るスト教徒弾圧に加担せ
 ざるを得なくなったのだ。
・教会と関連施設の破壊を完了した駿河守と左衛門は、追放船の出航後に、ついに軍勢に
 動員をかけて長崎周辺の教徒攻略を始め、みずからは肥前鍋島王の軍勢を率いて島原半
 島の南端、有馬を襲った。
 有馬で教徒弾圧が行われている間に、私たちは半島の中央部の山岳地帯に逃れたが、こ
 れは正しい判断で、というのは、半島の東側に侵攻してきた薩摩の島津軍は、あまり熱
 心に左衛門の命令を実行しようとはせず、攻撃の前に教徒に立ち退くようにと触れを出
 して、人々には山中に逃れる余裕が与えられたからで、無人の村々に進軍してきた薩摩
 勢は、この地方にはもはや一人の邪宗門徒も存在せずと駿河守と左衛門に報告したのだ
 った。
・しかし、半島の南端、有馬に陣屋を構えて総指揮を執っていた駿河守と左衛門は、権左
 衛門に残酷な拷問による威嚇を行わせ、乙名と呼ばれる村の長老たちを集め、棄教を命
 令し、従わなかった者の足の骨を砕き、指を切り落とし、鼻を削ぎという拷問を加え、
 それでも棄教しない者、三十人余を斬首の刑に処した。
・教徒追放について長崎代官アントニオ等安は表向き協力していたが、追放船が沖に出て
 役人の視界から外れると小舟三隻を繰り出して、数人の宣教師を連れもどし、潜伏の手
 助けをしたという話が信者の連絡網を使って私たちの元にも伝わってき、ジュリアンと
 私とは孤立しているわけでもなさそうだ、いずれお互いの連絡を取って、布教活動の組
 織を作ろうと、二人はすこぶる勇気づけられたのである。

城壁都市
・ルソンの陸地を見、マニラは近いと告げられてから、かれこれもう五日、船はのろのろ
 と岸に沿って進んでいる。いや、時として無風や逆風にいたぶられ、停船を余儀なくさ
 れる。この有様では目的の町に、いつ着けるのか、おぼつかない。
・とある港にて補給してから食糧は急に豊富になった。焼き立ての南蛮煎餅、それに新鮮
 な野菜、隠元豆、芋、バナナ、度肝を抜かれたのは焼き肉が出たことだ。豚か鹿か牛か、
 猛烈な獣の匂いに辟易して誰も食べられなかった。パードレたち、船員たちは平気で獣
 肉を食している。右近は日本人は肉を好まず、魚を好むのだと料理人に説いたところ、
 今度は先方が驚いた。彼は日本人に対する好意として肉料理を奮発したつもりであった
 のだ。献立は油炒めの魚や海老や蟹に変わった。
・飢えと渇きが癒され、一同、元気を取り戻した。肌を拭い、干した着物を着、女は化粧
 した。子供は活発に遊んで歓声をあげた。修道女は清潔な黒衣に身を固めて祈り、右近
 と如安は読書にふけり、好次は書き物に精をだし、パードレは交替で日本人のために懺
 悔と聖体拝領のミサを立てた。長い苦しい航海の末に、人々はようやく平安な日常に立
 ち返った。
・翌々日の朝のこと、甲板が騒がしいので右近が出てみると、まぶしい朝日を一杯に浴び、
 輝かしい白い帆を膨らませ波を蹴立てて晴れ晴れしく、大型船が近づきつつあった。
 ガレウタ船である。村山等安の所で模型を見たことがあるが、実物は初めてであった。
・ガレウタ船から小舟が下ろされた。数人が乗り込む。やがてこちらに向かって漕ぎ出し
 た。モレホンとヴィエイラが立っている。二人はこちらの船に登り、すぐ右近と如安に
 近寄ってきた。
・「フィリピン諸島総督が右近殿と如安殿がわれわれの一行にいると知り、大層喜び、大
 歓迎したいと張り切って、ガレウタ船を迎えに寄越したのです」
 「右近殿の名前は、マニラでは有名です。日本のキリシタン大名の代表であり、秀吉大
 王と現在の家康大王のバテレン追放と迫害の時代に信仰を守って生き抜いてきたことに
 敬意を覚え、ぜひともマニラ全市をあげて歓迎したいと言っているのです」
・「それはかたじけないし、名誉なことですが、拙者はそのような歓迎に値しない」
 と右近は言った。
 「ひっそりと上陸して、どこぞの片隅に隠れ住まわせていただければ十分満足です。
 総督には丁重にお断りしていただけないだろうか」
・「右近殿」とホレモンは口を出した。
 「日本のキリシタンとはいかなるものかを総督始め、マニラの人々に知らしめる、よい
 機会が来たのです。マニラには日本人が大勢いますが、金儲けしか関心がない無知な商
 人や倭寇を働いてきた無頼の連中ばかりで、人々は日本人に対して偏見を抱いています。
 日本人の名誉のためにも、キリシタンのためにも、総督の歓迎をお受けください」
・右近は考えた。異国に来て、異国の習慣に慣れぬうちは異国人の要請に従うのが道であ
 ろう。
 「分かりました。総督の仰せ通りにいたしましょう」
 右近やようやく合点を返した。
・ガレウタ船がこちらの船を曳航してマニラに向かった。上陸が近いというので、日本人
 たちは体を拭い、衣服を着替え、髪を結い直した。総督の贈り物のなかには、真新しい
 着物や美しい拵えの日本刀があり、右近の孫や好次の息子まで武士の身形を整えること
 ができた。 
・マニラの町が近づき、絵画や書物の挿絵で見た異国風の城がそそり立っていた。
 都市の細部が見分けられてきた。城壁に囲まれた中に、教会や宮殿や病院や多くの家々
 が並んでいる。つまり城撃の中に町ができているのだった。
・突如、ガレウタ船が大砲を撃った。轟音と白煙に驚いて日本人たちがどよめいた。
 すると城壁都市も一発を撃った。右手の要塞からも一発。これが貴賓を迎える礼砲だと
 右近は察した。城壁前の砂浜や宮殿のバルコニーは人々で一杯であった。
・右近たちは小舟に乗って砂浜に着いた。海岸には槍を立てた儀仗兵が並び、フィリピン
 人の召使を従えた貴族たちが待っていた。
・階段を登り詰め、宮殿の大広間、天井が高く、無数のギヤマンがきらめく、明るい空間
 に踏み入ったところに総督、全植民会議員、マニラの有力者が待っていた。肉付きのよ
 い偉丈夫の総督は一同より数歩前に進み出、いきなり右近を抱き締めた。こういう挨拶
 を交わしたことがない右近は面食らったが、慎み深く、抱かれたままじっとしていた。
 強い香料の香りがした。戦陣におもむく武将が兜に香を焚き染める習慣を右近は思って
 いた。そして総督が武人として最大の敬意を右近に表している事実は理解できた。総督
 の歓迎の辞に対して右近はスペイン語で謝辞を述べた。総督は親しみを込めた微笑みで
 応じた。
・階段下には馬車が数台用意されてあった。ここでちょっとした行き違いが起こった。
 最も豪華な総督用の馬車に右近と如安が導かれたあと、ジュスタと如安夫人も乗るよう
 にと言われたのだ。ところが、彼女たちはすでに別な馬車に乗っていて、こちらに招い
 てもその馬車から降りようとしなかった。夫婦が一緒の馬車に乗り込むなど日本人の習
 慣として恥ずかしくてできなかったのだ。出発が遅れてしまうので、右近は馬車を降り
 て、二人の夫人を迎えに行った。彼女たちは羞恥で赤くなって夫の隣に腰かけた。
 すると、沿道を埋めている群衆が期せずして拍手を送って歓迎の意を示してくれた。
 右近は二人ににっこりと挨拶をするようにと注意した。二人の女性は緊張した面持ちを
 無理して笑顔に変えた。すると群衆は笑顔で応じてくれた。
・馬車がメトロポリターナ大聖堂の前に来ると鐘楼の鐘が打ち鳴らされた。
 教会前には司祭たちや信者たちが大勢集まっていて、右近たちにうやうやしく挨拶した。
 右近は、ぜひとも教会内に入ってみたいと言った。この国の教会の雰囲気を知りたかっ
 たし、そこで祈りを捧げてみたかったのだ。オルガンの演奏が響き渡った。
 右近は祭壇の前に跪き、祈った。故国を遠く離れて来て無事にこの国に到着できたこと
 を感謝し、故国に残してしてきた信仰者たち、能登の弟や金沢の信者たち、クレメンテ、
 中浦ジュリアン、その他、現在日本に潜入している宣教師たちの無事を祈った。
・ふたたび馬車は進んだ。大聖堂と同じことがサン・アウグスチノ寺院でも繰り返された。
 ついに馬車はイエズス会のコレジヨに着いた。食堂には、大勢の人々が待っていた。
 コレジヨ挙げての歓迎の宴であった。
 日本人の習慣を考えて、肉を除き、主に肴と野菜を使った料理であった。あまりに緊張
 していたためか、疲労のせいか右近は、さっぱり食欲を覚えず、ジュスタを心配させた。
 無理して南蛮煎餅のかけらを押し込み、少量の葡萄酒を飲んだ。が、それ以上食べよう
 とすると吐き気がきた。右近は、左右から話しかけられて、にこやかに応対しながら、
 早く宴が果て、横になって休みたいと願っていた。
・大聖堂を出たときに、右近ははっと胸を突く光景を見た。
 聖堂に入れない、いや入れてもらえなかったフィリピン人たちが闇の中に犇めいていた
 のである。彼らはスペイン人の召使が女中であろうか、割合さっぱりとした服装をして
 いた。もっともスペイン人がすべて絹で着飾り盛装していたのに、彼らは木綿の質素な
 服装であった。大聖堂の降誕祭ミサが征服者スペイン人のためであり、右近たちは客人
 として特別に招じ入れてもらえただけであると彼は気づいた。
 そういえば、この城壁都市の中にはスペイン人と馬はスペイン領となったポルトガル人、
 そして彼らの召使女中と客人のみが住めるので、その他の国々の人々、フィリピン人、
 中国人、日本人、安南人などはすべて城壁の外に追いやられていた。
・総督邸での大宴会には、マニラ中の身分のある貴顕紳士が細君や家族同伴で集まってい
 た。総裁夫婦のそばに、第一の賓客として、右近とジュスタ、如安と夫人も並ばせられ
 た。すでにこの三日間で右近たちの到着と総督の歓迎ぶりは町の耳目を集めていたらし
 く、人々は、愛想のいい笑顔に好奇の目を光らせながら競って近づいてきた。
・ここでも、右近は給仕と召使が全員フィリピン人であるのに気づいた。フィリピン諸島
 はもともと彼らの国であった。そこにスペイン人が征服者として乗り込み、国を奪い彼
 らを召使にしたのだ。右近は日本に来た宣教師のなかで日本人をまるで被征服者と見な
 していた人がいたのを思い出した。
・ある日、総督はモレホンを使者として右近に提案してきた。
 「右近殿は、全財産を失い、今は全くの無収入です。そこで宮廷基金から一定の援助を
 するようにしたい」
・「その御好意はありがたく思うが、辞退させていただく。総督より給料をいただけば、
 当然の義務として、それ相応の奉仕をしなくてはならぬが、それには年を取り過ぎてい
 るし、健康もすぐれません。私の本意は残された余命すべてを神に捧げていきたいとい
 うことです」
・総督は今度はじきじきに乗り出してきて説得を続けた。
 「この援助は御布施として差し上げるもので、むろん見返りの奉仕を期待などはしてい
 ないのです。神に捧げるにしても、お金は必要でしょう」
 「日本から若干の金子は持ってきましたから、質素に暮らすには心配はありません」
・総督は結局説得を諦めた。右近はそのときに思っていた。総督の好意に甘えて、いつま
 でもこうして特権的な客人として城壁都市内で過ごすのは主の御心に添う道ではない。
 フィリピン人や一般の日本人や中国人のように城壁外に土地と家を探さねばならぬ。
 すでにベアタス会の修道女たちは総督の許可を得て、どこかに修道院を建てる計画をし
 ていると聞く、自分たちも、壁の外へ出て、人々への布教にたずさわらねばならない。
 
南海の落日
・城壁の西の端近くに来たとき、すっかり夜は明けて要塞の望楼が朝日に赤く染まった。
 要塞の門に近づくと衛兵に阻止された。槍をこちらに突き出して顎で向うへ行けと示し
 ている。いつもの散歩では経験しなかった警戒ぶりをいぶかっていると、門の奥から布
 を引き裂くような叫び声が聞こえてきた。殺されてゆく動物の悲鳴、あるいは断末魔の
 人の喚きか。衛兵たちはあわてた様子で、横一列になると右近たちをずんずん押して後
 退させた。
・「あれは獄舎からですな」と怱兵衛が言った。
 「昨日、城外に出ました折り、騎兵隊が多数のフィリピン人叛乱者に、鎖の首輪をつけ
 て曳いてくるのに出会いました。鞭で打たれ、槍で突かれて血まみれで、それは悲惨な
 有り様。好次様と見届けたは、連中はあの要塞の中に連れ込まれたことです」
・「殿、この城壁都市のなかは別天地ですぞ。外にいる土民どもはそれは惨めな起き伏し、
 スペイン人は連中を人間とは思っていませぬ」
・「さもあろう」と右近は、沈鬱の度を深めて俯き、独り祈るときのように呟いた。
 「われらも城外に出るべきじゃな。ここでの厚遇に甘えてはならぬ」
・自分が望むのは、もはや通常の生活ではなく、クレメンテが故郷ウベダの聖者として敬
 愛し語っていた十字架のヨハネのように隠遁して沈潜した信仰生活を送ることである。
 それは日本では許されなかった。この国では、神よ、それは許されるだろうか・・・。 
・夕方から変に体がだるく、頭の芯に炭でも熾したような熱と痛みがあった右近は、食卓
 についたとき、少しも食指が動かぬのに気づいた。彼の好物を知っている怱兵衛が市場
 で探し当て手柄顔に見せて、ルチアが塩焼きにしてくれた鯛も、デイラオの日本人町で
 の土産として好次が送ってくれた豆腐と味噌を使った味噌汁も、ちょっと口に入れると
 砂のように味気なかった。
・好次が連絡したであろう。医者が来た。果たして総督の命令できた王立病院の内科医で
 あった。診察の結果を言う段になって、彼は困惑した表情になった。右近は大体を察し、
 助からないのならば、一刻も早く遺言をせねばならぬと思った。ジュスタとルチアと孫
 たちが枕元に集まった。妻と娘は気丈な態度をしていたが、孫たちは正直にすすり泣い
 ていた。
・「私の霊魂のために尽くして下さった司祭がたに感謝します。神が私を呼んでおられる
 ことを感じます。天国から私は祈りましょう。日本に残った司祭たちのために、また迫
 害に耐えている兄弟たちのために祈ります。わが主ゼス・キリシトの御名において、御
 子の御母サンタ・マリアの御名において、みなさんに平安がありますように。アメン」
・「アメン」と大勢が応じた。以外に大勢の人々がいるらしい。闇は濃く、続いて訪れた
 静寂は深かった。右近は、眠ろうと思った。何か大きな手の平の上に載せられている、
 安定した心持で、かれは眠りに落ちた。

遺言
・1626年 山中の洞窟にて
・今隠れているのは、とある山中の洞窟で、これで六箇月のあいだ、真っ暗闇の生活、近
 隣の村には役人が巡回しているし、私ののっぽで高鼻の風貌は隠れのない異人だとして
 目立つから一歩も洞窟の外に出られず、湿気がひどくて、関節という関節に激痛を覚え、
 一歩も歩けない体たらく、やっと動く右手を使って乏しい蝋燭の光で、この手紙を書い
 ている。
・この十年、家康大王が死に、その子秀忠が第二代の大王となり、彼が譲位したので今は
 第三代の家光大王の時代で、三世代にまたがる酷薄なそして執拗な迫害の嵐のなかでな
 んとか持ち堪えてきたのは私の生来の健康のせいだが、さすがの私も年を取り、体力の
 限界を覚えたところに、この湿気地獄で衰弱してきて、私の医学的知識では、自分に確
 実な死が迫っていると診断できるし、それに私の魂を主が呼んでいられる、その叫び声
 に私は喜んで応じ、天国、つまり、お前の真上に存在しようと魂の底から沸き上がる喜
 びでもって祈っている。
・私が長崎の町をオランダ商人に変装して歩いていると、旅姿の男が近寄ってきてヴェネ
 チア・ガラスの杯や壺を売ってくれないかと持ちかけてきたが、その男はすぐに私がパ
 ードレ・クレメンテだと見破り、自分は越後屋の番頭のパウロだと言ったのだ。
 驚いた私が相手をよく見ると、金沢のキリスト教徒で前田家出入りの商人、越前屋ディ
 エゴ岡休嘉の番頭で、彼自身もパウロなる霊名を持ち私の教会の常連だった人だった。
・金沢では武士だけでなく百姓町人も棄教を迫られ、ディエゴ休嘉もパウロも教えを棄て
 た誓約書を提出して生きのびたといい、ただしパウロ自身は今でもキリスト教の信仰は
 抱いていると誓った。
 彼は、私が金沢を去ってからの人々の消息を伝えてくれたが、なかでも私にとって興味
 深かったのは、ジュスト右近と親交のあった家老横山長知と彼の嫡男でジュスト右近の
 娘ルチアの夫であった康玄のその後の運命である。
・大追放のときに、横山長知は、縁戚にキリスト教徒を持つ身が家老職にいては前田王に
 迷惑がかかるという理由で禄を棄てて都近くの山科という田舎に隠棲、康玄も父に従っ
 ていたのだが、主君の大坂出陣を知り急ぎ駆けつけ一兵卒として働きたいと言上したの
 で、王は父子の忠節に感じ入り旧禄を与えて家臣として復帰させ長知には、金沢城留守
 居役を、康玄には王師の侍大将として大阪進攻を命じた。
・金沢で特筆すべきことは、九州一円で起こったような残酷な迫害、磔、焚刑、斬首、拷
 問などが執行されたかったことで、キリスト教徒を擁護した第二代利長王は、1614
 年に死んだが、あとを継いだ第三代利光王も、幕府の御目付役の重臣本多政重の暗々裏
 の圧力や王妃に迎えた秀忠大王の娘への配慮から江戸の徳川政庁の意思に従わざるをえ
 ず、キリスト教徒に棄教を迫りはしたが、従わぬ者は、”押し込み寺”とでも言うべき
 仏教寺院に隔離幽閉し、表向きは仏教者だが内実はキリスト者であることを許したので、
 こういう温和な対策は横山長知の尽力によってなされたともっぱらの噂だそうだ。
・大坂戦争における奇妙な出来事は、ジュスト右近と親しい茶人であった古田織部という
 家康大王の子秀忠大王の茶の先生、大王の茶の先生と言えば日本では大変に有名で大き
 な権勢ある人物が、豊臣方に内通したかど、すなわち反逆の罪で、戦争後、1615年
 に死刑に処せられたことだ。
・もっとも私を悲しませ、また深甚な感銘を受けたのは、日本における代表的なキリスト
 者であり、私が敬愛する知友であるジュスト右近の死とその死を悼む人々の心からなる
 葬送のいとなみであった。彼はマニラにおいて、フィリピン諸島総督ファン・デ・シル
 バやマニラの大司教ディエゴ・バスケス・デ・メルカド猊下の大歓迎を受けたのだが、
 翌年一月末に熱病に倒れ、五日後に昇天してしまったのだ。
・ジュスト右近の死をもっとも悲しんだのはシルバ提督で、ジュスト右近を頻繁に訪問し
 て談話を交わしているうち、友愛の情を結ぶようになり、その死を嘆き悼み、その悲し
 みを示しまたおのれを慰めるためには、考えられる限りの盛大な葬儀を行うのが唯一の
 方途だと考えたようだ。
・サンタ・アナ教会での葬儀ミサには総督と大司教が弔辞を読んだが、とくに総督は、短
 期間の知り合いであったにもかかわらず、右近が自分の心をとらえてしまい、長い付き
 合いをした親友を失ったような悲しみに暮れていると述べて、多くの人々の涙を誘った。
・ジュスト右近が、日本の生粋のサムライ、歴代大王の知己、幾多の合戦に参加した勇敢
 な王であったことに敬意を覚えていたし、自分も熱烈なカトリック教徒であるから、右
 近がカトリックの信者として迫害に耐えてきた姿勢に深く感服し、マニラの統治者とし
 て日頃、フィリピン人、中国人、日本人、安南人などの東洋人に対して優越感を持って
 いるヨーロッパ人でありながら、ジュスト右近に対しては、人種や国籍を超越した、対
 等の人間に対する深い友情を抱いていたのである。
・大人数が棺の前に進み、右近の足元に接吻して別れを惜しんだが、この情景を目撃した
 日本人たちは、平素気位高く、日本人を見下げていたスペイン人たちが自国の死者の足
 に接吻する様を見て驚き入り、かつはジュスト右近の偉大さを改めて感服した様子であ
 った。
・最後の盛大なミサの直後に一つの事件が起きたけれども、モレホンはそれを殉教の記録
 としてローマに報告する必要はないと見なして線で抹消していたが、私には極めて興味
 深い人物の記事とわかった。その人物はサンチョ岡本怱兵衛といい、マニラまで従って
 行ったジュスト右近の家来で、私も金沢時代から知っている男だが、すべて葬儀ミサ
 が終了した後、城壁都市の外側の浜辺で殉死したのだ。日本人の腹切りの習慣について
 はマニラでも知られていたが、その実行は稀であったし、ジュスト右近という有名人の
 家来の自殺であったから大騒ぎとなったが、自殺はキリスト教徒として恥ずべき蛮行と
 モレホンは判断したのであろう。
・ジュスト右近の妻ジュスタと娘ルチアと孫たちは、総督の推薦によりフェリペ三世陛下
 の年俸を受けることになり、ジョアン内藤の一族とともに、マニラのサン・ミゲルにキ
 リスト教徒を中心にした新しい日本人町を作る計画を実行し、避難民を保護したのは総
 督であった。内藤ジュリアを頭とするベアタス会の修道女たちは、当初修道院を新築す
 る予定だったのが、マニラ大司教の好意で同じ町内にあったイエズス会のレジデンシヤ
 を提供され、そこを修道院にしたのだった。
・1618年には、それまで自身もキリスト教徒であり、陰に陽にキリスト教徒を援助し
 ていた長崎代官アントニオ村山等安が失脚。大追放のときに一度追放された宣教師を長
 崎港外で降ろして潜伏させたこと、秀頼王側に加担して兵士や武器や宣教師を大坂城内
 に送り込んだことで、有罪と判定されたアントニオは翌年江戸で首を刎ねられた。
・1619年11月、アントニオの長男徳安が長崎の西坂の丘で火刑に処せられたのを、
 私は変装してつぶさに実見した。
 白衣に黒い上着をつけた徳安は、薪の火によって焼かれ、大勢のキリスト教徒が嘆き
 をあげ、その声はいつしか祈祷になった。
・徳安が殉教したころ、ヴィエイラは日本の状況を、とくに殉教者についてローマに報告
 するため日本を離れ、マカオ経由でローマを目指し、日本において繰り返される残忍な
 迫害は全世界に知られることになった。
・大村領では、つぎつぎにキリスト教徒の血が流されていったが、とくい放虎原では、フ
 ランシスコ会の多くの神父や修道士や信者が焼き殺されたり首を切られ、長崎の西坂も
 刑場として活用され、イエズス会、フランシスコ会、ドミニコ会の宣教師や信徒数十人
 が火刑や斬首によって殺され、大村や有馬では、宣教師や信者とわかれば、ただちに逮
 捕され、拷問による吟味を受け、やがては命を奪われるのが普通のことになってきたが、
 長崎の町中においては、さほど厳密な追及は行われなかった、と言うより、住民の多く
 がキリスト教徒であったので、全員を捕えて処刑することが不可能であったからである
 し、またポルトガルやオランダの商人も多く、異人であるから宣教師であるとは、役人
 も即断できない事情もあって、ゾラやトルレスやジュリアンや私は、信徒たちの慎重で
 熱心な庇護を受けで無事でいられたのである。
・クレメンテ神父が昇天されたのは、1626年5月、長崎においてでした。
 なお、クレメンテ神父と親しく、この年月苦難をともにしてきたパシェコ管区長、ゾラ
 神父、トルレス神父の三人は、ほかの宣教師とともに、長崎の西坂刑場で火刑によって
 昇天されました。
・中浦ジュリアンは、1633年10月、長崎西坂の刑場で逆さ吊りの刑で殉教した。