惜別  :太宰治

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この作品は、今から76年前の1945年、終戦の年に発表されたものであるが、太宰治
の作品の中ではちょっと異色だ。というのも、この作品は、1943年(昭和18年)に
行われた大東亜会議において「大東亜共同宣言」なるものが採択されたことを受けて、終
戦末期に、当時の情報局という政府機関が日本文学報国会という外郭団体使って作らせた、
いわゆるプロパガンダ色の強い小説だったようで、太宰治もこんな小説も書いたんだと、
ちょっと驚かされた。
内容は、明治37,38年の日露戦争の頃に、後に中国の大文豪と言われるようになった
魯迅」が、仙台医学専門学校(現・東北大学医学部)に留学した頃のことが題材になっ
ている。
現在でも仙台にはこの魯迅の銅像が、東北大学片平キャンパス内仙台市博物館敷地内
建っている。また、最近まで、魯迅が仙台で最初に下宿した青葉区米ケ袋にある下宿屋の
建物が残っていたのだが、2019年に取り壊されて、現在は「魯迅記念広場」として整
備が進められているようだ。
もっとも、魯迅の仙台での1年半の生活は、この作品とはちょっと違っていたらしい。魯
迅に個別添削をして何かと気を配った先生(藤野厳九郎)の存在は事実だったのようだが、
この作品に登場する一老医師(私)のような友人は、残念ながら存在しなかったようだ。


・これは日本の東北地方の某村に開業している一老医師の手記である。
・周樹人、はあなたと同級生だったわけだ。そうして、その人が、のちに、中国の大文豪、
 魯迅となって出現した。
・あの周さんが、のちにあんな有名なお方にならなくても、ただ私たちと一緒に仙台で学
 び遊んでいた頃の周さんだけでも、私は尊敬しています。
・藤野先生という題の魯迅の随筆を読むと、魯迅が明治三十七、八年、日露戦争の頃、仙
 台医専にいて、そうして藤野厳九郎という先生にたいへん世話になった、ということが
 書かれている。
・田舎の耄碌医者が昔の恩師と旧友を慕う気持ちだけで書くのだから、社会的政治的の意
 図よりは、あの人たちの面影をただ丁寧に書きとめておこうという祈念のほうが強いの
 は致し方のないことだろう。けれども私は、それはまた、それでかまわないと思ってい
 る。大善を称するよりは小善を積め、という言葉がある。恩師と旧友の面影を正すとい
 うのは、ささやかな仕事に似て、また確実に人倫の大道に通じているかもしれないので
 ある。
・このごろは、この東北地方にもしばしば空襲警報が鳴って、おどろかされているが、し
 かし、毎日よく晴れた上天気で、私の仕事も、敵の空襲に妨げられ萎縮するなどのこと
 なく順調に進んで行くそうな、楽しい予感もする。
・私が東北の片隅のある小さい城下町の中学校を卒業して、それから、東北一の大都会と
 いわれる仙台市に来て、仙台医学専門学校の生徒になったのは、明治三十七年の初秋で、
 その年の二月には露国に対して宣戦の詔勅が降り、私の仙台に来たころには遼陽もろく
 陥落し、ついで旅順総攻撃が開始せられ、気早な人たちはもう、旅順陥落ちかしと叫び、
 その祝賀会の相談などしている有様。
・殊にも仙台の第二師団第四聯隊は、榴ヶ岡隊と称えられて黒木第一軍に属し、初陣の鴨
 緑江の渡河戦に快勝し、つづいて遼陽戦に参加して大功を樹て、仙台の新聞には「沈勇
 なる東北兵」などという見出しの特別読物が次々と連載された。 
・私たちも医専の新しい征服制帽を身にまとい、学校のすぐ近くを流れている広瀬川の対
 岸、伊達家三代の霊廟のある瑞鳳殿などにお参りして戦勝の祈願をしたものだ。
・上級生たちの大半の志望は軍医になっていますぐ出陣することで、まことに当時の人の
 心は、単純とでも言おうか、生気溌剌たるもの。
・とにかく開戦して未だ半年というのに、国民の意気は既に敵を呑んで、どこかに陽気な
 可笑しみさえ漂っていて、そのころ周さんが「日本の愛国心は無邪気すぎる」と笑いな
 がら言ったが、そう言われても仕方のないほど、当時は、学生ばかりでなく仙台市民こ
 ぞって邪心なく子供のように騒ぎまわっていた。
・それまで田舎の小さい城下町しか知らなかった私は、生まれて初めて大都会らしいもの
 を見て、それだけでも既に興奮していたのに、この全市にみなぎる異常の活況に接して、
 少しも勉強に手がつかず、毎日そわそわ仙台の街を歩きまわってばかりいた。
・仙台を大都会だと言えば、東京の人たちに笑われるかもしれないが、その頃の仙台には、
 もう十万ちかい人口があり、電燈などもその十年前の日清戦争の頃からついているのだ
 そうで、松島座、森徳座では、その明るい電燈の照明の下に名題役者の歌舞伎が常設的
 に興行せられていた。これはしかし、まあ小芝居の方で、ほかに、大劇場では仙台座と
 いうのがあり、この方は千四、五百人もの観客を楽に収容できるほどの堂々たるもので、
 正月やお盆などはここで一流中の一流の人気役者ばかりの大芝居が上演せられた。
・この他、開気館という小ぢんまりした気持ちのいい寄席が東一番丁にあった。 
・このころも、芭蕉が辻が仙台の中心という事になっていて、なかなかハイカラな洋風な
 建築物が立ちならんではいたが、でも、繁華な点では、すでに東一番丁に到底かなわな
 くなっていた。
・東京にあって仙台に無いものは市街鉄道くらいのもので、軒並に明るい飾り電燈がつい
 て、夜も知らぬ花の街の趣きを呈し、子供などはすぐ迷子になりそうな雑沓で、それま
 で東京の小川町も浅草も銀座も見たことのない田舎者の私なんかを驚嘆させるには充分
 だったのである。
・いったいここの藩祖政宗公というのは、ちょっとハイカラなところのあった人物らしく、
 慶長十八年すでに支倉六右衛門常長を特使としてローマに派遣して他藩の保守退嬰派を
 瞠若させたりなどして、その余波が明治維新後にも流れ伝っているのか、キリスト教の
 教会が、仙台市内の随処にあり、仙台気風を論ずるには、このキリスト教を必ず考慮に
 入れなければならぬほどであって、キリスト教の匂いの強い学校も多く、明治文人の
 野泡鳴
という人も若い頃にここ東北学院に学んで聖書教育を受けたようだし、また島崎
 藤村も明治二十九年、この東北学院に作文と英語の先生として
東京から赴任して来たと
 いうことも聞いている。
・それからもう一つ、仙台は江戸時代の評定所、また御維新後の上等裁判所、のちの控訴
 院と、裁判の都としての伝統があるせいか、弁護士の看板を抱えた家のやけに多いのに
 眼をみはった。
・私は殊勝らしい顔をして仙台周辺の名所旧蹟をもさぐって歩いた。瑞鳳殿にお参りして
 戦勝祈願をしてついでに、向山に登り仙台全市街を俯瞰しては、わけのわからぬ溜息が
 出て、また右方はるかに太平洋を望見しては、大声で何か叫びたくなった。
・かの有名な青葉城の跡を訪ねて、今も昔のままに厳然と残っている城門をやたら出たり
 入ったりしながら、私も政宗公の時代に生まれていたならば、と埒もない空想にふけり、
 また、俗に先代萩の政岡の墓と言われている三沢初子の墓や、支倉六右衛門の墓、また、
 金も無いけれど死にたくもなしの六無斎林子平の墓などを訪れて、何か深い意味ありげ
 に一礼して、その他、榴ヶ岡桜ヶ岡、三滝温泉、宮城野原、多賀城址など、次第に遠
 方にまで探索の足をのばし、とうとうある二日つづきの休みを利用して、日本三景のひ
 とつ、松島遊覧を志した。
・その日は塩釜神社に参拝しただけで、塩釜の古びた安宿に泊り、翌る朝、早く起きて松
 島遊覧の船に乗ったのであるが、その船には、五、六人の合客があって、中にひとり私
 と同様に仙台医専の征服制帽の生徒がいた。
・寛政年間、東西遊記を上梓して著名な医師、橘南谿の松島紀行によれば、「松島にあそ
 ぶ人は是非ともに舟行すべき事なり、また富山に登るべき事なり」とある。
・とにかくこれから富山に登って、ひとり心ゆくまで松島の全景を鳥瞰し、舟行の失敗を
 埋合せようと考え、山に向かっていそいだものの、さて、富山というのはどこか、かい
 もく見当がつかぬ。ままよ、何でも、高い所へ登って松島湾全体を眺め渡す事が出来た
 らいいのだ、それで義理がすむのだ、といまは風流の気持ちも何も失い、野暮な男の意
 地で秋草を掻きわけて、まるででたらめに山道を走るようにして登って行った。疲れて
 来ると立ちどまり振り返って松島湾を見て、いやまだ足らぬ、これくらいの景色を、あ
 の橘氏「八百八島つらなれる風景画にかける西湖の図に甚だ似たり遥かに眼をめぐらせ
 ば東洋限りもなく誠に天下第一の絶景」などと褒めるわけはない、橘氏はもっと高いと
 ころから眺め渡したのにちがいない。そのうちに、どうやら道を踏み違えたらしく、見
 ると、私は山の裏側に出てしまったらしく、眼下の景色は、へんてつもない田畑である。
 東北線を汽車が走って行くのが見える。私は、山を登りすぎたのである。
・芝生の上に腰をおろし、空腹を感じて来たので、宿で作ってもらったおにぎりを食べ、
 ぐったりとなって、そのまま寝ころび、うとうとと眠った。 
・幽かに歌声が聞こえて来る。耳をすますと、その頃の小学唱歌、雲の歌だ。私は、ひと
 りで、噴き出した。調子はずれと言おうか、何と言おうか、実に何とも下手くそなので
 ある。
・ふいに、私は鉢合わせするほど近く、その歌の主の面前に出てしまった。私もまごつい
 たが、相手は、もっと狼狽したようであった。れいの秀才らしい生徒である。
・その生徒は、あいまいな微笑を頬に浮かべて煙草に火をつけ、「僕には、まだよくわか
 りません。僕はただ、こんな静かな景色を日本三景の一つとして選らだ昔の日本の人に、
 驚歎しているのです。この景気には、少しも人間の匂いがない。僕たちの国の者には、
 この淋しさはとても我慢できぬでしょう。」
・「お国はどちらです。」「僕は支那です。知らない筈はない」
・とっさに了解した。ことし仙台医専に清国留学生が一名、私たちと同時に入学したとい
 う話は聞いていたが、それでは、この人がそうなんだ。
・東京や大阪などからやってきた生徒たちを、あんなに恐れ、また下宿屋の家族たちにさ
 え打ち解けず、人間ぎらいというほどでなくても、人見知りをするという点では、決し
 て人後に落ちない私が、周さんと話をしている時だけは、私は自分の田舎者の憂鬱から
 完全に解放されるというまことに卑近な原因もあったようである。事実、私は周さんと
 話している時には、自分の言葉の田舎訛りが少しも苦にならず、自分でも不思議なくら
 い気軽に洒落や冗談を飛ばすことができた。
・あとで考え合わせると、あのとき周さんは、自分の身の上の孤独寂寥に堪えかねて、周
 さんの故郷の近くの西湖に似たと言われる松島の風景を慕って、ひとりでこっそりやっ
 て来て、それでもやっぱり憂愁をまぎらすことができず、やけになって大声で下手な唱
 歌などを歌って、そうして、そこに不意にあらわれたヘマな日本の医学生に、真剣に友
 交を求めたに違いないのだ。
・「父が死んでから、一家はバラバラに離散しました。故郷があって、無いようなもので
 す。相当な暮らしの家に育った子供が、急にその家を失った場合、世間というものの本
 当の姿を見せつけられます。僕は親戚に家に寄寓して、乞食、と言われたことがありま
 す。」(周さん)
・「西行の戻り松というのが、このへんの山にあると聞いていますが、西行はその山の中
 の一本松の姿が気に入って立ち戻って枝ぶりを眺めたというのではなく、西行も松島へ
 来て、何か物足りなく、浮かぬ気持ちで替える途々、何か大事なものを見落としたよう
 な不安を感じ、その松のところからまた松島に引き返したというのじゃないかとさえ考
 えられます。」(私)
・「西湖などは、清国政府の庭園です。西湖十景だの三十六名蹟だの、七十二勝だのと、
 人間の手垢をベタベタ付けて得意がっています。松島には、それがありません。人間の
 歴史と隔絶されています。文人、墨客もこれを犯すことができません。天才芭蕉も、こ
 の松島を詩にすることができなかったそうじゃありませんか。」(周さん)
・その日、私は周さんと一緒に松島の海浜の旅館に泊った。いま考えると、当時の私の無
 警戒は、不思議なような気もするが、しかし、正しい人というものは、何か安心感を与
 えてくれるもののようである。私はもう、その清国留学生に、すっかり安心してしまっ
 ていた。
・周さんは、言葉も、私より東京弁が上手なくらいで、ただ宿の女中に向かって使う言葉
 が、そうして頂戴、少し寒いのよ、などとさながら女性の言葉づかいなのが、私に落ち
 つかぬ感じを与えた。
・たまりかねて私は、それだけはやめてくれ、と抗議したら、周さんはけげんな面持ちで、
 だって日本では、子供に向っては、子供の言葉で言うでしょう、それゆえに女性に対し
 た時にも女性の言葉で言うのが正しいでしょう、と答えた。
・私は、でも、それはキザで、聞いていられません、と言ったら、周さんは、その「キザ」
 という言葉に、ひどく感心して、日本の美学は実にきびしい、キザという戒律は、世界
 のどこにもないであろう、いまの清国の文明は、たいへんキザです、と言った。
・その夜、私たちは宿で少し酒を飲み、深更まで談笑し、月下の松島を眺める事を忘れて
 しまったほどであったのである。 
・周さんはその夜、自分の生い立ちやら、希望やら、清国の現状やらを、呆れるくれいの
 熱情をもって語った。東洋当面の問題は、科学だと何度も繰り返して言っていた。一日
 も早く西洋の科学を消化して列国に拮抗しなければ、支那もまた、いたずらに老大国の
 自讃に酔いながら、みるみるお隣の印度の運命を追うばかりであろう。日本はいち早く
 科学の暴力を察して、進んでこれを学び取り、以て自国を防衛し、国風を混乱せしめる
 ことなく、之の消化に成功し、東洋における最も聡明な独立国家としての面目を発揮す
 ることができた。清国政府は、この科学の猛威に対して何のなすところもなく、列国の
 侵略を受けながらも、大川は細流に汚されずとでもいうような自信を装って敗北を糊塗
 し、ひたすら老大国の表面の体裁のみを弥縫するに急がしく、西洋文明の本質たる科学
 を正視する勇気なく、列国には、滑稽なる自尊の国とひそかに冷笑される状態に到らし
 めた。いまの清国は、一言で言えば、怠惰だ。わけのわからぬ自負心に酔っている。自
 惚れを捨てて、まず西洋の科学の暴力と戦わなければならぬ。自分は支那の杉田玄白に
 なりたい。
・なぜ西洋科学の中で、自分がこのように特に医学に注目するようになったか、その原因
 の一つは、自分の幼少のころの悲しい経験の中にもひそんでいる。自分の家には昔から
 多少の田地もあり、まあ相当の家庭と人にも言われていたのだが、自分が十三の時、祖
 父があるややこしい問題に首を突っ込んで獄につながれ、一家はそのため、にわかに親
 戚、近隣の迫害を受けるようになり、その上、父が重症で寝込んでしまったので、自分
 たちの家族はたちまち暮らしに窮し、自分は弟と共に親戚の家に預けられた。けれども
 自分はその家の者たちから、乞食と言われて憤然、自分の生家に返った。それから三年
 間、自分は毎日のように、質屋と薬屋に通わなければならなかった。一の病気がいっこ
 うに快くならなかったのだ。
・自分の目下の情熱は、政治の実際運動よりも、列国の富強の原動力に対する探求にあっ
 た。それが科学であることは、その頃、はっきり断定するに至ってはいなかったが、し
 かし、西洋文明の粋は、独逸国に行けば、最も確実に把握できるのではあるまいかとい
 う、おぼろげな見当をつけて、自分の生涯の方針も、独逸に留学することによって解決
 されるかもしれないと考えた。しかし、自分は貧乏である。故郷を捨て、南京に出て来
 たことさえ精一杯であった自分が、さらに万里を踏破して独逸国に留学することが絶望
 だとしたら、あますところは、もう一つの道しかなかった。日本へ行くことだ。その頃、
 政府が費用を出して、年々すこしずつの清国留学生を日本に送りはじめていたのである。
・決して日本固有の国風を慕っているのではなく、やはり学ぶべきは西洋の文明ではある
 が、日本はすでに西洋の文明の粋を刪節して用いるのに成功しているのであるから、わ
 ざわざ遠い西洋まで行かずともすぐ近くの日本国で学んだほうが安直に西洋の文明を吸
 収できるという一時の便宜主義から日本留学を勧奨していた。
・かつて日本を遊歴したことのある先輩の許をおとずれて、日本遊学の心得を尋ねた。そ
 の先輩の言うには、日本へ行って最も困るのは足袋だ。日本の足袋は、てんで穿けやし
 ないから、支那の足袋を思い切ってたくさん持って行くがいい、それから紙幣は不自由
 な時があるから全部現銀に換えて持って行った方がいい、ということだったので、自分
 は早速、支那の足袋を十足買って、それから所持金を全部、日本の一円銀貨に換え、ひ
 どく重くなった財布を気にしながら、上海で船に乗って横浜に向かった。しかしその先
 輩の遊学心得は少し古すぎたようである。日本では、学生は制服を着て、靴と靴下を穿
 かなければいけなかった。足袋の必要は全然なかった。また、あの恥ずかしいくらい大
 きな一円銀貨は、日本ではとうの昔に廃止されていて、それをまた日本の紙幣に換えて
 もらうのに、たいへんな苦労をした。
・明治三十五年、二十二歳の二月、無事横浜に上陸した。
・東京に着いて、先輩の留学生の世話で下宿がきまって、それから上野公園、浅草公園、
 芝公園、墨田堤、飛鳥山公園など、まるでもう無我夢中で、やたら東京の市中を歩き回
 ったものだが、やがて牛込の弘文学院に入学して勉強するに及んで、この甘い陶酔から
 次第に醒めて、ややもするとまた昔の懐疑と憂鬱に襲われることが多くなった。
・自分が東京に来たこの明治三十五年前後から、清国留学生の数も急激に増加し、わずか
 二、三年のうちに、もう支那からの留学生が二千人以上も東京に集まって来て、これを
 迎えて、まず日本語を教え、また地理、歴史、数学などの大体の基本知識を与える学校
 も東京に続々と出来て、中には怪しげな速成教育を施して、ひともうけをたくらむ悪質
 の学校さえ出現した様子で、しかし、そのたくさんの学校の中で、自分たちの入学した
 弘文学院は、留日学生の、まあ、総本山とでもいうような格らしく、学校の規模も大き
 く設備もととのい、教師も学生もまじめなほうであったが、それでも、自分は日一日と
 浮かぬ気持ちになって行くのを、どうすることもできなかった。
・自分が時たま、神田駿河台の清国留学生会館に用事があって出かけて行くと、その度ご
 とに二階で、どしんどしんと物凄い大乱闘でも行われているような音が聞えて、そのた
 めに階下の部屋の天井板が振動し、天井の塵が落ちて階下はいつも濛々としていた。そ
 の変異が、あまり度重なるので、ある日、自分は事務所の人に二階ではどのような騒動
 が演じられているのかと尋ねたらその事務所の日本人のじいさんが苦笑しながら、あれ
 は学生さんたちがダンスの稽古をしていらっしゃるのですと教えてくれた。もう自分に
 は、このような秀才たちと一緒にいるのがとても堪え切れなくなってきた。
・同じ年配の支那の青年たちが、奮起するどころか、相も変わらず清国留学生会館でダン
 スの稽古にふけっているのを見るに及んで、自分もようやく決意した。しばらく、この
 留学生の群と別れて生活しよう。自己嫌悪、とでもいうのであろうか、自分の同胞たち
 の、のほほん顔を見ると、恥ずかしくいまいましく、いたたまらなくなるのだ。ああ、
 支那の留学生がひとりもいない土地に行きたい。しばらく東京から遠く離れて、何事も
 忘れ、ひとりで医学の研究に出精したい。もはや躊躇している時ではない。自分は麹町
 区永田町の清国公使館に行き、地方の医学校へ入学に志望を述べ、やがて、この仙台医
 専に編入されることにきまった。
・仙台は日本の東北で最も大きい都であると聞いていたが、来てみると、東京の十分の一
 にも足りないくらいの狭い都会であった。まちの中心はさすがに繁華で、東京の神楽坂
 くらいの趣きはあったが、しかし、まち全体としては、どこか、軽い感じで、日本の東
 北地方の重鎮としてのどっしりした実力は希薄のように思われた。かえってもっと北方
 の盛岡、秋田などというあたりに、この東北地方の豊潤な実勢力が鬱積されているのだ
 が、仙台はいわゆる文系開化の表面の威力でそれをおさえつけ、びくびくしながら君臨
 しているというような感じがした。
・仙台は、意味もなく都会風に気取っているまちであった。要するに、自信も何もないく
 せに東北地方第一という沽券にこだわり、つんと澄ましているだけの「伊達のまち」の
 ように自分には思われたのだ。
・自分は、この仙台のまちによって、最初の、また唯一人の清国留学生だというので、非
 常に珍重がられ、学校の先生たちもまるで大事なお客様か何かのように自分を親切にあ
 つかってくれるので、自分はかえってまごついているくらいである。自分にとって、こ
 んなに皆から温情を示されるのは、生まれてはじめてのことである。
・隣りの席に坐った生徒は、進んで自分にナイフや消しゴムを貸してくれて、中でも津田
 憲治とかいう生徒は、最も熱烈な関心を持っているようで、何かと自分いこまかい指図
 をしてくれて、服装のことまで世話を焼き、とうとう自分の下宿まで出張して来て、こ
 れはいかん、すぐにここから引越して僕の下宿へおいでなさい、と言う。自分の下宿は、
 米ケ袋鍛冶屋前丁の宮城監獄署の前にあっが、自分は仕方なく、その津田さんの荒町の
 下宿に引越した。
・学校の講義はどれもこれも新鮮で、自分の永年の志望も、ここへ来て、やっとかなえて
 もらえたような気がしている。中でも、解剖学の藤野先生の講義は面白い。別に変わっ
 たところもない講義だが、それでも、やはりあの先生の人格が反映されているのか、自
 分ばかりでなく、他の生徒もみな楽しそうに聴講している。
・最初の授業の時も、この先生が、大小さまざまの本を両脇にかかえて教室にあらわれ、
 ひどくゆっくりした語調で、わたくしは、藤野厳九郎と申すもので、と言いかけたら、
 れいの古狸たちがどっと笑い出したので、自分は先生を何だか気の毒に思ったくらいで
 ある。
・しかし、この最初の講義は、日本における解剖学の発達の歴史であって、その時、杉田
 玄白
の「解体新書」や「蘭学事始」などもその中にあった。あの最初の講義は、自分の
 前途を暗示し激励してくれているようで、実に深い感銘を受けた。もう今では自分の進
 路は、一言で言える。支那の杉田玄白になることだ。それだけだ。支那の杉田玄白にな
 って、支那の維新の狼煙を挙げるのだ。
・とにかく、私はあの夜、周さんの打ち明け話を聞いて、かなり感動した。私みたいに、
 ただ、親が医者だから、その総領息子の自分もまた医者、というようないい加減な気持
 ちで医専に入学したのではなく、さすがに、はるばる海を越えてやって来た人には、や
 はりそれだけの、深い事情と、すぐれた決意とが秘められているものだと唸るほど感心
 し、この異国の秀才に対して大いに尊敬をあたらにした。
・「君、外国人とつき合うには、よっぽど気をつけてもらわないと困るよ。いま日本は戦
 争中なんだからね。この戦争がはじまってからの東京の緊張と来たら、それはとても、
 こんな田舎で想像してみたって及ぶものではない。清国留学生なんてのも、東京には何
 千人といるんだ。ちっとも珍しい事なんかありやしない。日本はいま、北方の大強国と
 戦争中なんだからね。旅順もなかなか陥落しそうではないし、バルチック艦隊もいよい
 よ東洋に向かって出発するそうだし、こりゃもう、大変なことになるかもしれない。こ
 の時に当って、清国政府は、日本に対して、まあ、好意的な中立の態度をとってくれて
 いるが、しかし、これがまた今後、どのように変化するかわかったものではない。清国
 政府自体がいま、ぐらつきはじめているのだからね。革命思想がいま支那の国内に非常
 な勢いで蔓延しているらしいからね。」(津田)
・「清国政府が金を出して留学生を日本に送り、その留学生たちが、清国政府打倒の気勢
 を挙げているのだから、妙なものさ。これでは、まるで、清国政府がみずからを崩壊さ
 せるための研究費を留学生たちに給与しているようなものだ。日本の政府は、この留学
 生たちの革命思想に対して、いまのところは、まあ、見て見ぬふりというような形でい
 るらしいが、しかし、民間の日本の義侠の士は、すすんでこの運動に援助を与えている。
 支那の革命運動の大立者、孫文という英雄は、もう早くから日本の侠客の宮崎なんかと
 いう人の家にかくまわれているのだぞ。」(津田)
・「支那にだって偉い人がたくさんいますよ。私たちの考えている事くらい、支那の先覚
 者たちも、ちゃんと考えているでしょう。まあ、民族自発ですね。私はそれを期待して
 います。支那の国情は、また日本とちがっているところもあるのです。支那の革命は、
 その伝統を破壊するからよろしくないと言っているひともあるようですが、しかし、支
 那にいい伝統が残っていたから、その伝統の継承者に、革命の気概などが生まれたのだ
 とも考えられます。たち切られるのは、形式だけです。家風あるいは国風、その伝統は
 決して中断されるものではありません。東洋本来の道義、とでも言うべき底流は、いつ
 でも、どこかで生きているはずです。そうしてその根底の道において、私たち東洋人全
 部がつながっているのです。共通の運命を背負っていると言ってもいいのでしょう。」
 (藤野先生)
・先生は笑いながら立ち上がり、「一口で言えるやないか?支那の人を、ばかにせぬ事。
 それだけや。教育勅語に、何と仰せられています?朋友相信じ、とありましたね。交友
 とは、信じ合う事です。他には何も要りません。」
 私は駆け寄って先生と握手したい衝動にかられたが、こらえて、ていねいにお辞儀した。
・「このごろ仙台では活動写真がひどく人気があるようですが、あれはどうですか」(私)
 「あれは、東京でもちょいちょい見ましたが、僕は、不安な気がしました。科学を娯楽
 に応用するのは危険です。いったいに、アメリカ人の科学に対する態度は、不健康です。
 邪道です。快楽は、進歩させるべきものではありません。僕はエジソンという発明家を、
 世界の危険人物だと思っています。快楽は、原始的な形式のままで、たくさんなのです。
 酒が阿片に進歩したために、支那がどんな事になったか。エジソンのさまざまな娯楽の
 発明も、これと似たような結果にならないか、僕は不安なのです。これから四、五十年
 も経つうちには、エジソンの後継者が続々とあらわれて、そうして世界は快楽に行きづ
 まって、想像を絶した悲惨な地獄絵を展開するようになるのではないかとさえ思います。
 僕の杞憂だったら、さいわいです。」(周さん)
・私はその翌る日から、ほとんど毎日かかさず学校に出ることにした。周さんと逢ってい
 ろいろ話をしたいばかりに、そんな感心な心掛けになったのである。本当に、私のよう
 なのんき坊主が、津田氏の予言に反して、落第もせずどうやら学校を卒業することがで
 きたのも、考えてみると、まったく周さんのおかげであった。
・そのうち周さんは、妙な笑いを顔に浮かべて、周さんの鞄からノートを一冊取り出して
 私のほうにのべてよこした。見ると、藤野先生の解剖学のノートである。私はひらいて、
 眼を瞠った。どのページも、ほとんど真赤なくらい、こまかく朱筆が入れられてある。
 はっと思った。あの日、藤野先生が、ひとりごとのようにしておっしゃった「不言実行」
 の意味がわかったような気がした。このように誰にも知られず人生の片隅においてひそ
 かに不言実行せられている小善こそ、この世のまことの宝玉ではなかろうかと思った。
・とにかく、この明治三十七年の冬から翌年の春にかけて、私にとっては、いろいろな意
 味で最も張り合いのある次期であった。日本においても、いよいよ旅順総攻撃を開始し、
 国内も極度に緊張して、私たち学生も、未明の雪中行軍もしばしば挙行せられ、意気ま
 すますさかんに、いまはただ旅順陥落を、一様にしびれを切らして待っていた。
・ついに、明治三十八年、元旦、旅順は落ちた。二日、旅順陥落公報着きたりの号外を手
 にして仙台市民は、湧きかえった。勝った。もう、これで勝った。四日の夜は、青葉神
 社境内において大篝火を焚き、五日は、朝、十時、愛宕山において祝砲一発打ち揚げた
 のを合図に、全市の工場の汽笛は唸り、市内各駐在所の警鐘および社寺備え付けの梵鐘、
 鉦太鼓、何でもかでも破裂せんばかりに乱打し、同時に市民は戸外に躍り出で、金盥、
 ブリキ罐、太鼓など思い思いに打ち鳴らして、さて一斉に万歳を叫び、全市鳴動の大壮
 観を呈した。
・周さんは、その旅順陥落を境にして、再び日本研究をし直した様子であった。日本へ来
 て、すぐにこの国の意外な緊張を発見して、ここには独自の何かがあると予感したもの
 の、さて、このように堂々と当時の世界の一等国露西亜を屈伏せしめた事実を目撃して
 は、何物かがあるくらいでは済まされなくなったらしく、こんどは漢訳の明治維新史だ
 けではなく、直接日本文の歴史の本をいろいろ買い集めて読みふけり、いままでの自分
 の日本観に重大な訂正を加えるに至ったようである。
・「日本には国体の実力というものがある。」と周さんは溜息をついて言っていた。
・その頃は、周さんも何の遠慮もなく私の県庁裏の下宿に、ちょいちょい遊びにやって来
 て、そうして私がれいの無口で、まだ下宿の者たちと打ち解けずにいるうちに、周さん
 がさきにもう家族の者たちと親しくなり、その下宿は、まあ素人下宿、とでも言うか、
 中年の大工と女房と十歳くらいの娘と三人暮らしで、下宿人は私ひとり、大工は酒のみ
 で時々夫婦喧嘩なんかはじめているが、でも、周さんの荒町の下宿のようにたくさんの
 下宿人を置いている商売屋に較べると、家庭的な潤いみたいなものも少しあって、当時、
 日本研究に大いに熱をあげていた周さんには、この貧しい家庭もまた、なかなか好奇心
 の対象になるらしく、家族の者たちにすすんで交際を求め、ことに十歳くらいの娘と仲
 よくなって、支那のお御伽などを聞かせてやったり、またその娘から唱歌を教えてもら
 ったりしていた。
・やがて夏休みになり、周さんは東京へ、私は山奥の古里に、二カ月ばかり別れて暮らし、
 九月、新学年の開始と共に、また周さんのなつかし顔を仙台で見た時、私は、おや?と
 思った。どこがどうというわけではないが、何だか、前の周さんと違っているのだ。よ
 そよそしいというほどでもないが、瞳孔が小さくするどくなった感じで、笑っても頬に
 ひやりとする影があった。
・「東京は、戦争の講和条件が気に入らないと言って、東京市民は殺気立って諸方で悲憤
 の演説会を開いて、ひどく不穏な形勢で、いまに、帝都に戒厳令が施行せられるだろう
 とか何とか、そんな噂さえありました。どうも、東京の人の愛国心は無邪気すぎます。」
・「僕は仙台のまちを散歩している捕虜の表情に注意していますが、あの人たちは、あま
 り笑いません。何か希望を持っている証拠です。早く帰国したいと焦虜しているだけで
 も、まだ奴隷よりはましです。」(周さん)
・その頃、仙台に露西亜の捕虜が、多い時には二千人も来て、荒町や新寺小路付近の寺院、
 それから宮城野原の仮小屋などにそれぞれ収容されていて、そのとしの秋あたりから自
 由に散歩もゆるされた。
・所詮、四十年むかしの話である。私の記憶にも間違いなしとは言えない。しかし、一国
 の維新は、西洋の実利科学などに依らず、民衆の初歩教育に力をつくして、その精神を
 まず改造するに非ざれば成就し難いのではあるまいか、という疑問を周さんの口から最
 初に聞いたのは、たしかにあの大雪の夜であったと覚えている。
・この周さんの疑問は、やがて周さんをして文章の関心を持たしめ、後に到って、文豪魯
 迅の誕生の因由になったとも考えられないことはないであろうが、しかし、このごろ皆
 の言っているように所謂「幻燈事件」に依って、その疑問が、突然、周さんの胸中に湧
 き起ったという説は、少し違っているのではなかろうかと私には思える。ひとの話に依
 れば後年、魯迅自身も仙台時代の追憶を書き、それにもやはり、その所謂「幻燈事件」
 に依って医学から文芸に転身するようになったと確信しているそうであるが、それはあ
 の人が、何かの都合で、自分の過去を四捨五入し簡明に整理しようとして書いたのでは
 なかろうか。
・所謂「幻燈事件」というものも、その翌年の春、たしかにあった。しかし、それは彼の
 転機ではなく、むしろ彼がそれに依って、彼の体内のいつのまにやら変化している血液
 に気づく小さなきっかけに過ぎなかったように、私には見うけられたのである。彼は、
 あの幻燈を見て、急に文芸に志したのでは決してなく、一言でいえば、彼は、文芸を前
 から好きだったのである。
・その頃も、藤野先生は何もご存じなく、相変わらず周さんのノートに、一週間に一度ず
 つ、たんねんに朱筆を入れて下さっていたのだ。それでも、さすがに、教えるひとは弟
 子に敏感なところもあって、周さんがこのごろ医学の研究に対して次第に無気力になっ
 て来たのを、何かの勘で察知なさるらしく、周さんをしばしば研究室に呼んで、何やら
 おこごとをおっしゃっている様子で、また、私も、うるさいくらいに質問の矢を浴びな
 ければならなかったのである。そうして私は、それに対して、いつもいい加減に受け応
 えばかりしていた。
・周さんの医学救国の信念がぐらついて、そうして、日本の維新も、さらによく調べてみ
 たら、それは一群の思想家の著述によって口火を切られたものだということがわかって、
 しかし、周さんにはいまのところ、むつかしい思想の著述はおぼつかないので、まず民
 衆に対する初歩教育のつもりで文芸に着目し、ただいま世界各国の文芸を研究していま
 す、なんて、そんな、先生にとっては全く寝耳に水のような実状を打ち明けたら、先生
 は、どんなに驚愕し、また淋しいお気持ちになられるかと思えば、愚直の私も、さすが
 に言葉を濁さざるを得なかったのである。
・周さんは、藤野先生をはじめ、皆の懸命の努力にも拘わらず、やはり、まもなく私たち
 から去って行った。
・「心配することはないです。あの幻燈のおかげで、やっと僕にも決心がつきました。僕
 は久しぶりで 、わが同胞におめにかかって、思いをあらたにしました。僕は、すぐ帰
 国します。あれを見たら、じっとして居られなくなりました。僕の国の民衆は、相変わ
 らず、あんなだらしない有様でいるんですねえ。友邦の日本が国を挙げて勇敢に闘って
 いるのに、その敵国の軍事探偵になる奴も来も知れないが、まあ、大方お金で買収され
 たのでしょうけれど、僕には、あの裏切者よりも、あのまわりに集まってぼんやりそれ
 を見物している民衆の愚かしい顔が、さらに、たまらなかったのです。あれが現在の支
 那の民衆の表情です。やはり精神の問題だ。いまの支那にとって大事なのは、身体の強
 健なんかじゃない。あの見物人たちは、みんないいからだをしていたじゃありませんか。
 医学は、いま彼等に決して緊要なことではないという確信を深めましたよ。精神の革新
 です。国民性の改善です。いまのままでは、支那は永遠に真の独立国家としての栄誉を、
 確率することができない僕はすぐ医学をやめて帰国します。」(周さん)
・老医師の手記は、以上で終わっているが、自分(太宰)は、さらに次の数行を付加して、
 この手記の読者の参考に供したい。
・全世界に誇る東洋の文豪、魯迅先生の逝去せられたのは、昭和十一年の秋であるが、そ
 れに先立つこと約十年、先生四十六歳の昭和元年に、「藤野先生」という小品文を発表
 せられた。
 「第二学年の終わりになって、僕は藤野先生を訪ねて、もう医学の勉強はやめようと思
  うこと、そしてこの仙台を去るつもりでいることを、先生に告げた。先生の顔には深
  い悲哀の色が浮かび、何か言いたげな御様子であったが、とうとう言い出されなかっ
  た。
  立つ四五日前に、先生は僕をご自分のお宅に呼んで、そうして僕に先生のお写真を一
  枚下さった。その写真の裏には『惜別』と二字書かれてあった。そして僕にも写真を
  くれるようにと希望された。だが僕はその時あいにく写真を撮っていなかった。先生
  は将来、撮って送ってくれるように、そして折々たよりをしてその後の様子を知らせ
  るようにとお頼みになった。
  僕は仙台を去った後、多年写真を撮ったことがなかった。それに、その後の僕の様子
  も面白くなく、お知らせすれば先生を失望させるばかりであると思うと、手紙さえ書
  けなかったのである。
  かくてそれきり今日まで、ついに一本の手紙も一枚の写真も送らずに過ごして来てし
  まったのである。
  だが、何故だか知らぬが、僕は二十年後の今も、折に触れて先生を思い出す。僕がわ
  が師と仰いでいる人の中で、先生こそは最も僕を感謝せしめ、僕を鼓舞激励下さった
  一人であった。」