以前、仙台の街中を散策していたとき、「林子平の墓所」なる案内板を目にした。
その時は、「林小平」なる人物がどんな人物なにか、全く知らなかった。
案内板が出ているぐらいだから、著名な人だろうとは察していたが、ネットで調べてみると、なかなかの人物であることがわかった。
林子平(はやし しへい)は、江戸時代後期に経世論家で、「
寛政の三奇人」の一人と言われたらしい。
ここで言う奇人とは、現代でいう「奇人・変人」の意味ではなく、優れた人という意味らしい。
子平は、江戸で生まれるが、次姉が仙台藩5代藩主
伊達吉村の側室(
お清の方)となったことが縁で、仙台藩士となったらしい。
しかし、みずからの教育政策や経済政策を藩上層部に進言するが聞き入れられず、仙台藩士であることを返上して、全国を行脚したようだ。
そして、長崎や江戸で学び、ロシアの脅威を説き、『
三国通覧図説』『
海国兵談』などの著作を著した。しかし、両著はともに発禁処分が下された。
このうち『三国通覧図説』は、長崎よりオランダ、ドイツへと渡り、ロシアでヨーロッパの各言語に翻訳された。
しかし地図は正確ではなく、本州・四国・九州以外の地域はかなり杜撰に描かれているものであったとのことだ。
問題なのは、韓国ではこれを同国の
竹島・対馬領有権の証拠と主張し、中国ではこれを同国の
尖閣諸島領有権の証拠と主張しているところにある。
林子平が『三国通覧図説』の中に描いた「三国接壤之図」には、主にロシア、朝鮮、日本が描かれていて、朝鮮のすぐ東に島が一つ、
そして日本海の中央に竹嶋と記された島とその横に小さな島が描かれていて、この3島はすべて朝鮮と同じ黄色で塗られ、
日本領ではないと区別されているという。
これを知って、私はなんだか複雑な心境になった。
この林子平の墓は、「龍雲院」という寺院の境内にある。
この寺院は、戊辰戦争で活躍した衝撃隊隊長、
細谷直英(十太夫)が、戦後、林子平を慕い、僧となって住職になったところとのことで、
「細谷地蔵」が建てられていた。
また、「あかい りんごに くちびるよせて♪」と戦後の復興の象徴として歌われた「
りんごの唄」を作曲した、
作曲家の
万城目 正(まんじょうめ ただし)の墓が、この寺院の境内にあるという。
なお、この龍雲院は、慶長二年(1597年)に伊達正宗によって開山された寺院とのことで、
正宗の領地替えと伴って米沢から岩出山、そしてここ仙台へと移ってきたらしい。
訪れた時は、ちょうど本堂が改修工事中であり、本堂自体は見ることはできなかった。
【所在地】
仙台市青葉区子平町19−5