伊達正宗の慶長遣欧使節船の出帆場所をめぐって新説出現

自分ではめずらしく、講演会なるものに出かけてきた。
というのも、仙台藩主・伊達正宗が慶長18年(1613年)にスペインに向けて派遣した慶
長遣欧使節団が乗った船(サン・ファン・バウティスタ号)が出航した場所は、牡鹿半島
の「月ノ浦」(現在の宮城県石巻市月浦)だというのが、いままでの通説となっていた。
ところが、これに対して異を唱える人が現れたのある。
その人物は、元小学校教諭(最後は校長で定年退職)の遠藤光行氏だ。その遠藤氏の講演
会があると知って、以前、石巻市にある慶長使節船ミュージアム(サン・ファン館)を訪
れて、慶長遣欧使節団長・支倉常長の人生に深く感銘を受けた私は、とても興味を覚えて
会場である仙台市震災復興記念館まで出かけてきた。
この戦災復興記念館という存在そのものは、以前から知っていたが、ここを訪れるのは、
私にとって、今回が初めてであった。講演会は、この施設内にある会議室で行われた。徐
受講者は60名前後だと思われる。そのほとんどが高齢者であり、周りを見た感じ、私が
一番若い年代に入るのではと思われた。まだ、大部分は男性であったが、女性も数名含ま
れていた。
さて本題の新説であるが、遠藤氏が次の三点から、今までの通説である牡鹿半島の「月ノ
浦」(現在の宮城県石巻市月浦)が造船及び出航の場所であるという「通説」に疑念を持
った。
(1) 牡鹿半島の「月ノ浦」には現在も造船地に該当する場所が見つかっていない。
(2) 牡鹿半島の「月ノ浦」が造船や出帆に適していることを裏付ける史料がない。
(3) 牡鹿半島の「月ノ浦」とは違う場所を「ツキノウラ」として示している海外史料(地
  図)がある。
また、石巻市雄勝町には「雄勝湾が古くから月の浦(つきのうら)と呼ばれていた」とい
う言い伝えがある。
以上のことから、遠藤氏が再度、国内史料および海外史料、そして実際の現地の地理的条
件が造船に適した場所であるかどうかを研究した結果、造船地は現在の石巻市雄勝町呉壺
であり、出帆地は雄勝町の「月の浦」(現在の雄勝湾)であったという結論に達したとい
うのである。
今までの通説である牡鹿半島の「月ノ浦」(現在の宮城県石巻市月浦)が造船地および出
帆地とされた根拠は、仙台藩に正史である「伊達治家録」に「牡鹿郡月浦ヨリ発ス」と記
述されているからとされているが、当時、江戸幕府から伊達藩が謀反を起こす可能性もあ
ると目を付けられていたため、本当の造船地や出帆地を江戸幕府に隠すために、あとで編
纂されたものであると推測している。
本当の史実と、史料に記載された内容とが異なっていたということは、意外と多いようだ。
それは、当時の為政者や実力者が、自分に都合のいいように史料を改竄する場合があるの
だ。それは、近年では、安倍政権における「森友・加計問題」での財務省の公文書改ざん
事件がいい例だ。史料が真実を伝えているとは限らないのだということを、我々は身を持
って体験している。
講演は、元学校の先生だけあって、説明がうまく、またその内容もその主張を裏付ける根
拠がしっかり示されており、しごく納得のいくものであった。おそらく、この主張に反論
することは、難しいのではないかと感じた。
今までの「通説」の出帆地であった宮城県石巻市月浦には、現在、「支倉常長出帆の地」
として支倉常長の銅像が建っていたり、航路の詳しい説明が刻まれた石碑が建てられたり
見晴台が建てられたりして、観光地になっている。
しかし、今回のこの新説のほうが正しいとすれば、これらはすべて「ウソだった」という
ことになる。
「通説」の出帆地と「新説」の出帆地は、現在でこそどちらも石巻市となっているが、以
前は異なる行政区域だったようだ。
・「通説」の出帆地:宮城県石巻市月浦(現在のgoogle地図参照
・「新説」の出帆地:宮城県桃生郡(ものうぐん)雄勝町(現在のgoogle地図参照
これら二つの地点は現地をgoogle地図参照すれば分かるように、まったく異なる地点だ。
今後、この「新説」論争が、どのように展開していくのか、注目していきたい。

参考文献:仙台市戦災復興会館と講演会資料

                                              2019年11月22日記