政宗の陰謀 :大泉光一

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この本はいまから7年前の2016年に刊行されたもので、1613年に伊達政宗が派遣
した「慶長遣欧使節」に関し、その派遣の目的についての新しい主張をしたものだ。
従来では、派遣目的は「ヌエバ・エスパニアとの直接交易開始」だったとされているが、
この本の著者は「スペインからの軍事支援を受けての討幕」が目的だった主張している。

しかし、この本を読んだかぎりの私の感想としては、「討幕」というよりも、ルイス・ソ
テロ神父による東北地方での「キリシタン帝国の建設」の企てだったのでは、という気が
してならない。伊達政宗はルイス・ソテロ神父の口車にうまく載せられるたのではなかっ
たのか、
という印象を強く受けた。つまりこれは伊達政宗の陰謀というよりも、ルイス・
ソテロの陰謀と言えるのではなかったかと。
それと言うのも、支倉常長が持参したスペイン国王やローマ教皇宛てへの書簡の内容が、
交易というよりとても、宗教色のとても強い内容だったからである。

もっとも、私の関心事はそれよりも支倉常長のほうにあった。
以前読んだ小説「侍」(遠藤周作著)では、なぜ支倉常長が「慶長遣欧使節団」の使節に
指名されたかが、曖昧に書かれていてわからなった。
しかし、この本を読んで、初めてその理由がはっきりわかった。
ただ、支倉常長の最期がどうだったか。処刑されたのか、それとも自ら死を選んだのか。
それとも天命を全うしたのか。この本でもはっきりしなかった。

ところで、この本の中で、江戸時代の大名の多くが男色で、自分の小姓と性的関係を持つ
ことが多かったというような記述がある。そして政宗も、たくさんの側室のほかに、たく
さんの男色の童子を抱えていたという。これにはちょっと驚いた。
昨今、ジャニーズ問題で、ジャニーズ事務所の創業者のジャニー喜多川氏から多くの少年
が性的被害を受けていたことが明らかになったが、このようなことは江戸時代から行われ
ていたということのようなのだ。いやはや、言葉が出ない。

また、小西行長が朝鮮出兵の際に、朝鮮から「ジュリアおたあ」という朝鮮女性を日本に
連れ帰っていたというのは有名な話であるが、伊達政宗も朝鮮出兵の際に朝鮮女性を日本
に連れ帰っていたようだ。政宗は、この連れ帰った朝鮮女性を江戸で特別に寵愛していた
外国人に側室として与えたようだ。

さらに私がこの本の内容で注目したのが、支倉常長らが乗った船「サン・ファン・バウテ
ィスタ号」の出帆地をめぐる新説についてである。
これまでは「月ノ浦」から出帆したというが定説あったが、私が以前、仙台での講演会で、
この定説を覆す新説について
の講演を聞いていた。その新説の話がこの本にも載っていた
のである。これにはちょっと感激した。

以前読んだ関連する本:

高山右近
鉄の首枷(小西行長伝)
サラン 哀しみを越えて
東北のキリシタン殉教地をゆく


まえがき
・十七世紀初頭の慶長・元和年間に、仙台藩主伊達政宗は、スペイン人のフランシスコ修
 道会宣教師フライ・ルイス・ソテロと家臣支倉五右衛門(通称、常長)を大使として、
 ヌエバ・エスパニア(メキシコ)、そしてヨーロッパへ派遣した。
・この偉大な史実は、「慶長遣欧使節」の名称で知られ、大正年間に九州の肥前島原の有
 馬鎮貴(後の晴信)、豊後の大友宗麟、肥前大村の大村純忠三大名がローマへ派遣した
 「天正遣欧少年使節」と並び、日本の対外交渉史とカトリック史上の画期的な事績とし
 て、内外の研究書によって広く世に知れわたっている。
・しかし、慶長遣欧使節団の派遣に関して二つの大きな疑問点が指摘されている。
 そのうちの一つが、徳川幕府のキリシタン禁令下、異教徒であった伊達政宗がローマ教
 皇のもとへ公然と当該使節団を派遣し、「服従と忠誠」を誓った点である。
・多くの史家たちは、使節の派遣目的は、
 @幕府が果たし得なかった、当時スペインの植民地であったヌエバ・エスパニアの直接
  通商交易を開始するための外交交渉
 Aヌエバ・エスパニアとの交易実現をはかるため、仙台領内でのキリスト教の布教に必
  要な宣教師の派遣要請
 であった、と主張し、わが国おいては明治時代以来、これを通説と見なしてきた。
・ところが、メキシコをはじめスペインやイタリアの文書館で直接渉猟した、おびただし
 い数のロマンス語の原文書を精査し解読した結果、宣教師の派遣要請は、ヌエバ・エス
 パニアとの貿易実現のための方便だった、などというものではなかった。
・もう一つの疑問点は、慶長十七年六月付で徳川家康が、ヌエバ・エスパニア副王宛ての
 外交文書で、交易は許すがキリスト教の布教は許さぬという「正教分離主義」の政策を
 正式に表明したが、これに対して政宗は公然と違反し、スペイン側の「商教一致主義」
 政策を受け入れ、領内でのキリスタンの布教を許可し、スペイン国王とローマ教皇に対
 して宣教師の派遣要請を行ったことである。
 これはキリスト教を抱きこんだ国づくりを考える政宗の、家康への挑戦であった。
・従来の通説には、このほかにも疑問点や矛盾点が多く散見される。
 その主なものは次のとおりである。
 (1)使節派遣時に幕府はすでにキリシタン禁令政策を打ち出しており、幕府が公然と
    政宗の宣教師の派遣要請を認めるはずはなかった。
 (2)支倉がヌエバ・エスパニア副王に提議した政宗の「申合条々」(二国間の平和条
    約の締結)の内容が、幕府のキリシタン禁教方針やオランダ・イギリスとの関係
    を重視する対外政策に真っ向から反するものであり、幕府が公に認証できるもの
    ではなかった。
 (3)使節一行がスペイン滞在中、二代将軍秀忠は、「大名領内に一人のキリシタンも
    いてはならぬ」と命じるなど、キリシタン禁教を厳密に施行したにもかかわらず、
    政宗は最後まで支倉らに帰国命令を出さなかった。
 (4)1615年11月に、日本のキリスト教徒の代表として「訪欧使節団」の首席随
    行員に加わったトマス・滝野嘉兵衛、ペテロ・伊丹宋味、フランシスコ・野間半
    兵衛の三名のキリシタンがルイス・ソテロ神父につき添われローマ教皇に謁見し
    た際に奉呈した「日本のキリスト教徒の連署状(書簡)」と「畿内キリシタン連
    署状」のどちらにも、「私たちは彼(政宗)が将来できるだけ早く支配者(将軍)
    になることを期待しておりますし・・・」とか、「奥州の屋形伊達政宗は日本に
    て一番の大名、知恵深き人にて御座候えば、日本の主(将軍)になり申すとの取
    沙汰御座候」というように、日本中のキリシタンが、政宗が将軍になってキリシ
    タンを保護してくれることを期待していた内容の記述があるなど、二つとも従来
    の通説以外の使節派遣の目的があったことを裏づけている。
 (5)使節一行の受け入れ国スペイン側では、政宗の「訪欧使節団」が何の目的でスペ
    インを訪問したのか最後まで理由がわからず、通商交易の開始を目的にした使節
    団ではなく、最初から最後まで「宗教使節団として扱った。
・結論的に言えば、幕府が政宗の「訪墨(南蛮)使節団」の派遣を容認し、船大工を派遣
 して五百トンの使節船(サン・ファン・バウティスタ号)の建造を許し、ヌエバ・エス
 パニア副王へ家康からの進物を持参させたのは、ヌエバ・エスパニア副王の答礼大使セ
 バスティアン・ビスカイノ司令官一行四十人余りをヌエバ・エスパニアのアカプルコ港
 へ帰還させるためであった。
・そしてこの「訪墨(南蛮)使節団」に便乗させる形で、伊達政宗が極秘裏にルイス・ソ
 テロと支倉六右衛門の二人を大使に選び、ソテロに呼応した日本人のキリスト教徒の代
 表者(滝野嘉兵衛、伊丹宋味、野間半兵衛)らを首席随行員として加えて「訪欧使節団」
 を編成し、スペイン国王とローマ教皇のもとに派遣したのである。
・「訪欧使節団」派遣の真の目的については、政宗自身が三十万以上の日本中のキリシタ
 ンと手を結び、領国内に「キリシタン帝国」を築いて日本のキリシタンの指導者となり、
 ローマ教皇に「服従と忠誠」を誓って、スペイン軍の軍事支援を受けて討幕し、あわよ
 くば将軍職に就くことであったと推察される。
・ところで、「訪欧使節団」に関する国内資料は皆無である。
 これまではこの使節関連の文書は、キリシタン禁教令の影響ですべて処分されたという
 見方が一般的であった。
 だが、それだけではなく「訪欧使節団」派遣の裏に、表沙汰になれば伊達藩の存亡の危
 機にかかわる機密事項が隠されていたため、関係文書をすべて処分したと考えるのが妥
 当である。 
 
プロローグ:十六世紀末〜十七世紀初頭の世界史の中の日本
・家康は、外国人を巧みに利用して貿易を営み、長期にわたる戦乱で崩壊寸前となってい
 た日本の経済力を復興させるために、アジアだけでなくヨーロッパ諸国との通商交易に
 力を入れようとしていた。
・当時、日本の銀と中国の生糸は、東アジア地域最大の交易品であったが、その利益のほ
 とんどはポルトガルに独占されていた。
 また、ヨーロッパでは毛織工業を発展させたイギリスと、オランダが勢力を伸ばしてい
 た。 
・家康は、ポルトガル船以外の商船を誘致するために、1600(慶長五)年、豊後に漂
 着したオランダ船リーフデ号航海士のオランダ人ヤン・ヨーステンと、同じく水先案内
 人のイギリス人ウィリアム・アダムズ(三浦按針)を江戸に招いて、外交と貿易の顧問
 にし、オランダ・イギリス両国との交易が始まったのである。
 ただ、半世紀以上にわたるポルトガル人の貿易や、フィリピンのマニラから日本に進出
 していたスペイン人の貿易などと競争するのは容易ではなかった。
・家康は、当初スペインの植民地であったヌエバ・エスパニアから、銀のアマルガム精錬
 方式の技術を導入したい望みがあったので、ヌエバ・エスパニアとの直接通商に関心を
 持っていた。
 この精錬法は、銀に訛りを入れて加熱し、酸化鉛の灰と銀を吹き分ける「灰吹き法」で、
 中国で発明された。
・そこで家康は、以前から面識あったポルトガル人のフランシスコ会宣教師ジェロニモ・
 デ・ジェズス・デ・カストロ
に「わが国の海上には暴風が多いから、ルソンからヌエバ
 ・エスパニアに航海するスペイン船に対して、安全に避難できるわが領地の港へ立ち寄
 ることを許したい。そしてその代償として、わが日本とヌエバ・エスパニアとの直接通
 商の道を開いてもらいたい」と、その胸のうちを明かしたのである。
・これに対して、ジェロニモは、スペインの船はいずれも大型なので、安全をはかるため、
 まず、スペイン人に依頼して日本の港湾の水深や緯度を測量する必要があることを訴え
 た。そして、そのためにはフィリピン総督に要請すべきであると返答した。
・当時のフィリピン総督ドン・フランシスコ・テリョ・デ・グスマンと、書状や贈り物の
 やりとりをしたものの、スペイン人は家康をなかなか信用しようとしなかった。
・その主な理由として、まず、豊臣秀吉の時代のサン・フェリッペ号事件がある。
 スペインのガレオン船(サン・フェリッペ号)が四国・高知の浦戸湾に漂着した際、
 土佐の大名「長宋我部元親」これを大坂の太閤秀吉に報告した。
 京都奉行「増田長盛」が出張して船を点検したが、四名のアウグスチノ会聖職者、一名
 のドミニコ会員、そして二名のフランシスコ会員が乗船していたのを発見すると、それ
 を口実に、金銀、雑貨などの積み荷をことごとく没収して大坂に送った。
 船長がこの不法に憤慨して、スペイン国の強大なことを告げて威嚇したが効果がなかっ
 た。また、水先案内人が、スペインは宣教師を派遣して住民と諸侯を篭絡した後、その
 国を征服する、と出まかせを言い散らした。
 それが秀吉の耳に入り激怒を買って、当時畿内で布教していたフランシスコ会の宣教師
 らが捕らえられ、1597(慶長二)年2月、長崎の西坂で二十六人が処刑されてしま
 ったという事件である。
・このためフィリピンでは容易に日本人を信用しようとはしなかった。
 家康もこの点に関してはひどく当惑して、言い訳の書状を送り、今は自分が日本の政権
 を握るようになったので、不都合なことはさせないと伝えている。
・スペイン人が家康を信用しなかったもう一つの理由として、
 当時マニラには日本人が一万五千人以上居住しており、ときどき騒動を引き起こしては
 スペイン人に抵抗していたため、危険視されていたことが挙げられる。
・家康が駿府に隠居した翌年、すなわち1608年にフィリピン総督がドン・ロドリゴ・
 デ・ビベロ・ベラスコに交代すると、長い間家康が抱いていた日本とスペインとの通商
 条約締結の熱望が達せられ、フィリピンと日本との間に初めて親しい関係が成立した。
・1609年9月(慶長四年九月)夜、臨時のフィリピン総督ビベロが任期を終えてフィ
 リピンのカビテ港を出帆してヌエバ・エスパニアのアカプルコ港に帰る途中。大型帆船
 (サン・フランシスコ号)が暴風に遭い、上総国夷隅郡岩和田(現千葉県御宿町)の沿
 岸で座標した。
 船員三十六名は波浪にさらわれて溺死し、他の三百四十〜三百五十人が、夜が明けると
 ともに日本の地に漂着した。 
・岩和田村の漁民は、漂流者の惨状を知ると心から愛憐の情をもって、スペイン人を迎え、
 衣服と食事を与え、彼らに再生の思いをさせた。
 岩和田の領主「本多忠朝」はこれを幕府に報告したが、幕府はヌエバ・エスパニアと通
 商交易を熱望していたことから、忠朝に対して乗組員に住居、衣類などさまざまな便宜
 を与えて厚遇するように指示した。
 ビベロは将軍秀忠に謁見することを許されて江戸城に登城した。
・ビベロは「本多上野介正純」を訪ね、
 第一に宣教師の保護
 第二にスペインとの親交をはかること
 第三にオランダ人はスペインの国敵で品性甚だ陋劣なので、国外に退去させるようにと
 懇願した。
・これに対して、本多上野介正純は家康の回答を以ってビベロの宿舎を訪ね、宣教師の保
 護と日本・スペイン両国親交の持続の二点については承諾するが、オランダに対しては
 1609年(慶長十四)年にすでに通商を許可しているので、オランダ人の追放はでき
 ないと告げた。
・さらに幕府所有の船と航海に要する経費を与えて、一行をヌエバ・エスパニアに送還す
 ること、銀精錬に精通している鉱山技師五十人を日本へ派遣するよう要請した。
・ビベロは、徳川家康がかねてヌエバ・エスパニアとの通商交易に関心を持っていること
 を利用して、スペインに有利な取り決めを結ぼうとした。
 幕府に対して次のような協定条項を提案した。
 (1)採鉱利益分配の件
    採掘精錬された鉱石の半分は鉱夫に与え、残りはドン・フェリッペ三世国王およ
    び日本皇帝(徳川家康)の間で当分し、さらにスペイン国王の所有分を管理する
    ため官吏を派遣し、彼らに随伴して来日する宣教師は所属修道会を問わず、公教
    会において聖務日課を執り行うことができる権限を与えること
 (2)オランダ人追放の件
    オランダ人はすべて日本から追放すること
 (3)スペイン寄港船の保護の件
    スペイン船が暴風のために日本に避難したり、また始めから目的を定めて来航
    したものに対して皇帝は安全な港を与え、誰もこれらの船舶に危害を加えるでなく、
    かつ船舶に搭載している商品を奪うことのないように保護すること
 (4)造船および軍需品購入の便宜を与える件
    スペインがモルッカ諸島またはマニラ派遣の船舶を建造し、またその軍隊に糧食、
    兵器、弾薬などを供給する必要が生じたときは、これに便宜を与え、またこの種
    の船およびヌエバ・エスパニアに航海する緒船に糧食、兵器、弾薬などを日本国
    内における通常価格で供給すること
 (5)スペインの司令官または特派大使の待遇の件
    スペイン国王が派遣する司令官または特派大使には、日本国内至る所において、
    それにふさわしい待遇を与えること
    また日本国内に在留するすべてのスペイン人に対して刑罰権を持たせ、もし犯罪
    を犯したならば、その者たちを処罰するようにする
・ところで、ビベロが房総半島で漂流した1609年秋の時点では、家康はキリスト教を
 全面的に容認している。
 ビベロの請願をそのまま認めれば、多くの宣教師が来日し、当時約三十万人というキリ
 シタンはさらに増え続けることが予想された。

ルイス・ソテロは、1603(慶長八)年に浦賀へ上陸して以来、家康、秀忠の庇護を
 受けて宣教活動を続けていたが、西日本を中心にイエズス会の基盤の強さに苦悩し続け
 ていた。その彼にとってビベロの要請は願ってもない好機であった。
 それは、徳川家康のヌエバ・エスパニアとの直接通商希望と鉱山技師派遣の要請を実現
 させ、イエズス会の勢力がまだおよんでいなかった東日本に、フランシスコ跣足修道会
 の布教基盤を確立しようとしたのである。
・ソテロはビベロの協定条項を携えて駿府へ赴き、家康の重臣で幕府の通商関係の責任者
 であった後藤庄三郎に協定条項を提出し、使節をスペイン国王に派遣することを勧説し
 た。 
・ついに、1610(慶長十五)年2月、ソテロは家康の殿中に召され、日本とヌエバ・
 エスパニアの通商開始のための正式な大使としてスペイン国王に派遣の命を受けたので
 ある。
・ところが、ビベロは派遣する使節としてソテロを初めから好まず、宣教師アロンソ・ム
 ニョスを推薦して代えてしまった。
 ビベロはソテロがあまりにも専断的な言動をすることに反発を感じ、幕府に対して使
 節の変更を申し込んだものと思われる。
・「アロンソ・ムニョス」使節が乗船した「サン・ブエナベントゥーラ号」は三浦按針が
 家康の命を受け、伊豆の伊東で建造した百二十トンの小型帆船である。
 家康にヌエバ・エスパニアの国情視察を命ぜられた京の商人「田中勝介」、田中庄次郎、
 米屋の朱屋隆成、それに堺の商人山田助左衛門ら、大坂、堺、京都の商人だけ二十名を
 乗せ、1610(慶長十五年)年8月ヌエバ・エスパニアに渡った。
・使節一行がヌエバ・エスパニア副王と会見することを許されたのは、使節一行がメキシ
 コ市に到着してから二カ月後である。
 これは副王が、幕府がムニョスに託した書簡の内容についてスペイン本国と協議し、そ
 の返事を待っていたからにほかならない。
 しかし、二カ月待たされがあげく、結局、国庫の窮乏を理由に、家康の要望はまったく
 受け入れられなかった。
・田中勝介使節一行は、1611年3月、答礼大使セバスティアン・ビスカイノ司令官ら
 とともに日本へ向かうためにメキシコ市を出発した。
 田中使節団の随行員で日本に帰国したのは十七名であり、残りの三名はヌエバ・エスパ
 ニアに残留した。 
 これら三名のうち二名は、副王ルイス・デ・ベラスコ侯爵の召使として仕えた。
 そして副王が二期目の任期を終えてスペイン本国へ帰国した際に、二名とも同侯爵に同
 行してスペイン本国まで渡っている。
・1612(慶長十七)年4月ごろ、家康が江戸や駿府など幕府直轄地にキリシタン禁令
 を出した。 
 詮議の結果、「原主水」ら十四人の直臣が信徒であることが判明、棄教による猶予を拒
 んだために、改易に処せられた。
 そして、全国諸大名・寺社などに、十四人を列挙して抱えおいたりかくまったりするこ
 とを禁じた触れ状を回した。駿府のみでなく、江戸でもほぼ同じころ、フランシスコ会
 の教会や修道院が破壊された。
・1610年1月、キリシタン大名「有馬晴信」は、家康の命令に逆らったポルトガル商
 船「ノッサ・セニョーラ・ダ・グラサ号」を長崎湾で攻撃、焼き討ちとする。
 有馬は、恩賞として、旧領で当時鍋島領であった肥前の藤津・彼杵・杵島の三郡の復帰
 を望み、幕府年寄本多正純の家臣「岡本大八」に斡旋を依頼した。
 有馬の恩賞は棚上げされたまま、岡本は有馬から銀六百枚の賄賂を受け取っていたこと
 が発覚、まず岡本が贈賄罪で逮捕される。
・岡本は逆に、有馬が長崎奉行を倒す計画を持っていたことを自白、有馬も反逆罪で逮捕
 される。  
 有馬は家康の命令に従い、ポルトガルの武装大型商船という巨大な敵に立ち向かい、
 激しい海戦で打ち勝ったのであり、その恩賞は当然、有馬の期待どおりになっておかし
 くなかった。
 ところが、熱心なキリシタンの有馬は切腹、岡本は火あぶりの刑に処せられた。
 これを「岡本大八事件」と言う。
・大八・晴信ともにキリスト教徒であった。
 二人の処刑とともに、家康はキリシタン弾圧へ180度、舵を変換した。
 本事件の審問の経緯と、慶長十七年三月のキリスト教禁令の発布の経過と重ね合わせる
 と、この禁令が「岡本大八事件」を主な契機としたことは明らかである。
・家康はこのように、対外貿易政策として開国主義を採ったが、キリシタンは禁止し、キ
 リシタンと関係のない日蘭通商を1609(慶長十四)年に、日英通商は1614(慶
 長十九)年に開始している。
 また、さらに「商教一致主義」のスペインの植民地フィリピンを経由せず、ヌエバ・エ
 スパニアと直接通商を行うことを熱望するようになっていた。
・家康は、親書でスペインに対して商船貿易での交流のみを望み、日本でのキリスト教布
 教は許可できないことを伝えている。
 親書はヌエバ・エスパニア副王宛てであり、スペイン国王フェリッペ三世宛てではない。
 つまり、家康は支倉らがヌエバ・エスパニアを経て、スペインやローマへ向かうなどと
 は思ってもいなかった。
 当然、政宗は家康に伝えていない。「訪欧使節団」は密使であった。
・支倉らがヌエバ・エスパニアへ到着するのとほぼ同じ、1614年2月、家康は日本全
 国にキリスト教禁令、宣教師追放令を発布、キリシタンは徹底的に弾圧されていく。
 支倉らがローマ教皇に謁見するなど、日本の国法では決して許されない。
 ところが、仙台に残った政宗は、表面的には家康の禁教令に従うように装ったのである。
 
・ここで、「慶長遣欧使節」派遣の立役者ルイス・ソテロが所属するフランシスコ修道会
 と、日本で初めてキリスト教を伝道したイエズス会の衝突の背景について述べる。
 当時のフランシスコ会とイエズス会の関係であるが、1529年にスペイン、ポルトガ
 ル両国は「サラゴサ条約」を締結し、太平洋上に一経線を画した。
 つまり、日本からヨーロッパへ向かう時は、ポルトガル国王布教保護権下のイエズス会
 は東回り(インド洋回り)で、スペイン国王保護権下のフランシスコ会は西回り(太平
 洋回り)と定められていた。
 つまり「慶長遣欧使節」はスペイン国王布教保護権下にあったフランシスコ会の援助で
 渡航したので、西回りのヌエバ・エスパニア経由で大西洋を渡ってローマまで向かわざ
 る得なかったのである。
・一方、天正時代に九州の四大名がローマに派遣した「天正遣欧少年使節」は、ポルトガ
 ル国王布教権下にあったイエズス会の全面的な援助で渡航したので、マカオ、ゴアなど
 を経由して東回りコースでポルトガルのリスボン港にたどり着き、陸路でローマまで旅
 をした。
・なぜ、同じ仕事に従事するイエズス会とフランシスコ会の宣教師たちの間で、敵対関係
 があったのだろうか。
 当時の人々は、これが理想だと信じた目標に視線を集中して、さまざまな手段を用いて、
 その実現のために全力を尽くしたのである。
 こうした精神風土にのめり込んでいた宣教師たちは、それに従って行動することに何も
 抵抗がなかったのである。
・イタリアのシチリア出身のイエズス会士ジェロニモ・デ・アンジェリスと、スペイン出
 身のフランシスコ会士ルイス・ソテロの対立は、修道会よりも宣教師の出身国による民
 族間の心情や、一転二転した教皇令の曖昧さなどに加え、この対立を和解させる法的な
 根拠が欠けていたことが原因であったと考えられる。
 結論的に言えば、両修道会の対立はポルトガルとスペインの二大強国の対立が最も影響
 している。
 また、その異なった国王の布教保護権のもとに来日していることにある。
 
伊達政宗の「天下取り」の陰謀:遣欧使節派遣までの経緯
・総督ドン・ロドリゴ・ブベロが無事メキシコ市へ帰還すると、徳川幕府に対する返礼の
 問題が直ちに浮上した。
 つまり、ビベロが帰還費用として幕府から借用した四千ペソの返却と、当時注目されて
 いた日本と同じ緯度の太平洋上に存在すると信じられていた「金銀島」の探検隊の司令
 官兼答礼使節に、「セバソティアン・ビスカイノ」が任命された。
・太平洋上の「金銀島」の発見を目的とした大型帆船「サン・フランシスコ号」には、
 ビスカイノのほかに、主任航海士、水先案内人など五十一人の船員と、田中勝介使節団
 一行の日本人十七名が乗船し、1611年3月にアカプルコ港を出帆した。
 この「サン・フランシスコ号」には、ロドリゴ・デ・ビベロの使用人としてビベロと一
 緒 に「サン・ブエナベントゥーラ号」でヌエバ・エスパニアに渡った「ファン・デ・
 ビベロ
」(日本人名は不詳)という日本人の若者が通訳兼下級船員として乗船していた。
・しかし、日本近海に至って暴風に遭い、船は著しく破損しながら、同年6月(慶長十六
 年)、常陸の海岸に到着、そこから回航して浦川(浦賀)に安着した。
・上陸したビスカイノは、家康・秀忠に謁見し、ビベロ提督が受けた厚遇に対し感謝する
 とともに、田中勝介ら日本人使節団を送還するために渡航した旨を伝えた。
 また、ビベロが借り受けた銀(資金)と搭乗した「サン・ブエナベントゥーラ号」の建
 造費を支払った。 
・さらに、ビスカイノは「日本沿岸での港湾測量、船の建造、商品の売買」などの許可を
 与えてもらうよう家康に請願した。
 特に、ビスカイノは、日本沿岸の港湾測量の必要性について説明した。
 これは、スペインの船がフィリピン−ヌエバ・エスパニア間の航路でたびたびしけに襲
 われ、難破、漂着しているが、今後、日本との通商を行ううえで、台風やしけを避ける
 ために日本沿岸にどんな港があるのか、よく知っておく必要があるからであった。
 家康は疑問を差しはさむことなく、非常に快く応じ、これらの請願を認める朱印状発行
 を指示した。 
・ビスカイノは、さらに、1580年にスペインから独立を宣言、各地で戦っていたオラ
 ンダ人の日本からの追放を求めた。
 だが、家康は、「オランダ人とは通商での取り決めをした。彼らは日本に生糸や絹織物
 を運んでくる、と約束している」と、オランダ人追放に同意しなかった。
・「オランダ人追放」を求めるビスカイノの主張は、明らかに日本への内政干渉であり、
 スペイン側からの要求の受け入れ拒否は当然であった。
・こうした家康の対応に対して、駿府城で通訳にあたったウイリアム・アダムスは、ビス
 カイノが求めた「日本沿岸での港湾測量」について不信を抱き、家康に対して、
 「スペイン人は、気位が高く野心家であり、そして非常に好戦的で、全世界を制覇しよ
 うと企でている。まず宣教師を征服しようとする国に送り込み、多くの人々をカトリッ
 クに改宗させ、スペイン国王が軍隊を送り込んで、支配下に置く戦略である」
 と説明した。
 つまり、スペイン人の真の目的は日本侵略である、とアダムスは主張した。
・そしてアダムスは、スペインがカトリック布教のもとに、ヨーロッパ、アメリカ大陸、
 アジアの領土を植民地化したことを家康に伝えた。
・当然とはいえ、家康のスペインに対する不信感はますます大きく膨らみ、スペインとの
 関係を一から見直すことにした。
 キリスト教禁令はその大きな一歩であった。
・総じて言えば、幕府とスペインとの関係がこじれた主な原因は、家康が「オランダ人追
 放」を認めなかったことである。
 そして家康が強く要望した「鉱山技師の派遣」をスペイン側が見送ったこと、「日本近
 海での金銀島の目的を隠していた」ことなどが挙げられる。
・当初、家康とビスカイノの会見は友好的に進められた。
 しかし、それは初めのうちだけで、やがて両者の友好的雰囲気は冷え切っていった。
 家康はキリシタン弾圧策を強化していったことがその理由であった。
 ビスカイノは、日本滞在中、家康による駿府のキリシタン迫害の報に接し、次第に態度
 を硬化させていくことになった。 
 家康の頭には、「キリシタン問題と貿易は別」との思いがあったが、スペイン人ビスカ
 イノにはそれを理解することができなかったというか、理解するわけにはいかなかった、
 というほうが正しい言い方になろう。
・1611年11月、ビスカイノ一行は仙台に到着し、青葉城に伊達政宗を訪れた。
 伊達政宗は、一行を引見した際に礼節を尽くして歓待し、あらゆる援助を与えた。
 政宗はビスカイノを利用できる男とにらんだ。
 理由は、彼と伴って来た船員たちの航海術や船の建造のための造船技術を利用しようと
 思ったからである。
・ビスカイノ一行は、伊達邸に滞在した後、仙台を出発。家康、秀忠に謁見した。
 その際に幕府から、伊達藩領内の三陸海岸各地にある港湾の測量のための朱印状の交付
 を受けていた。
・ビスカイノは気仙沼湾で測量を開始し、地図作成に取りかかり、北緯38度から40度
 の間に、大船の出入港に適する入江数カ所の良港を発見した。
 これを地の中に記入するのを見て、伊達政宗はヌエバ・エスパニアとの通商交易の実現
 に大きな希望を抱いたのである。
 しかし、このビスカイノの三陸沿岸の測量について、オランダやイギリスは、幕府に対
 し、これはスペイン人が日本を侵略する予備工作であろうと中傷した。
・1612年9月、ビスカイノ一行は家康と秀忠からヌエバ・エスパニア副王宛ての返書
 を受けて、「金銀島」探検のために浦川を出帆したが、もともとあるはずのない島を発
 見することはできなかった。  
・ビスカイノはなおも所々探索を続けたが、10月、暴風雨に遭遇し、「サン・フランシ
 スコ号」の船体は甚だしい損傷を生じて航海困難な状態となった。
 航海を続けてアカプルコ港へ帰還するのは不可能となり、浦川港に引き返した。
・ビスカイノは投錨するとすぐ、家康と秀忠に使者を送り、その漂着と、現在の窮乏、来
 年の出帆準備を整えるのに困窮していることを知らせた。
 ビスカイノは家康が江戸にいると知るや、謁見に出かけ支援を求めた。
 しかし、一度も家康とは話ができず、覚書もその手に渡らなかった。
  
・「訪欧使節団」派遣の立役者であるソテロという人物は、十七世紀におけるわが国のキ
 リスト教界の生んだ特異な人間像の一人であり、頭脳、手腕、弁舌の三拍子そろった天
 才的な才能の持ち主であった。
 ソテロは徹底的な活動家であった。
 それがために多くの敵をつくり、終生困難と苦悩に身をさらしたが、彼は強烈な反発力
 ですべてを跳ね飛ばした。
・1603(慶長八)年6月、ソテロ神父は、フランシスコ修道会の日本宣教団の一員と
 して、フィリピン諸島のアクーニャ総督の書簡と家康と秀忠への豪華な贈り物を携え
 て、フィリピンのマニラからガレオン船「サンティアゴ号」に乗船して日本へ向かった。
・ソテロは来日すると、同僚の修道士らとともに江戸城に登城して、家康と秀忠に謁見し、
 アクーニャ総督の書状と贈り物を届けた。
 彼の態度物腰は上品で如才ないので、家康から好感をもって迎えられ、尊敬と信頼を得
 た。 
 そして、随時自由に江戸城への出入りを許すという特権まで与えられた。
 さらに、日本国内で随意に宣教活動を行うことを許された。
・家康がソテロにこうした便宜をはかったのは、それなりの魂胆があってのことであった。
 それはスペインと日本の通商交易を実現させることであった。
・ソテロは確かに頭脳明晰で優れた聖職者であった。
 特に、彼の日本語の「読み、書き、話す」の能力はずば抜けていたようであり、ローマ
 教皇パウロ五世やセビィリャ市に宛てた伊達政宗の難解な字体の日本語書状を、一字一
 句、正確にラテン語やスペイン語に翻訳している。
・ソテロと伊達政宗との初対面は、「江戸で政宗が特別に寵愛していた外国人の側室が重
 病になり、ソテロの部下のペドロ・デ・ブルギーリョス修道士が治療して恢復させたこ
 とがきっかけとなって知り合った」ようである。
・この外国人の側室とは、伊達政宗が朝鮮出兵した際に連れてきた朝鮮人女性である可能
 性が濃厚である。 
 この外国人の側室は白人だったという説があるが、十七世紀初頭にヨーロッパ人女性が
 日本に上陸したという記録や、白人女性が日本人男性の愛人(妾)になったという記録
 は存在しない。
・政宗がソテロ神父と親交を結ぶようになったのは、ソテロが1610(慶長十五)年に
 米沢で政宗から引見を許されたからである。
・その後、ソテロは1611(慶長十六年)11月、仙台を訪問し、青葉城で政宗とヌエ
 バ・エスパニアへの使節船派遣について話し合っている。
・政宗の信仰心について、ジェロニモ・デ・アンジェリスは、1619年11付けでロー
 マのイエズス会本部の総長へ次のように報告している。
 「政宗は洗礼志願者であり、やがて洗礼の秘跡を受けるであろう、というのはすべて偽
 りである。なぜなら、彼は決してそのような考えを抱いていることはなく、むしろ現世
 があるのみで、(来世の)救いはないと考えているからである。それゆえ、彼は正妻の
 ほかに三百人の側女(妾)を持って正妻を邸内に置かず、己の世話をする多数の(男色
 のための】童子を抱えている」
・イエズス会の巡察師ヴァリニャーノが「日本人の短所」として、「(日本人は)色欲に
 ふけることであり、最悪の罪は男色である。日本人はこれを重大なことだとは思わない
 から、若衆たちも関係のある相手もこれを誇りにして公然と口にする」と指摘している
 ように、当時の大名がお抱えの小姓と性的関係を持つことは珍しいことではなく、男色
 によって社会的に非難されたり、特別な目で見られることもなかったようである。 
・しかしながら、アンジェリスは、キリスト教社会で道徳的に、また倫理的な面で大罪と
 されている政宗の男色を、宣教師の立場から厳しく批判したのである。
 事実、政宗がお抱えの小姓と衆道の契りを交わしたと赤裸々に自ら告白している書状が、
 仙台市博物館に残されている。
・いずれにせよ、政宗自身は受洗までの決心がつかなかったが、1611(慶長十六)年
 10月付で布告を出して、仙台領内でキリシタン宣教の自由と家臣の入信を許可した。
 仙台城の大広間にキリシタン宣教の自由を掲示してキリシタン保護の姿勢を示した。
 そのため、領主から家臣・民衆へと「上からの布教方法」で、伊達藩領内におけるキリ
 スタンが急速に増大したのである。 
・こうした政宗のキリシタンに対する好意的な態度は、彼のキリスト教に対する信仰心か
 らではなく、キリシタンを利用して天下取りを果たそうとする魂胆があったからである。
・ソテロが約一年間におよび仙台滞在中に、江戸では、オランダ人とイギリス人が結託し
 て、あらゆる手段を行使してキリシタンを中傷していた。
 彼らはカトリック教会をスペイン、ポルトガル二国に結びつけて、布教活動を認めるの
 は日本にとって危険なことであると吹聴していた。
 過去一世紀にわたるポルトガル人やスペイン人の、インドやインディアス(アメリカ大
 陸など)での残虐な征服行為を挙げて非難した。
・それに対して、スペイン人やポルトガル人は、オランダ人が反逆者であり海賊であるこ
 とを攻撃した。  
・約一年間滞在した仙台から江戸に戻ったソテロは、家康の彼に対する従来の信任を利用
 し、全力を挙げて日本とスペインとの、一層緊密な友好的通商政策的な結合を再現しな
 くてはならないと決意を新たにした。
 ただ、新しく登場したソテロの宿敵ウイリアム・アダムス(三浦按針)の勢力が、すで
 に彼を凌駕していた。
 家康の態度は、以前のような好意どころか、逆に反抗的、脅迫的になったことが明らか
 に現れていた。
・ソテロは政宗の口添えで、ヌエバ・エスパニア、スペイン本国で通商条約を締結するに
 は、どうしてもこの際、かの地へ使節を派遣すべきであると勧説した。
 家康はソテロの説得には賛成せざるを得なかった。
 海外との通商交易政策は彼の持論でもあり、しかも政宗の口添えがあるからである。
・早速、船(サン・セバスティアン号)が建造された。
 ソテロは、スペイン国王宛ての家康と秀忠からの親書を携え、政宗の家臣支倉六右衛門
 らを同船させ、1612(慶長十七)年10月、相模浦川(浦賀)から出帆した。
 しかし、造船技術が不完全であったのに加えて、航海者が未熟であり、そのうえ激しい
 暴風に遭遇してしまい、同夜、浦川の沖で難破してしまった。
・ともかく、幕府は大きな損害を受けたのである。
 そのためソテロは家康からすっかり毛嫌いされ、以前のような江戸登城権は永久に封じ
 られたのである。  
・このときソテロは、スペイン国王宛ての家康と秀忠の親書を返却せず、1613年10月に
 再度乗船する機会が訪れるまで自分の手もとに保管していた。
 そして政宗の訪欧使節団の大使としてヌエバ・エスパニアとスペイン本国に赴くことに
 なり、家康と秀忠の親書を副王、そして国王フェリッペ三世に渡して、政宗が派遣した
 使節団が表向きには日本の皇帝が派遣したように装ったのである。
  
・江戸幕府は貿易奨励政策と採っていたので、キリスト教に対して、ことなく寛大になっ
 た。
 キリスト教は広く深く信仰され、1549〜1630年の約80年間に、キリスト教に
 改宗したものは幼児を含めておおよそ76万人に達したと推定される。
・このように、キリシタンが急速に普及したのは、当時の日本社会が戦国時代以来の不安
 定な状況にあり、これに対し、宣教師たちが教育、福祉、医療などの背策をもって組織
 的に布教・伝道したためとされる。 
・その後、幕府はイギリス・オランダのプロテスタント国に接し、貿易と布教の分離が可
 能であることを知る一方、スペイン・ポルトガルのカトリック国に侵略の恐れがあると
 の情報を得た。
 そこで幕府は、徐々にキリスト教を取り締まる方向に進んでいた。
・幕府は、1612(慶長十七)年4月、直轄領の駿府にキリスト教の禁止を命じ、教徒
 である側近の家臣23人を追放していた。
 慶長十七年の禁制は、家康の意向として諸国に伝えられ、これより禁教への気運が次第
 に形成されていくこととなったのである。 

伊達藩と幕府の合同プロジェクト「訪墨使節団」
(政宗の密命とソテロの思惑と幕府の面目と)
・日本では、マゼランが世界で初めて世界一周の航海に成功した人物と紹介されているが、
 マゼランは航海途中で死亡しており、実際には地球を半周しかしていない。
 世界一周に成功したのはマゼラン船団のナンバー2、エルカノなのである。
・それから42年後、ヌエバ・エスパニア副王ルイス・ベラスコはミゲル・ロペス・デ・
 レガスピにフィリピン征服を命じた。
 彼は艦隊五隻を率いて、1564年11月、先にフィリピン遠征の経験があるアンドレ
 ス・デ・ウルダネータを同行してフィリピンへ向かった。
・1565年5月にレガスピとウルダネータが率いる艦隊はセブ島に着き、この地を根拠
 として漸次諸島を占拠した。  
 1570年6月にはルソン島のマニラを占拠し、この地を首都と定めた。
 それ以来スペインは、1858年までの333年間、植民地としてフィリピンを支配し
 たのである。
・ウルダネータは、1565年6月、セブ島を出帆して北緯30度近くで黒潮に乗り、
 北緯36度のところで、犬吠岬かと思われる日本の岬を望見した。
 さらに航海を続けてカルフォルニアの海岸を望見し、ヌエバ・エスパニアのアカプルコ
 港に無事帰港した。
・ウルダネータが発見した、太平洋を西から東へ横断し、スペインの二つの領土を結ぶ航
 路は「マニラ−ガレオン航路」と呼ばれ、アメリカ大陸と東洋との間の交通と通商の端
 緒を開くものであった。
・ウルダネータによる北太平洋航路の発見は、つまり、黒潮の発見であり、それはマゼラ
 ンが北赤道海流に乗ってフィリピンにたどり着いてから44年後のことであった。
 ウルダネータによって「黒潮=北太平洋航路」が発見されてから48年後に、支倉やソ
 テロを乗せた伊達の黒船(サン・ファン・バウティスタ号)が同じ航路をたどってアカ
 プルコ港に入港したのである。
・フィリピンーアカプルコ間の航海に使用されたのはガレオン船であり、そのほとんどは
 木材の豊富なフィリピンで建造された。
 ガレオン船の規模は当初は三百トン級であったが、徐々に大型化し、1614年には千
 〜二千トン級の商船が建造されるようになった。
 また、乗組員は船の大きさによって異なるが、一回の航海で六十〜百人程度であり、
 五百トン級のガレオン船には百五十人が必要とされた。

・政宗のスペイン国王とローマ教皇に対する「宣教師の派遣要請」は、ヌエバ・エスパニ
 アとの通商交易実現のための方便だったのではなく、領内でのキリスト教の布教以外に、
 領内のキリスト教徒のために御ミサを司式し、告解や聖体拝領の秘跡を授けるためであ
 った。
・これらの目的は、幕府の国内および外交政策に反するものであり、絶対に容認されるも
 のではなかった。
 そのため「訪欧使節団」派遣の名目は幕府派遣となっているが、実際には政宗の密命を
 帯びて、スペイン国王とローマ教皇聖下のもとに派遣されたのである。
・アンジェリスは、シチリア島エンナの出身で、1602年に来日した。
 アンジェリスは一年間日本語習得のために費やし、1603年伏見の教会に配属され、
 十年間をこの任地で過ごした。
 政宗の重臣で奥州見分のキリシタン領主「後藤寿庵」の招きに応じ、1614年4月に
 仙台に到着した。
 以後、後藤寿庵の領地内を中心に宣教活動を行っていた。
 1623年に江戸で火刑にされ殉教している。
・ルイス・ソテロは後藤寿庵の仲立ちによって、政宗と親交を結ぶと、やがて政宗とヌエ
 バ・エスパニアだけに行くための一隻のナヴェッタ船(小型船)を建造するのが甚だ賢
 明なことであると勧告するようになり、それによって得られる利益に対して非常に大き
 な期待を彼に抱かせた。 
・船の準備が整うと、ルイス・ソテロは後藤寿庵に、政宗がスペインの国王とローマ教皇
 のもとに使節を派遣すべきであることを指摘し、そしてこの条件が受け入れられなけれ
 ば、自分は乗船しないだろうと述べた。
 後藤寿庵は困惑したが、他に方法がなかったのでやむなくソテロの言い分を政宗に伝え
 た。
 政宗はすでに相当の金額を船の建造のために出費していることを考慮し、ソテロの進言
 を受け入れてスペインとローマに使節を派遣することに同意した。
・政宗の使節派遣の当初の目的は、ヌエバ・エスパニアとの直接通商交易を開くものであ
 り、スペイン本国とローマにまで使節を派遣すると決めたのは、船がほぼ完成した出帆
 直前のことであった。
 結果として政宗はソテロの提案を受け入れたのである。
・アンジェリスは、ソテロがヌエバ・エスパニアまでという当初の渡航計画を変更し、ス
 ペインとローマへの使節派遣を政宗に迫った狙いは、ソテロが東日本の司教になるため
 に、どうしてもローマまで行って教皇に謁見する必要があったからと証言している。
・しかしながら、政宗がいかに度量のある人物であっても、ソテロの司教叙階の承諾を得
 る目的のためだけにスペインとローマまでの使節派遣に同意するはずはなく、アンジェ
 リスは情報源の後藤寿庵から、ソテロが画策した極秘の目的についての情報までは入手
 できなかったのである。 
・幕府は暴風雨で船を失ったビスカイノ一行をアカプルコ港まで送還しなければならない
 深刻な問題を抱えていた。
 そうしたときに進められていたのが伊達政宗の「訪墨使節団」の派遣計画であった。
 当時、まだ日本では五百トン級の船をつくる技術や太平洋を横断する航海技術が乏しか
 ったため、伊達政宗は渡りに船を得て、ビスカイノ司令官に船の建造や航海中の報酬な
 どに関する契約を、ソテロの仲介によって結ぶことを申し出たのである。
 ビスカイノ側も、船の建造費などの経費をまったく負担することなくアカプルコ港に帰
 還できる手段ができたので、これを受け入れたのである。
・これによって幕府側は、国賓として来日していたビスカイノ一行の帰国のめどがついた
 ことで、一応国際的な面目を保ったことになり安堵したのである。
・結局、「訪墨使節団」は、ヌエバ・エスパニアでは日本の皇帝(将軍)が派遣した使節
 団であると受け止められ、格式の高い歓迎を受けたのである。
・なお、「訪墨使節団」の公式団員は、主席大使のルイス・ソテロのほか、随行員として
 今泉令史、松木忠作(登明)、支倉六右衛門常長、西九助、田中太郎右衛門、内藤半十
 郎、佐藤内蔵丞など伊達藩士が十二人、船手奉行向井将監忠勝の家人が十人ほどである。
・ちなみに、「訪欧使節団」の日本人随行員で、「治家記録」に名前が載っているのは支
 倉六右衛門だけである。 
 政宗よりヌエバ・エスパニア副王に宛てた書状に、
 「ソテロ神父には私の家臣三名を付き添いとし、そのうち一人は、奥南蛮(ヨーロッパ)
 に赴き、他の二名は、貴国(ヌエバ・エスパニア)から帰国することになっています」
 と認めているように政宗は「訪墨使節団」の正式メンバーのうち奥南蛮へは一人(支倉)
 だけを遣わすことにしていたのである。
・支倉六右衛門常長が大使に選ばれた経緯について、アンジェリス神父は、ローマのイエ
 ズス会本部へ送った書簡で次のように証言している。 
 「政宗が大使に任命したのは一人のあまり重要でない家臣であった。彼の父は数か月前
 に盗み(不動産横領罪)の罪で斬首(日本側史料では切腹)されたが、今大使に任命さ
 れた彼をも日本の習慣に従って斬首(日本側史料では追放)に処するつもりであり、す
 ぐに彼が持っていたわずかな俸禄を召し上げてしまったところであった。このたび死刑
 (追放)を免じる代わりに、スペインおよびローマまでの渡航の苦痛を味わうことに減
 刑するほうがよいと判断した。おそらく航海の途中で死ぬだろうと思って彼を大使に任
 命し、召し上げたわずかな俸禄をも一応返した。それゆえ、ルイス・ソテロ師が、同行
 した大使はあまり高名な人物ではなく、ソテロ師がローマ入りするまでの全スペインと
 イタリア、そして教皇の御前で宣伝するような、政宗の親戚でもない」
・この証言文の内容を精査すると、まず支倉六右衛門の実父「山口飛騨守常成」の切腹と、
 その子六右衛門の追失(追放)については、奉行の「茂庭石見守綱元」に命じた伊達政
 宗の自筆書状で、その正しさが証明されている。 
・支倉は、仙台藩では家格が百七十番目で、六百石取りの中堅の武士であった。
・支倉六右衛門は、1571(元亀二)年に米沢城主伊達輝宗の家臣山口飛騨守常成の子
 として生まれた。
 1577(天正五)年に伯父支倉紀伊守時正の養子となった。
 1596(慶長元)年、義父時正に二子助次郎が誕生したため、伊達政宗の命により、
 千二百石の家禄から柴田郡支倉村に六百石を分与され分家、支倉姓を名乗る。
 これにより、支倉氏は、時正、助次郎、六右衛門の三家に分かれた。
 1600(慶長五)、「九戸政実」の反乱に際し、白石七郎とともに敵方の領地に送り
 込まれ、街道筋の情報収集を命じられている。
 六右衛門は分家を立てた前後に松尾木工と結婚し、二男一女をもうけた。
 長男「勘三郎常頼」は、キリシタンの擁護者として、1640(寛永十七)年春、切腹
 を命じられた。 
 また常頼の弟権四郎常道は、キリシタンの信仰のゆえをもって、逃亡して行方をくらま
 した。
・支倉は世界の帝王たるスペイン国王とローマ教皇相手に、綱渡りのような外交交渉を余
 儀なくされたので、大局を見すえる判断力と、腹のすわった決断力を合わせ備えた人物
 であったようだ。
・支倉は語学力には欠けていたが、世界に通用するかなり高い教養を身につけていたよう
 だ。 
 そして何よりも支倉は人一倍忍耐強かった。
 支倉は使命を果たすため、七年余りの歳月を、健康を犠牲にしながら命を懸けて、黙々
 と仕事を続けたのである。
 彼はどんな困難に直面しても、困難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は
 希望を生み出す、そして希望は失望に終わることはないと確信し、苦悩と闘いに打ち勝
 とうとした「不撓不屈の精神」の持ち主であった。
・こうした支倉の人柄がにじみ出ているのが、故国を離れてから五年目に、マニラから、
 息子の勘三郎常頼宛てに書き送った手紙の内容である。
 これには母を気遣い、妻を案じる思いやりの心がその筆遣いに切々と表れている。
 人一倍責任感の強い武士だった支倉は、また人一倍愛情のあつい人でもあったようだ。
 そして支倉は、家族が心配しないように、どん底にあった自分の状況については露ほど
 も筆にしなかった。

伊達藩単独の訪欧密使の派遣:ローマ教皇庁へ使節を派遣した目的
・「訪欧使節団」の真の目的とは一体何だったのであろうか。
 慶長遣欧使節派遣をめぐる最大の謎である。
 幕府のキリシタン禁令下に、ローマ教皇庁へ公然と使節を派遣したことと関係があるは
 ずである。
・ソテロは、幕府のキリスト教の禁教令で、自分が洗礼を授けた二十八人のキリシタンが
 処刑されるのを目撃し、また、自らも捕らわれの身となり、火刑に処せられる直前に政
 宗に救出されるという経験から、日本におけるキリスト教の布教活動の前途に絶望感を
 抱いたと考えるのが妥当である。
・そこでソテロは、徳川家と姻戚関係にある伊達政宗の保護のもと、自ら東日本区の司教
 になって、仙台領内で大々的に宣教活動を行うことをもくろんだ。
 そして、キリスト教に対して理解を示し、自らも洗礼志願者となって、家臣にキリシタ
 ン改宗を勧めた政宗に、日本全国のキリスト教徒の指導者になるように勧説したのであ
 ろう。 
・それを現実のものにするためには、日本中のキリシタンの支持を得て、政宗がローマ教
 皇に「服従と忠誠」を誓い、彼ら(日本におけるキリシタン)の指導者として認証をも
 らう必要があった。
 そのためにソテロは、政宗に、スペイン国王とローマ教皇のもとに極秘に使節を派遣す
 ることを持ちかけたのである。
・つまりソテロは、政宗が日本で弾圧され始めた三十万人以上のキリシタンと手を結んで
 領内に「キリシタン帝国」を築き、かつて世界最強と言われたスペインの強大な軍事力
 の支援を受け、家康の死後、将軍の座に就いて、「キリシタンの王(カトリックの王)」
 となり、ローマ教皇の配下になることを勧説したと推察される。
・ちなみに、著者の既刊書では、家康の死後、将軍職を秀忠から政宗の娘婿松平忠輝(家
 康の六男)に譲らせ、自分は執権職に就くための討幕を考えていたと推察した。
 しかし、その後の研究の結果、政宗自身が天下取りの夢を捨てきれず、自ら「将軍職」
 に就くためにキリスト教を利用としたことがわかったのである。

・政宗がソテロと支倉の二人の大使が率いる「訪欧使節団」を、スペイン国王とローマ教
 皇のもとに派遣することを決定すると、政宗の重臣たちは激しく反対した。
・政宗が、スペインの有力な貴族出身とはいえ、世界中のキリスト教徒の最高指導者であ
 るローマ教皇と世界における有力帝王のスペイン国王を相手にして、どこまで力を発揮
 できるかわからない一人の神父ソテロを信じて、彼にすべてを委ねようとしたことに対
 し、政宗の重臣たちは、当然のことながら大きな不安に駆られ計画を阻止しようとした
 のである。
 特に重臣たちは、使節を派遣して本当にスペイン国王やローマ教皇に謁見できるかどう
 か、疑問に思ったのである。
 しかし政宗はソテロを疑ったりはせず、逆にすべてを信頼して任せたのである。
・こうした決断を下した政宗の度量の大きさに驚かされるのであるが、それだけ政宗は天
 下取りに対する執着が強かったのであろう。 
 また、途方もない計画を立案し、それを見事に実行したソテロの能力にも驚かされるの
 である。
 政宗は、「(使節)船は宣教師を招くための目的にだけ建造される」と強調し、極秘の
 目的についてはごく限られた者だけにしか明かしていなかったのである。
・政宗は、戦国武将として天下統一を目指し、豊臣政権時代に何度も嫌疑をかけられ窮地
 に追い込まれていることがあったが、その都度早い対応で危機を乗り越えている。
 政宗は「訪欧使節団」派遣に際しても、スペイン国王とローマ教皇のもとに遣わした二
 人の密使が討幕のための「密命」をおびていたことが発覚した場合の、最悪の事態に備
 えた危機管理対策を講じていた。 
 ソテロとの共同企画の密談を始める段階から、スペイン国王との九カ条から成る「申合
 条々(平和条約)」締結計画が、万一、幕府に悟られても、自分自身や藩に責任がおよ
 ばないように対策を講じたのである。
 その主な事前危機対応策として次の三点が挙げられる。
 (1)使節の人選
    政宗が使節の大使に伊達家の縁者や家老級の重臣を選んだ場合、順調にスペイン
    国との同盟締結や、ローマ教皇から政宗が日本におけるキリシタンの指導者(保
    護者)となるための認証を得る目的が果たせば、何の問題もなく、大変好都合で
    ある。
    しかし、失敗した場合には幕府に対して弁解ができない。
    万一、スペイン国王への使節派遣の責任問題が表面化した場合、末輩の家臣の不
    手際として処理しても何の文句を言われず、周囲のひとたちも、その程度の低い
    身分の人物であれば主君にまで責任を問うことはできない。
    ということで選ばれたのが六百石の中級武士、支倉六右衛門常長であった。
 (2)重要な証拠物件となる書簡や記録は何も残さなかった
    政宗からスペイン国王とローマ教皇に宛てた書簡には、都合の悪い交渉事の内容
    については何も触れないで、「自分(政宗)が申し上げることはソテロあるいは
    支倉がよく知っているから、その(本音の)部分は彼らの口から聞いてくれ」と、
    使節の性格を最後まで、幕府派遣のものとも、政宗が単独で派遣したものとも、
    どちらにもとれるように曖昧にした。
    また、使節船の造船に関する記録や痕跡を、すべてこの世から消し去った。
    さらに、使節一行が旅行中に伊達政宗とやりとりをした書状をすべて処分した。
 (3)ヌエバ・エスパニアから本隊の「訪墨使節団」と別れて、ヨーロッパへ旅をした
    伊達藩士や日本のキリシタン代表者らで編成した「訪欧使節団」の随行員の姓名
    や素状などは、ソテロと支倉以外は最後まで極秘扱いにされた。
・政宗の「訪欧使節派遣」の目的が討幕のためであったとする説を裏づけるアンジェリス
 証言文以外の主な論拠として、次の点が挙げられる。
 ・「申合条々」の内容が、政宗が幕府の承認を得たとは到底考えられず、極秘のうちに
  スペイン国王と同盟関係を結ぼうとした。
 ・幕府のキリシタン禁教政策がすでに始まっていたにもかかわらず、政宗はローマ教皇
  パウロ五世宛ての親書の中で、正反対のキリシタン選挙区拡大策を表明している。
 ・政宗がキリシタン弾圧を開始したのは、支倉が仙台に帰着した620(元和六)年9
  月以降であった。
 ・幕府のキリシタン禁制の取り締まりが年々厳しくなっているにもかかわらず、訪欧使
  節団に対し、日本へ引き返す指示を最後まで出さなかった。
 ・支倉常長は、ローマ教皇に対し、伊達政宗とその領地を教皇の最高権力のもとに加え
  てくれるよう請願している。  

・1613(慶長十八)年10月、支倉六右衛門とルイス・ソテロ、そして百五十名の日
 本人が「サン・ファン・バウティスタ号」で、ヌエバ・エスパニア、さらにスペインへ
 向けて陸奥国牡鹿郡「月ノ浦」を出帆したというのがこれまでの定説である。
・ところが近年、使節船「サン・ファン・バウティスタ号」の出帆地と造船地に関して、
 定説を覆す新説が注目されている。 
・新説を提唱したのは、須藤光興氏と遠藤光行氏の二人の郷土史家である。
 両氏とも使節船の出帆地と造船地に関する定説に疑問を抱き、長年にわたって緻密な史
 料分析と現地調査を積み重ねた結果、使節船の出帆地を従来の牡鹿郡月浦(現・石巻市
 月浦)の定説を覆し、雄勝浜月の浦(現・石巻市雄勝湾)であるという新説を発表した。
・一方、造船地については、遠藤氏は「雄勝呉壺説」を支持している。しかし、須藤氏は、
 「雄勝町雄勝浜」説を挙げている。
 
・使節一行が月ノ浦を出帆して三ケ月後の1614(慶長十八)年2月、幕府は改めてキ
 リシタン禁教令を発すると同時に、本格的なキリシタン迫害を始めた。
 ところが、政宗は幕府に対して表面的にはキリシタン禁教令を領内に発するかのように
 見せかけ、実際には多数のキリシタンを領内で保護していた。
・支倉・ソテロら使節一行がスペインを訪れていた時期の1614(慶長十九)年11月、
 徳川家康は諸大名に対して、大坂攻めの命令を下した。いわゆる大坂冬の陣の始まりで
 ある。
・政宗は、大坂城への出陣の命令はすでに予期していたことだった。
 大坂城には、家康の禁制で迫害された多数のキリシタンたちが入城して気勢を上げてい
 た。
 大坂では豊臣秀頼が、仙台では政宗が彼らを保護したのである。
 その理由は二人の信仰心からというよりは、将来、謀反を起こす際にキリシタンと手を
 結ぶ必要があったからだろう。 

メキシコで不当な待遇を受けた使節一行:使節団と「申合条々」の信憑性を疑われる
・1614年1月、支倉ら使節一行はヌエバ・エスパニアのアカプルコ港に無事到着した。
 しかしながら、副王グアダルカサール候は、日本人随行員の尊大で傲慢な態度、好戦性、
 既にアカプルコでも引き起こしていた騒動に対し、少なからず懸念と不安を抱いていた
 のである。 
・1614年3月、副王はヌエバ・エスパニアでの日本人の滞在条件として、支倉六右衛
 門とその随行員六名とカピタン(護衛隊長)、ドン・トマス(滝野喜兵衛)とそのお供
 二名を除いて、全員から武器を取り上げよと命じた。
 武器は保管しておいて、彼らが日本へ帰国する際に返却されるというものであった。
・副王のこの命令書によると、日本人と現地の人たちとの衝突の原因は、日本人の傲慢な
 態度、相手に対する好戦性、気性の激しさなどからであり、副王は、もっと深刻な武力
 衝突を懸念し、それを避けるために、支倉ら一部の幹部随行員を除いたすべての日本人
 から、武器を取り上げる命令を下したのである。
・一行が訪れた当時のヌエバ・エスパニアは、スペイン本国の支配が定着し、いわば無風
 状態に入っていた。
 この時期は「植民地の昼寝時代」と呼ばれる。
 副王もコレヒドール(王室代理官)も、アウディエンシア(聴訴院)の裁判官たちも、
 私腹を肥やし、庶民の犠牲のもとに裕福な生活を享受していた。
・「訪墨使節団」の随行員今泉令史と松木忠作は約一年間ヌエバ・エスパニアに滞在した
 後、1615年4月、アカプルコから「サ・ファン・バウティスタ号」でスペイン遣日
 使節の修道士らとともに出帆し、8月に浦川に着いた。
・松木は、1617(元和三)年のイエズス会側の古文書に仙台藩領のキリシタン代表者
 として、後藤寿庵らとともに記録されている。
 
・1614年4月、一行のうち四十二名がサン・フランシスコ教会で、メキシコ市大司教
 から洗礼を受け、六十四名が集団堅信を受けた。
 著者は、この集団受洗の洗礼台帳の所在を確かめるため、五年間探し求めた。
 そして、メキシコ市中心部に所在する教区教会「サンタ・ヴェラクルス教会」に保管さ
 れていることを突き止めた。
 しかしながら、その洗礼台帳には日本人の名前は一人も記述されていなかった。
 実際に受洗をしたのであれば、今も昔も人種・身分などに関係なく誰でも必ず記録され
 るはずである。
 それなのになぜ、日本人受洗者の名前が一人も記録されなかったのであろうか。
・十六世紀の初め、スペイン人がメキシコを征服した当初、カトリック教会は先住民の集
 団改宗に力を注いだ。 
 フランシスコ修道会の記録によると、毎日約一万四千人の先住民に洗礼を授けたという。
 しかしほとんどの場合、洗礼台帳に記録されることはなかった。
 使節一行の日本人受洗者も先住民と同様に扱われ、記録されなかったのではないかと推
 察される。

・1614年5月、支倉とソテロの二人の大使のほか、日本のキリスト教徒の代表者であ
 った滝野嘉兵衛、伊丹宋味、野間半兵衛の三人と伊達藩士ら日本人二十八名と、フラン
 シスコ会の修道士など総勢三十余名がスペイン本国に向けてメキシコ市を出発した。
・使節一行は途中プエブラ・デ・ロス・アンヘレスとハラッパに立ち寄り、歓迎を受け宿
 泊先を提供された。 
・そして1614年7月、キューバのハバナ港に到着。
 使節一行は、同年8月ハバナ港を出帆し、大西洋で数回暴風に遭い、危険ヒ陥りながら
 も約四カ月後の10月、なんとか無事に、南スペインのサン・ルカール・デ・バラメダ
 港に到着した。
 
スペイン王国セビィリャで大歓迎を受ける:使節団への疑惑と真相究明調査
・十六世紀後半まで広大な植民地を持ち、世界の覇者として君臨していたスペインは、
 1588年、無敵艦隊が、イギリス・オランダの連合艦隊に敗れ、没落の一途をたどり
 始めていた。
 事実、当時のスペインの国家財政は二回も破産を宣言し、コルテス(国王議会)の承認
 する臨時的な上納金に依存せざるを得なかったという。
 このような経済不安の時代に、使節一行はスペインを訪れたのである。
・使節一行がヨーロッパ大陸に第一歩をしるしたサン・ルカール・デ・バラメダ港は、
 スペイン華やかなりしころの軍港である。
 一行はこの港で、当時まだ世界最強を誇っていたスペイン艦隊を目の当たりにし、その
 威容に驚いたことだろう。 
・使節一行は、サン・ルカール港からグアダルキビル川をさかのぼりコリア・デル・リオ
 に到着した。
 この町に四日間滞在し、セビィリャ市入場の衣服を整えた。
・1614年10月、使節一行は、セビィリャ市に到着した。
 当時、地中海海航路と大西洋航路の中継地として、セビィリャ市はスペイン王国最大の
 商業都市として栄えていた。
・太陽がまぶしい町セビィリャ、四百年前に支倉が見た風景は今もこの町に息づいている。
 そのとき支倉四十四歳、人生五十年と言われた時代に、まったく異質なヨーロッパ文明
 に初めて触れたその驚きは、想像を絶するものがあったに違いない。
・使節一行は、まずセビィリャ市が宿舎として用意した「アルカサール宮殿」に落ち着い
 た。この宮殿は古いサルタンの城跡に、十三世紀になってスペイン王が建設したもので
 ある。
・使節の資格は「日本の皇帝(将軍)」と「奥州王」の派遣となっている。
 そのため、同市滞在中の経費はすべてセビィリャ市が負担することになり、
 支倉とソテロのほか、五、六人の上級随行員の宿泊先も、国賓級のVIPが泊まるアル
 カサール宮殿が提供されたのである。
 この時点で、スペイン側はまだ使節の資格や真の訪問目的などについての詳細な情報は
 入手しておらず、ソテロの言い分をそのまま信用して対応していた。
・使節一行がセビィリャ市に到着したころ、国王やインディアス顧問会議に対し、ビスカ
 イノ司令官やヌエバ・エスパニア副王から、使節に関する疑惑やソテロを批判する書簡
 や報告書が、続々と届けられていた。
 こうした状況のもとでインディアス顧問会議は、セビィリャ市の有力者で利害関係がま
 ったくないドン・フランシスコ・デ・ウアルテに対し、使節の訪問目的、使節の資格な
 どについて、ソテロと支倉から事情聴取するように命じた。
 これを受けてウアルテは、彼らの宿泊先のアルカサール宮殿を訪ね、長時間にわたって
 事情聴取した。
・ウアルテの報告書によると、支倉とソテロは通商交易の交渉や宣教師派遣要請以外の真
 の目的を明かさなかったことと、使節派遣者が日本の皇帝なのか、地方の国王(大名)
 なのか曖昧に伝えていたことがわかる。
・また、ソテロがウアルテに、家康からスペイン国王に宛てた親書を見せて、使節派遣者
 は皇帝(将軍)であると吹聴し、スペイン側に対しての宣教師派遣の要請は、日本の皇
 帝の認証を得たものであると説明したのである。
 これに対して、スペイン側は、「キリスト教に反対を宣言した日本の皇帝(将軍)が、
 宣教師派遣を要請している奥州の王(政宗)のような対応をするはずはないと、矛盾を
 突き、使節団に対し強い懸念を抱いたのである。
・結局、使節一行は奥州王の使節であることが明らかにされ、セビィリャ市以外での支倉
 の宿舎は、王宮ではなくフランシスコ会修道院があてられるなど、一行に対するスペイ
 ン側の待遇が大きく変わったのである。
・ウアルテは支倉六右衛門と長時間にわたって話し合い、支倉の人柄について、
 「尊敬に値し、沈着で智慮があり、雄弁家で謙遜な人物である」と絶賛している。 
・ウアルテは、長時間かけて二人の大使に聴取したが、「この使節の(訪問目的などにつ
 いての)信憑性に関してこれ以上私にはわからない」と報告していることから、ソテロ
 も支倉も極秘事項については最後まで何も話さなかったのである。
・支倉とソテロは、大使の警備隊長のドン・トマス(滝野嘉兵衛)を伴ってセビィリャ市
 庁舎に赴き、市長を表敬訪問して、セビィリャ市宛ての伊達政宗の書簡と大小二振りの
 日本刀を贈呈した。
 市長は進物と書簡を受け取り、(政宗の)書状はスペイン語とイタリア語に訳述され、
 市議会の秘書官によって読み上げられた。
・この書状は、どちらかと言えば通商交易使節団というより、宗教使節団のイメージを与
 える内容である。
 それにしても政宗が、幕府のキリシタン禁教令を無視して、逆に「我々はキリスト教の
 義務を果たし、神聖な洗礼によって真のキリスト教徒になる・・・」と、近い将来に政
 宗自身とすべての家臣がキリシタンになることを希望していると大胆に表明したのは、
 彼は本気で奥州に「キリシタン帝国」を建設する夢を抱いていたからであろう。
・使節一行がセビィリャに到着したのは、1614年10月である。
 ちょうど、日本では、「高山右近」らキリシタンをマニラに追放した。
 すぐに大坂の冬の陣も起きる。
 もし、家康が、政宗のこのセビィリャ市宛ての親書を読んだならば、即刻、仙台藩を取
 りつぶし、政宗をキリシタン大名としてマニラに追放していたはずである。
 使節派遣の目的がヌエバ・エスパニアとの直接通商交易ではなく、スペインから直接、
 船を迎え入れることを願ったのである。
・セビリヤ市庁舎での謁見式が終わると、市長をはじめ、二十四参議会議員や教会関係者
 らと会見した後、支倉らとソテロは、宿舎のアルカサール宮殿に向かった。
 同宿舎で数日間、大歓迎を受けていく度となく晩餐会が催された。
 セビィリャは、使節一行に対してヨーロッパで一番好意的な町であった。
・セビィリャ市の財政は困窮状態にあり、市長は使節一行のマドリードまでの旅費は、使
 節自らか国王が負担してくれるものと思っていた。
 しかし国王からは、経費全額をセビィリャ市が支払うようにという返答が届いた。
・12月、使節一行は十六世紀中ごろまでスペイン王国の首都であった、古都トレドに到
 着した。 
 使節一行はトレドに宿泊せず、レルマ公の伯父であるトレドの大司教ベルナルド・デ・
 ロハス・イ・サンドバル枢機卿を表敬訪問した。
 枢機卿は大いに喜び、その日はトレドに宿泊するように勧めたが、使節一行は果たすべ
 き用事があることを理由にその申し出を丁寧に断り、そのまま人口約十万人のマドリー
 ドへ向かった。

国賓級待遇から準公賓待遇に格下げ:目的のわからぬ使節に「邪魔者」の声
・日本で宣教活動をしていたイエズス会の宣教師からローマのイエズス会総長宛てに、日
 本で幕府がキリシタン禁令を出し、キリスト教徒を弾圧していることについて詳細な報
 告が送られていたが、スペイン国王にも、同会の神父から直接、同様の情報が届けられ
 ていた。
・使節一行がタフェに差しかかると、マドリードへの到着の知らせが枢密院から宮廷に伝
 えられ、国王は知らせを受けると、使節を宮殿ではなくサン・フランシスコ会修道院に
 宿泊させるように命じた。
・使節一行がマドリードに到着したのは、1614年12月、雪の降りしきる寒さの厳し
 い日のことであった。
 特別な歓迎式典もなく、すぐに国王が指定した宿泊先のサン・フランシスコ会修道院に
 入った。
・修道院内の部屋は華麗な絨毯が敷かれ、一向に必要なものすべてが銀細工で装飾され、
 給仕のための官吏が送られた。
 やがて宿泊先へ貴族や名士が次々と訪ねてきたが、肝心のスペイン国王フェリッペ三世
 からは面会の許可はなかなか得られなかった。
 それは、支倉六右衛門一行が奥州の一大名が派遣した使節であり、日本政府を代表する
 使者ではないという格式が問題にされたようである。
・1615年8月まで長い期間滞在を余儀なくされたのは、その後も使節の目的が明確で
 なかったほかに、ヌエバ・エスパニア副王が国王に宛てた書簡で、ルイス・ソテロは政
 宗を籠絡して使節を派遣したのであり、本状を一読した後は彼らを通してはならない、
 と忠告している。
・また副王は、伊達の使節派遣は将軍の思惑に反する行為であると明確に伝えており、日
 本のキリスト教化のためには将軍との親交を持つのが最善であり、一領主(大名)にす
 ぎない奥州王と個人的に結託すべきでないと主張している。
・ヌエバ・エスパニア副王は、政宗自身と、彼のすべての家臣がキリスト教徒の洗礼を受
 けるという話に疑念を抱き、最初から否定的な態度を示し、使節の目的が「(日本の)
 皇帝の思惑(キリシタン禁令)に反する行為である」ことを熟知していたので、その旨
 を本国に知らせていたのである。
・マドリード到着から四十日あまりもたった1615年1月、支倉とルイス・ソテロは、
 ようやくマドリードの王宮でスペイン国王フェリッペ三世に謁見することができた。
 支倉は政宗の親書と「申合条々(平和協定)案」の文書を国王へ手渡した。
・支倉は、国王謁見という第一の使命を無事に果たした。
 しかし、一行が謁見を許されるまでに四十日間を要したのである。
 この四十日間という時間には、重要な意味が隠されている。
 つまり謁見式に前後して、日本のイエズス会やビスカイノ司令官から届けられた使節一
 行に対する懐疑の知らせを受け、スペイン側は、どう対処すべきか判断に苦しんでいた
 のである。 
・支倉ら使節一行は、ドイツ式の近衛兵が配置されている宮廷の王室の広間に入り、そこ
 で支倉は、使節の荘厳な儀式にのみ用いる装束を身につけた。そして貴族たちが大勢い
 る貴賓席の下にある床机にもたれかかって立っておられる陛下の前に歩み寄った。
 支倉は国王に三度、丁寧に跪拝し、陛下の手に口づけをしようとしたが、国王は手を引
 っ込めて帽子を脱ぎ、優しい表情で会釈した。
 そして支倉に起き上がって使節の事柄を申し述べるように命じられた。
・支倉が国王フェリッペ三世に謁見した後に、インディアス顧問会議は、国王に次のよう
 な苦言ともいえる意見書を呈している。
 「(使節一行に)経費が多くかかっており、苦しい勘定から支出しています。国庫が不
 足していて他に多額の債務があるので、陛下の(個人)予算から捻出して、(使節一行
 に)援助しなければならなくなっております。また、サン・フランシスコ会修道院にお
 いては、彼ら(日本人)の宿泊施設が原因で、非常に不便な思いをしているようです」
・使節一行が宿泊しているサン・フランシスコ会修道院におけるトラブルについて、同修
 道院の管理責任者の院長が、インディアス顧問会議に請願書を提出している。
 「日本から到着した使節が当修道院に宿泊しているが、彼らの使用している諸室は、医
 療室や暑い時期の病室にあてられているものである。病人のうち五人が適当な場所がな
 いために熱中症(または腸チフス)で死亡したことを考慮して、この使節を他の宿舎へ
 移動させていただきたい。日本人の数は三十人である。修道院内でこのような大勢の俗
 人の世話をして大混乱を生じているにもかかわらず、彼らを迎えて喜んで世話をしてい
 る。しかし、諸室を使用されていることで生じている弊害を検討され、他の場所へ移る
 ように命じてくださることを陛下に懇願する」
・さらに、院長は「彼ら(日本人)が修道院の病室や部屋に損傷を与えたことをご覧にな
 ってもらいたい。彼らが破壊したものを修理し、その費用を修道院が負担するのは道理
 的にも、正義的にも合わないことだと思う」と厳しく非難している。
・日本人随行員の品格(行儀)の悪さが浮き彫りにされている。
 日本人随行員のこうした蛮行は、日本は離れ、長年にわたって異国を駆け巡る生活を送
 り、当惑、失望、欲求不満、アイデンティティーの混乱など、多くの変化に直面したこ
 とで蓄積されたストレスが、大きな要因であったと思われる。
・このように修道院側から歓待されるどころか邪魔者扱いにされ、宿舎を一日も早く引き
 払うように勧告されたのだが、他に行くあてもなかったので、仕方なく約八カ月間世話
 にならざるを得なかった。
 支倉ら日本人随行員たちは、異国でたびたびこのような惨めな思いをしたのである。
・支倉が国王フェリッペ三世との謁見の中で手渡した政宗の親書の中に、「申合条々」と
 ある文書が含まれていた。
 謁見の後、国王フェリッペ三世からは「申合条々」の提案に対して何の返事も返ってこ
 なかった。 
 支倉は愕然としたに違いない。
 このような国王の態度は思いもよらないことであったろう。
 主君政宗の命令を必死に果たそうとする支倉にとって、途方に暮れる事態であった。
・結局、インディアス顧問会議は、日本と新たに条約を締結することに関しては、伊達政
 宗の好意には感謝するものの、現状維持にとどめるべきであると提案している。
 また、同顧問会議は国王に対し、使節一行のローマ訪問と奥州への司教派遣に反対し、
 宣教師の派遣だけを唯一許可すべきであると進言した。
・ソテロはその使命を果たすために全精力を傾けて努力したのであるが、はかばかしい成
 果をあげることはできなかった。 
 反対に、大坂冬の陣、大坂夏の陣の結果、そしてその前後のキリスト教徒に対する弾圧
 の詳細が伝えられるにつれ、支倉やソテロの立場はますます困難なものとなっていった。
・また、この同じ時期に幕府は、オランダとイギリスに通商許可の朱印状を下付し、平戸
 に商館を建てさせ、本格的に日蘭英貿易が始まるため、ポルトガルとスペインとの貿易
 を禁止しとうとしていた。 
・結局、1615年1月に、ソテロが家康の親書をスペイン国王に手渡してから七カ月後
 に、スペイン政府の三人の遣日使節が家康や秀忠から面会を拒絶され、事実上の国交断
 絶となったのである。
・1615年2月、使節一行はレルマ公爵を表敬訪問した。
 政宗の書簡を差し出して、主君の名代として挨拶した。
 それに対して公爵は、この栄誉について謝意を表した。
 使節が希望しているすべての事がかなえられるように、特に、ローマへいくための必要
 な教皇聖下宛ての書状を、国王陛下に依頼してくれることを約束してくれた。
・使節一行は、王立跣足会女子修道院の王女シスター・マルガリータ・デ・ラ・クルスを
 訪問した。
 支倉らは王女に日本の宗教や自然のことについて説明し、支倉の受洗式を同教会で執り
 行えるように、国王陛下に取り計らってほしいと請願した。
・支倉六右衛門常長宿願の「入信の秘跡」、つまり受洗式が、マドリードの王位跣足会女
 子修道院付属教会において、厳かに挙行された。
 受洗式には国王フェリッペ三世のほかフェリッペ三世の長女でフランスのルイ十三世の
 王妃アウストリアのアンナ、二人の王女、多くの貴族たちが臨席した。
・支倉がカトリック入信の秘跡の祭儀を授かるのは、この儀式がキリストの死と復活に接
 するものであることから考えて、メキシコ市滞在中の復活祭に執り行うのが最もふさわ
 しかった。 
 しかし支倉はソテロと相談し、マドリードで、スペイン国宰相レルマ公爵に代父を依頼
 して受洗しようと早い時期から決めていたのである。
・それは支倉がメキシコ市での受洗を拒み、また、セビィリャ滞在中に聖職者会議の議長
 から強力に受洗を勧められたにもかかわらず、その申し出を断り、あくまでもマドリー
 ドでの受洗を望んだことからも明らかである。
 支倉がレルマ公爵に代父を依頼したのは、彼と霊的親子関係を結んで、スペイン国王と
 の「平和条約」締結を有利に取り計らってもらおうと考えたのであろう。
 支倉が受洗したのは、スペイン国王やローマ教皇との対外交渉を進めるうえで、劇的効
 果を演出するためではないかという見方がある。 
・支倉は旅の途中、ソテロからキリスト教の教義について学び、数十年間生きてきた儒教
 的禅宗的な魂を捨て、回心と親交の道を歩み始めてキリスト教に従うことを望み、洗礼
 を願うようになっていたのではなかろうか。
 キリストの教えに魅せられた支倉の心は、洗礼を受けようと決心するまで、激しく揺れ
 動いたことであろう。
・このとき支倉の心の中をよぎったのは、武士は二君を持たずという思想であり、洗礼を
 受けることは、武士の魂を売り渡すことを決心するほどの覚悟が必要だったかもしれな
 い。
 それでもキリストの教えの素晴らしさを知った支倉は、自分自身の心がキリスト教に傾
 いていることをはっきりと自覚し、ついに洗礼を受けることを決意したのではなかろう
 か。
 一方、ソテロは、支倉の洗礼式をローマ教皇も注目するようなイベントにすべきだと考
 えていたのである。
・晴れて洗礼を受けた支倉の胸中はどのようなものだったか。
 宗旨替えしたことへのうしろめたさ、それ以上に、神に仕えることが、主君政宗を裏切
 ることになるのではないか、という複雑な気持ちが激しく渦巻いていたのではなかろう
 か。
 しかし、それでもキリスト教の教えは、支倉にとって大きな心の支えだったのである。
・1615年8月、使節一行はマドリードを出発してローマに向かった。
 結局、使節は、スペイン政府との外交交渉において何の成果も挙げられなかった。
 スペイン政府当局では、ヌエバ・エスパニアと仙台藩との通商交易の開始は、フィリピ
 ン貿易の妨げとなり、また日本皇帝は、もはやキリシタンを容認する余地のないことを
 察知していたため、政宗の提案は拒否され、その野望はことごとく砕かれてしまったの
 である。 

・アルカラ・デ・エレナスのフランシスコ会修道院で支倉の警備隊長のドン・トマス・フ
 ェリッペ(滝野嘉兵衛)はミゲル修道士の話を聞いて、キリスト教の神に帰依すること
 を決意し、髷を切り、武具を捨てて修道士になった。
 記録によると、彼は後に修道院を去り、ディエゴ・ハラミーリョの使用人になった。
 しかし、この主人は冷酷な人間で、彼を奴隷扱いし、労働報酬をまったく支払わなかっ
 た。
 これを不服として、彼はフェリッペ四世に日本への帰国の自由と許可を願い出ている。
・9月に使節一行は、サラゴサに到着した。
 サラゴザでは、ヌエストラ・セニョーラ・デル・ピラル(柱のわが聖母)大聖堂を訪れ
 た。 
 この大聖堂は、中央大ドームの下に「奇蹟の聖母像」が安置されている。
・その後、カタルーニャ守護聖母といわれる「奇蹟の黒い聖母像」があるモンセラート山
 に向かった。
 この巨大な岩山の中腹には、十一世紀に建てられたベネディクト会修道院がある。
・記録に残されている日本人で最初にモンセラートへ巡礼したのは、大正年間に九州の三
 大名の名代としてローマまで行った四人の少年たち(天正遣欧少年使節)である。
・使節一行はモンセラート山からマルトレル、エスパルラゲルを経由して1615年10
 月にスペインの最後の地、バルセロナに到着した。

念願のローマ訪問と教皇の謁見:教皇に政宗の親書を届け「服従と忠誠」を誓う
・使節一行は、10月上旬バルセロナから、イタリアのサヴォナ港に向けて出帆した。
 バルセロナ港を出帆してまもなく、まったく予期せず暴風雨に遭い、難を避けるために、
 南フランス(当時のフロレンシア)のサン・トロッペ湾に偶然入港した。
 この港町には二日間滞在しただけだったが、初めて見る日本人に対して好意を持って迎
 えてくれたという。
・1615年10月、サヴォナ港から船で数時間のところにあるジェノヴァ港に到着し、
 フランシスコ会のアヌンチャータ修道院に一泊してから、翌日、共和国大統領に謁見し
 た。
・ジェノヴァには支倉らより三十年前に天正少年使節一行が訪れていた。
・1615年10月、使節一行は、ローマの外港であるチヴィタヴェキアに到着し、その
 後ついにローマに到着した。
・支倉らが日本(月ノ浦)を発って、すでに二年という歳月を要した旅路の果てに降り立
 ったわけである。
 そのころローマ・カトリック教会は一世紀ほど前に怒った宗教革命の嵐をようやく乗り
 越えたばかりだった。
 プロテスタントとのつばぜり合いがまだ続いていたが、カトリック教会は信仰を世界に
 広める運動を積極的に行っていた。
 使節一行が見たローマ・カトリック、それは新しい時代に合わせて生まれ変わろうとす
 る勢いにあふれていた。
・ローマでの使節一行の宿舎には、ローマ七つの丘の一つ、カピリトリーノの丘にあるフ
 ランシスコ修道会のサンタ・マリア・イン・アラチューリ修道院があてられた。
・支倉とソテロはローマ到着後、直ちにモンテ・カバルロのクィリナーレ宮殿で、非公式
 にローマ教皇パウルス五世に謁見した。
 ソテロと支倉らは教皇に対し、政宗が洗礼と秘跡を受けた暁には伊達藩内に「キリシタ
 ン帝国」を築き、政宗を「カトリック王」として認証してくれるように請願したのであ
 る。 
・しかしながらローマ教皇は、支倉らに「使節の願いが完全にかなえられるように援助す
 るよう努力しなければならない」と、表明したものの、これはあくまでも儀礼的な言葉
 であり、実際は使節一行を巡る様々な疑惑が報告されていたので、支倉らの要求に対し
 即答を避け、最後まで結論を出さなかったのである。
・一方、スペイン国王フェリッペ三世は、駐ローマ・スペイン大使に、使節一行に対して
 便宜をはかるように命じていた。
 そのうえ、使節一行は日本皇帝(将軍)の使節ではなく、その臣下の一人である奥州王
 の使節であることを特記する次のような書簡を送った。
 「(ソテロや支倉が)貴下に、当時(スペイン)で拒否したことを許可するよう教皇パ
 ウルス五世に嘆願することを依頼し、もし教皇がこれを許可するようなことがあれば、
 大変は不都合が生じる。いまその請願の各項目に対する(わが国の)返答を添えて送付
 するので、もしこれらの諸項について教皇に請願するようなことがあったら、これを妨
 害せよ。これは日本におけるキリスト教の事情(迫害のこと)に鑑み、またこの使節が
 日本皇帝ではなく、奥州王の命令によって渡来したものであり、重要とは認め難いから
 である」

・ローマ教皇パウルス五世は、遠来の使節一行を歓迎し、入市式を行うように関係者に指
 示した。  
・入市式では、先頭の近衛軽騎兵がラッパを奏しながら進むと、隊長に率いられた軽騎兵
 五十人が先導隊となり、その中に挟まれて騎馬で枢機卿の親族、多くの侍従を伴った各
 国の大使ら、そして、ローマ、フランス、スペインの貴族などが二人ずつ並び、華やか
 に着飾って一緒に行進した。
 多数の外国の貴族や騎士たちに続いて、使節の随員各人が刀や脇差を帯刀してローマの
 貴族に挟まれて行進した。
 支倉は絹と金糸銀糸で織られた鳥獣草花の飾りをあしらった白地の綺麗な羽織をまとっ
 て、教皇殿下の甥のマルコ・アントニオ・ヴィットリオ殿下の右側に並んで行進した。
・入市式に参列したのは、支倉のほか、佐藤内臓丞、丹野久次、菅野弥次右衛門、山口勘
 十郎、原田勘右衛門、山崎勘助ら支倉の随員、従者、小姓の七名に続いて、名誉ある武
 士(貴族級)という紹介で、氏名に貴族の敬称である”DON”がつけられている日本の
 キリスト教徒の代表者三名(滝野、伊丹、野間)と支倉の秘書官(小寺池または小平)
 の四名の随行員である。それ以外に馬丁二名と従者四名の計十八名である。
・晴れがましい光景である。
 おそらく支倉常長の一生のうちで一番輝いた瞬間だったにちがいない。
・ローマでの盛大な入市式から五日後、1615年11月、支倉六右衛門常長は伊達政宗
 の名代としてローマ教皇パウルス五世に「服従と忠誠」を誓うための謁見の日を迎えた。
・教皇はグレゴリウス三世が1585年、「天正遣欧少年使節」に対したような公式の謁
 見は行わなかった。
 それは、「天正遣欧少年使節」を派遣した大友、有馬、大村の三大名がいずれも受洗者
 であったのに対して、「慶長遣欧使節」を派遣した伊達政宗が未信者であり、まだ洗礼
 を受けたキリシタンではなかったためである。
 しかし、教皇は支倉使節を優待するため、多数の枢機卿を列席させて引見した。
・1615年11月、ローマ教皇聖下に公式に謁見するために支倉やソテロ使節一行は、
 黒装束で四頭立て大型馬車で宿舎のアラチューリ修道院から教皇宮に向かい、門下で下
 車し、階段を上ってクレメンスの広間の右にある小部屋に入った。
 支倉は、この部屋で衣装を着替えた後、クレメンスの広間から謁見室に入った。
・そこでは教皇聖下のほか、枢機卿、大司教、司教、各国の大使らが着席していた。
 教皇の右側には教皇の甥にあたるスルモノ公爵一人が起立していた。
・支倉は教皇聖下の聖なる足下で三度ひざまずき、大いなる尊敬と服従の意をこめてその
 足に口づけをした。
 このあと支倉は日本語で言上し、ソテロがこれをラテン語で訳した。
 続いて支倉は奇麗な絹袋から日本語とラテン語で認められた政宗の書簡を取り出し、
 教皇聖下の手にこの書簡を奉呈した。    
・このとき、支倉六右衛門常長、四十五歳、月ノ浦を出てから二年一カ月。洗礼を受けて
 から八カ月が過ぎていた。
・支倉とソテロは教皇の足もとに至って、その足に接吻し、随員二十五人も同様に許可を
 得て、一人ずつ進んで教皇の足に接吻し、その式を終えた。
・支倉が届けた伊達政宗の親書は、現在もヴァティカンに残されている。
 それは金箔、銀箔を全面にちりばめた縦二十六センチ、横九十五センチのわしに墨で書
 かれている。  
 このような豪華な書状は、日本国内でも例がない。
 政宗は、芸術品ともいえる親書によって、伊達文化の水準の高さをも伝えようとしたの
 である。
 親書は、日本文とラテン文の二通りが用意されていた。
・この親書で政宗は、教皇に対し、ソテロと支倉は自分の名代として、教皇陛下に「服従
 と忠誠」を違うために、
 @フランシスコ会所属の宣教師の派遣要請
 A(大司教区の)高位聖職者の任命
 Bヌエバ・エスパニアとの直接通商交易開始を実現するための仲介
 などを請願した。
・これらの請願に対し、教皇聖下は、1615年12月付けの小勅書で、
 @宣教師の日本への派遣については、すでに補充したので適切と思える資格と権限を持
  った者が赴くであろう。
 A司教区設置については、検討の必要があるので、使節一行の帰国までは設置しないこ
  とにする。
 Bヌエバ・エスパニアとの間に通商交易を開きたいとの希望に関しては、スペイン国王
  と話し合うようスペイン駐在の教皇大使に依頼してある。
 と返答した。   
・もう一つの重要な機密事項は、幕府の弾圧から逃れてきて、仙台領内にかくまわれてい
 るキリシタンたちによるローマ教皇支配下の「キリスト教徒の騎士団」を創設する認証
 であった。
・この認証事項に関しても、政宗がキリスト教の洗礼を受けていないという理由で却下さ
 れている。
 しかしながら、これらの二つの機密の請願事項に対して、教皇庁は、政宗が正式に受洗
 すれば、「キリスト教徒の王」に叙任し、また、「キリスト教徒の騎士団の創設」も認
 証するというものであった。
 「キリスト教徒の騎士団」を創設する考えは、日本全国の三十万人のキリシタンと手を
 結び、武力をもって討幕することであったと推察される。
・支倉は、教皇聖下に請願した三つの事項のうち、一つしか聞き入れられなかったので、
 甚だ不満であったとのことである。
 すなわち、日本への宣教師数名の派遣要請については聞き入れられたが、伊達領内に司
 教区を設置する請願は拒否され、政宗と領国が教皇の最高権力のもとに入りたいとの請
 願(政宗の「キリスト教徒の王」の叙勲の認証と「キリスト教徒の騎士団」創設の認証)
 には、教皇としてはこのような問題に関与することを望まないので、スペインの教皇特
 使に命じ、スペイン国王に依頼したいとの返事であった。
・支倉が大使としての務めを果たしていたところ、日本ではその後の歴史を決める大きな
 事件が起きていた。  
 豊臣家最後のとりでの大坂城がついに落ち、天下は完全に徳川家のものとなったのであ
 る。
 さらに徳川家は長期政権に向けて幕府の基盤を固め、地方の大名の権力を弱体化させて
 いった。
・こうした時代の流れの中で、支倉の主君伊達政宗の天下人への夢ははかなく消えて行っ
 たのである。
・さらに徳川幕府は、宗教と貿易を切り離して考えるオランダとの関係を強め、キリシタ
 ン禁教令を徹底して行い始める。
 宣教師たちを国外に追放し、時にはみせしめのために火あぶりの刑にも処した。
 キリスト教弾圧の動きは、幕府の直轄地から各大名の領地へと急速に広がっていった。
・1615年11月、使節の随行員で支倉の秘書官のコデライケ・ゲキ(小寺池外記)が、
 ローマの四大聖堂の一つである、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂のコンスタ
 ンティヌス皇帝の洗礼堂で、ローマ在住の大勢の貴族、騎士、大司教、そのほかの聖職
 者などが参列する中受洗し、パオロ・カミルロ・シピオーネと名づけられたのである。
・日本からの使節の一随員であり、身分の低いコデライケ・ゲキの洗礼式が、格式の高い
 大聖堂で枢機卿の司式によって盛大に行われたことは、極めて異例のことである。
 その背景には、ローマ教皇がコデライケ・ゲキの洗礼式を通じて、カトリック教会の威
 光がはるかに遠くの東洋の日本にもおよんでいることを、ローマ市民だけでなく全世界
 に示し、プロテスタントに対抗しようとした狙いがあった。  

スペインからの強制出国:国家財政の危機と疑惑の使節団
・使節一行はローマに七十五日間滞在し、その間儀礼的とはいえ、それ相応の歓待を受け
 た。しかしながら、支倉六右衛門らは期待していた成果をほとんど何も成し遂げること
 なく、ローマを去ることになったのである。
・一月、使節一行はチヴィタヴェキアへ向けてローマを出発して帰国の途についた。
 ヴォルノに寄港、そのまま予定外のフィレンツェに向かい、五日間滞在した。
 ジェノヴァに到着し、再びアヌンチャータ修道院に宿を取った。
 その数日後の2月に支倉は三日熱にかかり、病床に伏した。

・1617(元和三)年、仙台藩におけるキリスタンの数は、判明しているだけで仙台に
 四百名、黒川・栗原郡に三百五十名、磐井・胆沢方面に四百五十名で合計千二百名いた。
 これに仙南地方やほかの領国から逃れて来てかくまわれていた信徒を含めると、当時の
 仙台藩領には二千〜三千名以上のキリシタンがいたものと推察される。
 
・1618年4月、支倉やソテロなどを乗船させた「サン・ファン・バウティスタ号」と、
 フィリピン新任総督ドン・アロンソ・ファハルドが率いるガレオン船はフィリピンに向
 けてアカプルコ港を出帆し、同年6月下旬マニラ港に到着した。
 支倉ら使節一行はマニラのサン・フランシスコ・デル・モンテ修道院に一年半滞在した。
 なぜ一年半もいたのかは謎とされている。
・使節一行がマニラに到着すると、折からオランダ船隊は十四隻をもってマニラを襲撃し
 とうとしていたので、ファハルド新任総督は、その対応を余儀なくされた。
 オランダの艦隊と戦うための船が不足していたため、政宗の「サン・ファン・バウティ
 スタ号」を艦隊に加えることにし、ソテロを介して格安の値段で譲ってもらうことにし
 た。  
・売買交渉がかなり難航したことが伝えられている。
 「サン・ファン・バウティスタ号」の売買交渉が始まったのは、使節一行がマニラに到
 着した1618年6月以降なので、支倉は同船を売却するまでの約一年間の間に、日本
 とフィリピン間の定期便を用いた政宗との書状のやりとりを通して、船の売却許可や売
 却価格などについて協議したのであろう。
・1620年8月、支倉ら使節一行は、マニラに残留するソテロと別れ、便船に乗って横
 沢将監のほかの随員の黒川市之丞、同六右衛門、松尾大源らとともにマニラを発ち、 
 同年9月、七年ぶりに長崎港に戻った。
 仙台帰着は1620年9月となっている。
・1620年10月に、伊達政宗が老中の土井利勝に送った書簡では、支倉六右衛門の帰
 朝を報告し、かつソテロがルソンに滞在していることとその処置について幕府に指示を
 仰いでいる。 
 政宗はこの書状で、あたかも支倉一人だけを奥南蛮まで遣わしたように装い、彼の奥南
 蛮訪問の理由は支倉以外の「訪欧使節団」の随行員の安否などについては何も触れてい
 ない。
・幕府は「訪欧使節団」に対し疑惑を抱いていたが、結果的に土井利勝も何も追及するこ
 とができず、これを了承せざるを得なかったのである。
 つまり、この使節は、すべて幕府の支持と了解のもとで派遣されたのであって、伊達政
 宗はただ仲介の労を取ったにすぎないと主張し、結局問題をうやむやにした政治決着と
 いうことになった。
 また、帰国後の支倉について、幕府をはばかってのことか、わずか数行しか書かれてい
 ない。
・一方、ソテロは、マニラに残留を余儀なくされていた。
 それは、日本における使徒的活動で豊かな実りを刈り取っているイエズス会にとって、
 ソテロの存在が極度の緊張を生み出す結果を招く恐れがあるということで、ガルシア・
 セラノ・マニラ大司教が日本への帰還を認めなかったためである。
 そのうえ、マニラ総督もソテロの日本への出発を何度も妨害していた。

失意の帰国と絶望的な報告:キリスト教徒を裏切った政宗
・伊達政宗が帰国した支倉六右衛門に対して、どのような態度で臨んだのかは定かではな
 い。
 支倉はスペイン国王、そしてローマ教皇との外交交渉が、すべて失敗に終わったことを
 報告したはずである。
・特に、政宗は、日本における三十万人以上のキリシタンと手を結び、領内に「キリシタ
 ン帝国」を築く夢を最後まで捨て切れずにいたのは確かである。
 そのため、最後までキリシタン弾圧に吹き切らなかったのである。
・だが、支倉から絶望的な報告を聞き、その夢もはかなく消え去り、キリシタンとの結束
 も不要となった。 
 支倉が帰った二日後の1620年8月、ついに政宗は、領内でかくまっていたキリシタ
 ンを取り締まることを決意したのである。
・政宗は1611年11月、天下への野望を成し遂げるために、家臣や領民にキリスト教
 に入信することを許可する布告を発令した。
 それから九年後に、天下取りの最後の頼みの綱であったキリシタンたちを、幕府の禁教
 令に従わざるを得なかったとはいえ、今度は逆に、彼らを弾圧しなければならない立ち
 場となった。
・領内のキリシタン家臣たちも政宗に対し、最後まで自分たちを保護してくれると信じて
 いたのであるが、殉教の場に臨んで最後まで落ち着いた態度を取り、キリスト教で教え
 られたとおり、殉教を神の恩寵と考えて歓喜の中で死んでいったのである。
・これらの政宗のキリシタン家臣の中に後藤寿庵が含まれていたが、彼は政宗の説得や脅
 しにも耳を貸さず、棄教を拒んだのである。
 後藤にとって信仰を捨てることは、武士を捨てることとほぼ同義だったからである。
・政宗がキリシタン弾圧を始めて一年後の1621(元和七)年付で、後藤寿庵を筆頭に
 した奥州のキリシタン代表者たちがローマ教皇パウルス五世に宛てた連署状で、政宗の
 弾圧について伝えている。  
・後藤寿庵らが、自分たちキリシタンを保護してくれるはずの政宗が、天下を恐れて領内
 で迫害を始め、大勢の殉教者が出ていることをローマ教皇に伝えたものであるが、後藤
 らがなぜこのような連署状をローマ教皇に送ったのか、その確かな理由はわからない。
 後藤寿庵らは、洗礼志願者であった政宗に裏切られたという断腸の思いをこめて、ロー
 マ教皇に伝えたのであろう。
 この連署状を詠んだローマ教皇は、政宗の君主としてのあるまじき二枚舌にあきれ果て
 たに違いない。
・ローマ教皇が政宗にキリスト教徒になるよう勧告し、領内のキリシタンと宣教師の保護
 を要請したのは当然であり、政宗は書状と使節を通じてそのようにローマ教皇に伝えた
 のである。
・明らかに政宗は、キリシタンを利用して自らの野望を果たそうとしたのである。
 政宗がキリスト教に関心を抱き、本気で領内に「キリシタン帝国」を築き、キリシタン
 や宣教師を保護しようと考えていたならば、幕府を恐れず、使節を派遣する前に、堂々
 とキリスト教の洗礼を受けてキリシタン大名(カトリック王)となり、スペイン国王や
 ローマ教皇へ使節を派遣したはずである。
 それができなかったのは、キリシタンになる気持ちなど毛頭なかったことは明白である。
・このような政宗の行為が国際的信義という観点から許されてよいわけはなく、伊達政宗
 はその点では、日本人の恥を海外にさらし、日本人為政者の言は信用がおけぬというこ
 とを立証したことになる。 
・これに対し徳川家康は、法治国家の統治者として、当初からわが国においてはキリスト
 教を禁じると宣言し、そして日本の国法を守らぬことを理由に、宣教師とキリスト教徒
 を断罪したのである。
・政宗は仙台の広瀬川で、1620年に蝦夷島に渡り、同地における最初のミサを挙げた
 ことで知られているイエズス会宣教師のディエゴ・カルヴァリョ師(日本名長崎五郎衛
 門)らを、「水責めの拷問」によって残酷に処刑した。
・この「水責めの拷問」には、二つの方法があり、一つは大量の水を飲ませ、飲めなくな
 ると口にじょうごを差し込んで水を流しこみ、その後、地上に置いた彼らの身体に板を
 載せ、その上に二人の男が乗って口や鼻や耳、目、その他すべてのところから水を吐き
 出させる、という残酷なものであった。  
 もう一つは、「水籠の拷問」である。「水籠」とは周囲に木柵をめぐらした円形の穴で、
 水深は二尺(約60センチ)はどあり、一人ずつを裸体にしてそれに入れ、中の杭木に、
 座らずにはいられないように縛りつけて、三時間から十時間位放置しておく方法である。
・政宗は家老の茂庭周防守に、カルヴァリョ神父の刑を、従来一度も日本で使用したこと
 のない拷問と刑死の種類であった後者の「水籠の拷問」で執行するように命じた。
・カルヴァリョ神父は、厳冬の1624年2月に広瀬川の河畔の水籠に連れて行かれ、衣
 服を脱がされ籠内の柱に縛られた。最初は膝まで水につかって立っていたが、それから
 座らせられ、水は胸のあたりにおよんだ。
 第一回の拷問で三時間、第二回の拷問で十時間も氷結した水の中につけられ殉教した。
 翌日、役人たちは屍体を穴から引き出し、五体を切り裂いて河に投げ入れたのである。
・いくら幕府から厳しい弾圧を命じられているとはいえ、こうした行為ができた政宗の恐
 ろしさには戦慄する。
 それにしても政宗はキリシタン弾圧に「火刑」や「斬首」ではなく、なお過酷な「水責
 めの拷問」のような残酷な方法を用いたのであろうか。疑問がつきまとうのである。
・政宗が奥州で本格的なキリシタン弾圧に踏み切ったのは、支倉が帰国して三年後である。
 1623年12月、江戸参勤中の政宗は、家光から江戸城二の丸に招かれ、将軍手ずか
 ら茶を振る舞われた。 
 その席で家光は奥州のキリシタン禁圧を直談した。
 政宗は家光の権威に屈し、伊藤彌兵衛を急使として奉書を国許の重臣たちに送った。
・帰国後の支倉六右衛門は、主君伊達政宗に迷惑をかけぬよう蟄居同然の生活を送ってい
 たようであるが、アンジェリスは1620年12月付の書簡で、支倉の棄教の噂につい
 て次のように述べている。
 「本当なのかうそなのかわからぬが、大使の六右衛門は、彼の異教徒の甥の言葉によれ
 ば、棄教したという。何らかの動きがあるように思う。なぜなら、彼の甥は某キリシタ
 ンにそう語ったが、それは六右衛門を貶してのことで、六右衛門が南蛮において洗礼を
 授かって、ヨーロッパでたくさんのもてなしをうけてから転ぶのは卑怯者であると言っ
 たからです」 
・一方、フランシスコ会の修道士たちの証言は、
 「支倉は修道士たちにみとられて、安らかに死を遂げた」
 と指摘している。
・このように、支倉の信仰の結末に関して、イエズス会とフランシスコ会の間の対立が影
 響しており、双方の言い分が大きく食い違っている。
・ちなみに、支倉の子の常頼は、キリシタン禁制を破った罪で領地没収のうえ、切腹を命
 じられた。  
・ところで、ルイス・ソテロ深部のローマ教皇宛ての書簡では、1620年8月に支倉常
 長が仙台へ戻った一年後に、家族や家来たちをキリスト教徒にしたと、次のように記述
 している。
 「政宗は、彼(支倉)の長い旅の休養を取らせるために国(故郷)へ送りました。
 彼(支倉)は自分の妻、息子たちと使用人たち、多くの彼の家来たちと他の高貴な彼の
 親族たちをキリスト教徒にしました。彼はこれらの聖なる事業に携わって立派な手本を
 示し、死を覚悟つぃて一年後に亡くなりました」
 
エピローグ:夢の「キリシタン帝国」から現実の「鎖国日本」へ
・奥州の覇者伊達政宗の偉業の一つとして称賛を浴びてきたのが、「慶長遣欧使節団」の
 ヌエバ・エスパニア、そしてヨーロッパ派遣である。
 しかしながら、使節一行は訪問先で儀礼的な歓迎は受けたものの、どちらかと言えばキ
 リシタン弾圧国からやって来た厄介者として扱われた。
 伊達政宗の期待を一身に背負って船出した使節一行には、苛酷な運命が待ち受けていた
 のである。
 そして、この使節は悲惨な評価を得てしまった。
・こうした結果をもたらした最大の原因は、実行だけでなく、外交文書の作成から外交交
 渉まで、すべてルイス・ソテロ神父一人に任せていた、伊達政宗の他力本願型の姿勢に
 あったといえる。 
 政宗が天下取りの野望を果たすために、ソテロをすべて信用して使節派遣を決断した勇
 気は評価できるが、あまりにも不確実性の高い企画であったことは否めない事実である。
・政宗は、最初からキリスト教の洗礼を受ける考えなど毛頭ないのに、あたかも洗礼志願
 者のように振る舞い、「キリシタン帝国」を築こうとしてスペイン国王やローマ教皇を
 欺こうとしたのである。
 確かにソテロの考えとは言え、キリシタン大名でもない政宗が領内の家臣や領民に対し、
 キリシタンの洗礼を受けることを積極的に奨励したのは、それだけの魂胆があったから
 である。 
・その魂胆とは、ソテロが考えついたことであろうが、政宗が幕府のキリシタン迫害で追
 い詰められている三十万人以上の日本中のキリシタンと手を結び、彼らの指導者となっ
 て「キリシタン帝国」を築き、スペインからの軍事支援を受けて討幕し、あわよくば将
 軍となって、ローマ教皇に「服従と忠誠」を誓って、配下になることであった。
・この使節派遣の最大の犠牲者は、伊達政宗に翻弄された支倉六右衛門である。
 支倉は主君の使命を途中で放棄し、いつでも逃亡できたはずである。
 しかし、彼は人一倍責任感が強く、日本に残してきた家族を大事にする人物だったので、
 最後まで賢侯を犠牲にしながら、忠実にその使命を果たそうと努力したのである。
・だが、支倉は、政宗から与えられた密命を何一つ果たすことができないで帰国を余儀な
 くされた。  
 支倉六右衛門は帰国後、失意の余生を送ったのか、政宗の庇護のもと安らかに天命を全
 うしたかは、知る術がない。
・一方、日本のキリスト教徒の代表としてローマ教皇に謁見し、政宗を支持する連署状を
 奉呈した滝野嘉兵衛、伊丹宋味、野間半兵衛の三人のキリシタン随行員のその後の消息
 については、スペインに残留した支倉の護衛隊長のドン・トマス(滝野嘉兵衛)以外わ
 からない。 
・ローマ教皇に奉呈した「日本のキリスト教徒書簡」によると、この人物(滝野嘉兵衛)
 はフランシスコ会修道士とともに殉教したキリシタン(武士?)の子息であろうという。
 1613年9月にルイス・ソテロ神父やミカエル・笹田らと一緒に捕らえられ、同年8
 月、江戸で斬首に処せられたキリシタンの子供ではないかと思われる。
 このときソテロは、死刑寸前に政宗によって助けられたが、ミカエル・笹田の子供であ
 る福者ルイス・笹田と滝野嘉兵衛を使節団のメンバーに加え、滝野を支倉の護衛隊長に
 任命し、ローマまで同伴させた。
・またルイス・笹田は、ソテロの紹介でメキシコのフランシスコ会に入会し、司祭に叙階
 されてソテロとともに帰国したが、捕らえられて長崎の大村で火あぶりの刑に処せられ
 て殉教している。 

・ところで、幕府は、カトリック国のスペイン・ポルトガルとプロテスタント国のイギリ
 ス・オランダの世界制覇権の争いの余波を受けており、十七世紀半ばの世界情勢の大き
 な変化を感じ取って、自ら国を閉ざす鎖国の道を選択しようとしていた。
・スペインの敵であったオランダは、北欧での仲介貿易と東南アジアでの貿易を発展させ
 て経済力を高め、1609年に事実上の独立を勝ち取った。
 十七世紀半ば、世界経済の中心はセビィリャからアムステルダムに移行し、オランダは
 全盛期を迎えた。 
 この時期オランダは、日本とともに通商交易を開くために幕府の鎖国政策を巧みに利用
 して、カトリックが日本を植民地化するとの恐怖を増幅させてスペイン・ポルトガル
 を日本から放逐し、ヨーロッパ諸国の中で唯一の日本との交易国になったのである。
 十七世紀日本におけるキリシタン弾圧は、こうした世界情勢が日本の国策と絡み合って
 起こったのである。
・家康と家光が在職した1651年までの間に、幕藩体制確立のため定められた諸制度は、
 幕府の大法として二百五十年にわたる徳川政権維持の柱となる。
 それは「封建制度」と、それを支えるキリシタン禁制による「思想統制、「鎖国」の三
 大根本政策から成っており、武士と庶民を問わず、人権を踏みにじられ、世界的視野か
 ら目を閉ざされた。
 家光は大名以下庶民に至るまで、ことごとく自己の権威に屈服させようとした。
 大名、旗本、御家人に至るまで、将軍に隷属化させることを意図したのである。
・それを阻むものはキリシタンだとされた。
 社会的秩序と正義のもとにおける主君への服従、忠節についていえば模範的な武士であ
 ったが、神以外のものを拝み、神への信仰と愛を捨ててまで将軍や主君の命のままに従
 う精神的奴隷になることをしたからである。
・家光は1623年10月、さっそく江戸の大殉教を行って、江戸芝の辻でジェロモニ・
 デ・アンジェリスや旗本「原主水」ら五十五人を処刑した。
 さらに11月、また三十七人を処刑した。
・家光は1624年3月にスペイン船の渡来と通商を全面禁止し、マニラからの宣教師の
 渡来を防止するために国交を断絶した。
 このとき長崎にいたスペイン人は家族ごと追放された。
・その後、1637年10月から翌年2月にかけて、肥前島原と肥後天草で一揆が起こっ
 た。この一揆は、国家支配の強化、鎖国体制の確立過程で起きた。
  近世前期最後の大規模な武力反乱であった。
 1639年7月、当時布教活動を続けていたイエズス会の宣教師を放逐するために、キ
 リシタン禁制を発布するとともに、ポルトガル船の来航を禁止した。
 これによって、スペイン人に次いでポルトガル人も、ついに日本から姿を消したのであ
 る。

あとがき
・アンジェリス書簡は、イエズス会とフランシスコ会が対立していて、使節派遣やルイス
・ソテロに関して悪意で書かれたものなので信用がおけないとか、同書簡の位置づけ、信
 憑性が問題であるという指摘がある。
 しかしながら、これらの書簡に記述されている内容は、政宗に重用された奥州見分け
 (現在の岩手県水沢市)の斬りしたん領主後藤寿庵から伝聞したものであるが、日本側
 の史料とも合致している。
・支倉六右衛門は「処刑人の息子である」ということと同様の記述がアンジェリス書簡に
 もあり、日本側の史料と符合していてその正確さが証明されている。 
・また、「使節派遣の目的および性格」、「伊達政宗のキリスト教信仰に対する真意」、
 「支倉六右衛門大使の実際の身分」などに関するローマ・イエズス会本部からの問い合
 わせに対し、アンジェリスは日本側の史料と符合する正確な内容の返事をしている。
・いずれにせよ、アンジェリス書簡は慶長遣欧使節の真相を知るうえで、絶対に欠かせな
 い第一級の史料といえる。 
・仙台市博物館や東北大学の関係者は、著者の半世紀にわたる、当該使節に関する海外の
 文書館や図書館に所蔵されている大量の議事録、公文書、外交文書、教皇勅書、儀典日
 記などの古典ロマンス語表記の手稿一次史料の翻刻・翻訳による伊達政宗の「討幕説」
 の事実に関して、何ら客観的な検証を行わず、一方的に著者の「憶測と思いこみ」によ
 る「荒唐無稽」の説であると批判している。
・こうした背景には、仙台市博物館側に、使節派遣の目的がヌエバ・エスパニアとの直接
 貿易開始のためという定説が覆されれば、伊達政宗の威信が大きく損なわれる恐れがあ
 るという懸念があるからではないかと推察される。