大本営発表  :辻田真佐憲

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大本営発表」という言葉は、先の大戦においての日本軍部のデタラメ発表ぶりからきて
いるが、現在においても、政権によってこのデタラメ発表ぶりが顔を出すことがある。
最近では、南スーダンでの陸上自衛隊の日報問題がそうであろう。自分たちに都合の悪い
情報は隠してしまう。稲田防衛大臣の9条に違反するからと「戦闘行為」を「武力衝突」
と言い換える。これはまさに、「撤退」を「転進」と「全滅」を「玉砕」と言い換えた、
あの「大本営発表」と同じと言えるだろう。
これは、非常に危険な前兆ではないだろうか。というのも、先の戦争を止めることができ
なかった大きな要因は、この「大本営発表」にあったと言えるからである。軍は、事実を
隠し、都合のよいことばかりを発表し、またメディアは、それを新聞の売り上げを上げた
いがために、無批判に軍の意向に沿った報道を行い、それが世論を煽ることとなったから
だ。
今の政権においても防衛省の上層部においても、自分たちの利権のためには、都合の悪い
情報は隠すという体質が、当時とまったく同じように存在しているということが露呈して
いる。この安倍政権や防衛省内に存在する隠蔽体質は、またあの愚かな戦争を再び繰り返
す原因となるといえるのではないか。そういう意味から言って、今回の事件は、まさにあ
の「大本営発表」と同じであり、非常に重大だと言わざるを得ない。

はじめに
・軍部が劣勢をよそに、「勝った、勝った」とデタラメな発表を行い、マスコミがそれを
 無批判に垂れ流す。そして国民は捏造された報道に一喜一憂させられる。かつて日本に
 はこうした暗い時代があった。
・2011年3月に発生した福島第一原発事故に関して、経済産業省、原子力安全・保安
 院、東京電力などの発表が「大本営発表」として批判されたことも記憶に新しい。
・大本営発表によれば、日本軍は太平洋戦争で連合軍の戦艦を43隻沈め、空母を84隻
 沈めたという。だが実際のところ連合軍の喪失は、戦艦4隻、空母11隻に過ぎなかっ
 た。単純ミスなどではとうてい説明がつかない。あまりにもデタラメな数字の独り歩き
 である。
・大本営発表のデタラメぶりは、表現や運用にも現れた。絶望的な敗北は闇から闇へと葬
 られた。守備隊の撤退は「転進」といいかえられ、その全滅は「玉砕」として美化され
 た。悲惨な地上戦は数行で片付けられ、神風特別攻撃隊の「華々しい」出撃で覆い隠ら
 れた。
・大本営は、陸海軍のエリートが集まる頭脳集団だった。デタラメは発表を繰り返せば、
 いずれ辻褄が合わなくなり、国民の信頼を失うことなど容易に想像できたはずだ。そん
 な彼らが大本営発表の担い手だったとは、にわかに信じがたい。日本の新聞はもともと
 軍部に好意的ではなかった。ところが、1930年代に満州事変日中戦争が勃発する
 とその流れが大きく変わった。各紙は戦争報道でスクープをあげるために、軍部に協力
 的になったのである。
・軍部と報道機関の一体化は、こうした問題を何倍も膨れ上がらせた。ジャーナリズムの
 チェック機能が失われたからこそ、大本営は縦横無尽にデタラメな発表を繰り返すこと
 ができたのである。 
・われわれは戦後70年以上にわたって「大本営発表」という比喩を絶やさず、その再来
 を恐れてきた。一定の条件が揃えば、再び大本営発表の悪夢がよみがえるかもしれない。
 そんな恐怖が日本人の心を捉えてきたのだ。
・ましてこの国では、現在でも、政権による報道への介入がしばしば問題になっているの
 である。今後どのように政治と報道の関係が変化するかわかったものではない。世界的
 に見ても、政権によるメディア・コントロールの動きは決して過去の話ではない 

日中戦争と大本営発表の誕生
・大本営発表の発信元である大本営は、天皇に直属する日本軍の最高司令部である。常設
 ではなく、日清戦争日露戦争など戦時に際して特別に設置された。
・明治の大本営は天皇の特旨によって首相も参加し、名実ともに日本の戦争指導の中心機
 関であった。これに対し、昭和の大本営は敗戦の年まで首相の参加を認めず、天皇臨席
 の形式的な会議を開くだけで、実態は陸海軍の寄り合い所帯にすぎなかった。すなわち、
 陸軍の参謀本部と海軍の軍令部がそれぞれ(多少の手直しを経て)大本営陸軍部と大本
 営海軍部の大部を構成し、引き続き個別に戦争を指導したのである。細かい点を横に置
 けば、事実上、参謀本部が大本営陸軍部を名乗り、軍令部が大本営かいぐんぶを名乗っ
 ただけといってもよい。そのため、昭和の大本営は単なる看板に等しく、陸海軍を統合
 して運用する機能を持たなかった。
・陸軍というと無粋で武力一辺倒で、国民の意見など無視して強引に戦争を進めたという
 印象があるかもしれない。しかし、兵力の大部分を徴兵に依存する陸軍は世論の動向に
 とても敏感であり、実際は世論対策に腐心していたのだった。
・「大本営発表」は、陸軍報道部が行う作戦報道のこととされた。作戦報道とは、「都市
 を占領した」「敵部隊を撃滅した」といった戦況に関するものである。ただし同じ作
 戦報道でも、(重要性が低いなどの理由で)現地部隊から直に発表されたものは、その
 部隊の名前を取って、「上海軍発表」や「北支軍発表」などと呼ばれた。
・報道部は、その職務上できるだけ情報を早くたくさん出そうとした。その一方で、作戦
 部は、作戦の秘密を重んじ、できるだけ報道部の発表を制限しようとした。しかも作戦
 部は、大本営のなかでもエリート中のエリートが集まる中枢部署で、倣岸不遜なうえ、
 発言力がきわめて強かった。報道部にとって、こうした作戦部の説得は大きな悩みの種
 であった。   
・大本営発表というとデタラメばかりというイメージが強いが、日中戦争のころの発表は
 比較的正確だった。というのも、日本軍は中国軍相手に連戦連勝しており、敢えて虚偽
 の発表をする必要がなかったからである。むしろ、このころ大本営報道部を悩ませてい
 たのは、報道機関(とりわけ新聞)の「暴走」だった。従軍記者たちは、軍の正式発表
 を待たないで、しばしば憶測で速報を打った。驚くべきことに、当時の軍の報道部は新
 聞を完全にコントロールできていなかったのである。
・なぜ新聞は大本営報道部を悩ませるほど「暴走」してしまったのだろうか。その背景に
 は、部数拡大をめぐる熾烈な競争があった。
・このころの新聞はまだ大本営報道部の完全ないいなりではなかったかもしれない。ただ、
 それじゃジャーナリズムの使命感というよりは、単なる時局便乗ビジネスの結果だった。
・大手新聞は、南京攻略をめぐる報道合戦で部数を伸ばし、我が世の春を謳歌していたの
 かもしれない。だが、時局便乗ビジネスは毒まんじゅうだった。批判・検証の使命を置
 き去りにした時点で、報道機関は死に至る病に蝕まれていたのだ。
・情報局は、各省にまたがる宣伝報道事務を統合するため、1940年12月に設置され
 た。この結果、大本営報道部は、以前よりも作戦報道や純軍事的な報道に集中できるよ
 うになった。情報局の権限は多岐にわたったが、ここでは用紙の配分権を例にあげよう。
 これはきわめて強力な武器だった。情報局がひとたび用紙の供給を止めてしまえば、ど
 んな新聞も雑誌も、たちまち廃刊に追い込まれてしまうからである。報道機関は情報局
 を恐れ、その意向に忖度し、処分されないよう進んで国策を支持せざるを得なくなった。
 もはやジャーナリズムは死に体だった。
・報道部は、1939年に制定された「国民徴用令」にもとづき、記者をはじめとする文
 化人を軍属として徴用し、軍の命令のもとで宣伝報道に従事させることを考えついた。
 これが報道班員という制度である。
・こうして、戦地の記者を統制下に置きたいという軍部の念願は実現した。このため、記
 者たちが前線から発する「基地特電」は、ほとんど軍部の発表と変わらなくなってしま
 った。太平洋戦争中の新聞記事には、様々なところに軍部の意向が反映されていたので
 ある。なお、同じころ国内の記者に対する締め付けも強化された。1941年11月、
 閣議決定にもとづき従来の「乱立無統制」な記者クラブが全廃され、新たに日本新聞連
 盟(新聞の統制機関)の下に各省の記者会が設けられたのである。これ以降、記者の登
 録には同連盟の審査が必要になった。陸軍省記者倶楽部と黒潮会は名前こそ残ったもの
 の、その実態はもはや大本営報道部の下請けにほかならなかった。    
・1940年7月、大本営海軍報道部課長に平出英夫大佐が着任した。フランス駐在武官
 補佐官を歴任した平出は、社交的で話すのがうまい人物だった。そのうえ平出は、小粋
 な身なりでも知られていた。髪はそのころ流行りのセンターわけ。福徳円満な丸顔にチ
 ョビ髭を生やし、パリかローマで買ったらしいフチ無しの眼鏡をかけ、イタリア製の白
 靴をはいていた。こうしたメディア映えする帝国軍人は珍しく、おのずと世間の耳目を
 引きつけた。
・1941年5月の海軍記念日にラジオ放送だった。平出は及川海相に続いてマイクの前
 に立ち、30分にわたって「海戦の精神」と題する演説を行った。その内容たるや、凄
 まじかった。平出は、帝国海軍が五百隻の艦艇と四千余機の航空兵力を保有し、独自の
 必殺的戦法を練っていると豪語。「軽々しく我に挑戦するものあらばこれを一挙に粉砕
 せん」と叫び、「今日の世界情勢から日本が(第二次世界大戦に)参戦することなしと
 断言することは誰にもできない」と挑戦的に論を結んだ。

緒戦の快勝と海軍報道部の全盛
・ラジオはスピードで圧倒的に有利だった。ラジオ受信機の普及がネックだったものの、
 その契約数は日中戦争がはじまった1937年度より倍増し、1941年度には六百六
 十万余件に達した。これは、家族や同僚などと集団で聴くには十分な数だった。
・大本営発表といえば、勇ましい軍歌とセットで放送されたというイメージがある。これ
 もラジオならではの演出だった。
・新聞社は、商売敵にラジオに対しては強気。反対に、権力に対しては従順。これでは権
 力のチェックどころではない。かくて日本の新聞は完全に大本営報道部の拡声器と化し
 てしまった。

「でたらめ」「ねつぞう」への転落
・大本営(特に作戦部)には現地部隊の報告を鵜呑みにする悪癖があった。また、報告を
 精査しようにも、大本営はそれを行うだけの十全な情報を持っていなかった。
・戦意高揚のため、大本営が敢えて虚偽を発表したのならば、それはそれでひとつの判断
 だったかもしれない。どこの国も、戦時下にはある程度情報を都合よく操作していたか
 らである。しかし、意図的な情報操作ではなかったゆえに、大本営は誇張された戦果を
 「真実」である以上、以後の作戦は(多少割り引いていたとはいえ)基本的にはこの戦
 果にもとづいて立てなければならない。すなわち大本営は、誇張された戦果に自ら騙さ
 れ、縛られてしまったのだ。「もう米海軍には空母はほとんど残っていないはずだ。し
 たがって、この方面にはこれくらいの部隊を送れば十分だろう」。こうして、必要以上
 の損害を被ったことも一度や二度ではなかった。それゆえ、情報の軽視は、日本軍の行
 動を歪めるきわめて致命的な欠陥だった。これにもとづいて作成された大本営発表は、
 国民だけでなく、日本軍の指揮官たちをも誤謬の霧のなかに閉じ込めたのである。
ミッドウェー海戦の前には誰もこれほどの大敗を予期していなかった。なぜなら、この
 ときまで日本海軍は連戦連勝であり、兵力、装備、練度などの面で米太平洋艦隊を凌駕
 していたからだ。そのうえ、この海戦には、真珠湾攻撃でも活躍した主力の空母四隻が
 投入された。この無敵を誇る機動部隊が負けるわけがない。そんな驕りに近い自信が海
 軍内に充満していた。
・戦果は情報の軽視により誇張され、損害は組織間の不和対立により隠蔽される。ここに、
 デタラメな大本営発表を生み出す基本構造が現出した。ところで、大本営海軍部は国民
 を騙しただけではなかった。海軍は陸軍にも正確な損害を知らせず、海軍内部でもでき
 るだけ情報を秘匿しようとした。
・混乱する海軍の戦果判定に対し、昭和天皇は戦争末期にこう苦言を呈したといわれる。
 「サラトガが沈んだのは、こんどでたしか四回めだったと思うが」。戦局が不利に転じ
 るなかで、海軍は海戦初期の慎重さを失いつつあった。
・日本海軍は、まるで紙のうえで戦いを繰り広げているようであった。新聞記者のなかに
 は、大本営発表のデタラメさに勘づいた者もいた。ただ、それが記事に反映されること
 はなかった。この結果、国民は三重に目隠しされた。まず、日本軍の情報の軽視により、
 戦果の誇張が起きる。次に、軍部の組織的な不和対立により、損害の隠蔽が起きる。最
 後に、軍部と報道機関の一体化により、ジャーナリズムが機能不全に陥る。こうして国
 民のもとにたどりつくころには、大本営発表は「でたらめ」「ねつぞう」と成り果てた
 のである。
・このような環境のなかで、軍部内の感覚は次第に麻痺していった。前回もやったのだか
 ら、今回も損害を隠蔽してしまおう。これも士気高揚のためだ。いまさらついた嘘を覆
 すこともできない。マスコミは自由自在に動かせるし、どうぜ国民にばれはしない。一
 度感覚が麻痺してしまえば、もう何も怖いものはなかった。
 
「転進」「玉砕」で敗退を糊塗
・1943年は、太平洋戦争の攻守が完全に逆転した年である。この年、米軍は新型の空
 母や戦闘機を次々に実戦配備し、戦力を大幅に増強した。これに対し、日本軍は各地で
 後退を強いられるようになった。具体的には、占領した島からの撤退や、守備隊の全滅
 が相次いだ。高級指揮官の戦死も、もはや珍しいことではなくなった。ことここに至っ
 て、敗退の隠蔽は困難だった。
・とはいえ、「撤退」や「全滅」をありのままに発表すれば、国民の戦意が萎えてしまう
 かもしれない。場合によっては、作戦を指導した大本営の責任も問われかねない。それ
 はそれで看過できないことだった。そこで思い悩んだ大本営は、特殊な話法を編み出し
 た。すなわち、日本軍は撤退したのではない。作戦を達成したので、方向を転じて別の
 方面に進んでいるのだ。あるいは、日本軍は無策によって全滅したのではない。積極的
 な攻撃によって玉のように美しく砕け散ったのだ、と。
・要するに、大本営は、隠し切れない敗退を美辞麗句で糊塗するという新しい技法を身に
 つけたのである。その美辞麗句こそ、悪名高い「転進」と、「玉砕」にほかならない。 
・1942年8月より、ソロモン諸島のガダルカナル島では、日米間の激しい攻防戦が繰
 り広げられてきた。日本軍は、強靭な米海兵隊を駆逐するため、約三万一千名の兵力を
 次々にガダルカナル島に送り込んだ。ところが、制海権と制空権を米軍に奪われたため、
 弾薬や食糧の補給に失敗。最終的に、約二万名もの兵力をいたずらに失ってしまった。
 そのうち四分の三が餓死と戦病死というから、いかに杜撰な作戦さったかがわかる。こ
 れに対して、米軍の戦死者は約千六百名だった。強気の大本営も、増えゆく一方の損害
 を前にして、ついにガダルカナル島の放棄を決定。こうして半年にわたって続けられた
 ガダルカナル島(その悲惨さから「餓島」とも呼ばれた)の攻防戦は、米軍の完勝に終
 わった。
・さて、戦いが終われば、今度は国民に発表しなければならない。連戦連勝を誇る陸軍と
 して、「退く」という言葉は絶対に使いたくない。かといって隠し通すことも現実的で
 はない。どうしたものかと悩んだ陸軍首脳部は、ついに「転進」という言葉を作り出し
 た。「日本軍敗北したのではない。作戦目的を達成したので、方向を転じて別の方面に
 進んでいるのだ」。それが陸軍の言い分だった。
・日本軍は、ミッドウェー攻略作戦の陽動として米領のアッツ島を占領。その後、二千六
 百名ほどの守備隊を同島に配置していた。アッツ島は北太平洋の孤島であり、戦略的な
 価値はほとんどなきに等しかった。激戦地の南太平洋から遥かに離れていたこともあり、
 日本軍はこの島を重視していないかった。ところが米軍が突如として一万一千の陸軍部
 隊を上陸させ、島の奪還を図ってきた。守備隊は寡兵よく戦ったが、増援や撤収が行わ
 れなかったため、全滅してしまった。人事不省で捕虜になった者を除けば、生存者はゼ
 ロ。文字どおりの全滅である。最後の攻撃に参加できない重傷者は、事前に自決したと
 いうのだから凄まじい。これに対して、米軍の戦死者は六百名ほどだった。ここまで絶
 望的な戦いは前代未聞だった。陸軍報道部は表現に悩んだ。全滅したアッツ島守備隊
 「転進」はふさわしくない。かといって、「全滅」はあまりにイメージが悪すぎる。そ
 こで、「玉のように美しく砕ける」という意味の「玉砕」という言葉が選ばれた。でき
 るだけ全滅のイメージを美化しようという苦肉の策だった。
・ラジオではアッツ島守備隊が一兵の増援、一発の弾薬の補給も求めずに大軍相手に奮闘
 したなどと激賞した。実際のところ、日本軍は圧倒的な米軍に阻害されて、増援や補給
 をできなかったのである。ところが、この事実は隠蔽され、守備隊の「玉砕」は「皇軍
 の神髄発揮」という美談に変えられてしまった。この結果、大本営の責任は不問に付さ
 れた。それゆえ、大本営の作戦指導はまったく変化しなかった。守備隊はこのあとも各
 地で全滅を強いられていく。「玉砕」という言葉は大本営から反省の機会を奪ったので
 ある。  
・その後も損害の隠蔽は相変わらず行われていた。その最たるものが、戦艦「陸奥」の爆
 沈である。瀬戸内海の桂島泊地に停泊中だった「陸奥」が突如として爆発、大勢の乗員
 とともに沈没した。弾薬庫の爆発が原因だった。国力が乏しい日本では、新たに戦艦を
 補充することが難しいからだ。まして「陸奥」は、最新鋭の戦艦として国民に広く親し
 まれていた。実際にはより新鋭の「大和」「武蔵」が存在したのだが、この両艦は一
 般には無名だった。それゆえ「陸奥」は、同型艦の「長門」とともに、日本海軍のシン
 ボルだったのである。こうした事情があったにもかかわらず、日本海軍は「陸奥」を喪
 失してしまった。しかも戦闘ではなく事故によって。あってはならない大失態だった。
 大本営は当然のごとく「陸奥」の爆沈を隠蔽した。国民に増産を訴えている手前、海軍
 の不手際で貴重な戦艦を失ったなどといえるはずもなかった。そのため、一般国民の多
 くは敗戦後になって「陸奥」の爆沈を知らされることになった。
・ブーゲンビル島沖、ギルバート諸島沖、マーシャル諸島沖の三航空戦の結果発表された
 戦果は、合計で空母十六隻、戦艦四隻に及んだ。驚くべきことに、この撃沈数すべてが
 架空だった。実際にはこの撃破の架空戦果や、巡洋艦や駆逐艦など補助艦艇の架空戦果
 も加わるので、さらに現実との乖離は広がっていく。
・これほど多大な被害を受けたはずなのに、米機動部隊の攻撃は止まなかった。大本営の
 参謀たちも薄々おかしいと思っていたはずだ。だが、戦果を嘉賞する天皇の勅語が出さ
 れたため、もはや修正もできなかった。誰も責任を取らず、過大な戦果だけが積み上が
 っていく。大本営発表は完全に現実味を失っていた。
・「玉砕」は大本営発表の表現としては有名だが、使われた期間は1年にも満たなかった。
 戦局の悪化はあまりに急速で、美辞麗句で誤魔化せる時期はあっという間に過ぎだった
 のだった。 
・戦果の水増しが酷い。戦艦は4.5倍、空母は約4.3倍も、まで膨れ上がっていた。
 一方、損害の隠蔽により、戦艦の喪失は3分の1に、空母の喪失は7分の1に圧縮され
 た。巡洋艦以下の小型艦艇をとりあえず横に置けば、日本海軍は主力艦だった三隻の喪
 失で、米英の主力艦四十四隻を葬り去ったことになってしまう。
・ちなみに、そもそも米空母がそんなに存在したのかと疑問に思うかもしれない。なるほ
 ど開戦前まで太平洋に配備されていた米空母の数は、たった六隻にすぎなかった。とこ
 ろが、米国は開戦後に持ち前の工業力を発揮。戦争終結までに正規空母の「エセックス」
 級だけで十七隻を、護衛空母の「カサブランカ」級だけで五十隻を、軽々と竣工させて
 しまった。したがって、米空母が雲霞のごとく日本海軍に襲いかかってきたのは事実で
 ある。これに対し、日本が新たに建造しえた空母は、商船からの改造などを含めても十
 五隻にとどまった。身も蓋もない話ではあるが、そもそも米国相手に戦争をはじめたこ
 と自体が狂気の沙汰だった。  

片言隻句で言い争う陸海軍
・「必勝の信念」「大御心を奉じ」「一億一心」「八絋一宇」「聖戦完遂」「断乎撃滅」
 「向かうところ敵なく」「勝利はあと一歩」・・・何とむなしい言葉の羅列であろう。
 官僚の作文だけでは戦争はできない。こういう無内容・無感動の言葉を適当に操作すれ
 ば、知らぬまに勝利がころげこんでくる、とでも思ったのであろうか。
・日本軍には現地部隊からの報告を下方修正しにくい組織風土があった。そのため、連合
 艦隊司令部や軍令部も、現地からの報告を鵜呑みにしてしまった。
・海軍は国民だけでなく、陸軍にも真実を告げなかった。
・神風特別攻撃隊敷島隊の五機が、フィイリピン・レイト島沖で米海軍の護衛空母群に突
 入。そして必死の体当たり攻撃により、護衛空母「セント・ロー」を撃沈し、ほかの護
 衛空母二隻にも被害を与えたのである。その最後は、戦果確認のため同行したパイロッ
 トによって比較的正確に報告された。これまで米海軍の空母に手も足もでなかった日本
 海軍にとって、これは驚異的な知らせだった。実は、神風特別攻撃隊の出撃に先だって、
 軍令部の作戦課では航空機による体当たり攻撃を大々的に宣伝し、戦意高揚に活用しよ
 うと計画していた。「神風(特別)攻撃隊」という総称も、「敷島隊」という個別部隊
 の名称も、実はあらかじめ決まっていたのだ。敷島隊に前後して、朝日隊、山桜隊、菊
 水隊も米空母群に体当たり攻撃をしかけた。この時の大本営発表は空母三隻撃沈と発表
 されたが、実際に撃沈された空母はさきの護衛空母「セント・ロー」一隻のみだった。
 神風特別攻撃隊の戦果は、これ以降も大幅に水増しされていくことになる。現在でも、
 神風特別攻撃隊はほかの戦死者よりも特別な崇敬を集める傾向がある。戦時中はこれの
 比ではなかった。不可侵な存在となった。したがって、その戦果を疑うなど許されなか
 った。
・破綻していた大本営発表は、特攻隊の犠牲者をいわば「人質」に取ることによって、最
 後の弥縫策を行った。大本営発表を疑うことは、特攻隊の戦果を疑うことなのだと。こ
 うして、大本営発表は自らも不可侵なものとなったのである。このあとも異常なまでに
 過大な戦果が発表されていくが、誰もそれを止めることはできなかった。
・陸海軍は国民を信頼せず、それどころかお互いも信頼しなかった。陸海軍は大本営発表
 の片言隻句をめぐって言い争い、国民の心はますます発表から離れていった。大本営は
 必死に勝利をアピールしたものの、国民の反応は冷たかった。

埋め尽くす「特攻」「敵機来襲」
・晩年の大本営発表は、悲惨の一言い尽きる。前線では、神風特別攻撃隊、神潮特別攻撃
 隊(人間魚雷「回天」部隊)、陸軍の特別攻撃隊などが次々に出撃。ついには、地上部
 隊の肉弾斬り込み攻撃まで報道された。
・いくら勇ましい言葉で脚色しても、これでは戦意高揚にはるはずもなかった。戦後に行
 われた米国戦略爆撃調査団の聴き取り調査によると、日本人の戦意は1944年末ごろ
 急激に低下している。もはや勝利の確信は揺らいでいたのである。
・とはいえ、フィリピンの戦い硫黄島の戦い、そして沖縄戦など、まだまだ熾烈な戦い
 は続いた。大本営報道部は最後の徒花とばかりに、特攻隊の途方もない戦果と、本土空
 襲の「損害軽微」を何度も強調した。
台湾沖航空戦はまったくの虚報だった。そして海軍は、その事実を把握しておきながら、
 陸軍に通知しなかった。その結果、フィリピンの陸軍部隊は飛んで火に入る夏の虫状態
 となって壊滅、翌年二月にマニラを米軍に奪い返されてしまう。
・真実に忠実ならば、大本営報道部はこの地上戦を中心に取り上げるべきだった。戦況に
 対する影響の面でも、犠牲者の数の面でも、地上戦こそもっとも重大だったからである。
 ところが、大本営発表が盛んに伝えたのは、特攻隊の出撃と体当たり攻撃だった。
・なるほど体当たり攻撃はひとびとを感動させはするかもしれない。だが、それで戦況報
 道を埋め尽くすのは欺瞞だった。地上戦の餓死や戦病死は、これにより国民の視界から
 巧みに消し去られたのである。
・陸海軍の報道部は、1944年11月から翌年1月まで特攻隊の活躍を盛んに伝え、そ
 の攻撃によって空母六隻、戦艦六隻を撃沈したなどと主張した。だが、実際のところ米
 海軍の主力艦の喪失は、護衛空母「オマニー・ロー」一隻にとどまった。脆弱な護衛空
 母ならともかく、ダメージコントロールに優れた正規空母や、分厚い装甲を誇る戦艦を、
 こんな簡単に次々沈められるわけがなかった。とはいえ、ただでさえ現場の声に弱い日
 本軍である。前線部隊から「体当たり攻撃で主力艦を撃沈した」と報告された以上、こ
 れを値引くことは事実上不可能だった。
・大本営は壊れた機械のように、ありえない数の戦果を積み上げるほかなかった。特攻隊
 の発表は、国民だけでなく大本営をも縛ったのである。1945年に大本営発表のデタ
 ラメぶりは頂点に達した。   
・米軍が夜間の無差別絨毯爆撃に踏み切ると、様相が一変した。主要は都市は一晩で焼け
 野原となり、数千、数万単位の犠牲者が続出するようになったのである。こうなると大
 本営も対応に苦慮した。前線と異なり、本土の被害は誤魔化しが利かない。国民が焼け
 野原となった都市をその目で見ているからだ。そこで大本営は「相当の被害」という強
 めの表現も使うようになったが、それが限界だった。「甚大な被害」「壊滅的な被害」
 などという表現はついぞ使われることがなかった。むしろ大本営は、被害の程度に言及
 すること自体を放棄した。
・その最たる例が東京大空襲である。犠牲者は10万人。被害の甚大さは明らかだった。
 だが、大本営は「火災を生じたるも○○時までに鎮火」という実に持って回った表現を
 用いるにとどまった。被害の程度はノーコメント、鎮火にかかった時間から察せよとい
 うわけである。  
・特攻と本土空襲の発表の合間に、硫黄島の戦いや沖縄戦の発表もまた行われた。圧倒的
 な連合軍の攻撃に、日本軍の守備隊はいずれも全滅した。ただ、大本営発表はこれまで
 のように「玉砕」や「全員戦死」という言葉を使わず、「総攻撃」や「最後の攻撃」を
 行ったとだけ発表した。つまり、守備隊の最後は間接的に示唆されたのである。
・沖縄戦では、フィリピンの戦いとは反対に、地上部隊の戦いぶりが盛んに報道された。
 これに対し、特攻隊の存在はことさらに強調されず、大本営発表上では「航空部隊」の
 活躍として一括された。特攻隊の体当たり攻撃はもはや日常となっていた。
・水上部隊による特攻も行われた。戦艦「大和」が残存の艦隊を率いて沖縄に向かい、翌
 日坊ノ岬沖で米艦載機の集中攻撃を浴びて沈没したのである。もはや海軍首脳部は戦艦
 に関心を失っていたのか、その沈没は翌日の大本営発表であっさりと触れられた。日本
 海軍が世界に誇った巨大戦艦も、日々出撃する空の特攻隊の活躍の前では、あってなき
 がごとしであった。 
・8月6日広島に原子爆弾が投下された。大本営報道部は現地調査を待って、翌日発表を
 行った。すでに原爆の使用は米国側から発表されていたが、大本営は「敵側の宣伝に乗
 せられる」「国民の戦意を失わせる」ことを口実としてこれを「新型爆弾」といいかえ
 た。    
・8月9日未明、ソ連が突如として日本に宣戦布告し、満州国などに対して侵攻を開始し
 た。弱体化していた関東軍はこれを防ぎ切れず、敗走を重ねた。大本営は同日に、ソ連
 軍の来襲と日本軍の迎撃を簡単に伝えた。 
・8月9日には長崎市に対する二つめの原爆が投下されたが、大本営報道部は沈黙を守っ
 た。軍部の誰かが士気の低下を恐れて発表を差し止めたのではないかと考えられる。
 長崎への原爆投下は、あたかも小規模な空襲だったかのように、西部軍管区司令部から
 発表された。約七万人の犠牲者も、「被害は比較的僅少なる見込」と表現された。
・8月10日未明、昭和天皇が御前会議においてポツダム宣言の受諾を決定した。いわゆ
 る「聖断」である。ここから終戦へ向けた工作が本格的に動き出すとともに、これを覆
 さんとするクーデターの計画もまた動きはじめた。一般的には、14日深夜から翌日未
 明にかけて起こった宮城時間がよく知られている。陸軍の一部が皇居内に侵入し、玉音
 放送のレコード盤を力ずくで奪い取ろうとした事件だ。だが、実はその二日前にも、ほ
 ぼ同じ首謀者たちによって別の形で戦争継続が図られていた。そのとき目をつけられた
 のが、大本営発表だった。戦争継続を主張する陸軍将校たちは、大本営発表を通じて徹
 底抗戦を訴えようとした。そうすれば、戦争継続の流れが既成事実化するに違いない。
 そう考えたのである。
・大本営報道部の報道部員たちは、しばしばマスコミ関係者の回想録で、権力を笠に着た
 抑圧者として描かれている。たしかにそういった面はあったのかもしれない。だが、実
 際のところ報道部員たちは、陸海軍の対立や作戦部などとの折衝に悩まされ、右往左往
 しながら職務に当たった小吏にすぎなかった。したがって、大本営発表の問題は、彼ら
 の人格などに帰せられるべきではなく、その所属した組織の構造的な欠陥などを考慮に
 入れなければならない。もちろん、マスコミ関係者が大本営発表の「共犯」だったこと
 も見逃せない事実である。
 
政治と報道の一体化がもたらした悲劇
・連合軍の喪失数は、大本営発表に従えば、空母84隻、戦艦43隻に及んだ。一見とて
 つもない数である。日本海軍は、主力艦だけを見れば、たった7隻の損害で敵の127
 隻を葬ったことになる。ところが、おれがまったくのデタラメで、実際には連合軍は、
 空母11隻、戦艦4隻しか失わなかった。戦果は、空母で73隻、戦艦で39隻も水増
 しされた。空母11隻の喪失はやや多く感じられるが、そのうち正規空母は5隻のみ。
 1942年10月の南太平洋海戦以降は1隻も沈んでいない。残りは巡洋艦改造の空母
 が1隻、護衛空母が5隻だった。米海軍の空母はそれほどまでに頑丈だった。
・要するに、日本海軍は連合国海軍にほとんど太刀打ちできなかったのである。それにも
 かかわらず、大本営は年々厖大な戦果を計上していった。その結果、大本営発表上の戦
 果と実際の戦果は年々乖離していった。
・大本営発表がここまで破綻した原因は一体なんだったのだろうか。第一に、日本軍にお
 ける組織間の不和対立をあげなければならない。よく知られるように、日本軍は組織間
 の深刻な不和対立を抱えていた。陸軍と海軍の不和対立、統帥部(参謀本部、軍令部)
 と省部(陸軍省、海軍省)の不和対立などがそうだ。こうした不和は単なる感情的なも
 のではなく、統帥権の独立などによって制度的にも裏付けられていた。そのため、埋め
 合わせはきわめて難しかった。これに加えて、同じ統帥部のなかでも、たとえば作戦部
 と情報部、あるいは作戦部と報道部が反目し合っていた。大本営発表は、こうした組織
 間の不和対立の影響をもろに受けた。なぜなら、様々な組織や部署が、ハンコを人質代
 わりにしてその内容に介入してきたからである。報道部は権限が弱く、こうした介入に
 抗うことができなかった。ほかにも、大本営発表はときに人間関係や要職者の態度にも
 左右された。大本営発表は、確たる方針もなく、そのときどきの状況に流されやすい性
 質を持っていた。とりわけ損害の隠蔽は、これに大きく影響を受けた。
・そして第二に、日本軍における情報の軽視をあげなければならない。日本軍は情報をた
 いへん軽視していた。対中国や対ソ連に関しては一定の実績もあったものの、こと対米
 国になるとインテリジェンスの欠落は深刻だった。情報は本来、広く収集され、厳しく
 査定され、そして有効に活用されなければならない。ところが、日本軍にはこの機能す
 べてに問題があった。特にその弊害が顕著に現れたのが、太平洋戦争の帰趨を決した航
 空戦だった。航空戦の戦果確認は、もっぱらパイロットの証言に依存した。高速で戦
 闘しながら、海上の豆粒のような目標を正確に判断するには、豊富な経験が不可欠だっ
 た。そのため、熟練のパイロットが消耗すると、情報の精度はたちまち低下した。こう
 した事情があったにもかかわらず、現地部隊でも、大本営でも、その曖昧な情報を厳し
 く査定しなかった。現地部隊の司令官は、基本的には部下の報告をほとんど疑わなかっ
 た。それどころか、大本営で戦果が過小評価された場合には厳重に抗議し、「俺が腹を
 切って証明する」などと息巻いた。大本営は大本営で、絶大な発言権を持つ作戦参謀た
 ちが自分たちで立案した作戦を過信し、希望的な観測にもとづいて過大は戦果を肯定し
 がちだった。 
・太平洋戦争の初期のように、勝利を重ねていたときは、日本軍の組織的な欠陥が露呈す
 ることは少なかった。勝利の発表についてもめることは少ないし、勝っている以上、生
 還者も多く比較的正確な情報を得られていたからである。ところが、1943年に米軍
 の戦力が大幅に増強されると状況は一変した。日本軍はかつてのように勝つことができ
 なくなり、それどころか各地で敗退を強いられるようになった。すると、たちまち組織
 間の不和対立が頻発し、発表文への介入が激しくなった。また、激しい消耗を受けて前
 線からの報告が不正確になったうえ、焦った作戦部がそうした報告を希望的な観測にも
 とづいて鵜呑みにするようになった。こうした積み重ねにより、大本営発表は、急速に
 現実味を失った。そしてふたつめの外的原因は、軍部と報道機関の一体化である。これ
 こそ大本営発表が破綻した最大の原因にほかならない。いかに大本営がデタラメな発表
 を行っても、報道機関がその不自然さを的確に指摘していれば、国民はここまで騙され
 なかっただろう。また、大本営でも報道機関が厳しくチェックするとわかっていれば、
 ここまでデタラメな発表は行わなかったに違いない。ところが、報道機関が大本営報道
 部の下請けに成り下がり、そのチェック機能を手放してしまった。その結果、大本営は
 歯止めが利かなくなり、内部の論理のみに従って、自由自在に発表を行えるようになっ
 た。   
・軍部が短期間に一方的に報道機関を弾圧したのではなく、二十年以上かけて飴と鞭を巧
 みに使い分けながら徐々に報道機関を懐柔し、ついにこれを従属させたのである。だか
 らこそ、報道側も抵抗が難しかった。
・そもそも日本軍の情報は、入り口(報告)の時点で不正確だった。このただでさえ不正
 確な情報は、厳しく精査されることもなく、組織内部の事情でさらに修正を加えられ、
 ますます不正確な状態に陥った。そこに追い打ちをかけるように戦局が悪化。不正確な
 情報が激増し、修正の数もうなぎ登りになった。本来ならばジャーナリズムがこれを制
 止するはずだった。ところが、ときすでに報道機関は死に体で、大本営はどんな支離滅
 裂な発表でもやり放題となっていた。かくして、デタラメ極まりない大本営発表は現実
 のものとなったのである。    
・今日「大本営発表」というと、「あてにならない当局の発表」と同時に、「それを無批
 判に垂れ流すマスコミの報道」が連想される。そして決して的外れではなく、この広義
 の大本営発表を言い当てたものだったのである。
・歴史を「面白く」消費できるのは、われわれ社会が一定の状態にあるからである。たと
 えば、政府がひとびとの思想や言論にたやすく介入し、特定の歴史観以外を認めないよ
 うな社会では、歴史を「面白く」消費することなどできはしない。それゆえ、私は歴史
 の知識をただの消費の対象にとどめるのではなく、現在の社会問題と結びつけ、あるべ
 き社会状態の維持発展のために役立てせたいと考える。
・大本営発表の本質は、「軍部と報道機関の一体化」だった。軍部は政治権力の一部であ
 るから、これは「政治権力と報道機関の一体化」、より簡単にいえば「政治と報道の一
 体化」と捉え直せる。すると、大本営発表はぐっと現在も応用できる普遍的な問題とな
 る。  
・報道は、行政、立法、司法に次ぐ「第四の権力」と呼ばれる。その使命は政治を厳しく
 チェックすることだ。こうしたチェック機能がなくなると、有権者は選挙に際して適切
 な投票行動を取れず、健全な民主制を維持できなくなってしまう。それゆえ、政治と報
 道は、本来絶対に一体化させてはならないのである。
・2011年3月に発生した福島第一原発事故では、まさに「政治と報道の一体化」が真
 正面から問題になった。すなわち、マスコミは電力会社からの厖大な広告費などを受け
 取って、原発の「安全神話」、これがデタラメであったことは事故によって証明された
 わけだが、を流布してきたのではないかと指摘されたのである。
・近年、報道に対する政治権力の介入がしばしば問題になっている。2012年12月に
 成立した第二次安倍晋三政権のもとで、その動きは顕著になった。特に狙い撃ちされて
 いるのは、世論に大きな影響力を持つテレビ局である。自民党の幹部が、在京テレビキ
 ー局の編成局長・報道局長あてに「(衆議院)選挙時期における報道の公平中立ならび
 に公正の確保」を求める文書を送り、番組の内容について細かく注文をつけた。
・2015年4月、自民党の情報通信戦略調査会が、NHKとテレビ朝日の幹部を呼びつ
 け、番組内容について事情を聴取した。
・2015年6月、自民党の国会議員が「文化芸術懇話会」という勉強会において、「マ
 スコミを懲らしめるには、広告料収入がなくなるのが一番」などと発言した。
・2015年11月、安倍首相が衆議院予算委員会において、「放送法」第四条は「単な
 る倫理規定ではなく法規」と発言した。「放送法」第四条は、放送事業者に対して政治
 的な公平性や、事実を曲げないことなどを求める規定であり、表現の自由とも密接に関
 係することから、従来「倫理規定」(努力義務)と考えられてきた。ところが、安倍首
 相はこれが「法規」(違反すれば行政処分の対象になりうる)だという解釈を示したの
 である。   
・2106年2月、高市早苗総務相が衆議院予算委員会において、「放送法」にもとづい
 て放送事業者に対し停波を命じる可能性があると発言した。
・これらの一連の動きは次のような事態を強く示唆している。政府・与党は、自ら報道番
 組の「公正中立」を判断し、場合によっては放送法にもとづいてテレビの電波を停止さ
 せる。つまり、事実上、テレビ局を倒産に追い込む。こうした電波の停止は、かつての
 用紙の供給停止を髣髴とさせる。これでは、テレビ局の経営陣は組織防衛のために政府
 ・与党も意向を忖度せざるをえないだろう。同年3月末に、政権に批判的とされたニュ
 ース番組のキャスターやコメンテーターが相次いで降板したことも、こうした忖度の結
 果ではないかと指摘されている。
・当たり前だが、政府・与党は政治権力の当事者であり、本当の意味で「公正中立」を判
 断できるわけがない。「公正中立」を旗印に、自分たちの都合のいい報道を求めるのは
 目に見えている。このような動きが進めば、「政治と報道の一体化」が形を変えてよみ
 がえりかねない。     
・改めて考え直す必要がある。報道への介入のさきにあるのは、「大本営発表」の再来で
 ある。政治と報道が一体化すれば、政権の発表は日々ただ無批判に垂れ流される。経済
 政策も、雇用政策も、すべてうまくいっている。日本のコンテンツは世界中で人気があ
 り、日本は世界から尊敬されている、と。たとえ専門家が間違いを指摘しても、マスコ
 ミはそれを伝えない。インターネット上お報道番組などもあるとはいえ、まだまだ影響
 力は小さい。結果的に、多くの有権者に正しい情報が伝わらなければ、投票行動に結び
 つかない。これでは、政治権力はデタラメな発表をやりたい放題になってしまう。
・たしかに、マスコミの報道にも酷いものはある。それで生じる被害も決して無視できな
 い。だが、「政治と報道の一体化」がもたらす被害はその比ではない。いかにマスコミ
 の報道に不満があるからといって、われわれが報道機関の独立性を尊重しなければ、い
 ずれ自分の首を絞めることになるだろう。  
・政治と報道の問題は、結局のところ、われわれの態度にもかかわってくるからだ。報道
 機関がいかに政治のチェックを誠実に行っても、われわれが支持しなければ、政治家の
 恫喝や企業の広告費に屈してしまうかもしれない。ましてわれわれが「政治は報道にど
 んどん介入してしまえ」という態度を取れば、報道機関は立つ瀬がなくなってしまう。
 これでは健全な民主制の維持も危殆に瀕する。「政治と報道の一体化」がいかなる悲劇
 を招くのかを、これほど具体的に生々しく教えてくれるものはない。   

おわりに
・第二次安倍政権はメディア対策にきわめて熱心であり、国内外でも批判的に取り上げら
 れることも多い。その一方で、世論は必ずしも安倍政権のメディア対策に批判的ではな
 い。それは、国民の間に長年蓄積されたマスコミに対する不信感と無縁ではあるまい。
・さはさりながら、メディアの独立性は、特定の企業の既得権などではなく、われわれの
 社会の共有財産である。これなくして、健全な民主主義の維持発展はありえない。マス
 コミ憎さのあまり、政治権力の監視というメディアの公益性を破壊するのは論外だ。こ
 れは大前提として強調しておかねければならない。
・大本営発表は、政治とメディアが一体化し、日本に史上空前の災厄をもたらした現象だ。
 その歴史を知れば、メディアの独立性を尊重したうえで、より真っ当な政権批判やマス
 コミ批判を行えるのではないか。
・もちろん、政治とメディアの問題は、単に安倍政権のみの話にとどまらない。安倍政権
 は遅かれ早かれいずれ終焉を迎える。だが、これだけ成功したメディア対策の手法は、
 今後もなんらかの形で継承されるだろう。いまでこそしかつめらしくしている野党勢力
 とて、いざ政権を握ればどう豹変するのかわかったものではない。それゆえ、いつの時
 代も、どの政権にも応用できる、メディアとの正しい付き合い方を養わなければならな
 い。