中国の赤い星 :エドガー・スノー

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この本は、1937年にアメリカのジャーナリストであった著者によって書かれたもので、
中国共産党の指導者であった毛沢東の伝記と言えるものである。この本によって、毛沢東
という人物がどういう人物であるのかを、はじめて世界に紹介されたと言われている。
毛沢東に率いられた紅軍が長征を終えたばかりの当時、著者は単独で中国共産党の根拠地
であった保安に入り、4カ月間彼らと生活を共にし、そのときの対話をもとにしてこの本
が書かれたといことで、当時の中国共産党のありのまま姿の記録にもなっているといわれ
ている。
この本に出てくる「保安」というのは、現在の中国の志丹県のことのようで、当時は保安
県という名称だったようである。また、この本に出てくる「ソヴェト」というのは、元来
はロシア語で「会議」とか「評議会」という意味らしいが、中国でもそれにならって労働
者階級で組織された政府を「ソヴェト政府」と呼んでいたようだ。
私はこの本を読むまで、毛沢東が率いる紅軍に「李徳」と呼ばれるドイツ人が同行してい
たということは知らなかった。李徳と呼ばれた男は、オットー・ブラウンというドイツの
共産革命家で、ソ連から軍事顧問として派遣されたようである。
この本に出てくる毛沢東の二番目の妻とされる「楊開慧」の父親「楊昌済」は、日本に留
学の経験があった人物のようだ。当時の東京高等師範学校(現・筑波大学)を卒業してい
るようだ。そしてその後、スコットランドのアバディーン大学にも入学したらしい。
この本を読むと、当時の日本軍が、数カ月で中国を制圧できるとして中国と戦争を始めな
がら、なかなか制圧できずに、ずるずると泥沼の戦争にはまり込んでいった理由がわかっ
たような気がした。日本軍から見て中国側の軍事力は貧弱に見えたのは確かだろうが、そ
の広大な国土と膨大な数の民を完全に制圧するということは、日本の国力では到底かなわ
ないことだったのだ。しかし、中国のような広大な国土を持つ国を制圧したことなどない
当時の日本軍の首脳たちには、そのことが理解できていなかったにちがいない。広大な土
地に薄く広く分散してゲリラ戦法で戦い、敵側から武器を調達しつつ戦えば、永遠に続け
られるとも思える持久戦に持ち込むことができる。これを続けられたら、資源の乏しい日
本は、やがて徐々に体力を消耗していくことになる。毛沢東はそのことに、早くから気が
ついていたのだろう。
この中国の紅軍と似たような戦法をとったのが、後にアメリカと戦った北ベトナムだ。こ
の戦法を取られることにより、圧倒的な軍事力を持っていたアメリカが北ベトナムに敗北
してしまったのだ。
この本を読んで、紅軍の長征によって培われた「抗日精神」というのは、当時の紅軍の最
大のモチベーションになっていたということが、よくわかったような気がした。「抗日精
神」こそが、中国共産党という組織を束ねる根幹となっているのだ。今日における中国共
産党においても、それは変わっていないのであろう。この「抗日精神」が無くなることは
中国共産党の崩壊をも意味する。しがたって、今日でも見られる中国「抗日精神」は、中
国共産党が存在するかぎり、止むことはないのだろうという印象を私は持った。
ただ、中国の内戦である紅軍(共産党軍)と白軍(国民党軍)との戦争は、熾烈を極めた
ようだ。ゲリラ戦法をとる紅軍に対して、白軍側は、一般住民と紅軍兵との区別がつかな
いという理由で、制圧した地域の住民を皆殺しにするという方法をとったようだ。これに
対して、おそらく紅軍側においてもその報復が行われたことは想像に難くない。
しかし、そんな両軍でも、その後の1937年7月の盧溝橋事件の勃発によって、日中戦
争が全面戦争状態となり、日本軍の中国本土への侵攻が本格化すると、国民党と共産党が
抗日民族統一戦線の結成で合意し、紅軍は形の上では国民政府軍の蒋介石の指揮下に入り、
両軍は協力して日本軍と戦かった。そして、1945年に日本との戦争に勝利すると、再
び内戦に突入していった。中国共産党は中国本土を制圧し、中国国民党は台湾に逃れ、現
在に至っている。こんな過去を持つ中国と台湾が、和解して一つの国になるというのは、
これからも当分は無理なのだろうと思える。
ところで、この中国における紅軍と白軍は、日本の明治維新に例えるなら、薩長軍と幕府
軍に当たると言えるだろう。日本の明治維新でも、勝利したのは革命軍である薩長軍であ
った。本来は当時の政府の正規軍であったはずの幕府軍は”賊軍”呼ばわりされた。
「勝てば官軍」という言葉があるが、どの国においても、勝ったほうが”官軍”であり、
”正義はの勝つ”と言われるのは、同じようである。

保安
ソヴェトの巨頭

・金朝・唐朝の時代に、保安は北方からの遊牧民族の侵入をふせぐ辺境の要塞であった。
 その昔、この谷間へ蒙古の占領軍がなだれこんだとき通過した狭い山道の側面に、堡塁
 の遺跡が午後の太陽に赫々ともえているのがみえた。そこにはかつて守備隊が宿営して
 いた内城が現在も残っている。ここでついに私は、南京が十年間戦い続けてきた紅軍の
 指導者「毛沢東」に出会ったのである。
・「周恩来」の無線電報はすでに届いており、私の到着は待たれていた。
・私の到着で保安の外人数は増加した。いま一人の西洋人は「李徳」同志と呼ばれたドイ
 ツ人であった。彼は中国紅軍についた唯一の外国人顧問であった。
・着くと間もなく私は毛沢東に会った。やせたリンカーンのような体格で、中国人の平均
 身長より高く、やや猫背で、濃い黒い毛髪は非常に長くのび、大きな鋭い目、鼻すじは
 高く、目立つ頬骨であった。
・私は指摘されるまでそれが毛沢東であることは判らなかった。南京政府がこの首に25
 万元懸けているにもかかわらず、毛沢東は無頓着であるかのように他の人々と一緒に歩
 いていた。 
・中国の”救世主”が単数であるはずはないのだが、しかし毛沢東のうちに未来を築く力を
 感じたことは否定できない。それはすばやいものでも線香花火のようなものでもなく、
 一種の強固な本質的な生命力である。この人のもつ非凡さは、数千万の中国人、とりわ
 け農民の切実な要求を総合し、表現するのに驚くほどたけていることにあると感じた。
・毛沢東はその政治的な側面を離れて、一個人としても興味がある。というのは、彼の名
 は「蒋介石」同様多くの中国人になじまれていながら、彼についてはほとんど知られて
 おらず、ありとあらゆる奇妙な伝説の主であったからである。
・毛沢東は不死身であるという評判であった。敵側は繰り返し彼の死を発表したが、数日
 後には相変わらず元気で新聞記事に復活するのであった。私が赤い中国を訪ねたときに、
 毛沢東は例によって新聞紙上では死亡していたのだが、たいそう元気に生きていること
 を発見した。彼は数多くの戦闘に参加し、一度は敵軍に捕らえられたが、逃亡し、その
 首には世界最高の賞金が懸けられてはいたが、この数年間を通じ一度さえも負傷したこ
 とがなかったのである。  
・大半の紅軍司令とちがって毛沢東は無節制な煙草好きであったが、彼の肺は全く健全で
 あった。長征の最中、毛沢東と李徳はさまざまな種類の葉を煙草の代用として試し、独
 創的な植物学の実験を行ったのである。
・毛沢東の二番目の妻であり、元教員で、自身共産党の組織者である賀子貞は夫君ほど恵
 まれていなかった。彼女は爆弾の破片で十数カ所負傷したいたが、傷はすべて浅かった。
 私が保安を去る直前、毛沢東夫婦は新たに女児の親となった。毛沢東には前妻「楊開慧」
 との間に二人の子供があった。楊開慧は毛沢東が尊敬していた教授の娘であったが、
 1930年に湖南省の軍閥「何鍵」の命令で殺されたのである。
・毛沢東は1936年に私が会ったときには43歳であった。 
・誰もが毛沢東を知り、尊敬していたのだが、少なくとも今までのところ、彼をめぐって
 英雄崇拝の儀礼は築かれていない。”われわれの偉大な指導者”といった文句を述べたて
 る中国共産党員に出会ったことは、一度もないし、毛沢東の名前が中国人民の同義語と
 して使われているのを聞いたこともない。しかし、”主席”(誰もが彼をこうよんだ)を
 敬愛せず、賛美しないような人に会ったことは一度もなかった。
・毛沢東は中国農民の質朴さと自然なふるまいを身につけ、ユーモアに富み、飾り気のな
 い笑いを好んだ。彼の話し方には衒いがなく、生活は簡素で、人によっては彼を下品で
 粗野だと思うかもしれない。しかしながら彼は、素朴でありながら鋭敏な機知をもち、
 世慣れているという奇妙な性質を兼ね備えている。
・一方、毛沢東は中国古典に熟達した学者であり、乱読家であり、哲学と歴史を深くきわ
 めた学徒であり、演説はうまく、異常な記憶力と人なみはずれた集中力をもち、有能な
 文筆家である。彼個人の習慣や風采にはかまわないが、自身の任務の詳細には驚くほど
 細心の注意を払い、疲れを知らぬ精力家であり、軍事・政治の戦略家としては非常な才
 能を発揮する。多くの日本人が彼を中国の現存するもっとも有能な戦略家とみなしてい
 たことは興味深い。  
・毛沢東は津町一緒に、何もない貧弱な二部屋の窰房に住んでおあり、壁は地図でおおわ
 れていた。彼はもっとひどい状態にあったこともあるし、湖南の”富”農の倅として、
 より良い生活も知っていた。彼ら夫婦の主な贅沢品は一張の蚊帳であった。それ以外は
 毛沢東の生活は紅軍の一兵卒と同じである。十年間紅軍の指導者であり、地主・官吏・
 徴税吏の財産を数百回も没収したのに、彼の持物は毛布と二枚の綿服、わずかな身のま
 わりの品にすぎなかった。
・毛沢東には誇大妄想の徴候は全くみられなかったが、故人の尊厳を深く意識しており、
 彼が必要と考えた場合には、冷酷な決断をする力を持っていることをうかがわせる何物
 かがあった。彼が怒ったのを見たことは一度もなかったが、他の人々から聞いたところ
 によると、ときどき相手を縮み上がらせるほど激怒することがあるという。
・毛沢東は並はずれて世界史をよく読んでおり、ヨーロッパの社会・政治状況を現実的に
 とらえていた。彼は労働者が参政権を持っている国でなぜまだ労働者の政府ができない
 のかについて、十分理解しかねているように私には受取れた。ルーズベルト大統領に対
 する見解は面白かった。ルーズベルトは反ファシストであり、このような男と中国は強
 力することができると彼は考えていた。彼はムッソリーニとヒトラーを大山師とみてい
 たが、ムッソリーニの方がはるかに有能で、歴史の知識を持った本物のマキャヴェリア
 ンであると評価し、一方、ヒトラーはみずからの意思を持たない反動的資本家の単なる
 傀儡にすぎないと考えていた。
・毛沢東はインドに関する著書をかなり読んでおり、この国についてははっきりとした意
 見をいくつか持っていた。その主なものは、インドは農業革命なしに独立を達成し得な
 い、というのである。 
・青年時代の毛沢東には、自由主義・人道主義の傾向が強く、理想主義から現実主義への
 移行はまず哲学上でおこなわれたのである。農民出身ではあったものの、青年時代に、
 他の多くの共産党員ほど地主の抑圧を体験したわけではない。マルクス主義が彼の思想
 の核心であったが、階級的増悪は彼にとって行動へ駆り立てる本能的推進力であるとい
 うより、彼が知的に体得した彼の哲学を支える一機構ではなかったかと、私は推論する。
・毛沢東のなかに宗教心と呼び得るものは何も見つからなかった。基本的な意味で彼は人
 本主義者であり、人間は自らの問題を解決する能力を持つと信じていた。    
・毛沢東の体質は鉄のようであった。それは青年時代に父親の田畑で激しい労働をしたこ
 とと、学生時代に仲間たちとスパルタ式のクラブで鍛えたことによると毛沢東は述べた。
・毛沢東はかつて、故郷湖南省を一夏かかって流浪したことがあった。農家から農家へと
 働き歩いて食を得、時には物乞いをした。またあるときは、数日間、堅い豆と水の他は
 口にしなかったが、これも胃を”鍛える”一つの方法であった。
・毛沢東は深い感情の持主だという印象を私に与えた。死んだ同志について話したり、ま
 た湖南の米騒動と飢饉の際、飢えた農民たちが衛門(役所)に食料を要求したかどで首
 を斬られた青年時代の思い出を回想したとき、一、二度彼の眼がうるんだのを私は覚え
 ている。ある兵士は前線で一人の負傷兵に毛沢東が外套をぬいで与えたのを見たと話し
 てくれた。紅軍兵士が靴を持っていない時には、彼も靴を履くのを拒否したという。
・しかしながら毛沢東が中国の知識人エリートから尊敬されることはまずないだろうと思
 える。それはおそらく彼の非凡な頭脳のせいばかりではなく、農民の習慣を身につけて
 いるからである。   
・毛沢東は、病気であった数週間を除いて、長征6千マイルの大半を一兵卒と同じに歩い
 た。国民党に”寝返る”なら、彼は高い地位と富を得ることが出来た。大方の紅軍司令に
 ついても同じことが言える。十年間これら共産党主義者がその原則を堅持したねばり強
 さは、その他の反逆者を買収するに用いられた中国の”銀の弾丸”の歴史を知らなければ、
 十分に評価できるものではない。

日本との戦争
・「もし他の帝国主義諸国が日本のようにふるまわず、そしてもし中国が日本を打ち負か
 すなら、それが中国の大衆が覚醒し、組織化され、独立を確立したことを意味しましょ
 う」と毛沢東は言った。
・「多くの人々は、日本が沿海のいくつかの戦略拠点をおさえ、封鎖を行なうならば、中
 国が抗日戦を継続するのは不可能だろうと考えています。これはナンセンスです。これ
 に反駁するには紅軍の歴史をかえりみるだけでこと足ります。ある時期には、国民党の
 軍隊はわが軍より数の上で十倍ないし二十倍も多く、また装備の面でも優れていました。
 彼らの経済資源はわれわれのそれを数倍凌駕し、彼らは外国から物資の援助を受けてい
 ました。それなのになぜ紅軍は白軍抗して成功につぐ成功を得、今日まで生き延びたば
 かりか、その勢力を増大し出来たその理由は、紅軍ならびにソヴェト政府が、その地域
 内で全人民の間に岩のような強固な団結を創りだしたことにあります。紅軍は、わずか
 数十梃のライフル銃を手にした決然とし革命家の闘いにはじかり、多くの勝利を勝ちと
 りました。というのは、人民のなかに築かれた強固な基盤が、白軍や一般市民の中にさ
 え味方をつくったからです。敵は軍事的にはわれわれよりはるかに優っていましたが、
 政治的にはばらばらでした」と毛沢東は語った。
・「中国は非常に大きな国であり、全領土がくまなく侵略者の剣のもとにおかれるまでは、
 征服されたとはいえません。もし日本が一億あるいは二億の人口を擁する地域を獲得し、
 中国の大半を占領することに成功したとしても、われわれはなお敗北からはとど遠いで
 しょう。われわれには依然として、日本軍閥と戦う巨大な力が残されています。日本の
 軍閥は戦争の全期間を通じて、たえず背面からの激しい攻撃にも対処しなければなりま
 すまい」「武器弾薬について言うなら、日本軍は、今後長期間にわたって中国軍を装備
 するに足る、われわれの奥地の兵器廠を奪取することはできないし、またわれわれが彼
 らの手中にある大量の武器弾薬を捕獲するのを妨げることもできません。この後者の方
 法で、紅軍は現在の兵力を、国民党によって装備してきました。ここ9年間彼ら国民党
 はわれわれの”軍需運搬人”でした」「経済的にはむろん中国は均等化していません。
 しかし、中国経済の不均衡な発展は、経済が高度に集中化した日本に対する戦争では有
 利です」と毛沢東は語った。
・「ソ連は、日本が全中国を征服し、中国をソ連攻撃の戦略基地とすることを満足気に傍
 観するでしょうか。それとも中国人民が日本の抑圧者に反対し、独立を勝ち取り、ロシ
 アの人民と友好関係を打ち立てるように援助するでしょうか。ロシアは後者を選ぶと思
 います」と毛沢東は語った。
・「中国の当面の任務は失われた領土をすべて奪還することで、単に長城以南の主権を防
 衛するにとどまりません。それは満州を取り戻さなければならないことを意味します。
 しかし、以前中国の植民地であった朝鮮を含みません。たが、われわれが中国の失陥領
 土の独立を再確認したとき、もし朝鮮人が日本帝国主義の鉄鎖から逃れたいと望むなら、
 われわれは彼らの独立闘争を熱烈に支援するでしょう。台湾についても同様です。中国
 人と蒙古人が共棲している内蒙古については、日本をそこから追い出すために、われわ
 れは闘い、内蒙古が自治国を樹立するよう援助するでしょう。
・主要な国民軍将軍たちの中においても、中国が日本に勝つ唯一の望みは、究極的には機
 動性をもつ部隊に細分された大量の軍隊による優れた遊撃戦と、広大な遊撃地区で長期
 防衛戦を維持する能力によらねばならぬとする毛沢東の確信に、同意しているようであ
 った。   
・「日本経済は、長期にわたる高価につく中国占領で痛手を負い、日本軍の士気は、小戦
 闘が無数に続く戦争で挫折するでしょう。革命的中国人民に内在する人的資源の偉大な
 貯水池は、日本帝国主義の洪水が中国人民の抵抗という隠れた葦で頓挫した後も、みず
 からの自由のために戦う用意のある人びとを、長期にわたってぞくぞくと前線に送り込
 むでしょう。 
 
ある共産主義者の来歴
幼年時代

・毛沢東は1893年に湖南省で生まれた。父親は貧農で、まだ若い時に、借金がかさん
 だため、やむなく軍隊に入らざるを得なかった。父親は長年兵士だった。後に父親は、
 毛沢東が生まれた村へ帰り、慎重に貯蓄し、小さな商いとその他の事業で小金をつくり、
 自分の土地を買い戻すことができたという。
・毛沢東は、8歳とき土地の小学校で学びはじめ、13歳までそこに通った。早朝と夜に
 畑仕事をし、昼間は「論語」や「四書」を読んだ。毛沢東が少し文字を覚えると、たち
 まち父親は毛沢東に一家の帳簿をつけさせようとした。父親は毛沢東に算盤を使えるよ
 うになることを望んだ。 
・母親はやさしい婦人で、寛大で情深く、いつでももっているものを分け与えました。彼
 女は貧乏人を憐れみ、飢饉のときに彼らが米を乞いにくれば、よくやっていたという。
・毛沢東の父親は学校教育を二年間受け、帳簿をつける程度には読み、書きができたが、
 母親は全く文盲で、両親とも農民出身だったという。
・毛沢東は13のとき学校をやめ、長時間畑仕事をするようになり、雇人を手伝い、晝間
 は一人前の労働をし、夜は父親のために帳簿をつけた。にもかかわらず毛沢東は読書を
 続けることに成功し、手に入るものはなんでも貪り読んだという。
・毛沢東は中国文学の古い伝奇小説や故事を読んでいた。ある日これらの物語に一つ独特
 なことがあり、それは土地を耕す農民が不在であることに気付いた。登場人物はすべて
 戦士・官吏ないし学者で、農民の英雄は一人もいない。このことについて毛沢東は二年
 間疑問を持ち続け、それから小説の内容を分析したのです。これらはみな、みずから土
 地を耕す必要のない武人であり、人民の支配者を賛美していることに気付いた。彼らは
 土地を所有し、支配しており、自分たちのために明らかに農民を働かせていたのです。
 読書は徐々に毛沢東に影響を及ぼしはじめた。毛沢東はますます懐疑的になった。
・父親は関係のあった米屋に私を徒弟奉公させることに決めていた。それは面白いかもし
 れなと思い、最初毛沢東は反対しなかった。だがこの頃、毛沢東は珍しい新しい学校が
 あることを聞き、父親の反対にもかかわらず、そこへ行くことを決めた。 
・新しい学校では自然科学や西洋の学問の新しい課目を学ぶことができた。もうひとつ注
 目すべきことは、教師の一人が日本へ留学した人だった。毛沢東は彼が日本について話
 すのを聴くのが好きだった。彼は音楽と英語を教えており、その歌の一つに日本の「黄
 海の海戦」というのがあり、歌詞の美しい言葉をいまだに一部覚えている。
 「当時私は日本の美を知りまた感じとり、このロシアへの勝利の歌に日本の誇りと力と
  いったものを感じたのでした。同時に野蛮な日本、われわれが今日知っている日本も
  あったことは考え及びませんでした」と毛沢東は語った。
  
長沙時代
・毛沢東は省立第一中学校の入学試験を受け、志願者の首席で及第した。大きな学校で、
 学生は多く、卒業生も沢山いた。しかし、毛沢東は第一中学校を好きではなかった。課
 目は限られており、規則は好ましいものではなかった。毛沢東はひとりで読書し、勉強
 するほうがよいという結論に達した。六カ月で学校を去り、毎日湖南省立図書館で読書
 するという自身の教育予定を立てた。毛沢東は非常に規則正しく、予定に忠実で、こう
 した過ごした半年は毛沢東にとって貴重であった。朝、開館と同時に図書館へ行った。
 昼になると二個の餅を買って食べる時間しか休まず、これが毎日の昼食でした。毎日閉
 館するまで図書館で読書した。 
・毛沢東は省立湖南第一師範学校の学生として5年間を費やし、卒業証書をもらった。毛
 沢東は自然科学の必須科目に反対だった。社会科学を専攻したかった。自然科学は特に
 毛沢東の興味をひかず、勉強しなかったので、これらの科目の大部分では悪い成績だっ
 たという。
・両親は私が14歳のとき、20歳の女性と結婚させましたが、彼女と一緒に暮らしたこ
 とは全くなく、またその後もそうでした。私は彼女を自分の妻とは思わず、その頃彼女
 のことはほとんど考えませんでした。

革命前夜
・毛沢東に最も強烈な印象を与えた教師は、イギリスに留学し、帰国した「楊昌済」だっ
 た。後に毛沢東は楊昌済の生涯と密接に関係することになった。楊昌済は倫理学を教え、
 理想主義者で、道義性の強い人物だった。
・毛沢東は国立北京大学の教授になっていた楊昌済に就職口をみつけてくれるよう頼んだ
 ところ、同大学図書館司書に紹介してくれた。それが後に中国共産党の創立者となった
 「李大サ」であった。李大サはその後、張作霖に処刑された。
・李大サは毛沢東に副司書の仕事を与えた。毛沢東の仕事の一つは新聞を読みに来る人の
 人の名前を記録することだったが、大半の人々は毛沢東を人間扱いしなかった。しかし、
 毛沢東は失望しなかった。毛沢東は大学の講義を聴講できるようにするために、哲学会
 と新聞学会に入会した。
・毛沢東は図書館で働いているときに、楊開慧と出会い、恋仲となった。彼女は楊昌済の
 娘だった。   
・1920年の冬、毛沢東ははじめて政治的に労働者を組織し、マルクス主義理論と、ロ
 シア革命史の影響によって導かれるようになった。毛沢東はロシアの状況に関して多く
 を読み、当時はごくわずかしかなかった中国語の共産主義文献を熱心に探し求めた。特
 に「共産党宣言」「階級闘争」「社会主義史」の三冊が毛沢東の頭に深く刻みつかられ
 たという。また、その年に毛沢東は楊開慧と結婚した。

国民改革時代
・「蒋介石」が広州で最初のクーデターを試みた1926年3月頃まで、毛沢東は国民党
 で仕事をしていた。国民党の農民部は設立以来共産党員が部長を務め、毛沢東は最後の
 部長であった。
・1926年秋、国民党と共産党連合戦線のもとで、歴史的な北伐がはじまった。
・1927年5月、共産党はまだ陳独秀の支配下にあった。すでに蒋介石は反革命を指導
 し、上海や南京で共産党攻撃を開始していたのに、陳独秀は依然として武漢の国民党に
 対して穏便で、譲歩すべきとの立場を取っていた。あらゆる反対を押し切って陳独秀は
 右翼日和見主義のプチブル政策をとった。陳独秀は革命における農民の役割を理解せず、
 当時その将来性を大いに過小評価していたという。
・4月には南京と上海で反革命運動がはじまり、蒋介石のもとで組織労働者の全般的虐殺
 が行われた。それから間もなく武漢の国民党左派は、共産党との協約を破棄して、国民
 党と政府から共産党員を”追放”した。
・毛沢東は国民党と協力していたある民団に逮捕された。国民党によるテロは当時最高潮
 に達していて、アカの容疑をかけられた者数百名が射殺された。毛沢東は民団本部へ連
 行され、殺されることになっていた。毛沢東は機会を見てなんとか脱走した。   
・1927年11月、湖南省境の茶陵に最初のソヴェトが樹立され、最初のソヴェト政府
 が選出された。

紅軍の成長
・赫々とした軍事面での発展の多くを説明するのには紅軍の戦術だ。四つのスローガンが
 採用された。これらは紅軍の源泉となった遊撃戦で用いた戦法の手がかりを与えるもの
 だ。
 1)敵が進めば我退き
 2)敵が駐屯せば我攪乱し
 3)敵が戦闘を避ければ我これを攻め
 4)敵が退けば我進む
・これらのスローガンは最初、経験を積んだ多くの軍人から反対された。彼らはこのよう
 な戦術に同意しなかった。しかし多くの経験は、これらの戦術が正しいことを立証して
 いる。いつでも紅軍がこれからはずれると、一般的に成功しなかった。われわれの兵力
 は少なく、敵は十倍から二十倍だ。われわれの財源と戦闘機材は限られ、機動戦術とゲ
 リラ戦を巧みに結合することによって、初めてわれわれよりはるかに富み、また優秀な
 基地をもつ国民党との闘争で成功を望むことができた。
・毛沢東は主席に選出された。毛沢東の名前は湖南農民に間に知れ渡っていたが、それは
 生死にかかわらず毛沢東の逮捕には高額の賞金がかけられていたからであった。湘潭に
 ある毛沢東の土地は国民党に没収された。妻と妹、二人の弟毛沢民と毛沢覃の妻たち、
 それに毛沢東の息子たちはみな逮捕された。毛沢東の妻(楊開慧)と妹は処刑された。
・日本の満州および上海侵略の後、ソヴェト政府は早くも1932年4月には日本に対し
 て正式に宣戦を布告した。この布告は、国民党軍がソヴェト中国を封鎖し、包囲してい
 たために実効をともなうものとは無論なり得ず、日本帝国主義に抵抗するために、中国
 の武装力すべてが統一戦線を結成するよう呼びかけた宣言が次いで発表された。
・1933年はじめにソヴェト政府は、どのような白軍であっても、内戦を停止し、ソヴ
 ェトならびに紅軍に対する攻撃を中止し、大衆に人権と民主主義の諸権利を保証し、抗
 日戦にために民衆を武装するなら協力すると宣言した。

長征
・最初の”勦滅戦”、そして、第二次・第三次・第四次のそれは実質的に失敗に終わった。
 どの勦滅戦でも紅軍は国民党軍の多くの旅団、そして全師団を打ち破り、自身の武器や
 弾薬の供給を補充し、新しい戦士を加え、彼らの領土を拡大した。
・紅軍を打破しようとする試みがいくらかでも顕著な成果をあげたのは、紅軍に対する戦
 いが7年目に入ってからのことである。第五次討伐戦で、蒋介石は紅軍に対して約90
 万の兵力を動員した。
・第五次討伐は主として蒋介石のドイツ人顧問団、とりわけ当時の総統の主任顧問であっ
 たドイツ軍のフォン・ファルケンハウゼン将軍によって計画されたといわれている。新
 しい戦術は綿密であったが、しかしまた非常に遅々とした高価なものであった。作戦は
 幾月も続いたが、なお南京軍は敵の主力に致命的な打撃を与えられなかった。
・この勦滅戦の最中に示された驚くべき抵抗の一年を持ち耐えるには、農民に対する相当
 な搾取が必要であったにちがいない。同時に戦士たちは、新しく手に入れた土地の所有
 者である農民であったことを忘れてはならない。中国の大半の農民は、土地だけのため
 に死を賭して闘うのである。住民は、国民党の復帰は地主の復帰を意味することを知っ
 ていた。   
・勦滅戦は間もなく成功するものと南京政府は信じていた。敵は包囲され、逃げ出すこと
 はできなかった。連日空から行われる爆撃と機銃掃射、それに国民党が取り戻した地域
 での”粛清”によって、数万人が殺されたはずであった。周恩来によれば、紅軍自体こ
 の時の包囲戦で、6万を越える死傷者を出したという。全地域が、時には強制的集団移
 住によって、無人にさせられてしまった。国民党の発表によれば、ほほ百万が殺された
 か、餓死したのである。
・にもかかわらず、第五次勦滅戦は決定的な降下をあげなかった。紅軍の”戦力”を破壊し
 得なかったのである。紅軍の軍事会議が開かれ、撤退し、紅軍主力を新しい基地へ移す
 ことが決定した。  
・退却は非常に敏速に、また秘密裡におこなわれたので、約9万といわれる紅軍の主力部
 隊が移動しはじめてから既に数日間たった後に、はじめて敵の司令部は何が行われつつ
 あったかに気づいたのであった。正規軍の大半を北部戦線から撤去して、遊撃隊におき
 かえた。これらの移動はいつも夜間に行われた。
・紅軍の主力の他に、紅区の農民たち数千が、老いも若きも、男も女も、子供も、共産党
 員もまたそうでない者も、この行軍を開始した。兵器廠は取りはずされ、工場は解体さ
 れ、機械類は騾馬や鱸馬の背に積みこまれた。価値があって運搬できるものはすべてこ
 の奇妙な騎馬行列で移動したのである。行軍が長引くにつれ、この荷物の多くは捨てら
 れなければならず、数千の小銃や機関銃、多くの機械類、多量の弾薬、さらに多量の銀
 すらも、南方からの長い道程の途中で埋められたのだと彼らから聞かされた。将来いつ
 の日か、現在は数千の警備軍に包囲されている赤い農民たちが、これを掘り出すだろう
 と、彼らは述べた。農民たちは合図を買っているだけなのであり、日本との戦争がその
 のろしとなるかもしれない。
・紅軍の主力撤退した後も、南京軍がこの主要な根拠地を占領するのに成功するには数週
 間かかった。数千の農民紅衛兵がゲリラ戦を続けたのである。彼らを指導するために、
 紅軍はもっとも有能な指揮官何人かを残した。しかし、彼らを率いていたのは6千名の
 健康な正規兵にすぎず、2万の負傷兵は農民たちがかくまっていた。数万は逮捕され、
 処刑されたのだが、しかし、彼らは後方を守る戦いを展開することが出来、それによっ
 て紅軍主力は、蒋介石が彼らを追跡し、行軍中に、殲滅するために部隊を動員し得る前
 に、前進することが出来たのである。
   
国家の移動
・この旅程は、車行に適さない、世界でもっとも困難な悪路や雪におおわれた高山、また
 アジアのいくつかの大河を横ぎるものであった。それははじめから終わりまでひとつの
 長期戦であった。  
・江西・広東・広西・湖南を経ての行軍で、紅軍は甚大な損害を蒙った。彼らが貴州省境
 に到達したときには人員は約三分の一に減ってしまった。第一に膨大な量の輸送が障害
 になったからであり、この仕事だけのために5千人さかなければならなかった。第二に
 江西から西北に向かう直線路用いられ、そのため南京軍は紅軍の行動の大部分を予測す
 ることができた。 
・揚子江を越えて四川省へ入る企図を予期して、蒋介石は湖北・安徽それに江西から数千
 の部隊をひきあげ、船で大至急西に送り、紅軍の前進路を北から遮断しようとした。
 蒋介石は多くの司令官や地方軍閥にあてて次のように打電した。「国家と党の命運は紅
 軍を揚子江以南に封じ込めることにかかっている」
・1935年5月初旬、突如として紅軍は南転し、中国の国境がビルマおよびインドシナ
 に接している雲南省に入った。雲南府にいた蒋介石と夫人は急ぎフランス鉄道でインド
 シナにむけて南下した。南京軍の爆撃大編隊は連日紅軍を爆撃したが、彼らは行進を続
 けた。
   
大草原をよこぎる
・たとえ紅軍についてどのように感じようと、また彼らが政治的に代表していることにつ
 いてどう思おうと、彼らの長征が軍事史上の大偉業の一つであると認めないわけにはい
 かない。アジアでは蒙古人のみがかつてこれを超越したのであり、これに似た武装した
 民族の移動は他に例をみなかったであろう。ハンニバルのアルプス越えは、これにくら
 べれば、休日の遠足にすぎないようにみえる。
・紅軍の北西への行軍は疑いもなく戦略的な退却であり、それは地域別の決定的敗北によ
 り余儀なくされたのであったが、ついに目的地に到達した時には、中核は以前のままで
 あり、また士気と政治的決意も変わらぬ強さであった。共産主義者たちは、抗日戦線に
 向かって前進しているのだとみずからを正当化し、そして事実そう信じていたようであ
 る。これは非常に重要な心理的要素であった。これが、士気阻喪した退却になったかも
 しれないものを、勇ましい勝利の行進に転じさせるに役立ったのである。その後の歴史
 は、疑いもなく彼らの移住の第二の基本的な理由を彼らが強調したことの正しさを立証
 した。その理由とは、中国・日本・およびソ連邦の今後に決定的な役割を演ずる、と彼
 らが正しく予見した地域への進出である。
  
紅軍と共に(上)
・紅軍兵士の大多数は若い農民か労働者で、彼らは自分の家族のために、自分の土地のた
 めに、そして自分の国のために闘っているのだと信じている。
・一般兵士の平均年齢は十九歳である。紅軍に従事して七年、八年、あるいは十年間も闘
 っている者も多いが、十代半ばの青少年たちが多数を占めているので、平均すると若く
 なる。過半数は少年先鋒隊として紅軍に加わったか、十五歳ないしは十六歳で入隊した
 人々である。 
・兵士は、司令官と同様、正規の給料はもらっていない。だが、入隊者はみなそれぞれ土
 地を与えられ、それからあがるいくばくかの収入を得ている。兵士の留守中は、家族ま
 たは地区ソヴェトがその土地を耕作する。
・紅軍将校の平均年齢は二十四歳であった。このような若さにもかかわらず、彼らは平均
 八年間の戦闘経歴をもっている。 
・紅軍将兵の多数は未婚者であった。彼らの多くは、”離婚”していた。つまり妻や家族を
 残してきたのである。
・これらの”紅軍兵士”の大半はまだ童貞であった。前線の部隊には少数の女子共産党員が
 いたが、彼女たちのほとんどは、自身ソヴェトの職員をしているか、ソヴェト幹部の妻
 であった。
・紅軍は農婦や農民の娘たちに敬意をもって接しているし、また農民も紅軍の道徳観を高
 く評価しているように見受けられた。農婦を強姦したり、暴行を加えたという事件は一
 度もきいたことがない。密通を処罰する法律はなかったが、紅軍兵士で女性との問題を
 起こした者は、その女性と結婚するものと期待されていた。ここでは男子のほうが女子
 よりはるかに多かったので、そのような機会は数少なかった。乱交とみられるようなも
 のは一切みたことがない。紅軍は性の問題については厳格な見解をもち、また麻日のき
 つい日程は若い兵士たちを多忙にしていた。煙草や酒をのみ兵士はきわめて少ない。飲
 酒は禁じられてはいないが、酔っぱらいは聞いたこともない。
・紅軍指揮官の死傷者は非常に多い。連隊長をはじめ彼らは、通常、兵士とともに戦闘に
 突入する。ただ一つのことが、はりかに優秀な物量をもつ敵に抗する紅軍の戦闘力を説
 明し得るかもしれない。それは紅軍将校の口ぐせになっている「者ども、つづけ!」で
 あって、「者ども、進め!」ではない。
・紅軍部隊の兵士は中国のほとんど各省から来ている。この意味で、紅軍はおそらく中国
 の唯一の国民軍であろう。また”最も広範な地域を旅した”軍隊でもあった。
・総司令から一兵卒まで、みな同じものを食べ、同じような衣服をつけていた。ただし、
 大隊長とそれ以上の高級将校は、馬あるいは騾馬の使用を許されている。
・一つのことが私には疑問があった。どのようにして紅軍は食物や衣服・装備を調達して
 いるのであろうか。多くの人たちと同じように私もまたすべて掠奪によって紅軍はまか
 なっているに違いないと思っていた。銃の八割以上、また弾薬の七割以上は敵軍から捕
 獲したものだと彼らは主張する。私のみた正規軍は主としてイギリス・チェコ・ドイツ・
 アメリカ製の機関銃・小銃・自動小銃・モーゼル銃・山砲で装備されていたが、これら
 は大量に南京政府に売却されたものである。
・紅軍には高級をはみ、ピンはねをする職員や将軍がいないことは事実である。中国の他
 の軍隊ではこのような人々が軍資金の大半を吸い上げていた。
・「張学良」将軍が紅軍を尊敬するようになった主な理由の一つは、戦闘のあり方で紅軍
 が示した手腕に感心したからであり、日本と戦うのに彼らを利用できると考えるに至っ
 たからである。張学良将軍と将校の大半は強烈な抗日主義者であったが、日本との戦争
 で中国が究極に依拠しなければならないのは、優れた機動性と戦術展開の能力であると
 確信するようになった。彼らは、紅軍が十年間の戦争体験で学んできた機動戦の戦術・
 戦略のすべてを知りたいと思った。
・紅軍の遊撃戦の諸舷側を要約すると次のようになる。
 第一:遊撃隊は敗け戦は戦ってはならない。成功する見通しが強くない限り、交戦は拒
    絶すべきである。   
 第二:指導の行き届いた遊撃隊の主要な攻撃戦術は奇襲である。機動性のない戦争は避
    けなければならない。    
 第三:どのような交戦をいどみ、またいどまれる場合も、あらかじめ攻撃と、とりわけ
    後退について慎重に詳細な計画をたてておかねばならない。
 第四:遊撃戦を展開するに当たって、最大の注意を払わなければならないのは、地主と
    郷紳の、最初にして最後のそしてもっとも堅固な抵抗線である民団である。地区
    の民団を武装解除しない限り、大衆を動員することは不可能である。
 第五:敵軍と交戦する際には、遊撃隊は数において敵軍を凌駕しなければならない。
    迅速かつ決定的に奇襲側面攻撃をかけることは、はるかに兵力の少ない部隊でも
    行うことができる。
 第六:実戦で湯気機体の戦列は最高の弾力性を持たなければならない。ひとたび敵軍の
    兵力、あるいは戦闘力について判断を誤っていることが明らかになったら、遊撃
    隊は攻撃を開始した時と同じ早さで、交戦を止め、撤退できなければならない。
 第七:攪乱戦術・囮戦術・牽制作戦・闇打・陽攻・刺戟戦術を体得しなければならない。
 第八:遊撃隊は敵軍主力との対戦は避けるべきで、もっとも弱い、致命的な箇所に集中
    しなければならない。   
 第九:遊撃隊の主力の所在を敵軍に知らせないために、あらゆる警戒を怠ってはならな
    い。
 第十:優れた機動性の他に、遊撃隊はその地区の大衆と密接不可分であるので、より高
    度な情報が得られる利点を有し、これを最大限に利用すべきである。

政治集会
・紅軍政治部員の劉暁は、日本の満洲侵略について、張学良将軍麾下の一兵士としての彼
 自身の体験について語った。彼は”無抵抗”を命じた南京政府を非難した。彼らが「わが
 国の四分の一を日本の強盗どもに渡してしまったのだ」と。「なぜわれわれの中国軍は
 中国を救うために戦わないのか。中国人はみな日本の奴隷になることを嫌悪している。
 しかし、中国の軍隊は、われわれの”売国政府”のために戦うことができないでいる。し
 かし、われわれの紅軍が指導するなら、人民は戦うであろう」
・「人民はわれわれを歓迎した。われわれに合流するために彼らは何百人とやってきた。
 われわれが行軍していると路上でお茶や菓子を接待してくれた。多くの者が畑を捨てて、
 われわれに合流し、また激励してくれた。誰が裏切者であり、誰が売国奴か、誰が日本
 と戦おうとし、誰が中国を日本に売り渡そうとしているのかを、彼らは明瞭に理解した」
 「中国人は中国人と戦ってはなりません。われわれはみな日本帝国主義に反対するため
 に団結しなければならない。失われた祖国を取り返さなければなりません!」
・「紅軍の生活条件は白軍の生活とは全く違います。ここではわれわれはみな平等です。
 白軍では兵士・大衆は抑圧されています。ここではわれわれ自身と民衆のために闘って
 います。白軍は郷紳と地主のために闘っています。紅軍では士官も兵士も同じ生活をし
 ています。白軍では兵士は奴隷のように扱われています。紅軍兵士は志願ですが、白軍
 は徴兵です。資本家の軍隊は資本家階級を温存するためにあります。紅軍はプロレタリ
 アートのために闘います。軍閥の軍隊の任務は、税金を徴収したり、人民の血をしぼる
 ことです。紅軍は人民を解放するために闘います。大衆は白軍を増悪し、紅軍を愛しま
 す」
   
紅軍と共に(下)
・第五次反共討伐戦で、国民党軍の将校は多くの地域で一般住民を皆殺しにするような命
 令をした。これは軍事的に必要だとみなされた。蒋介石がある演説で述べたように、ソ
 ヴェトが樹立されたから久しい地方では、江匪と善良な市民を見分けることは不可能で
 あったからである。このやり方は鄂予皖ソヴェト共和国ではとりわけ残虐に適用された
 とみられる。それは主として、反共討伐戦を担当していた主要な国民党の将軍の何人か
 がこの地方の出身者、すなわち、共産党によって土地を失った地主の子息であったから
 であり、従って、報復へのあくなき欲望を抱いていたからである。第五次討伐戦終了時
 にはソヴェトの人口は約60万減少していた。
・第五次討伐戦では、新しい戦術が採用された。南京軍は広い地域で紅軍と交戦すること
 はせずに、部隊を集中し、一歩一歩紅区に侵入して、紅区境界内外の広汎な地域の全住
 民を系統的に皆殺しにするか、または他へ移住させたのである。彼らはこのような地域
 を荒廃させ、住民のいない荒蕪地にして、後日再び紅軍が占領しても、紅軍の給養がで
 きぬようにしようとした。  
・数千名の子供たちが俘虜になり、漢口その他の都市に追われて、”徒弟”に売られたので
 ある。数千の少女や婦人は移送されて、奴隷として工場に売られたり、娼婦として売り
 とばされた。都市では”田災農民”あるいは”アカに殺された者の孤児”という偽りで彼ら
 は押しつけられた。仲買人が国民党の将校たちから少年や婦女子を買いとって、相当な
 取引が行われた。
・宣教師たちがこのことを話題にするようになり、蒋介石はこの”賄賂行為”を厳禁する命
 令を出さざるを得なくなり、人身売買を行った士官は厳罰に処すと布告した。
・1933年12月までには鄂予皖の約半分は広大な荒地になってしまった。かつでは豊
 沃な地域に、残っている家は何軒もなく、家畜はみな追われ、畑には草が生え、白軍が
 占領した村々には、死体が山のようになっていたという。
・白軍が到着するやいなや、将校たちは婦女子を選別しはじめた。断髪の者や纏足してい
 ない者は、共産党員として射殺された。高級将校は、自分用に綺麗な女をより出し、残
 りは下級将校の選択にまかせ、あとの者は兵隊に渡して娼婦にされた。これらの婦女子
 は、”匪賊の妻子”だから、どんなことをしてもよいといわれた。白軍将兵たちは婦女子
 の取り合いで喧嘩をし、しばしば争いがあったという。婦女子たちはさんざん犯されて
 から都市に送られ、売りとばされた。将校だけが何人かの綺麗な女性を妾として手許に
 おいた。
・「包容集の町には、かつてはソヴェトの協同組合が繁盛し、幸福な人々が住んでいた通
 りがあったのですが、すべてが廃墟となり、数名の老人が生き残っているだけでした。
 彼らは私たちを谷間に案内して、十七人の若い婦人の半裸の死体が白日のもとに散在し
 ているのをみせました。彼女たちはみな強姦されて殺されたのです。白軍はひどく急い
 でいたとみえ、女性のズボンの片方だけをはぎとっていました。それから、浅い墓穴に
 殺された十二人の同志の死体がありました。皮膚ははぎとられ、眼はえぐり出されて、
 耳や鼻は切りとられていました。この野蛮な光景に私たちはみな涙を流して憤りました」