斗南藩(「朝敵」会津藩士たちの苦難の再起) :星亮一

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この本は、今から5年前の2018年に刊行されたものである。
斗南藩というのは、明治維新直後、一年半ほど存在した藩である。
場所は、下北半島を含む現在の青森県の東部と岩手県北部の一部にまたがっていた。
明治新政府は、会津戦争で敗れ廃藩となった会津藩の人々を、会津藩の再興を名目にして
会津藩の人々をここに移住させたのだ。しかし、それはまさに「流罪」と呼べるものだっ
た。

先般読んだ「鹿鳴館の貴婦人 大山捨松」の著者は、「明治政府は最初から移住先として
斗南を押し付けたわけではない。猪苗代か斗南かを選択させたところ斗南を選択したのだ」
と書いている。しかし、果たしてそれは本当だったのだろうか。私にはとても本当だとは
思えない。

当時のこの地方は、その多くがまだ未開墾地で、しかも現在のように寒さに強い品種の稲
もなかった時代、稲作はとてもできない地域だった。
そこへ着の身着のままの状態で移住させられ、そのあとの国からの援助も乏しかった。
斗南での生活は、まさに生き地獄の状態だったようだ。
これはやはり勝者たる薩長土肥藩による敗者たる他の奥羽越列藩への「見せしめ」だった
と言っても言い過ぎではないだろう。

鳥羽伏見の戦い後、徳川慶喜が薩長土肥藩側への恭順を示したことにならい、会津藩も幾
度となく恭順を表明した。しかし、その恭順を無視して薩長土肥軍は会津へ侵攻した。
鳥羽伏見の戦いで、すでに決着はついていたのだ。会津戦争は、不要な戦争だった。

また、会津戦争は、長州藩の「禁門の変」の仕返しだったようにしか思えない。
会津攻撃や斗南への流刑が、薩長土肥藩内でどのように論議され、どのように決定された
か知りたい。
会津城の落城をもっとも喜んだ人物は、薩摩の「大久保利通」と長州の「木戸孝允」だっ
たという。それはどういう心境からだったのだろうか。二人の心の内が知りたい。

そもそも、会津藩を厚く信頼していた「孝明天皇」の突然死も、非常に不可解なままだ。
歴史は勝者によって書かれるという。そこには多くのウソが紛れている。
真実はどこにあるのだろうか。

過去の読んだ関連する本:
鹿鳴館の貴婦人 大山捨松
鹿鳴館貴婦人考
龍が哭く(河井継之助)
「幕末」に殺された女たち

新渡戸稲造はなぜ「武士道」を書いたのか


はじめに
・斗南藩とは戊辰戦争後、朝敵の汚名をこうむった会津藩の人々が、現在の青森県の下北
 半島を中心とする旧南部藩の地に流罪として移動し、作り上げた藩の名前である。
 しかし、廃藩置県で、すぐに弘前県(にちに青森県)に合併されたので、斗南藩はわず
 かに一年半しか存在せず、知名度は低かった。
・斗南での生活は人並みの暮らしからは、ほど遠いものだった。
 老人や子供は飢えと病でバタバタと命を失い、日々の暮らしは監獄と同じだった。 
・会津人を救ったのは、皮肉にも廃藩置県だった。
 藩が消滅し、移住の自由が認められた斗南の会津人は、郷里の会津若松に戻ったのをは
 じめ、東京、北海道などに新天地を求めて移住し、東大総長「山川健次郎」、イギリス
 大使「林権助」、陸軍大臣「畑俊六」、大物フィクサーとして活躍した「田中清玄」ら
 多彩な人材を生んだ。
・斗南に残らざるを得なかった日々とは、郡長、町村長に抜擢され、はじめて人並みの生
 活ができるようになり、青森県の発展に尽力した。
 自力で、わが国最初の洋式牧場を開いた「広沢安任」のような人物も生んだ。
・もともと幕末の会津藩は、徳川家康の孫、三代将軍家光の実弟保科正之を藩祖にもつ幕
 府親藩の家柄で、幕末には主君「松平容保」が京都守護職に就任、討幕を掲げた長州藩
 と激しく争った。 
・長州勢が御所に攻め入った「禁門の変」では、会津が長州勢を撃退したことで孝明天皇
 から厚い信頼を受け、一世を風靡した。
・薩摩とは一時期、同盟関係にあったが、「坂本龍馬」の仲介で薩長同盟が結成されたた
 め、敵対関係に陥った。 
・会津を信頼した孝明天皇が突然、この世を去ると、明治天皇を戴いた薩長が幕府。会津
 を京都から撤退させ、鳥羽伏見の戦争に勝利、錦旗を掲げて、江戸に押し寄せた。

・勝海舟と西郷隆盛の会談で江戸は無血開城となり、戦火は東北、越後に広がった。
 このたきに立ちあがったのが、仙台藩と米沢藩だった。
 会津に非はなしと両藩が仲介に乗り出し薩長に和議を求めたが、長州藩参謀「世良修蔵
 がこれを蹴り、東北、越後の奥羽越列藩同盟軍と薩長主導の新政府軍との激しい戦いと
 なった。 
・松平容保は徳川慶喜にならい謝罪嘆願の書を出すこと二十通以上に及んだが、途中阻ま
 れ、新政府軍の大総督府に届いたのは、わずかに一通だったといわれている。
・あくまでも武力で会津を討つとして大総督府は仙台藩、米沢藩、南部藩、秋田藩に会津
 追討令を発し、会津攻撃を命じた。
・仙台藩、米沢藩では、白石に奥羽諸藩の代表を集め、最終的に奥羽越諸藩三十四藩によ
 る列藩同盟が結成され、会津攻撃を頑として叫ぶ長州藩参謀世良修蔵を抹殺、薩長の新
 政府軍と戦闘に入った。
・しかし、秋田藩、新発田藩、三春藩などが同盟を離脱、仙台藩も最終的に和議に傾き、
 会津藩は孤立無援となった。
・会津一藩で一ヵ月に及ぶ籠城戦を展開、天下にその勇武を示したが、弾薬、食糧も尽き、
 無念の涙を呑んで降伏した。
・明治二年(1869)11月、お家再興がなり、旧南部藩の地である、下北半島を中心
 とする金田一(現岩手県二戸市)以北の、三戸(現青森県三戸郡三戸町)、五戸(現三
 戸郡五戸町)と、野辺地(現上北郡野辺地町)田名部(現むつ市)の三万石と、北海道
 の後志国瀬棚(現久遠郡せたな町、瀬棚郡今金町)、太櫓(現せたな町)歌棄(現寿都
 郡寿都町、黒松内町)の三郡と胆振国の山越郡の支配を命ぜられ、斗南藩として再興し
 た。
・だが、比較的豊かな七戸藩、八戸藩の領土は除かれ、野辺地や田名部を除けば、いず
 こも不毛の地だった。 斗南の領地は稗を主とする雑穀しかとれなかった。
 これは明治に刃向かえば、こうするという見せしめの処分だった。
 
会津藩の戦後処置
・明治元年(1868)九月、抗戦むなしく降参の旗が、高々と会津鶴ヶ城に掲げられた。
 南会津の田島方面で戦っていた会津の猛将「佐川官兵衛」は、
 「敵は帝の軍隊にあらず、姦賊だ」
 と恭順に反発、戦いを続けたが、主君松平容保から降伏の書状が届き、涙を呑んで、こ
 れに従った。
・開城の儀式が終わると、容保父子は、会津若松郊外滝沢村の妙国寺に入り謹慎した。
「山本八重」の回想録によると、
 敵の総攻撃は早朝六時に始まり、毎日夕の六時ごろまでは、実に凄まじい勢いで砲撃を
 しました。
 しかし誰一人ためらうものもなく、むしろかえって勇気百倍、子どもらは、濡れむしろ
 をもって縦横に馳せ回って、焼丸を消している。婦人は弾薬の補充に奔走し、あるいは
 傷者の運搬、救護などその多困多難の有様、なんとも話になりません。
・籠城婦人は皆どこか負傷しており、最後は自刃しようと脇差か懐剣を身につけていた。 
・八重の弟三郎は、鳥羽伏見で命を失い、父は城下の戦闘で戦死していた。
・会津落城をもっとも喜んだ人物は、薩摩の「大久保利通」と長州の「木戸孝允」だった。
 薩摩は一度、会津と同盟を結び、長州を京都から追放した仲である。会津落城を聞いて、
 少しは憐憫の情を抱くかと思いきや、大久保は木戸孝允と一緒に、
 「愉快、愉快」
 と手を叩いていた。
 相手に思いやりを持つ薩摩の「西郷隆盛」とは大違いの人物だった。 
・藩主の容保は因幡池田家、世子の喜徳は久留米藩有馬家に幽閉と決まり、重臣4人とと
 もに東京に送られた。
・明治元年(1868)十二月になって明治天皇より詔書があった。
 「容保の死一等を宥して首謀の者を誅し、非常の寛典に処せん」
・首謀の者を誅せとなれば、いったい、誰が該当するのか。
 その数は三人であった。
 まず家老の「田中土佐」、「神保内蔵助」を差し出すことにした。
 二人はすでに自決しており、もう一人が問題だった。
 その責めを負ったのが、上席家老の「萱野権兵衛」だった。 
・降伏後、会津藩士は、近郷の塩川と猪苗代に分散収容されていたが、ここにきて、塩川
 組は上越高田、猪苗代組は東京に送られることになった。
 高田藩に割り当てられたのは2500余人。猪苗代組は悪2900人。
・藩士の家族は、会津若松近郊の農村に分散収容された。
 近郊の農村に避難したのは3591華族、13357人だった。
 降伏から斗南移住までの一年半から二年にわたり、352の村に分かれて暮らした。
・男装して戦った山本八重は、家族と一緒に塩川村に住んだ。
・会津藩の復興計画を練った中心人物は、京都で公用人を務めた「広沢安任」だった。 
 広沢は会津戦争を阻止せんと江戸に残り、江戸の代総督府に西郷を訪ねたが、逆に捕ら
 えられ、獄舎につながれていた。
 会津藩の処分が決まると広沢は釈放され、軍事総督を務めた「山川大蔵(浩)」をリー
 ダーに、広沢と仙台で参謀を務めた「永岡久茂」が補佐し、再興を期すことになる。
・最大の難関は長州の最高指導者「木戸孝允」だった。
 木戸は会津藩士を極端に恐れており、海を隔てた蝦夷地、現在の北海道に会津藩士を移
 住させようと考えていた。蝦夷地であれば、海を渡って東京に攻め込むこともあるまい
 という発想だった。   
・木戸は、同じ長州閥の兵部大輔「大村益次郎」に厳命をくだし、会津人の蝦夷地移住計
 画を立案させた。
 しかし、木戸が示した領地はまったく実体のない熊笹の茂った原野で、住民の大半は先
 住民のアイヌの人々であり、会津人の開拓は不可能な場所だった。
 これはどう見ても流刑以外の何物でもなかった。
・明治二年九月、第一陣として会津人男女合計四百四十余人が東京より汽船で小樽に運ん
 だ。これらの人々は余市、古平、忍路、小樽、銭函などに分散収容されたが、建物が間
 に合わず、雪穴同然の場所での暮らしを余儀なくされた。
 幸い時あたかも鮭魚期で、小樽の妓楼飲食店はおおむね石狩川に出稼ぎに出ていたので、
 そこに入ることができた。しかし、支給される手当では生活ができない。必死に働くし
 かなかった。
・ところが明治三年三月、北海道開拓は兵部省から開拓使に所管が替わり、会津人は斗南
 藩に引き渡されることになった。開拓使の責任者、「黒田清隆」の方針によるものだっ
 た。 

なぜ南部の地に
・奥羽越列藩同盟に加わって戦った奥羽越の諸藩は、一様に処分を受けた。
・南部藩は、藩主「南部利剛」は隠退謹慎、主席家老「楢山佐渡」は切腹、領地は仙台領
 白石に国替えのうえ、二十万石を十三万石に減封された。
・これを不服とした領民が国替え停止を求めて一揆を起こしたため、金七十万両を献金す
 ることで、北郡、三戸郡、二戸郡を除いて旧領にとどまることができた。すべては金次
 第だった。 
 七十万両は現在の貨幣価値に換算すると数百億円に相当する。
 新政府は庄内藩からも六十万両を巻き上げており、資金稼ぎの東北戦争だった。
 ただし明治四年(1871)、廃藩置県が断行されたため、南部藩と庄内藩は手付金だ
 けですんだ。
 この賠償金はどこからどこに消えたのか。解明しなければならない問題である。
・明治新政府は南部藩から北郡、二戸郡、三戸郡を没収し、そこを会津藩領としたのだが、
 ここは本州のなかでももっとも気候が厳しく、しばしば飢饉に襲われるところであり、
 ロシアのシベリア送りに酷似していた。
・明治二年(1865)九月に、松平家家名再興許すとの内達があった。
 かくて山川浩が松平容保家来総代として願い出て、十一月、陸奥国南部領のうち、三戸
 郡、北郡、二戸郡の支配を仰せ付けられ、旧臣一同謹慎をとかれたのだった。
・南部の地に視察に入った旧家臣の原田対馬は、三万石とはいうものの、荒蕪不毛の辺地
 で、実収わずか七千石がいいところだと報告し難色を示したが、陸奥移住は長州藩木戸
 孝允の命令であり、いかんともしがたいものだった。
・割り当てられた斗南藩領は北郡、二戸郡、三戸郡にまたがる広大な面積を有していた。
 今日の視点で考えると、むつ市はもちろんのこと、三沢市、十和田市にまたがり、八戸
 市とも隣接しており、発展の可能性が十分にあったように思えるが、百五十年前は、不
 毛の地であった。
・いつも飢饉状態の陸奥の地に、四、五千人に及ぶ会津人が着の身着のままでやってきた
 のだから、地域の人々の本音は、迷惑な話だった。
 
移住者の群れ
・斗南移住は明治新政府による有無をいわせぬ命令だった。
 当然のことながら移住に必要な経費は政府が負担すべきあった。
 現地の視察した家老の原田対馬を中心に藩首脳部がデータを持ち寄り、三年間の生活費、
 開拓に必要な資金、住宅建設費など合わせて六十七万千二百六十八両の拝借願を新政府
 に申請した。米の価格から割り出し、現在の貨幣価値に換算すると約四百二十二億円で
 ある。
・しかし新政府は、金十七万両(約百七億円)、米千二百石を下賜するので、速やかに移
 住せよと命令があった。
 必要経費の三分の一である。にもかかわらず、もし移住しなければ厳重に処分するとも
 あった。
・これは大問題だった。ただちに陳情団を東京に送り、補助金の増額がなければ、領地は
 従来どおり会津若松とすべしと迫ったが、これも拒否された。
・すでに移住が始まっていた。あまりに冷たい処置に山川ら幹部は茫然自失、どうすべき
 か、言葉を失った。  
・広沢はここにきて、はじめて罠にはまったことを知った。
 しかし撤退も許されない。移住を継続することに決するしかなかった。
・会津若松からの移住計画は、外国船による船便と陸路の二組に分かれて進められた。
 船便は新潟港から五回運航され、これとは別に江戸からも船が出た。
 新潟発はアメリカの客船が使われた。
・移住組を統率する山川浩は会津残留組を率い、若松から津川まで徒歩、津川から舟で阿
 賀川を下り、新潟着。ヤンシー号で野辺地に向かった。船は陸奥湾の野辺地に上陸。そ
 れから田名部付近の村々に落ち着いた。  
・これらの移住者を新領地の北郡、二戸郡、三戸郡に割り当てる作業は、膨大、かつ骨の
 折れる大変な作業であった。不平不満も充満した。
・広沢安任は山川の盾となって皆の不平不満を説得し、薩長を日々恨むのではなく、負け
 る戦争をした我々にも判断の誤りがあったと説き、斗南藩の運営にあたった。
 広沢は斗南の重臣のなかで、柔軟さを欠いた会津藩政の失態に言及した数少ない人物で
 もあった。 

・明治三年(1970)六月、東京から舟でやって来た柴五郎一家は、父佐多蔵、兄太一
 郎、兄嫁すみ子、そして五郎の四人家族だったが、兄太一郎が糧米の購入にからんだ事
 件に連座し、捕らわれの身となってしまったため、家族は三人だった。
・会津に敵が攻め込んだ日、柴家の女性たちは、兄嫁以外ことごとく命を絶ち、男たちが
 残された。五郎は郊外に出ており、祖母や母、姉、妹の死を知り、号泣した。
・三人は田名部在向町の小さな空家を借りて住んだ。
 周囲には家はなく実にさびしいところだった。
 障子は骨ばかりで、米俵を縄で縛り、戸障子の代用とした。
 食べるものも、布団も満足になく、藁にもぐって寝る始末だった。
・五郎の家では山に入って蕨の根を集め、水にさらしてすすぎ、水の底にたまる澱粉を取
 り出し乾燥させて粉にし、これに米糠を混ぜ、塩を加えて団子にしてあぶって食べた。
・海辺で拾った昆布は真っ白になるまで真水にさらし、細かく刻んで乾燥させ、カマスや
 俵にいれて保存し、粥に入れて食べた。ときには馬鈴薯、大豆などを加えて薄い粥をつ
 くって食べた。    
・凶作があっても下北で餓死者が少なかったのは、海草と蕨の根があるためだった。
・地元の人々の食事も似たようなものだったが、違うのは味噌汁だった。
 地元の人は、味噌汁に凝った。イワシの焼き干しでダシをとり、干した大根葉や菜っ葉
 を汁の実にし、季節によっては大根、馬鈴薯を汁の実にして食べた。
 五郎の家では、味噌汁がなかったので、いっそう空腹感を強くした。
・猟師が来て、川の氷の上で遊んでいた犬を撃ったが、氷が薄くて渡れない。犬はそのま
 まになった。この犬は近所の鍛冶屋の飼い犬で、五郎は父にいわれて鍛冶屋にもらいに
 行った。 
・その日から五郎の家の食事は毎日、塩で味付けした犬の肉になった。
 兄嫁は気味悪がって手をつけず、五郎は無理して口に入れたが、喉につかえて吐き気を
 催した。
 父は、
 「武士の子たることを忘れしか。戦場にありで兵糧なければ、犬猫なりともこれを喰ら
 いて戦うものぞ。ことに今回は賊軍に追われて辺地にきたれるなり。会津の武士ども餓
 死して果てたるよと、薩長の下郎どもに笑わるるは、のちの世までの恥辱なり。ここは
 戦場なるぞ。会津の国辱そそぐまでは戦場なるぞ」
 と語気荒くして叱りつけた。
・五郎の父の考えは、陸奥に来た会津人に共通のものだった。
 このような事態に陥ったのは、薩長との戦争に敗れたためである。
 いずれこの恨みは晴らしてやる。
 それまでは歯を食いしばって耐える。
 そういってこの極貧に耐えた。
・その後、落の沢の呑香稲荷前の一軒家の一部を借り受けた。  
・落の沢は現在、「斗南歴史散歩のスポット」になっている。立看板があり、当時の様子
 が記されている。

・小林軍雄一家は、明治三年(1870)十月に斗南移住の命令を受け、家族そろって会
 津若松を出発し、新潟から舟で下北に向かった。
 家族が何人かは不明だが、両親と幼い妹がいたようだった。
 会津藩での役職、石高など詳細は不明だが、相当に文才の立つ人であった。
 子息の「小林秀雄」は、旧制第二高等学校から東京帝国大学文学部に進み、西洋史学者
 となり晩年は立教大学の史学科長を務めた。
 出身は青森県となっているが中学校は東京なので、子どものころ、一家は東京に移った
 のではないかと思われる。
・小林の日誌は次のようなものだった。
 野辺地の最初の夜は、商人西堀善兵衛の宅に宿泊した。
 割り当ては三本木在の伝法寺村だった。
 この地は盛岡藩士「新渡戸伝」の開墾地で、今を去る二十年前まではわずか十二戸の小
 村だったが、追々に移住の人が増え、戸数おおよそ百五十戸、ほとんど市街地の形をな
 していた。
 伝法寺はまだまだ遠い。山路は誰にも会わない。とても人間の世界と思われない。
 犬の声が遠くに聞こえたので、人里が近いと、励んで道を行くと、子どもが薪を背負っ
 て帰るのに出会った。
 何を聞いても通じない。半人半獣とも云うべく、身には布の破れたる弊衣をまとってい
 る。
・やっと伝法寺村にたどり着き、村翁が家を示し、かれこれと慰めてくれたが、割り当て
 られた住まいは、去る天明年間の飢饉に際して北海道に逃亡した住民の家で、修理する
 者もなく、軒は傾き壁は落ち、居ながらして月日を拝する廃屋だった。
 伝法寺村は三本木市を経て、現在、十和田市の一画を占めている。
 
・こういう場合、救いは女性のたくましさだった。
 会津戦争で父と兄を失った日向ユキは、当時、二十歳前後、男たちと一緒に斗南に移る
 ことを決め、二百五十人ぐらいずつが一団となって、会津から二十日かかって陸路、野
 辺地の町に着いた。
・父日向左衛門は町奉行を務める四百石どりの上級武士、母ちかの生家は飯沼家で、白虎
 隊で生き残った「飯沼貞吉」とユキはいとこだった。
 また、母ちかの姉千重子は家老「西郷頼母」の妻で、父方のいとこには柴五郎がいた。
 陸路をたどった家の大半は、仙台領や旧南部領を通り、二、三週間費やして苦難の旅を
 続けながら新しい支配地を目指した。
 途中の費用は藩発行の宿札で処理し、空腹をかかえながら旅を続けた。
・はじめ野辺地で反物や雑貨を扱う柴崎屋の二階に間借りしたが、しばらくして船着場を
 営む人の家に世話になった・
 人々は会津さまと呼んでくれた。これは異例のことだった。他ではうんさくさい目で睨
 まれたが、ここには文化もあり、礼儀作法もわきまえていた。
・若かったユキはここで一生懸命働き、針仕事や藁草履作りなどなんでもやり、一日に穴
 あき銭三十文ほどを稼いだ。
・薪とりに山へ行くと、山には蕨、うど、あけび等がたくさんあり、それをとって食べ、
 身欠きニシンやなまこ等もよく食べた。
・土地をもらって開墾も始めてみたが、百姓の知識とてなく、四坪ぐらいのところを三人
 がかりでようやく耕し、四升の蕎麦の種を捲いたが、花が咲かなかった。
 母は医者の家で針仕事をやっていたが、その家が青森に移ることになったので、ユキも
 青森へ移った。 
・ユキは文才もあり「万年青」と題する手記に野辺地のことを記していた。
 ユキはその後、函館に渡り、そこで薩摩出身の青年に見込まれ結婚し、九十四歳まで生
 きた。

・公用方重臣、「手代木直右衛門」の一家も夫は不在だった。
 直右衛門は京都時代、薩摩、長州の志士たちにも知られた存在で、京都見廻組の与頭の
 「佐々木只三郎」は実弟だった。
・会津戦争では、城に入って戦い、武器弾薬、食糧が尽きるに及んで、「秋月悌次郎」と
 ともに米沢藩の周旋で土佐藩の陣営に出向き、降伏を申し出た。
・なお右衛門は戦犯として幽閉されていたため、妻の喜与(三十代後半)は斗南で夫の釈
 放を待つこととし、七十二歳の老婆と長女十三歳、次女十歳、三女五歳を連れて、船で
 野辺地に着いた。
・一家は田名部が落ち着き先だった。
 おりしも十月の寒空である。
 老婆は名ばかりの駕籠、長女は荷物と弁当を積んだ馬に乗り、下の二人の娘は別の馬、
 喜与は徒歩なので、いつの間にか馬は先に行き、駕籠は遅れて別れ別れになり、次女と
 下の娘は吹きまくる寒風と空腹で泣き出す有様だった。
・この時期、斗南藩では斗南ヶ丘に住宅を建設しており、ほうほうの体で田名部に着いた
 家族は、やっとわが家という名前の小さな住まいに落ち着くことになる。

・外交方の一人、神尾鉄之丞の家族も女性だけだった。
 神尾は江戸勤務で、鳥羽伏見のあと一柳幾馬、池上岩次郎らと武器弾薬の調達にあたり、
 旧幕府から品川砲台の大砲、弾薬を借り、旧幕府の軍艦「順道丸」に搭載して箱館に向
 かい、ここでも大砲を仕入れて新潟に運んだ。
・しかし降伏後、神尾の行方はわからなくなった。
 家族は妻くら(三十代後半)と娘二人、栄十二歳と春十一歳だった。
 夫の行方は一向にわからず、命を落としたものと妻は考えた。
 やむなく母と娘で移住を決意した。
 里子に出してあった男子もこのとき、引き取った。
・一家は明治三年(1870)十月、野辺地で二週間ほど過ごしたあと、五戸在の戸来村
 に割り当てになった。
 延々と歩き、やっとたどり着いてみると、住む家はなく木賃宿が割り当てられた。
 栄と春はまだ子どもだったので順応性があり、近所の子どもと仲良しになり、冬の間は
 雪すべりをして遊んだ。
・そのうちに北海道から夫の使いが来て、夫は無事であることがわかった。
 神尾は脱藩する形で箱館戦争に加わっていた。
・一家は三戸を脱出して、箱館に渡ることができ、やっと笑顔が戻った。
 
・会津藩の奉行、三百五十石の上級武士「間瀬新兵衛」の次女みつ(四十一歳)も一族五
 人を率いて三戸にやってきた。
 父新兵衛と弟岩五郎は城下の戦闘で戦死、末弟の白虎隊士「間瀬源七郎」は飯盛山で自
 決、女たちだけ残された。
・みつが率いたのは母のまつ六十歳、弟の妻雪二十四歳、幼児清吉三歳、妹ののぶ三十五
 歳、つや三十三歳である。交代で清吉をおんぶした。
・盛岡の次の宿、沼宮内(現岩手町)は好天だったが、翌日から雪となり、おまけに山道
 にかかり、道が遠く次の宿三戸にたどり着かない。ついに夜になってしまった。
 松明もなく十八人ほどが立ち往生した。
 宿を探したが、泊めてもらえず、夜半になってやっと三戸に着くことができた。
・割り当てられたのは三戸郡大向村の谷儀平の家だった。
 割りつけられた部屋は手狭なので、宿替を役場へ願うと、さっそく、石井与五平方へ移
 るようにと指示があり、十一月に引っ越した。
・与五平は商人で、糸引きの道具を五つも貸してくれたので、それから皆で糸引きをした。
 糸を板に巻いて大小のくりにして、三戸町、五戸町、八戸在まで、くり糸を市日ごとに
 売りに出た。お陰で、稼ぐことができた。
 みつは生活力が旺盛なたくましい女性だった。
  
・白虎隊士の生き残り「飯沼貞吉」の家族も五戸村に移住していた。
 貞吉は当時、長州の世話になっており、五戸には来ていなかったが、名前を届けておく
 と手当てと米がもらえるので、届けておくのが普通だった。
・貞吉の弟関弥(11歳)は母や姉と一緒に毎日、薪拾いに連れていかれ、それが終わる
 と、畑に出て草むしりの日々だった。
 母は関弥を五戸寺町の桜井恒五郎の塾に入れたが、母が恋しいと何度も帰ってきた。
・一家は廃藩置県後、会津若松に戻り、それから東京に出た。
 関弥は旧主松平家の家扶となった。
   
・二戸に移住した高嶺幾乃子は、会津藩土井深駒之助の長女で、十七歳で殿中に出任し、
 十九歳で藩士の高嶺忠亮に嫁ぎ、秀夫、二郎、秀三郎、秀四郎の四人の母だった。
 二郎は二歳で夭折した。
 夫は京都在勤中に病死した。
 長男「高嶺秀夫」は、幼児から神童といわれ、十五歳で主君容保の小姓となった。
・会津戦争のとき、幾乃子は夫の両親と秀三郎十歳、秀四郎八歳を連れて城外に脱出し、 
 知り合いの農家にかくまわれた。
・秀夫は猪苗代に謹慎して翌明治二年(1869)二月、江戸に向かった。
・明治三年九月末、一家は斗南に移ることになり新潟から船で野辺地に着き、割り当てに 
 なった西越田中(現青森県三戸郡新郷村)に向かった。
 現在、西越田中は、十和田湖への東口玄関として発展している。
・割り当てられた農家に住み、毎日お粥ばかり食べ、難儀な月日を二年余り送った。
・その後、廃藩置県があり、各自は好きなところに行けるようになった。
 ちょうどそのとき、新政府から来た役人が秀夫のことを話し、
 「立派な人間になっているからぜひ東京に行くがよい」
 と勧めてくれた。
・さっそく、秀四郎を連れて盛岡から川舟で北上川を下り、仙台、福島から若松に寄り、
 佐瀬家の養子になっていた秀三郎も一緒に連れて二本松、郡山、白河から大田原に出て
 川舟をつないで東京の新橋に着き、慶応義塾に学ぶ秀夫のところに着くことができた。
 明治六年のことである。
・秀夫は、慶応義塾で学びながら教師を務め月給十六円をもらっていた。
 明治八年七月、秀夫は恩師「福沢諭吉」の推薦で文部省のアメリカ派遣の留学生に選ば
 れ、ニューヨーク州オスウィゴー師範学校で教育学を学ぶ機会を得た。
 三年後帰国し、東京高等師範学校に奉職、晩年は東京女子高等師範学校(のちのお茶の
 水女子大)の校長を務めた。
・秀三郎も成績優秀で明治十年に渡米、大学を卒業して帰国したが、その翌年に病死。
・秀四郎は明治十八年に駒場農学校(獣医専攻)を卒業した。
   
斗南の政治と行政
・斗南藩、は財政の裏づけもないままに追われるように移住した、というのが実態だった。
 山川らの苦悩は察してもあまりあるものがあった。
・斗南藩の幹部の横顔

 ・大惨事:山川浩(大蔵)
  斗南藩の最高幹部
  山川家は藩祖保科正之に従って信州から会津に移った、いわゆる保科衆で、代々家禄
  三百石の上級武士だった。
  山川は斗南移住時、二十六歳。今日の感覚でいえば、まだ青年である。この若さで、
  なぜ大参事に選ばれたのか。それはひとえに彼の行動力と人望だった。
  山川は自分を曲げない強情なタイプで、性格は負けん気が強く、理不尽なことは許さ
  ない正義感の持ち主だった。
  敵が会津城下に侵入したため、至急戻るように伝令を受けた山川は、昼夜兼行で会津
  若松へ急いだ。城下にたどり着くと、鶴ヶ城はすでに敵に包囲され、入城することが
  できない。山川は近隣の村から小松獅子団を集めた。山川の兵団は、この小松獅子団
  を先頭に堂々と行進した。獅子団は十歳前後の少年たちだった。少年たちが奏でる笛
  や太鼓の囃子が戦場に響き、敵も味方もしばし戦いをやめて、この一団に見とれた。
  城門が近づいたとき、山川の兵団は一斉に鬨の声をあげ、城中に駆け込んだ。
  入城した山川は、二十三歳の若さで、家老、会津藩軍事総督に抜擢され、武器弾薬、
  食糧が尽きるなか、一ヵ月の籠城戦を指揮した。
  家族は母艶、弟健次郎、姉二葉、妹美和、操、常盤、咲子(のちの捨松)の八人だっ
  た。
  山川の妻登勢子は病室に飛び込んできた砲弾を消そうとして爆発、腹部に重傷を負い、
  息絶えた。
  会津藩は住むべき国も家も失った。山川は、会津藩再興に際し敵に頭を下げる屈辱も、
  いやというほど味わった。藩を代表する大参事は衆目の一致するところ山川であった。
  一家は明治二年(1869)六月下旬に新潟を出た第三便で、野辺地に上陸した。
  当初、藩庁は田名部ではなく内陸部の五戸だったが、すぐ田名部に移ったので、山川
  も一家を挙げて田名部に移った。
  姉二葉は政務担当家老の「梶原平馬」に嫁いでいた。
  弟健次郎は長州藩士奥平謙輔のもとに預けられ、勉学中で不在だった。健次郎は後に
  アメリカに留学し、帰国して東京帝国大学に奉職、総長を務める。
  妹の咲子は斗南あら箱館に移って勉学に励み、その後、国費留学生としてアメリカに
  留学、帰国して薩摩の大山巌と結婚し鹿鳴館の華とうたわれる。留学するとき、捨松
  と改名していた。

 ・少参事:広沢安任(富次郎)
  広沢は会津城下に生まれ、藩校日新館から江戸昌平黌に学んだ。
  生家は下級武士で貧困をきわめ、幼いころは弱虫でよく泣かされた。
  父が早く亡くなったため母を助けて働き、昌平黌に学んだのは三十歳を超えていた。
  新選組の近藤勇、土方歳三とも昵懇の間柄で、一時、才能を疎まれ、閑職に追われた
  こともあった。
  文久二年(1862)、幕府がロシアとの間で国境交渉を行った際、広沢は糟谷筑後
  守の推薦で同行を命ぜられた。このとき一行は下北半島の大間から箱館に渡った。
  広沢が見聞きした下北半島は広大な時を有し、可能性ありというのが、広沢の見解だ
  った。
  薩長政権下で会津藩再興を果たすには、広沢が最適として少参事に選ばれた。このと
  き四十歳。斗南藩の命運は、広沢の双肩にずしりとかかった。
  
 ・少参事:永岡久茂(啓次郎)
  永岡久茂は会津若松に生まれた。弁論に秀で、中国の歴史、地理、儒学、政経に明る
  い熱血の士だった。
  永岡は旧幕府の海軍関係者に働きかけ、西洋型帆船を購入、西郷寧太郎ら若手藩士に、
  船の技術習得を命じ、東京で訓練を始めていた。農業開発に伴う諸機械や食料を東京
  から運ぶ必要がある。陸路の交通は不便きわまりない。海路なら大量輸送が可能であ
  ると考えた。将来は陸奥湾を海上輸送の拠点にしようという一大構想が立案されてい
  た。しかし明治三年(1870)秋、訓練中の斗南藩の西洋型帆船が鹿島灘で暴風雨
  に巻き込まれて着岸、破損してしまった。
  しかし、これにめげる永岡ではない。田名部の商人を集めては、陸奥湾の開発を力説、
  資金を集め、新たに洋式帆船安渡丸を購入、陸奥湾に浮かべた。
  廃藩置県になるや、斗南藩はこの船を北海道開拓使に売却、安渡丸は開拓使の船舶と
  して活躍した。
  
・斗南藩の最高幹部は山川、広沢、永岡の三人だが、家老職を務めた内藤信節や倉沢平治
 右衛門が短期間、少参事や五戸の責任者を務めた。
 倉沢は野辺地にとどまり、五戸方面への移住者の世話にあたった。倉沢は四十六歳。
 広沢より六歳年長である。江戸昌平黌でも先輩であり、広沢が日ごろ尊敬する人物だっ
 た。
 松平容保の長男容大は、当初、五戸におり、内藤信節が世話にあたった。
・斗南藩の最高責任者は前藩主の松平容保である。
 しかし主君容保と養子の喜徳は、明治政府の人質として江戸にとどめ置かれていた。
・容保の性質敏姫は病弱で、一人の子も生まずに病死した。
 その後、容保は二人の側室、名賀と佐久を得たが、なかなか子が生まれず、将軍慶喜の
 実弟、喜徳を水戸から迎え、世継ぎとした。
・ところが、明治二年六月、佐久との間に幼君容大が誕生、はじめて男子を得た。
 しかし容大はまだ二歳に満たない赤子である。会津若松の「御楽園」から駕籠で、五戸
 滞在ののち、田名部に入り、円通寺で育てられた。円通寺で遊んだ木馬が十和田市に残
 されている。
 容大は後年、早稲田大学の前身、東京専門学校に学び、晩年、貴族院議員を務めた。
 
・藩庁は最初は五戸に置いたが、間もなく田名部の円通寺に移った。
・皆、極貧の暮らしだった。
 松平容大の家禄もわずかに七百五十石にすぎない。
 これは従来の上級武士の家禄である。
・子弟の教育も大事だった。
 山川は会津若松の旧藩校日新館所蔵の書籍を田名部に運んできた。焼け残った一部の書
 籍だったが、漢学、和学、神学、天文学、算術、医学などの書物などを持参してきた。
 なんとしても子どもに教育を施したい、山川はそう念じ学校掛に日新館再開を命じた。 
・明治三年八月、斗南藩校日新館を開設した。田名部町民の子弟入学も認めた。遠距離者
 のために寮も設けた。
 田名部の本校に続いて五戸、三戸にも分校の開設を考えたが、学校に来る子どもはきわ
 めて少なかった。
 子どもは山菜採りや昆布拾いに明け暮れ、学校どころではなかった。
 勉強好きの「柴五郎」さえ通学できなかった。
 日々の食糧をどう確保するか、また住まいをどう確保するか、そちらのほうが先決だっ
 た。 
・住宅の確保も急を要した。農機具をそろえることも急務だった。
 山川や広沢は田名部の周辺を探索し、選んだのが妙見平だった。
 山川はこの地を斗南ヶ丘と命名した。現在、むつ市の郊外、農業地帯になっている。
・各地に救貧所もつくられた。
 生活能力のない移住者を収容して衣食住の面倒を見るとともに、手職を授け、殖産振興
 の一翼を担ってもらおうと、現在の職業訓練校のような性格を持つものだった。
 設置されたのは、田名部や五戸の中ノ沢、三戸の熊野林、野辺地などだった。
・南部藩も薩長に刃向かったとして減封されたが、同じ運命をたどった斗南の移住者に対
 し、地域の人々は深く同情し、寄付金を寄せた。
・このような土地で、はたして会津藩の復興が可能なのか。斗南藩の首脳は、日々苦しみ
 悶えた。
 飢えと寒さに耐えかね野垂れ死にしてしまっては、天下の会津藩の看板に泥を塗ること
 になる。
・山川は、まず侍の意識を捨てることだと考え、斗南藩に来てすぐに廃刀令の断行を決断
 した。刀を差していては農民との間に溝をつくるという判断だった。
・会津藩では武士の農民の間に大きな亀裂があった。
 京都守護職で使った多額の出費を負担したのは領内の農民だった。
・イギリスの医師「ウィリアム・ウィリス」は彼の見聞録で、
  会津の国の貧しさは、極端なものである。屋並は私が日本のどこで見たものよりもみ
  すぼらしく、農民の身なりは悪く、小柄で貧弱な体格であった。
  この国で生産された米はみな年貢として収めなければならなかった。
  かくて戦後、会津一円で「ヤアヤア一揆」が起こった。  
 とあった。
・山川は仲間に恵まれていた。司民掛の「小出鉄之助」は、日新館時代、山川の同級生だ
 った。年齢は山川と同じで、成績は小出のほうが上だった。
 いつも山川と行動をともにしてきた。生死を超えた親友であった。
 山川がいかに小出を頼りにしたかは、自分の妹操を小出と結婚させたことでもわかる。
・学校掛兼司民掛開拓課の竹村幸之進は、剣術の名手で、会津戦争のときは狙撃隊長とし
 て山川の身辺の警護にあたった。
 のちに竹村は永岡久茂とともに政府転覆を企て、思案橋事件で獄死する。
・会計掛の野口九郎太夫も行動派の男だった。
 江戸でフランス式兵法の教練を受け、越後の戦いに加わった。
 胸部貫通の重傷を受けたが、幸いにも快癒し、会津落城直後、秋月悌次郎と一緒に二人
 の少年を連れて、越後に脱走した。
 二人の少年とは山川の弟健次郎と小川亮である。ともに藩校日新館の秀才で、会津に同
 情的な長州藩士奥平謙輔に預けるためだった。
 
・斗南藩首脳の考えは、どんなことでもよいから、各自が生計の道を立て、「自主の民」
 となることだった。
 今や会津人の暮らしは日々の食事にも事欠く流浪の民であった。
 生活万搬を政府の救助米に依存し、さらに地域住民に頭を下げなければ、三度の食事に
 ありつけないのだ。

会津のゲダカ
・斗南の会津人は、空腹を満たすためには、なんでも食べた。
 ありとあらゆる山のものをとった。
 山菜ばかりではない。移住者たちは、競って海藻をとり稗や粟飯に煮込んで食べた。
・日々、山菜とりに明け暮れる会津の人々を見て地元の人々は「会津のゲダカ」と蔑んだ。
 「ゲダカ」というのは、下北地方の方言で、毛虫のことである。
 地元の人々の見る目は厳しかった。端的に言えば、食糧不足のおり、会津人の移住はあ
 りがた迷惑だった。 
 移住者のなかからは、病人や死者が続出した。
 
・このさなかに、衝撃的な事件が起こった。会津人による贋金づくりである。
 それは一分銀を叩き延ばして三つに切り、それに金メッキをかけたもので、これが全国
 に大量に流れた。
・郷里の若松は、すさんだ町と化していた。
 まだ焼けあとの生々しい道路上で、白昼、盛んに博奕が行われていた。
 戦後の会津は無秩序状態だった。開城後、他国から無頼の徒が入り込み、町民や農民を
 博奕に誘い、贋金をかけては、たくみに本物の金貨を集めていた。
 首謀者が斗南領に逃亡し、複雑な問題となった。
・復讐を実行する若者も現れた。
 下北に移住した田辺軍次は白河の敗北は白坂村の庄屋大平八郎が裏切って敵に通じ、間
 道を教えたためだと、思い込んでいた。
 真実はさにあらず、会津藩の軍事総督、西郷頼母の采配ミスが惨敗の原因だった。
 新選組は敵が侵攻してくる那須黒磯方面に前哨部隊を送り、夜襲攻撃をかけることを主
 張したが、「そのような姑息な手段はとらない」と西郷が拒否、白河城に籠っていたと
 ころを襲撃されたのである。
・「奴を殺してやる」、そう決心して軍次は明治三年(1870)七月、単身、斗南を脱
 出、一ヵ月近い無銭旅行の末に白河にたどり着いた。
 軍次は八郎を探し出し、這いずり廻っている八郎にとどめを刺し、自刃して果てた。
・少参事の広沢安任は、このままでは斗南藩は持たないと感じていた。
 斗南移住者の不満は高まる一方で、地域住民との紛争も懸念された。

・当時は、水田の九割は稗の栽培で、稲は一割程度だった。稗は冷害に耐うる作物だった。
 しかし定期的に兇作に襲われ、天明三、四年(1783、84)の大凶作では餓死者が
 続出した。東通では百姓離散、大畑では二十五軒が潰れ、佐井村では農民が松前に脱走
 した。
・当初、下北半島への移住者は円通寺、徳玄寺、浄念寺をはじめ、大畑の各寺院に収容し、
 残りは数人ずつ町家へ分宿させ、最終的には田名部へ四、五百戸、他は川内、大畑、風
 間浦、大間、佐井、脇野沢、東通など下北半島にまんべんなく割り当てた。
・牛滝は南部藩のもっとも辺鄙なところで、重罪を犯した犯罪人はここに送られた。
 犯罪人は各家を回って仕事を手伝い、衣類や食事を受取った。
 ここにも藩士の何人かは割り当てなければならなかった。
  
廃藩置県
・明治新政府の実力者は、明治天皇を担ぎ上げ、幕府を崩潰せしめた公家の岩倉具視が、
 抜きんでた存在として君臨していた。
・岩倉は国家の根本理念をまず定めることを考えた。
 そのためには税制を改正し、士農工商、すべての国民に税金を課す。これが国家経論の
 根本である。
 欧米列強は一年間の経費は数億千万両に及ぶが、わが国はわずかに六千五百万両にすぎ
 ない。これでは国家は成り立たないとするもので、そのためには廃藩置県を進めて統一
 国家を誕生させなければならない。
 岩倉の思考は革命的だった。
・その第一歩として進められたのが、藩の解体、版籍奉還である。
 版籍奉還と廃藩置県は、明治維新最大の功績といってよかった。
・岩倉の次の狙いは廃藩置県だった。
 全国いたるところに藩があり、そこに藩主がいて、税金をとっていたのでは、新政府は
 成り立たない。
 士農工商を撤廃し四民平等とすることも説得力があった。
・こうした中央の情勢は斗南藩にも東京駐在の「梶原平馬」や八戸藩の大参事「太田広城
 から頻繁にもたらされていた。 
・隣の南部藩は財政が破綻し、新政府に政治献金を約束した六十万両はとても支払い不可
 能だとして自ら廃藩を申し出た。破綻した以上、金は払えない。実に巧妙なやり方だっ
 た。
・山川も広沢もこの流れに賛成だった。
 どうあがいたところで、財政破綻の斗南藩には何の力もなかった。一万数千人の斗南藩
 士の面倒を見ることなど不可能だった。
 ただし、この改革は現政権の強化につながるものであり、東北は完全に薩長藩閥政権に
 組み込まれることを意味した。それが残念だった。
・一人、廃藩置県に反対したのは薩摩の最高実力者「島津久光」だった。
 明治維新を成し遂げたのは長州と薩摩ではないか。その薩摩藩をつぶすとは何事か。
 久光は怒り狂った。
 賢い西郷は雲隠れし、久光との接触を避けていた。
・旧藩主は、版籍奉還の際、藩知事の名称を与えられたが、今後は中央から県令が派遣さ
 れ、統治にあたることになった。王政復古に次ぐ第二のクーデターだった。
・新政府の役人らは、豪華な邸宅に住み、大人数の使用人を雇い、美妾を蓄えるなど、ま
 るで旧大名さながらの生活をしているとも伝えられた。
 また、権力をかさに着て、民に対して横暴な処置は振る舞いをする者も多かった。
 すべては薩長中心の新政府高官による政治であり、薩摩と長州出身者に厚く、他藩の者
 は軽んぜられた。
・斗南藩は斗南県となったが、山川は各地に不平不満が渦巻いており、いずれ政変が起こ
 る、そのとき、我々は反政府の行動を起こす、そう考えていた。
・藩内には、千波移住の失敗を叫ぶ声も公然とあがり、「山川を斬れ」と、ひそかに画策
 する者もいた。
 広沢は「山川さんを斬ったところで、どうなるんだ。斬るなら俺を斬れ」と叫んだ。
・問題は廃藩置県のあり方だった。斗南は気候不順、未開の地が多すぎ、とても生計が成
 り立たない。この際、県同士が合併し、三沢や八戸など温暖なところを含めて考えない
 と、斗南の発展は望めないと広沢は抜本的な現状打破を考えた。  
・広沢の試案は弘前、黒石、八戸、七戸、斗南の五県を合併させれば大県となり、産業の
 開発も効率よく進み、ここに住む人々の生活のメドも立つというものだった。
・問題は南部と津軽の対立である。
 中世には南部氏は現在の岩手県の中部、北部と青森県全域を支配しており、強大な勢力
 を保持していた。
 ところが戦国時代に南部氏の一族である津軽の「大浦為信」が南部氏に反旗を翻し、南
 部氏から離脱した。それ以来、南部と津軽はことごとく対立した。
 戊辰戦争のときも、南部は会津に味方したが、津軽は奥羽列藩同盟を離脱して薩長につ
 いた。
・広沢は行動の人だった。
 廃藩置県直後の明治四年(1871)七月、広沢と太田広域が大久保内務卿の官邸に出
 頭し、広沢がすべてを説得し、五県合併を実現した。
 県庁が弘前では南に偏りすぎるとして、広沢は県のほぼ中央に位置する青森に県庁を移
 す案を提示した。
 県名は青森県とし、弘前、田名部、七戸、五戸には支所が置かれた。
・「何のための斗南藩だったのか」
 斗南の会津人は、しなし呆然たる気持ちだったが、広沢はこれを自立の好機到来と前向
 きに考えた。 
 ここに縛りつけられて開拓に従事しても所詮は無理なことだった。
 こうして斗南藩はわずか一年半で終焉した。
・当初、斗南移住した会津人は一万数千人である。二年の間に一万三千人に減り、その中
 からさらに三千人が出稼ぎで姿を消したことになる。
 その結果、全体で一万人に減り、しかも六千人が病人または老人という驚くべき数字で
 あった。  
・このとき、容保は現在の日比谷公園の池のそばにあった旧狭山藩知事宅に居住していた。
 会津に同情する諸藩から月々、見舞金が寄せられ、なんとか暮らしていた。
・皆の苦労が手に取るように脳裏に浮かび、容保は矢も楯もたまらず、養子の喜徳を連れ
 て、下北に旅立った。
 陸路では一ヵ月はかかる。北海道行きの汽船を探して、これに乗った。
 長い航海だったので、何度も暴風雨に遭い、その都度、苦しみ、死人のように横になっ
 た。喜徳は若いせいか、すぐに船旅に慣れたが、容保は船酔いが一向に治らず、佐井の
 港に着いたときも足がふらつき、目が回った。
・明治四年(1871)七月、容保は箱館から佐井に上陸し、田名部の円通寺に入った。
 山川が佐井の港から容保一行を迎え、同道した。
 沿道には旧家臣が集まり、いたるところで涙、涙の風景が見られた。
 皆、どことなく痩せ衰え、すっかり年をとり、苦労のあとがしのばれ、胸が痛んだ。
・容保が来たということで、下北のあちこちから藩士たちが駆けつけ、なかには境内に座
 り、手を合わせてひれ伏す者もいた。
 「そんなところに、座らずともよい。近う寄れ」
 容保は訪れるすべての人に、手を差し伸べ、言葉をかけた。
 人々は流れる涙をふこうともせず、じっと地べたに座りつづけた。
・容保も、いうべき言葉がなく、涙がこみあげるばかりだった。
 天下に、その名をとどろかせた会津藩士が、今や難民と化していた。
・容保が、ここに一ヵ月滞在して、藩士たちを慰労し、田名部から野辺地、七戸、三戸、
 五戸と通り、容大を連れて再び東京へ向けて出立した。
・容保は性格的にやさしい人物だった。
 非常に徹し切れない容保の弱さが、会津藩を敗者に追い込んでいった、という見方もあ
 る。
・容保にも言葉にならない、数々の苦しみがあった。その苦しみが表情に出ていて、容保
 を目の前にすると、藩士たちは一様に口をつぐみ、己の責任を感じ、誰一人、容保の非
 を語る者はいなかった。
 会津藩ではどのような状況になろうとも主君に対する畏敬の念は変わらなかった。
・明日からはそれぞれが、自らの判断で生きてゆかなければならない。いったい、どうな
 るのだろうか。皆、顔を見合わせ、手を握り、あるいは肩を抱き合って涙を流した。 
・この日を境に幹部の多くは青森の地を去り、一人、広沢がこの地に残った。
 山川と長岡は東京へ、梶原平馬、雑貨孫六郎、大庭恭平らは海を渡って北海道に新しい
 活路を求めた。
・広沢は、自分は斗南に残ることを宣言し、病人をかかえて動けないなどの理由で斗南に
 残る人々の仕事探しに奔走した。資金援助も含めて積極的に支援してくれたのは、十和
 田開発の功労者七戸藩大参事「新渡戸伝」だった。
 「武士道」を世界に広めた「新渡戸稲造」の祖父である。
・新渡戸は寛政五年(1793)に、現在の岩手県花巻市に生まれた。
 八歳のとき、藩主「南部利敬」にはじめてお目見えしている。利発な少年だった。
 しかし父君治は南部藩の内紛に巻き込まれ、下北半島に流された。新渡戸も下北に移り、
 侍をやめて商人になり、奮起して十和田の開拓に成功した人物だった。
・苦労人だけに広沢の苦悩が手に取るようにわかり、従来から鎌や鍬、鋤などの農機具を
 提供してくれ、さらに今回の廃藩置県で、帰農を希望する人を受け入れることも約束し
 てくれた。 
・広沢は意志の強い強情な人間で、決して人に涙を見せることはなかったが、このとき新
 渡戸の前で号泣したという話が伝えられている。こうして広沢は帰農を希望する人に三
 本木での開拓の道筋をつけた。
・廃藩置県になっても斗南の会津人は、まだ迷っていた。会津に戻ったところで、家も土
 地もない。北海道に渡るにしても生活のあてはない。広沢安任に身を任せて三本木に移
 住し、農業を始めるか、日々、迷いに迷っていた。
・荒川類右衛門の一家も、まだ妙見平にいた。会津に引き揚げたところで、どうなるもの
 でもない。帰る資金もなかった。
・そんななか、明治五年(1872)の十二月、下北はこれまで経験したことのない、す
 さまじい冬の嵐に襲われた。家屋が倒壊し、大勢の死者が出た。
 もはや、ここに住むことはできない。類右衛門は会津若松に出稼ぎに出ることを決意し
 た。  
・類右衛門は長女のサタを残して妻と長男、二男、二女を連れ、翌年春、会津若松へ帰っ
 た。懐かしい故郷ではあったが、会津若松の暮らしも地獄だった。
・驚いたことに、あちこちに遊女屋があり、町はすさんでいた。
 住む家も耕す畑もない。無職であることには、変わりはない。もはや完全に棄民であっ
 た。 
・類右衛門は斗南帰りの人々と共同の長屋を借り、張り子を作ったり、傘を張ったり、目
 立てを業として、なんとか茎扶持を稼いだ。
・下北に残してきた長女サタも会津へ戻り、一家六人の暮らしが戻ったが、病から長男の
 秀太郎の具合が悪くなり、明治七年八月に、痢病にかかって死亡した。わずか十四歳。
・妻はめっきり元気がなくなり、食事もできなくなった。
 それを見て長女も痩せ細っていった。
 二人は相次いで立亡くなり、相次いで病死する不運に見舞われた。
 類右衛門は、この世を呪いつづけた。
  
揺れ動く心
・廃藩置県後、東京に出た山川浩は、浅草区永住町の観蔵院の一室に住んだ。母と妹常盤
 との三人である。
 浪人中の山川は欝々として、表情も暗かった。
 我慢ならないのは、新政府の会津藩に対するあまりにもひどい仕打ちだった。
・本州最北端への移住は、薩長の悪意に満ちた犯罪行為だった。
 一万数千人の旧藩士と家族は、極貧の暮らしに追いやられ、木戸孝允や大久保利通が救
 いの手を差し伸べることは皆無に近かった。 
・ただ山川の場合は依然、旧会津藩の代表者であることに変わりはなかった。
 斗南や会津若松から山川を頼って上京する若者が後を絶たず、貧乏住まいにはいつも会
 津の若者が転がりこんでいた。
 こうした若者をなんちか一人前に育てなければならない。
 山川には二重、三重の重圧がかかった。
・自分は何をなすべきか、山川は焦りを感じていた。
 いずれにせよ、このまま黙っていることはできない。会津人を地獄に追い落とした長州
 の木戸孝允の首をとる。ひそかにそう思っていた。
 山川はときおり監視の目を意識した。黒い影が自分に付きまとっているように感じた。
・政府首脳は、会津の動きを厳重に監視していた。
 狙われたのは山川と永岡久茂だった。
 永岡は下野した佐賀の「福島種臣」、土佐の「板垣退助」らと親交を結び、各所で堂々
 と薩長批判を繰り広げていた。
・山川は小細工を嫌った。
 会津人の処遇の改善を参議「大隈重信」に陳情したが、にべもなく断られた。
 こうなったら行動を起こすしかない。
 山川は大胆不敵にも敵の本丸、鹿児島に潜入、「海江田信義」を頼った。薩摩の最高実
 力者「島津久光」の側近である。
 久光は廃藩置県を強行した「大久保利通」を嫌い、
 「士族の家禄を補償せよ」
 と叫んでいた。
・山川を監視していたのは、旧熊本藩士の「荘村省三」だった。
 このような知識人がなぜ密偵になったのか。
 それは、太政大臣「三条実美」の差し金によるものだった。
 自分を殺す奴がいるとすれば、それは会津人に違いない。木戸だけではない。三条もそ
 ういう思いがあった。  
・山川の動きは、筒抜けだった。政府部内では山川を薩摩の不平分子から切り離す工作が
 進んでいた。
・「谷千城」から呼び出しを受けた山川は、不思議な運命を感じた。
 戊辰戦争を戦った敵将から勧誘を受けたからである。
 谷はこのとき、三十六歳。陸軍裁判所長の任にあり、公平な裁きで信が厚く、陸軍内部
 に、それなりの人脈を持っていた。
 谷は陸軍裁判所に出頭した山川を温かく迎えた。
 「若いころはよく遊び、奥州郡山の「安積良斎」先生に学んだこともあった。拙者もコ
 チコチの攘夷論者だが、「坂本龍馬」先生に攘夷ではない、討幕が先だといわれ、貴殿
 らと戦うことになった。聞けば貴君の弟や妹はアメリカに留学しておるそうではないか。
 どうです。浪人しているよりは、政府に努めて国家に尽くしてはくれるか。自分の力は
 微々たるもので、判任官までしか保障はできぬが、命をかけて戦った相手と仕事をして
 みたい」 
・山川は谷の率直な言い方に驚いた。多くの部下をかかえている山川である。
 確かに弟の健次郎、妹の捨松もともに留学して政府の世話になっている。
 これも運命かもしれない。山川は谷に下駄を預け、陸軍に職を得た。
・明治政府を震撼させる征韓論が起こったのは、このときである。 
 山川は征韓論による政変の直後に熊本鎮台への転属を命じられたものの、赴任を遅らせ
 ていた。情勢がどうなるか読めない部分もあったからである。
・鹿児島に帰国した西郷らの反乱は必至と見た政府は、熊本鎮台の強化に乗り出し、谷を
 鎮台司令官に命じた。谷は山川に同行を求めた。
 山川にとっては、またとないチャンスであった。
 西郷軍には戊辰戦争を戦い抜いた強者がそろっている。これとまともに戦えるのは、
 長州と会津だ。会津武士の強さを、ふたたび天下に示す好機到来である。
 山川は同行を決断した。
・明治六年(1873)十二月、山川は陸軍少佐を命ぜられ、熊本鎮台参謀に抜擢されて
 赴任した。  
 鹿児島の西郷の動きは緩慢だったが、佐賀の江藤のほうは、一触即発の状態である。
 山川は赴任に当たり、佐賀県庁に義弟である「小出鉄之助」を送り込んだ。
 変化に瞬時に対応するためには、有力な情報源がいる。小出なら絶対であった。
・小出から「江藤の蜂起が近い」との急報を受けた山川は、自ら佐賀への出兵を希望した。
 このとき、熊本鎮台で暴動が起こり、数十人が捕らわれて監獄にあった。
 山川は悔悟している七十余名を佐賀に投入すべしと建議した。
・谷の許可えた山川は彼らを率い、佐賀県庁に向かった。
 山川は二人の副官を帯同した。会津出身の小川亮と小川早次郎である。
 小川亮は山川の弟の健次郎と一緒に越後に脱出させ、奥平謙輔に預けられていたが、歯
 を食いしばって勉学に励み、陸軍士官学校を卒業、陸軍工兵少尉として将来を嘱望され
 ていた。   
・暴動鎮圧のために新たに土佐の「岩村高俊」が佐賀県権令に任命された。
 岩村は長崎藩家老「河井継之助」との会談を決裂させ、越後を戦争に引きずり込んだ男
 である。
・明治七年(1874)二月早朝、江藤軍が県庁を襲撃した。反乱軍は約二千五百人の大
 軍だった。
 四百人足らずの鎮台兵では、とても防ぎきれない。食糧や弾薬も足りない。
 四日目に食糧が尽きた。かくなるうえは食糧調達作戦に踏み切るしかない。
・山川は県庁近くの米蔵に調達に出た。副官の両小川と人夫三十名ほどを率い、夜の闇に
 紛れて忍び込んだが、敵兵に見つかり、突然、乱射された。
 人夫は蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い、山川と副官は十人たらずの兵と取り残された。
・山川は人家に潜み、応戦したが多勢に無勢、敵の一弾が山川の左手を貫通した。
 山川は顔をゆがめて昏倒した。
 副官の小川亮は戸板を探し山川を乗せ、人家伝いに城を目指し、どうにか戻ることがで
 きた。
・幸い、城内に外科医がいたので、山川は処置を受け、命に別条はなかったが、敵の包囲
 は厚く、このままでは落城も時間の問題だった。
・反乱軍が総攻撃を仕掛けてきた。大砲が撃ち込まれ、あちこちに火の手があがった。
 このまま一気に攻め込まれては全滅である。
・このとき、小出が県庁の城門を躍り出て、あらん限りの銃弾を浴びせたあと抜刀して、
 まっしぐらに敵兵のなかに突っ込んでいった。
 小出は二度と戻ることはなかった。
・小出は鳥羽伏見、日光口と一緒に戦った山川の無二の親友だった。しかも妹の夫でもあ
 った。   
 包囲を突破した山川は、それから数日間、まるで別人のようにうち沈み、暗い顔で過ご
 した。頬はげっそり痩せ、昼も夜も陸軍病院のベッドに横たわっていた。左手の傷も悪
 化し一向に恢復しない。
 山川は谷千城の勧めで帰京し、本格的に治療を受けることになった。
・江藤は薩摩の西郷の蜂起に期待をよせたが、西郷は動かず、電信による情報力、汽船の
 輸送力などを活用した政府の素早い対応に鎮圧され、四月に処刑された。
・後日わかったのだが、小出は敵に捕らわれ、獄門にさらされた。これを見つけた出入り
 の商人が死骸をみらい受け埋葬、のちに小出の弟喜助が遺品を東京に運び、葬った。
 享年三十八。小出の死は、山川の心に深い傷跡を残した。
・左手の傷が回復した山川は、主君容保とともに故郷の会津若松を訪ねている。
 実に六年ぶりの帰郷である。
 白河まで何人かの家臣が出迎えた。皆、土下座し声をあげて泣いた。
 誰もが、ただ泣くだけだった。
 容保の会津入りは公にはされなかったが、容保も山川も感無量であった。
・容保は元若年寄の諏訪伊助の家に一ヵ月ほど滞在した。半月という説もあり、確かなこ
 とは不明だが、若松の町は、心なしか賑わいを取り戻し、人々の表情に笑顔があった。
 斗南で食うや食わずにいたことを思うと、隔世の感があった。
・明治九年(1876)は日本大動乱の日々だった。
 十月には熊本藩の旧藩士が神風連(敬神党)の乱を起こし、熊本鎮台に乱入、これに続
 いて「秋月の乱」、「萩の乱」と反乱が起こり、明治政府は最大の危機を迎えた。
・永岡久茂の動きも激しくなっていた。
 永岡はいとど、田名部支庁長になったが、まもなく辞職して上京、山川の世話で浅草に
 住まいし、薩摩人「海老原穆」と反戦運動を繰り広げていた。
 斗南時代、学校掛兼司民掛の責任者を務めていた竹村幸之進も、これに加わっていた。
・永岡は一時期、板垣退助らと親交を結び、伊藤博文や井上馨から仕官を進められたが、
 これを断り、反政府運動の急先鋒である長州の「前原一誠」と組み、激しい論陣を張っ
 ていた。
 「俺は戦場で死んでいった多くの仲間たちのためにも、奴らに頭を下げることはできぬ。
 斗南もひどすぎた。俺は命をかけて、仲間の恨みを晴らす」
・明治九年(1876)十月、ついに前原一誠が蜂起した。「萩の乱」である。
 前原は明治政府の参議、兵部大輔の要職にあったが、これを辞職して、蜂起した。
・前原は松下村塾時代、「高杉晋作」、「久坂玄瑞」と一緒に学び、  
 「久坂は防長第一の俊才、高杉は胆略絶世の士、前原は完璧な人物で、久坂も高杉も人
 間的には前原に及ばない」
 と吉田松陰が評した大器だった。
・前原は木戸孝允、伊藤博文、井上馨の三人を長州の三姦と呼び、彼らは権力の亡者であ
 る、これらを葬らなければ日本は悪くなる、と批判していた。
・前原一誠が、なぜ反乱を起こしたのか。
 その根本原因は旧士族の処遇にあった。
 明治二年(1869)、長州藩は諸隊を解散し、その精鋭を選抜して常備四箇大隊を編
 制した。これにもれた隊員たちは不満が高まった。
・明治八年六月、木戸は前原を東京に呼び、時世の変化を説き、元老院議員になることを
 進めたが、前原は応じなかった。
 このとき、前原は永岡と会った。
・長州と薩摩、会津が同時蜂起すれば、現政権はつぶせると、永岡が説いた。
 永岡は同時蜂起を約束した。
・一連の動きを山川は薄々知っていた。
 しかし、山川が考えるに、どこから見ても成功の可能性は低かった。軍事力の差は歴然
 としていた。
 だが、永岡はあえて踏み切った。会津の誰かがそうするしかおさまりがつかない、とい
 う心情があった。
・前原一誠から蜂起の電報を受け取った永岡は、かねての計画を実行に移した。
 永岡らは明治九年(1876)十月、東京日本橋小網町の思案橋から舟で千葉に行こう
 として警官と格闘になった。世のいう「思案橋事件」である。    
 この格闘の際、永岡は誤って井口に腰を斬られ、警官に捕らえられた。
 その傷がもとで永岡は翌明治十年一月、鍛冶橋の獄舎で獄死する。
 中原成業、竹村幸之進、井口慎二郎らも捕らえられ、処刑された。
 中根米七だけは鹿児島に逃れ、西南戦争後に会津で切腹した。
・この思案橋事件には、もう一つ意外な事実があった。
 永岡の書生の平山圭一郎と根津金次郎の二人が、事件前後、警視庁大警視川路利良に密
 告したというのである。
・多くの会津人は、思案橋事件を聞いたとき、永岡を非難することはなかった。
 それはすべての会津人が抱いてきた、薩長への報復を身をもって実践しようとした永岡
 への心からの同情といたわりの気持ちからであった。
・山川の弟、のちの東京帝国大学総長山川健次郎でさえ、永岡を密告した平山、根津の二
 人を裏切り者として憎んだ。  
・永岡の脳裏にあったのは、斗南の過酷な日々だった。
 飢えと寒さで、老人、子どもは命を落とし、生き残った人々も、草の根を食べ、海藻を
 拾い、命をつなぐ日々だった。
・山川は今後の会津に欠かせない。
 広沢は三沢に残り、斗南の残った人々の希望の星になっている。
 自分は何をどうすればよいのか。
 残酷無比な薩長新政府に戦いを挑み、政府転覆を企てなければ、斗南で命を落とし、今
 なお全国各地で、苦労の日々を送っている会津人に相済まない。
 成功の見込みはないかもしれないが、その行動が大事ではないか。
 永岡はそう考えたに違いなかった。
 永岡久茂、死を覚悟しての反乱だった。享年三十八。

・このほか、会津鶴ヶ城会場のあと、薩長軍の官吏、越前の参謀、久保村文四郎が戦死者
 の遺体を放置するなど非情な振る舞いだったので、帰国の際、久保村を束松峠で斬った
 「伴百悦」のような人物もいた。
・「萩の乱」は、およそ二千人が山口を脱して、三田尻、宮市(ともに現防府市)に集ま
 り、反乱を起こしたが、結局、鎮圧された。
 前原一誠漁船で逃亡を謀ったが、暴風雨に行く手をさえぎられ、前原ら首謀者八人は斬
 首され、四十八人が懲役刑となった。
 会津と長州の悲しい接点である。
  
・山川に第二の転機をもたらしたのは明治十年(1877)二月の西郷隆盛の反乱、西南
 戦争である。
 このときの政府の狼狽は相当なものだった。
 東京帝大に勤める山川の弟、健次郎は何度か「岩倉具視」に呼ばれ、
 「会津から兵を募り、薩摩征伐に行ってくれぬか」
 と持ちかけられた。
・岩倉は、かつて京都守護職の追い落としを謀った張本人である。
 「孝明天皇」毒殺の嫌疑もかかっていた。 
 手の平を返すようなやり方に、山川兄弟は、不快であった。
 しかし、戦いに出た以上、全力で戦い、熊本城に突入し、籠城していた谷千城を救出し
 た。
 しかし、奮闘したにもかかわらず戦後、山川は大阪鎮台の監察に飛ばされ、軍人として
 陽の目を見ることはなかった。
 
・会津の武将といえば、戊辰戦争を最後まで戦った「佐川官兵衛」が筆頭だった。
 官兵衛は若いころから滅法、喧嘩が強かった。
・安政年間(1850〜60)、江戸在勤中、本郷で火事が起きた。火元は加賀藩邸だっ
 た。加賀藩とは縁戚関係にある。幕府の火消隊が通行を止めていたが、官兵衛は火消隊
 を突っ切り、前田邸に駆けつけた。
 幕府火消隊はこれを根に持ち、帰り際に官兵衛に襲いかかった。官兵衛は抜刀するや一
 刀のもとに消防指令を斬り伏せた。相手は天下の旗本である。官兵衛は百石減じられ、
 国元に返された。
・慶応二年(1866)、満を持して上洛した。
 翌年、「小御所の会議」で幕府と会津が職を奪われ、朝敵の汚名を着せられたとき、
 官兵衛は即京都で開戦を主張したが、慶喜は「余に深謀がある」と思わせぶりな発言を
 し、大坂に退いた。幕府はこれで逆転の機会を失った。
・鳥羽伏見の戦争では、味方の兵力が一万五千、薩摩、長州軍は五千である。絶対優勢の
 はずだったが、幕府の歩兵は烏合の衆で逃げ惑い敗退を続けた。
 慶応四年一月の戦闘はもっとも激しく、敵弾が官兵衛の刀に当たり羽が折れ、加えて弾
 丸が右目をかすめたが、官兵衛は意に介することなく戦い続けた。
 しかし慶喜と容保が江戸に脱走するに及んで幕府、会津は敗れ去った。
・戊辰戦争では、最強部隊の「朱雀隊」を率いて越後に出兵、「河井継之助」と共同で戦
 ったが、河井が重傷を負い、越後も敵に奪われた。
・敵軍、会津侵攻のとき官兵衛のもとに集まる情報は、楽観的なものが多く、敵は会津を
 避けて仙台に向かうという見方が多かった。
 これは敵の偽情報で、二本松を攻略した薩長軍は一転、「母成峠」を落とし、会津城下
 に侵入した。
 官兵衛は勇猛な武将だが、情報収集や分析には疎かった。
・会津藩の指揮命令系統は、なきに等しいものだった。
 世襲の家老たちは、ただ呆然と座り込むだけで、反撃の態勢をとれなかった。
 家老「神保蔵之助」と「田中土佐」は責任を取って郭内で自決。
 日光口から山川浩が帰国するに及んで、ようやく籠城態勢が固まった。
 官兵衛の役は城外での戦闘だった。官兵衛は不満だった。
・城内を仕切ったのは主席家老の「梶原平馬」だった。
 梶原は幹部を集めて作戦会議を開いた。
 西郷頼母は乱心として外された。
・梶原は、
 「主君とともに米沢に逃れ回復を謀りたい。佐川殿は城に残り、城内を守ってもらいた
  い。城内の婦女子は首を斬る」
  と言い出した。
・出席者は唖然として顔を見合わせ、平馬の案は否決された。
 官兵衛も怒りを爆発させた。
 「われを先鋒として戦わしめ、今また城内で捨て殺しにするのか。兄らは代々高禄を食
 みながら一度たりとも戦わぬ」
 と皆を睨んだ。
 官兵衛の言う通りだった。
 城内には不協和音が渦巻いていた。
・官兵衛は城下の敵を掃討する作戦に出た。
 銃器の差でこれも敗れ、以後、城に戻らずゲリラ戦を展開した。
 主君容保が降伏を告げても、
 「敵は民の財貨を奪い、婦女子を犯す姦賊である」
 と主張し、頑として戦いを続けた。
・戦後、斗南に母とともに移住、三戸の山奥で呆然と暮らしたが、西南戦争が起こると、
 警視庁の抜刀隊に応募、東京警視隊を率いて出兵、阿蘇山で壮烈な戦死を遂げた。
   
斗南に残った人々
・下北に残った人々の代表は広沢安任だった。
 広沢は会津武士の名誉にかけて、ここで生き抜かなければならないと考えた。
 この地に夢を描いた少参事の一人として、挑戦することが残された道だった。
・傍らには八戸藩大参事を務めた「太田広域」がいてくれ、励ましてくれたことが大きか
 った。 
・さらに広沢には、兄安連の一家がいた。安連は越後で戦死したが、三人の子どもがおり、
 長男安宅は東京で勉学中であり、長女ヒロ、二男弁二が斗南に来ていた。
・広沢は太田とともに、太平洋から小川原湖に至る広大な土地の無償借用を青森県に申請
 し、明治五年(1872)暮れ、牧場経営の母体となる「開牧社」設立の許可を得るこ
 とができた。 
 広沢を感激させたのは、青森県が速やかに新政府に書類をあげ、新政府もまた異例の速
 さで決済したことだった。
・広沢は上京して大久保に直談判し、大久保に牧場の建設を認めさせ、資金の交渉も行っ
 た。その結果、明治六年八月、一時金として七千円の借入れに成功し、この資金で農具
 や種を仕入れることができた。
・問題は人である。
 広沢はイギリス人牧夫のリセーとマキノンの二人を採用した。
 ルセーは幕末に来日、越前福井藩に雇われ洋学を教えた経験を持っていた。
 年齢は二十六歳。マキノンは四十八歳。スコットランド生まれの農夫で、牧畜のベテラ
 ンだった。 
・明治九年(1876)、明治天皇の東北巡幸が発表された。
 広沢牧場の牛馬が天覧に供されるというので、広沢は歓喜した。
 天覧は、三本木原の草原で行われることになり、広沢は牛180頭、馬19頭を出すこ
 とにした。
・前日、内務卿の大久保が牧場に視察に来た。
 大久保は広沢のちいさな草庵で昼食をとった。
 広沢は牧場と採れたバター、チーズ、パン、牛乳を並べた。
・この日、大久保は広沢に参議、北海道開拓使長官への仕官を求めた。
 広沢が参議して世に出れば、朝敵会津藩の汚名をそそぐ絶好の機会にもなる。
 どうすべきか、広沢は正直迷った。
 しかし、これ以上、大久保の厚意に甘えることはできない。
 多くの会津人はいまだに苦しんでいる。
 自分が閣僚になるなどできない相談だった。
・翌朝、六頭立ての明治天皇の馬車が、三本木の広場に進んできた。
 明治天皇が馬車から降り、天覧所の椅子に腰を下ろした。
 期せずして万歳の嵐が起こった。
・永岡久茂が思案橋事件を起こし、逮捕されたのは、その三カ月後のことになるが、牧場
 にも政府から密偵が送り込まれていた。
 密偵は上方生まれの牧夫田嶋作治である。  
 西洋の農具が使えるという触れ込みで送り込まれた。言動に不審な点があり、すぐに密
 偵とわかった。
・広沢の胸に新たな構想が湧いた。
 下北地域の大開発である。牧場に近い鷹架沼を開発し、陸奥湾まで運河をつくり、太平
 洋と結ぶ壮大な計画だった。
・大久保が突然、この世を去った。
 明治十一年五月の朝、太政官出勤のため馬車で清水谷にさしかかった大久保に白刃をか
 ざした六人が襲いかかり、大久保を斬殺した。享年四十九。
 大久保政権はこのような形で幕を閉じた。
・大久保の訃報は号外となって全国に流れ、広沢は悄然として草庵に閉じこもった。
 会津人の多くは、西郷に次ぐ大久保の死に快哉を叫んだ。
・広沢はこの二年後に、妻を娶った。
 ある日、突然、若い女を連れて牧場に戻り、
 「今日からこれが私の妻だ」
 と、言った。
・広沢安宅、佐久起四郎をはじめ広沢家の人々は仰天し、ただ口をあけて広沢と若い女の
 顔を、見くらべるしかなかった。
・女はカイといい、二十歳である。
 どこの娘なのか、広沢はひと言もいわぬため、皆、遠くから眺めているばかりだったが、
 そのうち三戸の生まれであることがわかった。
 背のすらりとした細面の美人で、一度、結婚したことがあるという。
 広沢は若いカイを妻にして、一段と若返り、牧場の人々は、目のやり場に困るほどだっ
 た。 
・明治十八年(1885)、待ちに待った弁二が牧場に戻った。
 弁二は品行方正、学術優秀、常に獣医科の首席を占め、前途を大いに嘱望されての帰郷
 だった。
 獣医師の弁二を迎え、広沢牧場は飛躍のときを迎えた。
・広沢は幸せだった。
 若い妻と見事な後継者に恵まれ、草庵の近くに六十種草堂を建て、日夜、文筆に励んだ。
・明治十一年、広沢は東京郊外の淀橋に、広沢牧場東京出張所を設け、山川浩、秋月悌次
 郎、南摩綱紀らかつての同志と交流しながら、南洋開発という遠大な構想を立て、各界
 を説得して歩いた。
・二年後の第一回衆議院議員選挙には会津から山川浩、司馬四朗、青森から広沢が立候補
 した。   
 しかし第一線を退いていることもあってか、三人轡を並べて落選、政治への道を絶たれ
 た。
・明治二十四年二月、広沢は東京で悪性のインフルエンザに冒され、全身に悪寒が走った。
 カイの懸命の看病で一時小康状態を保ったが、高熱のためにわかに意識が混濁、眠るよ
 うにこの世を去った。享年翌十二であった。
・三沢には大勢の会津人がいて広沢を助けた。
 広沢牧場の会計を一手に引き受けた北村豊三もその一人である。  
 豊三は七人家族で斗南に移住した。会津に戻ることはせず、広沢安任の片腕となって、
 厩舎の建設や洋種牛馬の導入と改良、牧草の研究など、牧場経営を軌道に乗せるために
 日夜奮闘した。
・北村は、広沢の死後もなお十二年余り谷地頭に残って広沢の後継者、広沢弁二の牧場経
 営を補佐し、広沢牧場の発展をより確かのものにした。
・明治三十七年、木沢村岡三沢(現三沢市岡三沢)に北村牧場を開いた。
・長男北村要には男の子がなかったので、長女富の婿に旧会津藩士吉沢三平義知の四男の
 直枝を迎えた。
 後に青森県知事となる「北村正哉」は、直枝の長男として生まれた。
  
北の海に渡った人々
・箱館戦争の際、「榎本武揚」の艦隊に乗り、蝦夷地に渡った会津藩士がいた。
 「諏訪常吉」を隊長とする会津遊撃隊の面々である。
・京都で公用人として活躍し、「輪王寺宮」の仙台入りを演出した小野権之丞もいた。
 小野は戊辰戦争中、江戸開城まで江戸にとどまり僧侶に変装して敵情を探り、その後、
 仙台に入り奥羽越列藩同盟の設立に奔走した。
・当時、会津は落城寸前で帰国はかなわず、榎本武揚の蝦夷共和国構想に賛同し、北海道
 に新天地を求めたのだった。 
・矢不来の戦闘で重傷を負った諏訪が病院に収容された。そこに京都で諏訪とともに薩会
 同盟の竹役者だった薩摩藩の池田次郎兵衛が訪ねてきて、箱館戦争の休戦を申し入れた。
 それを小野権之丞に伝え、休戦交渉が進展した。

・国家老「西郷頼母」ほど会津藩のなかで、全体の流れとは異なった発言をして、皆に嫌
 われた人物はない。 
 この人物の欠点は、ものの言い方に常識がなかったことであった。
 身分で人を差別し、何か言おうものなら、「軽輩、黙れ」と一喝した。
 そういう人物が筆頭国家老というのは、会津藩の悲劇であった。
・しかし独特の屁理屈には言い分もあった。
 最初は松平容保の京都守護職拝命に反対したときである。
 荷が重すぎると辞退を勧告し、処分されたが、これは正論といえば正論だった。
・会津藩の家訓十五ヶ条第一条に照らせば、京都守護職に就任せよという幕府の命令は、
 拒否することはできなかったが、結果は頼母の言う通り、会津藩はすべてを失いボロボ
 ロになって帰国した。その間、頼母は蟄居の身の上だった。
・主君容保にとって、頼母は目障りな存在であり、家臣団にも信頼がなかった。
 容保は頼母に厳しく対処し、この後もしばしば謹慎蟄居を命じたが、容保の大失敗は、
 こともあろうに頼母を白河口の軍事総督にすえたことだった。
 会津、仙台の連合軍は、たった一日の戦闘で白河城を奪われ、以後、奪還できなかった。
・容保はふたたび頼母を蟄居処分にした。
 容保は籠城戦のさなかに城から追放され、仙台に向かい、長男を連れて榎本武揚の艦隊
 に乗り込んだ。箱館に上陸したが、どこかに避難し、いっさい戦うことはなかった。
・頼母の不可解なところは、薩長軍が会津城下に侵入したとき母、妻をはじめ一族二十一
 人が奥座敷で自害し果てたにもかかわらず、本人は戦後、家族の菩提を弔うこともせず
 に生きのびたことである。
・箱館戦争後は内地に戻り、斗南には行かずに各地を放浪し、皆の脳裏から消えかかって
 いたが、明治五年(1872)赦免され、日光東照宮の禰宜として宮司である容保の前
 に姿を見せた。 
・晩年は会津若松に戻り、通称十軒長屋と呼ばれる陋屋に住み、明治三十六年四月、ひっ
 そりと息を引き取った。七十四歳だった。
 葬儀に来る人もほとんどなかった。実に寂しい末路だった。
  
・会津戦争を指導し、奥羽越列藩同盟の結成に尽力した主席家老梶原平馬もまた失踪して
 いる。その行方は、杳として知れなかった。
 梶原平馬は京都時代、会津藩公用方を代表する人物だった。
・梶原平馬の妻は山川の姉、二葉である。梶原は若手を仕切る山川とは義兄弟という恵ま
 れた環境にあった。   
 平馬の寄せる主君容保の信任も厚く、江戸勤務が長く続いた。幕府にもパイプが太く、
 事実上、首席家老の地位にあった。
・鳥羽伏見で敗れ、会津藩は朝敵に汚名を受け、加えて容保が慶喜とともに江戸に逃げ帰
 ったことで、会津藩は、最大の危機に陥った。
・江戸で再起を勧めた家老「神保内蔵助」の嫡男「神保修理」が自決に追い込まれ、容保
 が皆の前で謝罪したことで藩内の危機は幾分収まった。
 しかし、江戸無血開城で、薩長軍は虎視眈々と会津攻撃を目論んでおあり、どう対処す
 るか、平馬に課せられた責任は重大だった。
・薩長との和議も選択肢の一つだった。
 しかし、薩長軍の大総督府に向かった広沢は捕らわれ、その道は消えた。
・平馬は鈴木多門、佐瀬八太夫を従えて横浜に潜行、長岡藩家老「河井継之助」の紹介で、
 オランダ四番館の「ヘンリー・スネル、エドワード・スネル」の兄弟を知り、ライフル
 銃780梃を購入した。さらに二万ドル相当の兵器、弾薬を買い込み、旧幕府陸軍関係
 者から大砲23門、ミニエー銃、ゲベル銃若干のほかイギリス製の貨客船「順道丸」を
 もらい受け、一部は順道丸に乗せ、新潟経由で会津へ運んだ。
・自分はスネル兄弟がチャーターした貨物船コリア号に乗り込み、慶応四年(1868)
 三月に横浜を出帆、太平洋を回って津軽海峡から日本海に入り、新潟に上陸した。
・この船旅に列藩同盟成立にかかわる重大なカギが隠されていた。
 乗船者のなかに桑名藩主「松平定敬」一行百余人と永岡藩家老河井継之助の一行百余人
 がいた。
・定敬は主君松平容保の実弟である。朝廷の汚名を被った兄とともに鳥羽伏見の雪辱を期
 すべく領地の柏崎に戻る途中であった。
・河井は武装中立を唱え、スネルとファーブルブラント商会から数百梃の新式銃と二門の
 連射砲を買い込み、船に積んでいた。
 連射砲はアメリカの南北戦争で使われたガットリング砲で、ハンドル操作で回転しなが
 ら一分間に150発から200発もの弾丸を発射することができた。
・梶原平馬、河井継之助、奥羽越に己の未来を託すスネル兄弟、さらに桑名藩主松平定敬、
 この五人は半月余りに及ぶ船旅のなかで日本の未来を語り、奥羽越を核とする新たな政
 権構想を模索したのである。
・米沢藩参謀「甘粕継成」の日記に、スネル兄弟が何度も出てくる。
 スネルの兄は髪をそり、日本の羽織袴を着て姓を平松武兵衛と改めていたと書いている。
 スネルの兄は、のちに日本人女性を妻にし、フランシスとメアリーの二人の女子をもう
 けている。  
・弟のエドワード・スネルは、桑名藩兵を柏崎に送ったあと、ふたたび横浜から武器弾薬
 を満載して新潟に入り、勝楽寺に居宅を構え、列藩同盟が諸外国に窓口を開くや梶原平
 馬や米沢藩の「色部長門」、仙台藩の芦名、庄内藩の石原らと軍艦購入や外人部隊を招
 集することを話し合い、意気軒昂たるものであった。
・こうして列藩同盟はスネル弟から膨大な小銃、弾薬を買い集め、米沢藩は最終的に総額
 十一万六千ドルも使い、新式銃を手にした同盟軍は、やがて越後の戦場では薩長新政府
 軍と対等の戦を見せることになる。
・会津藩には山川のほかに田中茂手木、「横山常守」、「蛯名郡治」の四人のヨーロッパ
 研修生がおり、新潟には田中が来ていて、たくみな外国語で通訳にあたっていた。
 しかし個人プレイのスネル兄弟には限界があった。
 薩長の背後には、イギリス公使館、イギリス海軍、「グラバー商会」がついており、そ
 の差はあまりにも大きすぎた。
・平馬は薩長新政府軍が会津城下に侵入した段階で、惨敗を覚悟した。
 軍議が開かれた。顔をそろえたのは、平馬を中心に内藤介右衛門、原田対馬、山川大蔵、
 佐川官兵衛、海老名郡治と軍事方の伊藤左太夫、鈴木駒之助らだった。
・平馬が発議して、
 「この城は保ち難い。ゆえに両公は米沢に行かれて恢復を計ることが一策と思う。諸兄
 の考えはいかが」
 と切り出した。
・平馬が「介錯役の柴寛次郎に、城内の婦女子の首を刎ねるように命じてある」と言った。
 これを聞いて原田が強く反発した。
 「婦女子も決死籠城、今日に至った。今その理由を告げずにみだりに首を刎ねるは不義
 不愍の至りではないか。ことに容保公の侍妾二人は懐妊と聞く。よくその理由を告げ論
 し、敵の手に死すよりは今決せよと命じたならば必ず甘んじて死につくことと思う。
 そのとき、介錯を命ずべきで、やたらに刎ねることは絶対不可である」
 とかみつき、軍議はなにも決しなかった。
・平馬は交友の幅も広く企画力、行動力には優れていたが、この日の発言は、皆を納得さ
 せるものではなかった。   
 城を放棄し、婦女子を始末するという発言は暴論だった。
 平馬はまだ二十代半ばと若く、一藩を仕切るには、まだまだ未熟だった。
・幕末会津藩は、上層部に人材が乏しかった。家老は世襲制で、政治は硬直化していた。
 残念ながら平馬もその一人だった。
 永岡藩の軍次総督河井継之助に比べると、残念ながら人間性の欠如は明らかだった。
・平馬はいったい、この城を出て、どこに行こうとしたのか。
 察するに米沢藩が平馬の胸中にあったと思うが、それは実現不能なことだった。
・この軍議の模様は会津藩医、賀川家三代の氏寛が傍聴して記録したものだった。
 この軍議は会津藩の実態を示す衝撃的な記録といえた。
・戦後、平馬は東京で情報収集にあたり、皆より遅れて明治三年(1870)の秋、東京
 より船で斗南へと向かい、三戸郡上市川村(現五戸町)に移住し、会津から妻二葉と長
 男景清を迎え、ここで生活を始めた。兄の内藤介右衛門もこの村に居を構えていた。
・廃藩置県後、平馬はふたたび表舞台に戻り、新しく発足した青森県庁の庶務課長に就い
 た。  
 しかし、妻二葉との間に亀裂が入っていたようで、別居した節があった。
 二葉は山川家の出である。山川家は東京に引っ越すことを決めており、今後の生活をめ
 ぐって、平馬と二葉の間で意見が異なった可能性があった。
・明治六年(1873)、梶原平馬は青森県主務課長を退職し、忽然と姿を消した。
 行先は東京だった。
・一方、「山川二葉」は長男景清を連れて平馬とは別行動で東京に向かい、山川家に復籍
 して、明治十年十二月、東京女子高等師範学校の生徒取締として出仕し、その後、教育
 界に身を投じることになる。  
・平馬は東京で何をしていたのか。これもまったく不明である。
 会津人に会った形跡はなく、生活費はどうなっていたのかもわからない。
 はっきりしていることは平馬が東京で「水野貞」に出会い、再婚したことである。
・平馬は梶原景雄と名前を変えており、二人は東京に住むのではなく函館に新天地を求め
 た。 
 これは平馬の希望であったろう。
 貞は長女シズエを身ごもっており、函館移住は貞の父謙吉も一緒だった。
・その後、貞は根室の花咲小学校の教員に招かれ、平馬も一緒に根室に移住、根室県に勤
 めた痕跡があるが、詳細はわからない。
・斗南藩の首脳部はそれぞれの形で責任を取った。
 広沢安任は帰農して、開拓を実践した。
 永岡久茂は自爆した。
 山川は上京して必死に会津の復権に努力した。
 しかし、平馬は追い詰められる形で、逃亡した。
・その平馬の存在が明らかになったのは、昭和63年(1988)である。
 青森県の内藤家の過去帳に(北海道において病死。根室に墓あり。梶原景雄)の墨跡が
 確認されたからである。   
・平馬の行動は山川や広沢、永岡に比べると明らかに責任放棄であった。

・会津を追われ、最果ての北辺の地、下北半島に移封された旧藩士たちは、困窮と飢えの
 生活との苦闘を続ける流亡の民そのものだった。
 廃藩置県後、生活できずに北海道に逃亡する家族が何人もいた。
 名目は出稼ぎだった。
・このようなとき、北海道開拓使次官黒田清隆は明治六年(1873)十二月に屯田兵創
 設のための建白書を上奏した。
・こうして明治七年、北辺警備と士族授産を目的とし、北海道に屯田兵を置くことになり、
 東北各地から募集した。  
・当時の北海道は函館や松前を除くと、まったく人跡未踏の地であった。
 一行は船で小樽に上陸し、小樽で家屋の抽選があり、「琴似」に向かった。
・当時の琴似村は、先住者としては和人が三戸のほかはアイヌの集落があるだけだった。
 これらの人々の手によって多少の耕地もあったが、道路はいずれも踏み分け道であった。
 周囲はまったくの森林地帯で、熊が自在に横行し、屯田兵屋付近に熊が出没することも
 珍しくなかった。
・旧斗南藩士は、一緒に兵舎に住み、毎朝、ラッパを合図に起床し、人員点呼を受け、指
 揮官に引率されて共同開墾に励んだ。
・明治十年(1877)の二月、西南戦争が起こった。
 鹿児島出兵が命ぜられた。
 ただちに一箇小隊が選抜され、農服を軍服に改め、銃を携帯して後事を家族や近隣者に
 託する暇もなく、小樽港に向かって出発した。
・山鼻、琴似両屯田をもって二箇中隊を編制し、小樽を出帆、熊本県石貫港(現玉名市)
 に上陸し、小島町(現熊本市西区)に駐屯した。
   
・斗南以前、会津藩士が最初に送られたのは蝦夷地だった。
 小樽に上陸した会津人は、一年ほど入植地が決まらず出稼ぎ暮らしだった。
 そのうち、斗南藩の三本木原に移るよう指令があったが、これ以上の移動は困難で、
 全員、途方にくれた。
 そのとき開拓使の黒田清隆が開拓使移民として二百戸を余市に受け入れた。
・当時の余市はアカダモ、ヤナギの巨木が鬱蒼と生い茂り、ヨシやスゲ、クマザサ、トク
 サなどが密生する余市川の岸部だった。
 もともとはアイヌの居住区域であり、アイヌは漁業や狩猟によって生活していたが、
 その片手間に粗放な農業も営み、稗や粟の栽培をしていた。
・そこに内地から移民が入り、開拓を始めたが、当時、この周辺は道もなく、わずかにエ
 ゾシカが通る獣道があるだけだった。
 全員、朝敵の汚名をそそぐと血判しての参加だった。

あとがき
・司馬遼太郎は、斗南藩を率いた広沢安任、永岡久茂、山川浩の名をあげ、見事なものだ
 ったと褒めた。
 そして希望にあふれていると語ったが、本当にそうだったのだろうか。
 私には疑問だらけである。
・戊辰戦争は、会津城の落城で終わったはずだった。
 蝦夷地や斗南への移住なしで戦後処理をできなかったのか。
 その疑問が消えないからである。
・鳥羽伏見の戦いの後、会津は何度も恭順に意を表明したが、無視され続け、ついに婦女
 子も含め戊辰戦争に突入、矢折れ刀尽きてついに落城、無念の涙を呑まざるをえなかっ
 た。
・下北の地が、敗れた会津藩に耐えられないものであることは、南部藩からの情報で、岩
 倉具視、木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通らも知っていたに違いなかった。
 それを承知で挙藩流罪を決めたことは、明治政府の犯罪行為といえるものだった。
 会津厳罪を言い続けた木戸孝允の罪は大きいといわなければならない。
 
・2018年の明治百五十年にあたっては鹿児島、山口、佐賀、高知の四県は多彩なイベ
 ントをスタートさせた。
 そもそも明治維新百五十年の行事は安倍綜理の呼びかけで、平成の薩長土肥連盟が誕生
 したことに始まる。
 安倍総理は日本の近代化は薩摩、長州、土佐、佐賀の四藩が大きく貢献したとして、鹿
 児島、山口、高知、佐賀の四県知事に積極的な顕彰を求めた。
・これに対して、薩長土肥と戊辰戦争で戦った越後や奥州の人々には、明治維新というよ
 りは戊辰戦争百五十年というとらえ方をする人が圧倒的に多い。
 ことに戊辰戦争で最大の攻防戦を演じた会津の人々にとっては、明治維新ではなく戊辰
 戦争百五十年である。 
・攻め込んだ明治新政府軍はいたるところで略奪暴行を繰り広げ、「敵は官軍にあらず、
 姦賊である」と会津の猛将佐川官兵衛は恭順を拒んだ。
 そのしこりは今日もなお強く残っており、薩長土肥と同じテーブルで、論じ合うことを
 拒む気風も存在する。
・それに拍車をかけたのが、斗南藩への移封だった。
 生活もおぼつかない旧南部藩の地に強制移住させられた旧斗南藩の末裔と、薩長土肥の
 関係者が一堂に会して、明治維新百五十年を論じることはまずありえないに違いない。
 明治維新百五十年で、双方が和解すると考えるほど歴史認識は甘くない。
・会津には「長州と仲良くはするが、仲直りはしない」という格言があり、本格的な融和
 はきわめて困難であろう。
・会津人は藩主松平容保が京都守護職時代、テロ行動を繰り返し、京都を混乱に陥れた長
 州藩に対し、強い敵意を抱いており、加えて鳥羽伏見戦争後、恭順の意を表したにもか
 かわらず、松平容保の斬首を要求して、会津に攻め込んだ長州の木戸孝允、薩摩の西郷
 隆盛らは断じて許し難いと強く叫んでいた。
・私は、戦争を賛美することはしないが、総じて会津藩はよく戦った。
 しかし結果は最悪だった。
 斗南での苦労は筆舌に尽くし難いものがあり、無駄な戦争だったと責任を追及する声も
 上がった。   
・会津にも西郷や木戸と話し合える人材が欲しかった。
 また、農民の声を藩政に取り入れる政治家も必要だった。
 白虎隊の少年たちに、生きることの大事さを教えることも大事だった。
・斗南の会津人に光が差したのは、憎む木戸孝允や岩倉具視、西郷隆盛らが進めた廃藩置
 県によってであった。
 移動の自由が保障され、職業の選択も自由になったからである。