鹿鳴館貴婦人考  :近藤富枝

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明治維新によって旧幕府を倒してできた新政府が、国を挙げて取り組んだのが「文明開化
であった。西欧諸国と肩を並べるためには、まず西洋の文化・風俗を模倣することから始
めようと考えたようだ。その代名詞とも言えるのが「鹿鳴館」であろう。夜な夜な鹿鳴館
で夜会を開き外国の国賓や外交官たちを接待した。接待する側の日本の高官の貴婦人たち
は、着慣れない洋装でゼンマイ仕掛けの人形のように異人を相手にダンスを踊った。今か
ら見れば、なんとも滑稽な光景が繰り広げられていたようだ。
当時の日本のリーダーたちは、西欧の一等国に近づくためには、まずは西欧の貴族階級の
ように舞踏会を開きダンスを踊れなければならないと考えたようであるが、なんと安直な
考えであったのかと感じたのは私だけはないだろう。しかし、明治維新のリーダーたちは
大真面目だったようだし、そしてその貴婦人たちも、これがお国のためになるならばと、
必死に異人たちとダンスを踊ったのだろう。
しかし、それによって日本に何か好機がもたらされたかと言ったら、あまなかったようだ。
当初の狙いだった、江戸時代末期に旧幕府により結ばれた不平等条約改正は、ことごとく
失敗に終わっている。鹿鳴館外交を主導した井上馨伊藤博文が辞職することにより、約
4年間の異常な時代とも思える鹿鳴館時代は終わった。
それにしても残念に思うのは、日本最初の女子留学生のひとりだった大山捨松のことだ。
会津藩に生まれた彼女は、戊辰戦争のときには家族と共に会津城に籠城し、8歳でありな
がら弾薬の運搬を手伝ったという。会津戦争で敗れ、賊軍の汚名を着せられ、会津藩から
斗南藩となり下北半島最北端の不毛の地に追いやられた捨松の家族は、生活に困窮したよ
うだ。そこに政府主導による10年間の官費による女子留学の話があり、口減らしも兼ね
て捨松の家族が泣く泣く応募したようだ。そのとき捨松は満11歳だったという。
捨松は優秀な少女だったようだ。11年間のアメリカ留学生活を終え、アメリカの教育と
風習を携えて日本に帰国した捨松であったが、しかしそれを生かせる就職の声はまったく
かからなかったらしい。結局、大山巌の夫人となり、鹿鳴館でのダンス接待で唯一留学の
成果を生かせるぐらいだったようだ。当時の日本は、はアメリカ文化に通じ、英語はもち
ろんフランス語も話せた捨松を生かせるような国ではなかった。
しかし、もし捨松が女ではなく男だったら、状況はまったく違っていただろう。その能力
を活かせる場はいくらでもあったと思う。当時はまったくの男中心の社会であったのだ。
そして、現代のおいても、時の総理大臣がしたり顔で「女性活躍社会」などと宣言してみ
せたが、いまだにそんなことをしなければならないようでは、この国はなお、鹿鳴館時代
とそれほど変わっていないのだと言えよう。この本を読みながら、つらつらとそういう思
いばかりが浮かんできた。


はじめに
・私の興味は、異文化に接した明治の女性たちの憧憬や、恐怖や、当惑や、反発にある。
 しかし名のみ高い鹿鳴館だが、この建物に出入りした女性たちについての資料は少なく、
 その生き方も、心理も、真実は全く伝えられていないように見えた。これは彼女たちが、
 すべて権門の夫人や令嬢たちにかぎられていたからである。とくに敗戦以降の日本は、
 爆弾を愛した女や、混乱のなかで権力に虐殺された女性にはスポットを当てたけれども、
 異文化に挑戦し、日本の近代化に質した女性たちのいたことを忘れてしまったかのよう
 だ。
・もっとも私自身もある違和を上流婦人たちに最初抱いていたことを告白しなければなら
 ない。しかし、以外にも華やかと見た彼女たちのほとんどが、動乱の維新にどん底であ
 えぎ、生死をさまよい、必死で這い上がり、その後も懊悩、悲哀、転落を経験していた
 ことを知って、やっと共感を覚えた。
 
アラスカ号の客
・井上馨夫人の武子が、養女末子とともに、夫の欧米旅行に従って、アメリカ船アラスカ
 号に乗り、横浜を出発したのは、明治九年(1876)六月である。
・井上馨は、若くして維新の激浪のなかを泳ぎ、生き延びて新時代の太陽を浴びることの
 できた数少ない男たちのひとりである。出身は長州藩。
・長州か、薩摩か、このことは現代史の人物を語る場合言い忘れてはならないことであろ
 う。なぜなら、回天の大事業を、この幕末の二大雄藩は、手をとりあって行った如く見
 えるが、内実はつねに勢力を争い、一方が攘夷を唱えれば一方が開国を叫び、一方が海
 軍のイニシアティブをとれば、一方が陸軍を牛耳るというあんばいで、この状態が大正、
 昭和と長く続いたからだ。
・鎖国の禁令が解かれてから女性の海外渡航者の第一号は、誰なのか。何のために行った
 のか。その答えは慶応三年(1867)のパリ大博覧会における加禰、寿美、佐登であ
 るというのが、これまでの通説になっている。三人の若い娘たちは、博覧会場に建てら
 れた日本式の茶店で、閑雅に坐り、その姿や服装を見物人に見せるのが役目だった。
 この三女性の正体は、一説によると江戸柳橋の松葉屋の抱え芸者なりという。
・このとき幕府は徳川慶喜の弟、昭武ナポレオン三世の招待に応じていくが、共のひと
 りだった渋沢栄一は「東洋婦人の西洋に渡來せしは未曾有のことなれば、西洋人の仔細
 に見んとする・・・」とパリ紀行「航西日記」に記している。自分の国の女たちが見世
 物になっているのを、渋沢栄一たち男はどんな気持ちで眺めたのか、売女たちのことだ
 と冷たくつき離したものか、その点の記述がないのはいかにも物足りない。
・現在、外務省に保存されている最初の海外渡航者名簿である「慶応丙寅・丁卯海外行人
 名表」を見ると、加禰、寿美、佐登のパリ行と同じころに、商用の名のもとに、登和、
 登宇、津禰、春、美津、佐喜、菊、信などがどっとアメリカ、イギリス、フランスなど
 に出かけているのでびっくりする。 
・このなかの春、美津、佐喜は独楽廻しの源水の妻と娘たちで、他の連中も大体手品や足
 芸などの芸人だった。しかもそれぞれ行く先がちがうので、彼女たちのうち誰が早い渡
 航か、にわかに断定できないのである。
・また明治四年(1871)には、日本で最初の女子留学生であった吉益亮子上田悌子
 山川捨松永井繁子津田梅子らの幼いひとたちがアメリカに渡航した。
・留学生と芸人たちの外には、ボツボツ帰国する外国人に伴われて渡航する女たちがあり、
 彼女たちの身分は雇としるされてあるが正体はラシャメン(洋妾)であろう。
・貴婦人で外国行をし、最初に名簿に記載されたのは、蜂須賀茂韶の妻斐子(20)であ
 る。明治五年に茂韶がイギリス留学をしたのに随従した。さすがに旧大名の洋行らしく
 斐子夫人には貞子なる召使いが供として同行している。
・明治六年には河瀬真孝イタリア弁理公使婦人英(19)、明治七年になると、鍋島胤子 
 が夫直大とともにイギリスにいく。やはり北島以登子なる侍女をつれていく。
・またアメリカ特命全権公使になった吉田清成の夫人貞子(24)、高木三郎アメリカ臨
 時公使夫人須磨子(16)、上野景範イギリス特命全権公使夫人いく(19)などがぞ
 くぞく海を渡る。彼女たちが、外交官の夫人では夫とともに任国にいくはじめではない
 だろうか。十代の若妻が多いのも特長である。
・私が一番興味をそそられたのは、鍋島胤子であった。彼女は十六歳で直大に嫁ぎ洋行の
 ころは二十三歳であった。ロンドンに着くと英語を習ったのは当然として、舞踏やピア
 ノの稽古もはじめている。また編物や刺繍に熱心であり、刺繍を美術的にやるために、
 リチャードソンという画家に出張教授を受けた。日本の貴婦人で、油絵を本格的に習っ
 た最初の人がこの胤子であった
・井上武子の場合は、夫の井上馨は満年齢で四十一歳、武子は二十七歳、末子は十二歳で
 あった。むろん彼女たちには侍女はつかない。馨には秘書の他に従者2名が随行してい
 る。当然、馨など男性連は洋装であった。しかし武子と末子の服装は明確でない。
・パリ三人娘たちはむろんきもの姿で旅行中を終始した。一方留学組も出発時の写真を見
 ればふき綿をたっぷりいれた二枚襲ねの振袖で、全員揃って日本髪に花簪をさし、留学
 生という雰囲気よりは舞妓の集いといった印象を受ける。彼女たちが洋装になったのは
 シカゴに到着したときで、既製服を買って着た。
黒田清隆は明治四年一月に渡米し、ワシントンで同じ薩摩藩出で、小弁務使として駐在
 していた森有礼と旧交をあたためる機会があった。有礼はすでに慶応元年(1865)
 藩主の密命によりロンドンに留学、ロシアに旅行したり、アメリカに勉学の場所を革め
 たり、三カ年を研修につとめている。森の十八歳から二十一歳までのことであった。
・その森がワシントンにやってきた黒田へ説いたのは女子教育の興隆であった。「日本の
 将来を左右する人材は、教養ある女性を母とし、その訓育によるものでなければならぬ」
 というのが森有礼の論理であった。黒田は有礼に同調し、帰国をするとわが所管であっ
 た開拓使で女子留学生を募集し、これをアメリカに送ったのである。名目は「北海道開
 発に働かせるため」とあったが、黒田の腹はそうした小さい職権益にはなく、おそらく
 い本のため、日本の女子教育のために一肌ぬぐつもりだったのにちがいない。
・鹿鳴館外交盛んな時代に、外務大臣夫人としての武子の内助はすばらしかった。末子
 夫勝之助が外交官となって各国に赴任したから、当然その夫人として腕をふるい、夫以
 上の外交の実を挙げたのである。ことにドイツ皇室お信頼が深かった。それも彼女が少
 女の折の外遊で得た英独仏三カ国語の会話と、「天女のような」と謳われた美しさのた
 めであった。
・埼玉の山奥に生まれ、江戸は本所に育った武子は、これがはじめての航海だった。船中
 には二十名の日本人が上等船客としていたが、むろん女性は武子たちだけである。ただ
 外国婦人がいて、交際がはじまった。武子がびっくりしたのは、彼女たちの愛想のよさ
 である。ことにアメリカの女性は、武子と顔をあわせると、「ニイーッ」と笑ってみせ
 るのである。「白歯をみせてはならぬ」と武子は幼時から厳しく言われて育っている。
 だから人の顔を見たら「ニイーッ」として見せるのは苦痛である。困った武子はアメリ
 カ女性に逢うとていねいにことらから会釈してみせる。それからちょっと口もとを綻ば
 すことにした。これが同船の女性たちに「オリエンタル・スマイル」と呼ばれて評判に
 なった。やがて片言の日本語をしゃべる女性たちが武子と親しみ、彼女の旅の目的を知
 ると、早速西欧のマナーについてレクチャーをしてくれる。
・アラスカ号は全長凡そ七十間、重量四千百トン。上等船客百三十人、下等船客千人が定
 員で、ボロ船で速力はないが船内は至って清潔であり設備もよく、タオルなども備えて
 あった。食物はむろん西洋料理一点張りでもともと胃の弱い武子はシイシッキ(船酔い)
 が重くなったのもそのためである。
・このころ日本でも既婚女性のお歯黒が、すでに上流階級では廃されていた。明治六年
 (1873)三月に皇后がお歯黒をやめ、眉作りをすることもやめたという新聞記事が
 ある。つづいて天皇が断髪をした。お歯黒廃止を提唱したのは福沢諭吉であり、木戸、
 伊藤、井上など洋行をした夫を持つ高官夫人は、たちまち同調した。
・ただし化粧は、歌舞伎芝居に登場するお姫さまや奥方のように、白塗りする風は、武子
 など江戸方の武家娘にはなかった。水白粉を刷いたあとも、美濃紙を顔にあてて、水刷
 毛で余分な白粉をとり、生地に近い薄化粧を好んでいた。
・アラスカ号は、サンフランシスコ港についた。出発以来24日目のことである。上陸第
 一歩、ホテルに行く馬車の窓から見た街は、武子を威圧した。石畳みの道、高い家並み
 も無論だが、街を行く同性たちがそろって美しく、背の高いのに、これからの生活がま
 ず思いやられた。
・日本では大型女性は縁が遠いと嫌われる。江戸の末から明治にかけて、身長140セン
 チ台の女性が多かった。武子はそれに比較すれば高かったが、それでもいまは大人国に
 迷い込んだような気持ちになった。
・その夜に宿はパーレスホテルである。700ルームもある城のような8階の建物で、小
 さな箱に押し込められたと思うとそれが動き出したのにびっくりした。エレベーターで
 ある。案内する召使いが黒人であるのも、ぶきみであった。もし夫といっしょでなかっ
 たら、武子は悲鳴をあげていただろう。風呂と便所が一つの部屋にまとまっているのも、
 武子には不思議だった。からだを浄める場所が、不浄なものと同居しているからだ。

ロンドンの井上一家
・武子たちは長い汽車旅をしてフィラデルフィアにいく。たまたま博覧会開催中で、陶器、
 漆器など日本商品のかずかずが展観されていた。フィラデルフィアに2週間、ワシント
 ンには1週間滞在した。
・ワシントンにはすでに森有礼はいなかった。彼は清国公使になり、このころは帰国中だ
 ったからである。だが彼が世話をした山川、永井、津田が府外のジョージダウンに勉学
 中だったので、記録はないが武子、末子に面接を求めて、ホテルに現われ、買物の相手
 などをつとめた公算はあるだろう。
・この少女留学生たちは、5人だったが、渡航のとき満十四歳だった吉益亮子と、同年上
 田悌子はそれぞれ病を得て、1年そこそこで帰国している。十一歳の山川捨松と、八歳
 の永井繁子と、七歳の津田梅子は、繁子が十年、捨松と梅子は十一年を学んでから帰国
 する。年少の者の方が新しい環境への順応性が強かったのである。
・井上家でも十二歳の末子が異国暮らしでもケロリとしているのに対し、二十七歳の武子
 の方はショックが大きく、食欲不振、不眠の果ての憂鬱病を引き起こしたのである。
 「つぎの船で、お先に日本へ帰らしていただきます」と、武子は等々ニューヨークに着
 いて早々であった。「いくらお国のためだとおっしゃっても武子はもうごめんです」と
 彼女は、ヒステリックな泣き声をあげた。
・アメリカは南北戦争が終り、リンカーンが暗殺されてまだ十二年目である。フロンティ
 ア精神にあふれ、商業都市としての活気はすばらしかったが、馨はニューヨークに永く
 とどまる気持ちはなかった。曾遊の地であるイギリス行きが急がれたからである。知人
 もある。が何よりもイギリスの伝統がる女性風俗を武子たちに学ばせる必要があった。
 にもかかわらず一行が二カ月半もアメリカ滞在を行ったのは、実は長閥のトップであっ
 た木戸孝允の渡航を待ち合せようとしたからだった。しかし木戸は来られなくなり、馨
 たちはイギリスに向け手発した。
・ロンドンには明治四年十歳で大蔵省留学生として入国した馨の甥の勝之助がいた。彼は
 兄の子で、すでに両親を失い、この叔父の庇護のもとにあった。のちに勝之助は馨の養
 嗣子となり、末子を妻とし、外交官として活躍する。
・馨はまもなくケンシントン公園に近い日本公使館のそばに家を借りた。家主のハミリー
 が有名な経済学者で、彼から真剣にミルの経済学などの講義を受けている。末子もモリ
 ソン(尾崎行雄夫人の祖父)について英語を習いだした。武子は当時二十一歳の留学生
 の中上川彦次郎に習う。このとき覚えた武子の英語はのちに外務大臣婦人として有力な
 武器となる。もともと頭脳がクリアーで、語学にかぎらず舞踏、ファッション、裁縫か
 ら経済や文学まで、外遊中に武子の得た収穫は大きかった。

大官の妻たち
・「一身にして二生を経たるごとく一人にして両身あるがごとし」というのは、福沢諭吉
 の有名な言葉であるが、徳川幕府が瓦解し、維新の動乱に身をおいた者の実感として重
 みのある言葉である。昨日までお腰元の七、八人も使っていた、歴々の旗本の夫人が、
 棟割りの長屋に夫と二人きりで住み、手ずから洗濯もすれば、米の一升買いもする時代
 だったのだから、市井にはあわれな世話ばなしが、いくらでもころがっていた。
・明治五年には禄も「一時公債」によって打ち切られている。事業をもくろんだ士族たち
 は公債を担保に高利貸から借金し、士族の商法のたとえ通り、とどのつまり事業にも失
 敗して、無一文になるという者たちが多かった。
・函館の五稜郭で官軍に抵抗していた最後の幕臣、榎本武揚大鳥圭介が降服したあと、
 世はまさに「薩長出身以外は人にあらず」の観があった。彼らは一斉に東京住いをはじ
 め、国許では陋屋に暮らしていた身が、維新の功臣とあがめられて、それぞれ大名や旗
 本の屋敷におさまるようになった。彼らのある者は国許から妻を呼びよせたが、なかに
 は国事奔走のゴタゴタ時代に離婚し、なじみの芸者や権妻(第二夫人)を改めて妻に仕
 立てる大官もあった。面白いのは、幕臣の娘を妻にしている者が多いことである。
・維新のあと幕臣はたちまち経済的に行きづまってしまった。十六代様の徳川家達に従っ
 て駿府に移った者、 自分の知行所(領地)に隠栖した者、芋侍たちの跳梁を眺めて憤
 慨しながらも江戸にしがみついている連中など、その身の振り方はさまざまだった。が、
 彼らのうち貯えのある者以外は、衣類はもちろん家屋敷から家財を売り食いし、急場を
 凌ぐためには娘たちを芸者や遊女に売る者さえあった。
・これまで敵であった維新の功臣たちに嫁ぐ幕臣の娘は意外に多かった。黒田精は旗本中
 山勝重の長女で、十五歳で薩藩出身の開拓使次官黒田清隆の妻となった。参議で佐賀藩
 の大隈重信夫人綾子は八百石の旗本三枝七四郎の二女である。井上馨(長州)夫人の武
 子の実家新田家も埼玉に領地をもち、江戸住いであれば、幕府の一員であったとみてよ
 かろう。森有礼の妻も幕臣広瀬秀雄の娘で常といった。
・陸軍卿大山巌の二度目の妻は、第一回女子留学生であった山川捨松だが、彼女は会津藩
 出身で維新戦争のときには城内で弾運びをしたというひとだ。山川家は代々会津松平家
 に仕え、捨松の祖父茂英よりは家老職になり、一千石の大身であった。父は早く亡くな
 り、戊辰戦争の折は兄の浩が官軍を迎え撃つ副総督であった。山川捨松が十一年間のア
 メリか生活を終えて帰ってきたのち、同じ留学生仲間の永井繁子とともにテニスをして
 いるところを、大山に見染められた。ところが山川家では大山の申し出を固辞して受け
 ず、縁談は難航する。戊辰の役で、一番激しい抵抗を官軍にしたのが会津藩であり、大
 山は薩摩砲隊長として会津城を砲撃しているのもこの縁談をむつかしいものにしたよう
 である。
・井上馨の妻武子は十八歳で明治の世を迎えている。彼女ははじめ薩摩藩士の中井弘の妻
 であった。中井弘は、英国公使パークスが京都で襲われたときは、後藤象二郎とともに
 刺客を防ぎ、一人を打ちとり一人を生け捕りにした。この功でのちにビクトリア女王か
 ら後藤とともに金のサーバルを贈られている。中井の洋行は誰よりも早かった。文久三
 年ごろ長崎を発ち、支那、印度を経て、地中海に入り、フランス、イギリスに遊んで世
 界の五分の一を見学し慶応二年に帰国した。単純な勤王志士ではなく、文化に対する目
 を持っていた人物であった。鹿鳴館の名づけ親が彼であった。
・中井はあっちこっちに女があり、国もとでも妻をめとったという話もあるから、武子が
 はたして正式の手続きを踏んだ妻だったのかどうかはわからない。当時のナマズ連(官
 吏のこと)は、国もとに妻があり、東京に権妻を置くというひとが多かったのだ。
・当時の権妻は、妾よりは地位が高く民法で正妻は一等親、権妻は二等親として認められ
 ていたくらいである。このことが廃されたのは明治十六年なのであった。
・大隈の場合も長女熊子が綾子とは十三歳よりちがわないので、綾子がはじめての妻でな
 かったことが想像がつくのだ。維新のころに国事に奔走していた彼らは「女」を道具の
 ように考えて、自分の都合によってもらったり別れたりして平然としていた。
・大隈夫人綾子は、十六、七のころ花魁に売られた。年が若かったので、お客をとったの
 ではないというがどうだろう。八百石の三枝家の娘である綾子が身を沈めたのは、兄が
 彰義隊に入り討死をしたためで、朝敵となった直参には、禄の下付がなかったからであ
 る。
・伊藤博文も国許で一度結婚した。山県有朋と恋仲の人を奪ったのである。これは有朋の
 鼻を明かすためだったから 、まもなくその妻を捨ててしまった。そのあとで下関の芸
 者梅子と結婚している。
・井上馨も前歴がある。同藩の志道家に養子にゆき、芳子という娘もあったが、維新のゴ
 タゴタ時代に、馨がイギリスに行ったり、京で奔走していたりしたのが祟って離縁とな
 っている。国のために働く男だ。女の一人や二人何だという気分がありありとしている。
・地方の下級武士の出身である維新の功臣たちにとって、江戸の水で磨いた女人の肌は、
 まぶしいほどであった。大身の旗本の娘たちが、大方の彼らの理想の女性であり、一人
 がめとると我も我もと後に続く。しょせん勇猛な志士、辣腕の計略家たちも、青春の血
 のたぎる青年たちだったということなのである。
・大隈、井上両夫婦の場合は、一応成功の結婚であった。これは綾子、武子の女性として
 の教養の深さと篤実な性格が幸いしている。
・一方明らかに不幸な例もある。黒田清は、身体が弱く、明治七、八年ごろから病床に親
 しむことが多かった。生んだ二人の子どもも夭折している。明治十一年三月のことであ
 る。黒田清隆の家を訪ねると、家のなかがざわめいている。去りやれず玄関にたたずん
 でいると、主人の清隆が血刀をさげて現われ「いま、妻を殺した」と興奮した調子で告
 げたのでびっくりしたという。清隆は酒乱だった。清との仲はもともとしっくりいって
 いなかった上に、彼女が不貞を働いたと思い込んで、いいわけする妻を責め、追い回し
 て殺してしまった。この事件は隠密にされ、病死ということでごまかされたが、世間の
 口には戸が立てられない。黒田は辞表を提出したが、大久保利通が解決に乗り出す。大
 久保の命を受けて大警視の川路利良が、清の墓をひらいて調べ、他殺に非ずと断定する。
 大久保、黒田、川路らはみな薩藩出身者なのである。西南戦争で西郷隆盛という巨星を
 失ってしまった薩摩が、ここで黒田を失ってしまったら、長州閥と対抗できなくなるの
 を案じての、もみけしであったろう。
・しかし皮肉なことに、事件後三月も経たないうちに、大久保利通は刺客島田一郎らに襲
 われて、赤坂紀尾井坂で殺される。その斬奸状には、この黒田事件のこともあげられて
 いた。
・思えば維新後まだ十年のときである。むりやり黒田のもとへ嫁がされた清は、年は若く
 とも、旗本の娘としての矜持は高かった。のみならず低い身分の出身で、文化的教養の
 ない清隆を心の中で軽蔑していたにちがいない。それが日常の夫婦生活を暗くさせてい
 たはずである。

森阿常
・森有礼夫人となった常は、安政二年(1855)七月の生まれで井上武子や大隈綾子よ
 り五歳若い。常の父は広瀬秀雄といい、おそらく幕臣であったと思える。常が武子、綾
 子と違うところは、少女のうちに新時代の教育を受けることができたことである。芝山
 内にあった開拓使女学校で学んだのだ。
・開拓使などといっても、現代ではこれに当たる適当な官名が思い当たらないが、要する
 に北海道を開拓するため札幌におかれた政府機関で、これに力をそそいだのがはじめは
 次官、のちに長官になった黒田清隆である。
・また開拓使では、もと堀田家の下屋敷などのあった青山から広尾へかけて一帯の土地を、
 農場や牧場にしていた。青山学院が現在ある場所を一番地、広尾の日本赤十字の下を三
 番地と当時称していたがこの一番地と三番地の間に馬車道がひらかれていて、ここを外
 人の男女などが手を組んで歩み、ときには接吻している姿さえあり、エキゾティックな
 雰囲気が漂っていた。
・開拓使のすべてを指導したのはお雇い外国人である。アメリカ人ホラシ・ケプロンで、
 彼はアメリカの農学局の長官をつとめた経験を買われ顧問となって来日している。
 女学校が設けられたのは明治五年九月である。十二歳から十六歳までの女生徒五十人が
 入学した。卒業したあとは男子部の出身者に嫁ぎ、北海道に永住して開拓に従うのが条
 件だった。
・このころ築地A六番女学校、横浜のフェリス女学校などがすでにあったが、これらは宣
 教師によるミッションスクールであり、キリスト教を異教とまだ考えていた一般人には、
 縁のないところであった。従って神田竹橋にあった官立英語女学校と、この開拓使女学
 校は勉強好きな少女にとって、希望の門であったにちがいない。
・開拓使女学校では、英語と算術、漢学などがみっちり授けられ、裁縫もオランダ人教師
 から洋服の裁断と縫い方まで教えられるので、その入学は開化思想の父を持つ娘にかぎ
 られていたはずである。
・森有礼は鹿児島城下に、薩摩藩士森有恕の五男として生まれる。十二歳で藩校「造士館
 に入り、十四歳からは上野景範について英学の手ほどきも受けている。このことが慶応
 元年の藩命による英国密行につながるのである。イギリスではロンドン大学の教授に、
 歴史、物理、化学、数学などを学んだ。
・そうした森有礼にも青春時代のミスがあったことが伝えられている。常と婚約する以前
 に、古市静子という女性と有礼は結婚する約束をしていた。静子については詳細な記録
 はないが、森が常と結婚したあと、捨てられた静子に同情した友人の荻野吟子が森に談
 じこみ、慰謝料として静子が女子師範(現お茶の水女子大学)の保育科を卒業するまで
 の学費を援助させることを誓わせたという。吟子はのちに日本の女医第一号となった女
 性である。
・日本女性の洋装はいったい誰がはじめなのだろうか。例の山川捨松、津田梅子らが洋装
 になったのは留学に出発したのち、シカゴの血であったことがはっきりしている。明治
 六年にはアメリカから、須賀斐子夫人が洋装で帰朝した。また国内での早い記録は明治
 五年、東京の坂本町の雛妓で十四歳になる少女が、支那風の髪に、洋服を着用し、月琴
 をたずさえて酒席に出てもてはやされた。しかし何といっても横浜や長崎ではラシャメ
 ンたちが、自己流のドレスを身につけていたはずで、彼女たちこそ日本最初の洋装女性
 であろう。
・開拓使女学校で、女の身で英語と漢学の勉強をし、洋装で男女同権の結婚式を挙げた常
 の家庭生活も、やはり夫婦中心の西欧的なものではなかったらしい。薩摩の国ぶりはお
 よそ男尊女卑を守っている。常も結婚式がすめば、あとは平均的な明治の妻となり、家
 庭の奥に引きこもっていたにすぎなかった。
・常が外交官夫人としてデビューするのは、明治十年七月である。一時清国から帰国して
 いた有礼が、外務卿寺島宗則の不在中代理を命ぜられて、各国公使饗応の宴を行ったと
 きである。イギリス公使夫妻、アメリカ公使と令嬢、その他ロシア、仏・伊・独公使と
 それぞれの夫人たちを、常が夫をたすけてホステスの役を果たしたのである。二十一歳
 の常には、なかなかの重任であった。
・森有礼の資質のなかで、最も優れていたのはその先見性であろう。五十年後の日本が、
 すでに彼の頭脳にはコンピューターの回路図のようにとらえられていた。外交、教育、
 軍事、結婚、財政など百般のことが、彼一流の構想で整然と理解されている。その上彼
 は自身にもきびしく、汚職や女遊びが常識の大官連中のなかで、ひとり品行方正と質素
 な日常とで、高く身を持していた。
 
御狂言師
ジョサイア・コンドルは井上一家の帰朝より早く、明治十年一月にいわゆるお雇い外国
 人として、日本にやってきた。向上心に燃える若い日本の建築界における指導者となる
 ために。具体的な任務としては創設されて間もない工部大学校の造家学科の教師となっ
 て、近代建築の理論と実技を授けること、もう一つは建築家として新しい日本の、宮城
 や諸官衙を造営することなどであった。
・明治十年は官傭の外国人は次第に数を減らしている時期であった。必要なくなったので
 はなく、高給を食む外国人を雇うことが、財政上難かしくなったためと、初期渡来の外
 国人のなかには、昨日まで水兵だったり、ならず者だったりした人旗組がまじっていて、
 心ある日本人の眉をひそめさせることが多かったためもあった。
・そんななかでコンドルの来朝は、工部大学校造家学科の前身工学寮工学校の学生たちに
 とっては、ひでりに水を求めるようなさしせまった要求を充たすものとして、歓声をも
 って迎えられた。
・これまで教えていたのは、イタリア人のカッペレッティ、フランス人のド・ボアンビル
 などであったが、彼らはそれぞれの豊かな才能にものをいわせて、西洋大建築を建てて
 みせたものの、いざ講義となると、建築専門家でなかったために、実技だけでお茶を濁
 し、学生たちの知識欲を完全に満足させることができなかったのである。
・コンドルはロンドンで1852年に生まれている。父は銀行家だったが、コンドルの十
 三歳のとき急逝し、少年コンドルは奨学金に助けられて商業学校を卒業する。「父のあ
 とをつぎ銀行家に」というのが母や親戚の望みだった。が、コンドルは父の道を歩まな
 かった。建築家を志して叔父のトーマス・ロジャー・スミスの事務所に見習生となって、
 設計、現場監督、仕様書作成などのあらゆる建築実務を勉強する。彼はこの勤めのかた
 わら、サウス・ケンシントン美術学校やロンドン大学で学んだ。こうしたコンドルの経
 歴からは、貧しいが向上心に燃えた誠実な人間像がうかび上がるだろう。学位はないが、
 それ以上の実力を身につけた努力型の青年である。そしてその実力を認められる日がき
 た。1876年にソーン賞という王位建築家協会主催の競技設計に一等入選したのであ
 る。
・コンドルが、なぜ日本の教師を志したかといえば、かなり高額な収入と、地位の他に、
 日本美術への関心があったからである。コンドルが、師と仰いだバージャスが浮世絵の
 収集家であったこともあるが、当時は日本の絵や工芸品に対する評価が、知識人や芸術
 家たちの間に、密かに燃えだしていた時期だった。
・日本へきたお雇い外国人は破産、失恋、失職などマイナス状態の者が多かった。コンド
 ルの場合は失恋も見当たらない。来日した彼は工部大学校で主任教授として講義をはじ
 めた他、国家の要請によるさまざまの設計に専念した。また明治十二年に辰野金吾ら四
 人を無事卒業させたコンドルは、イギリス留学を命じられた辰野を、恩師バージェスの
 もとに送り込んだ。
・実はコンドルはこのときすでに新橋の芸者との間に、はるという娘を明治十三年にもう
 けている。はるは里子に出され、女とは別れた。コンドルにつって後味のよい女ではな
 かったらしい。そして失恋のコンドルの前にくめが現われたのである。くめのつつまし
 さやあたたかさが、コンドルをやすがらせ、いつかくめのとりこになってしまった。
・当時妾という身分についてはまだ余り罪の意識のないところではあったが、いったんラ
 シャメンとなると、全く違った感じ方で一般にとらえられていた。素人の娘がラシャメ
 ンになるときは、幕末ではどこかの女郎屋の抱えの体裁をとらなければならなかった。
 ということは人別を抜いて、一家から籍を失うことを意味する。何かにつけてラシャメ
 ンは村八分的な扱いを受ける場合が多かったのだ。芸で生きていたご狂言師のくめにと
 って、外人の妾と呼ばれることは心外であったにちがいない。妾でない証拠に、くめは
 里子に出されたまま行方の知れなかったはるを探し出して引き取っている。はるは足柄
 山のふもとに養われていて、余り大切にされてはいなかった。彼女を引き取ると、くめ
 は早速踊りを仕込んでいる。
・くめと語るときは日本語、客とは日本人でも英語のコンドルであった。コンドル家では、
 日本と西洋が劃然と同じ分量だけ存在していた。日本の衣裳や、生け花や、庭へ、コン
 ドルはすばらし理解を示し解説の書を刊行しているのも、自分のなかの日本を大切にす
 る気持ちがコンドルに強かったからである。それは妻のくめによって与えられた心の平
 和によって支えられている部分が多かった。
・このくめ・コンドルにせよ、また花・ベルツにせよ、庶民のあまり上等でない家庭の出
 身である。それぞれお雇い外国人の夫が、発展期の日本の文化に貢献していたために、
 高い地位と財力を得、正妻である彼女たちは、貴婦人の仲間入りをしたのであった。

貴婦人夜会図
・井上馨一家はロンドンを引きあげ、明治十一年七月に横浜に到着した。馨の表情は明る
 かった。洋服と、西洋マナーをすっかりマスターした美しい妻と娘を両脇に従え、彼の
 政界遊泳のための準備がすっかり整ったからである。
・まもなく馨は、参議、工部卿に任ぜられるが、これには明治天皇に近侍する侍補の連中
 が大反対であった。「もし大久保利通君が生きていたら、よもや井上の登用を許しはす
 まい」と彼らはいきまいた。ところが密かに右大臣の岩倉具視にこのことを述べると、
 「いや、大久保も承知である。彼の在世中に決定していたのだ」と否定した。事実は岩
 倉の言葉通りで、綿密な大久保の頭脳の中では、日本百年の計のために、敵味方を問わ
 ず利用すべき人材、切り捨てるべき人間が微妙に錯綜していて、側面からはうかがうこ
 とのできない複雑な人事構想を生み出していたのだ。彼こそ冷徹な日本官僚型人間の元
 祖なのである。
・井上が侍補たちに嫌われたのは、彼が大蔵大輔時代に「尾去沢事件」などで汚職の疑い
 を受けたことや、野に下り先収会社などを経営して商業に携ったことが心証を悪くして
 いることもある。が、それよりも井上の文系開化ぶりが保守的な彼らに根深い反感を抱
 かれていたためであった。
・井上が帰国したころ外務卿は寺島宗則であったが、このころから次第に外国貴賓の来朝
 することが多くなった。貴賓の来朝は日本が文明国であることを、世界に認識させるた
 めの好いチャンスだと政府は考えて彼らを大歓迎した。明治十二年にはイギリスの議員
 リード、ドイツのハインリッヒ皇孫殿下、香港知事ヘンネッシー夫妻、アメリカ前大統
 領グラント将軍、イタリア皇族ジュク・ド・ゼエンが矢継ぎ早に来朝するというにぎに
 ぎしさであった。
・ところが彼らを宿泊させる洋風建築の迎賓館が東京にない。仕方がないのでリードに対
 しては川村海軍卿の邸を借りた。ヘンネッシーは井上工部卿の官邸を宿舎にあてた。グ
 ラント将軍とハインリッヒ殿下の場合は「延遼館」が宿舎となった延遼館は浜離宮正門
 内の芝生の一画にある建物で、幕府時代海軍兵学校に使用として建てた粗末な洋館であ
 った。基礎もゆるみ、大分傷んでもいるのを応急修理して、国賓の宿舎に当てるのだか
 ら、政府も実に苦しかった。
・明治十二年七月グラント将軍歓迎の大夜会は、内外朝野の名士二千名を集めて行われた。
 場所は工部大学校講堂である。食事は精養軒の最高メニューが用意されていた。そもそ
 も東京における西洋料理店の元祖は神田橋にあった三河屋で明治二、三年といわれてい
 る。精養軒はそれより後れて明治六年に開業した。上野公園に支店を出したのは明治九
 年である。
・この前大統領グラントの夜会こそ、日本で高官夫人たちが一斉に社交界にデビューした
 はじめなのである。旧幕時代の日本の社会では、天皇家、将軍家、大名、旗本から陪臣
 に至るまで、夫人が夫とともに、公式の客たちにまみえて応接したり、ましてどこかへ
 訪問したりということは全くと言ってよいほどなかった。まさに夜会出席は女性たちの
 革命にひとしい。
・彼女たちのうち吉田清成アメリカ公使夫人貞子、井上武子、井上末子、森つね、鍋島菜
 栄子(直大夫人)などが洋装だった。彼女たちは全員外国経験者である。なかでも武子
 の服装は群を抜いている。
・一方太政大臣三条実美夫人の治子と、参議大蔵卿大隈重信夫人の綾子は、宮廷服である
 袿袴姿で、緋袴にあでやかな唐織の袿を着ていた。
・その他の女性たちは大方、紋つき裾模様の二枚襲ねを着用している。
・女性軍のいつにない大量出席に、夜会はいっそう盛り上がった。しかし何といっても、
 花形は洋装夫人連であり、来会者の視線は、ともすれば彼女たちの上に集まりがちであ
 った。
・グラント将軍が帰国した一週間後に井上は外務卿に任ぜられた。これは寺島宗則が失敗
 したためである。維新以来懸案の条約改定問題の第二幕が、期待外れの拙技で、またし
 ても演技半ばで幕を引いた。何しろ世界の情勢はわからず、国際条約の何たるかも知ら
 ずに幕府が結んだ安政条約は、関税自主権の欠如、治外法権問題ははじめ、あらゆる点
 で日本に不利であった。
・条約改定は日本を列強と対等な国に高める富国の第一歩と考えられながら、交渉はいつ
 も停頓し、ついに井上馨外務卿の手にすべてを委ねられることになった。このことは同
 時に、武子の本格的な外交界へのデビューとなった。今こそ満二年の外国修業の成果を
 問うときである。おそらくこのときの日本で、二十九歳の武子をおいて、外務大臣夫人
 としての地位にふさわしい女性は、他にいなかったであろう。大輪の白ダリヤを思わせ
 る彼女は、上品なうちに豊艶なものを秘め、外務使臣たちにも人気があった。
・工部大学校講堂は二年前に工部省のお雇い技師であった、フランス人のボアンビルが設
 計し、当時としては大金をかけて竣工させたものであった。外側こそバロック風の堂々
 とした建物であるが、本来学校の講堂なのだから、設備や内装などはパーティ用にはで
 きていない。外務卿のレセプションに使用するのは苦しまぎれの策であった。
・「どうしても外国人接待の宴会場と、宿泊設備が必要だ」と井上馨はいよいよ考えこん
 だ。しかし彼も全く多事多端な男であった。このころまたもや黒い霧がその身辺を包み、
 危く失脚の憂目に会うところであった。それは青年戦争の終わったことから、二円紙幣
 の贋物があちこちに現われ、造幣局が気がついたときは、日本全国にたいへんな数で、
 これが出廻っていることがわかった。そのうち大阪の藤田組が怪しいという密告があり、
 藤田組の本支店が家宅捜索を受け、藤田伝三郎が逮捕されて東京に護送された。そもそ
 も藤田は井上馨の庇護のもとに政商として出発した男で、在野時代の馨が経営した先収
 会社大阪支店の事業をひきついでいる。この事件はまたもや政治問題となって政府を悩
 ますことになった。結局熊坂長庵という真犯人が逮捕され藤田は釈放となる。
 
コンドルの悩み
・コンドルが一番案じていたのは、外人接待所の建設現場となる内山下町一丁目(現帝国
 ホテル隣り)の地盤の悪さであった。この辺りから銀座一帯は中世の地図をみると、海
 であった。来日以来度々地震を経験したコンドルは、この国の建築で一番留意しなけれ
 ばならないのは基礎だとしている。
・いかにして日比谷の地盤の悪さを克服するかで、コンドルは何夜も苦悩した。地震の多
 い国土の煉瓦の家を建てる工法を、誰ひとりとして決め手を持てなかった時代である。
・コンドルは、自分の設計施工をする建築の助手に、自分の教え子を順次登用するが、鹿
 鳴館には五期生の滝大吉を起用している。大吉は大分県日出町の出身で、父を幼いとき
 失い叔父に養われた。滝家は木下藩の家老の家柄だったという。その甥が洋楽器による
 日本独自のメロディーを最初に生んだといえる「滝廉太郎」なのである。
・コンドルの作品のなかでいまも現存するものがあり、そのうち東京西ヶ原の古河邸、高
 輪の開東閣などを見た。どちらもコンドルの後期の作品で、彼得意の住宅建築であるた
 め、 まとまりもよく、明治西洋建築の滋味をしみじみと感じさせられた。
・しかし、内山下町一丁目の外国人接待所は、同じコンドルの作品であっても、残念なが
 らそうしたものにはならなかった。それはときの権力が、コンドルの設計をまげ、干渉
 を繰り返したからに他ならない。外人接待所はやがて鹿鳴館と名づけられるが、その設
 計図は、記録によるとコンドルから華族会館に寄贈されたことになっている。その設計
 図はいま行方不明である。現在伝えられているのは、そののちに作図されたもので、華
 族会館時代のものである。
・鹿鳴館の正門はかつての装束屋敷時代の黒門がそのまま採用されている。この黒門の海
 鼠壁は、洋建築となかなかよくマッチした。ところが明治三十一年十二月に、日比谷側
 に黒門が移築されたため、鹿鳴館の正門として当初使われたことを知らずに、長い時が
 すぎた。

鹿鳴館開く
・鹿鳴館の夜会は、明治十六年(1883)十一月に行われることになった。その夜の招
 待状は、外務卿井上馨と、夫人の武子の連名で、千二百名に発せられていた。むろん招
 待も夫婦単位である。招待者は皇族、大臣、外国公使をはじめ各官庁の要人とお雇い外
 国人、新聞記者、外務卿の親しい紳士及び知人と令嬢たちである。なお、当夜は午前一
 時に新橋から横浜に特別の臨時列車が仕立てられ、居留地の外人招待客の帰宅に便をは
 かった。また会場警備の巡査が三十名手配され、彼らは来る紋の一室を詰所として待機
 する。さらに、音楽担当の楽手は陸海軍軍楽隊が夜会、宮内省楽人が宴会を担当する。
・この日を境に、いわゆる鹿鳴館時代が現出するわけであるが、開館式の夜は、舞踏に参
 加する日本女性がごく少なかった。留学生生活を送り帰国して間もない山川捨松、津田
 梅子、永井繁子の三人の女性たち、ことに捨松は大山巌と、この二十日前に結婚し、陸
 軍卿夫人としてはじめての夜会参加である。また津田梅子は伊藤博文家の家庭教師に望
 まれて、このころは伊藤家に寄宿していた。また井上武子と末子、この義理の親子も客
 との応接の間を縫って、何曲か踊った。その他、イタリアから帰国して間もない鍋島直
 大夫人栄子、ロシアの特命全権公使だった柳原前光夫人初子、外務大輔吉田清成夫人
 貞子などが踊れたはずである。西洋のマナーでは、夜会で夫と踊ることは禁じられてい
 る。
・しかしその他の大官夫人伊藤梅子(博文夫人)、西郷清子、佐々木貞子(高行夫人)、
 三条治子など大方の貴婦人たちは、見物人なのであった。
・また彼女たち女性陣の服装であるが、正式の夜会服を着装していたのは、やはりそれほ
 ど多くはなく、大方は三枚襲ねの白衿五つ紋の裾模様姿だった。宮中の女官たちはこれ
 は袿袴姿(宮中女官の正装)で出席した。
・この日の来会者の実数は五、六百人で、実は招待状をもらっても、着るものに当惑して、
 出席を控えた夫人方が多かったので、ために男性たちはパートナー不足であった。
・京洛で美人の膝を枕に低吟する遊びは多少志士時代に心得があったものの、洋式のパー
 ティとなると、手も足も出なくなる夫を扶けて、夫人たちの苦労もたいへんだった。そ
 こで顕官たちはついにプロ(芸者)を夫人に登用することになったのかもしれない。
・そのなかで金的を射とめたのは、陸軍卿、中将大山巌であった。再婚した妻捨松は長身
 ですらりとした洋装のよく似あう姿を持ち、美貌で、アメリカで高等教育を受け、日本
 語より英語が得意な女性なのだから、鹿鳴館時代に、これ以上の夫人はいないわけであ
 る。大山は最初同藩の吉井友実の娘沢子と結婚し、三人の娘までありながら前年の夏先
 立たれていた。
・捨松は沢子と同年で二十三歳である。彼女は明治四年岩倉具視一行の欧米視察団とアメ
 リカ号に同船して航海したときのことを忘れない。「小言を聞くのは岩倉の小父さま、
 病気のときに親切だったのは大久保利通さん、遊びに行って面白かったのは伊藤博文さ
 ん」であった。はじめはワシントン市内コネチカットで同行の少女たち五人と住み、英
 語を覚えることからはじめた。英語教師を雇い、万端の世話をしてくれたのは、小弁務
 使としてワシントンに在任中の森有礼であった。
・このとき同行した少女たちは、幕臣の娘か、それに近い立場の藩に所属する父を持つ人
 たちであったのも、当時敗者陣営が必死に浮上をねらっていた現われである。捨松が一
 行に加わったのは、会津出である一家が貧しく、口べらしのためもあったといわれてい
 る。
・やがて、吉益亮子と上田悌子が病気のために帰国し、残る三人は別々に、アメリカ人の
 家庭に預けられることになった。捨松はニュー・ヘブン市のレナード・ベーコン博士(
 宣教師)のもとに寄宿し、ニュー・ヘブン・ハイスクールを出て東部の名門校ヴァッサ
 ー・カレッジに進学する。ここを優秀な成績で卒業してから彼女はニュー・ヘブン病院
 で看護婦コースを二カ月学び、津田梅子とともに帰国したのである。日本ではすばらし
 い新知識の女流として、彼女たちは外人なみに、あちこちの政府主催のパーティにぴっ
 ぱりだことなる。もしこれが男性だったら、就職口はいくらでもあっただろうが、捨松、
 梅子には声がかからない。アメリカ時代から捨松の力は群を抜いていて、いずれ日本に
 おける教育界の大立者という予想が、ささやかれていた。にもかかわらず・・・である。
 結局、捨松が大山巌の求婚に応じたのは、自分の職業人としての未来に、希望を失った
 からであった。
・この時期、森常の名が鹿鳴館関係の招待者のなかに見えないのは、夫有礼に従い清、英
 の二児とともに、イギリスのロンドンに駐在していたためである。ケンシントン公園の
 近くにあったその公邸はりっぱで、彼女は公使夫人として威厳を保つ暮らしを日々行っ
 ていた。もと幕臣の娘は家庭教師と家政婦、ふたりのイギリス女性に傅かれている。彼
 女は維新のシンデレラ姫であった。
・常はこのロンドンで、英語が大分上達し、また洋服の着こなしもいよいよ板についたの
 で、道を歩いていても、フランス人と間違えられるほどであった。このころ八歳の清、
 五歳の次男英は、どちらも日本語はしゃべれず、英語ばかりであった。彼女にとってひ
 どく憂うつだったのは、家庭教師のミス・スミスと気があわなかったことである。彼女
 は老嬢特有の気むずかしやで、プライドが高く、大英帝国の名にかけて、この後進国の
 公使夫人を頭ごなしに指図するので、閉口だった。
・常のイギリス滞在は二十五歳から二十九歳まで、女ざかり、勉強ざかりの時期である。
 画廊や展覧会や旧蹟の見物にせっせと歩いている。
・常の父、幕臣広瀬秀雄は武士としては比較的洒脱で、気楽な人物であったようだ。維新
 になってから幕臣の  三分の一が、生活のために巡査や下級官吏としてつとめるが、
 秀雄はつとめた気配はない。常が森家から嫁いでからはその支配人のような役を引き受
 け、家の売買や有礼の老父母の相談役などをしていた。秀雄は酒のみで、いつの赤い顔
 をして、団欒の席に現われる。都会人らしい享楽派であった。
・ロンドン外交団のなかで、常の占めた地位は決して小さくはなかった。ロンドンに赴任
 した早々の明治十三年二月にビクトリア女王に森が謁見したとき、常も同行している。
 常は第一級の場で、最高級の服装を身に着け、作法通りの進退を行い、日本の女性とし
 て何人も経験しないことを知った。このままいけば万事好調であった。
・森夫婦は明治十七年三月、横浜に到着する。ロンドンから新帰朝の森常は、社交界に早
 速迎えられ、鹿鳴館で行われた我が国最初の慈善バザーの副会頭のひとりに推されてい
 る。この慈善バザーは鹿鳴館の景気づけのつもりもあり、収益金を「有志共立東京病院」
 へ寄附する目的で行われた。これに関係するのは妃殿下以下全員高官夫人たちで、これ
 も欧米の貴婦人たちの生活ぶりを真似た、文明開化趣味の現われである。その推進力は、
 看護婦コースを学んだ大山夫人の捨松でもあったろうか。

踏舞練習会
・「男女七歳にして席を同じゅうせず」という言葉は、封建時代から続く世間一般の厳し
 い戒律であった。まして男と腕を組み、相擁して踊るなどということは、明治十六年の
 女性たちにとって、驚天動地のことだったであろう。しかも外国の男性たちの体臭は
 強いので、踊れば自分を失いそうな不安を、彼女たちは覚えるのであった。
・鹿鳴館開館の日に、貴婦人たちが踊らずにいた心境は、そうしたところにあり、外国育
 ちの留学三女性以外は 「これがお国のためになれば」と目をつむって、踊りの群れに
 入ろうとして、入れなかったというのが実状である。
・しかし、日本に西欧と同じ社交界を現出させるのが目的なので、それでは困るのである。
 女だけでなく男もこの開館の日、舞踏室で軍楽隊の音楽にあわせて踊ったのはほとんど
 が外人であり、もとイタリア公使の鍋島直大、前田利嗣などが列に加わったにすぎなか
 った。馨も博文も見物組で「ダンスの教習を受けなければならん」とふたりは同時に考
 えた。このことが具体化したのは翌明治十七年で、鍋島直大が幹事長になって、毎月曜
 日に練習会が開けれるようになった。
・さてこの舞踏練習会に高官夫人や令嬢たちが加入するのも、そう簡単に事が運んだので
 はなかった。尻ごみする人たちを説得したのは、伊藤博文夫人の梅子だった。梅子の鹿
 鳴館時代の写真をながめると、ソレ者上りという前身を感じさせないほど気品のある気
 性者に見える。彼女は聡明で博文の片腕として、いつも女性でなければできない問題を
 処理して夫の高等政治を助けている。
・舞踏会は毎週実行され、大山捨松も女軍を教授する。彼女の踊り方はアメリカ風でいく
 らか簡単であった。 
・「東京舞踏会」の七十名の会員たちも、未婚の男性と女性の間に、幾組かのカップルが
 生まれただろう。いや若いひとたちだけではなく、男ざかり女ざかりの大官や大官夫人
 たちの間にも、熱に浮かされたようなよろめき心理が舞踏をいつも彩っていたはずであ
 る。明治も十八年となると、戊辰戦争前後の疲れもいえ、働きづめだった我が身をふと
 いたわるようなゆとりが、彼らの心にゆらめいたようである。

名花たち
・明治十八年の天長節は、ピエール・ロチの参加した夜会である。ロチ海軍大尉は、この
 とき練習船の艦長で、二日前に横浜に錨をおろしたばかりであった。
・賞勲局総裁柳原前光夫人の初子があちら仕込みの美しい舞踏を披露していると、見物の
 女客のなかから、さざなみのように小さな声がわき上がった。柳原初子がびっくりして、
 舞踏の輪を抜けてくると、鍋島栄子や伊藤梅子などが、案じ顔に寄ってくる。初子はハ
 ッとした。実は初子は先日次女を生んだと披露している。そのことを忘れて夜会に出席
 したのだ。栄子や梅子たちは、産後の初子のからだを心配しているのである。彼女は談
 うじ話室に退き、二度と舞踏室へ現われなかった。
・このとき生まれた娘が、のちの白蓮ことY子である。Y子はのちに筑紫の炭鉱主の妻と
 なり、獄舎のなかにいるような辛い生活を、情熱的にうたう歌人となった。そのうち若
 い革命家の宮崎龍介とかけおちして、世間を驚かせる。このY子は初子の実の子ではな
 い。前光がお良という妾に生ませた子だった。しかし初子は実子として届出る決心で、
 そのため周囲にも自分が産褥にいたように思わせていたのをうっかり忘れて踊ってしま
 ったのである。
・初子はこのとき三十一歳、もと宇和島藩主で名君の聞こえの高かった伊達宗城の娘であ
 る。スラリとした姿の美しい女性で、明治十三年から三年間特命全権公使の夫に従いロ
 シアに駐在した。皇帝アレクサンドル二世が爆弾を投ぜられたとき、初子も夫とともに
 馬車の列に加わっていた。皇帝の血が雪道にいっぱい飛び散っているのを初子は目撃し
 ている。
・Y子の実母のお良は、遣米使節をつとめたこともある大身の旗本新見豊前守正興の妾腹
 の娘であった。維新後正興は失意のうちに逝き、そのためお良とその姉は柳橋の芸者に
 なっていた。しかしこのとき前光にはお良の他に梅という第二夫人がいて、柳原家に同
 居し、わがもの顔に振舞うのを初子はがまんしなければならなかった。
・いったい鹿鳴館の開化とは何だろう。ダンスを踊り、洋装をし、ワインを飲み、肉を食
 べ、英語を離して外人と談笑するだけのことではないか。実は初子のように、夫の浮気
 や妻妾同居をじっと耐え、むりに笑顔を作ってダンスを踊るのが、鹿鳴館時代の女の姿
 なのである。
・この夜舞踏室への大階段を軽やかな足どりで登ってくる貴婦人たちのなかで、かぎりな
 い優雅な身ごなしで異国人たちの郷愁を誘っていたのは、式部長官鍋島直大夫人の栄子
 であった。洋装が身についてうるのも当然で、彼女は駐伊特命全権公使であった夫に従
 いローマ生活をしたからである。直大の前夫人は胤子で、彼女が亡くなったあと、直大
 のやもめ暮らしを気の毒がった友人たちが、皇后に奏請して、栄子を周旋したという。
 栄子は公家の広橋家の出であった。
・栄子の左薬指に輝いているのは、イタリア皇后が彼女を寵愛し、自分の指から外して与
 えたリングであった。ローマで栄子は娘を得て伊都子と名づけるが、のちの梨本宮守正
 王妃
である。 
・しかし栄子さえ夫の妾と同居する悩みがあった。旧大名や公家に嫁いだ者は、このこと
 は逃れられない宿命とみえる。何百年もつづいた因習を、排除する姿勢はなかった。
・なみいる夫人たちのなかでもっとも「うら若い」姿は、前田利嗣夫人の朗子であった。
 彼女は鍋島直大と胤子の長女で、幼年時代に両親を海外におくり、やっと母が帰国した
 と思ったら、病気で失ってしまった。
・おっとりした朗子に比べて、才気縦横、英語、フランス語に堪能で、「口も八丁、手も
 八丁」といわれていたのが、井上末子だった。彼女は朗子よりは六歳年上で、二十一歳
 になる。なにしろこの夜の主人役である馨の養女だから、外交団のひとびとの接待は、
 末子が軸である。イギリス公使やフランス公使と対等に冗談を言える女性は、彼女をお
 いてはいなかった。末子は二年前に勝之助と結婚していた。勝之助は馨の甥である。結
 婚前は皇后のもとに伺候し、外国人の謁見の折の通訳をつとめたり、典侍たちに語学を
 教えたりした末子である。彼女が二頭立て馬車におさまり、鹿鳴館スタイルで街を往く
 姿は絵にかいたように美しく「天女が舞いおりたようだ」と世間がうわさした。
・一方、ダンスがうまく、公使館の書記官や、駐在武官の若い士官たちの相手をひきうけ、
 踊りまくっていたのが、十八歳の伊藤生子である。首相の博文と梅子の長女で、彼女は
 明治二十五年に行われた婦人人気投票で、舞踏家の部で第二位にランクされたくらいで
 ある。
・生子の母の梅子は三十七歳。彼女はあんまりダンスは好きではない。しかし夫がダンス
 政策推進者なのだから、夜会から逃げ出すわけにはいかない。梅子は七人子を生み、つ
 ぎつぎと夭折させ、生子ひとり残った。彼女は生子だけには目がなかった。しかし家庭
 には他に夫の浮気先で生まれた男の子や女の子がいて、梅子は母親としてのつとめを果
 たさなければならない。
・梅子が気がかりなのが、生子の婿さがしである。外国紳士にも見劣りせず、学問があっ
 て将来のあるよい殿御はいないものかと、彼女は男たちを眺める。そんなこととは露知
 らず、男たちは首相夫人の熱い視線に、勘違いしてソワソワしたりするのだ。こうして
 彼女の眼鏡にかなったのが末松謙澄であった。
・「なかなかの美形」と紳士連にうわさされたのは三十一歳とは見えない若づくりの下田
 歌子
だった。新設の華族女学校の学監である。歌子は岐阜松平藩士の平尾家に生まれ、
 本名は鉐といった。歌才が認められ、歌好きの天皇皇后に寵愛され、歌子の名を賜って
 いる。その後一度は結婚したが、病身の夫に死なれ、華族女学校の設立に参与したもの
 であった。
・歌子は美貌であった。のちに伊藤博文や穏田の行者の飯野吉三郎などとスキャンダルを
 謳われ淫婦などと呼ばれるが、鹿鳴館時代の彼女は、朝野が嘱望していた女子教育家で
 あった。そんな彼女がのちにイギリスでビクトリア女王に謁見のときは、おすべらかし
 に袿袴姿で参上している。森常などがデコルテに大枚を投じて苦労していることを思う
 と、歌子の決断には驚かされる。
・単に美しい人というだけなら、明治社交界にはいくらもいただろうが、鹿鳴館の名花の
 条件は、洋装が似合い、英語とダンスが巧くて、外人たちと物おじせず交ることができ
 なくてはならない。戸田極子戸田氏共夫人)や佐々木繁子(高行令嬢)などもいい線
 にあったといえるだろうが、パーフェクトに条件を満たしていたのは、いわずと知れた
 大山捨松である。長女久子を産んだ二十五歳の捨松はしっとりとした女らしさを増して
 いた。
・当時の捨松のからだのなかには、十一年間のアメリカの教育と風習が滲み透っていて、
 男女同権、婦人優先、女性の自立が当然のものとして感覚されている。「開き直った」
 というのがこのころの捨松の心境かも知れない。朝敵だの藩だのにこだわっている世間
 がわずらわしく、思い切ってそれらを吹きとばすように、明るく振舞っている。そして
 人々から、拍手と批判を同じくらい捨松は浴びていた。
・津田梅子、瓜生繁子などの留学仲間も、その夜の鹿鳴館出席者に加えられていたが、彼
 女たちは外人なみに扱われ、いつも大きな夜会には招待されることになっていたのだ。
 三人集まると、楽しかったアメリカ時代を思い出して、回顧にときを忘れる。
・彼女たちのなかで家庭と仕事を両立させたのは瓜生繁子である。繁子はのちに海軍大将
 となる外吉の夫人となっていたが、ピアニストとしても世に立つことができた。音楽取
 調所の助教を出発に、やがて東京女子師範学校兼音楽学校教授として重きをなす。繁子
 は二十年余りも音楽界につくすが、そのかたわら七人の子を生み、育てているのだから
 立派である。
・井上馨の夫人である武子は新田家のお姫様のはずだが、維新の動乱の折には芸者だった
 ことが、なかったとは言い切れない。武子が芸者上りであろうと、なかろうと、彼女が
 この時代に果たした役割に、微塵の関係はない。彼女は船酔いに悩まされながら、ボロ
 船でヨーロッパにわたり、女中も雇わず末子の面倒をみながら、英語、マナー、服飾を
 学び、その結果口うるさいピエール・ロチを脱帽させたではないか。これこそ彼女にと
 って、生涯にたった一つの勲章だったといえよう。
・鹿鳴館のホステスとしての武子は輝しかったが、女としての生活にはやはり苦悩がなか
 ったわけではない。馨の度重なる浮気沙汰に、やむなく夫が芸者に生ませた子をひきと
 って育てあげている。いくら自分に古賀なかったとしても、妾の子を育てることは明治
 のころであっても忍耐のいる仕事であったろう。千代子というその娘が、のちに井上勝
 之助
(馨の養嗣子)の養嗣子の三郎の妻になった。この千代子の実母は、やがて馨の世
 話で医学博士夫人となるが、その後も武子の家庭に出入りしていた。
三島由紀夫の戯曲「鹿鳴館」は明らかに井上夫婦がモデルだが、武子もそのヒロイン影
 山朝子のごとく、夫を批判することがなかったとはいえない。
・華やかな鹿鳴館時代に、貴婦人たちは、いつも紅唇に晴れやかな微笑をたやさず、楽し
 く舞い踊っているばかりと思っていたが、彼女たちの胸には、それぞれ深い憂悶が秘め
 られていたのであった。鹿鳴館は日本の夜明けだったが、女たちの夜明けではない。長
 い、気の遠くなるほどの遠い道をさらに進まなければ、その日はやってこなかったので
 ある。

バッスル・スタイル
・梅子が新時代の女性らしく、ひとに先駆けてこれまで剃っていた眉を生やし、かねを歯
 につけるのをやめにした。これは皇后の実行よりも一歩早い。頭のいい上に進歩的な女
 性だったことがこれでわかるが、彼女の洋装は、おそらく鹿鳴館の開館まで行われなか
 ったのではあるまいか。
・博文は馬関(下関)の芸者にすぎなかった梅子を、奇兵隊時代に高杉晋作や井上聞多
 (馨のこと)を招いて、三々九度の死期をあげてきちんとした手続きで妻にしている。
 その理由は博文が攘夷党の浪士に狙われたとき、彼女が命を助けたからだといわれてい
 る。つまち梅子の機敏な頭脳を、彼が見込んだからであろう。しかしさすがの梅子も、
 洋装には手を焼いたにちがいない。親友の井上武子がつきっきりで世話をしたことだろ
 う。
・服装というのは、その時代の女性の社会的な地位を如実に反映しているものである。鹿
 鳴館時代のバッスル・スタイルというのは、やはり不自然なほど肉体を痛めつけて、
 特殊の美を男性の前に提示しようとしたものといえよう。ウエストをきつくしめて、そ
 のため胸もとの白い肌に、薄く静脈が浮き上がるのが、男たちの官能を刺戟する。なる
 べく胸を豊かに見せることも狙いの一つである。そのため肉体はウエストで上と下とに
 分断される。
・このバッスル・スタイルというのは、日本女性が最初にとりついたスタイルとしては、
 当を得たものという気がする。胴長で短足かの欠点は、ウエスト線をデザインで上げる
 ことにより、かなりカバーできたはずだからである。ただし明治期の女性は、長い日本
 の歴史のなかで、一番身長の低い時代に当たるので、せっかくの洋装も、西洋人の目か
 らは、子どもがチョコチョコ歩いているような感じであったろう。
・このころは美人の標準が変わってきた。妻をもうらうのも、芸者を雇うのも、以前は小
 柄で丸ぽちゃの顔が喜ばれたが、鹿鳴館時代は背の高い、目のパッチリした、鼻の高い
 女性が、少々髪は縮れていようとも、人気があった。

開化のクレバス
・「東京舞踏会」はいよいよ繁昌のようで、明治十九年、鹿鳴館には大蝋燭千本分の明る
 さといわれる大ガス灯が庭園に新設され、甘い酒に酔った男女のしどけない姿を、こう
 こうとしたその光で、照らし出すことになった。
・明治十八年十二月に、政府はこれまでの太政官制を廃し、内閣制度を発足させる。
 第一回の総理大臣は伊藤博文で、文部大臣に森有礼が任じられた。伊藤は長州、森は薩
 摩だが、伊藤は仕事中心、森には藩閥精神はない。
・実は森有礼は妻の常と明治十九年に離婚する。離婚の原因は巷間でさまざま噂された。
 「某の大臣の夫人が紅毛碧眼の子を生む怪事を生じた」というのである。これが常のこ
 とである。大臣の妻が碧い目の子を生むというのは、当時としても驚天動地の事件で、
 うわさは東京中をかけめぐったことだろう。
・文明開化への庶民の反発は、阿常の背に石を投げることで、突破口を見出したのである。
 ただの不貞ではない。汚らわしい相手だと浅ましがり、有礼を笑いものにして溜飲を下
 げている。 
・不貞の内容は、まだロンドンにいた時代に、常にスキャンダラスな行為があったとし、
 これには夫も困ってついに帰朝後の明治十九年に、双方面談納得の上、離婚約定書を交
 わして解婚したとある。私の推理だが、イギリスから森一家が帰国したのが、明治十七
 年三月である。このとき常は妊娠していた。この年の十二月に、長女である安の出生
 の届出がされている。ということは、実際の誕生日は、それ以前かもしれない。不貞が
 ロンドン時代で、碧い目の子を生んだ噂が事実なら、この安こそ悲劇の主である。
・安は夫婦の離婚後、明治二十年五月になって、まだ二十一歳にすぎない独身の横山安克 
 (有礼のすぐ上の兄で、時世を難じて自刃した正太郎の長男、当時有礼の秘書)の養女
 になっている。安は離婚のときは満二歳で、二歳五カ月で横山家へ養女にいく。この間
 はまだ幼いので、離婚後の常が育てていただろう。森有礼は常の生活費を離婚後といえ
 ずっと面倒を見ていたといわれている。
・さらに安の籍が高橋家へ移るのは、後の夫人寛子(岩倉具視五女)とその年の六月に有
 礼が結婚をしているからである。当時の横山家は有礼の庇護のもとに生活していたので、
 何かと交流があり、安を(戸籍に)置くことは、寛子夫人に対して憚られたので高橋家
 へ移したと見るべきである。
・常の子のうち、清、英の二児が両親の離婚後有礼と寛子のもとで、大切に育てられてい
 るのに対し、たったひとりの娘である安への、この冷たい処遇はやはり異常である。従
 って安こそ、有礼を父としない、常の生んだところの不義の子と見るのが正しいだろう。
・忍耐強い有礼は妻の不貞に悩みながら、安が生まれて二年間も離婚の決を行わなかった。
 しかし常と同居はせず、目立たぬように別れてすごしていたのではないだろうか。そし
 て有礼が離婚に踏み切ったのは、父有恕の死と、伊藤博文より文部大臣就任の要請があ
 り、これを内諾したためである。
・このように考えてくると常は、夫の大臣時代に「紅毛碧眼の子」を生んだのではなく、
 鹿鳴館のダンスで起きた事件でもなかった。しかしなぜ常は不貞にまで追いつめられた
 のであろう。女郎に身を沈めたり、古道具屋をしてやっと粥をすすっている境涯の、幕
 臣の娘もいる。それなのに、皇后にも負けないぜいたくなドレスを身につけ、イギリス
 女王に謁見するほどの地位になりながら、どうしてそれを捨てるような真似をしたので
 あろうか。
・常は、おきゃんでいたずらっぽいところもあり、愛らしくはあったが、少々軽率な面が
 あった。頭の回転はよいが、忍耐や退屈はがまんできない。また情緒不安定のたちでも
 ある。小柄ながら美しい女性で、無邪気な彼女に対すると、誰しもついわがままを許し
 たくなるような雰囲気を持っていた。また、賑やかなことが好きであり、酒のみの素質
 も持っていた。間違いが起きたのは、そのへんが鍵となっている。
・夫の有礼は東奔西走の大働きで、ロンドン訪問の政府関係者や留学生の世話はもとより、
 こまめにイギリス政府の要人や学者などとも交際して、自分でも論文を書いたり、なか
 なか常の相手どころではなかった。育ちのちがいに気質上の差がプラスされて、日本を
 遠く離れたロンドンでもあり、もっていきどころのない鬱屈が、またまた近づいてきた
 異国の男性との間に、酒の上でのハプニングを生んだというのが、真相に近いだろう。
 相手は公使館に勤めていた身分の低いイギリス人だといわれている。常のロンドン時代
 は、公使夫人といってもまだ二十五歳から二十九歳の若さである。その地位に驕り、わ
 が道を踏み迷う惑いの年齢であった。
・日本における女性の地位を高めようと働き、まず自分から手本を示そうと、新しい人格
 本位の結婚を常と行い、品行方正で妻だけを守ってきた結果がこれでは、有礼は心中ど
 んなに深い悩みを抱いただろう。
・蝶のように華やかだった常の運命は逆転した。安の誕生日からみると、常には妊娠中の
 子が、夫のものか、不倫の子か、判定できず、生まれるまでは一縷の希みを持っていた
 はずである。その懊悩だけでも、充分に彼女は罰せられたといえる。
・日本の男は、女にやさしくない。イギリスの男の女のあしらいのソツなさが、ついウカ
 ウカと深みに常を誘いこんだ。それも若い日本の、外交官夫人が受けるべき、洗礼の一
 つだったはずである。いわば明治の、急激な文明開化の、犠牲者第一号が常である。
・夫を愛していないのではない。感謝もしていないのではない。まして二児を捨てる気持
 ちなど、常にはなかった。常が離婚後にショックで精神異常となったことが、記録され
 ている。常は心中では、有礼夫人の座を守り通したかったのであろう。
・明治三十三年には、常は、すでに亡きひとであった。ただその死がいつなのか、またど
 こに墓所があるのかは不明である。それを知るひとは森家縁類者のなかにもいない。し
 かし有礼よりものちに亡くなったと伝えられている。有礼の死にいっそう心を狂わせて、
 いのちを燃え尽くしてしまったのだろう。
・何といっても、彼女たち外交官夫人や政治家夫人が、この時代で果たした役割は、それ
 以前の日本の妻のつとめとは、ずいぶん様子が違っていた。日本は当時西欧諸国に「追
 いつけ、追いこせ」と息を切らせてその文化を見習い、国力を伸ばすことに夢中だった。
 妻たちもその一翼を荷い、なれぬドレスで見様見真似のダンスを踊った。これは内助で
 はなく協力と呼ぶべきである。が、夫の働きだけが歴史に残り、妻の力が全く忘れ去れ
 ているのは、彼女たちの不運であった。それを思い、これを思いすると、その罪は小さ
 くなかったにせよ、常には離婚以外の道が無かったものかと、胸が痛い。
・公家出身にせよ、大名出身にせよ、上流階級の女性は幼時から淫蕩な空気になじみ、妻
 となっても浮気でしくじることは少ない。遊戯はしても、名誉は守るのである。またプ
 ロ出身者は逆に貴婦人の席につくと、なぜか身持ちが固くなる。むしろ常のような中流
 の娘たちが、うぶであるため恋のぬかるみに足をとられるのである。
・有礼は品行方正でもあった。あるとき旅先で招待を受け、宴果てて寝所に入った。夜中
 に目覚めると傍らに美女が待っていた。彼は驚いてその家を逃げ出したという話がある。
 また自分に不貞を許さなかっただけでなく、他人にも清潔であることを要求した。従っ
 て、あやまちをした常が、夫から許されることは万が一にもなかったと見るべきである。

仮装舞踏会
・それは晩ごろのできごととされているが、夜中の十二時ごろ、虎ノ門内の溝端で人力車
 夫が客待ちをしていると永田町の方角から靴下のままかけてきた十六、七の令嬢が「駿
 河台の屋敷まで」と息をはずませて声をかけ、俥にとび乗った。日比谷の門外までくる
 とき、向こうから黒塗の馬車がきたがすれ違いざま、これも洋装の女中がひとりとび出
 して令嬢に声をかけ、大あわてにふためきながら馬車に乗せて走り去ったというのであ
 る。令嬢のきた方角が永田町で、洋装の美人で、屋敷が駿河台となると、ピンとくるも
 のがあったのである。というのは、仮装舞踏会のあった翌日あたりから、鹿鳴館名花の
 なかで、「美貌」「ダンスの巧さ」「名流」の三拍子揃った戸田氏共伯爵夫人極子と、
 伊藤総理との艶聞がさかんにささやかれていたからである。
・戸田伯爵の邸が駿河台にあることから、事件のヒロインこそ戸田極子であると世間は考
 えてしまった。極子はこのとき満三十歳で、維新の最高殊勲者岩倉具視の長女である。
・伊藤首相は四十六歳である。現代ならまだとても総理大臣になどなれる年齢ではない。
 が、人生五十年時代の四十六歳である。ところが伊藤はお年にかかわらずお壮んなのが
 女遊びであった。
 「自分は立派な家に住もうとも思わないし、巨万の富を築こうという願いもない。ただ
 暇の折に芸者を相手に遊ぶのが何よりだ」
 と博文は常日ごろうそぶいていた。
・芸者の世界では雛妓から芸者になるのを、衿かえとか一本になるとか言うが、そのとき
 は水揚げを然るべき男性にしてもらうのが慣例であった。処女を捧げる代り、衿かえの
 費用を払ってもらうのである。博文は頼まれるとよく水揚げ旦那にもなった。
・こうした博文が、豊満な肉体の主、戸田極子に色目を使うことは十分考えられる。仮装
 舞踏会 のどさくさにまぎれて、二人が姿を消すことぐらい雑作のないことだ。博文は
 勝手知った自分の官邸の、秘密の部屋に極子を連れ込む。日本人にしても小柄な博文だ
 が、精力絶倫の上に、女を喜ばすテクニックは花柳界で充分習い覚えていた。このとき
 極子が博文を嫌ったとは断言できない。貴族の女性はこうしたことに驚かない修練があ
 る。しかも間もなく夫の戸田氏共が公使館参事官から一足飛びに弁理公使になり、一カ
 月後にはオーストリア駐在全権公使になって赴任することになったから世間がいっそう
 騒ぎ出した。

捨松の涙
・大山巌という人物は、明治功臣のなかでは、茫洋とした人格で、穏やかな賢人という人
 もあり、鈍物にすぎないときめつける人もある。従兄に西郷隆盛を持ったことが彼の一
 生を左右した。結局激しい藩閥争いの緩衝地帯のような役目として重用されていた節が
 ある。彼は品行方正で、若い捨松夫人を愛してもいた。こうした男性は、えてして才は
 じめた妻側から貴ばれない。
・捨松の相手は大山家の馬丁という噂がもっぱらであった。捨松は青春を自由の天地アメ
 リカで楽しんだわけで、十一年間の滞米中男性との恋愛事件が一度もなかったとはちょ
 っと考えられない。心の裏側まで万事アメリカ風の捨松である。伯爵夫人の地位も捨て、
 馬丁と新しい生涯をはじめようと、彼女なら考えても不思議はない。
・この離婚話は、二十七歳の捨松の方から提起されたようだ。一度は娘らしい夢を捨てて、
 継娘の三人もいる父子ほど年の違う巌のもとに嫁いだものの、鹿鳴館の華やかな空気が、
 捨松をもう一度青春の血を蘇らせたのである。
・しかし彼女にはすでに久子、高があり、このとき三番目の子を妊っていた。夫の巌は子
 どもたちのために、当然翻意を詰めに促している。巌の性格は、妻が若い馬丁と親しく
 なろうとも、また他人からそのことを指弾されようとも、自分から事を荒立てたり、妻
 を処分したりすることはない。
・一方若い捨松は、世間の噂に深く傷ついていた。自分の行動を誰かがいつも監視してい
 るのではないかと、ノイローゼにさえなった。ハンサムな馬丁に魅力を感じたことがな
 ぜ悪いと、逆に世間をどなりつけたいほど心がたかぶる。美しい花を見て美しいと感じ
 ることが、男に許されて女に許されないのはおかしいと思う。
・このころ捨松の兄山川浩は、予備陸軍少将で、東京師範学校長であった。無論栄職には
 違いないが、西南戦争で熊本城の包囲を解くため力戦をしたその功績からいえば、少将
 で退役は早過ぎる。要するに朝敵会津藩の家老だったことが災いしている。
・インテリである捨松は、留学以来自分の果たした役割のピエロ振りを、つくづく自嘲し
 なかればならなかった。少女のころから自分の運命をすっかり政府の手に委ね、教育の
 実験台となって、国のため日本の文明開化のため、力のかぎりつくした果てに、なお烙
 印は消えないのである。そのことに気付くとかえって「負けてなるものか」と捨松は奮
 い立った。鶴ガ城では敗れたが、この闘いで世間に屈服などするものかと、なまじりを
 あげる。
・彼女は自分の心に錠をおろすと、久子と高の母としての日常にもどった。この翌年から
 皇后の洋装や西洋知識へのアドバイザーとして、捨松は度々参内するようになった。こ
 れは権掌侍として皇后のおそばに仕えていた姉の操子の演出である。
・ジャーナリズムの火の手はいよいよあがり、鹿鳴館の引き起こした上流階級の男女の交
 際の歪みを、誌面で追撃すること、まさに急であった。鹿鳴館族に対する国民の批難は、
 かなり感情的になり、その矛先は伊藤博文、井上馨に多く向けられ、森有礼、大山巌の
 家庭の内紛まで持ち出され、つまりは現内閣の文系開化方針の浅薄さへの批難となった。
・その後の捨松の社交界での活躍は、記録に余り残っていない。夫と先妻との間に信子、
 芙蓉、留子がいる上に、捨松自身が久子、高、柏の三子を妊娠し、生み、育てることで
 忙しかったからもある。しかし神経の細やかな捨松は、新聞にのったスキャンダル記事
 に傷つき、もう目立つ行動を避けるようになっていた。
・大山家では明治二十三年には天皇、皇后、皇太后の行幸啓を千駄ヶ谷穏田の自邸に仰い
 だ。このとき接待の中心は捨松で、洋装で奉仕する。明治天皇は臣下の邸宅を折にふれ
 て訪問され、親密な間柄を保つことに苦心している。
・明治二十六年に大山家の長女信子が十六歳で、三島通康の長男弥太郎のもとへ嫁いだ。
 弥太郎はアメリカ留学から帰り、農商務省に勤める俊才である。ところがこの結婚はわ
 ずか三ヵ月で破局を迎え信子は大山家へ戻される。信子の咳がとまらず、微熱が続くせ
 いであった。 
・そのうち日清戦争がおき、巌は第二軍司令官として出征する。捨松はアメリカで看護学
 を学んだ知識を活用して、この義理の娘の看護に当たった。沼津の別荘に転地させたり、
 のちには邸内に離室を作って、ここに信子を隔離した。現代の感覚でいえば結核患者へ
 の処置として、当然すぎることをしたにしぎないのに、時代が悪かった。
・捨松は時代のチャンピオンであったために、必要以上に風当りが強かったような気がし
 てならない。明るいカレッジ生活をアメリカでおくり、大教育家の夢を描きながら帰国
 した捨松が、あまりにも日本的すぎる陰湿な家庭の事件に巻き込まれて、本来持ってい
 る闊達な資性を伸ばすことができなかったのは、いかにも残念であった。
・日露戦争のときに特志看護婦となり渋谷の戦時病院に捨松はつとめている。あるときア
 メリカ軍医が見学にきて看護婦のなかに完全な英語を話す者がいたと驚いて記録してい
 る。もろんそれは捨松であった。
・元帥、公爵となった巌の夫人として、晩年の捨松は仰がれる存在だったが、惜しい人物
 を家庭に埋もれさせたままで終わったものである。ただ彼女は津田梅子の創立になる津
 田塾の理事として、尽力することを忘れなかった。これは若い日本が貴い国費をもって
 自分を留学させたことへの報恩の一つと考えていたようである。

解体
・明治二十年、政界は荒れに荒れていた。井上馨は外務大臣就任以来八年にわたり、条約
 改正問題に取り組んでいたが、締結にいま一息というところで改正案が世間にもれ、国
 民からの猛反撃を受けたのである。
・ちょうど半年ほど前にイギリス船ノルマントン号が、横浜から神戸に向かって航海中、
 紀州大島沖で暴風雨にあい、暗礁に乗り上げて難破した。このとき船長ジョン・ウィリ
 アム・ドレイクをはじめ多くの水夫がボートに乗り移り助かったのに対し、日本人船客
 二十三名がことごとく溺死するという事件があり、国民を憤怒させた。しかも神戸のイ
 ギリス領事の行った海事審判で、ドレイクは無罪となったから国民の怒りは頂点に達し
 た。これも領事裁判権という不平等条約のためだと、この撤廃を叫ぶ声も当然起こるの
 であった。結局ドレイクは改めて三ヵ月の禁錮となるが、この事件から国民の条約改正
 への関心は一層高まったのである。
・ところが馨らが国民に秘密のうちに進めてきた条約改正案は、国民の期待に反してあま
 りにも妥協的すぎ、関税権も法権も完全な自主権を持つとはいえないものであった。馨
 の内心では、日本には外国と肩を並べることのできる法律が第一ないのだから、外国人
 への裁判をこちらにすっかり任せよといっても、向こう側が承知しないだろうと考えて
 いた。一理ある考えだが、これは事情のよくわからない国民から軟弱とか弱腰の外交と
 いわれるのも仕方がない。関税はこれかでの五分から一割になったが、治外法権撤廃の
 ため外人の内地雑居を許し、外国人の法官を日本政府の正式の官吏として任用するとい
 うのでは、日本の植民地化につながる。とうとうこの改正案は無期延期となり、馨は外
 務大臣も辞職する。四面楚歌というのはこのときの馨の立場にぴったりである。
・もともと鹿鳴館文化は、馨の手によって無理やりデッチ上げられた造り花である。こう
 なればその退潮は当然の成り行きであった。
・外務大臣として井上馨が投げ出した条約改正の仕事を継承することになったのは、大隈
 重信
である。彼は明治十四年に野に下って以来、改進党を組織して総理になり、また東
 京専門学校(現早稲田大学)を設立して人材を育てることを行っていたが、その間伊藤
 博文らの政府は大隈を陰に陽に圧迫していた。
・やがて伊藤内閣は挂冠し、明治二十一年四月には黒田清隆内閣が代わる。そしてその年
 の天長節の鹿鳴館夜会が、慣例により、大隈重信、綾子の主催により行われることにな
 る。この夜以来客数百のうち、踊る者は外人が多くなる。大隈綾子がダンスを好まず、
 洋装も好まぬ、これはその影響もあったにちがいない。
・明治二十二年二月十一日は憲法発布の大典が宮中で行われる日であった。その朝、十時
 参集のため永田町の官邸の森有礼が大礼服姿で二階から降りてくると出会い頭の男に、
 出刃包丁で腹部を刺される。この男西野文太郎(山口県人)はその場で、文部属官座田
 重秀に斬殺されたが、有礼も絶命する。
・刺客西野の斬奸状によると、有礼が一年余り前に伊勢大神宮に参詣のとき、禁断の場所
 にズカズカ進み、ステッキで門扉の御帳を掲げたのを、許しがたい不敬罪と感じ
 たためであったという。しかし西野には黒幕があったようである。ともあれ維新以来、
 勇敢に西洋思想を採り入れ、西欧的知性の主であった有礼は、施策の急進的であること
 に災いされて、ついに命を落としてしまったのである。
・鹿鳴館文化への批判は、本来井上がもっとも負うべき責任であるのに、ヤソ教信者だと
 一般的に信じられていたばかりに森有礼に風当りが強かった。彼が全く妥協を知らない
 性格であったことも災いしただろう。一方、犯人の西野文太郎がしばらく世間から英雄
 視されたのは、時代の風潮がどこにあったかを示している。
・馨の条約改正失敗で凋落した開化思想、鹿鳴館ぶりは、有礼の横死によってとどめをさ
 さえた感があった。コンドルの精魂を傾けたロマネスクな建物も、無用の長物として以
 後払下げが内々で相談されるようになったのである。
・実は鹿鳴館の隣接地に帝国ホテルの建設が三年前から進んでいて、この年十一月に開業
 式が挙行され株主総代として渋沢栄一が挨拶している。帝国ホテルは、かねて構想して
 いた、外国貴賓の宿泊と宴会に堪える高い水準のホテルの実現を、民間の力によって行
 ったものである。その外観はネオ・バロック様式である。設計はコンドルの弟子の渡辺
 譲であった。この時の建物は現在明治村にあるライト設計の帝国ホテルの前のものであ
 る。
・ともあれ、帝国ホテルの開業は鹿鳴館に代わるものであった。この帝国ホテル竣工の前、
 宮中においても文明開化への巻き返しが天皇の側近元田永孚らによって企画され、山県
 有朋
が新たに首相となるに及んで、実現をみたものであった。すべて欧化が姿を消して、
 国粋主義に切り換えられたのである。
・伊藤梅子や井上武子たちは、もともと喜んで着たわけでもなかった洋服を納戸にしまい
 こんでしまった。大山捨松でさえ木綿のきものに木綿の機織という姿で日常を過ごすよ
 うになる。
・大隈綾子であるが、彼女の夫も有礼遭難の八カ月後に、来島恒喜という男に爆弾を投げ
 られ、重傷を負ってしまった。条約開戦の大隈案への不満からである。来島はその場を
 去らず白鞘の短刀で自殺する。
・このとき医師が重信に上腿切断を行うより治療の途のないことを告げると、綾子は「一
 刻を争うときです。親戚に相談していては手おくれの心配があります。夫が承諾してい
 るなら、すぐ手術をお願いいたします。のちに親戚の者からどんな申し出があっても、
 わたくしが引き受けます」ときっぱりと返事したので、ベルツをはじめ居並ぶ博士たち
 も感動する。有礼の場合と違って、医師がすぐかけつけてきたこともあり、重信は手術
 の結果、命を全うする。こうして条約改正はまたも失敗した。
・夜会は明治二十三年は鹿鳴館だったが、二十四年と二十五年は帝国ホテルで行われてい
 る。二十六年十一月の夜会は久しぶりに鹿鳴館で行われた。また、鹿鳴館名物の三つの
 折大階段の下に二本の大柱を建てて、階上の舞踏室を支えた。これは舞踏しに多人数
 が入ると、グラグラゆらぐとかねて不安がられていたためで、二年前に夜会が帝国ホテ
 ルに移ったのもそのためであった。そもそも鹿鳴館の建っている場所が地盤の不安定で
 あったこともあるが、舞踏室の性質上、一本の柱もないことが、構造上の弱点となった
 もようである。
・明治二十六年の天長節の夜会が、鹿鳴館舞踏の最後の夜となった。その後の鹿鳴館の運
 命を語れば、明治二十七年六月東京に地震があった。中震程度であったにもかかわら
 ず、鹿鳴館のなかで死傷者が出ている。本玄関正面の鹿鳴館の三字をはめ込んだ破風が
 落ちて、ちょうどその下にいた宮内省お馬車が押潰され馭者と馬が圧死する。また受付
 を守っていた事務員が一名重傷を受けた。建物も相当の被害である。やはり、舞踏室が
 グラグラするという利用者たちの不安は杞憂ではなかった。専門家が調査した結果、鹿
 鳴館の場合は建物全体にわたり、使用上の危険があると判定された。