新渡戸稲造はなぜ「武士道」を書いたのか :草原克豪

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明治維新の時、東北諸藩の多くはそれまでの体制であった幕府側についたため、いわゆる
「朝敵」や「賊軍」の汚名を着せられた。そのため、明治維新後の東北地方は、厳しい状
況に置かれた。全国的に見て、東北地方の発展が遅れた原因の一つは、この明治維新時に
幕府側についたことにあったとも言われている。つまり、旧薩長藩を中心につくられた明
治政府から、疎んじられたのである。「朝敵」「賊軍」の汚名を着せられた東北諸藩の子
弟たちには、学問をつける以外に名誉挽回に道は開かれていなかった。
そういう背景があって、明治維新後、東北から多くの偉人が排出されることになった。盛
岡出身の新渡戸稲造もその一人である。
私はこの本を読むまで、新渡戸稲造の功績についてあまり知らなった。明治維新前夜に東
北の地で生まれた者が、これほどまでに西洋の歴史と文化を理解し、なおかつ日本の歴史
と文化を深く理解し上で、日本とはどういう国なのかということを西洋に向けて発信し続
け、真の国際人として活躍したということに、ただただ驚かされるばかりだ。

まもなく今上天皇の「生前退位」によって、平成という時代が終わりを迎えようとしてお
り、天皇制についてメディアなどでもいろいろ取り上げる機会が増えている。
新渡戸も、「武士道」の中において日本の天皇制についても言及しているが、当時はまだ
天皇が国家元首であった時代においても、新渡戸は日本の天皇制は民主主義と相容れない
ものではなく調和するんだという考え方を示しており、現代の象徴天皇制にも通じるもの
があり、古さを感じさせない考え方であったように感じた。戦前の、天皇が国家元首であ
った時代の日本は、民主主義国家ではなかったという認識を持っている人が多いのではと
思うが、新渡戸の考え方をすれば、当時においても日本は十分に民主主義国家と呼べるで
あろう。今でも現在の天皇制について否定的な考え方を持っている人たちが少なからずい
るが、当時の日本においても、新渡戸のような考え方を持っていた人がいたのだというこ
とを知っておくことも必要ではないだろうか。
なお、新渡戸は当時の天皇の「統帥権の独立」の問題点と「軍部現役武官制」の問題点に
ついても指摘してた。当時、このような問題点を指摘するというのは、まさに命懸けの発
言だったのではないかと思われる。しかし、当時、このような新渡戸の指摘に耳を傾ける
人はなく、結局、新渡戸が問題だと指摘していたとおり、この二つが大きな要因となって、
日本は狂気とも言える自滅への道を突っ走ってしまった。
さらに新渡戸は自由主義についても言及しており、「日本には人格性の哲学的基礎がなく、
自由の歴史的体験も欠けているので、自由主義は狭い範囲でしか花を咲かせなかった。反
動的保守主義と極端な急進主義とが、この国の政界を両分している。どちらの側も一般民
衆の信頼と尊敬を得ていない」と当時の現状に対して憂慮を表明したとのことであるが、
まさに今の政治の現状を指摘しているかのようでもあり、結局、当時の日本の政治も、今
の日本の政治も、対して変わっていないのではと、思わずギョッとさせられてしまった。
新渡戸の書いた「武士道」は、武士のみならず、すべての日本人の精神の根底にあったも
のなのだろう。そしてそれは、現代においても、脈々と受け継がれてきているようにも思
える。ただ、そのすばらしい精神が、先の大戦においては、間違った形で利用されてしま
ったことも、忘れてはならない。
この本では、日本と近隣諸国との問題、特に日韓問題についても言及している。日韓両国
の問題は、いろいろな形をとりながら戦後ずっと続いている。昨今だけ見ても、「慰安婦
問題」、「徴用工問題」そして「レーダー照射問題」など、韓国に対してそれほど悪い感
情を持っていなかった私でさえも、このようなどうしようもない韓国政府の振る舞いに、
「もう国交断絶だ!」と叫ぶ人たちの気持ちもよくわかる。しかし、韓国という国は、な
ぜこんなにも反日感情が根強いのか、もう一度朝鮮半島の過去の歴史を再確認してみるこ
とも大切であろう。過去においては、朝鮮半島の人々は長い歴史とすぐれた文化を持つ民
族であった。そのような朝鮮民族から見ると、当時の日本は「弟分」の国に見えていたの
だろう。それが一時的ではあるが、「弟分の国」と見ていた国(日本)に統治されてしま
ったという屈辱の歴史がある。それが未だに恨みの感情となって噴出するのだろう。そし
てその感情は、ほんとは日本だけでなく、そのような自分たち自身にも向けられているの
かもしれない。今の韓国は、自分の感情を自分でコントロールできない「駄々っ子」とし
か見えない。もはや、何を言っても無駄だろう。まともな国になるまで、辛抱強く待つし
かあるまい。

はじめに
・「武士道」は、狭い意味での武士道の解説書ではない。武士道論というより日本の道徳
 思想文化論である。新渡戸稲造はこの本で、日本には宗教教育はないが武士道というも
 のがあり、それが日本人の道徳の基礎となっていることを広く世界に伝えようとした。
・新渡戸こそは近代日本の稀にみる発信者であった。若い頃に、「我、太平洋の橋となら
 ん」と志し、生涯にわたって西洋の文化を国内に紹介する一方で、むしろそれ以上に、
 祖国日本のさまざまな姿を世界に伝え、日本の主張を訴え続けたのだ。
・新渡戸は世界的視野をもった愛国者として、常に日本の繁栄を考え、日米の友好親善、
 世界平和の実現を目指して発信し続けた。その人生は義務と名誉と祖国を大事にする武
 士道的人生そのものであったと言っていい。  
・だが、そうした彼の懸命の努力は、当時の軍国主義下の日本にあっては、右からは愛国
 心に欠けるとして責められ、左からは軍部に妥協したと誤解され、そのために正当な評
 価を受けることができなかった。
・今日、グローバル化時代を迎え、あらためて日本と日本人の発信力が問われている。そ
 のためには英語によるコミュニケーション能力を身につける必要もあるだろう。しかし、
 発信力とは単なる英語力の問題ではない。大事なのは何を発信するか、何を主張するか
 である。伝えるべき中身であり、その人の拠って立つ思想である。
・そのためには、まず祖国の大地にしっかりと根を下ろしていなければならない。自国の
 歴史や伝統、文化に対する深い理解と愛情を持ち合わせていなければならない。新渡戸
 の発信力を支えたのも、日本の文化への造詣に深さと祖国に対する限りない愛情であり、
 それを伝えるべき相手の立場や気持ちを思いやる心であった。
・自分の生まれ育った国の歴史や文化を知らずに、グローバル化する世界の中で自己のア
 イテンティティを確立することはできない。イデオロギーの色眼鏡をはずして過去の歴
 史を振り返り、足元をしっかりみつめることが重要だ。  

「我、太平洋の橋とならん」
・新渡戸稲造はよく国際人と言われる。たしかに彼ほど国際人という形容が相応しい日本
 人はいない。1882年に盛岡に生まれ、1933年にカナダで亡くなった新渡戸は、
 72年の生涯のうち20年間を海外で過ごしている。はじめて海外に出たのは1884
 年、21歳の時だった。東京大学を中退した新渡戸は、アメリカとドイツで世界最高水
 準の学問を身につけ、アメリカ人の女性と結婚して帰国し、母校の札幌農学校で教鞭を
 とった。そして37歳の時に「武士道」を書いて世界のその名を馳せた。
・ジュネーブ国際連盟が創設さえるとその初代事務次長として国際舞台で存在感を発揮し
 た。帰国後はさらにジャーナリストとして健筆を揮いながら、東洋と西洋の相互理解に
 努め、満州事変が勃発すると軍部の暴走に対して批判的な態度をとる一方で、中国側の
 主張には真っ向から反論した。 
・新渡戸はこのように実の多くの分野で活躍し、しかもそれらのすべての分野において、
 国際的な広い視野と深い思索に基づく第一級の業績を遺しているのだ。中でも特筆すべ
 きは、外国文化を受信するだけでなく、むしろそれ以上に日本の思想・文化を海外に 
 発信したことである。
・明治維新以降・多くの日本人が海外に出てその知識や技術を日本に持ち帰ったが、日本
 の思想・文化を西洋に発信した人は極めて少ない。その中で新渡戸稲造の存在はひとき
 わ異彩を放っている。
・生涯を通して祖国への忠誠心を貫き、世界に向けて日本を発信し続けたという点で、新
 渡戸の右に出る者はいない。世間の錯覚と違って日本で国際派と目されている知識人の
 多くは日本国内向けの国際派にしか過ぎず、外国と知的応酬を展開する人はきわめて稀
 である。
・晩年の新渡戸は「日本を滅ぼすものは軍閥」と発信して軍部から睨まれ、非国民呼ばわ
 りもされた。しかし彼こそは「偉大なる日本人であり、その真価は燃えるような愛国者
 であったことにある」と親友から称されているように、それが新渡戸の真の姿であった。
・近年、日本ではグローバル化人材の必要性が指摘されているが、戦前の日本に新渡戸の
 ような愛国心と国際心を持ち合わせた真の国際人がいたことぐらいは知っておくべきだ。 
 新渡戸の遺した業績を振り返ることもせずに、やれ国際化だのグローバル化だのと口先
 だけで騒いでいる姿は滑稽でさえある。
・新渡戸は1862年、現在の岩手県盛岡市において、盛岡藩士である新渡戸十次郎と妻
 の勢喜の三男として生まれた。明治維新の6年前である。
・明治維新後の急激な改革は、当の武士階級から封建時代の特権を取り上げてしまう。そ
 のため、武士の子は西洋の学問を学ぶことでしか出世の糸口をつかむことができなくな
 った。中でも戊辰戦争で官軍と戦って朝敵・賊軍の汚名を着せられた東北諸藩の子弟た
 ちは、特に厳しい状況に置かれた。彼らには学問を見つける以外に名誉挽回の道は開か
 れていなかった。学問を身につけて出世するためにはまず英語をまなばなければならな
 い。こうして新渡戸稲造も、9歳になった1871年、その前に武士の身分を捨てて東
 京で洋服店を営んでいた叔父を頼って上京することになった。
・新渡戸が亡くなったのは1933年である。日本はその2年前に勃発した満州事変を経
 て、世界の中で孤立しつつあった。以前から対立を深めていた日米関係はさらに悪化し、
 アメリカの世論はますます親中・反日的になっていた。そのような時期に、新渡戸は祖
 国を救うため、老躯に鞭打って1年間アメリカ各地を講演して回った。さらに帰国後も
 病をおして、カナダのバンフで開かれた太平洋会議に出席した。そしてその直後、西海
 岸にバンクーバーに近いビクトリア市内のホテルで発病し、市内の病院で72年の生涯
 を終えた。 
・新渡戸が真の国際人として活躍できた要因のひとつにその抜群の英語力があったことは
 言うまでもない。彼がどれほど英語の達人であったかは、「武士道」の格調高い英文か
 らも十分に窺える。 
・新渡戸は早くから東京に出て英語学校に通っていた。彼が受けた学校教育といえば、ほ
 とんどが英語教育であった。英語以外の教育はほとんど受けていないのである。その上
 で彼は、全国にも類を見ない札幌党学校で学んだ。そこの授業は一部を除けば、ほとん
 どすべてが3人のアメリカ人教師によって英語で行われた。 
・新渡戸が日本の発信者として稀有の働きができたのは、相手の立場に立って物事を考え
 ることのできる人間だったからである。彼は、自分と違う意見をもっている人に対して
 も、辛抱強く説得すれば相手の意見を変えさせることができると考え、またおsのよう
 に努力しなければならないと考えていた。常に相手を思いやり、そのためにできるだけ
 快活に振る舞い、相手の理解を得ようとし、相手の立場に立って自分の思いを伝えよう
 とした。それがコミュニケーションの基本であろう。 
・発信と発信力とは同じではない。自分の主張を相手かまわず一方的に発信するだけでは、
 相手の心には伝わらないし、期待するような効果も得られない。どんな立派な考えでも、
 それが相手に伝わって受け入れられなければ、発信した意味がないことになる。自分の
 言葉が相手によく伝わるためには、まず、相手のことをよく知る必要がある。そのため
 には言うことに耳を傾けなければならない。傾聴こそがコミュニケーションの基本であ
 る。話し上手は聴き上手でなければならない。発信力のもとは受信力であると言っても
 いいのだ。 
・誰でもそうだが、長い人生にうちにはいくつかの重大な岐路に直面する。その時にひと
 つの選択をすることによって、新しい可能性が開かれ、そこに新しい出会いが生まれる。
 人生はそうした選択と出会いの連続である。その時々にどのような選択をするかによっ
 て、その先の人生が変わっていくのだ。
・彼の人生を決めた第一の選択は、英語を学ぶために9歳で生まれた故郷の盛岡を離れて
 上京したことにある。その背景には、稲造には幼い頃から、「偉い人になっておくれ」
 という新渡戸家の期待を担わざるを得ないある事情があった。  
・新渡戸家は代々盛岡藩主に仕えた誇り高い家柄であった。稲造の祖父、新渡戸傳は盛岡
 藩の勘定奉行を努めたほどの人物だが、晩年になってから三本木原(現十和田市)の開
 拓事業に着手し、それまで水がなく人も住めなかった荒れ地に水を引いて新田を開拓す
 るという大事業を完成させた。今日ある十和田市の広大な沃野は、新渡戸家の父祖三代
 にわたる努力の結晶である。 
・稲造も7人兄弟の末っ子として母親の愛情を一身に浴び、姉たちからも可愛がられて、
 甘やかされならが何ひとつ不自由なく育った。そのせいか、利口で才気に富む一方で、
 短気で怒りっぽく乱暴で、手のつけられないほど生意気な腕白坊主だった。そのため、
 母親が隣近所に誤りに歩かなければならないこともしばしばあった。
・稲造も幼い頃から四書(大学・中庸・論語・孟子)を素読し、剣術の稽古もさせられた。
 まさに武士の子として育てられたのである。
・1868年、王政復古により政権についた明治新政府軍と旧徳川幕府軍との間で戊辰戦
 争が勃発し、鳥羽・伏見の戦いで勝利した新政府軍は、余勢を駆って東北地方の諸藩に
 対して会津藩の追討を命令した。その結果、戦いの舞台は京都から東北に移って新政府
 軍と奥州越列藩同盟の対立となった。その中で盛岡藩もついに奥州越列藩同盟に加わっ
 て新政府軍に敵対することになり、心ならずも朝敵・賊軍とされたうえ、最後には降伏
 して厳しい処分を受けることになったのである。このことは盛岡藩にとっては大変な屈
 辱であった。   
・戊辰戦争で官軍と戦った東北の武士の子は、維新後、自分の能力を伸ばすこと以外には
 立身出世の道を絶たれてしまった。しかし、この逆境の中から、東北人の強烈なチャレ
 ンジ精神が生まれ、自己を高いレベルに引き上げる原動力となっていく。 
・1871年、稲造が9歳になると、母の勢喜は祖父のととも相談し、東京にいる叔父の
 養子として状況させることにした。叔父は稲造の父の実弟で、戊辰戦争で盛岡藩が降伏
 したとき、切腹させられた家老の介錯人となるよう新政府軍から命じられたのを、親友
 の首を切ることはできないと断って脱藩し、上京して京橋で洋服店を営んでいた。
・1873年、11歳の稲造は政府によって開設されたばかりの東京外国語学校の英語科
 に入学した。まもなく英語科は独立して東京英語学校となった。のちの第一高等学校で
 ある。 
・1877年の夏、稲造はそれまで4年間学んだ東京英語学校(その時点では東京大学予
 備門となっていた)を退学して、前年に札幌に開設されたばかりの札幌農学校に第二期
 生として入学した。札幌農学校は現在の北海道大学農学部の前身だが、これを単なる農
 業の学校と思ったら大間違いである。東京大学よりも1年早く発足し、日本で最初の学
 士号を授与した学校で、当時としては最高レベルの四年制の高等教育機関であった。  
・東北地方を巡幸した明治天皇が、青森県三本木村(現十和田市)の新渡戸家に立ち寄り、
 祖父と父の功績を称えて、「子孫も父祖の志を継ぎ農業に励むように」と激励されたこ
 とであった。  
・札幌農学校には他の学校にはない魅力があった。それは入学すれば官費生となって、学
 業および生活に必要な費用の一切が支給される制度であった。東京英語学校や工部大学
 校などの優秀な生徒に転校を決断させる決め手となったのは、最終的にはこの官費生制
 度であった。 
・初代教頭(事実上の校長)として1年間だけ札幌に滞在したクラーク博士は、アメリカ
 の大学の現職の学長であった。授業科目は幅広い分野にわたっており、農学分野の科目
 やその基礎となる動物学、植物学、物理学、化学などの自然科学だけでなく、英語、英
 文学、心理学、経済学、地誌などの人文・社会科学分野の科目も含まれていた。これら
 の授業は数学、漢学、教練などの科目を除いては、すべて3人のアメリカ人教師によっ
 て行われた。 
・札幌農学校は、開拓使によって設置された、アメリカ人教師による、アメリカの農科大
 学をモデルとした学校であった。カリキュラムは狭い職業教育ではなく、幅広いリベラ
 ルアーツ教育を基本にしており、その点ではアメリカに留学したのと変わらない。この
 ような学校はほかにはなかった。 
・当時の札幌の人口はわずか3千人ほどである。原生林のほかはまだ何もない荒涼とした
 寒村に造られたアメリカ風のモダンなカレッジで、わずか数十人の生徒たちが寄宿舎で
 の生活をともにし、3名のアメリカ人教師を中心に、日夜勉学に励んだのである。当然
 のことながら、彼らの英語力は飛躍的に向上することになった。 
・札幌農学校ではキリスト教の教育が行われていた。これも徳育を重視したクラーク博士
 の発案である。クラーク博士は敬虔なキリスト教徒ではあったが、宣教師ではなかった。
 だから自ら布教することはなく、もっから聖書を読むことを通じて、生徒たちをキリス
 ト教の世界に導き入れようとした。 
・稲造ら第二期生が入学したとき、クラーク博士はすでに帰国した後だったが、彼らは入
 学と同時に第一期生からいきなり「イエスを信ずる者の誓約」に署名するよう求められ
 た。 
・稲造は、東京での生活の中で、周りに親しい仲間や、何でも相談に乗ってくれる人がい
 ないため、しばしば何とも言いようのない孤独感に襲われることがあった。そのため何
 か人生の道しるべとなるような精神の拠り所を求めたい気持ちがあって、キリスト教へ
 の関心が次第に強くなっていたので、同期生の中でも真っ先に署名した。
・札幌農学校の4年間、稲造は悩み多い少年だった。図書館の本をすべて読んでしまうほ
 ど勉強したが、キリスト教を理解しようとして勉強する中で、信仰上の悩みも抱えるよ
 うになった。神の存在を理屈で理解しようとしたが答えが見つからず、洗礼は受けたも
 のの、クリスチャンとしての自分に心から納得できないところがあって悩んでいたので
 ある。そのため神学上の懐疑に陥り、その答えを得ようとしてますます読書に耽ったた
 め、ついに憂鬱な人間になってしまった。 
トーマス・カーライルの言葉「大事なのは行為であって、思索ではない。今自分が何を
 なしうるかを考え、それに向かって全力を尽くせ」という言葉が、稲造の心に強く響い
 た。彼が好んで口にした言葉に、「理窟より行動」「学問より実行」「手近な義務を果
 たす」などがあるように、稲造はそれを自分の生き方とした。
・「札幌は私の魂のふるさとである。札幌は私の人間を造ってくれた。もしあの時、札幌
 に行っていなければ、私は世俗的にはもっと出世したかもしれないが、おそらく軽薄な
 才子として一生を送ったであろう」と後に稲造は述懐している。   
・札幌農学校を卒業後、稲造はいったん開拓使に勤務し、その後、東京大学の文学部に選
 科生として入学した。その時の面接試験で、「東京大学に入って何を勉強するつもりか」
 問われた稲造は、「農政学をやりたいと思うが、そういう学問はまだないようなので、
 そのために必要となる経済、統計、政治学をやりたい。それから英文学も勉強したい」
 と答えた。すると「英文学をやってどうするのか」と問われ、「太平洋の橋になりたい」
 と答えると、教授は「何のことだか私には解らない」というので、「日本の思想を外国
 に伝え、外国の思想を日本に普及する媒酌になりたいのです」と説明した。  
・だが東京大学の授業は札幌農学校と比べるとお粗末で、稲造を満足させるものではなか
 った。大学生活に幻滅を感じた稲造は、ついに一年目の終わりをもって東京大学を去る
 ことにした。
・アメリカに留学中、稲造の人生を決定づける二つの重要な出来事があった。ひとつは、
 クエーカーとの出会いである。一般的にクエーカーと呼ばれるこの団体は、十七世紀の
 イギリスとプロテスタント運動の中から生まれた宗教団体である。信徒の数は世界で約
 30万人といわれていた。稲造は以前からクエーカーには関心を持っていた。クエーカ
 ーがイギリス国内で迫害を受けたことや、一部はアメリカに移民したことも聞いていた。
 その苦難に満ちた歴史は、稲造の曽祖父が君主の忌諱に触れて花巻から下北半島に追わ
 れ、そのため祖父や父の代まで苦労した歴史や、戊辰戦争において心ならずも賊軍とさ
 れた東北諸藩の苦労とも重なり合うところがあった。 
   
「日本には武士道という倫理道徳がある」
・「武士道」は、その題名のために誤解されやすい。武士が力を抜いて戦う時代小説だと
 誤解する人もいるようだが、もちろんそういうものではない。武士道についての学術論
 文というわけでもない。武士に大して武士としての心構えを説いた本でもなければ、そ
 もそも日本人のために書かれたものでもない。副題に「日本の魂」とあるように、西洋
 人に向けて日本の道徳思想と文化を論じた本である。  
・武士道の道徳は、その名が示すように、勇ましさ(武)と男らしさ(士)に基づいてい
 た。この道徳観を支えているのは、それに反する行いを恥ずかしいと感じる恥辱の感覚
 と、正しい行いから得られる名誉の感覚である。恥辱こそが武士にとっての最大の制裁
 であり、名誉が最大の報酬であった。そのため武士はどのような状況においても心の平
 静を保ち、沈着冷静に行動できなければならない。だから武士は幼い頃から自分を律し、
 己に克つための訓練を怠らなかった。 
・「武士の掟」とはいっても、それは成文の掟ではない。語られることも書かれることも
 ない不文の掟である。先人の口伝え、あるいは何人かの武士や学者の筆によって伝えら
 れたわずかな格言があるにすぎない。したがって、それは知識として理解すべきもので
 はなく、実生活の中で実践することによってはじめてその価値が認められることになる。
 だから武士の間には幼い頃からそれを実践しなければならないという強い意識が芽生え、
 それが彼らの心の中に刻み込まれることになるのだ。
・西洋の騎士道がキリスト教を基盤としているように、日本の武士道も宗教から多くの影
 響を受けた。特に重要なのは仏教、神道、儒教の影響である。仏教からは、心を安らか
 にしてすべてを運命に任せるという平静な感覚や、避けられないことに対しては静かに
 服従するという落ち着き、ストイックな沈着さ、さらに生を卑しみ、死に親しむ心を受
 け継いだ。  
・神道からは、主君に対する忠誠、祖先に対する尊敬、親に対する孝行の教えを与えられ、
 これによって武士の陥りやすい傲慢な性格が抑制されて、服従性が加えられることにな
 った。また神道の先祖崇拝の観念は、皇室を全国民の共通の祖とする民族感情を生み、
 武士道に忠君愛国の精神を吹き込んだ。さらに道徳的な教えに関しては、孔子に始まる
 中国の儒教思想の教えが武士道のもっとも豊かな淵源となったという。新渡戸は、こう
 した道徳感情はもともと日本人の民族的本能の中にあったもので、それを孔子や孟子の
 教えを借りて確認したのであると述べている。 
・儒教は特に江戸時代の日本社会に広く受け入れられるようになった。その理由は、政治
 道徳に関する孔子の教えには処世の知恵に富むものが多く、それが治者階級である武士
 の要件に敵っていたからである。 
・孔子や孟子の言葉を知っているだけでは尊敬の対象とはならなかった。学問は、学ぶ人
 の心に同化され、実践を伴ってはじめて尊敬の対象となるのである。武士道では、知識
 はそれ自体が目的ではなく、智慧を獲得するための手段にすぎず、知識は人生における
 実践と同一視されていた。そうした考え方は、儒教の中でもとkに王陽明の唱えた「知
 行合一(知識と実行が一致すること)」に見られる思想である。新渡戸は「学問より実
 行」という言葉を好んで使ったが、これは学問は要らないといういみではない。学んだ
 ことは実践してこそはじめて価値があるという意味である。実践するためにはまず学ぶ
 必要があることは言うまでもない。
・武士道は日本民族の道徳的本能の総体であって、そういうものとして、武士道は、その
 要素は、われわれの血と同時代にあり、それゆえにまた、わが宗教である神道と同時代
 である。単純な神道の自然崇拝と祖先崇拝が武士道の基礎であって、中国の哲学やヒン
 ドゥの宗教から借りたものは、その花であった。いな、ほとんど花ですらなくて、むし
 ろ大和民族という木に騎士の功績と徳という花を咲かせるための肥料の働きをした。
・新渡戸にとって神道の根本的な道徳概念とは、親と祖先への孝と、国王への忠を教える
 ことであった。それを支えるのは、自分が存在するのは自分を生み育ててくれた両親と
 代々をさかのぼる祖先のお陰であり、さらり安全幸福に暮らせる秩序のすぐれた国家の
 お蔭であるという感覚である。 
・義とは、人の道に敵っていること、正しいことを意味している。武士の掟の中でもっと
 も厳格な徳目である。孟子が「仁は人の心なり、義は人の路なり」と言ったように、人
 が果たすべき正しい大義、正義のことである。義に反することは卑劣な行動である。武
 士にとって卑劣な行為ほど嫌われるものはなかった。
・勇・敢為堅忍の精神とは、心が強く、勇ましいことである。「義を見てせざるは勇なき
 なり」と「論語」にもあるように、義を果たすために正しいことを行うことである。勇
 気は義のために行われるのでなければ、徳としての価値はない。「生くべき時に生き、
 死すべき時に死す」のが勇であり、生命を懸ける価値のないような死に方をするのは犬
 死といって馬鹿にされた。だから真の勇気と蛮勇の違いを見極めることが重要になる。
 勇を発揮するためには自己の弱さを克服しなければならず、そのためには幼いときから
 鍛錬が必要とされた。
・勇気には動態的表現としての敢為と、静態的表現としての平静心という二つの側面があ
 る。本当の勇者は戦闘の最中にも平静心を乱さなかった。勇者にとって戦いは単に力を
 競い合うだけでなく、スポーツ的要素さえある知的競技であった。
・仁・惻隠の心とは、思いやりである。孔子も孟子も人を治める者の最高の必要条件は仁
 であると繰り返し述べており、孟子は「人は人の心なり、義は人の路なり」と言った。
 武士道が仁を最高の徳と考えるのも、それが他のすべての徳のもとであるだけでなく、
 およそ人の上に立つ者にとって第一に必要なものだからである。
・正義が男性的であるのに対し、仁は女性的な柔和さと説得性を持っている。しかし、伊
 達正宗が言うように、「義が過ぎると固くなるが、仁が過ぎると弱くなる」ので、みだ
 りに慈愛におぼれないようにいましめなければならない。大事なのは正義を忘れない慈
 愛である。それが「武士の情け」として人々の共感を呼ぶのだ。特に弱者、劣者、敗者
 に対する仁は、武士に相応しい徳として称賛された。 
・礼、他人の感情に対する同情的な思いやりが外にあらわれるものである。それは正当な
 ものに対する正当な尊厳を意味している。礼法は厳格になりすぎることもあるが、正し
 い礼法を行えば、「身体のすべての部分および機能に完全なる秩序を生じ、身体と環境と
 がうまく調和して肉体に対する精神の支配を表現する」ようになって、礼は一定の結果
 を達成するためにもっとも適切な方式であり、たとえば茶の湯に代表されるようにもっ
 とも無駄のない、もっとも優美な作法なのである。
・誠とは、嘘や偽りがないことである。それは内面的な徳であり、それなくしては礼も茶
 番あるいは芝居にすぎなくなる。誠なくしては義も発揮できない。嘘をついたりごまか
 したりするのは卑怯なこととみなされた。武士の一言は真実の保証であり、武士に二言
 はない。だから武士は誓いも立てない。その点では、誓うなかれという教えがあるにも
 かかわらず、それを絶えず破っているキリスト教徒とは大きな違いがある。正直である
 ことは商売においても必要なことである。
・名誉とは、優れていると認められることで、「名、面目、外聞」などの言葉で表される
 観念である。それが汚されるのは恥辱であるとされた。武士は何よりも不名誉を恐れた。
 したがって廉恥心は幼い頃から教わる最初の徳のひとつであった。
・このように武士の根本は「名を惜しみ、恥を知る」ことである。名誉を求め、不名誉を
 最大の恥とする精神である。そのため多くの若者が名誉を得るために立身出世を追い求
 め、あらゆる厳しい試練に耐えた。日本人が明治維新を成し遂げた最大の動機も、「劣
 等国として見下されることに耐えられない名誉心」からであったと新渡戸が述べている。
・忠義は忠誠と言い換えてもよいが、要するに主君のために尽くすことであり、そのため
 に命を捧げることである。それを実行した人は忠臣として後世にまで高く評価される。 
 忠誠こそは武士道においてももっとも重要な徳目である。近代国家においては国に対す
 る忠誠心が求められることになるが、それが愛国心というものである。
・主君に対する忠誠はもっとも重要な徳目であった。とはいえ、主君の言うことなら何で
 もそれに従うというのは、決して本当の忠臣とは言えなかった。主君の命令が明らかに
 間違っていると思われるときは、それに追随することなく、諫言することも求められた。  
 場合によっては主君を強制的に幽閉あるいは隠居させて別の主君を立てる「押し込め」
 という慣行も存在した。忠臣は決して主君に隷属するものではなかったのである。
・忠と並ぶ徳目として孝がある。儒教においては親に対する服従を意味する孝がもっとも
 重要とされた。孝は神道における祖先崇拝の教理に基づく徳でもあり、日本人にとって
 ももっとも重要な徳目のひとつである。もちろん武士にとっても孝は重要な徳目とされ
 ていた。しかし武士道の徳目においては、忠が最上位を占めている。
・新渡戸は「日本では家庭とは親子ではあるが、西洋では夫婦を意味することから、その
 ために孝の在り方も違ってくる」との見方を示している。
・新渡戸は「武士の教育のおいて守るべき第一の点は品性を高めること」にあったと述べ
 ている。品性とは、武士道の骨組みを支える三本柱であり智・仁・勇を通じて高められ
 るものと考えられた。武士にとって、思慮、知識、雄弁などの知的能力はそれほど重視
 されなかった。武士に必要な「智」は叡智であって、単なる知識ではなかった。武士道
 において、知識はそれ自体に価値があるのではなく、あくまでも実践としての智慧を身
 につけるための手段に過ぎないと考えられていたのだ。    
・武士の教育は、剣術、弓術、槍術、柔術、などの武術の訓練が中心であった。だが武術
 においても、単に技量を高めるだけでなく、心の平静を保つことが理想とされた。その
 ため武士は喜怒哀楽の感情を外に表さないように教育された。彼らは常に自分自身を抑
 制し、自分の弱さを克服するために鍛錬した。だから日本人は、もっとも悲しい状況に
 置かれた時に心の平静を取り戻そうとして笑顔をつくる傾向があるのだと新渡戸は述べ
 る。  
・武士階級は質素な生活を要求され、経済や金銭に関わることは卑しいこととされた。そ
 の結果、武士は金銭に基づく腐敗を免れることになった。
・「知識でなく品性が、頭脳ではなく霊魂が琢磨啓発の素材として選ばれる時、教師の職
 業は神聖なる性質を帯びる。「我を生みしは父母である。我を人たらしむるは師である」
 と新渡戸は述べている。
・西洋の騎士道と日本の武士道を比べると、両者には共通点も多いが、女性に対する態度
 においては、ほとんど正反対と言ってもよいほど異なっている。騎士道においては、特
 に女性に対する勇気、名誉、礼儀、忠誠心などが重要な資質とみなされた。つまり騎士
 道は女性崇拝を基本としているのである。これに対して日本の武士道においては、女性
 が主役として登場することはない。ましてや武士が女性に心を動かすようなことはあっ
 てはならないのだ。    
・封建社会においては、男性が主君と国家のために身を捨てたように、女性は家庭や家族
 のために身を捨てた。女性も感情を抑制し、精神を鍛え、薙刀などの訓練をしたが、そ
 うした武芸は、戦場で用いるものではなく、自分自身と家庭を護るためであった。武士
 の娘は刀の使い方を教えられたが、敵に対してというよりはむしろ自分の名誉を守るた
 め、つまり辱めを受けるおそれがある時に自分自身に向けるためであった。このことは、
 武士道においては女性の地位が低く評価されていたということを意味しているのではな
 い。
・武士道における男女の地位の違いは、差異であって、不平等ではなかった。男性と女性
 は、戦場での役割と家庭での役割をそれぞれ分担していた。その結果、女性は男性のた
 めに自分を捨て、男性は主君のために自分を捨て、主君はそれによって天に従うという
 図式が出来上がった。このことは、男性も女性もいずれも自己否定という点で同じと言
 えるが、男性が封建君主の奴隷ではなかったように、女性も男性の奴隷ではなかった。
 女性の役割は内助、つまり内側からの助けであった。
・儒教や仏教の教えは女性に対する侮蔑感しか与えなかったが、それにもかかわらず、日
 本の女性の社会的地位は下がらなかった。その理由は、第一に武士は弱者にやさしくす
 ることと両親を敬うことを教えられ、第二に武士の妻にとってもっとも重要な役割は有
 事の際の即応、家政、子女の教育だとされたからである。
 
日本人の国民道徳としての武士道
・江戸時代になると、武士が刀をもって殺し合う時代は終わりを告げ、約二百五十年間の
 平和な時代が続くことになった。武士はもはや戦士ではなくなり、戦うことをやめた支
 配階級が、武力ではなく徳の力で支配する社会になったのである。これが徳治主義ある
 いは文治主義といわれるものだ。 
・そのような時代にあって、支配階級である武士は、武術に励むだけでなく、学問を身に
 つけ、他の階級の模範として尊敬される人間であることが要求されるようになった。そ
 れに伴って、旧来の戦闘的武士の姿を表す「武士道」は「武道」といった概念とは異な
 る新しい倫理道徳規範が要求されることになった。 
・新渡戸はアメリカで行った講演の中で、徳川家康の次のような言葉を紹介している。
 「人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くがごとし、急ぐべからず。不自由を常と思へ
 ば不足なく、心に望みおこらば、困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、
 怒りは敵と思へ。勝つことばかりを知って、負くる事を知らざれば、害その身に至る。
 おのれを責めて人をせむるな。及ばざるは過ぎたるより優れり」
・新渡戸は、「家康は人生を退屈な道と考え、この世をむなしいものとみた。つまり、彼
 は勝利も栄光も、ともにうつろで空虚なものと感じた。彼は、野心や激怒に無縁の魂に
 おいてのみ、満足と平安を求めたのである」と解説した。
・新渡戸の「武士道」は、鎌倉時代の武士の階級の登場を武士道の起源としながらも、そ
 こで論じられているのは、主として儒教の影響を受けた江戸時代における武士の倫理道
 徳規範を基礎とした武士道である。  
・そもそも新渡戸の「武士道」は、武士道というものについての学術論文や専門的な研究
 書ではない。日本人の道徳について論じた書物なのだ。この場合の武士道という言葉は
 著者自身の創作であり、「武士道」は、江戸時代の戦いをやめた武士たちの守るべき掟
 を中心にしながら、それ以前の「勝つことがすべて」であった戦国時代の武士たちが大
 事にした名誉や勇気、あるいは自己犠牲などの精神について、西洋的視点から解き明か
 した日本文化論なのである。そしてその狙いは、日本人が決して野蛮人ではなく、西洋
 人に負けないような倫理道徳を備えているのだということを主張することにあったのだ。
・武士階級は営利を追求することなく、自ら富を蓄積することがなかったことを挙げるこ
 とができる。武士にとってもっとも重要とされたのは名誉である。戦闘が続く生活にお
 いては、不安定な財産には低い価値しか与えられなかった。永続的な財産があるとすれ
 ば、それは名声を勝ち取ることでしかなかった。「虎は死して皮を残し、人は死して名
 を残す」と言われるように、武士には名声を獲得するためにあらつる努力と犠牲を払っ
 たのだ。 
・徳川幕府の下で実際の戦闘がなくなり平和が続く時代を迎えても、名誉を求める武士の
 生き方には変わりがなかった。ただしそれはもはや武力によって得られるものではなく、
 行政と学問によって達成すべきものとなったのである。
・江戸時代の武士は、士農工商の頂点に位置する支配階級でありながら、商人とは違って、
 身分は高くても経済的には貧しかった。彼らの地位を支えていたのはそれぞれの所領内
 の農民による労働生産力であったから、そこには同じ共同体という意識が働いていた。
 その中でお金は経済活動に従事する商人や町人のところに集まった。つまり、富と権力
 が分離していたのである。そのおかげで武士は、新渡戸も指摘したように、支配階級で
 あるにもかかわらず金銭的に腐敗を免れることになったのだ。その点では貴族階級が富
 の権力も握っていたヨーロッパの階級社会とは大きく異なる。  
・十六世紀以来、日本を訪れた西洋人は一様に、日本人の礼儀正しさ、正直さ、誠実さを
 称賛してきた。日本に初めてキリスト教を伝えたスペイン人フランシスコ・ザビエルは、
 日本人のことを「今まで出会った異教徒の中でもっとも優れた国民」と評し、特に名誉
 心と、貧困を恥じないことを褒めた。トロイの遺跡を発掘したシュリーマンは、若い頃
 幕末の日本を訪れて、日本人の清潔なこと、役人が賄賂を拒否すること、船の人足が正
 当な運賃以外は受け取ろうとしないことを称賛した。   
・フランスの作家で1920年代に駐日大使を務めた外交官でもあるポール・クローデル
 は、「私がどうしても滅びてほしくないひとつの民族があります。それは日本人です。
 あれほど古い文明をそのまま現代に伝える民族は他にありません。日本は太古の時代よ
 り文明を積み重ねきたからこそ、明治になって急速な発展が可能になったのです」と述
 べ、「彼らは貧しい。しかし高貴である」と結んだ。
・西洋人が注目した日本人の美徳は、長い歴史を通じて育まれた日本人の国民性である。
 それは、新渡戸が「武士道」の冒頭に述べたように、今日においても私たち日本人の中
 に脈々と生き続けている。だからこそ私たちは、まず日本の歴史、文化、伝統に関心を
 持ち、それをきちんと外国人にも伝えられるようにする必要があるのだ。
・この時代、武士はもはや戦う人間ではなくなり、しかも元禄の文化爛熟の時代であった。
 だからこそ、改めて武士の心得を強調する必要が生じたのだろう。戦うことをやめた支
 配層の人間修業の道が武士道なのである。武士道が「潔く死ぬ」ことを奨励していると
 いうことは、大変な誤解である。 
・歴史の事実を直視すれば、日清・日露の戦争における日本の勝利は、日本人の国民意識
 の高さと、科学技術に支えられた合理的精神と、幸運とによるものであって、決して
 「潔く死ぬ」ことや精神力で勝ったわけでもなかった。   
・その後の日本においては、合理的思考が置き去りにされて非法理的な精神論が声高に唱
 えられるようになっていく。そしてそれが昭和期の不幸な戦争へとつながっていくので
 ある。   
・1941年に陸軍が制定した戦陣訓の中には、「生きて虜囚の辱めを受けず」という有
 名な一節があった。この言葉自体は日清戦争の頃から、捕虜となって残虐な扱いを受け
 たり、あるいは自軍の情報を敵軍に漏らしたりするのを防ぐために用いられていたよう
 だが、戦陣訓は陸軍大臣の訓令であるだけにその影響力は大きく、それによって多くの
 兵士が捕虜となるよりも自害の道を選んだとも言われている。武士道精神とはまったく
 相容れない歪んだ考え方と言わざるを得ない。

なぜ新渡戸は「武士道」を書いたのか
・武士道こそが、「日本人の思考や行動のもととなる規範」であり、日本人の倫理規範で
 あると考えたのだ。新渡戸の「武士道」は、日本人の物の考え方や行動を支配する倫理
 道徳思想を欧米人向けに説明しようとした日本文化論ということになる。    
・当時の西欧列強にとって、文明とはキリスト教世界そのものであった。そのためキリス
 ト教国でない日本は、一段低い水準の未開国としか見なされなかった。それが日本人に
 対するさまざまな形での偏見や差別感となって表れていた。不平等条約の改正が難航し
 たのも、イギリスをはじめとする各国が、日本を後れた非文明国として見ていたからで
 ある。新渡戸自身、そうした状況を目の当たりにしてきただけに、黙ってはいられなか
 った。  
・新渡戸としては、日本はキリスト教国ではないけれども、そこには長い間の歴史や文化
 の中で培われた立派な倫理道徳観があって、日本人は決して野蛮人ではないということ
 を主張したかった。  
・中でも新渡戸が強く意識したのは、日本人は刀で人を斬りつけたり、あるいは自ら切腹
 したりする野蛮な民族だという欧米社会の誤った先入観を改めさせることであった。  
・切腹は武士が過ちを詫び、不名誉を免れるための制度としての荘厳な儀式である。冷静
 な心と沈着な振る舞いを要求されるもので、武士にしか許されなかった死の方である。
 ただし、自死を奨励したのではない。死に値しないのに死に急ぐことはかえって卑怯な
 こととみなされた。  
・武士にとって刀は武勇の象徴である。武士の子は、五歳になると正装を身につけ、本物
 の刀を腰に差すことを許される儀式を経験した。刀を差すことで自尊心が高まるととも
 に、それに伴う責任感も与えられることになった。しかし、刀を無分別に乱用すること
 は許されなかった。真の武士は刀を使うべき時をわきまえていたし、そのような機会は
 稀でしかなかった。場合を心得ずに刀を振り回す者は卑怯者とか臆病者とかいって蔑ま
 れたのである。  
・新渡戸は武士道における男女の地位の違いは差異であって、不平等ではないということ
 を強調している。武士道は女性に対して、男性とは異なる役割を与えているのであって、
 それを単純な上下の支配関係として捉えたり、あるいは女性に対する差別や蔑視とみな
 してりしてはいけないということである。  
・このように新渡戸は、「武士道」において単に日本文化を紹介しただけでなく、日本は
 キリスト教国ではないが、決して野蛮な国ではなく、欧米に劣らなく倫理道徳観を持ち、
 礼儀をわきまえた文明国であることを世界に知らせようとしたのである。
・新渡戸は愛国者ではあったが、国粋主義とは明確に一線を画していた。むしろ、日本と
 西洋とを等価値のものと見て、大局的な立場から日本の精神文化のもつ普遍性を強調し
 たのである。   
・1904年には、日本が大国ロシアを相手に戦いを挑んだとあって、世界中でこの東洋
 の新興国に対する関心が一挙に高まり、翌年には世界最強と言われたロシアのバルチッ
 ク艦隊を日本海海戦で破って勝利を収め、世界を驚かせた。
・当然のことながら、世界各国で多くの人たちが、日本人とはどういう民族なのかという
 ことに関心を持ち始めた。そういう時期に新渡戸の「武士道」が出版されたのである。
・第二次世界大戦後の日本においては占領政策の下で非軍事化と民主化が進められ、その
 過程で戦前の教育勅語が廃止されただけでなく、日本の伝統文化に対する関心も薄れて
 しまった。人間として大切な道徳も、復古的あるいは反動的であるとして否定されてし
 まった。その中で、武士道も軍国主義と結びつけられてしまい、一時は見向きもされな
 くなった。    
・国の安全はアメリカ任せという特異な状況下においては、国というものの存在を格別に
 意識する必要性も感じられなくなった。こうして戦後の四半世紀あまり、日本人は日本
 列島の中に閉じこもってひたすら仕事に専念した。  
・だがその後、国際化の進展に伴って外国人と接する機会が増えるにつれて、改めて日本
 人としてのアイデンティティを問い直される時代を迎えたのだ。海外に出て外国の人た
 ちと交わるようになると、相手から学ぶだけでなく、こちらからも日本のことを伝えな
 ければならなくなる。そこではじめて自分は何者であるかということを考えるようにな
 り、祖国というものを強く意識するようになるのだ。それと同時に、物質的な豊かさが
 ある程度達成されると、人間としていかに生きるべきかという問題についても関心が高
 まってきた。  
・そうした新しい状況に直面したとき、私たちの支えとなるものは何か。それは結局のと
 ころ、古くからある日本の伝統文化や、その中で培われた道徳的な規範に立ち返るしか
 ない。先人たちが築き上げてきた民族の財産である日本の伝統に学ぶしかないのだ。二
 十世紀も終わるころ、私たち日本人はようやくそのことに気がついた。 
  
「排日運動はアメリカの建国理念に反する」
・アメリカのペリー提督は、他の国々に先駆けて自分の手で日本を開国させることを使命
 と考え、そのため長崎ではなく、江戸湾に入港して、直接幕府を相手に交渉することに
 こだわった。しかも、軍人の家庭に育った彼は、交渉において必要であれば武力に訴え
 ることも辞さない考えで、出港に先立ってアメリカ政府に武力行使の許可を求めようと
 したのだ。しかしアメリカ政府はそれを認めず、日本と友好親善を図りたいとするフィ
 ルモア大統領の親書をペリーに持たせることにした。幸いペリーは二度目の来航で日本
 を平和裡に開国させることに成功したが、新渡戸は、力ずくで日本を開国させようと考
 えたペリーよりも、彼の武力行使を禁じたアメリカ政府の態度のほうを高く評価してい
 る。
・1871年、明治政府は1年10カ月もの長期にわたって右大臣岩倉具視を団長とする
 欧米視察のための使節団
を派遣した。このとき彼らが最初に訪問した国も、太平洋を挟
 んだ隣国アメリカである。  
・こうした外交使節とは別に、個人で命懸けで海外渡航を試みた人もいる。その一人が、
 函館からアメリカ船に密航した新島襄である。彼は1870年にアマースト大学を卒業
 して、日本人として最初のアメリカの大学の卒業生となった。帰国後の1875年に同
 志社英学校(現同志社大学)を創立している。
・明治政府は多くの留学生を西洋諸国に送り出した。留学生の中には開拓使がアメリカに
 派遣した5名の女子もいた。5人の女子留学生の中で最年少は6歳の津田梅子、佐倉藩
 士の娘であった。津田は帰国後、生涯独身を通し、日本で最初の女子高等教育危難とな
 る女子英学塾(現津田塾大学)を開設して女子教育の振興に力を尽くした。
・会津藩士の娘である山川捨松は、当時11歳であった。咲子という名前だったが、留学
 が決まると、母が「捨てたつもりで、帰りを待つ」と言ってつけた名前が捨松である。
 捨松の兄、山川健次郎は、戊辰戦争では会津白虎隊に加わったが年少のため行動を共に
 できずに生き残り、会津藩の将来を託されて敵軍の参謀に預けられて育った苦労人で、
 明治政府の国費留学生として一歩先にアメリカに渡っていた。帰国後に、東京帝国大学
 総長、九州帝国大学総長、京都帝国大学総長などを務めた。会津人の味わった苦労を思
 って贅沢を避け、一年中同じ洋服で通したと言われている。
・妹の捨松はアメリカの大学を卒業した最初の日本人女性となり、帰国したのは22歳で、
 すでに婚期を逸していた。ましてや英仏語は堪能でも日本語は不自由で、才気あふれる
 容姿端麗の女性とあっては、なおさら結婚相手は見つけにくかった。ところが西郷隆盛
 の従兄弟にあたる42歳の大山巌が妻を病気で亡くし、再婚相手にと望んだのが捨松だ
 った。実は大山こそかつて会津軍に砲撃を加え、その後苦難の道を歩ませることになっ
 た張本人である。しかし捨松は周囲の反対を押し切って結婚の申し出に応じ、後に鹿鳴
 館の貴婦人と呼ばれるようになる。
・明治政府は西洋から多くの専門家を招いて近代化を急いだ。彼らはお雇い外国人と呼ば
 れ、その数は1900年までに1万人にものぼる。お雇い外国人の中で圧倒的に多いの
 はイギリス人で、全体の4割強を占めている。次いでフランス人、ドイツ人、アメリカ
 人となっている。
・日本は軍事や産業の近代化に必要な最新の技術はイギリス、フランス、ドイツなどから
 導入する一方、教育や思想・文化などの面では、ヨーロッパの旧世界に背を向けて新大
 陸に渡ったアメリカ人の開拓精神に共感し、アメリカ人との交流を通じて近代化を図ろ
 うとしたのである。 
・なぜアメリカを模範としたのか。その理由は、当時のアメリカは平等社会であり、飛び
 ぬけて優れた知識人もいないが、無学の者も少ないのに対し、ヨーロッパは階級社会で
 あり、高い学問水準を誇る一方、無学の者も多かったからである。その点ではヨーロッ
 パよりもアメリカのほうが日本と似ていることから、アメリカの教育制度のほうが日本
 の実情に合っていると考えられたのだ。
・新渡戸にとって教育の最大かつ最高の目的は、人格を養うことであった。言い換えれば、
 狭い範囲の専門分野のことしか関心がなく、世間のことは何も知らないといった人間を
 つくるのではなく、すべての点において円満な人間をつくることであった。
・新渡戸は、帝国主義の成長とともに強国は互いに疑惑・嫉妬の目を向け合い、相手をす
 べて仮想敵とみなすようになったが、「人類は精神においてひとつ」であり、一見反対
 の性質をもったものが出合うところに新しい可能性が生まれると述べて、互いの相違点
 よりも類似点に目を向けることの重要性を強調した。また日本が戦争好きの危険な国で
 あるといった見方をする人がいることについて、それは誤った考えであり、実際は二百
 三十年の平和が続いた国であるということを紹介したうえで、現在の陸海軍の軍備も攻
 撃のためではなく、自衛のため、自己保全のためであることを強調した。
・新渡戸によれば、神道の重要性は、第一にそれが日本固有であり、日本民族の原始本能
 を集めた束と呼んでいいからであり、第二に、それが皇室の宗教であるからである。神
 道には原罪は存在しない。とはいえ、誰でも自分自身の心の中に深く探究すればするほ
 ど、自分の思いも行いも神の純粋からは程遠いことに気がつく。そうした問題、つまり
 不浄を解決するために行われるのが、吹き払うこと(ハライ)と洗い落とすこと(ミソ
 ギ)であり、それで清浄を回復するのである。日本人は、死者はどこかで生きていると
 強く信じている。だから祖先の追憶を敬い尊ぶのであり、死者は我々が彼らのことを思
 っている限り、そこに存在するのである。
・神道は内省による暗示の宗教であるから、神社はただ「礼拝の条件を提供する」だけで
 あって、その調度は異常なまでに簡素である。   
・神道は簡素で、教祖もなく、進学もなく、教典もない。信条もない。道徳的な掟ももた
 ない。そのため、現実を肯定することから、人間と神が同一化するという自然主義共通
 の弱点を有し、王侯権力と結託することにもなる。また神道は、その先祖崇拝、自然戦
 争から、国土への愛着につながり、民族宗教となる。その愛国心はたやすく偏狭な国家
 主義に堕するおそれがあるともいう。
・新渡戸は、アメリカ政府がペリーを派遣して日本を開国させたことを高く評価している。
 アメリカ政府はそれ以前から日本の開国を求めていた。当時は捕鯨の発展とともに日本
 近海で難破して上陸するアメリカ人が増えていた。だが、彼らは当局に捉えられて牢に
 入れられ、厳しく監禁された。そのためアメリカ政府は日本の開国を求めて公式使節を
 派遣しようとするが、そのたびに幕府から侮辱的な扱いを受けて追い返されるのが関の
 山だった。そうした背景があるだけに、新渡戸は、ペリー提督の派遣をアメリカにとっ
 て気高くかつ誇るべき快挙であるとみなしていた。ところが、当時のアメリカの新聞・
 雑誌などの論調を見ると、日本を征服しようとするのは無謀ななことだと非難するばか
 りで、誰もペリー派遣を支持するものはなかった。ペリーが結んだ条約についても不満
 が募っていた。 
・アメリカ国内におけるパリーの評価がこのように低いことに新渡戸は驚き、不満を感じ
 た。そこで彼は、ペリーの目的は給炭所の設置であって、通商条約の締結ではなかった
 ことを指摘してペリーを弁護し、さらにペリーが大方の世論の反対を押し切って自己の
 使命を達成したことを賞賛するのである。しかもそれは平和的な手段によって成し遂げ
 られたのだった。それを受けてアメリカ政府が、今度は通商条約の準備に向けてハリス
 という最適任者を総領事に任命したことについても、新渡戸は高く評価している。
・ペリー来日を契機とする日本の開国以来、その後の日米関係はずっと友好的であった。
 不平等条約改正の交渉においても、改正を訴える日本の立場を真っ先に支持してくれた
 のはアメリカであった。最後まで一人反対を唱えて改正を先送りさせたのは、長らく駐
 日英国公使を務めたパークスであった。 
・明治以降の日本の知識人は西洋のことについては熱心に学び、それを国内に紹介したが、
 日本の姿をきちんと外国に伝えることはしなかった。そもそも西洋に関心をもつ人の多
 くは日本を後れた国とみなしていたし、逆に日本の伝統文化に目を向ける人は外国に関
 心が薄く、国際的視野を欠いていた。その中で新渡戸は例外的に、外国の良さを理解す
 るだけでなく、日本の文化に対する幅広い理解と誇りをもち、それを海外に伝えること
 が国際関係の維持にとって極めて重要であることを理解していた。
・しかし、新渡戸のこうした発信活動も、日本国内ではあまり理解もされず、評価もされ
 なかった。西洋に対する劣等感の下で、西洋の学問や思想の上っ面のみを吸収するのが
 精いっぱいで、日本古来の伝統や文化に誇りをもってそれで西洋と対峙しようという気
 概のある人は少なかったし、この種の知的な交流が一国の外交政策や安全保障にとって
 どれほど重要であるかを理解できる人は、あまりにも少なかったのである。
・新渡戸は、アメリカの歴史は、世界の歴史の重大な部分をなしているという認識を持っ
 ていた。当時のアメリカは、まだ七つの海を支配するイギリスのような大国ではなかっ
 た。日本の知識人の多くは、依然としてヨーロッパにしか目が向いていなかった。その
 ような時代にあって、新渡戸は、アメリカがこれからの世界を動かす大国になるだろう
 と見通していたのであり、これからはアメリカのことを知らなければ、日本の将来を考
 えることもできないと考えていた。 
・新渡戸は、アメリカ研究を通じて、日米関係を改善するだけでなく、デモクラシーの定
 着化を図ることも期待していた。新渡戸にとって、アメリカという国は、デモクラシー
 と深く結びついて理解されていたと言っていい。 
・デモクラシーとは民衆の政治という意味だが、新渡戸は、それを「単に政治的現象では
 ない。相互の人格を尊重する態度」が根本になければならないと捉えていた。そして
 「人を人として相互の尊敬を抱くのがデモクラシーの根柢的意義だと僕は心得ている。
 これを言い換えれば、デモクラシーの出発点は心の態度であると云いたい」と述べてい
 る。新渡戸がここで強調しようとしたのは、「自由という概念は自分勝手なことをする
 ことではない」「自由は社会の秩序と法律の完備が伴ってはじめて実現できるものであ
 る」という考え方である。 
・イギリスから大陸に渡ってあの残虐な革命を引き起こすことになったフランス流の急進
 的な自由主義は、暴徒主義にすぎないとして排斥した。平等という概念についても、フ
 ランス革命においては「平等は人格の平等ではなく、物質的平等の意味まで堕落した」
 と批判し、「破壊的な社会主義あるいは共産主義はデモクラシーの必要条件とは思わな
 い」と言い切っている。 
・第一次世界大戦後のパリ講和会議における日本代表は、人種差別の禁止を国際連盟規約
 のなかに明文化することを要求した。それは直接的には、新天地を求めてアメリカ大陸
 に渡った日本人移民に対する排斥問題の解決を国際会議の場で求めたものであるが、そ
 れに加えて、有色人種への差別待遇を放置していたのでは国際協力も進まず、国際連盟
 が機能するためには人種平等の原則を明確にする必要があるという考えに基づくもので
 あった。しかし、採決の結果、16カ国のうち11カ国の代表の賛成は得られたものの、
 アメリカ、イギリス、などが反対し、ウィルソン大統領がこのような重要は案件は満場
 一致でなければならないと主張して、日本の提案は受け入れられなかった。列強のエゴ
 イズムが浮き彫りにされた瞬間であった。特にアメリカは、アジアからの移民が無制限
 に増加することを警戒していた。そのため日本の提案は、その意図とは逆に、かえって
 カリフォルニア州民の感情を逆撫ですることにもなった。
・排日移民法の制定によって、具体的に何がどう変わったか。この法律が制定されるまで
 は、日米間の摩擦を避けるために、日本側が自主的に移民を制限するという紳士協定が
 交わされ、その結果、日本人移民は年間150人程度にまで減っていた。アメリカはそ
 の紳士協定を敢えて破棄して、新たに排日移民法を制定し、日本人移民をゼロにしたの
 である。それがアメリカの国益にどれだけプラスになったのかといえば、おそらく何も
 得るところはなかったであろう。逆に日本にとっては、はじめから移民をこれ以上増や
 すつもりはなかったので、実質的な意味での被害はそれほど大きくはなかった。
・それでは、なぜ新渡戸は、あるいは日本人は、それほどまでに強く排日移民法に反対し
 たのか。それは、この法案の成立が単なる移民を認めるかどうかの問題ではなかったか
 らである。この法律の正式名称は移民割当法といって、ヨーロッパ各国からの移民に対
 して一定の枠を設けることがその趣旨であった。その法律の中で、日本からの移民を排
 除する条項が設けられたのである。とはいっても、条文には、特に日本人を対象とした
 制限を設けるとの表現は見当たらない。あるのは「帰化権のない外国人」は移民として
 受け入れないという文言だけである。だが現実には、アメリカへの帰化権は「自由な白
 人と黒人」に限られていたため、黒人以外の有色人種は完全に排斥されることになり、
 しかも中国人の移民はすでに禁止されていたので、この条項が日本人移民の排除を目的
 としたものであることは、誰に目にも明らかであった。日本が反対したのは、この法律
 によって日本だけが他の国と同様の扱いを受けられなくなり、不公正な扱いを受けるこ
 とになるからであった。 
・日本はそのわずか数年前に、パリ講和会議において人種差別撤廃を提案して、米英など
 大国の反対に遭って涙を呑むという苦い経験を味わったばかりであった。それだけに、
 人種平等の問題に対しては過敏になっていたのであり、この法律によって、移民を禁止
 されることよりも、不当に差別扱いされることに対する怒りが爆発したのである。日本
 人の名誉心あるいは自尊心を傷つけられたのである。  
・しかしその後、排日移民法は一時その廃止が噂されるようにはなったものの、ついにそ
 れが実現することはなかった。満州事変後にアメリカで高まった反日感情が、移民法改
 正よりも大きな政治的影響力をもつことになったからである。
・その後1941年、日米両国はついに戦火を交えることになる。アメリカ政府が日本人
 の帰化権を認めるようになるのは、日本の敗戦から7年経った1952年のことであり、
 人種差別を完全に撤廃して国籍、民族、宗教などに関係なく移民を認めるようになるの
 は、1965年に新移民法が制定されてからであった。

「東洋と西洋は互いに相手から学ぶ必要がある」
国際連盟というと、特に私たち日本人には、世界中がその発足を歓迎し、大きな期待を
 寄せた理想的な国際組織のように思わるかもしれないが、現実はそうではなかった。国
 際協力と世界平和を目的とした組織であったにもかかわらず、前例もないだけに、その
 任務遂行能力が危ぶまれていた。
・新渡戸は、国際連盟がさまざまな不利な情勢の中で誕生したことをよく理解していた。
 不利な情勢とは、第一に、連盟は戦争阻止・平和維持を目標としており、いったん開始
 された戦争を阻止する機能も機関も持ち合わせていないこと。第二に、連盟規約の最高
 の擁護者であったアメリカが参加しなかったこと。第三に、諸般の事情により1919
 年にワシントンで開催する予定だった総会を開催できなかったまま発足したことなどで
 あった。
・ジャーナリストとしての新渡戸は、当時ロンドンで行われていた海軍軍縮会議を支持し、
 平和のための積極的な働きかけを呼びかけた。具体的な方策として以下の9項目を提言
 した。
 ・中国に対する優越感を変えること
 ・学校での軍事教練をやめること
 ・政治から軍人を追放すること
 ・海軍軍縮会議において黙従的態度を取ること
 ・陸軍を縮小すること
 ・戦争反対の明白な宣言を行うこと
 ・不戦条約を効果的にする方法について積極的に提言を行うこと
 ・国際労働会議の決議をもっと敵うようにすること
 ・国際連盟の仕事においてもっと活発な役割を演じること
 実に驚くべき内容である。どの項目を見ても、当時としては非常に勇気のいる発言ばか
 りだ。軍部の強い反発を招いたであろうことは容易に想像される。
・西洋では、自由を求めて戦い、侵害者の手から力ずくで自由をもぎ取ったのは民衆であ
 った。東洋では、自由のなんの関わりもなかった人々と自ら進んで自由を分け合おうと
 したのは支配者であった。西洋では、人間の生は法的権利によって制約されているが、
 東洋では、道徳的義務を負わされている。後者では社会的関係は共同体的であり、前者
 では個人主義的である。ヨーロッパの君主は正義を理想とし、アジアでは慈悲が理想と
 される。西洋人が単なる知覚に、第一印象に満足せず、一般概念を構成しないではいら
 れないのに対して、東洋人は洞察力に、知覚から直接得られる清新な暗示に依存する。
 アジア人が感じとる事をヨーロッパ人は理解しなければならない。西洋の知性は思考的
 で何故であるかと理由を追求するのに対して、東洋の知性は認知的で事物の本質と成り
 立ちを了知するのである。
・新渡戸は日本の天皇制について解説している。誰もが不思議に思うのは、それがなぜ二
 千年の長きにわたって存続しているのかであろう。その理由について、彼は、「日本の
 君主制の長命のひとつの理由は、古来全人類にとって受け入れられて来た道徳的訓戒、
 「『あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜る地で、あなたが長く生きる
 ためである』に在る」との見方を示している。
・東洋では、親を愛する心、つまり孝こそすべての倫理的義務のはじめである。国家が社
 会契約の結果として、あるいは純粋に法律的な存在として考えられる場合は別として、
 その起源を探れば、国家は倫理的または精神的に組織された団体であり、そこではまず
 義務を果たしてその後に権利が生じると考えられている。
・そのような国家において国民を投じする君主に求められるのは「慈愛」であり、「仁」
 である。君主は何にもましてこうした徳を身につけようと努めなければならない。この
 徳をいかにして君主に体得させることができるか。君主制を完璧なものとするために、
 日本ではどのような感化力が用いられているのだろうか。日本では天皇の即位礼に関連
 して大嘗祭という儀式がおこなわれている。即位礼の他の儀式は壮麗な雰囲気の中で行
 われるのに対して、大嘗祭のほうは夜九時から夜明けまで天皇がたった一人で執り行う
 秘儀である。まさに君主の義務への手ほどきである。
・天皇の儀式執行のために、もっとも原始的な建築様式に従った、全く同じ設計の、小さ
 い建物が二つ建てられる。そして儀式の当日、定められた時刻になると、身を清め、古
 代の装束を召した新天皇が至聖所に通じる廊下を歩み、お付きの者を残して一人で奥の
 間に入る。見えざる女神にうやうやしく深い礼をし、奉献の儀といって、いくつもの土
 器の皿に盛られたさまざまな食物を女神の前に供える。そして自らも同じ食物と飲み物
 の相伴にあずかるのである。このとき、「天皇の視界から何世紀という時間が消滅する。
 天皇の内なる耳に、皇孫に使命を授けて日本の島に下りし給うたときの原始母神の言葉
 が聞こえる。この畏敬に満ちた神的交感に浸るうちにせまる四時間が過ぎる。一時間の
 合い間をおいて、真夜中過ぎ天皇は第二の至聖所に入られ、同じ「聖餐式」を繰り返さ
 れ、暁とともの御退去になる」のである。これは純然たる祖先崇拝である。
・新渡戸は、「君主がその天職を政治的見地からではなく倫理的見地から、法律的見地か
 らではなく精神的見地から考えるとき、その国民は同じ見地から彼に応えるものである」
 という見方を示し、その例証として、日本の歴史においては「あえて天皇の大権を奪お
 うとする者は一人としていなかった」ことを挙げている。そして、「民主主義は原則で
 あり、君主制は形式である。この二つの概念は、東洋精神にとっては、相容れないどこ
 ろか調和すると考えられる」と述べて、天皇制と民主制とは決して矛盾するものではな
 いということを西洋の読者に伝えようとした。日本の天皇制をこれほど明確に外国人に
 説明した人がいるだろうか。  
・戦後になって日本国憲法案を審議した衆議院本会議において、当時の吉田茂首相は、
 「五箇条の御誓文を見ましても、日本国は民主主義であり、デモクラシーそのものであ
 り、あえて君権政治とか、あるいは圧制政治の国体ではなかったことは明瞭であります」
 と答弁している。昭和天皇は1946年元日の証書において「神格化を否定した」
 (いわゆる人間宣言)とされているが、その冒頭に掲げられているのは「五箇条の御誓
 文」である。その趣旨について、のちに昭和天皇自身が、「日本の民主主義は決して外
 国からの輸入品ではないことを示したもの」であり、「神格とかそういうことは、二の
 次の問題でした」と語っているのである。
・新渡戸はそうした考え方をすでに戦前に自らの著書を通じて世界に伝えていたことにな
 る。だが、戦後になると、占領軍による日本弱体化政策によって戦前の全てが否定され、
 その結果、日本人自身がいつのまにか、あたかも戦前の日本には民主主義が存在しなか
 ったかのような間違った考え方をするようになった。しかし戦前においてもすでに普通
 選挙が実施されていたし、言論の自由もかなり広く認められていた。婦人参政権が認め
 られたのは戦後になってからのことだが、それは多くの日本人が憧れの念をもって眺め
 るフランスやスイスにおいても同様であった。 
二.二六事件の後、軍部においては皇道派が排除されて統制派が主導権を握ることにな
 り、その結果、政治面では国家社会主義的な政策が推し進められ、外国の思想文化には
 門戸を閉ざし、自ら孤立化への道を辿ることになった。
・新渡戸は茶道についても論じている。茶が日本に入ったのは九世紀初めのことで、中国
 に留学した僧侶が持ち帰った。そのため茶の使用は長いこと僧院内に限られていて、一
 般人の間に広まったのは十三世紀以降である。十七世紀にはイギリスにも持ち込まれた
 が、喫茶を芸術の域にまで高めたのは日本だけだ。それぞれの産地を飲み当てた者に賞
 が与えられる遊びが流行った。そのような不謹慎、贅沢に対する抗議として千利休が始
 めたのが茶の湯である。茶の湯の神髄、その秘められた目的は、人を俗世間から離脱せ
 しめ、武士ならばその思念を戦いから超越せしめ、より高い境地に至る道を開くことに
 ある」と説明している。
・茶の湯が大事にしているのは簡素の原則である。社会的腐敗のなかで、利休は自然に帰
 れ、表裏のない自然に、美しい自然に帰れと国民に訴えた。茶の湯は自己抑制の手段と
 しても役立ってきたし、孤独の慰みとして行うことができる。茶の湯には道徳的効果の
 ほかに、音楽や芝居のような芸術的効果もあるのだ。
・茶道は奢侈に対する抗議であっただけでなく、当時著しかった好戦的精神と階級差別と
 に対する抗議でもあったと新渡戸は言う。だから茶室には武器を持ち込まず、戦争と政
 治を話題にしないことが定めとなっていた。三メートル四方の標準的茶室はちょうど五
 名の人間を容れるだけの広さであり、その素朴な環境の中で平等が守られ、招かれた人
 は身分の違いに関係なく誰とでも同席できたのである。  
・日本に土着の神道は、自然及び祖先崇拝に基づく祭儀宗教なので、積極的な慈善活動に
 はほとんど関心がない。神道の根底にあるのは、人間性は本来的に善であるという暗黙
 の信念である。このことを表すのが「神ながら」という言葉であり、人間は生来清く、
 罪がないという考えである。その結果、「神道は些細な点に至るまで清浄であることを
 求めるので、出産、病気、死をも含めていかなる汚れにも触れることを忌み嫌うのであ
 る。人々が悲しみに悩んでいるとき、儀式的清浄に一々こだわる人々からどんな慰めが
 期待できよう。それ故、そのような神道信者たちによる人道主義的活動はほとんど見ら
 れないのである」と新渡戸は言う。
・六世紀に日本に伝えられた仏教これとは全く異なる。「神道より限りなく深い仏教が肉
 体的または精神的苦悩を救う難事業に非常に力を入れたので、やがて、結婚、役職の昇
 進、祝い事などといっためでたい事はなんであれ神道にゆだねられ、一方人生のより深
 い関心事、その悲しみや死は仏陀の弟子たちが面倒を見ることとなった」と新渡戸は言
 う。
・実際、七世紀には我が国最大の寺院がいくつも建立され、そこに施楽院、療病院、悲田
 院、敬田院といった公共施設が設けられた。肉食・牛馬屠殺・賭博、飲酒などが禁止さ
 れたのも、深い宗教心と強い人間的憐れみの情とが動機となっている。
・現在だけに目を向ければ、東洋は日ごとに西洋化している。しかし日本や中国が西洋を
 模倣する気になったのは、西洋が遠い昔に近東の宗教、芸術、文学を模倣したことを知
 っているからである。極東の人々は、西洋を模倣しながら、むしろ自分たちが昔発明し
 ながら完成せずに放置したものを今取り返しているとも言えるのだ。 
・新渡戸は、日本は地理的及び歴史的孤立によって何世紀もの間世界の他の国々から引き
 離されてきたが、仏教は人間の平等と全人類の同胞性を教え、人種的差異や国境を認め
 なかったこともあって、江戸時代の鎖国政策下で「外国人との交渉を禁じる非常に厳し
 い法規のあった時代でさえ、暴風や難船のため外国人が日本の沿岸に漂着すると、一般
 住民ばかりか役人たちも、当局から反対の指示があるまでは、彼らを親切に取り扱うの
 が常であった」として、日本人にはもともと排外思想がなかったことを紹介している。
・日本は中国の思想、文化、制度をそのまま導入したのではなかった。たとえばインド伝
 来の仏教を受け入れるためにあたっても、その教義や信条は日本人の道義観念と適合す
 るように自由を修正したし、祖先伝来の信仰である神道を見捨てることもなかった。漢
 語を取り入れても、古い大和言葉とその文法は捨てられることなく、散文や詩に日常用
 いられているのである。  
・日本は選択的模倣に精通し、そこに独創力が発揮されているのである。したがって、明
 治以降の西洋化においても、日本は「東西を対照し組み合わせ、そして結ぶ立場にある」
 と結論付け、東洋と西洋とが、「対抗の精神によらず、調和と協力と友好の意志をもっ
 て他者を知ること」が、世界にとってもっとも必要なことだと述べるのである。
・新渡戸によれば、「”明治維新”は、単なる政治上の出来事ではなかった。根底において、
 知的・感情的であって、それゆえ、その資源もまだ決して汲み尽くされてはいない。
 明治時代の使命はまだ終わっていない」と言う。そして、日本が「フランス革命のよう
 な残虐行為や、中国人のようなぐずつき」なしに旧秩序から新秩序に移行できたのは、
 「精神訓練と身体訓練、紳士の徳と軍人の徳を併せもった社会階層、治める力と能力を
 併せ持った階層」、つまり「武士」が存在したからであるとし、「国民、わけてもまず
 サムライが、王と国とに対してとった道徳的態度、すなわち忠君愛国」が維新の基調と
 なったことを強調する。
・それに続けて、「国民は今でも、理性よりはむしろ感情に大きく動かされる。他国との
 関係においてすら、冷たい計算やソロバン根性は、義憤や正当な復讐の感情ほど日本人
 を動かさない」と飲めているところなどは、今日においても基本的に変わっていないよ
 うだ。   
・国体という言葉は日本人にとっても理科しにくい。一般的には国家の形態であるが、日
 本においては、それは天皇を中心とする国のあり方を意味している。それを新渡戸は、
 「一家系における世襲的連続性に存するものとしての、君主政体の本質」を強調する言
 葉として捉え、それは「この国を従え、わが国の歴史の始めからそれを統治してきた
 ”家系”の長による、最高の社会的威信と政治権力の保持を意味する」ものであると説明
 する。そして、「この家系は国民全体を包括すると考えられる」ので、「天皇は、国民
 の代表であり、国民統合の象徴である」と述べている。
・日本の国家は、ルソーの国家のように「契約によって」出来上がったものではなく、
 「成長したもの」であり、したがって、統治者は「自分の意志を臣下に強制する権利と
 して」ではなく、むしろ「平和と幸福をもたらす義務として」国を治めるのだと説明し
 ている。契約ではないから、大日本帝国憲法は「布告」であり、大臣が責任を負うのも
 議会に対してではなく、天皇に対してなのである。
・大日本帝国憲法下における立憲君主制の問題点として、新渡戸は「統帥権の独立」と
 「軍部下ねき武官制」の二つを指摘している。統帥権独立の問題は、大日本帝国憲法第
 11条で「天皇は陸海軍を統帥する」と規定しているが、それは陸海軍大臣を通してで
 はなく、陸軍参謀総長と海軍令部長を通してであるため、閣議の権限外となってしまう
 ことである。軍部現役武官制の問題点とは、陸海軍大臣は現役の陸海軍将官から任命し
 なければならないため、軍部が実質的な人事権を握ってしまうことである。その結果、
 「これら将軍が首相の頭ごしに行動するという、時代錯誤の奇妙な習慣が起こった。わ
 が国の政治、また時には外交において、軍事的要素が不当な優位を得る原因としてしば
 しばなったのは、この軍人の変則的特権である」と新渡戸は鋭く指摘したのである。
・もうひとつの問題点として、第9条の「天皇は法律を執行する為に又は公共の安寧秩序
 を保持し及臣民の幸福を増進する為に必要なる命令を発し又は発せしむ」という条文の
 特に後段が、天皇の権限の広範な拡大を許容するような規定になっていることも指摘し
 た。
・新渡戸は自由主義者と言われるが、日本の政治には、イギリスで使われるような意味で
 の「自由」という観念が欠落していることも指摘している。そして、自由という考えを
 十分に理解するには、それに先立って「人格性」が実現されなければならないことを強
 調し、人格の実現こそが重要なのだと説く。そして、日本には「人格性の哲学的基礎が
 なく、自由の歴史的体験も欠けているので、自由主義はこれまでのところ、われわれの
 間では、狭い範囲でしか花を咲かせなかった」ことを認め、「反動的保守主義と極端な
 急進主義とが、この国の政界を両分している。どちらの側も一般民衆の信頼と尊敬を得
 てはいない」と現状に対する憂慮は表明していた。
・歴史的にみると、日本の民主主義は、「広く会議を興し、万機公論に決すべし」に始ま
 る明治天皇の五箇条の御誓文に基づいている。御誓文に基づいて制定された明治憲法下
 の立憲君主制においては、天皇は最高統治権者ではあったが、国務大臣の輔弼なしには
 単独ではいかなる統治権の行使もできなかったし、国務大臣の輔弼責任のもとで行われ
 た決定を天皇が拒否することもできなかった。日本の天皇は専制君主でもなければ、独
 裁者でもなかった。それが明治憲法下における立憲君主制の原則であった。
・一方で天皇はひたすら国民の安寧と国家の繁栄を願い、国民のために祈る存在でもあっ
 た。昭和天皇は1945年8月14日の御前会議において、ポツダム宣言の受諾をめぐ
 って賛否同数で結論を出せなくなったとき、自ら大東亜戦争の終戦を決断し、国民を救
 うためには「わが身はどうなってもかなわない」とさえ述べている。このことからも、
 日本の天皇制が、天皇と国民との間の信頼と敬愛の関係の上に成り立つものであること
 が理解できるのだ。 
・新渡戸は、「天皇の家系は国民全体を包括する」ので、「天皇は、国民の代表であり、
 国民統合の象徴である」と述べているが、この文言は、あたかも戦後の日本国憲法第1
 条「天皇は、日本国の象徴であり日本国統合の象徴であって、この地位は、主権の存す
 る日本国民の総意に基づく」との規定を先取りしているかのようである。
・当時の日本人にとって新憲法の謳う象徴に意味は理解しにくかった。しかし新渡戸は、
 すでに戦前から、明治憲法下における天皇についてこれを「国民統合の象徴」として説
 明していたのである。もちろん新渡戸は、戦後の象徴天皇制を想定していたわけではな
 いし、提唱してわけでもない。日本の天皇制はもともと、一方で権威を表す存在である
 と同時に、他方では、万世一系の家系によって国民統合の象徴としての存在でもある、
 という歴史的事実を述べていたにすぎない。しかし、それが戦後の象徴天皇制という考
 え方に影響を与えたことは十分に考えられるのだ。 
・新渡戸の見るところ、道徳教育がうまくいかなかったのは、その目標として、男子の場
 合は忠君愛国、女子の場合は良妻賢母となることばかりが強調され、「人格性への呼び
 かけは行われたためしがない」からであった。その結果、「人間の自己自身に対する義
 務や、隣人に対する日常の動作や、立憲国の市民としてのその責任については、ついで
 に触れるだけで、ほとんどなにひとつ教えなかった。宗教はなんの奨励も受けなかった。
 国際問題は注意深く避けられた」のである。
・新渡戸は女子教育が後れていることも、日本の教育制度の問題点として指摘していた。
 当時は、高等教育レベルになると女子の教育機会は極めて少なく、官立では東北帝国大
 学だけが女子を受け入れていたほかは、東京と奈良の女子高等師範学校があるだけだっ
 た。
・義務教育の成果を誇った新渡戸も、高等教育の現状については批判的であり、いくつか
 の問題点を率直に指摘している。たとえば大学教育の目的が就職だけとなって中身が伴
 わないこと、そのため学校教育が暗記に偏っていること、高等教育において学生の人格
 を育てる教育が行われていないことなどを指摘し、もっと個人の人格形成を重視する必
 要があるとの考え方を述べている。  
・たしかに当時の状況をみれば、日本の高等教育機関においては、超エリートが学ぶ高等
 学校を除いては、帝大でも専門学校でも、学問といえば専門的な知識や技術に限られて
 おり、すぐに役に立つ実際的な知識は教わるが、それを生み出すもとになる人間の思想
 や文化などの教育は置き去りにされていた。 
・現在のように大学が大衆化し、大学進学率が50%を超えている時代においては、新渡
 戸の言うような大学論は、必ずしもすべての大学に当てはまるとは言えないかもしれな
 い。しかし、どんな大学が大衆化しようとも、トップクラスのエリート育成を担う大学
 までが、単なる職業教育機関になってしまってはいけない。
・教育勅語で強調されているのは、孝行、友愛、夫婦の和、朋友の信、謙遜、博愛、修学
 習業、知能啓発、徳器成就、公益世務、遵法、義勇奉公という十二の徳目である。それ
 を武士道の徳目と比べると、内容的にはかなり共通するところが多い。実際、新渡戸自
 身は、教育勅語には武士道で教え込まれたすべてが含まれているだけでなく、さらによ
 いことには、それらが要約した形で表現されていると考えていた。すなわち、修身教育
 の中核となった教育勅語について、その中身は高く評価していた。しかしその一方で、
 教育勅語はその教え方を誤ったために期待する効果を示すことができなかったと述べて、
 教え方を問題視している。彼が問題にしたのは、本来普遍的性格をもっていたはずの教
 育勅語が、学校教育の中では「国民道徳」として国家という枠内に閉じ込められてしま
 ったことであった。
・誤解のないように言えば、新渡戸は忠君愛国を否定しているのではない。一高校長の時
 にも生徒たちに忠君愛国が大切なことを繰り返し説いているし、彼自身、天皇を深く尊
 崇し、祖国に対する忠誠心に溢れる愛国者であった。彼が批判したのは、忠君愛国その
 ものではなく、それ以外の徳目が軽視されたことにある。目の前にある日常的な義務を
 果たすことをきちんと教えず、非常時の儀中奉公の義務ばかり強調したところに問題が
 あることを指摘しているのである。そしてそれが「国民道徳」という狭い範囲に限定さ
 れてしまったことを批判しているのである。

「日本の植民政策の原則は国の安全と原住民の利益重視」
・新渡戸がジュネーブから帰国して4年半後の1931年、満州事変が勃発した。満州の
 奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖において南満州鉄道の線路が爆破されたのである。関
 東軍はこれを張学良軍によるものと公表して軍事行動を開始した。1万数千人の関東軍
 は20万人とも30万人ともいわれた張学良軍を駆逐して、瞬く間に満州全域を占領し
 てしまった。
・この柳条湖事件は、戦後になって極東国際軍事裁判(東京裁判)での証言に基づいき、
 関東軍の謀略であったことが明らかになった。首謀者は関東軍高級参謀の板垣征四郎大
 佐と作戦主任参謀の石原莞爾中佐であった。天才といわれた石原には彼なりの長期的な
 戦略思想があった。将来の対ソ戦に備え、さらにいずれ不可避となる日米最終戦争に備
 えるためには、日本は満州を支配下に置く必要があるという考えであり、その作戦が見
 事に成功したのである。
・日本と満州との関わりは日露戦争の終結からはじまった。もともと満州は清王朝を建設
 した満州族の土地である。中国は満州について領土主権を主張するが、中国の領土は万
 里の長城までであり、その先の満州はかつて一度も中国の一部であったことはなかった。
・現に孫文は、満州のことをあたかも外国であるかのような言い方をしていたし、革命後
 も満州を本拠地とする軍閥張作霖はほとんど独立して、自らの財源と自らの軍隊を持ち、
 自分の名で外国政府と協約締結を行っていた。しかし、それにもかかわらず、中国以上
 に満州に対して強い利権を要求する国もないことから、中国が満州に対する慣行上の権
 利を手に入れることになったのだ。  
・ロシアはこの満州に領土的野心を抱いていた。日清戦争後、日本が遼東半島を領有する
 と、ただちにロシアを中心に、ドイツ、フランスによる三国干渉が行われ、日本はやむ
 なく中国に遼東半島を返還することになった。するとロシアは、中国と条約を結んで満
 州全域を事実上占領してしまい、南下政策を進めるための基地としたのである。
・ロシアの南下政策に危機感を持った日本は、ついに自国の安全を守るためにロシアと戦
 うことを決意し、勝利した。そしてポーツマス条約に基づいてロシアから遼東半島の権
 益を承継し、旅順から長春までのロシア鉄道を譲り受けた。その結果、満州の領土主権
 はそのまま中国に残ったが、日本の影響の及ぶ広大な地域が誕生することになった。
・満鉄総裁となった後藤新平は、台湾総督府でもそうしたように、若くて有能な人材を積
 極的に登用した。後藤が満鉄経営の基本方針としたのは文装的武備という考え方であっ
 た。鉄道の輸送力を強化すればいざというときに軍事輸送にも使えるし、学校や病院を
 建設しれば外国との対立を緩和、解消する役割を果たすだけでなく、有事に際しては軍
 事に転用することも可能である。また各種調査研究を実施することによって諸外国との
 相互信頼関係が築かれ、協力関係も深まっていく。後藤の唱える文装的武備とは、そう
 した広義の安全保障概念に近いものであった。そうすることによって軍部を説得しなが
 ら、実質的には現地の社会経済の発展に資する施策を推進したのである。
・当時の日本は、国際連盟は基本的に西洋の組織であって、日本にはあまり関係がないと
 考えていた。特に日中関係の問題については、当事者間で解決すべき案件であると考え
 ていただけに、中国が満州問題を連盟に提訴したときには、まるで不意打ちを食らった
 ように驚いたのである。しかも、日本政府は軍の行動について十分な情報を把握できず、
 国際機関への対応の仕方も知らなかったので、すべてが後手に回ってしまった。
・新渡戸は、満州事変におけう当初の日本軍の行為を正当なものと認めていた。しかし、
 軍部の行動をすべて指示したのではなかった。その後の軍の独走には批判的であった。
 関東軍は政府の事態不拡散方針を無視して、張学良の本拠地である錦州を空爆した。こ
 の錦州空爆によって日本は領土的野心を持っているとみられることになった。
・新渡戸は、軍部に批判的なだけでなく、ジャーナリズムの扇動による過激な世論の高ま
 りに対しても危機感を募らせていた。満州事変が勃発すると、朝日新聞、大阪毎日新聞
 をはじめ各紙とも、莫大な予算を使って記者・特派員を派遣し、軍の動きを全面的に支
 持するような記事を書いては国民世論を煽っていた。それがまた政府に対する強い圧力
 となっていったのである。 
・第一次世界大戦後は、各国とも軍備縮小の方向に向かい、そのため、軍人は肩身の狭い
 思いをしなければならない時代を迎えた。だが、1930年代になるとすっかり状況が
 変わってしまう。世界恐慌の影響下で、ドイツやイタリアではファシストが勢力を伸ば
 していた。日本では二大政党による対極的な内政外交政策が交互に繰り返される中で、
 不況から抜け出せないことへの不満がつのっていた。そうした中で、政党に見切りをつ
 けた軍部が勢力を拡大しようとしていた。  
・この時期、国内では、暴力に訴えて言論を封じるような事件が相次いで起こっていた。
 新渡戸の発言の数日後、国家主義者のテロリスト集団である血盟団により、日銀総裁、
 大蔵大臣を歴任した民政党総務の井上準之助が暗殺され、三井合名会社理事長の団琢磨
 が暗殺された。さらに五.一五事件が起きて犬養毅首相らが暗殺されている。
・新渡戸は、植民政策の原理は、強いて一言でいえば、「原住民の利益を重んずべし」と
 いうことであると考えていた。そして、そのために注意すべき点として次の諸点を挙げ
 ている。第一は、原住民の風俗習慣にはみだりに干渉すべきではないということ。これ
 だけのことを学ぶために、各国は多年にわたる苦い経験を必要とした。第二に、いくら
 母国語を教えてもそれによって原住民の思想が改まることはないこと。第三に、宗教を
 伝えて本国人と原住民との間の同情の紐帯にしようとするのはよいが、ただし失敗例も
 多いこと。第四に、原住民を急に国家化しようとしてはいけないこと、第五に、本国人
 が原住民より実質的に優れていなければ教化はできないことである。 
・新渡戸は、大国が植民地を持つのは国民発展の論理的結果だと捉えていた。当時として
 はそれが一般的な認識であった。しかし、新渡戸は、長期的な視点からは、植民地とい
 うものを決して正常なものだとは考えていなかった。「国家学が生理学であるとすれば、
 植民政策は病理学である」と述べ、「植民地は一つの病的状態ではないだろうか。植民
 地は性質上一時的なものであるまいか」と言って、植民地支配が永続的なものではない
 という見方を表明していた。その見方が正しかったことは、その後の歴史が証明してい
 る。
・新渡戸の唱えた「原住民の利益を重んずるべし」という原則は、日本の植民政策の特徴
 でもあった。日本の植民政策には、それだけでなく、植民の動機という点においても当
 時の欧米列強の植民思想とは異なるところがあった。日本は植民国家としては後発だっ
 たが、その思想においては決して西洋の物真似ではなかった。  
・日本が台湾を獲得したのは、新渡戸によると「主として他に得るものがないという理由」
 からであった。実際、中国は台湾を手放したがっていたし、日本もはじめのうちは原住
 民の鎮圧に苦労して、一時は売却が論じられたことすらあった。このように台湾は、
 「当初たいして経済的価値は付与されず、またわが領土防衛のために不可欠とも考えら
 れなかった。しかし、のちにロシアとの戦争の際、その戦略上の重要性はきわめて大き
 いことがわかった」のである。
・これに対して、朝鮮に対する政策においては、常にロシアの脅威にどう対処するかとい
 う安全保障上の配慮が働いていた。北東アジアの地図を見るとよくわかるが、朝鮮半島
 は日本海に突出したビンのような形をしている。これに対して、日本列島は南北に細長
 く、海岸の多くは海浜で上陸に適しているうえ、陸地が狭隘なため部隊の運用も容易で
 はなく、敵が上陸したあとの迎撃は不可能に近い。したがって国土を防衛するには、洋
 上で敵の艦隊を撃滅するか、海峡の向こう側の大陸で敵を撃退するしかないのだ。もし
 も朝鮮半島が日本に敵対する国の支配下に置かれるならば、たちまち日本の安全が脅か
 されてしまうであろう。だからこそ、朝鮮の独立を確保することが、日本の安全保障に
 おける最重要の課題となるのである。 
・日清戦争にしても日露戦争にしても、西洋列強のアジア進出が最終局面を迎えたなかで、
 戦争半島の安定をめぐって日本、中国、ロシアの利害が衝突したために起きた戦争であ
 る。当時の朝鮮は、近代化に向けた改革に消極的な清国を宗主とする属領として位置づ
 けられていた。日清戦争はその朝鮮を清国から切り離すための戦争であった。日本は下
 関条約によって、清国に対し朝鮮が「完全無欠な独立自主の国」であることを認めさせ、
 さらに遼東半島、台湾、澎湖諸島を日本に割譲することも認めさせた。遼東半島とは満
 州から南の渤海と黄海との間に突き出る半島で、その最南端部には旅順や大連がある。
・ところが、南下政策に野心を燃やすロシアは、ドイツ、フランスに呼び掛け、日本に対
 して遼東半島を清国に返還するよう圧力をかけてきたのだ。三国干渉である。このとき
 日本には、ロシアを中心とする三カ国の連合に対抗する力がなかったので、涙を呑んで
 遼東半島を放棄せざるを得なかった。するとロシアは、三年後に今度は自国が清国と条
 約を結んで、遼東半島にある旅順と大連を租借し、南満州に鉄道を敷設する権利を取得
 してしまう。こうしてロシアは、長年の夢であった太平洋に通ずる不凍港を手に入れた
 のである。 
・ロシアは、その後、義和団事件に際して満州に軍隊を派遣し、満州全域を事実上占領し
 てしまった。そのうえ義和団の乱を鎮圧した列強が北京から撤兵した後も、ロシアは撤
 兵の約束を無視して、満州に居座り続けていた。それどころか、朝鮮半島にまで進出し、
 軍事的施設を建設しはじめた。朝鮮が第三国に支配されたのでは自国の安全を守ること
 はできないと考えた日本は、こうしたロシアの南下政策に強い危機感を抱いた。そして
 ついに自国の安全を守るために、国家の運命を懸けてロシアと戦う決心をしたのである。
日露戦争で勝利した日本は、ポーツマス条約に基づいてロシアから遼東半島の権益を継
 承し、旅順から長春までのロシア鉄道を譲り受けました。ポーツマス条約では、ロシア
 は、韓国における日本の政治的、軍事的、経済的利権も認めた。 
・こうした日本の行動は、韓国が混乱と無法の社会であったことを抜きにしては理解でき
 ないだろう。当時の韓国は、国内で政治的対立と抗争を繰り返し、それぞれが外国勢力
 とむすびついて、その影響下で絶えず揺れ動いていた。日本にとってはこれほど危険な
 ことはない。日露戦争という大きな犠牲を払って自国の安全を手に入れた日本は、韓国
 の領土を保全し、東アジアの将来の平和を確保するためには、何としてでも韓国の政治
 外交の安定化を図らなければならなかった。そうしないかぎり、将来にわたって日本の
 安全を守ることができないと考えられたのである。
・自国をきちんと治められない国は、その不安定さのために地域の安全を脅かす存在とな
 ってしまう。そのために、当時の弱肉強食の時代にあっては、そのような国は独立国と
 して存在する資格がないというのが、国際社会の常識であった。そうした視点に立てば、
 自立能力を欠いた韓国には、清国、ロシア、日本のいずれかの支配下に入るしか、選択
 の道は残されていなかったということになる。
・しかしその一方で、新渡戸は、植民行政においてはさまざまな問題が生じており、「絶
 対的に公平公正であることは極度にむつかしい」とも感じていた。その理由は、日本の
 軍人や役人の仕事の仕方が、イギリス人などに比べると、「控え目にいっても下手であ
 り、時には熱狂的すぎることは十分想像できる」からであった。
・たしかに朝鮮統治においては、統治の仕方については問題がなかったとはいえない。台
 湾の場合は、児玉総督と後藤民政長官という二人の卓越した指導者の下で、8年間にわ
 たって、現地の慣習を尊重しながら社会経済発展の基盤整備が進められた。原住民重視
 の政策が実際におこなわれていたのである。これに対して、朝鮮においては、大将級の
 武官総督のもとで軍政による武断統治が行われ、必ずしも民意を十分に配慮した柔軟な
 対応がなされなかった。
・日本の朝鮮統治の仕方について反省すべき点があったことは率直に認めなければならな
 い。しかしその上で、冷静かつ客観的に過去の歴史を振り返るならば、日本の統治が現
 地の人々の生活を向上させ、社会発展の基礎を築くことに貢献したことは否定できない
 事実である。それがロシアの南下を抑え、統治の東アジアの安定と平和に貢献したこと
 も事実として認めなければならない。そうした歴史的な事実を認めた上で、あらゆる植
 民地支配がそうであるかのように、日本の朝鮮統治にも、現地人の尊厳を踏みにじり、
 彼らの心の奥底に深い傷跡を残すような事例が存在したということに対しても、きちん
 と向き合っていく必要があるのだ。お互いに過去の歴史を忘れてはいけないが、過去に
 ばかりとらわれ過ぎて、未来が見えなくなってはいけない。ましてや歴史の真実を故意
 に歪めたりすることがあってはならないのである。
・台湾と朝鮮とでは、まず過去の歴史的背景の違いが大きい。台湾はわずか400年の、
 しかも外国に支配された歴史しかもっていなかったのに対して、韓国は長い歴史とすぐ
 れた伝統文化をもつ国であった。そのため、台湾にとって日本統治は単に支配者が変わ
 っただけのことだったかもしれないが、韓国の場合は、自分の弟分とでもいうべき日本
 に独立を奪われ、その支配下に入ったことで、一層強い屈辱感を味わうことになった。
 それが韓国文化の伝統としての「恨」の感情につながっていたのであろう。
・台湾と韓国とでは戦後における外的な要因にも大きな違いがあった。日本の敗戦後、台
 湾は大陸からきた蒋介石の率いる国民党政権の支配下に置かれ、その圧政に対する不満
 から、戦前の日本統治時代のほうがよかったという感情が定着した。一方、韓国の場合
 は、日本の支配から解放されはしたが自ら独立戦争を戦ったわけではなく、しかもその
 後、南北間の内戦で分離国家となり、米軍の支援でようやく解放されることになった。
 そのため、自己のアイディンティティを確立することができず、それによって鬱積した
 不満といらだちが、筋違いではあるが、かつての統治者である日本にぶつけられること
 になった。 
・戦後になって韓国政府が意図的に進めてきた反日教育の影響も無視できない。それがそ
 の後の対日政策の足かせともなっている。日本は日本で、これまで過去の歴史の事実を
 学校できちんと教えてこなかったことを反省しなければならないが、それにしても、現
 実を直視せずに過去にばかり目を向け、他者に責任を転嫁することで自己を正当化しよ
 うとする一部の韓国人の態度は、まるで駄々っ子のようだ。とはいえ、韓国人の示すこ
 うした感情的な反日的言動に対して、日本人までが同じレベルで感情的に対応したので
 は問題の解決にはならないだろう。反論すべきことは事実をもってきちんと論理的に反
 論しながら、あくまでも冷静かつ理性的な態度で、相手の心情を思いやりながら、互い
 に理解し合うために辛抱強く接するしかない。
・満州事変当時、問題だったは、軍部であり、軍部や世論を無責任に煽る視野狭窄のマス
 メディアであった。満州事変は満州の実験を握る張学良の軍閥との戦いであって、それ
 は相手方の攻撃に対する正当な権利として容認される自衛行為であった。しかし、上海
 事変のほうは、漢民族の地である中国本土内での中国軍との戦いであって、自衛行為の
 範囲を超えていた。 
・もうひとつのは、国際連盟総会においてリットン調査団の報告に基づく報告案が採択さ
 れ、日本政府は国内世論の強い反対を背景にその受け入れを拒否し、松岡主席全権代表
 が国際連盟の会議場から退場したことである。当初のリットン報告書は、日本が期待し
 たような満州国の独立を承認するものではなかったとはいえ、満州における中国側の不
 法行為によって日本の安全が脅かされていた事実を認め、満州における日本の権益を承
 認しようとする内容であった。それに対して中国は賛成したが、日本は反対した。
・松岡代表自身は、多少の妥協はやむを得ないとの考えを政府に伝えていた。だが、政府
 内部では外務大臣の内田康哉が一切の妥協を許さない強硬姿勢を貫いた。そのため、つ
 いに破局を回避することができなかったのだ。国際連盟総会の会議場から出てきたとき、
 松岡は「俺は完全に失敗したよ」と新聞記者に語った。ところが、意気消沈して帰国し
 た松岡代表を待っていたのは、以外にも国民の歓呼の出迎えであった。このような視野
 の狭い狂信的な国民世論を煽った新聞や雑誌などジャーナリズムの責任は重大である。
・新渡戸は日本が国際連盟を脱退したことについては、「連盟は過ちを犯した」と考えて
 いた」現実の国際社会は多くの既成事実の積み重ねの上に成り立っている。そのことを
 無視しては現実問題の解決は難しい。ところが連盟は、現実の平和を確保することより
 も、実際には適用できない法理論にこだわり、結果として双方の妥協に基づく現実的な
 解決策を打ち出せなかったと見ていたのである。  
・新渡戸はこうして連盟の群集支配を憂い、「連盟によって大きな誤りを悪が犯されたこ
 とを残念に思う。連盟は政治機関であって、法的機関でないことを、連盟は明らかに忘
 れていた」と述べている。他方で、新渡戸は、日本も間違いを犯したと考えた。なぜな
 ら、連盟に日本の立場を理解させることができなかったからである。
・アメリカは1930年にホーリー=スムート関税法を成立させた。その目的は不況で苦
 しむ国内産業を保護するため、アメリカに輸出される外国製品に超高率の関税をかける
 ことだった。つまり関税障壁である。これによってアメリカは自由貿易を捨てて、ブロ
 ック経済に入ったことになる。すると当然に、他の諸外国もアメリカ製品に対する関税
 を引きあげざるを得なくなる。こうしてアメリカのとった高関税政策は他国の高関税政
 策を誘発し、結果的にアメリカ自体の輸出市場を狭めることになった。
・そのため1929年の株式大暴落にはじまった大恐慌による不景気は、解消されるどこ
 ろか、さらに深刻化することになった。
・アメリカや大英帝国のような巨大な市場が自給自足経済圏を形成して外国製品を締め出
 せば、世界貿易は崩壊してしまう。フランスやオランダはまだ植民地を持っていたから
 何とかやっていけたが、植民地を持たないドイツやイタリアは、「持てる国」英米に対
 抗するために国家が経済を完全に支配する国家社会主義への道を歩んだ。
・列強のブロック経済化が進めば、当然、日本はもろにその影響を受けることになる。当
 時の日本は生糸などで外貨を稼ぎ、そのお金で海外から買った原材料を加工して安い雑
 貨類を作って海外に輸出していた。その日本が、列強のブロック化に対抗するためには、
 自らの自給自足圏を作るしかないことは自明の理と言っていい。満州国の建設もそうし
 た文脈のなかで捉える必要があるのだ。
・新渡戸は、日本を発つ前、昭和天皇に一年間のアメリカ講演旅行の報告をした際、天皇
 から「いまの日本がアメリカと戦争になっては絶対にいけないと思う。あなたはアメリ
 カに親しい人もあり、いろんな関係の人たちと交わってアメリカの事情も詳しいようだ
 から、何とか話し合いで戦争を食い止めることができるよう、ひとつ骨折ってもらいた
 い」と言われていた。しかし、新渡戸の体力はすでに限界に達していた。ビクトリアの
 ホテルで激烈な腹痛に見舞われたのである。新渡戸はただちに市内の病院に運ばれたが、
 一カ月余りの入院生活のあと、手術もむなしく72年の生涯を終えた。
・今日では満州事変を日本の軍国主義による一方的な侵略戦争とみなすのが一般的かもし
 れない。だが、リットン報告書の陰影に富んだ表現を持ち出すまでもなくそうした見方
 は一面的にすぎる。
・歴史を振り返るならば、満州事変以前の十年間は、日中関係は外務大臣幣原喜重郎の国
 際協調路線によって改善に向かい、平和が維持されていた。その幣原外交が破綻したの
 は、日本側の自制にもかかわらず、中国側が国際条約を無視して満州における日本の権
 益を奪取する戦略をとったからであった。 
・中国の門戸開放と機会均等を取り決めたワシントン体制は、列強の中国における既得権
 益については現状維持を認めるものであった。したがって日本政府が、中国の日本人居
 留民を保護するために必要な行動をとるのは当然のあことであった。にもかかわらず、
 この時期アメリカ政府は中国寄りの外交政策をとり、そのことが、国民党政府の利権回
 復運動を勢いづかせることになった。軍事衝突はその必然的な帰結であったともいえる。
・当時の満州は、満州族のほかに漢族、朝鮮族、蒙古族、ロシア人、日本人など多くの人
 種が住んでいたが、治安が悪く、政情もきわめて不安定だった。その満州の民生安定と
 経済発展を図り、「五族協和の王道楽土」をつくるという構想は、当時の日本人が世界
 的視野に立って抱いた理想でもあった。 
・そうした状況の中で、満州事変は、国内的には軍部の独走であったとはいえ、客観的に
 みれば、国際法を無視した中国側のナショナリズムの波に対抗しながら、満州の民生安
 定と経済発展を図るために、日本としてとりうる極めて限られた選択肢のひとつであっ
 た。その当時において、果たしてそれ以外にどのような現実的な選択肢があったであろ
 うか。しかも日本軍によって治安が確立されたことは、一般民衆からも歓迎されていた。
・当時の外交官であった重光葵は、満州事変は中国側の極端な排日運動に端を発したもの
 であり、日本の行動が満州だけにとどまっていれば、満州国も列強から黙認される見込
 みがあったとの見方をとっている。 
・新渡戸の没4年後の1937年、北京郊外で発生した盧溝橋事件がそれまでの4年間の
 平和を破った。盧溝橋事件はその後、日本政府の事態不拡大の方針にもかかわらず支那
 事変へと拡大していった。支那事変を理解する上で重要なのは、当時同盟通信社上海支
 局長だった松本重治が証言するように、「なんらかの形で日本軍がもっと侵攻してくる。 
 心とするコミンテルン(共産主義政党の国際組織)の動きがあった。その結果、日本は
 事態不拡大の方針を掲げながら、相手の挑発に乗って戦線を拡大し、何ら明確な戦略目
 的もないまま、ずるずると中国大陸での泥沼の戦争に入り込んでいったのだ。
・盧溝橋事件の2年後、欧州でドイツ軍がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦がはじま
 ったのである。ドイツの電撃作戦に刺激された日本は、それまでのロシアを仮想敵国と
 する北進政策から、イギリス、フランス、オランダの統治する東南アジアに矛先を変え
 た南進政策を転換し、さらにドイツ、イタリアと三国同盟を結んだ。その結果、アジア
 の戦争とヨーロッパの戦争が結びつくことになった。こうして日本は、日中間の問題を
 解決できないまま、アメリカ、イギリス、オランダによる対日経済制裁で追い込まれた
 末に、最後には日米交渉において到底受け入ることのできないハル・ノートを突き付け
 られ、1941年12月、ついに真珠湾攻撃に踏み切ったのである。
・日米開戦は日本国民もアメリカ国民も望んでいなかった。昭和天皇の意向にも反してい
 た。軍部に勝算があったわけでもない。だが、それにもかかわらず、政府は軍部の暴走
 を抑えることができなかった。  

新渡戸に学ぶグローバル思考
・第二次世界大戦後、植民地が相次いで独立し、今日では国の数は戦前の4倍に増えてい
 る。さらに、情報通信技術の進歩によって世界の国々が互いにつながり、地球全体がひ
 とつの共同体を形成するようになった。その中では、どの国をとっても一国だけで完全
 に自立できる国は存在しない。大国も小国も含めてすべての国が、食料、エネルギー、
 工業製品はじめ生活のあらゆる分野において互いにつながり、持ちつ持たれつの相互依
 存の関係にある。他国との関係が断ち切られてしまうと、たちまち国民の日常生活が立
 ち行かなくなる。
・世界がひとつということは、国家や民族・宗教などの壁がなくなったということではな
 い。むしろ近年は、グローバル化の負の側面も顕在化しはじめ、人々の帰属意識がかえ
 って強まる傾向が見られる。イギリスのEU離脱やアメリカのトランプ大統領の誕生も、
 経済的グローバルシムの行き過ぎを是正して国家主権を取り戻したいという国民感情の
 反映である。また、グローバル化によって国家の秩序維持機能が弱体化すると並行して、
 国内においては、自己のアイデンティティを国家ではなく、それより小さな民族、宗教、
 言語・文化などの違いに基づく集団に求めようとする動きも表面化している。時にはそ
 れが国外の勢力とも結びついて国際紛争に発展することもめずらしくない。
・グローバル化は多様な人々の出会いの機会を増やし、それによって人々の絆が深まるが、
 その一方で、自己の帰属意識や文化的アイデンティティが呼び覚まされ、国家意識が強
 まるだけでなく、時には社会の分断化が進むという現象も生じているのである。
・そうかといって、排他的な保護主義や孤立主義に走ってしまうのは危険なことだ。それ
 は人々の心の中に増悪と排除の感情を助長し、世界の平和と安定を脅かすことになる。
 世界がひとつにつながっている今日、私たちは、国家間はもとより国内においても、互
 いの立場を認め合って、対立ではなく融和と協調に基づく関係を構築する努力を惜しん
 ではならないのだ。
・二十世紀の科学技術の発達は高度経済成長をもたらし、それによって人々の生活は豊か
 になった。だが、その一方で、人口の増加と資源の開発は地球上の資源を枯渇させ、私
 たちの環境を破壊している。温度化に伴う気候変動は私たちの生活基盤を一瞬のうちに
 崩壊させてしまいかねない。私たちが生きていく上で不可欠な食料を確保することもむ
 ずかしくなっている。そうなると、もはや一国だけの繁栄はありえず、豊かな先進国だ
 けの発展もあり得ない。
・今日、先進国ではほとんどの人が物質的にはほぼ充たされた生活を享受できるようにな
 ったが、これからはこれまでのような高い経済成長は見込めない。他方、開発途上国で
 は、まだ多くの人々が貧困から抜け出せないでいるものの、わずかな経済成長でもそれ
 によって多くの人々が幸福度を高める余地は残されている。とはいえ、人類全体が現在
 の先進国並みにまで豊かになることは、資源の有限性という点からも、環境保全の立場
 からも、現実には不可能なことだ。
・二十一世紀という時代は、地球という有限環境の中で、あらゆる場所で人類社会の持続
 可能性が問われる時代であり、その中でいかにして世界中の人間の共存共生を実現する
 かということが最大の課題となっているのである。こうした状況の中で、私たちは格差
 の問題にどう対処するのか。答えは簡単ではない。だが、ひとつだけ確実に言えるのは、
 世界はいつまでも格差を容認しないだろうということだ。この問題は、基本的に人類の
 問題であり、社会正義の問題なのである。
・一国内における民族的あるいは宗教的対立の問題をみても、その根源には経済格差の問
 題が存在することが多い。イギリスのEU離脱やアメリカのトランプ大統領の誕生も、
 その根底にあるのは、グローバル化の恩恵から取り残されて貧困化する中産労働者階層
 の特権階層に対する反発であり、そうした現象は今後他の国々にも広がる可能性がある。
・これからの時代においては社会正義、つまり公平・公正な社会を実現するということが
 人類社会の最重要課題となるのは間違いない。公平・公正の問題とは、言い換えれば、
 パイをどう分け合うかと言う問題である。イノベーションによってパイを大きくする余
 地は残されてはいるが、それには限界がある。かといって有限あるいは縮小するパイを
 分け合うのは、極めて難しいことだ。 
・少なくとも日本をはじめ先進国においては、「もっと多く、もっと速く、もっと遠く」
 を追い求める経済成長路線はもはや時代の要請に合わなくなっている。これまでの価値
 観を改めなければならない。もちろん人間が生きていくためにはお金が必要だし、お金
 は大事に扱わなくければならない。だが、お金はあくまでも何かを手に入れるための手
 段に過ぎない。お金自体に価値があるわけではなく、お金があれば何でも手に入るとい
 うわけでもないのである。   
・そこで問題になるのは、何をもって幸福とするかである。重要なことは、今日にのよう
 に成熟段階に達した先進国では、物よりも心の豊かさを求める時代に入っているという
 現状を認識することであろう。人間として必要な基本的なニューズを満たした上で、あ
 とは「足るを知る」「分かち合う」「助け合う」ことを通じて、心の豊かさを追求する
 時代なのだ。経済よりも環境や安全、人権や生命を重視した生き方を選択する時代なの
 だ。そうした新しい価値観に基づいて互いに協力し合い、公平・公正な社会を築いてい
 くことが、これからのもっとも重要な課題ではないか。
・その中で日本は特に重要な役割を果たすことが期待されるだろう。なぜなら、日本は過
 去において、拝金主義に染まらない武士階級が支配する平和な社会を築いた経験があり、
 今でもなお、清貧な生き方をよしとする考え方がかなり広く社会に受け入れられている
 数少ない国のひとつでもあるからである。
・戦後の日本は、占領下で制定された新憲法において、「戦争の放棄」と「戦力の不保持」
 を謳った。さらに主権回復後は、日米安全保障条約に基づいてアメリカの軍事力の庇護
 下に入った。その結果、日本は自国の安全についてほとんど無関心でいられるという世
 界でも特異な国となり、そのための現代の日本人は、自分の身の安全は自分で守るとい
 う自主独立の精神まで失ってしまった。それだけでなく、戦前の軍国主義に対する反省
 から、武力はもちろんのこと、それ以外の権力も、さらにそれを行使する国家までも悪
 とみなすような風潮が広まった。その結果、他国で何が起ころうとも、「日本国内さえ
 安全であればよい」とする利己主義的な考え方が蔓延してしまった。憲法前文で「自国
 のことのみに専念して他国を無視してはならない」と明記しているにもかかわらず、で
 ある。これでは「平和ボケ」と言われても仕方がない。
・今日のようにグローバル化した時代においても、世界の秩序を維持するためのルールづ
 くりができる組織は国家以外にはない。個人の生命財産を合法的に守ってくれる組織は
 国家以外にはない。紛争が起こったときに問題解決に取り組むことができるのも国家だ
 けである。だからこそ私たちは国家のために尽くす義務を負っているし、国家のために
 命を捧げた人に対しては栄誉で報いなければならないのだ。国民の命を守る自衛隊を否
 定したり軽蔑したりするような反戦平和運動は、お伽の国の願望としては理解できなく
 はないにしても、国の政策としては現実性を欠いた無責任な空想論としか言いようがな
 い。 
・国民の側も、自立した個人としての責任を自覚する必要がある。自分の身は自分で守る
 という知恵は動物としての基本的な本能である。ところが平和ボケした日本人には、こ
 の基本的な常識が欠如している。世の中の現実に目をやれば、災害時などに自分を守っ
 てくれるのは、何よりも自分自身の日頃の心構えと備えであり、緊急時における機敏な
 判断と行動である。自分の身を自分で守ることができれば、互いに力を合わせて助け合
 うこともできる。もちろん国や自治体には住民を守る義務があるが、はじめからそれに
 頼り切ってはいけないのだ。まず自助、つぎに共助、そして最後の砦が公助なのである。
・今日のように国家間の相互依存が深まった時代においては、一方では国家として最小限
 の安全保障能力を備える必要性を認めつつも、他方では、もはや武力の行使で世界の紛
 争を解決できる時代ではなくなったという現実とも向き合わなければならない。武力の
 行使は最終的な問題解決にはなり得ないどころか、多くの場合、それが多数の一般市民
 の生命・財産を奪い、かえって問題を悪化させる危険性を伴うことにもなるのである。
 その陰でほくそ笑んでいるのは兵器産業で設けている人たちだけだ。
・地球規模の課題に取り組むための具体的な第一歩は、それぞれ個人の生活基盤である地
 元から始まる。自分が帰属する社会とは、新渡戸に時代は国家であった。今日において
 も国家の重要性は変わらない。しかし、国を動かすのはもはや一握りの指導者ではない。
 重要なのは地方自治体の力であり、そこに属する一人ひとりの住民の行動である。それ
 ぞれの自治体が地域に根差した取り組みを推し進めることよって、多様性に富んだ魅力
 ある地域文化や産業が発展し、それを基盤にして健全な国家が形成され、ひいては健全
 な国際社会が形成されていく。  
・そのような時代に求められる日本人とはどういう人か。それは人類社会全体の幸福を考
 えながら、自分が帰属する社会の現場で責任をもって行動できる人である。高い志を持
 ちつつ、それを支えるしっかりした道徳を身につけて行動できる人である。他人に対す
 る配慮を忘れず、勝ち負けを超えて相手からも信頼され、尊敬されるような人である。
・そのためには、もちろん専門的な知識や技術を身につけなければならない。しかし、そ
 れだけでは十分とは言えない。重要なのは、その知識や技術を正しく活用する力である。
 そのためには狭い専門分野に閉じこもらない幅広い物の見方や倫理観が必要になってく
 る。それが現代の教養というものだ。
・二十一世紀の今日においては、学問の高度化・細分化がますます進行し、その結果、研
 究者はますます狭く細分化された専門分野に特化してしまった。狭い分野に特化して研
 究しなければ新しい知見も得られず、論文を書くことすらできない時代になっている。
 一人の人間が何事についても一通りは知っているということは、もはや不可能に近くな
 っているのだ。  
・その一方で、私たちの住む社会のほうは科学技術の高度化に伴ってますます高度化し複
 雑化しており、そこにおける問題の多くは、単一の学問分野だけで対応できなくなって
 いる。特に地球規模の問題においてはその傾向が強い。したがって、そうした問題に取
 り組むためには、個々の学問分野を超えてさまざまな分野の人たちが互いに連携し協力
 体制を築くことが不可欠になってきている。 
・そういう時代にあっては、自分の専門分野だけに閉じこもっていてはいけない。狭い範
 囲の専門分野に閉じこもらずに、少し首を伸ばして周囲を見渡すことが大事だ。時には
 そこから飛び出して、もっと広い世界を眺める必要も出てくるだろう。「虫の目」で細
 部を詳しく調べることも大事だが、それ以上に、「鳥の目」で広く世界を眺めることが
 重要になってくるのだ。
・現実の世界において私たちが直面する問題は、どれも複雑で互いに絡み合っている。一
 面だけを見てそれがすべてだと思っては大間違いだ。にもかかわらず、私たちは物事に
 一面しか見ずにそれがすべてだと思い込み、それに基づいて判断し、行動してしまうこ
 とが少なくない。その結果、短絡的で偏った見方しかできなくなり、ついにはAはBか、
 右や左かといった極端な議論へと走ってしまう。それが先鋭化すると社会に不寛容の精
 神を増長させることにもなる。これではとても現実の問題に対処することはできない。
・グローバル化とは決して世界が一色に染まって平べったくなることではない。むしろそ
 れとは逆に、それぞれの国や地域に根を下ろしたローカルな取り組みが、そこから世界
 へと大きく拡がっていくプロセスである。その意味では、グローバル化時代とはローカ
 ルな価値観を世界に広めていく大競争の時代であると言っていいのだ。 
・だとすれば、私たちはもっと日本の伝統文化を大事にすべきだ。「流行」に追われるあ
 まり、「不易」を見失ってはならない。もっと自信と誇りをもって、先人の築いてきた
 歴史や伝統・文化を継承し、発信していく必要がある。日本の伝統の中でも、和と寛容
 の精神、相手の気持ちを敬う礼の精神は、これからも特に大切にしなければならないも
 のだ。それを支えるのは決して一人のスーパーマンではない。互いに思いやる大勢のチ
 ームワークである。日本人はそうしたチーム力を通じて、今日のような安全で、清潔で、
 便利で、親切な社会を築きあげてきたのである。