鹿鳴館の貴婦人 大山捨松 :久野明子

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留学と日本人
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この本は、今から30年前の1993年に刊行されたもので、明治初期にアメリカやヨー
ロッパの近代文明国を視察するために派遣された岩倉使節団と一緒にアメリカへ渡り留学
した5名の女子留学生のうちの一人である山川捨松(後に大山捨松)の生涯にスポットを
当てたものである。なお、この本の著者は大山捨松のひ孫に当たる人物のようだ。

ところで、この5人の女子留学生であるが、アメリカに留学したというより、時の政府の
政策によって留学させられたと言ったほうが正しいように思う。それも、明治政府が長期
的な視野に立って計画されたものではなく、一部の官僚の場当たり的な思いつきによって
行われた女子留学であったようだ。

この女子留学は、とにかく酷いとしか言いようがない。それは女子留学生の年齢が若すぎ
たことだ。5人の女子留学生は8歳から15歳だったが、15歳はまだしも、8歳や9歳
の、日本人としてまだ未完成の子供を10年もの間、それも離れ離れの状態でアメリカの
社会に放り込んだらどうなるか、考えなかったのだろうか。
(この本では津田梅子の年齢は8歳となっているが、他に本や資料では6歳となっている
ものが多い。他の4人についても年齢が高く記されているのはどうしてなのだろうか)

結局、10年後に日本に戻ってきた捨松は、片言の日本語しか話せず、読み書きはまった
くできなかったという。さらに梅子にいたっては、すっかり日本語そのものを忘れてしま
っていて、まったく日本語を話せなくなっていたという。自分の親元に帰ってきても、両
親とまったく話が通じないのだから、これは悲劇というしかない。

そんな状態だから、日本に帰ってきても、できる仕事はほとんどなかったのだろう。
通訳の仕事をやろうと思っても、英語はわかっても日本語がわからなければ通訳はできな
い。翻訳の仕事をやろうと思っても、日本語の読み書きができなければ翻訳の仕事はでき
ない。結局できたのは、鹿鳴館で外国人相手にダンスを踊るぐらいだったのだろう。
捨松や梅子にとって「鹿鳴館の花」などと呼ばれても、とてもそんなことで満足できる話
ではなかったのだ。アメリカで10年間頑張った結果がこれかと思うと、絶望感に襲われ
たのではなかろうか。

それでも捨松は、大山巌と結婚することによってなんとか活路を見出せた。これは捨松に
とって幸運だったのだと思う。しかし、梅子の場合は、そういう幸運が訪れることもなく、
とにかく自分の夢に向かって頑張るしかなかったのだろう。そして5人の中で一番年下だ
った梅子は、頑張りぬいて自分の夢を実現したのだ。
こう考えると、やはり津田梅子という人は、本当にすごい人だったと賞賛するしかない。

ところで、気になったのは捨松の最期だ。この本によれば、捨松は当時流行したスペイン
風邪に罹り、医者がワクチン注射を打った直後、ショック症状が出て死亡したことになっ
ている。つまり、ワクチン接種によるアナフィラキシーショックで死亡したということに
なる。医者が注射したワクチンが何のワクチンなのか書かれていないが、おそらくインフ
ルエンザワクチンだったのだろう。
日本でインフルエンザワクチンが開発されたのは1919年頃だったようだ。そして捨松
が死亡したのも1919年だ。そうすると、医者が捨松に打ったワクチンは、開発された
ばかりのインフルエンザワクチンだったということに矛盾はないことになる。
しかし、スペイン風邪に罹患中の捨松に、インフルエンザワクチンを接種する必要性があ
ったのだろうか。はなはだ疑問が残るのだ。

今までに読んだ関連する本:
鹿鳴館貴婦人考
新渡戸稲造はなぜ「武士道」を書いたのか


捨松の青春時代を求めて
・百年前(1882年)の十一月、太平洋上を木の葉のように揺れながら、一路日本の乗
 客に混じって、洋服姿もすっかり板についた二人の若い日本人女性が乗っていた。
 明治四年(1871年)の末、人々から、
 「あのようないたいけない娘を、アメリカ三界までやる親の心は鬼だ」
 と、ささやかれながら横浜港を後にした山川捨松と津田梅子の成長した姿である。
・ベーコン牧師の曽孫にあたるジル・ブライアン夫人がご主人と一緒に大学まで私を迎え
 にきてくれた。 
 栗色に白いものが混じる髪をきちんとうしろに結い上げ、深く澄んだするどい目は、
 写真でみた彼女の大叔母で捨松がその生涯を通し誰よりも心を開いたアリスにそっくり
 である。父親のアルフレッド・ベーコン氏は、八十七歳という高齢の上、老人性白内障
 のためほとんど視力を失ってはいるが、若い頃会ったアリス叔母のことはよく覚えてい
 るという。
・コーンウォルの村に入り、二百年も昔に建てられたというベーコン家に着くと、アリス
 と一番年が近かった兄アルフレッドの息子で同じ名前を受け継いでいるエール大学出の
 ベーコン氏は、真夏だというのにきちんとネクタイをしめ、揺り椅子に腰かけて、私た
 ちの到着を待っておられた。
・今回の旅行で私が一番見たかった、捨松がアリスに宛てた手紙は、捨松が日本に帰って
 からアリスやベーコン家の人たちに贈った有田焼のコーヒーセットや美しいオーガンジ
 ーのテーブル掛け、それにアリスが愛用していたという日本の着物等と一緒に大きな木
 箱の中に大切に納められていた。
・捨松が十年間のアメリカ留学生活を終えて日本に帰国し、六十歳で生涯を閉じるまで、
 心の友アリスに書き続けた手紙には、捨松の苦しみ、悩み、喜びが包み隠さず語られて
 いる。 
 日本人でありながら生涯日本語を自由に書くことができなかった捨松にとって、心の底
 から自分を表現できる相手は英語で語れるアリスだったのである。
・四十通近い手紙の中には、希望に満ちて祖国に帰ったばかりの捨松が直面した余りにも
 多くの悪習や、因習に満ちた日本の社会に対する激しい怒りや不満をアリスにぶつけた
 もの、子孫の私でさえ初めて知った捨松の秘められた恋の物語、また、明治政府の高官
 だった大山巌の妻でなくては知り得なかった、歴史的にも興味深い出来事がさりげなく
 書かれており、こんな貴重なものをこのままコーンウォルのベーコン家に埋もれさせて
 しまうには忍びない気がした。
・私はこの旅行の最後の目的地であるニュージャージー州のニューブランズウィックの町
 に向かった。この町にあるラトガースカレッジの図書館を訪れるためである。
ラトガースカレッジは1766年にオランダ改革派教会によって設立され、当初はクィ
 ーンズカレッジと呼ばれていたが後に後援者の名前をとってラトガースカレッジに改名   
 され、現在はニュージャージー州立大学となっている。
・このラトガースカレッジにまだ幕府が海外渡航を禁じていた慶応二年(1866年)、
 フルベッキの紹介状をもって訪れた熊本出身の横井左平太、太平という二人の若者が
 日本人留学生第一号であった。
 二人の渡米の目的は熊本藩のために造船技術と大砲の製造について学ぶことであった。
・横井兄弟に続いて、堰を切ったように次々と日本からの留学生がニューブランズウィッ
 クの町にやってきた。明治維新前後で約四十名、1880年までにその数は三百名を越
 えている。しかし、この中で完全に各位をとってラトガースカレッジを卒業できたのは
 たったの三名であった。
・岩倉具視、勝海舟、三條実美、松方正義の息子たちもラトガースカレッジで学んでいた
 が、後に明治政府の高官となった人達の中で、この町の中学校やカレッジで学んだもの
 が多いことはあまり知られていない。
・一方、幕末から明治初期にかけてアメリカから日本にやってきたラトガースカレッジの
 卒業生も多く、その数は十名をこえる。彼らはほとんどが新生日本の指南役として活躍
 した。 
 リンカーン大統領に任命され初代の駐日公使となったロバート・プルイン、横浜に我が
 国最初の改革派教会を設立したジェイムス・パラ、明治新政府のお雇い外人第一号とな
 った化学者ウィリアム・グリフィスは皆ラトガースカレッジの卒業生である。
 
会津藩の悲劇
・私は、1860年に会津に生まれました。父も祖父もさらに何代も前から山川家は「サ
 ムライ」の家柄でした。
・日本では60年代の初めにいろいろな問題が起こり、維新戦争へと広がっていきました。
 私共の会津藩主は、将軍と、当時「ミカド」と呼ばれていた天皇との争いで、最後まで
 官軍側に降伏しませんでした。
・藩主の城は若松にありました。当時私は八歳でした。会津戦争が終わりに近づく頃には、
 侍の家族はほとんど城に籠城いたしました。家族というのは女子供のことで、男達は皆
 戦いに出ていました。
・女子供も精一杯男達を助けて働きました。米を洗って炊き出しをする者、家の中の仕事
 をする者、前線にいる兵隊達のために弾薬を作る者。
 幼かった私に割り当てられた仕事は、蔵から鉛の玉を運び出し、弾薬筒に詰められたも
 のを他の蔵へ運び込むことでした。
・その頃になると、最後の抵抗をするために、十五歳以上の男子は皆戦いに出ており、
 十二歳から十五歳までの少年達も隊を編成して、官軍を相手に戦ったのです。
 会津戦争が終結致しました時、幕府軍側の藩主は皆官軍側に降伏しましたが、この少年
 達は、降伏の屈辱を受けるよりも、切腹による死の道を選んだのです。 
・私には、当時十四歳になる姉がおりました。姉に与えられた仕事は弾薬筒作りでした。
 しかし、その姉は、女だてらに侍になりたいといつも言っていましたので、その仕事は
 あまりにも単純すぎたのです。
 ある朝、どこで見つけ出したのか、姉はちぐはぐな鎧兜に身を固め、まるで男の子のよ
 うな出で立ちで出てきたのです。長かった髪を短く切り落とし、可愛らしい口元をきり
 っと一文字に結び、本当に立派な侍ようでした。
 姉は戦いに行くつもりだったのです。けれども、母が固く禁じたため、やむなく思いと
 どまったのです。  
・包囲戦も最後となった頃、敵軍はお城の周りに大砲をすえつけました。そこから毎日の
 ように、大砲の玉が私達の頭の上をかすめ、お城の中に落ちてきました。
 その玉を拾い集めて積み上げておくのも私の仕事の一つでした。
 母、姉、義姉そして私はいつでも死ぬ覚悟はできておりました。怪我をして体が不自由
 になるよりも、死を望んでいました。
 ですから、私達はいつも母と約束をしておりました。もしも、私達の中で誰かが重傷を
 負った時には、武士の道にならって私達の首を斬り落としてくださいと。
・ある日、私達が大急ぎで食事をしていると、砲弾が部屋の中に落ちてきて破裂したので
 す。義姉は胸を、私は首をやられました。私は首をやられてしまいました。
 私の傷はたいしたことはなく、一週間ばかり床についただけで自分の仕事に戻ることが
 できましたが、義姉の場合はそうはいきませんでした。助からないことはもう目に見え
 ていましたので、使いの者を前線まで走らせて、兄にすぐ城へ戻り義姉の最後の別れを
 するように伝えました。
 早くこの苦しみから救ってくださいと、苦しい息の下から頼む義姉の声を聞くことはと
 ても耐え難いことでした。
・でも気の毒に、母はあまりの酷さにすっかり勇気を失ってしまったのです。
 約束を守るだけの強さは母にはなかったのです。
 可哀相に、義姉は拷問のような苦しみを味わいながら、兄が到着する二、三時間前に息
 を引きとったのでした。 
・私達の損害はひどく、もう絶体絶命の立場まで追い込まれてしまいました。
 それでも降伏する決心がつきまねていたのです。
 そこで、私達にはまだ十分余裕があると敵に思わせるために、一体何をしたと思います
 か。女の子達は、祝日などに揚げる凧を揚げるように言われたのです。男の子も一緒に
 加わり、食糧もすっかり底をつき飢えのためにやくなく降伏するまで、揚げ続けたので
 す。 
・不思議なことに、将来私の夫となる人が敵軍の中にいて、この夜間の際負傷したのです。
 私が注意深く積み上げていた大砲の弾を打った敵軍の一人と結婚することになろうとは
 夢にも思いませんでした。
・これは、アメリカの雑誌に明治三十七年に載った捨松自らが英語で語った会津戦争の記
 事である。 

・蔓延元年(1860年)二月、山川捨松は会津藩家老山川尚江重固の末娘として生まれ
 た。幼名を咲子という。
・山川家は、会津藩祖信州高遠の保科家に代々仕えた家柄で、捨松の祖父山川兵衛重英の
 時、財政的手腕を見込まれ勘定奉行に抜擢され、その後家老に昇進した。父重固は、捨
 松が生まれる一ヵ月前に病死している。このため捨松は、父の顔を知らずに祖父重英と
 母唐衣に育てられた。 
・母唐衣は、会津藩士西郷十郎右衛門近登之の長女で、二十歳の時に山川家に嫁いている。
 白虎隊の中でただ一人生き残った「飯沼貞吉」の母ふみは、唐衣の妹にあたる。
・幕末期において、会津藩では他のどの藩よりも藩の家訓が厳格に守られていた。
 この家訓は、寛文八年(1668年)に藩祖保科正之が制定したもので、上級武士はも
 ちろんのこと、下級武士や女子供の間まで徹底的に浸透しており、「会津魂」つぃて二
 百年間も受け継がれてきた。
・会津藩の子供達は幼い時から厳しく「ならぬことはなりませぬ」としつけられ、藩士と
 しての誇りを持って成長していったのである。
・会津藩祖保科正之は徳川二代将軍秀忠の庶子で、七歳のとき信州高遠の城主保科正光の
 養子となった。
 正之は寛永二十年(1643年)に三代将軍家光より肥沃の土地会津二十三万石をもら
 いうけ、後に子孫は松平姓を名のることになる。
 以来、会津藩は将軍に忠誠を尽くすことを家訓とし、厳しん藩体制と秩序を作りあげて
 きた。 
・江戸の会津藩邸では京都守護職を引き受けることを固く辞退した。
 もし、引き受ければこの混乱期にあってたちまち政局争いに巻き込まれることは火を見
 るよりも明らかだったからだ。
 松平春嶽一橋慶喜の説得は執拗に続き最後には会津藩の家訓まで持ち出して松平容保
 にせまった。
 たとえ藩が滅んでも、将軍に忠誠を尽くし幕府と運命を共にするのが藩主の務めだとい
 うのである。
・容保はこれ以上拒否し続けるのは不可能と判断し、重臣たちの前でその決意を語った。
 重臣たちは、京都の戦場に主君とともに死ぬ覚悟を固めたが、藩の悲運を思って互いに
 涙したという。
 この時、会津藩士一万数千人とその家族が、数年後には朝敵の汚名をきせられ、本州の
 さいはての地で言語に絶する悲惨な生活を送らなければならないとは、この場にいた誰
 もが予想もしなかった。
・さらに会津にとって不幸であったのは、大坂城に共に逃れた将軍慶喜が、兵力では勝算
 のあった戦を捨てて、容保ら幕府軍の幹部を連れて軍艦開陽丸で江戸へ逃亡してしまっ
 たことであった。そして、江戸城に戻って今後の戦略を検討すると言っていた慶喜が、
 朝廷に対して絶対恭順の態度を表明したのである。
・容保らは、会津若松城に戻り、ひたすら朝廷に対して恭順の意を表し謹慎生活を送った。
 何度となく、嘆願書を提出したが受け入れられなかった。
 会津討伐のうわさが乱れ飛ぶようになり、会津周辺には官軍が押し寄せてきた。
 容保は、初めは戦う意志はなかったが、新政府への嘆願ももはや望みがないと判断し、
 白河城の攻略を敢行し会津戦争へと突入していったのである。
・藩主容保は、白虎士中二隊と兵二百名余りを率いて滝沢口に本陣を敷いて、敵を食い止
 めるために必死に攻防戦を展開したが、薩摩、土佐、佐土原等の諸藩三千名の兵が戸ノ
 口原になだれ込み、本陣まで敵弾が飛び込んでくる勢いであった。
 形勢不利と判断した容保は、本陣を引き払い鶴ヶ城に籠城する覚悟を決めた。
・山川家では、捨松の長兄はすでに田島方面に出征して留守、次兄の健次郎は、前日から
 藩主容保に従い滝沢村へ出陣していた。
 家で留守を守っていた母唐衣、双葉、操、常盤、捨松、それに大蔵の妻とせの六人で早
 鐘とともに急ぎ入城した。   
・逃げ場を失い泥まみれになって右往左往する者、乱れ飛ぶ銃弾にあたって泣き叫ぶ子供
 達、歩けない年寄りを背負ったまま敵の弾にあたり、親を介錯して自らも果てる者、
 新政府軍によってすっかり包囲された城下は一夜にして目を覆うばかりの修羅場と化し
 たのである。
・さらに出征藩士の留守宅ではあちこちで悲劇が起きていた。
 士族の婦人子供は、籠城を許されていたにもかかわらず、入城してもかえって父や夫や
 息子の足手まといになるかもしれない、いつまで続くかわからない籠城戦で、多くの家
 族がいて貴重な食糧を食いつぶすなら、そして官軍から辱めを受けるよりもと、白装束
 に身をかため水盃をかわして自害した家族も多かった。この日だけでもその数は二百名
 にのぼった。
 家老西郷頼母の屋敷でも、妻千重子は次々と幼い我が子を刺し、一族の女子供二十一人
 と共に自らの命を絶った。
白虎隊の悲劇もこの日に起きた。隊長を失い、前夜から森林をさ迷い歩いていた十九名
 の白虎隊の少年達は、飯盛山から城下を見渡すと、屋敷はもうもうと煙をあげて燃え盛
 っており、城の雄姿も煙にかすんでいた。
 疲労困憊した少年達は、すでに城が落ちたと早合点し、互いに刺し違い若い命を絶った
 のである。 
・松平容保の義姉にあたる照姫は籠城した婦女子や奥女中達の指揮官となって傷病者の看
 護や炊き出し、消火作業の指図などをてきぱきと行った。
 婦人達も両刀を腰につけ、たすき掛けで弾丸の飛び交う中を自分達に与えられた仕事に
 奔走した。
 中でも一番危険な仕事は「焼き玉押さえ」といって、敵が打ち込んできた砲弾が破裂す
 る前に濡れた布団や着物を弾に覆いかぶせ、爆発をふせぐ仕事である。捨松の義姉で大
 蔵の妻とせが、身体に数箇所の傷を受け悲惨な最期をとげたのも、この「焼き玉押さえ」
 をしていたからであった。
・戦況は日一日と会津側に不利な情勢となっていった。
 城は約三万の政府軍に包囲され、九月には奥羽列藩同盟を結んだ米沢藩が政府軍に降伏
 し、会津藩は孤立無援となった。
 政府軍は城の四方に約六十門の大砲を並べ総攻撃を開始した。
 三日間にわたる砲撃で鶴ヶ城は蜂の巣となった。
 それでも、城は落ちず籠城中の兵士達の戦意は衰えなかった。
 子供達は、これしきのことで参るものかと、秋空に凧をあげ敵軍にゆとりを見せつけた。
・しかし、藩主・松平容保は同盟藩からの援助の道も途絶えたことを知り、藩民すべてを
 犬死させるに忍びず、ついに降伏を決意し、九月、米沢藩を通じ参謀板垣退助にその意
 を伝えた。
・追手門に降伏を知らせる白旗が揚がった。
 この白旗は、籠城中に城中にある白布はすべて包帯に使い果たしてしまったため、前の
 晩、婦人達が小さな白布の切れ端を持ちより、無念の涙を流しながら縫い合わせて作っ
 た旗であった。
・松平容保は、焼け野原と化した町中を政府軍兵士の罵声を浴びながら滝沢村の妙国寺に
 入った。
 城内にいた兵士達は猪苗代に送られ、負傷者は青木村の政府軍の病院へ、婦女老幼及び
 城外にいた兵士は塩川村に移された。
・捨松も祖父重英と母、三人の姉達と一緒に塩川に向かった。
 途中、夜を明かすために立ち寄った寺で出された白米の握り飯を見て、幼い捨松は「白
 いの、白いの」と言って、大喜びしたという。
 翌朝、捨松達は塩川の水谷地村に落ち着き、そこで新政府の処分を待つ生活が始まった。
・山川家では、この戦いで、九月の政府軍の総攻撃の時、大蔵の妻を失っただけで、男手
 は皆無事生き残ることができた。
 しかし、戦いが終わるとすぐ、大蔵と健次郎の二人は、家族と離れてそれぞれまったく
 別の道を歩きはじめることになった。
大蔵は、滝沢村の妙国寺で謹慎中の容保親子に上京の命令が出ると、主君に同行して会
 津を発ち東京飯田町の火消屋敷と呼ばれる謹慎所へ向かった。
 大蔵は、松平家のお家再興、藩士達の身の振り方等を新政府と交渉する重要な任務を引
 き受け、藩士達の信望を集めた。
・一方、健次郎は、大雪の降る中を同じ藩の小川亮という少年と二人密かに猪苗代の謹慎
 所を抜け出した。表向きは脱藩であるが、藩の秘密命令によって越後の木原にいる長州
 藩士「奥平謙輔」のもとへ旅立ったのである。
 日新館で秀才の誉れ高かった二人に、これからの新しい時代を生きていくのに必要な学
 問を修めさせるためであった。
 この企ては、会津藩の藩外交の任についていた知識人として名高い「秋月悌次郎」の配
 慮によるものだった。  
  
・明治二年(1869)十一月、松平容保の嗣子容大(当時一歳)をもって、松平家再興
 が許された。 
 しかし、実際に彼等に与えられた土地は、本州最北の不毛の地、陸奥三万石だけで、肥
 沃の地、会津二十三万石と比べると天と地ほどの違いがあった。
・明治政府は、松平家再興にあたって初めから陸奥の国を押し付けてきたわけではなかっ
 た。内示には「猪苗代または陸奥の北部にて三万石を賜る」とあった。
 それをあえて先祖の地、会津を辞退したのは、新政府に対する気遣いもあったが、果て
 しなく広がる北の荒野に、戦争ですべてを失った会津藩復興の夢を託したのであった。
・新しい封地は、斗南と名付けられた。現在の青森県下北郡、上北郡、三戸郡と岩手県の
 二戸郡の一部にあたる。  
 地理的に見ると、斗南藩の領地の真中には七戸藩と八戸藩が入り込んでいて、一つの藩
 が他藩によって南北二つに分けられている。こうした変則的な領地で旧会津藩士達は新
 しい出発を余儀なくされたのである。
・明治三年の春から十月にかけて、東京、猪苗代、越後の高田に別れて謹慎生活を送って
 いた旧会津藩士とその家族達は新しい封地へ向けて大移動を始めました。
 その数は約一万七千人、ある者は陸路を歩き、ある者は船に乗って海から斗南へ渡った。
・六月、捨松も母唐衣や姉達それに会津残留組とその家族約二百五十名と一緒に兄、山川
 大蔵に引率され若松を出発した。
 ほとんどの家族は会津戦争で家財道具を失っており、身のまわりの物だけを持って徒歩
 で津川まで行き、そこから阿賀野川を船で下り新潟に到着した。
 一行は新潟からは政府が移住者達のために借り切ったアメリカの外輪蒸気船ヤンシー号
 に乗り込んだ。
・船が陸奥湾内の野辺地港に入港すると捨松達家族はただちに藩庁の置かれた五戸に向か
 った。
 すでに大蔵は藩の権大参事という要職についており、幼い藩主容大に代わって藩政を執
 っていた。  
 厳寒不毛の地に移住してきた藩民一万七千人余の生活の一切が、大蔵の肩にかかってい
 るのである。この時期、大蔵は、名を浩と改めている。
・明治四年(1871)の二月、藩庁は五戸から田名部へ移され、捨松達も坂井勝之進と
 いう人の家に世話になることになった。
 藩庁は曹洞宗の「円通寺」に置かれ、ここで斗南藩の本格的な行政が始まったのである。
・北の荒野に新しい生活を夢みて移住してきた人々を待ち受けていたのは、ひどい食糧不
 足と厳しい冬であった。  
 三万石といっても、一年の半分は雪に覆われているため、実質的に七千石しかなく四千
 戸余の藩士の家族を養えるはずがなかった。
・人々は、飢えを凌ぐためには食べられるものは何でも口にした。野山にはえている山菜、
 馬にやる大豆、海藻の根を細かくきざんで干したものを入れて炊いた押し布がゆ、時に
 は犬の肉を塩で煮て食べることもあった。
 栄養失調で死ぬ人が続出したが葬式を出すこともできず、まさに斗南での生活は「地獄
 への道」であった。
・こうした悲惨な境遇にあって、「やれやれ会津の乞食藩士ども下北に餓死して絶えたる
 よと、薩長の下郎武士どもに笑われるぞ。生き抜け、生きて残れ、会津の国辱雪ぐまで
 は生きてあれよ、ここはまだ戦場なるぞ」と、皆歯を食いしばり今こそ会津魂を見せる
 時だと互いに励まし合いながら耐え抜いたのであった。
   
・捨松は十一歳になっていた。
 兄・浩は藩の指導者として、自らすすんで粗衣粗食の生活を実行していたため、山川家
 はかえってよその家庭よりも切り詰めた暮らしをしなければならなかった。
 子供といえども大切な働き手である。捨松は毎日姉達と一緒に畑に出て肥桶をかつぎ野
 良仕事を手伝った。少しでも食事の足しになるように、川に入って魚や貝をとったりも
 した。
・育ちざかりの妹達に満足な食事も与えられないことを気にやんだ浩は、母親と相談して
 一番下の捨松を箱館にやりことにした。
 斗南での地獄のような生活に比べれば、箱館のほうが、はるかに人間らしい生活が送れ
 ると考えたからである。
・捨松が誰の家に引き取られていったかは、残念ながら正確な記録は残されていない。
 坂本龍馬の従兄にあたるギリシャ正教会の宣教師をしていた沢辺琢磨の家に預けられた
 という説がある。
 しかし、捨松が箱館に渡った頃は、沢辺の家は火災にあった直後で、家族は板蔵を仮住
 まいにしており生活も苦しかった。
 その上、沢辺家には琢磨が仙台から呼び寄せた藩士達の居候がごろごろしていて、とて
 も若い娘を預かる状況にはなかった。
・捨松は、外国人の宣教師の家に預けられたという説もある。
 捨松の学んだヴァッサーカレッジに保存されている資料の中に、
 「私は幼い頃、親元を離れて箱館のフランス人の家庭に預けられました」
 と、捨松自身が級友に語った文章がある。
 多分、捨松は初めは沢辺家に預けられたけれども、沢辺家の事情に知り合いのフランス
 人のところへ引き取られていったと考えるのが妥当であろう。
・安政元年(1854)に開港して以来、箱館は燃料補給のために立ち寄る外国船や、北
 海の豊富な海産物に目を付けた内外の貿易商達の出入りで活気を帯びた町になっていた。
 維新までには、領事館を開いた国は九カ国を数え、外国人居留地区には赤や緑の屋根も
 美しい西洋館が立ち並び、町には自由で開放的な空気があふれ、町の人々にとって西洋
 人の姿など、ちっとも珍しものではなかった。
・斗南では食べることだけが精一杯のその日暮らしを送っていた捨松にとって、箱館はま
 さに別天地であった。
 わずか半年余りではあったけれど、この町で垣間見たり、肌に触れた「西洋」が、これ
 からの捨松が出会う本物の「西洋」への短い前奏曲となったのである。
  
岩倉使節団と女子留学生
・ワシントンを訪れた「黒田清隆」はアメリカ各地で目にした女性達からなによりも大き
 なショックを受けた。
 ここでは日本と比べ女性が明るく生き生きとして幸せそうに見えることにまず驚いた。
 彼女達は女性であるにもかかわらず、男性と対等に意見をかわすことができるし、男性
 と同じ仕事についている女性も少なくない。
 黒田清隆は森有礼と毎晩のように議論をかわし、二人は日本の女性も男性と同じように
 教育を受けさせることが日本の近代化への近道であり、開拓使で早急にそれを実行に移
 す必要があるという結論に達したのである。
・帰国した黒田清隆は、北海道開拓の人材づくりおために今すぐにも幼い女子をアメリカ
 に留学させるべきである。
 無知無学な男性を北海道開拓事業に送り込んでも役立たずに終わってしまう。それより
 次の世代を担う子を産む女子を教育すれば、賢く母親からは必ず賢い子が生まれるから
 という気の遠くなるような意見書を政府に提出した。
・ちょうどその時「岩倉使節団」の人選を行っていた岩倉具視がこの提案に賛成したため、
 使節団に同行する男子留学生と一緒に女子も連れていくことに急遽決定した。
・開拓使派遣の女子留学生の案は、余りにも性急にことが運ばれたために長期的な見地に
 立った計画性に乏しく、どちらかと言えば黒田個人の思いつき的な要素が濃い物であっ
 た。
・またこの提案は、対外的にはいかにも近代日本の新しい出発を思わせるようで聞こえは
 いいが、日本の女性が長い間封建社会の中で耐え忍んできた暗い部分には目をつむり、
 あくまで社会をリードするのは男であるという立場に立っており、女性は優秀な人材を
 産む「母親ロボット」にされたにすぎない。
・明治四年十月、開拓使は直ちに女子留学生の募集を行った。
 留学期間は十年、往復の旅費、学費、生活費はいっさい官費で支払われ、その上、年間
 八百ドルの小遣いを支給するというものであった。十歳前後の小娘がもらう小遣いとし
 ては、八百ドルは法外の額であった。
・しかし、応募者は一人も現れなかった。
 無理もない話である。
 この頃の日本は、女の子が生まれると「手代わりができた」と言って、幼い頃から子守
 をさせたり家事を手伝わせたりして、十五歳位で嫁に出すのが普通であった。
 士族の娘達も良妻賢母になるべく厳しくしつけられ、女のたしなみとしての稽古事を仕
 込まれて嫁に行かされた。  
 十年も女が学問をすれば婚期を逃すことは目に見ている。
 ましてや牛や豚の内臓を食べたり、赤い液体をガブガブ飲むような野蛮人の住むアメリ
 カくんだりまで娘をやる親などいるはずがなかった。
・岩倉使節団の出発の時期が間近にせまってきており、あわてた開拓使は第二次募集を行
 った。そして、やっと集まったのが次の五人の娘達であった。
  東京府士族秋田県典事吉益正雄娘  吉益亮子 十五歳
  新潟県士族外務中録上田o娘    上田悌子 十五歳
  青森県士族山川与七郎妹      山川捨松 十二歳
  静岡県士族永井久太郎養妹     永井繁子  九歳
  東京府士族津田仙弥娘       津田梅子  八歳
・吉益亮子と上田悌子の父親は、二人とも外務省の役人をしており、外国の事情に明るか
 った。  
・永井繁子の実父、増田鳳は幕末に外国奉行におり長男の孝とともに文久三年(1863)  
 の暮れ、池田筑後守の使節団に随行してヨーロッパ諸国を視察している。
・津田梅子の父、仙は若い頃から蘭学や英語を学び、幕府の外国奉行の通訳に採用されて
 いる。幕府勘定吟味役小野友五郎が軍艦購入の交渉のためアメリカに行った時、仙は通
 訳として使節団に加わっている。
・捨松の次兄、健次郎は、すでに開拓使の留学生としてアメリカに渡っていたし、長兄、
 浩も慶応三年(1867)に、幕府外国奉行小出大和守が日露国境協定調印のためにロ
 シアを訪問した時、随員として使節団に加わりロシアを始めヨーロッパ諸国をまわり西
 洋文明をつぶさに見聞している。  
・さらに、この五人の娘達に共通しているところは、五人とも明治維新で敗者となった旧
 幕臣の娘という点である。
 五人の親達には、近い将来に自分達が見てきた西洋の学問や技術を日本が必要とする時
 が必ずくる。それまでに娘をアメリカで教育させて薩長の成り上がり者達を見返してや
 ろうという強い思いがあったのである。
・箱館の新しい環境にもやっと慣れた十月の初め、兄、浩が信じられないような話をもっ
 て捨松を訪れた。 
 「お前は、これから直ちに東京に行く。そして、政府の官費留学生の一人として十一月
 に日本を出発して、アメリカという国で十年間みっちり学問をするのだ」
 と言い渡したのである。
・捨松にとって幸せだったことは、アメリカには会津戦争以来離れ離れになっている次兄
 健次郎がいたことである。
 長兄、浩とは十五歳も年が離れており、捨松からみれば父親のような存在であったが、
 次兄、健次郎は捨松にとっては仲の良い頼りがいのある兄であった。その兄と会えるな
 ら、そしてお国のためになるならばと、捨松は直ちに出発の準備のとりかかったのであ
 る。 
・十月半ばすぎ箱館を発って、捨松は母親や姉達に別れを告げるために田名部に立ち寄っ
 た。この時、母、唐衣はお国のために愛する娘を遠い異国に旅立たせねばならない母親
 の切ない気持ちを込めて、幼名、咲子を「捨松」と改名している。
 これがお前との永の別れとなるかもしれない。私はお前を捨てたつもりで遠いアメリカ
 にやるが、お前がお国のために立派な学問を修めて帰ってくる日を毎日心待ちにして待
 っているよ、という気持ちをこの二つの字に込めたのであった。
・国家的使命をおびた岩倉使節団は約五十名の団員から成り、新政府の実力者しかも薩長
 閥の色濃い顔ぶれを揃えている。平均年齢は約三十歳という若さで、それぞれ政治、経
 済、財政、教育、軍事等の分野に明るい人材を集めており、若い柔軟な頭脳で西欧諸国
 の文明を吸収しようとする明治新政府の意気込みが窺われる。
・岩倉使節団には、団員のほかに五十九名の留学生が同行している。その顔ぶれは多彩で
 後に文相、外相等を歴任した大久保利通の次男の「牧野伸顕」、自由民権運動で名を馳
 せた「中江兆民」、三井財閥の大御所となった「団琢磨」、大日本帝国憲法を起草した
 「金子堅太郎」等、近代日本の指導者となった人達が多い。
・実は、この使節団は、官費で海外に留学している者の現状を調査し、整理を行うという
 任務もおびていた。   
 明治新政府によって公に派遣された留学生達には、一人あたり年間七百ドルから千ドル
 もの多額の官費が支給された。
 これらの留学生達は、各省の思惑によって選抜された場合が多く、しかもかなりいい加
 減な選抜方法で選ばれていた。
 実力もないのに留学して、外国で勉強もせずにお金を浪費する留学生に、政府は頭を悩
 ませていたのである。
 そこで岩倉使節団の渡米を機に、在外留学生達の実態を調査し、秀才だけを残してそう
 でない者は、留学期限を待たずに国に送り返すことにし、その任務を使節団に依頼した
 のである。
・ちょうどエール大学のシェフィールド科学学校で物理学を勉強中の捨松の兄、健次郎の
 ところにも帰国命令がきた。
 学業途中であった健次郎はどうしても留学を続けたかったので、同級生のお金持ちの叔
 母さんに「卒業して帰国したならば、お国のために一生を尽くす」という証文を書いて
 学費の援助を受け、エール大学最初の日本人卒業生として無事卒業することができたの
 のである。

・明治四年十一月、岩倉使節団の船出の日がきた。
 見送りの人達の注目を浴びたのは、デロング駐日公使夫人に付き添われて小舟に乗って
 アメリカ号に向かう五人の女子留学生達であった。
 稚児髪に振り袖姿のいたいけな娘達を見て、人々は、
 「随分とむごいことをする親もいるもんだ。あんな幼い娘をアメリカ三界まで学問をさ
 せにやるなんて、きっと母親の心は鬼にちがいない」
 とささやきあった。
・サンフランシスコまでは、洋上には島影一つ見えない退屈な日々が続く。 
 狭い船内では、百二十人もの人間が毎日顔を突き合わせて生活するのだから問題が起き
 ない方が不思議である。
・ある時、随員で外国通の司法理事官の平賀義質は、団員達の食事作法には目に余るもの
 があるため、同乗の外国人乗客の手前もあって、西洋料理の食べ方の作法を一つ一つ箇
 条書にして皆に配布した。
 これに腹を立てたさむらい気質の随員達は、わざと音を立ててスープを飲んだり、ビフ
 テキをフォークに突き刺しナイフも使わずい歯で食いちぎったり、大声で給仕に用を言
 いつけたりして無作法極まりない態度で平賀にあてつけをした。
 アメリカ号の船内はまるで明治維新直後の日本の縮図をそのまま見るようであった。
・また次のようなエピソードも残されている。
 ある日、捨松が怒りを身体一杯に表しながら大久保利通のところへ駈け込んできた。
 司法権少判事「長野桂次郎」が手洗いに行った吉益亮子の袖を引っ張って戯れたという
 のである。 
 退屈して暇を持てあましていた団員達は、面白半分に騒ぎ立てて、模擬裁判をやろうと
 言い出した。
・初めから黒白のはっきりしていたこの模擬裁判は、いたずらに若い男女二人を傷つけた
 だけであった。
 この事件はアメリカに上陸する前の船中から、人間の心情を無視してまでも、西洋の制
 度を優先させようとする明治政府の姿勢と焦りの気持ちがありありと読み取れる興味深
 い事件と言えよう。
・1872年1月、使節団を乗せたアメリカ号がサンフランシスコのゴールデンゲートに
 近づいた。一行の到着が予定より一日早まったため、早くから準備をはじめていた商工
 会議所や市民代表からなる「使節団歓迎委員会」のメンバーは誰一人で迎えることがで
 きなかった。
 要塞から十五発の祝砲を打ち上げ、ブルック日本領事と連邦政府の役人が数人駆けつけ
 るのが精一杯であった。
・使節団の一行は波止場で簡単な歓迎式典を受けた後、それぞれのホテルに入り旅装を解
 いた。
 しかし、見るもの触るものすべてが珍しく、驚きの連続でゆっくりと旅の疲れを癒やす
 どころではなかった。
 使節団一行のアメリカ第一日目はいわゆるカルチャーショックの連続で暮れていったの
 である。
・一方、アメリカ人達もこの「ミカド」の国からやってきた異様な一団に多大な関心を寄
 せ、サンフランシスコの各新聞は連日相当なスペースをさいて彼等の行動を報道してい
 る。
・なんといってもアメリカ人の人気をすっかり独占してしまったのが五人の女子留学生達
 であった。
 「使節団には、駐日公使デロング夫婦に連れられて五人の娘達が同行している。全員サ
 ムライの娘達だそうだ。使節団の男性に比べるとはるかに顔立ちが良く魅力的である。
 娘達の着ている服は、この町に住んでいる中国人のとあまり変わったところはないが、
 とても豪華に見えたいそう高価なものらしい。この五人の娘達は、日本の国を出た最初
 の身分の高い女性である」
・岩倉使節団が白一色に染まった首都ワシントンに到着したのは、1872年2月であっ
 た。 
 岩倉大使は、グラント大統領へ天皇陛下より国書を進呈し、大使および大統領による簡
 単なスピーチがあり謁見の儀式は終わった。
・いよいよフィッシュ国務長官を相手に条約改正交渉に入った。
 日本側は、今までアメリカ各地で受けた熱狂的で友好的な歓迎に、このぶんなら交渉も
 スムーズに運び、調印にまで持っていくことができるのではと、楽観的な気持ちになっ
 ていた。 
 しかし、思いもかけず、アメリカ側から天皇の全権委任状の提出を求められ、あわてて
 伊藤博文大久保利通とが日本へ取りに帰るという醜態を演じ、基礎的な国際法の知識
 のなさを暴露した。
 結局四カ月近くも費やしたにもかかわらず、話し合いのつかないままアメリカ側から交
 渉打ち切りを要請され、使節団一行は涙をのんで次の訪問地イギリスへ向かうことにな
 ったのである。
・黒田清隆と共に女子留学生派遣の提案者であった森有礼は、岩倉使節団がワシントンを
 去った後、五人の娘達を実際に手元に引き取ってみてすっかり途方にくれてしまった。
 当時はまた独身であった森には、娘達の面倒を見てくれる家庭がない。
 中でも九歳でまだあどけなさの残る津田梅子にはどうしても母親代わりになってくれる
 女性が必要である。ワシントンでの受け入れ態勢は何一つ整っていなかったのである。
・この時、森の給地を救ってくれたのが部下の書記官チャールズ・ランメンであった。 
 子供のなかったランメン夫婦は、娘が五人できたつもりで当分我が家で預かりましょう
 と申し出てくれたのである。
・ランメンは、日本弁務使館に勤務するかたわら「米国在留日本人」という本を書いたほ
 どの知日家で、その中で明治維新を迎えるに至った日本の国内情勢や、岩倉使節団がア
 メリカに来るまでのいきさつ、特に五人の留学生については写真入りで詳しく記し、日
 本人がいかに優秀な民族であるかを紹介しており、明治初期にアメリカに渡った日本人
 について書かれた数少ない書物の一つとなっている。
・日本を発ってからホテル住まいばかりだった長旅からやっと解放された五人の娘達は、
 ランメン夫婦の暖かい心のこもった世話を受け、久しぶりに家庭の味を味わうことがで
 きた。
 しばらしくして、五人一緒ではランメン夫人の負担が余りにも大きいので、吉益亮子と
 津田梅子の二人の他は、近くに住むランメン夫人の妹の家と、ヘボン式ローマ字の創始
 者として知られているジェームズ・ヘボンの兄の家に移ることになったが、五人の娘達
 は何をするにも何処へ行くのもいつも一緒であった。
 毎日これといって決まった日課もなく、一日も早くアメリカの生活に慣れることに一生
 懸命であった。
 この頃には、皆日本から持ってきた着物にも袖を通さなくなり、サンフランシスコやシ
 カゴであつらえた洋服を着るようになっていた。
・ランメン夫婦達の好意に甘えているうちに、二カ月はまたたく間に過ぎてしまった。
 森は、何時までも彼等の世話になっているわけにもいかないと考え、ワシントンのコネ
 ティカット通りに家を借り五人をそこに移し、共同生活をさせることにして英語の教師
 とコックも一緒に住み込ませた。
 午前中に英語の勉強が二時間、週に一度のピアノのレッスンがあるだけで、あとの自由
 時間には好きなことをして過ごした。
・日曜日になると、五人揃って弁務使館に森を訪ね、一週間の英語の勉強でわからなかっ
 た箇所をもう一度森から教えてもらう。
 勉強が終ると、森は娘達を連れて菱形の葉を一杯につけたポプラの並木通りを馬車で散
 歩したり、市内のあちらこちらにあるスクエアと呼ばれる緑の芝生を敷き詰めた広場で
 お弁当を食べたりして、娘達にワシントンの初夏の空気を胸いっぱいに吸わせた。  
・しかし、夏も終わり木々の葉が色づき始めた頃、年長の二人の娘達の顔色に翳りが見ら
 れるようになった。俗に言うホームシックが二人を襲ったのである。
 ホームシックというのは、外国に着いてしばらくはかならない。初めのうちは、見る物、
 することすべてが珍しく、ほとんど興奮状態のまま日が過ぎていく。
 しかし、ある程度そこの生活に慣れて気持ちにゆとりが出てきた頃に突如として襲って
 来るものなのである。
・吉益亮子は、アメリカに来てから原因不明の眼病にかかり、このままでは勉学を続けら
 れないのではという不安とあせりが、彼女の精神状態をなおさら不安定なものにしてい
 た。 
 上田梯子も夏の終わり頃から体調を崩し、微熱がとれない毎日が続いていた。
・志半ばにしてどうしておめおめと国に帰ることができようか。ジレンマに陥った二人の
 容態は悪化するばかりであった。
・みるに見かねた森は、二人の様子を開拓使に書き送り、帰国させるように頼み込んだ。
 そして、十月末、二人は開拓使のお雇い外人の化学者アンチセルの夫人に連れられて日
 本に帰っていった。 

・大正七年(1918)の秋、長い間消息がわからなかった上田梯子が上野に住んでいる
 ことがわかり、さっそく捨松、繁子、梅子の三人で訪ねていった。
 悌子は医師桂川甫純の妻となっており、
 「お三人の御活躍を見聞きするたびに、留学の志を果たせぬまま帰国した我が身が恥ず
 かしく悲しい」
 といって泣き崩れ、三人はどうやって慰めてよいか困ったという。
・吉益亮子は明治十八年(1885)に京橋に「女子英学教授所」を創立し、女子英語教
 育の普及に情熱を注ごうとした矢先、日本中を襲ったコレラにかかってその翌年、若く
 して他界した。 

・五月に五人がワシントンで共同生活を始めた頃から、森は今の状態をこのまま続けてい
 ってもよいものであろうかと疑問を持つようになった。
 朝起きてから夜寝るまで何時間も五人一緒で、はたから見ていてものびのびと楽しそう
 に毎日を過ごしている。
 しかし、一日二時間の英語の勉強以外はほとんど日本語を使う生活で、五人の英語力は
 現地の学校に入るにはほど遠いものであった。
 今の生活では、日本にいるときとあまり変わらないのではなかろうか。
 森は、夏に入ってから娘達を引きとってくれるアメリカ人の家庭をあちこち探しはじめ
 た。
・そして、十月末の亮子と悌子の帰国を機に、残された三人はアメリカ人の家庭で本格的
 な教育を受けるため、捨松と繁子は、コネティカット州ニューヘイヴンのレオナルド・
 ベーコン牧師の家へ、一番年下の梅子は、彼女を実の娘のように可愛がっていたライメ
 ン夫婦のところへそれぞれ引きとられることになった。

ベーコン家の娘となって
・レオナルド・ベーコン牧師は、1802年にミシガン州デトロイト市に生まれている。
 捨松と繁子がベーコン家に来た時は、すでに七十一歳の高齢で、二回の結婚を通して
 十四人もの子供をもうけている。
 エール大学神学部およびアンドーヴァ神学校を卒業後、二十三歳からニューヘイヴンの
 組合教会派センターチャーチで四十年間牧師を務めてきた。
 彼が教会の礼拝で行う説教はもちろんのこと、町の集会等でする演説は、非常に格調の
 高いもので、町の知識人として人々から尊敬と信頼とを集めていた。
・ニューヘイヴンの町でのベーコン牧師の社会的地位は高かったが、ベーコン家の経済状
 態は必ずしも楽ではなかった。
 最初の結婚で出来た九人の子供達は、すでに独立しているか他界しており、五十歳近い
 独身の長女レベッカだけが家に残っていた。
 しかし、二度目の妻キャサリンとの間に生まれた子供が家に五人もおり、末娘のアリス
 はまだ十四歳で皆お金のかかる年頃の子供達ばかりであった。
・もし、捨松と繁子を引きとれば、ベーコン家は十人の大世帯となり、当然生活が苦しく
 なるのは目に見えている。
 では、なぜベーコン牧師は、森有礼からの申し出を受けたのであろうか   
・当時、日本からきた官費留学生達は、アメリカ人家庭に相当な額の下宿代を支払ってい
 たのである。だいたい、週十五ドルが相場であったようだ。
 もし、捨松達を預かればベーコン家の収入は一度に二倍以上になり、今より生活はずっ
 と楽になるわけだ。
 金銭的理由だけで東洋の国からきた娘達を預かったとは思えないが、ベーコン家の経済
 状態を知っていたバージイ・ノースロップやアディソン・ヴァンネイム達が森の話を聞
 いてベーコン牧師のところに捨松達の話を持ち込んだのである。
・1872年10月、夜汽車で捨松と繁子はワシントンに一人残る梅子と別れを告げ、
 森有礼に連れられてニューヘイヴンに向かった。日本を出てから約一年近くの月日が過
 ぎていた。
 今日からは、今まで父親のように面倒をみてくれた森の元を離れ、見ず知らずの町で、
 見ず知らずのアメリカ人家庭に入るのである。二人は緊張と不安で口数も少なくなりが
 ちだったが、捨松にとっては会津戦争以来別れ別れになっていた兄、健次郎と再会でき
 る喜びは隠しきれなかった。
・捨松と繁子は、ベーコン家に来てから一週間で別々に暮らすことになった。
 この時から三人の女子留学生達は、アメリカに来て初めて離ればなれになってそれぞれ
 の新しい家庭で一人歩きをすることになったのである。
・十三歳の捨松は、ベーコン家の人達から気に入られ、新しい家族の一員として順調なス
 タートをきった。二歳年上の末娘のアリスとはすぐに打ち解け、姉妹のように仲良くな
 った。
 身体が弱くほとんど家にばかり籠っていたベーコン夫人は、素直で頭が良く飲み込みの
 早い捨松に勉強を教えることに生きがいを見出し、すっかり人が変わったように明るく
 なった。
・ニューヘイヴン、フェアーヘイブン、ワシントンと別れ別れに暮らしていた捨松、繁子、
 梅子の三人は、周囲のはからいで時々一緒に合う機会を与えられていた。
・1875年の9月、十六歳の捨松は、無事近くの男女共学の公立高校ヒルハウス・ハイ
 スクールに入学することができた。
 ベーコン家の末娘で捨松より二歳年上のアリスは、ヒルハウス・ハイスクールを卒業し
 た後、経済的理由で大学入学を断念せざるを得なかったが、捨松がヴァッサーカレッジ
 を出る前の年に、独学でハーヴァード大学の検定試験に合格して学士の資格を取ってい
 る。 
・捨松が高校に入学した年の夏、兄、健次郎が日本に帰国することになった。
 もともと妹がアメリカに来ることに反対だった健次郎は、妹の捨松が日本への愛国心を
 持たないアメリカかぶれの娘になることを極度に恐れた。
 ニューヘイヴンにいる間はかならず週に一度は捨松を呼びよせ日本語の勉強を見てやっ
 たり、儒教の教えを聞かせたりした。
 健次郎は帰国した翌年の明治九年(1876)東京開成学校の教授補となった。
・明治四年に実施された廃藩置県後、山川家は斗南を離れ東京浅草の観蔵院に間借り生活
 をはじめた。 
 長兄、浩は、明治七年に陸軍大佐となったが、新政府内では会津人に対する偏見が根強
 く残っており、会津出身ということだけで冷遇され、出世の道は非常に厳しかった。
 家族の他に山川家には、浩を頼って上京してくる旧会津藩出の書生達が居候として同居
 しており、台所は火の車であった。
 
一人だち
・十九歳になった捨松は、いよいよ大学試験を受けることになった。
 六年前、森有礼がアメリカでもっとも権威ある質の高い女子大学と評価していたヴァッ
 サーカレッジを受験することになった。
・1878年9月、山川捨松と永井繁子が、日本政府国費留学生としてヴァッサーカレッ
 ジに入学した。
・捨松は六年間家族の一員として暖かい愛情を惜しみなく与えてくれたベーコン家を巣立
 ち、後に「私の生涯で一番幸福で希望に充ちた四年間」と呼んだヴァッサーでの新しい
 生活へのスタートをきった。  
・捨松がヴァッサー在学中に取得した科目は、教養課程としてフランス語、ドイツ語、ラ
 テン語、英作文、歴史、哲学、化学、植物学、数学を、専門課程に入ってからは物理学、
 生理学、動物学といった自然科学の分野の科目を多く学んでいる。
 成績は、常にトップクラスで、二年生の時にはクラス委員長に選ばれている。
・1881年の春、捨松、繁子、梅子のところに日本の政府から帰国命令が届いた。
 約束の十年間の留学期間が切れたのである。
 繁子はヴァッサーでは芸術学部に在籍して音楽を専攻していたが、この年の六月には卒
 業の予定となっていたので、命令通り帰国することになった。
 しかし、捨松はあと一年勉強を続ければ、三十八名のクラスメートと一緒に晴れて学士
 号を手にして卒業ができるのである。
 ワシントンのアーサー・インスティテュートに在学中だった梅子も、あと一年で高校卒
 業の資格が取れることになっていた。
 二人は、ぜひとも卒業したいとの固い決意を日本政府に書き送り、留学期間延長を願い
 出た。そして、一年間のみという条件付きで二人の希望は受け入れられたのである。
・最上級生になった捨松は、残されたわずかな時間を惜しむかのように日夜勉強に打ち込
 んだ。  
 しかし、秋に一足先に帰国した繁子から来る手紙には、日本に帰って当惑したこと、怖
 かったこと、感激したこと等が繁子らしいユーモラスな言葉で詳しく書かれており、捨
 松はまもなく自分も直面しなければならない祖国日本のことを考えると、気持ちが動揺
 するのを隠すことができなかった。
・繁子はヴァッサー在学中に、アナポリス海軍兵学校に留学していた「瓜生外吉」と知り
 合い、帰国後、二人は婚約した。
 繁子からの手紙は、結婚を目前に控えた娘の喜びの言葉で満ち溢れており、同じ年頃の
 捨松は、複雑な思いに捕らわれるのであった。
・1882年6月、捨松は晴れて卒業式を迎えた。
 後に、捨松も「アメリカの大学を卒業した最初の日本女性」として名を連ねている。
・九番目に壇上に上がった捨松の見事な刺繍をほどこした美しい着物姿に、礼拝堂を埋め
 尽くした観客が思わず溜め息がもれた。
 しかし、捨松の行なった演説の内容はさらに素晴らしいもので、途中しばしば拍手のた
 めに中断され、演説が終わった時にはしばらくの間拍手が鳴りやまなかった。
・ニューヘイヴンのベーコン家に一旦落ち着いた捨松は、七月から二か月間ニューヘイヴ
 ン病院付属のコネチカット看護婦養成学校に入学した。
 なぜ、捨松が看護婦という特殊技能を身に付けようと考えたのかは明らかでない。
 たぶん、日本へ帰る船が出るまでの間を無為に過ごさないようにとの、ベーコン家の勧
 めがあったのだろう。
 ヴァッサーカレッジの専門課程で生理学や生物学の単位を多く取っていた捨松は、この
 分野の勉強がもともと好きだったようだが、日本に帰ってから看護婦になるつもりはな
 かった。
・捨松にとって、この看護学校での訓練は相当辛いものだったようだ。看護婦として必要
 な衛生学の基礎知識の勉強や技術訓練の他に、実習のため毎日病院の調理場で医者の処
 方に従って何十人分もの牛肉のスープや鶏肉のスープを煮込んだり、床をごしごし洗っ
 たり、大きな鍋や石炭用のシャベルを洗ったりしなければならなかった。
 力仕事は単調で退屈だとアリスに手紙の中で愚痴をこぼしているが、看護婦の仕事は自
 分に向いていてとても興味があるとも述べている。
・1882年(明治十五年)の十月、足かけ十二年間のアメリカ留学を終えた捨松と梅子
 は、ニューヨークを発っていよいよ日本への帰国の途についた。
 すでに捨松は二十三歳、梅子は十九歳になっていた。
 
失意の日々
・予定より二日遅れて明治十五年(1882)十一月の朝、アラビック号は美しく晴れ渡
 った横浜港に入港した。
・捨松は迎えに来てくれた肉親とゆっくり話をする間もなく、お客を待ち構えていた人力
 車に繁子と一緒に押し込められてしまった。
・横浜で一行は高橋前ニューヨーク領事の家に立ち寄り、昼食を御馳走になった。
 高橋夫人から、西洋料理と日本料理とどちらが食べたいかと聞かれ、捨松と梅子は即座
 に「もちろん祖国の味を」と答えている。
・高橋邸で十分に休息をとった後、捨松達は横浜駅まで歩き汽車で東京に向かった。
 新橋・横浜間に初めて鉄道が開通したのが、捨松達がアメリカに渡った次の年の明治五
 年十月であるから、捨松と梅子はこの時初めて日本の汽車に乗ったことになる。
 約一時間ほどで東京駅に着き、そこからまた一時間人力車にゆられて夕方近くにやっと
 母親の待つ牛込の山川家に到着した。
・門の前には母親の唐衣、次兄の健次郎と妻のりう、すぐ上の姉の常盤夫婦とその長男の
 重晴、それに三人の書生と使用人四人がずらりと並んで捨松を出迎えた。
・その光景を捨松は日本に着くまでの間何度まぶたに描いたであろうか。
 母親の唐衣も十一年前、お国のために遠いアメリカに娘を捨てたつもりでいたが、どん
 なにかこの日を心待ちにしていたころであろう。
 その娘が、立派に留学の務めを果たして今、自分の目の前に美しい娘に成長して立って
 いるのである。 
・帰国後一週間もすると、捨松は次第に山川家の経済状態が手に取るように見えてきた。
 あの地獄のような生活を送った斗南時代を思えば、今の山川家は非核にならないほど収
 入が増えている。
 長兄の浩は、佐賀の乱、西南の役等での功労により陸軍少将に昇進しており、他の旧会
 津藩出身者と比べると抜きん出た出世ぶりである。
 次兄の健次郎も東京大学理学部教授となっていたし、長姉の双葉は、東京女子師範学校
 の舎監の仕事についており、またロシア留学から帰国した次姉の操もフランス人の家に
 住み込み通訳として活躍し、姉二人は立派に自活の道を歩いていた。
・しかし、皆それぞれ社会的に恵まれた仕事についていたとはいえ、実際は山川家はたく
 さんの居候をかかえており、経済的には決して楽ではなかった。
・捨松は、帰国後初めてアリスに書いた手紙の中で、
 「兄は家族の他にたくさんの人達を養っていかなくてはならないため、自分達の生活を
 できるだけ切り詰めなくてはなりません。会津戦争後、会津の人達はみんな貧しくなり、
 私の親類のほとんどが援助を必要としています。兄二人は、親類の他に約二十人に送金
 をしています。さらに、我が家には常に二人から五人の学生がすみ込んでおり、彼らの
 教育費、食費、衣服費まで面倒を見なくてはならないのです」
 と山川家の内情を訴えている。
・早速、捨松は帰朝報告と仕事の相談のため文部省に出向いていった。
 この時期は、あれほど鳴り物入りで女子留学生の募集を行った開拓使はすでになく、
 捨松達の管轄は文部省に移っていた。
 帰国後は当然国が何か仕事を準備しているものと期待していたのである。
 しかし、男子留学生の場合には、外国帰りというだけで大学や官庁に相応な仕事がすで
 に与えられ、エリートの道が保証されたのに、女性である捨松と梅子の将来については
 国は具体的な計画を何一つ持っていなかった。
 十年間にわたってアメリカの教育を受け成長した捨松達と、黒田清隆や森有礼が考えて
 いた当初の発想との間にすでに大きな隔たりが生じていたのである。
 捨松は日本政府のいい加減な態度にすっかり失望してしまった。
・煮え切らない文部省を待っていては時間の無駄である。
 かといって、仕事を始めるための資金を親兄弟に頼むわけにはいかない。
 そこで捨松は、アリスに借金の申し込みをすることにした。
・しかし、捨松のこの計画は兄、健次郎の反対にあって立ち消えになってしまった。
 健次郎の意見は、もし文部省が春までに捨松ができるような仕事を見つけてくれない場
 合は、文部省は捨松のために仕事を作るべきであり、それまでは勝手に仕事を始めない
 方がよいというのである。  
・捨松から再三仕事の催促を受けた文部省は、正直なところ捨松や梅子の処置には頭を悩
 ませたようだ。ヴァッサーカレッジの学士号を持った捨松は、実力からいえば他の男子
 留学生と比べ決してひけをとらない。
 しかし、文部省は捨松が女性であったために、大学で教えることに難色を示した。
 前例がないのである。
・文部省をせめたてた二人の側にも問題があった。
 言葉の問題である。二人とも日本語の読み書きがまったくできなかったのである。
 捨松の場合は、兄、健次郎や繁子が近くにいたため簡単な日常会話程度ならなんとか理
 解することができたが、梅子はランメン夫婦のもとで日本語を使わない生活を十年も続
 けたため、すっかり日本語を忘れ、帰国直後は家族と言葉をかわすこともできなかった。
 当時のにほんの社会では、日本人でしかも女性で、日本語が使えない人間のできるよう
 な仕事は皆無だったのである。
・捨松、繁子、梅子の三人は生涯日本語に苦労したようだ。
 手紙を書いたり、新聞を読むのはほとんど英語であった。

・当時の小学校の就学率は、50パーセントにも満たず、特に女子の場合は男子の半分以
 下という有様であった。
 こうした状況の中で、女子の高等教育などはほとんど手付かずの状態で、ごく一部の公
 立女学校とキリスト教の宣教師達の始めた私立の女学校がわずかにあるだけだった。
・アメリカの中でもとりわけ教育・文化の進んだニューヘイヴンの町で自由な娘時代を過
 ごし、名門女子大ヴァッサーを優秀な成績で卒業した捨松を待っていた日本の社会は、
 旧態依然だったのである。
 日本政府派遣の女子留学生第一号として、捨松も梅子も日本の女子教育の普及向上のた
 めに役立とうと、大きな夢を抱いて帰国したにもかかわらず、現実には捨松のような階
 層の未婚の女性ができる仕事といえば、英語の個人教授ぐらいしかなく、しかもその収
 入は往復の人力車代で消えてしまう程度のもので、自立していくにはほど遠い額であっ
 た。  
・アメリカから帰ったばかりの捨松と梅子の心のオアシスとなったのは、二人の帰国を待
 って結婚式をあげた新婚早々の瓜生繁子の家であった。
 地理的に繁子の家はちょうど捨松と梅子の家の中間にあって集まりやすかったし、繁子
 の夫瓜生外吉は海軍省勤務で出張が多く、捨松達は外吉の留守には終日泊りにいった。
・捨松は兄、健次郎の言葉に従って、今すぐに学校を作る計画はとりあえず中止し、春ま
 で文部省からの連絡を待つことにした。そして、何を始めるにしても日本語が自由に使
 いこなせなくては話にならないので、英語の個人教授をするかたわら週三回先生につい
 て日本語の猛勉強も始めた。
・明治十六年、山川家では久しぶりに捨松を混じえて賑やかな正月を迎えたが、さまざま
 な祝い事が一段落すると、真剣に捨松の結婚のことを心配しはじめた。
 当時は、女は十五、六歳までにはお嫁にいくのが普通だったので、二十四歳になってい
 た捨松はとうに適齢期が過ぎていたのである。
 当然のことながら親類や知人が心配して次々と縁談を持ち込んできた。
・捨松がアメリカで知り合った女性のほとんどが高等教育を受け、自分の意志で自分の人
 生を歩んでいる人達ばかりであったので、結婚していない女性が社会的にも経済的にも
 一人前に扱わらない日本の社会の風潮に我慢がならなかった。
 何より落胆したのは、外国まで留学してこれからの新しい日本のリーダーとなる男性で
 さえ、帰国すると自我もなにも持たない少女のような娘と結婚してしまうことであった。
・目にあまるような日本人の振る舞いに我慢できなくなった捨松は、ヴァッサー時代にシ
 ェークスピア・クラブに属していた経験を生かして、英語演劇クラブを作ることを思い
 立った。いかにも捨松らしい発想である。
 この会の目的は二つあって、一つは日本人の英語の力を向上させるため、もう一つは日
 本人に道徳教育をすることだとアリスに説明している。出し物も道徳性のあるものを選
 んで、日本人を啓蒙しようというのである。
 クラブのメンバーは、男性では繁子の夫の瓜生外吉、東京大学の英語教授の「神田乃武
 同じく理学部教授の「箕作佳吉」と「桜井錠二」、それに繁子の実弟益田英作他数人、
 女性のメンバーは捨松、繁子、梅子、東京師範学校校長の「高嶺秀夫」夫人という顔ぶ
 れであった。
・捨松は胸の内のものを何もかもアリスに打ち明けている。
 「実は、ある若い男性から結婚の申し込みを受けてとても困っているのです。そのこと
 を考えると死にそうになります。彼が初めて手紙を下さった時にすぐお断わりすればよ
 かったのですが、母と繁がぜひ考え直すように勧めるので、彼には返事は半年ほど待っ
 てほしいと頼みました。今の私の気持ちは、イエスともノーとも決めかねるので、もし
 彼がそんなに長い時間待てないのなら諦めてくださってもかまわないと言いました。
 彼は待ってもよいと言ったので、私達は始終会ってとても良いお友達でいました。
 彼は美男子でまた二十七歳です。彼の話す英語は、私の知っている限り、梅を除いては
 日本で一番上手だと思います。現在は、大学で英語を教えておられます」
・帰国してまだ間もない捨松の前に初めて恋心を抱いた男性が現われたのである。
 アメリカに留学中にこうした男性がいたかどうかは今となっては知るべくもないが、理
 性的に自制心の強い捨松のことなので、官費留学生の身分で異性問題があったとは考え
 られない。たぶん、捨松にとってはこの「彼」が結婚を対象として真剣に悩んだ最初の
 男性だったに違いない。
・しかし、「彼」との結婚にどうしても踏み切れなかった捨松は、思い切って今までのこ
 とはすべて忘れてほしいと手紙に書いた。
 すると「彼」は、ぜひ捨松に直接会って話がしたいと山川家を訪ねてきたのである。
 あまりにも思い詰めた様子の「彼」に恐れをなした捨松は、風邪を理由に家人に頼んで
 玄関で引き取ってもらった。
 あきらめきれない「彼」は、その足で捨松の姉、双葉を東京女子師範学校まで訪ねて行
 き、捨松に会わせて欲しいと懇願した。
 気の毒に思った双葉は、捨松にもう一度考え直すように説得したが、捨松の決心は変わ
 らなかったのである。
・しばらくすると、捨松のところに「彼」から長い手紙が届いた。
 捨松の言葉を借りるならば「その手紙は、呪いの手紙以外のなにものでもなく」、これ
 ほどまでに「彼」を傷つける結果になるのだったら、なぜ最初にノーと言わなかったの
 かとひどく後悔している。
 捨松は「彼」から手紙を受け取ったからは、「彼」に会うことを恐れ、意図的に繁子に
 家に行くことを避けた。
 「彼」は繁子の夫、瓜生外吉の親友で、始終繁子の家で開かれる集まりに顔を出してい
  たからである。
 しかし、いくら「彼」と会わないようにしても、当時の上流社会は非常に限られた人達
 の集まりで、どこかでばったり顔を合わせることもある。
・捨松にも人並みに恋心を抱いた若き男性があったのだと知って、なぜかほっとしたので
 ある。
 というのは、私には、三人もの娘を持ち、十八歳も年が離れた決してハンサムとはいえ
 ない大山巌との結婚は、女子留学生第一号というレッテルをはられた捨松が「お国のた
 め」に考えに考えぬいた末の結婚だったように思えてならなかったからである。
 そして、三ヵ月たらずで終止符を打ったこの秘められた恋の物語を読み終えとき、捨松
 がやはり自分の結婚を私的なレベルを超えた公のものとして考えていたことがはっきり
 とわかったのである。
 「彼」との結婚を諦めた理由が、ただ彼の年が若いというだけでは説明がつかない。
 捨松の心の中には、もし結婚をするのならば、官費留学生としての責任と義務とを果た
 せるような結婚でなくてはならない、ただ相手が好きだからという理由だけで結婚して
 はならないという声がいつも聞こえていたのである。
・一体この気の毒な「彼」とは誰だったのであろう。
 的を絞っていくうちに、私は明治の初期にアメリカ留学した日本人の中に必ず「彼」が
 いるという確信を持つようになった。 
 今まで集めた多くの資料の中からまず私が手にしたのが、「日本におけるラトガースカ
 レッジの卒業生」という小冊子であった。
 この小冊子には「ラトガースカレッジにおける日本人」という題の付録がついており、
 幕末から、明治の半ばまでの約二十年間にラトガースカレッジに在籍したか、あるいは
 大学のあるニューブランズウィックの町に住んだことのある日本人の名前とその経歴を
 調べたものである。
・この時期に日本からアメリカに渡った留学生は三百人を超えるが、この付録に載ってい
 る日本人の数はわずかに四十八名だけ。五ページ目に入った時、私の目は次の名前の上
 で釘付けになった。
 「Naibu Kanda」
 彼は日本では英語を最も上手に話すことができる人と言われていた。
 益田邸で上演された「ヴェニスの商人」でバッサニオの役を演じたのが神田氏とある。
・捨松が「彼」と初めて出会ったのが1882年の暮れから翌年の初めであるから、その
 時、神田氏は二十七歳で「彼」の年と一致する。
・「上垣田外憲一」著「維新の留学生」に書かれている次の文章に出会った時、私は「彼」
 が神田氏であることにほとんど百パーセント確信をもった 
・津田梅子には「いくつかの縁談があり、求婚者の一人は、明治の英語学者として有名な
 「神田乃武」であったが、彼女は『お国のお陰で外国で修業できたのですから、まずそ
 の御恩を返さねば結婚などできません』という理由で縁談を断った」と書いてある。 
・気の毒な「彼」、神田乃武氏は二カ月の間に捨松にも梅子にも、まったく同じ理由で結
 婚を断わられてしまったことになる。
 十年以上もアメリカに暮らしアメリカ的な物の考え方を身につけて帰国したはずの捨松
 と梅子が、共通して「お国のために」というひどく日本的な発想から、女としての幸せ
 を選ばず「彼」ほどの立派な人物からの求婚を断っていることに、どこか哀れささえ感
 じる。 
・「彼」との結婚問題で悩んでいた時、やっと文部省から捨松の所に仕事の話がきた。
 東京女子師範学校で生物と生理学を教えていた教師が辞めるので、その後を引き受けな
 いかというのである。
 生理学は捨松が一番得意とする科目だったので、大いに心を動かされた。
・しかし、文部省から二週間以内に着任せよといわれた時、捨松は絶望感に襲われた。
 日常会話は大分上達してきたとはいえ、日本語の読み書きは小学生程度の実力しかない
 ことは、捨松自身一番よく知っていたからである。
 日本語の教科書を使い日本語で黒板に字を書くことなど到底不可能であった。
 家族からも反対を受け、捨松はこの話を断念せざるを得なかった。 
・一体アメリカで学んだ十年間は何だったのだろう。
 お国のために自分の一生を捧げようと固い決意を抱いて祖国の土を踏んだのに、日本語
 が使えないというだけで自分の能力を発揮できる場所が与えられない。
 しかも、この国では結婚していない女性を一人前として扱おうとしない。
・そして、捨松は「彼」との問題にきっぱりと決着をつけてからは、学校を作る夢もあき
 らめ真剣に結婚を考えるようになった。
・帰国してまだ四カ月しかたっていないのに、早くも捨松は自分の人生を決める重大な決
 断をする時がきていることを感じた。
 仕事か結婚か。この日本の社会では「結婚していない女性」のレッテルを貼られてしま
 うと世間の目は冷たく、仕事への門まで閉ざされてしまうことをいやというほど知らさ
 れた。 
・山川家と通じて二度も捨松に結婚を申し込んだ政府の高官とは、時の参議陸軍卿、大
 巌
四十二歳であった。
 二十四歳になった捨松とは、十八も年が違い、前の年の八月に妻、沢子を亡くしたばか
 りで七歳を頭に三人の娘がいる。
・大山巌は、明治九年の一月、宮内少輔「吉井友実」の娘、沢子と結婚している。
 吉井友実は同じ薩摩藩出身で、留学中の大山を日本に連れ戻すためパリまで出かけて行
 った人である。
 沢子は捨松と同じ万延元年の生まれであるから、捨松がニューヘイヴンでアリスやマリ
 アン・ホイットニー達とスケートをしたり、雪ぞりに乗ってのびのびと遊びまわってい
 たころ、わずか十七歳で陸軍少将の妻となったのである。
・大山巌はまたあどけさの残った美しい妻を娘のように慈しみ大切にした。
 妻の沢子は結婚してから明治十五年までの六年間、たて続けに四人の子供を出産してい
 る。しかも全部女の子ばかりであった。長女の信子、侍女の美津子、三女の芙蓉子、
 そして四女の留子である。
 この留子が私の父の母にあたる。祖母によると、女はこれでもうたくさんという意味で
 留子という名をつけたのだそうだ。
・沢子は留子を生んでからは、産後の肥立ちが悪く産褥熱に侵されて床についたままとな
 った。  
 真夏の暑い盛りで、目に見えて沢子の身体は衰弱していった。
・大山巌は、妻のただならぬ様子を見てドイツ人の医者ベルツに往診を依頼したが、一目
 沢子を診たベルツはすでに手のほどこしようのない状態であることを大山に告げなけれ
 ばならなかった。
 沢子は、幼い三人の娘達を残して二十三歳の短い生涯を閉じたのである。
・大山巌は、洋行帰りのハイカラ好みとして知られており、時の政府高官として当然外国
 人との付き合いも多く、しかも家には幼い娘が三人いる。とても並大抵の女性では大山
 夫人の役は務まらない。
 そこで、吉井友実の目に止まったのがアメリカ帰りに才色兼備の捨松であった。
 大山巌も何度かパーティー等の席上で捨松の姿を見かけたことはあるが、亡き妻の一周
 忌も済ませていないし、妻にとは考えてもみなかった。
 しかし、岳父から執拗に勧められると、捨松ほど自分の後妻にふさわしい女性はいない
 と思えるようになった。
 自分好みのすらりとした美人だし、英語はもちろんのこと、フランス語、ドイツ語にも
 堪能で、にほんで大学卒の肩書を持ったただ一人の女性である。
 日本はいまや外国と対等に付き合っていかなくてはならない時期にきている。捨松なら
 どんな場所に出しても外国人に引けをとることはないし、娘達の教育も安心して任せら
 れる。  
・早速、吉井友実を介して大山巌の意向が山川家に伝えられた。
 申し出を受けた山川家の驚くは大きかった。こともあろうに会津の宿敵ともいえる薩摩
 の軍人からの申し出をどうして承諾できようか。薩摩の裏切り、長州の背信によって朝
 敵の汚名を着せられた上に、あの「地獄への道」とまで言われた斗南での歳月を思うと、
 十年や二十年でその恨みが消えるはずがない。
 捨松の長兄、浩にとっては大山巌は上司にあたるが、たとえ上司の申し出といえども受
 けるわけにはいかない、ときっぱり断りの返事をした。
・この時、この話は自分に任せてほしいと説得役をかって出たのが、時の農商務卿で西郷
 隆盛の弟の従道であった。
 西郷従道は何度となく山川家まで足を運び、「今や日本は日本人同士が敵だ味方だとい
 って争う時ではない。一般の人の模範となるように昔の仇同士が手を握って新しい日本
 の建設にあたるべきだ」と力説し、徹夜の説得も辞さなかった。
・柔道の熱意に遂に山川家も態度を軟化させ、もし捨松本人が承諾するのならという条件
 付きの返事を出した。 
・兄の許可が出てからは、すべては捨松の気持ちひとつに掛かっていた。
 そこで捨松は、相手の人となりを納得ゆくまで知ったうえで返事をしたいと申し出で、
 今風でいえば大山巌とたびたびデイトをしている。
 家同士の了解を得さえすれば、本人の意志とはまったく関係のないところで結婚が決め
 られてしまっていた時代に、いかにも新しい、洋行帰りの二人ならではのやり方である。
 四十を過ぎた、しかも陸軍卿という政府の要職にあった私の曾祖父が、いそいそと捨松
 とデイトにでかける姿を想像しただけでも微笑ましい。
・何回かデイトを重ねた捨松は、大山巌との交際を始めて約三ヵ月という早さで結婚を決
 意するのである。
・明治十六年の六月、大山巌との婚約が成立してからは、以前にもまして捨松には多忙な
 日々が続いた。週に三回は日本語の読み書きのレッスンを受け、さらに週二回書道の先
 生につかなければならない。
 また、未来の陸軍卿夫人として恥ずかしくないだけの衣装を整えるために、洋服の仮縫
 いにも時間がとられる。大山巌の希望もあって、純日本式の嫁入り道具の他に西洋式の
 家具まで買い揃えなければならない。
・大山巌は太政大臣三條実美宛てに結婚願いを提出し、翌日天皇に拝謁して捨松との結婚
 を奏上した。
  
鹿鳴館に咲いた花
・結婚式の約一ヵ月後、新装となった「鹿鳴館」で大山巌は結婚披露の晩餐会を開いた。
 この席で捨松は集まった千人近い招待客を相手に、アメリカじこみの見事なホステス振
 りを発揮し、早くも社交界の花形として注目をあびた。
・捨松が大山巌夫人となって社交界に華々しく登場した二十日後、条約改正を悲願とする
 明治政府の数年来の夢であった外国人接待所の「鹿鳴館」がオープンした。
・「鹿鳴館」の開館式の夜会は、井上肇と妻「武子」との連名で内外の約千二百名にもの
 ぼる政府高官や各界の名士達に招待状が出された。もちろん、招かれた側も西洋式に夫
 婦同伴であった。 
・この日の夜会で一番得意満面だったのは、「鹿鳴館時代」の幕開けにふさわしい洋行帰
 りで才色兼備の捨松を二十日前に妻にしたばかりの私の曾祖父、大山巌であったにちが
 いない。
 いくら政府が鉦や太鼓を鳴らして西欧化政策を謳っても、実際には男性と手に手を取っ
 てダンスなるものを踊ることができた日本女性は、捨松、瓜生繁子、津田梅子の三人を
 除いて数えるほどしかいなかったはずである。三人の中でもとりわけ美しく、日本人離
 れしたプロポーションで外国人と流暢な英語を使いながら軽やかなステップで踊る捨松
 は、いやがおうでも人々の注目を集め、一夜にして「鹿鳴館の花」と呼ばれるようにな
 った。
・この開館式の夜会を皮切りに、「鹿鳴館」ではほとんど毎夜のようにきらびやかに着飾
 った紳士淑女達を集め、晩餐会や舞踏会が開かれた。そのたびに捨松の美しさ、洗練さ
 れた立ち居振る舞いは社交界の評判となり、プリマドンナの地位はますますゆるぎない
 ものとなっていった。
 しかし、軽やかにステップを踏みながらも、捨松は一時も自分が官費留学生であったこ
 とを忘れることはなかった。
 この「鹿鳴館」で、外国人達の相手をすることで日本の欧化政策のお役に立つならば、
 そして自分が先頭に立って夜会に出れば、それが上流社会の婦人達の地位向上に繋がる
 ならば、毎晩でも喜んで夜会に出席しましょう。それが現在の自分に課せられた義務で
 あると考えていた。
 にわか作りの紳士淑女達の中で、この捨松の胸の内を本当に理解していた者はどれだけ
 いたであろうか。
・年が明けた明治十七年の二月、新婚早々の捨松は約一年間も夫と離れ離れに暮らさなけ
 ればならなくなった。
 大山巌が陸軍卿として初めて公式な立場でヨーロッパ視察旅行を命じられたからである。
 視察の目的は、ドイツ陸軍に習って我が国の兵制の改革と陸軍の基礎作りをすることで
 あった。
 明治政府は、共和制をしくフランスよりも立憲君主制をしくドイツから憲法制度や兵制
 を学ぶほうが、天皇を君主と仰ぐ我が国になにかと都合がよいと判断したのである。
・夫を送り出し一息ついた捨松は久しぶりにアリスに筆を執った。
 「ここ何週間もあなたにお手紙を出せませんでしたが、私には立派な言い訳が二つあり
 ます。一つは病気だったことです。とても具合が悪く二週間も起きられませんでした。
 もう一つは、主人がヨーロッパ視察旅行を命ぜられ、その準備や送別会で目が回るほど
 忙しかったのです。
 私は主人と一緒にこの視察旅行に行かれたかもしれなかったのです。非公式にですけれ
 ど、私がヨーロッパ各国の皇室の在り方や礼儀作法等を勉強し、それを参考にして日本
 の皇室の改革に役立てたらどうかという話があったのです。
 現在の皇室の改革は急務だと思います。もし、あなたが日本の皇后の生活の内情を知っ
 たら、きっと日本はひどい野蛮国だと思うかもしれません。皇室というところはまった
 く別世界なのです。その中に住んでいる人達は、外の世界を何一つ知らず自分達の世界
 を良くしようなどと考えたこともないのです。皇室を改革して、西洋文明の担い手とな
 るべきだと真剣に考えている有能な人達がいるのにとても残念なことです。
 私がこの申し出を承知していたら、正式に皇室あら視察旅行の許可が下りていたと思い
 ます。でもお受けしませんでいsた・・・・。」
・夫とともにお国のために役立つ仕事がしたい、それが捨松が抱いていた夢ではなかった
 のか。その夢がこんなにも早く実現することになったのに、なぜ捨松は夫とともにヨー
 ロッパ視察旅行に出かけなかったのであろう。
・捨松は、この時すでに大山巌の子供を身籠っていたのである。「具合が悪く、二週間も
 起きられなかった」のは、たぶんつわりがひどかったのであろう。そんな身体でヨーロ
 ッパまで三十日以上もかかる船旅は無理であるし、国家の重要な使命をおびて外遊する
 夫に、身重の妻が同行して足手まといになるのは捨松本人が一番よくわかっていたので
 あろう。愛する人の子供を産むことは女の幸せとはいえ、捨松にしてみれば、お国のた
 めに夫と外遊できるまたとないチャンスを逃したことは、どんなにか心残りであったに
 ちがいない。
・また、大山巌との結婚と同時に三人の娘の母となった捨松は、たとえ自分の腹を痛めた
 子供ではなくても母となった以上、一年間も娘達を置いて家を空けるようなことはでき
 なかった。
 すでに長女の信子は八歳になっていたが、幸い心の優しい物わかりのよい子ですぐに新
 しい母の捨松になついた。
 だが、侍女の芙蓉子は使用人達の入れ知恵もあって何かというと反抗的な態度を示し、
 捨松はだいぶ手こずった。
 末娘の留子はまだなにもわからない赤ん坊だったので捨松は実の子のように可愛がり、
 留子も小学校の頃までは本当の「ママちゃん」と思って育った。
・妊娠中のため夫のヨーロッパ視察旅行に同伴できなかったが、捨松は大山巌が一年間日
 本を離れている間に二つの大きな仕事を手掛けたのである。
 その一つは、近い将来設立される華族女学校のためにその準備委員となる仕事である。
・「親愛なるアリス
  今、私の生涯の夢が実現しようとしているのです。先日、あなたに書いたように、日
  本の皇室はぜひとも改革を必要としています。でもあまり直接的な方法ではかえって
  実行不可能ですので、皇后陛下の御後援のもとに、影響力を持った人達の手で学校を
  設立することを考えています。日本には、現在、女子のための満足学校は一つもあり
  ません。小学校を除いて、女学校は二つしかなく、どとらもひどい状態です。それに、
  上流階級の人達は娘をミッションスクールには入れたがりません。ですから、今、日
  本では本当によい学校を必要としているのです。
  皇室の改革が、女学校を作ることによって達成されるのですから、まさに一石二鳥だ
  と思います。皇室がこの学校を援助することになれば、当然、皇后や女官達が学校を
  参観するので、新しい教育と西洋の思想とが同時に皇室の中に浸透していくと思いま
  す。この学校を設立するための準備委員が二名選ばれ、その一人がこの私なのです。
  もう一人の委員に女性は、すでに二年前に女子のための私塾を開いた人で、人格者で
  見識のある経験豊かな立派な女性です。女官もしておられ皇后の御寵愛を深く受けて
  いるひとです。  
  初め私はこの申し出を辞退したのですが、あまりにも熱心に薦められたので受けるこ
  とにしました。伊藤博文氏から、上流階級の女子のためにぜひとも新しい学校を作る
  必要があると理路整然と説き伏せられ、私は返す言葉もありませんでした。
  伊藤氏は私に次の三つのことを強調されました。
  一つは、私が日本政府によってアメリカに派遣されたので、道義的にもこの仕事を引
  き受ける義務があること、次に私が大学卒の学位を持つ日本で唯一の女性であること、
  そして、最後に私が陸軍卿の妻であるため知名度が高く、影響力が大きいからとおっ
  しゃるのです」
・当時は、皇族や華族の子弟のための教育機関として神田錦町に学習院があり、同じ敷地
 内に男子部と女子部とがあった。明治十年頃の生徒数が男子が二百名に近かったのに対
 し女子はわずかに五十九名であった。
 その後、華族の中にも女子に教育を受けさせようとする気運が高まり、生徒数も増え今
 までの校舎では手狭になり、四ツ谷にあった皇室付属地に宮内省直轄の女学校を作ろう
 という話が持ち上がったのである。
・もう一人の準備委員の女性は宮内省御用掛りをしていた「下田歌子」であった。
 歌子は結婚するまで七年間女官として宮中で働いており、皇后から深い寵愛を受けてい
 た。
 結婚後は病身の夫の看病に明け暮れてながらも女子教育への情熱を持ち続け、伊藤博文
 の勧めもあって、明治十五年に「桃夭女塾」という上流階級の娘達を対象とした塾を自
 宅に開いた。しかし、二年後、夫が他界すると再び宮内省に戻っている。
・伊藤博文から「歌子という女は偉い奴じゃ。博学多才であるし、立派な見識を持ってい
 る。弁舌もなかなか達者なもので、男ならさしずめ大臣たる資格を備えている」と言わ
 れたほどで、美貌にも恵まれ、捨松と並んで当時の社交界の花と謳われた女性である。
・二人の優れた人材をブレーンにむかえて、宮内省は約一年を費やして学則や授業内容を
 検討し、明治十八年の十月に華族女学校が開港した。今までの生徒数の約三倍近くもの
 生徒が集まり、校長には土佐藩出身で陸軍中将の「谷干城」が就任し、下田歌子は幹事
 兼教授に命ぜられたが、実際には歌子が校長事務をすべて代行した。
 捨松は、陸軍卿夫人という公的な立場があったため、準備委員の仕事が終わると教壇に
 立つことはなく、あくまで陰の協力者に徹した。
・開港時の教職員の名簿を見ると、教授補として津田梅子の名前がある。
 梅子も捨松同様、帰国してみると自分を待っていた日本の社会に落胆し失望した。
 梅子にとってさらに不行だったことは、捨松や繁子のように心を休ませる家庭がなかっ
 たことであった。   
・苦悩と孤独の日々を送っていた梅子は、帰国後約一年たった天長節の夜会でワシントン
 で別れて以来十年ぶりに伊藤博文と再会した。
 梅子の現状を知った伊藤は気の毒に思い、妻と娘の英語教師として官邸に住まわせるこ
 とし、麹町で「桃夭女塾」を開いていた下田歌子を紹介し、塾で英語を教えることがで
 きるように取り計らってやったりした。そして、華族女学校の開校と同時に梅子は英語
 の教師となったのである。
・ある時、捨松は政府高官の夫人達と有志共立東京病院(現在の東京慈恵会病院)を参観
 する機会があった。
 二年前、ニューヘイヴンの看護婦養成学校で場学んだばかりの捨松は、日本の病院や看
 護婦がどのような状況に置かれているかとても関心があった。
 病室を訪れると驚いたことに男性が病人の世話をしているではないか。
 さっそく、捨松は「高木兼寛」院長に、「外国では看護人には女性を採用しているのを
 御存知なはずなのに、なぜ女性をお使いにならないのですか」と質問し、女性のほうが
 生まれつききめ細かな看護に向いているし、病人にとっても女性のほうが気持ちが和む
 ものだと説明した。
 院長は「ごもっともな御説ですが、何分経費が足りず看護婦養成所を作りたくてもとて
 も手がまわりません」と答えている。
・この時、捨松はあのニューヘイヴンの「アワー・ソサエティ」で学んだ経験を生かして
 この東京でもバザーを開いて資金集めをしようと思い立ったのである。
 今でこそ「バザー」とは「慈善事業」という言葉は、日本人の日常生活の中に浸透し何
 も目新しことではなくなっている。しかし、百年前の日本の社会では、人のために働い
 てお金を集めるという考え方はまったくなかったし、特に上流社会においてはお金が商
 人が扱う卑しものと考えられていたので、夫人や令嬢達が店を開いて品物を売るという
 捨松の発想には大いに驚かされたのである。
・明治十七年の六月、鹿鳴館を会場に「鹿鳴館慈善バザー」が開かれた。
 すでに、貴婦人達が生まれて初めて商売をするというので新聞紙上に書きたてられたり
 して前評判も高く、当日は皇族や政府高官達が馬車や人力車で押しかけて大賑わいであ
 った。 
・捨松の発案によって、日本で初めて開かれた慈善バザーは三日間で約一万二千人が入場
 して大盛況のうちに終わった。
 収益も捨松が目標にしていた千円をはるかに超え八千円にものぼり、当初の約束通り全
 額有志共立東京病院に寄付されたのである。
・その後も、捨松は我が国の看護婦の育成に深い関心を持ち続け、看護婦という職業が欧
 米社会では高く評価され人々から尊敬されていることを説き、日本赤十字社にもその育
 成を働きかけている。
 当時の貴婦人達が看護活動の何たるかを知るはずもなく、アメリカで看護学を学んだ捨
 松が実際にはその大きな推進力となったのである。 

・明治十八年から二十一年までは、いわゆる「鹿鳴館時代」がピークを迎えた時期で、
 鹿鳴館ではほとんど毎晩のように夜会や舞踏会が開かれていた。
・明治二十年の四月、「鹿鳴館時代」で最も話題となった「仮装舞踏会」が伊藤首相官邸
 で開かれた。
 出席者は思い思いに趣向をこらした服装をして皆をあっと言わせて、一夜を楽しむので
 ある。それを日本人も真似てみようというのである。
 いくら条約改正のための欧化政策とはいえ、ここまでくると大義名分を通り越して滑稽
 というより他ない。
・主催者の伊藤博文夫婦は、イタリアの貴族に扮して客を出迎えた。
 「鹿鳴館時代」の生みの親の外務大臣、井上馨は三河万歳のいでたちで現れた。  
 大山巌はあまり変わり映えのしない薩摩武士姿、捨松は夫に合わせて普段の洋装から一
 変して京都の大原女で出席している。
・この夜の仮装舞踏会の乱痴気騒ぎぶりは、日頃政府の行き過ぎた欧化政策を快く思って
 いない国粋主義者や、真面目に国の将来を愁う人達をひどく刺激し、ジャーナリズムの
 絶好の攻撃材料となった。
・ワインの芳醇な香りに酔いしれた上流社会の紳士淑女達が、日本古来からの道徳観も忘
 れ鹿鳴館を舞台に繰り広げた醜い振舞いは、世論を刺激し、その後ますます激しくなる
 政府批判に拍車をかけることになった。
 そして、約八年の歳月をかけて取り組んできた条約改正に失敗した外務大臣の井上馨の
 辞任によって、「鹿鳴館時代」は潮が引いたように終りを告げるのである。
・この年の暮、捨松は第三子を亡くしている。幼い時肋膜炎を患っていた長女の信子は、
 始終病気がちでこの冬も風邪を引いていた。
 捨松は吸入器を使って信子の看病をしていたが、この吸入器がなにかのはずみで突然、
 爆発したのである。 
 このショックで捨松は早産し、二日後にその赤ん坊は死んでしまった。
  
小説「不如帰」をめぐって
・年が明けると、子供を亡くした悲しみから捨松を立ち直らせるような素晴らしいニュー
 スが飛び込んできた。長い間待ち望んでいた親友アリス・ベーコンが来日することにな
 ったのである。
・どのような経緯を経てアリスが日本に来るようになったのかはわからない。
 しかし、華族女学校創立の準備委員をした捨松と、この時英語教師補として勤めていた
 津田梅子の二人が宮内省と交渉してアリス来日の話を進めたことは、容易に想像できる。
・捨松と梅子は、十年間のアメリカ留学で得たものをすこしでも日本の女子教育に役立て
 ようと、創立されたばかりの華族女学校にその夢を託した。
 しかし、いざ蓋をあけてみると、日本女性の美徳とされる良妻賢母の育成という旧態依
 然の姿勢をくずしてはいなかったのである。
 特に、現場で教えていた梅子は、お人形のような優雅な物腰で、質問しても自分の意見
 を何一つ持たない上流階級の子女を目の当たりにして、生徒に対する物足りなさ、不満
 が日増しに募るばかりであった。
・レオナルド・ベーコン牧師の末娘に生まれたアリスは、父親の影響で小さい頃から人種
 差別問題に関心を持っていた。
 そして、十二歳になった時、奴隷解放の後にも差別に苦しむ黒人達の教育に一生を捧げ
 る決意をした。  
 家庭の事情で大学まで進めなかったアリスは、独学でハーヴァード大学の検定試験にも
 合格している。
・明治二十一年の六月、アリスは愛犬ブルースを連れて東京に就任した。
 捨松、繁子、梅子の三人は約六年ぶりのアリスとの再会を喜び互いに友情を確かめ合い、
 これからの日本の女子教育の向上のために力を合わせることを誓った。
・アリスは、独身だった梅子と麹町区の紀尾井町に家を借りて住むことになった。
 ここで梅子の他に華族女学校の教師と生徒三人、それに使用人とまったく日本人だけに
 囲まれて新しい生活を初めた。
・後に一年間の契約期間を終えて帰国したアリスは、この日本でのさまざまな体験を手紙
 形式の一冊の本にまとめ「日本の内側」として出版している。
・アリスは学校から帰るとよく愛馬に乗って近くを散策し、道端で見受ける美しい草花を
 慈しんだり、活気に満ちた下町の人達の生活を覗くことを好んだ。
 また、華族女学校の教師という立場から、アリスは皇后をはじめとして宮家の人々、華
 族階級の人々とも接する機会が多く、「日本の内側」の中ではそうした人達を客観的な
 鋭い目で観察している。
・アリスが華族女学校の生徒達と祝賀パレードを見物していた頃、ベーコン家それに捨松、
 繁子、梅子の三人にも深い係わりのあった政府の要人が暗殺された。
 時の文部大臣の森有礼が内務省の小役人の刀に倒れたのである。
 いうまでもなく森は、十八年前、黒田清隆とともに女子留学生派遣を提唱し、三人の娘
 運命を変えてしまった人物である
 アリスにとっても、森は父レオナルド・ベーコンが親交を持った数少ない日本人の一人
 として幼い頃の記憶に強く残っていた。
・アリスは明治二十二年の九月に華族女学校での契約を終えて帰国した。
 わずか一年で、因習にかんじがらめにされたお人形のような女生徒達にアリスがどれだ
 けの影響を与えることができたかは疑問であるが、帰国後アリスが著した「日本の女性」
 と「日本の内側」という二冊の著書は、当時のアメリカには日本人の生活を詳しく紹介
 した書物がほとんどなかった時だけに、アメリカ人に真の日本の姿を伝える貴重な文献
 となった。 
・自分の仕事や生き方に疑問を持ち始めた津田梅子は、この時期に将来アリスと二人で女
 性のための英語塾を作る決意を固めており、アメリカ東部の名門女子大学ブリンマーカ
 レッジに入学するため、アリスより一足先に再び太平洋を渡っていた。
・明治二十二年の冬、大山家は永田町の陸軍大臣官邸から青山の穏田に完成した新居に移
 った。この屋敷は、明治天皇の行幸を予定して建てられたもので、この頃天皇は重臣達
 とより親密な関係を作るため、伊藤博文、井上馨、西郷従道等の私邸を訪れ家族達と親
 しく会われていた。 
 穏田は今の原宿にあたり、当時は「裏山で狐がないていた」淋しい村であった。
 そこに突如として屋根のてっぺんに風見鶏がついた五階建てのレンガ造りの西洋館が出
 現したのである。
・明治二十六年の春、大山家は喜びに包まれた。長女の信子の婚約が整ったのである。
 相手は、大山巌と同じ薩摩藩出身でも警視総監の故三島通庸の長男子爵「三島弥太郎
 である。
・二人の結婚式は、西郷従道夫妻を媒酌人に四月に行われた。
 十七歳になったばかりのまだあどけなさの残った花嫁は、二年前両陛下唐下賜された白
 羽二重と紅縮緬で仕立てた婚礼衣装に身を包み、三島家へ嫁いでいった。
 この時、大山家の誰もが、この幸せそうな花嫁が、数ヵ月後には結核を患い実家に帰さ
 れてくるとは思いもよらなかった。
・この冬は東京中で悪性のインフルエンザが流行っていた・
 三島家に嫁いだばかりの信子は高島田を解く暇もなく家族の看病に立ち働いた。
 そして、悪いことに最後には自分も感染してしまい、幼い時肋膜炎を患ったことのある
 信子はすっかり病気をこじらせ起き上がれなくなったしまった。
・三島家では、十分に療養して一日も早くもとの身体に戻るようにと信子を大山家に里帰
 りさせた。   
 医師の診断では結核の疑いがあるというので、信子は転地療養のため、横須賀にしばら
 く滞在することになった。
・しかし、年が明けると三島家はら離婚話が持ち込まれてきた。
 当時、結果は不治の病として恐れられており、三島家ではお家存続のためには、死病に
 とりつかれた信子を一日も早く離婚させ、身体の丈夫な嫁を新しく迎えたほうがよいと
 判断したのである。
 家のためには若夫婦の意志などどこにも存在する余地がなかった。
・自分の病気のために、三島家から離婚話が持ち出されていることなど夢にも知らない信
 子は、療養先の横須賀からせっせと弥太郎に手紙を書き送った。
 しかし、信子の手紙は弥太郎からきた手紙と一緒にすべて使用人の手で焼却されていた
 のである。 
 ある日、新しくきた女中が何も知らずに弥太郎の手紙を信子に渡してしまった。その手
 紙には、この結婚は家のためなかったものと諦めるので、どうかあなたも諦めてほしい
 と書いてあった。
・一日も早く回復して夫のもとに帰ることを望んでいた信子は、翌日から急に容体が悪化
 し、急を聞いた大山巌は自ら横須賀まで信子を迎えに行き穏田の自宅に連れ帰った。
 玄関脇の部屋にうず高く積まれた自分の嫁入り道具を見て、いちるの望みを持っていた
 信子はすべてを悟り玄関に泣き伏してしまった。
・大山家では、信子のために屋敷内に病室を建て、そこで療養生活を送らせた。
 小さな妹や弟達に結核が感染しないようにという捨松の配慮からであったが、当時はま
 だ結核患者の扱い方が十分に認識されていなかったため、世間では娘を隔離するなど随
 分と冷たいことをする継母だと捨松は陰口をたたかれた。
 捨松にしてみれば、ニューヘイヴンの看護学校で学んだことをそのまま実行したまでの
 ことであった。 
・明治二十八年の六月に、大山巌、捨松、信子は初めて親子三人揃って関西旅行に出かけ
 ている。
 大山巌には、この旅行で父親として娘の信子に三島家から正式に離婚の申し出があった
 ことを伝えなければならない辛い役目があった。
 この頃には、信子もすでに覚悟ができていたとみえ、京都、奈良のお寺を訪ねたり、伊
 勢神宮に参拝したり親子水入らずの旅行を楽しみ、傍目にはとても元気そうに見えた。
 しかし、この旅行から帰ってから一年もたたない内に病状が悪化して、明治二十九年の
 五月、信子は二十歳の短い生涯を閉じたのである。

・大山家の人々が薄幸の娘、信子を失った悲しみからようやく立ち直りかけた矢先、大山
 家にとっては迷惑千万な小説が世に出た。
 作者は「徳富蘆花」で、彼の書いた悲恋物語「不如帰」は、十年間で百版を重ねるベス
 トセラーとなった。
・私の祖母、留子もおしゃまな末娘「駒子」として登場している。
 祖母は時々「国民新聞」に連載されたこの小説を読み、世の中には随分と自分と似た境
 遇の人もいるものだと思ったという。
 しばらしくして、既に嫁いでいた次姉の芙蓉子から「ママちゃんには決して見せてはい
 けませんよ」とそっと渡された本を読んで初めて大山家の人々がこの小説のモデルとな
 っていたことに気づいたのである。
 そして、蘇武は小説の中であまりにも捨松が悪く書かれ過ぎていることにひどく傷つけ
 られ怒りを覚えたという。
・生涯日本語の読み書きに苦労した捨松が、小説「不如帰」を読んだかどうかは疑問であ
 るが、小説の内容をそのまま信じ込んでしまっている世間の人達の陰口や中傷は、いや
 でも捨松の耳に入ってきた。
・日本の社会は「出る杭は打たれる」の諺どおり、捨松のように人と違った体験をし、優
 れた能力を持った人間、とりわけ女性に対しては拒否反応を示しひどく風当りが強いと
 ころがある。 
 この「不如帰」騒動で捨松はそのことをいやというほど思い知らされ、晩年になるまで
 心に深い傷として残った。
 
女子英学塾の誕生
・いつも捨松の頭からは日本の女子教育に役立ちたいという思いが離れなかった。
 自分自身が教育者となる夢は大山巌との結婚できっぱりと捨てたけれども、政府高官夫
 人という社会的地位が影響力を持つならば、それをフルに利用することが自分に与えら
 れた義務であり責任んであると考えていた。
・捨松はニューヘイヴン時代から、アリス・ベーコンの教育者としての能力を百パーセン
 ト信頼していた。
 アリスが華族女学校の教師として来日したものの、最初から一年間という契約期間を不
 満に思っており、なんとしてでももう一度日本に呼びよせじっくりと腰を落ち着けた仕
 事をしてほしいと考えていた。
 そして、捨松はアリスの話を女子高等師範学校校長の「高嶺秀夫」に持っていった。
・捨松が信頼を置いていた高嶺秀夫は、会津藩出身で捨松の兄、健次郎と同い年で二人は
 ともに日新館で学んだ間柄である。
・丁度捨松がニューヘイヴンにいた時に、まだ少女だった捨松は兄、健次郎を通して高嶺
 秀夫と何度か会っており、彼の人となりはよく承知していたのである。
・この時津田梅子はアメリカ滞在中であった。
 前年の明治三十一年の六月に、アメリカのコロラド州デンヴァーで開催された「万国婦
 人連合会」の日本代表に選ばれ、女子高等師範学校と華族女学校の教授の仕事を休職し
 てアメリカに渡った。梅子にとっては三回目の渡米であった。
・大会後、梅子はワシントンに行き、三十七年前に日本からやってきた五人の女子留学生
 を親身になって世話をしてくれた梅子にとっては母親ともいえるランメン夫人を訪ねた。
 すでに夫に先立たれ未亡人となったランメン夫人は、日本の女子教育界の大業となった
 梅子の姿を見て涙を流して喜んだ。
・梅子はイギリスと知名人から招待を受け、ニューヨークからロンドンに渡り、久しぶり
 に誰にも拘束されない自由な時間を過ごすことになった。 

・翌年の四月末、再びアメリカに戻った梅子はアリスのところに会いに行き、自分は日本
 に帰ったら、長い間胸に暖めていた夢をいよいよ実行に移すので、ぜひもう一度日本に
 来て協力をしてほしいと頼んでいる。
 梅子の夢というのは、東京に英語の教師を養成するための女子専門の私塾を開くことで
 あった。
・捨松、梅子の両方から時を同じくして再度の来日を切望されたアリスは、二十数年来の
 友人たちの熱意に打たれ、ついに再び日本へ行く決意を固めた。
・大山巌は明治二十九年の九月に成立した第二次松方内閣の時に陸軍大臣の椅子を退いて
 からも、元老の一人として依然内閣組織には影響力を持っていたが、陸軍の実務に直接
 関与する立場からは遠ざかっていた。
 その間、明治三十一年の一月に元帥府が置かれ、小松宮彰仁親王、山県有朋、西郷従道
 と共に大山巌も元帥となり爵位も伯爵から侯爵に昇進している。
 二月には皇太子嘉仁親王の教育にあたる文武官の監督の役目を仰せつかり比較的のんび
 りとした日々を送っていたのであった。
 皇太子が沼津の御用邸に滞在中は、沼津の牛臥山のふもとにある自分の別荘に招いたり
 しており、皇太子は父親ほども年の違う大山巌の大らかで茫洋としたところをことのほ
 か気に入っていた。
 この沼津の大山家の別荘は大分荒れ果ててしまってはいるが、いまでも当時の面影をし
 のばせひっそりと建っている。
・明治三十二年の五月、大山巌が最も信頼を寄せていた陸軍きっての知将といわれた陸軍
 参謀長「川上操六」が五十二歳の若さで亡くなると、大山巌はその後任として再び現役
 の舞台に引き戻された。大山巌は五十八歳、捨松は四十歳になっていた。
・明治三十三年の四月、アリス・ベーコンは再び日本の土を踏んだ。
 この年は西暦でいうと1900年、二十世紀という新しい世紀を迎え、捨松、梅子、ア
 リスの三人が日本の女子高等教育の向上という大きな夢の実現に向かって第一歩を踏み
 出すのにふさわしい年であった。
 捨松四十一歳、梅子三十七歳、アリス四十二歳、人生五十年といわれた当時からみれば、
 三人ともすでに人生の半ばを過ぎていた。しかし、太平洋を隔てた固い友情で結ばれて
 きた三人は、二十八年間育み続けた夢の実現に、娘のように胸を躍らせ再び喜びあった。
・九月、東京の麹町一番町に学校と呼ぶには余りにも粗末な小さな家の中で女子英学塾は
 そのうぶ声をあげた。
 塾長に津田梅子、顧問に大山捨松、教師としてアリス・ベーコン、梅子の父、津田仙の
 知り合いでアメリカで女子教育を視察して帰国したばかりの「桜井彦一郎」、アリスが
 前回来日した時、養女としてアメリカに連れ帰った渡辺光子他数人が採用された。
 この日の開塾式に出席したのは、生徒、教員、来賓を合わせてわずか十七名であった。
・塾の乏しい財政を助けるため、アリスは帰国するまでの二年間無給で塾の仕事を引き受
 け、女子高等師範学校から支払われる給料の中から梅子に家賃まで払った。
 その上、アリスはアメリカを発つ前に、捨松や梅子を知る親しい友人達に呼びかけ募金
 委員会を作り、いつでも日本へ送金できる手はずも整えてきていた。
 開校後、生徒が増え続け、約半年で一番町の校舎が手狭になった時、この募金委員会か
 らの送金のお陰ですぐ近くの元園町に校舎を手に入れることができたのである。
・アリスは約束の滞在期間が切れた明治三十五年の四月、塾の運営が軌道に乗ったのを見
 とどけて日本を去っていった。
・順調な滑りだしを見せた女子英語塾は毎年生徒数が増え続け、開塾当時十名だった生徒
 数は三十名を越え、元園町の校舎では収容しきれなくなった。
 明治三十五年の夏、梅子はすぐ近くの五番町の英国公使館の裏手に五百坪の売地がある
 ことを知り、それを家ごと一万円で買い取った。
 塾の財政ではとても払い切れる額ではなかったが、アメリカのボストンに住む一篤志家
 ウッズ夫人からの寄付でなんとか支払いことができた。
 塾の財政は非常に苦しく、校舎の新築費や教室の備品等の費用はすべて寄付に頼らざる
 を得なかった。
 
日露戦争
・陸軍参謀総長に就任した大山巌の毎日はのんびりしたものであった。
 自分はもう年寄りなので若い者達に煙たげられないようにと、退庁時間の四時きっかり
 になると書類を風呂敷に包んでさっさと部屋を出ていく。
 たいていは真っ直ぐ家に帰るか、嫁に行ったばかりの娘の留子の様子を見に行くのであ
 る。
 留子は明治三十三年に後に宮内大臣となった「渡辺千秋」伯爵の次男の千春のところに
 嫁いでいた。
 縁とは不思議なもので、千春の勤めていた日本銀行の総裁があの「不如帰」の武男のモ
 デルとなった三島弥太郎だったのである。
・ある時、娘の留子は夫の転勤に伴ってロンドンに出発することになったため、大山家に
 別れの挨拶に出向いた。
 すると父大山巌が、長いこと物置にしまってあった軍用行李や野戦用の衣類等を部屋一
 杯に広げて手入れをしている。
 近いうちに戦争になるのではと薄々感じていた留子が心配して「お父様、戦争にいらっ
 しゃるのですか?」とたずねると、「女のくせに馬鹿なことを言うものではない。
 六十三にもなる老人が戦争に行くわけがないだろう。軍人は、いつ戦さが起こるかわか
 らないから手入れをしているだけだ」と叱られてしまった。
 遠い外国に旅立つ娘を心配させまいという親心もあったけれど、家族といえども軍事に
 関しては絶対に口外してはならないのが軍の規則であった。
 留子は、数ヵ月後、太平洋を行く船の中で父親が満州軍総司令官になったのを知ったの
 である。 
・大山は陸軍官邸の庭に捨松、長男高、次男柏、四女久子と並んで記念写真におさまり、
 その足で沿道を埋め尽くした人々に見送られて、生涯で七度目の出征に新橋駅から出発
 していった。
・夫を送り出してからの捨松の活躍ぶりは目ざましかった。
 あのニューヘイヴンの「アワー・ソサエティ」で育まれたボランティア精神が再び目を
 醒ましたのである。
 捨松は、日石篤志看護婦人会や明治三十四年に結成された愛国婦人会等の既成の組織を
 利用して、積極的に救護活動を始めた。
・これらの会に名を連ねている女性達は、皇族や華族の夫人、令嬢たちがほとんどで、ハ
 ンドバッグよりも重い物を持ったことがなく、お付きの者なしで外出したこともないよ
 うな人達ばかりであった。
・こうした深窓育ちの女性達をまとめて、募金委員会や慰問袋作成委員会の編成、日赤で
 の包帯作り等のボランティア活動をてきばきと処理できる女性は、上流会社の中では捨
 松以外にはいなかったのである。
・捨松にとって一番つらいことは、この戦争で夫や息子を失った遺族のことを考える時で
 あった。
 けれども、満州軍総司令官の妻の立場上、愛国主義種である前に母であり妻であるなど
 とは、絶対に口にできることではなかったのである。
 捨松は、何万という無名の兵士達の死を無駄にしないためにも、夫大山巌が総指揮をと
 るこの戦争を正当化するためにも、日本はこの戦争に絶対に勝たなければならないと信
 じていた。

晩年
・日露戦争が終結し、夫も戦地から無事に帰還して、戦時中の騒ぎが嘘のように静まり、
 捨松の身辺にもやっと平穏な生活が戻ってきた。
 長男の高は海軍、次男の泊は陸軍とそれぞれ軍人の道を歩きはじめており、大山家には
 末娘の久子が残るだけとなった。
・女子英語塾は、日露戦争の勃発した明治三十七年の三月、専門学校令による専門学校の
 認可を受け、生徒数も百八十名にふくれあがり、四年前の創立時と比べると質量とも大
 きな飛躍をとげている。
 さらに同じ年の九月には社団法人設立の許可がおり、今まで梅子個人の名義となってい
 た塾の財産は、土地、建物、備品等すべて社団のものとなり、初代の理事には梅子と捨
 松が名前を連ねた。
・五十歳にまもなく手が届く年齢になっていた捨松は、この頃妻としても母としても最も
 充実した平和な日々を送っていた。
 一人家に残っていた末娘の久子もこの年の暮れに嫁ぎ、二人の息子達もほとんど家にお
 らず、六人の子供達が賑やかに騒ぎまわっていた頃に比べると、一抹の淋しさはあった
 が、捨松は夫と二人だけの静かな生活に幸せを感じていた。  
・捨松と繁子に、間もなく思いがけない不幸が訪れた。
 なんの運命のいたずらか、アメリカ時代からの親友捨松と繁子の長男が、奇しくも海軍
 の同じ軍艦に乗りあわせ、事故に遭い、若い命を落としたのである。
・捨松の長男高は海軍少尉候補生として、繁子の長男武雄は海軍少尉として軍艦「松島」 
 に乗り込み遠洋航海に出ていた。
 明治四十一年四月、「松島」はシンガポール、コロンボを経て日本へと向かっていた。
 途中、澎湖島の馬公港に停泊中、突然艦の後方にある弾薬庫で大爆発が起こり、艦は真
 っ二つに裂け、艦長以下二百名の士官及び兵は海の藻屑と消えたのである。
・日露戦争の後、大山巌は妻とともに栃木県の那須野の別荘で過ごす時間が多くなってい
 た。 
 那須野の地は、早くから明治政府が率先して開墾を行ったところで、大山巌も明治十五
 年に大山農場を開き、暇さえあれば自ら鍬をもって杉の苗を植えたり、水田で田植えを
 手伝ったりして自然の中で過ごす時間を楽しんでいた。
・明治四十五年の七月、明治天皇が方語崩御され、明治から大正へと改元された。
 鎖国から解き放たれたばかりの新日本を、わずか四十五年間で国際舞台に登場させ、欧
 米の列強と対等に渡り合えるまでに成長させ、日露戦争では大国ロシアを震えあがらせ
 た明治という時代に終止符が打たれたのである。
・女子英語塾も創立十周年を迎え、すでに約八十名の卒業生が社会へと巣立っていった。
 そのうちの半数以上の五十余名が英語教師として教壇に立ち、数の上ではわずかではあ
 ったが、英語教師という仕事が少しずつ世の中に認められ始めた。
・大正四年の四月、長男高の亡きあと嗣子となった次男の柏の結婚式が行われた。
 相手は京都の公家の故「近衛篤麿」侯爵の長女武子で兄の文麿は盧溝橋事件時の内閣総
 理大臣となった人である。
・捨松はこの初めて迎えた若い嫁を大層気に入り、健気にも新しい家風に慣れようと努力
 する武子を、娘同様に可愛がった。
 武子は、大山柏との結婚を決意した時、周囲からあの小説「不如帰」を持ち出され、嫁
 いびりをされるだろうと心配されたり脅されたりしたが、実際に大山家に入ってみると、
 小説とはまったく違った暖かい包容力のある捨松に接し、自分は本当に幸せ者だと思っ
 たという。
・大正五年の九月に柏夫妻に男の子が誕生した。大山家におとっては初めての内孫の誕生
 で、捨松は名実ともにおばあちゃんになったわけだが、これで大山家の後継ぎができた
 と夫婦ともに大喜びであった。
 しかし、その喜びもつかの間、夫大山巌がその二ヵ月に病気で倒れるという不幸が襲っ
 た。
・大山巌は十一月、大正天皇のお供をして九州の福岡で行われた陸軍の特別大演習を陪観
 した。その帰り道、汽車が須磨にさしかかった時、突然胆嚢炎を起こし絶対安静の状態
 のまま穏田の自宅に連れてこられた。
 それからというもの、昼夜をとわず、名医といわれる医師達が付き添い治療にあたった。
 しかし、七十五歳という高齢には勝てず、雪の降る十二月、昏睡状態のまま眠るように
 息を引き取ったのである。
・政府は翌日直ちに臨時閣議を開いて、一週間後、日比谷において大山巌の葬儀を国葬で
 取り行うことを決定した。
・夫の死後、捨松は社交界からも公式の場からも完全に身を引き、代わりにそうした席に
 は嫁の武子を出すようにした。
 この頃はすでに日本はドイツに対して宣戦布告し、第一次世界大戦に参加しており、
 大正七年の八月にはシベリア出兵を行い、多数の兵士達を厳寒の地に送り込んでいた。
 日露戦争の時と同様に、日赤篤志看護婦人会では上流階級の婦人達を日赤病院に集めて
 包帯巻き等の作業を行った。
 しかし、日露戦争の時にはあれほどまでに情熱を傾け婦人達を引っ張ってきた捨松だっ
 たが、日赤には嫁の武子を行かせ、自分は自宅の応接間を提供して東京在住のアメリカ
 婦人達の集め、シベリアにいる兵隊達のために暖かい衣類を編む会を計画する程度であ
 った。
・夫の死後公けの場から身を引いたとはいえ、唯一捨松が以前にも増して情熱を傾けた仕
 事があった。それは女子英語塾の仕事である。
 順調に発展し続ける塾ではあったが、この頃捨松が最も心を痛めていたのは、梅子の健
 康状態と塾長の後継者問題であった。
・梅子は一度健康を回復したかのように見えたが、大正六年の春、再び異常を訴えるよう
 になり、築地の聖路加病院に入院し精密検査を受けた結果、糖尿病と診断された。
 病気の回復は思ったよりはかばかしくなく、この年は入退院を繰り返し治療に専念せざ
 るを得なかった。 
 この頃から捨松は梅子の健康のためにも塾の将来のためにも、塾長の後任を探す時期に
 来ていると考え始めるようになった。
・すでに六十一歳になっていたアリスは五月、生まれ故郷のニューヘイヴンの病院で、腸
 疾患のため静かにその生涯を閉じた。
 明治政府が派遣した捨松、繁子、梅子という三人の女子留学生との偶然の出会いは、ア
 リスの人生にも大きな影響を与えている。
 アリスは三人の日本女性との友情に応えるために、自分の仕事を犠牲にして、二度まで
 も太平洋を渡ることになったし、日本との出会いによって、アリスは二人の日本女性を
 養女に迎えることにもなった。
 生涯独身を通したアリスは、心の奥底から襲ってくる孤独感を癒すために、この二人の
 娘を溺愛した。
・一人は最初に来日した時、養女として引き取った渡辺光子で、まだ五歳だった光子をア
 メリカに連れて帰り、約十二年間手元に置いて育てたのである。
 そして、二度目の来日の時、梅子の女子英語塾の教師にするため日本に連れてきている。
 アリスは、帰国するとき、光子には日本での生活が向いていると判断して、捨松、繁子、
 梅子の三人に、光子の親代わりになってくれるように頼んでそのまま日本に残して行っ
 た。その三年後、光子は幸せな結婚をして家庭に入っている。
・もう一人は、「一柳満喜子」で、アリスとの最初の出会いは日本でアリスから英会話を
 学んだ時であった。
 満喜子は上流階級の娘が女学校を出るとすぐにお嫁にいく風潮に我慢できず、父親に頼
 み込んでアメリカに渡り、大正元年の九月、梅子の卒業したブリンマーカレッジに特別
 学生として入学した。
 しかし、勉学の途中、腸チフスにかかり健康を損ね、それ以上大学生活を続けることが
 できなくなってしまった。
 この時、失意のどん底にいた満喜子に救いの手を差し延べたのがアリスであった。
 子供のいないアリスと、母親を幼い時に亡くした満喜子との間には、実の親子以上の愛
 情が芽生え、アリスは満喜子にディープヘイヴンの夏のキャンプの経営を手伝わせたい
 して、いつも自分の側から離さなかった。
・満喜子はアリスの死を見とってから、遺産問題等の仕事をすべて済ませて日本に戻り、
 捨松等の女子英語塾の塾長にという誘いを断って、明治学院のチャペルや数多くの西洋
 建築を手がけたアメリカ人の建築家メリル・ヴォーリーズと結婚している。
・この年の春、梅子の病状は再び悪化し、入院を余儀なくされた。
 そして、翌年の大正八年の一月に、梅子は理事の捨松や社員会宛に、もはや塾長の任務
 を続けることはできないので、あとのことは社員会に任せる、という辞意の手紙を出し
 たのである。
・さっそく、関係者は社員の一人「新渡戸稲造」邸に集まり、塾長後任の人事について会
 議を開いた。その席上で、塾の講師として三年間英文和訳を教えていた辻マツの名がの
 ぼったが、同席していた本人の意向でしばらく時間を置くことにして、後任が決まらぬ
 まま解散した。
・この頃、東京でスペイン風邪と呼ばれた悪性の流感が流行っており、大山家でも書生や
 女中達が次々と感染した。
 捨松は孫達にも感染するのを恐れ、家族を連れてしばらくの間、暖かい沼津の別荘に転
 地することにした。
 しかし、塾長の後任人事のことが頭から離れず、ゆっくりと静養している気分になれず、
 一人東京に戻ってきた。
 流感にかかっている使用人達に囲まれていてはひとたまりもなく、捨松も高熱を出して
 寝込んでしまった。
・塾長候補にあがっている辻マツからは、教師としての仕事には意義を感じているが、
 塾の経営には全く関心がないという理由で、なかなかよい返事がもらえなかった。
 捨松はこの人事を梅子のためにも塾のためにも、一刻も早くまとめたいという思いで、
 病気の身体をおして辻マツの家まで出かけていき、熱心に説得にあたった。
・辻マツは、捨松の熱意に打たれ、正式の後任が決まるまでの塾長の代理としてなら、と
 いう条件でついに引き受けることを承諾したのである。
・二月、辻マツの塾長代理就任式が行われ、捨松は責任を果たしたという安堵の気持ちで
 満足感にひたりながら出席した。
 だが、この時これが捨松の最後の元気な姿になろうとは、参列者の誰もが予想もしなか
 った。   
・前日の無理がたたったのか、翌日捨松はのどのうずくような痛みをぼえ床についてしま
 った。しばらく安静にしていたため病状も落ち着き、回復に向かっているかのように見
 えたが、再び四十度近い高熱が出て、その上肺炎を起こし予断を許さぬ状態が続いた。
 そして、容体が急に悪化して呼吸困難に陥り、捨松は遂に帰らぬ人となったのである。
・嫁の武子の話によると、捨松は医者がワクチン注射を打った直後、急に体が震え出し、
 顔色が変わって呼吸が止まってしまったという。
 捨松は極度のアレルギー体質だったので、このワクチン注射のショックで死期を早めた
 かもしれない。
・大山邸で捨松の告別式がしめやかに行われた。
 捨松の生前からの希望で、葬式は神式でも仏式でもない形がとられ、参列者一人一人が
 捨松の棺に花を捧げて冥福を祈った。
 参列者の涙を誘ったのは、友人達に支えられながら病をおして捨松に最後の別れを告げ
 る梅子の姿であった。
 翌朝、捨松の遺体は上野から汽車に乗せられ西那須野に向かい、夫の眠る大山家の墓に
 埋葬され永遠の眠りについたのである。享年六十歳であった。