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この作品は、戊辰戦争の際、新政府軍と東北諸藩の間で武装中立を目指した長岡藩家老で
あった河井継之助の生涯を描いたものである。
河井継之助は、近代的合理主義を持ち、時代を見据える先見性と実行性を有しながらも、
「藩」や「武士」という束縛から自己を解放するまでには至らず、最後には武士として、
長岡藩の家臣として、新政府軍に対抗する道を選んだ悲劇の英雄とされている。
この河井継之助を扱った小説は司馬遼太郎の「」があるようだが、私はまだそちらの作
品は読んだことがない。
なお、この司馬遼太郎の小説「峠」は、「峠 最後のサムライ」として映画化されて、今
年(2021年)7月に公開予定のようだ。
この本を読むと、幕末の日本がどういう状況だったのか、おおよそわかってくる。当時の
日本は旧幕府側と薩摩・長州・土佐藩を中心とした新政府側とに二分された。各藩がどち
ら側につくのか選択を強いられたのだった。
そんな状況の中において、この作品の主人公である長岡藩家老の河井継之助は、どちら側
にもつかない「中立」という選択をしようとしたのだ。それは、当時は極めて先進的な考
えだったようであるが、当時の状況においては、まったく受け入れられなかったようであ
る。
というのも、鳥羽・伏見の戦いで勢いづいていた新政府側としては、とにかく弱い旧幕府
側に対し戦いを仕掛け、”旧幕府を叩きのめし完全に勝利した”という実績が欲しかったよ
うだ。また、個人においても、この戦いで手柄を立てて、新しい体制において”いい地位”
を獲得したいという出世競争も働いたようだ。
そのため、中立の申し入れはおろか、”恭順”を申し出た奥羽諸藩に対しても、「世良修蔵
暗殺事件」が起きたように、戦いになるよう挑発もしていたようである。また、恭順がた
受け入れられたとしても、今度は隣藩との戦いを強いられることになるため、長岡藩と奥
羽諸藩は奥羽越列藩同盟を結んで新政府側と対峙することになったようだ。そして、地理
的に最前線となる位置にあった長岡藩は主戦場化していったようである。
河井継之助に対する評価は二分しているようだ。酷い財政難に陥っている長岡藩を立て直
すために、様々な藩政改革を実行したことが高く評価された反面、その強引な改革に反発
した者や長岡藩を新政府軍との戦いに巻き込んだ張本人だということで非難を受けたよう
である。
しかし、当時の状況においては、長岡藩が新政府側につこうが旧幕府側につこうが、戦い
に巻き込まれずに済ますことはできなかったのでは、と私には思える。
ところでこの本を読むと、そもそもどうして徳川幕府は鎖国政策をとったのかという疑問
が浮かんできた。徳川幕府が鎖国政策をとった目的は、主に「ポルトガル、スペインの排
除」と「キリスト教の禁止」の二つと言われている。ポルトガル、スペインを排除したの
は、当時この両国は領土拡大に対する野心が強かったためと見られている。どちらの国も
カトリック教を布教しながら領土を拡大していたのだ。そして、鎖国政策を決定的にした
のが、「島原の乱」だったようだ。当時は九州を中心にキリシタン大名が増加しており、
幕府はキリスト教徒が大勢力となって敵対することを危惧していた。そこにこの島原の乱
が起こった。これは日本の歴史上において最大規模の一揆だったと言われている。幕府が
恐れたいたことが現出してしまったのだ。これをきっかけに幕府は鎖国政策を加速させた
ようだ。
この鎖国政策により、徳川幕府は二百年以上の長きにわたり安定したわけだが、その間に
世界は大きく変わり、日本は世界の潮流からすっかり取り残されてしまった。
幕末の黒船来航によって、そのツケが一気に押し寄せて、戊辰戦争という悲劇を生んだ。
この内戦は、下手をすれば外国の介入を許し、日本が植民地化される恐れもあったようだ。
徳永慶喜が大政奉還したのも、外国の介入のきっけになるような、薩長との全面的内戦を
避けるためだったとも言われているようだ。
この作品の主人公である河井継之助も、決して自ら進んで新政府軍との戦いを望んだわけ
ではなかったようだ。長岡藩主である牧野家が長く徳川家に忠誠を誓い仕えてきた家臣で
ある譜代大名だったからだ。なお、幕末当時の東北で同じように譜代だった藩は、白河藩
や庄内藩、山形藩などであった。また、会津藩の松平家は徳川家の血統をつぐ御家門だっ
たようだ。これらの藩は、最後まで徳川家に忠誠を誓わざるを得なかったのだろう。
河井継之助は、長岡での戦いの敗れ、足に重傷を負って、長岡から会津に逃げる途中傷が
悪化して命尽きたようだ。
幕末を描いた作品は、ともすると坂本龍馬や西郷隆盛などを中心に新政府側に視点を置い
て描いたものが多いような気がするが、旧幕府側にだって、河井継之助のような有能で先
進的な考えを持ったすばらしい人物がいたのだと、この作品を読んで改めて知った。
また、河井幸之助とその妻「すが子」との夫婦愛にも、ほろりとさせられた。
河井継之助の終焉の地は、現在の福島県只見町だったようで、現在当地には「河井継之助
記念館
」が置かれているようだ。ぜひ一度訪れてみたいものだ。


プロローグ
・「長岡と江戸は近いでや」継之助は雪焼けした顔をほころばせ、河井家に嫁いできた新
 妻に平然と嘘を吐いた。まだ十代でなにも知らないすが子は、夫のとろけるような笑顔
 に他愛なくのぼせ、そんなものかと合点した。だから、一緒になってわずか二年ですが
 子を置いて、「すぐそこにある江戸」へ遊学にいくと言い出した夫に、無邪気に訊ねた
 ものだ。「会いたくなったら、すぐにまた旦那さまに会えましょうか」継之助は大真面
 目に請け合った。「もちろんだ。信濃川を上って山ひとつ越えたらもう江戸だ」
・さすがに妙だと思ったものだ。だが、嬉しそうに出立する夫の前に、湧きあがった疑問
 は口に出せなかった。出せないまま二十年が過ぎた。
・今、すが子は義母の貞子と一緒に三国街道を踏みしめ、かつて夫が意気揚々と歩いたろ
 う道程を辿っている。楽しい旅ではない。故郷の長岡を追われての道程だ。
・真冬に豪雪をかき分けて越えるなど命知らずなのはいうまでもないが、ここ三国街道は
 春になっても雪崩の危険を孕み、過去に長岡藩士らが、一度に七人も遭難した悲劇もあ
 ったらしい。
・「江戸」は、新しい時代の象徴のように「東京」と名を変えたという。長岡から「江戸」
 までは、天候がよければおおよそ七日の旅らしい。(嘘ばっかり。七日もかかるなんて、
 遠いでや)
・継之助はもういない。四年前に長岡を戦場に変えて散っていったからだ。残されたすが
 子と義父母は、長岡を灰塵に変えた男の家族として白眼視された。
・無理もない、とすが子は思う。長岡の城下町を、夫は、そのすべてを跡形もなく壊して
 逝ってしまったのだ。数えきれない人々が、無残な最期を遂げた。今、生き残っている
 者たちのほとんどは、家族のだれかをもぎ取られた者たちだ。さらに、ろくに住むとこ
 ろも食べ物もなく、まさに辛酸を舐めている。
・戦の導いた継之助を憎むのは当然だった。そういう者たちに、河井家の墓は何度建て直
 しても倒された。義父は心労がかさみ、昨年、無念のうちに亡くなった。すが子は義母
 貞子を連れ、故郷を出ることを決意した。明治五年、すが子は三国街道を歩いている。
・それにしても、自分の夫、河井継之助とはいったい何者だったのだろう。死んでなお、
 すが子を翻弄し続ける男だ。英雄だったのか、とんだ大戯けだったのか。
 
月白の目覚め
・嘉永三(1850)年のことだ。すが子はほんの十六歳、継之助は二十四の若者だった。
 目出度いはずの婚礼の話が持ち込まれたとき、すが子は自分の将来の夫が、城下でもた
 いへんな変わり者で通っていることを知っていた。河井継之助という若者は、昔からな
 にをしでかすかわからぬ危うげな人物として目立っていたからだ。
・婚礼の日、初めて見た夫は、背丈はさほど高くはないが体つきは精悍で、鳶色の目がぎ
 ょろりとして怖かった。まるで浮世絵で見る龍の目のようだ。
・婚礼の儀式も祝いの宴も終わり、初めて二人きりになると、いよいよすが子は身を強張
 らせ「不束ものではございますが、なにとぞよろしゅうご指導くださいませと紋切型で
 はあったが、三つ指を突いて精一杯の思い出で挨拶を述べた。それから全身、耳となっ
 て夫からの初めての言葉を待った。すが子は一生それを忘れずに、大切に胸に抱いてい
 くつもりであった。
・継之助は思いのほか優しげに目を細め、驚くほどの美声で名乗ったあと、意外なことを
 口にした。「この縁談は俺が望んで進めたことだ」
・えっ、とすが子は目を瞠って夫を見た。頬が火を噴いたように熱くなった。身が震える
 ほどの嬉しさに涙がじんわりと滲んだ。もし本当に自分が継之助自身の望まれたのだと
 すれば、もうそれだけでじゅうぶんだとさえ思った。
・「どうしてわたくしを・・・」この人は知ったのだろう。辛抱強いだけが取り柄の目立
 たぬ女だ。年頃になって花のように可憐になったと世辞は言ってもらえるが、城下に鳴
 り響くほどの美人でもない。
・「いや、おみしゃんの兄上が、稀に見る実直者で良い仕事ぶりゆえ、俺は好きだ。その
 妹御なら間違いはあるまいよ」なんだ、とすが子は自分が恥ずかしくなった。喜びが大
 きかった分、落胆も大きかった。
・安政六(1859)年、継之助は弾む足取りで、飛ぶように進んでいく。目指す地は、
 「板倉勝静」の統べる備中松山藩領(現岡山県)だ。継之助は三十三歳になっていた。
・この地には、板倉勝静の腹心、参政「山田方谷」を訪ねてきたのだ。この男、学者だが
 机上の論で終わる頭でっかちではない。学問を実践の場で生かし、備中松山藩の藩政を
 実際に動かしている稀有の人材だ。なんといっても重職に就いてわずか八年で、十万両
 もあった藩の赤字を、逆に十万両の黒字に転じさせる神業をやってのけている。
・方谷が藩政改革に邁進した八年は、継之助にとっては蹉跌の八年だった。二十六歳のと
 き、 継之助はいずれ藩の役に立つ男になるため江戸遊学を果たした。高名な学者の問
 を次々と叩いたものの、自身を満足させ得る師には、ついぞ出会えなかった。
・転機は江戸遊学二年目、継之助二十七歳のときに訪れた。ペリー来航に日本が揺れたこ
 ろのことだ。難しい時局を老中を務める長岡藩主「牧野忠雅」が、身分の上下を問わず、
 広く藩士に藩政上の意見を求めたのだ。
・継之助は好機とばかり、直ちに建白書を書き上げ提出した。その内容は度を越して激し
 かったが、忌憚ない意見を述べたつもりである。罰せられるのは覚悟のうえだ。今の藩
 政の愚を激しく批判し、時事を論じ、現状に沿った改革案を述べた継之助は、驚いたこ
 とに取り立てられた。家老を補佐する立場の評定方髄役に大抜擢された。
・気負ったのも束の間、なんの力も発揮できぬまま、あっという間に辞職に追い込まれて
 終わった。いわゆる門閥の家老たちが、ことごとく継之助を無視したからだ。継之助は、
 まるっきり「そこにいない者」として扱われた。何を言っても、言葉は藩の重役たちの
 上を素通りし、反対の声すらまともに取り上げてもらえなかったのだ。
・自分はそうして失敗した。だのに方谷はどうだ。出自は百姓で、元は叔父の家業を継い
 で油売りをしていた男だ。条件は方谷のほうが厳しい。おそらく方谷の身分を越えた登
 用は、自分と同じく藩の門閥から激しい反発を受けたに違いない。執拗な嫌がらせや妨
 害もあったはずだ。門閥だけではない。藩庁に勤める役人たちも決して協力的ではなか
 ったろう。そういう四面楚歌の中、いったいどうやって己の理想を実際の政の中に落と
 し込み、赤字から黒字へと見事な逆転劇をやってのけたのか。
・長岡も膨大な借財を抱え、疲弊しきっている。そして不正に満ち、汚職にまみれている。
 備中松山もそうだったと聞く。腐りかけた藩を、方谷が一つ一つ変えていったのだ。
・藩政改革に携わる者が城下にいないというのは、どういうことなのだろうか。どうも方
 谷という男は、これまで継之助の会ったどの男とも違う種類の人物のようだ。掴みどこ
 ろがないが、そう思っているのは余所者の継之助ばかりで、土地の者はもう慣れている
 らしい。
・城下から未開の地に分け入って、新田を開発しているという。なるほど、長瀬までの道
 々に、継之助は開墾したての田畑を幾つも見た。
・方谷は、遠方からはるばる自分を頼ってやってきた継之助に気の毒そうに謝罪し、数日
 滞在していくことを勧めてくれた。その間に知りたいことがあればなんでも答えようと
 請け合った。
・度重なる災害や飢饉、開発事業の失敗。されに、二代前から老中職に任命されるように
 なった主家牧野家の出世が、皮肉なことに藩の財政をきつく圧迫し続けている。なによ
 り、巨額な財源だった新潟を上知され、港の生む権利をまるごと幕府にもっていかれて
 しまったのは痛かった。そういう諸事情を、継之助は掻い摘んで説明しようと口を開き
 かけた。だが、「いや、いいのだ」方谷は自分から訊ねたくせに継之助を押しとどめた。
 「個々の理由はいかんようにもあろう。されど、問題はそこではない」
 「尊藩には行ったことはないが、失礼ながら政はさぞ乱れておいでであろう。賄賂が横
 行し、賭博も流行り、色に乱れ、商人も庄屋も既得権益を抱え込み、我が利をむさぼる
 ことに夢中であろう」
 継之助はぎょっとなった。
・「政道の腐敗が財政の乱れる根本の理由と言わっしゃるなら、根本の原因となる曲がっ
  た政道をただすのが先。倹約増税などの表面上の対策をいくら施しても、砂上の城」
・「本来あるべき国の姿とは、当たり前のことを当たり前に行う姿のことでありましょう」
・「いやあ、信じられん。あの忙しい先生がよく他藩の者の弟子入りをお許しになられた
 なあ」松山城下で継之助を迎え入れてくれたのは、方谷一番弟子の進昌一郎だ。
・昌一郎は、継之助を「花屋」という旅籠に案内した。「ここは良いよ。君。諸国を遊学
 する諸君は、備中松山に来た折は、みなここに泊まるんだ。全国の癖のある連中が入れ
 代わり立ち代わりやってくるぞ」「一年早けりゃ、長州の久坂秀三郎(玄瑞)もいたん
 だが」
・長州といえば、吉田松陰という出来物がいたが、大老井伊直弼が断行する「安政の大獄
 で幕府に捕らえられたと噂を聞いた。久坂秀三郎は高杉晋作と共に松陰門下の双璧とう
 たわれた人物だ。 
・継之助の泊った「花屋」は、この当時流行していたいわゆる「文武宿」と呼ばれるもの
 だ。日本中のあちらことらに存在し、文武何れかの修行で遊学している者は、無償ある
 いは低料金で宿泊できる。代わりに、土地の有志に自分の持っている技術や情報を伝え
 るのだ。こうして、日本中の向学心溢れる若者たちの底上げが行われ、彼ら独特の人脈
 も築きあげられていった。これらの宿は、幕末の流動を支えた陰の立役者でもある。
・初日は進昌一郎と会津藩士の土屋鉄之助の三人で、近隣でよく採れる松茸を肴に酒を酌
 み交わし、夜通し語り明かした。土屋鉄之助はのちに会津の軍制改革にかかわる男だ。
 戊辰戦争の折には、会津藩における農民や町人による義勇軍結成を発案し、自身も国境
 の防衛隊である新練隊の隊長として大暴れした。 
・(この男、見覚えがある)継之助は、雑巾がけをしている若者をしげしげと見下ろした。
 若者も、難しい顔で自分を見据える宿泊客に居心地の悪さを感じたのか、眉を八の字に
 して小首をかしげた。「お前さん、横浜にいたな。」
・継之助の率直な問いに、若者は眉根を寄せたのも一瞬、すぐに笑顔を作った。「林子平
 に憧れて、日本中を旅しています。鴉十太と申す者」
・「林子平か。仙台の経世家だな」
・もっとも、子平の政策は藩にまったく聞き入れられず、無視され続けた。絶望した子平
 は藩を飛び出し、松前から長崎まで、まさに日本中を旅してまわった。その旅の間にロ
 シアの侵略の脅威に気付いたという。子平は、海防を説いた「海国兵談」を著すことで
 安寧の世に慣れきった日本に警告を発し、たちまち幕府に危険人物とみなされた。
・継之助は藩校「有終館」の講義も受講させてもらったが、黙って他人の講義を聴くこと
 ことが苦手な継之助は一度で懲りてしまった。
・鉄之助が去ると、ほぼ入れ替わりで同じ会津の「秋月悌次郎」という男がやってきた。
 優しい顔立ちをしているのに、どこか伏し拝みたくなるような不思議な迫力がある。後
 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)に「神が人の形を取れば、悌次郎のように違いない」
 と言われた男だ。
・これまで長岡藩は長岡の中と隣藩のことだけに通じていれば政は執れた。だが、米欧列
 強が開国を迫って日本に押し寄せてきて以来、それでは立ち行かなくなっている。誰も
 経験したことも見たこともない時代がやってこようとしているのは、明かだった。どの
 藩がとう動くのかを見極めながら、自分たちの立ち位置を慎重に決めていかねば、藩の
 存続自体が危うくなるやもしれぬ時代になったのだ。
・時勢の波についていけない者は、第一線から締め出される。各藩の中も外も、ごっそり
 勢力図は書き換えられるだろう。藩政を司っていた門閥らの席減り、代わりに時勢の読
 める者が台頭する。すぎそこに、そんな時代が見えている。
・継之助は「君は、天下国家を論じない」と言われた。昨今は犬猫も論じると言われる尊
 王攘夷のことだろう。だったら、継之助は論じない。尊王は日本の民として当たり前す
 ぎるし、継之助に言わせれば攘夷などは空論で馬鹿馬鹿しい。「夷狄を打ち払え」と叫
 ぶ連中は、米欧列強による植民地支配を気にしているのだろう。が、伝え聞く他国の話
 では、列強は支配したい地に「騒乱」を起させ、それを足掛かりに侵攻してくる手をい
 つも使う。国論を二分させ、立ち上がってきた民衆を鎮圧しようとする為政者に味方し
 て、いつしか国政にじわじわと干渉してくるようになるか、自分たち「夷狄」を攻撃さ
 せて「報復」の名のもとに武力支配していくか。尊王攘夷を叫んで騒げば騒ぐほど、列
 強に付け入る隙を与えてしまうようなものだ。
・国政を充実させ、国を富ませ、国内外で一切の争いを起こさないことが、列強の脅威か
 ら日本を守る一番の上策だと継之助は信じている。
・方谷は、継之助のために住むところを用意してくれた。これが驚いたことに先代藩侯
 「板倉勝職」の別荘、通称「水車」だと言う。伊賀川を取り込んだ別荘の外郭には、愛
 称由来の水車が軽快に回っている。一度は廃屋になりかけていたのを、方谷が手を入れ
 て蘇らせたようだ。 
・薩摩といえば昨年、安政の大獄を断行する井伊直弼に反発し、藩侯「島津斉彬」が五千
 の兵を率いて上京しようとした。矢先、斉彬は突然倒れ帰らぬ人となった。そのあまり
 に不審な死に、謀殺されたのではないか、という黒い噂が立っている。
・「お前さん、本当の名はなんて言うんだ」えっ、と鴉十太は息を詰めた。「細谷十太夫
 ですよ」少し照れながら、十太は滅多に口にしないだろう名を告げだのだ。
・備中丸山は先代藩主がひどかった。板倉勝静の養父、勝職のことだ。勝職は、酒色に溺
 れて我を失くし、茶坊主の頭に百目蝋燭を置いて燭台代わりに使い、奢侈にふけった。
 「松平定信」の孫として謹直に育った勝静とは、生涯相容れぬ仲だった。
・勝静は、もとは陸奥白河藩主「松平定永」の八男だ。生まれて間もなく行われた文政の
 三方領地替えで桑名へ移ったから、桑名育ちである。ここ備中丸山へは、先代勝職の養
 子として入った。そのとき教育掛につけられたのが方谷だった。
・日頃から義父の暴政に我慢ならないものを感じていた勝静は、勝職の死と同時に方谷を
 政の第一線に立たせ、「これより方谷の言葉は予の言葉と心得よ」強い語気で宣言した。
 備中松山藩の一大藩政改革は、勝静のこの一言から始まったのだ。勝静わずか二十七歳。
 この瞬間、勝静と方谷は、藩の重臣のほとんどを敵に回して闘う道に踏み出した。
・改革とは、今あるものを壊す行為である以上、「今」を築いてきた者たちとの闘いでも
 ある。憎しみを真正面から受け止めて進めていくしかなく、改革によって退けられる側
 の者たちの必死の反抗を、成功という名の圧倒的な結果でねじ伏せなければならない。
 封建社会の中、いかに方谷といえども、勝静のこの強い意志なくしては、道半ばとなっ
 たに違いない。
・「常に決断を早く下す指導者は、才知、武勇共に無類に優れた人物と人々の目に映るも
 の。その印象が、決断の失敗さえも払拭するのじゃ」継之助は方谷の言葉を自身の血肉
 に変えようと、全身を耳にして聞いた。
・それにしても方谷は、あらゆることに精通している。継之助が感嘆しても、「なあに、
 昔は油売りをしていたからねえ。商売のことなら少しはわかるつもりだよ」出身が武士
 ではないからできたのだろうと微笑するだけだ。
・だが、方谷は軍制改革にも積極的に乗り出しているのだ。継之助がたまげたのは、備中
 松山の軍政がすでに洋式兵術を取り入れていただけでなく、その導入時期がペリー来航
 前だったからだ。 
・さらに大胆なことに、方谷は農民や猟師に刀や銃を持たせ、士以外の混合兵の組織も行
 っている。のちの世に長州の高杉晋作の組織した奇兵隊が身分を越えた混合兵の走りの
 ように言われているが、実戦を体験した初の混合兵が奇兵隊なのであって、組織自体は
 方谷の編成した隊が先だった。
・方谷が家の事情を語りだした。「最初の妻はね、十六歳で嫁いできて二十一歳で娘を産
 んだ。油売りの男に嫁いだはずが、夫はいつの間にか二人扶持になっていてね、娘が生
 まれた翌年から留学と称してずっと家にいなかった。たまに帰国しても三ヶ月ほどでま
 たいなくなる。それがおよそ十年続き、とうとう娘が死んでも家に戻ってこなかった。
 ようやく家に戻って数年、妻はそんな過去を詰りもせずによく仕えてくれた。だけどの
 う、再びわしが砲術を学びに家を出ると知ったら、出ていってしまったよ」なんと身に
 つまされる話だろう。継之助は方谷の過去が他人事には思えない。
・武家の女は耐え忍ぶ印象があるが、案外簡単に出ていくものだ。この時代の武家の離婚
 率は高く、 再婚は当たり前の風潮で女は引く手あまただ。三行半は、今後どこへ嫁い
 でもいいという前夫からの約束手形のようなものだった。女のためにあるものだ。
・継之助の身体に異変が起こったのは、それから三日後のことだ。腹がきりきりと痛み出
 し、下痢が続いた。脂汗が滲み、やがて立てなくなった。ぞくりとする恐怖が、継之助
 を襲った。昨年からコレラが流行していたからだ。この病は、発病後はあっけないほど
 コロリと死んでしまうことから、「コロリ」や「鉄砲」の異名を持つ。
・這いつくばった恰好で腹を抱え、ひとり苦痛に耐える継之助を、先日から多発している
 地震が容赦なく襲う。ドオンッと音がして、下から突き上げるように地面が揺らぐ。こ
 の日はことに多く、午前中だけで五回を数えた。
・継之助の腹痛は丸一日続いたが、日付が変わって一刻もしたころには、治り出した。 

乱の兆し
・継之助は壇ノ浦を舟で渡り、小倉藩小笠原家十五万石を通過し、福岡藩黒田家四十七万
 石の城下に入った。福岡藩は、どこを歩いていても大大名の風で、ただの道さえも立派
 に見える。天神町や大名町は大きな家ばかりが建ち並び、城下の繁栄は九州一ではない
 かと思われた。
・幕府の断行する安政の大獄の波を被り、死と隣り合わせの者がいる。安政の大獄が激し
 さを増したのは、幕藩体制を揺るがす「戊午の密勅」に端を発している。これは帝から、
 「日本の政道を正せ」との勅命が、幕府を飛び越えて直に水戸藩へ下ったものだ。帝は
 さらに、水戸藩から諸藩へ号令を下せと命じている。もし、実行されれば幕府は瓦解す
 る。大老井伊直弼は、戊午の密勅にかかわったすべての者を闇に葬ろうとしていた。
・戊午の密勅で二百数十年続いた順列が乱れた。安政の大獄の激しさは幕府の動揺の激し
 さだ。帝を陰でたしなめ、水戸に勅諚を返上させ、世間には偽勅だったと公表し、一人、
 二人の公卿を偽勅の黒幕として処罰したあと、幕府は何事もなかった顔をしていればよ
 かったのだ。
・大事を馬鹿正直に一大事として騒ぐから、幕府の綻びが衆目に晒される。騒がなければ、
 帝が序列を乱したことの重大さは、今ほど露見しなかったに違いない。今度のように弾
 圧すればするほど、大きく反発する力が生まれてくる。安政の大獄は、寝た子を起こし
 たようなものだ。井伊直弼は事後の対応を間違えたのだ。
・神埼から歩くことおおよそ二里半、昼過ぎに佐賀藩鍋島家三十五万七千石の城下に着い
 た。唐物の店があちこちに見え、異国風情の長崎にいよいよ近づいたことを実感する。
 継之助は目当ての「反射炉」へ向かうため、みなと別れてひとりになった。だが、いざ
 行ってみると、反射炉の中を見学するには手続きに一日かかるという。
・佐賀の反射炉は、隣国のアヘン戦争の脅威を受け嘉永三(1850)年に国防をうたっ
 て着工されたものだ。佐賀藩は反射炉による鉄製の大砲の鋳造を、日本で初めて成功さ
 せた藩となった。乞われれば、他藩に技術の輸出も行っている。後々、幕末に日本に入
 ってきた西洋砲の中で、最強と言われたアームストロング砲の製造にも取り組んだ。
・通りを曲がった継之助は、一瞬、目を疑った。(ここは異国なのか)まるで下駄や草履
 を扱うように、通りで洋式銃が売られているではないか。「ケベール銃か」「ここで造
 っておるのか」「左様でございます。火縄銃とさして変わらないつくりでございますゆ
 え」
・「ケベール銃」は、施条(ライフリング)がなく、製造自体は簡単で大量生産がきく。
 西洋銃とはいえ、性能も火縄銃に毛が生えた程度だ。有効射程も一町戦後と変わらず、
 命中精度などはケベール銃の方がかえって低い。だが、銃剣の装着が可能で内火のため、
 西洋式の密集型陣形を組むには欠かせない銃である。裸火の火縄銃では、隣りの者と必
 ず一定の距離が必要になる。
・もっとも西洋では、すでに密集型も古い戦法となり、散兵中心の戦術が組まれていたが、
 これをやるにはライフリングの施された飛距離の稼げる銃が大量に必要だった。今の日
 本ではどこも不可能だ。
・継之助は、あれほど見てみたかった長崎の地を踏んだ。もういくばくかで薄闇が迫る時
 刻、銀屋町の旅籠、「万屋」の暖簾を潜った。銀屋町には、鉄砲や大砲、そして火薬に
 詳しい上野俊之丞の家がある。
・俊之丞は、もともとは絵師だが時計職人も務め、なぜか硝石や火薬、鉄砲、大砲の研究
 も行い、武雄領鍋島家や薩摩藩島津家を上客としている。噂さでは、「平賀源内」も
 作ったと言われる「エレキテル」も完成させたそうだ。
・なんということもない話をしているようで、「上野彦馬」は重大なことを話してくれて
 いるのだ。およそ十年前に比べて、この日本中に武器や火薬がおそろしく増えていると
 いうことだ。かつては長崎の精錬所が一手に引き受けていたものを、今は各藩が自前で
 製造している。そして、おそらく増えた武器も火薬も、西国や九州に集中している。
・もちろん火器が増えたのは、外国の脅威に対抗する「国防のため」にちがいない。しか
 し、各々の藩がそれだけ強くなっていけば、自藩の軍事力を背景に日本の政治に口出し
 するようになるだろう。
・軍事力を背景に脅す相手は、幕府ではなく公卿だ。怯えた公卿を手玉にとって朝廷工作
 を行い、自論の勅命として引き出すことに成功すれば、今度はその勅命を掲げて幕府を
 思い通りに操れる。
・「町の人は、わたしの話に耳を貸してくれず、人の魂を抜き取るけしからぬ薬を作って
 いると噂しますが、そんな妖しいものではありません。作っているのはホトガラフィの
  道具です」継之助の知らない言葉だ。「ダゲリヨティーブのことです。耳にしたこと
  はありませんか」
・こちらならある。嘉永元(1848)年、今から十一年も前に、薩摩の島津斉彬を写し
 た、日本で最初の写真と言われているもののことだ。写した人物は、彦馬の父、俊之丞
 と言われている。今から三年後の文久二年に彦馬がホトガラフィを「写真」と名付ける
 まで、「写真」と言えば「肖像画」を指す言葉だった。斉彬が写った嘉永年間には、撮
 影方法である銀板写真法の横文字「ダゲリヨティーブ」がそのまま呼び名に使われた。
・だが今では古い技法となった「ダゲリヨティーブ」ではなく、二年前にはまだ日本に伝
 わっていなかった湿板写真法を欧米の本の中に見つけ、写真機も薬品も自前で作って挑
 戦しているというのだ。
・彦馬は己の行いをほとんどの者に理解されず、ほぼ四面楚歌の中、それでも信じた道を
 脇目も振らず邁進している。こんな男もいるのだと、継之助は感嘆した。
・「薩摩では、薩摩守(斉彬)様が被写体を命じた御家中が、魂を抜き取られるのは末代
 までの恥と言って切腹してしまわれたとか。そんな具合ですから、なかなか撮らせても
 らえません」「ならば、それがしがその被写体とやらになろうか」継之助が名乗りを上
 げた。
・おすがには見せられぬ姿だぞ、と継之助は思いながら彦馬の手で白粉を塗られ、白壁の
 前に立った。さらに、男の足で道を五町ほど歩くくらいの時間、じっと動かずに我慢し
 なければならなかった。撮影にかかった時間は、さほど長くはなかったというのに、終
 わった時にはぐったりとした疲労感を覚えた。実験で撮ったのだから、できたホトガラ
 フィは貰えないのだろうが、もし土産にできれば長岡で待つすが子が寂しくないのでは
 ないかと、らちもないことを思った。
・彦馬には、舎密試験所にも連れていってもらった。そこには、日本中から集まった、世
 の中の「真理」を学びたい者たちと、わざわざ日本人に医術と舎密を教えるためにオラ
 ンダから大海原を越えてやってきた、「ポンペ・ファン・メールデルフォート」がいた。
 師弟たちは国を越えて互いに厚い信頼で結ばれているのだと、継之助には見ただけでわ
 かった。
・彦馬が一人の男を指した。「あれが、松本良順先生です」「良順先生は、佐倉藩医で蘭
 医塾順天堂を開いておられる佐藤泰然先生の次男として生まれ、松本家へ養子に入られ
 たのです」
・蘭医塾では東の順天堂、西の適塾と言われるほど有名だ。順天堂は外科が得意で、女人
 の乳にできたしこりなども切って治すと聞いている。
・それにしてもと、継之助は舎密試験所の所属する医学伝習所の中を見渡した。ここには、
 西洋との日常がある。外国人のポンペと生徒の日本人たちは、同じ人間として、誰もが
 国を越えてごく自然に語り合い、触れ合っている。(末は日本中がこうなる日がくるの
 か)どこの国の者がどうとか、誰も身構えることなく、友として互いの資質を認め合い、
 学び合い、いい意味で影響し合える日常が。
・昨今、欧米人を夷狄と呼び、化け物のように忌み嫌い、彼らを排除しようとする攘夷運
 動が各地で盛んになっている。その一方で、彦馬たちはオランダ人のポンペや、スイス
 人のロシエとも親しんだと言っていたではないか。何人も同じことだ。どこの国にもい
 い人間と悪い人間がいる。長岡にもいる。欧米諸国の連中は、本当に敵なのか。攘夷と
 はなんなのだ。
・秋月悌次郎は人脈が広く、継之助の見たかった唐人屋敷やオランダ館への訪問も、蒸気
 船の見学も、すべて段取りを整えてくれた。唐人屋敷は元禄二(1689)年に、九千
 四百坪の規模で建設された。数十棟もの二階建ての建物を、練塀と堀がぐるりと囲み、
 さらにその周囲を竹垣が覆っている。貿易のために訪れた唐人たちをここに隔離し、日
 本人たちと勝手に接触できぬようにするためだ。
・中で暮らす唐人はさぞ不自由だろうと思われるが、しょせん貿易商の面々だから、永住
 しているわけではない。ほとんどの者が数カ月で商売を終え、母国に大金と輸入品を抱
 えて戻っていく。いずれも本国では大金持ちの連中だ。このため、多い時で五千人の唐
 人に対し、三倍の遊女が囲われたらしい。
・継之助が驚いたのは、唐人屋敷の中で阿片が吸われていたことである。阿片は、イギリ
 スが従属させたい国に流行らせて人々を堕落させ、国力を奪って骨抜きにしたあとで植
 民地支配に手を広げていく道具として使われてきた。
・秋月悌次郎は生真面目な男だった。江戸の「昌平坂学問所」に十四年間在籍し、舎長ま
 で務めた。その間、誰も悌次郎が眠っている姿を見たことがなかったと言われている。
 いつ部屋を覗いても机の前に座っていたそうだが、机上の学問に熱心に取り組む姿を誰
 も見たことがない継之助とは、正反対の性質といっていいだろう。
・継之助が長崎で接した悌次郎は、ことらの冗談を一々真に受け、疑うことをまるで知ら
 ぬ男だった。初めは面白がってからかっていた継之助も、こんな純真で善良な男には、
 もっと敬意を払わねばならないと段々と恥じ入るようになった。
・「スコットランドから来た二十二歳のトーマス・ブレーク・グラバーです。この国で人
 生の成功者となるため、すべてを賭けて渡海しました」眼前の西洋人が二十二歳という
 ことに継之助は驚いた。この若さで、自分の意志一つで、どんな国かも判然としない日
 本に荒波を越えてやってきたというのか。
・素晴らしい、と率直に感心したものの、外国人は「私」で動くのか、と継之助は日本人
 との違いにすぐに気付いた。今のグラバーの言葉の中に滅私の考えはどこにもない。
 「公」に尽くすことが美徳の日本人とはまるで違う思考をしている人種なのだ。
・継之助が長崎を去る日がやってきた。夜明けを待って最後の散歩を楽しみ、継之助はひ
 とり港に顔を出した。波の上で旭光が跳ね、白く輝く水面に、鯨のような巨大な西洋船
 や軍艦が二十艘ばかりも浮かぶ沖を、継之助はしばらくじっと見つけていた。日本の蒸
 気船は、「咸臨丸」が浮かぶだけだ。昨日までは、幕府所有の「観光丸」も停泊してい
 たが、これは江戸へ向けて出港してしまった。江戸と長崎の間はたった五日で走るとい
 う。つい最近まで、日本で船と言えば千石船と呼ばれる「弁才船」のことだったが、ど
 れほど急ごうと江戸、大坂間でさえ十日は掛かったことを思えば、飛躍的な進歩であっ
 た。
・観光丸船将「矢田堀景蔵」に「乗せていってもらえまいか」と頼んだが、役人から許可
 がおりなかった。断られはしたが、景蔵はいい男だ。一見穏やかそうに見せかけて、ま
 ったく食えないほどの負けん気が、継之助に通じるところがある。この日本初の蒸気船
 を操縦する船将は、のちの、幕府最後の海軍総裁である。

赤き心
・この年の桜田門は例年通りに朝の五つ(八時)に開けられて、次々と大名たちが登城し
 ていった。半刻(一時間)後、井伊家の行列が門前の道に差し掛かった。大老井伊直弼
 の駕籠の前後に、合羽姿の家臣が六十人ほど厳めしく行列を組んでいたが、折からの悪
 天のため、刀の柄やや鞘には、濡れぬように袋が掛けられていた。あと少しで桜田門に
 着くというとき、それは起こった。
・一人の武士が直訴のような素振りで行列の先頭の道を塞いだのだ。このため、行列の足
 は自然と止まった。と思うや、突如、血飛沫が上がったではないか。何事だ、と思う間
 もなく行列の先頭の男が雪の上にドウッと倒れた。次の瞬間、鉄砲の音が立て続けに轟
 く。弾のすべては、直弼が乗っていると思われる大名駕籠に向けて放たれた。この音が
 合図だったのだ。八方の見物人の中から、抜刀した男たちが躍り出た。
・刀を振りかざした十数人の刺客たちは、脇目をふらず大名駕籠だけを狙う。柄袋が外せ
 ず戸惑う護衛を斬り伏せ、まずは駕籠ごと刺し貫いた。刺客が無言のまま引き戸を開け
 ると、一人の士が倒れ出た。血に塗れた頭をゆらゆらと揺らし、士はわずかに這いずっ
 た。その首を、猿の鳴き声に似た奇妙な雄叫びと共に、容赦なく白刃が襲う。ポンッと
 首が飛んだかと思うと毬のように跳ねた。刺客は首を刀の先に刺し、天に掲げて叫んだ。
 「日本一の大悪党を討ち取ったり」世に言う「桜田門外の変」である。
・大老井伊直弼が命を落とした安政七(1860)年三月、河井継之助はまだ備中松山に
 いた。事変は三日に起こり、十八日には安政を改元して万延になったが、下旬になって
 もなお、継之助は井伊直弼の死を知らずにいた。
・一国の元首とも言える大老が、いわば道端で殺されたことの重大さは、何もかもを洒落
 に変えてしまう江戸の庶民によって、諧謔の一つのように語られて終わり、大きな騒ぎ
 にならなかった。
・事変にかかわったほとんどが水戸の脱藩浪士で、薩摩の者は二人だけ加担していた。約
 束では、水戸が大老を殺害することで起こるだろう「天下の大争乱」に乗じ、薩摩が出
 兵し、京師を守衛することで朝廷を担いで幕政改革に乗り出す・・・はずだった。が、
 井伊家彦根藩が沈黙したため、「天下の大争乱」は起こらず、薩摩は起つ機会を失った。
・大老暗殺はこうして、鎮静されるかに見えた。が、水面下でまったく思いもよらぬ方角
 に、波紋を広げていった。安政六年十月に、井伊直弼によって吉田松陰を殺された長州
 志士が、大老暗殺を機に、師の遺志を継ぐ形で倒幕に向かって動き始めたからだ。
・いよいよ、継之助が山田方谷の許を去る日がきた。方谷は瓢箪酒と、薬をひと包み渡し
 てくれた。ふと薬の包みを見ると、江戸の両国に店を持つ「四目屋」で売られている
 「長命丸」だ。常日頃からなるべくものに動じまいと気を付けている継之助だが、今度
 ばかりは方谷からの贈り物としてはあまりに意外で、つい目を見開いてしまった。
・長命丸とは、室町時代からある薬で、元々は疲労回復のために開発されたが、今では飲
 まずにもっぱら精力剤として床に入る前に塗って使う。
・方谷の、限りない愛情と、それを正面切って言わない茶目っ気が継之助には嬉しかった。
 (この薬は、一生涯のお守りにしよう)
・のんびりとした気分が一変したのは、京で大老井伊直弼が殺されたことを聞かされたか
 らだ。もう事変からおおよそ二月も経っていることに継之助は衝撃を受けた。ずいぶん
 と自分がまぬけな人間に思えたが、それだけ大老が殺されても誰も騒いでいなかったの
 だ。
・諸大名家も沈黙を守っているようだ。まるで何事もなかったかのような日常が、そこに
 は広がっている。そのことが、かえって継之助を震撼させた。唯一、妙な動きといえば、
 参勤後代で江戸へ行きかけていた薩摩藩主「島津茂久」が、大老殺害の報に触れ、途中
 で引き返してしまったことである。未だに病を理由に、領地から出てこようとしないら
 しい。
・雨中、箱根を発った継之助は、戸塚宿に泊まり、翌日はまっすぐ江戸へ向かわず横浜に
 寄った。「こりゃ、また、ずいぶんと変わったな」思わず声が漏れた。それほど横浜は
 変わっていた。よくもここまでと感嘆するほど、町の体裁を成している。店は二百軒ほ
 ども連なっているだろうか。もう番地も整い、活気良く商人や外国人たちが行きかって
 いる。
・道の前方からやってきた二人の男に見覚えがあった。長崎で会った通詞の宮田平蔵だ。
 あのときは、スコットランドからやってきたトーマス・ブレーク・グラバーと名乗る野
 心的な二十二歳の青年を連れていた。今度はもっと若い外国人と一緒である。
・「エドワード・スネル少年です。スネル少年は、まだ十七歳ですよ」「スネル少年は、
 わずか十五歳のときに、たった御一人で日本にやってきたのです。ものすごい勇気の持
 ち主です」
・長崎で会ったグラバーも、弱冠二十二歳という若さに感心させられたものだが、眼前の
 少年はもっとずっと若い。十五歳といえば、日本の士では、ようやく元服をすませるく
 らいの年齢だ。
・エドワードは上着の内ポケットから一枚の名刺を取り出して継之助に渡した。エドワー
 ドの名前と、横浜居留地の住所が手書きで書いてある。横文字なので、よくはわからな
 いが、平蔵が「四十四番地です」と肝要なところだけは教えてくれた。
・「実はわたしも」と平蔵も懐から名刺を取り出した。紋の下に名前が印刷してある。日
 本でも名刺の習慣はすでにあったが、名前を書いて置いてくるためのもので、こうして
 出会ったときに渡すものではなかった。
・継之助は真っ直ぐに、長姉いく子の夫、武回庵宅を訊ねた。回庵は奇妙なことを口にし
 た。真相はこういうことだという。
 事変後の幕府は、井伊直弼の側近、安藤信睦(後の信正)が掌握した。信睦は、首を取
 られたのは井伊家家中の某で、直弼は傷を負ったものの自力で屋敷に帰還したと公表し
 た。さらに、跡目を無事に相続させた後で傷が悪化し亡くなったのだと言い張った。本
 来なら、お家御取り潰しのはずの井伊家は、こうして存続が決まった。
 さらに対馬守(安藤信睦)は、政敵として大老を失脚させられていた久世大和守(広周)
 に連絡を取り、老中に復職させて手を結んだ。
・幕府内部は、先の政権をとった阿部正弘派と、井伊直弼派が対立している。直弼が政権
 を奪取してから冷や飯を食わされていた阿部派にとって、直弼の死は復権の好機だった
 が、大老殺害という幕府そのものが揺らぎかねない大変事に、派閥争いの愚を避け、両
 派は手を結んだのだ。
・直弼を失って客体化した井伊派が、自ら阿部派を招き入れることで、追い落とされる危
 険を回避したのだ。ちなみに長岡牧野家は、阿部派になる。長岡の家中にしてみれば、
 今後の主君お出世が約束されたことになる。
・「長州は水戸と組んで、なにをやろうとしているんだ。倒幕か」継之助の問いに、十太
 夫は首を横に振った。「いえ、破約攘夷でさあ、旦那」「攘夷ではなく、破約攘夷なの
 か」破約攘夷など、初めて聞く言葉だ。
・船の中の密談は、たった三人で行われた。長州側からは桂小五郎ただ一人。水戸からは
 「西丸帯刀」と岩間金平の二人だ。この三人の中では、「攘夷」とは夷狄を退けること
 全般を指し、「破約攘夷」とは幕府が帝の許しを得ぬままに諸外国と結んだ条約を取り
 消させることを指すという。
・横浜に度々行って、今ではすっかりエドワード・スネルとも親しくなり、諸外国や世界
 の事情も少しずつだが学びつつある継之助には、それがいかに無茶なことがわかる。日
 本は非常識な国と嘲られ、世界を敵に回すだろう。破約お先に待つものは、条約国との
 武力衝突だ。だが、今の日本には、列強を相手にまともに戦える力はない。
・日本から見れば列強の一つであるロシアでさえ、産業革命を経験しなかったがために技
 術面で決定的に劣り、イギリス・フランスと戦ったクリミア戦争では痛い思いをした。
 技術が劣るとは、そういうことだ。このクリミア戦争で世界勢力図は大きく書き換えら
 れ、その調整に列強が力を殺がれたため、日本は積極的な植民地政策の対象から外され
 た。運が良かったのだ。その運を馬鹿な行いで自ら潰すなど愚かなことだ。不平等とい
 えども貿易国として遇されている現状を、長州と水戸は自ら手放すというのか。
・「桂小五郎曰く、幕府の結んだ条約の中身はかなりやばいらしいですぜ。日本は侍の国
 でしょう。だけど、もう世界は商人の国になっている」「だから商取引上でへまをした
 国は、世界じゃ見下さるらしいんでさァ」「桂の言葉を借りれば、関税自主権のない国
 は、真の独立国家としては認められないんだそうで」
・継之助は知らなかったから驚いた。十太夫の言う通り、井伊直弼の結んだ条約の中身は
 不平等もはなはだしく、関税自主権がなく、治外法権を諸外国に認めさせられてしまっ
 ている。さらに最恵国約款という厄介な約束事も了承させられていた。
・最恵国約款とは、約款を結んだ相手国より有利な条件で他国と条約を結んだ時は、約款
 の相手国にも同等以上の条件で条約を結び直さなければならないという屈辱的な決め事
 だ。
・ただやみくもに長州が「攘夷」を口にして騒いでいるのかと思ったが、どうやらそうで
 はないらしい。

如くは無し
・いよいよ継之助が長岡に戻ってくる、そう義母の貞子に聞かされて、すが子の胸はどく
 りと鳴った。喜びよりも不安お方が大きかった。もうすが子にとって、継之助のいない
 生活の方が馴染んでしまい、これまでの日常がいきなり壊されるようなざわめきに胸が
 苦しくなった。
・文久元(1861)年夏。継之助は江戸から郷里の長岡へと戻ってきた。この間、オラ
 ンダ人でアメリカ領事館に通訳として勤務していた「ヘンリー・ヒュースケン」が、日
 本人の攘夷派に襲われて命を落としたが、手を下したのは水戸人ではない。薩摩人であ
 る。オランダ人が襲われたのはこれで二度目だったが、日本との長い付き合いから、き
 な臭い問題にまでは発展しなかった。
・一方、長州は、最初に継之助が予測した通り、水戸が動かぬ以上、何もしようがない。
 それどころか、藩論は桂小五郎ではなく「長井雅楽」という開国論者が掌握した。この
 ため、老中安藤信正の打ち出した、帝妹和宮降嫁による公武合体策に加担している有様
 だ。完全に幕府寄りお藩是となっていた。
・水戸徳川家の家中攘夷派が、ようよう斉昭の死から立ち直り、活動を再開したのは文久
 元年の五月末からである。かつて十太夫が長州の軍艦の中で探った話の通り亡命者十四
 人がイギリス公使館を襲った。水戸浪士たちはイギリス人を負傷させるに止まったが、
 この事件を機に、イギリス側はこれまでは許されていなかったイギリス兵の駐屯を、幕
 府に承認させた。列強はこうやってじわじわと要求を突き付けては実現させていくので
 ある。その先に待つのは日本支配だ。
・山田方谷が改革した備中松山では、身分の別なく、百姓も商人も、女でさえ、優秀な者
 は学問所に通い、教育を受ける機会を与えられていた。逆に士であっても、取るべき才
 のない者は、藩の未開地に送られ、開墾に従事させられた。方谷自身が未開地に家を建
 て、率先して開墾することで、表だって文句を言う者はいなかった。
・なぜ長岡がそうしていないのか、そちらの方が不思議に思えた。人には得て不得手があ
 る。人材は生まれに縛られず、適材適所に配置していくべきなのだ。
・継之助はさっそく友の「小山良運」のところに寄った。良運は継之助と同じ歳の幼馴染
 で、かつて大坂の「緒方洪庵」の適塾で学んだ蘭医である。同期生に長州の村田蔵六
 (大村益次郎)がいる。
・良運と別れたあと、継之助は親戚筋で一歳下の「小林虎三郎」を訪ねた。虎三郎は、八
 年前に前藩主牧野忠雅が、難しい政局を乗り切るために家中に意見を求めたとき、継之
 助と同じように建白書を提出した。が、取り立てられたのは継之助一人で、虎三郎にい
 たっては忠雅の怒りを買って処罰された。継之助が藩政について建白したのに対し、虎
 三郎は国策について建白したからだ。あれから八年、今ではあらゆる藩が口を挟み始め
 たが、当時は幕府に意見するなど、とんでもないことだった。幕府への遠慮から、厳し
 い処罰となった。
・虎三郎は処罰されるまでは「佐久間象山」門下で吉田松陰と並んで「二虎」と称され、
 将来を期待された英才だ。今は表舞台に立つ道を閉ざされ、病がちなことも手伝い、か
 つてはあっけらかんとした気持ちのよい青年だったのが時に偏屈さを見せるようになっ
 ていた。少々、付き合いづらさを継之助は感じている。それでもいつも一緒に転げまわ
 った竹馬の友だ。なにごとかのときに声を掛けぬ理由はない。
・継之助は他にも、「川島億次郎」、花輪馨之進など、次々と旧友たちと会い、方谷に
 学んだことを話して聞かせ、今後自分がこの地でやろうとしている変革について賛同を
 得た。
・そのころすが子は、せっかく長岡に戻ってきても少しも家に居つかない継之助に、小さ
 な苛立ちを覚えていた。いや、継之助に苛立ったというよりは、少しでも何かを期待し
 てしまった自分が腹立たしかったのだ。すが子は継之助が渡してくれた桐の箱を頬に当
 てながら、してはならない期待をしてしまった自分を悔やんだ。
・正直な話、家があるのになぜわざわざ近くの旅籠に泊まるのか、まったく理解できなか
 った。やがて、継之助が遊郭にも出入りし始めたと噂が立った。すが子は聞こえぬふり
 をした。継之助が真夜中に酔っぱらって戻ってきたときも、朝方に白粉の匂いを漂わせ
 て戻ってきたときも我慢ができたのに、珍しく夕餉を家で摂り、ゆっくりと自分の部屋
 でくつろいでいる姿を見たとき、すが子の中に無性に苛立ちが湧きあがってきた。「遊
 郭に出入りしていますの」訪ねてしまった。口にしてから、しまったとすが子は蒼褪め
 た。
・鳶色の瞳が、瞬きもせずに次のすが子が何と言うか、じっと見つけて待っている。すが
 子の頭に血が上った。だが、今までのように顔を赤らめて戸惑うような子供っぽい真似
 はしたくなかった。そもそも、自分がいつまでたってもそんな風だから、夫もいつまで
 も子供扱いをしているのではないかとさえ思えた。
・ここは何としても、今までとは違う自分を見せておきたかった。だからすが子は首をし
 ゃんと伸ばしたまま「そこは、どんなところですの」重ねて訊ねた。
・「なんだ、知りたいのか、おすが。だったらおすがも来い」はい?とすが子は首を傾げ
 た。「知るには見て、やってみるのが一番ぞ」「けど、私、旦那様以外とは・・・。ま
 してや女の人なんて・・・」「何を言っておるんだ、おすが」と継之助は声を詰まらせ、
 堪えきれないと言いたげに笑い出した。
・「行くぞ、おすが。支度しろ」しが子も慌てて立ち上がったが、いったいどんな支度を
 すればいいのか。女を売るために美しく着飾った者たちに、同じように着飾ってみせる
 のは愚かなことだし、さりとてことさら武士の妻を強調して畏まるのも嫌だった。
・「このままで」継之助も満足げに頷いた。「そうだな、おすがはそのままが一番、おす
 がらしい」 
・内心、不安でいっぱいだった。だが、興味があるのも確かだ。(こんな経験、滅多にで
 きないもの)長岡城下、どの家に嫁いでも継之助以外の夫では経験させてもらえぬに違
 いない。 いや、日本中探してもこんな夫は稀ではないのか。
・すが子は知らなかったが、長州の高杉晋作がやはり女房を「こんな楽しいことは他にな
 いから、お前も遊べ」と芸者遊びに連れて行っているからないこともないが、物珍しい
 のは確かである。 
・出迎えた女将は女と同伴の継之助に驚いたが、すが子が妻と知るとすぐに歓迎してくれ
 た。目は笑っているが、さっと値踏みされたのが、すが子にはわかった。ぞっとする冷
 たさを女将の目の奥に秘めている。
・座敷に上がって雛人形のように継之助と並んで上座に座ったすが子のもとに、七、八人
 もの女たちがやってきた。三味線を持った女以外は、見たこともない派手な柄と色合い
 の着物を、帯を前で大きく結んだり、裾をやたら引きずったりと奇妙な形に着こなして
 いる。ぱっと見は華やかだが、よくよく見ると裾の方が煤けている。
・蝋燭の灯りが、点された周囲だけがきつい光で照らされていたが、畳近くの足元はそれ
 だけに暗く、男の目には裾の煤けたみすぼらしさは目に入らないに違いなかった。だが、
 すが子の女の目は誤魔化せない。
・みながそうしているわけではないが髪もやたら大きく結い上げ、重そうな簪を競うよう
 に挿している女たちに至っては、塗りたくった白粉と相まって、滑稽なくせに物悲しく
 すが子に映った。
・すが子はつい、継之助を振り返った。とたんに胸がずくりと痛んだのは、夫が優しい目
 をしてそんな女たちを眺めていたからだ。
・継之助が女たちにすが子を紹介したので、すが子も挨拶をした。それが武家式の挨拶だ
 ったので、女たちは一瞬、怯んだ。が、すぐに、物珍しげにすが子を眺めては、口々に
 自分たちも挨拶を始めた。まるで見世物になった気分で、一々頷きながらすが子は挨拶
 を受けた。
・すが子にあからさまに反発を感じている女もいれば、少し小馬鹿にしたようにこちらの
 顔つきを窺う女もいる。純粋に羨ましげな目向ける女、まったく興味のないふうな者ま
 で、反応は様々だ。ただ、共通しているのは、みな心が笑っていないのに、目だけが笑
 っていることだ。
・「飲めや、歌えや、踊れや」継之助が声を上げると、黒っぽい着物を着た女が心得たと
 ばかりにすぐに三味線を弾き出し、音色に合わせて幾人かが歌い始めた。残りはみな踊
 り出す。ただ一人、あまり器量がいいとは言い難い女が二人のもとに残り、運ばれてい
 た膳を挟んで酌を始めた。
・継之助はすぎ四、五杯も空けて立ち上がり、聞き惚れるほどいい声で歌い出しながら踊
 りの輪に加わった。
・一人取り残された気分で眼前の乱痴気騒ぎを眺めていたすが子に、「お優しいお人です」
 酌に残った女が、ふいに話かけてきた。「あたしのようなあまり客の付かない女にも声
 をかけてくれますけ、神様みたいなお人です」確かにこの女の器量では、こういう商い
 は苦労が大いに違いないと思われ、それがためにいっそう返事がしづらかった。
・「来い」継之助が手を差し出し、すが子を呼んだ。女たちが一斉にすが子を注視した。
 武士の女がこんなところで踊るものではないという常識が、すが子を怯ませた。だが、
 自分は他の誰でもない、城下、いや、長岡一の変わり者の妻なのだ。すが子は歯をくい
 しばる思いで立ち上がった。歓声が上がった。(これからも旦那様にお仕えする以上、
 すがはこのくらいの試練、乗り越えてみせます)継之助に導かれるまま一大決心で女た
 ちの輪に入り見よう見まねで流れくる音色に合わせて手足を動かす。そのぎこちなさに、
 せせら笑うような顔をした女もいたが、逆に先刻までの警戒したような目が、優しくほ
 ぐれた女いる。
・「おすが、財布を出して祝儀を弾め」継之助がすが子の耳に囁いた。財布なら継之助も
 持っているのにあえて自分に言ったのには、意味があるのだ。こくりと頷いたすが子は、
 財布を出して中身を全て掌に載せた。すかさず継之助が叫ぶ。「そら、ばらまけよ」
・金をばらまくという感覚にすが子は受け入れがたい嫌悪を覚えたが、それすらも何か意
 味があるに違いないと、有り金すべてをばらまいた。女たちが嬌声を上げて金を拾う。
 三味線を弾く女がいっそう高らかにかき鳴らす。獣のような金に群がる女たちを、すが
 子はぞっとする思い出凝視した。
・真夜中、二人は家に戻った。「面白かったか」「いいえ、貴方さまは、面白いのでござ
 いますか」逆に訊き返したすが子の声は強張った。「今は俺のことはいい。おすがの感
 じたままを知りたいのだ」継之助にあっさりかわされる・
・「ひどいところだと思いました」すが子は、廓の女たちを思い出しながら正直に答えた。
 「金を拾う女を浅ましく思ったか」継之助の問いに、すが子は首を左右に振る。「いい
 え、哀しゅう映りました。なにより、金を撒いた私こそが浅ましいのではございませぬ
 か」答えながらすが子の胸はしぼられるように痛んだ。 
・案に違い、継之助の目が、あのとき女たちに向けていたように優しくなった。「そうだ。
 その通りだ。おすが。撒く方が浅ましい。女たちが我先にと金に群がり、拾うのは仕方
 のないことだ。あの者たちは金が欲しいのではない。金を手に入れることの先にある暇
 (自由)が欲しいのだ。切実だすけ」
・「おすがには話しておく。俺はいずれ、長岡の遊廓を潰す」ハッとすが子は目を瞠った。
 この人の今日のすべては、これを伝えたいがための行いだったのだ。すが子の身の内が
 震えた。普段からすが子への口数は少ないが、信頼してくれているに違いないと信じる
 ことができた。
・江戸へ着いた継之助は。だれにも到着を知らせずにそのまま横浜に向かった。行き先は、
 エドワード・スネルのところだ。エドワードは若いが、諸外国の事情に精通している。
 若くしてこの横浜でたいした伝もないまま、のし上がっていこうとしているのだ。人よ
 り多くの情報を掴み、なにかしら利のあるところに食い込んでいこうと必死だった。そ
 の貴重な情報を継之助に教えてくれる。継之助もなにかしら手を貸せるところは貸す。
 二人は完全に協力体制にあった。
・昨年万延元(1860)年七月、プロイセン外交官で後の内相「フリードリヒ・オイレ
 ンブルク
」が、日普修好通商条約の締結のために来日したが、その使節団に書記官とし
 てエドワードの一つ上の兄、ジョン・ヘンリー・スネルも随行していた。
・継之助は兄のヘンリーとも、エドワードを通じて何度か会った。プロイセンの軍人と常
 に行動を共にしているだけあって、兄のヘンリーは隙のない言動でなかなか打ち解けて
 こない。しかも、エドワードがオランダ人なのに対し、兄はプロイセン人だという。ま
 だまだ謎の多い兄弟である。
・「対馬、動き、ありました。聞きますか」思った通り、エドワードが列強の動きに変化
 があったと告げる。対馬の動きというのは、ロシアの「ポサドニック号」が今年の二月
 に対馬の浅茅湾に姿を現わして以降、居座り続けている事件のことだ。
・ロシア人は、三月には違法に上陸して対馬に宿舎を建築した。四月になると対馬の番所
 や民家を襲って物品を強奪し、住民を銃殺した。ロシアの狙いは、「対馬宗家」を挑発
 し、自分たちを襲わせることだ。そうすることで、国を挙げて堂々と武力介入に持ち込
 もうとしている。昔から中国や朝鮮との架け橋になり、難しい外交を担ってきた宗家は、
 ロシアの意図がわかるだけにぎりぎりと歯噛みしながらも耐えている。
・日本はまさに侵略の危機の中にいたが、対馬という江戸から遠い島国で起こっている出
 来事は、あまり他藩の者には知られていなかった。
・ただ、長州藩だけは、対馬の宗家とは深い姻戚関係にあり、「助けてほしい」と縋りつ
 かれた関係上、幕府に矢のような救援の催促を送りつつ、まるで自分たちの身に起こっ
 たことのように屈辱に震えていた。
・継之助が長岡に戻るころ、ようやく幕府は重い腰を上げ、外国奉行小栗忠順(上野介)
 を対馬に遣わした。忠順は有能な男だと継之助は聞いている。これでなんとかなるに違
 いないと安堵したが、そうではなかったらしい。
・ロシアを追い出すため、幕府はイギリスに応援を頼んだ。イギリスの軍艦は喜び勇んで
 対馬へ出動した。幕府はロシア問題をイギリスに丸投げしたのだ。首尾よくいったその
 先に待つものが、イギリスの内政干渉だ。つまりそれは、イギリスのよる日本支配の第
 一歩が始まるということだ。
・しかし、武力衝突を避けてロシアが撤収した。日本はロシアに救われた。イギリスの思
 惑を察知したロシアが、そうさせまいと衝突前に撤退したのだ。衝突しればロシアは道
 化役を演じさせられ、イギリスが甘い汁を吸うことになる。
・ロシアは対馬を掠め取ろうとしたが、イギリスは日本全体を奪おうと動いた。隙を見せ
 れば、世界の強国は容赦なく喰らいついてくる。
・エドワードは、それでもイギリスは積極的に日本を植民地にしようと企んているわけで
 はないという。今度のように日本側が愚かなカードを切れば、貰える利はみな攫うくら
 いの気持ちでいるのだ。
・「イギリス、海岸線の測量、乗り出しています」とエドワードが教えてくれた。正しく
 日本列島の海岸線を列強に掌握されれば、戦のときにどれだけ不利になることか。幕府
 は測量の許可は出せぬと抵抗したが、イギリスは赤間関(下関)に押し寄せ、長州毛利
 領と豊前小倉小笠原領に上陸して測量を強行した。
・長州も小倉も、「外国人に勝手な手出しをしてはならぬ」という幕府の命令を守り、一
 切争いを起こさなかった。が、幕府は争うなというだけで、何一つ問題解決に向けて動
 かない。幕府には任せておけないと憤るのは、むしろ当然の感情だろう。
・長州といえば藩政の実権を握っている「長井雅楽」が、幕府の開国を盛り立てる「航海
 遠略策」を掲げて江戸入りを果たし、老中の賛同を得た。幕府とは蜜月の関係だ。が、
 藩地を異人に踏み荒らされたとなれば、事情が変わってくるに違いない。
・薩摩は不気味な沈黙を守ってはいたが、参勤交代をいまだ無視して藩主は薩摩領から一
 歩も動かない。なぜなのか、その意図はまったくわからぬが、幕府の威信をかけて薩摩
 を弾劾せねば示しがつかなくなってきている。
・江戸に戻り、上屋敷へ挨拶に出向いた継之助に、江戸家老が妙なことを訊ねた。「その
 ほうの父御は結構な茶人であったな」「そのほうも、心得ておるか」「作法が一通りわ
 かる程度でございます」家老はひとり納得したように頷く。しばらくこの場に待ってい
 るよう継之助に命じ、姿を消した。
・一刻ほども放られたであろうか。見知らぬ若侍が現われる。「こちらへ」これといった
 挨拶もなく、行き先も告げず、若侍は継之助を先導して部屋を出た。やがて小径の先に、
 茅ぶき屋根に土塀の草庵茶室が現われた。若侍はいったん中へ声を掛け、躙り口から入
 るよう継之助を促した。この時点で中に誰が待つのか、継之助にはおおよその見当が付
 いたいた。
・今、自分の眼前にいるのは、主君「牧野忠恭」その人である。文政七(1824)年の
 生まれで継之助より三つ年上になる。三河西尾の大給松平家から養子に入り、三年前に
 牧野家の家督を継いだ。藩主自ら、さほど家格の高くない継之助をこのような茶室に呼
 び出し、二人きりで会うなど異例のことだ。いずれにせよ、継之助にとってこれ以上な
 い好機であった。
・「そのほう、六年前、予へ経史の講義を拒んだであろう」忠恭が口にしたのは過去の恨
 み言だ。確かに六年前、継之助はまだ世子だった忠恭がお国入りをする際の講師役に任
 命されたにもかかわらず、「それがし、講釈を垂れるために学問をしているのではござ
 らぬ」と、にべもなく断った。
・「予は養子であろう。長岡のお国入りの際は、心より受け入れてもらえようかという不
 安と、世に名高い長岡武士と共に今後を歩んでいけるのだという誇らしさとがない交ぜ
 であったが、そのほうの拒絶に頬をぴしゃりと叩かれた気分であったわい」「それがし
 は学者ではないゆえ、お断り致した次第。もっと適任の者がいる以上、お断り致すのが
 忠義かと存じます」「予のためと申すか」「いかにも」「ならばそのほうの敵役とはな
 んじゃ」「おそれながら執政かと存じます」忠恭の目が大きく見開かれた。通常、大名
 家の中では筆頭家老の地位の者が就く役目だ。
・「正気か」「この継之助、藩政改革を任せていただければ、だれより御前のお役にお立
 ち申します」しばらく忠恭は継之助を眺めていたが、にやりと笑った。
 「使うてみたいが、実績のない者を取り立てれば国が乱れるでな、政の舵が執りたけれ
 ば、如くは無き者としての証を見せ、煩い者どもの口を黙らせよ」
・比類なき者の実力を自ら示せと言っているのだ。「御意」継之助は平伏した。その間に
 衣ずれの音を立て、忠恭は茶室を出て行った。
・文久元(1861)年十二月。大老暗殺以来、長い沈黙を守っていた薩摩藩の芝田町に
 ある江戸屋敷が、紅蓮の炎と黒煙を吐き出し、燃え落ちたのだ。原因は未だわかってい
 ない。
・江戸っ子たちはもっぱら、公方様に逆らって参勤交代を拒んだ罰が当たったのだと囁き
 合っていた。継之助も、今度の火事が偶発的に起こったとは考えていない。十中八九、
 付け火だろうと踏んでいる。だが、火を点けたのは、幕府などではないはずだ。いった
 い、薩摩の江戸屋敷が燃えて得をしたのは誰なのか。
・参勤交代を一年以上もの長きにわたり、藩主島津茂久の体調不良を理由に拒み続けてき
 た薩摩藩。幕府もこれ以上の延期は許さぬという断固たる姿勢で臨んだ。その矢先の
 藩邸焼失だ。藩邸がなければ、江戸入りを果しても、藩主と藩士たちの住む場所がない。
 新たに普請するまでは、江戸に来たくても来れぬ状況となってしまった。つまりは薩摩
 藩の思うつぼの状況となったわけだ。
・薩摩藩は、未だ若く頼りない藩主茂久の代わりに、その実父久光を国父として担ぎ、数
 千の兵と共に上京させようとしているのだ。まずは京を押さえ、公卿を従わせ、勅諚を
 もって幕府をも操ろうという腹だ。前藩主島津斉彬のやろうとした東上の策だ。だとす
 れば、企図しているのは、斉彬のかつての崇拝者たちということになる。
・幕府が水戸浪士の不始末をきつく責めたて処罰しようとしたところを、会津松平家が調
 停したが、そのとき実際に水戸領まで足を運んで動いたのが秋月悌次郎だった。水戸側
 で動いたのは、「武田耕雲斎」と「原市之進」である。
・このとき悌次郎は、安政の大獄を引き起こした戊午の密勅を返上させることで大老の一
 件を不問にさせた。あれほど井伊直弼が力を翳しても取り上げられなかった勅書だ。そ
 れを、 悌次郎はあっという間に提出させた。その手腕は、この男の名声を広めるのに
 十分だった。この一件以来、悌次郎は藩主「松平容保」の側近となった。
・「巷では武力で討つ討幕の計画が練られている。いわゆる草莽の士と呼ばれる連中だ」
 悌次郎は語った。中心になっているのは、江戸で清河塾を開いて武芸と学問を共に教え
 ていた「清河八郎」という出羽国庄内酒井家領出身の郷士だという。八郎は、悌次郎と
 同じ「昌平黌」に学んだ仲で、旗本、御家人など、幕臣にも知り合いが多い。

王城に吹く風
・文久二(1862)年八月、継之助の主君牧野忠恭は、この年の三月に寺社奉行に昇進
 し、八月には「京都所司代」に任命された。
・その間に日本の状況は大きく変化した。まるで違う勢力図に江戸も京も乗り替えられて
 いる。航海遠略策を支持した老中安藤信正は、浪士らに襲撃された坂下門外の変(一月)
 で失脚し、後ろ盾を失った長井雅樂は退けられた。
・一方、浪士清河八郎の呼びかけに応じた全国の志士たちは、薩摩が共に起つと信じて亡
 命し、京に結集した。その数、三百人。後に薩長同盟で名を馳せる土佐の「坂本龍馬
 もこの中の一人だ。彼らは、朝廷も薩摩藩も自分たちの志に賛同すると純粋に信じてい
 た。が、現実は違った。朝廷は討幕を叫ぶ志士たちを、京の治安を乱す不逞の輩と断じ、
 一千の兵を率いて上京した島津和泉久光に、逆に鎮圧するように勅諚を下した。
・久光は、ことを起こそうと寺田屋に集まった浪士らと、藩命を聞かずに浪士らに加担し
 た家中を討った。のちに言う「寺田屋事件」である。事前に騒動を食い止めたことで朝
 廷から絶大な支持を得た久光は、褒美に三郎の名まで賜った。薩摩は今や飛ぶ鳥を落と
 す勢いだ。
・五月には公卿の「大原重徳」を勅使に立て、薩摩藩が勅諚を幕府へ届ける名誉ある役を
 担った。その後、しぶる幕府を説き伏せ、幕府改革案の実現を約束させることに成功し
 た。説き伏せて、と言えば聞こえがいいが、実際は、老中の耳に「桜田門外や坂下門外
 のような事件を再び起こしたくなければ・・・」と吹き込んで、次にやられるのは貴方
 の番ですよと脅したのだ。
・こうして、一橋慶喜が将軍後見人に、「松平春嶽」が政事総裁職に就任した。どちらも
 無き島津斉彬の盟友である。来年二月には将軍も上洛することが決まった。帝妹和宮降
 嫁だけでなく視覚的にも公武合体を世間に強調するためにだ。有力大名を京に呼び寄せ、
 朝廷の膝元で将軍を中心に賢侯会議を開くことを目指している。そうすることで、ばら
 ばらになりかけている日本を、強力に一つにまとめあげ、世界の独立を保ちながら生き
 抜いていこうとしているのだ。
・この流れの中で、会津松平家と長岡牧野家にも「京へ」という声が掛かったのだから、
 ただの京都所司代を務めよという単純な話ではないのである。
・朝廷は、狡猾なのだ。薩摩一藩だけが力を握ることを恐れ、長州藩を抱き込み、二大雄
 藩として並び立たせ、互いを牽制させることで力の均整を図ろうと企んだからだ。中心
 で動いたのは、公卿の「岩倉具視」である。
・そもそも朝廷は、長州の長井雅楽の航海遠略策のときも御製(帝自筆の書)を下賜して
 いた。今回、薩摩の幕府改革案に乗り換えるためには、雅樂に与えた御製を反故にしな
 ければならない。だが、簡単に翻せば帝の威信に関わる。このため、朝廷は長州藩内の
 反長井派である桂小五郎や久坂玄瑞らと組み、「長井雅樂が提出した建白書には朝廷を
 愚弄する表現があった」とでっちあげた。邪魔者となった長井雅樂は、不敬を犯した罪
 人に仕立てられて謹慎となり、後に切腹させられた。
・「幕府は滅びるぞ」と方谷は断言した。「後は、いつかという問題でしかない」方谷は、 
 先月、千代田城に登城した大名たちに言い渡された参勤交代緩和の令を受け、もう決定
 的に引き返せないところに幕府がきてしまったことを言っているのだ。
・薩摩が主導した「文久の改革」の一環で、将軍後見人の一橋慶喜と政事総裁松平春嶽か
 ら発せられたものだ。緩和というが事実上の廃止だ。諸大名を縛っていた縄が解き放た
 れたのである。
・薩摩一藩の台頭を嫌った朝廷は、まずは長州を引込んで二大雄藩を並び立たせたが、二
 藩のいがみ合いが激しいのに閉口し、今度は土佐藩を二藩の抑えにしようと呼び寄せた。
 土佐藩主「山内豊範」が二千の兵を率いて入京し、今や三藩の兵数千が狭い京にひしめ
 いている。
・品川は西国から江戸への入口で、あらゆる旅人が通るだけでなく、ここには男たちの相
 手をする女が三千人もいるのだから、江戸の者も通ってくる。格式ばった吉原と違い金
 もさほどかからず、女たちは気安く、親切だ。飽きれば女の乗り換えもできるし、恋に
 落ちれば吉原よりはずっと簡単に女房に迎えることもできる。
・朝廷の陰には長州藩や勤王の志士らがいる。彼らの目的は、幕府権力の失墜なのだ。あ
 らゆる手を使い、これまでの慣習を打ち砕くことで朝廷を優位に立たせ、幕府側をとこ
 とん馬鹿にしてくるだろう。その矢面に、京都所司代という職はある。今、この職に就
 くということは、幕府側を代表して朝廷に軽んじられる役を担うことと等しかった。継
 之助は、忠恭の上品でいかにも人のよさそうな顔を思い浮べ、胸を痛めた。茶室での継
 之助の説得を撥ね除けて京都所司代に就いた以上、ある程度の覚悟はできていたはずだ
 が、実際に体験すれば屈辱に身が震えたことだろう。
・そういう中で、京都守護職となった会津の松平容保が、朝廷以外の京に関する全権の委
 任を主張している。京を守護する以上、生殺与奪を含むすべての権限を守護職に与えよ
 と言っているのだ。もし、会津の京での全権委任が認められれば、会津の命令一つで長
 岡藩士も死なねばならない。
・文久三(1863)年六月。日本の中心は、去年までは確かに江戸だったのに、今年は
 この京に完全に移ってしまっていた。腹に一物持った男たちが続々と狭い王都に集まっ
 てきている。そんな京から、長岡牧野家家中だけは今月を最後に撤退する。継之助が京
 に来てからおおよそ半年、ようやくここまで漕ぎつけたのだ。ようよう牧野忠恭は京都
 所司代のお役目を辞することができる。昨年の九月に着任して九ヶ月、家中の疲弊は甚
 だしかった。
・突然、少し離れたところで複数の悲鳴が上がった。悲鳴は通行人から起こったようだ。
 通行人を掻き分け、一人の総髪の男が土手へと転がるように躍り出た。間をおかず、も
 う一人、長身の黒ずくめの男が抜刀した姿で飛び出してきた。逃げていた総髪の男も刀
 を抜いて、追ってきた長身の男の方へ振り返った。そのときにはもう総髪の男の眼前に、
 長身の男が上段の構えから白刃を振り下ろしつつ迫っている。額の上でぎりぎり長身の
 男の刀を受け止めたはずの総髪の男の刀が、あえなく折れたではないか。長身の男はそ
 のまま力ずくに斬り下げる。血飛沫が上がり、総髪の男の頭がぱくりと割れた。
・「土佐の岡田以蔵じゃ。文句があるか」長身の男は一喝し、血の滴る刀を鞘に納めもせ
 ずに身を翻して去って行った。あれは人斬り以蔵だ。京ではあの男のように人斬りが何
 人もいて、今のような血腥い事件が頻発している。珍しい光景ではない。もはや茶飯事
 だ。
・狂った時代だと背筋が寒くなるが、もはや誰にも止めようがない。日本はこれからどう
 なってしまうのか。どこへ向かおうとしているのか。うっすら見える未来からは血の臭
 いが立ち上がっている。
・駆けつけてきた男たちの集団が、斬られた死体を確認している。「壬生狼ですね」後の
 新選組のことだ。今は壬生浪士組という。剣の腕に覚えのある浪人たちの集まりで、ろ
 くなものも着ていないため、京の者たちから侮蔑と恐れを込めて壬生狼と呼ばれている。
 京都守護職の会津藩が京都警護のために雇っているという話だが、胡散臭さは否めない。
・世が乱れると秩序が壊れる。実力さえあれば、のし上がれる。名を成したい者が「我こ
 そは」と気勢を上げるのはむしろ自然なことなのだろう。京で流行っている「天誅」と
 いう名の殺人も、結局は思想ではなく名を欲しての行為なのだ。有名になって、自身の
 存在を世に知らしめたい欲望の果ての人殺しなのだ。だがそうやって名を成した先に何
 があるというのだろう。
・薩摩藩が最初に提唱した「朝廷のある京で、将軍を中心に雄藩が協力し合って日本の難
 局を乗り切っていこう」とする構想は、継之助が予言した通り、初めからそんな計画な
 どなかったかのようにどこへともなく消え去った。
・三月におおよそ二百年ぶりに上洛した将軍家は、長州志士らが企図した加茂神社行幸の
 演出によって、さんざん虚仮にされた。二百数十年ぶりに人々の前に姿を現した鳳輦
 (帝の乗る輿)に従う形で、将軍が群衆の目に晒されながら馬上行進したからだが、こ
 の珍しい光景を見ようと京にひしめき合った人々は、どちらの権威がはるかに上なのか
 を、視覚的に一瞬にうちに理解した。
・だのにこの日の将軍の屈辱はこれで終わらなかった。追い打ちをかけるように群衆の中
 から、 「いよう、征夷大将軍!」揶揄するような野次が飛んだのだ。聞き覚えのある
 声に継之助が振り向くと、高杉晋作の不敵な顔が真っ直ぐに将軍を見据えていた。今
 までなら、首を刎ねられたはずの大罪だが、この男を咎めることのできる者は誰もいな
 かった。帝の行進を乱してまで、野次を飛ばした男を捕らえることが今の幕府にできな
 くなっていたからだ。
・このあと、将軍は帝の前で攘夷の実行を誓わされ、それを受けて長州藩は異国船に向け
 て発砲した。国際法に基づいて開国し、各国と条約を結んだはずの日本は、国際社会の
 中で無法国家の烙印を押された。
・帝自身は攘夷親征などやりたくなく、この自体に呻吟していたが、自身の意思では如何
 ともし難い状況に陥っているというおのである。それというのも、長州派の公卿「三条
 実美
」率いる御守衛兵の首根っこを押さえられているからだ。
・昨年、朝廷は御親兵の設置を幕府に要望したが、将軍が守るゆえに必要がないと突っぱ
 ねられた。だが、今年になって要望ではなく勅命という形で再び幕府に要求し、結局十
 万石以上の大名家から兵を出させて御守衛兵を設置した。朝廷は、自分たちで自由に動
 かせる軍勢を得たのだ。
・帝を守るための兵ではあったが、実際に率いているのは長州派の公卿三条実美だ。兵は
 帝の意思ではなく、実美の、ひいては長州の意思で動く。御守衛兵は最終的には二千人
 の規模となる。こうして一公卿に過ぎぬ三条実美はかつてない膨大な力を得た。帝とい
 えども、逆らえば何をされるかわからぬ恐怖に怯えている。病死と称して殺すことなど、
 実際にはいとも簡単に違いない。
・このままなし崩しに攘夷親征の詔が発せられれば、それは徳川将軍が”将軍”の体を成さ
 ぬこととなる。日本の軍を率いて戦うからこそ「征夷大将軍」なのだ。帝自ら軍を率い
 る攘夷親征は、暗に徳川家が将軍職から退くことを意味しており、幕府の崩壊を示唆す
 る。つまり長州は、攘夷親征から一気に王政復古に持ち込もうと画策しているのだ。
・この陰謀に対抗するため、反対派の公卿は唐津藩世子で老中の「小笠原長行」と通じ、
 幕兵千六百人を五隻の船で関東から大坂へと運ばせた。長行は、千六百の兵でもって京
 での将軍の力を強め、三条実美らの勢力と対峙しようとした。
・将軍は京で攘夷決行を朝廷に約束させられてしまったが、長行はこのまま国を開き、港
 を解放し、貿易を通じて世界へ打って出たいのだ。日本を国際国家の一員と成らしめる
 ために、攘夷決行はなんとしても翻させたかったに違いない。
・王城に吹くこの狂飆を鎮めるため、将軍は自ら大坂へと足を運び、小笠原長行の京入り
 を差し止めた上で老中職を罷免した。このままでは戦が勃発しかねない一触即発の空気
 が漂っていたからだ。そして自らは、攘夷決行を口実に海路大坂から江戸へと去った。
・列強の脅威に晒される中、日本は一丸となるどころか、朝廷内でも幕府内でも意見が合
 わず、みなばらばらに動いている。いや、同じ人間、同じ藩でも、昨日と今日ではもう
 言うことが変わっている。誰もが右往左往する混乱ぶりだ。そんな中、発言力の強さは、
 地位の高さではなく、動かせる軍事力の強さに比例し始めている。

藩政改革
・人生はままならない。数ヶ月に及ぶ説得の末、ようよう主君牧野忠恭は京都所司代を辞
 任した。決断までに時間が掛かったのは仕方がない。たとえ泥舟とわかっていても、義
 を立て、主家徳川家に尽くそうとする主君の姿は、諫止をする一方で継之助の胸を熱く
 する。だからといって、そうそう感情に流されてもいられない。どうしても首を縦に振
 らぬ主君を、最後は公用方の職を辞して継之助は諫めた。
・忠恭の京都所司代辞任劇は、継之助主導で行われた。忠恭は幕府にも、この件に関する
 委細は家臣の河井継之助に問うよう、はっきりと継之助の名を上げた。このときが、継
 之助という男が表舞台に飛び出した瞬間だった。
・さあ、いよいよ藩政改革だ、と継之助も意気込んだ。全面的に改革こそ任されずとも、
 なにかしらは着手できるものと信じた。そのときを待ち、いったん長岡へ戻った継之助
 に嫌な知らせが届いたのは、晩秋に九月、一向に長岡に戻る気配のない忠恭が、今度は
 老中に就任したというではないか。
・すべては力を付けてからと言って所司代を辞めた者が、それよりさらに重責を担う老中
 に就いてどうするというのか。いったい、約束したはずの藩政改革はどうなってしまっ
 たのか。
・藩内の家老ら古い勢力が、出る釘となった継之助を全力で潰しに掛かっている。そして
 今のところ、継之助のほうは打つ手がない。
・長岡に引っ込んでいると、とたんに日本の情勢に疎くなる。それでも今年八月に会津と
 薩摩が手を組んでクーデターを決行し、成功させた話はかなり詳しく継之助の耳にも入
 ってきた。御守衛兵二千人を解散させ、攘夷親征も撤回させることに成功したのだ。そ
 れだけではない。あれほど京で権勢を誇った長州藩を朝敵として京師から追放し、王城
 の地に一歩でも足を踏み入れることを禁じたという。さらに、長州藩の志士らと手を組
 んで御守衛兵二千人の武力を背景に朝廷を意のままに動かしていたとみなされた三条実
 美とその一派、全部で七人の公卿も長州勢と共に都を追われた。完全なる会津藩の勝利
 だった。世に言う境町御門の変、別名「八・一八の政変」だ。
・会津藩二千人と薩摩藩一千人とを合わせて三千の兵で禁裏を囲み、長州派の公卿を締め
 出し、帝を守る態勢を取った。身の安全を保障された今上帝、孝明天皇は、ようやくす
 べては自分の意思ではなかったことを皆に告げた。帝はこれまでの勅命のほとんどは長
 州派の公卿の出した偽勅であると明言し、偽勅に加担した長州藩と公卿らを国家の害と
 呼んだ。
・長州勢と三条ら長州派の公卿たちは、帝に望まぬ攘夷親征の詔を出させ、攘夷祈願の大
 和行幸を行う際に帝の乗った輿を奪い、京に火を掛け二度と御所に戻れなくしたうえで、
 錦の御旗を手に討幕の義軍を起こすことを企図していたという。本当なら言い逃れので
 きぬ国賊である。
・文久四年・元治元年、継之助は三十八歳になった。山田方谷のもとを訪ねてから四年半
 が過ぎていた。そんな継之助のもとに、とうとう主君牧野忠恭から「江戸へ出て、我が
 為に尽力せよ」と声が掛かった。牧野忠恭が外国事務管掌を割り当てられたのだ。
・このころの外国関連の大きな事件といえば、薩英戦争と長州藩の行った攘夷戦だろう。
 そもそも「薩英戦争」は、「生麦事件」の賠償問題で鹿児島城下前之浜沖に軍艦七隻で
 現われたイギリス側と薩摩藩が拗れ、昨年の七月に武力衝突したことで勃発した。結果
 は勝敗の付かぬうちにイギリス側が撤退しており、薩摩側が勝利したわけではなかった
 が、多くの日本人はそう受け取って狂喜した。
・だが、この戦闘が、イギリス側が幕府からすでに賠償金を十万ポンドも受け取っている
 にもかかわらず、薩摩藩にも重ねて請求した不当な要求から起こっており、諸外国が当
 のイギリス本国も含め、薩摩藩に正当性を見出しているという裏の事情までは、実際に
 外国人と接していなければ掴みにくい情報だ。さらにこの戦闘から、一部のアジア諸国
 のように力で捻じ伏せる不当な支配は、日本国では成しがたいという評価を列強から
 得たことも、外国の新聞が手に入らなければ知り得ない。
・長州藩の攘夷戦のほうは、これから問題が本格化していくところだ。長州藩から馬関
 (関門)海峡で砲撃を受けたアメリカ、オランダ、イギリス、フランスの四ヶ国が、報
 復のため改めて国許から艦隊を引き連れ、攻撃に来るやもしれぬと噂がたっている。
・「国賊となった長州を諸外国が攻撃するという事態」に「日本の盟主たる幕府」がどう
 対処すべきか、実に難しい問題と直面することになる。長州に手を貸せば、列強は日本
 が自分たちと敵対したと受け取るだろう。待ってましたとばかりに侵略戦争に発展する
 のが目に見えるようだ。討幕まで企図した長州のために、幕府は開幕以来の窮地に陥り、
 日本自体も崩壊するかもしれない。だからといって、長州を四ヶ国連合艦隊が攻撃する
 のを黙認すれば、長州領も皇土である以上、それを見放した幕府は、もう日本の盟主と
 言い難くなるのではないか。朝廷に対しても不敬である。民衆は、そんな幕府を許さな
 いだろう。今度は幕府が民衆から見放される番だ。
・ならば方法は一つしかない。連合艦隊が長州に戦を仕掛ける前に、交渉でかたをつける
 のだ。(無理だな)と継之助は冷静に判断している。口八丁で狡猾な米欧諸国と渡り合
 えるなら、そもそも不平等条約を押し付けられてなどいない。薩摩問題でも、イギリス
 に言われるまま十万ポンドもの多額の賠償金を支払ってはいない。生麦事件は日本側が
 一方的に悪かったわけではないのだ。日本には、国際的交渉の場に着けるほどの円熟し
 た政治家は育っていない。とりあえずその場を穏便に済ませられれば、それが後々どれ
 ほど不利益を国にもたらすことになっても目を瞑る。ペリー来航以来、そんな外交しか
 この国はやってこなかった。
・外国事務管掌も老中も、絶対に辞めてもらわねばならぬと改めて継之助は決意を固めた。
・牧野忠恭は、継之助を通じて老中辞任の内願書を幕府に提出して以降、病と称して出仕
 しなくなった。板倉勝静ら幕府は、幾度となく見舞いを寄越しては一日も早い復帰を促
 したが、忠恭も腹をくくっているから外国公使引見などの特別で重要な任務以外は出な
 い。
・長州藩を頼れなくなった尊攘志士らは、今度は示し合わせたように水戸藩に詰めかけた。
 彼らに急き立てられるように、「藤田小四郎」ら六十数名が筑波山に挙兵した。世に言
 う「天狗党の乱」の起こりである。
・長岡藩の支藩の笠間藩領は、水戸藩領に近い。果して、長岡藩だけが火の粉を被らずに
 済むだろうか。この問題が片付かぬうちは、老中辞任など覚束ないのではないか。昨年
 のうちに辞表を出せていればと、継之助は歯噛みした。
・継之助は友の藩医の小山良運のもとを訪ねた。良運は医術を蘭学者緒方洪庵の元で学び、
 長崎にも遊学した経験を持つ。同じ洪庵に師事した大村益次郎がそうであるように、蘭
 医学を学んだ者の多くは西洋技術にも精通し西洋戦術にも触れる。良運もまた、知識と
 して修めていたが、特に継之助の希望でこの頃は、進化していく火器とそれに合わせた
 戦法を、本業の傍ら積極的に学んでいた。
・西では、この天狗党の乱に呼応するかのように長州の軍勢がと東上し、京で会津、薩摩
 を中心とした諸藩の幕府方軍勢と激しくぶつかり敗退した。世に言う「禁門の変」であ
 る。
・長州勢が金闕に発砲した罪は重く、長州征討の命が朝廷から下ったが、時を同じくして
 四ヶ国連合艦隊が軍艦十七隻におよそ三百門の砲を搭載し、五千人の軍勢で長州領赤間
 関を目指した。幕府は四ヶ国連合艦隊の長州藩攻撃を容認した。
・このときすでに忠恭は外国事務管掌の職務からは退いていたため泥を被らずに済んだが、
 幕府事態は継之助の言うところの「詰む」手を打ってしまったわけだ。
・元治元年八月五日に四ヶ国連合艦隊は長州藩を攻撃し、わずか半刻(一時間)で赤間関
 の四十の砲台全てを沈黙させた。八日には、長州藩から講和使節が差し向けられた。か
 の高杉晋作が任にあたったという。
・晋作は、彦島を租借したいと申し出たイギリス側の要求を即座に突っぱねた。彦島租借
 は植民地政策への第一歩となり得る一手だったが、他の三ヶ国に対するイギリスの抜け
 駆け行為に過ぎず、無理強いできる要求だと晋作は看破した。列強は日本側が毅然とし
 ている限り、互いに牽制しあって手が出せぬと知っていたのだ。
・今、長州藩はぼろぼろの姿である。この機に完膚なきまでに叩きのめしたい幕府は、征
 長軍を組織し、一気に将軍家の威信を取戻そうと躍起になった。その流れで何の根回し
 もなく、事実上休止状態になっていた参勤交代と大名家妻子の在府による人質政策を復
 活させる命を発してしまった。
・裏で協力の約束を取りつけてからの発令でなければ、人質のない今の状態でいったいど
 の藩が従うというのか。どの藩もぐずり、速やかに命に服するところなどないに違いな
 い。そうなれば、幕府の威信はいっそう地に落ちる。
・征長も然り。今の時代、藩政改革が必要なのは長岡藩だけではない。どの藩も、財政は
 圧迫され、疲弊しきっている。そんな中、はるか本州の西端にある長州藩領に向けて遠
 征すれば、兵を食わせるだけで息切れするに違いない。まして実際に大砲や銃を使えば、
 一発撃つごとに金が燃えて飛んでいくようなものだ。火器を胸算用せずに使える豊かな
 藩など、いまやどこにもないのが現実だ。
・継之助の心配は、ことごとく現実のものとなった。参勤交代も妻子の在府も今更やる藩
 などありはしない。三十五藩十五万人の征長軍も烏合の衆だ。長州側が恭順の意を示す
 とこれ幸い、数ばかりで使えぬ兵と露呈する前に、総督参謀に就いた西郷吉之助(隆盛)
 は幕閣と相談することなく、一戦も交えぬまま解兵した。
・幕府は、西郷吉之助の長州処分を不満に感じ、再び長州征伐を行う旨を発令した。今度
 は将軍自ら進発するという。牧野忠恭はこれに激しく反対し、とうとう老中罷免となっ
 た。
・継之助が藩政改革に邁進している最中、世の中の情勢も無情なまでに大きく動いた。
 八・一八の政変時に長州志士らとともに都落ちした三条実美と六人の公卿は、その後二
 人が欠け、五卿となって九州大宰府に居を移した。長州藩を助けるために薩摩側の要望
 を受け入れたゆえの転居である。今では大宰府が、反幕府派の拠点となっている。
・三条実美は、現在の庇護者である薩摩藩と、かつての庇護者だった長州藩が手を結ぶこ
 とを切望した。両藩の同盟実現に向け、大宰府出入りの志士のうち、薩摩側には坂本竜
 馬を、長州藩には中岡慎太郎を差し向け、両藩の説得に努めたのだ。
・これらの動きに気付けなかった幕府は、この期に及んで未だ長州藩に向かい、「逆らえ
 ば第二次長州征伐を行い、今度こそ長州藩を徹底的に壊滅させる」と脅し、戦わずに幕
 府へ屈服することを要求した。
・「断然決戦」と覚悟を決めた長州藩は、着々と戦闘準備を整え、幕府の要求を突っぱね
 た。  
・慶応二(1866)年、一月、密やかに薩長同盟が成立した。
・長州領を、四方向から幕府軍が攻めたことにより「四境戦争」と呼ばれる幕長戦争が勃
 発したのは同じ年の六月になってからである。外様大名で出兵に応じたのはわずか四藩
 のみである。譜代を入れて十四藩十五万の軍勢が、実際に武器を持って長州藩領を取り
 囲んだ。ちなみに長岡藩は、待機したものの戦闘には参加していない。
・幕府方の大敗だった。軍事力の近代化を推し進めてきた長州藩は強かった。初戦に長州
 領の大島に上陸してすぐに撤退させられた以外、幕府方は一歩たりとも長州領に足を踏
 み入れることさえできなかった。
・十四代将軍徳川家茂が七月に薨去したことを理由に、「休戦」を長州側に持ちかけ、撤
 兵した。幕府は「負け戦」とは決して言わなかったが、実質上の敗退である。
・長州方は幕府との休戦協定を破り、なお小倉方面への進軍の手を緩めず、小倉藩の要所
 を次々と陥落させていった。幕府は、長州が世間に見せつけたこの暴挙を止めることが
 できず、日本中に徳川支配の世が崩壊したことを晒した。
 
憎まれ継之助
・長岡城から東北東の方角へ二里半ほどいったところに栃尾はある。そこの一膳飯屋に旅
 装姿の二人の男が、板間の奥に陣取って、丼飯を掻き込みながら話し込んでいた。二人
 の男は、変装した継之助と襲や十太夫である。幕長戦争の調査を終えた十太夫が、仙台
 に戻って報告する前に、わざわざ継之助のために長岡へ寄ってくれたのだ。
・継之助は十太夫の見せてくれた帳面を真剣な顔で捲っていたが、初めて表情を大きく変
 えた。戦の始める直前に、九十四トンの軍艦をおおよそ四万両で、長州藩の高杉晋作が
  長崎のグラバー商会から購入したことが記されているのを発見したからだ。
・グラバーといえば、いつか継之助が長崎の坂で会ったあの青年ではないか。日本の乱世
 の幕開けを感じ取り、扱う商品を武器にかえて「死の商人」へと変貌を遂げることで成
 功を掴み取っていたのだ。十太夫が、長州の近代的な武器のほとんどをグラバーが用意
 したのだと教えてくれた。
・それにしても長州藩への武器の供給は禁じられていたはずだ。グラバーは禁を犯して長
 州へ売ったのか。それらの武器はみな薩摩の名義で取引されていきやした」と十太夫が
 答えた。
・高杉晋作が労咳で死にかけているという。「高杉の後は誰が継ぎのだ。大村益次郎か」
「長州軍を、これから率いていくのは間違いなく大村益次郎でしょう。けれど、高杉晋作
 が自身の後継者に指名したのは別の男です。「山田市之允」という弱冠二十四歳の若造
 だそうです」
・継之助は、町老たちを束ね、幾つかの町を統括する立場の検断職に就く豪商三人を、贅
 沢な生活を送る不謹慎者だと弾劾し、役職召し上げの上、蟄居を申し付けた。町奉行就
 任わずか三日目のことだ。誰もが継之助の不意打ちのようなやり方に恐怖し、震えあが
 った。
・継之助は、人々が役得に浸かり、贅を尽くすようになるのは、世襲制であることも大き
 な原因の一つだと主張し、世襲制度を廃止した。
・思惑通り、ほとんどの商人は首を縮めた亀のように大人しくなった。が、なお反発を示
 してこれ見よがしに豪遊を続けた商人は、言い訳の余地を与えぬまま城下から追放した。
 かつてない厳しさに、すべての町人の肝が冷えた。
・町奉行に就いた継之助は寄場も作った。寄場は、比較的軽い罪を負って牢獄に収容され
 た囚人たちを更生させるために作った懲役施設だ。幕府でも松平定信の時代、「長谷川
 宣以(平蔵)
」の建言で作られた。収容された者は寄場で使役される代わりに、相応の
 代価を出所の際に受け取れるようになっている。ここまでは幕府の寄場と同じである。
 長岡の寄場の面白いところは、刑期が予め決められていないところだ。公儀の寄場は送
 り込まれると三年は出られなかったが、長岡の場合は囚人が更生したと判断できた時点
 で釈放された。
・更生したかどうかの判断は難しいが、継之助は責任者である場長に任せた。それだけに
 場長選びはよほど人物がしっかりした者でなければならぬと注意を払ったが、古志郡小
 貫の庄屋の息子「外山寅太(脩造)」適任者と見込んで宛てがった。寅太は後に阪神電
 鉄の初代社長となり、阪神タイガースの生みの親と呼ばれるようになる人物だ。
・慶応三(1867)年三月。継之助は再び江戸へ上がった。江戸とはこんなところだっ
 たろうかと、困惑するほど、どこか寂れて荒んだ空気を醸し出している。
・第二次長州征伐が失敗したことだけが影響しているのではない。昨年は十四代将軍徳川
 家茂が、二十一歳の若さで遠征先の大坂で薨去しただけでなく、十二月には孝明天皇が
 三十六歳で崩御した。
・人々の不安とは裏腹に、幕府はいまだ強気だった。いや、幕府は、というより十五代将
 軍に就任した徳川(一橋)慶喜は、というべきか。この琴子はなかなかやっかいな男だ
 った。頭が切れすぎる。そして酷薄だ。周囲の者を利用して、目的を果たすと切り捨て
 るところがある。八・一八の政変の折、朝廷に御周旋と称してのさばる長州志士を境か
 ら一掃するため、薩摩と会津の力を借りて政変を行った。だが、その後、薩摩を排除し、
 さらに政変の中心人物だった秋月悌次郎を左遷させて京から追い出してしまった。薩摩
 の離反は元を正せば、すでにここからじわじわと始まっている。徳川慶喜の眼中にある
 のは利用すべき者だけで、一生「仲間」など持てぬ男だ。
・継之助は横浜に行ってエドワード・スネルと会った。この青年も、もう数えで二十四歳
 になったはずだ。オランダ語に堪能で日本語にも通じていることからスイス領事書記官
 を務め、スイスの時計商人フランソワ・ペルゴと組んで、日本にスイス時計をもたらし
 た。ただし、武器商人になることを拒んだ最初のビジネスパートナーのフランソワ・ペ
 ルゴとは決裂した。
・継之助は、エドワードに促されてジェームス・ファブルブラントのところに向かった。
 ジェームス・ファブルブラントはこの年、二十七歳の青年だった。日本に渡って商売を
 志す異人のほとんどが、こうした若者たちだ。「貴方はストーンウォールを御存じです
 か。そしてパリ万国博覧会は」とジェームスは継之助に訊ねた。
ストーンウォールは、三年前にフランスで建造された軍艦で、現在はアメリカが保有し
 ている千二百馬力の装甲艦だ。装甲艦というところに継之助は着目した。聞けば、船自
 体は木造だが、厚さ四寸の鋼鉄帯にぐるりと包まれているという。鎧を着た軍艦という
 ことだ。日本に存在するどの火器を使って攻撃しても、破壊することができぬ性能を持
 つ。つまり、無敵ということだ。
・日本にも軍艦は多く輸入され、また建造されていたが、いずれも木造部分が剥き出しで
 ある。砲が上手く命中すれば、沈没させることができる。現在日本で最も優れた軍艦は、
 徳川幕府がオランダから買い付けてもうすぐ横浜港に入港する予定となっている開陽丸
 で、他の軍階の追随を許さぬ装備を誇っているが、それでもただの木造船だ。
・ジェームスの話では、幕府がこのストーンウォールを買い付けようとしているというの
 だ。なぜ十五代将軍となった徳川慶喜が大二次長州征伐の失敗の後でさえ強気でいられ
 るか。継之助は合点がいった。 
・ジェームスは、今度始まったパリ万博についても語った。後に日本人の妻を娶るほど日
 本を愛し、言葉もよく覚えたが、このときは来日してまだ四年しか経っていなかった。
 微妙なニュアンスを含む説明が難しかったため、エドワードがずいぶんと補ってくれた。
 今回は四十二ヶ国が参加しているという。日本もこの万博に参加しているというエドワ
 ードの言葉に、継之助は軽く衝撃を受けた。
・参加に応じた藩は佐賀藩だという。継之助は佐賀と聞いて、いつか見た反射炉を思い出
 した。近代化に意識の高い藩だ。アームストロング砲というイギリスで開発された強大
 な破壊力とこれまでにない飛距離、そして命中精度を備えた砲を、佐賀藩は自前で製造
 することに成功したともっぱらの噂だ。
・それにしても、幕府と佐賀藩が参加した万国博覧会が、なにゆえこれから起こるやもし
 れぬ戦の根拠になり得るというのか。答えはすぐにジェームスが口にした。
 「他には薩摩藩が、独立国として参加しています」一瞬、継之助は耳を疑った。
・これは薩摩から幕府への形を変えた宣戦布告といっていい。しかも世界中に、「幕府は
 日本の君主ではなく一諸侯に過ぎず、薩摩と立場は同等である」と宣言することになる。
・慶応三(1867)年三月。開陽丸が横浜港に滑り込み、一目見物しようと集まってき
 た者たちの前に、その雄姿を惜しげもなく晒した。継之助は友の三間市之進や鵜殿断次
 郎らと共に人ごみに混ざり、現段階で日本で一番性能の優れた軍艦を見上げた。
・団次郎は長岡きっての秀才の一人で、洋学の才を勝海舟に買われ、幕臣となった経歴を
 持つ。開陽丸の導入にも関わっていたし、その乗組員で二ヶ月後には艦長に任命される
 榎本釜次郎とも親交がある。
・ジェームスはたった今届いたというパリ万国博覧会に出展された武器類についての目録
 を差し出した。継之助は読めぬまでも図示された武器の一つ一つの形状を丁寧に眺めて
 いたが、捲るうちにひときわ異形のものを見つけて眉を顰めた。今まで継之助の知って
 いるどの砲とも銃とも違う。どちらかといえば砲に近い形状だろうか。ただ砲身が一つ
 ではなく、銃身を六つ束ねたような形であった。
・これは比較的新しい武器だという。「ガトリング砲」といって今から五年前にアメリカ
 で造られた連射砲とのことだ。一分間に百五十発から二百発ほど撃てるという。
・慶応三年当時でも、ほとんどの藩は兵備の近代化がなされておらず、昔ながらの火縄銃
 が主流であった。少し意識の高い藩で洋式銃に関心を持ったところでも、価格の安い、
 弾込めに時間の掛かる先込め銃で、銃身の中に螺旋の溝である条溝を刻まぬ滑腔式の銃
 しか持たぬところも多い。条溝がないということは、命中精度が低いということだ。
・先込め滑空銃の代表はフランスで開発された「ゲベール銃」である。初期のものは弾込
 めに三十秒ほども要する。 
・ゲベール銃より少し進んだ銃がヤーゲル銃だ。条溝の刻まれたライフル銃で、命中精度
 は飛躍的に上がったが、弾込めに技術が必要で、訓練されていないにわか兵が使いこな
 せる代物ではなかった。
・先込めではあったものの、弾丸の形を推の実形にすることで弾込めを容易にしたのが、
 ミニエー銃である。射程も六白メートルとゲベール銃に比べて倍に伸び、命中精度は五
 倍も良くなった。
・ちなみに慶応四年に勃発した戊辰戦争前半戦では、もっと高性能の銃が輸入されていた
 が、価格との兼ね合いでこのミニエー銃が主力武器となった。
・戦法はミニエー銃の導入と改良に伴い、密集型の戦列歩兵から散兵して戦う方式へと変
 化していくことになる。殊にこのミニエー銃をさらに改良して造った「エンフィールド
 銃
」は、射程距離を飛躍的に伸ばし、千百メートルに及ぶ。こうなると密集した陣形で
 は狙い撃ちされ放題だ。歩兵は散らばって戦うよりほかなく、戦術は戊辰戦争中に次々
 と導入される武器に合わせて、変更を迫られていくことになるのだ。戊辰戦争最後の戦
 場となった箱館戦争での主力武器は、このエンフィールド銃となる。
・さらにこのエンフィールド銃を改良して元込め式にしたのが、昨年イギリスで採用され
 たばかりの「スナイドル銃」だ。先込めから元込めになったことで、弾込めが三倍も速
 くなり、どんな体勢でも弾丸を装填できるようになった。
・同じく元込め銃にフランスの開発した「シャスポー銃」というのがある。昨年末にフラ
 ンスのナポレオン三世からおおよそ二千挺が幕府に贈られ、幕府歩兵より選りすぐった
 精鋭部隊の伝習隊に装備されたが、雨に弱く、日本では幕府以外流通していなかったた
 め、戊辰戦争の最中に弾の補給がきかず、苦労の多い銃となった。
・日本に入ってきている銃の中で最も進んでいるのが「スペンサー銃」で、唯一の連発銃
 である。元込めの七連発銃で、先込め銃が主流の当時の日本においては驚異的な性能と
 威力を見せつける銃だ。ただ射程は他の最新鋭に比べてやや短く、命中精度も劣り、故
 障が多く、価格も高かった。腹這いでの装填もできなかったため、購入に踏み切る藩は
 多くない。
・武器の購入時期を図るのも難しい。日々、技術革新は進み、去年には存在しなかった新
 たな武器が次々と日本に持ち込まれている。古い武器は目に見えて価格が下がり、また
 戦場では無用の長物と化す。今あまりに大量に買い過ぎれば、いざというときには過去
 の遺物になっているかもしれないのだ。どれだけ武器が進化していくかは、誰にも正確
 に読めないのが現状だ。だからといって、買い渋れば長岡藩兵の装備がいざ本番となっ
 てもほとんど整っていない失態を演じかねない。
・銃など卑しい武器という考えがまだ一般的な時代だ。これからの戦はいかに性能の良い
 火器を揃えるかに かかっているのだという常識は、まだほとんどの士たちの中に浸透
 していない。実際に、列強から攻撃を受けてその威力を見せつけられた薩長の士の中に
 も、いまだ刀から銃に持ち替えるには、抵抗を覚える者もいるほどだ。何一つ近代戦を
 体験していない長岡の士に、急に解れというのには無理があった。ましてや、長岡を出
 たことのない者は、男とはいえ、戦が起こるなどという迫るような危機感は、ほとんど
 感じていない。継之助が何を躍起になって変革しようとしているのかなど、諒解できる
 はずがなかった。
・慶応三年七月、継之助は、いつかの約束通り、鵜殿団次郎に開陽丸を預かっている榎本
 釜次郎を紹介してもらい、開陽丸に乗せてもらった。釜次郎は軍艦頭並に昇格し、開陽
 丸を使っての幕府軍の訓練を指導していた。
・釜次郎は外国の見しらぬ機会の前で足を止め、指した。「わたしの今着ている服は、こ
 のミシンという裁縫の機械で縫いました」
 継之助は初めて見るミシンに驚いたが、もうすでにミシンは日本に入っていて千代田城
 大奥内では使われていた。日本人で最初にミシンを使ったのは、十三代将軍家定の御台
 所「篤姫」である。 
・継之助はジョン・ヘンリー・スネルと合流して会津の田中茂手木と会うことになった。
 茂手木は同じ会津の「山川大蔵」らと共に外国事情を学ぶため、幕府派遣の遣露使節に
 交ざって七ヶ月もの遊学から戻ってきたばかりの若者だ。パリ万博も見てきたらしい。
・しかし、いざ、プロイセン公使館に着くと何か様子がおかしい。ずいぶんとざわめき、
 緊迫した空気が漂っている。何か起こったのは間違いないようだ。スネル兄弟が馬車に
 乗って外を走っているときに、突然襲撃されたという。エドワードが刀で斬りつけられ、
 兄のヘンリーがエドワードを助けようと日本人を撃ってしまったという。
・ヘンリーはプロイセンの駐日領事マックス・フォン・ブラントの下で堅実に書記官を務
 めていた男だ。弟のエドワードが商人として日本で一旗揚げようと意気込んでやってき
 たのに対し、ヘンリーは軍に所属していた過去を持つ軍人気質の生真面目な男だった。
 末はプロイセンに戻って軍人として国家のために尽くす道を選ぶものと思われた。が、
 日本人を傷つけたことでプロイセンに迷惑がかからぬよう、公使館を去らざるをえなく
 なるのだ。
・「早急に西洋の戦い方や武器について学びたい藩は、昨今の不穏な情勢下、多いはずで
 す。そうであれば、近代的な軍事改革の手助けを、顧問として引き受けてはいかがか」
 と継之助はヘンリーに助言した。
・それはいい、茂手木が膝を打った。「我が殿が許せば、真っ先に会津へお迎えしたいく
 らいです。会津は、その方面ではひどく後れています。兵制の近代化が必要だという意
 見はようやく出始めているものの、どのように進めればいいのかわからぬゆえ、頭の固
 い反対派を上手く説得できぬのです」
・ヘンリーは実際にこの後、弟のエドワードと共に新潟に移住し、翌年(1868年)に
 は、会津藩の軍事顧問として会津領へ渡っている。そして、名を「平松武兵衛」と日本
 式に改名し、会津藩士として召し抱えられ、会津若松城下に屋敷までたまわることにな
 るのである。 
・慶応三年、継之助は中老へと昇進した。これで、継之助の上には家老しかいなくなった。
 藩政のほとんどを動かせる立場となったのだ。主君忠恭は、継之助を出世させたがてい
 る。藩の未来を預けるのは継之助しかないと、「厚い信頼を寄せている」などという言
 葉では言い尽くせぬほどの情熱で、継之助を押し上げようとしている。
・その一方で、忠恭は藩主の座を世子忠訓にゆずり、自身は隠居した。四十四歳。名実と
 もに隠居するにはまだ若く、今も老公として藩の実権を握っている。
・継之助のところに大変な知らせが届いた。十五代将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返上した
 というではないか。後の世に言う「大政奉還」である。それはつまり二百六十年も続い
 た徳川幕府が崩壊したことを意味する。
・板倉勝静の手紙を信じれば「日本人同士で争い、泥沼の戦で疲弊すれば諸外国に付け入
 る隙を許し、侵略の足掛かりを与えてしまうことになりかねない。それだけは避けねば
 ならぬ」ということらしい。素晴らしい考えだが、(嘘だな)と継之助は判断した。
 おそらく慶喜が戦回避に姿勢を改めたのは、勝機を逸したからなのだ。
・パリ万博で薩摩藩はこう発信した。「日本を支配しているのは天皇で、将軍は政権を委
 任されているに過ぎぬ存在だ」
・幕府に積極的に加担していたフランスは、万博以来、そろりそろりと幕府離れを始めて
 いる。どれほど幕府に加担しても、幕府自体が委任された政権なら、内政干渉ができな
 いからだ。それではフランス側のうまみがない。
・慶喜は「討幕」を回避させるために、薩長の攻撃対象である幕府を自らいったん”白紙”
 にしたのかもしれない。だが、どうだろう。政権を将軍に還すだけで戦が回避できると
 は思えない。少なくとも薩摩藩は、「ならず者」の暴挙という形で態度を鮮明にしてい
 るではないか。あれは薩摩側の挑発なのだ。

戦、勃発
・慶応三(1867)年十二月。禁門の変で国賊となって以来、京への出入りが禁じられ
 ていた長州藩の謹慎が解かれ、三年ぶりに七百の兵で隊列を組み、長州兵が入京を果た
 した。
・つい二日前まで禁裏を守衛していた会津藩や桑名藩が、何の前触れもなく勅命により退
 けられ、薩摩藩兵が取って代わった。同時に、御所の中では粛々と王政復古の大号令が
 行われ、新政府が誕生したらしい。その発足したばかりの新政府の会議が、小御所で開
 かれ、徳川慶喜の官位剥奪と徳川家の所有する全領土の納地が決定した。京坂にいる幕
 臣や会津、桑名、そして新選組らはこの決定に憎悪を抱き殺気立っている。
・のっぴきならない事態が、今まさに起こっているのだ。自分はそれを眼前にした、時代
 の目撃者というわけだ。いつかこんな日が来るかもしれぬと、何度となく予測してきた
 ことだが、いざとなると胸中に重い石を落とされたかのようだ。
・長岡藩主忠訓と継之助ら家臣六十人は、幕船に乗り込み、熱い思いで海路大坂へと航行
 した。その後、病弱の忠訓が慣れぬ船旅に体調を崩し、枕が上がらぬ不測の事態に陥っ
 た。このため、一行は今も大坂に足止めとなっている。が、継之助だけは数人の友を連
 れ、すぐさま京へ発ち、老中板倉勝静に藩主名代として謁見した。
・ああ、やはりと継之助の胸が痛んだのは、勝静の横に山田方谷の姿がなかったからだ。
 誰より固い絆で繋がれていた主従は、今はもうまるで違う方角を見つけている。勝静の
 目は主家徳川家の行く末を見つめ、方谷の眼差しはあくまで備中松山の民へと向いてい
 る。
・慶喜は、会津藩や桑名藩、そして在京の幕兵たちが怒り狂うのを宥めることなく時を過
 ごした。京は殺伐とし、今にも何かが勃発しそうな空気に包まれた。討幕の詔が発せら
 れるまで出兵することができなかった薩摩と長州は、軍勢を京に入れていなかった。薩
 長軍が上京してくるまでのわずかな時を、慶喜がぼんやり過ごすわけがない。会津、桑
 名、幕兵をいきり立たせて、朝廷を震え上がらせた後で脅しをかけたのだ。
・朝廷はあっけなく討幕の詔を翻した。薩摩が藩兵三千を引き連れて上京してきた時には、
 討幕の詔は効力を失っていた。政権を還したはずの慶喜は、相変わらず政治の舵を切っ
 ている。朝廷の方に政務を引き継ぐだけの力がなかったから、態勢が整うまでは引き続
 き業務を委託する形を取ったためである。
・土佐藩や越前藩が、懸命に朝廷に掛け合って、朝廷主導の新しい政治態勢になった後も
 徳川家が諸侯の盟主となれるよう、働きかけているという。
・王政復古の前日に摂取主導の朝議に招集されたのは、諸侯と公卿だった。朝廷に政権が
 奉還されて初めての諸侯会議だ。二条斉敬摂政は幕府派のお公卿でから、当然、徳川家
 を諸侯の上に置き、会議を行うはずだった。しかし、慶喜はこの日、自分が弾劾される
 と勘違いし、会議に出なかったという。将軍が欠席したたけ、会津も桑名も出なかった。
 このため、会議は薩長派の公卿に有利に進み、次々と幕府方に不利な事案が決定したと
 いうのだ。
・長岡が豊かになるように、継之助は己の人生を賭けて闘い続けてきた。こうしている今
 も、藩地では継之助の同志の手によって藩政改革が続いている。今は、遊廓の廃止に向
 けて仲間たちが懸命に働いてくれているはずだった。遊廓の廃止はある程度改革が進み、
 国が少しは豊かになった後でなければならなかった。国が荒んだまま遊女を廓から解き
 放っても、女たちに生きるすべがないからいっそうの地獄に叩き落とすだけである。遊
 廓の廃止がそこに住む女たちの救いにならなければ意味がない。廓に生きるすべての者
 が新たに生きる道筋をつけてから廃業させるように動いている。そういうことの一つ一
 つが継之助の闘いだった。
・京には二万ほどの兵がおり、そのうち薩長に与する兵数は五千を切っているという。残
 りは会津、桑名、土佐、幕兵を中心とした諸藩の兵だ。これらを今、束ねているのは土
 佐の御老公容堂さまで、しきりと諸藩に幕府方に味方するよう呼びかけているという。
・兵力をまとめているのが、将軍には戦をする気はないというのが継之助の読みだ。もし
 やる気があるなら、一番数千の兵は自らが主導するはずだ。それを今山内容堂に任せて
 いる。つまりこの集めた兵力は、今後の交渉を有利に進め、王政復古の政変を覆すため
 の脅しに使うものなのだ。
・案の定、将軍慶喜は二条城から去り、大坂城まで退いた。薩摩藩邸を囲んで薩長を血祭
 りに上げろと、今にも暴走しそうな幕府方の気勢を少しだけ殺ぐためだ。朝廷は再び幕
 府方へ傾きかけている。ここで戦が勃発してしまえば、元も子もなくなる。さらに幕府
 方から手を出せば、大義名分のない戦に突入することになる。
・下坂した慶喜は、直ちに外国公使を大坂城に招いた。薩長は王政復古を国内だけでなく、
 諸外国にも知らせ、政権がすでに交代し、幕府は消滅したのだと伝えている。慶喜は集
 まった公使らに、今後も幕府が外交を続けることを宣言した。
・継之助は自ら認めた朝廷に提出する建白書の草案を、忠訓に差し出した。おおっ、と忠
 訓は奪うように取ると、まじろぎもせずに目を通した。ただ一途に戦が起こらぬよう、
 祈りを込めた建白書だ。忠訓は、「予の心と同じである」と青白い顔で頷いた。
・どの藩がどこに布陣するか場所争いをしながら戦支度に没入する者たちを尻目に、長岡
 藩は 建白書の提出の許可を幕府に願い出た。あの慶喜が建白書に目を通したとたん、
 「これぞ真の忠義よ」と声を震わせたという。
・戦がいつ始まるかわからぬ情勢の中、幕府を擁護する建白書を持って、薩長が禁裏を守
 衛する京へ行くなど、蒼龍の巣窟に飛び込むようなものだ。だが、継之助は自らを蒼龍
 窟と名乗る男だ。怯むはずがない。
・こうして長岡藩牧野家主従ら十数人は、淀川から船に乗り込む京を目指した。翌日には
 伏見に上陸し、竹田街道から上洛を果たした。継之助は、薩長らの銃隊が警護する中を
 突き進み、建白書を胸に参内した。
・御所鶴の間で建白書を携えた継之助の陳情を聞いたのは、年配の公卿「五辻高仲」従二
 位と「長谷信篤」正三位である。継之助は全身全霊の熱弁をふるったが、二人は聞いて
 いるのかいないのかわからぬ冷やかさで微動だにせず、壁のように感情をあらわにしな
 かった。二人は反幕府派の公卿であり、安政年間に井伊直弼によって罰せられ、苦汁を
 飲んだ過去を持つ。憎い徳川のための陳情など片腹痛かったに違いない。それでも罵る
 ことも咎めることもなく、無反応に建白書を受け取り、返答は後日として継之助らを帰
 した。
・主君牧野忠訓や継之助、そして共に京へ丸腰のまま上った長岡藩士らの悲痛なまでの覚
 悟は、暖簾に腕押しのような公卿の応対によってすかされた。継之助は、なんとも言え
 ぬ座りの悪さを味わった。
・その後も継之助は諦めずに何度か朝廷に掛け合い、建白書に対する何かしらの返答を得
 ようとしたが、いつも要領を得ず、反論も反対もなく、口を開けば「検討しておじゃる」
 と繰り返すのみだった。これが朝廷か、と愕然とする思いだ。
・江戸の薩摩屋敷に出入りする連中が、庄内酒井家の屋敷を砲撃したらしい。その報復に、
 庄内藩が今度は薩摩屋敷に火を放ったという。継之助は言葉を失った。江戸市中の警護
 の任に就いていた庄内藩の屋敷に大砲の弾をぶち込むことで、薩摩方に攻撃を加えるよ
 う挑発したのだ。
・年が明けた慶応四(1868)年正月二日。一万五千の幕府軍は、継之助の願いむなし
 く討薩のために進軍を開始した。  
・慶応四年三月。元々長岡の春は遅いが、今年は天候が何かと不安定で、どこかいつもと
 は違う感覚がすが子の胸をざわめかせる。縁の外では松蔵が、前栽の手入れを黙々とや
 っている。風の噂ですが子は、松蔵がつね姫に対して行った不敬が不義密通だったと聞
 いた。二人は身分を越えた恋に身を焦がし、やってはならない過ちを犯してしまったの
 だという。つね姫は老公の実の娘であり、殿さまの正妻なのだ。幾らなんでもそんな芝
 居のような話があるわけがないと思いつつも、もしかしたらというはしたない思いが頭
 をよぎる。
・今年の一月三日、長岡からは遠い鳥羽・伏見で、旧幕府軍と薩長の軍が衝突し、戦が勃
 発した。勃発時の人数差は旧幕府方の方が三倍多かったという。だのに第一戦で伏見の
 坂の上に布陣した薩長方が、その眼下の伏見奉行所に布陣した旧幕府方に勝つと、薩長
 側の陣営に錦旗が翻った。様子見をしていた諸藩は次々と錦旗の前にひれ伏し、賊軍と
 なった旧幕府方は面白いように負けたらしい。
・すが子は日本がそこまで緊迫した状態に陥っていたことに、迂闊にもまったく気付いて
 いなかった。開戦の知らせを受けたとき、そしてその戦が旧幕府方の大敗で終わったと
 知ったとき、ここ数年の継之助の焦燥や苛立ちの意味が、ようやくすとんと胸に落ち、
 すが子はひとり隠れて泣いた。
・そこに現われたのは、兄の梛野嘉兵衛だ。継之助と共に京坂へ行っていた。ようよう戻
 ってきたのだ。嘉兵衛は掻い摘んで鳥羽・伏見の戦いや、その時の長岡藩兵や継之助の
 様子を話してくれた。 
・「なにゆえ負けたのでございましょう」義母の貞子の疑問は、口に出して訊く勇気こそ
 なかったが、すが子の疑問でもあった。徳川家が、幕府方が負けるなど、すが子の中に
 はこれっぽっちも存在しない考えだったからだ。それだけに、次の兄の言葉は衝撃的だ
 った。「将軍さまが、家臣の誰にも内緒で、船で大坂を脱出し、江戸へ戻ってしまわれ
 たんだ」すが子は思わず叫びそうになった。なんとかその言葉を呑み込んだが、動揺は
 手で口を押さえるという仕草に出た。
・「我ら長岡藩兵も何も告げられずにうち捨てられた。様子がおかしいと気付いた継之助
 が大坂城へ登城し、ことの次第を知ったのだ」継之助の判断で、長岡藩は直ちに大坂か
 ら撤退を決めた。将がいなくなった上、大坂城内はてんやわんやの騒ぎで、まったく統
 制を失っていた。
・「江戸に戻った上様は恭順の道を選ばれた。上野の寛永寺に籠もり、もう戦はせぬと自
 ら謹慎なされたのだ。だが、幕臣や新選組の連中は、納得しておらぬ。あくまで、東下
 してくる薩長らの兵を迎え撃つ気で騒いでおる。江戸はこのままでは焦土になるやもし
 れぬ」
・「これからが長岡の正念場だ。我が長岡の運命が、ひとえに継之助に掛かっておる。そ
 ういう立場にあの男は立ってしまった。おそらく継之助は今後、家を顧みている余裕は
 なかろうよ。何事も、おすがは自覚を持って自ら進まねばなるまい」
・すが子は瞬きも忘れて兄の言葉を心に刻むと、「覚悟いたしております」ようやくそれ
 だけを答えた。なにもかもがすが子の中では急な出来事で、本当は覚悟など何もできて
 いなかった。だが、これから先、自分は河井継之助の妻として、瞬時も取り乱してはい
 けないのだということは理解した。そして、自分自身で判断をして有事を進まねばなら
 ないのだ。人に従うだけの人生を送ってきたすが子には気が遠のきそうな試練であった。
・そのころ継之助は、江戸で目の回るほど忙しい時を過ごしていた。江戸屋敷にある金目
 のものは殿さまの私物を含め、すべてエドワード・スネルを通じて横浜の異国の商人た
 ちに売り払った。自分たち長岡藩のことだけでなく、新政府を名乗り始めた薩長側から
 もっとも憎まれている会津藩の世話を焼いた。今、会津藩と親しく接触することは、同
 じ朝敵とみなされる危険を孕んでいたが、自分たちの保身のためにだけに、これまで幕
 府に誠心誠意尽くしてきた会津を突き放す非道など、継之助にはできなかった。友の秋
 月悌次郎に頼まれたためでもある。さらに会津家家老「梶原平馬」が、エドワード・ス
 ネルの兄が日本人を鉄砲で撃って窮地に陥ったとき、「ジョン・ヘンリー・スネルどの
 の御身は、我が会津がお引き受けいたそう」と手を差し伸べてくれた。その恩義に報い
 るためでもある。梶原平馬は、まだ二十代の若き家老だが、きわめて難しい立場に立た
 された会津藩を率いている男だ。
・米は江戸で暴落していた。これから江戸市中は戦場になるに違いないと町人たちがみな
 怖がり、家をうち捨てて江戸の外に逃げてしまったからだ。米を消費する者がいなくな
 ったので、価格は急激に下がった。それに比べて蝦夷地では米が不足しがちで、常に高
 値を保っていると聞く。継之助は買った米を蝦夷に運んで売るつもりだ。
・武器・弾薬は、エドワード・スネルとジェームス・ファブルブラントから購入した。ジ
 ェームスは、いつか継之助にも紹介したガドリング砲を、このときまでに日本に三門、
 持ち込んでいた。そのうち一門をすでに薩摩へ売ったという。継之助は残りのガトリン
 グ砲を二門とも買うことにした。
・買った武器も、江戸に残っていた長岡藩士ら百五十人も、継之助はエドワード・スネル
 が商売で使っている汽船に乗せた。もうすでに陸路は、戦闘に巻き込まれずに通過する
 など厳しい状況になっていた。海路を行くしかない。新政府側も外国人所有の船には絶
 対に手を出してこない。
・こういう状況だったから、桑名藩主「松平定敬」や桑名藩士二百二十二人、そして武器
 購入のために江戸に残っていた梶原平馬ら会津藩士三十人も乗せた。
・桑名藩は主君が藩地に戻る前に、家臣たちが薩長政権に対して恭順の意を示した。この
 ため、長州に憎まれている定敬は居城の勢州には戻れなくなってしまった。定敬と江戸
 にいた家臣らは、越後にある桑名領の飛地、柏崎に向かうことになった。
・定敬は未だ二十二歳の青年藩主だ。隠居して老公となった会津の松平容保の実弟に当た
 る。容保も定敬も最後まで将軍慶喜に付き従ったが、新政府軍が江戸に迫る今、その慶
 喜から江戸城追放を命じられ、出入り禁止の形で見捨てられた。
・噂では、備中丸山の板倉勝静が、同じように故郷に戻れずにいるという。家臣らが薩長
 政権に恭順し、松山城を無血開城してしまったためだ。藩主の意を確かめることなく開
 城したのは、ほかならぬ継之助の師、山田方谷であった。
・かつて固い絆で結ばれ、奇跡ともいえる藩政改革を成し遂げた主従は、歴史の荒波の中
 で道を分かち、断絶してしまった。容易いことではなかったはずだ。断腸の思いで主君
 の意に背き、人民を助けるために恭順に踏み切ったに違いない。
・方谷が立った同じ岐路に、継之助も今、立っている。方谷は決断し、一方の道をすでに
 進み始めた。継之助はまだ分かれ道に立ったまま、恭順の道と主戦の道を睨みつけ、さ
 らに誰も行ったことのないどこにもない道を開こうとしている。
・陸では新政府軍が江戸へ結集するため、東海道、東山道、北陸道と道を三方に取って進
 軍してきている。それを迎え撃つため、会津の下で働いていた新選組が、甲州街道沿い
 の男たちを掻き集め、「甲陽鎮撫隊」を名乗り甲府方面へと出陣したという。
・継之助は、榎本釜次郎率いる旧幕府海軍の動向が気になっていた。榎本はどうする気で
 いるのか。長岡へ戻る前に直に会って話をしておきたい。薩長側新政府軍は、味方をす
 る全ての艦船を結集させても、実力で釜次郎の艦隊の足元にも及ばない。釜次郎がいる
 限り、日本の制海権は旧幕府側が取れる状況にある。もし、榎本釜次郎が本気で新政府
 側との戦いに望み、牙を剥いて暴れれば、新政府側は海路を閉ざされ、輜重がままあら
 なくなる。おそらく、東北や越後方面にまで戦線を伸ばせば自滅するだろう。
・会いたいという継之助の申し出に、釜次郎は快く応じた。場所は開陽丸の船上だ。「釜
 さん、あんた、どうする」継之助は、友人たちとする世間話のような口調で訊ねた。
・「わたしは幕臣だからね、最後まで幕臣として生きるまでさ」「これから起ころうつす
 る戦は、まだ我が国がかつて経験したことのない規模で起こるのだ。その結果がどうな
 るのか正確には解りようもないが、戦えば戦うだけ戦費が掛かり、武器、弾薬は外国か
 ら買うのだから金は国外へと流出し続ける。我が国土は焼け野原となり、屍の山が築か
 れ国家を支える人民の数は激減する。その中でどちらが勝っても、復興は大変な労力を
 要するだろう。それでも復興できれば御の字だ。下手をすれば、日本はもう、日本では
 なくなる」ほぼ、釜次郎は継之助と同じことを憂えている。
・「わたしはね、まるで戦わぬのは不可能だろうと考えている。なんせあちらさんがなん
 としても、どんな手を使っても、戦いたがっているからね。だけど、全面的な戦に持ち
 込んでは駄目だ。だから国際法を利用するつもりだよ」
・「独立国を造る。諸外国に承認させれば、薩長政権の手が出せぬ独立自治区を造るのは
 可能だ」「開陽丸を旗艦とする我が艦隊と、連中の持つ軍艦は、規模も技術も大人と子
 供ほどの違いがあるだろう。制海権は我が手中にある。海を隔てた陸に独立国を造れば、
 連中も手が出せまい」「海を隔てた陸?」「蝦夷地だよ」妙なことを考える男がいるも
 のだと、継之助は釜次郎のことを面白く思った。
・「ストーンウォールはどうする。もうすぐ日本に到着するだろう。ストーンウォールを
 薩長側に巧妙に取られてしまったら、開陽丸でも太刀打ちできないんじゃないか」スト
 ーンウォールは幕府が注文した軍艦で、当然、幕府方に引渡されなければならない船だ。
 が、その幕府がすでになく、将軍が恭順しているからややこしい。薩長側は必ず、政権
 を継いだ自分たちに受け取る権利があると主張するだろう」
・「あれを持っていかれたらどうしようもないな。ストーンウォールの交渉もあるから、
 しばらくは江戸周辺から離れられんのだ。それがなくとも、上さまがご無事にご隠居な
 さるのを見届けるまでは、動く気はないがね」
・継之助は榎本釜次郎の真意がどこにあるのか理解した。この幕臣は、独立国という構想
 を持ちながらも、将軍の首を守るために江戸近海を動かず、薩長に睨みを利かせている
 のだ。
・「長岡はどうするつもりだ」釜次郎が逆に継之助に訊いた。
・「長岡は弱い。どれほど軍備を固めても、所詮は小藩だ。実戦経験もない。比して薩長
 は大藩で実戦を経験し、さらに勝ち抜いてきた。薩長から見た我が藩は一捻りで潰せる
 蟻のように見えていよう。されど薩長は会津を朝敵として征討すると言っている。我が
 藩が恭順すれば、新政府方の先鋒として直ちに会津に銃口や砲口を向けさせられるだろ
 う。それはできぬ。我らにも士魂はあるのだ。卑屈な真似で生き抜けば、それは将来、
 何世代にもわたり、足かせとなっていて回ろう。長岡の者にそんな思いはさせられぬ。
 ゆえに我々長岡は、薩長とも会津とも戦わぬ、独立独歩の道を行く」
・継之助は、釜次郎と別れる前に、国際社会の中での中立とはどういうものか訪ねておい
 た。
・「国際法で保証された国の在り方のひとつだ。だが、希望すれば認められるという甘い
 ものではない。中立を望む国に相応の軍事力があって可能なのだ。弱い国が、戦争に巻
 き込まれたくないから事態を傍観するという法ではないんだ。世界は弱肉強食だ。弱け
 れば、容赦なく餌食になる」釜次郎は即答した。
・これから起こるであろう戦には、中立を承認すべく第三者的な存在が見当たらない。な
 ぜなら、新政府側か、それとも敵対する側かの二つしか存在しないからだ。どうしても
 当事者であるである薩長側に「認めてもらう」しかないのだから、この時点ですでに対
 等な中立ではなくなっている。
・「戦わぬ道」は中立以外あり得ない。恭順は不戦ではない。戦う相手が変わるだけだ。
 越後には会津や桑名の飛地があるのだから、長岡が戦場になるのは、恭順しても同じこ
 とだ。長岡を相手にすればやっかいなことになると薩長側に思わせ、中立を認めさせる
 以外、戦回避の手だてはないだろう。
・会津はこれからどうするつもりでいるだろうか。長岡とは立場があまりに違う。薩長側
 がもっとも憎んでいる藩は会津だ。いわば、これから起こる戦の真打ち的存在だ。逆に
 言えば、会津と桑名が恭順すれば、日本を割っての大々的な戦が回避される可能性が高
 くなる。長岡が恭順しても戦いからは解放されないが、会津が恭順すれば、それはすな
 わち不戦に繋がるのだ。東国や北越の諸藩は、息を呑んで会津の動向を見守っている。
・会津藩の梶原平馬は、今後のことを問われると、「我が殿はすでに隠居して謹慎し、恭
 順を嘆願したが許されなかったのです。京に居る数年、我ら会津松平家は主上にもっと
 も近い位置で、真摯に誠心誠意お仕えして参りました。御上も頼りにしてくだされ、そ
 のお気持ちを記した「御宸翰」も賜りました。そえが何ゆえ逆賊なのか。我らは逆賊で
 はない。されど、謝罪降伏の道を模索するつもりです」平馬は声を絞り出した。
・平馬は近い通り、会津に戻ると藩上層部相手に連日の説得を重ね、新政府側に下った仙
 台藩、米沢藩、二本松藩へ降伏の意思を告げ、会談へと持ち込んだ。
・会津に同情的な仙台は、会津征討の本陣を藩校に置かれ、奥羽鎮撫総督府の強烈な監視
 下にあったが、会津藩を救うために東北諸藩に呼びかけて連盟の嘆願書を作成した。そ
 れは奥羽鎮撫総督「九条道孝」に恭しく差し出された。九条道孝は幕府に同情的な公卿
 だ。いやがおうにも期待が高まった。
・だが、参謀として就任していた長州藩の「世良修蔵」は、「会津に伝えろ。降伏の手土
 産に松平容保の首を持ってくれば許してやるとな」と冷やかにつっぱねた。薩長はあく
 まで戦うことのみを望んでいる。会津は叩き潰されなければ決して許されない。この残
 酷な現実に、他藩の継之助でさえ怒りに体が震える。
・そんな継之助のもとに、さらに最悪の知らせが届いた。「奥羽鎮撫総督府参謀世良修蔵
 が殺されました」 
・世良修蔵が仙台に姿を現わしてからずっと横暴の限りを尽くし、藩主伊達義邦をまるで
 自分の部下のように軽々しく扱っていたこと。そのため、仙台藩士はみな怒りに打ち震
 え、いつ暴発してもおかしくないほど世良修蔵を憎んでいたこと。会津藩の為に嘆願書
 を差し出した後、世良修蔵の仙台に対する仕打ちがひどくなったこと。そして、世良修
 蔵が薩摩の大山格之助に宛てた密書を仙台藩が入手したこと。密書には、奥羽諸藩は会
 津と通じ、反旗を翻す準備を始めているゆえ奥羽征討を行うべき旨が書かれていたこと。
 西郷吉之助のもとに援軍要請に向かう世良修蔵を捕らえ、河原まで引きずり首をはねた
 こと。さらに奥羽諸藩は世良修蔵の首を取ったことを機に、会津を助けるために新政府
 側に弓を引く覚悟で、ほとんど宣戦布告とも受け取れる文書を提出したという。
・奥羽列藩は、新政府との開戦の道を選んだのだ。いや、選らばされたというべきか。仙
 台藩は、初めから執拗に挑発され、暴発するように仕組まれたとしかいいようがない。
 会津だけでなく、一度は新政府側に協力した奥羽諸藩までもが、まるで仕組まれたかの
 ようにずるずると征討の対象になってしまった。
・すでに薩長の腹が見え始めている。己らの支配を絶対にするためだ。これまでとまった
 く、違う日本の国体を作り出すために、前政権徳川家の形は徹底的に壊してしまうつもり
 だろう。新しいものを打ち立てるときは、破壊の後に創造した方が早い。それは歴史が
 証明している。どの政権も、おおよそそうしてきた。薩長は戦を回避して諸藩を支配す
 るより、戦にもつれこんで叩きのめした後に支配する方が、手間が少ないと考えている
 のだ。
・継之助は長岡全藩士に、中島の兵学所に終結するよう指示を出していた。近ごろ継之助
 は上席家老に就任し、さらに軍事総督を拝命したのだ。
・長岡から見て南方、新政府軍の陣屋が置かれた高田方面へ斥候に出していた外山寅太が、
 早馬で駆け戻ってきた。「小千谷の南方、雪峠にて、北上を開始した南軍(新政府軍)
 と「衝鋒隊」がぶつかりました」
・越後の飛地や同盟軍の領土に駐在している会津兵や桑名兵は、衝鋒隊に援軍を寄越すだ
 ろう。越後方面に出兵してきた会津兵は、一千人の大軍と聞く。会津が進軍すれば、た
 ちまち小千谷方面の戦は拡大する。 
・完全に長岡は両軍の挟まれている。場所が場所だ。本音では会津も新政府側も長岡の地
 が欲しいのだ。実際、両者から応援要請が矢の催促だ。
・「会津は恭順、降伏を申し入れ、突っぱねられた。薩長側が受け入れてさえいれば、奥
 羽にも、この越後にも、争いを呼ぶことはなかったであろう。今、我らの近隣で起こっ
 ている戦いは、もはや戦のための戦である。大義なき軍が我らに襲いかかたとき、会津
 であろうと薩長であろうと、それがすなわち敵である。各々方、名を汚すことなかれ。
 長岡はいかなるときも、大義の道をゆく」継之助は藩士たちの前に立ち、大音声を響か
 せた。
・いったい長岡はどうするつもりなのだと苛立った会津兵が、本陣まで乗り込んできたこ
 ともあった。このときも長岡は独自の道をいくのだと継之助は突っぱねた。
・そんなころ、唐津藩士の「大野右仲」が継之助を訪ねてきた。江戸遊学時代の悪友だ。
 主君「小笠原長行」が徹底抗戦を主張して国元へ戻らず、旧幕府脱走兵らとともに会津
 に身を寄せたので、右仲も付き従ったのだという。
・「新選組の土方歳三が会津に来ているんだ。これがいい男でね。俺はこの命が尽きるま
 であの人と共に戦うことを決めた」旧友はそんな本音も口にしてくれた。
・五月二日。輿が二つ、摂田屋村にある長岡藩の本陣光福寺を出、近頃新政府軍に占領さ
 れた 会津領小千谷へと向かっている。長岡藩軍事総督河井継之助と軍目付「二見虎三
 郎
」である。小千谷の新政府軍本陣に、藩の代表者として話をしに出向いている。新政
 府側が長岡藩のことを敵と見なしていれば、無事で戻れぬかもしれぬ危険な役目だ。
・継之助は長岡藩の局外中立の立場を正式に新政府側に申し込むつもりだ。果たして、ど
 のくらいこちらの真意が伝わるだろうか。容易く解ってくれる相手なら、奥羽諸藩と今
 のような泥沼の戦にもつれ込んでいないだろう。すでに奥羽への入り口にある「白河城
 を巡って、両者は壮絶な戦いを展開している。
・継之助たちは本陣ではなく、真言宗寺院慈眼寺に案内された。会見の間に新政府側の責
 任者として現われたのは、土佐の「岩村精一郎(高俊」)で、数えで二十四歳の軍艦だ
 った。まだ若いが、信州諸藩の軍千五百人をよくまとめ、会津兵を蹴散らしてこの小千
 谷を占領している。
・北越征討軍は、北陸道鎮撫総督府参謀の長州の山縣狂介(有朋)と薩摩の黒田了介(清
 隆)
率いる兵に、信州勢を束ねて衝鋒隊を追ってきた岩村精一郎率いる兵が合流して結
 成された。新政府軍の最初の目的は長岡城奪取である。
・海道軍を山縣狂介と黒田了介が、陸道軍を岩村精一郎が受け持ったが、進軍速度は微妙
 に陸道軍の方が早く、継之助が談判のためにやってきた五月二日には、小千谷本陣に岩
 村精一郎しか到着していなかった。
・小千谷談判での岩村精一郎は終始、傲岸だった。他の薩長の三人は、木石のように何も
 喋らなかったし、表情も変えなかった。ただ、冷やかに継之助を見下ろし続けた。継之
 助は「わずかながらも時間をくだされば、必ずや会津を含む奥羽列藩を説き伏せ、解兵
 させましょうほどに、なにとぞ猶予をいただきたい」と頭を下げた。
・だが、継之助は知らなかった。この前日に白河城を奪還して勢いづいていることを。新
 政府側はほとんど死傷者が出なかったのに比し、同盟軍側は七百人が死ぬという一方的
 な殺戮の様相を呈した戦となった。奥羽列藩など簡単に蹴散らせるぞという空気が、新
 政府全体に流れている。 
・それだけではない。白河口の華々しい勝利は、あちらの戦場を受け持った兵だけに手柄
 を渡してなるものか、という好戦的な気分を越後口の新政府軍にもたらしていた。戦わ
 なければ手柄はない。手柄なく国元に戻っても、せっかくの新しい世の到来に、何の地
 位にも昇れない。兵たちはみな、幕府滅亡を好機と捉え、本来の身分を超えて出世を掴
 もうと必死であった。「戦を止めよう」という継之助の言葉は、鼻で笑うほど価値のな
 い言葉にしか聞こえない。
・「今という時代は、万国が互いに富強を競って睨み合い、対峙し、隙ある国から凌辱さ
 れて利益を他国に奪われる時代。国内で争っている時ではありますまい」という継之助
 の訴えも、必死であればあるほど岩村精一郎には滑稽に映るらしく、ふん、と小馬鹿に
 したように鼻を鳴らした。
・「猿芝居はやめろ。世界の心配などせず、小藩らしく己の藩の明日の運命でも心配する
 がよい。会津を打ち破った戦場に捨て置かれた武器の中に、長岡藩の印が入った箱が打
 ち捨てられていたが如何。会津と手を組んでおる確かな証であろう。直ちに戻って戦備
 を整え、官軍に討伐されるのを待つがよい」という岩村精一郎の言葉は、ぐっと継之助
 に突き刺さった。
・なりふり構わずすがりついて引き留めようとした継之助を振り払い、岩村精一郎と薩長
 の三人は無情に退席してしまった。談判はわずか四半刻(三十分)で終わった。どれほ
 ど難しかろうと必ず説き伏せてみせようという気概で臨んだ継之助だったが、まったく
 議論にすらならなかった。

天が哭く
・今では奥羽の同盟軍にさらに北越六藩が加わり、奥羽越列藩同盟として親政府側と対峙
 していたが、それでも人数が常に不足しているのか、長岡城下の守備兵は寡兵である。
 信濃川を挟んで睨み合っていたから、河の増水を頼りに、手薄なまま甘んじているのだ。
  主力精鋭部隊は、城下から見て南方、三国街道上の榎峠方面に出兵している。
・五月十九日、新政府軍は万死を冒し、無謀とも思える渡河を決行した。小千谷から長岡
 までの信濃川東岸の要所、朝日山と榎峠を長岡藩兵ら同盟軍側に奪取されていたからだ。
 長岡ごとき小藩は簡単に蹴散らせるという驕りが、新政府側にはあったのだ。長岡城も
 簡単に落とせると思い込んでいた。それが、蓋を開けてみれば、よもや南面からの侵入
 を阻まれ、戦場が膠着するなど思いもよらなかった。
・継之助も、敵軍が信濃川を越えてくる可能性を考えなかったわけではない。だから、川
 岸沿いの村々からは小舟を全て取り上げていた。新政府軍は河を渡るだけの小舟を十分
 に用意できないはずだった。が、越後の中にあって孤立する形で新政府側に従った予板
 藩が、信濃川下流の自藩領から小舟を運んで用意した。
・新政府側も同盟軍側も一路、最初に目指したのは中島の兵学所である。城の他にはこの
 兵学所が砦としての機能を果たすため、双方、相手方に籠もられれば厄介だった。兵学
 所を守っているのは、十五歳から十八歳の少年予備兵だ。大人は隊長と小頭の三人しか
 いない。本陣で敵兵襲来の報を受けた継之助も、ガトリング砲を引いて直ちに兵学所へ
 向かった。
・小千谷談判が決裂したあとの薩長側との戦いは、大きく同盟軍側が勝っていたわけでは
 ないが、わずかにこちら側が戦場を制していた。もちろん物量が違う。新政府側は今後
 も人数を全国の諸藩から徴兵し、戦場に投入することもできれば、物資を幾らでも補給
 が利く。それでも、七百人の新政府側に二千五百の兵力を注ぎ込んでも大敗した白河口
 の戦い
と比べれば、薩長が思いもしなかった実力で長岡がてこずらせているのは確かで
 あった。
・継之助が思った以上に、新政府軍の侵入が速い。城下のあちらこちらから火の手が上が
 り始める。継之助から舌打ちが漏れる。直ちに作戦を変更して大手口まで退き、渡里町
 口から侵攻してくる敵兵の前に立ちはだかった。
・「総督、危険です」本陣から付き従っていた望月忠之丞が、前線に出た継之助を後方に
 下がるよう懇願した。「馬鹿を言うな。弾なんか当たるかよ」言った途端、敵弾が肩を
 貫いたが、継之助は構わずガトリング砲を道の真ん中に据えさせる。吶喊しながら銃口
 を向けて突き進んでくる敵兵に向け、自らハンドルを回した。派手に煙を吹き出し、六
 つの銃口が火を噴く。銃身を回転させたときに立つカタカタという金属的な音に、堅い
 木の実を鉄に打ちつけたような存外軽快な音が連続して重なり合う。突進してきた眼前
 の敵兵が血飛沫を上げ、玩具のように倒れた。
・一方すが子は、義父の指示で城東にある悠久山へ逃れた。三十八丈ほど(海抜百十五メ
 ートル)の小高い山で、長岡藩三代藩主「牧野忠辰」を祀る蒼紫大明神(蒼紫神社)
 ある。長岡城に籠城するにしても、落城するにしても、祭神が忠辰の聖なる社を放置し
 たままにはできぬので、戦役に就いていない多くの藩士が、まずはこの地を目指した。
・敗戦の色がまざまざと濃くなっていく様を、すが子は無言のまま受け止めた。山の上か
 ら城下を見おろすと、方々から煙が濛々と立ち上がっていく。ああ、もうあそこには戻
 れないのだと、嫌になるほどはっきりとすが子にはわかった。
・城付近からも火の手が上がった。悠久山に逃れる人はさらに増え続けたが、ここも危な
 いのではないか。そう思う間にも、多くの者が殺気だってこの小さな山に迫ってくる気
 配を覚えた。しばらく山上は緊張したが、すぐにわっと歓声が上がったのは、登ってき
 たのが長岡藩の者たちだったからだ。
・あっと、すが子から初めて声が漏れた。その中にいる。夫の継之助が!頭で何か考える
 より早く、涙がどっと溢れ出た。
・「再会できぬお人もいるのですから」すぐに義母の貞子が耳元で咎めた。「申し訳ござ
 いませぬ」ハッと恥じ入り、すが子はすぐに涙を拭った。 
・すが子は義父や義母と共に人ごみの後ろに身を隠し、継之助の視界に自分たちの姿が入
 らぬように気を配った。郡司総督が家族と再会しては駄目なのだ。
・「総督」誰かが大声で継之助を呼んだ。渋木成三郎という男だ。成三郎はずかずかと継
 之助の眼前に歩み寄り、鋭い目で睨みつけた。「貴方はこたびの責任を取って腹を切ら
 ぬおつもりですか。 なんなら介錯はわたしが引き受けるが」と厳しい言葉を投げかけ、
 刀をすらりと抜いた。
・このとき初めてすが子はうかつにも、総督を含め長岡軍が悠久山に集まったことの意味
 を正しく理解した。城が落ちたのだ。
・「腹は切らぬ」継之助は動揺した様子もなく、当然のように答えた。「生きておらねば
 ならぬ使命が俺には未だ残っている。こんなところでのうのうと死ねるかよ」「聞け!
 なんのための撤退だ。生きて我らが城を取り戻すためだ。約束しよう。長岡は必ずや再
 起する」
・「ならば俺は貴方についていく。どこまでも戦おう」成三郎が応じて刀を天に翳すと、
 悠久山に鯨波が上がった。
・兵をまとめた継之助は、森立峠まで退いた。女子供や老人で行き先のない者は、当ても
 なくとぼとぼと同じ方向についてきたが、親戚や知人の家に身を寄せられそうな者たち
 は、城下東方の道がまだ安全なうちにそれぞれ思う地に散っていった。すが子たちも、
 村松村の知人を頼って南方に進路を取った。継之助は最後まで、すが子や両親の存在に
 気付かなかった。
・長岡城が落城したので、せっかく占拠していた朝日山や榎峠の要所も手放さざる得なく
 なった。すみやかに退去せねば、南北西方の三面から囲まれ、退路を失う。継之助は、
 「退却後再挙」の伝令を飛ばした。
・朝日山・榎峠の軍は、昼間は親政府軍と徹底抗戦の素振りを演じ、夜陰に紛れて移動を
 開始した。翌日の黄昏時にようようと継之助たちが仮陣営を設けた葎谷村に到着した。 
・長岡は、北越戦線において最前線に当たる。その城を盗られた衝撃に、これは捨ておけ
 ぬと越後に同盟軍が続々と集まり、その戦力は五千を数えた。このため、本営は加茂へ
 と移した。
・加茂はかつての新発田藩領で、今は桑名の飛地となっている財政豊かな地だ。新潟港と
 は大河で繋がり、武器弾薬の補給も利く。占領された長岡ともある程度距離を持ち、本
 陣を置いて再起を図るには最適の地と言えた。
・この地に結集した諸藩は、会津、長岡、桑名、米沢、村松、村上、上ノ山の七藩だ。六
 藩は奥羽越列藩同盟軍として一つにまとまるべく、軍議を加茂の地で開いた。軍議は、
 これほど事態が切迫しているにもかかわらず、ありがちの堂々巡りを繰り返した。六藩
 の中では会津藩と米沢藩が大藩で力も強いが、両藩が同盟軍の総督の役目を互いに押し
 付け合って話が前に進まない。
・長岡は大藩ではない。動かせる兵の数も千弱の、戦の規模に対していわば寡兵だ。会議
 での発言力は弱い。だが、これ以上は黙って見過ごせなかった。「いい加減になされい。
 今が戦の最中ということをお忘れか」業を煮やした継之助は、突然、怒鳴り声を上げた。
・いったい、何のために長岡は戦い、城を失ったのだ。小千谷談判の折に、小細工までし
 た長岡藩を今度の戦に巻き込んだのは、どの藩なのだ。そう会津を罵倒したいが、継之
 助はぐっと堪えた。
・会議の流れは完全に継之助が支配した。会津藩より覚悟の足りぬ米沢藩をぎろりと睨み、
 「軍事総督には尊藩が適任であろう」と決めつけると、もう米沢藩側は嫌と言えず、黙
 って項垂れた。 
・継之助は、加茂軍議では長岡城を急襲し、ただちに奪還したい意向を示したが、さすが
 に誰も賛同しなかった。水原まで庄内藩が応援に駆けつけてきている。合流して兵力を
 蓄え、重要拠点を一つずつ着実に落としていく方が得策だというのである。なるべく損
 失を抑えて戦場を保っていけば、四、五ヶ月で東北が雪に閉ざされる冬が来る。未だ動
 かぬ榎本釜次郎の艦隊を呼び込めば、制海権も取れる。
・それは継之助にもわかるのだが、今の新政府軍の動きは何か妙ではないか。もし、自分
 が敵の司令官なら、城を盗った後は休まず長駆し、栃尾にぞろぞろと集まりかけた同盟
 軍側敗兵を一気に叩いたに違いない。だが、新政府側はそうしなかった。朝日山や榎峠
 からの同盟軍引き揚げへの追撃も、驚くほど甘い。
・実際、この時期の新政府側の内情は、弾薬をこれまでの戦闘で使い果たし、補給待ちの
 危うい状態だった。ただ、同盟軍側の物資の補給を断ち、越後口海域の制海権を手に入
 れる目的で新たに海軍が投入され、山田市之允率いる軍艦三隻が二十一日には海域に到
 着していた。市之允は、越後海域の情報収集に努め、二十四日には寺泊港に停泊中の会
 津藩軍艦順道丸を沈めた。
・すが子は今、濁沢村の阿弥陀寺に向かって逃げている。初めは村松村の知人の家に身を
 隠したが、新政府軍方の探索のあまりの厳しさに耐えられなくなった。もし、長岡兵や
 その身内を匿っていることが知れたら死罪との触れも回った。これ以上は迷惑を掛けら
 れないと、すが子と義父母の代右衛門と貞子の三人は、いっそう山中へと身を隠すこと
 に決めた。
・そこは長岡領ではなく桑名藩の飛び地である。継之助がどうしても行く場所がなくなっ
 たら訪ねるようにと、かねてから告げていた場所だ。住職とは話がついているのかと代
 右衛門が訊ねたが、「そんなものはついておりません」継之助はにべもなく答えた。だ
 が、ここの住職なら匿ってくれようと継之助はきっぱりと言いきった。「ここが駄目な
 ら、もうどこも駄目でしょうな」とも。
・継之助の言うことは正しかった。突然の訪問だったにもかかわらず、阿弥陀寺の住職月
 泉は一瞬驚いた顔をしたものの優しく迎え入れてくれた。
・だが、すが子の心は落ち着かない。新政府軍が血眼になって一番探しているのは、河井
 継之助の妻であり父母なのだ。まだここまでは探索の手は伸びていないようだが、時間
 の問題だろう。見つかれば、多大な迷惑をかけることになる。
・ここを出れば捕まるかもしれない。捕らえられて継之助の妻だと知れたら、自分はどん
 な扱いを受けるのだろう。(辱めを受けるくらいなら死んだ方がいいかもしれない)
・なにかにすがるように、すが子は胸元にずっと隠し持っている令の桐の小箱を取り出し
 た。寂しくなったら開けてみよと継之助からもらった、生涯でただ一つの贈り物だ。
 中身が何なのか、すが子はいまだに知らない。最初で最後の贈り物だったから、もった
 いなくて開けられなかった。
・開けるのは今しかない。すが子は震える思いで、とうとう桐箱を開けることを決意した。
 一度深呼吸をしてからゆっくりと開ける。(えっ)一瞬、すが子にはそれが何なのかわ
 からなかった。小さな掌に入るほどの大きさの紙に、どう見ても継之助と思われる男の
 座った姿が浮かび上がっている。
・すが子は写真を知らなかったのだから戸惑うのも当然だ。(旦那さまのお姿が・・・)
 すが子には写真のことはわからなかったが、これが西洋で何かで、向こうにはこうして
 姿をそのまま納めることができる技術があるのだろうということは、さすがに西洋の道
 具好きな継之助の妻だけに理解できた。これまでも、望遠鏡やオルゴールを持って帰っ
 て見せてくれたものだ。すが子は写真を胸に抱いた。なぜこんなに愛おしいのか。涙が
 溢れて止まらない。継之助の写真を胸に押し当て、「生きよう」とすが子は思った。
 {生きてまた、この人に会いたい)そうして今度こそ本当の夫婦になりたいと、すが子
 は願った。
・数日もすれば新政府軍の追手が、この濁沢までもうろつき始めた。村人たちへのきつい
 尋問が始まっている。捕まるのも時間の問題だろう。月泉は口が堅いが、寺にいるほか
 の坊主や小坊主のすべてが秘密を守れるわけではない。
・髪をなくしたすが子の姿に月泉は呆然となった。「なんということを」戸惑う月泉に、
 すが子たち三人は今夜中に寺を出ることを告げた。「ここにいても外に出ても私たちは
 もうすぐ捕まりましょう。同じ捕まるなら、阿弥陀寺とは無縁ということで捕まりとう
 ございます」
・すが子たちの真意を知った月泉は、「なんというご覚悟・・・」と言葉を詰まらせたが、
 すぐに一つの提案をした。
・「その覚悟がおありなら、しばしこの和尚に運命を預けてくださらぬか。明日、新政府
 軍の陣営に行って、我が寺に河井継之助どののお身内がいることを正直に告げましょう。
 告げた上で、身柄を我が寺預かりとできぬか、掛け合ってまいりますゆえ、出て行か
 れるのはしばし待たれよ」
・だが、ことはうまくいかなかった。月泉の願いはいったん聞き届けられ、預かり証を貰
 って急ぎ戻ったが、そのときには別の司令官配下の者どもが捕縛のため寺に踏み込んだ
 後だった。すが子は抵抗せずに、「私が河井継之助の妻でございます」と毅然と答えた
 ため、乱暴に連行しようとした者たちは気圧される形で、用意した唐丸籠に乗るよう命
 じるにとどまった。
・この罪人を運ぶための見せしめの乗り物は正座で乗るしかなく、途中で排泄をしたくな
 っても籠の中から垂れ流しにせねばならないという代物だ。もし、数日間の移送なら、
 食事はもちろん、睡眠も籠の中でとらねばならない。苛酷で屈辱的な乗り物である。だ
 が、すが子は躊躇いなく乗った。運ばれている間、すが子はただの一度も下を向かなか
 った。
・籠は小千谷本営まで送られ、三人は尋問された。すが子が知っていることで長岡軍が不
 利になるようなことは何一つない。なにより継之助とは、最後はずっと別居していた。
 三人別々に尋問にあったが、それぞれが聞かれるままにただ正直に答えればいいだけな
 ので、精神的には楽だった。すが子は継之助にどれほど感謝したかしれない。
・三人を小千谷に止めおいてもどれほども聞き出せないとわかると、新政府軍は高田藩お
 預けとして移送することを決めた。すが子たちは高田藩の冷たい牢獄の中で、ずっと監
 視される身となったのだ。 
・そのころ継之助は、新潟と加茂の間にある水原に出向き、風変わりな経歴を歩み始めた
 旧知と会っていた。「平松武兵衛」今では会津老公松平容保に寵愛され、会津藩士とな
 ったジョン・ヘンリー・スネルである。この平松武兵衛が、秋月悌次郎の要請で会津藩
 参謀として越後口へ赴任してきたのだ。
・「長岡の恥辱を雪げ。これより今町を奪取する」勢いづいた同盟軍は、民家を焼き払い
 つつ今町へと追撃した。新政府側は支えきれず、日没前、ついに見附方面へと散った。
 同盟軍側の完全なる勝利である。
・この今町の戦いを境に、同盟軍側がやや押し気味となりつつも、戦場の大局はおおよそ
 五十日間に及ぶ膠着状態に突入した。
・六月から七月の中旬にかけて、越後口の新政府軍はじっと援軍の到着を待っていた。五
 月に海軍を引き連れてやってきた長州の山田市之允は、この地で日本最初の本格的な衝
 背軍上陸作戦を、混合軍によって敢行しようと企図していた。
・最初に抜く地は新潟である。港を押さえ、同盟軍の補給路を断つのである。それには今
 の人数ではまったく足りない。このため、市之允は何度も司令本部に援軍の要請を行い、
 長州藩にもそれとは別に人数を出してくれるように頼み込んだ。だが、なかなか作戦決
 行に必要な人数が揃わぬまま、徒に時が過ぎた。
・さらに薩摩と長州の仲違いが深刻化し、薩摩の参謀黒田了介はまったく参謀会議に姿を
 現さなくなった。長州の参謀山縣狂介も、辞表を出して辞める辞めないのと大騒ぎをし
 ている。
・もし、この時期に同盟軍側が全力で一つの目的に集中し進攻していれば、越後口の新政
 府軍は崩れたかもしれない。だが実際は、各藩が心から団結することはなかった。みな、
 自藩が可愛い。同盟軍全体の利益を第一に動くことなど、できなかった。
・継之助としては、そのまま一気に長岡奪還に突き進みたい。他藩も一応はその目的のた
 めに動いてくれた。が、他藩と長岡藩兵との温度差は如何ともし難い。決死の覚悟で戦
 闘を行うというのとはほど遠い戦が随所で展開した。「もうこんなことはやめてしまい
 たい」という空気が、同盟軍側に重く垂れ込めている。裏切りの臭いが立ち込め始めて
 いた。
・継之助は忙しい戦闘の合間を縫って何度か新潟に出向いていた。国際港となる新潟の管
 理を旧幕府から奥羽越列藩こそが引き継いだのだと、諸外国に公認してもらおうとして
 いたのだ。
・同盟軍は、諸外国に送る通告文を、仙台、米沢、会津、庄内、長岡の軍事総督の連名で
 十一通作った。その通告文を、新潟に来ていたプロイセン、アメリカ、イギリスの領事
 の協力を得て、このたび横浜の各国公使や領事に渡す運びとなった。
・白河から仙台までの戦場を、神出鬼没に現われては新政府軍を翻弄している黒装束の男
 たちがいる。継之助の盟友、細谷従太夫率いる衝撃隊、鴉組だ。
・十太夫は五月、藩の命令で江戸探索の任を受け、奥州街道を江戸方面に向かう途上、郡
 山まで来たところで白河口の大敗の報を、同じ仙台藩士で大隊長の瀬上主膳に聞いた。
 よほど戦場に地獄を見たのか、主膳の腰はすっかり引けていた。
・同盟軍二千五百、大砲八門、対する新政府軍七百、大砲七門。それが白河口の両者の戦
 力だった。同盟軍にとって負けるはずのない兵力差は圧倒的な火器の性能の違いの前に
 崩れ去った。
・十太夫は不甲斐なさに奮起した。その場で密偵の任を放り、須賀川の遊廓を借り切ると
 門前に「仙台藩細谷十太夫本陣」の看板を立てた。馴染みの博徒を引き入れ、さらに猟
 師を募集した。あっという間に五十七名が集まり、そののち百人ほどの隊を結成した。
 この連中は夜目が利く。夜襲を得意とした奇襲の為の隊となった。夜になると新政府軍
 の陣営に躍り込み、血祭りに上げるのだ。”鴉組”の名はたちまち広まり、鬼神のように
 恐れられた。
・七月中旬、最初にわずかな動きを見せたのは、新政府側である。彼らは、衝背軍上陸作
 戦決行に必要な人数と物資の補充を完了させた。勝敗軍上陸作戦のために改めて新政府
 軍越後口総督は、海軍参謀に長州の山田市之允と薩摩の本田彌右衛門を任命した。薩長
 を並び立たせるための両者任命だが、実際に作戦の立案から実行までは山田市之允が行
 った。
・背面の上陸地として選ばれたのは、いずれも松ヶ崎付近で、全部で四ケ所。松ヶ崎は同
 盟軍を裏切り新政府軍に内応した新発田領で、新潟から北に二里の地点だ。
・上陸決行は二十五日の早朝と決まった。同時刻、長岡側にいる山縣狂介、黒田了介率い
 る陸軍は、同盟軍側に正面南方から戦闘を仕掛け、敵兵を十分引きつけることとなって
 いた。
・新政府軍が総攻撃に向けて着々と準備を進めていた同じころ、同盟軍側が何もしていな
 かったわけではない。継之助は越後口総督、米沢藩の「千坂太郎左衛門」と連絡を取り、
 二十日を長岡城奪還のための作戦決行日に定めた。だが、皮肉なことに雨がやまない。
・十九日、継之助は突如全軍を見附に引き揚げさせた。わけのわからない長岡勢はもとよ
 り、見附近隣に布陣していた他藩の者も継之助を批判した。継之助は何を言われても笑
 うだけで答えない。ただ決行は二十四日の夜と自身の中で定めた。
・「我ら長岡士は、明日の深夜をもって長岡城へ進軍するぞ」皆の瞳に生気が蘇るのを継
 之助は見た。この日の議場で、八町沼を渡る危険を敢行したい旨を告げたが、異論は誰
 からも出なかった。それほど城を盗られたことは長岡の者たちの意気地を傷つけたし、
 誰もが切歯していたのだ。 
・一方、新政衝背軍は柏崎で同じように酒肴を下され、軍艦に乗り込み、佐渡の小木港に
 向かった。二十四日の夜半に定を出立し、二十五日払暁より新潟の背面に上陸するため
 である。
・上陸後は正面軍である長岡側と衝背軍とで同盟軍を挟み込み、総攻撃を仕掛ける手筈だ。
 このため、長岡側の新政府軍は、平地を進軍する薩摩率いる平地隊と、東方の山路を進
 む長州率いる山路隊に分かれた。その上で先に駒を進めた隊もあり、肝心の長岡城下は
 幾分手薄となっていた。
・夜が開けかけた沿道の民家から、おそるおそる領民たちが顔を出し始めた。着物に縫い
 付けた五間梯子の御印に、本当に長岡勢が戻ってきたのだと知ると、各戸に次々と灯り
 が点った。長岡さまだ、長岡さまが戻ってきやった。炊き出しだ、それ、水と飯を御家
 中へ用意しろ」領民たちの興奮した歓声が、敵軍を追う長岡勢の胸をわさわさと揺さぶ
 る。
・「総督!みなが、民のみなが、我らを待ち望んでくれていたのです」涙ぐんで口々に叫
 ぶ兵たちに継之助は、(殿さんたちに聞かせてやりたい。この領民の声を)会津へと避
 難している両殿の顔を思い浮かべた。民が必ず領主の味方をしてくれるとは限らないの
 だ。敵となるか味方となるかは、日頃の政の結果ひとつである。
長岡城は、堀直寄の築いた城で、その形から苧引形兜城、あるいは川や堀で幾重にも囲
 まれていることから浮島城と呼ばれている。天守はなく、三層櫓がその代わりとなって
 いた。だが、今はそれも五月の城下戦で焼け落ち、殺伐と荒廃していた。新政府軍は陣
 営を城内に設けず、城下の寺などに分宿していたため、長岡勢が一里ほどもある巨大な
 湿地帯八町沼を抜けて城下に雪崩れ込んできたときも、そこは奇妙なほど静まり返り、
 敵兵の姿は見られなかった。
・長町から足軽町を抜け新町へと進んだ継之助は、弾丸が雨の降るように飛び交う戦場を
 目の当たりにした。そんなもので怯む継之助ではない。雁木に身を隠しながら進んでい
 く。さらに前身するため、往来へと迷わず飛び出したこのとき、それは起こった。左脚
 に火箸を捻じ込まれたような熱さを覚え、次の瞬間、「総督!」継之助は悲鳴のような
 叫びを聞いた。とたんに鮮血が迸る。がくりと脚の力が抜けた。継之助は懸命に踏ん張
 ろうとたたらを踏む。が、まるで己の脚ではないように、その場にドッと頽れた。
・(ざまあないな)継之助は自嘲したが、いまさら起こってしまったことをどうこう言っ
 ても仕方がない。近くの土蔵に運び込んでもらった。実際は仰向けに寝かされたまま寝
 返り一つ打てぬ重傷だった。もし敵がここへ踏み込んできたら、なに一つ対応ができな
 い。継之助は付き添いに残した寅太に言って、抜き身の刀を自分の体の上に横たわらせ
 た。「敵が来たら俺の首を切って走れ、絶対に渡すなよ」竜太は今にも泣きそうな顔で
 うなずいた。
・撃った砲弾の数、六百発という激しさで、長岡勢はその日のうちに長岡城下を手中にし
 た。一度落ちた城を奪還するという快挙であった。長岡武士の意地をみせたのだ。
・翌日には、会津、米沢、仙台などの同盟軍が入城を果たし、奇跡のような長岡の健闘を
 讃えた。その日は祝砲を射ち、酒肴が振る舞われた。長岡城下は兵も市民も喜びの涙に
 咽んだ。
・ほとんどまともに戦わずに柏崎まで逃げるという失態を演じた長州の山縣狂介参謀は、
 関原に諸隊幹部を招集して今後の打開策を話し合おうとした。が、踏み留まって戦った
 薩摩軍は冷やかに長州軍への協力を拒んだ。新政府軍は薩長が決裂する形で、越後から
 の一時撤退を決めた。このままいけば長岡は起死回生するはずだった。
・ところが、長岡勢が城を盗り返した二十五日、新潟方面を担当した新政府海軍の方では、
 北方松ヶ崎に衝背軍上陸作戦を成功させていた。長岡の戦況がすぐには伝わらぬため、
 滞りなく同盟軍総攻撃に向けて二方向への進軍を開始したのだ。
・慶応四(1868)年七月二十九日。新政府軍は長岡と新潟の同時攻撃を計画通り実行
 した。長岡は、六百人ほどの長岡勢に対し、新政府軍が千二百人の大軍で攻め込み、一
 方的な戦いを展開した。
・新潟は、米沢を中心とした同盟軍五百人に対し、新政府軍は三百人の寡兵で進軍した。
 だが、それは海からの艦砲射撃を駆使するためだ。さらに同盟軍側が援軍を送れぬよう、
 同盟軍を裏切った新発田勢と七百人に及ぶ新政府軍で周囲を固めた。新潟、長岡共に、
 同日中に新政府軍が占領を完了させたのだ。
・八月四日、加茂での戦いを最後に、越後は新政府軍の手に落ちた。この地からの撤退が
 決定的となり、四郎丸村の軍病院昌福寺で傷の手当てを受けていた継之助も松蔵の作っ
 た辻駕籠風の戸板に乗せられ、会津へと続く八十里越を眼前にした吉ケ平へと運ばれ
 た。
・足の傷は重傷だった。骨髄の損傷から血流が滞り、骨の壊死が始まっている。制御でき
 ぬ感情の渦に己を見失い、突如怒鳴り散らしてしまうことがある。凄まじい意志の力で
 なんとか意識を引き戻すが、それがいつまで持つことか。正気を失っていく己に、ここ
 まできて得たものが”狂気”なのかと継之助は愕然となった。
・「八十里こしぬけ武士の越す峠」継之助は戸板の上で、俳句を詠み、八十里越の峻険な
 山道に踏み入った。 
八十里越は中越と会津を結ぶ二つの峠を伴う街道だ。実際には八里ほどの距離だが、あ
 まりの険しさに一里が十里ほども感じられるという感慨を込めて名がつけられた。
・継之助ら一行は、四日に出立し、山中で一泊して五日に会津領只見村に着いた。苛酷な
 八十里越の峠道を戸板で揺られ続け、容体は目に見えて悪化していた。気を抜けば気絶
 しそうな痛みが続き、しばらくは到底動けそうにない。
・数日後、両殿からの依頼で会津から一人の男が共も連れずにひょっこり継之助を訪ねて
 きた。将軍侍医を務めた蘭医で、今は軍医として同盟軍の負傷者の手当てに明け暮れて
 いる「松本良順」だ。
・継之助は良順の傷を見た表情で、すでに自分は手遅れなのだと察していた。自分はもう
 会津に行き着くことはないのだろう。「会津で会おう」果たせぬ約束を交わし、継之助
 は良順を見送った。 
・その後、継之助は枕元に腹心の何人かを呼んだ。「率直に言おう。会津は近く瓦解しよ
 う。同盟軍は何れ負ける。そのときにいかに動くかで我らの士道が問われよう。決して
 主家牧野家の名を汚さぬよう守り通してくれよ。頼んだぞ」
・継之助の死んだのは、八月十六日の中秋だ。只見を出立したものの、わずか二里前で力
 尽き、五日滞在した塩沢の医者の家が終焉の地となった。
・翌日、河井継之助は逝った。四十二年の峻烈な生涯は、燃え上がる炎と共に煙となって
 天に昇った。遺骨はただちに会津の両殿へと届られた。
・帰るべき領土を失った長岡士たちは、九月二日の戦闘を最後に米沢へと退いた。山本帯
 刀
率いる三小隊のみは、その後も会津に留まり戦ったが、最後は捕縛されて引き立てら
 れた。帯刀は阿賀野川の河原へと引き立てられ、首を斬られて果てた。
・米沢入りした長岡兵たちは、両殿はもちろん、逃げてきた女たちや幼子、それに老人た
 ちも伴い、最後は仙台領へと落ちた。
・藩主忠訓は会津が降伏するのを待って、自ら新政府軍の総督府に出頭し、自身の身柄を
 差し出すことで、三百人を超える戦死者出した長岡藩の戊辰戦争に終止符を打った。明
 治政府は、忠訓を隠居させ、世子鋭橘に五万石を削った二万四千石のみを与え、家督を
 継ぐことを許した。
・敗戦後の長岡を支えたのは、かの「小林虎三郎」や三島億次郎(川島億次郎)である。
 復興には長い歳月が必要であった。辛酸を舐め、飢えに苦しむ中で、人々は墓を壊すほ
 ど河井継之助を憎むようになっていった。
 
エピローグ
高田藩に囚われの身のすが子は、夫継之助の死を牢の中で聞いた。捕らえられて以降ま
 ったく乱れることのなかったすが子である。その姿は毅然としていなければという気負
 いも見えず、敵方の者たちへの怨嗟もなく、常に穏やかで平静だったと高田藩の者たち
 がのちに証言している。
・だが、さすがに夫の死を聞かされれば乱れるはずだと高田藩の牢番は思った。「河井継
 之助は死んだぞ」夫の死を伝えた。すが子は、表情一つ変えずに頷いただけだ。高田の
 者はその日からすが子を、「氷の女」と呼んだ。
・牢に閉じ込められ、ひとり黙考することが多くなったすが子には、継之助が何を望み、
 何を求め、あがいていたのかわかるような気がしている。継之助は真の意味で豊かな世
 が欲しかったのだ。 
・すが子が釈放されて自由の身となったのは明治二年になってからだ。明治政府のお達し
 で河井家はお家断絶となった。高田まで松蔵が迎えにきてくれた。長岡領に入ったとこ
 ろで、すが子は継之助の遺髪をふいうちのように渡された。
松蔵は、真っ正直に自分の見た北越戦争と継之助の最期を朴訥と語った。高田では無表
 情だったすが子は、そのとき初めて夫の髪を握りしめて泣いたのだ。
・長岡に戻ると世間は冷たかった。老公雪堂だけは、なにかとすが子や継之助の老父母を
 気にかけ、生活が成り立つようにと便宜を図ってくれた。それがさらに人々の憎しみを
 あおった。
・三年が過ぎた。明治五年、すが子はようよう東京へやってきた。日本でかつて、血で血
 を洗い、故郷を焦土に変えた争いの歴史があったなど嘘のように”東京”は華やいでい
 た。
・松蔵から聞いた。死ぬ前、継之助は士に憧れていた庄屋の寅太にこう言ったそうだ。
 「寅よ、もう士の世は終わりだ。今の身分制度はじきに壊れ、新しい時代がやってこよ
 う。才覚一つで世界に羽ばたける時代だぞ。それには商人をやるのがよかろうよ。寅は
 海の向こうへ行け。長岡も日本も飛び出して世界を股にかけて駆け巡れ」
・寅太は今、継之助がくれた遺言のような言葉を胸に、自分たちを打ちのめした明治政府
 の大蔵省に入って闘っている。寅太に及ばぬが、すが子も継之助のために小さな闘いを
 始めるつもりだ。継之助とは何者だったのか。英雄か、それともとんだ大戯けか。継之
 助のいない明治の世を、あの男の妻として闘いながら生きていけば、きっと答えはみつ
 かるはずだ。