「幕末」に殺された女たち :菊池明

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この本は、今から7年前の2015年に刊行されたもので、黒船来航で幕を開けた幕末と
いう激動に時代に、心ならずも命を落としていった23人の女性を題材にしたものだ。
幕末というと、新しい世界を夢見て、多くの男たちが混沌の渦の中に飛び込んで命を落と
していったのだが、その男たちの陰には妻であったり妾であったり母であったり娘であっ
たりした多くの女性もいた。
死んでいった男たちは、無念であっても己の信じる道を進んだという満足感があったかも
しれないが、その陰で死んでいった女性たちにとっては、否応なしに幕末という時代に翻
弄された時代であった。それでも必死に生き、そして死んでいったのだ。まさに、幕末と
いう時代に殺されたようなものだった。

この本には全部で24話が取り上げられているのだが、私が特に心に残ったのは次の5話
であった。
・梅田雲浜の妻・信
・武田耕雲斎の妻・とき子
・臼井亘理の妻・清子
・西郷頼母の娘・細布子
・会津藩娘子隊・中野竹子

梅田雲浜の妻・信」の話は、男のバカ加減さが、よくあらわれている話だと思う。妻の
懸命の家計のやり繰りをつゆほども知らず、いい気になって天下・国家を論じている。勇
ましい男たちのありがちな馬鹿さ加減さだ。
しかし、これはなにも勇ましい男たちに限ったことではない。現代の政治においても、
一般の庶民が低収入や急激な物価高に喘ぎながら、必死に日々の家計をやり繰りして暮ら
しているというのに、やれ防衛費倍増だとか、やれ敵基地能力の保有だとか騒いで、貧し
い国民から税金をむしり取る。それにも飽き足らずに「国債」という借金を将来世代に押
し付ける。国民の命と安全を守るのだと身勝手な主張を振りまわしながら、いい気になっ
ているどうしようもない、どこかの国の政治家たちも、これと重なるところが多いように
私には思えた。

武田耕雲斎の妻・とき子」の話では、幕府の武田耕雲斎の対する処罰の非常に残忍極ま
りなさに驚かされた。武田耕雲斎は斬首のうえ、首は塩漬けにされて、その首は水戸まで
運ばれ水戸市中で晒された。さらに妻・とき子をはじめ、男の子供たちはすべて斬首刑に
されたうえ、梟首(さらし首)されたのだ。こんな残忍なことが、幕末に幕府によって行
われたのだ。その罪状は「逆徒の張本の妻」だからということだけだった。なんとも言葉
が出ない。

臼井亘理の妻・清子」の話も、よくありがちな話のような気がした。幕末という激動の
時代に、藩内にせっかく時勢の動きを正確に捉えていた人物がいたのに、自分たちの藩内
の権力争いにしか関心がいかない者たちのくだらない権力闘争によって、貴重な人材が排
除されてしまった。しかも、妻・清子の殺され方がひどい。太刀でめった切りにされて、
頭はザクザクになっていたという。
幸いにも両親の別間で寝ていた長女・わさ子と長男・六郎は、難を逃れた。
明治になって「仇討ち禁止令」が発布されたが、明治十三年に、六郎は両親を襲った一人
に対して「仇討ち」を行った。これが「最後の仇討ち」事件と呼ばれているようだ。
この事件は、吉村昭の短編小説集『敵討』所収の「最後の仇討」で描かれているようだ。
また、2011年には『遺恨あり 明治十三年 最後の仇討』でテレビドラマ化されている。

西郷頼母の娘・細布子」の話は、会津藩家老・西田頼母の一族の集団自刃の話だ。なん
とも悲しい話だ。特に、自刃を図ったものの死にきれず、敵方の兵を味方の兵と思い介錯
をお願いして死んで行った細布子(16歳)の話は、言葉が出ない。
なお、この話の中に出ている白虎隊の唯一の生き残りである「飯沼貞吉の終焉の地」が仙
台市内にある。

「会津藩娘子隊・中野竹子」の話は、よく知られている話のようだ。私が特に興味を持っ
たのは、流れ弾にあたって倒れた姉・竹子を、敵と遣り合いならも見事に介錯し、その首
を持ち帰ったという妹の優子だ。優子はこのとき16歳で、際立って美しい女性だったと
いわれている。優子はその後、戊辰後には斗南に移り明治四年に蒲生誠一郎(山浦鉄四郎
と結婚し、その後は函館で暮らして昭和六年まで生きたようだ。優子の墓は八戸市の館鼻
公園
に隣接した墓地にある蒲生家の墓に入ったようだ。


はじめに
・幕末に命を失った志士たちは、無念ではあっても、己の信じる道を進んでいただけでし
 ょうが、その背景には女たちがいました。
 その多くは彼らの妻なのですが、彼女たちは夫に従い、夫を陰で支えることを美徳とし
 て生きてきました。夫が名もない男であれば、その妻も名のない女です。それでも彼女
 たちは必死に生き、そして死んでいきました。
・死因は病死・自死・殺害・処刑・戦死と様々ですが、彼女たちは幕末という時代に死亡
 したというだけではなく、幕末という時代に死をもたらされたのです。「幕末」という
 時代によって”殺された”ともいえます。
  
梅田雲浜の妻・信
・文化五年(1808)に「フェートン号事件」と呼ばれる、長崎港へのイギリス船侵入
 事件が起きた。彼らは強迫的に薪水・食料の提供を要求、それに屈した長崎奉行はみず
 から切腹し、警備を命じられながら、兵力を削減していた佐賀藩の家老以下も腹を切っ
 た。
梅田雲浜が若狭国(福井県)小浜城下で生まれたのは、フェートン号事件から七年後の
 文化十二年のことだった。
・雲浜は大津に湖南熟を開き、天保十四年秋まで門弟に教授していたが、その年の秋に京
 都へ移る。少年時代に学んでいた望楠軒に招かれたのである。
・弘化元年(1844)に雲浜は上原立斎の娘・信と結婚する。信は立斎の長女で、この
 とき十八歳だった。
・雲浜は相変わらず国を憂い、学問に打ち込むばかりで、家庭人としての自覚が欠如して
 おり、客人があれば酒肴でもてなすことを求め、小遣い銭を与えることもあり、信に苦
 労をかけるばかりだった。それでも信は雲浜を煩わせることなく、貧しい家計をやりく
 りしていた。  
・信は夜遅くまで裁縫などの手内職で家計を助けていたものの、さらに一家に貧困が襲い
 かかった。
 学問一筋の雲浜は、これまでも藩政上の問題に対してしばしば上書を提出し、忌憚のな
 い意見を述べていたが、これが藩上層部の怒りを買い、ついに藩籍を削られてしまった
 のだ。
・京都の儒者仲間で、日頃より交流のあった頼三樹三郎が、一人の儒者を連れて雲浜のも
 とを訪ねた。
 三人によって尊王論や国防論が熱く語られるなか、信は酒と肴を運んでくる。酒が入っ
 て銘々が自作の詩を吟じていると、雲浜が信を呼んで琴を奏でるように命じた。
 頼三樹三郎たちも所望するため、信は隣の部屋で演奏するので、そこを決してのぞかな
 いようにと雲浜に耳打ちしてから席をはずした。
・ところが、そのとき信は米を買うために琴を質入れにしていたのだ。それを思い出した
 雲浜は気が気でなかったが、やがて隣室から琴の音が聞こえてきた。雲浜が、信の言葉
 を忘れて思わず部屋をのぞいてみると、下着の襦袢姿で琴を弾いている信の姿があった。
 信は着ていた着物と帯を質草として、琴と替えてきていたのである。
 そして、琴を終えるとふたたび質屋へ行き、琴を質入れして着物と帯を引き出し、着替
 えた姿で頼たちの前で挨拶をしたのだった。雲浜の頬に涙が伝い、心より信に謝罪した
 という。 
・六月にペリーの艦隊が出現し、七月にはロシアのプチャーチン率いる艦隊も長崎に来航
 して、幕府に開港を求めるという事件が起きた。
 この報に接した雲浜は、もはや座していることができずに江戸へ旅立ち、在府中の長州
 藩士・吉田松陰や江戸の同志と対応策を談じた。
・しかし、幕府は日米和親協約を締結したため、雲浜は幕府に見切りを付けて、尊攘論が
 盛んな水戸藩におもむいて遊説したが、水戸藩も即時の攘夷へとは動こうとしなかった。
・古より勤王精神が旺盛な十津川郷士たちは、なかなか退去の様子を見せないロシア艦隊
 に憤激し、攘夷断行の決意を固める。そして、かつて十津川で尊攘の大義を説いた雲浜
 を軍師として迎え、艦隊を撃破することとした。
・十津川郷士の熱情に、雲浜は立った。妻子は病床にあったが、それでも雲浜は決断した。
 妻は病床にあり、子供たちは空腹に泣いているが、それでもなお攘夷に身を挺し、その
 結果が妻子との死別、生別となっても、運命は天と地の神が知るのみである、という強
 い決意だった。
・これに対して信は寂しげな笑顔を見せつつも、雲浜の健闘を祈って送り出したという。
 そして、安政二年三月、信は息を引き取った。結婚から十一年目、二十九歳のことであ
 る。
・信の亡骸は「日限地蔵」として知られる安祥寺(東山区)に葬られた。墓碑を建立する
 ことができなかったというので、満足な葬儀も行うこともできなかったに違いない。
・その年の六月、雲浜は大和国高田の村島内蔵進の長女・千代子を後妻に迎えた。信の死
 後、わずか三ヵ月のことだったが、尊攘運動を続けるためにも、竹と繁太郎という幼子
 のためにも、それは仕方のないことだった。
・事実、雲浜は信を愛していた。雲浜は常にたずさえていた手箱に信の位牌を入れ、片時
 も忘れないようにしていた。
・その後も雲浜は尊攘運動を続けていたが、幕府に危険人物と見なされ、安政の大獄によ
 って捕らえられ、江戸で獄死した。
  
洋妾・斎藤きち
・「斎藤きち」というよりも「唐人お吉」といえば、その名前は知られているはずだ。
 きちは、幕府の要請によってアメリカ総領事のダウンゼント・ハリスの妾となり、ハリ
 スの帰国後は「洋妾」と後ろ指を指され、蔑まされながら生き続け、ついには寂しく生
 涯を閉じたという、”ストーリー”の持ち主である。
・安政元年(1954)、幕府の要請に従って再来航したペリーは、日米和親条約の締結
 に成功し、これによってアメリカは総領事を日本に駐在させることになる。そのために
 本国より派遣されたのがタウンゼント・ハリスである。
・きちは天保十二年(1841)に下田の坂下町に生まれ、父親を船大工の市兵衛、母親
 をきわといった。もとという姉と、惣五郎という弟がいたことも確認されている。
・安政三年に来日したハリスは下田に赴任すると、侍妾を求めたが、素人女はさておき、
 醜業を表看板とする遊女さえ、紅毛人(西洋人)の枕席に侍ることを大いなる恥辱と考
 える世の中で、とうていハリスの要求するような女は手に入らなかった。窮余の一策と
 してきちを説得し、その妾としたのだという。
・きちの年齢は、安政三年時には十六歳である。
・きちはハリスの妾となったとされているだが、実はハリス側が要求したのは「妾」では
 なく、純然たる「看護人」だった。
 安政三年の来日以来、ハリスは病を抱えていた。異国での生活と、遅々として進まない
 交渉がストレスとなり、胃病を患ってしまったのだ。
 多量の吐血があり、食事療法を行っているが、体重の減少は治まらなかった。
・「看護婦」という概念のなかった奉行所では、男の看護人を用意しようとしたが、通訳
 のヒュースケンは女でなければならないと言い張ったことが、下田奉行が幕府に提出し
 た報告書に記されている。当時、数え年で二十六歳のヒュースケンにとって、病気とは
 無関係に”看護婦”が必要だったのだ。
・奉行所では「女の看護人」の意味を曲解した。少なくとも、ハリスにはヒュースケンの
 望むような看護婦は必要なかったのだが、彼らは妾を求めているものと解釈したのだ。
 その結果、選ばれた一人が芸妓の「きち」だった。
・船大工の父親が四十歳ほどで病に倒れ、ほどなく死亡した。幼子をかかえた母親は日々
 の生活にも苦しんだが、きちが七歳となったときに、せんという老婆の養女となったと
 いう。
・十四歳の安政元年にきちは芸妓となったが、翌年にはせんが死亡したため実家に帰り、
 芸妓として一家を支えていた。
 ただし、一流の芸妓というわけではなく、船頭を相手の酌婦だったようで、彼らの衣服
 の洗濯も生業としていたらしい。
・そして、十七歳となった安政四年に、”看護人”の話を持ち掛けられ、承諾したのである。
 芸妓が対象とされていたことから、看護人の目的が何であるか、十分に承知してのこと
 だった。
・きちが御用所の役人たちにともなわれ、駕籠で玉泉寺へ向かった。役人はきちに、ぜひ
 今晩は泊まるようにと論し、玉泉寺を引き取ったという。
・この日から「唐人お吉」の生活が始まるはずだったが、きちはわずか三晩でハリスのも
 とを追われてしまう。
・母親と惣五郎の連名による嘆願書が記録されており、きちの体に腫れ物ができていたた
 め、自宅で治療するようにと玉泉寺から帰されていたことが述べられている。    
・ハリスは、長崎から香港へ旅行すると江戸へ入って、麻布の善福寺を仮の公使館とした。
 その後、文久二年(1862)に帰国の途につくまで、二度と下田の地を踏むことはな
 かった。
・腫れ物を嫌って解雇した以上、ハリスはきちに対する愛情は生まれなかったのだろう。
 果たして、ハリスがきちを求めたことがあるのかさえも疑わしい。
・きちはふたたび酌婦に戻ったという。
・明治元年(1868)に横浜に出たとき、きちは許嫁の鶴松と再会して結婚し、多少の
 蓄財ができたため、二人で下田の大工町で暮らすようになった。 
・鶴松との離別の理由は、きちの大酒にあったという。父親の市兵衛が大酒飲みで、それ
 を受け継いだのか、きちも酒は離せなかったらしい。
・四十七歳を迎えた明治二十年、きちは一月の雪の夜に発病し、半身不随の身となってし
 まう。最後に残っていた養母のせんから譲られた家を売って、下田の北にある吉奈温泉
 で湯治生活を送り、杖さえあれば歩けるようになったが、もはや手許に残るものはなく
 なっていた。知人の好意に頼って生活するだけの、いわば「生ける屍」状態だったとい
 う。これが、きちの晩年である。
・きちがハリスのもとにいたのは、「三晩」でしかなく、その後、きちに代ってさよが雇
 われた。また、ふくはヒュースケンの愛人となって、江戸にも連れて行かれるほど愛さ
 れた。きち・ふく・さよ、と、実は「唐人お吉」は三人いたのである。
・横浜に出たきちが、そのまま下田に帰らずにいれば、あるいは下田で人の妻となり、
 ひっそりと暮らしていれば、その記憶は次第に薄れ、やがては過去の人となったとだろ
 う。 
・ところが、きちはハリスに解雇されてから芸妓に戻り、下田で髪結いの店を出し、貸座
 敷業を営んだ。女髪結いといえば、その色香も客寄せの方便となり、貸座敷は脂粉が漂
 う仕事である。どちらも、一般人から見れば”裏”の商売だ。
 商売が成功すれば、彼らはその資金を洋妾として稼いだものだと思い、失敗すれば、そ
 れをまた洋妾と結びつけたに違いない。どちらであっても、陰口や中傷は絶えなかった
 ろう。
・明治二十三年(1890)五月、五十歳のきちは、下田市内の稲生沢川に身を投じて死
 んだ。
・きちは三人分の「唐人お吉」を背負い、人生に疲れ果てて死んでいったのである。
・現在、きちが死亡した門栗ヶ淵は「お吉ヶ淵」と呼ばれ、毎年の命日は「お吉まつり」
 が開催されている。
・なお、十九歳時のきちの写真とされているものがある。しかしその写真は「明治中期」
 の撮影とされる。この撮影時期が事実であれば、当然、きちの写真ではなかったことに
 なる。 

関鉄之介の妾・瀧本
関鉄之介は水戸藩士・関新兵衛の長男として文政七年(1824)に水戸に生まれた。
 小事にこだわらない性格で、書史を読み、詞藻に優れていたという。
・家督相続後のことと思われるが、鉄之介はしばしば江戸へ出るうち、よく同志の士と新
 吉原の谷本楼で遊んだという。
 この谷本楼で出会ったのが瀧本だった。
・瀧本は伊予大洲藩士の娘として天保九年(1838)に生まれ、本名を伊能といった。
 生家が零落したため遊女として吉原に売られたのだという。安政元年には十七歳になっ
 ていた。
・鉄之介はたびたび瀧本のもとへ通い、瀧本も鉄之介を待ちわびていたが、いつのことか
 谷本屋から姿を消してしまう。何者かが落籍してしまったのである。
・鉄之介は正式には妻帯していなかったが、矢矧右衛門の娘・フサを妾とし、安政四年に
 は誠一郎という長男が生まれている。
 瀧本の出会いと落籍は、この間にあったのだろう。
・安政五年五月、鉄之介は藩より蝦夷地開拓のための視察を命じられ、渡航のために越後
 の水原へ赴き、滞留が長引いていた九月になって、国許からの報知で、前藩主・徳川斉
 昭が幕府より「急度慎」を命じられたことを知る。
 急度慎とは親族・家臣との面会や文通まで禁じられる、大名にとって切腹にも次ぐ重罰
 である。  
・斉昭の処罰を知った鉄之介は蝦夷地渡航を取り止め、水原を発して江戸へ急行した。
 そこで朝廷が「戊午の密勅」を江戸藩に下したことを知る。
・本来は幕府のみに下されるべき勅書が、二日早く江戸藩に下されたことの意味は大きい。
 しかも、水戸藩への勅書には、これを諸藩へ廻達せよとの副書が添えられていた。朝廷
 は幕府に不信感を抱き、幕府を蔑ろにしたのだ。
・この在府中に鉄之介は瀧本と再会していた。瀧本を落籍した人物はそれから間もなく死
 亡し、独り身になった瀧本は鉄之介と再会すると、その妾になったのである。
・幕府は水戸藩への弾圧を開始した。
・急進派内部には反対もあったが、強い危機感を抱く彼らにとって、井伊直弼の存在は水
 戸藩の存亡にかかわるものとなっていた。 
・瀧本は鉄之介をはじめ、家に出入りする者たちが髷を町人風に直し、着流しで刀も差さ
 ずにいることに不穏な気配を感じていた。
 瀧本は酌をしながら「一体どうしたのです。何事が大変でも起こったんですか」と聞く
 が、もちろん正直な答えが返ってくるはずはない。
・彼らは桜田門へ続く道の両側に控え、井伊直弼の駕籠が来るのを待った。   
 その先頭を遮るように森五六郎が進み出て、咎めようとする先供の徒士に斬りつける。
 その直後、襲撃開始を合図する短銃の音が響き、乱闘が繰り広げられた。
 その間に有村次左衛門と広岡子之次郎が駕籠に刀を突き入れたが、合図の短銃の弾丸が
 下半身に命中し、すでに井伊直弼は致命傷ともいうべき深手を負っていた。これを有村
 が駕籠から引きずり出し、首級をあげる。わずか数分の出来事だったという。
・その後、鉄之介は近畿・四国方面に足を運んで身を隠したが、安住の地はなく、文久元
 年には水戸藩領へ戻り、袋田に隠れ住んだ。しかしそこへも危機が迫り、ついには越後
 へと逃れたが、湯沢温泉で捕らえられて、水戸で投獄されることになる。
・一方、瀧本は鉄之介が江戸を去ってから間もなく幕吏に捕らえられ、伝馬町の牢に投じ
 られていた。  
 牢では鉄之介の行方を尋問されたが、瀧本は何も知らない。鉄之介が口にしたとも思え
 ない。しかし、牢役人はそれを信じることなく、瀧本は笞打ちに次いで石抱きという拷
 問にかけられた。
・石抱きとは、十露盤板という三角形に切った木を並べた台に正座させられ、太股の上に
 重さが約45キロもある石を乗せるもので、脛は十露盤板が食い込み、骨も折れそうな
 苦痛に襲われる。
・拷問は殺害の手段ではなく、あくまでも苦痛を与え、それが反覆されることの恐怖心に
 よって絶望感を与え、自白に追い込む手段だ。殺してしまう拷問は失敗である。
・瀧本は、太股の乗せられた石が不安定だったため胸に落ち、それに圧迫されて死亡した
 のだろう。そうでなければ、口から血を吐くはずがない。拷問死というよりも、拷問中
 の事故死だったのではないだろうか。
 いずれにしても瀧本は死んだ。
・鉄之介は獄中で瀧本の悲惨な死を知った。
・瀧本の遺体は縁のある大洲藩へ引き渡され、小塚原の回向院に埋葬された。
・水戸の赤沼獄にあった鉄之介の身柄は、文久二年になって江戸へ送られ、小伝馬町の牢
 で斬首となった。

児島強介の養母・手塚増子
・万延元年(1860)三月の桜田門外の変に続き、文久二年一月に第二の要人襲撃事件
 が起こる。坂下門外の変である。
・桜田門外の変後、久世広周とともに老中となった安藤信正は、井伊直弼の開国路線を継
 承し、朝廷との関係を修復し公武合体を推進するため、仁孝天皇の第八皇女・和宮の第
 十四代将軍・徳川家茂への降嫁を決定する。政略結婚である。
・こうした幕府の態度に反幕・尊皇攘夷派は強く反発し、水戸藩ではその中心人物である
 老中・安藤信正の暗殺計画が持ち上がっていた。
・儒学者で宇都宮藩士の大橋訥庵は、和宮降嫁に反対し、外国人襲撃という攘夷を計画し
 ていた。幕府を混乱させるために外国人の襲撃を計画しており、これに水戸藩有志の協
 力を求めた。ところが、水戸藩は訥庵と提携してお安藤信正暗殺を提案するのだった。
 このとき訥庵が送った使者が児島強介である。
・強介は天保八年(1837)生まれで、この年に二十五歳となっていた。
 強介は下野国宇都宮の秤商・児島四郎左衛門の次男として生まれたが、商人となること
 を嫌い、江戸に出て儒者・山本某を師として学んでいた。
・やがて、強介は求められて、富商・手塚藤兵衛の長女で三歳年下のみつ子(のちに操、
 操子)の婿となった。万延元年のことだったようだ。
・藤兵衛の妻を増子といい、この増子が強介を女婿とすることを望んだのである。
 増子は強介同様に遊戯よりも読書を好んだが、母親の再婚相手が学問に理解がないため、
 家人の就寝後に本を読み、手習いを続け、十歳のころには百人一首を暗誦するほどにな
 り、和歌の道に進むことを志した。
・藤兵衛のもとに嫁いでからは歌道のほか、国学や漢籍も独学で学ぶかたわら、家政も疎
 かにせず、来客が絶えることはなく、増子は丁寧に彼らに対応していた。また、親戚や
 知人に困難があれば手を差し伸べ、貧困に苦しむ人があれば家計を顧みずに助けたとい
 う。    
・増子は尊攘思想に理解を深めており、強介の異常と思われる一面を承知のうえで、長女・
 みつ子の婿にと望んだのだった。
・養子となることについて、強介は手塚の姓を名乗ることを拒んだが、増子はそれを許容
 した。家業をにつくことも求めなかった。家業は次女に婿をとって継がせればいい。
 増子は、尊攘家として学び、尊攘家として行動することのみを求めた。
 その増子の態度に、強介は養子となることを承諾したのだった。
・年が明けた文久二年一月、訥庵は幕府によって捕縛された。
 襲撃計画が漏れたのではない。
 一橋慶喜を擁して日光山に拠り、諸藩の攘夷の先鋒となって幕政を改革すべきという計
 画を立てた宇都宮藩士が、訥庵に慶喜への周旋を懇願した。
 訥庵はかつての門人であり、慶喜に近侍する一橋家の山本繁三郎に計画を伝え、慶喜へ
 の取次を依頼した。  
 ところが、計画を聞いた山本は老中・久世広周に自訴したため、訥庵は町奉行所に連行
 されてしまったのである。 
・一月十五日、実行者たちは坂下門外に安藤信正の登城と待ち構えた。そこに強介の姿は
 なかった。強介は、前年からの病が再発してしまい、参加は断念せざるをえなかったの
 だ。
・そのため宇都宮側からの刺客は河野顕三のみであり、あとは水戸側の四人と、越後出身
 の河本杜太郎というわずか六人が、桜田門外の変によって警戒をより厳重にした、安藤
 信正の一行に斬り込むのである。
・まず直訴を装って河本杜太郎が飛び出し、駕籠を狙って短銃を撃った。これを合図に五
 人が安藤の乗る駕籠を目がけて突進する。
 平山兵介の刀が駕籠を貫き、その切っ先が背中をわずかに傷つけたものの、駕籠を降り
 た安藤は徒歩で坂下門内に入り、激闘が繰り広げられた現場には、実行者六人の遺体が
 横たわっていた。 
・強介が事件の関係者として宇都宮の自宅で捕縛されたのは、一月二十八日のことだった。
 縄を打たれた強介は石橋宿へ送られ、その後伝馬町の牢に投じられた。
・その報を得た増子は娘のみつ子とともに江戸へ赴き、面会は叶わなかったものの、差し
 入れを届け、文通によって消息を知ることができた。
・捕縛から五カ月後、強介は獄中で息を引き取った。
 増子とみつ子は交代で江戸にとどまっていたようで、みつ子がその訃報を聞いた。
・その後、強介の遺骨は分骨され、手塚家の墓地のある清巌寺(宇都宮)に墓碑が建立さ
 れた。墓碑の側面に刻まれた名前は「手塚強介」である。
 これによって初めて、強介はみつ子だけの夫になったのだろう。
・強介とともに投獄されていた訥庵は、七月八日に出牢して江戸の宇都宮藩邸に預けられ
 たが、十二日に病死した。毒殺であったともされる。
・奉行所は強介の養父・藤兵衛を呼び出した。どのような用件であったかは不明だが、増
 子は夫に代って出府し、何らかの尋問を受けたとされる。無事に役目を終えて宿に帰る
 と増子は倒れ、そのまま息を引き取った。
・コレラが文久二年時に江戸で流行して、多くの人々が死亡した。このコレラに増子も罹
 患していたのだ。 
・増子が夫に代って江戸へ出たのは、回向院に眠る強介のもとを訪れるつもりがあったた
 めと思われる。おそらく数日前に出府し、そこで罹患したのだ。そして、五日以内とい
 う潜伏時を経て、最後の役目を果たした瞬間に発症し、生きる執念もないまま息子のも
 とへと旅立ったのだろう・四十九歳だった。
・残されたみつ子は、三年後の慶応元年(1865)に二十八歳で病死した。
   
清河八郎の妻・蓮
・天保元年(1830)十月、庄内藩田川郡清川村で醸酒・小売業を営む斎藤治兵衛と亀
 代とのあいだに長男が誕生し、元司と名付けられた。これが、のちの清河八郎である。
・斎藤家は大庄屋格で家業も安定しており、暮らしには余裕があって財産もあった。
 八郎は幼い頃より学問に親しみ、剣術も学んで上達したが、両親が望むように家業を継
 ぐつもりはなく、十八歳を迎えた弘化四年(1847)五月に家出をして江戸へ出た。
・江戸へ出た八郎は、安積良斎の推挙により昌平坂学問所の書生寮に入寮し、その名簿に
 は清川八郎の名前で記録されている。  
・八郎が義兄弟の契りを結んだ安積五郎という人物がいた。
 八郎は安積を庄内の名所に案内し、また悪所でも遊んだ。八郎が初めて遊里に足を運ん
 だのは十四歳のときで、十七歳のときには遊女を酒田から呼んだこともあった。よく学
 んではいたが、一方ではよく遊んでもいたのである。
・八郎は安積とともに城下八間町の遊里にある鰻屋に登楼した。その日は遊女をあげて遊
 び、翌日には彼女たちをともなって湯田川温泉へ向かい、羽目をはずして遊んだ。
 なかでも、安積が節分の豆まきに見立てて銭を撒くと、遊女たちは争ってそれを拾って
 大騒ぎとなった。
 しかし、一人の遊女だけはその騒ぎに加わらず、膝に手を置いて静かに見ていた。高代
 という遊女である。
・その高代に八郎は惹かれた。その姿を、蔓も枝もなく水中に高く清らかに咲く、蓮の花
 に重ね合わせたのである。 
・安政三年、八郎は帰郷した。江戸が落ち着くまでは郷里で著述に専念するつもりだった。
 帰宅すると、両親は八郎をつなぎとめておくために結婚話を進めた。その結果、庄内藩
 の支藩である松山藩右筆の娘・政が、「足入れ婚」のかたちで一ヵ月ほど八郎の世話を
 していたが、八郎が江戸での開塾の意思が固いことを知ると、親許に引き取られていっ
 た。庄内と江戸はあまりにも遠く、結婚がそのまま娘との生き別れとなってしまうこと
 を恐れたのである。  
・八郎は高代のことを思った。
 しかし、高代は遊女だ。八郎の斎藤家は名家であり、遊女を長男の妻として認めるはず
 がない。それでも、八郎は思いを断ち切れなかった。
・高代の父親は出羽国田川郡熊出村の医師・菅原善右衛門といい、高代は一男五女の末子
 だった。 
・一般に、実家の菅原家は貧しく、口減らしのため高代は十歳で遠縁の家の養女に出され
 たが、その養家も貧しく、十七歳で遊里に売られたとされている。
 しかし、菅原家は熊出村では裕福な部類の家ともされ、当時としては、娘は結婚するか
 養女となるのが普通だった。菅原家には家督を継ぐ長男もおり、養女に出されるのも不
 思議ではない。もっとも、養家が貧困にあって娘の不幸が目に見えていれば、養女に出
 すはずもない。おそらく、養家は何らかの理由によって突然、没落してしまったのだろ
 う。
・養家が困窮していれば、高代が文学を学ぶことも許されず、まして和歌を詠むことなど
 できるはずはない。養家でもそれなりの教養を身につけていたことは明らかである。
・安政三年九月、仙台糠倉町に移った八郎は高代を呼び寄せた。すべての根回しは済ませ
 てあり、しばらくして人に送られてきた高代との新生活が始まる。
・以後、高代は蓮と名乗った。
・蓮と八郎の仙台での生活は翌年まで続けられ、四月に江戸に出ると、八月には駿河台淡
 路坂に二度目の開塾を行う。
・安政六年、八郎は帰国がてら剣術修業の旅に出た。その間に、隣家からの出火により、
 淡路坂の塾は門と建物の一部を除いて焼失してしまった。焼け跡は安積五郎が整理し、
 蓮は元庄内藩の帳場係で、脱藩して江戸に出ていた水野行蔵という人物に預けられた。
 蓮はこの水野行蔵の名前を一生、忘れることはなかった。
・父親と善後策を講じた八郎は江戸に戻ると、十月には神田御玉ヶ池に新たな熟を開いた。
 経済・文章・書のほかに剣術の指南も謳った看板が掲げられている。
・学問と剣術とにすべてを捧げたような八郎は、幕府に対する不安は抱いていたようだが、
 政治的な活動はしていなかった。
 その八郎が変化を見せたのは、桜田門外の変にあった。
・幕府は数年のうちに内部崩壊をきたすと思われた。しかし、それを待つのではなく、そ
 の機会をみずから生み出せば崩壊は早まるはずだった。    
・同志は集まり、彼らはそのグループを「虎尾の会」と名付けることとなる。
・彼らはその年の十二月、赤羽橋接遇所の付近で米国公使通弁官・ヒュースケンを暗殺し
 た。   
・襲ったのは薩摩の浪士七人とされるが、幕府は犯人を捕らえることはできず、ヒュース
 ケンの母親に慰謝料として一万ドルを支払いこととなる。
・次いで計画されたのは、横浜の外国人居留地の焼き打ちである。この計画のため、連日
 のように八郎の塾で談合を重ねた。
・両国で開かれた書画会の帰り、八郎は無礼を働いた人物を殺害してしまう。
 この人物は町奉行所の関係者だった。実は、八郎ら八人に対して幕府より奉行所へ捕縛
 命令がだされていた。
 既に幕府は彼らの不穏な動きに気付き、危険分子と見なしていたのである。そのため
 「無礼の者」を装って、彼らを捕縛するきっかけをつかもうとしていたのだった。
・翌日には八郎ら四人は江戸から姿を消した。
 蓮は以前の火災のときのように水野行蔵のもとへ預けられている。
・二十数人の捕り方が塾を襲い、蓮も捕らえられた。
・牢内では飲食・進退・座臥・夜番のほかにも細々として牢法があり、金子のあるなし、
 その額によって階級が定められるため、少しでも多い者は露命を凌ぐことができるが、
 牢内の環境が悪いため、十人が入牢すれば、四、五年のうちに七、八年は死亡してしま
 うとのことである。
・これが蓮を待ち受けていた境遇である。蓮は「蔓」を持っていなかった。そのようなも
 のが必要であることも知らなかった。
・取り調べでは八郎の行方を問われたが、知らないものは知らない。
 蓮はいわば、八郎の身代わりである。八郎さえ捕らえられれば、蓮の拘留は必要ない。
 町預けにでもして、いずれ釈放すればいいのだ。しかし、八郎が捕らえられないかぎり
 蓮が自由の身となることはないのだ。
・過酷な揚屋生活だった。ともに捕らえらえた北有馬は九月に、笠井は十月に、西川は
 十二月に、それぞれ牢死した。蓮の体も蝕まれつつあった。  
・文久二年の四月以降、全国的に麻疹が流行し、牢内の蓮も罹患した。疲弊しきった体に、
 麻疹による発熱が襲い、さらに体力を奪われてしまう。
 さすがに、このまま死なせるのは不憫と思い、幕府は庄内藩に回復まで蓮を預かるよう
 に命じた。
・蓮は庄内藩差し向けの駕籠に乗せられて下谷の藩邸に運ばれ、邸内の獄に収容されたが、
 翌日の午前六時に息を引き取った。あまりの急死に、毒殺との噂が流れたほどだ。
・八郎が蓮の死を知ったのは、仙台北方の川渡温泉より実家に使いを出したところ、父親
 に託された返信によって蓮の最期が報じられたのである。
・八郎は大赦によって罪を許され、その後、幕府を利用して浪士組を結成させて上京する
 が、帰府後に横浜外国人居留地の襲撃計画が発覚し、文久三年四月に麻布一ノ橋で暗殺
 される。  
・慶応二年(1866)に、小石川の伝通院の墓地に八郎の墓碑と、その隣に蓮の墓碑が
 建立された。
・八郎の郷里にある斎藤家菩提寺の歓喜寺にある墓碑は、明治四年に弟の斎藤熊三郎が伝
 通院の頭骨を掘り出して改葬したものである。
  
岩亀楼の遊女・喜遊
横浜港崎遊郭は安政六年(1859)に始まった。現在の横浜公園がその跡地である。
 遊廓は、遊女屋が十五軒、遊女は三百人を数えたという。
 そのうちの一軒に岩亀楼があった。
・幕府は外国人専用の遊女を岩亀楼に託したため、楼内は日本人用と外国人用との専用建
 物があり、外国人用の遊女は「ラシャメン」と呼ばれ、日本人の客を相手にすることは
 なかった。 
・その岩亀楼の遊女とされたのが喜遊である。しかし、喜遊についてはすべてが謎に包ま
 れている。
・喜遊の父親については、職業は同じ江戸の町医者だが、名前を箕作周庵とするものもあ
 れば、間宮姓の旗本とするものもある。
・喜遊の家は貧しく、負債を抱えていたため、嘉永六年(1853)に八歳になった喜遊
 を吉原の妓楼・甲子屋へ売って借財を整理したが、その翌年には両親とも病死してしま
 った。 
・喜遊は甲子屋を親とも主人とも思って育ち、主人も諸芸を身につけさせ、十五歳となっ
 た万延元年(1860)に源氏名で初めて座敷へ出した。
・喜遊は貧しくとも医師の娘だったため行儀も備わり、義気に富んでいたので甲子屋に尽
 くし、客を粗略に扱うこともなかった。
 ところが甲子屋の内情は厳しく、品川の岩槻屋佐吉の元へ売られたが、安政六年に岩亀
 楼が竣工し、喜遊は岩槻屋から岩亀楼へと移される。
・このとき喜遊は、岩亀楼に外国人が出入りし、彼らと床をともにするようになることを
 嫌って拒んだ。しかし、佐吉が外国人の相手をさせることはしないと固く約束したため、
 嫌々ながら岩亀楼で働くこととなった。喜遊と名乗ったのは、このときのことである。
・美人の喜遊は大評判となって客の絶える間もなく、肩を並べる遊女はいないほどだった。
・文久二年(1862)になると、あるアメリカ人の商人が岩亀楼に姿を見せた。名前を
 「伊留宇須」としているので、イルウスあるいはイルース、またはイリュースと読むこ
 とができる。   
・喜遊に惹かれたイルウスは頻繁に岩亀楼へ足を運び、大金を使って喜遊を座敷へ呼ぼう
 とした。
 佐吉は喜遊との約束はあったものの、上客を逃さないように何とか申し含めようとした
 が、喜遊は承知しなかった。
・佐吉は横浜では外国人に憎まれては商売ができず、いずれ閉店に追い込まれてしまい、
 イルウスには喜遊は病気だと偽っていれば、そのうち別の遊女に目が移るかと思ったが、
 そのつもりはまったくないのだと喜遊に明かした。
・そこで佐吉は、喜遊の仲のいい遊女に褒美と引き替えに説得を依頼し、ついに喜遊は佐
 吉のもとへおもむいた。そして、外国人の客をとることは固く拒んできたが、それでは
 岩亀楼が立ち行かなくなると聞き、イルウスの座敷に出ることを承知するのだった。
・佐吉は喜遊を拝むほどに喜び、イルウスにこれを報じた。イルウスはその夜、いつもよ
 り早く登楼して喜遊を待ったが、いつまで経っても喜遊は出てこない。あまりに遅いの
 で店の者が喜遊の部屋を訪れると、部屋には屏風が立てられ、物音もしない。そこで屏
 風の内側をのぞくと、喜遊は懐剣で喉を貫き、血に染まって倒れていたのである。
・遺書の文末には
 「かかる卑しき浮かれ女さえ、日の本の志はかくのごとくぞと知らしめ給わるべく候」
 とある。喜遊ならではの”攘夷”というところだろう。
・嘉永六年に八歳とされる喜遊の誕生年は弘化三年であり、十七歳を迎えた文久二年にみ
 ずからの命を名が絶ったことになる。   
・喜遊の存在そのものは疑われており、坂下門外の変への関与で捕縛された宇都宮の儒者・
 大橋訥庵が創り出したもの、あるいはその門人・椋木京太郎によるものともされている。
 遊女でさえこうした心意気を持っているのだと、攘夷の志士たちの士気を煽ったという
 のである。

井伊直弼の妾・村山可寿江
・村山可寿江は「村山たか」という名前でも知られているが、この「たか」は前名である。
・可寿江は文化七年(1810)、近江国彦根に近い犬上郡多賀村にある多賀神社般若院
 の僧侶と、彦根の芸妓のあいだに生まれたという。
 その後、多賀神社の神官あるいは寺侍の村山氏に預けられ、幼年期を過ごしたとされる。
・十九歳の文政十一年(1828)のころに第十四代彦根藩主・井伊直亮の侍妾となるが、
 二十歳で暇を出され、京都で芸妓となった。そのときの源氏名が可寿江だったというが、
 判然としていない。
・可寿江は評判の芸妓だったが、金閣寺の僧侶の子供を身籠もると寺侍・ただ源左衛門に
 譲り渡されたが、その子供を産むと離縁された。子供は常太郎と名付けられたが、これ
 がのちの多田帯刀である。
・帯刀を抱えた可寿江は天保十年(1839)に多賀神社へ戻ったが、このとき三十歳に
 なっていた。 
・ほどなく、可寿江は井伊直弼のもとへ出入りするようになる。
・直弼は第十三代彦根藩・井伊直中の十四男で、当時は二十五歳だった。
・井伊家では嫡男以外は他家や家臣の養子となるのが通例であり、直弼の兄たちはいずれ
 も家を出ていたが、直弼は父・直中が死亡した十七歳の天保二年より、三百俵の宛行扶
 持を与えられ、「北の御座敷」に暮らしていた。   
 屋敷とはいっても質素なもので、部屋数も少なく、中級の藩士の家と同規模だった。
・この屋敷を直弼は「埋木舎」と名付けた。
 埋もれ木とは、世間から見捨てられ、顧みる者もない境遇をたとえた言葉で、まさに直
 弼の心境そのものだった。
 それでも直弼は国学や儒学、和歌や書のほか、武芸一般を一心に学んでいた。そこへ可
 寿江が現われたのである。いつしか直弼とは深い仲となった。
・しかし、二年ほどで別れ、可寿江はふたたび多賀神社へ戻った。直弼が側室を迎えるこ
 とになったためのようだ。 
 正式な側室がいるのであれば、可寿江のような存在はあってはならない。まして、可寿
 江は直亮の侍妾だった。
・可寿江が多賀神社に参詣した長野主膳と出会ったのは、その年のことのようだ。
 長野主膳は、年齢は可寿江より五歳年下で、直弼と同じ文化十二年の生まれである。
 どこで、誰に学んだものか、和歌・国学に関する知識は一流のものだった。
・長沢村の福田寺で、可寿江は母子で暮らしていた。福田寺の当時の住職・本寛は直弼の
 従兄弟で、二人には親交があった。
 福田寺での居住には直弼のはからいがあったものと思われ、そうであれば直弼に可寿江
 はには、まだ何らかの接点が残されていたことになる。
・弘化三年、藩主・直亮の養嗣子が死亡し、直弼は江戸へ出て直亮の世子となった。
 それから四年後の嘉永三年(1850)に今度は直亮が死亡し、直弼は三十六歳で彦根
 藩主となる。 
・直弼は安政五年四月に大老となると、将軍・徳川家定の後継問題では、みずからが推す
 紀州藩主・徳川家茂を指名し、六月には勅許が得られないまま日米修好通商条約を調印
 すると、八月には水戸藩へ下された「戊午の蜜勅」を機に安政の大獄を行った。
・このとき京都で暗躍していたのが、長野主膳や九条家の家士・島田左近らである。
 これに可寿江も加わっていたとされるのだが、女の身でどれほどのことができただろう
 か。探索などできたとは思えないので、あるいは主膳と島田らのあいだで交わされる手
 紙を運ぶなどしたのだろうか。
桜田門外の変によって直弼は殺害され、弾圧されていた反幕攘夷派が復活する。
 京都では「天誅」という名の個人テロが続発することとなる。天誅の最初の犠牲者は、
 島田左近だった。安政の大獄への復讐である。
 当然、主膳も天誅の対象とされたはずだが、命を奪ったのは彦根藩だった。
・そして、彼らが次の標的にしたのが可寿江だった。可寿江を襲ったのは土佐と長州の藩
 士といわれる。
 これまでの天誅とは違い、可寿江は殺害されることはなかった。三条河原の橋桁に縛り
 つけ、そのまま放置するという「生き晒し」を行ったのである。
・可寿江は翌日の正午前まで生き晒しとなった。その間、空腹もあったろうし、夜が明け
 てからは人々の好奇の目に晒され、排泄も堪えきれなかったかもしれない。まさに生き
 恥を晒したのだ。 
 やがて奉行所の役人によって解放されると、可寿江は駕籠で西町奉行所に運ばれ、取り
 調べのために入牢を命じられている。
・可寿江の入牢中に、息子の帯刀が天誅の刃に襲われた。
 どのように言いくるめられたのか、その日、帯刀は家主と三条大橋までやってくると、
 半信半疑で待っていた男たちに蹴上まで連行され、首を落とされた。
・可寿江は直弼を失い、最後の望みである帯刀をも奪われたのである。
 奉行所から方面された可寿江は尼僧に引き取られ、剃髪して妙寿尼と名乗り、京都市左
 京区の金福寺で晩年を過ごし、明治九年に死亡すると、金福寺に近い円光寺に埋葬され
 た。

芹沢鴨の妾・梅
・下村継次は水戸領芹沢村の郷士の三男として天保三年(1832)に誕生し、神官・下
 村家の養子となったのだが、同志とともに「玉造組」「文武館党」の一員として過激な
 攘夷運動を行ったことにより、文久元年三月に捕らえられて水戸藩の獄に投じられてい
 た。
・大赦によって出獄した下村が名乗った名前が「芹沢鴨」である。
・鴨は江戸へ出て同志とともに浪士組に加盟し、京都へ向かう。
・鴨たちは、京都守護職で会津藩主の松平容保の「預かり」という身分で滞京が認められ、
 壬生浪士組を自称する。これが新選組の前身である。
・壬生浪士組は京坂で隊士の募集を行い、鴨は近藤勇とともに局長の地位につき、五月に
 は総員三十数人、六月には五十数人という組織となった。
・このころと思われるが、鴨は太物問屋・菱屋から着物や小物を購入した。  
 買い物をしたが、鴨は代金を支払わない。当初は番頭が訪れて支払いを催促したが、あ
 まり強く請求して逆効果になることを恐れた菱屋では、主人の妾である梅を使って、鴨
 を懐柔して代金を支払わせようと考えた。
・この梅については、「二十二、三になるなかなかの別嬪」で、天保十三年(1842)
 か十四年の生まれということになっている。
 かつては島原の芸妓だったようだが、菱屋の主人・太兵衛が落籍し、妾としていた。
 垢ぬけて愛嬌がいいので、隊士たちは「女もあのくらい別嬪だと惚れたくなる」とささ
 やいていたという。
・そんな梅を、鴨は一度、二度と追い返していたが、あるとき八木家の母屋へ誘って、
 無理矢理に自分のものにしてしまった。当初は鴨を嫌っていた梅だが、いつしか惹かれ
 るようになり、ついには菱屋の目を盗んで鴨のもとへ通うようになったとされる。
 ただし、母屋といえば八木家の家族の住まいであり、源之丞の妻もいれば子供もいる。
 使用人の目もある。その一室で事に及んだだろうか。あるいは、離れ座敷でのことだっ
 たかもしれない。
・鴨には酒乱の気があり、短慮で乱暴だったと伝わる。
 六月に壬生浪士組が島原の角屋で集会を開いた際に、鴨は芸妓たちはいるものの、その
 席に角屋の仲居が一人もいないことに気づいた。立腹した鴨は帳場に並んでいた大酒樽
 の注ぎ口をたたき壊し、厨房の瀬戸物をことごとく粉微塵にしてしまった。
 八月には反幕攘夷派に献金しながら、自分たちの要求には応じない大和屋という生糸問
 屋を、隊士を率いて襲撃し、隊士たちに土蔵にある商売物の生糸類から家財道具に至る
 まで燃やしてしまった。
・数日後、朝廷は京都守護職の松平容保に善処を求めると、容保は近藤勇らを召して鴨の
 処分、つまり殺害を命じるのだった。
・近藤らは鴨のグループの乱暴や金策に手を焼いており、彼らを排除することに異論はな
 かった。  
・九月、壬生浪士組はふたたび島原の角屋で集会を開いた。会議が終わって宴会となった
 が、午後六時頃になると、鴨は同志の平山五郎・平間重助とともに席を立ち、雨の中を
 八木家へ戻った。
 近藤グループの土方歳三もこれに同行しており、彼らは八木家の母屋を借りて飲み直し
 た。平山と平間はそれぞれ島原の馴染みの芸妓を連れ、鴨には梅が待っていた。
 土方は彼らに酒を勧める。それが同行した目的なのだ。やがて酒に酔った鴨は梅と、平
 山は芸妓と同じ部屋に屏風を立てて布団に入り、平間も芸妓と別室に移った。
・激しい足音が響き、抜刀した数人の男が鴨たちの寝ている部屋に飛び込んだ。土方のほ
 か、沖田総司・山南敬助・原田左之助の四人よされる。
・平山と梅は即死、鴨は為三郎や母親がいる隣室まで逃れたが、そこで斬り殺された。
 平間は標的ではなく、襲われることはなかったが、そのまま京都を脱してしまう。
 梅の遺体は惨いものだった。梅は湯文字一枚の姿だったという。
・壬生浪士組では暗殺の事実を伏せたまま、翌々日に鴨と平山の葬儀と執り行ったが、梅
 の遺体を引き取るつもりはなかった。
 菱屋に掛け合ったが、鴨の妾となったので暇を与えたと、こちらにもそのつもりはない。
・梅の遺体は実家に引き取られていたのだが、埋葬された寺院については何も伝わってい
 ない。  
   
武田耕雲斎の妻・とき子
武田耕雲斎は享和三年(1803)に水戸藩士・跡部正続の子として生まれ、跡部家の
 宗家の跡部正房の養子となった。しかし、文化四年(1817)に家督を相続すると、
 戦国時代に主家に背いたとされる跡部氏を嫌い、武田氏に改姓した。
・弘化元年(1844)に徳川斉昭が幕府によって隠居・謹慎の処分を命じられると、雪
 寃のため無届けで江戸に出た罪により、翌年には致仕・謹慎を命じられ、このときより
 耕雲斎を名乗る。
・斉昭は万延元年((1860)に死亡するのだが、時期は不明ながら、生前、耕雲斎に
 後妻を迎えるよう命じていた。
 その後妻となるのが、斉昭の正室につかえていた人見又左衛門の義妹・延である。
 この延が改名して「とき子」と名乗った。正しくは「とき」であるが、一般にとき子と
 されているのでそれに倣うこととする。没年から逆算すると文化十四年の誕生となる。
・耕雲斎には七男四女があった。長男を彦右衛門、長女を千代子、次男を魁介、次女をの
 ぶ子、三男を本家の跡部家を継いだ小藤太、四男は夭逝し、五男を源五郎、三女をとく
 子、四女をよし子、六男を桃丸、七男を金吉といった。
 このうち長男から次女までの四人が笠井氏から嫁いだ先妻の子供で、三男は耕雲斎の側
 室・阿久津梅の子供、三女以下が後妻となったとき子の子供である。
・水戸藩の攘夷派には「激派」と「鎮派」があった。
 桜田門外の変や坂下門外の変を引き起こした激派は、文字どおり過激派であり、鎮派は
 攘夷を掲げるものの、過激な行動には懐疑的だった。
 耕雲斎は鎮派だったが、攘夷も鎖港も実行しない幕府に決断を迫るため、激派の藤田小
 四郎らは筑波山挙兵の準備を進めており、三月には町奉行・田丸稲之衛門を総帥とする
 六十人余人が筑波山に挙兵した。
 彼らは筑波勢あるいは筑波山勢と称されたが、「天狗党の乱」として知られている。
・この動きに対して斉昭を継いだ藩主・徳川慶篤は、耕雲斎をともなって江戸城に登営す
 ると、横浜港鎖港を断行すべきであることを具申し、これをもって藩内の沈静化をはか
 ったが、幕閣が受け入れることはなかった。
 耕雲斎は、藩内取締不行届として謹慎を命じられ江戸に帰ることとなる。
・執政の市川三左衛門は、「門閥派」と称される守旧派であり、反天狗党の藩校・弘道館
 の諸生(書生)を中心とした諸生党を結党し、幕府も水戸周辺諸藩に天狗党討伐を命じ
 たことから、諸生党・討伐軍と天狗党のあいだで激しい戦闘が繰り広げられることとな
 る。
・門閥派は鎮派の山国兵部・田丸稲之衛門らの家族を投獄し、屋敷を没収する。
 耕雲斎の家族、長男・彦右衛門の家族も例外ではなかった。
・そのころ耕雲斎は天狗党・大発勢とともに那珂湊にあり、彼らは戦闘を続けていた。
・松平頼徳は本来、天狗党鎮圧が任務だったのだが、諸生党と交戦したことを幕府に咎め
 られ、弁明のために藩士とともに江戸へ向かうと、その機会が与えられることもなく、
 切腹を命じられてしまう。
・那珂湊は追討軍の攻撃を受けて陥落し、耕雲斎と天狗党は大子村へと逃れた。   
 大子村での衆議によって、耕雲斎は総軍の総帥となった。
 松平頼徳も榊原新左衛門もいなくなり、かといって天狗党の田丸稲之衛門の身分は町奉
 行であって重みに欠ける。水戸藩元執政という耕雲斎こそ、押し立てるべき人物だった
 のである。
・その後、天狗党は、大子から下野・武蔵・上野・信濃・美濃の諸国を抜けて西上し、上
 野の下仁田で高崎藩兵と、信濃の和田峠で高島・松本両藩兵と戦い、そのまま中仙道を
 進んだが、美濃の揖斐からは近江国の通行を避けて北上した。越後の敦賀から京都を目
 指すつもりであった。
・徳川慶喜は朝廷に天狗党鎮圧のための出征を願い出ていた。
・耕雲斎は敦賀の加賀藩本営に通行の許可を願い出たが、正式に拒絶される。
・加賀藩は総攻撃を行う予定だったが、その前日に天狗党が降意を示したため戦闘は回避
 され、琵琶湖北岸の海津に滞陣する慶喜のもとに降伏状が届けられた。ここに天狗党の
 西上は終わりを告げた。 
 耕雲斎らは敦賀の三寺院に収容される。天狗党を預かった加賀藩の取り扱いは丁寧なも
 のだったが、年が明けた慶応元年(1865)に幕府が派遣した相良藩主で天狗党追討
 軍総括をつとめる田沼意尊が身柄を受取ると、それは一変した。
・彼らは窓が板で釘付けされた鰊蔵に五十人ほどずつ押し込まれ、筵を敷いた土間で就寝
 し、大小便は中央に置かれた一つの桶で済まさねばならなかった。
 耕雲斎ら三十人ほどを除いては全員に足枷がはめられ、食事は一度に握り飯一つと白湯
 が与えられるだけだった。
・早くも耕雲斎・彦右衛門・魁介父子のほか山国兵部・田丸稲之衛門・藤田小四郎ら幹部
 二十四人が処刑され、その後合計三百五十二人が斬首となった。
 しかも、耕雲斎・山国・田丸・藤田の首は塩漬けにして、江戸経由で水戸に送られてい
 る。彼らは水戸で晒された。
・とき子らは赤沼獄の揚屋に移された。これはとき子らの罪状を赤沼獄で申し渡すための
 措置と思われる。 
・赤沼獄に移された翌日、とき子は子供に断食をさせた。
 赤沼獄のとき子らは最期の日を迎えた。罪状書は「逆徒の妻たるにより」であった。
・桃丸と金吉にも罪状書が用意され、そこには耕雲斎の子供であることから、とき子と同
 じく斬首のうえ梟首との処分が記されていた。
・耕雲斎の四女・よし子と阿久津梅は、終身禁固を意味する永牢とされ、彦右衛門の妻・
 幾子の処分も永牢だったが、その三男で十二歳の三郎、四男で十歳の金四郎、五男で八
 歳の熊五郎は死罪となった。また、山国兵部と田丸稲之衛門の妻子も永牢の処分を受け
 ている。  
・斬首に際して、「夫の首を無理に抱かしめたる上」で首を落としたとされている。
 夫の首を抱かせるという行為は残酷な仕打ちのようでいて、実はそうではないように思
 われる。塩漬けにされた首とはいえ、再会など考えようもなかった夫が、自分のもとに
 帰ってきたのだ。死を前にして、それを抱くことができたのだ。残酷などというよりも、
 喜びが優るのではないだろうか。
・金吉はこのとき三歳になっていたが、満年齢では二歳であり、尋常ではない緊迫感に脅
 えており、とき子に抱きついて泣きだした。この様子に首切り役は躊躇したが、立会
 い人の町与力が「どれ己が料理してやる」と金吉を引ったくり自分の膝の下に押さえつ
 け、短刀にて刺殺したという。
・とき子の梟首の場所が「吉田村」とされており、母子三人は赤沼で斬首のうえ吉田で梟
 首されたようである。   

落合孫右衛門の妻・ハナ
・慶応三年(1867)十月、将軍・徳川慶喜は政権返上を朝廷に上奏した。翌日、朝廷
 は勅許し、ここに大政奉還が実現する。
・討幕路線を突き進んでいた薩摩藩士・西郷隆盛らは密勅降下の工作ばかりでなく、討幕
 戦の実現のための布石を打っていた。
・西郷は、三田の薩摩藩邸に浪士たちを集めさせると、彼らに強盗や放火という犯罪行為
 を働かせていたのである。
 彼らの目的は幕府を挑発して武力衝突を引き起こすことにあり、それを事実上の開戦と
 し、全面的な戦闘へと持ち込もうとしていたのである。
・庄内藩主・酒井忠篤に市中警備が命じられた。
 もともと、庄内藩は文久三年より市中警備の任にあったので、正しくは警備の強化を命
 じたことにある。
・京都で会津藩が新選組を配下にしていたように、庄内藩には新徴組が付属していた。
 新徴組の全身は、文久三年に清河八郎の策謀によって結成された浪士組である。
・庄内藩士と新徴組は近くに臨時の詰所を置いて薩摩藩邸を監視していたが、新徴組の一
 隊が夜間巡察を終えて詰所に戻ってきたところへ銃弾が撃ち込まれた。
 近くの薩摩藩邸の門前で射撃し、ただちに門内に逃げ込んだようで犯人を目撃すること
 はできなかった。 
・その夜は江戸城が放火されていた。
 その夜には庄内藩士の詰所にも銃撃があり、薩摩藩邸へ逃げ込む犯人の姿が目撃された。
 これによって市中の混乱をもたらしているのが、薩摩藩邸に集まる浪士らであることが
 確定し、幕閣は浪士の捕縛を命じた。
・浪士引き渡しの交渉は不調に終わり、庄内藩の大砲の音が響いた。
 間もなく薩摩藩邸は燃え上がり、芝の町々にも火の手が広がった。
・当時、藩邸内にいた二百人ほどの浪士は、正面からの攻撃に対して裏門からの逃走を試
 みた。   
 その結果、裏門口が激戦の場となり、警戒していた上山藩に八人、鯖江藩に三人の犠牲
 者が出たが、正面方面の庄内藩の犠牲者はわずか一人にすぎなかった。
・対する薩摩藩邸側では、庄内藩が討ち取り十八人捕縛七十五人、出羽松山藩は討ち取り
 九人捕縛十六人、上山藩は討ち取り十二人と記録している。
 薩摩藩士と浪士を合わせて三十九人が殺害されたことになり、捕縛者については五十五
 人とされた。
・このうち薩摩藩の三十一人の墓碑が大円寺(杉並区)に建立されている。 
 その墓域に、「落合孫右衛門妻墓」と刻まれた墓碑がある。落合孫右衛門の妻・ハナの
 ものだ。
・落合孫右衛門は薩摩藩の表小姓をつとめた人物で、焼き討ち事件で戦死したとされてい
 るが、同時に妻のハナも戦死したのだという。夫婦ともに享年は不明である。
・硝煙の中を喚声をあげなだれうって突入する幕兵めがけて、落合ハナは白鉢巻に襷姿で
 刀を取り、夫と互いに励まし合いながら応戦したが、砲弾に射抜かれ燃え狂う薩摩藩邸
 とともに果てたとされている。
・この落合孫右衛門夫婦ともに祭神となっているという。
 この「祭神」とは靖国神社に祀られたことを意味している。
 事実、明治二十四年の第二十回合祀でハナは維新前後の殉難者千二百七十七人の一人と
 して祀られている。
・ハナが祭神とされたのは、事件によって死亡した殉難者だったためだが、果たして「白
 鉢巻に襷姿」で戦ったことや、「防戦に努め」たことは事実なのだろうか。そうではな
 くとも、ただ藩邸内で事件に巻き込まれて死亡しただけでも、やはり「殉難者」である
 はずだ。 
・実は、ハナの墓石の正面には没年月日が「慶応四年戊辰」「二月朔日」と二行に刻まれ
 ている。つまり、事件当日に死亡したのではなく、翌年二月一日に息を引き取っていた
 のである。 
・自殺をはかったものの死にきれずにいたのか、自殺をする前に流れ弾に当たって負傷し
 たのか、いずれにしても傷ついたハナは幕府側に捕らえられ、獄中にあったか、治療の
 ために釈放されていたのか、ついに回復することなく死亡したようである。
・戦って死ぬことだけが戦死ではない、捕縛されることや、処刑されることを嫌い、戦場
 でみずから命を絶つことも、戦場にあって受傷し、それによって死に至ることも「戦死」
 に違いない。
 
山内豊福の妻・典
・高知新田藩の第五代藩主・山内豊福は、第十代土佐藩主・山内豊策の七男で、秋月藩主・
 黒田長詔の養子となった黒田長元の次男として、天保七年(1836)に誕生したが、
 第四代藩主・山内豊賢の子供たちが早世したため、嘉永六年(1853)に豊賢の養子
 となり、安政三年(1856)に家督を相続する。
・高知新田藩の藩庁は高知城内にあり、藩主は江戸定府だった。その藩邸は麻布の古川に
 かかる三之橋の近くにあったため、「麻布様」と俗称されていた。
・同じく一之橋の近くには出羽上山藩の藩邸があり、豊福はそこで天保十二年に生まれた
 藩主・松平信宝の長女・を妻に迎える。
・豊福と典のあいだには、文久二年に長女・邦が、次いで元治元年(1864)には次女・
 豊が生まれ、二人は仲睦まじく日々を送っていたが、時勢は波乱を含んで変転しており、
 さらに変転を続ける。
・ペリー来航に始まった「幕末という時代は、安政の大獄・桜田門外の変・禁門の変・
 長州征伐・薩長和解・長州再征戦という局面を経て、慶応三年(1867)六月には土
 佐藩が幕府に大政奉還の建白を行った。
・大政奉還は徳川家独裁で行っていた政治体制を、幕府が朝廷に政権を返上し、徳川家を
 含む有力諸藩による公議政体に転換するというものであり、薩摩藩をはじめとする討幕
 派は、幕府が受諾するはずはないと踏んでいた。
 しかし、返上後も将軍・徳川慶喜は自分が公議政体盟主となり、本質的には政権を握り
 続けることが可能であるとの判断によって、大政奉還を上奏し、朝廷もこれを勅許する
 のだった。 
・当時の土佐藩の藩主は山内豊範だったが、その実権は前藩主・山内容堂が握っていた・
 革新派だった容堂は、幕府大老・井伊直弼の安政の大獄によって隠居・謹慎を命じられ
 ると、藩主の座を豊範に譲ったものの、その後も藩政を動かしている。
・容堂は薩摩藩を中心とする勢力が目論む、武力で幕府を討つという「討幕」ではなく、
 旧来の政治体制を倒すという意味での「倒幕」を求めていたのである。そして、それが
 土佐の藩論だった。
・鳥羽・伏見の戦いが勃発する。
 このとき土佐藩では討幕を唱える藩士が自発的に出陣していたが、容堂はこの戦いを薩
 長両藩と徳川家・会津藩・桑名藩の「私戦」ととらえており、彼らに戦闘を禁じていた。
・伏見の戦況を視察した西郷隆盛は、「錦旗」こと錦の御旗の出馬を要請した。新政府はこ
 れを受て、仁和寺宮嘉彰新王が討伐将軍となって錦旗を掲げた。
・天皇の軍である「官軍」を意味する錦旗の威力は絶大であり、鳥羽・伏見の戦いを「私
 戦」としていた山内容堂も、ついに参戦へと踏み切るのだった。
・大阪城の慶喜は松平容保・松平定敬のほか、数人の幕閣とともに城を脱していた。慶喜
 の一行は天保山沖に碇泊する旧幕艦に乗り込むと、夜に出航して、品川沖に到着し、江
 戸城に入った。 
・この間、総大将というべき慶喜を失った旧幕軍は解兵され、彼らはそれぞれの国許へ向
 かい、大阪城は新政府軍に占領させることとなる。
・江戸では慶喜が戻った当日に総登城が命じられ、「麻布様」こと山内豊福も登城し、深
 夜になって帰邸した。
・豊福は徳川家に忠義を尽くすことを約束したのである。本藩である土佐藩は豊福の知る
 限り、討幕に反対しており、支藩の高知新田藩としては徳川家の側に立つのは当然のこ
 とだった。  
・しかし、その夜になって帰邸すると、状況は一変していた。
 錦旗が掲げられたことによって態度を変えた容堂からの指令が、豊福のもとへ届けられ
 ていたのである。
 それは豊福に、速やかに江戸を引き払い、本藩と行動をともにせよと命じるものであっ
 た。本藩の命令に支藩が背くことはできない。
・豊福は当番のためやむなく登城し、用人に板挟みの状態に陥った苦衷を告げ、留守居役
 と大目付にも胸のうちを伝えた。
 彼らは切腹をほのめかす豊福に短慮を諫め、小藩が独立して事を起こすことは不可能で
 あるから、大義おためには臨機応変、一時を忍んで官軍の東下を持ち、去就を宗家に属
 すべき旨を切論し、豊福も納得したかのように彼らを退出させている。
・しかし、その夜、豊福は寝所で腹を切った。
 まさに進退谷まった豊福にとって、唯一の選択肢だったのである。
 豊福は典にこれまでの経緯と、その覚悟を伝えた。それを聞いて典はすべてを察し、夫
 に従うことを決意したのだろう。  
・翌朝、豊福の寝所で豊福の遺体が、典の寝所で布団を被った典の遺体が発見された。
 典は声が漏れないよう、布団を被って喉を突いていたという。
・藩主夫婦の突然の死に藩邸は狼狽したが、二人の死亡は内密にされた。豊福を病気と偽
 って時間を稼いだ。 
・典が案じていた二人の娘は、長女の邦は明治十二年に元三春藩主で、とちに子爵となる
 秋田映季に嫁ぎ、離婚後に元柳川藩・立花鏡寛の次男・寛治と再婚し、次女の豊は明治
 十三年に元信州上田藩主で当時の伯爵・松平忠礼に嫁ぐこととなる。
・死を秘密とされた豊福と典の遺体は、しばらく葬儀を行うことができずに藩邸に安置さ
 れ、豊福の死亡が届けられてから、高知新田藩山内家の菩提寺である曹渓寺(港区)
 埋葬された。
・なお、豊福は帰国後に病死したこととされ、高知市旭天神町の水道山に墓碑が建立され
 ている。 

臼井亘理の妻・清子
・福岡藩の支藩である秋月藩の執政心得という重職にあった臼井亘理は、慶応四年に同藩
 干城隊の隊士によって殺害された。
・干城隊の総督には藩執政の吉田悟助が就任し、隊長にはその息子で十七歳の吉田万之助
 がつとめた。隊士のうち最年長は二十二歳、最年少は十四歳という、二十歳前後の若者
 たちによって編成されていた。
・干城隊は亘理不在時を狙って結成されたのだった。さらにいえば、亘理の帰国を待って、
 殺害することを目的として結成されたのだった。
・干城隊が事前に提出した「臼井亘理罪状」には、箇条書きで五点の罪状が記されている。
 ・王政復古以前は親幕家でありながら、その後は新政府に取り入った。
 ・京都にあって帰国を命じられながら、それを引き延ばそうとした。
 ・藩主の意見をねじ曲げて、藩内で反対されていた洋式訓練の採用に踏み切った。
 つまり、私は奸臣であり、藩のために「除奸」するというのだ。
・秋月藩はこのとき、亘理を代表する主流派と、干城隊の吉田悟助を代表とする反主流派
 とが、親幕か反幕かという思想的な対立ではなく、藩政における主導権争いをしていた
 のだった。 
・亘理の殺害に成功したことによって反主流派が藩庁を握った。
・亘理は、気性が強く沈着であり、容易に感情を面に現さず、際立って稀な考えを抱いて
 いた人物であったと伝わる。
・妻は福岡藩士・喜多村弥次右衛門の長女で清子といい、天保三年(1832)生まれで、
 亘理より四歳年下だった。
 この二人のあいだには安政三年に長女・わさ子、同五年に長男・六郎が生まれている。
・在京中の亘理は親幕派だった。
 政変で公武合体派は長州藩を追い落とし、その後復権に成功した。
 本藩の福岡藩は元来が公武合体派であり、支藩を代表する亘理も公武合体の立場から親
 幕論を展開したことは疑えない。
・しかし、その後、慶応二年の長州再征戦で幕府軍は事実上の敗北を喫し、幕府の威光は
 地に落ちた。
・薩摩藩は討幕に転じ、慶応三年には将軍・徳川慶喜が大政奉還を決断、王政復古によっ
 て討幕派を中心とする新政権が誕生する。
・鳥羽・伏見の戦いによって旧幕勢力は京坂を追われ、追討の対象とされてしまうのだっ
 た。 
・こうした状況のもと、亘理は国許を出立し入京し、首席公用人として活動を開始するの
 だが、そこで亘理は秋月の地にあっては知ることのできなかった現実を知る。
 政権の移行が完全に行われている。親幕派の亘理にとって、信じがたいことだった。
・亘理は親幕派の立場を放棄し、親政府に与する行動を起こした。藩の生き残り策として、
 ほかに道はなかったのだ。
・しかし、京都の実情を知らない国許では、これを「変節」と受け取った。そして、反主
 流派は亘理を失脚させるための手段として、干城隊は「臼井亘理罪状」を掲げることに
 なる。 
・亘理が帰国すると、妻の清子や両親と子供たちはもとより、親戚や友人たちと無事の帰
 宅を喜び合い、酒宴となる。亘理も盃を重ね、やがて子供たちは布団に入り、客人も帰
 って、亘理たちも就寝した。
・その深夜、干城隊は亘理を襲撃する。
 乱入してきた干城隊によって就寝中の亘理は襲われ、そして首を落とされる。
・隣で眠っていた清子も、干城隊の犠牲となった。むしろ、亘理より惨たらしい最期を遂
 げていた。一太刀どころではなく、頭はザクザクになっていたという。
・亘理は四十一歳、清子は三十七歳だった。
・両親と同室で寝ていた四歳のつゆ子も七カ所のかすり傷を負っていたが、これは刀の切
 っ先が触れたことによるもので、命に別状はなかった。
・干城隊は藩庁へ自訴した。後日、下された彼らへの申し渡しは、無罪とされたのでる。
・亘理と清子の遺体は、黒田家の菩提寺でもある古心寺(朝倉市秋月)に埋葬された。
 その隣には、大正六年(1917)に死亡した六郎の墓もある。
・明治政府は、明治六年(1873)に「仇討ち禁止令」を発布し、これによって仇討ち
 は犯罪となるのだが、明治十三年十二月に「最後の仇討ち」と呼ばれた事件があり、大
 きな話題となった。
 事件の被害者は、臼井家を襲った元干城隊隊士の一瀬直久、加害者は一瀬をつけ狙って
 いた六郎である。
・一瀬は水戸の裁判所に勤務しており、右手の指に傷跡があった。その原因を尋ねると、
 「これは実は明治元年、国元秋月において同志とともに藩士臼井亘理を殺害した。その
  際、妻女のために噛まれた傷だ。実は自分は斬るつもりはなかったが、妻女がしがみ
  ついて離れぬからやむをえず斬った」と、清子を手に掛けたことを釈明していたのだ
  という。

山城八右衛門の妻・ミヨ
・慶応四年(1868)五月、新政府によって征討の対象とされた会津・庄内両藩の謝罪
 嘆願を目的として、仙台藩、米沢藩などの二十五藩によって奥州列藩同盟が結成された。
 武力中立を掲げていた長岡藩は新政府軍との談判が決裂したため同盟に加わり、新発田
 藩などの北越五藩も同調し、ここに奥羽越列藩同盟が成立する。
・しかし、同盟を主導した仙台藩でさえ藩論が割れていたように、どの藩も抗戦と恭順の
 両輪があり、同盟諸藩が結束を固めていたわけではなかった。
 その典型が秋田藩である。
・秋田は国学者・平田篤胤の出身地であって、その没後も門人に平田学派の藩士も多く、
 朝廷より信頼が寄せられていた。
・京都を出立した奥羽鎮撫総督・九条道孝と副総督・沢為量の一行は、仙台領松島に上陸
 すると、仙台藩に会津征討を命じた。次いで秋田藩に庄内征討を命じた。
・武力行使を望まない仙台藩は、米沢藩とともに和平工作を行っていたが、もちろん総督
 府は姿勢を改めず、庄内征討を命じられた秋田藩兵は庄内領清川(山形県庄内町)で交
 戦する。
・秋田藩も加わる奥羽列藩同盟の前段階となる白石会議で、諸藩は会津・庄内征討の軍を
 撤収することを決定した。総督府へ反旗を翻したのである。
・奥羽鎮撫総督の九条道孝は仙台藩の監視下に置かれることとなるが、新政府の増援部隊
 が仙台に到着すると、彼らは奥羽の事情説明を朝廷に行うとの口実を設けて、総督以下
 の仙台脱出を成功させ、盛岡へと向かう。
・また、庄内征討のために軍勢を率いて秋田へ進軍していた副総督の沢為量の一行は、秋
 田城下に入ったものの、滞陣を謝絶されて秋田領北部の能代に滞留していたが、これも
 総督一行と同じく、秋田城下へ入っている。 
・一方、同盟諸藩は総督府を迎え入れた秋田藩の真意を問うための使節団を送った。
 使節団は総督らの仙台藩への引き渡しと軍勢の排除を求めたが、総督府はふたたび庄内
 征討を命じる。
・板挟みとなった秋田藩では連日の会議が続けられ、ついに結論に達した。
 秋田藩は同盟を離脱し、その証とするかのように、同盟からの使節を殺害したうえで梟
 首したのだった。
 これは同盟諸藩への宣戦布告であり、秋田藩兵は総督府の軍勢とともに庄内へ向けて進
 軍する。 
・盛岡藩も、同盟に加わりはしたものの、優柔不断な態度をとり続けていた。恭順派と抗
 戦派のどちらも、完全に藩内を掌握できなかったためである。
・盛岡藩の旗幟を鮮明にさせたのは、首席家老・楢山佐渡だった。楢山家は家老職をつと
 める家柄であり、盛岡藩主・南部利剛の従弟にあたる。
・楢山佐渡は、帰藩の途中で仙台に立ち寄り、奥州同盟の首謀者たる但木土佐と会し、同
 盟をますます強固ならしめんことを協議し、国許へ急いだ。
 そして帰国翌日には城内へ重臣を集め、秋田藩への進攻を宣言するとともに、鹿角、雫
 石、野辺地の三方面に軍を進め、みずからが総大将となって鹿角へ向けて出陣する。
 秋田藩は庄内征討を主眼としており、楢山の率いる盛岡軍の進軍ルートにあたる藩境の
 十二所方面には、槍隊と銃隊の二百数十人ほどが配備されるのみだった。銃隊といっても
 大半は火縄銃である。
・秋田藩では付近の村々に夫役を課したようだ。
 十二所より数キロ西方の扇田村からも農民が徴用されており、そのなかにミヨという女
 がいた。
・ミヨや天保五年(1834)に秋田郡井出村の佐藤久右衛門の娘として生まれ、扇田村
 で煙草屋を兼業する農民・山城八右衛門に嫁ぎ、一男一女をもうけており、茂木筑後の
 出陣の際に小荷駄方手伝いとして徴用され、炊事の世話と食料の運搬を命じられていた
 という。   
・楢山佐渡は茂木筑後に宣戦布告し、毛馬内に布陣していた盛岡軍は進軍を開始すると、
 十二所を攻撃して秋田軍を敗走させる。さらに扇田村へ進んで扇田神明社に本陣を置く
 と、秋田軍に反撃を撃退した。しかし別ルートで大館城に向かっていた軍勢が秋田軍に
 敗れたため、十二所を捨てて退いた。 
・そして盛岡軍が再度、大館城を目指して扇田に進攻した。
 この戦いの最中にミヨは死んだ。三十五歳だった。
 盛岡藩兵が秋田領に侵入して来た時、糧食・弾薬の輸送に当たり奮闘したが、流弾のた
 めに斃れた、とミヨについて記録されている。
・ミヨは「山城」ではなく、実家の姓である「佐藤」を名乗り、「佐藤ミヨ」と記される
 べきなのだが、ミヨが山城姓とされているのは、すでに夫が死亡し、ミヨがその家を継
 いでいたことを物語っており、ミヨが女ながらに徴用に応じたのはそのためだったのだ。
・ミヨの墓は扇田の寿仙寺にあり、寿仙寺の本堂の前には、かつてミヨの等身大の木像
 建てられていたが、火災によって焼失し、現在は「烈婦山城みよ女之像」と刻んだ台座
 が残されているのみである。
  
西郷頼母の娘・細布子
・慶応四年(1868)五月、新政府軍に藩領の南の入口というべき白河の地を奪われた
 会津藩は、数次の奪還戦を試みていたが、そのすべてに敗北した。
・新政府軍の北上は続けられ、奥羽越列藩同盟に加盟していた諸藩もその軍門に降り、二
 本松藩との藩境に位置する母成峠での戦いが勃発する。
 守備していた会津藩兵や友軍の藩兵、大鳥圭介の率いる旧幕陸軍は持ちこたえることが
 できずに敗走し、新政府軍は猪苗代を抜いて城下を目指した。
・前藩主・松平容保が佐川官兵衛を先駆として白虎隊を率いて滝沢本陣へ出陣したのは、
 この日のことである。
・新政府軍の攻撃は開始され、激戦が展開された。この戦いに会津藩は敗れ、白虎隊の半
 数は本隊とはぐれて敗走し、飯盛山中腹に逃れたが、そこから見えたのは火に包まれた
 若松城だった。
・実際には城下に進攻した新政府軍との戦闘による家屋の火災で、城は無事だったのだが、
 彼らはこれを落城と思い込み、次々と集団的な自刃を遂げるのである。
・飯盛山には彼らを祀る十九基の墓碑が建立されているが、実際に飯盛山で死亡したのは、
 自刃後に甦生した飯沼貞吉を除く十五人であり、そのなかには自刃者もあれば、受傷し
 て力尽きた者もあった。彼らの最期は「白虎隊の悲劇」として知られている。
・この日は城下でも多数の悲劇が起きていた。
 そのうちの一つが、代々が藩の要職をつとめ、城正面の追手町に屋敷のある西郷頼母邸
 でのものだった。
 西郷頼母は天保元年(1830)の生まれで、嘉永四年(1851)に飯沼久米之進の
 次女・千重子と結婚し、当時の会津藩主・松平容保が京都守護職に任命された文久二年
 (1862)に家老職に就任した。
 この間に、長女・細布子、次女・瀑布子、長男・吉十郎、三女・田鶴子が誕生している。
・頼母は容保の守護職就任に反対しており、就任後も辞任を進言したため家老を免職とな
 った。隠棲を余儀なくされた頼母は下長原村で慶応四年まで幽居の日々を送る。
 この間に早世する次男・五郎、四女・常盤子、五女・秀子が生まれた。
・慶応四年一月に勃発した鳥羽・伏見の戦いに旧幕側勢力は敗れ、会津藩兵は江戸へ敗走
 した。   
 このとき頼母は家老に復職し、江戸におもむいて藩邸の収拾をおこなって帰国するのだ
 が、新政府は会津藩を朝敵として討伐令を下す。
・会津藩は軍制改革を行い、頼母は白河口の総督に任命された。
・会津藩は空き城同然だった白河城を奪取するが、その後の新政府軍による奪還戦に敗れ
 る。 
 数次の白河攻撃を行うが、再奪還することはできず、敗戦の責によって頼母は免職とな
 り、閉門を命じられた。
・これは頼母が藩内で恭順、和議を主張し、その姿勢が藩兵の士気を削いだための措置と
 される。
・会津藩が籠城戦に突入した八月、城内の評議によって頼母は家老に復職し、水戸に脱し
 た諸生党を率いて赤井村方面へ出陣した。
 しかし、戸ノ口原の戦いに敗れた藩兵とともに城下に退却した。
・会津藩家老・西郷頼母の家でも一族の自刃があった。
 頼母の家族で死亡したのは、頼母の母親で五十八歳の律子、頼母の妻の千重子、頼母の
 妹で二十六歳の眉寿子と二十三歳の由布子、頼母の娘の細布子・瀑布子・田鶴子・常盤
 子・秀子の九人で、唯一の男児である吉十郎は母親の命により入城し、頼母とともに会
 津・箱館の戦争を経て、明治の時代を迎えることとなる。 
 ほかに西郷邸では、士族、親戚十二人もともに死を選んだ。
・このうち細布子の最期については、記録がのこされている。
 薩摩の国人中島信行が城門前の大きな屋敷に踏み入ったとき、
 「奥なる便殿に婦人多数並びおりて自刃せり。その内に齢十七、八なる女子の嬋娟たる
  が、いまだ死なずありて起きかえりたれど、その目は見えずありけんかし。声かすか
  に味方か敵かと問うぞ、わざと味方と答えしかば、身をかい探り懐剣を出せしは、こ
  れをもて命をとめてよとの事なるべけれど、見るに忍びねば、そのまま首をはねて出
  る時、傍らに七十ばかりの老人が、いといさぎよく腹きりておりたり」
 死にきれずにいた娘は目が見えず、やってきた何者かに敵か味方かを問い、味方との答
 えを信じて介錯を願ったのだった。 
・明治二十年から翌年にかけて、弘前警察署長をつとめていた川島信行という旧薩摩藩士
 がいた。実はこの人が「中島信行」だったのである。
・家老職にあった内藤介右衛門の一家は、入城することができず門田町の菩提寺・奏雲寺
 に避難していたが、敵が付近に迫ると、やはり一族で自刃した。そのなかには英馬とい
 う三歳の男児もあったが、その口には菓子が含まれていたという。一瞬の喜びのうちに
 命を絶たれたのだが、西郷邸の乳幼児にも同様な配慮がなされていたのだろうか。
・西郷邸で自刃した彼らの墓は会津若松市北青木の善龍時にあり、墓地には「二十一人之
 墓」と刻まれた墓碑がある。
   
会津藩娘子隊・中野竹子
・慶応四年(1868)八月、母成峠を突破した新政府軍は会津城下に進出したため、会
 津藩は籠城を余儀なくされた。
 藩士の家族たちは城内に入り、一ヵ月に及ぶ籠城に耐えることとなるが、入城ができず
 に市外へと逃れた者も少なくなかった。
・依田駒之進の娘・菊子も家が戦火に焼けたため、姉と一緒に城へ入ろうとしたが、もう
 城門は閉まっており、仕方なく引き返そうとしたところで、中野竹子母子、姉妹三人と
 出会ったという。 
中野竹子は雅号を小竹といい、父親は会津藩江戸詰勘定役。中野平内、母親は足利藩士・
 生沼喜内の娘でこう子といった。
・竹子は、嘉永三年(1850)に江戸和田倉門内にある会津藩邸で生まれ、幼少より怜
 悧で、五、六歳のときには百人一首を間違えることなく暗誦し、父母の言いつけに従い、
 違えることはなかったという。十四、五歳になると四書五経なども理解し、一方で詩歌
 も通じ、しばしば藩より褒賞を受けたという。また、武道では薙刀を学んで技が進み、
 某候の召しに応じて庭でその技量を披露し、見る者は誰もその巧妙なことに感じ入った
 と伝わる。
 優子という妹があったが、これも竹子と同様に知力と敏捷さを備えており、二人とも母
 に似て「容姿端麗」だったとされる。
・竹子の生年が嘉永三年とされているのだが弘化四年の生まれとも伝えられている。妹の
 優子は慶応四年に十六歳だったので、誕生は嘉永六年ということになる。竹子と裕子は
 六歳違いとなり、やや年の離れた姉妹となるのだが、この二人のあいだには豊記という
 長男がいる。  
・竹子ら三人が城下に駆けつけたとき、入城できずにいた菊子と遭遇するのである。
・そこへ「岡本すま子様も来られたので、そこで婦女隊ができた訳です」と述べているが、
 いかにも一つの部隊としての「婦女隊ができた」というのは事実ではない。
 どの藩においても婦人たちで組織された部隊は存在しない。結果的に戦場に立った女た
 ちはいても、婦女子を兵員に加えることは、いつの時代でも恥とされていたのである。
・この「婦女隊」は「娘子隊」「娘子軍」の名前で知られているが、竹子ら数人の女たち
 が戦いに加わったことから、後年になって名付けられたものであり、だからこそ一定の
 名前がないのだ。
・菊子は娘子隊のメンバーについて、「中野竹子様の御母様こう子様(四十四歳)、私の
 姉の依田まき子(三十五歳)岡村すま子様(三十歳)中野竹子様(二十二歳)私ども
 依田菊子(十八歳)中野竹子様の御妹御の優子様(十六歳)」と述べている。わずか六
 人だ。
・入城できずにいた竹子らだったが、そこへやってきた会津藩士より、容保の義姉である 
 照姫が坂下村へ避難しているとのことを聞き、「それでは照姫様のところへ行こうと、
 皆で一緒に出掛けました」という。
 しかし、誤報だったのか、女たちを城下から遠ざけようとしての方便だったのか、照姫
 は坂下にはいなかった。当然ではあるが、照姫は城内に残って籠城していたのである。
 坂下まで行った娘子隊は同地の法界寺に宿泊する。
・その夜、菊子は、竹子と母親のこう子が小声で優子を殺す相談をしていることを耳にす
 る。竹子たちは三人はいずれも美人だったが、なかでも優子は若いうえに際立つ美しさ
 であったため、 
 「もし敵に押さえられて慰み物にでもされては恥辱だから、いっそ今夜のうちに殺して
 しまおう」というのだった。
 菊子は驚いて飛び跳ね、姉のまき子とともに説得を重ね、ようやく思い止まったのだと
 いう。
・もちろん、二人は死を覚悟していた。だからこそ無垢な優子の身を案じ、恥辱や苦痛を
 知らないうちに、命を経ってしまうことを考えたのである。
・娘子隊は坂下の会津藩軍事方に面会して従軍を願い出たが、もちろん許されるはずはな
 い。しかし彼女たちも引かなかった。決死の決意で懇願したのだろう。旧幕衝鋒隊ほか
 が城下に進撃するので、その陣後に従うことを許した。
・娘子隊は「涙橋」で戦ったとする。
 「涙橋」(神指町橋本)は、かつて橋の近くに刑場があり、処刑される罪人の家族が見
 送り、この橋で涙の別れをしたことから「涙橋」と呼ばれるようになったもので、正し
 くは柳橋という。 
・この戦いに娘子隊は巻き込まれ、竹子は戦死した。
 衝鋒隊は涙橋で戦ったのちに七日町まで進撃しているので、戦いそのものは激戦という
 ものではなく、むしろ小戦というべきものであったようだ。
 「この戦争になりましても、やはり男達の方で、私達には出るな出るなと止めますので
  充分な働きはできませんでしたが、惜しいことに竹子様だけが、真正面から来た弾丸
  が額に当たって亡くなられました」
 と伝えている。
 おそらく、娘子隊とともに後方に控えていた竹子は、狙撃というよりも、不運な流れ弾
 の犠牲になったのだろう。
・竹子の首級は妹の優子が落とした。
 「お姉様の御首級を敵に渡さぬように、私が介錯しましょうと云って、敵と遣り合いな
  がら段々とお姉様のほうへ近寄って来られて、とうとう見事に介錯せられて、白羽二
  重の鉢巻き何かに御首級を御包みになりました」   
・竹子の首級は坂下の法界寺に葬られたという。法界寺には「小竹女史之墓」と刻まれた
 竹子の墓碑があり、「涙橋」の北方一キロほどに神指町黒川の地に「中野竹子殉節之地」
 の石碑と、薙刀を構えた竹子の石像がある。