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この本は、今から9年前の2014年に刊行されたものだ。本のタイトルは「スターリン」
となっているのだが、副題が「非道の独裁者の実像」となっており、スターリンの生涯を
中心にソ連という国の建国から崩壊までの歴史が記されている。
昨年2月、ロシアが突然ウクライナに軍事侵攻して、早くも1年が過ぎた。
どうしてプーチン大統領はこのような蛮行に出たのか。ロシアとウクライナには過去にど
んな歴史があったのか。この本を読むことによって、何かわかることがあるのではないか
と思い、この本を手にした。

ところで、スターリンというと、この本の副題にもなっているように、強引に農業集団化
を進めたことにより多大な餓死者を出したことや、自分の政策に反抗的な人々に対する大
粛清を断行したことなど、負のイメージがとても強い。
しかしその反面、スターリンなくしてソ連いう国家は出現しなかったことや、スターリン
なくしてあのヒトラーを敗北に追いやることは不可能であったということもまた否定でき
ないと言えるだろう。スターリンに対する評価は、今日においても二分されているようだ。
この本によると、スターリンは少年の時から読書が好きだったようだ。そして、ソ連の書
記長に就任した頃からは自分専用の書庫を整備していたという。その蔵書数はなんと数万
冊にものぼったと言われているようだ。スターリンは、国家統治にかかわるあらゆる分野
に通じたいと考え、独学で役に立つ思われる知識を貪欲に吸収したと言いう。そういう観
点からすると、スターリンは単なる無知な粗暴者ではなく知識の豊富な努力家であったと
も言えるのではないかと思える。

スターリンはノモンハン事件で日本に勝利した直後に、ドイツと独ソ不可侵条約を結んだ。
そして、少数民族が抑圧されているとして、ドイツが占領しないことになっていた西ウク
ライナと西ベラルーシに「解放」と称して軍事侵攻し、やがてこれらの地域をソ連に加え
た。
これは現在において、プーチン大統領が「ロシア人を守るため」と称してウクライナへ軍
事侵攻したやり方と、どこか似しているように思えた。プーチン大統領は、スターリンの
やり方を真似たのだろうか。
かつて、スターリンが強引に推し進めた「五ヵ年計画」のため、ウクライナ地域などで厳
しい穀物調達が行われ、農民たちは食べる物がなくなり飢餓状態に陥り、多数の死者を出
たこともあったようだ。
過去にそういう歴史があるからこそ、現代においてもウクライナの人々は、もう二度とロ
シアの支配下に入るまいと、死に物狂いでロシアと戦っているのだということもわかるよ
うな気がした。

ところで、この本を読んで気になったのは、ポツダム会談におけるトルーマン大統領のス
ターリンに対する態度だ。これは、かなり問題だったのではないかと私には思えた。
ポツダム会談は、トルーマンにとって初めてアメリカ大統領として出席した首脳会議であ
ったが、会議期間中に本国からの原爆実験成功の知らせがあったこともあり、このときの
トルーマン大統領は、スターリンに対してかなり傲慢な態度を取ったようである。これが
スターリンにアメリカへの敵対心を植え付けてしまったようだ。もし、トルーマンがこの
ような態度をとらなければ、スターリンが日本に対する開戦を急ぐことがなく、ソ連が参
戦する前に終戦となっていた可能性もあったのではないかというような気がした。
また「ベルリン封鎖事件」に関しても、その原因はトルーマン政権が招いたものだったよ
うである。アメリカのソ連を無視した「独りよがり」の政策がスターリンを怒らせたのだ。
このようなアメリカの他者を無視した「独りよがり」は、このときばかりでなく、それ以
降も現代にいたるまでにも、時々顔を出している。
朝鮮戦争」においても、アメリカのアチソン国務長官が、「韓国がアメリカの安全保障
義務の外側にある」と発言したことが、北朝鮮は韓国に侵攻してもアメリカは出兵しない
というサインを北朝鮮に与えてしまったことから戦争が始まったようだ。
こういう事実を知ると、単にスターリンだけを悪者扱いにはできないのではないかという
気もした。

この本では、ゴルバチョフについても触れられているのだが、ゴルバチョフというとソ連
の書記長のなかでは、アメリカや日本では大変人気のあったのだが、ソ連の国内では、あ
まり人気はなかったようだ。結局、ソ連を崩壊させた最後の書記長となってしまった。

過去に読んだ関連する本:
朝鮮戦争
独ソ戦 絶滅戦争の惨禍
ノモンハンの夏
ソ連が満州に侵攻した夏
証言・南樺太 最後の十七日間



はじめに
・スターリンはまるで悪魔に命を吹き込まれた、大きくて粗暴な粘土作りの人間、つまり、
 ユダヤの伝説にある超自然的に命を吹き込まれた人造人間ゴーレムのような印象を与え
 る。
・1920年代末からの農業集団化の過程で多大な餓死者を出したこと。
 あるいは1930年代の大粛清では罪なき人々が次々に逮捕され、その後彼らの多くが
 消息を絶ったこと。
 あるいは、第二次大戦の前後の時期に、ソ連の辺境地域にいたいくつもの少数民族が銃
 口を向けられて故郷の村を追われたこと。
 あるいは多数の国民や日本人を含む多くの外国人抑留者が収容所に送り込まれ、そこで
 過酷な労働を強いられて無意味な死を余儀なくされたこと等々。
 スターリンの名前はそのようなソ連史の恐ろしい出来事と結びつけられてきた。
・しかし、これとはまったく異なるスターリン像がある。それは、今もなおロシアにおい
 て少なからぬ人々がスターリンを敬愛し、優れた指導者として信奉しているという事実
 に示されている。
・没後50年になる2003年になされたロシア国内の世論調査では、彼の役割を肯定的
 に見る者が34.7パーセント、否定的に見る者が40.3パーセントだった。
・つまり、最近のロシア国民の理解では、スターリンは独逸におけるヒトラーとまったく
 異なり、ロシアという国の歴史に例外的に現れた破壊のみをこととする独裁者などと断
 罪して済まされる存在ではないのである。多くのロシア人に、彼らの国を理解する上で
 不可欠な人物と評価されているのである。
 
ゴリの少年
・スターリンの生年は二説ある。長くソ連共産党の公式文書では、スターリンは1879
 年12月21日に生まれたとされてきた。
 しかしソ連の崩壊が迫った1990年になって、当時発行されていた雑誌「ソ連共産党
 中央委員会通報」には、1878年12月18日と記載されている。
・スターリンの生い立ちにまつわる不明瞭さは、他にも見られる。通常は、スターリンは、
 ロシア帝国南部のグルジアに農奴として生まれ、農奴解放後に成人して靴職人になった
 男性と、グルジアの異なる村で農奴の娘として生まれた女性との子供として生まれたと
 されている。 
・スターリンの二度の結婚が、一度目はグルジア人の娘とであり、二度目はアゼルバイジ
 ャンのバクーに生まれたロシア人の娘であったことも、彼とこの地域に住む人々との結
 びつきを示している。やがてスターリンは、革命家の集団である共産党と自分が創り出
 す「ソヴィエト国民」について、あたかも特別な絆を持つ集団であるかのごとく語るの
 であるが、ともに心の底から沸き起こる貴族意識ではなかったと考えられる。
・「事実」を証言する者は、後のスターリンになる人物が、早くから暴力的で、権力志向
 の強い少年だったと言いたいようである。実際、一部の作業は、この種のエピソードば
 かりを集めて、ソソ(スターリンの愛称)の時代のスターリンは少年時代から非常に悪
 童であったばかりか、途方もない野心を心に秘めた特異なタイプの少年だったと主張し
 ている。 
・しかし、引用した彼の学校での成績や、彼の書いた詩や、そして後年になった彼の家庭
 の間で交わされた手紙などを読むと、通俗的に指摘される彼の性格と非常に異なるもの
 がこの人物の内にあったと認めざるを得ないだろう。確かに、多くの回想と後の彼の行
 動から見て、スターリンは父親がふるう暴力に怯えた幼少期に、人間関係は根底におい
 て力の優劣によって支配されているとする認識を心に刻み込んだかもしれない。
 しかし、明らかにそれが彼のすべてではなかった。少年期の彼には、それとは別に、母
 親との絆とそれに付随する愛情としか言いようのないものが埋め込まれていた。また、
 グルジアの文化的ナショナリズムに向かう感性があった。
・この人物は、これまで想像されてきた以上に豊かで多面的な才能を有していたというこ
 とである。この後、人生の荒波を経ることによって、彼の才能の一部が磨かれ、また新
 たなものが加わり、荒々しい相貌を生み出したとしか考えられないのである。
  
カフカースの革命家
・ここに注意すべきことがある。それは、ちょうどスターリンが生まれ育った時代のロシ
 アにあっては、「革命家」はけっして社会から遊離した存在ではなかったという事実で
 ある。そのことは、ロシア帝国の政治に関わる二つの事実と密接に関連していた。
 その第一は、そもそも当時のロシアにあっては、政治に関与できる者がごく少数だった
 という事実である。ロシアには1906年まで、民衆が選出する議員から成る議会は存
 在しなかった。ツァーリ(皇帝)に選ばれた者だけが政治に参画していたのである。
 さらにこの体制では、ツァーリたちが相手にしていた人々も限られていた。ツァーリと
 臣民はお互いに親子のように受けとめていたが、ツァーリが政治を行うにあたって実際
 にその意向を意識したのは、貴族や有力商人、知識人など、社会の上層部だけであった。
・1906年は、ロシアにおいて初めて選挙制の議会(国家会議)が開設された年である。
 そのときになっても選挙参加者が人口の16パーセント以下に過ぎなかったというのは、
 国家会議の選挙に参加する資格がかなり厳しかったからである。
 ロシアでは19世紀から20世紀にかけての数十年間でも、社会の圧倒的多数は国家レ
 ベルの政治はもちろん、地方レベルの政治にさえ無縁で生きていたのである。
・考慮されねばならない第二の事実は、当時のロシアでは、「革命家」となることを選択
 しなかった知的エリート層の中にも、ツァーリの支配に不満を抱く者がかなりいたとい
 う点である。  
 ロシアは19世紀半ばのクリミア戦争で、近代的装備を持つイギリスとフランスの軍に
 屈服し、内外に後進的な国家であることを暴露した。このために、戦争の最終段階に即
 位したアレクサンドル二世は、戦後まもなく後進性のシンボルとなっていた農奴制の改
 革に着手した。結局、1860年代初めの領主農民2千万人以上が社会的、経済的従属
 から原則的に解放された。
・こうした状況で帝国の知的エリートたちが拠りどころにしたのは、ヨーロッパ諸国にお
 いて盛んに議論されていた政治や経済の仕組みであった。つまり、当時、ヨーロッパ諸
 国に広がりつつあった自由主義的な政治経済の仕組みや、ヨーロッパの社会活動家が検
 討していた社会主義の仕組み、さらには無政府主義者の提示する未来社会のイメージま
 でもが、政治から排除されてきたロシアの知的エリートを虜にしたのである。通常の方
 法でヨーロッパの先進的仕組みを導入できないとすれば、革命しか残された手段はなか
 った。
・1860年代から80年代初頭にかけて、高等教育機関で学ぶという「特権」は名もな
 き農民たちの労役に負っていると考える学生たちが、「人民の中へ」という言葉を合言
 葉に、次々と農村で社会変革のための啓蒙活動を始めた。彼らは「ナロードニキ」と呼
 ばれるが、その中で1874年までに警察に逮捕された者だけを対象にすれば、全ロシ
 アで1600人ほどであった。
・ナロードニキ運動の参加者はやがてテロリズムに走り、1881年にアレクサンドル二
 世を殺害したために、社会の中で孤立していった。しかし他方では、新たにツァーリと
 なったアレクサンドル三世が比較的穏健な知的エリートの社会的活動にも警戒心を示し、
 公共の問題に彼らが関わることを制限しようとしたために、彼らと権力を分ける溝は埋
 まることがなかった。 
・この状態で、農奴解放令で解放された農民は、振り分けられた土地が有償で、しかも少
 なかったので不満を抱き続けた。逆に貴族層は、農奴解放によって経済的打撃を受けた
 ことで、ツァーリ体制に距離を置くようになった。
 さらに、ロシアでも1890年代になると、近代化が引き起こす新種の問題が都市部で
 生じていた。産業労働者と資本家との対立、そして徒死窮民の出現という問題である。
 アレクサンドル三世、そして彼に続くニコライ二世の支配は、そのいずれにも対応する
 意欲が乏しく、必要な対策を後回しにする傾向を示していた。こうした鈍重な権力者た
 ちが、革命家を生み出していたのである。

・カフカース(英語名はコーカサス)とは、モスクワからはるか南、カスピ海と黒海に挟
 まれた地域を指す。ソ連最後の大統領ゴルバチョフが生まれたスタヴォローポリや、
 1990年代以降に分離独立運動が展開されたことで知られるチェチェンは北カフカー
 スにあり、スターリンの生地ゴリを含むグルジアやアルメニア、アゼルバイジャンとい
 う国々はザカフカースに位置する。 
・カフカースは長くサファヴィー朝イランとオスマン帝国が支配を競い合う地域であった。
 しかし、18世紀初頭からロシア帝国の影響力が及び始めると、三つの帝国と現地の諸
 民族を巻き込んだ抗争が長年にわたって繰り広げられる舞台となった。
・南カフカースにおいてキリスト教を信じるグルジア人とアルメニア人は、イスラム帝国
 の支配に服するよりはロシア帝国の保護を受けた方がまだましだと考え、この地域にそ
 の影響が及ぶことをためらいながらも受け入れていったのである。
・グルジアでは、19世紀半ばにナショナリズムが明確な形をとるようになったが、その
 担い手となった知識人の多くは、ロシアからの政治的独立よりも、グルジア人としての
 文化的一体感を回復することを目指した。
 またアルメニア人は、やはり19世紀にロシア帝国が進出した後も、大多数の同胞が南
 東部のオスマン帝国の支配下に居住していたために、そのナショナリストたちは、ロシ
 アの支配からの独立よりも、オスマン帝国に住むアルメニア人の「解放」に向かった。
 しかも、双方の地域にあっては、ロシア人は進んだヨーロッパ文化をこの地域に伝える
 存在でもあった。 
・こうした状況から、ロシアはけっして単なる外来の支配者ではなかった。だからこそ、
 19世紀末にロシア語を一所懸命に学び、ロシア帝国の中で社会的上昇を目指すソソの
 ような少年は珍しい存在ではなかった。彼らは心の内にグルジア文化に対する誇りを抱
 きつつ、あるいはアルメニアの長い宗教的伝統によって自尊心を育みつつ、ロシア文化
 を通じてヨーロッパ文明を接収する方向に向かったのである。
・ロシア帝国に居住するアルメニア人は都市に住んで商業に従事することが多く、これに
 対してグルジア人の圧倒的多数が農村に居住していた。言うまでもなくロシア人は、政
 治と経済の中心地に集まっていた。そのために、民族の差と貧富の差、居住地の違い、
 さらには職業と身分の違いが絡み合って、彼らの間には幾重もの溝が作られていたので
 ある。 
・当然ながら、カフカースに住むイスラム教徒以外の宗教を奉じる少数民族は、逆に正教
 国家ロシアの支配に強く反発した。このような姿勢は南カフカースのイスラム教徒であ
 るアゼリー人(アゼルバイジャン人)や、北カフカースのチェチェン、ダゲスタンなど
 に住む少数民族の中に顕著であった。北カフカースに住む非キリスト教徒の山岳民はし
 ばしば結束し、ロシア帝国の支配に対して武器をとった。
・このように頑強にロシア帝国の支配に抵抗する北カフカースの人々を、ソソ(スターリ
 ン)がどのような思いで見ていたのか明瞭ではない。1930年代以降に彼がこの地域
 の諸民族に対してとった残酷な政策から判断すると、ロシア帝国の支配者とあまり変わ
 らない眼差しで、つまりキリスト教が非キリスト教徒を見下すような眼差しで、彼ら
 を眺めていた可能性がある。
・南カフカースでは、グルジアの中心都市チフリスがロシア帝国のカフカース支配の拠点
 とされ、さらに、カスピ海沿岸のバクーにおいて石油産業が急速に発達したことから、
 これらの地域では、帝国政府が早くに鉄道を敷設した。この結果、産油地や都市部では、
 経済が目覚ましい勢いで発展した。
・このような急激で荒々しい経済成長を支えたのは、アレクサンドル二世の時代の大改革
 によって僅かでも自由を手に入れたカフカースの民衆だった。また、バクーの場合には、
 政府の奨励策で隣国のイランも含めた広範な地域から働き手が集められた。その結果、
 労働者に不利な状況が続き、彼らは不衛生な生活条件と劣悪な労働条件を押し付けられ
 た。この状況は必然的に労働争議を生み出した。
・カフカースの農民はもともとロシア中央部の農民と異なる土地制度の中で暮らしていた。
 ここでは農村共同体には実体がないか、あっても帝国の中央部ほど農地の管理に関わっ
 ていなかった。  
 さらに南カフカースは温暖な気候に恵まれ、所々でタバコや綿花などの工芸作物やブド
 ウなどの果樹の栽培が可能であった。こうした事情があったためか、カフカースにおけ
 る農奴解放は中央部に比べて地主側に有利なものだった。
・その一方で、商品経済が浸透した結果、解放時に分与された僅かばかりの農地では暮ら
 しが立たなくなる農民も多く出現した。窮乏の農民の中には、村から逃亡したり、都市
 に流入して貧民化したりする者も少なくなかった。
 南カフカースのアゼルバイジャンでは、1880年代と90年代に、村を離れて山地や
 森に逃亡した農民が徒党を組み、地主や役人を襲う事件を繰り返した。農民の多くが彼
 らの行動に暗黙の支持を与えたため、当局はなかなかこの運動を鎮静できなかった。
・1894年9月、つまり14歳か15歳でチフリス神学校に入学するまで、スターリン
 は以上のような社会情勢にさしたる関心を示していなかったようである。
・スターリンは15歳のときにザカフカースにいたロシア人マルクス主義者の地下グルー
 プと関係をもつようになり、革命運動に参加するようになったと述べている。さらに、
 自分が革命家になろうと思ったのは、両親からひどい扱いを受けたからではなく、当時
 学んでいた神学校での「人を馬鹿にするような制度とイエズス会的方法」に反発したか
 らだと付け加えている。
・ところで、ここでスターリンが示した神学校に対する否定的評価は彼だけのものではな
 かった。チフリス神学校は1755年に創設された名門の宗教教育機関であったが、彼
 の入学時には由緒ある聖職者育成学校としてより、生徒たちの激しい抗議活動によって
 有名になっていた。生徒たちは、朝から晩まで詰め込まれたカリキュラムや、課外時間
 の素行にまで目を光らせる監視体制に抵抗し、さらにはロシア人教師たちがしばしば示
 すグルジア文化に対する侮蔑的言動に強く反発した。言うまでもなく、この時期にロシ
 ア帝国全体に広がっていた専制批判の風潮も、生徒たちに影響を与えていたのである。
・こうした状態にあったので、神学校を経由して反体制運動に向かう者が少なくなかった。
 つまり、ソソ(スターリン)が聖職者になるために入学した神学校は、母の期待に反し
 て反抗心旺盛な若者を輩出する教育機関になっていたのである。研ぎ澄まされた感受性
 持つソソ(スターリン)が、すぐにそうした学校の雰囲気を理解したことは想像に難く
 ない。  
・成績表から見て、ソソ(スターリン)は入学後しばらくの間はまじめに勉強していた。
 しかし、正教会の歴史や聖人の伝記を説く講義に熱心に耳を傾けることはなかったよう
 である。結果として、最初の二年間の彼の成績は上位ではあったが、けっして最上位で
 はなかった。このような状態では、いくら彼のような貧窮の身でも全額免除の特典は受
 けられなかったのである。
・ソソ(スターリン)は市内にあった私設の図書室を利用し、神学校の禁じる本を熱心に
 読んでいたという。
 当時、民衆を啓蒙する目的で、知識人たちが帝国のいたる所で安価で誰もが利用できる
 図書施設を組織していた。チフリス神学校の生徒たちも、監視の目を逃れつつそうした
 場所を利用して、知的好奇心を満たしていたのである。
・ソソ(スターリン)を含む読書サークルでは、ダーウィンの著作やフォイエルバッハの
 「キリスト教の本質」、スピノザの「エチカ」などを取り上げた。
 ヴィクトル・ユーゴーの小説やこれらの著作を通じて、ソソ(スターリン)は神の存在
 を否定する結論に達した。
 しかし、おそらくこの時点では、この世はすべて不完全な人間が創り出すいびつで相対
 的な世界だとまでは考えなかった。どこかに究極に真実は存在しており、人間の意志と
 努力によってより良い社会を生み出すことができると本気で思い込んでおり、それを得
 る手段を変えただけだったのである。
 このとき以後、ソソ(スターリン)は神学校の課業の合間にチフリスの労働運動に関わ
 るようになった。
・当時のソソ(スターリン)は社会主義の思想を勉強することよりも、革命運動そのもの
 に熱中していた。おそらく彼は、民衆の生活であれば、貧窮の家庭に育った自分の方が
 ノエ・ジョルダニアたちよりもよく知っていると自負していた。
 また彼は、社会主義運動で必要なことは何よりも行動だと確信していた。学問的にそれ
 を理解しようとする人々はもちろん尊敬されねばならないが、自分はそうした世界の人
 と同じではないと考えていた。
・当然、保安当局はこのような状態にあったソソ(スターリン)に注目した。1901年
 3月に、彼の勤める気象台が警察の捜索を受けた。翌年4月に彼は潜伏中のバツーミで
 逮捕された。
 7月に、彼は3年の東シベリア流刑を宣告され、11月末に流刑地のイルクーツク県の
 僻村に着いた。この流刑が彼にとって最初の重大な試練だったと考えられる。陽光きら
 めく夏のカフカースから凍てつく冬のシベリアへの移動は、強烈なカルチャーショック
 を彼に与えたはずである。
・結局、さしたる学歴もなければ、頼れる親戚や知人もないソソ(スターリン)は、刑期
 を終えた後の人生について何も展望を持てなかったであろう。
 この点で、彼の家庭環境はやがて肩を並べて行動する仲間の革命家と大きく異なってい
 た。彼の場合には、金銭的にも、また周囲の知的環境からしても、世間が彼の素行を忘
 れるまでロシアの外に出るという選択肢はまったく考えられなかった。
 他方でソソ(スターリン)の目には、ロシア帝国は矛盾に満ちているように見えていた。
 彼は下層社会の中に渦巻く強い不満を感じ取っており、この国の大転換は不可避だと信
 じていた。 
・ちょうどソソ(スターリン)がそうした覚悟を決めた頃に、やがて彼の運命に深く関わ
 る事件が遠いヨーロッパの地で起こっていた。
 ロシア社会民主労働党という小さな革命集団がヨーロッパで党大会を開く、党員資格の
 規約をめぐって分裂したのである。この分裂から生まれたのが、レーニンを中心とする
 「ボリシェヴィキ(ロシア語で多数派という意味)」党」と呼ばれる集団である。
 このときレーニンは、革命集団を組織するにあたって、実際に革命活動に従事する者の
 みを党員とすべきだと主張し、一般の労働者や協力的知識人にも党員資格を与えるべき
 だ主張する人々と対立した。
・1917年に革命が起きると、このボリシェヴィキ党は権力の掌握を目指す政治集団へ
 と変貌し、その中にあったソソ(スターリン)は古参の有力幹部の一人として活躍する
 ようになった。
 さらに、同年の「十月革命」で権力を取ると、ボリシェヴィキ党は党員と大衆を明確に
 区別し、しっかりとした階層構造を持つ権力集団へと発展していった。
・しかし、当時のソソ(スターリン)はこの事件にまったく関与していなかった。それど
 ころか、彼はヨーロッパで繰り広げられている社会主義運動についてさえ、通り一遍の
 知識以上のものを持たなかったと考えられる。
・ソソ(スターリン)は、指導者と大衆を明瞭に区別するレーニンの議論を全面的に支持
 すると表明した。 
 当時のソソ(スターリン)はレーニンを批判する人々の抱いた危惧を理解できなかった
 ようである。彼はここで、ロシアの社会主義者の中で高い権威を有していた「ロシア・
 マルクス主義の父」プレハーノフのレーニン批判をまったく問題にしなかった。

コーバからスターリンへ
・ヨシフ・ジュガシヴィリが「コーバ」という名前を利用し始めた時期について、定説は
 ないようである。彼がグルジア語の論文に「コーバ」と署名するようになった1906
 年半ばから、この名前を利用するようになった。
 他方、彼が「スターリン」という名前を使い出した時期については、一般に1913年
 1月に発表した論文が最初だとされている。
 いずれにせよ、この時期にはヨシフ・ジュガシヴィリは「コーバ」と「スターリン」以
 外の変名も利用していた。
・ヨシフ・ジュガシヴィリがコーバと名乗り、やがてスターリンと自称するようになった
 時期に、ロシアでは立憲君主制への転換が試みられた。この転換を中途半端なものにし
 た最大の責任は、1894年に即位したニコライ二世にあった。
 彼は家庭的には申し分のない人物であったが、国政を担うだけの資質を欠いていた。
 にもかかわらず彼の受けた教育は、専制君主としての彼の地位は神から授けられたもの
 で、専制君主制こそロシア帝国を治める唯一の政治形態だと説くものだった。
・この状況で、ロシアの進む方向に決定的影響を与えたのは経済不況と国際関係だった。
 国際関係では、大国としての威信を重視するニコライ二世とその取り巻きは、ロシアを
 列強との勢力圏争いに導いた。
 20世紀初頭の段階でロシアが新たな活動の方向を見出したのは東アジアであった。そ
 こにはロシアの勢力拡大を妨害する国家はないように見えた。
 しかし彼らの予想に反して、新興国日本がヨーロッパ諸国から近代国家の運営術を学ん
 で、行く手に立ちはだかった。
 当時日本の指導部は自国の安全を確保するためには朝鮮半島が戦略的に重要な位置を占
 めていると考えており、ロシアのこの方面への進出に危機感を強めていた。
・両国の指導者は1903年まで外交交渉によって和解する可能性を探ったが、結局、翌
 年の1904年2月に日露戦争に突入した。
・1905年1月に首都ペテルブルグで「血の日曜日事件」が起こった。これは生活苦と
 過酷な労働からの救済を求めてツァーリに請願する民衆を、首都を守る軍が武力によっ
 て鎮圧した事件である。
 すでに強い不満を抱いていた労働者や都市住民は事件の報にすぐに反応し、激しい抗議
 活動を繰り広げた。この結果、社会は混乱状態に陥り、農村地域では農民たちが、自分
 たちに有利な形で宿願の土地問題を解決する試みを繰り広げた。
・ニコライ二世は前線での相次ぐ敗退と国内情勢に直面し、ようやく戦争の継続が困難だ
 と理解した。こうして1905年9月にポーツマス条約が締結され、日露戦争は終結し
 た。  
・1906年7月に、コーバ(スターリン)はエカチェリーナ・スヴァニッゼと結婚式を
 挙げた。このときコーバ(スターリン)は26歳か27歳だった。
・神父のエカチェリーナについては、現在もあまりよく知られていない。一時は、彼女は
 革命家の娘で、夫の活動に共感を寄せていたとする解説が示されていたが、現在ではそ
 の説に根拠はなく、むしろ彼女の名前が同じコーバ(スターリン)の母親と同じく、信
 心深い女性で、毎夜夫が革命活動から離れるよう祈るような女性だったと言われている。
 そのような女性と、僅かな友人を集めてささやかな結婚式を挙げた事実は、コーバ(ス
 ターリン)の心境に一定の変化が起こっていたことを示している。
・結婚式を挙げた後、コーバ(スターリン)はエカチェリーナが病気で亡くなるまで、小
 さな家で家庭を営んだ。彼女が死んだとき、彼は周囲の者に悲しみに沈む姿を見せたと
 いう。   
・妻が亡くなった1907年には、これに劣らず重要な事件が起こっている。チフリスで
 同年6月に発生した現金輸送車襲撃事件である。
 よく組織された一群の男女が、普段から人出の多いエレヴァン広場において爆弾を投げ、
 現金輸送中の車から250万ルーブルという大金を強奪したのである。
 このとき、事件の巻き添えになって10人以上が死亡し、それ以外に多数の者が負傷し
 た。事件によって生じたひどい混乱のために、警察は犯人を特定できなかった。しかし、
 社会民主労働党の周辺では、事件後どこからともなくコーバ(スターリン)が張本人で
 あるとする噂が広まった。彼は実行部隊に加わっていなかったが、この事件に関与した
 一団を背後で操っていたというのである。
・この件で最も大きな問題は、はたしてこの事件は、コーバ(スターリン)のイニシアテ
 ィブでなされたものだったのかという点である。そうだとすれば、まさしくこの事件は、
 目的のためには手段を択ばない彼の非人間性を示すものだという主張に一つの根拠を与
 えるかもしれない。 
 しかし、そうではなくて、当時コーバ(スターリン)が従っていたレーニンの指示でな
 されていたとすれば、この事件をもって彼の人間性を判断するのはいささかバランスを
 欠いていると言わねばならない。
・コーバ(スターリン)はこの時期、生まれたばかりの子供をグルジアに住む妻の両親に
 預けて、自分は先の見えない革命運動に関わっていた。
 彼の属するグループは、彼に直接関係のない問題で分裂状態にあり、とても収奪事件で
 彼のために弁明してくれる者がそこから現れるとは期待できなかった。彼がこうした経
 験を通じて孤立感を深め、革命運動の中でも頼りになるのは自分だけだと考えたとして
 も何の不思議もなかった。 
・コーバ(スターリン)は再び逮捕され、二度目の流刑を宣告されたのである。このとき
 当局は、コーバ(スターリン)がチフリスの現金輸送車事件に関与していたことまで突
 きとめられなかった。だから、コーバ(スターリン)は裁判も受けることなく、長々と
 拘束された後に流刑処分を受けた。
・スターリンが関心を寄せ続けた党組織論も民族問題も、当時の社会学者の中ではあまり
 関心を惹く問題ではなかった。当時、社会学者の多数が注目したのは、産業社会の中で
 経済的に虐げられた「プロレタリアート」と呼ばれる人々であり、経済的に社会を支配
 する「ブルジョアジー」と呼ばれる人々であった。彼らは、こうした「階級」を中心に
 事態を見ることに慣れていたので、「民族」の問題を二義的なものとみなしていたので
 ある。また、党組織についても、多くの党員はそれを、自己犠牲的精神を持つ革命家の
 集まりとしか認識しておらず、ロシアのような政治的組織化の遅れた社会では、民衆を
 動員し、指導するための基本的な政治組織だとは考えられなかった。
・当時のロシアの多くの社会学者は、こうした問題よりも、先進的なヨーロッパにおける
 社会主義革命と後進的なロシアで自分たちの進めている革命運動の関係や、ロシア社会
 の発展径路とヨーロッパ社会の発展径路との異同に関心を寄せていた。興味深いことに、
 この時期のスターリンは、こうした「論理的問題」にほとんど関心を示さなかった。
・レーニンは、1917年までにいくつかの論文を書き、資本主義から社会主義への移行
 とは、「特権的少数者の特殊な制度(特権的な官吏、常備軍の指揮幹部)に代わって、
 多数者自ら、直接、このこと(国家権力の機能)を遂行することができる」ようになる
 ことだと語っている。  
 言い換えれば、彼は、資本主義が生み出した大生産様式や工場、社会的インフラを基盤
 にして、支配的な立場にある者(支配者階級)と普通の民衆(被支配階級)の間に、政
 治的社会的に限りなく平等な社会を実現することが社会主義への移行だと語っていた。
・これに対してスターリンは、この点で何も明瞭に語ることはなかった。おそらく彼は、
 革命によって貧富の差や社会的差別が一掃されるという程度のことしか、考えていなか
 ったのである。 
 しかし、その代わりにスターリンは、党組織論とロシア帝国の多民族性という個別の問
 題に強い関心を示した。

ロシアの革命と内戦
・ロシアは、日露戦争が終結してから10年も経たないうちに第一次世界大戦に突入した。
 今度の戦争では、民衆は日露戦争のときに比べるとはるかに積極的に戦争を支持したが、
 官民の協力関係は三年と持たなかった。
 1917年3月にロシア革命(二月革命)が勃発して、300年余り続いたロマノフ朝
 が瓦解したのである。
・ロシアの指導層が国家管理の経済という構想に最初に本格的に着手したのは1915年
 のことであった。中央の管理をもっと上手にやれば、全国的規模で、しかも効率的に、
 国家機関が経済を運営できるはずだとする認識を革命後の社会に伝えた。
・この点で、1917年11月に成立したレーニン政権は、より積極的であった。
 レーニンは「集権化され、計算され、統制され、社会化された」経済を「国家資本主義」
 と呼び、これこそ目下の自分たちに必要なものだと主張した。
 しかし、この時期のレーニン政権には、このような政策を実現するだけの力はなかった。
・1917年の革命の過程におけるスターリンの活動は地味なものであった。いよいよ臨
 時政府の統治能力が弱まり、ボリシェヴィキ党内に武装蜂起によって権力を奪取すべき
 だとする議論が広がったときも、スターリンの言動は指導者らしからぬものだった。
 このとき、蜂起すべきと強く主張したのは地下潜伏中のレーニンであった。トロッキー
 はそれを全面的に支持した。
 これに対してジノヴィエフとカーメネフの二人はまだその時期ではないとして、蜂起に
 反対した。  
 この状況でスターリンは、一方で蜂起に賛成し、他方でジノヴィエフとカーメネフの党
 からの除名に反対するという中間的な立場をとった。
・結局、ロシア革命(十月革命)時に起こった武装蜂起を実際に指揮したのはトロッキー
 であった。スターリンは、党中央委員会が設置した軍事センターの五人のメンバーの一
 人として蜂起に関わっただけであった。
・1918年初頭、レーニン政権は、前年の不作と、ドイツなどとの講和条約によって穀
 倉地帯のウクライナを譲り渡したことなどから、首都の住民に食糧を供給できない状態
 になった。なお1918年3月に政権はモスクワに移転し、以後モスクワが首都になっ
 た。  
・この危機的事態に対処するために、レーニン政権は5月に一連の非常措置を採択した。
 それは、都市労働者からなる武装部隊を農村に派遣し、そこで穀物に隠匿していると思
 われる農民たちから強制的に食糧を調達するというものであった。
 この措置は、たちまちのうちにレーニン政権と農民の関係を緊張させた。
 共産党の側では、貧農であれば、彼らに味方するはずだと考えた。しかし、この幻想に
 基づく予想は簡単に覆され、穀倉地帯である南ロシアの各地で農民蜂起が広がった。レ
 ーニン政権は反革命勢力と戦いつつ、他方で抵抗する農民たちと折り合いをつけねばな
 らなかった。
・ここでより重要なのは、権力掌握の直後から生じていた共産党権力と農民の剣呑な関係
 が外部の者に長い間にわたって不明瞭になったことである。というのも、まさにこの時
 期にスターリンは革命の最前線にあって、権力と農民との対立を目撃し、レーニンから
 農民の抵抗に対処する仕方を学び、やがてスターリン自身が統治者となったときに、師
 の行動を想起したと考えられるからである。
・スターリンは1917年11月に、民族人民委員としてレーニン政権の一員になったが、
 それだけでなく、翌年5月には南部地域において食糧調達を指揮する職務も兼務した。
 スターリンが派遣先からレーニンに次のような報告を送っていた。
 「穀物は南部にたくさんあります。ただそれを入手するには、軍用列車や軍司令官など
  からの妨害にあうことのない組織された機関が必要です。のみならず、軍人が食糧調
  達員を助けることが不可欠です。食糧調達は、当然ながら軍の問題と結びついていま
  す。この仕事のために、私には軍事的全権が必要です」
・以上からうかがえるように、このときのスターリンの報国はかなり明瞭に彼の特徴を表
 していた。それは当面の課題への集中力、強い意志、実務的な判断力などからなるもの
 で、彼がほぼ生涯にわたって保持し続けたものであった。彼の集中力は目的への確信か
 ら生じていた。 
 明らかにこのときのスターリンは、自分に課せられた任務に政権の命運がかかっている
 ことを確信していた。だからこそ、短期間で大量の穀物を首都に送ることができると、
 何度も請け合ったのである。しかし、彼を迎える農民たちが穀物を喜んで供出したはず
 はなかった。このとき彼がとった行動は、穀物調達に軍人の助けが不可欠だとする短い
 言葉によって示唆されている。
・しかし、スターリンの断固たる行動が師にどれほど好印象を与えたとしても、ここで彼
 が軍事的全権まで要求したことは大きな問題を提起することになった。というのも、こ
 の時期に軍の立て直しに奮闘していたのはトロッキーであり、軍の再建も食糧調達と同
 じほどに政権にとって緊急の課題であったからである。
・1919年10月、レーニンが次のような恐ろしい提案をトロッキーに送った。
 「我々はペトログラードの労働者をもう2万人ほど動員し、さらにこれに1万人くらの
  ブルジョアジー分子を加えて、彼らの背後に機関銃を据え、2,300人を銃殺して
  ユデーニッチに大規模な攻撃を加えるべきではないだろうか」
・当時、民衆は帝政復活を目指す勢力ばかりか、レーニン政権にも疑問を抱き、動員され
 て加わった軍隊から逃亡する者が跡を絶たなかった。おそらくこうした事情を食い止め
 るために、レーニンは階級的な敵である「ブルジョアジー分子」をも動員して、その背
 後に機関銃を据え、退路を断ってユデーニッチ軍と戦わせることを考えたのであろう。
 やがて第二次大戦のときに、スターリンはこのレーニンのアイディアを採用するのであ
 る。
・スターリンは内戦期に「民族」に関するあらゆる問題で、高い実務能力を示した。
 党内には民族問題に関心を寄せてきた者が少なかったので、彼の出番は必然的に多くな
 った。
 「民族」に関連する問題はあまりに多様なので、重要な問題に限って取り上げると、
 それは第一に民族自決権の問題であり、第二に「民族」と呼ばれる集団の取り扱いの問
 題であり、第三に連邦制の問題である。
・民族自決の問題は、比較的簡単である。これはレーニンとスターリンが唱えてきた少数
 民族の権利を、権力掌握後にどのように扱ったかという問題である。
 というのも、ブレスト・リトフスク講和交渉の過程でウクライナが独立を宣言し、新国
 家としてドイツと友好関係に入ったからである。 
 つまり、1918年3月時点で見れば、レーニンとスターリンが唱えてきた主張は、ド
 イツによるウクライナの占領を事実上の植民地化を容易にしたのである。
 レーニン政権としては、この調子で旧ロシア帝国の少数民族地域が次々に敵国勢力の支
 配下に入る事態はどうしても阻止したかった。
・「民族」の取り扱いの問題はより複雑である。ソヴィエト権力が新しい体制の中に多数
 の少数民族を組み入れるためには、民族と民族でない集団を区別するばかりか、少数民
 族でも、その政治的実力や政治的傾向次第で個別に対応する必要があった。
・レーニンとスターリンは少数民族の取り扱いでは、かなり機会主義的に対応した。彼ら
 は、旧ロシア地域に住むすべての少数民族に無差別に自治的国家の形成を許したわけで
 はなかったのである。しかし、党員の中では、スターリンは間違いなくレーニンととも
 に少数民族の権利を尊重する側に位置していた。さらに言えば、彼は少数民族に心情的
 に味方したのではなく、政治的実現として少数民族を味方にすることの意味をよく理解
 していた。他に多数民族の帝国を継承する方法はないと、彼は確信していたのである。
・レーニンは最後の発作に襲われ、以後、この稀代の革命家はまったく政治的活動ができ
 なくなり、1924年1月に亡くなった。
・1922年末から翌年にかけて、レーニンは後継者と目される一群の人々について、自
 分の評価を遺しておいた。
 「同志スターリンは、書記長となって、その手中に無限の権力を集中した。私は、彼が
 常に十分慎重にこの権力を行使しうるかどうか確信が持てない」
 「スターリンはあまりに粗暴である。そしてこの欠点は、我々共産主義者の間やその付
 き合いにおいて十分許容できるものであるが、書記長の任務にあたっては許容できない
 ものになる」  
・ここでレーニンが指摘したスターリンの粗暴さとは、異常なレベルの非人間性を指すと
 は考えられない。むしろ、スターリンが時に党員や一般民衆にとった乱暴な振る舞い、
 あるいは何事も権力を利用して問題を処理する傾向といったものを意味すると考えるべ
 きだろう。

権力闘争の勝者
・レーニンは1923年に政治的活動ができなくなり、翌年1月に死去した。この時から
 始まった後継者の地位をめぐる争いでスターリンが勝者となったのである。
・スターリンは賢く、抜け目のない党幹部であったが、それだけで権力闘争に勝てるほど
 彼の政敵は甘くなかった。むしろ、いずれも彼に優るとも劣らない知的能力と野望の持
 ち主だった。明らかにこの時期の権力闘争では、スターリンは彼を取り巻く状況の転変
 によって助けられたのである。
・1919年に正式にスターリンの妻となったナデェージュダは、バクーで1901年に
 生まれているので、スターリンとは歳が20以上も離れていた。スターリンは1917
 年春にシベリアから帰還したとき、娘のような年齢の女性と付き合うようになったので
 ある。この時期は、スターリンが地下活動の中で失った青春を取り戻した時代と見るこ
 とも可能であった。  
・1932年にナデェージュダが自殺したことから、二人の関係は早くから冷え切ってい
 たとする解釈もあるが、それは事実ではなかった。
 夫婦の間の手紙で、その内容は取り留めもないが、ナデェージュダはいつもスターリン
 の健康を気にかけており、スターリンもまた彼女が時おり記す市民生活についての観察
 や、遠慮がちに述べる意見に注意深く対応していた。
 二人はスターリンの先妻との息子ヤコフの行動を気に留めていた。
 また一度だけ、1930年10月の手紙で、ナデェージュダは夫の浮気をあてこするよ
 うな文章を書いていた。これにスターリンは、自分は何も不貞な行動はしていないと反
 論している。
・スターリンは1922年4月に、レーニンの同意の下に共産党中央委員会書記長に就任
 した。1919年に設置された書記長というポストは、当初は純粋に技術的性格を持つ
 ものであった。実際、その三年後にスターリンが書記長になったときも、党上層部の誰
 もそれが大きな政治的意味を持つとは考えなかった。
 しかし、地下活動時代から党組織の重要性を意識していたスターリンにとっては、おそ
 らく事情が異なっていた。彼はこのポストに就くことで、これまで蓄積してきたものを
 十二分に発揮する機会を得たと受け止めたはずである。
・晩年のレーニンはスターリンが書記長に就任してから一年も経たないうちに、この人事
 を後悔するようになったが、それだけスターリンの影響力の増大は目覚ましいものだっ
 たのである。 
・それでもまだこの時点では、国家の重要職務の人事権をスターリンが牛耳るという状況
 ではなかった。明らかに彼はまだ党内の第一人者ではなかった。当時、その地位に最も
 近かったのは最古参のジノヴィエフであった。また政治局の会議はカーメネフが議長を
 務めており、軍部を握るトロッキーも民衆の中で高い人気を博していた。
・スターリンもこのことをよく理解していた。彼がさらに影響力を高めるためには、民族
 問題と党組織という「専門」を超えた能力を示す必要があった。このような状況と、彼
 がこの時期に自分用の書庫を整備したことは、おそらく無関係ではなかった。
 スターリンは少年時から読書を好んだ。1920年頃から、彼は個人の書庫を整備し始
 めたのである。 
・書庫はスターリンにとって仕事のため、現在の活動のため、参照や情報のため、また休
 暇のために必要だったのである。それは社会や政治、歴史に関わる本や雑誌が大部分で
 あった。軍事を含む歴史に、スターリンは若い時分から強く惹かれていた。彼はトロッ
 キーをはじめとする政治的敵対者の著作も保管した。もちろん、レーニンのものは全部、
 繰り返し読んでいた。
・スターリンの蔵書はきわめて実務的性格を持っていた。また同時に、彼の関心が非常に
 広かったことを示している。
 明らかに彼は、国家統治に関わるあらゆる分野に通じたいと考えていた。さらに言えば、
 高等教育を受けていなかった彼は、まさに独学で、役立つと思われる知識を貪欲に吸収
 していたのである。 
 現在では、数万冊を数えたと言われる彼の蔵書のうち、明白な読書の跡をとどめている
 400点弱の本が歴史研究者の利用のために歴史史料館に別置されている。
・スターリンの蔵書の存在が明らかになると、長い間、スターリンにあたえられてきた、
 実務能力ばかりで、知的には凡庸で、そのことで劣等感を抱き続けた人物だったという
 評価がはたして正しいのか、という疑問が提起されるようになった。
・スターリンのこうした学習姿勢の根底にあったものは、最終的には知的好奇心というよ
 り権力への意思と呼ぶべきものであった。
  
・社会主義社会の実現は成熟した資本主義の経済的技術的水準を前提としていたが、明ら
 かにソヴェト・ロシアはそうした水準に達していなかった。軍事力向上のためにも、工
 業力を早急に高めることが不可欠であった。
 しかし、そのための資本を確保する方法が不明だった。革命の過程で次々に企業を国有
 化した「労働者と農民の国」に、投資を考える外国人資本は少なかった。
・そこで考えられたのが、農民を犠牲にして工業部門に優先的に投資する方法である。
 これは原理的には、農民が提供する農産物の価格を低価格に抑え、逆に工業製品の価格
 を高価格に設定することで実現しようというものである。
 しかし、これとまったく逆の方法もありえた。すなわち、農業の復興を優先し、農民が
 生み出す農作物を輸出して、それによって得た外貨で、少しずつ工業のための施設や機
 械を輸入するという方法である。 

・内戦の終了時点で共産党政権と農民との関係がきわめて曖昧だった。そもそも内戦状態
 の終結自体が、政権側が農民の側に歩み寄ることにとって生じたものであって、長くソ
 連国内で主張されてきたように、農民の側が新政権を受け入れたことによって生じたも
 のではなかった。
・農民は、ウクライナでもタンボフ県でもシベリアでも、農民蜂起を通じて「自分の土地
 で自由な主人になる」ために戦った。彼らの反乱は最終的にレーニン政権によって撃破
 されたのであるが、それでも政権の政策を変更させ、農民に「自由な経営権を与えさせ
 た」。
・スターリンはなし崩し的にそれまでの経済政策を変更していった。
 その第一歩が1928年1月から始まった穀物調達の強行である。
・スターリンは、1928年までに状況が大きく変わったと判断したのである。いや、
 同年11月の党中央委員会総会での発言を見る限り、中央委員のかなりの者が、スター
 リンと同じく、今こそ急激なテンポで工業化を進めるべきだと考えていたのである。
 スターリンたちは急進的工業化路線に突き進んだのである。この新しい政策の柱となる
 のが「経済建設五ヵ年計画」であった。
   
最高指導者
・1920年代末から1941年までの「長い10年」は、スターリンにとって、またソ
 連にとっても光と闇が交錯する矛盾に満ちた時期であった。
 この期間に強行された農業集団化によって、また大粛清によって、異常な規模の人命が
 奪われたことを考えれば、この時期はおぞましい犯罪に満ちた年月だったということに
 なる。
 しかし、他方では、まさのその農業集団化を伴いつつ進められた急進的工業化によって、
 ソ連という国が第二次大戦を戦い抜く世界強国に変貌したこと考えれば、この時期は大
 躍進期でもあった。
・国際的に見れば、この時期のスターリンには確かにこのような自信満々の予想を立てる
 だけの理由が存在した。
 まず前月にニューヨーク証券取引所において株価が大暴落し、資本主義は奈落の底に向
 かっているかに見えた。
・そればかりではなかった。英ソ外交関係が復活した。両国関係は非妥協的外交姿勢を貫
 いたスターリンの思惑通りに進み、最終的にイギリス側が折れて、外交関係が再開した
 のである。
・ソ連が国を挙げて大規模な事業を始めれば、失業問題が解決に向かうのは当然であった。
 失業者数は1929年から急減していった。この状況に、同時代の資本主義国の人々は
 自国の暗澹たるありさまと対比し、羨望の眼差しでソ連を見るようになった。
・しかし、スターリンが演説したバラ色の展望には大きな問題が隠されていた。
 なかなか成果の出ない重工業部門への投資を優先した結果、軽工業部門の生産は伸びず、
 日用品の不足が慢性的になったのである。
・重工業部門では、問題が起きていた。五ヵ年計画は、野心的な地方党幹部などの熱意に
 押されて、次々に目標が上方修正されていたが、労働の生産性は上がらず、資材と資本
 の浪費が繰り返されていた。
・さらに、工業部門の諸問題よりもはるかに深刻な問題が隠されていた。それは他でもな
 く農民の抵抗である。政権側はこれに対処するために次々と政策をとった。
 各農戸に穀物供出義務を課し、果たさない場合には法にとって罰すると脅した。
 「全面的集団化」と「階級としてのクラークの清算」にために一連の措置がとられた。
 これによって、農民は「コルホーズ加入か、(収容所のある)ソロフキーに行くか」と
 いう選択肢を突き付けられた。
 こうした強圧策を実施する現地機関を助けるために、都市部で政治的組織的活動に慣れ
 た労働者や党員が動員され、農村に派遣された。
・スターリンは論文で「コルホーズを力ずくで植え付けることはできない。そんなことを
 するのは馬鹿げた、反動的なことであろう。コルホーズ運動は、農民の大多数の積極的
 な支持を基盤としなければならない」と説き、全面的集団化政策の行き過ぎは指導部の
 意図を曲解した現地の活動家によるものだと釈明した。要するに、責任を現地の活動家
 になすりつけたのである。
 スターリンの論文を知った農民たちは悦び、コルホーズから続々と脱退していった。
 1929年11月にスターリンが描いたバラ色の展望は半年も経たないうちに霧散して
 しまったのである。
・しかし、スターリンの指導部は実質的に何も政策を変えなかった。共産党中央委員会総
 会において、全面的集団化と「階級としてのクラークの清算」政策を基本的に1931
 年の間に完了することが決まった。
・当然、農民の抵抗は熾烈だった。しかしスターリン指導部はこれを力で押えつけようと
 した。 
 1930年から翌年の間に、約38万の家族(約180万人)が「クラーク」として農
 村から追放された。 
 コルホーズ員になることを受け入れた農民の中には、加入に際に飼っていたに鶏や馬を
 処分するという行為に出る者もいた。どうせ自分のものでなくなりなら、食べてしまっ
 た方がましだと考えたのである。また彼らは、コルホーズに入っても、生産意欲を示さ
 ないことによって消極的に抵抗した。
・穀物に輸出では、指導部は予想外の事態にも直面した。何よりも、世界恐慌によって国
 際市況での穀物価格が大幅に下落したのである。
 穀物の価格の低迷は1931年にも、その翌年にも続いた。どうしても外貨を必要とす
 るスターリン指導部は予定以上に大量の穀物を輸出しなければならなかった。
・さらに天候が指導部の計算を狂わせた。これは予想外というより、1930年という年
 があまりに天候条件に恵まれたことの反動として現れた。同年にはソ連でこれまでにな
 い穀物の調達量が確保されたのである。この成功がスターリン指導部を強気にさせた。
 この結果、1931年の気候条件があまりよくなく、実際の収穫量が低下したにもかか
 わらず、穀物調達量を引き下げようとしなかった。
 1931年夏から翌年初めまで穀物調達が強行された時点で、すでにウラルやウクライ
 ナ、ヴォルガ地方などの多くの地域で飢饉が始まっていた。
・スターリンは1931年の論文で次のように説いていた。
 「資本主義の狼の法則はこうである。お前は遅れて弱い。つまり、お前は正しくなく、
  したがって、お前を打ち負かして、奴隷にして差し支えないのだ。
  お前は強い。つまり、お前は正しく、したがって、お前には用心しなければならない
  と。
  だからこそ、我々は、これ以上、遅れてはならないのだ。我々は先進諸国に50年か
  ら100年立ち遅れている。我々はこの距離を10年で走り過ぎなければならない。
  我々がこれを成し遂げるか、それとも、我々は押しつぶされるかである」
 ここにこそスターリンの本音があった。
・同年秋に勃発した満州事変は、こうした彼の不安を一段と強めることになった。
 ただ、スターリンには日本軍がすぐにもソ連の脅威になるという認識はなかったようだ。
 むしろ彼が恐れたのは、資本主義列強が連携して反ソ行動に出る事態であった。  
・始めたばかりの急進的工業化政策は、彼の予想をはるかに超える困難に直面していた。
 何よりも、指導部は工業化のため、また急速に進む都市化のために穀物を大量に調達し
 なければならなかった。しかも、コルホーズ体制は安定した穀物調達に役立つと考えら
 れていたが、実際には農民の生産意欲を著しく減退させ、調達を困難にした。
・農民たちの間に充満した不満と不信の念は、夏からの刈入れに影響を及ぼした。彼らの
 中から、収穫物を隠したり、倉庫から穀物を盗んだりする者が現れた。
 この事実を見てスターリンは、農民の抵抗に、暴力的に対処する方向に向かった。
 その内容は、国営企業やコルホーズなどの資産を盗んだりする者に対して、たとえその
 量が僅かでも、10年の投獄もしくは銃殺刑を科すという厳罰を定めるものだった。
・こうした強い決意の下、スターリンは10月にはソ連の穀物地帯であるウクライナ、北
 カフカースなどに部下たちを派遣し、調達を督励させた。
・実際に飢えている農民たちを見ている現地の党員の中には、指導部の動きに同調しない
 者もいた。しかし彼らの抵抗は簡単に排除された。
 この結果、11月にクバン州だけで共産党を除名された者が全体の43パーセントに及
 び、同時期に北カフカース全体では1万5千人もの人々が逮捕された。
・この状況に共産党員のすべてが沈黙したわけではなかった。8月にモスクワ郊外で、ス
 ターリンを批判する秘密集会が開かれた。
 彼らの認識では、スターリンの政策はトロッキーのそれと同じで、革命を破壊に導くも
 のであった。つまり、他ならぬ党内から、スターリンの政策を正面から批判する動きが
 起こっていたのである。 
 しかし、国内に張り巡らされていた密告システムは、抗議の機運が広がるのを防ぐのに
 きわめて効果的であった。
・スターリンの妻ナデェージュダが、11月に彼との口論の末に自殺したのは、おそらく
 はこのような国内状況と無関係ではなかった。
 しかし、党内に批判が出ても、また妻が自殺しても、スターリンは急進的工業化政策を
 止めるわけにはいかなかった。 
 この辞典での政策転換は、政策全体への信頼を失わせ、ソ連体制そのものを危機に陥れ
 る恐れがあった。
・だが、すでに春の時点で飢餓が起こっていたウクライナなどの地域では、厳しい調達の
 結果、食べるものが何もない状態にあった。まさに絶体絶命の状況であったが、スター
 リンは強引に事態を乗り切ろうとした。まあに権力欲が彼を引きずっていたのであるが、
 そこには自分が権力者として生き延びなければ、社会主義国家もまた生きのびることが
 ないという政治指導者の究極の意識も働いていた。
・この時期に、飢えた農民たちはコルホーズを捨て、都市部に逃げ込もうとしていた。カ
 ザフスタンでは中国領に逃亡する者が続出した。指導部としては、このような動きを放
 置するわけにはいかなかった。  
 1931年1月に極秘指令を出し、北カフカースやウクライナから農民たちが脱出する
 ことを全面的に禁止した。
・飢餓状態は穀物が稔る夏まで続いた。それまで、これらの地域の農民たちは食物のまっ
 たくない地域に閉じ込められたのである。このとき飢えて死んだ者の数は現在も正確に
 は算定できない。多くの研究者は、国勢調査などの史料を利用して4百万人から五百万
 人ほどだったのではないかと推測している。つまり、第一次大戦で死亡したロシア国民
 よりも多くのソ連人が、この時期の政策の結果として命を落としたのである。
・1932年から翌年にかけて党内にはスターリン離れの動きが起こっていた。この時期
 に党から除名された者が40万人にのぼった事実は、そのことを示しているという。
・1934年12月にレニングラードでキーロフ政治局員の暗殺事件が起こった。
 ニコラーエフという党内不満分子がいとも簡単に市内の党本部の建物に入り込み、当時
 スターリンに次ぐ指導者と目されていた大物政治家を殺害したのである。
 言うまでもなく、多くの人々はこの事件に衝撃を受けた。
・ここでスターリンがキーロフを暗殺したと断定することはできない。スターリンは事件
 の翌日朝にはレニングラード本部に乗り込み、ニコラーエフ本人を尋問し、速やかに処
 刑するよう命じた。
 この手際よさと、それに続く多数の指導者の粛清から、ソ連では早くからスターリンこ
 そこの事件の首謀者であると噂された。しかし、今に至るまで、この点を立証する証拠
 は何も出ていない。
・スターリンは、集団化が引き起こした地獄絵のような事態に対する責任から逃れるため
 に、エジョフを利用して、今後、自分を追及する動きに出る可能性がある者を排除し、
 批判する可能性がある者を沈黙させる必要があると考えたものと思われる。
・1936年にジノヴィエフとカーメネフに対する裁判があった。彼らは国外にあったト
 ロッキーと手を組み、キーロフを暗殺したばかりか、スターリンの殺害を図ったとして
 死刑を宣告された。二人の彼らのグループに属した人々は、判決後ただちに処刑された。
・これはまだ手始めに過ぎなかった。
 1936年から続く三つのモスクワ裁判によって、かつて党内反対派に属していた者の
 うち、主要な指導者のほぼすべてが処刑された。
 唯一残ったのがトロッキーであったが、彼も1940年にスターリンの送った刺客によ
 ってメキシコで殺害された。  
・さらに1937年5月にはトゥハチェフスキーが逮捕され、翌月処刑された。このとき、
 赤軍の首脳7人も一緒に銃殺された。この時期の軍部の粛清は、彼ら以外にも広がった。
 また、粛清は共産党の中央委員クラスの人々にも及んでいった。
・スターリンの立場から見れば、彼らは、スターリンの農業集団化が弁明し難い事態を引
 き起こしたことをよく知るがゆえに、きわめて危険な存在であった。近い将来に戦争が
 起きたときに、彼らが自分に忠誠を尽くすとはとても思えなかったのである。
・女性の犠牲者も挙げられる。このうち、よく知られているのは党上層部の妻たちが逮捕
 されたケースである。実際、このような粛清も拡大され、1937年8月には「祖国の
 敵と宣言された妻」を逮捕するように命令が出された。
・この時期に逮捕された女性の総数は不明だが、処刑された女性は数万人に及びと考えら
 れており、そのうちのかなりの者は、たとえば聖職者のように、何らかの意味でソ連の
 生活様式に合わせることが困難な人々であった。スターリンが、彼女たちを自分の潜在
 的な敵とみなして粛清したとは考え難かった。
・大粛清の犠牲者はスターリンの潜在的敵とみなし難い人々も多く含んでいた。
 この結果、1936年から1938年までの間に政治的理由で逮捕された者は134万
 人余に達し、そのうち68万人余り処刑された。
・大粛清は、農業集団化の悲惨な結果が出発点にあり、その責任を糊塗する過程で多数の
 指導層を正当な理由もなく逮捕し処刑したことがこの過程の本筋だとする素朴な解釈は、
 今でも十分に説得的だと思われる。
 スターリンのこうした強引な行動が、取締りにあたった治安機関の活動を野放しにし、
 さらには国民の中にあった不安感を極度に高め、「大粛清」と呼ばれる事態を引き起こ
 したと考えられるのである。 
・スターリンがこの時点で自分の正しさを主張するとすれば、それは急進的工業化政策に
 よって強大な軍事国家を建設したこと以外にありえなかった。
 大粛清によって多数の経済専門家を排除してもなお、「計画経済」は国内各地に重工業
 の拠点を生み出していた。戦争を予想して、西側の国境近くばかりか、ウラルなどソ連
 の中央から東部地域にも拠点が建設されていた。当然、航空機、戦車等々の兵器、そし
 て弾薬の生産工場が、急速に拡充されていた。
・スターリンは間違いなく、彼のこれまでの政策によってとてつもない数の犠牲者を出し
 てしまったことを理解していた。しかしそれでも、これだけの成果を挙げれば、近い将
 来に起こる戦争が、必ずや自分のこれまでの政策を正当化すると自分に言い聞かせてい
 たものと思われる。戦争の脅威はすぐそこに迫っていたのである。
   
ヒトラーとの戦い
・1941年6月に5百万人を超えるドイツ同盟軍がソ連に襲いかかった。
 スターリンにとってそれは審判のときだった。彼がこれまで強力に進めてきた政策が国
 民によって評価される機会だったからである。
・スターリンとヒトラーの戦いは、開戦前に外交戦から始まっていた。ここでのスターリ
 ンの戦いは、敵国ばかりの中で最も危険な敵と戦うことを意味した。社会主義国ソ連の
 指導者としては、ドイツのみを敵と考えて行動するわけにはいかなかったのである。
・スターリンが何よりも願ったのは基本主義国同士の争いだった。最終的にドイツを孤立
 させ、破ることができれば、最良の結末であった。
・1938年4月に、スターリンは、粛清を取り仕切ってきたエジョフ内務人民委員に水
 運人民委員も兼務させることにした。
 スターリンはこれによってエジョフの内務人民委員からの解任が迫っていることを示唆
 したのである。   
 この微妙な変更は、たちまち党上層部に波紋を広げた。リュシコフも風向きの変化を察
 知した一人だった。彼は5月にモスクワ召喚の命令が伝えられると、翌月には越境して
 満州国に逃亡した。エジョフに万一のことが起これば、部下である自分にも追及が及ぶ
 と判断したのである。この後リュシコフは、1945年に非業の死を遂げるまで日本の
 対ソ情報戦に関与した。
・1938年の7月から8月にかけて極東で起こった日ソ両軍の軍事衝突(張鼓峰事件
 も、戦時体制への進行を促した。日本との小規模の国境紛争はここ数年続いており、今
 回のそれはその中では比較的大きなものだった。
 スターリンにとって、すでに国際的に孤立している日本との限定的な戦いは回避すべき
 ものではなかった。しかしこの張鼓峰の戦いで、ソ連軍は予想以上に苦戦した。この戦
 いでの日本側の死者が650名、負傷者2500名であったのに対して、ソ連側はそれ
 ぞれ960名と2752名であった。
・そうした状況にあった9月に、スターリンが最も恐れていた事態が起こった。ミュンヘ
 ンにイギリス、フランス、イタリアの指導者、そしてドイツのヒトラーが集まり、チェ
 コスロヴァキアのズデーテン地方をドイツに与える合意を生み出したのである。英仏の
 指導者は、これはヨーロッパの戦争を回避するためのやむを得ない策だと説明した。
・スターリンは、それを単なる平和維持のための策ではなく、資本主義国が結束して、ド
 イツをソ連に向かせる策だと理解した。彼によれば、イギリスやフランスがドイツばか
 りか日本の軍事的膨張を許しているのは、やがて両国がソ連と戦うと考えてのことだっ
 た。彼は、軍事行動を始めている日独両国も、「平和愛好」を唱えるイギリスやフラン
 スも、本質において何も変わりはないとみなしていたのである。
・スターリンは明確にドイツに対する友好的姿勢を示した。彼の考えでは、もしイギリス
 やフランスがドイツを東に向けようとするのであれば、ソ連がドイツと提携に向かうの
 は当然であった。
・スターリンは国防上脆弱だと見られていた国境線の修正に着手した。もしもドイツが西
 側諸国と結ぶ方針をとり、そこにフィンランドおよびバルト諸国が加われば、隣接する
 レニングラードが防衛困難になると考えたのである。
・フィンランドに対する行動は、ミュンヘン会談以降、一段と強硬なものになった。もは
 やソ連側の要求は、両国の外交的協調にとどまらなかった。フィン湾に浮かぶ同国のい
 くつかの島をソ連に割譲するか、長期的に貸与するよう求めだしたのである。
・スターリンにとって幸運なことに、ドイツの膨張の動きを見たイギリス政府は、ソ連と
 接近する姿勢を見せた。こうして、イギリス、フランスとドイツの結託という道筋の他
 に、ソ連とドイツの和解、ソ連とイギリスの和解という二つの道筋が浮かび上がった。
 三つ巴の交渉によって、国際情勢は極度に流動的になった。
・ちょうどこの時期に極東で生じた武力紛争が、ソ連の対応を一段と複雑にした。当時、
 ソ連の衛星国となっていたモンゴル人民共和国と日本が樹立した満州国の間の国境は曖
 昧で、不明瞭な点を残していた。しかも双方は、極度に不信感を募らせていた。
 ノモンハンで生じた軍事的小競り合いは、その後、拡大の一途をたどった。
・ソ連はモンゴル人民共和国との友好条約に基づいて同国の国境を守ると言明した。ここ
 で弱みを見せれば、その影響がヨーロッパ方面に及ぶことは必至だった。
 他方、関東軍も、一歩も引かない姿勢をとった。
 ソ連軍の大規模な機械化部隊が日本の第23師団を壊滅状態に追い込むまで、双方は死
 闘を繰り広げた。結局、最後に戦場を支配したのはソ連軍だった。
・ノモンハンの結末が見えてきた頃に、ソ連はドイツとの間に不可侵条約を締結した。
 締結された独ソ不可侵条約はソ連の内外に強烈な反響を引き起こした。
 出し抜かれたイギリスとフランスの指導者は強い衝撃を受けた。日本の指導者も、日独
 防共協定に基づいてドイツは反ソ反共の外交を進めていると考えていたので、ひどく狼
 狽した。  
・スターリンは、ポーランドはウクライナ人などの少数民族を抑圧する国家だと断言し、
 ソ連軍に攻撃を命じた。こうして、独ソ不可侵条約でドイツが占領しないことになって
 いた西ウクライナと西ベラルーシは、ソ連軍によって「解放」され、やがてソ連に加
 えられた。
・さらにソ連はエストニア、ラトヴィア、リトアニアの三国との間に軍事基地を置く協定
 を締結した。 
・ソ連指導部はフィンランドに対しても同様の協定を結ぶよう迫った。これにフィンラン
 ド政府が抵抗すると、外交交渉を打ち切り、宣戦を布告した。
 しかし、必死に自国を守ろうとするフィンランド軍は、深い雪とカレリア地峡の地の利
 を活かして幾度もソ連軍を撃退した。
 この戦争でともかくも勝利したソ連は、カレリア地峡全域とハンコ岬、ラドガ湖北部な
 どをフィンランド側に割譲させた。
・これでレニングラードは見かけ上安全になった。しかし、この成果が軍事的には無益で
 あったことは、1941年に独ソ戦が始まるとすぐに明白になる。
 これだけの成果を得るためにソ連側が支払ったのは人的損失と軍事面での評判だけでは
 なかった。ソ連は国際連盟から追放されたのである。
・それでもスターリンは、フィンランドとの戦争はレニングラードの安全を確保するため
 に不可避であったと強弁した。   
・このような失敗を犯しても、スターリンの決意は変わらなかった。彼は、エストニア、
 ラトヴィア、リトアニアの三国をソ連に「自発的に」加盟させた。
・スターリンが対独外交で収めた最後の成功は、1941年4月の日本との中立条約の締
 結であった。この点では、ドイツ、日本、ソ連の大陸同盟について、スターリンが期待
 をかけることは何もなかったと思われる。彼はただ、ドイツと日本という強敵が東西で
 同時にソ連と戦争に入る事態を避けたいと考えたのである。
 このために、日本の外相松岡洋右がモスクワを訪れたとき、彼は最大限の歓待をもって
 遇した。 
・他方、ヒトラーもスターリンに劣らずシニカルであった。彼はイギリスとの戦いを続け
 つつ、東部方面での対ソ戦の準備を進めた。
 ドイツの大軍が東部方面に集結するようになると、当然スターリンのもとにはその攻撃
 が迫っているという情報が届くようになった。
 にもかかわらず、スターリンはこうした警告を無視し、逆に前線司令官の挑発に乗って
 対独攻撃に出ることのないよう命令した。
 スターリンは、イギリスがドイツとソ連を戦争させるために画策している事実と、ドイ
 ツとイギリスが死闘を繰り広げている状況を重視していた。今の状況でソ連が抑制さえ
 すれば、ヒトラーとの戦争を先延ばしできると考えたのである。
・6月に突然にドイツ軍の攻撃を受けた。同日朝、スターリンはドイツ軍が前線の至る所
 でソ連軍を攻撃していると知らされると、側近たちの言葉を信じようとせず、もう一度
 ドイツ大使館に確認するよう命じた。
・この後、開戦が事実だと確認されると、彼はショックを受け、しばらく陣頭指揮をとろ
 うとしなかった。この日、国民にラジオを通じて開戦の事実を伝えたのはスターリンで
 はなく、外相のモロトフであった。
・スターリンは、国家と党の最高職務を兼務する立場にあったにもかかわらず、肝心なと
 きに国民に訴える任務を回避したのである。この事実こそ、このときのスターリンの姿
 を示している。指導部の動揺が続く中で、前線は総崩れの状態に陥った。
・スターリンが立ち直り始めたのは、側近たちが、彼を長とする国家防衛委員会を提案し
 たことによるものだった。   
 側近たちが近くの別荘にいたスターリンにこの提案を持って行くと、彼は訝し気な面持
 ちで「何のために来たのか」と尋ね、見るからに不安を鎮めようとしていた。
 スターリンはこのとき、一瞬、わが身の危険を意識したのである。しかし、この状況の
 中でスターリンを排除すれば、ソ連という国家そのものが持たないことを側近たちはよ
 く知っていた。彼らは、独裁者に指導者として振る舞ってほしいと要請することしか考
 えなかったのである。
・一度、状況が明白になると、スターリンの立ち直りは早かった。彼は自分の判断の誤り
 が、異様な規模の犠牲を出した事実をけっして認めなかった。彼によれば、悪いのは戦
 わずして敵軍に敗れた前線の軍人たちだった。こうして、西部方面軍の司令官パヴロフ
 将軍やクリモフスキフ参謀長などがモスクワに召喚され、処刑された。
・スターリンが最高総司令官の地位に就いた。そして彼が発した命令は、前線の司令官な
 どで戦闘中に記章をやぶって後方に逃げたり、敵に投稿したりした者を悪意の脱走者と
 みなし、その家族を逮捕すると宣言するものだった。 
・だがこのような厳しい措置を示しても、前線はなかなか立ち直らなかった。8月にうち
 にバルト地域、ベラルーシ、ウクライナのほぼ全域がドイツ同盟軍の手に落ちた。
・モスクワにも危機が迫っていた。
 スターリンは10月には、南部ヴォルガ河沿いのクイブイシェフに中枢機関を疎開させ
 る決定を下した。このために、日本大使館をはじめとする外国使節や政府機関が同時に
 移動していき、市内には爆弾が仕掛けられた。この焦土作戦は、すでにスモレンスクな
 どで試みられており、後から見ても合理的な判断だった。
 しかし市内各地でパニックが生じた。おそらくはこの状態を見た後、スターリンはモス
 クワに踏みとどまる決心をした。この判断は、彼にとってもソ連にとっても大きな意味
 を持った。軍民一体となった必死の防戦で、モスクワは陥落しなかった。ヒトラーの電
 撃戦はソ連には通用しなかったのである。
・ヒトラーはイギリスやアメリカが対ソ戦に参加することを期待し、またソ連体制とソ連
 軍の脆さを想定して電撃戦を開始したが、ソ連兵士の国土を守る意識とソ連の国土の奥
 深さの前に屈したのだとスターリンは強調した。 
・スターリンの強気に鼓舞されて、ソ連軍も反攻を開始した。寒気の強まりもソ連軍に味
 方した。
・ヒトラーはソ連の人々の意外な粘りに直面し、攻撃計画を練り直さざるをえなくなった。
・スターリンは、臆病や気持ちの動揺で前線を逃げ出した中級以上の指揮官からなる「被
 懲罰大隊」を組織し、「母国への犯罪をその血で贖わせるために」、前線の困難な場所
 に配置すべきとする一文が含まれた命令を出した。
 士気の定まらぬ師団の後方には、「パニックに陥った者や臆病者」が無秩序に退却した
 ときに、彼らをその場で射殺するための特別阻止部隊を置くように命じていた。
・同じ頃に、スターリンは別の問題も抱えていた。
 彼が最初の妻との間にもうけたヤコフ・ジュガシヴィリ中尉が、1941年7月からド
 イツ軍の捕虜になっていたのである。
 ドイツ側は、ヤコフがスターリンの子供であることを突き止めると、すぐに対ソ宣伝に
 利用するようになった。 
 だが、スターリンは自分の息子を特別扱いするような政治家ではなかった。ヤコフの妻
 は投降した指揮官の身内として逮捕されたし、二男も前線に送られた。
・スターリンは息子のためにドイツ側と取引に入るようなことはなかった。結局、ヤコフ
 は1943年4月に捕虜収容所で死亡した。逃亡を図って射殺されたとも、自ら収容所
 を取り囲む高電圧線をつかんで死んだとも言われる。
 スターリンはここでも、肉親と不幸な形で永別しなければならなかったのである。
・スターリングラードの戦いはソ連軍の勝利のうちに終わった。
 この戦いではソ連指導部は非人間的な命令を出していたが、それ以上に重要であったの
 は、巨大な人的資源と軍需産業の生産能力であった。ソ連軍は最初の数ヵ月間こそ武器
 や砲弾の不足に悩まされたのであるが、事態の進展とともに状況を改善していった。 
 それがなければ、100万を数える兵士たちの200日に及ぶ死闘は不可能だった。
・スターリンは天才ではないにしても、間違いなく判断力と決断力に富む卓越した指導者
 であった。まさにこうした状況の中で、共産主義と愛国主義が合体し、新たなソ連イデ
 オロギーがスターリンを中心にして生まれてきた。それは戦後になってもソ連体制を支
 えるイデオロギーとして機能し続けた。 
・1943年夏以降、スターリンは指導者としての資質を外交面でも発揮するようになっ
 た。最初のアメリカ、イギリス、ソ連の三国首脳会談は、ソ連軍がドイツ同盟軍に勝利
 した11月末にテヘランで開かれた。
 もはやスターリンは大戦での勝利を確信していた。今や彼の関心事は、戦後世界の中で
 ソ連が占める位置であった。
・この会談の中でチャーチルとローズヴェルトは、第二戦線を翌年5月までに開くという
 以前からの約束を確認した。チャーチルは長い間、バルカン半島に英米軍を上陸させる
 という考えに固執していが、この会談でローズヴェルトとスターリンの発言に押されて、
 フランスに上陸させる案に同意した。
・この会談で三国の指導者は互いの協調姿勢を確認した。ここではたとえば、ドイツに対
 する勝利の後にソ連は対日戦に参加するというスターリンの発言が、相互の信頼を高め
 る効果を発揮した。  
・この時期、スターリンの容赦のない政治姿勢は別の問題でも現れた。彼はテヘランから
 帰国すると、すでに進行していた北カフカースの少数民族の強制的追放政策を強力に推
 し進めたのである。
 スターリンは、この地域に住んでいた五民族の中に、占領中にドイツ軍に協力した者が
 いたとして、これらの民族をはるか遠方に追放する策を進めた。
 対象になった者は約60万人にのぼった。彼らは用意された貨車に順次押し込められ、
 カザフスタンやキルギスタンなどに送られた。その途中で、また到着後に病弱者が次々
 と死んでいった。
 現在でもこの政策の本当の目的は定かではない。
・6月に英米軍がノルマンディーに上陸すると、もはやヒトラーの同盟国は持ちこたえら
 れなくなり、8月にはルーマニアの親独政権が倒れ、9月にはブルガリアにソ連軍が入
 った。
・スターリンは東欧諸国に反ソ勢力が数多くいることを十分に理解していた。そこでまず
 各国に共産党員を送り込み、さらに、活動を許したばかりの正教会を遣って各国に親ソ
 分子を増やす政策を推進した。 
・同年8月にワルシャワでポーランド人抵抗勢力の対独蜂起が起きると、説明し難い状況
 を生み出した。ソ連軍は援助の要請を受けたにもかかわらず、これを無視し、蜂起した
 ポーランド人がドイツ軍に一掃されるのを見守ったのである。
 スターリンは、前年にドイツ軍が旧ソ連領のカチンで発見された大量のポーランド人将
 校の射殺死体をめぐってロンドンの亡命ポーランド政権と絶交状態にあったので、この
 政権と結びつくワルシャワのポーランド人勢力を助ける理由はないと判断したのである。
 ソ連軍は蜂起が弾圧された後に攻撃を開始し、1945年1月にワルシャワを占領した。
・1944年10月にモスクワを訪れたチャーチルは、スターリンとあまり違わない次元
 で戦後世界を考えている事実が明らかになった。 
・翌年2月にヤルタで二番目の三国首脳会議が開かれたとき、勢力圏分割の動きはますま
 す現実のものになった。英米軍が入った地域はその支配下に入り、ソ連軍が進出した東
 欧諸国はソ連の支配下に入った。  
 アメリカ指導部は、このときになっても、スターリンはチャーチルほどには帝国主義的
 ではないと思い込んでおあり、戦後世界を彼らの考える民主的方法によって再建できる
 と考えていた。
・スターリンは5月に開かれたヨーロッパ方面での戦勝を祝う式典で、初めて1941年
 と翌年に「我々の政府」は少なからぬ失敗をしたと認めた。
 しかし、この戦いでソ連は軍だけで86万人、国民全体では2700万人の犠牲者を出
 しており、戦後の復興がきわめて困難なものになることを確実であった。
 スターリンは、この事実を隠すことによって、ソ連体制と彼の権威を守る道を選んだの
 である。 
 
アメリカとの戦い
・占領軍となったソ連兵は統制の聞かない集団となってドイツ人に乱暴狼藉を働き、大い
 に戦勝国ソ連の名誉を傷つけた。
 ソ連は、占領中に賠償としてドイツ占領地域の工業施設を次々と接収し、自国に輸送し
 た。
 こうしたソ連側の行き過ぎた行動はドイツ人ばかりか、他の連合国政府からもたびたび
 苦情を招いた。しかしスターリンは相手にせず、何の対策もとらなかったのである。
 スターリンは長い戦争の果てに軍が起こす略奪やレイプ事件は不可避的でやむを得ない
 ことと考え、また、ソ連を含む周辺諸国に多大な戦争被害を与えた敗戦国が、賠償する
 のは当然のことだと認識していた。
・スターリンがアメリカの原爆に最初に反応したのは、1945年7月のポツダムにおけ
 る首脳会談のときである。
 ここでアメリカの大統領として初めて首脳会議に参加したトルーマンは、スターリンに
 対し、アメリカは「異常な破壊力を持つ新兵器を手に入れた」と打ち明けた。
 アメリカの大統領は、この発言でスターリンがどのような反応をするのか見極めようと
 したのである。
 スターリンがこれに特別な反応を示さなかったので、大統領はソ連の指導者は原爆につ
 いて何も知らないのだと判断した。
・だが実際には、スターリンはすぐにトルーマンが示唆したことを理解し、部屋に戻るや
 否やモロトフとこの件について意見を交わした。
・スターリンたちはトルーマンの態度に強者の立場から戦後処理を行おうとする嫌な姿勢
 を感じ取ったのである。そもそもトルーマンには、ドイツ軍主力部隊と戦い続けきたソ
 連に対する敬意がなかった。  
・ここからスターリンが引き出した結論は、ソ連も原爆の開発と対日戦を急がねばならな
 いというものだった。このうち、スターリンがより急いだのは対日戦の方だった。
 新しいアメリカの指導者たちは、戦争終結後にソ連の地位を脅かす動きに出る可能性が
 高く、もしアメリカが日本を単独で占領し、日本が現に支配する朝鮮半島と満州を引き
 継ぐような事態になれば、東アジアでもソ連の脅威になることは目に見えていた。
 それを避けるためには、何としてもソ連は対日戦に参加し、これらの地域にアメリカの
 影響力が及ぶことを阻止しなければならなかった。
・こうしてスターリンは、広島に原爆が落とされた翌日の8月7日には、極東軍総司令官
 に対して、対日戦を48時間繰り上げて開始するように命じた。
・「ベルリン封鎖」事件は、そもそもドイツ占領時に生まれた変則的占領状況に端を発す
 るものであった。  
 すなわち、当時、ドイツはソ連が占領する東側地域とアメリカ、イギリス、フランスの
 三国が占領する西側地域に分けられており、首都のベルリンは東側のソ連占領地域にあ
 った。だが、ドイツを管理する必要から西ベルリンには西側三国の占領地域が設けられ
 ており、ドイツの西半分と自由に往来できるようになっていた。
 こうした変則的な状況にあったにもかかわらず、西側三国はマーシャル・プランを受け
 て、ドイツの占領地域において通貨改革を実施した。
 スターリンはこれに反発し、ドイツ西部地域と西ベルリンの間の交通路を遮断する措置
 をとったのである。
・西側三国は、ソ連の封鎖政策は彼らの管理する西ベルリンを放棄させる目的を持つもの
 と受けとめ、断固として対抗する姿勢をとった。その象徴的措置が、トルーマン政権の
 実施した西ベルリンへの生活物資の空輸であった。西側のマスメディアは、ソ連の政策
 は市民生活を困難にする非人道的性格を持つものだと非難した。
・1940年代後半にソ連社会ではユダヤ人批判が広がった。この問題には二つの面があ
 った。
 第一の面は、スターリン自身が1930年代からユダヤ人に対する不信感を露わにする
 ようになったことである。この点は、彼が家族の中でも最も可愛がっていたスヴェトラ
 ーナの結婚問題に明白に表れ出た。
 1944年にスヴェトラーナがユダヤ人の学生モロゾフと結婚したとき、スターリンは
 二人の結婚を受け入れたものの、モロゾフがユダヤ人であることに不快感を示したので
 ある。スターリンのこの態度がスヴェトラーナの結婚を短期間で破綻させた理由だった。
 第二の面もあった。それは戦後のソ連社会に、ユダヤ人に対する不信感が広がったこと
 である。これは戦争中に、アメリカとの友好関係を深めるために、ユダヤ人の文化人に
 国際的活動を奨励したことの反動として生じた。戦後になって米ソ関係が悪化すると、
 彼らの対外活動を支える機関として設立されたユダヤ人反ファシズム委員会が、アメリ
 カのスパイに利用されているのではないかとする疑惑が広がったのである。
・朗報がスターリンのもとに届いた。カザフスタンの実験場で最初の「原子爆弾の爆発」
 に成功したと報告してきたのである。
 ソ連側は、この時期、並行して核兵器を運搬するロケット技術についても開発を進めて
 いたが、それはまだ完成には程遠かった。したがって、核実験の成功はそれ自体ではソ
 連が核兵器を持ったことを意味しなかった。おそらくスターリンがしばらくの間、沈黙
 したのはこの事情を考えたからである。彼はアメリカ側が、ソ連が核兵器を持つ前に攻
 撃してくるのを恐れたのである。
・だがトルーマン政権は軍事政権ではなかった。アメリカ側は、各種の科学的データを慎
 重に分析し、ソ連が核実験を行ったと発表した。言うまでもなく、急襲の素振りなど見
 せなかった。  
・北朝鮮の指導者・金日成は、1949年3月にモスクワを訪れた際に、武力統一のため
 の時機が来ているとスターリンに説いていた。金日成のこの姿勢は、アメリカが朝鮮半
 島を撤退すると、さらに強まった。
 しかしスターリンは彼の要請を認めようとせず、政治局の決定として現時点での侵攻は
 支持できないと伝えた。 
 金日成は渋々認めたが、心の底では、国家統一のための戦争を重視していた。
・アメリカのアチソン国務長官が、韓国がアメリカの安全保障義務の外側にあることを明
 らかにした。何も証拠はないが、この発言によって、北朝鮮が韓国に侵攻しても、アメ
 リカは出兵しないという金日成の見通しは、あながち希望的観測ではないようにモスク
 ワでは見えたはずである。
・スターリンは、4月にモスクワに来た金日成に対し、最後の条件として「中国の同志」
 が朝鮮半島の武力統一に賛成することを挙げた。
 5月に金日成が毛沢東を訪問すると、中国の指導者は、もしアメリカが戦争に介入した
 ら、中国は北朝鮮に軍事的援助を与えると答えた。これによって、金日成が求めた朝鮮
 戦争の準備はすべて整ったのである。こうして、6月25日に北朝鮮軍は韓国に侵攻を
 開始し、朝鮮戦争が始まった。  
・しかし始まった戦争は、たちまちスターリンの期待に反するものになった。すぐにアメ
 リカ政府は国連安全保障理事会で武力侵攻を非難する決議案を採択させ、韓国救済のた
 めに軍を送った。この部隊は国連軍となり、オーストラリア軍、イギリス軍なども加わ
 った。 
・これに対してスターリンは、とりあえずソ連空軍の数十機の援軍を送り、さらに毛沢東
 に中国の出兵を求めた。10月に中国軍が参戦したことで戦争は一挙に拡大し、すぐに
 泥沼化していった。
・それでもこの戦争で、スターリンは米ソの直接対決を避けるために、全期間で2万6千
 人ほどのソ連兵しか朝鮮半島に送らなかった。
・日本では、サンフランシスコ講和条約の調印式の際に、ソ連の代表グロムイコが要領を
 得ない行動をとったことがよく知られている。ここでグロムイコは、すでにアメリカ政
 府が中心になって作成した講和文書に調印するか否かという状況に置かれながら、会議
 場でその修正を提議して議長に一蹴された。他方では、ソ連側条約の締結を妨害する行
 動をとろうともしなかった。  
 イギリスとアメリカはむしろ妨害行為を心配していたが、ソ連代表の行動は拍子抜けす
 るほど粘りがなかった。
 要するにスターリンは、ドイツ問題の半年前にも日本問題で焦点の定まらない外交を行
 っていたのである。
・スターリンは亡くなる一、二年前から統治者に必要な能力を半ば以上失っていたと見て
 間違いないであろう。
 アメリカとの戦いが引き起こした凄まじい緊張が、老齢の身に重くのしかかっていたの
 である。

歴史的評価をめぐって
・1953年3月5日にスターリンは亡くなった。このとき彼は74歳だった。
 別荘で、床に倒れているスターリンが発見されたのは3月1日の夜遅くであった。
 つまり、危篤状態は4日間続いた。この間に起きたことは、目撃者の回想が細部で食い
 違っているためになかなか確定することは難しい。
 このためもあって、スターリンの死は自然死ではなく、毒殺だったとする説がロシアで
 は今日でも真剣に取り沙汰されている。
スターリンの娘のスヴェトラーナが別荘に着いたのは2日の朝、もしくは同日昼のこと
 で、彼女が横たわる父を見たときにはすでに医者が周囲で活動していた。
 彼女は1949年にスターリンの勧めで再婚したが、それでも1951年に破局に至っ
 ており、父親との関係はかつてのように円滑でなくなっていた。
 彼女はスターリンの死去から3年後の1956年にスターリン姓を改め、母方のアリュ
 ーエヴァ姓を名乗るようになるのである。
・これまで何も知らされてこなかった国民は、スターリンの危篤、それに続く死去の報に
 衝撃を受けた。  
・ソ連の新指導者たちはスターリンが亡くなるとすぐに、多少の混乱を起こしつつも、行
 き過ぎているとみなされていた抑圧と、経済的に重荷になっていたアメリカとの対立の
 緩和に向かった。 
 3年後の1956年2月に新指導者フルシチョフは共産党大会で、大会出席者に限る形
 で「個人崇拝とその帰結」と題するスターリン批判を展開した。この演説は大きく分け
 て四つの部分から成っていた。
 第一:スターリンの粗暴さの問題
    確かにレーニンは必要なときにテロを行うことを躊躇しなかったが、それは革命
    と内戦というソヴェト体制の生死を賭けた戦いのときであった。
    これに対してスターリンは、革命が勝利し、ソヴェト体制が強化された後にテロ
    を行った。ここに大きな違いがあったというのである。
 第二:1934年のキーロフ暗殺以降に起こった大粛清
    中央委員と中央委員候補のうち70パーセントの者が銃殺されたと述べて聴衆を
    驚愕させた。彼の理解では、こうした大量テロはスターリンによる権力乱用の結
    果として起こったものだった。   
 第三:第二次大戦期のスターリンの失敗
    スターリンの思い込みから緒戦においてドイツ軍の大規模な侵攻を許したことや、
    1942年の無能な軍事指導の結果として多大な犠牲を出したことなどを具体的
    に指摘し、スターリンが統治盛んに言われていたような「軍事的天才」ではない
    と主張した。
 第四:戦中、戦後の個人崇拝
    第二次大戦中の民族追放政策や戦後の「レニングラード事件」「メグレル事件」
    「医師団事件」、ベリヤという「わが党の札付きの敵」の抜擢等々は、すべてス
    ターリンの「信じ難い猜疑心」や「偉大であることへの熱望」がもたらしたもの
    であった。今後、ソ連共産党はイデオロギー的研鑽を深めて、「個人崇拝」を繰
    り返さないようにしなければならないというのである。
・フルシチョフの演説は、たちまち外部に漏れてソ連内外に大きな反響を引き起こした。
 アメリカや西欧の多くの人々は、ソ連内部からの変革の動きに驚きつつも、フルシチョ
 フのスターリン批判を歓迎した。
・しかしソ連国内では、そうした外部の反応と明らかに異なる動きが見られた。
 フルシチョフ自身、彼のスターリン批判が完全でないことを知っていた。
 フルシチョフはソ連国内に、自分の示したスターリン評価に反対の意見を持つ者が数多
 くいることに気づいていた。彼が権力集団からはじき出されたのも、この問題と無関係
 ではなかった。 
・スターリンなしに、ソ連はヒトラー軍との戦争に勝てたのか。1930年代の急進的工
 業化なくして、ソ連は第二次大戦を戦うことができたのか。この集団化と結びついた工
 業化は、スターリンがいなかったとしてもソ連共産党は成し遂げたのか。こうした疑問
 が次々に湧きおり、人々の感情を掻き立て続けた。
・フルシチョフのスターリン批判は、ソ連体制と共産党の権威を傷つけただけの誤った政
 治的行為だと考える人々が力を盛り返してきた。
 また、スターリンの統治の一部に問題があったことを認めつつも、全体としての彼の歴
 史的功績を再評価すべきだとする人々も出てきた。
・1985年に、ゴルバチョフがソ連共産党書記長として登場した。彼はフルシチョフの
 志を受け継いで、スターリンの歴史的評価という問題に取り組んだ。
 この自信満々の指導者は、ソ連という国家を社会主義国として再生させるためには、こ
 の問題は避けて通ることができないと考えたのである。  
・1987年のロシア革命70周年の記念演説がその機会となった。しかし、ゴルバチョ
 フの演説は、1956年のフルシチョフのそれほど衝撃力のあるものではなかった。
 彼の評価はせいぜい折衷的、悪く言えば、予想以上にスターリンの歴史的功績を評価す
 るものであった。 
・ゴルバチョフの演説は誰も満足させなかった。
 スターリンの擁護勢力から見れば、どう見てもゴルバチョフは、アメリカの意見を受け
 入れて冷戦の終結に向かっている軟弱な政治家でしかなかった。
 他方、スターリン批判勢力は、彼はスターリンの政策の犠牲になった人々の立場から考
 えない中途半端な政治家だとみなした。多くの国民は、ゴルバチョフは、国民に進むべ
 き方向を示す政治家としては慎重すぎると受け止めた。
 こうして、1991年に彼もフルシチョフと同じように権力の座から引きずり降ろされ
 た。同じ年にスターリンが一生を賭けて築いたソ連も崩壊した。
・それでは、ソ連崩壊後に現れたロシアでは、スターリンの歴史的評価はどうなっている
 のだろうか。結論から言えば、状況は1987年のゴルバチョフ演説のときと大きく変
 わっていない。